鬼火へ                                         

――私といふ存在は、確かに、失敗でした。――

こゝろ佚文

     藪野唯至 作 PDF縦書版へ  IE縦書版へ

(copyright 2005 Yabuno Tadashi)

    


上 先生と私


   十三後 佚文一


 先生が戀を語ることを止めて仕舞つた上野での一件の、その翌年の事だつたかと思ふ。大學の些細な論文に拘づらはつて暫くの間先生の所に無沙汰をした。そして、やはり或花時分の月末、私は敢へてその日が例月の先生の雜司ケ谷の墓參の日と知つてゐ乍ら、敢へて先生を早朝に訪ね無邪氣を裝つて散步に誘つた。先生は前のやうではなかつたが、少し困つたそれでゐてちよつと哀しいと云つた風な中途半端な顏をしたが、少し間を置いて私の作爲を見拔いたやうに、

 「では正午過ぎに、墓地の西外れに水久保の三差路がありませう、あの邊りでお待ちなさい。追付け行きますから」と落ち着いて云つた。しかし、その言葉の毅然として明白きりしてゐたことは、言下に花見だらうが何だらうが、どうあつても雜司ケ谷に私を侵入させぬと云ふ先生の異狀なまでの堅固な意志を改めて私に感じさせた。私は少し萎んだ。一度、下宿に戾ると、曰く云ひ難い恥づかしい思ひの中で寢轉がるなり、天井の雨漏りの染を呆やり眺めては、飽いて疊の毛羽を見詰めたりした。

 一時近くも前に私は約束の場所に着いた。何度か眞中の楓の並木道を步いて先生を搜したい衝動に驅られたけれども、大袈裟に云へば、人倫の道を外すと云ふ、恐らく此のやうな事にしては馬鹿馬鹿しいまでの眞劍な思ひが何故か私を押し止どめた。石屋が墓石を削るのか鑿の鋭い音が遠くで拍子を付けて鳴つてゐた。見渡す限りの墓地の櫻は既に滿開を過ぎ、さても花見に相應しい稍雲の多い空であつた。

 約束に少し遲れて、例の苗畠の所から先生は出て來た。私は笑ひながら大仰に手を振つて、近付いて來る先生を待つた。すると、矢張り同じ道を男が直ぐに出て來て、直きに墓地の入口邊りに腰を降ろすと鎌で草を刈り出した。その男が手を停めてぼんやり私の方を眺めたので、私は其の兒戲めいた振舞が何だか恥づかしくなつてすぐに止めた。先生は、微笑みながら、

 「君は、どこか妙な所で子供染てゐますね」と云つて私の前に立つた。

 先の男の姿は先生の影にとうに隱れて見えなかつた。私は先生以外の人にさう茶化されたら、それこそ茶でも飮んでいれば、相手の頭にその熱い茶をだくだくと存分に振り懸けさへしてゐたかも知れない。しかし、先生にさう云はれると、何だか逆に暖かい言葉を掛けられたかのやうな錯覺に私は陷るのだつた。今思ひ出しても、先生の數少ない滑稽を含んだ言葉には、決して人を傷つける皮肉の毒は無かつた。私は今もさうした先生の諧謔を懷かしく覺えてゐる。

 先生は一寸頷くと、私を輕くいなして大塚村の方へ向ふ北の道へ折れた。今は市電の走つてゐるあの通りである。私は暫く沈默つたまま先生の直ぐ後を步いた。其頃のあの邊りは町屋の往來ではあつたが、靜寂そりとして、田舍から野菜の荷等を運ぶ馬車以外擦れ違ふ人も稀であつた。

 時折、民家から年寄が上げるのか念佛やら題目やらの低い聲が聞こえて來たりした。

 「先生、何處へ行くんでござんすか」

 思ふ以上に先生が長い事沈默つたままさつさと進むので、少し遲れ氣味になつた私は、痺れを切らして聞いた。すると、先生は步みを續けたまま少し振り返ると、私に斯う聞いた。

 「君は、染井の墓地に行つた事はありますか」

 私はないと答えた。歷代の人物が多く葬られてゐる墓所である位のことは知つてはゐたけれども、實際その時分の私には、明治維新から此方の文豪やら政治家軍人やらに正直大した興味はなかつた。あの一度切りの雜司ケ谷での散策の折も、私は先生に叱せられたやうに、石の下に眠る彼等に對して精々彫られた名前を面白がるに過ぎない貧弱な思ひしか持ち合はせてゐなかつた。

 「墓地に變はりはありませんが、最近は彼所の櫻も少しは大きくなつて今頃は奇麗だらうと思ひますよ。昔の記憶は當てにはならないけれども。少し遠いが、美しい筈ですよ確かに」

 先生はその言葉の最後を何か遠くを見る獨言のやうに呟いた。私は何だか無性に嬉しくなつて、

「ええ、行きませう。行きませう」

と快活に答へた。しかし、同時に、何故斯うまでして先生は雜司ケ谷から私を遠ざけるのかと云ふ今迄の疑問がふと掠めた。又あの雜司ケ谷の櫻散る下に在つても黑黑と佇立し續けてゐる或人の墓石の姿が不氣味な存在として一瞬思はれた。しかし私は少し頭を振ると、全く步調を變へやうとしない先生の後に遲れぬやう我無洒落に步いた。


   十三後 佚文二


 畑地の中をうねる小道が續いてゐた。其れは變容しつつあつた武藏野の北邊の面影が今も辛うじて殘つてゐるやうに思はれる、何故か(私は東京の出身でないにも拘はらず)懷かしい風景なのであつた。其時、先生が杖で空中に小さく圓弧を描きながら何かを口誦さむのを聞いた。(長い先生との交際の中で、先生が其んな散文の一節を口にしたのは此時切りであつた。其丈に私は殊の外印象深く覺えてゐる)

 「……武藏野を散步する人は、道に迷ふことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけば必ず其處に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武藏野の美はたゞ其縱橫に通ずる數千條の路を當てもなく步くことに由て始めて獲られる。……されば君若し、一の小徑を往き、忽ち三條に分るゝ處に出たなら困るに及ばない、君の杖を立てゝ其倒れた方に行き玉へ。或は其路が君を小さな林へと導く。林の中ごろに到て又た二つに分れたなら、其小なる路を撰んで見玉へ。或は其路が君を妙な處に導く。これは林の奧の古い墓地で苔むす墓が四つ五つ並で其前に少し計りの空地があつて其橫の方に女郎花など咲て居ることもあらう。頭の上の梢で小鳥が鳴て居たら君の幸福である。……おや、君、まるでその通りになつたよ」

さう云ひ乍ら先生が囘してゐた杖をぴたりと中央で止めた。其の指し示す先に小さな寺があり、其の向うに櫻が美事に咲いた低い丘が連なつてゐるのが見えた。

 私達は慈眼寺と書かれた小さな山門を潛つてその左手にあるこぢんまりとした墓地を眺めた。直ぐ背後の借景のやうな染井の墓地から風に乘つた花びらがゆつくりと流れ落ちて來た。

 餘りの靜謐と薄紅の亂舞に、私は、

 「先生、私は死んだら此處ゐらに墓が慾しくなりました」と何時もの調子で輕口を叩いた。

 すると、先生は鋭く私を見返ると、恐ろしい形相で私を睨みつけた。いや、睨みつけたかのやうに感じたのである。然し直ぐ其の表情は非道く物哀しいものに變はり、ペイソスを含んだ微笑へと移つた。その變化は殆ど一瞬事であつた。然し、先生にとつて私が私でない邪惡なものにでもなつたかのやうな氣にさへなつて、私は暫く沈默つて仕舞つた。先生の眼に櫻の花びらが散つて、先生は何度か瞼を繁叩いた。

 「濟みません。先生。死といふ事實を又茶化して仕舞ひました」

 私は素直に謝つた。先生は内心心得の鈍い私をさぞ輕蔑されただらうと思ふと悔が出た。然し、先生は快活に笑ふと、

 「何をあなたは其程の事に謝るのですか。私は淺薄な思想を辨じ立てる輩は斷固拒みますが、正直な思ひを語るあなたを無闇に非難しやしません」と云つた。

 先程の表情の意味と今の先生の慈愛に滿ちた言葉の響が齟齬してゐる謎を感じ乍らも、私は赦免された罪人のやうにほつとした。

 「然し、其は誰かにちやんと賴んで置く必要がありませう。生涯の信賴に足る人に」

 先生は「生涯の信賴に足る人に」と云ふ所を緩くらと言葉を切つて云つた。先生の白髮混りの髮に櫻の花びらが數枚置いてゐた。(先生は年の割には白髮の多い性であつた)

 ――因に私は後に自分の一家の爲、此寺に墓所を買つた。私の骨は死後、此折りの先生との思ひ出の不可思議な因緣とも云ふ此地に葬られることになる。私は其點丈は生前の先生に告げ得た本望を遂げる事が出來たと思つてゐる。――

 「行きませう」と先生が云つた。

 私達は丘へ通ふ踏分けた小路をずんずん登つて行つた。左右に墓地が廣がり、澤山の櫻がそれに優しく蔭を落としてゐるのであつた。

 先生は無口であつた。先生にして異例な先の暗誦を思ふと、矢張私の輕率な一言が先生の心に暗い影を落として仕舞つたことは間違ひないやうに思はれた。私もつい無口になつた。

 小道を拔けて少し行くと稍開いた中央の道筋に當たつた。その正面に櫻の木が大きく枝を張つてゐた。その木の下の邊りは未だ空地になつてゐた。私達は其處に腰を下ろした。少し、雲の切れ目から陽が差しゐた。私達以外には、少し離れた木蔭で、如何にも生活に薄汚れた頰の赤い田舍出の子守女が泣き止まぬ赤ん坊をあやしてゐる丈だつたが、赤ん坊は疳が憑いたのか、激しく泣いて、私には少し五月蠅いものにさへ感じられた。先生は杖を顎に當てて何も耳に入らぬかのやうに凝と正面を見つめてゐた。

 「あなたは噓をついたことがありますか」

 先生が急に聞いた。私は答へやうがなかつた。

 「噓――いや、語るべきことを語らないことも、噓でせう。例えば、あなたの父母に對してですが」

 私は特に父の身軆の事で幾つかの思ひ當たる節も無いでは無かつたが、それも未だ其時には重大な祕密と云ふべきものと感じてはゐなかつた。

 「ちよつとした噓は知らぬ内についてゐませうが、是といつて人に祕すべき物は無いやうに思ひます」と、然し、私は何やらん自分でも自信なげな後ろめたい氣分で答へた。

 「さうですか。當然の事です。あなたは若いのだから。噓や祕密等といふものは持たぬに越した事は無い。若い内はそれでも我慢出來るが。命長ければ恥多しとは蓋し眞實まことでせう。但し、其は恥其物の量の問題ではなく、恥といふ意識の增大といふ點からですが」

 先生はさう云ふと、子守女のゐる所とは反對の道へと杖を指して步み出した。赤ん坊はやつと泣き止んだらしかつた。


    


   十三後 佚文三


 「ちよつとした噓と、あなたは先程云ひましたね。然し、ちよつとした噓なんていふ物があるんですか。そのちよつとした物の靑ざめた堆積が我々を地獄へと導く事もあるのです。注意しなくちやあ不可ない――氣付いた時には其れが自分よりも大きくなつて仕舞ふ事さへあるんだから」

 先生は道を步き乍ら此んな事を云つた。先生は更に何か話したさうな感じであつた。私は何やらん重苦しいものを感じ乍らも、先生の口を突いて出て來る次の言葉を暗に期待した。その期待なるものが如何なる物であるかさへ私自身良く分かつてはゐなかつたのだけれども。

 其時、私は何氣無く前を眺めた。私は私達が步いてゐる道の正面、墓地の南西の入口に一人の女人を認めた。近付いて來るその人は、紺の銘仙をしなやかな着こなして、眞直ぐに私達の方に向かつて步いてゐた。直に私には其れが先生の奧さんであることが知れた。目の惡い先生は未だ其れに氣づいて居ないやうであつた。
 私は其時何故か先生に知らせることを躊躇した。今思ひ出しても其れは偏に其の奧さんの近付き來たる姿に一種の美しさを覺えたからとしか云ひやうが無い。最近の流行りの活動冩眞の一場面を見るかのやうに、奧さんの前を、櫻の花びらがランダムに散る中、奧さんが非常に緩くらと、然し何かある種の自信さへ感じさせて步み來るのを、私はスロウ・モウシヨンの無聲畫面で見るやうな幻覺に襲はれた。其の唇の端に微かに浮かべた笑みさへ私には――私と奧さんとの實際の物理的な距離感さへも無くなつたかのやうに――眼前に見える錯覺を覺えた。

 然し、其時先生が何かを云ひ懸けやうとしたのに氣づいた私は、瞬時に此處で此れから先生が話さうとするのは不可いと云ふ思ひが閃いた。其れは一種の本能的な勘とも云へるかも知れないが、ともかくも先生に奧さんの到來を告げなければならない立場に私は居た。私が其時さうした云はば馬鹿馬鹿しい葛藤を大眞面目に考へねばならない程に、其の光景は私の心に初めて、至上の美といふ觀念を生じさせたのである。――私は少なくとも今迄、自分の妻にさへ、此の奧さんを正面に据えた一つのシイン程に心を捉えた感覺を持つたことは無いことを告白する。

 「あなた、あなた」と私達に二間程の所から、奧さんの方が先に聲を掛けて來た。

 先生はくりと身軆を震わせると、少し顏を傾け眼を細めて奧さんを眺めた。さうして、奧さんの近くへと進んだ。私は遠慮してその場に停まつて待つた。奧さんは何やら低い小聲で先生に傳言をしゐるやうであつた。思つたより話は長かつた。私は足元の石疊に生えた苔を意味も無く眺めては足で小突いたりした。小さな蟲の掠め飛ぶ羽音だけが厭に耳に付いた。

 先生は戾つて來ると少し申譯無さそうに云つた。

 「今日はあなたと染井に來ることを妻に話して置いたのが災ひした。實は今、大學時分の同窓の――何、當の昔に交際は絕えてゐるのだけれども、年始の挨拶程の間柄であつた者が心筋梗塞で急死したと電報が入つたといふのですよ。取り敢へず今夜の通夜には顏を出さねばならないでせう。折角の散步を臺無しにして仕舞ひましたね」

 「何をおつしやるんですか。私は身輕ですから、巣鴨の刺拔地藏邊を冷やかしながら歸りませう。御心配には及びません。それよりも御同胞の御冥福を御祈り致します」

 私は御同胞といふ言葉を、何か先生にしつくりしないむず痒いものとして違和感を覺えつつも遣つて了つたことを、少し後悔した。すると先生は、少し云ひ難くさうに、

 「一つ濟まないが、如何でせう、此處で妻と少し花見をして貰つて、家まで送り屆けてやつては呉れませんか。今年の花は美事です。妻にも此處迄來させて置いて無粹に歸すのも、私は少し可哀想な氣がする」と云つた。

 「奧さんは通夜は宜しいのですか」

 「何、妻は面識もない私の若い折の知合ひですから。葉山の森戶邊に住いがあるので私は直ぐに行かねばなりませんが。如何です、付き合つてやつて貰へますか」

 私は勿論、斷る理由が無かつたが、逆に奧さんの方が氣になった。先程の件の會話の長きに亙つたのも實はその事の揉めたからのやうにも感ぜられた。私は先生の肩越しに奧さんの方を見た。私が「奧さんは?」と尋ねると、先生は「それはもう承知ですから御安心なさい」と云つて少し微笑んだ。私は何だか嬉しいやうな困つたやうな妙な顏をして了つたやうな氣がする。其時、奧さんが片袖を口に當てるとぷつと少し吹き出したやうに思へたから。

 先生は「では宜しく」と云ふなりさつさと奧さんの脇を素通りして行つて了つた。奧さんは其んな先生を輕い會釋をし乍ら見送つた。私の意識は振り返りもせずに小さくなつて行く先生の後ろ姿と、それを櫻吹雪にすらりと立つて見送つてゐる奧さんの橫顏の畫面に自づと集められた。先生は、墓地の外れにある農家の前に停まつてゐた人力に乘つた。それは奧さんが乘つて來て待たせて置いたものであつた。力車は見る見る小さくなつて行つた。その車影が一つの小さな點に成る迄、奧さんは眼を離さなかつた。さうして、其れが消える間合いに、奧さんはもう一度會釋をした。それは、美しいけれども何故か寂しい景色だつた。いや、だからこそ私は其の總てを、奧さんより少し後ろに立って飽かず眺めてゐた。


  

   十三後 佚文四

 奧さんと私は墓地の中の小徑を辿り乍ら先生の去つたのとは反對の方角へと步いて行つた。正直私は何を喋つて好いものかも分からなかつた。先程の慈眼寺を見下ろす黑土が段々に顯になつた東の外れでは、散つた櫻が吹き溜まつて、白砂の海岸の景と云ふより點在する内海の島嶼を思はせた。奧さんは其處を見ると少女のやうな足取りで私より先へ先へと步んで行くのであつた。

 私は此の先生から與へられた不慣れな役割に稍困惑を感じてゐた爲、步みが鈍く成り勝ちであつた。氣づくと既に奧さんは大分離れた花吹雪の上に立つて笑つてゐた。

 「丸で何處やらの海岸のやうな鹽梅ですね。餘り遠くへ行くと深みに嵌まりますよ」と私は笑ひを返し乍ら冗談に聲を掛けた。

 奧さんは「さうしたら泳ぎの得意なあなたに助けに來て頂きます。だから平氣よ」と云うが早いか、又其向こうの大きな櫻花の島へと點綴する花びらの上を輕く飛ぶやうに移つて行つた。

 先生は、鎌倉での私の事を奧さんに話してゐるやうであつた。奧さんの此んな姿を見るのは初めてであつた。私は少し呆れた。

 奧さんの姿が何本か固まつた灌木の陰に消えた。私は何か急に落ち着かなくなつた。走り辛い下駄で、斜面で滑るのも氣にする暇も無く、私は奧さんの影を隱しさうな目ぼしい木々の間に向かつて驅け出した。然し、勘を付けた邊りに奧さんの姿は見えなかつた。增々私は不安になつた。ちよつとした崖を誤つて滑り落ちたのかも知れないと思ふと、腋の下を氣味の惡い汗まで流れた。

 「奧さん!」と場所柄少し抑へた聲を上げて見はしたものの、其れは人氣の無い森閑とした墓地に空しく響く丈であつた。今一度邊りを搜す爲に私は戾ろうとした。さうして振り返つた時、其の正面の櫻の古木の背後から、ひよいと奧さんが首丈を覗かせた。此處に居てよ! と云はんばかりの惡戲ぽい笑顏であつた。

 「御心配?」

 私は急に力が拔けたやうになつて、然し其れでも奧さんが無事であつたことに心からの安堵を感じた。奧さんの何と云ふ兒戲に類した戲れかと云はれさうだが、此れが私には、先生と出會つてからも、何か奧さんに感じてゐた或懸隔が取り拂はれた最初でもあつたやうに思ふ。

 奧さんは、あら! と云つて私の足元にしやがむと、私の袴の裾を取らうとした。私が反射的に身を引いた爲に、奧さんの手は空しく空を摑んだ。

 「御袴が汚れてよ」

 先程の驅け込みで泥が着いて黑く擦れてゐるのであつた。

 「私の所爲で汚れてしまつてよ」

 奧さんは私を見上げ乍ら云つた。其の眼は然し、氣の毒だと云ふ表情を越えて、恰も大變な罪惡でも侵したかのやうな憂ひさへ含んでゐた。

 「好いんです、好い、何時だつて汚しつ放しなんだから」

 私はわざと亂暴な云ひ方をすると、黑土の段の一番上に荒々しく驅け上がつた。私には何故かどうにも奧さんの眼を見てゐられなかつたから。見つめてゐる内にその眼から今にも淚が滂沱と流れ出るのではなからうかと思はれたから。

 「此處まで、さて、どうやつていらつしやいますか?」

 私は逆襲に出た。笑ひながら意地の惡い言葉を掛けたが、奧さんは一瞬に先來の明るい笑顏を取り戾すと、大囘りに丘の尾根の處を辿つて此方へと步いて來た。

 かう書いてゐると奧さんは年甲斐の無い御轉婆娘のやうに思はれるかも知れないので、一言注して置く。かうしてゐた間中、奧さんは襟一つ亂すことはなかつたし、足袋に染み一つ付けてはゐなかつた。其れは稀な一つのしなやかな美德とでも云ふべきものであつた。

 墓地の眞中の道に戾つて步く内に空が陰つて來た。墓地の北迄來ると到頭雨が振り出した。

 一塊りの農家と墓地の間に、一本の椎が枝を廣げてゐた。奧さんと私は小走りに其の木の下に急いだ。

 「俄雨です。直止みませう」と私は聲を掛けて奧さんの方を見た。

 奧さんの少し丈庇を出した結髮から、僅かなほつれ髮が頰に懸かつて濡れてゐた。

 私は何か見てはならないものを見たやうな氣がして、東の小雨に煙る雜木林の方に目を向けた。その方角が正式な墓地の入り口らしかつた。木々の間からは、鵯の頻に鳴く聲もした。然し雨は小降り乍ら中々止みさうになかつた。


  

   十三後 佚文五


 私は手持ち無沙汰から、先生と晝に話した墓の事を奧さんにした。私は此んな櫻吹雪の舞ひ散る下に安らふ墓が持ちたいとか、此處ならまだまだ武藏野の自然も殘つてゐて魂も靜まるだらうとか、下らないお喋りをし乍らも、私がさう云ふなり、先生の表情が妙な變容を示したことや、先生から生涯の信賴に足る人物に賴んで置くやうにと忠告されたことも話した。奧さんは何時も見せる柔和な顏で話を聞いてゐたが、其の忠告の段になつて、私から顏を逸らすと、何か得心した表情で墓地の方を見ながら、微かに頷いたやうだつた。さうして又、其の微妙さが、私に頷きの眞意を問ふ機會を私から逸しさせた。

 奧さんは手拭を取り出すと、「御免なさいね」と云ふと私の濡れた髮を輕く拭つた。餘りに自然な動作であつたし、狹い木蔭の事でもあり、私は爲されるがままに、素直に從つた。さうして奧さんもほつれ髮の滴を壓し取ると、自分の髮に輕く當てた。

 私は落ち着かないままに、袂から敷島を取り出して、火を點けた。

 「あら、煙草をお吸ひ?」

 奧さんは少し吃驚したやうだつた。考へて見ると私は先生の家で、特に奧さんの前では妙な遠慮から殆ど煙草を燻らせたことがないことを思ひ出した。

 「濟みません、煙いですか?」

 「いいえ、どうぞ御吸ひになつて居らして。結構よ」

 今まで見せなかつた習慣を奧さんの前で時間稼ぎに遣つたのは間違ひだつたと悟つたが、もう遲かつた。仕舞ひに私はこの場から逃げ出したい程の恥づかしさへ覺え出した。早く雨が上がることのみを天を見つめて願つてゐた。

 すると、

 「私にも一本頂けるかしら?」

 と奧さんが云つた。

 この奧さんの言葉に、私は内心胃が飛び出る程に驚いた。煙を吐き出してゐた口を阿呆見たやうに開いたまま、私は奧さんを見詰めた。然し奧さんは、先程とは少し違つた快活な笑みを浮かべて、繰り返して云つた。
 「ね、一本頂いても宜しくつて?」

 私は此時、自分が如何にも阿呆面を晒して呆然としてゐるのだといふことに氣づいて、袂から敷島を取り出すと、奧さんに默つて差し出した。奧さんは、丁寧に禮を述べると、その細い指で一本を拔いた。私は、直ぐに袂から燐寸マツチを取り出して、奧さんの銜へた敷島に火を點けた。

 奧さんはちよつと吸つて直ぐに噎せた。眉間に皺を寄せると持つた敷島を私の方へ寄越した。私は慌てて其れを受け取ると足元に放り出した。雨に濡れた水溜りの中で其れはジツと音を立てて消えた。

 「殿方達は、好くもまあ、此んなものが美味しくて御吸ひになるのね」

 「御吸ひになつたのは初めてなんですか」

 「勿論よ。でも――でも好い事、此れは先生には絕對に、祕密よ」

 奧さんは笑みを浮かべながら半ば冗談のやうに云つた。私は請け合つた。さうして、先程墓地を散策し乍ら、先生の云つた祕密といふ言葉を思ひ出して、其の奇妙な暗合を不思議なものに感じた。

 「さあ、雨も上がつたわ。參りませう」

 一步前へ踏み出した奧さんの聲に促された形で私は木下闇を出た。夕暮れといふには未だ早い時刻であつた。
 それから、私と奧さんは墓地の正面を拔けて、畑地の中の畷を巣鴨村の方に步いた。大きな糠る海では私が先に足を踏ん込んで恥づかしがる奧さんの手を取つて彼方側へ渡すといふやうな大働きもあつたが、其んな場でも奧さんは終始樂しさうであつた。

 巣鴨の刺拔地藏迄辿り着くと、其處はもう數多の老人達の聖なる信仰と俗なる親交の靈場であつて、何やら若い奧さんと私には不似合いな氣がした。擦れ違ふ年寄の暖かみのある、然し其れでゐて好奇な視線を感じて私は何だかそはそは爲出した。それでも奧さんは平氣で、御本尊に賽錢を投じたり、煙を立ててゐる八目鰻の露店を覗いたりした。奧さんは最後の一本になつてゐた名物の屋臺の團子を買つて來て、私に一つを殘して呉れたりもした。私は本堂の前に屯してゐた俥の中でも、性の好ささうな二臺を手配して、奧さんの俥に續くやうに私の方の車夫に念を押し、先生の家迄走らせた。

 私達が先生の家に着いたのは、丁度陽の落ちた頃であつた。私も先生の家で俥を返した。其れで先生との今日の約束の忠實な完遂といふ氣がした。

 「今日は御苦勞樣。御疲れにならなかつたかしら」

 「いいえ。又先生に賴まれれば此んな樂しいお供ならば何時でも」

 「又いらして下さいまし。先生は殊の外、あなたが御氣に入りのやうですから。――其れから、先の祕密の事、守つて下さいましよ」

 にこやかに御辭儀をして中に入る奧さんを私は門の前に立つて暫く見送つた。戶を開け閉めする音がして奧さんは家に入つたらしかつた。其時、下女が點け忘れてゐたらしい玄關の薄黃色な電燈が明るく燈つた。私は自分の下宿へと足を向けた。

 私は正直疲れてはゐた。然し、同時に或滿足も覺えてゐた。さうしてその滿足の中心には、今日奧さんを私に託した先生の私への信賴といふ自負があつた。私は此の先生の私への確信をこそ大切にしなければならないと思つた。新設された街路燈の脇に夜櫻が仄かに薄紅い幕を囘らせて闇に溶け合つてゐた。


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