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雜筆 芥川龍之介 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:大正9(1920)年の9・1011月発行の雑誌『人間』に三回に亙って掲載された。後、大正111922)年の随筆集『点心』に所収され、「貴族」「百日紅」「不朽」「流俗」「Butlerの説」の五篇は選集『沙羅の花』にも収められている。底本は岩波版旧全集を用いたが、一部の読みの振れると思われるものに私の判断で〔 〕で歴史的仮名遣で読みを振った。また、底本後記に記されている「水怪」の『点心』再録時に削除された同篇末の河童短歌8首を同位置に復元し、一部に私の注を附した(その際、筑摩全集類聚版脚注及び岩波新全集注解を一部参考にした)。底本後記によると『人間』9月分初回には題名に「―手帳より―」の副題が附されている、とある。最後に、末尾に本作品の別稿と見なし得る原稿を附した。これは、同じ大正9(1920)年の執筆と推定されること、各篇末に月日をクレジットしている形式が共通していること、更に同主旨同表現の「貴族」及び「流俗」というアフォリズムを含んでいるという三点から、本篇の別稿と明確に判断出来る(岩波版新全集でも本篇の草稿としている。何故、旧全集版がこれを別稿としなかったかが寧ろ不思議である)。但し、同新全集版が加えて、同じく本篇の「草稿」と判断している、旧全集の「〔アフォリズム〕」に相当する「風流」から「或問答」に13篇については、既に私は「侏儒の言葉」の別稿と判断し、私の「侏儒の言葉(やぶちゃん合成版)」で合成公開していることから除外した。これらは、明らかに文体も形式も異なっており、私には、現時点でも本篇「雜筆」の別稿或いは草稿とは到底見なせないことを表明しておく。]

 

雜筆   芥川龍之介

 

       竹田〔ちくでん〕

 

 竹田は善き人なり。ロオランなどの評價を學べば、善き畫描き以上の人なり。世にあらば知りたき畫描き、大雅を除けばこの人だと思ふ。友だち同志なれど、山陽の才子ぶりたるは、竹田より遙に品下れり。山陽が長崎に遊びし時、狹斜の遊あるを疑はれしとて、「家有縞衣待吾返、孤衾如水已三年」など云へる詩を作りしは、聊眉に唾すべきものなれど、竹田が同じく長崎より、「不上酒閣 不買歌鬟 償 周文畫 筆頭水 墨餘山」の詞を寄せたるは、恐らく眞情を吐露せしなるべし。竹田は詩書畫三絶を稱せられしも、和歌などは巧ならず。畫道にて悟入せし所も、三十一文字の上には一向利き目がないやうなり。その外香や茶にも通ぜし由なれど、その道の事は知らざれば、何ともわれは定め難し。面白きは竹田が茸〔たけ〕の畫を作りし時、頼みし男佛頂面をなしたるに、竹田「わが苦心を見給へ」とて、水に浸せし椎茸を大籠に一杯見せたれば、その男感歎してやみしと云ふ逸話なり。竹田が刻意勵精はさる事ながら、俗人を感心させるには、かう云ふ事にまさるものなし。大家の苦心談などと云はるる中、人の惡き名人が、凡下の徒を飜弄する爲に假作したものも少くあるまい。山陽などはどうもやりさうなり。竹田になるとそんな惡戲氣は、嘘にもあつたとは思はれず。返す返すも竹田は善き人なり。「田能村竹田」と云ふ書を見たら、前より此の人が好きになつた。この書は著者大島支郎氏、賣る所は豐後國大分の本屋忠文堂。(七月二十日)

[やぶちゃん注:「竹田」は田能村竹田(安永6(1777)年~天保6(1835)年)、江戸後期の南画家。長崎遊学は50歳を過ぎてからの修行であった。

「大雅」は池大雅(享保8(1723)年~安永5(1776)年)、江戸中期の文人画家。与謝蕪村とともに南画の大成者とされる。

「山陽」は頼山陽(安永91780)年~天保31832)年)、江戸時代後期の儒学者・歴史家で南画もよくし、竹田とは画友であった。長崎遊学は38歳の折。

「ロオラン」Romain Rollandロマン・ロラン(1866~1944)のこと。小説以外にミケランジェロやミレー、ベートーベン等の伝記的美術・芸術評論でも活躍した。

「狹斜」は遊里・色町のこと。語源は漢語の固有名詞で、長安の遊廓の地名。そこの小路が極端に狭く作られていたとに由来する。

「家有縞衣待吾返、孤衾如水已三年」は書き下すと「「家に縞衣(かうい)有り吾返るを待つ、孤衾水のごとく已に三年。」と訓読し、『家には愚妻が帰るのを待っており、小生は一人褥にくるまって清く正しく過ごすこと、既に三年。』といった謂いか。

「不上酒閣 不買歌鬟 償 周文畫 筆頭水 墨餘山」は書き下すと、「酒閣に上らず 歌鬟(かくわん)を買はず 償ふ 周文の畫 筆頭の水 墨餘の山」と訓読し、『飲み屋には行かない。遊女も買わぬ。代わりに手に入れたものは、周文の山水画の技――起筆の水、擱筆の山。』といった謂いか。

「周文」は室町時代の山水画をよくした禅僧。

『「田能村竹田」と云ふ書』大島支郎編の「田能村竹田」は、大正元(1911)年、「増補訂正田能村竹田」という版が大正6(1917)年に共に豊南書堂というところから刊行されている。岩波新全集注解では『190310月、忠文堂刊』とするが、国会図書館及び大分県立図書館の蔵書検索でもそのような本を発見に至らなかった。]

 

       奇聞

 

 大阪の或る工場へ出入する辨當屋の小娘あり。職工の一人、その小娘の頰を舐めたるに、忽ち發狂したる由。

 亞米利加の何處かの海岸なり。海水浴の仕度をしてゐる女、着物を泥棒に盜まれ、一日近くも脱衣場から出る事出來ず。その後泥棒はつかまりしが、罪名は女の羞恥心を利用したる不法檻禁罪なりし由。

 電車の中で老婦人に足を踏まれし男、忌々しければ向うの足を踏み返したるに、その老婦人忽ち演説を始めて曰、「皆さん。この人は唯今私が誤まつて足を踏んだのに、今度はわざと私の足を踏みました。云々」と。踏み返した男、とうとう閉口してあやまりし由。その老婦人は矢島楫子女史か何かの子分ならん。

 世の中には嘘のやうな話、存外あるものなり。皆小穴〔をあな〕一遊亭に聞いた。(七月二十三日)

[やぶちゃん注:「矢島楫子」女子教育・婦人運動の先駆的活動家(天保6(1835)年~大正14(1925)年)小学校教員を経て女子学院院長として、当時としては自由な、生徒の自主性を重んじた学校運営を行った。また日本基督教婦人矯風会を創立、会頭として廃娼・禁酒・婦人参政権運動等、晩年に至るまで精力的に活動した。

「小穴一遊亭」は芥川龍之介の畏友にして画家小穴隆一の俳号。]

 

       芭蕉

 

 又猿蓑を讀む。芭蕉と去來と凡兆との連句の中には、波瀾老成の所多し。就中こんな所は、何とも云へぬ心もちにさせる。

          ゆかみて蓋のあはぬ半櫃        兆

         草庵に暫く居ては打やふり        蕉

          いのち嬉しき撰集のさた        來

 芭蕉が「草庵に暫く居ては打やふり」と付けたる付け方、德山の棒が空に閃くやうにして、息もつまるばかりなり。どこからこんな句を拈〔ねん〕して來るか、恐しと云ふ外なし。この鋭さの前には凡兆と雖も頭が上るかどうか。

 凡兆と云へば下の如き所あり。

         晝ねふる青鷺の身のたふとさよ      蕉

          しよろしよろ水に藺(ゐ)のそよくらん 兆

 これは凡兆の付け方、未しきやうなり。されどこの芭蕉の句は、なかなか世間並の才人が筋斗百囘した所が、付けられさうもないには違ひなし。

 たつた十七字の活殺なれど、芭蕉の自由自在には恐れ入つてしまふ。西洋の詩人の詩などは、日本人故わからぬせゐか、これ程えらいと思つた事なし。まづ「成程」と云ふ位な感心に過ぎず。されば芭蕉のえらさなども、いくら説明してやつた所が、西洋人にはわかるかどうか、疑問の中の疑問なり。(七月十一日)

[やぶちゃん注:「德山の棒」徳山宣鑑(780865)は、中国唐代の禅僧で、弟子との問答にあって、どのような答えをしても警策でしたたかに打ったことで有名。

「筋斗」トンボ返りのこと。]

 

       蜻蛉

 

 蜻蛉が木の枝にとまつて居るのを見る。羽根が四枚平に並んでゐない。前の二枚が三十度位あがつてゐる。風が吹いて來たら、その羽根で調子を取つてゐた。木の枝は動けども、蜻蛉は去らず。その儘悠々と動いて居る。猶よく見ると、風の吹く強弱につれて、前の羽根の角度が可成いろいろ變る。色の薄い赤蜻蛉。木の枝は枯枝。見たのは崖の上なり。(八月十八日青根温泉にて)

[やぶちゃん注:大正9(1920)年8月初めから28日頃まで、芥川は現在の宮城県柴田郡川崎町にある青根温泉に避暑を兼ねて籠もっている。但し、便秘・僻地ゆえの食物の悪さ・田舎者の湯治客の多さに辟易し、折からのスランプから殆んど筆が進まなかった。]

 

       子供

 

 子供の時分の事を書きたる小説はいろいろあり。されど子供が感じた通りに書いたものは少なし。大抵は大人が子供の時を囘顧して書いたと云ふ調子なり。その點では James Joyce が新機軸を出したと云ふべし。

 ジヨイスの A Portrait of the Aritist as a Young Man は、如何にも子供が感じた通りに書いたと云ふ風なり。或は少し感じた通りに書き候と云ふ氣味があるかも知れず。されど珍品は珍品なり。こんな文章を書く人は外に一人もあるまい。讀んで好い事をしたりと思ふ。(八月二十日)

[やぶちゃん注:「A Portrait of the Aritist as a Young Man」は現在、「若き芸術家の肖像」として知られるジェームズ・ジョイスの作品であるが、これは1904年、ジョイスが22歳の時に、本格的な作家デビューを目論んで書いた随筆風の小説“A Portrait of the Artist”「芸術家の肖像」が原型である。持ち込んだ雑誌社からはあっさり断られるが、ジョイスはこの作品にこだわり続け、まずこの“A Portrait of the Artist”を自伝的小説“Stephen Hero”「スティーヴン・ヒーロー」に改作(19041906)、1907年には再度“Stephen Hero”を改稿する作業に入り、実に12年の歳月を経て、名作「ダブリン市民」出版の2年後の1916年、“A Portrait of the Artist as a Young Man”「若き芸術家の肖像」として日の目を見ることになる。]

 

       十千萬堂日錄

 

 十千萬堂日錄〔とちまんだうにちろく〕一月二十五日の記に、紅葉が諸弟子と芝蘭簿の記入を試む條あり。風葉は「身長今一寸」を希望とし、春葉は「四十迄生きん事」を希望とし、紅葉は「歐洲大陸にマアブルの句碑を立つ」を希望とす。更に又春葉は書籍に西遊記を擧げ、風葉は「あらゆる字引類」を擧げ、紅葉はエンサイクロピデイアを擧ぐ。紅葉の好み、諸弟子に比ぶれば、頗西洋かぶれの氣味あり。されどその嫌味なる所に、返つて紅葉の器量の大が窺ひ知られるやうな心もちがする。

 それから又二十三日の記に、「此夜(八)の八を草して黎明に至る。終に脱稿せず。たうときものは寒夜の炭。」とあり。何となく嬉しきくだりなり。(八)は金色夜叉の(八)。(八月二十一日)

[やぶちゃん注:「十千萬堂日錄」の「十千萬」は尾崎紅葉(慶応3(1868)年~明治361903)年)の俳号で、「十千萬堂日錄」は紅葉晩年の明治341901)年元日から同年10月10日迄の日記と随筆「銚子紀行」を併載した単行本。明治411908)年に出版されている。

「芝蘭簿」の「芝蘭」は本来、香のよい霊芝(レイシ)と藤袴(フジバカマ)を指し、転じて「芝蘭玉樹」とも称して、善良な子弟の例えに用いることから、これは一種の牛門(紅葉門下生)の小栗風葉や柳川春葉と一緒に談笑し、その所感の寄せ書き風に記したことを言うのであろう。諸注は「交遊録」とするが、それぞれが抱負や名著を挙げている事など、どうも日記に記した紅葉の交遊録という肩書きでは、私はピンとこない。

「エンサイクロピデイア」イギリスの百科事典Encyclopædia Britannicaのことを指すものと思われる。

「金色夜叉の(八)」は、最も著名な熱海の海岸のシーンである。]

 

       隣室

 

 「姉さん。これ何?」

 「ゼンマイ。」

 「ゼンマイ珈琲つてこれから拵へるんでせう。」

 「お前さん莫迦ね。ちつと默つていらつしやいよ。そんな事を云つちや、私がきまり惡くなるぢやないの。あれは玄米珈琲よ。」

 姉は十四五歳。妹は十二歳の由。この姉妹二人ともスケツチ・ブツクを持つて寫生に行く。雨降りの日は互に相手の顏を寫生するなり。父親は品のある五十恰好の人。この人も畫の嗜みありげに見ゆ。(八月二十二日青根温泉にて)

[やぶちゃん注:この会話は、後の大正121923)年12月発表「あばばばば」に利用されている。該当部分を引用する(底本は岩波版旧全集を用いたが、総ルビなので、読みの振れるもののみのパラルビとした)。主人公保吉が行きつけの煙草を買う店――食品やら雑貨を商う店で、電話を借りるが、中々、相手に通じないという終わりに近いシチュエーションである。

さんざん交換手と喧嘩した擧句、やつと電話をかけ終つたのは二十分ばかりの後(のち)である。保吉は禮を云ふ爲に後ろの勘定臺をふり返つた。すると其處には誰もゐない。女はいつか店の戸口に何か主人と話してゐる。主人はまだ秋の日向に自轉車の修繕をつづけてゐるらしい。保吉はそちらへ歩き出さうとした。が、思はず足を止めた。女は彼に背を向けたまま、こんなことを主人に尋ねてゐる。

 「さつきね、あなた、ゼンマイ珈琲(コーヒー)とかつてお客があつたんですがね、ゼンマイ珈琲つてあるんですか?」

 「ゼンマイ珈琲?」

 主人の聲は細君にも客に對するやうな無愛想である。

 「玄米珈琲の聞き違へだらう。」

 「ゲンマイ珈琲? ああ、玄米から拵へた珈琲。――何だか可笑しいと思つてゐた。ゼンマイつて八百屋にあるものでせう?」

 保吉は二人の後ろ姿を眺めた。同時に又天使の來てゐるのを感じた。天使はハムのぶら下つた天井のあたりを飛揚したまま、何にも知らぬ二人の上へ祝福を授けてゐるのに違ひない。尤も燻製の鯡(にしん)の匀に顏だけはちよいとしかめてゐる。――]

 

       若さ

 

 木米〔もくべい〕は何時も黑羽二重づくめなりし由。これ贅澤に似て、反つて德用なりと或人云へり。その人又云ひしは、されどわれら若きものは、木米の好みの善きことも重々承知はしてゐれど、黑羽二重づくめになる前に、もつといろいろの事をして見たい氣ありと。この言葉はそつくり小説を書く上にも當て嵌るやうなり。どう云ふ作品が難有きか、そんな事は朧げながらわかつてゐれど、一圖にその道へ突き進む前に、もつといろいろな行き方へも手を出したい氣少からず。こは偸安〔とうあん〕と云ふよりも、若きを恃む心もちなるべし。この心もちに安住するは、餘り善い事ではないかも知れず、云はば藝術上の蕩子ならんか。(八月二十三日)

[やぶちゃん注:「青木木米」江戸後期の絵師にして京焼の陶工。明和4(1767)年~天保4(1833)。京都祇園生。30で京の粟田口に窯を開き評判を得、5年後、加賀藩の招聘を受け、絶えていた加賀九谷焼の再興を手掛けた名工である。

「偸安」は「安きを偸(ぬす)む」で、目先の安楽ばかり求めることを言う。]

 

       癡情

 

 男女の癡情を寫盡〔しやじん〕せんとせば、どうしても房中の事に及ばざるを得ず。されどこは役人の禁ずる所なり。故に小説家は最も迂遠な仄筆を使つて、やつと十の八九を描く事となる。金瓶梅が古今無雙の癡情小説たる所以は、一つにはこの點でも無遠慮に筆を揮つた結果なるべし。あれ程でなくとも、もう少し役人がやかましくなければ、今より數等深みのある小説が生まれるならん。

 金瓶梅程の小説、西洋に果してありや否や。ピエル・ルイの Aphrodite なども、金瓶梅に比ぶれば、子供の玩具も同じ事なり、尤も後者は序文にある通り、樂欲主義と云ふ看板もあれば、一概に比ぶるは不都合なるべし。(八月二十三日)

[やぶちゃん注:「ピエル・ルイの Aphrodite」フランスの耽美的詩人・小説家Pierre Louÿsピエール・ルイス(1870 1925)が1896年に発表したギリシャ神話を題材にした長篇エロス小説“Aphrodite - Mœurs Antiques”「アフロディテ―古代風俗」のこと。

「樂欲主義」は快楽主義に同じ。]

 

       竹

 

 後の山の竹藪を遠くから見ると、暗い杉や檜の前に、房々した緑が浮き上つて居る。まるで鳥の羽毛のやうになり。頭の中で拵へた幽篁とか何とか云ふ氣はしない。支那人は竹が風に吹かるるさまを、竹笑と名づける由、風の吹いた日も見てゐたが、一向竹笑らしい心もち起らず。又霧の深い夕方出て見たら、皆ぼんやり黑く見える所、平凡な南畫じみてつまらなかつた。それより竹藪の中にはひり、竹の皮のむけたのが、裡だけ日の具合で光るのを見ると、其處らに蛞蝓が這つてゐさうな、妙な無氣味さを感ずるものなり。(八月二十五日青根温泉にて)

[やぶちゃん注:「竹笑」岩波版新全集に「説文」から引用をしているのを我流で書き下しにして示す。「竹、風を得て、其の体(てい)、天屈して、人の笑ふがごとし。」「天屈」はごく自然に屈んで、という意味か。]

 

       貴族

 

 貴族或は貴族主義者が思ひ切つてうぬぼれられないのは、彼等も亦われら同樣、厠に上〔のぼ〕る故なるべし。さもなければ何處の國でも、先祖は神々のやうな顏をするかも知れず。德川時代の大諸侯は、參覲交代の途次旅宿へとまると、必大恭は砂づめの樽へ入れて、後へ殘さぬやうに心がけた由。その話を聞かされたら、彼等もこの弱點には氣づいてゐたと云ふ氣がしたり。これをもつと上品に云へば、ニイチエが「何故人は神だと思はないかと云ふと、云々」の警句と同じになつてしまふだらう。(八月二十六日)

[やぶちゃん注:底本後記によれば、ここまでの11篇が雑誌『人間』9月号の第一回分である。「大恭」は古い中国語で大便を言う。なお、本頁末の別稿の同題「貴族」をも参照のこと。]

 

       井月

 

 信州伊那の俳人に井月と云ふ乞食あり、拓落たる道情、良寛に劣らず。下島空谷氏が近來その句を蒐集してゐる。「朝顏に急がぬ膳や殘り客」「ひそひそと何料理るやら榾〔ほた〕明り」「初秋の心づかひや味噌醬油」「大事がる馬の尾づつや秋の風」「落栗の座をさだむるや窪たまり」(初めて伊那に來て)「鬼燈の色にゆるむや畑の繩」等、句も天保前後の人にしては、思ひの外好い。辭世は「何處やらで鶴の聲する霞かな」と云ふ由。憾むらくはその傳を詳にせず。唯犬が嫌ひだつたさうだ。(九月十日)

[やぶちゃん注:「拓落たる道情」外見、落魄してはいるものの、そこに仏法や風雅の道を確かに求めようとする心があることを言う。

「下島空谷」は下島勲の俳号。芥川の友人にして、その末期を看取った医師でもある。

「馬の尾づつ」は現在、動物の尾の根元に近い太くなった部分を呼称するが、実際に江戸時代、馬の尾にかぶせた保護用の尾袋のことをもこう言った。しかし、「大事がる」がプラグマティックに実物の尾袋を引き出すというのは、句としては如何にも説明的である。ここは、前者の尾の部分に優しく手を添えるアップがあってこそ生きる句ではあるまいか。

「唯犬が嫌ひだつた」芥川龍之介の犬嫌いはつとに有名。]

 

       百日紅

 

 自分の知れる限りにては、葉の黄ばみそむる事、櫻より早きはなし。槐これに次ぐ。その代り葉の落ち盡す事早きものは、百日紅第一なり。櫻や槐の梢にはまだ疎に殘葉があつても、百日紅ばかりは坊主になつてゐる。梧桐、芭蕉、柳など詩や句に搖落を歌はるるものは、みな思ひの外散る事遲し。一體百日紅と云ふ木、春も新緑の色洽〔あまね〕き頃にならば、容易に赤い芽を吹かず。長塚節氏の歌に、「春雨になまめきわたる庭ぬちにおろかなりける梧桐(あをぎり)の木か」とあれど、梧桐の芽を吹くは百日紅よりも早きやうなり。朝寢も好きなら宵寢も好きなる事、百日紅の如きは滅多になし。自分は時々この木の横着なるに、人間同樣腹を立てる事あり。(九月十三日)

 

       大作

 

 龜尾君譯エツケルマンのゲエテ語錄の中に、少壯の士の大作を成すは勞多くして功少きを戒めてやまざる一段あり。蓋ゲエテ自身フアウストなどを書かんとして、懲り懲りした故なるべし。思へばトルストイも「戰爭と平和」や「アンナ・カレニナ」の大成に沒頭せしかば、遂には全歐九十年代の藝術がわからずなりしならん。勿論他人の藝術がわからずとも、トルストイのやうな堂々たる自家の藝術を持つてゐれば、毛頭差支へはなきやうなり。されどわかるわからぬの上より云へば、藝術論を書きたるトルストイは、寧ろ憐むべき鑑賞眼の所有者たりし事は疑ひなし。まして我々下根〔げこん〕の衆生は、好い加減な野心に煽動されて、柄にもない大作にとりかかつたが最期、虻蜂とらずの歎を招くは、わかり切つた事かも知れず。とは云ふものの自分なぞは、一旦大作を企つべき機縁が熟したと思つたら、ゲエテの忠告も聞えぬやうに、忽いきり立つてしまひさうな氣がする。(九月二十六日)

[やぶちゃん注:「龜尾君譯エツケルマンのゲエテ語錄」はドイツ文学者龜尾栄四郎訳になる、ゲーテの晩年の秘書にして文学者であったEckermann.J.Peterペーター・エッケルマン(17921854)が20数年のゲーテとの交流を記録した「ゲーテとの対話」(1848)の雑誌等での抄訳であろうかと思われる(諸注が掲げる龜尾氏の同書の抄訳の出版は昭和21927)年、全訳に至っては戦後である)。

「少壯の士の大作を成すは勞多くして功少きを戒めてやまざる一段」は新全集注によれば、「ゲーテとの対話」の1823年9月18日の下りであるとする。

「藝術論」に岩波版新全集は注して『トルストイ『芸術とは何か』(一八九八年)。宗教への転向以前の自身を含め、世界の文学を否定し、ストー夫人の『アンクル・トムの小屋』(一八五二年)を絶賛するなど、独自の芸術論を展開。』と記す。

「下根の衆生」は、本来は仏法を受け入れる下地の乏しい者や初学の仏道修行者を言うが、ここでは広く能力・性質の劣った凡俗を言う。]

 

       水怪

 

 河童の考證は柳田國男氏の山島民譚集に盡してゐる。御維新前は大根河岸〔だいこんがし〕の川にもやはり河童が住んでゐた。觀世新路〔かんぜしんみち〕の經師屋があの川へ障子を洗ひに行つてゐると、突然後より抱きつきて、無暗にくすぐり立てるものあり。經師屋閉口して、仰向けに往來へころげたら、河童一匹背中を離れて、川へどぶんと飛びこみし由、幼時母より聞きし事あり。その後萬年橋の下の水底に、大〔おほ〕緋鯉がゐると云ふ噂ありしが、どうなつたか詳しくは知らず。父の知人に夜釣りに行つたら、吾妻橋より少し川上で、大きなすつぽんが船のともへ、乘りかゝるのを見たと云ふ人あり。そのすつぽんの首太き事、鐵瓶の如しと話してゐた。東京の川にもこんな水怪多し。田舍へ行つたら猶の事、未に河童が蘆の中で、相撲などとつてゐるかも知れない。偶一遊亭作る所の河太郎獨酌之圖を見たから、思ひ出した事を記しとどめる。(九月三十日)

河郎のすみけむ川に葦は生ひその葦の葉のゆらぎやまずも

朱らひく肌もふれつつ河郎のいもせはいまだ眠りてをらむ

わすらえぬ丹の穗の両輪見まくほり川べぞ行きし河郎われは

人間の女(メ)を戀ひしかばこの川の河郎の子は殺されにけり

いなのめの波立つなべに河郎はまぶた冷たくなりにけらしも

川そこの光消えたれ河郎は水こもり草に眼を開くらし

みなそこの小夜ふけぬらし河郎のあたまの皿に月さし來る

岩根まき命をはりし河郎のかなしき瞳を思ふにたへめや

[やぶちゃん注:「大根河岸」は京橋から紺屋橋にかけての京橋川河岸のこと。江戸時代から関東大震災まで、野菜・根菜類の荷揚げ市場であったため、別名大根河岸と呼ばれた。

「觀世新路」は、筑摩全集類聚版注によれば、『東京京橋川筋より新橋川筋に属する町名の旧称。』とする。新全集注もこれを踏まえる。

「萬年橋」東京都の小名木川にかかる橋。この西側で小名木川は隅田川と合流している。葛飾北斎の富嶽三十六景「深川萬年橋下」や歌川広重の「名所江戸百景」「深川萬年橋」等で取り上げられた、江戸庶民に愛された橋で、この北詰には芭蕉庵があった。芥川が記載している当時は木製である(鉄橋となるのは関東大震災後)。

「吾妻橋」浅草と墨田区吾妻東町(現吾妻橋一丁目)とを結んで隅田川にかかる橋。橋がかけられる前は「竹町の渡し」であった。架橋は安永3(1774)年で、江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋の内、一番最後に架けられた橋であったが、明治181885)年7月の洪水で流失、明治201887)年12月に隅田川最初の鉄橋として再架橋されている。

「河太郎」は、本文は「かはたらう」と思われるが(筑摩全集類聚版はそうルビを振る)、短歌では「河郎」で「かはらう」(又は「かはたろ」「がたらう」等とも訓じ得る)と訓じているのであろう。

「偶一遊亭作る所の河太郎獨酌之圖を見たから」同年9月22日には、芥川は小穴に二通の葉書を書いている。一通(旧全集七七三書簡)は以下で、


赤らひく肌(はだへ)ふり■つゝ河童どちらはほのぼ
のとして眠りたるかも

この川の愛(めで)し河童は人間をまぐとせし
かば殺されにけり

短夜の淸き川瀨に河童われは人を愛(かな)
しとひた泣きにけり

  この頃河童の画をかいてゐたら河童が可愛く
  なりました 故に河童の歌三首を作りました
  君の画の御礼に僕の画をお目にかけ併せて歌
  を景物とします 以上

とある。この三首の内、最初の一首

赤らひく肌ふりつゝ河童らはほのぼのとして眠りたるかも



朱らひく肌もふれつつ河郎のいもせはいまだ眠りてをらむ

の初案、二首目

この川の愛し河童は人間をまぐとせしかば殺されにけり



人間の女を戀ひしかばこの川の河郎の子は殺されにけり

の初案と見てよい(「まぐ」は「覔ぐ」で、求めるの意)。三首目の

短夜の淸き川瀨に河童われは人を愛(かな)しとひた泣きにけり

は本文にないが、なかなか捨て難い直情である。芥川は同日中に三拙漁人の雅号で「水虎問答之図」の自筆絵葉書(七七四書簡)を小穴に送っている。

 

「朱らひく」は「あからひく」と読み、「赤ら引く」で本来は、明るく光るとか、赤みを帯びるの意であるが、ここでは「肌」の枕詞である(他に日・月・子・君・朝・膚・敷妙等にかかる)。]

 

       器量

 

 天龍寺の峨山〔がざん〕が或雪後の朝、晴れた空を仰ぎながら、「昨日はあんなに雪を降らせた空が、今朝はこんなに日がさしてゐる。この意氣でなくては人間も、大きな仕事は出來ないな」と云ひし由。今夜それを讀んだら、叶はない氣がした。僅百枚以内の短篇を書くのに、悲喜交〔こもごも〕至つてゐるやうでは、自分ながら氣の毒千萬なり。この間も湯にはひりながら、湯にはひる事その事は至極簡單なのに、湯にはひる事を書くとなると中々容易でないのが不思議だつた。同時に又不愉快だつた。されど下根の衆生と生まれたからは、やはり辛抱專一に苦勞する外はあるまいと思ふ。(十月三日)

[やぶちゃん注:「天龍寺の峨山」は京都五山の一、臨済宗大本山天龍寺管長、橋本峨山(嘉永6(1853)年~明治331900)年)。幕末に焼亡した同寺の再興に尽力した明治の名僧。

「僅百枚以内の短篇を書くのに、……」以下の叙述は、小説「お律と子等と」を指していると思われる。河出書房新社1992年刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」によれば、青根温泉から8月下旬に戻ってからというもの筆が捗らず、翌9月号の『中央公論』に脱稿する予定であった「お律と子等と」(初出の題名は「お律と子等」)滞った上、完品を脱稿することが出来ず、10月号と11月号に分けて発表することになり(9月8日の条)、9月20日頃に「二」までをからくも脱稿、10月1日に前篇という形で発表となった。9月末からは病臥してもいた。]

 

       誤謬

 

 Ars longa, vita brevis を譯して、藝術は長く人生は短しと云ふは好〔よ〕い。が、世俗がこの句を使ふのを見ると、人亡べども業顯ると云ふ意味に使つてゐる。あれは日本人或は日本の文士だけが獨り合點の使ひ方である。あのヒポクラテエスの第一アフオリズムには、さう云ふ意味ははひつて居らぬ。今の西人がこの句を使ふのも、やはりさう云ふ意味には使つて居らぬ。藝術は長く人生は短しとは、人生は短い故刻苦精勵を重ねても、容易に一藝を修める事は出來ぬと云ふ意味である。こんな事を説き明かすのは、中學教師の任かも知れぬ。しかし近頃は我々に教へ顏をする批評家の中にさへ、このはき違へを知らずにゐるものもある。それでは文壇にも氣の毒なやうだ。そんな意味に使ひたくば、希臘の哲人の語を借らずとも、孫過庭なぞに人亡業顯云々の名文句が殘つてゐる。序ながら書いて置くが、これからの批評家は、「ランダアやレオパルデイのイマジナリイ、コムヴアセエシヨン」などと出たらめの氣焰を擧げてゐてはいけぬ。そんな事ではいくら威張つても、衒學の名にさへ價せぬではないか。徒に人に教へたがるよりは、まづ自ら教へて來るが好い。(十月五日)

[やぶちゃん注:「Ars longa, vita brevis」はラテン語で「アルス・ロンガ・ウィータ・ブレウィス」と読む。本来は、古代ギリシャの医学の父Hippocratesヒポクラテス(B.C.460B.C.377)の言葉とされ、同人の著作集成とされるものの巻頭にある。もともとはギリシャ語で、“Ars”はギリシャ語の“τεχνη”テクネーであり、これは限定した技術としての「医術」を指す。従って『医療技術を学び身に着けるには長い時間がかかるが、それを習得するに人生は余りに短い』の意味である。芥川もそこを指して「さう云ふ意味ははひつて居らぬ」と言うのである。即ち、英訳されて“art”となったために広く「芸術」と最初から誤訳・誤用されていたのである。

「孫過庭」は、初唐の能書家(648703)。王羲之と王献之に学び、草書を得意とした。

「人亡業顯」は「人亡くして業(わざ)顯はる」と読む。孫過庭の書論として著名な「書譜」に現われる一節。]

 

       不朽

 

 人命に限りあればとて、命を粗末にして好〔よ〕いとは限らず。なる可く長生をしようとするのは、人各々の分別なり。藝術上の作品も何時かは亡ぶのに違ひなし。畫力は五百年、書力は八百年とは、王世貞既にこれを云ふ。されどなる可く長持ちのする作品を作らうと思ふのは、これ亦我々の隨意なり。かう思へば藝術の不朽を信ぜざると、後世に作品を殘さんとするとは、格別矛盾した考へにもあらざるべし。さらば如何なる作品が、古くならずにゐるかと云ふに、書や畫の事は知らざれども、文藝上の作品にては簡潔なる文體が長持ちのする事は事實なり。勿論文體即作品と云ふ理窟なければ、文體さへ然らばその作品が常に新なりとは云ふべからず。されど文體が作品の佳否に影響する限り、絢爛目を奪ふ如き文體が存外古くなる事は、殆疑なきが如し。ゴオテイエは今日讀むべからず。然れどもメリメエは日に新なり。これを我朝の文學に見るも、鷗外先生の短篇の如き、それらと同時に發表されし「冷笑」「うづまき」等の諸作に比ぶれば、今猶淸新の氣に富む事、昨日校正を濟まさせたと云ふとも、差支へなき位ならずや。ゾラは嘗文體を學ぶに、ヴオルテエルの簡を宗〔むね〕とせずして、ルツソオの華を宗とせしを歎き、彼自身の小説が早晩古くなるべきを豫言したる事ある由、善く己を知れりと云ふべし。されど前にも書きし通り、文體は作品のすべてにあらず。文體の如何を超越したる所に、作品の永續性を求むれば、やはりその深さに歸着するならん。「凡そ事物の能く久遠に垂るる者は、(中略)切實の體あるを要す」(芥舟學畫編〔かいしうがくぐわへん〕)とは、文藝の上にも確論だと思ふ。(十月六日)

[やぶちゃん注:「王世貞」(15251593・異説あり)は明代中期の文人政治家。李攀竜(りはんりょう)とともに古文復古運動を主導した古文辞派後七子(こうしちし:李攀竜・王世貞・謝榛(しゃしん)・宗臣・梁有誉・徐中行・呉国倫の七人)の一人。詩文のみならず書画の学究者としても知られる。

「鷗外先生の短篇」森鷗外が陸軍軍医総監に上り詰めた後、夏目漱石の刺激を受けて反自然主義作家として文壇に復帰した観潮楼時代後期、明治40年代に矢継ぎ早に発表した短編群を指す。「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」(明治421909)年)、「青年」「生田川」「普請中」「花子」「あそび」(明治431910)年)、「妄想」「心中」「雁」(明治441911)年)等。

「冷笑」は永井荷風の小説。明治421909)年12月から翌年2月まで新聞連載(出版は翌年)。ちなみにこの翌年、荷風は慶応大学文学科顧問となった鷗外の推薦を受けて教授となっている。

「うづまき」は上田敏の自伝的小説。明治431910)年1月~3月に新聞連載(同年出版)。ちなみに彼は自身の訳詩集「海潮音」をその巻頭で鷗外に献ずる辞を記す程に尊敬し、大正5(1916)年の41歳で急死した時も、鷗外を訪問する直前のことであった。

「芥舟學畫編」は清代の画家沈宗騫(しんそうけん)が1781年に記した画論書。本邦でも南画の指導書として用いられた。「芥舟」は雅号。]

 

       流俗

 

 思ふに流俗なるものは、常に前代には有用なりし眞理を株守する特色あり。尤も一時代前、二時代前、或は又三時代前と、眞理の古きに從つて、いろ/\の流俗なきにあらず。さらば一時代の長さ幾何かと云へば、これは時と處とにより、一概には何年と定め難し。まづ日本ならば一時代約十年とも申すべきか。而して普通流俗が學問藝術に害をなす程度は、その株守する眞理の古さと逆比例するものなり。たとへば武士道主義者などが、今日子供の惡戲程も時代の進歩を害せざるは、この法則の好例なるべし。故に現在の文壇にても、人道主義の陣笠連は、自然主義の陣笠連より厄介物たるを當然とす。(十月七日)

[やぶちゃん注:本頁末の別稿の同題「流俗」をも参照のこと。

「流俗」は世間一般の慣わしのことを言う。

「陣笠連」は本来、雑兵(ぞうひょう)・下級武士の連中を言ったが、そこから徒党を組んだ集団の代表でない、有象無象、一般・下級の構成員を指すようになった。]

 

       木犀

 

 牛込の或町を歩いてゐたら、誰の屋敷か知らないが、黑塀の續いてゐる所へ出た。今にも倒れてしまひさうな、ひどく古い黑塀だつた。塀の中には芭蕉や松が、凭れ合ふやうに一杯茂つてゐた。其處を獨り歩いてゐると、冷たい木犀の匂がし出した。何だかその匂が芭蕉や松にも、滲み透るやうな心もちがした。すると向うからこれも一人、まつすぐに歩いて來る女があつた。やがて側へ來たのを見たら、何處かで見たやうな顏をしてゐた。すれ違つた後でも考へて見たが、どうしても思ひ出せなかつた。が、何だか風流な氣がした。それから賑な往來へ出ると、ぽつぽつ雨が降つて來た。その時急にさつきの女と、以前遇つた所を思ひ出した。今度は急に下司な氣がした。四五日後折柴〔せつさい〕と話してゐると、底に穴を明けた瀬戸の火鉢へ、縁日物の木犀を植ゑて置いたら、花をつけたと云ふ話を聞かせられた。さうしたら又牛込で遇つた女の事を思ひ出した。が、下司な氣は少しもなかつた。(十月十日)

[やぶちゃん注:底本後記によれば、「井月」からここまでの9篇が雑誌『人間』10月号の第2回分である。

「折柴」作家瀧井孝作の俳号。芥川龍之介とは、前年大正8(1919)年に時事新報社の記者として知り合っている。瀧井は当時は碧梧桐門下の新傾向俳人でもあった。]

 

       Butler の説

 

 サムエル・バトラアの説に云ふ。「モリエルが無智の老嫗〔らうう〕に自作の臺本を讀み聞かせたと云ふは、何も老嫗の批評を正しとしたのではない。唯自ら朗讀する間に、自ら臺本の瑕疵を見出すが爲である。かかる場合聽き手を勤むるものは、無智の老嫗に若くものはあるまい」と。まことに一理ある説である。白居易などが老嫗に自作の詩を讀み聽かせたと云ふのも、同じやうな心があつたのかも知れぬ。しかし自分がバトラアの説を面白しとするのは、啻〔ただ〕に一理あるが故のみではない。この説はバトラアのやうに創作の經驗がある人でないと、道破されさうもない説だからである。成程世のつねの學者や批評家にも、モリエルの喜劇はわかるかも知れぬ。が、それだけでは立ちどころに、バトラアの説が吐けるものではない。こんな消息に通じるには、おのれの中にモリエルその人を感じてゐなければ駄目である。其處が自分には難有い氣がする。ロダンの手記なぞが尊いのも、かう云ふ所が多い故だ。三千里外に故人の面を見ようと思つたら、どうしても自ら苦まねばならぬ。(十月十九日)

[やぶちゃん注:「道破」の「道」は「言う」という動詞。はっきりと本質を言い切ること。

「三千里外に故人の面を見ようと思つたら」は、以下の白居易の詩「八月十五夜、禁中に獨り直(とのゐ)し、月に對して元九を憶ふ」を踏まえる(但し、そこでは「二千里」)。

 

 八月十五夜禁中獨直對月憶元九   白居易

銀臺金闕夕沈沈   銀臺金闕(きんけつ) 夕沈沈

獨宿相思在翰林   獨宿 相思ひて翰林に在り

三五夜中新月色   三五夜中 新月の色

二千里外故人心   二千里外 故人の心

渚宮東面煙波冷   渚宮(しよきう)の東面は煙波冷ややかに

浴殿西頭鐘漏深   浴殿の西頭は鐘漏深し

猶恐淸光不同見   猶ほ恐る 淸光同じく見えざらんことを

江陵卑濕足秋陰   江陵は卑濕(ひしつ)にして秋陰足(おお)し

 

○やぶちゃんの語釈:

・元九:友人の詩人元稹(げんしん)。当時、左遷されて湖北の江陵にいた。彼は当地で愛妻も失っている。

・「銀臺金闕」宮中のあちこちに聳える楼門。翰林院の南には銀臺門という門があった。

・翰林院:詔勅・公文書の起草を行う役所。時に白居易39歳、翰林学士であった。

・渚宮:古の楚の宮殿。水辺にあった。ここは元稹のいる江陵の景を想像している。

・浴殿:翰林院の東には大明宮があり、そこには皇帝のバス、浴堂があった。

・鐘漏:時刻を知らせるための鐘や水時計の音。

・足秋陰:「足」は「多い」、「陰」は「曇り」、秋は曇りの日が多い、の意。

 

○やぶちゃんの通釈:

   八月十五夜、禁中に独り宿直(とのい)し、月に向かい、

   遠い地の友元稹を思う

 宮中の厳かな楼門も光りを失って、静かに静かに更けてゆくこの夜――

 僕はたった一人、翰林院に宿直している。ただただ君を思いながら――

 今宵は十五夜、出たばかりの月の光の中――

 遥か二千里の彼方、我が友は何を想っているか――

 君の居るそこ、渚宮の東でも、水面に煙る波にこの月の光が冷たく光っているだろう――

 僕の居るここ、浴殿の西でも、鐘や漏刻の音が月の動きとともに深く響いてくるのだ――

 ああ、でも僕は怖いんだ――

  この清らかな月影を、愛する君は僕と同じように見ていないのではないかと思うと――

 君の居る江陵は低地でじめじめとして、秋は曇りの日が多いと聞いているから……

 

ここで芥川が元にした頷聯(第三句・第四句)は、「和漢朗詠集」巻上の秋の八月十五夜の部に引用されており、古来、人口に膾炙している。さて、本来、原典に即して言えば、芥川の謂いは「遠方にいる友の心を思いやろうとするなら」という意味となるが、ここでは「遥かな古人の真意を理解しようと思うなら」という謂いで用いている。]

 

       今夜

 

 今夜は心が平かである。机の前にあぐらをかきながら、湯に溶かしたブロチンを啜つてゐれば、泰平の民の心もちがする。かう云ふ時は小説なぞ書いてゐるのが、あさましいやうにも考へられる。そんな物を書くよりは、發句の稽古でもしてゐる方が、餘程養生になるではないか。發句より手習ひでもしてゐれば、もつと事が足りるかも知れぬ。いや、それより今かうして坐つてゐる心もちがその儘難有いのを知らぬかなぞとも思ふ。おれは道書も佛書も讀んだ事はない。が、どうもおれの心の底には、虚無の遺傳が潛んでゐるやうだ。西洋人がいくらもがいて見ても、結局はカトリツクの信仰に舞ひ戻るやうに、おれなぞはだんだん年をとると、隱棲か何かがしたくなるかも知れない。が、まだ今のやうに女に惚れたり、金が慾しかつたりしてゐる内は、到底思ひ切つた眞似は出來さうもないな。尤も仙人と云ふ中には、祝鷄翁のやうな蓄産家や郭璞〔かくはく〕のやうな漁色家がある。ああ云ふ仙人にはすぐになれさうだ。しかしどうせなる位なら、俗な仙人にはなりたくない。横文字の讀める若隱居なぞは、猶更おれは眞平御免だ。そんなものよりは小説家の方が、まだしも道に近いやうな氣がする。「尋仙未向碧山行 住在人間足道情」かな。何だか今夜は半可通な獨り語ばかり書いてしまつた。(十月二十日)

[やぶちゃん注:「ブロチン」は“Brocin”という第一三共製薬の商品名で、桜の皮からの抽出エキス。鎮咳去痰剤として現在も同名で市販されており、気管支炎・肺炎等の呼吸器疾患の症状軽減に薬効がある。

「祝鷄翁」は漢の劉向(りゅうきょう)の「列仙伝」に所載する仙人の一人。平凡社1973年刊の『中国古典シリーズ4』の沢田瑞穂訳から引用する。『祝鶏翁というのは洛陽の人であった。尸郷(しきょう)の北山の麓に住みつき、鶏を飼うこと百余年。千余羽の鶏をもち、それぞれに名をつけていた。日が暮れると樹に止まり、昼は放し飼いにしていた。一羽を呼びよせようとしてその名を呼ぶと、声に応じて寄ってきた。鶏および鶏卵を売り、千余万の銭を得たが、その銭は置いたままでそこを去り、呉の国にいって養魚地をつくった。のち呉山に登った。数百羽の白鶴や孔雀が、いつもその傍にいたといわれている。』。

「郭璞」は六朝晋代、東晋の元帝に仕えた学者・詩人(276324)。博覧強記にして卜筮(ぼくぜい)の達人でもあった。「爾雅」「山海経」等の注釈及び「遊仙詩」「江賦」で著名であるが、その日常は酒色に耽り、反俗的であったとされる。諸本はこれに「かくぼく」のルビを振るが、これは当時の単行本を刊行の際の出版社の誤植であろう。

「尋仙未向碧山行 住在人間足道情」は書き下すと、「仙を尋ねて未だ向はず碧山の行 住んで人間(じんかん)に在るも道情足る」と読む。「世の汚濁を厭うて遊仙の境地を求めながら人跡未踏の深山に未だ向かうことはないものの、陶淵明のごとく、穢れた人界に在りながらも真実の在り方を孤高に生きようとする気概は十二分に在る」といった意味。筑摩全集類聚版は出典未詳とするが、これは芥川の創作した漢詩であろう。]

 

       夢

 

 世間の小説に出て來る夢は、どうも夢らしい心もちがせぬ。大抵は作爲が見え透くのである。「罪と罰」の中の困馬の夢でも、やはりこの意味ではまことらしくない。夢のやうな話なぞと云ふが、夢を夢らしく書きこなす事は、好い加減な現實の描寫よりも、反つて周到な用意が入る。何故かと云ふと夢中の出來事は、時間も空間も因果の關係も、現實とは全然違つてゐる。しかもその違ひ方が、到底型には嵌める事が出來ぬ。だから實際見た夢でも寫さない限り、夢らしい夢を書く事は、殆不可能と云ふ外はない。所が小説中夢を道具に使ふ場合は、その道具の目的を果す必要上、よくよく都合の好い夢でも見ねば、實際見た夢を書く譯に行かぬ。この故に小説に出て來る夢は、善く行つた所がドストエフスキイの困馬の夢を出難〔でがた〕いのである。しかし實際見た夢から、逆に小説を作り出す場合は、その夢が夢として書かれて居らぬ時でも、夢らしい心もちが現れる故、往々神祕的な作品が出來る。名高い自殺倶樂部の話なぞも、スティヴンソンがあの落想を得たのは、誰かが見た夢の話からだと云ふ。この故にさう云ふ小説を書かうと思つたら、時々の夢を記して置くが好い。自分なぞはそれも怠つてゐるが、ドオデエには確か夢の手記があつた。わが朝では志賀直哉氏に、「イヅク川」と云ふ好小品がある。(十月二十五日)

[やぶちゃん注:『「罪と罰」の中の困馬の夢』は第一篇の5で、酔ったラスコリニコフが路上の草地で昼寝をして夢を見るシークエンスを言う。彼の幼年期の記憶に基づく夢で、困窮し痩せた牝馬が酔った飼い主なぶり殺しにされ、その死んだ馬の血だらけの目と唇にラスコリニコフ少年が接吻する様を描いてリアルであるが、そのリアルさと象徴的映像がかえって作話的で、伏線としての確信犯的構成であることは疑いない。

「自殺倶樂部」Robert Louis Balfour Stevensonロバート・ルイス・スティーヴンソン(18501894)の短編集“The New Arabian Nights”「新アラビア夜話」(1882)の第一巻の一篇“The Suicide Club”。既に自殺にしか快楽を見出せなくなった自殺志願者たちのの奇妙な心理を描く。

「落想」は着想に同じ。

「イヅク川」は志賀直哉が明治441911)年に『白樺』に発表した作品。「自分」は会いたい人があって丘を越えようとして、大きな澄んだ水を湛えた「池」の縁に出る。「自分」はこれが「『イズク川だな』」と思う。右手は丘の斜面になっていて、薄靄の中、町の家並みが見え、『會いたい人は其所に居る、成程もう直(ぢ)だと思ふ』。イズク川である池には『白鷺のやうで嘴のそれ程尖つて居ない鳥が池の所々(ところどころ)に立つて居る。イズク烏と云ふのはこれだなと思ふ。皆眠つて居る』。そこで「自分」はある知人とすれ違い、挨拶して別れたが、振り返ると、その男は向こうの藪かげからちょっと顔を出して笑っている――ここで夢が醒め、その夢の美しさが記憶に残り、それを鮮やかに想起することが出来た。更に「川」が「池」で、「烏」が「白い鳥」であったこと、イヅクが何処の訛りであることを面白く思った。『知人は元、同じ學校に居た、海江田(かいえだ)のようでもあり、豐次(とよじ)のようでもあつた。後(あと)から顏を出して笑つて居たのは確に豐次だつた。してみるとすれ違つた時は其人は海江田だつたらしい。』(改行)『會ひたいと思つた人は思ひ出せなかつた。』で終わる、800字に満たない掌篇である(以上の「イズク川」本文は昭和301925)年岩波書店刊の新書版志賀直哉全集を用いた)。]

 

       日本畫の寫實

 

 日本畫家が寫實にこだはつてゐるのは、どう考へても妙な氣がする。それは寫實に進んで行つても、或程度の成功を收められるかも知れぬ。が、いくら成功を收めたにしても、洋畫程寫實が出來る筈はない。光だの、空氣だの、質量だのの感じが出したかつたら、何故さきにパレツトを執らないのか。且又さう云ふ感じを出さうとするのは、印象派が外光の效果を出さうとしたのとは、餘程趣が違つてゐる。佛人は一歩先へ出たのだ。日本畫家が寫實にこだはるのは、一歩横へ出ようとするのだ。自分は速水御舟〔はやみぎよしう〕氏の舞妓の畫なぞに對すると、如何にも日本畫に氣の毒な氣がする。昔芳幾〔よしいく〕が描いた寫眞畫と云ふ物は、あれと類を同じくしてゐたが、求める所が鄙俗なだけ、反つてあれ程嫌味はない。甚失禮な申し分ながら、どうも速水氏や何かの畫を作る動機は、存外足もとの浮いた所が多さうに思はれてならぬのである。(十一月一日)

[やぶちゃん注:「速水御舟」日本画家(明治271894)年~昭和101935)年)。代表作は切手にもなった大正14(1925)年の「炎舞」であろう。篝火に舞う蛾を描いて美事である。ここで挙げられた「舞妓」は本篇が執筆された大正9(1920)年の作で、その粘着的な細密描写に於いて油絵のような日本画と言ってよい。私は芥川よろしく、この「舞妓」の絵から残念ながら曰く言い難い落ち着かぬ不快を感じる。それは甲斐庄楠音のデロリに現われるような不可思議な魅力とは違う負の違和感なのである。

「芳幾」落合芳幾(天保4(1833)年~明治371904)年)。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・新聞人。歌川国芳門下。月岡芳年の兄弟弟子で、一時は芳年と人気を二分した。明治に入ってからは錦絵版『東京日日新聞』の新聞錦絵を描いて、錦絵新聞流行の先駆けを作った。ここで芥川が言う「寫眞畫」というのは、岩波版新全集注によれば、『写実的な洋風描写の「写真鏡」などの世相画のこと。』とする。]

 

       理解

 

 一時は放蕩さへ働けば、一かど藝術がわかるやうに思ひ上つた連中がある。この頃は道義と宗教とを談ずれば、芭蕉もレオナルド・ダ・ヴインチも一呑みに呑みこみ顏をする連中がある。ヴィンチは兎も角も、芭蕉さへ一通り偉さがわかるやうになるのは、やはり相當の苦勞を積まねばならぬ。ことによると末世の我々には、死身〔しにみ〕に思ひを潛めた後でも、まだ會得されない芭蕉の偉さが殘つてゐるかも知れぬ位だ。ジアン・クリストフの中に、クリストフと同じやうにベエトオフエンがわかると思つてゐる俗物を書いた一節がある。わかると云ふ事は世間が考へる程、無造作に出來る事ではない。何事も藝道に志したからは、わかつた上にもわからうとする心がけが肝腎なやうだ。さもないと野狐に墮してしまふ。偶電氣と文藝所載の諸家の芭蕉論の中に、一二孟浪〔まうらう〕杜撰の説を見出した故に、不平のあまり書きとどめる。(十一月四日)

[やぶちゃん注:「ジアン・クリストフ」芥川はロマン・ロランの“Jean-Christophe”「ジャン・クリストフ」を大正3(1914)年11月に読み、後、大正5(1916)年10月号『新潮』のアンケートには「余を最も強く感動せしめたる書」と記す程の愛読書であった。

「孟浪」とは、とりとめがなく、いい加減なこと。

「死身」いつ死んでもいい覚悟で事にあたること。捨て身。

「野狐」は野狐禅・生禅(なまぜん)の謂い。禅の修行者が、未だ悟りきっていないにも関わらず、悟ったかのように錯覚して自惚れに堕すことを言う。転じて、生半可な理解で知ったかぶりをすることを指す。

「電氣と文藝」は明治411908)年に電気文芸社が創刊した雑誌の名。]

 

       茶釜の蓋置き

 

 今日香取秀眞〔ほづま〕氏の所にゐたら、茶釜の蓋置きを三つ見せてくれた。小さな鐵の五德のやうな物である。それが三つとも形が違ふ。違ふと云つた所が五德同樣故、三本の足と環との釣合ひが、僅に違つてゐるに過ぎない。が三つとも明らかに違ふ。見てゐれば見てゐる程愈違ひが甚しい。一つは莊重な心もちがする。一つは氣の利いた、洒脱な物である。最後の一つは見るに堪へぬ。これ程簡單な物にもこれ程出來の違ひがあるかと思つたら、何事も藝道は恐しい氣がした。一刀一拜の心もちが入るのは、佛を刻む時ばかりでないと云ふ氣がした。名人の仕事に思ひ比べれば、我々の書き殘した物なぞは、悉焚燒〔ふんせう〕しても惜しくはないと云ふ氣がした。考へれば考へる程愈底の知れなくなるものは天下に藝道唯一つである。(十一月十日)

[やぶちゃん注:「香取秀眞」は、著名な鋳金工芸師(明治7(1874)年~昭和291954)年)。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の隣人にして友人であった。]

 

       西洋人

 

 茶碗に茶を汲んで出すと、茶を飮む前にその茶碗を見る。これは日本人には家常茶飯に見る事だが、西洋人は滅多にやらぬらしい。「結構な珈琲茶碗でございます」などと云ふ言葉は、西洋小説中にも見えぬやうである。それだけ日本人は藝術的なのかも知れぬ。或はそれだけ日本人の藝術は、細い所にも手がとどくのかも知れぬ。リイチ氏なぞは立派な陶工だが、皿や茶碗の仕事を見ると、裏〔うち〕には心がはひつて居らぬやうだ。これなぞも誰か注意さへすれば、何でもない事だとは云ふものの、其處に爭はれぬ西洋人を感ずるやうな心もちがする。(十一月十日)

[やぶちゃん注:「リイチ氏」はイギリスの画家・陶芸家Bernard Howell Leachバーナード・リーチ(1887 1979)。日本文化を愛し、たびたび来日し、柳宗悦らの民芸運動や白樺派の活動にも深く関わった。明治大正元(1912)年に尾形乾山に師事し、その後中国遊学を経て、芥川がこう記載する3年ほど前の大正6(1917)年、我孫子にあった柳宗悦の家に窯を開き、陶芸家として作品を発表していた。]

 

       粗密と純雜

 

 粗密は氣質の差によるものである。粗を嫌ひ密を喜ぶのは、各好む所に從ふが好い。しかし粗密と純雜とは、自ら又異つてゐる。純雜は氣質の差のみではない。更に人格の深處に根ざした、我々が一生の一大事である。純を尊び雜を卑むのは、好惡の如何を超越した批判の沙汰に移らねばならぬ。今夜ふと菊池寛著す所の「極樂」を出して見たが、菊池の小説の如きは粗とは云へても、終始雜俗の氣には汚れてゐない。その證據には作中の言葉が、善かれ惡しかれ滿ちてゐる。唯一不二の言葉ばかり使つてないにしろ、白痴脅〔こけおど〕しの言葉は並んでゐない。あれはあれなりに出來上つた、他に類のない小説である。その點では一二の大家先生の方が、遙に雜俗の屎臭〔ししう〕を放つてゐると思ふ。粗密は前にも書いた通り、氣質の違ひによるものである。だから鑑賞の上から云へば、菊池の小説を好むと好まざるとは、何人も勝手に聲明するが好い。しかしその藝術的價値の批判にも、粗なるが故に許し難いとするのは、好む所に偏するの譏〔そしり〕を免れぬ。同時に又創作の上から云へば、菊池の小説は菊池の氣質と切り離し難い物である。あの粗は決して等閑に書き流した結果然るのではない。その故に他の作家、殊に本來密を喜ぶ作家が、妄〔みだり〕に菊池の小説作法を踏襲したら、勢〔いきほひ〕雜俗の病〔へい〕に陷らざるを得ぬ。自分なぞは氣質の上では、可也菊池と隔つてゐる。だから粗密の好みを云へば、一致しない點が多いかも知れぬ。が、純雜を論ずれば、必しも我等は他人ではない。(十一月十二日)

[やぶちゃん注:底本後記によれば、以上、「Butler の説」からここまでの8篇が雑誌『人間』11月号の最終回分である。

『菊池寛著す所の「極樂」』本篇発表の年である大正9(1920)年5月、雑誌『改造』に発表された作品。]

 

 

 

雜筆 別稿

 

 

 

       眼

 

 醜を見る眼の外に、美を見る眼はない。

 

       貞操

 

 女子の貞操とは、處女が男子とのCoitusに感ずる羞恥心の異名である。だから既に妻となつた女子は、第一義的貞操を失つてゐると云つて差支へない。第二義的貞操とは、女子が夫以外の男子とのCoitusに感ずる差恥心の異名である。世間が不貞の烙印を與へるものは、第二義的貞操及びそれ以下の貞操を失つた女子に限るやうである。賣笑婦間の道德たる精神的貞操の如きは、單に畸形的貞操の一種たるに過ぎない。彼等の精神偏重は、救靈の爲に苦行する聖徒の狂信に似てゐる所がある。(三月七日)

 

       空想

 

 僕は貧しい人間である。だから時々大金を得て、自在を極める時を空想する。その場合僕の所謂大金は、何百萬圓何千萬圓と云ふ制限を知らない。唯僕が自在を極めるのに十分なだけの金額である。所が金持ちの空想は、必彼等の所有する金額の制限を受けるらしい。更に詳しく云へば彼等の空想は、「所有の金額の全部を使つたら」、或は「その一部を使つたら」と云ふ條件の下に開展する。だから僕等貧乏人の空想は、常に彼等金持ちの空想より壯大なのを常とする。物臭太郎の空想に奔放の氣を漲〔みなぎ〕らした、足利時代の御伽草子の作者は、確にこの間の消息に通ずる所があつたのに相違ない。(三月八日)

 

       貴族

 

 あらゆる貴族に共通な悲劇は、彼等も亦僕等の如く厠に上ると云ふ事である。さもなければ彼等は安んじて、神々の裔だと確信したかも知れない。德川時代の大諸侯が參觀交代の途次、砂積めの四斗樽に一々彼等の糞便ををさめて、江戸或は國元へ送らせたのは、彼等が如何にこの現實曝露を惧れてゐたかを語るものである。(四月五日)

[やぶちゃん注:本篇「貴族」と対照されたい。]

 

       民衆

 

 民衆の味方に缺くべからざる物、――第一には樂天主義。第二にも樂天主義。第三にも亦樂天主義。(四月五日)

 

       流俗

 

 流俗とは、何時も前代に有用だつた眞理を固守してゐる人間である。尤も一時代の長さは何年と、精密にきまつてゐる訣ではない。往々日本の文壇なぞでは、五年又は十年が一時代に嘗る事もあるやうである。一時代前に有用だつた眞理、二時代前に有用だつた眞理、三時代前に有用だつた眞理、――流俗もその眞理の時代なみに、何種類もある事を忘れてはならぬ。しかし流俗の有害な程度は、その固守してゐる眞理の時代の新しさに丁度正此例する。

嘘だと思つたら、尊王攘夷の精神なぞが如何に今は無害になつたかを見るが好い。(七月二十日)

[やぶちゃん注:本篇「流俗」と対照されたい。]

 

       浪漫主義

 

 浪漫主義とは、未開地或は未開時代に理想の生活を求める傾向である。ルツソオの「自然へ歸れ」から、谷崎潤一郎氏の小説に至るまで、さう考へると一つも例外はない。序ながら云ふ。「青い花」はこの社会主義者のユウトピアにも咲いてゐるやうである。(四月三十日)

[やぶちゃん注:「青い花」はドイツ・ロマン主義の詩人Novalisノヴァーリス(17721801)の未完の小説。原題は“Heinrich von Ofterdingen”。ドイツ・ロマン派のみならず、その神秘的で魅力的な詩想は、ロマン主義のバイブルと言うに相応しい。]

 

       繪畫と詩歌

 

 「アララギ」に齋藤茂吉氏が「寫生の説」を書いてゐる。齋藤氏の「寫生」の語義は、東洋畫論の「寫生」の語義である。あれを讀んでゐる内に思ひ出したが、昔樗牛が何かの中に、「詩歌は繪畫を學ぶきものではない。詩歌の本質は動を寫にある」なぞと、論じてゐるのを見た事があつた。當時まだ中學生だつた自分は、樗牛の説を名言だと思つた。が、今になつて考へて見ると、樗牛は餘り省察も加へず、「ラオコオン」を祖述してゐたのである。東洋の詩歌は西洋のエポスとは違ふ。青蓮龍標の絶句を讀めば、いくらでも「有聲の畫」を拾ふ事が出來る。「夕顏や醉うて顏出す窓の穴」や「五月雨や大河を前に家二軒」でも、やはりその儘畫になつてしまふ。齋藤茂吉氏の「寫生」の語義が、東洋畫論に根ざしてゐるのは、興味ある必然と云はねばならぬ。

[やぶちゃん注:「ラオコオン」はドイツの詩人・劇作家・評論家であったGotthold Ephraim Lessingゴットホルト・エフライム・レッシング(17291781)がギリシャ美術を論じた“Laokoon”「ラオコーン」(1766)のこと。ウィキの「ラオコオン論争」によれば、彼はローマで発掘された彫刻ラオコーン神像について、『ラオコーン像の彫刻家は美を達成するために見苦しい断末魔のシーンを避けてその寸前を描いたから抑制された印象が現れたのだとした。ここから、レッシングは空間を使って絵具やノミで表現する絵画や彫刻は、人物や風景などの物体を対象とし、唯一の決定的瞬間・最も含蓄のある瞬間を描くものであり、対象の行為を描き時間の中の継続的な行為を描く文学や舞台などとは別のものとして分けた。彼の論によって、それまで「詩は絵のように」と、詩と絵画を姉妹としてみてきた西洋において、視覚芸術(空間芸術)と言語芸術(時間芸術)は厳然と分けられた』とある。

「エポス」“epos”叙事詩。口承叙事詩。

「青蓮龍標」李白のこと。青蓮居士は彼の号。但し、「龍標」は不審。李白に「聞王昌齡左遷龍標遙有此寄」(王昌齡が龍標に左遷せらるるを聞き遙かに此れに寄する有り)という詩があり、そこで詩友王昌齡が左遷された地が龍標で、これは湖南省西南部の地名で、現在の湖南省黔陽(けんよう)のことである。「青蓮夜郎」というなら未だしも分かるのであるが(夜郎は当時の李白の流謫の地)。識者の御教授を乞う。

「夕顏や醉うて顏出す窓の穴」元禄6(1693)年の芭蕉の句。

「五月雨や大河を前に家二軒」安永6(1777)年の蕪村の句。]

 

       鶉

 

 籠の鶉を日向へ出して置いたら、水も餌もあるのに死んでしまつた。日の光に射殺〔ゐころ〕されたのだと思ふと、恐しい心もちがする。日は死んだ鶉の上にも、酷薄にかんかん當つてゐた。その屍骸を眺めながら、句にしようとか何とか思つてゐる、人間のおのれは憎むべし。(九月十二日)

(大正九年)