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鬼火へ

片山廣子歌集「野に住みて」抄
        ――やぶちゃん琴線抄79首――   
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[やぶちゃん注:以下は、片山廣子の第二歌集『野に住みて』(昭和二十九(一九五四)年一月第二書房発行)原本から私の琴線に特に触れたものを順列に従って選した。確かな芥川龍之介の影と感じられるものとその確信犯的歌群と目される『輕井澤にありて(大正十四年――昭和二十年)』パートの『日中』歌群と『しろき蛾』歌群は総べて採るという先行した自己制約以外は、選に際して自身に全く強いなかったつもりである(いや、芥川の影とは僕の神経症的幻覚であってとんでもない詠み違いから、対象が芥川でないものを誤読しているものも中には確かに含まれている。ただ私はこれぞ芥川の影と注記しない限りに於いて、私にそれが芥川の影であると感じたことを読者であるあなたに語らねばならない義務はないのである。自由な鑑賞をされたい)。さればこそ、79という半端な選数のままとしてある。逆に、その詩想に共感しながらも、少しでも微妙な不足を感じたものについては選から外したし、言わずもがな、既出の如何なる識者の歌評や選抄にも影響されていないと言える(それほどに私は短歌的世界に冷淡であるとも言えるし、短歌が分からない人間でもあると言えるのかも知れぬ。そのような不逞の輩の選抄として鑑賞されかし)。詞書については、最も大きな歌群パート主題を二字下げ、その中の歌群主題を三字下げとし、更にそれにポイント落としのエピグラフがつく場合は、前の詞書と同ポイントで、四字下げとした。底本では漢字の「黒」の字体の一部が新字体となっているが、筆者の書き癖ではなく、印刷会社の活字の問題と判断し、正字に直した。なお、一部の歌の後に簡単な注を附した。【二〇〇九年四月二十六日】 誤植・脱字訂正。【二〇〇九年五月九日】 誤字・脱字訂正。【二〇〇九年五月十三日】 注記増補。【二〇〇九年五月十六日】]

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東北にて(昭和十六年――十八年)

   中尊寺

 

大杉もうごく日光ひかり閑寂しづかなる山寺の路にわれはよそびと

 

東北の山寺のなかにわが觸れし虚無の感じを秋風に吹かす

 

[やぶちゃん注:昭和十六(一九四一)年十月の作と推定される。]

 

 

 

東北にて(昭和十六年――十八年)

   石の卷

 

まひるまの空氣騒がして鷗とぶ船つくり場の黑き屋根のへ

 

日だまりに櫻葉ちりし家むらよまた見む日なく遙かなるかも

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   秋

 

秋づきてさびしき生活くらし狐など訪ひくる支那物がたりめく

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   湖魚

 

波くぐりさばしるものの姿體かたちして身の透きとほり光る乾魚ほしうを

 

魚見つつみづうみ思ひ水おもひまぼろしは飛ぶ秋の山原

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   海鳥

 

堀割の油うく水とすれすれに飛ぶ鳥のつばさ眞白なるかな

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   微笑

 

わが前に白くかがやく微笑なり月日流れて友をもふとき

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   待つ

 

世をさかる寡婦ひとりのわれにうらやすく人の洩らしし嘆きもあはれ

 

脚折れし玩具の鹿を箱によせかけ痛むこころに立たせて見つつ

 

まどふ吾に一つの示教をしへたまひける或る日の友よ香たてまつる

 

地獄といふ苦しみあへぐところなどこの世にあるを疑はぬなり

 

[やぶちゃん注:私には、この「地獄といふ」の歌が、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の次の有名な一節と二重写しになって仕方がない。

 

      地  獄

 

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の與へる苦しみは不幸にもそれほど單純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外樂樂と食ひ得ることもあるのである。のみならず樂樂と食ひ得た後さへ、腸加太兒の起ることもあると同時に、又存外樂樂と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順應するのは何びとにも容易に出來るものではない。もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。]

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   早春

 

火を吹けばわが息に炭火おこるなりそとは風まじり雨荒き夜

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   淺間山

 

一人なる夜の卓子にわが指と銀器がくろき影をもちたり

 

赤いあかりほのかに壁に映りをり耳なりすれば目をさましゐる

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   よき言葉

 

くたびれて地下鐵おりし夜ふけなり全身うつる歩廊の鏡

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   白鷺

 

山山に山窩ら住みし世はすぎたれ厚木はけふも山のにほひす

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   鐵橋

 

川原の石みな温かくぬくもりて空に片よるまあかき冬日

 

きつねや犬と野に住みし祖先らも寂しくなり川などながめけむ

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   砂漠

    舊約聖書、出埃及記をよみ、モーセをおもふ

 

四十年砂漠のなかに住みけりと讀みしは古きよそぐにのこと

 

山にのぼり約束の國のぞみ見て息たえけるとふみには書けり

 

[やぶちゃん注:両首とも、明白に戰時中の作で、当時の日本国民の行く末を「出エジプト記」のイスラエルの民に擬えて警喩した反戰歌であることに着目されたい。]

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   煙草

    友田恭助氏を

 

クリークのにごりたる水に隠れけむかの美しくしづかなるかほ

 

[やぶちゃん注:「友田恭助」(明治三十二(一八九九)年~昭和十二(一九三七)年)は新劇の俳優。築地小劇場創立に参加し、昭和七(一九三二)年に築地座を結成、雑誌『劇作』等での活動を通して、若い演劇人・劇作家を育てた。その後、文学座の創立に参加するも、直後に召集され、昭和十二(一九三七)年十月六日、上海郊外の呉淞で戦死した。享年三十八歳。恐らく、廣子とは、松村みね子名義でのアイルランド文学・イギリス文学の戯曲翻訳等を通して、親交があったものと推定される。]

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   希望

 

希望のぞみもつは希望のぞみ失ふことなりと吾にいひけるその友も死に

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   ふるき家

 

女らの靜かにくらすまひる間を黑きのら猫が縁にあがりくる

 

くれはやき山手の坂を下りくれば花屋のあかりに菊の花しろく

 

[やぶちゃん注:「くれはやき」の歌については、昭和十一(一九三六)年頃の廣子の歌に、

暮れかかる山手の坂にあかり射して花屋の窓の黄菊しらぎく

というのがあり、本歌はその改案と思われる。この「暮れかかる」の歌については、私の電子テクストの、片山廣子の随筆「花屋の窓」及び芥川龍之介の『Gaity座の「サロメ」』を是非合わせてお読み戴きたい。]

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   おもひいづる

 

傘のほね秋の空氣に開かれて明るき前庭にはのいくつもの圓

 

[やぶちゃん注:廣子の知人の和傘の職人の自宅を訪問した際の嘱目吟。]

 

 

 

  ふるき家(昭和十八年――十九年)

   春夜

 

鏡にうつしながむる窓外そとの椿の花しぼり花咲き春はいま盛り

 

[やぶちゃん注:「春夜」の前書きに本歌一首のみ。]

 

 

 

  野に住みて(昭和十九年――二十二年)

   かへり來て

 

こよひまた夜ふけの窓に見てありぬ秋野に光る一つの燈火あかり

 

[やぶちゃん注:この歌を含め、以下の「野に住みて」歌群からの私の選歌は総て敗戦後の吟である。]

 

 

 

  野に住みて(昭和十九年――二十二年)

   浮浪人

 

水ばかりのみける人ら飲食おんじきの店店つづく街にさまよふ

 

 

  野に住みて(昭和十九年――二十二年)

   春日

 

わらべ三人春日を浴びてならび行く左の端が一ばん大きい

 

おろかしき母かなけふも春日みつつなほ靑年なる顏おもひゐし

 

 

 

  野に住みて(昭和十九年――二十二年)

   夏ふかく

 

むさし野よめざましく淸しこの國が戰はざりし好き日のごとく

 

 

 

  野に住みて(昭和十九年――二十二年)

   騒音

 

わかきらが海彼に死ぬ日まぼろしはあやに明るき銀座を見しや

 

 

 

  輕井澤にありて(大正十四年――昭和二十年)

   日中

    信濃追分にて

 

はれやかに沓掛の町の屋根をみるこの川ほとり人なく明るし

 

しみじみとわれは見るなり朝の日の光さだまらぬ浮洲の夏ぐさ

 

風あらく大空のにごり澄みにけり山山に白き卷雲をのこし

 

板屋根のふるび靜かなる町なかにただ一羽飛ぶつばめを見にけり

 

さびしさの大なる現はれの淺間山さやかなりけふの靑空のなかに

 

影もなく白き路かな信濃なる追分みちわかれめに來つ

 

われら三人影もおとさぬ日中につちうに立つて淸水のながれを見てをる

 

しづかにもまろ葉のみどり葉映るなり「これは山蕗」と同じことを言ふ

 

土橋を渡る土橋はゆらぐ草土手をおり來てみればのびろし畑は

 

明るすぎる野はらの空氣まなつ日の荒さをもちて迫りくるなり

 

日傘させどまはりに日あり足もとの細ながれを見つつ人の來るを待つ

 

日の照りの一めんにおもし路のうへの馬糞にうごく靑き蝶のむれ

 

[やぶちゃん注:公開はこれに先立つ(大正十四(一九二五)年)が、芥川龍之介の旋頭歌「越びと」の、

うつけたるこころをもちてまちながめをり。
日ざかりの馬糞ばふんにひかる蝶のしづけさ。

は、その心に於いて本歌との相聞歌であると言って異を唱える人は最早あるまい。]

 

四五本の樹のかげにある腰掛場ことしも來たり腰かけてみる

 

しろじろとうら葉の光る樹樹ありて山すその風に吹かれたるかな

 

われわれも牧場のけものらと同じやうに靜かになりて風に吹かれつつ

 

友だちら別れむとして草なかのひるがほの花みつけたるかな

 

をとこたち煙草のけむりを吹きにけりいつの代とわかぬ山里のまひるま

 

[やぶちゃん注:本歌群が最も濃厚な生前の芥川龍之介の影を持っていることは、以下の堀辰雄の記載によって明らかである。即ち、大正十四(一九二五)年の夏を輕井澤で過した堀辰雄が義父上條松吉に宛てた書簡類があり、それを後年、堀辰雄自身が整理して「父への手紙」として整理した際のメモが遺されている。そこにはこれらの歌群を指すと思われる『○片山廣子「日中」』という柱の下、『夏の末、片山夫人令孃、芥川さんと一緒にドライブした折の作』という記載があるのである。これは現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、同年八月の下旬、二十三日~二十七日頃の出來事である。廣子四十七歳、芥川龍之介三十三歳であった。]

 

 

 

  輕井澤にありて(大正十四年――昭和二十年)

   六里ヶ原にあそぶ

 

雨遠くすぎ日の透きとほる草丘は一めんにほそき芒の穗ばかり

 

草も日もひとつ寂しさのこの野はらに生きたる人もまじらむとする

 

野の遠くに雲の影うごき一ぽんの樹の立つところも曇りたるかな

 

[やぶちゃん注:「六里ヶ原」は淺間山の北東山麓一帶を指す地名。淺間山を見上げ、山頂からの鬼押し出しの溶岩流の跡がはっきりと見え、四方の眺望が素晴らしい。淺間山方向は天明噴火の影響から、植生が乏しく溶岩がむき出しであるが、下方にはカラマツ林が廣がる。「軽井沢にありて」歌群内での順列から見ても(前掲「日中」歌群の直後)、歌柄から見ても、この「六里ヶ原」歌群には芥川龍之介の死後の孤独感が反映されているように私には感じられる。]

 

 

 

  輕井澤にありて(大正十四年――昭和二十年)

    碓氷

     見晴臺にのぼりて

 

山も山も霞の中なるをながめたりどこを眺めても遠きとほき山

 

しめり風いちめんの熊笹に音を立つこの山も今かすみの中ならむ

 

[やぶちゃん注:これが芥川龍之介自死の前か後ろかは容易には識別出来ないが、「軽井沢にありて」歌群内での順列から見ても(前掲「はじめて六里ヶ原にあそぶ」歌群の直後)、また歌柄に現れたある種の時空間の隔絶感や孤独感には芥川の死後の時空間を感じさせるように私には思われる。]

 

 

 

  輕井澤にありて(大正十四年――昭和二十年)

   しろき蛾

      つるや旅館、もみぢの部屋にて

 

白鷺の幅のまへなるしろ躑躅ほのかなるかな朝の目ざめに

 

亡き友のやどりし部屋に一夜寢て目さむれば聞こゆ小鳥のこゑごゑ

 

あさ暗きねどこに聞けばこの部屋をとりまく樹樹に雨降りてをり

 

午前九時庭樹あかるし茶をいれてわが飮む音をきけばをかしく

 

湯上がりのわが見る鏡ふかぶかと靑ぐらき部屋の中に澄みたり

 

せと火鉢湯はたぎるなりわが側にしろき蛾の來たり疊にとまる

 

[やぶちゃん注:「輕井澤にありて」歌群内での順列から見ても(前掲「碓氷」歌群の直後)、また歌柄の孤獨感、更に「亡き友」が明確に芥川龍之介を指すこと、「白き蛾」が芥川の魂を暗示させる。「もみぢ」の間は鶴屋旅館の龍之介の定番の部屋であった。但し、私は實際にはこれが「六里ヶ原」「碓氷」歌群よりも前の時空間で作られたと考えることも可能であると思っている。いや、その方が詩想的にはより鮮明になるようにさえ思われるのである。]

 

 

 

  輕井澤にありて(大正十四年――昭和二十年)

   雨

    昭和十三年六月、輕井澤愛宕の奧に堀辰雄氏を訪ふ

 

大き爐にまる薪の火が燃えおこり全山の樹樹あめの音を立つ

 

[やぶちゃん注:昭和十三(一九三八)年六月、輕井澤にて。廣子六十歳。堀辰雄は、この年の四月に加藤多惠子と結婚している。その夫妻の假住居であった輕井澤愛宕山水源池近くの新居への訪問吟。因みに、結婚に先立つ二月、辰雄は喀血している。]

 

 

 

  輕井澤にありて(大正十四年――昭和二十年)

   七月

 

葦はらの中の砂地に立ちとまり人がうしろから來やうにおもふ

 

わが傘のみ一つ見ゆるかと心づき葦はらのなかに傘たたみたり

 

 

 

  秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)

   りんご

 

わが側に人ゐるならねどゐるやうに一つのりんご卓の上に置く

 

[やぶちゃん注:「秋も冬も」パートの冒頭にある歌群であるため、昭和二十四(一九四九)年秋の作と推定される。]

 

 

 

  秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)

   すぎゆく日日

 

わが知らぬ人ばかりなる村里に今は安けくうらぶれてをり

 

白つつじ影かと見えるうす紅のほのかな色に花花はにほふ

 

 

 

  秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)

   饗宴

 

すばらしき好運われに來し如し大きデリツシヤスを二つ買ひたり

 

あま酸ゆき香りながれてくだものと共にわかゐる秋の夜の部屋

 

宵淺くあかり明るき卓の上に皿のりんごはいきいきとある

 

わがいのる人に言われぬ祈りなどしみじみ交る林檎のにほひ

 

 

 

  秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)

   春の色

 

われひとり時のうごきに遠くゐてまぼろしがゑがく忘れたる顏

 

 

 

  秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)

   白桃

 

さつそうとパンパンひとり住む家に白桃の花は眞珠のごとし

 

 

 

  秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)

   おもひでの駿河

      わが夫なくなりし大正九年には常のごとく輕

      井澤に避暑する氣力もなく心身よわりてあり

      しを、人のすすめにより御殿場にゆきて七月

      八月を過しぬ。記憶すでにうすらぎてわが世

      の事ともおぼえず、ただその夏の富士をかす

      かに思ひ出でて

 

山百合のあまりにほへば戸をあけて暗やみの中に香を流しやる

 

 

 

  秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)

   むらさき

 

春ぞらに遠山ひかる夕べにも山は山とのみ心に映る

 

 

  秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)

   暗殺者

 

自轉車に何かけものの肢をのせ日のしろき道路走りゆきたり

 

いくつもの灌木のかげ路に落ちけふよさよならとかなかなの聲

 

書齋にシヤロツト・コルデーの繪を掛けて父はゆるしけむ美しき暗殺者を

 

[やぶちゃん注:「シヤロツト・コルデー」はCharlotte Cordayシャルロット・コルデー(一七六八~一七九三)。フランス革命のジロンド派の刺客として、ジャン=ポール・マラー(一七四三~一七九三年七月十三日) を刺し殺した『暗殺の天使』。]

 

 

 

  秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)

   祈願

 

よきむすめ玉葱の體臭にほひにほはせて底よごれたる街を行きたり

 

[やぶちゃん注:本歌は歌集『野に住みて』掉尾の一つ前の歌である。従って、昭和二十七(一九五二)年の作と推定される。]