やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注 やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ
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やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注 



(編年編集及び注 copyright 2010 Yabtyan

 

[やぶちゃん注:以下は私が全くオリジナルに編年体形式で芥川龍之介の短歌を採録したものである。採録・編集過程は以下の順で行った。

(Ⅰ)岩波版旧全集第九巻及び第十二巻底本分

まず岩波版旧全集の、

・第九巻「詩歌」の「短歌」

及び次に続く、

・第九巻「詩歌」の「詩歌一」

に所収する生前公表された詩歌の内、短歌形式のものを拾い、またそこに併載された旋頭歌、

・「若人」(旋頭歌)

及び

・「我鬼抄」中に現れる「和歌十六首」

及び、これは既に私が作製公開したテクストと完全にダブるのだが、片山廣子への思いを綴った旋頭歌の絶唱、

・「越びと 旋頭歌二十五首」

と、大正十一(一九二二)年『文藝日本』に掲載した、

・「澄江堂雜詠」中の三首

を順次採録した。

以下、未発表群である「詩歌 二」の、

「我鬼窟句抄」の中に掲げられている二首

そして、底本の最後(掉尾「未定稿」の前)に配された「雜」に所収するところの、

・「蕩々帖」に散見される歌群

更に、

・「行燈之會第一集」

・「布佐行繪卷」

・「了中先生渡唐送別記念帖」

・「金澤にて」

の標題中の和歌を残らず採録、最後にその「雜」の末尾に、

書誌情報なしで載る三首(最終的に二首は「布佐行繪卷」群に吸収された)

迄、まずは総てを底本旧全集の順序に従って採録したテクストを作製、その上で、第十二巻「補遺」に示された、

「桐 (To Signorina Y. Y.)」

「砂上遲日」

の二篇を採録した。

 次に、

(Ⅱ)岩波版旧全集の昭和五八(一九八三)年第二刷「補遺」分

に載る一首を採録した。

その後、これら(Ⅰ)及び(Ⅱ)について、その書誌情報を元に、可能な限り(不明のものは推定で)編年順に整序編集した(以上については基礎底本として、原則として書誌情報を記す際、引用底本の明記をしていない)

 次に、

(Ⅲ)岩波版新全集第二十三巻底本分

(Ⅰ)(Ⅱ)と全くダブらない新資料である岩波版新全集第二十三巻「詩歌未定稿」パートの「短歌」パートを総て採録、以上(Ⅰ)(Ⅱ)の編年編集版の相当年月部分(不明のものは推定で)に挿入した(結果として多くが前半部に挿入されることとなった)。但し、私のポリシーに従い、恣意的に正字に直してある。また、(Ⅰ)の内、「布佐行繪卷」及び実はその一部であった「雜」の末尾に書誌情報なしで載る三首の内の後半の二首については、「布佐行繪卷」原資料に当たったこちらの方が正確であることが判明したので、こちらを底本に変更した。またこの底本は多くが各和歌を連続して並べてあり、行空きがないものが多い。それが原稿通りの表記であるものと思われるが、それでは如何にも鑑賞し難いので、私の判断で多くに空行を挿入してある

 次に、

(Ⅳ)岩波書店「芥川龍之介未定稿集」底本分

岩波書店一九六八年刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「短歌」から、原則、(Ⅰ)~(Ⅲ)に出現しないものを採録し、(Ⅰ)~(Ⅲ)採録分の相当年月部分(不明のものは推定で)に挿入することとしたが、葛巻氏の元としたものが(Ⅰ)~(Ⅲ)のソースとしたものと全く異なる可能性も考えられる(彼は多くの未公開芥川龍之介関連資料を所持していた)ので、相同歌があっても、前後に未見の短歌・未定稿・削除稿及び完全相同とは言えない相似歌が一つでも見られるものは、敢えてそのまま纏まった部分をソリッドに引用した箇所も多い(則ちダブって掲載している短歌があるということを御了解頂きたい)。因みに、この底本に挿入されている「○」や「×」の記号は、芥川のものではなく編者が配したもとも疑われるが、敢えてそのまま採用してある。

 次に、

(Ⅴ)岩波版新全集第一巻~第十八巻縦覧採録底本分

岩波版新全集第一巻~第十八巻編年体本篇部分を縦覧、芥川龍之介が生前に公開した(Ⅰ)から落ちている短歌形式のものを採録、(Ⅲ)(Ⅳ)同様に旧全集採録分の相当年月部分(不明のものは推定で)に挿入した。但し、やはり私のポリシーに従い、恣意的に正字に直してある。(Ⅳ)に示したのと同じ理由で、相同歌があっても、前後に未見の短歌・未定稿・削除稿及び完全相同とは言えない相似歌が一つでも見られるものは、敢えてそのまま纏まった部分をソリッドに引用した箇所がある(則ちダブって掲載している短歌があるということを御了解頂きたい)。なお、この作業中にその「後記」や「注解」で新たに知見した書誌情報その他を注に加えた。それが新全集の「後記」又は「注解」由来であることは注の中に明記してある。

 最後に各和歌群を明確にするために、間に私の記号、

   ■   ■   ■

を配した。

 以上が本頁「編年体やぶちゃん版芥川龍之介歌集」の作成過程である。(Ⅴ)が作業順序の最後に回っているのを奇異に思われる向きもあろうが、これは単に岩波版新全集の殆どを私が所持していないからに過ぎず、図書館から借りて縦覧するしかなかったためである(因みに言っておくが、私が新全集を買わない理由は、金が惜しいからではない。一言、「おぞましい」から、新字体採用という愚挙を許せないからである)。

 なお、総てについて、踊り字「/\」の濁点付きは正字に直した。

 一部に簡単な私の注を付した。原則として、最初に出現した語句にのみ附しているが、一部の注は恣意的に繰り返し附したものもある。

 相同歌や相似歌・類型歌の指摘は可能な限り行ったが、総てにそれを附すと五月蠅くなることに加え、連続体としての歌群で鑑賞を妨げると判断されるものもあり、時に後の注で纏めて指摘するに留めたものもある。ご容赦願いたい。

 実は私は元来、短歌形式が本質的に大の苦手である。俳句に比して何故か暗記出来ないし、しばしば見られるくだくだしい説明的なその属性がどうにも鼻につくと感じることが多いのである。従って、その注釈はとんでもない誤読をしている可能性もある。そうした部分を見つけられた方は、是非とも御指摘を頂戴したい。

 芥川龍之介の書簡・手帳及び色紙短冊等の断簡零墨を除いて、大体に於いて現在知られている芥川龍之介の代表的和歌の大部分を本頁に採録し得たものと思う。現在のところ、これだけの首数を蒐集した「芥川龍之介歌集」と大々的に名打った書籍やネット上の電子テクストは存在しない。纏まった形で読める編年体の私オリジナルの、「芥川龍之介歌集」をネット上に初めて提供出来たという多少の自負はある。将来は、私のやぶちゃん版芥川龍之介俳句全集」同様に、以上の未着手部分(特に書簡類には想像を絶するほど多量の未収録歌稿がある)からも採録し、「やぶちゃん版芥川龍之介全歌集」に近づけられれば、と考えている。

 ――そうして、本当に私が本頁を創りたかった意図――私の作製した、あの龍之介の愛した片山廣子の、あの短歌群に――コール・アンド・レスポンスするものに足るとしての芥川龍之介の歌群を示したい――という私の思いは、これで一先ず成就し得た。

 なお、本頁は私のブログの二四〇〇〇〇アクセス記念テクストとして作製したものである。【二〇一〇年八月十六日】

 「越し人」の注に片山廣子堀辰雄宛書簡の一部を引用し、解説を追加した。【二〇一〇年九月二十六日】

 「越し人」及び「柳田國男氏」の注に芥川龍之介宛書簡の一部を引用し、解説を追加した。【二〇一〇年十月三日】

 片山廣子の歌集群に合わせて本縦書版を作成した。ソロモン龍之介とシバ廣子の、そして僕と母の形見に。【二〇一一年七月二十四日】]

 

 

やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注

 

 

   落葉片々

 

夕日かげさびしく殘る枯野原行く旅人のさむげなる哉

 

うらゝかに朝日昇りて鳥なきて十戸の村の秋靜なり

 

堤一里夕の鐘にたそがれて時雨ふる中牛ひとつ行く

 

茅杉のむら立つ神の奧庭にをろがみなせば月さし上る

 

枯れ殘る尾花が末に山見えて夕霜しろし松の下道したみち

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(明治三十八、九年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。芥川龍之介満十三~十四歳、江東尋常小学校高等科卒業から府立第三中学校入学にかけての作。]

 

   ■   ■   ■

 

セセツシヨンの書棚買はむと思ひけりへりおとろぷに小雨ふる朝

 

硝子戸の靑みの外に小雨ふる書齋にひとり本をきるとき

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(明治四十二年)』の創作推定年が示されている。満十七歳、府立第三中学校四~五年生の頃の作。「セセツシヨン」は「セセッション風の」という意味で、“Wiener Secession”ウィーン分離派風の造形を施した書棚という意味と思われる。 ウィーン分離派は一八九七年(本邦では明治三十年)にウィーンでグスタフ・クリムトを中心に結成された新しい造形表現を目指した芸術家グループの呼称で、アール・ヌーヴォー等の影響下、世紀末的な官能退廃を孕みながら、モダン・デザインの新たな境地を開拓した。「へりおとろぷ」は“heliotrope”(ヘリオトロープ)で、ムラサキ科キダチルリソウHeliotropium peruvianum の英名。和名の漢字表記は「木立瑠璃草」。南アメリカ原産の小低木であるが、明治中期には本邦に移植されていた。高さは五十センチから二メートル程度、葉は楕円形で軟らかい毛に被われており互生する。「ヘリオトロープ」はギリシャ語の「太陽に向かう」に由来し、フランスでは「恋の草」と呼ばれる。花言葉も「献身的な愛」「熱望」である。]

 

   ■   ■   ■

 

   前稿所見

 

むらがれる朱き柘榴の花もよし落書き多き白壁もよし

 

[やぶちゃん注:「前稿所見」という詞書は意味不明である。もしかすると、これは誰かから託された他人の原稿若しくは歌稿(そこには群がっている朱い柘榴の花が描かれ、落書きの多い白壁が描写されていた)を読んだ感想、その依頼者への挨拶の一首ではなかったか? しかし、八首後ろには「ほの赤くうなだれてさく合歡もよし落書多き白壁もよし(路上)」とあり、これは路上に見た嘱目吟のようにも読まれる(その託された作品名・詞書が「路上」という題名だったという解釈は流石の私にも如何にも苦しい)。とすれば、これは旧歌稿を引き写したという意味か、又は旧歌稿を元に改作したことを意味する(そんな用法を私は知らないが)前書かも知れない。識者の御教授を乞う。]

 

かゝる子は戀にふさはずうたひつゝさびしく旅をゆくべかりけり

 

[やぶちゃん注:「ふさはず」の「ふさふ」は、「釣り合う。相応する。」の意。]

 

うら若き都人みやこびとはあり涙して温泉の燈に三味の音をきく(伊香保)

 

[やぶちゃん注:現在の芥川龍之介年譜情報の中に満十八歳の明治四三(一九一〇)年よりも前に伊香保を訪れた事実は見い出し得なかった。但し、この時期、芥川は頻繁に旅に出ている。因みに既知の伊香保滞在の初出は満二十一歳の時、第一高等学校卒業の直前、大正二(一九一三)年六月二十五日で、少なくともこの歌だけは「涙して温泉の燈に三味の音をきく」という大人びた諷詠から、その際の作歌と考えることも不可能ではない。]

 

    ×

 

旅と云ふこの一ことにもうるほひぬろまんちつくの少年の眼は

 

旅と云ふ旅はなつかしわけて云ふ若き二人の旅はなつかし

 

[やぶちゃん注:この時期の年譜上の二人旅として明記されるのは、明治四二(一九一〇)年八月七日から十四日迄の山本喜誉司との静岡方面への旅がある。山本喜誉司(明治二五(一八九二)年~昭和三八(一九六三)年)は芥川の府立第三中学校時代の同年の親友であり、また後に芥川の妻となる塚本文の母方の叔父に当たり、芥川と文の縁結びの神でもあったが、芥川の山本宛書簡は旧全集にあっても八十通を越え、そこには多分に同性愛的な感情が示されている点にも注意する必要がある。]

 

旅人よいづくにゆくやはてしなく路はつゞけり大空の下

 

    ×

 

古着屋の店にさげたるベに絽のきれ虫ばめるまゝに秋たけにける

 

[やぶちゃん注:「絽」は「ろ」と読む。捩織(もじりおり:縦糸を絡めて横糸を通すために間隙が生ずる透き間の多い織り方。)で織られた薄く透き通った夏用の絹織物。]

 

  不二 裾野にてうたへる

 

一しきり花白蘭の風にほふ木挽の小屋に鶯をきく

 

[やぶちゃん注:「花白蘭」は双子葉植物綱モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属 Magnoliaの一種を指しているものと思われるが、同定不能。花白蘭という語のイメージに最も近いのはモクレン科ミケレア属ギンコウボク Michelia alba(銀香木・ハクギョクラン・中国名白蓮花)であろうが、インドネシア原産で植生分布から可能性は薄いものと思われる。モクレンの花と富士山を詠んでいることから、これは高い確率で明治四二(一九〇九)年四月初旬の静岡行のものである。]

 

    ×

 

ほの赤くうなだれてさく合歡もよし落書多き白壁もよし(路上)

 

忘れざり樺の落葉のほの白く裾野に咲ける野薔薇ばらの花も

 

旅人は涙流しぬ落葉松の林の中の鳩の聲にも

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(明治四十二、三年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。最後の三首の中に「樺」が読み込まれるている。これを白樺ととれば、明治四二(一九〇九)年十月二十六日から二十八日までの、日光方面への府立第三中学校修学旅行中の吟詠と読める。とすれば、芥川龍之介満十七歳の作となる。]

 

   ■   ■   ■

 

鶉なく高麗の榛原君行かば徐に行け高麗の榛原

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(明治四十四年)』の創作推定年が示されている。「高麗」は「こま」で、高句麗のことか(歴史的想像句と採るなら)。「榛原」は「はりはら」と読み、双子葉植物綱ブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica の茂った森林のこと。ヨーロッパ各地・朝鮮・ウスリー・満州及び日本全国に分布する。本邦では低地や湿地に自生し、樹高は十五メートルから二十メートルにまで成長する。十二月から二月の冬期に地味な小さい花をつける。植生分布からは地名としての朝鮮半島「高麗」に相応しい。この歌は「万葉集」に使用されるような「うづら鳴く故りにし郷」のイメージから、エキゾチックに「高麗」を引き出したものか。埼玉県日高市の旧地名という解釈も可能だと思うが、現在の芥川龍之介年譜情報の中に明治四四(一九一一)年前に同地を訪れた情報は見出し得ない。ずっと後年、芥川の死後、『越し人』片山廣子の歌にも「高麗」が現れる(歌集『野に住みて』)。

むかし高麗びと千七百九十九人むさし野に移住すとその子孫かわれも

……それはこの二人の赤い糸ででもあったのかも知れない――。]

 

   ■   ■   ■

 

ことなきに何かは足らぬふみを前にひとり冷えたる茶をのみにけり

 

夕すむや莖の高をゆく風の隱岐にかよふと誰かしるべき

 

[やぶちゃん注:「隱岐」が持ち出される理由は不明。配流された後鳥羽上皇や後醍醐天皇のイメージを含ませた歴史的仮想歌か。歌の悲壮感なら言えば、勿論、そこで崩御した前者となろう。]

 

あからひく晝の光にとぶ蠅も君のへを戀ふ乙女子はうべ

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正一、二年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。最後の初句の「あからひく」は天体気象の「日」「朝」等にかかる枕詞であるから、「晝」の枕詞として用いているものと考えてよい。]

 

   ■   ■   ■

 

  さすらへる都人の歌

            Lucio Antonio

    Ⅰ

 

黑船のとほき燈にさへ 若う人は

 涙おとしぬ 戀の如くに

 

    Ⅱ

 

海はいま 青き眶をしばたゝき

 靜に夜を待てるならじか

 

    Ⅲ

 

海雲のたなびくはてをまもりつゝ

 もの思ふよりさびしきはなし

 

    Ⅳ

 

君が家の緋の房長き燈籠も

 今かほのかにともしするらむ

 

    Ⅴ

 

初夏の都大路の夕あかり

 ふたゝび君とゆくよしもがな

 

    Ⅵ

 

かなしみは 君がしめたる 其宵の

 印度更紗の帶よりや來し

 

    Ⅶ

 

初戀のうすら明りに しのび來る

 黑髮の子のありとしらずや

 

    Ⅷ

 

      わが宿の翁の云ひける 二首

 

さばかりに ものな思ひそ もろうどよ

 杏竹桃もさきにけらずや

 

戀はげに病の如し 年ふれば

 癒ゆるならひぞ さなうれひそね

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿より。この「Lucio Antonio」という署名は芥川龍之介の変名と思われる。旧全集書簡番号一〇七の大正二(一九一三)年九月十七日(推定)附山本喜誉司宛書簡(ここにはこの頁にない多量の短歌群を見出せる)の末尾に「ANTONIO」の署名が見られる(因みにその後に宛名として山本喜誉司のことを「DON JUANの息子へ」と呼称している)。因みに「Lucio Antonio」から即イメージされる著名人物は作曲家Antonio Lucio Vivaldiアントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディである。大正三(一九一四)年夏に執筆されたものと推測され、この内、「黑船の」「海はいま」「君が家の」「初夏の」「かなしみは」の五首は、ほぼ相同(字配は大きく異なる)のものが、後に掲げる大正三(一九一四)年九月発行の『心の花』に「柳川隆之介」の署名で掲載された「客中戀」に含まれている。Ⅱの「眶」は「まぶた」と読ませると考えてよいであろう。古くは原義「目縁」の意で「まぶち」と読むが、芥川龍之介は「羅生門」で「眶(まぶた)」と読ませている。「靜に夜を待てるならじか」とは『落ち着いて静かに夜が更けるのを待っていることなんど出来ぬというのか』の意味か。ちょっと読みに自信がない。識者の御教授を乞う。Ⅵの「印度更紗」は「インドさらさ」と読む。ポルトガル語“saraça”に由来。主に木綿の地に人物や花鳥獣類の模様を多色で染め出したもの。室町時代末期にインドやジャワなどから舶載されるようになり、国内でも生産が始まった。直接染料で模様を描く描(か)き更紗や、型を用いて捺染(なっせん)したものなどがある。十六世紀末のインドで極上多彩の木綿布を“saraso”また“sarasses”と呼んだところからの名という。印花布。花布(以上「印度更紗」の注は「大辞泉」の記載を参照した)。]

 

   ■   ■   ■

 

 思慕巴調 Leiden des jünger Werthers

 

あそび女の人形もいとゞかなしかり

 君をおもへば 江戸をおもへば

 

若人は樓に上りぬ 高麗船を

 のぞむがごとく 君をのぞむと

 

いく山河さすらふよりもかなしきは

 都大路をひとり行くこと

 

かなしみは 君がしめたる其宵の

 印度更紗の帶よりや來し

 

初夏の都大路の夕あかり

 再 君とゆくよしもがな

 

君が家の緋の房長き燈籠も

 今かほのかにともしするらむ

 

初戀のうすら明りにしのび來る

 黑髮の子のありと知らずや

 

十とせへて再君を見てしより

 夢みそめたる心ならなく

 

うらわかく きよく さびしきWERTHER

 戀がたりよりわりなきはなし

 

かはたれの春のちまたにゆきかへる

 かの沙室びとは如何にしつらむ

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿より。標題は底本後記の記載により、「思慕巴調」が抹消され、標記題に変更されている雰囲気を示した。「巴調」は「はてう(はちょう)」で、巴州(現在の四川省)の巴人が歌った卑賤な俗揺の謂いであるが、ここではそこから派生した自作の「思慕」という詩への謙遜表現の接尾語的用法であろう。「Leiden des jünger Werthers」は1774年に刊行されたゲーテの「若きウェルテルの悩み」(正しいドイツ語表記は“Die Leiden des jungen Werthers”)。因みに読みであるが日本では慣習的に「ウェルテル」と訳されて人口に膾炙しているが、実際のドイツ語による発音は「ヴェルター」若しくは「ヴェアター」がより近い。そのように発音して読むのも一興であろう。「高麗船」は「こまぶね」と読む。その謂いはよく分からないが、操舵法も形も和船とは異なった高麗船を見るように――その見たこともない美しさへの――驚きで「君をのぞむ」との謂いであろうか。この歌群の「初夏の」「君が家」「かなしみは」「初戀の」の四首は、ほぼ相同のものが前掲した「さすらへる都人の歌」に載るが、その順序は異なっている。更に「いく山河」「かなしみは」「初夏の」「君が家の」の四首は、ほぼ相同(字配は大きく異なる)のものが、後に掲げる大正三(一九一四)年九月発行の『心の花』に「柳川隆之介」の署名で掲載された「客中戀」に、順序を変えた形で含まれている。とりあえずここに配しておくが、これらは、もしかすると大正三(一九一四)年夏の千葉一宮にまで作歌時期を進ませることが可能かも知れないとも考えてはいる。掉尾の「沙室」は諸注にもなく、読みも意味も不明である(芥川龍之介による誤記の可能性も否定出来ない)。砂漠の岩窟に穴居する民若しくは流浪の砂漠の民のイメージか? 識者の御教授を乞う。]

 

   ■   ■   ■

 

 紫天鵞絨

 

やはらかく深紫の天鵞絨をなづる心地か春の暮れゆく

 

[やぶちゃん注:「天鵞絨」は「びろうど」と読む。ビロード、ベルベットのこと。ポルトガル語“veludo”やスペイン語“velludo”に由来する綿・絹・毛を素材にパイル織という特殊な織り方をした光沢に富む織物。]

 

いそいそと燕もまへりあたゝかく郵便馬車をぬらす春雨

 

ほの赤く岐阜提燈もともりけり「二つ巴」の春の夕ぐれ(明治座三月狂言)

 

[やぶちゃん注:「二つ巴」は歌舞伎の外題。木村円次作「増補双級巴」(ぞうほふたつどもえ)のこと。幾つかのピカレスク石川五右衛門を扱った作品の名場面を繋ぎ合わせた狂言。岩波版新全集第一巻の清水康次氏の注解に、昭和三(一九二八)年歌舞伎出版部刊の木村錦花「明治座物語」によれば、当時、日本橋久松町にあった明治座では大正三(一九一四)年三月に「増補双級巴」他を公演している、とある。]

 

戲奴ジヨーカーの紅き上衣に埃の香かすかにしみて春はくれけり

 

[やぶちゃん注:「戲奴ジヨーカー」“joker”道化師。筑摩全集類聚版脚注ではトランプのジョーカーとするが、採らない。]

 

なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れゆく

 

[やぶちゃん注:底本後記によれば、掲載された『心の花』では、

 

なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れにけり

 

となっているとあり、『小型版全集に據り改む。』とあるのであるが、そう改めた根拠が全く示されていない。これはおかしな校訂である。短歌の苦手な私でさえ初読時――「暮れゆく……暮れゆく」とは拙いな――と感じた。字余りであっても断然、「暮れにけり」の方がいい。私はこちらを芥川の真作と採るものである。]

 

春漏の水のひゞきかあるはまた舞姫のうつとほき鼓か(京都旅情)

 

[やぶちゃん注:「春漏」は春の漏刻(水時計)の滴る音の意。ただ、この時期の直前には京都行の事実を見出し得ない。直近は五年前の東京府立第三中学校五年生の満十七歳の折り、明治四二(一九〇九)年の一月一日から一週間の京都・奈良旅行である。その折の回想吟か。]

 

片戀のわが世さみしくヒヤシンスうすむらさきににほひそめけり

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集第一巻もこの表記であるが、その新全集第一巻後記によれば、底本は

 

片戀のわが世さみしくヒヤシンスうすむらさきににほひうめけり

 

とあるのを改めたとする。この改訂も根拠が示されていない。一見、「そ」は「う」の誤植のようには見える。しかし原稿に当たったのでないとすれば、「埋めけり」の可能性を完全排除は不可能であろう(勿論、私は響きとしては「染めけり」を支持するが)。「ヒヤシンス」は「冷やし」を掛けるか。なお、岩波版新全集第一巻清水氏注解によれば、木俣修の評論「白秋と龍之介」によれば、これは北原白秋が同年大正三(一九一四)年一月二十五日に刊行した歌集「桐の花」の「ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日」などに拠る、と記す。確かにこの「紫天鵞絨」全体の詩想が相当に白秋を意識したものであることは疑いない。]

 

戀すればうら若ければかばかりに薔薇さうびの香にもなみだするらむ

 

麥畑の萌黄天鵞絨芥子けしの花五月の空にそよ風のふく

 

五月來ぬわすれな草もわが戀も今しほのかににほひづるらむ

 

[やぶちゃん注:「にほひづるらむ」は「匂ふ」+「連(つ)る」の連濁で、一緒に匂ってくるようだという意か。]

 

刈麥のにほひに雲もうす黄なる野薔薇のかげの夏の日の戀

 

うかれ女のうすき戀よりかきつばたうす紫に匂ひそめけむ

 

[やぶちゃん注:以上、大正三(一九一四)年五月発行の『心の花』に「柳川隆之介」の署名で掲載。]

 

   ■   ■   ■

 

 桐 (To Signorina Y. Y.

 

君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける

 

君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落椿ぞも

 

廣重のふるき版畫のてざはりもわすれがたかり君とみればか

 

いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしへし桐の花はも

 

病室のまどにかひたる紅き鳥しきりになきて君おもはする

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集第一巻清水康次氏注解によれば、吉田弥生(後注参照)は、父の勤務する東京病院の構内に住んでいたとある。年譜上もこの時期、芥川が入院した事実はない。]

 

夕さればあたごホテルも灯ともしぬわがかなしみをめざまさむとて

 

[やぶちゃん注:「あたごホテル」愛宕ホテル。岩波版新全集第一巻清水康次氏注解によれば、『愛宕(現在の港区愛宕)にあったホテル。付属施設として展望の優れた五階建ての愛宕塔があった』とあり、芥川龍之介の恋人吉田弥生(後注参照)が住んでいた東京病院構内(後注参照)からは数百メートルの近隣であったと記されている。この愛宕塔なるものについては、港区みなと図書館昭和五六(一九八一)年刊の「写された港区」に明治二二年『の末、愛宕館という旅館兼西洋料理店が開業し、そばに五階の愛宕塔が建てられた。八年後に愛宕館のほうは廃業したが、愛宕塔だけは大正まで残った。高さは十丈、煉瓦作りで、石柱八本で支えてあった。形は八稜、中に螺旋形の階段があり、塔の上に備えつけの遠眼鏡をのぞくと、遠くは浅草の十二階あたり、眼の下は芝の海岸で潮干狩りしているのが見えたという。』とある(東人氏のブログ「東人雑記:上海の平野勇造 その5 帰国した勇造」より孫引き。因みにこの平野勇造という方がこの愛宕塔の設計者である)。]

 

草ひろの帷のかげに灯ともしてなみだする子よ何をおもへる

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集第一巻では、底本は上記の通りであるが、

 

草いろの帷のかげに灯ともしてなみだする子よ何をおもへる

 

と改めたとし、「草いろ」の方を本文掲載している。「草いろ」の誤植であろう。]

 

くすり香もつめたくしむは病室の窓にさきたる洎芙藍の花

 

[やぶちゃん注:「洎芙藍」は「サフラン」と読む。但し、これは明らかに観賞用のもので、所謂、薬用やスパイスとして知られる真正のサフランCrocus sativus ではない。被子植物門単子葉植物綱ユリ目アヤメ科クロッカス属 Crocus の別名であろう。クロッカス類は「花サフラン」若しくは単に「サフラン」とも呼称するからである。岩波版新全集第一巻清水康次氏注解には、山敷和男の評論『芥川の短歌「桐」について』によれば、これは北原白秋が同年(大正三(一九一四)年)一月二十五日に刊行した歌集「桐の花」の「つつましき朝の食事に香をおくる小雨に濡れし洎芙藍の花」などに拠る、と記す。確かに「紫天鵞絨」同様、この「桐」全体の詩想・言葉遣いはやはり白秋を強く意識したものと言える。なお、先の「病室の」の私の注も参照のこと。]

 

青チヨオク ADIEU と壁にかきすてゝ出でゆきし子のゆくゑしらずも

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集第一巻清水康次氏注解によれば、情痴歌集として騒がれた明治四三(一九一〇)年刊の吉井勇の名歌集「酒ほがひ」の「わがひとり ADIEUアデイユと云ひて戸を出でぬきさらぎの夜のみぞれのなかに」などに拠る、とされる。加えて私には、これは当時の無声フランス映画の中の一場面を詠んだものではなかったか、と疑わせるものである。]

 

その日さりて消息もなくなりにたる風騷の子をとがめたまひそ

 

[やぶちゃん注:「風騷の子」の「風騒」は詩文を作ること、または詩文を味わい楽しむことを言う語。「風」は「詩経」国風の意、「騒」は「楚辞」中の絶唱「離騒」篇を指す。両者が詩文の模範とされたことによる故事成句。勿論、芥川自身を指す。]

 

いととほき花桐の香のそことなくおとづれくるをいかにせましや (四・九・一四・)

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年五月発行の『帝國文學』に「柳川隆之介」の署名で掲載された。最後の日付は大正三(一九一四)年四月九日を意味するものと思われる(「十四」の後の「・」は新全集第一巻で補訂した)。「Signorina Y. Y.」の「Signorina」はでイタリア語“signorina”(シニョーラ)で、「~嬢」「令嬢・お嬢さん」の未婚女性の意。「Y. Y.」は芥川龍之介の本格的な初恋の相手であった吉田弥生である。彼女は同年の幼馴染み(実家新原家の近所)であった(父吉田長吉郎は芝区愛宕町(現在の港区西新橋)にあった東京病院の会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた)。芥川龍之介は大正三(一九一四)年五月当時二十三歳(満二十二歳)で、この二ヵ月後の七月二十日頃から八月二十三日にかけては、友人らと共に千葉県一宮海岸にて避暑し、専ら海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して二度目のラブレターを書いて、その後、正式に結婚も申し込んでいる。しかし乍ら、この話は養家芥川家の猛反対にあい、翌年二月頃に破局を迎えることとなる。吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系)、弥生が同年齢であったこと等が主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があった)。岩波新全集第二十四巻の宮坂覺氏の年譜によれば、大正四(一九一五)年四月二十日頃、陸軍将校と縁談が纏まっていた弥生が新原家に挨拶に来たが、丁度、実家に訪れていた芥川は気づかれぬように隣室で弥生の声だけを聞いたとあり、また四月の末、弥生の結婚式の前日、二人が知人宅で最後の会見をしたともある。鷺只雄氏は河出書房新社一九九二年刊の「年表作家読本 芥川龍之介」(上記記載の一部は本書を参考にした)で、『この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられ』たと記す。正にこの弥生への強烈な恋情の炎の只中に書かれたのが、避暑から帰った直後の大正三(一九一四)年九月一日『新思潮』に発表した「青年と死と」であり、破局後の大正四(一九一五)年四月一日に『帝国文学』発表したのが、かの作家級軍艦芥川船出の一篇、「ひよつとこ」である。その後、その傷心を慰めるための親友井川恭(後に恒藤姓)の誘いによって、同年八月三日から二十三日まで井川の故郷松江を訪れた際、後に「松江印象記」となる「日記より」が書かれることとなる。本歌群は正に弥生への思慕抑え難き頂点にある絶唱群と言える(リンク先は総て私の電子テクスト)。]

 

   ■   ■   ■

 

 薔薇

 

すがれたる薔薇さうびをまきておくるこそふさはしからむ戀の逮夜は

 

[やぶちゃん注:「逮夜」は「たいや」と読む。仏教で葬儀の前夜や忌日の前夜を言う語。「戀の逮夜」について岩波版新全集清水康次氏注解によれば、明治四三(一九一〇)年刊の吉井勇の「酒ほがひ」の「いかにせむわれらいづれとうち惑ふ戀のうたげが戀の逮夜か」に拠る、とされる。]

 

香料をふりそゝぎたるふし床より戀の柩にしくものはなし

 

にほひよき絹の小枕クツサン薔薇色の羽ねぶとんもてきづかれし墓

 

[やぶちゃん注:「小枕クツサン」はフランス語の“coussion”でクッションのこと。]

 

夜あくれば行路の人となりぬべきわれらぞさはな泣きそ女よ

 

其夜より娼婦の如くなまめける人となりしをいとふのみかは

 

わが足にあぶらそゝがむ人もがなそを黑髮にぬぐふ子もがな(寺院にて三首)

 

[やぶちゃん注:「寺院」は言わずもがな、教会、内容も言わずもがな、マグダラのマリア(又は混同されるベターニアのマリア)の事蹟を比喩としたもの。]

 

ほのぐらきわがたましひの黄昏をかすかにともる黄蠟もあり

 

[やぶちゃん注:「黄蠟」は「わうらふ(おうろう)」と読み、蜜蠟で作った蠟燭のことを言う。]

 

うなだれて白夜の市をあゆむ時聖金曜の鐘のなる時

 

ほのかなる麝香の風のわれにふく紅燈集の中の國より

 

[やぶちゃん注:「麝香」は「じやかう(じゃこう)」と読む。香料の一つ。哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ属 Musk deer(一科一属)のジャコウジカ類の麝香腺(♂の成獣の陰部と臍の間にある嚢)から♀を誘因させる液体を分泌する。麝香はその分泌物を乾燥したもので古くより漢方で強精・強心・鎮痙薬などに用いる。ムスク。「紅燈集」「紅燈」は花街。これは岩波版新全集第一巻清水康次氏注解によれば、明治四三(一九一〇)年刊の吉井勇の「酒ほがひ」の「撓髪たはがみと聲とをほこり日も紅燈集のなかにすむひと」など拠る、とある。因みに後年になるが、吉井勇は大正五(一九一六)年に「東京紅燈集」という歌集もものしている。その冒頭には「紅燈行」の章が配され、

  紅燈のちまたに往きてかへらざるひとをまことのわれと思ふや(吉井勇)

  世を恨みわがおとづるる紅燈のちまたに住めば君も悲しき(吉井勇)

  いたづらに世をいきどほり紅燈にゆくをおろかとみづからも知る(吉井勇)

  紅燈のひとつふたつに誘はれて放埒の子となりにけるかな(吉井勇)

  秋かぜはつれなやこよひつくづくとわれの凝視むる紅燈をふく(吉井勇)

  寂しければ紅燈も見る君もみるはかなき戀のなりゆきも見る(吉井勇)

といったズバリ「紅燈」歌群が並ぶ(芥川龍之介の歌と勘違いされることを虞れ、各歌の末尾に「(吉井勇)」と置いた)。なお、この「紅燈集」という表現は何らかの書名であるように思われるが、同定し得なかった。]

 

かりそめの涙なれどもよりそひて泣けばぞ戀のごとくかなしき

 

うす黄なる寢臺の幕のものうくもゆらげるまゝに秋は來にけむ

 

薔薇よさはにほひな出でそあかつきの薄らあかりに泣く女あり  (九・六・一四)

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年七月発行の『心の花』に「柳川隆之介」の署名で掲載された。この日付は大正三(一九一四)年六月九日を意味する。次の「砂汀日午」の後注も参照のこと。]

 

   ■   ■   ■

 

 砂汀日午

 

うつゝなきまひるのうみは砂のむた

 雲母きらゝのごとくまばゆくもあるか

 

[やぶちゃん注:「砂のむた」の「むた」は形式名詞で連体格を示す助詞「の」を頭に伴って「~とともに」の意を示す。]

 

八百日ゆく遠の渚は銀泥ぎんでい

 水ぬるませて日にかゞやくも

 

[やぶちゃん注:「八百日」は「やほか」と読む。「万葉集」巻四の第五九六番歌の笠女郎の相聞歌、

八百日行く濱のまなごも我が戀にあにさらじか沖つ島守

○やぶちゃんの現代語訳

長く遠い永遠に続く砂浜――その真砂を一粒ずつ総て数えたとしても――決して私の一途な恋の思いの、その果てしなさには叶うはずがないわ――そうでしょう? 沖の島の島守さま?

を元とするか。「銀泥」は白泥びゃくでいとも言い、本来は銀粉をにかわで溶いた顔料で、書画などに用いるもの。ここはハレーションする海原の色を言う。]

 

きらゝかにこゝだ身ぢろぐいさゝ波

 砂になむとするいさゝ波

 

[やぶちゃん注:「こゝだ」は副詞で程度の甚だしいさま。]

 

日の光空にゆらげどまかゞよふ

 水はゆらがずもだしけるかも

 

[やぶちゃん注:「まかゞよふ」の「ま」は接頭語で強調、「かゞよふ」はちらちらと光り輝くの意。なお、ここ間には底本では有意な空行があるので下に一行入れてある。「もだす」は「黙(もだ)す」。]

 

 

光輪は空にきはなしはろばろと

 弘法麥の葉は照りゆらぎぬ

 

[やぶちゃん注:「弘法麥」は単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギCarex kobomugi。かなりよく発達した砂浜海岸に植生する代表的海浜植物である。]

 

ころぶせば弘法麥は眼先まなさき

 かそけく白く照りゆらめくも

 

[やぶちゃん注:「ころぶせ」は転び臥すの意。岩波版新全集詩歌未定稿はここで終わっている。以下の二首は「芥川龍之介未定稿集」より採録。但し、「芥川龍之介未定稿集」には標題の「砂汀日午」はなく(後掲する類似別歌稿にこの題を附す)、この前には例の「○」記号と前の二首「光輪は」と「ころぶせば」が一行書きで記されているのみである。]

 

    ×

 

マロニエよいくたび君とそのもとをゆきかへりつゝふめる落葉ぞ

 

[やぶちゃん注:「マロニエ」はフランス語の“marronnier”で、双子葉植物綱ムクロジ目トチノキ科トチノキAesculus turbinataのこと(因みに厳密にはフランスで言うマロニエは近縁種のヨーロッパ産のセイヨウトチノキ Aesculus hippocastanumで種が異なる)。街路樹として多く用いられる。初夏に葉の間から穂状の花序が伸びだし、円錐状に高く立ち上がる。花は白又は薄い紅色である。秋になると、直径が三~五センチ程の表面に凹凸のある果実が樹下に沢山落下する。]

 

うす月に乙女ら今かまてるあが耳に來てさゝやくDONJUANあり

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿及び「芥川龍之介未定稿集」より。底本後記によれば、大正三(一九一四)年か大正四(一九一五))年の作と推定されている。「うつゝなき」「八百日ゆく」「きらゝかに」の三首は相同歌(字配は異なる)が後掲する大正四(一九一五)年二月発行の『未来』の「砂上遅日」に掲載されている。最後の「芥川龍之介未定稿集」所収の二首の末尾には編者による『(大正三年夏、上総一の宮滞在時代 未発表)』の創作推定年が示されている。有名な上総一の宮館での避暑時の作とするこの見解には、私はその歌柄からも十分納得出来る同定と感じられる。大正三(一九一四)年、東京帝国大学一年生で二十三歳(満二十二歳)であった芥川龍之介は、七月二十日頃から八月二十三日迄、友人らと共に千葉県一宮海岸にて避暑し、専ら海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して二度目のラブレターを書いて、その後、正式に結婚も申し込んでいる。漱石の「心」が『朝日新聞』に連載された、あの時である。「DONJUAN」は「ドンファン」とスペイン語で読んでいると思われる。先に注したように旧全集書簡番号一〇七の大正二(一九一三)年九月十七日(推定)附山本喜誉司宛書簡(ここにはこの頁にない多量の短歌群を見出せる)の末尾に自ら「ANTONIO」と署名し、山本喜誉司のことを「DON JUANの息子へ」と呼称しているが、必ずしも山本に同定して読む必要はないであろう。]

 

   ■   ■   ■

 

  砂汀日午

 

うつゝなきまひるのうみは砂のむた雲母きらゝのごとくまばゆくもあるか

 

きらゝかにこゝだ身じろぐいさゝ波砂になむとするいさゝ波

 

日の光空にゆらげどまかゞよふ水はゆらがずもだしけるかも

 

うつそみの女人眠むとまかゞよふ巨海こかいは息をひそむらむかも

 

[やぶちゃん注:「うつそみの」は「現身」で、本来、「いも」や「人」に掛かる枕詞であるから、ここは「女人」の枕詞。「巨海」は大海原のこと。]

 

まかゞよふ巨海こかいを前にうつそみの女人は砂にねむるなり

 

[やぶちゃん注:底本では最後の「まかゞよふ」の末尾に編者による『〔けり?〕』という補塡が加えられているが、排除した。「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正七、八年頃 未発表)』の創作推定年が示されているが、前掲と題名も同じで、冒頭の三首が相同歌であり、「まかがよふ」の語を用いた連作群と考えられ、ここに配するのが至当であると判断した。]

 

   ■   ■   ■

 

ほのぼのとのぼるココアのゆげよりもゆくへさだめぬ戀をするかな

 

あが友はなまけて居るらむ香靑かあをなる沖津玉藻ののらりくらりと

 

ひとりなくこのさびしさを誰かしるこのうれしさを誰かしる

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正二、三年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。最終歌の終句は五音で止まっているため、底本では『〔ママ〕』表記がある。葛巻氏は大正二、三年頃と推定されているが、私は夏には相応しくない第一首を除いて(従って順列からは、これは大正二(一九一三)年冬頃の作か、少なくとも後ろの二首は大正三(一九一四)年夏の上総一の宮滞在の際の歌のように思われてならない。葛巻氏はだからこそ、前の歌群の直後にこの三首を配したのではないか。そこで私もこの位置に配することとした。]

 

   ■   ■   ■

 

 客中戀

 

初夏の都大路の夕あかりふたゝび君とゆくよしもがな

 

海は今青き眶をしばたゝき靜に夜を待てるならじか

 

君が家の緋の房長き燈籠も今かほのかに灯しするらむ

 

都こそかゝる夕はしのばるれ愛宕ほてるも燈をやともすと

 

黑船のとほき燈にさへ若人は涙落しぬ戀の如くに

 

幾山河さすらふよりもかなしきは都大路をひとり行くこと

 

憂しや戀ろまんちつくの少年は日ねもすひとり涙流すも

 

かなしみは君がしめたる其宵の印度更紗の帶よりや來し

 

二日月君が小指の爪よりもほのかにさすはあはれなるかな

 

何をかもさは歎くらむ旅人よ蜜柑畑の棚によりつゝ

 

ともしびも雨にぬれたる甃石しきいしも君送る夜はあはれふかゝり

 

ときすてし絽の夏帶の水あさぎなまめくまゝに夏や往にけむ (ⅤⅠⅠⅠ ⅩⅠ ⅩⅠⅤ)

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一三)年九月発行の『心の花』に「柳川隆之令」の署名で掲載されるが、目次は正しく「柳川隆之介」とある(この誤植は岩波版新全集第一巻後記の記載に拠った)。題名の「客中戀」とは「旅中の恋の思い」の謂い。先般より記して来た通り、当時二十三歳(満二十二歳)の芥川龍之介は大正三(一九一四)年七月二十日頃から八月二十三日にかけて、友人らと共に千葉県一宮海岸にて避暑し、専ら海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して二度目のラブレターを書いて、その後、正式に結婚も申し込んでいる。最後の日付は恐らく「Ⅷ  ⅩⅣ」であって大正三(一九一四)年八月十一日を意味する。これらこそ、正真正銘、完全確実なる、正に千葉県一宮海岸にての吉田弥生への恋情告白歌群なのである。「愛宕ほてる」は愛宕ホテル。前出。岩波版新全集第一巻清水康次氏注解によれば、『愛宕(現在の港区愛宕)にあったホテル。付属施設として展望の優れた五階建ての愛宕塔があった』とあり、芥川龍之介の恋人吉田弥生(後注参照)が住んでいた東京病院構内(後注参照)からは数百メートルの近隣であったと記されている。以下、前注参照のこと。その他の相同・相似歌及び語注は先行する「さすらへる都人の歌」及び「思慕巴調 Leiden des jünger Werthers」本文及び注を参照のこと。最後の一首の「絽」は捩織(もじりおり:縦糸を絡めて横糸を通すために間隙が生ずる透き間の多い織り方。)で織られた薄く透き通った夏用の絹織物のこと。「水あさぎ」は色名で水浅黄。浅黄色(青味がかった葱の色からきた色名で緑のやや薄い青)の更に薄い黄味のある青緑色で水色に近い色である。]

 

   ■   ■   ■

 

   金縷歌(旋頭歌試作)

 

いとせめて泣くべく人を戀ひもこそすれ黄蠟の涙落すと燃ゆる如くに

 

戀ひぬれば戀はゆるゝ事のあらずともよしつかの戀にすつべき若人の身は

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。「金縷」は「きんる」と読み、金色の糸の意。「黄蠟」は「わうらふ(おうろう)」と読み、蜜蠟で作った蠟燭のことを言う。末尾に編者による『(大正三年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。「旋頭歌」は頭を同じように反復して旋(めぐ)らすような歌という意味で、下三句が上三句と同じ句形を反復するところから名付けられた和歌形式の一体。五・七・七・五・七・七の六句三十八音を定型とする。片歌(五・七・七の三句十九音からなる和歌形式の一体。古く多くは問答に用いられた)の唱和を起源とするとされ、記紀・万葉集などに見えるが、近世以降では作歌例は極めて稀である。芥川龍之介の旋頭歌群はそうした近代和歌・詩歌史上、稀有の実作例・成功例としても銘記されねばならない。「ゆるゝ事」はラ行下二段活用「許る」の連体形で、許される事、認められる事の意。後掲する「若人」の初案か。一首目は「若人」に相同歌がある。]

 

   ■   ■   ■

 

飜譯をしつゝかなしも冬ざれし

 硝子戸の外に籔柑子見ゆ

 

飜譯をわがする午の雪曇り

 つぶらに赤く籔柑子見ゆ

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿より。底本では編者による仮題「飜譯を」が附されている。底本後記によれば、大正三(一九一四)年か大正四年の作と推定されている。「籔柑子」は双子葉植物綱サクラソウ目ヤブコウジ科ヤブコウジ Ardisia japonica。冬に赤い果実をつける。同じヤブコウジ科の百両(カラタチバナ)や万両(マンリョウ)と並び称して十両とも呼ばれる。古くから品種改良が行われた園芸種であるが、明治期にも大流行した。この時期の「冬」の翻訳とすればAnatole Franceアナトール・フランスの“BALTHASAR”か。これは大正三(一九一四)年一月十七日に第三次「新思潮」創刊号のための原稿であり、芥川龍之介にとって一つの大きなエポックとして認識出来る。何故なら――今も昔も編年体芥川龍之介全集の巻頭を飾る作品は――この「バルタザアル」であるからである。]

 

   ■   ■   ■

 

 若人 (旋頭歌)

 

うら若き都人こそかなしかりけれ。

失ひし夢を求むとまちを歩める。

 

マロニエの花もひそかにさけるならじか。

夢未多かりし日を思ひ出でよと。

 

たはれ女のうつゝ無げにも靑みたる眼か。

かはたれの空に生まるゝ二日の月か。

 

しのびかに黑髮の子の泣く音きこゆる。

初戀のありとも見えぬ薄ら明りに。

 

さばかりにおもはゆげにもいらへ給ひそ。

緋の房の長き團扇にかくれ給ひそ。

 

なつかしき人形町の二日月はも。

若う人の涙を誘ふ二日月はも。

 

いとせめて泣くべく人を戀ひもこそすれ。

黄蠟の涙おとすと燃ゆる如くに。

 

湯沸器サモワルの湯氣もほのかにもの思ふらし。

我友の西鶴めきし戀語りより。(Kに)

 

ほゝけたる花ふり落す大川楊おほかはやなぎ

水にしも戀やするらむ大川楊。

 

香油よりつめたき雨にひたもぬれつゝ。

たそがれの銀座通をゆくは誰が子ぞ。

 

戀すてふ戲れすなる若き道化は。

かりそめの涙おとすを常とするかも。

 

何時となく戀もものうくなりにけらしな。

移り香の(憂しや)つめたくなりまさる如。            (Ⅸ ⅩⅤ Ⅴ)

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年十月発行の『心の花』に「柳川隆之介」の署名で掲載された。最後の日付は大正三(一九一四)年九月十五日を意味する。「たはれ女」芸妓のこと。「人形町」現在の中央区蠣殻町辺りの地名で、旧日本橋区。ウィキの「日本橋人形町」によれば『江戸期に堺町と葺屋町が現在の日本橋人形町三丁目の人形町通り西側にあり、歌舞伎小屋の中村座と市村座があった。また、薩摩浄瑠璃(薩摩座)や人形芝居(結城座)も行われていた。一般には人形遣いが多く住んでいたから人形町と名付けられたとされている』とある。また、『江戸時代においては、人形町は通りの名で大坂町、島町、住吉町、和泉町、堺町、芳町がこの通りに面していたが、』昭和八(一九三三)年『に正式にこれらの町名が「人形町」という町名に変更された』とあり、芥川の用法は、その繁華な通りを示す旧来の用い方である。「湯沸器(サモワル)」。ロシア語の“самовар”(サモワール)で金属製の湯沸器のこと。「Kに」芥川の親友で考えられるのは、久米正雄か恒藤恭(「つねとうきょう」の「きょう」)か。「西鶴めきし戀語り」の実体験を持つ人物とすれば、漱石の娘筆子との一件で知られる前者が濃厚。吉田弥生恋情篇決定稿の一つ。]

 

   ■   ■   ■

 

 海邊消光

 

金の日のしづくにぬれてぬばたまの

 鴉は潟に潮あみてけり

 

日輪の砂にしづむをおろがむと

 鴉は潮はあむるならじか

 

圓光は砂にうすづく入日とぞ

 はしぼそ鴉たてりけるかも

 

[やぶちゃん注:「はしぼそ鴉」スズメ目カラス科カラス属ハシボソガラスCorvus corone。森林や都市部を生息域とするハシブトガラスCorvus macrorhynchosに比すと相対的に小さく、嘴が細くて上嘴があまり曲がっておらず、額(嘴の上)が出っ張らない。海浜・河川敷・農耕地などの開けた環境に棲息する。英名“Carrion Crow”は「死肉を食らうカラス」を意味するが、実際には植物質を好む(以上はウィキの「ハシボソガラス」を参照した)。]

 

くれのこる砂山のべの夕鴉

 すぢりもぢりとあゆみけるはや

 

[やぶちゃん注:「すぢりもぢり」は「捩り捩り」と書く副詞で、曲がりくねっているさま。また、ひねくれているさま。また、身体をひねってくねらせる様子を言う。]

 

天霧ふ海のかなたにもゆる火は

 おちかたびとのかなしみならむ

 

[やぶちゃん注:「天霧ふ」は「あまきらふ」と読む。「霧(きら)ふ」は「霧(き)らふ」という連語で、動詞「霧(き)る」に上代の継続の助動詞「ふ」が付いたもの。霧が一面に立ちこめている、の意。「おちかたびと」正しくは「をちかたびと」。「遠方人」で遠くの方にいる人、遠方の人、又は旅人の謂いであるが、ここは両方、旅人である作者と遠方の恋人の二重の謂いであろう。]

 

かきくらし霧ふる海のいやはてに

 人間は山を燒きにけるかも

 

[やぶちゃん注:「かきくらし」は「掻き暗す」で他動詞。空を曇らし、暗くする。雨や雪・霧が、空が暗くなるほど強く降るの謂いであるが、そこから、心を暗くする、悲しみにくれるの意が派生する。ここは両意が掛けられている。]

 

砂山の根白はますげほそぼそと

 夕びかりする根白はますげ

 

    逗子の海濱に薄暮をむかへたる日の七日を記せむがためにわがつくれる歌

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿及び「芥川龍之介未定稿集」より。底本後記によれば、大正三(一九一四)年十一月に逗子へ赴いた際の作と推定されている。同年十一月中旬に芥川が赴いた先は、成瀬正一一家の別荘ではないかと新全集の宮坂覺氏の年譜にはある。最後の詞書は「芥川龍之介未定稿集」に従い、一行で表示した。最後の一首の「根白」は「ねじろ」と読み、流水や潮風に洗われた草木の根が白いことを言う古語。「はなすげ」は「浜菅」で単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属ハマスゲCyperus rotundus。よく海辺や河原に生える。高さ二十~三十センチ。葉は堅く線形で、夏から秋にかけて茎の頂きに細い苞(ほう)を数枚伸ばし、その中心部から穂を出す。これらは既に吉田弥生との破局直後の傷心の孤独感が色濃く陰を落としている詩想である。]

 

   ■   ■   ■

 

 砂上日暮

 

金の日のしづくにぬれてぬばたまの

 鴉は海に潮あみてけり

 

日輪の砂にしづむをおろがむと

 鴉は潮をあむるならじか

 

夕日空とほくかげろふはてにこそ

 あが窠もあれと啼ける鴉か

 

潮けむりきらふ入日にいむかひて

 さびしきかもよ鴉なき居り

 

入りつ日の金光明こんくわうみやうをいたゞきて

 すぢりもぢりと鴉あゆめり

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿より。底本後記によれば、大正三(一三一四)年か大正四年の作と推定されているが、「金の日の」「日輪の」が「海邊消光」の完全な相同歌である点から、「海邊消光」と同じ大正三年十一月に逗子へ赴いた際の前稿別稿と推定する。「窠」は「巣」と同義で「す」と読んでいる。]

 

   ■   ■   ■

 

 砂上遲日

 

うつゝなきまひるのうみは砂のむた雲母きらゝのごとくまばゆくもあるか

 

八百日ゆく遠の渚は銀泥ぎんでいの水ぬるませて日にかゞやくも

 

きらゝかにこゝだ身動みぢろぐいさゝ波砂になむとするいさゝ波

 

いさゝ波れも出でねと高天たかあめゆ光はちゞにふれり光は

 

光輪くわうりんは空にきはなしその空の下につどへるあま少女はも

 

むらがれる海女あまらことごと恥なしと空はもだしてかゞやけるかも

 

うつそみの女人眠るとまかゞよふ巨海こかいは息をひそむらむかも

 

莊嚴しやうごんの光の下にまどろめる女人の乳こそくろみたりしか

 

いさゝ波かゞよふきはみはろばろと弘法麥の葉は照りゆらぎ

 

きらゝ雲むかぶすきはみはろばろと弘法麥の葉は照りゆらぎ

 

雲の影おつるすなはちふかぶかと弘法麥は青みふすかも

 

雲の影さかるすなはちはろばろと弘法麥の葉は照りゆらぎ

 

[やぶちゃん注:大正四(一九一五)年二月発行の『未來』に「柳川隆之介」の署名で掲載された。全体に確信犯的ハレーション気味の吉田弥生恋情篇決定稿の一つ。]

 

   ■   ■   ■

 

もなりさの畫像の下にひとりゐてものおもふ子をわすれたまふな

 

十とせへて再君をみてしよりゆめみそめたる心ならなく

 

人妻の中の一人に君をしも數ふ可き日の近づきにけり

 

美しき人妻あらむかくてあゝわが世かなしくなりまさるらむ

 

かなしかるをみなは空を仰ぎつゝ春來にけりとつぶやきにけり

 

    ○

 

山はみなうす藍色にすみて見ゆ白桔梗さく高原の朝

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正三年頃 未発表)』の創作推定年が示されているが、「人妻」という粘着的用語及び「春來にけりとつぶやきにけり」という表現からは、吉田弥生の結婚(四月下旬)前、大正四(一九一五)年年初若しくは結婚直前に秘かに最後に二人が邂逅したとされる折りかその直後の傷心の歌群ではなかろうかと私は推測する。]

 

   ■   ■   ■

 

初戀のうすら明りにしのびくる黑髮の子のありとは知らず

 

    ×

 

うつゝなき目見なりしかも久方の莖に春とつぶやけるかに

 

閻浮提にひとりの人を戀ひてしばいきのいのちのをしけくもなし

 

[やぶちゃん注:「閻浮提」は「えんぶだい」と読む。梵語“Jambu-dvīpa”の漢訳語。仏教で言う人間世界、現世の謂い。]

 

春ふかき目見かなしもよいきの緒にその目見すらをほりてなげくも

 

[やぶちゃん注:「いきの緒に」は、魂(たま)の緒、命を意味し、転じて「息の続く限り、命をかけて」の意である。「ほる」は「惚る」で「心を失う程に恋焦がれる、夢中になる」の意。]

 

夕よどむ空もほのかに瓦斯の灯のともるを見れば戀まさりける

 

    ×

 

     Ⅰ

 

うきびとははるかなるかも猫柳ひかれる空にあさ東風こちはふき

 

あさ東風こちはふきやまなくにわか艸のゑやし人妻あをこふらむか

 

     Ⅱ

 

あぶら火の光にそむきたどたどといらへする子をあはれみにけり

 

    ×

 

うき人ははるかなるかも瘤柳こぶやなぎ光れる空に朝東風あさごちはふき

 

[やぶちゃん注:「瘤柳」は双子葉植物綱ヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属のコリヤナギSalix koriyanagi又はイヌコリヤナギSalix integra二月頃、ネコヤナギSalix gracilistylaを小さくしたような羽毛を持った花を咲かせる。]

 

夕あかり下泣ける子の黑髮をたまさぐりつつ幾ときかへし

 

[やぶちゃん注:「たまさぐり」の「た」は強意・調子を整える接頭語。]

 

マロニエの木ぬれもいゆく洋傘かうもりもあさらに光る雨はふりつも

 

[やぶちゃん注:「もいゆく」は「萌えゆく」の転訛か。]

 

ほのぼのと赤らひく頰にさゆらげるまつげのかげのわすれかねつも

 

かげろひのほのかにうるほふ眼をふせてあひよりにけり命も細く

 

ひとりゆく韮畑かみらばたけの夕あかりかみらかなしもがひとりゆく

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正四年頃 未発表)』の創作推定年が示されているが、私には吉田弥生への恋慕の情の高まりから、カタストロフまでを通した、前年大正三(一九一四)年初めから大正四年にかけての吉田弥生恋情歌群と捉えられる。「韮」の「かみら」とは単子葉植物綱クサスギカズラ目ネギ科ネギ属ニラAllium tuberosumのこと。ウィキの「ニラ」(記号の一部を変更した)に『「古事記」では加美良(かみら)、「万葉集」では久々美良(くくみら)、「正倉院文書」には彌良(みら)として記載がある。このように、古代においては「みら」と呼ばれていたが、院政期頃から不規則な転訛形「にら」が出現し、「みら」を駆逐して現在に至っ』たとする。「か」音の畳み掛けの効果を狙っている。ニラの花を描写していないから(描写していれば夏)、この歌の季節は春であろう。]

 

   ■   ■   ■

 

うつつなく光いざよふ五月野さつきぬ

 青き曇りに人もこそ泣け

 

[やぶちゃん注:「五月野さつきぬ」の「」という読みは「万葉集」などに現れる「」の上代東国方言である。]

 

とをどをに青野あをぬもくもるうれひぞと

 音をのみなける雨蛙かも

 

五月野の青きにほひを蒸す光

 いざよふ中に蛙こそなけ

 

あをあをと光いざよふ五月野を

 蛙こそ鳴けつばら□□□□

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿より。底本では編者による仮題「五月野」が附されている。また、末尾「□□□□」部分は底本では『〔以下不明〕』とあるが、恣意的に表記のように変えた。底本後記によれば、葛巻義敏氏の「芥川龍之介未定稿集」の情報として、大正四(一九一五)年頃の作という推定が示されている。但し、「芥川龍之介未定稿集」では「□□□□」部分が以下のように示されて存在している。

 

あをあをと光いざよふ五月野を蛙こそ鳴けつばらつばらと

 

「つばらつばらと」は、「思う存分。十二分に。」という意味であり、私にはこの完成形の短歌の真筆性は高いと思う。]

 

   ■   ■   ■

 

    ×

 

たまゆらに空ははれつゝその空の高處にきゆる秋の雲はも

 

[やぶちゃん注:「高處」は「たかど」と読む。]

 

五百重雲むかぶすほてに一すじのうみのひかりをまもりぞわがする

 

[やぶちゃん注:「五百重雲」は「いほへぐも(いおえぐも)」と読む。幾重にも重なった雲。]

 

八百日ゆくとほの渚は銀泥ぎんでいの水ぬるませて日にかゞやくも

 

[やぶちゃん注:この一首は既に前掲されている「砂汀日午」所収歌と相同。]

 

    ×

 

ちゞにふる光になれて一もとの棕櫚はたうとくうちもだすかも

 

あか/\としづむ夕日になみだしてひとり穗麥をかるをとこあり

 

かなしみは穗麥のごとしかりとりしあとよりおちぼのかぞへかねつも

 

    わが宿の翁の云ひける 二首

 

さばかりにものなおもひそまらうどよ夾竹桃のさきにけらずや

 

戀はげに病の如し年ふれば癒ゆるならひぞさなうれひそね

 

[やぶちゃん注:この詞書と二首は既に前掲されている「さすらへる都人の歌」の「Ⅷ」と相同であるから、この計五首はその部分抽出による改稿か転用と思われる。]

 

    ×

 

ひざまづきわがおろがめばひえびえといのちの空に光さす見ゆ

 

かすかなる影と光とほのめけるいのちの空に目ざめけるかも

 

    ×

 

たうとかる命としれば日もすがらうつゝとわかぬいめをわが見る

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正四年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。岩波版新全集詩歌未定稿に相当歌が多数あるが、後期吉田弥生恋情篇の一群としては特異的であるから、ここに置くこととする。「ひざまづき」の歌の「おろがめば」はママ。正しくは「をろがめば」。最後の「たうとかる」の歌中の「いめ」は「夢」の古語である。「ゆめ」は平安時代以降の読みである。]

 

   ■   ■   ■

 

枕べの藤のり花ほのぼのと

 檢温表にさき垂りにけり

 

はるかなる人を偲びて日もすがら

 藤の垂り花わが見守るはや

 

ほのぼのとこひしき人の香をとめば

 藤はひそかに息づきにけれ

 

[やぶちゃん注:「とめば」の「とめ」は「む」で、捜し求めるの意。]

 

うすくこくにほへる藤の花がくり

 障子の□に塵おける見ゆ

 

[やぶちゃん注:「障子の□に塵おける見ゆ」の「□」部分は底本では『〔一字欠〕』とあるのを表記のように変えた。「棧」か。]

 

うつゝなきひたやごもりに藤の花

 花つみにつゝわが戀ふるなる

 

[やぶちゃん注:「ひたやごもり」とは「直屋隠り」で、ひたすら家内に引きこもっていることを言う。]

 

うき人はいづちゆくらむひえびえと

 夕さく藤はほのかなるかも

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿より。底本では編者による仮題「藤の花」が附されている。底本後記によれば、相似歌が大正四(一九一五)年五月十三日附井川恭宛書簡に見えることから、大正三年か大正四年の作と推定されている。]

 

   ■   ■   ■

 

    ERLEBNIS

 

かすかなる光のごとくしのび來て、やがて去りたるよろこびもあり

 

    ×

 

かなしくもなまめかしけれはつはつにふれし指ゆかよひくる春

 

[やぶちゃん注:「はつはつに」副詞で、僅かに、幽かにの意。]

 

夏の日をにくむもかなし放埒の薄ら明りをよろこべる子は

 

    ○

 

あが友はなまけて居るらむ香靑かあをなる沖津玉藻ののらりくらりと

 

[やぶちゃん注:これは既に前掲されている「芥川龍之介未定稿集」の『(大正二、三年頃 未発表)』歌と相同。]

 

香にいでて道灌山の嫁菜うはぎさくいつしか春日となりにけらずや

 

[やぶちゃん注:「嫁菜」は双子葉植物綱キク目キク科シオン属ヨメナAster yomena若しくは同属類。秋に薄紫や白い花をつける野菊の類の総称としても古来から用いられている。]

 

夕かけて木の芽も春の雨ふると都大路はかなしきものか

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正三、四年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。標題の「ERLEBNIS」はドイツ語で「エアレーブニス」と発音し、「体験」の意である。後期吉田弥生恋情傷心篇の一群の一つである。]

 

   ■   ■   ■

 

   山陰松江から

 

山本の一もとすゝきうなかぶしさしぐみにつゝわが行けるはや

 

[やぶちゃん注:「うなかぶし」は「項傾(うなかぶ)す」で首を傾ける。うなだれるの意。]

 

この和布香にきくらくは八雲たつ出雲の海のあかつきの音

 

香を高みこれの和布はわが庵に大わだつ海の霧呼ばんとす

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正四年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。吉田弥生への失恋の傷心を慰めるため、親友井川恭(後に恒藤姓)の誘いによって、大正四(一九一五)年八月三日から二十三日まで井川の故郷松江を訪れた際の歌。この時の再生体験を元に後に「松江印象記」となる「日記より」が書かれることとなる。恒藤恭(つねとうきょう 旧姓井川(いがわ) 明治二十一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年)は法学者。芥川一高時代からの無二の親友。小説家を目指して上京したが後に京都大学法学部に転じたが、芥川の勧めで第三次『新思潮』にジョン・M・シングの“Riders to the Sea”(「海への騎者」)を翻訳寄稿したりしている。恒藤は同京大大学院を退学後、同志社大教授を経て、京大教授に就任したが、思想弾圧事件として知られる昭和八(一九三三)年の瀧川事件で退官、大阪商科大に転任。戦後は、大阪商科大学学長・大阪市立大初代学長を務めた。芥川の三男也寸志の名は彼の「恭」をもらっている(リンク先は私の電子テクスト)。]

 

   ■   ■   ■

 

  わが友の前にさゝぐ そは このわが友のみ知る
  べく又知らざるべからざるわがかなしみをうたへ
  ばなり わが心 いたく 賤しく 且けがれたれ
  ど われはわが友のそをゆるすべく あはれむべ
  きを信ぜんとす 一切を忘れしむるものは 時な
  り されど その時を待つ能はざるをいかに わ
  れは忘却を感能に求め 感能はわれに悲哀をあた
  へたり
 

烏羽玉の夜空の下に ひそ/\と

 せぐゝまりつゝ行く男あり

 

夜のほどろ 盜みもせなく ひそ/\と

 爪をかみつゝ わが行けるはや

 

[やぶちゃん注:「ほどろ」の「ろ」は状態を表わす接尾語で、夜明けの始まる頃の意の上代語。]

 

まばゆくも燈火あまたゆれゆるゝ

 この町内まちぬちにいつか入りけむ

 

見上ぐれば 夜空はとほし この町に

 燈火ひくゝちりばへるかも

 

くらき夜のこのもかのもに聲ありて

 我をぐこそかなしかりけれ

 

[やぶちゃん注:「このもかのも」あちらこちら。そこここ。]

 

夜をひとり さびしく歩むわがすがた

 うつけたればか 女笑へる

 

唇の赤き女は ながし

 われを嘲むとわらひけらずや

 

夏の夜はけねとうたふ淸元の

 三味をめ來しわれならなくに

 

人泣くとうたがひにつゝ 來て見たる

 茶屋の二階の騷ぎ唄はも

 

小ざかしく 卷煙艸吸ふ唇の

 うすくつめたく ゆがみけるあはれ

 

和蘭陀ゆわれは來にけむとばかりに

 このOIRAN見守みもりけるかも

 

[やぶちゃん注:「OIRAN」は勿論、「花魁」の意。]

 

夏の夜をつめたくゆらぐ銀絲にも

 わがかなしみはいやまさりけり

 

薄唇 醜かれども しかれども

 しのびしのびに 口りにけり

 

これやこの新吉原の小夜ふけて

 辻占賣の聲かよひ來れ

 

見すまじきものなりければ 部屋ぬちの

 うすくらがりを めづる女か

 

かすかなる猫の聲すと さりげなく

 窓のを見て つぶやきにけり

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿はここで終わっている。以下の四首は「芥川龍之介未定稿集」より補った。]

 

あそび女の人形もいとゞかなしかり唇をおもへば江戸をおもへば

 

[やぶちゃん注:旧作「思慕巴調 Leiden des jünger Werthers」に相似歌がある。]

 

若人は樓に上りぬ高麗船をのぞむがごとく君をのぞむと

 

[やぶちゃん注:「思慕巴調 Leiden des jünger Werthers」に相同歌がある。]

 

たはれ女のうつゝなげにも靑みたる眼かかはたれの空に生まるゝ二日の月か

 

[やぶちゃん注:「若人」にほぼ相同の歌がある。]

 

ほの白く夕の露臺にふる雨もあり若人の上にふる雨もあり

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿及び「芥川龍之介未定稿集」より。岩波版新全集詩歌未定稿では編者による仮題「烏羽玉の」が附されている。底本後記によれば、大正四(一九一五)頃の作と推定されている。「芥川龍之介未定稿集」でも末尾で編者は『(大正四年頃 未発表)』としている。これをここに置いたのは主に推定年と歌柄からであるが、偶然、その作業中に「平塚に與ふる」の前にこれを配してみて、私はこの「わが友」とは平塚逸郎(いちろう)であるというほぼ確信に近いものを、今、強く感じている(「平塚に與ふる」の私の注を参照のこと)。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、大正四年の四月末に吉田弥生と陸軍将校が結婚(婚姻届は五月十五日)してから、厭世的になった芥川は自棄傾向を強め、吉原遊廓へ足繁く通った。五月中旬には著しく体調を崩し、結核を疑って週に二回程の通院が翌月まで続いた、とあるが、まさにその時期若しくは直後の作品と思われる。]

 

   ■   ■   ■

 

翠鳥そにどりの靑き帶していそいそと市路いちぢをゆくがつねなりし人

 

[やぶちゃん注:「翠鳥」はブッポウソウ目カワセミ亜科カワセミAlcedo atthisのこと。「そにどり」は「鴗」でカワセミのと古名。脱線するのだが――翡翠は芥川にとって因縁の鳥、因縁の語であると私は思う。――何故なら井川恭(後に恒藤姓)との思い出の記は――「翡翠記」――芥川が後に運命の女となるとは知らず歌評を書いた片山廣子の処女歌集の名は「翡翠」だからである――。]

 

あさぼらけ黄楊つげの小櫛をおさへさすさかし少女はいづちゆきけむ

 

かぎろひのほのかにうるふ眼をふせてとも云はなくよりてけらずや

 

ほのぼのとさにづらふ頰にゆらめける睫毛のかげのわすれかねつも

 

[やぶちゃん注:「さにづらふ」は、接頭語「さ」+「」+「つら」+動詞化する接尾語「ふ」で、賞味美するという意。「紐」「黄葉もみぢ」「いも」「色」「君」「わが大王おほきみ」等に掛かる枕詞であるから、ここは恋人の美しい「頰」を引き出す枕詞としてよい。]

 

うき人ははるかなるかもしくしくに木の芽はる雨橡にふれども(街上)

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正四年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。次の「平塚に與ふる歌」の初稿と思われ、これは私は大正五(一九一六)年初頭の可能性の方が強いと考える(「平塚に與ふる歌」の私の注を参照のこと)。最終歌の「しくしくに」は、しきりに、の意。]

 

   ■   ■   ■

 

 平塚に與ふる歌

 

   初冬一首

 

ほのぼのとくれなひ濃うすかぶもあり

 種子たねこが島にうすじもはふり

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」では「くれなゐ」とルビ。勿論、歴史的仮名遣では「くれなゐ」が正しい。「種子が島」は幾らなんでも種子島ではあるまい。不詳である。平塚の結核療養先であった千葉県大原の沿岸域にある小島の名か? 識者の御教授を乞う。]

 

   消閑一首

 

霸王樹の花にさける鉢のべに

 小刀ないふの錆をわが落すかも

 

[やぶちゃん注:「霸王樹」は「さぼてん」と読む。]

 

   女一首

 

翠鳥そにどりの青き帶してすがし

 みなかろがろと市路いちぢゆくなり

     フイルハアモニイの會ありける日 そこに
     つどはんとていそぐ女をみてよみつ

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」では「いそぐ」が「いくそ」とあるが、誤植であろう。この「フイルハアモニイの會」は、もしかすると芥川龍之介の「あの頃の自分の事」の「四」に現れる「フイル・ハアモニイ會」ではないか。「十一月もそろそろ末にならうとしてゐる或晩、成瀨と二人で帝劇のフイル・ハアモニイ會を聞きに行つた。行つたら、向うで我々と同じく制服を着た久米に遇つた。その頃自分は、我々の中で一番音樂通だつた。と云ふのは自分が一番音樂通だつた程、それ程我々は音樂に縁が遠い人間だつたのである。が、その自分も無暗に音樂会を聞いて歩いただけで、鑑賞は元より、了解する事もすこぶる怪しかつた。……(中略)……当夜は閑院宮殿下も御臨場になつたので、帝劇のボックスや我々のゐるオオケストラ・ストオルには、模樣を着た奥さんや御孃さんが大分方々に並んでゐた。……(以下略)』(引用は岩波版旧全集を用いた)。この演奏会については新全集第四巻の松本常彦氏の注解によって岩崎小弥太の出資で結成された東京フィルハーモニー会の帝国劇場に於ける演奏会であることが同定されており、更にこれは実際には大正四(一九一五)年十二月十二午後一時半に開催された御大典奉祝行事の一つであったことが示されている。この御大典奉祝行事とは同年十一月十日に大正天皇即位の御大典の祝賀行事を指す(御大典は明治四二(一九〇九)年発布された登極令によって前天皇の喪が明けた年の初冬に即位式と大嘗祭を組み合わせて行うとある)。この同定が正しいとすれば、後掲する「芥川龍之介未定稿集」の明治四三(一九〇九)年成立説は完全に否定されることになる。]

 

   四首

 

かゝれとてはゝその母は生みにけむ

 かなしみにのみわが生くるなる

 

[やぶちゃん注:「はゝそ」は「母」に掛けて言う語で意味はない。]

 

夕燕そらにきえたれその空の

 もとにかなれは病みてあるらむ

 

[やぶちゃん注:「たれ」は、接続助詞「ば」を伴わないで順接の確定条件の偶然条件(~と、……)を示す已然形の上代の用法。]

 

かなしみのつきむすべなみ日もすがら

 紅燈集をよみぞわがする

 

[やぶちゃん注:「紅燈集」前出。「紅燈」は花街。これも明治四三(一九一〇)年刊の吉井勇の「酒ほがひ」の「撓髪たはがみと聲とをほこり日も紅燈集のなかにすむひと」などに拠るもの。前にも記したが、吉井勇の大正五(一九一六)年の歌集に「東京紅燈集」があるが、年代が合わない。この「紅燈集」という表現は何らかの書名であるように思われるが、同定し得なかった。]

 

すこやかにわれはありとヘ靑杉に

 したゝりやまぬわが涙はも

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿はここで終わっている。以下の二首は「芥川龍之介未定稿集」にのみにあるもの。底本には歌末尾に『〔消〕』とある。これは編者の補注で、この歌が取り消し線で削除されたことを意味しているものと思われる。そのように表示してみた。]

 

    ×

 

このいのちいみぢかれどもしかれどもなげうちぬべき

 

さゆりばなゆりもあはむと思ひしをいく年月かすぎにけむか

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿及び「芥川龍之介未定稿集」より。表記法が二者で異なるが、写真版原資料を素材とした前者の上句・下句の分かち書きを採用、後者では主に正字を確認したが、そこに附された岩波版新全集詩歌未定稿にない二種の不完全歌稿も採録した。底本後記は大正四(一九一五)年頃の作、「芥川龍之介未定稿集」では末尾に『(明治四十三年頃、未発表)』の創作推定年と入れ、双方、見解を異にしているが、私はそのどちらも当たっていないと判断する。その理由はまず、「翠鳥の」の注で示した事実から、大正四年では作歌時期が残りたった十八日間に限定されてしまう不自然さがある点である。更にもう一つの根拠は「平塚」という献歌された人物の事蹟にある。現在、この「平塚」なる人物は、府立三中時代の同級生である平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)に同定されている。結核のため、夭折した芥川の親友で、その外見風貌は芥川のよく似ていた美少年であったらしい。芥川龍之介は大正十四(一九二五)年二月発行の『中央公論』に発表した「學校友だち」(大見出し「我が交友録」)の最後に彼を挙げ、次のように綴っている(引用は岩波版旧全集を用いた)。

平塚逸郎 これは中學時代の友だちなり。屢僕と見違へられしと言へば、長面痩軀なることは明らかなるべし。ロマンティツクなる秀才なりしが、岡山の高等學校へはひりし後、腎臟結核に罹りて死せり。平塚の父は畫家なりしよし、その最後の作とか言ふ大幅の地藏尊を見しことあり。病と共に失戀もし、千葉の大原の病院にたつた一人絶命せし故、最も氣の毒なる友だちなるべし。一時中學の書記となり、自炊生活を營みし時、「夕月に鰺買ふ書記の細さかな」と自ら病軀を嘲りしことあり。失戀せる相手も見しことあれども、今は如何になりしや知らず。

大正十五(一九二六)年発表の小説「彼」では、一作をまるごと、彼へのオードとして捧げている(リンク先は注を附した私のテクスト)。本歌群はこの小説「彼」に示された平塚の従妹(彼の実質上の保護者であった叔父の娘。小説では「美代ちやん」と呼ばれている)失恋――同時に芥川龍之介自身の吉田弥生との破局をも――を慰撫するものと思われるが、問題は「夕燕そらにきえたれ/その空の下にか汝は病みてあるらむ」の歌にある。ここでは明らかに「汝」=平塚は既に結核に罹患し入院している事実を踏まえているとしか思われないが、新全集の宮坂覺氏編になる年譜を見ると、平塚の入院を知るのは大正五(一九一六)年一月二十七日夜のことである(芥川龍之介の「手帳1」によるとある。なお、その翌日二十八日には早くも千葉の病院に彼を見舞っている。芥川の平塚への並々ならぬ友情が感じられる事実である)。即ち、少なくとも、この「夕燕」の歌は大正五(一九一六)年一月二十七日以降にしか作り得ない歌と考えるのである。従って私は本歌群を大正五年一月末若しくはそれに近い以降の作と同定するものである。平塚への詞書部分は「芥川龍之介未定稿集」の字配を採用した。]

 

   ■   ■   ■

 

なづみ來て漁村に入れば網庫あじろぐら白楊どろほそぼそと花つけにけり

 

[やぶちゃん注:「なづみ」は悩む、病むの意。「白楊」は双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ヤナギ目ヤナギ科ヤマナラシ属ドロノキPopulus maximowiczii のこと。主に内陸の川岸や湿地近くに植生。四月から六月にかけて、葉が開く前に雄花が伸び、長さ五~十センチの暗紫緑色の尾状の花序となって垂れ下がる。雌花はもっと伸びて二十センチ程になり、七月から八月にかけて熟して裂けると、中から白い綿毛のある小さな種子を出す。]

 

夕すめるうすら明りに白楊どろの花こゝだひえびえさきてけらずや

 

白楊どろの木は夕すむ空にたまきはる命もほそく花つけてけり

 

たまきはる命もほそく白楊どろの木は夕すむ空に花つけてけり

 

    ×

 

たえだえの夢の中に鷄の聲きこえぬいかにその聲のさびしかりしよ

 

    ×

 

海がひの流人の墓に月見草黄にさきのこり晝の月さす

 

[やぶちゃん注:「海がひ」は海峡に臨んだ、の意か。]

 

    ×

 

春の風紺ののれんをふく日には紅屋の娘と遊びけるかな

 

柹色のつばくろ口につゝみたる稽古本など見せし君かな

 

[やぶちゃん注:「柹」は「柿」の本字。]

 

    ○

 

黑船のSinngroは悲し薫り濃き珍陀に醉へば羅面絃らべいかを彈く

 

[やぶちゃん注:Sinngro」は不詳。この綴り自体がネット検索をかけても全世界の言語で引っかかってこない。歌意からは人を指しているものと思われるが、不明。歌手や道化・芸人の意のポルトガル語を調べたが、該当語は見つからない。識者の御教授を乞う。「珍陀」は「ちんと」と読み、珍陀酒、赤ワインのこと。ポルトガル語で赤ワインを指す“Vinho  Tinto”(ヴィニョ・ティント)が、伝来した戦国時代に訛ったもの。「羅面絃」もポルトガル語“rabeca”の音訳で、中世にスペインやポルトガルで用いられた弦楽器ラベイカ。三弦又は四弦で現在のヴァイオリンの前身。本邦にはポルトガル人により室町時代に伝来している。]

 

角をふくmatroosなきぞ悲しけれ天草島の無花果の森

 

[やぶちゃん注:「matroos」はマドロスで、オランダ語で船乗り。]

 

我夢はうすく月さしイスパニア茴香の野の靄にさまよふ

 

[やぶちゃん注:「茴香」は「ういきやう(ういきょう)」と読む。双子葉植物綱セリ目セリ科ウイキョウFoeniculum vulgare。香草のフェンネルのこと。]

 

醉ひぬれば泣きて誇らく「茴香酒、釀さむ國ぞ我ふるさとは」

 

[やぶちゃん注:茴香酒は爽やかな芳香と味の良い薬用酒で食欲増進効果を持つ。またフェンネルはフランス産リキュールであるパスティスや北欧のアクアヴィット等の酒類の香り付けにも用いられている。]

 

うすやみを油の香淡くたゞよひぬサンタマリアを畫にする堂

 

    ×

 

五たりの夫をもちしサマリアの女の子ゆえ神をわかたず

 

五人の夫をもちしサマリアの女の子ゆえ神をたよらず

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正四、五年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。「たまきはる」の一首は底本では末尾に『〔消〕』とあるのを、表記のように示した。最後の二首はヨハネ福音書四章に登場するサマリアの女を美事に解釈した組歌である。冒頭の寒漁村の風景等は、私には大正五(一九一六)年一月二十日、平塚逸郎を千葉の病院に訪れた際の印象ではないかと思わせるものがある。]

 

   ■   ■   ■

 

うち日さす黑なめ石の床をふむサンダル思ひ麻うらをはく

 

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正四、五年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。「黑なめ石の床」黒色の強い平滑な玄武岩で張った床という意味か。「麻うら」は麻裏草履(あさうらぞうり)のこと。滑り止めに草履の裏に麻糸を平たく編んだひもをとじつけたもの。]

 

   ■   ■   ■

 

    ○

 

靑簾丹前風呂のよき湯女がひとり文かく石竹の花

 

[やぶちゃん注:「石竹」双子葉植物綱ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチクDianthus chinensisウィキの「セキチク」によれば、『原産は中国で、ヨーロッパで品種改良された。日本には平安時代に渡来した。五月から六月にピンクや赤の花を咲かせる』。『葉が竹に似ていることからこの名がついたといわれ』る。]

 

二上りの下座のさみにもなみだして紫帽子をしのびし子なり

 

[やぶちゃん注:「二上り」は「にあがり」と読む三味線の基本的調弦法の一つで、通常よりも軽快な印象を与える。「下座」は歌舞伎の劇場で、囃子方のいる席。または、その囃子方を指す。「さみ」は三味線。「紫帽子」は女形の歌舞伎役者が前髪をおおった紫縮緬の布。「野郎帽子」とも言う。慶安五・承応元(一六五二)年に女装した少年が踊る若衆歌舞伎が禁止された際、幕府の命令で女形は若衆の象徴である前髪を剃り落として「野郎頭」になった(以降、野郎歌舞伎と呼び、現在の歌舞伎のルーツとなった)。当時は女形用のかつらがなく、剃り上げた月代さかやきが如何にも無粋で恥ずかしいということから、それを隠すために紫の袱紗を被せたのが始まりという。ところがそれがかえって色気があると評判になり、現在に至るまで女形を象徴する小道具になっている。]

 

ゆるやかにのぼるこゝあのゆげよりもゆくゑさだめずなびくわがこひ

 

[やぶちゃん注:先行する、「芥川龍之介未定稿集」が『(大正二、三年頃 未発表)』とする「ほのぼのとのぼるココアのゆげよりもゆくへさだめぬ戀をするかな」の改作であるが、元歌が恋の相手を吉田弥生としていたのに対して、ここではその対象が塚本文へと移っている可能性が考えられる。]

 

    ×

 

夕時雨ほのかに赤く河内屋の行燈とぼれば川千鳥なく

 

[やぶちゃん注:「河内屋」不詳。]

 

    ×

 

くだらなき事のいろいろ思ひつつわがあゆむなる金春小路

 

[やぶちゃん注:「金春小路」新橋の銀座国際ホテルの裏に今も残る。江戸時代、現在の中央区銀座八丁目の六~八番地付近に能楽の金春太夫の屋敷があったことに由来し、屋敷が移転した後に花街として発展、芸の巧みなことで知られた金春芸者(現在も新橋の芸者衆をこう呼ぶ)を輩出した。]

 

ふと出たる銀座のまひるしき石にふりそそぐ日

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正四、五年頃)』の創作推定年が示されている。底本では最後の「ふと出たる」の歌の末尾には『〔以下欠〕』とある。私はこの辺りを以って吉田弥生恋情歌群は終息に向かうと考えている。]

 

   ■   ■   ■

 

  亂抄(歌稿より)

 

ひえびえとふく春風もよるさればわが幼妻をさなづまさはりあるなよ

 

ほのかなるひと花茄子なすびかぎよりて人は遠しと思ひけるかも

 

[やぶちゃん注:「花茄子」はナス科ナス属のナス目ナス科ナス属ツルハナナスSolanum jasminoides。七~八月に蔓状の枝の先端付近に、やや青色味を帯びた白色の星形の花を房状に多数開く。ジャスミンに似たよい香りがする。]

 

日かげ山くらき緑にしんしんとたたなはる見ゆ人は遠しも

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正六年)』の創作推定年が示されている。底本では最後の「ふと出たる」の歌の末尾には『〔以下欠〕』とある。「たたなはる」は畳み重なる、積み重なるの意。塚本文との結婚は大正七(一九一八)年二月二日であるから(龍之介満二十五歳、文十七歳)、一首目の「わが幼妻」という表現と創作推定年はやや不整合な気がしないでもないが、婚約はその二年前の大正五(一九一六)年十二月で、大正六年十二月には結婚の日取りも決していたから、このような表現となってたとしても一向におかしくはない。]

 

   ■   ■   ■

 

    ○

 

はればれと縁にあぐらゐ梨の實をわがはむ秋となりにけるかも

 

蟻は今秋のつかれに梨の實のあまきをめぐりよろぼひにけり

 

    ×

 

たよりなく咲く朝顏の花のむたほそぼそとしてわがなげくかも

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正六、七年 未発表)』の創作推定年が示されている。底本では最後の「ふと出たる」の歌の末尾には『〔以下欠〕』とある。「花のむた」は副詞句で「花とともに」「花と一緒に」の意。]

 

   ■   ■   ■

 

    ○

 

ぬば玉の夜鳥啼きゐる山むかひもろらに朱の月落ちんとす

 

[やぶちゃん注:「もろらに」意味不明。これは「まほらに」の誤読ではあるまいか? 「まほら」は「まほらま」や「まほろば」と同義で、素晴らしい場所の謂いで、美しいものの形容である。疑義のある方は、次の歌群の冒頭の一首と比べてみて頂きたい。]

 

くろぐろと馬糞にむるる日陰蝶羽をすり合せ晝たけにけり

 

[やぶちゃん注:これは後に大正十四(一九二五)年の旋頭歌「越びと」の、

 

うつけたるこころをもちてまちながめをり。

日ざかりの馬糞ばふんにひかる蝶のしづけさ。

 

の原型である。]

 

行く春の山の岩間に水は垂り岩根を見れば苔靑む見ゆ

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正六、七年 未発表)』の創作推定年が示されている。]

 

   ■   ■   ■

 

    ○

 

山ふかみ夕づく峽ゆひえびえと天のまほらはあからひく見ゆ

 

[やぶちゃん注:「峽」は「かゐ(かい)」と読む。「まほら」は「まほらま」や「まほろば」と同義で、素晴らしい場所の謂いで、美しいものの形容である。]

 

朝あけの明くる苦しき山かゐの水はたぎちて出でにけるかも

 

夕影にかゞよへる見ゆこちごちのこゞしき山のはだら雪はも

 

[やぶちゃん注:「こちごち」あちらこちら。「はだら」は「斑」でまばら、まだらの意。]

 

    ×

 

あかときのほのめくところひつそりと一もと松はたちてゐにけり

 

赤松の枝のきはみをゆく雲のほのぼのとして朝なりけり

 

向つの松はうごかずあかあかとのへの空のあさやくる見ゆ

 

つかの間を疾風來るらむあさやくる空のはたてにの松ゆらぐ

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正六、七年頃)』の創作推定年が示されている。底本では最後に次の「松」との相同歌四首を置くが、次に掲げる新全集詩歌未定稿版の「松」で代えることが可能と判断し、省略した。最後の歌の「疾風」は「はやて」と読む。「はたて」は「果たて」「極」「尽」で、果て・極まりの意。]

 

   ■   ■   ■

 

  松

 

あかときのほのめくところひつそりと

 ひともと松はたちてゐにけり

 

赤松の枝のきはみをゆく雲の

 ほのぼのとしてあしたなりけり

 

向つの松はうごかずあかあかと

  のへの空のあさやくる見ゆ

 

つかの間を疾風來るらむあさやくる

 空のはたてにの松ゆらぐ

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿及び「芥川龍之介未定稿集」(後者は上句と下の句を分離せず、第一首の「ひともと」を「一もと」と漢字表記する点を除き、全く相同。但し「松」という標題はない)より。底本後記によれば、大正七(一九一八)年頃の作(「芥川龍之介未定稿集」は『(大正六、七年)』とする)と推定されている。]

 

   ■   ■   ■

 

天雲の光まぼしも日本の聖母の御寺今日見つるかも

 

天雲のしきはふしたよ日本の聖母のみ寺けふ見つるかも

 

[やぶちゃん注:これは日本最古の現存するキリスト教建築物である長崎県長崎市のカトリック教会大浦天主堂のこと。正式名は日本二十六聖殉教者聖堂。芥川龍之介は大正八(一九一九)年五月四日から十八日まで、菊池寛とともに長崎・大坂・京都の旅に出ており、大浦天主堂は五月六日に訪ねている。]

 

まかゞよふ海に音なしわらはべは耳かたむけて居たりけるかも

 

末の世のくどきの歌の歌聖吉井勇に酒奉る

 

秋ふかく晝ほのぼのと朝顏は花ひらき居りなよ竹の末に

 

足曳の山のまほらに跡たえず如何なる人かゆきかよひけん

 

[やぶちゃん注:以上は芥川龍之介の大正六(一九一七)年から大正八年に書かれたと推測される手帳「我鬼句抄」の俳句群の中にばらばらに挿入された六首であるが、後掲する歌群にも相同歌が頻出するが、特に指示しない。]

 

   ■   ■   ■

 

塩艸に光はともし砂にゐて牛はひそかに眼を開らき居り

 

[やぶちゃん注:「塩艸」は狭義には緑藻植物門アオサ藻綱シオグサ目シオグサ属Cladophoraの特定種を指すが、ここでは単に打ち上げられた広義の海藻の謂い。]

 

秋雨の降り來る紅殼の格子の内に人の音する

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正七年頃 未発表)』の創作推定年が示されている。]

 

   ■   ■   ■

 

   或 時

 

刈麥の句に雲もうす黄なる

 野薔薇のかげの夏の日の戀

 

   海 邊

 

まかがよふ海に音なしわらはべは

 耳傾けてゐたりけるかも

 

[やぶちゃん注:ほぼ相同歌(字配は異なる)が前掲「我鬼句抄」に掲載されている。]

 

   向日葵

 

天つ日の光に照らふ向日葵は

 いつくしきかも葉をよろひつつ

 

[やぶちゃん注:「よろひつつ」の「よろひ」はまずは「よろふ」で装うの意であるが、それに「よろふ」の意も含み、葉を鎧として着ているかのように、と言い掛けているのであろう。]

 

眞日の照りきはまりけらし向日葵の

 葉かげの花に油滴たる

 

虻ひとつ蕋のまなかに消えにけり

 くるめかむとする黄金向日葵

 

   長崎にて

 

天雲の光ゆゆしも日本の

 聖母の御寺けふ見つるかも

 

[やぶちゃん注:相似歌が前掲「我鬼句抄」に掲載されている。]

 

   林 間

 

枝蛙木うらひそかに啼く聲の

 きよらなるかも夕月はさし

 

[やぶちゃん注:「うら」は梢。この一首は後掲する大正八(一九一九)年十一月九日の『読売新聞』の「春草会にて」及び「我鬼抄」、単行作品集『梅・馬・鶯』の「短歌」に相似歌が掲載されている。ここには有意な空行があるので下を一行空けてある。]

 

   即 興

 

末の世のくどきの歌の歌ひじり

 吉井勇に酒たてまつる

 

[やぶちゃん注:前掲の「我鬼句抄」、後掲する「我鬼抄」や単行作品集『梅・馬・鶯』の「短歌」に相似歌が掲載されている。ほぼ相同歌(字配は異なる)が掲載されている。]

 

   築地精養軒

 

外の面には逆光線の家見ゆる

 窓べの男頭垂れたり

 

[やぶちゃん注:「築地精養軒」は、日本最初の西洋料理店。以下、ウィキの「築地精養軒」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『明治維新後、東京には本格的な西洋料理店がなく、外国からの要人の接待に不便をきたしていたことから、岩倉具視らの尽力で、一八七二年開業した。その後、上野公園の開設とともに支店として「上野精養軒」も開業、本格的なフランス料理店をめざした。一九一一年関東大震災で築地が全焼し、上野に本店を移して営業、現在に至る』。因みに西暦一八七二年は明治五年である。]

 

ほの暗き暑さこもれば水の音

 コツプに鳴るも寂しきものを

 

わがすれるマツチの炎黄色に

 い澄み透るをしまし見てをり

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集詩歌未定稿より。底本では編者による仮題「枝蛙」が附されている。詳細は底本後記の記載に当たって戴きたいが、本歌群は大正八(一九一九)年五月八日以前の作と開放区間で推定されている。最後の歌の「い澄み透る」の「い」は強調の接頭語。]

 

   ■   ■   ■

 

  偶谷水二首を作る(五月二十二日)

 

夕影はおぎろなきかもほそぼそと峽間を落つる谷水は照り

 

[やぶちゃん注:「おぎろなき」は広大だという形容詞。]

 

あしびきの岩根は濡れて谷水の下光る行く夕なりけり

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の手帳「我鬼窟句抄」の「大正八年」の俳句群の中に記された二首。標題の「偶」は「たまたま」と読む。]

 

   ■   ■   ■

 

    ○

 

    丸善の二階

 

しぐれ降る町を靜けみ此處ここにして海彼かいひの本を愛でにけるかも

 

[やぶちゃん注:「靜けみ」は「静かなので」の意。「み」は接尾語で形容詞語幹に付いて原因理由を表す。]

 

うらぐはし海彼の本のかしら文字みな唐艸をまきにけらずや

 

[やぶちゃん注:「うらぐはし」は「心妙し」で、心に染みて美しいという形容詞。]

 

いその上古き海彼の本なれば寫眞の畫にも黴はへてをり

 

海彼本わが見てをればぽつかりとあたまの上の電燈ともる

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の死後、昭和二(一九二七)年十月一日発行の雑誌『改造』に掲載された「或阿呆の一生」の冒頭、「一 時代」も丸善の二階が舞台である。

      一 時  代

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨオ、トルストイ、………

 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を讀みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、…………

 彼は薄暗がりと戰ひながら、彼等の名前を數へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根氣も盡き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

 「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。………

御覧の通り、そのシチュエーションの一致という点で、最後の一首はこの遺作に先行する確信犯的短歌と言えよう。]

 

    ×

 

夕澄める松の梢をうち仰ぎ如何なる人かうそぶききたる

 

龍の髯生ひひろごりぬこの庭にもみつる木木は雨を待ちつつ

 

[やぶちゃん注:「龍の髯」は単子葉植物綱ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicusのこと。リュウノヒゲ(龍の髯)とも言う常緑多年草。高さ十センチ程度、細い葉が多数出る。よく植え込みに用いられ、夏に総状花序を形成し、淡紫色又は白色の二~三センチの小さな花を多数つける。後、秋から冬にかけて種子は熟して青くなる。]

 

    ×

 

    寒木堂所藏の書畫を觀る

 

紙のみやおのれ古りけむうす墨に描ける牡丹の花のくはしさ

 

澄心の威の古びやうす墨の墨畫に描ける花のくはしさ

 

[やぶちゃん注:「寒木堂」諸注不詳とする。]

 

    四歳の子、わがあとを追ふこと數なり

 

聲をあげ吾子あこははせ來ぬ朝じめる道のつむじにかへり見すれば

 

[やぶちゃん注:「數」は「しばしば」と読む。創作推定年(後述)が正しければ、これは大正九(一九二〇)年三月三十日生まれの長男比呂志ということになる(次男多加志は大正十一年十一月八日生であるから描写に合わない)。]

 

    上野公園を過ぐ

 

龍の髯敷きひろがりぬこの山にもみづる木木は雨を待ちつつ

 

    河郎の歌

 

わすらえぬ丹の穗の面輪見まくほり川べぞ行きし河郎われは

 

河郎のすみけむ川蘆は生ひその蘆の穗のゆらぎやまずも

 

河郎のすみけむ川に蘆は生ひその蘆の實のそよぎやまずも

 

[やぶちゃん注:「河郎」は「かはらう(かわろう)」と読み、河童のこと。「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正八年頃-大正十二年頃 未発表)』と創作推定年が示されている。底本では最後の「河郎の歌」の詞書の下に『〔拾遺〕』という編者注がある。「龍の髯敷き」の下線部は底本では傍点。相同歌が散見されるが、ソリッドな提示として、ここに置く。この最後の三首は大正十一(一九二二)年四月二十五日から五月二十九日までの二度目の長崎行の五月十八日、渡辺庫輔や蒲原春夫らの案内で丸山遊郭の待合「たつみ」に遊び、東検番の名花と謳われた名妓照菊(本名・杉本わか)に、銀屏風に乳房のある「水虎晩帰之図」を描き与えた際の吟詠と見て、ほぼ間違いないのではあるまいか。]

 

   ■   ■   ■

 

  春草會にて

 

枝蛙木梢ひそかに鳴く聲のきよらかなるも道細りつつ

 

[やぶちゃん注:岩波版新全集第五巻より。大正八(一九一九)年十一月九日の『読売新聞』の「日曜付録」の欄に「春草會にて」という見出しで、久米正雄の短歌一首と共に掲載されたもの。「木梢」な「こぬれ」と読ませる(後掲の『梅・馬・鶯』の「短歌」第一首の相同歌を参照)。この春草会について新全集第五巻中島礼子氏注解によると、岡田道一が創設、大正八年より茅野雅子が主宰した短歌会とし、『芥川は春草会に参加していた秀しげ子(太田水穂に師事し、鞆音の号や本名で短歌を発表)』と、この大正八年六月にあった十日会席上で知り合い、九月に不倫関係に陥った旨、記載される。秀しげ子――芥川龍之介の忌まわしきファム・ファータル、「或阿呆の一生」の、あの「狂人の娘」である。「木梢」は前掲の類型歌により「きうら」と読んでいることが分かる。]

 

   ■   ■   ■

 

大島やうす日どよもす潮騒に白玉椿しらじらと照る

 

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年四月発行の『淑女畫報』に掲載された。新全集では「春草會詠草」の標題を附す。]

 

   ■   ■   ■

 

  河郎の歌

 

赤らひく肌もふれつゝ河郎のいもせはいまだ眠りてをらむ

 

わすらえぬ丹の穗の面輪見まくほり古江ぞ出でし河郎われは

 

[やぶちゃん注:「丹の穗」は赤い色が目立つことで、「面輪」は顔のこと。「まくほり」の「まく」は推量の助動詞「む」の未然形「ま」に、「事・物」の意を添える接尾語「く」がついたもので、「~だろうこと」「~するようなこと」という意。それに「望む」の意味の「る」(「欲りす」が原型)が接続し、「見たりするようなことをしてみたい」の意味となる。ここは真っ白な白粉に口紅をさした美しい芸妓の面影を今一度見たいと謂い掛けたものであろう。]

 

人間の女を戀ひしかばこの川の河郎の子は殺されにけり

 

小蒸汽の波立つなべに河郎はマブタ冷たくなりにけらしも

 

[やぶちゃん注:「なべに」は接続助詞「なへ」に格助詞「に」が付いたもので、上代語の「なへ」に相当する。~するにつれて。~とともに。~と同時に、の意。]

 

川そこの光治えたれ河郎は水こもり草に眼をひらくらし

 

水そこの小夜ふけぬらし河郎のあたまの皿に月さし來る

 

岩根まき命終りし河郎のかなしき瞳を見るにたへめや

 

[やぶちゃん注:再掲注。これらの歌群は大正十一(一九二二)年四月二十五日から五月二十九日までの二度目の長崎行の、五月十八日に渡辺庫輔や蒲原春夫らの案内で丸山遊郭の待合「たつみ」に遊び、東検番の名花と謳われた名妓照菊(本名杉本わか)に、銀屏風に乳房のある「水虎晩帰之図」を描き与えた際の吟詠と見てほぼ間違いないのではあるまいか。]

 

    ○

 

  小穴隆一に贈る十三日夜くれた畫はがきの返事

 

寂しもよ月の繪のある古德利誰か描きけむこの古德利

 

[やぶちゃん注:「小穴隆一」(おあなりゅういち 明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)は洋画家。一游亭は彼の俳号。芥川龍之介無二の盟友。芥川の単行本の装丁も手がけ、芥川が自死の意志を最初に告げた人物でもある。彼に宛てた遺書は頓に知られる。芥川より二歳年下。これは旧全集書簡番号七八四の大正九(一九二〇)年十月十六日附小穴隆一宛書簡にある短歌で、この一首を冒頭として全九首が掲げられている。この書簡はこの歌群と最後に「十月十六日」及び宛名「小穴畫宗 梧右」のみが書かれた書簡である。]

 

柱がけの菊は香ぐはしとろとろと入谷の兄貴醉ひにけらずや

 

     註ニ曰 小澤碧童□□呼んで入谷の兄貴となす

 

[やぶちゃん注:「□□」は底本には『〔二字不明〕』とある。小澤碧童(明治十四(一八八一)年~昭和十六(一九四一)年)。本名は忠兵衛。河碧梧桐門下の俳人。芥川の畏友であった画家小穴隆一の紹介で知り合った。晩年の芥川は「入谷の大哥」(「大哥」は「兄い・兄き」と読む)として親しんだ人物である。「□□」は彼の俳号「忠兵衛」か「東平」若しくは庵号「最仲」、或いはただの「先生」か。]

 

この鳥は何鳥ならん紅菊の菊の花見て啼けりや否や

 

男三人醉へばまさびしこの宵は日蓮上人の御命日かも

 

     註ニ曰 三人トハ碧童、隆一、古原草ナリ

 

[やぶちゃん注:これは後掲する大正十(一九二一)年三月十五日頃に小澤碧童、小穴隆一、俳人遠藤古原草三人によって人形町で催された、芥川龍之介中国特派旅行の送別会「了中先生渡唐送別記念会」(了中は芥川龍之介の俳号の一つ)でのことかと思われる。但し、日蓮は弘安五年十月十三日(陰暦)が命日で、西暦に直しても一二八二年十一月二十一日であるから、新暦でも旧暦でも全く合わない。狂歌として大法螺を吹いたのかも知れない。]

 

    ○

 

  恒藤恭に贈る松茸を貰つたお禮

 

松茸はうれしきものか香を高みわが床のべを山となすかも

 

[やぶちゃん注:ここまでの十二首は連続した記載。

 

白玉の舞姫ひとり舞ふなべに小澤忠兵衞ほのぼのとなる

 

[やぶちゃん注:「小澤忠兵衞」は前出の小澤碧童の本名。「なべに」は前出。接続助詞「なへ」に格助詞「に」が付いたもので、上代語の「なへ」に相当する。~するにつれて。~とともに。~と同時に、の意。]

 

舞姫はかなしきものか鏡を乞ふ手のおしろいも剥げてゐにけり

 

    ○

 

  或人の長崎行を送る

 

赤寺の南京寺の瘦せ女餓鬼まぎはまぐとも酒なのみそね

 

[やぶちゃん注:「赤寺の南京寺」は長崎市寺町にある日本最古の黄檗宗寺院東明山興福寺。山門が唐風に朱塗りであるため、赤寺とも呼ばれる(従ってここは南京寺を引き出すための枕詞的用法)。寛永元(一六二四)年、中国僧真円による創建で、信徒には浙江省・江蘇省出身者が多いことから、南京寺とも称せられる(以上はウィキの「興福寺(長崎市)」を参照した)。「女餓鬼」は「めがき」と読む。女の餓鬼のこと。奈良朝には多くの寺院に貪欲の戒めとして餓鬼の木像が置かれていたらしい。それを女に見立てたもの。「まぐ」は正しくは「まく」「枕く」で「枕を共にする・共寝する・妻となる」の謂い。この歌は「万葉集」巻十六の第三八四〇番歌である

  池田朝臣あそみの、大神朝臣奥守おほみわのおきもりを嗤ひたるうた一首

 寺々の女餓鬼もをさく大神の男餓鬼をがきたはりてそのひろめむ

を本歌とする。

○やぶちゃん現代語訳

  池田朝臣が、がりがりに痩せた大神朝臣奥守おおみわのあそみおきもりを侮って詠った歌一首

 そこいら中の寺という寺の女餓鬼どもが言ってるぜ!――あの大神の、『素敵に』がりがり『慄っとするよな』棒見たような、あの男餓鬼の大神を――どうか、あたいに賜ってえな!――あいつの子供をばんばんとこのおいどからひりだして、餓鬼んちょ仰山、増やしたるよってな!

この「或人」とは吉井勇(後掲の歌稿で判明)である。但し、吉井は痩身どころか大兵肥満の筋骨体型で、顔も四角張っている。これはもしかするとお化けのようにがりがりだった痩身の芥川からの、

――痩身の「我鬼」たる私と違って、精力旺盛なる勇氏よ、手当たり次第の女遊びは仕方がないとしても、飲み過ぎている酒だけは、お止めなさい――

という挨拶の一首か。今少し、解釈に自信がない。識者の御教授を乞う。]

 

    ○

 

行燈の火影は嬉し青竹の箸にをすべき天ぷらもがな

 

行燈の古き火影に隆一は柹を描くなり蜂屋の柹を

 

磐禮彦かみの尊も柹をすと十束の劍置きたまひけむ

 

     (行燈の會の歌 十一月二日)

 

[やぶちゃん注:ここまでの六首は連続した記載。「磐禮彦」神武天皇。「古事記」では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)、「日本書紀」では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)などと称されている。「柹」は柿の本字。「をす」は「食(を)す」。「十束の劍」は「とつかのつるぎ」と読む。日本神話に登場する剣で、一束(拳一つ分の幅)を十並べた長さの長い直刀の意。以下、ウィキの「十束剣」から引用する。『一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされる』。『最初に登場するのは神産みにおいてイザナギがカグツチを斬る場面である。この剣には、天之尾羽張(あめのおはばり)または伊都之尾羽張(いつのおはばり)という名前がついている(伊都之尾羽張という名前は、その後タケミカヅチの父神の名として登場する)。その後、黄泉の国から逃げる際に、十拳剣を後手(しりへで)に振って追っ手から逃れている』。『アマテラスとスサノオの誓約の場面では、古事記ではスサノオが持っていた十拳剣からアマテラスが3柱の女神を産んでいる。最も有名なのはヤマタノオロチ退治の時にスサノオが使った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」。“羽々”とは“大蛇”の意味)で、ヤマタノオロチの尾の中にあった草薙剣に当たって刃が欠けたとしている(この十拳剣は石上布都魂神社に祭られ崇神天皇の代に石上神宮に納められたとされる)』。『山幸彦と海幸彦の説話では、山幸彦が海幸彦の釣り針を無くしてしまったため、自分の十拳剣を鋳潰して大量の針を作っている』。『葦原中国平定の説話において、アメノワカヒコの葬儀に訪れたアジスキタカヒコネが、怒って十掬剣で喪屋を切り倒している。その後、タケミカヅチらが大国主の前で十掬剣を海の上に逆さまに刺し、その切先にあぐらをかいて威嚇している。この剣は後に神武東征の場面において神武天皇の手に渡る。そこに、この剣が佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)または布都御魂(ふつのみたま)という名前であると記されている』(下線部やぶちゃん)。『仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手がそれぞれ白銅鏡、八尺瓊と共に十握剣を差し出して降伏している』とある。「行燈の會」は岩波新全集未定稿後記及び第二十四巻宮坂覺氏編の年譜によって大正九(一九二〇)年十一月二日に同定されている。この日、小穴隆一と小澤碧童の三人で「行燈の会」と称するものを開き、それぞれが俳句や短歌、俳画をものした(後掲する「行燈之會第一集」も参照)。]

 

  東平に與ふ

 

かた岡の笹掘りかへす赭土に今日の時雨は流れてをらむ

 

君が家の軒の糸瓜は今日の雨に臍腐れしやあるひはいまだ

 

[やぶちゃん注:「東平」は前出の小澤碧童の号の一つ。「臍腐れしや」は「ほぞくたれしや」と読みたい。]

 

    ○

 

  即 事

 

寒むざむと竹の落葉に降る雨の音をききつゝ厠にわが居り

 

雨の音の竹の落葉にやむ時は鑄物師秀眞が槌の音聞ゆ(十一月十二日)

 

[やぶちゃん注:ここまでの四首は連続した記載。「鑄物師秀眞」は「いもじほづま」と読む。香取秀眞(かとりほづま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)。千葉生。鋳金工芸師。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の家の実際の隣人にして友人であった。]

 

ぬば玉の夜風に春は冴ゆる頃を一游亭よ風ひくなゆめ

 

[やぶちゃん注:この一首は俳句群冒頭に単独で現れる。「一游亭」は画家小穴隆一の俳号。]

 

橋の上ゆ胡瓜投ぐれば水ひびきすなはち見る禿のあたま

 

[やぶちゃん注:以上は大正九(一九二〇)年から大正十一(一九二二)年に書かれたと思しい芥川龍之介の手帳「蕩々帖」(署名は「我鬼」)の中に記された短歌類である。最後の一首は後半を埋め尽くす俳句群中に突如単独で現れるもので、他にも所収する河郎の歌とほぼ相同歌だが、底本では「見る」の部文が編者によって「見〔ゆ〕る」と補正されている。ここでは原型のママで示して置いた。]

 

   ■   ■   ■

 

命三つこよひかそけき行燈の火かげに生きつ何かうれしき   我鬼

 

寂しらに藍の羽織を着る人の菊を寫してゐたりけるかも    醒我鬼

 

腹ばびてわが食ふ柿のこよひ甘し腹は疊に冷えて來つゝも   我鬼

 

[やぶちゃん注:底本では『「行燈之曾第一集」より』という編者標題があり、三首の末尾には『(大正九年十一月)』の創作推定年が示されている。「行燈の會」は大正九(一九二〇)年十一月二日、画家小穴隆一と俳人小澤碧童の三人で「行燈の会」と称するものを開き、それぞれが俳句や短歌・俳画を寄せ合ってものした(前掲「行燈の會の歌」も参照)。芥川龍之介の号は新全集未定稿後記の記載に従って補ったものである。]

 

   ■   ■   ■

 

  布施辯天

 

扁々の枯芒風に吹かれたる広野柿の色

 

夕澄むや茎をかぎれる麥畠高どに人の尿する見ゆ

 

[やぶちゃん注:「尿」は「すばり」と読む。]

 

海此岸に童子三人もとろへり弁財天女應護垂れ給へ

 

     註曰 最仲先生は大人なり 故に童子の列に入らず

 

[やぶちゃん注:「布施辯天」は真言宗豊山ぶざん派の紅竜山東海寺の通称。関東三弁天(江ノ島・上野不忍)の一つとして古くから知られる。藤田とし子氏のHPで千葉県北西部に位置する東葛地方の歴史紹介されている「とうかつ歴史散歩」の「布施弁天と紅い竜から一部引用させて頂く(アラビア数字を漢数字に変更した)。「柏のむかし」(柏市市史編さん委員会)によると、『布施弁天が最も繁栄したのは享保以降の一世紀(一七〇〇年代)で、近隣の村々はもとより遠くは江戸や二合半領(現埼玉)あたりから多くの人が参詣に訪れ、香の煙が絶えることがなかったほどだという。その勢いに乗じて時の寺僧は宝暦十一年(一七六一)、亀の甲山に面した三つの台地を正式に社地とし、桜を植え信者の散策地として整備を始めた。これが現在の曙山である』。『寺の縁起によれば、大同二年(八〇七)七月七日、激しい雷雨の中、天より紅い竜が舞いおりて一夜にして小さな島を作ったという。すると、この日から天地はグラグラと揺れ、島の一角からは毎夜まばゆい光が射すのだった。不思議に思った里人があたりを訪ねると、岩屋の中に三寸ほど(約九センチ)の御仏があった。人々はたいそう驚き、小さな祠を建て御仏を祀ったのだという』。『その後、弘法大師空海がこの地を訪れた際、霊威を感じ伽藍(がらん)を建立。山号寺名を定めたといわれている』。『時を経て、今。眼下には整地されたあけぼの山農業公園が広がり、一面の花畑の真ん中に大きな風車がゆったり風を受けている。一二〇〇年前現れたという紅い竜は、この風景をどんな思いで眺めているのだろうか』と印象的な感懐を記されている。大正十(一九二一) 年一月三十日、芥川龍之介は小澤碧童、小穴隆一、遠藤古原草らと四人で、現在の千葉県我孫子市布佐方面へ一泊の旅に出ており、その際に「布佐辯天」「布佐入」という絵巻を四人で創った。本歌群はそれを底本するものである。第三首の「もとろへり」は「巡る・廻る・徘徊するの意の「もとほろふ」の誤用であろう。「應護」は「おうご」で「擁護」とも書き、仏や菩薩が助け守って下さることを言う。「加護」と同義。「最仲先生」は入谷の小澤碧童宅の「最仲庵」という庵号で彼を示したもの。小澤は四人の中では当時数えで 四十歳、飛び抜けて最年長であった。……彼等の布施弁天来訪は、もう凡そ今から九十年前のことになる……その紅い龍は文壇の龍をどんな思いで見ていたであろう……もはや余命六年の病み傷だらけだった龍を――。]

 

    旋頭歌三首

 

晝を深み柴垣のへに猫柳照り

路なかの大き牝鷄脚ひろげ居り

 

日に煙る枯蘆原に人來るらし

なか空に穗末のそよぎ立ちて消えつも

 

町かどの郵便局の屋根に草枯れ

日向雨ソバエ降る石高路を女歩めり

 

[やぶちゃん注:「日向雨ソバエ」は天気雨のこと。日照り雨。所謂、狐の嫁入りである。この一首、石垣の高い小道を行く女が化けた狐に見えてくるから面白い。]

 

路のへの溝の冬藻に夕影はさし

町なかに馬のにほひのするは悲しも

 

[やぶちゃん注:「旋頭歌三首」とあるのはママ。]

 

  布佐入

 

はつはつに野梅ほふらむ土祠南無鯖大師此處にまします

 

[やぶちゃん注:「はつはつに」は「わずかに」の意。「ほふらむ」の「ほふる」は「屠る」であるが、この場合は「奉(ほう)る」で捧げるの意味で用いた誤用ではないかと思われる。「土祠」は「つちやしろ」と読む。「鯖大師」は個人ブログの「我孫子市柴崎の鯖大師」にキッチュな彩色の鯖持った大師様(失礼! 呪文で殺されそうだな)写真入りで以下の記載がある。一部を引用させて頂く。まずこの鯖大師は、四国八十八ヶ所別格四番鯖大師本坊八坂寺(徳島県海部郡海南町)の縁起に由来するものであるされ、以下、そちらの縁起を記されている。弘仁年間(八一〇~八二四)、『当地を訪れた弘法大師は、八坂八浜の馬曳き坂にある行基菩薩お手植えの松の下で一夜を過ごし』、『翌朝、塩鯖を積んだ馬子に出会い、塩鯖をいただけないかとこうた。馬子はこれを無視。大師は「大阪や八坂坂中鯖ひとつ大師に呉れで馬の腹病む」と唱えた。馬が急に腹痛で苦しむ。馬子は改心して大師に鯖を献じた。大師は馬にお加持水を与え、「大阪や八坂坂中鯖ひとつ大師に呉れて馬の腹止む」と唱えると元気になった』。『法生島で大師が塩鯖を加持した。すると生きかえり沖へ泳いでいった。馬子は、この地に庵を建て霊場とした』。『こうした言い伝えがあり、馬の病気を治す、さらには漁労航海の安全や大漁を祈願して鯖大師像が造られるようになったのだろう』。『円福寺の近くを利根川が流れている。江戸時代、ここから少し下流には「布佐河岸」があった。銚子・九十九里などから運ばれる鮮魚がここで荷揚げされ、松戸河岸まで馬で陸送された。鮮魚(なま)街道と呼ばれた起点だったのだ』。『松戸河岸からは江戸川を下って日本橋の市場に運ばれた。旧鮮魚街道沿いには馬頭観音などがあり、往時をしのばせる』とある。なお、底本では、ここに「影多し師走河原の砂の隈」という芥川の俳句が入る。]

 

ひと莖の大き冬藻の照るところ水影深くなりにけるかも

 

[やぶちゃん注:以上、原資料の絵巻を底本とした岩波版新全集未定稿より(旧全集にもばらばらになった形で所収するが、最終的に真筆のこちらを採用した)。注で示した通り、大正十年一月三十日の、芥川龍之介・小澤碧童・小穴隆一・遠藤古原草四人による現在の千葉県我孫子市布佐方面への一泊の旅の折りに合作した絵巻に記されたもの。]

 

   ■   ■   ■

 

もろこしの板刀麺を食ふ時は老酒に醉ひて吾ありと思へ

 

[やぶちゃん注:「板刀麺」は刀削麺とうしょうめんのこと。小麦粉の固まりを刀で削った中国の麺料理。]

 

白埴の皿にたまはる強飯の飯うれしもよ二たびかへな

 

[やぶちゃん注:「白埴」は「しらはに」と読む。陶器などを作る粘土質の白い土のこと。]

 

電燈に額照りつつ藤公は蟹を食ふなり甲羅蒸しの蟹を

 

[やぶちゃん注:底本では『「了中先生渡唐送別記念帖」より』という編者標題があり、三首の末尾には『(大正十年三月)』の創作推定年が示されている。これは大正十(一九二一)年三 月十五日頃に小澤碧童、小穴隆一、俳人遠藤古原草三人によって人形町で催された、芥川龍之介中国特派旅行の送別会「了中先生渡唐送別記念会」(了中は芥川龍之介の俳号の一つ)での吟詠。最後の歌の「藤公」は遠藤古原草(明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年 本名清平衛)のこと。俳人・蒔絵師。「海紅」同人。愛称なのかも知れないが、芥川自身の中国行に引っ掛けた感じで、私は中華の武人風に「とうこう」と読みたい。]

 

   ■   ■   ■

 

    朝 鮮

 

袖はりて舞はゞ舞はなむ妓生の顏の汗疹を見つつ我をり

 

天きらふ雲南省ゆ來たりたる埴輪童女をとめFumikoは似るも

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より冒頭に編者による『〔遺墨展より〕』とあり、前の「袖はりて」の末尾には『(大正十年)』と記す。中国特派員の際の嘱目吟。旅程から奉天に着いた大正十七(一九二一)年七月十七日前後の吟か。「妓生」は朝鮮音で「キーセン」と読む。キーサンとも。朝鮮の芸妓のこと。「Fumiko」は妻の芥川文のことであろう。]

 

   ■   ■   ■

 

歌十六首

 

  山住み

 

枝蛙木ぬれひそかに鳴く聲のきよらなるかも夕月はさし

 

  吉井勇に戲る

 

末の世のくどきの歌の歌ひじり吉井勇に酒たてまつる

 

赤寺の南京寺の瘦せ女餓鬼まぎはまぐとも酒なたちそね

 

[やぶちゃん注:三首とも既出。「赤寺の南京寺」の前掲注を参照されたい。]

 

 

  丸善の二階

 

しぐれふる町をかそけみここにして海彼かいひの本をめでにけるかも

 

[やぶちゃん注:前出。]

 

  小澤碧童に

 

窓のへにいささむら竹軒のへに糸瓜ある宿は忠兵衞が宿

 

[やぶちゃん注:「小澤忠兵衞」は前出の小澤碧童の本名。]

 

きみが家の軒の糸瓜はけふの雨に臍腐れしやあるひはいまだ

 

[やぶちゃん注:前出。]

 

  即 景

 

手水鉢の水にいささか濁り立ち南天の花は咲きすぎにけり

 

  上 海

 

うす曇るちまたを見つつ暗緑の玉子食ひをれば風吹きにけり

 

[やぶちゃん注:大正十(一九二一)年四月の中国特派員初期の嘱目吟。「暗緑の玉子」は皮蛋(ピータン)。芥川は同年三月に上海に上陸したが、乾性肋膜炎のため、現地の里見病院に入院、凡そ一ヵ月後の四月二十三日にやっと全快した。雰囲気からすると、この入院後期の病中吟若しくは退院後の五月十七日に漢口に旅立つ迄の間の上海での嘱目吟と思われる。芥川龍之介「上海游記」を参照。]

 

  戲れに河郎の圖を作りて

 

橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆる禿かぶろのあたま

 

茘枝なすうるはし妻を戀ふゆゑにあたまの皿の水干るらむか

 

[やぶちゃん注:前者は既出。「茘枝」は「れいし」で双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科レイシLitchi chinensis。ライチー。龍眼。楊貴妃が好んだ食したという故事から「茘枝なす」を「うるはし」の枕詞のように用いたものであろう。大正十一(一九二二)年四月二十五日から五月二十九日までの二度目の長崎行の、五月十八日に渡辺庫輔や蒲原春夫らの案内で丸山遊郭の待合「たつみ」に遊び、東検番の名花と謳われた名妓照菊(本名・杉本わか)に、銀屏風に乳房のある「水虎晩帰之図」を描き与えた際の吟詠と見てほぼ間違いないと思われ、二首目も照菊相手に妻を詠み込んだ戯れ歌と思われる。]

 

  湯河原

 

おぼろかに栗の垂り花見えそむるこのあかつきは靜かなるかも

 

[やぶちゃん注:中国特派員旅行から帰った芥川は大正十(一九二一)年十月一日から二十五日頃迄、湯河原温泉にて湯治している。この頃、しつこい不眠症に悩まされていた。]

 

  閑 庭

 

秋ふくる晝ほのぼのと朝顏は花ひらきたりなよ竹のうらに

 

朝顏のひとつはさける竹のうらともしきものは命なるかな

 

[やぶちゃん注:「ともしき」は「乏しい故に心惹かれる」「物足りないために羨ましく思う」ことを言う。]

 

  「となりのいもじ」秀眞先生に

 

冬心たうしんの竹の晝見に來、ひさかたの雪茶を煮つつわが待つらくに

 

[やぶちゃん注:「いもじ」は鋳物師のこと。「秀眞先生」は香取秀眞(かとりほづま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)。千葉生。鋳金工芸師。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の家の実際の隣人にして友人であった。「冬心」は金農(一六八七年~一七五三年)のこと。清代の詩人・学者・書家・画家。冬心は号。塘(現在の浙江省杭州)の人。考証学を学んだり、金石文を研究をした。揚州八怪と称せられた文人画家の一人。著書「金冬心集」他多数。「雪茶」初雪の折りの茶会のこと。]

 

  椎の木

 

さ庭べに冬立ち來らし椎の木の葉うらの乾きしるくなりけり

 

霜曇るさ庭を見れば椎の木の葉かげの土も荒れてゐにけり

 

[やぶちゃん注:以上は大正十一(一九二二)年三月発行の『中央公論』の「現代芸術家餘技集」の大見出しのもと、「芥川龍之介」の署名で掲載された「我鬼抄」の短歌パート(他に俳句三十句と画賛二)。後記によれば、この「我鬼抄」文中に画賛の一つとして、

 

忘らえぬ丹の穗の面輪                我鬼

見まく欲り古江ぞ出で

し河郎われは

 

という本文に現れない歌を付した、芥川龍之介の河童の畫の短冊がカットとして掲げられている、とある(但し、これは「蕩々帖」の「河郎の歌」所収の一首と漢字表記を別にすれば相同歌である)。以下に岩波版新全集第九巻の宗像和重氏の注解に掲載されているその短冊画像を示す(著作権の切れた平面的な作物をそのまま平面的に撮影したものには著作権は発生しないという文化庁の公式見解があるので著作権侵害には当たらない。また、署名の下にも文字か印のようなものが見えるが判読出来ない)。


これら総ては、ほぼ大正十五(一九二六)年十二月新潮社刊の単行作品集『梅・馬・鶯』に「短歌」の題で収められたもの(後掲)と同じである。]

 

   ■   ■   ■

 

  長崎の宿

 

みじか夜の町に鐘なりもろこしのワンタン賣はすぎ行きにけり

 

[やぶちゃん注:この一首はメモの途中に単独で現れる。この一首は大正十一(一九二二)年四月二十五日から五月二十九日までの二度目の長崎行の嘱目吟と思われる。]

 

秋ふくる晝はほのぼのと朝顏は花ひらきたりなよ竹のうらに

 

おぼろかに栗の垂り花見えそむるこのあかつきはしづかなるかも

 

晝曇るさ庭を見れば椎の木に葉かげに土も荒れてゐにけり

 

[やぶちゃん注:以上三首は俳句群中に三首連続で現れる。]

 

  佐藤惣之助に

 

空にみつ大和扇をかざしつつ來よとつげけんミヤラビあはれ

 

[やぶちゃん注:「佐藤惣之助」(明治二三(一八九〇)~昭和十七(一九四二)年)は詩人・作詞家。大正五(一九一六)年に処女詩集「正義の兜」を出版。昭和に入ると作曲家古賀政男と組んで多くのヒット曲を生み出した。「琉球風物詩集」は正確には「琉球諸島風物詩集」で、大正十一(一九二二)年十一月京文社刊。当年夏の琉球弧・台湾行でものした詩集。「ミヤラビ」岩波版新全集第九巻「時折の歌」の該当歌の宗像和重氏の注記によれば「琉球諸島風物詩集」の詩「乙女座の下で」に『乙女(みやらび)美(かい)しや』とある他にも、詩集中に複数回使用される語である由。]

 

遠つ峯にかがよふ雪のかすかにも命をもると君につげなん(室生に)

 

[やぶちゃん注:「峯」は「を(お)」と読む。]

 

天雲にかよふ光や日のもとの聖母の御寺けふ見つるかも

 

わが庭は枯山吹の靑枝のむら立つなべに時雨ふる

 

露霜の朝々ふれば甘柿は葉を落したり澁柿はまだ

 

葉をこぞり風になびける墨の竹誰か描きけんこの墨の竹

 

[やぶちゃん注:以上は大正十一(一九二二)年から大正十二年に書かれたと思しい芥川龍之介の手帳「蕩々帖」(署名なし)の中に記された短歌類である。最後の六首は底本「蕩々帖」の末尾に連続して現れる。]

 

   ■   ■   ■

 

[やぶちゃん注:最後に示す一首は、岩波版旧全集の「雜」の末尾に書誌情報なしで載るものである。これは明白な長崎関連で、類型歌から推測して大正十一(一九二二)年四月二十五日から五月二十九日までの二度目の長崎行での戯れ歌に見えるが、「來シ」と過去の助動詞を使っていることから、後の回想歌でないとは言えないが、とりあえずここに配す。「赤寺」は長崎市寺町にある日本最古の黄檗宗寺院東明山興福寺。山門が唐風に朱塗りであるため、赤寺とも呼ばれる。前出注参照。「アカ」は「閼伽」で仏に供える供物という意を掛けたものであろうか。【二〇一七年一月二十六日:削除及び追記】本歌は昭和三一(一九五六)年中央公論社刊の芥川龍之介の盟友小穴隆一の「二つの繪」の「游心帳」の冒頭で、小穴の雑記帳に芥川龍之介が記した一首として、

 サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユアガ買ヒテ來シチリ紙ゾコレハ    我鬼

の形で示されてあり、この表記から「アカ」は、ただの「我(あ)が」であることが判明した。]




サミタルル 赤寺ノ

前ノ紙店ユ アカ買ヒテ

來シ チリ紙ソコレハ

 

   ■   ■   ■

 

 時折の歌

 

  柿の落葉

 

露霜の朝々ふれば甘柿は葉を落したり柿澁はまだ

 

[やぶちゃん注:前の歌群に「澁柿」以外は全く同じ歌がある。]

 

このゆふべ風呂に焚かんと裏庭の柿の落葉を掃きをる我は

 

土にしける柿の落葉は露霜に濡れたるならん掃けどもとれず

 

  佐藤惣之助君、琉球風物詩集を呉れる、すなはちお禮の手紙に。

 

空にみつ大和扇をかざしつゝ來よとつげけんミヤラビあはれ

 

 (註に曰。ミヤラビは娘子の琉球語なり)

 

[やぶちゃん注:前の歌群に相同歌あり。詞書に「手紙」とあるが、岩波旧全集書簡には佐藤惣之助宛書簡は一通も所収されておらず、年譜情報にもないため、作歌時期は未詳。]

 

  しぐれ

 

この朝げしぐれの雨のふりしかば濡れしづまりぬ庭土の荒れ

 

[やぶちゃん注:この「朝げ」の「げ」は「け」の誤りと思われる。後掲する『梅・馬・鶯』の「短歌」の相同歌を参照。「あさけ」ならば「あさあけ」の約、明け方の意である。]

 

わが庭は枯山吹の靑枝のむら立つなべに時雨ふる

 

ひさかたのしぐれを寒み口もきかず炬燵にこもる與茂平とわれは

 

  寒木堂所藏の書畫を觀る。

 

葉をこぞり風になびける墨の竹誰か描きけんこの墨の竹

 

筆太の題詩をながみうす墨の墨繪の花は傾きてをり

 

  小穴隆一君と別れる。

 

ぬば玉の夜風に春は冴ゆるころを一游亭よ風ひくなゆめ

 

[やぶちゃん注:岩波新全集第九巻より。大正十二(一九二三)年二月発行の『橄欖』の「春季特別号」に掲載されたもの。相同歌が多いが、これらがセットになったものは他にないのでここに纏めて示す。掉尾の歌は前年の暮れに小穴が脱疽のために入院、手遅れのために同年一月四日に右足首を切断した後の一月中の見舞の一首かと思われる。芥川は前年歳末の右足薬指切断術及びこの四日に行われた右足首切断術にも立ち会っている(小穴から芥川に快気祝が届いたのは同年三月九日)。]

 

   □   □   □

 

  金澤にて

 

はやうらとよながを食うてけふもまたおいその山を見てをる我は

 

むさんこにあせない旅のしよむなさはだら山中の湯にもはひらず

 

ひがやすな男ひとり來五日あまりへいろくばかり云ひて去りけり

 

かんすいなせどの山吹すいよりといちくれ雨にちりそめにけり

 

[やぶちゃん注:底本では四首の末尾には『(大正十三年五月)』の創作推定年が示されている。この頃、芥川龍之介は金沢・京都方面の旅(親族岡榮一郎結婚媒酌人としての新郎親族との挨拶を含む)に出ている。大正十三(一九二四)年五月十四日に出発、十九日まで金沢に滞在した。金沢では室生犀星の世話で兼六公園内の知られた茶屋三芳庵別荘に二泊したが、正にこれらはその別荘での吟で、金沢弁を面白おかしく用いた戯れ歌である(語注については全集類聚版脚注を大いに参考にさせて貰ったが、私も六年間富山に在住していたため、通常人よりは分かるつもりである)。以下、私なりの解釈を示す。

○第一首やぶちゃん現代語標準語訳

――早くから、夜食を食べて、今日もまた――向こうの山を眺め入る我は……

と言った意味か。「おいその山」(向こうの山)について兼六園北の卯辰山(公園となっている)と俗称していると筑摩全集類聚版脚注にはある。

○第二首やぶちゃん現代語標準語訳

――無暗に矢鱈にせわしない、旅のそのまた味気なさ――例えば、知られた馬鹿山中、そのなまぬるい湯にさえも、入らずに終えてしまったこと……

「だら山中の湯」について、筑摩全集類聚版脚注には山中温泉がその昔、『湧き出る低温の湯だけで風呂としていたので体が温まらず長く湯に入っていなければならなかった』ため、浸かり過ぎて「だら」(北陸方言で馬鹿・阿呆の謂い)のようになったことからの謂いとある。

○第三首やぶちゃん現代語標準語訳

――お化けのような痩せ枯れた、男一人がやって来て――五日余りも出鱈目ばかり、べらべらべらべらお喋りし――したがまんまに去りよった……

○第四首やぶちゃん現代語標準語訳

――ほんに小さな背戸の山吹――日暮れの雨にあっさりと、すっかりみんな散りきって――辺り一面、黄金こがねに染めた……

筑摩全集類聚版脚注に「かんすいな」を『ごく少ない。』、「すいよりと」を『すんなりと。たわむさま。』とする。流石にこの一首だけは、これらの注なしには分からなかった。筑摩全集類聚版脚注に感謝する。]

 

   ■   ■   ■

 

いざ子ども利鎌とがまとりもち宇野麻呂が揉み上げ草を刈りて馬飼へ

 

[やぶちゃん注:岩波新全集で発見、岩波版旧全集第七巻所収の同作「格さんと食慾」より抽出した。「宇野麻呂」は「小説の鬼」宇野浩二(明治二四(一八九一)年~昭和三六(一九六一)年)のこと。本名は正しくは格次郎。芥川とは大正九(一九二〇)年の江口渙の「赤い矢帆」出版記念会で知遇を得、以後、親しく交わった。昭和二(一九二七)年に精神に変調をきたした(梅毒性早発性痴呆が疑われる)際には、母の精神病の遺伝を恐れていた芥川龍之介に激しいショックを与えた。斎藤茂吉の紹介により入院するが、芥川はその畏友宇野の退院を待たずに自死した。本歌は大正十三(一九二四)年八月発行の『新潮』に大見出し「人間随筆(其九)――最近の宇野浩二氏――」の下に芥川龍之介の他、久米正雄ら十人の文章と岡本一平のスケッチを載せたものの一篇の末尾に附されている。短いので全篇を以下に示す。

 

格さんと食慾

    ――最近の宇野浩二氏――

 宇野浩二は聡明の人である。同時に又多感の人である。尤も本來の喜劇的精神は人を欺くことがあるかも知れない。が、己を欺くことは極めて稀にしかない人である。

 のみならず、又宇野浩二は喜劇的精神を發揮しないにもしろ、あらゆる多感と聡明とを二つとも兼ね具へた人のやうに滅多にムキにはならない人である。喜劇的精神を發揮することそのことにもムキにはならない人である。これは時には宇野浩二に怪物の看を與へるかも知れない。しかし其處に獨特のシヤルム――たとへば精神的カメレオンに對するシヤルムの存することも事實である。

 宇野浩二は本名格二(或は次)郎である。あの色の淺黑い顏は正に格二郎に違ひない。殊に三味線を彈いてゐる宇野は浩さん離れのした格さんである。

 次手に顏のことを少し書けば、わたしは宇野の顏を見る度に必ず多少の食慾を感じた。あの顏は頰から耳のあたりをコオルド・ビフのやうに料理するが好い。皿に載せた一片の肉はほんのりと赤い所どころに白い脂肪を交へてゐる。が、ちよつと裏返して見ると、鳥膚になつた頰の皮はもぢやもぢやした揉み上げを殘してゐる。――と云ふ空想をしたこともあつた。尤も實際口へ入れて見たら、豫期通り一杯やれるかどうか、その邊は頗る疑問である。多分はいくら香料をかけても、揉み上げにしみこんだ煙草の匂は羊肉の匂のやうにぷんと來るであらう。

   いざ子ども利鎌とがまとりもち宇野麻呂が揉み上げ草を刈りて馬飼へ

 

「シヤルム」は“charme”フランス語で「魅力」の意。「コオルド・ビフ」は“cold beaf”でローストビーフの冷製。なお、ここで芥川が想定している「格さん」とは、我々にも馴染みの深い講談「水戸黄門漫遊記」中の架空の人物である渥美格之進、格さんであろうか? 因みに筑摩全集類聚版脚注には、この歌は「万葉集」巻十六の第三八四二番歌、

  平群朝臣へぐりのあそみわらへる歌一首

小兒わはらども草はな刈りそ八穗蓼やほたでを穗積の朝臣が腋草わきくさを刈れ

○やぶちゃん現代語訳

――餓鬼ども! 草なんど刈ったらあかん! 穂積の朝臣あそんの、あの――臭っさい脇毛を刈ったりや!――

のパロディとする。「八穗蓼」とは沢山の穂がついたたでの意味であるが、ここでは「八穗蓼を」で「穗」を導くための枕詞として機能している。また「腋草」は勿論、生い茂った腋毛の謂いであるが、同時に腋臭わきがの臭さを「草」に掛けてある。――それにしても芥川はこの手のヘンな万葉の歌が殊の外、好きらしい。……]

 

   ■   ■   ■

 

 越びと 旋頭歌二十五首

 

   一

 

あぶら火のひかりに見つつこころ悲しも、

み雪ふる越路のひとの年ほぎのふみ

 

むらぎものわがこころ知る人の戀しも。

み雪ふる越路のひとはわがこころ知る。

 

うつし身を歎けるふみの稀になりつつ、

み雪ふる越路のひとも老いむとすあはれ。

 

   二

 

うち日さす都を出でていく夜ねにけむ。

この山の硫黄の湯にもなれそめにけり。

 

[やぶちゃん注:「うち日さす」は「都」の枕詞。「この山の硫黄の湯」は後出の「箱根細工」からも箱根が疑われるのであるが、年譜情報からは芥川の本歌を創作したと思われる当該期間に箱根行の事実が確認出来ない。更に調査中。]

 

みづからの體温るははかなかりけり、

靜かなる朝の小床をどこに目をつむりつつ。

 

何しかも寂しからむと庭をあゆみつ、

ひつそりと羊齒しだ卷葉まきばにさす朝日はや。

 

ゑましげに君と語らふ君がまな

ことわりにあらそひかねてわが目守まもりをり。

 

[やぶちゃん注:「君がまな子」は廣子の娘總子。ペン・ネーム宗瑛(そうえい 明治四十(一九〇七)年~昭和五七(一九八二)年)。廣子と同様に堀辰雄の初期小説群にしばしばヒロインとして登場する人物のモデルである。]

 

寂しさのきはまりけめやこころらがず、

この宿の石菖せきしやうの鉢に水やりにけり。

 

[やぶちゃん注:単子葉植物綱サトイモ目ショウブ科ショウブ属セキショウAcorus gramineus。谷川・湖沼・湿地帯に自生するショウブの仲間。]

 

朝曇りすずしきみせに來よや君が子、

玉くしげ箱根細工をわが買ふらくに。

 

[やぶちゃん注:「玉くしげ」は「箱」の枕詞。]

 

池のべに立てるかへでぞいのちかなしき。

幹に手をさやるすなはちをふるひけり。

 

腹立たし身と語れる醫者の笑顏ゑがほは。

馬じものいばひわらへる醫者の齒ぐきは。

 

[やぶちゃん注:「馬じもの」の「じもの」は接尾語で名詞に付いて「~のようなもの」という意を表す。「あたかも馬のように」の意。この人物は恐らく岩波版旧全集書簡番号一三六二の大正十四(一九一五)年八月二十九日附塚本八洲(妻文の弟。結核で長い闘病生活を送った)宛書簡に登場する後者の歯科医であろう(なればこその「齒ぐき」なのではなかろうか)。以下にその軽井沢からの書簡の一部を示す。

目下同宿中の醫學博士が一人ゐますが、この人も胸を惡くしてゐたさうです。勿論いまはぴんぴんしてゐます。この人、この間「馬をさへながむる雪のあしたかな」と云ふ芭蕉の句碑を見て(この句碑は輕井澤の宿シユクのはづれに立つてゐます)「馬をさへ」とは「馬を抑へることですか?」と言つてゐました。氣樂ですね。しかし中々品の好い紳士です。それからここに別荘を持つてゐる人に赤坂邊の齒醫者がゐます。この人も惡人ではありませんが、精力過剰らしい顏をした、ブルドツクに近い豪傑です。これが大の輕井澤ツウで、頻りに僕に秋までゐて月を見て行けと勧誘します。その揚句に曰、「どうでせう、芥川さん、山の月は陰氣で海の月は陽氣ぢやないでせうか?」僕曰、「さあ、陰氣な山の月は陰氣で陽氣な山の月は陽氣でせう。」齒醫者曰「海もさうですか?」僕曰「さう思ひますがね。」かう言ふ話ばかりしてゐれば長生をすること受合ひです。この人の堂々たる體格はその賜物かも知れません。僕はこの間この人に「あなたは煙草をやめて何をしても到底肥られる體ぢやありませんな。まあ精々お吸ひなさい」とつまらん煽動を受けました。

「惡人ではありませんが」と断っているが、如何にも生理的に不快な相手であることが髣髴としてくる音信で、本歌の「腹立たし」「馬じもの嘶ひわらへる醫者の齒ぐき」が美事にダブって来るように思われるのである。]

 

うつけたるこころをもちてまちながめをり。

日ざかりの馬糞ばふんにひかる蝶のしづけさ。

 

[やぶちゃん注:この歌には先行する「芥川龍之介未定稿集」に『(大正六、七年 未発表)』で載る、

 

くろぐろと馬糞にむるる日陰蝶羽をすり合せ晝たけにけり

 

を原型とするものである。更に――昭和六(一九三一)年九月改造社刊行の『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」に収載する次の一首、

 

日の照りのいちめんにおもし路のうへの馬糞にうごく青き蝶のむれ 片山廣子

 

は、本歌との美しき――『馬のまり』相聞歌――であると断言しても、異を唱える人は最早あるまい。]

 

うしろより立ち來る人を身に感じつつ、

電燈の暗き二階をつつしみくだる。

 

たまきはるわがうつし身ぞおのづからなる。

赤らひくはだへをわれのはずと言はめや。

 

[やぶちゃん注:「たまきはる」は「(わが)現し(身)」の枕詞。「赤らひく」は(血色のいい・美しい)「肌」の枕詞。]

 

君をあとに君がまなは出でて行きぬ。

たはやすく少女をとめごころとわれは見がたし。

 

ことにいふにたへめやこころしたに息づき、

君がをまともに見たり、鳶いろのを。

 

   三

 

秋づける夜を赤赤あかあかあまづたふ星、

東京にわが見る星のまうら寂しも。

 

わがあたま少しにぶりぬとひとりごといひ、

薄じめる蚊遣線香かやりせんこに火をつけてをり。

 

ひたぶるに昔くやしも、わがまかずして、

垂乳根たらちねの母となりけむ、昔くやしも。

 

[やぶちゃん注:「わがまかずして」は、私と寝ることもなく、まぐわうことなく、の意――片山廣子は第一次芥川龍之介全集の編者で極めて親しかった堀辰雄に、「越しびと」を全集に載せる際、芥川龍之介のためにも、ある一首だけは削除して欲しいと懇請している。二〇〇五年講談社刊の川村湊「物語の娘 宗瑛を探して」に所収する昭和三(一九二九)年一月十九日附片山廣子堀辰雄宛書簡を以下に引用する(但し、私のポリシーに則り、漢字を恣意的に正字に変えた)。

 それから「越しびと」の件はいろいろ御心配をかけてすみません むろんわたくしの名をおつしやつて下さるともあるひは「越しびと」と自分で信じてゐる人からたのまれたとおつしやつてもそれは御隨意です よろしくおとりはからひ下さい、あのうたを一つぬきたいといふわたくしの心持はけつして自分一人のためではないつもりです あのうた全部をよりよいものにしたいと思ふ心持もあるのです 作者は死ぬことを考へてゐたときにわたくしの事や「越しびと」のうたのことを考へる餘裕は持つてゐなかつたでせう、ですからわたくしが自分で考へるのです、あなたが心配して下すつてそれがうまく行かなかつたらそれはそのときの事です、玉は玉で石は石でごみはごみです、わたくしの眼にはなくなつた方のものがすベてがおんなじには見えません 

川村氏も同書で推定されているように、その一首とは――私も恐らくは、この一首であったものと思っている。勿論、この願いは聞き入れられなかった。当然である。既に世に公表されている歌群から、歌柄に読まれた当事者からとはいえ、それがその当事者の名誉毀損になるのが顕在的であるならまだしも(二人の関係が周辺者によって暗黙の内にある程度知られていたにしても――実際には芥川の廣子への恋情や二人の関係を十全に理解し、よく知っていた当時の人物は、堀辰雄や室生犀星などの数人を除いて、殆んどいなかったと私は思っている――本歌群の対象が直ちに片山廣子であることが大多数の当時の大衆に知れてしまうというようなことは当然なかった)、自身への露骨な性的願望が示されているから(この場合、芥川龍之介が片山廣子を熱愛していた事実はっきりしており、また廣子が芥川を愛していた事実も明白である以上、セクシャル・ハラスメントとしての立件も難しい。それでも廣子が芥川龍之介死後の自身の恥辱に堪えられないから、全集からの合法的な削除を要請するというのであれば――その前に、これが載った雑誌『明星』の出版差し止めや回収請求が起こされねばならぬことになる)、素晴らしい歌群の「ごみ」=瑕疵であるから削除して欲しいというのはいっかな通らぬ謂いである。同じく川村氏が述べておられるように、これは逆に廣子の芥川への思いの中にも、プラトニックなものばかりではなく、秘めておきたい性的な願望(それは勿論、無意識的なものであって、これも川村氏と同じく、私は芥川龍之介と片山廣子との間に、そのような実際的な肉体関係があったとは全く思っていない)があったことを示しているものと言えるのである。]

 

たそがるる土手のしたべをか行きかく行き、

寂しさにわが摘みむしる曼珠沙華まんじゆしやげはや。

 

曇り夜のたどきも知らず歩みてやし。

火ともれる自動電話に人こもる見ゆ。

 

[やぶちゃん注:「たどき」は「方便たどき」で、「たづき」の転訛。手段・手がかり。奈良時代に多用された。]

 

寢も足らぬ朝日に見つついく經にけむ。

風きほふ狹庭さにはのもみぢ黑みけらずや。

 

小夜さよふくる炬燵の上にあごをのせつつ、

つくづくと大書棚おほしよだな見るわれを思へよ。

 

今日けふもまたこころ落ちゐず黄昏たそがるるらむ。

向うなる大き冬樹ふゆきうらゆらぎをり。

 

かどのべの笹吹きすぐる夕風のおと

み雪ふる越路こしぢのひともあはれとは聞け。

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年三月発行の雑誌『明星』に芥川龍之介名義で掲載。片山廣子所縁の絶唱群である。これは私が既に単独でテクスト化している。この「越びと」という片山廣子への芥川龍之介の秘やかな呼称は「片山廣子歌集 翡翠」の中の「輕井澤にてよみける歌十四首」の巻頭を飾る次の一首、

空ちかき越路の山のみねの雪夕日に遠く見ればさびしき

基づくものであろうと考えられる(これは川村湊氏も「物語の娘 宗瑛を探して」で同様の推定をされておられる)。龍之介が「新思潮」に廣子の歌集「翡翠かはせみ」の評を書いたのは、大正五(一九一六)年のことであるが、この前に廣子が龍之介に「翡翠」を献本していた可能性が高いと私は考えている。勿論、唐突に廣子が自分の処女歌集を未知の龍之介に送ることは考えられないから、恐らくはそれ以前に、廣子の何らかの翻訳作品を介在として、英文学専攻の龍之介と彼女は接点があったものと思われる。この歌自身は勿論、廣子が龍之介に出逢うずっと以前に詠まれたものであるが、後に龍之介が廣子と運命的な出逢いをすることとなった軽井沢を詠み込んだ一首は――廣子との思い出の碓氷峠に纏わる「越路」というイメージを鮮烈に結ぶものとしても――廣子に切々たる恋情を抱いた龍之介に強く刻まれることとなったものと考えられる。この歌を口ずさむ龍之介には、間違いなく、廣子のペンネーム「みね」子への連想も付随していたに違いない。その龍之介の切ない「みね」子への「さびしき」思いの、その予兆的一首として、晩年の龍之介にそれが意識されたのだと私は思うのである。彼女と芥川龍之介の関係については、私の「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・評論・随筆篇」の片山廣子のテクスト群やブログ・カテゴリ「片山廣子」、私の論考やぶちゃんの作品『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』等を参照されたい。なお、私の電子テクスト中、
片山廣子集 《昭和六(一九三一)年九月改造社刊行『現代短歌全集』第十九巻版》全
片山廣子歌集「野に住みて」 全 附やぶちゃん注
片山廣子歌集「野に住みて」抄――やぶちゃん琴線抄七十九首――
等の「日中」歌群を中心とした、軽井沢での片山廣子の吟などをも是非参照されたい――いや、それ以外にも、廣子の芥川の死後の歌にも、いつか、ふと芥川の影がさしている――芥川龍之介の旋頭歌と片山廣子の和歌――それはこの二人の、遂に逢はざりし人の面影、永遠の相愛者の相聞歌群であると私は思う――。]


 

   ■   ■   ■

 

  「となりのいもじ」に蕪の鮓をおくる

 

金澤の蕪の鮓は日を經なばあぶらや浮かむただにしたまへ。

 

[やぶちゃん注:岩波版旧全集では「たまへ」は「給へ」と漢字表記であるが、初出に拠った新全集の表記を採った。「蕪の鮓」はかぶら寿司のこと。ウィキの「かぶら寿司」から引用する。『なれずしの一種であり、イズシ系と分類されるすしである。塩漬けにしたカブで、やはり塩漬けにしたブリの薄切りを挟み込み、細く切った人参や昆布などとともに、米麹(糀)で漬け込んで醗酵させたものである』。『独特のコクと乳酸の香りをもつために、おもに酒の肴と』し、『ブリの水揚げが最盛期となる冬の名産であり、この地方の正月料理の一品でもある』。――以下、大脱線する。――これ、私の父の大好物であり、同時に私とっては所謂、好んで食べたくはない、珍しく嫌いな部類に属する(私は絶対に嫌いな食べ物というとマシュマロしか浮かばない)食べ物の一つである。私が何故、嫌いなのかと言えば、酒好き乍ら、酒粕系の漬物は、実は押しなべて好まないのと(奈良漬も好きではない)、実のところ、かつて父が「こんな美味いもの、どうして食わない!」と、如何にも食わない私を人間じゃないように言い――味噌汁が嫌いな日本人らしからぬ、あの父が――何度も何度も理不尽に薦めたことこそが――実は永遠に嫌いになった不幸の原因であると、今も思っているのである。――閑話休題。「澄江堂日録」の大正十四(一九二五)年二月五日の条に、

二月五日

香取先生より鴨を賜る。金澤の蕪鮓をおかへしにする。蕪鮓は泉さんに貰ひしもの。使を待たせておいて速製の歌を造る。「たてまつる蕪の鮓は日をへなばあぶらや浮かむただに食したまへ。」

[やぶちゃん注:無関係な記載のため、一行省略。]

「たてまつる」を「金澤の」に改む。六日追記。

とある。泉さんは泉鏡花のこと。]

 

  宇野浩二にたはむる

 

いざ子ども利鎌とがまとりもち宇野麻呂のもみ上げ艸を刈りて馬飼へ。

 

[やぶちゃん注:前出の「格さんと食慾――最近の宇野浩二氏」の最後に記す歌。但し、ここでは末尾に句点を打っている。前出当該注参照のこと。]

 

 金澤なる室生犀星におくる

 

遠つにかがよふ雪のかすかにも命をると君につげなむ。

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年四月発行の『文藝日本』に「澄江堂雜詠」の標題、「芥川龍之介」の署名で掲載された。総て既出であるが、晩年最後の纏まった雑誌公開分であるので採録した。]

 

   ■   ■   ■

 

空にみつ大和扇をかざしつつ來よとつげけん「みやらび」あはれ

 

[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年六月発行の『新潮』に載った「澄江堂雜詠」の『三 「みやらび」』より。大正十二(一九二三)年二月発行の『橄欖』の「時折の歌」のものとほぼ相同であるが、「つゝ」及び括弧なしの「ミヤラビ」表記が異なるのでここに配す。以下、前文が短いので総て示す(底本は岩波版旧全集を用いた)。

 

       三 「みやらび」

  佐藤惣之助君に貰つた「琉球諸島風物詩集」によれば、琉球語に娘子を「みやらび」と言ふさうである。「みやらび」と言ふ言葉は美しい。即ち禮状のはしに「みやらび」の歌一首を書いて送つた。何でもこの「みやらび」どもはしんとんとろりと佐藤君に見とれたやうに聞き及んでゐる。

   空にみつ大和扇をかざしつつ來よとつげけん「みやらび」あはれ

 

なお、前掲の「時折の歌」の私の注も参照のこと。]

 

   ■   ■   ■

 

  青根温泉

 

枝蛙木ぬれひそかに鳴く聲のきよらかなるも道細りつつ

 

[やぶちゃん注:前掲「春草會にて」の私の注を参照。青根温泉は宮城県柴田郡川崎町、蔵王山麓に位置する温泉。芥川は大正九(一九二〇)年八月一日から二十八日迄の約一ヶ月間をここで滞在している。不眠症に悩まされ、仕事は捗らなかった。]

 

  吉井勇に戲る 二首

 

末の世のくどきの歌の歌ひじり吉井勇に酒たてまつる

 

赤寺の南京寺の瘦せ女餓鬼まぎはまぐとも酒なたちそね

 

  丸善の二階

 

しぐれふる町をかそけみここにして海彼かいひの本をめでにけるかも

 

  小澤碧童に

 

窓のへにいささむら竹軒のへに糸瓜ある宿は忠兵衞が宿

 

きみが家の軒の糸瓜はけふの雨に臍落ちたりやあるひはいまだ

 

  即 景

 

手水鉢の水にいささか濁り立ち南天の花は咲きすぎにけり

 

  上 海

 

うす曇るちまたを見つつ暗緑の玉子食ひをれば風吹きにけり

 

  戲れに河郎の圖を作りて

 

橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆる禿かぶろのあたま

 

  湯河原温泉

 

おぼろかに粟の垂り花見えそむるこのあかつきは靜かなるかな

 

  閑 庭

 

秋ふくる晝ほのぼのと朝顏は花ひらきたりなよ竹のうらに

 

朝顏のひとつはさける竹のうらともしきものは命なるかな

 

  「となりのいもじ」香取先生に

 

冬心とうしんの竹の晝見にひさかたの雪茶を煮つつわが待つらくに

 

  椎の木

 

さ庭べに冬立ち來らし椎の木の葉うらの乾きしるくなりけり

 

霜曇るさ庭を見れば椎の木の葉かげの土も荒れてゐにけり

 

  本所の舊居を憶ふ

 

露霜の朝朝ふれば甘柿は葉をおとしたり澁柿はまだ

 

[やぶちゃん注:「本所の舊居」は実母フクの実家芥川家の旧居。本所区小泉町十五番地(現在の墨田区両国三丁目二十二番十一号)にあった。芥川龍之介は生まれて間もなく、フクの精神病発症により、新原家から養子に行き、ここで満十八歳になるまで住んでいた。]

 

  佐藤惣之助君琉球諸島風物詩集を贈る ミヤラビは娘子の稱なり

 

空みつ大和扇をかざしつつ來よとつげけむミヤラビあはれ

 

  しぐれ

 

この朝けしぐれの雨のふりしかば濡れしつまりぬ庭土の荒れ

 

わが庭はかれ山吹の青枝のむら立つなべにしぐれふるなり

 

  寒木堂所藏の書畫を觀る 二首

 

葉をこぞり風になびける墨の竹誰か描きけむこの墨の竹

 

題したる詩長くしてうす墨の墨繪の花は傾きてをり

 

  室生犀星君に

 

遠山とほやまにかがよふ雪のかすかにも命をると君につげなむ

 

  香取先生に

 

金澤のさはらのすしは日をへなばあぶらや浮かむただにし給へ

 

  鵠 沼

 

春雨はふりやまなくに濱芝の雫ぞ見ゆるねてはをれども

 

[やぶちゃん注:「濱芝」とは海岸性の丸い葉を持った双子葉植物綱ツバキ目ツバキ科ヒサカキ属ハマヒサカキEurya emarginataの異名と思われる。「ハマシバ」は前出の単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギCarex kobomugiコウボウムギの異名(方言)としてもあり、またそれと同じスゲ属にはコウボウシバCarex pumilaなる種もあるが(但し、これを「浜芝」と呼ぶかどうかは知らない)、「雫」を置くとなれば、葉の厚く広いハマヒサカキであろうと思われる。]

 

  犬

 

わが前を歩める犬のふぐり赤しつめたからむとふと思ひたり

 

  計二十五首。大正八年より大正十五年に至る。

 

[やぶちゃん注:以上、岩波版旧全集「詩歌」のパートの短歌総て。大正十五(一九二六)年十二月新潮社刊の単行作品集『梅・馬・鶯』に「短歌」の題で収められたもの。後記によれば、普及版全集では最後の「わが前を」の歌の後に、

 

  病中偶作

 

わが門のうすくらがりに人のゐてあくびせるにも驚く我は

 

という一首を掲げている、とある(この一首は他に見られない未見の一首であるが、出典不詳である)。語注については大正十一(一九二二)年三月発行の『中央公論』の「我鬼抄」他、先行する私の諸注を参照されたい。これは最も公的な芥川龍之介短歌群であるので、相同歌や相似歌が如何にも多いのだが、あえて最後の統括提示として相同相似注記や再語注は今回ほぼ完全に排除して示した。]

 

   ■   ■   ■

 

    ○

 

    柳田國男氏に

 

君が文を鐵箒に見て思へらくもまた「けちな惡人」なるらし

 

[やぶちゃん注:「鐵箒」は「てつさう(てっそう)」と読む。当時の『東京朝日新聞』に最初に作られた投稿欄の名前である。当初は記者が書くコラムとして大正八(一九一六)年に始まったが、翌大正九年には一般読者投稿も採用し始めた。現在の「声」に相当するものであるが、ネット上で該当欄の画像で形態を見、また内容を読んでみると、寧ろ現在の記者が書く「天声人語」と同じと言った方がいい、内容的にも高度に優れたものであることが分かる(以上は二〇〇〇年度立命館大学産業社会学部朝日新聞協力講座ニュースペーパーリテラシー第九回「新聞との関わり」の「声」編集長の北村英雄氏の二〇〇〇年十一月三十日の講演記事を参照した)。「けちな惡人」という柳田の該当記事は大正十五(一九二六)年十二月二日付『東京朝日新聞』の「鐵箒欄」に掲載された記事の標題である。柳田國男の新版全集には収録されているが、残念なことに私は旧版を元に編集された文庫版しか所持しておらず、職場の図書館の所蔵も旧全集で当該評論を読むことは出来なかった。その内、読む機会があれば芥川龍之介が「けちな惡人なるらし」と言った真意を究明すべく、その梗概を提示しようと思っている。]

 

しかはあれ「山の人生」はもとめ來ついまもよみ居り電燈のもとに

 

[やぶちゃん注:「山の人生」は大正十五(一九二六)年二月に郷土研究社から刊行された柳田民俗学の核心に触れる記念碑的著作で、「遠野物語」に刺激された彼が、山中異界へと本格的に旅立った最初の作品である。なお、大正十五年十二月二日附柳田國男宛書簡(葉書・鵠沼から発信)にこのカタカナ表記のこの二句(「吾」を「ア」とする点が異なるを含む三首が載っているので以下に示す。

 君ガ文ヲ鐵箒ニ見テ思ヘラクアモマタ「ケチナ惡人」ナルラシ

 シカハアレ「山ノ人生」ハモトメ來ツイマモヨミ居リ電燈ノモトニ

 足ビキノ山ヲカナシト世ノ中ヲ憂シト住ミケン山男アハレ

   十二月二日夜半

歌トハオ思ヒ下サルマジク候

芥川龍之介よ、悪いな、歌として採るよ。]

 

    ○

 

文書かん心も細り炭取りの炭の木目を見て居る我は

 

    ○

 

啄木は今もあらずも日なぐもる岩手の山に鳥は啼きつつ(五月、盛岡)

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」より。末尾に編者による『(大正十五年―昭和二年)』の創作推定年が示されている。最後の一首は里見弴と共に改造社版『現代日本文学全集』宣伝講演旅行のため、東北・北海道に方面に向けて五月十三日~二十五日に旅した途次の嘱目吟である(この旅中を作品化したものが「東北・北海道・新潟」。実は是非、私のその冒頭注の推理をお楽しみ戴きたいのである)。盛岡着は昭和二(一九二七)年五月十五日であるが、翌日には函館に向かって出立しているから、この歌の嘱目は五月十五日か十六日午前中(午前十一時四十二分盛岡発急行に乗車している)迄と同定出来る。]

 

 

編年体やぶちゃん版芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注 完