やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ



素描三題 附草稿(「仙人」)  芥川龍之介

[やぶちゃん注:初出未詳。底本は岩波旧全集版を用いた。底本は総ルビであるが、読みの振れるもの及び標記の変化があるもののみのパラルビとした。最後に、死後に公開された本作の「二」の草稿である「仙人」を掲げた。簡単な私の語注も附してある(注では筑摩全集類聚版を一部参考にさせて頂いた)。本頁はブログ330000アクセス突破記念として作成した。【二〇一一年十一月十八日】初出誌は岩波新全集年譜で『週刊朝日』と判明している。【二〇一七年一月十七日追記 藪野直史】]

素描三題

       一 お宗さん

 おそうさんは髮の毛の薄いためにどこへも縁づかない覺悟をしてゐた。が、髮の毛の薄いことはそれ自身お宗さんには愉快ではなかつた。お宗さんは地肌の透いた頭へいろいろの毛生え藥をなすつたりした。
 「どれも廣告ほどのことはないんですよ。」
 かういふお宗さんも聲だけは善かつた。そこで賃仕事の片手間に一中節の稽古をし、もし上達するものとすれば師匠になるのもいと思ひ出した。しかし一中節はむづかしかつた。のみならず酒癖の惡い師匠は、時々お宗さんをつかまへては小言以上の小言を言つたりした。
 「お前なんどはこえたごをけを叩いて甚句でもうたつてお出でなさりやいのに。」
 師匠は酒の醒めてゐる時には決してお宗さんにも粗略ではなかつた。しかし一度言はれた小言はお宗さんをひがませずには措かなかつた。「どうせあたしは檀那衆のやうによくする訣には行かないんだから。」――お宗さんは時々にいさんにもそんな愚痴などをこぼしてゐた。
 「曾我の五郎と十郎とは一體どつちが兄さんです?」
 四十を越したお宗さんは「形見かたみおくり」を習つてゐるうちに眞面目にかういふことを尋ねたりした。この返事にはたれも當惑した。誰も? ――いや「誰も」ではない。やつと小學校へはひつた僕はすぐに「十郎が兄さんですよ」といひ、反つてみんなに笑はれたのを羞しがらずにはゐられなかつた。
 「何しろああいふお師匠さんぢやね。」
 一中節の師匠になることはとうとうお宗さんには出來なかつた。お宗さんはあの震災のために家も何も燒かれたとかいふことだつた。のみならず一時いちじは頭の具合も妙になつたとかいふことだつた。僕はお宗さんの髮の毛も何か頭の病氣のために薄いのではないかと思つてゐる。お宗さんの使つた毛生え藥は何も賣藥ばかりではない。お宗さんはいつか蝙蝠かうもりの生き血を一面に頭に塗りつけてゐた。
 「鼠の子の生き血もいといふんですけれども。」
 お宗さんは圓い目をくるくるさせながら、きよとんとしてこんなことも言つたものだつた。

[やぶちゃん注::「一中節」は浄瑠璃の一種で、重要無形文化財として現存する流派名でもある。初代都太夫一中が十八世紀初期、元禄から宝永にかけて京都で創始し、京の代表的浄瑠璃となった。後に江戸で発達したが、京坂では逆に絶えた。芥川が七歳の明治三十二(一八九九)年頃、芥川一家が宇治紫山なる人物から一中節を習っていたことは、大正十五(一九二六)年に『文藝春秋』に連載した「追憶」の「宇治紫山」によって知られる。従って、この主人公「宗さん」はその紫山の弟子で、同じ芥川家にほど近い本所両国近辺に住んでいたか、若しくは何らかの商売か手伝いで、その頃の芥川家に頻繁に出入りしていた女性と考えてよいであろう。本描写は、たまにやってくる、たまに見る「宗さん」の描写ではなく、少年芥川の視線の、則ち、彼の日常生活の中に常時立ち現れていた彼女が見えるような描写となっているからである。
「甚句」江戸末から流行し始めた民謡の一つ。多くは七・七・七・五の四句定型で節は地方・職能によって多様。越後の甚九という人物が創始したとも言われるが未詳。
「兄さん」兄弟子のこと。
「形見送り」というのは一中節曽我物の中の曲名と思われる。その曲自体を知らないが、所謂、「曽我物語」の兄弟一緒の形見の場面となると、兄弟が工藤祐経を夜討にせんと決したその宵、従者として從ってきた団三郎と鬼王に形見を与えて曽我へ帰そうとするも、二人は主君を見捨てくらいならばと刺し違えんとし、兄弟が形見を母に届け慰めるも忠と説くというシーンを言うか。
「蝙蝠の生き血」「鼠の子の生き血」この毛生え薬のシーンは芥川龍之介の小説「鼻」を厭が上にも思い出させ、その作為性にやや興が殺がれる嫌いがある向きもあろうと思われるが、江戸の農学者大蔵永常著になる実用処方集「山家薬方集」によれば、漢方ではなく紅毛流(オランダ流)の毛生え薬の処方として、蝙蝠の黒焼きとマコモの黒粉各等量を胡麻油で数回塗布すれば、毛が生えないということがないという強力な効果がある記し、また、ネズミの新生児と蛭の腹をしごいたものと真菰の根の三種を合わせて黒焼きにしたものを胡麻油で塗布するともある。これは実話なのであって、芥川のインスピレーションの枯渇でも何でもない(以上の「山家薬方集」記載は薬剤師鈴木覚氏のHP「虫類の薬用【虫類本草】」の第一七〇号『「山家薬方集」中の虫類を用いた毛生え薬』に拠った)。]

       二 裏 畠

 それはKさんの家の後ろにある二百坪ばかりのはたけだつた。Kさんはそこに野菜のほかにもポンポン・ダリアを作つてゐた。その畠を塞いでゐるのは一日に五、六度汽車の通る一間ばかりの堤だつた。
 或夏も暮れかかつた午後、Kさんはこの畠へ出、もう花もまれになつたポンポン・ダリアに鋏を入れてゐた。すると汽車は堤の上をどつと一息に通りすぎながら、何度も鋭い非常警笛を鳴らした。同時に何か黑いものが一つ畠の隅へころげ落ちた。Kさんはそちらを見る拍子に「又庭鳥にはとりがやられたな」と思つた。それは實際黑い羽根に靑い光澤を持つてゐるミノルカ種の庭鳥にそつくりだつた。のみならず何か鷄冠とさからしいものもちらりと見えたのに違ひなかつた。
 しかし庭鳥と思つたのはKさんにはほんの一瞬間だつた。Kさんはそこに佇んだまま、あつけにとられずにはゐられなかつた。その畠へころげこんだものは實は今汽車に轢かれた二十四五の男の頭だつた。

[やぶちゃん注:「Kさん」未詳であるが、Kさんの畠が鉄道のすぐ脇にあること、鉄道は堤状に高くなったところに軌道が敷かれているということから、私はそうした条件を満たす場所の近くに芥川龍之介が居住していたことを知っている。これは高い確率で芥川龍之介が新婚時代に暮らした鎌倉での体験である。以前、私が行った『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』から引用しつつ説明しよう。なお、これには本作と同じく汽車に人が轢断されるモチーフが共通する芥川龍之介の「寒さ」の考証も関わっているのである(以下、私の考察の引用は改行して――で挟む)。
――「寒さ」は、芥川龍之介が海軍機関学校嘱託として勤務していた頃の出来事として設定されている。その時、彼は新婚の文と共に、鎌倉市大町字辻の小山別邸の借家に居住していた。――
彼らの新婚の家は現在の鎌倉市材木座一-八の辺りに同定されている。
――さて、「寒さ」の後半冒頭には、「保吉は汽車を捉へる爲、ある避暑地の町はづれを一生懸命に急いでゐた。」とある。これが海軍機関学校への通勤の途路であろうことは、その後の時刻や汽車の叙述から間違いない。そして、この引用の直後は、次のように続く。『路の右は麥畑、左は汽車の線路のある二間ばかりの堤だつた。人つ子一人いない麥畑はかすかな物音に充ち滿ちてゐた。それは誰か麥の間を歩いてゐる音としか思われなかつた、しかし事實は打ち返された土の下にある霜柱のおのずから崩れる音らしかつた。』――
さらに続いて「寒さ」では、
――『石炭殼などを敷いた路は爪先上りに踏切りへ出る、――其處へ何氣なしに來た時だつた』――
とあり、ここでまさに「麥畑」と「堤」が出てくるのである。
――現在でも、鎌倉駅に材木座から向かう場合、横須賀線の線路を北方向へ横断し、大町四ツ角のある通りや、線路沿いの道(これは現在一部しかない)を西に歩いて、ガード下まで行き、若宮大路を渡って行く。「寒さ」の「路の右は麥畑、左は汽車の線路のある二間ばかりの堤だつた。」というのは、この現在の大町四ツ角方面から西に歩いて行く地域の描写と考えてよい。すると、この直後に現れる『石炭殼などを敷いた路』で『爪先上りに踏切りへ出』た場所とは、下馬四つ角に向かう現在も踏切がある地点から、ガードの北側上の部分までがその範囲となる。但し、駅についた保吉がプラットホームを下り逗子方向の端まで行き、そこから二~三町先に踏切が見えるという描写が後に出てくる以上、現在のガードよりも上り方向に(ほとんど駅の近くに)本作品に登場する踏切が当時あったとは考えにくい(昭和初期の鎌倉の地図を見る限り、そのように判断される)。従ってこれは下馬四つ角に向かう踏切と同定してよいように思われる。ちなみに、現在の鎌倉駅のプラットホームの北の端から、この踏切までは丁度三百メートル、まさに二町半から三町弱の距離にある。――
さて、以上から、私はこのKさんの「畠」は、この道筋にあったものと考えるのである。そして……お気づきになったであろうか、彼らの住んでいたのは「小山別邸の借家」であった。「小山」が「こやま」ならば、頭文字は「K」なのである。……因みに、この龍之介の愛の巣の川を隔てた向かいに……実は私の父方の実家はあるのである(但し、そこへ藪野家が居住したのは龍之介の死後のことではある)。
「ポンポン・ダリア」《pompon dahlia》は和製英語ではない。正式なダリアの一品種の英名である。花は五センチ程の小形なもので、舌状花が管状で短く、それが重ね咲きになって全体に球状・毬状を呈する。色も赤や黄色など多様。
「ミノルカ種」《Minorca》はニワトリの卵用品種の一種。品種名は地中海のスペイン領メノルカ(ミノルカ)島産であることに由来する。体格は大型で、単冠黒色の黒色ミノルカが多い。]

       三 武さん

 たけさんは二十八歳の時に何かにすがりたい慾望を感じ、(この慾望を生じた原因は特にここに言はずともよい。)當時名高い小説家だつたK先生を尋ねることにした。が、K先生はどう思つたか、武さんを玄關の中へ入れずに格子戸越しにかう言ふのだつた。
 「御用向きは何ですか?」
 武さんはそこに佇んだまま、一部始終をK先生に話した。
 「その問題を解決するのはわたしの任ではありません。Tさんのところへお出でなさい。」
 T先生は基督キリスト教的色彩を帶びた、やはり名高い小説家だつた。武さんは早速その日のうちにT先生を訪問した。T先生は玄關へ顏を出すと、「わたしがTです。ではさやうなら」と言つたぎり、さつさと奧へ引きこまうとした。武さんは慌ててT先生を呼びとめ、もう一度あらゆる事情を話した。
 「さあ、それはむづかしい。……どうです、Uさんのところへ行つて見ては?」
 武さんはやつと三度目にU先生に辿り着いた。U先生は小説家ではない。名高い基督教的思想家だつた。武さんはこのU先生により、次第に信仰へはひつて行つた。同時に又次第に現世には珍らしい生活へはひつて行つた。
 それは唯はた目には石鹸や齒磨きを賣る行商だつた。しかし武さんは飯さへ食へれば、滅多に荷を背負つて出かけたことはなかつた。その代りにトルストイを讀んだり、蕪村句集講義を讀んだり、就中なかんづく聖書を筆寫したりした。武さんの筆寫した新舊約聖書は何千枚かにのぼつてゐるであらう。兎に角武さんは昔の坊さんの法華經などを筆寫したやうに勇猛に聖書を筆寫したのである。
 或夏の近づいた月夜、武さんは荷物を背負つたまま、ぶらぶら行商から歸つて來た。すると家の近くへ來た時、何か柔かいものを踏みつぶした。それは月の光に透かして見ると、一匹のひきがへるに違ひなかつた。武さんは「俺は惡いことをした」と思つた。それから家へ歸つて來ると、寢床の前に跪き、「神樣、どうかあの蟇がへるをお助け下さい」と十分ほど熱心に祈禱をした。(武さんは立ち小便をする時にも草木のない所にしたことはない。尤もその爲に一本の若木の枯れてしまつたことは確かである。)
 武さんを翌朝起したのはいつも早い牛乳配達だつた。牛乳配達は武さんの顏を見ると、紫がかつたびんをさし出しながら、晴れやかに武さんに話しかけた。
 「今あすこを通つて來ると、踏みつぶされた蟇がへるが一匹向うの草の中へはひつて行きましたよ。蟇がへるなどといふやつは強いものですね。」
 武さんは牛乳配達の歸つた後、早速感謝の祈禱をした。――これは武さんの直話ぢきわである。僕は現世にもかういふ奇蹟の行はれるといふことを語りたいのではない。唯現世にもかういふ人のゐるといふことを語りたいのである。僕の考へは武さんの考へとは、――僕にこの話をした武さんの考へとは或は反對になるであらう。しかし僕は不幸にも武さんのやうに信仰にはひつてゐない。從つて考への喰ひ違ふのはやむを得ないことと思つてゐる。 (昭和二・五・六)

[やぶちゃん注:「武さん」は室賀文武(むろがふみたけ 明治二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)。芥川の実父新原敏三の経営した牧場耕牧舎の使用人で、龍之介の子守なども経験している。後、行商・聖書会社等に勤務。無教会系のキリスト教に入信して内村鑑三に師事、一高時代に芥川と再会、その後も自死する直前まで芥川の相談に乗り、その過程でキリスト教への入信をも勧めている。「歯車」の「或老人」のモデルである。俳人として句集「春城句集」を出版した際には序を芥川に依頼している。
「K先生」未詳。室賀二十八歳というと、明治三十(一八九七)年であるから、当時、名高い小説家でイニシャル「K」というと、それこそ、紅・露、尾崎紅葉や幸田露伴が思い浮かぶが、後の二人の「先生」のキリスト教的絡みや同定候補者の関係からいうと、社会運動家にして作家でもあったキリスト者木下尚江を同定候補に出来るような気がするが如何?
「T先生」について筑摩書房全集類聚版脚注では、徳富蘆花を同定候補に挙げている。彼と木下尚江とは「平民社」解散後の「新紀元社」に加わり、大逆事件でも関係しているから、「K先生」=木下尚江説の有力候補とは言える。
「U先生」これはもう間違いなく内村鑑三である。
「蕪村句集講義」とは明治三十一(一八九八)年から八年余り、正岡子規(途中で死去)・内藤鳴雪・高濱虚子・河東碧梧桐らによって行われた天明四(一七八四)年高井几董編「蕪村句集」」による「蕪村句集講義」「蕪村遺稿講義」という輪読会から編まれた俳句評釈書。明治三十三(一九〇九)年から三年がかりで出版され、蕪村の再評価に功があった。
「(昭和二・五・六)」この一週間後の五月十三日、龍之介は改造社『現代日本文学全集』宣伝講演旅行に出発している。……彼の人生のタイム・リミットはもうすぐ目の前に近づいていた……]

□草稿
[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年七月発行の雑誌『春泥』に「仙人」として「紹介」された遺稿草稿。これは新全集によって「素描三題」の草稿であることが完全に判明した。底本は旧全集版代十二巻「雜纂」所収の「仙人」を用い、さらに新全集(こちらは『「素描三題」草稿』と明記する)で校訂、冒頭部分(はっきりと「素描三題」草稿と分かる前文末と標題)を補塡した。]

畠へころげこんだものは實は今汽車に轢かれた二十四五の男の頭だつた。
       三 仙  人
 この「仙人」は琵琶湖に近いO町の裁判官を勤めてゐた。彼の道樂は何よりも先に古い瓢簞を集めることだつた。從つて彼の借りてゐた家には二階の戸棚の中は勿論、柱や鴨居に打つた釘にも瓢簞が幾つもぶら下つてゐた。
三年ばかりたつたのち、この「仙人」はO町からH市へ轉任することになつた。家具家財を運ぶのは勿論彼には何でもなかつた。が、彼是二百餘りの瓢簞を運ぶことだけはどうすることも出來なかつた。
 「汽車に積んでも、馬車に積んでも、無事には着かないのに違ひない。」
 この仙人はいろいろ考へた揚句、とうとう瓢簞を皆括り合はせ、それを琵琶湖の上へ浮かせて舟の代りにすることにした。(その又瓢簞舟の中心になつたのはやはり彼の「掘り出して來た」遊行柳の根つこだつた。)天氣は丁度晴れ渡つた上、幸ひ風も吹かなかつた。彼はかういふ瓢簞舟に乘り、彼自身棹を使ひながら、靜かにみづうみの上を渡つて行つた。
 昔の仙人は誰も皆不老不死の道に達してゐる。しかしこの「仙人」だけは世間並みにだんだん年をとり、最後に胃癌になつてしまつた。何でも死ぬ前夜には細り切つた兩手をあげ、「あしたあたりはお目出度なるだらう。萬歳!」と言つたと云ふことである。しかし彼の遺言状は生死を超越しない俗人よりも更に綿密だつたと云ふことである。尤も彼の遺族たちはこの「仙人」の遺言状を一々忠實には守らなかつたらしい。のみならず彼の瓢簞を目當てに彼の南畫を習つてゐた年少の才子もない訣ではなかつた。從つて彼の愛してゐた彼是二百餘りの瓢箪は彼の一周忌もすまないうちにいつかどこかへ流れ出してしまつた。

[やぶちゃん注:本編を当初「三」にしていたものを、「武さん」に差し替えたのは何故か。またその草稿が、死後に雑誌『春泥』に流れたのは何故か。内容から見れば、芥川龍之介の末期の眼の感覚は「武さん」の存在によって遙かに昂まると言ってよい(但し、それは芥川龍之介の自死を知っている我々から見て、である)。「仙人」が「三」であったならばこのデッサンは、しかし、如何にも軽いデッサンとなって、標題に逆に相応しい。私は、研究者としては「武さん」は最重要だが、個人的には「素描三題」という小品としてなら、「三 仙人」という組み合わせを愛したい、と言っておこう。
「O町」「H市」筑摩書房全集類聚版では前者を『大津市か。』とし、後者に注して『彦根市か。但し市制は大津市が明治三十一年、彦根が昭和十二年だから、当時は市と町が逆』であるから、これは芥川が『恐らく故意に変えたのであろう。』と記すのであるが、この注は私にはやや不審ではある。そもそも『故意に変え』ねばならない意図が今一つ腑に落ちない。実在する元裁判官という謹厳実直なるべき職なればこそ、また揶揄した遺族への配慮を考えて、特定されることを憚ったからと言えなくもないが、私には芥川がそんな小手先を弄したとも思えないのである。但し、ではぴったりくる同定地はあるかというと、いろいろ考えてみたものの、これが、ない。「O町」は文字通り「琵琶湖に近」い町で、尚且つ「H市」は瓢簞舟の叙述から、やはり琵琶湖畔でなくては話が通じない。更に、この町と市は鉄道線で繋がっていなくてはならないのである。さすれば、やはり大津と彦根と考えざるを得ないのかも知れない。目から鱗の新同定地を見つけた方は、是非、御教授を乞うものである。
「遊行柳」栃木県那須郡那須町大字寺子丙にあったとされる。西行の「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」、芭蕉の「田一枚植えて立ち去る柳かな」で知られる歌枕の柳。謡曲などで人口に膾炙する。伝承では、奥州に巡った遊行上人(一遍)が、この柳に十念を授けて仏道に結縁させたという霊験あらたかな御神木である。
「あしたあたりはお目出度なるだらう」の「おめでたくなる」は「死ぬ」の忌み言葉。筑摩書房全集類聚版では「あしたあたりはお目出度になるだらう」とあり、これは恐らく筑摩版編者(若しくはその親本岩波全集の編者)が自分の感覚で「おめでたになる」と読み替えてしまった誤編集である。]