やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ
鬼火へ

 

青年と死と   芥川龍之介

 

[やぶちやん注:底本は岩波版旧全集を用いた。底本注記によれば大正3(1914)年9月1日発行の『新思潮』第一巻第八号の以下の署名で掲載され、同誌目次には「青年と死(戯曲)」とあるとする。その記載に従つて標題部分を復元した。ト書き『青年が二人蠟燭の灯の下に坐つてゐる』以降の部分では台詞が二行に渡る場合、底本では一字下げが行われているが、ブラウザでの不具合を考え、私は行っていないので注意されたい。本文中に現れる「素馨」は「そけい」と読み(「馨」は「香」と同義)双子葉植物綱シソモクセイ科ソケイ属Jasminumに属する植物の総称で、所謂、“Jasmine”ジャスミンのこと。正式な漢名では茉莉(まつり・まり)で、これは更にサンスクリット語の“mallikā”マリカーをルーツとする(但し、現在の狭義の「茉莉花」は、ジャスミン・ティーの原料として知られるマツリカJasminum sambacの和名になっている)。ここでは特にルビを附していないので「ジャスミン」ではなく、「そけい」と読ませているものであろう。

 本作は芥川龍之介の初恋と深い関係を持っている著作である。彼の初恋の相手は同年の幼馴染み(実家新原家の近所)であった吉田弥生である(父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた)。当時、東京帝国大学英吉利文学科1年であった芥川龍之介(23歳・満22歳)は、

大正3(1914)年7月20日頃~8月23日 友人らと共に千葉県一宮海岸にて避暑

し、専ら海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して二度目のラブレターを書いており、その後、正式に結婚も申し込んでいる

 しかし乍ら、この話は養家芥川家の猛反対にあい、翌年2月頃に破局を迎えることとなる。吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系)、弥生が同年齢であったこと等が主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があった)。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、大正4(1915)年4月20日頃、陸軍将校と縁談が纏まっていた弥生が新原家に挨拶に来た。丁度、実家に訪れていた芥川は気づかれぬように隣室で弥生の声だけを聞いた。4月の末、弥生の結婚式の前日、二人が知人宅で最後の会見をしたともある。鷺只雄氏は河出書房新社1992年刊の「年表作家読本 芥川龍之介」(上記記載の一部は本書を参考にした)で、『この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられ』たと記す。正にこの弥生への強烈な恋情の炎の只中に書かれたのが、避暑から帰った直後の大正3(1914)年9月1日『新思潮』に発表した、この「青年と死と」なのであった(破局後の大正4(1915)年4月1日には「ひよつとこ」(『帝国文学』)が、そしてその傷心を慰めるための親友井川恭(後に恒藤姓)の誘いによって、同年8月3日から23日まで井川の故郷松江を訪れた際、後に「松江印象記」となる「日記より」が書かれたのである)。

 最後に。この日付にも注目されたい。

『(一五・八・一四)』というクレジットは西暦

1914年8月15日

という意である。

夏目漱石の「心」の『東京朝日新聞』の連載終了

は、正にこの4日前、

1914年8月11日

のことであった。

芥川龍之介は当然、「心」を読んでいたと考えてよい。読まぬはずがない。――とすれば――

――この「青年と死と」という、如何にも意味深長な題名の作品は、一つの――

――芥川の、漱石の「心」への答え――

として読むことが可能、ということである……。【2010年5月30日】]

 

青年と死と(戯曲習作)   柳川隆之介

 

          *

 

  すべて背景を用いない。宦官が二人話しながら出て來る。

 ――今月も生み月になつてゐる妃が六人ゐるのですからね。身重(みおも)になつてゐるを勘定したら何十人ゐるかわかりませんよ。

 ――それは皆、相手がわからないのですか。

 ――一人もわからないのです。一體妃たちは私たちより外に男の足ぶみの出來ない後宮にゐるのですからそんな事の出來る譯はないのですがね。それでも月々子を生む妃があるのだから驚きます。

 ――誰か忍んで來る男があるのぢやありませんか。

 ――私も始はさう思つたのです。所がいくら番の兵士の數をふやしても、妃たちの子を生むのは止りません。

 ――妃たちに訊(き)いてもわかりませんか。

 ――それが妙なのです。色々訊(き)いて見ると、忍んで來る男があるにはある。けれども、それは聲ばかりで姿は見えないと云うのです。

 ――成程、それは不思議ですね。

 ――まるで嘘のやうな話です。併し何しろこれだけの事が其不思議な忍び男に關する唯一の知識なのですからね、何とかこれから豫防策を考へなければなりません。あなたはどう御思ひです。

 ――別に之と云つて名案もありませんが兎に角その男が來るのは事實なのでせう。

 ――それはさうです。

 ――それぢやあ砂を撒いて置いたらどうでせう。その男が空でも飛んで來れば別ですが、歩いて來るのなら足跡はのこる筈ですからね。

 ――成程、それは妙案ですね。その足跡を印に追ひかければきつと捕(つか)まるでせう。

 ――物は試しですからまあやつて見るのですね。

 ――早速さうしませう。(二人とも去る)

 

         *

 

 腰元が大ぜいで砂をまいてゐる。

 ――さあすつかりまいてしまひました。

 ――まだ其隅がのこつてゐるわ。(砂をまく)

 ――今度は廊下をまきませう。(皆去る)

 

         *

 

 青年が二人蠟燭の灯の下に坐つてゐる。

B あすこへ行くやうになつてからもう一年になるぜ。

A 早いものさ。一年前までは唯一實在だの最高善だのと云ふ語に食傷してゐたのだから。

B 今ぢやあアートマンと云ふ語さへ忘れかけてゐるぜ。

A 僕もとうに「ウパニシヤツドの哲學よ、さようなら」さ。

B あの時分はよく生だの死だのと云う事を眞面目になつて考えたものだつけな。

A なあにあの時分は唯考へるような事を云つてゐただけさ。考へる事なら此頃の方がどの位考へてゐるかわからない。

B さうかな。僕はあれ以來一度も死なんぞと云う事を考へた事はないぜ。

A さうしてゐられるならそれでもいゝさ。

B だがいくら考へても分らない事を考へるのは愚ぢやあないか。

A 併し御互に死ぬ時があるのだからな。

B まだ一年や二年じやあ死なないね。

A どうだか。

B それは明日にも死ぬかもわからないさ。けれどもそんな事を心配してゐたら、何一つ面白い事は出來なくなつてしまふぜ。

A それは間違つてゐるだらう。死を豫想しない快樂位無意味なものはないぢやあないか。

B 僕は無意味でも何でも死なんぞを豫想する必要はないと思ふが。

A しかしそれでは好んで欺罔に生きてゐるやうなものぢやないか。

B それはさうかもしれない。

A それなら何も今のような生活をしなくたつてすむぜ。君だつて欺罔を破る爲にかう云ふ生活をしてゐるのだらう。

B 兎に角今の僕にはまるで思索する氣がなくなつてしまつたのだからね、君が何と云つてもかうしてゐるより外に仕方がないよ。

A (氣の毒さうに)それならそれでいいさ。

B くだらない議論をしてゐる中に夜がふけたやうだ。そろ/\出かけようか。

A うん。

B ぢやあ其着ると姿の見えなくなるマントルを取つてくれ給へ。(Aとつて渡す。Bマントルを着ると姿が消えてしまふ。聲ばかりがのこる。)さあ、行かう。

A (マントルを着る。同じく消える。聲ばかり)夜霧が下りてゐるぜ。

 

          *

 

  聲ばかりきこえる。暗黑。

Aの聲 暗いな。

Bの聲 もう少しで君のマントルの裾をふむ所だつた。

Aの聲 ふきあげの音がしてゐるぜ。

Bの聲 うん、もう露臺の下へ來たのだよ。

 

          *

 

  女が大勢裸ですはつたり、立つたり、ねころんだりしてゐる。薄明り。

 ――まだ今夜は來ないのね。

 ――もう月もかくれてしまつたわ。

 ――早く來ればいゝのにさ。

 ――もう聲がきこえてもいゝ時分だわね。

 ――聲ばかりなのがもの足りなかつた。

 ――えゝ、それでも肌ざはりはするわ。

 ――はじめは怖かつたわね。

 ――私なんか一晩中ふるへてゐたわ。

 ――私もよ。

 ――そうすると「おふるへでない」つて云ふのでせう。

 ――えゝ、えゝ。

 ――猶怖かつたわ。

 ――あの方のお産はすんで?

 ――とうにすんだわ。

 ――うれしがつていらつしやるでせうね。

 ――可哀いゝお子さんよ。

 ――私も母親になりたいわ。

 ――おゝいやだ、私はちつともそんな氣はしないわ。

 ――さう?

 ――えゝ、いやぢやありませんか。私はたゞ男に可哀がられるのが好き。

 ――まあ。

Aの聲 今夜はまだ灯(ひ)がついてるね。お前たちの肌が、青い紗の中でうごいてゐるのはきれいだよ。

 ――あらもういらしつたの。

 ――こつちへいらつしやいよ。

 ――今夜はこつちへいらつしやいましな。

Aの聲 お前は金の腕環なんぞはめてゐるね。

 ――えゝ、何故?

Bの聲 何でもないのさ。お前の髮は、素馨のにおいがするじやないか。

 ――えゝ。

Aの聲 お前はまだふるへてゐるね。

 ――うれしいのだわ。

 ――こつちへいらつしやいな。

 ――まだ、そこにいらつしやるの。

Bの聲 お前の手は柔いね。

 ――いつ迄も可哀がつて頂戴な。

 ――今夜は外へいらしつちやあいやよ。

 ――きつとよ。よくつて。

 ――あゝ、あゝ。

  女の聲がだん/\微な呻吟になつてしまひに聞えなくなる。

  沈默。急に大勢の兵卒が槍を持つてどこからか出て來る。兵卒の聲。

 ――ここに足あとがあるぞ。

 ――こゝにもある。

 ――そら、そこへ逃げた。

 ――逃がすな。逃がすな。

 騷擾。女はみな悲鳴をあげてにげる。兵卒は足跡をたづねて、其處此處を追ひまはる。灯が消えて舞臺が暗くなる。

 

         *

 

 AとBとマントルを着て出てくる。反對の方向から黑い覆面をした男が來る。うす暗がり。

AとB そこにゐるのは誰だ。

男 お前たちだつて己の聲をきゝ忘れはしないだらう。

AとB 誰だ。

男 己は死だ。

AとB 死?

男 そんなに驚くことはない。己は昔もゐた。今もゐる。これからもゐるだらう。事によると「ゐる」と云へるのは己ばかりかも知れない。

A お前は何の用があつて來たのだ。

男 己の用は何時も一つしかない筈だが。

B その用で來たのか。あゝ其用で來たのか。

A うんその用で來たのか。己はお前を待つてゐた。今こそお前の顏が見られるだらう。さあ己の命をとつてくれ。

男 (Bに)お前も己の來るのを待つてゐたか。

B いや、己はお前なぞを待つてはゐない。己は生きたいのだ。どうか己にもう少し生を味はせてくれ。己はまだ若い。己の脈管にはまだ暖い血が流れてゐる。どうか己にもう少し己の生活を樂ませてくれ。

男 お前も己が一度も歎願に動かされた事のないのを知つてゐるだらう。

B (絶望して)どうしても己は死ななければならないのか。あゝどうしても己は死ななければならないのか。

男 お前は物心がつくと死んでゐたのも同じ事だ。今まで太陽を仰ぐことが出來たのは己の慈悲だと思ふがいゝ。

B それは己ばかりではない。生まれる時に死を負つて來るのはすべての人間の運命だ。

男 己はそんな意味でさう云つたのではない。お前は今日迄己を忘れてゐたらう。己の呼吸を聞かずにゐたらう。お前はすべての欺罔を破らうとして快樂を求めながら、お前の求めた快樂其物が矢張欺罔にすぎないのを知らなかつた。お前が己を忘れた時、お前の靈魂は飢えてゐた。飢えた靈魂は常に己を求める。お前は己を避けやうとして反て己を招いたのだ。

B あゝ。

男 己はすべてを亡ぼすものではない。すべてを生むものだ。お前はすべての母なる己を忘れてゐた。己を忘れるのは生を忘れるのだ。生を忘れた者は亡びなければならないぞ。

B あゝ。(仆れて死ぬ)

男 (笑ふ)莫迦な奴だ。(Aに)怖がることはない。もつと此方へ來るがいゝ。

A 己は待つてゐる。己は怖がるような臆病者ではない。

男 お前は己の顏をみたがつてゐたな。もう夜もあけるだろう。よく己の顏を見るがいい。

A その顏がお前か? 己はお前の顏がそんなに美しいとは思はなかつた。

男 己はお前の命をとりに來たのではない。

A いや己は待つてゐる。己はお前のほかに何も知らない人間だ。己は命を持つてゐても仕方ない人間だ。己の命をとつてくれ。そして己の苦しみを助けてくれ。

第三の聲 莫迦な事を云うな。よく己の顏をみろ。お前の命をたすけたのはお前が己を忘れなかつたからだ。しかし己はすべてのお前の行爲を是認してはゐない。よく己の顏を見ろ。お前の誤りがわかつたか。是からも生きられるかどうかはお前の努力次第だ。

Aの聲 己にはお前の顏がだん/\若くなつてゆくのが見える。

第三の聲 (靜に)夜明だ。己と一緒に大きな世界へ來るがいゝ。

  黎明の光の中に黑い覆面をした男とAとが出て行くのが見える。

 

          *

 

  兵卒が五六人でBの死骸を引ずつて來る。死骸は裸、所々に創がある。

――龍樹菩薩に關する俗傳より――

(一五・八・一四)