やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ
鬼火へ
黃粱夢 芥川龍之介
附 藪野直史注
附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈
附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他
[やぶちゃん注:芥川龍之介の「黃梁夢」は大正六(一九一七)年十月発行の『中央文学』に「黃粱夢(小品)」として掲載され、後に作品集「影燈籠」及び「或日の大石蔵之助」に収録された。底本は岩波版旧全集を用いた。【2016年9月18日全公開】]
黃粱夢
盧生は死ぬのだと思つた。眼の前は暗くなつて、子や孫のすゝり泣く聲が、だんだん遠い所へ消えてしまふ。さうして、眼に見えない分銅が足の先へついてゞもゐるやうに、體が下へ下へと沈んで行く――と思ふと、急にはつと何かに驚かされて、思はず眼を大きく開いた。
すると枕もとには依然として、道士の呂翁が坐つてゐる。主人の炊いでゐた黍も、未だに熟さないらしい。盧生は靑磁の枕から頭をあげると、眼をこすりながら大きな欠伸をした。邯鄲の秋の午後は、落葉した木々の梢を照らす日の光があつてもうすら寒い。
「眼がさめましたね。」呂翁は、髭を嚙みながら、笑を嚙み殺すやうな顏をして云つた。
「えゝ――」
「夢をみましたらう。」
「見ました。」
「どんな夢を見ました。」
「何でも大へん長い夢です。始は淸河の崔氏の女と一しよになりました。うつくしいつゝましやかな女だつたやうな氣がします。さうして明る年、進士の試驗に及第して、渭南の尉になりました。それから、監察御史や起居舍人知制誥を經て、とんとん拍子に中書門下平章事になりましたが、讒を受けてあぶなく殺される所をやつと助かつて、驩州へ流される事になりました、其處に彼是五六年もゐましたらう。やがて、冤を雪ぐ事が出來たおかげで又召還され、中書令になり、燕國公に封ぜられましたが、その時はもういゝ年だつたかと思ひます。子が五人に、孫が何十人とありましたから。」
「それから、どうしました。」
「死にました。確か八十を越してゐたやうに覺えてゐますが。」
呂翁は、得意らしく鬚を撫でた。
「では、寵辱の道も窮達の運も、一通りは味はつて來た譯ですね。それは結構な事でした。生きると云ふ事は、あなたの見た夢といくらも變つてゐるものではありません。これであなたの人生の執着も、少しは熱がさめたでせう。得喪の理も死生の情も知つて見れば、つまらないものです。さうではありませんか。」
盧生は、ぢれつたさうに呂翁の語を聞いてゐたが、相手が念を押すと共に、靑年らしい顏をあげて、眼をかゞやかせながら、かう云つた。
「夢だから、猶生きたいのです。あの夢のさめたやうに、この夢もさめる時が來るでせう。その時が來るまでの間、私は眞に生きたと云へる程生きたいのです。あなたはさう思ひませんか。」
呂翁は顏をしかめた儘、然りとも否とも答へなかつた。
■やぶちゃん注
以下、最初に「Ⅰ 字注」、次に禁欲的に附した「Ⅱ 語注」を掲げ、次に「Ⅲ 原典」として沈既濟撰の「枕中記」原文・書き下し文・語注をシークエンスごとに附し、「Ⅳ やぶちゃん訳」として私の一部に翻案を施した現代語訳を附した。最後に「Ⅴ 附言」として「枕中記」の祖型である六朝志怪の原文・語注・書き下し文及び「枕中記」と芥川龍之介の「黃梁夢」についての簡単に私の見解を附した。
Ⅰ 字注
(1)『「眼がさめましたね。」呂翁は、髭を嚙みながら、笑を嚙み殺すやうな顏をして云つた。』の部分のルビはママで、前にある「髭を嚙みながら」の方にはルビはない。単なる見逃しによるルビの打ち違いとも思えるのであるが、芥川龍之介の「酒蟲」でも同様の現象が現れるところをみると(リンク先は私の電子テクスト)、もしかすると、この当時の出版界では直近に同じ読みの漢字が出る場合、後の方にルビを振って前もかく読むことを示すのが通例であったのかも知れない。一つの可能性としては前者を「髭を嚙みながら」と訓じている可能性を排除は出来ないが、であれば寧ろ、前にこそ「は」のルビを必ず振らなければ却っておかしい。このことについては識者の御教授を乞うものである。
(2)底本後記にある初出・作品集「影燈籠」版・作品集「或日の大石蔵之助」版との校異をもとに、以下にその違いを示しておく。私の底本とした岩波版旧全集は「或日の大石蔵之助」のそれを底本としている。
〇第二段末
(底本)
……眼をこすりながら大きな欠伸をした。邯鄲の秋の午後は、落葉した木々の梢を照らす日の光があつてもうすら寒い。
(初出)
……眼をこすりながら大きな欠伸をした。日があつても、うすら寒い。
〇最後の呂翁の台詞
(底本)
……これであなたの人生の執着も、少しは熱がさめたでせう。
(初出)
……これであなたの人生の執着も、熱がさめたでせう。
〇同
(底本)
得喪の理も死生の情も知つて見れば、つまらないものです。
(影燈籠)
得喪の理も死生の情も知つて見れば、つまらないものなのです。
〇最終行
(底本)
呂翁は顏をしかめた儘、然りとも否とも答へなかつた。
(初出)
呂翁は顏をしかめて、答へなかつた。
Ⅱ 語注
・「黃粱」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連エノコログサ属アワ Setaria italica 。五穀の一つ。東アジア原産で高さ一~二メートル、エノコログサ Setaria viridis を原種とするといわれ、エノコログサとの交雑もよく生ずる。穂は黄色に熟し、垂れ下がる。参照したウィキの「アワ」によれば、『中国の華北・中原において、黄河文明以来の主食は専ら粟米(谷子)であり、「米」という漢字も本来はアワを示す文字であったといわれている』。『また、隋唐で採用された税制である租庸調においても、穀物』『を納付する「租」は粟で納付されるのが原則(本色)であった』。『これに対して、華南では稲米は周の時代から栽培が盛んになった』。『青海省民和回族トゥ族自治県の喇家遺跡では、およそ』四千年前の『アワで作った麺が見つかっており、現在、世界最古の麺といわれている。だが、連作や二毛作を行うと、地力を損ないやすいことや、西域から小麦が伝わってきたこととも相まって、次第に主食の地位から転落することになった。しかし、現在でも中国では粟粥などにして、粟を食べる機会は多い。また、「鉄絲麺」という、最古の麺と同じような麺類を作る地方もある』とある。本邦『では米より早く栽培が始まり、縄文時代の遺跡からも発掘されることがある。また、新嘗祭の供物としても米とともにアワが用いられ、養老律令にも義倉にアワを備蓄するように定められており』「清良記」(軍記物。江戸初期に成立した伊予国宇和郡の武将土居清良の一代記。日本最古ともされる農書としての記述を含むことで知られている)など『にもアワについての解説が詳細に載せられているなど、古くから、ヒエとともに、庶民にとっての重要な食料作物だった』。『だが、第二次世界大戦後には生産量が激減した。日本でもかつてはアワだけを炊いたり、粥(粟粥)にして食べていたが、現在は、米に混ぜて炊いたり、粟おこしとしたりするほか、クチナシで黄色に染めて酢じめしたコハダなどの青魚とあわせた粟漬を正月料理として食べる程度である。また、主食用であったうるちアワよりも、菓子や餅(粟団子や粟餅など)、酒などの原料として用いられてきたもちアワの方が多く栽培されている。家畜、家禽、ペットの飼料としての用途の方が多い』。栄養価としては糖質七〇%・蛋白質一〇%・ビタミンB群を含む。なお、『鉄、その他のミネラルや食物繊維も豊富なため、五穀米などにして食べる方法が見直されている』ともある。
・「呂翁」八仙の一人として知られた呂洞賓を想起させる名ではあるが、原典である唐代伝奇の「枕中記」では時代設定を開元七(七一九)年とし、以下に示す呂の生年とされる時よりも七十五年も昔である。しかし、ウィキの「呂洞賓」によれば、『名を喦(巌、巖、岩とも書く。煜という説も)といい、洞賓は字である。号は純陽子。純陽真人とも呼び、或いは単に呂祖(りょそ)とも呼ばれる』。唐の貞元一四(七九四)年四月十四日に、『蒲坂(現在の山西省芮城県)永楽鎮で生まれた。祖父は礼部侍郎の呂渭、父は海州刺史の呂譲』。『師は鍾離権であり、終南山で秘法を授かり、道士となったとされる。その姿は背に剣を負った書生で、青年あるいは中年男性として描かれる』とした後に、『幼い頃から聡明で、一日に万言を記したという。身長』八尺二寸(約二メートル四十八センチ)、『好んで華陽巾』(正しくは九転華陽巾といい、道士の被る特殊な冠である。ウィキに載る肖像図の被っているものか)『を被り、黄色の襴衫』(らんさん:唐や宋の頃に着用された裾縁(すそべり)のある着物。グーグル画像検索「襴衫」参照。)『を着て、黒い板をぶら下げていた』(何であるか不詳だが、画像検索の古い肖像の中に確かに錠前のようなそれを見出せる)。二十『になっても妻を娶ろうと』せず、『出世を目指し、科挙を二回受けたが、落第してしまう。長安の酒場にて、雲房と名乗る一人の道士(鍾離権)に出逢い、修行の誘いを受けるが、出世の夢が捨て切れず、これを断った』が、この時、『鍾離権が黄粱を炊いている間、呂洞賓はうたた寝をし、夢を見る。科挙に及第、出世し、良家の娘と結婚し、たくさんの子供をもうけた。そうして』四十年『が過ぎるが、ある時重罪に問われてしまい、家財を没収され、家族は離れ離れとなり、左遷されてしまう』――が――『そこで目が覚めるが、まだ黄粱は炊けていなかった。俗世の儚さを悟り、鍾離権に弟子入りを求めると、十の試練』(リンク先に詳述されている)『を課されることとなる。これを見事こなした呂洞賓は、晴れて鍾離権の弟子となり、しばし修行した後、仙人となった』と伝えるのであるが、まさに『この話は、故事「黄粱の夢」酷似している。また、この「黄粱の夢」に登場する呂翁が呂洞賓のことであるともされる』とし、さらに「八仙得道伝」「八仙東遊記」などの『明や清の章回小説においては、呂洞賓は鍾離権の師である東華帝君』(神話上の仙人で西王母に対応する存在。西王母が女仙を統率するのに対し男仙を統率するという)『の生まれ変わりである、という記述が多く見られる』と続く。「枕中記」の作者である沈既濟は乾一夫氏の考証(後掲する原典の底本に載る)によれば、玄宗の天宝年間(七四二年~七五五年)かそれより少し前に生まれ、代宗(在位は七六二年~七七九年)の末から徳宗(在位七八〇年~八〇四年)の頃に活躍した人物であるから(官吏にして歴史家で最終官位は礼部員外郎。御多分に漏れず、その人生では「黄梁夢」ではないが推薦者の処罰に連座して左遷も経験している)、まさに仙人呂洞賓とは同時代人であったものの、微妙に前の生まれであるし、呂洞賓伝説はもっとずっと後に形成されたものと考えられるから、沈自身が彼をモデルとした可能性は全くないとは言える。しかしそもそも東華帝君の呂洞賓転生や異なった時代を自在に行き来するというのは仙人にとって朝飯前のことであるから、私がこの「呂翁」を呂洞賓がモデルだと言っても、強ち時代錯誤も甚だしいなんどと言われる筋合いの話でも、これ、ないんである。
・「熟さない」「熟す」には、固まっているものを細かく砕くという意がある。蒸し炊いている黍が未だやわらかく煮えていない、の謂いである。
・「邯鄲」現在の河北省南部の地名。以下、ウィキの「邯鄲市」によれば、神話では女媧が邯鄲の古中皇山で粘土を捏ねて人を作ったという。一万年前には既に旧石器文化が存在しており、古えより人類の活動のあった場所ではあった。『都市が形成されたのは殷代であり、殷初には邢(現在の邢台市)、後に殷(現在の安陽市)に都城が設けられ、邯鄲は畿内とされていた。『竹書紀年』には殷末の帝辛(紂王)が邯鄲に「離宮別館」を建設したという記載がある』。戦国時代は趙の都であったが、前二二八年(秦始皇十九年)、『秦軍が邯鄲を攻撃、趙王は秦に降伏し邯鄲は秦国の版図とされ』(「版図」は領土のこと)、前二二一年(秦始皇二十六年)『には秦が趙を滅ぼし、翌年に中国統一を達成すると、邯鄲県が設置され邯鄲郡の郡治とされた。秦末に発生した陳勝・呉広の乱では趙が復興された際、秦将章邯により趙が邯鄲に籠城することを回避すべく、占領後に邯鄲は徹底的に破壊された』。ここ邯鄲は実は始皇帝の出身地でもあった。時間が巻戻るが、戦国時代末期、『秦は趙に対し人質として王・昭襄王の孫、子楚(後の荘襄王)を差し出したが、大商人呂不韋は子楚の非凡さを見抜き身元を救い出し、後に後見人として勢力を振るった。彼は自分の愛人を子楚に与え、生まれた子が政、後の始皇帝であ』った。『始皇帝は生まれてまもなく秦と趙との戦いに巻き込まれ子楚が王になるまでの6年間邯鄲の富豪にかくまわれたという。趙を滅ぼした後一度だけ邯鄲に入城し、生母の敵たちを皆生き埋めにしたと伝わる』。『後漢末の混乱期には、邯鄲県は各勢力による戦火の被害を受け衰退してい』き、二一三年(建安十八年)、『献帝は曹操を魏国公に封じ鄴城に建都すると政治、経済、文化の中心は鄴城に移り邯鄲県は魏郡の一般の県城とされた』。二二一年(黄初二年)、『魏により広平郡、晋の時代には再び魏郡の管轄とされている。南北朝時代には東魏により邯鄲県は廃止となり臨漳県に統合されたが』、五九六年(開皇十六年)に『再設置されその後隋唐代を通じて邯鄲県は小県として洺州、磁州、武安郡、紫州などの管轄とされていた。邯鄲が寂れる一方で、近くの大名府(現在の大名県)は宋代には副都となり河北の大都市となった』とあるから、本話(原典冒頭には盛唐の初期である開元七年(西暦七一九年)とする)の頃の邯鄲は寂れつつあったことが分かる。但し、後掲する「枕中記」の乾氏の注では『唐代でも繁華な町の一つとして知られている』とある。しかし、本話や原典のロケーションからは、やはり田舎の街道筋という印象であって、『繁華』な雰囲気はない。
・「淸河」漢代に置かれた郡名。当時は現在の河北省及び山東省の一部をなす広域であった。現在は河北省邢台市に清河県として名が残る。ウィキの「清河県」によれば、『前漢の文帝の后妃である竇漪(孝文皇后)の祖籍地で』、五五六年に北斉により設置された武城県を前身とし、五八六年に清河県と改称された。中華人民共和国の一九五八年に同県は『廃止となり管轄区域は南宮県に編入されたが』、一九六一年に『再設置され現在に至る』とある。ここは明代初期(一五六六年板行)に成立した「水滸伝」では『武松の故郷とされ、武松の兄嫁である潘金蓮とその間男・西門慶の住む町でもある。潘金蓮と西門慶を主役とする『金瓶梅』では、清河県が主な舞台となっている』ともある。
・「渭南」現在の陝西省の旧関中道(中華民国北京政府により設置された行政区画)にあった県名。現在は渭南市(西安の五十キロメートル東北に位置する)。
・「尉」は中国の官名であるから「ゐ(い)」と読む。県尉。県内の軍事・警察を統括した。今村与志雄訳「唐宋伝奇集(上)」(岩波書店一九八八年刊)の「枕中記」の「渭南の尉」の注に『渭南県は京畿道』(京師及びその周辺地域)『にあり、そこで渭南の尉も、当時いわゆるいいポストであった』とある。同じ「尉」でも、同じ唐代伝奇である李景亮「人虎傳」(を原典とする中島敦の「山月記」の『中島敦「山月記」授業ノート 藪野直史』の中に私の作ったシノプシスがあるので参照されたい)の李徴の「江南尉」とは、これ、ラベルとレベルが違うのである。
・「監察御史」国家の司法・監察機構である御史台の属員。京師の各衙門(官庁)及び官吏を監督し、地方を巡察して行政を視察監視した皇帝の直属官。今の検察庁長官に相当する。
・「起居舍人」皇帝の左右に控えて言行を記録し、国史編纂の資料を収集して史館に提出する官。前記今村氏の注によれば、『清資官といわれて尊重された』とある。
・「知制誥」詔勅の起草などの担当官。ウィキの「知制誥」によれば、『古代から明代に至る中国の官職名。制・誥をつかさどる者、の意』で、『制・誥ともに書経に見え、「天子の言葉」を意味』し、『三代(夏・殷・周)で用いられていたが、秦の始皇帝が「命」を「制」に、「令」を「詔」に改めてからは「誥」は文書に出てこなくなる。唐代までには詔・册・制・勅が皇帝の命令を意味する言葉とな』ったとする。『翰林院が唐代初期に置かれ、学問芸術に優れた人物を集めていたに過ぎなかったが、玄宗の時に中書省の事務が繁雑になり文書が滞留するようになったので、翰林学士という役職を置き中書省の一部の機能を分掌させた。この翰林学士は重用されるようになり、宰相の実質を担うようになるが、専任の官職ではなく定員もなかった。宋代になって詔勅の制度は唐にならい、「誥」が復活され「制」と並んで用いられるようになる。制・誥を書く仕事は翰林学士から分離し、知制誥が設けられた』とある。
・「中書門下平章事」正しくは同中書門下平章事。ウィキの「同中書門下平章事」によれば、『中国唐代から元代に存在した官職。当初は臨時の官であったが、後に常設の官となり、北宋代には宰相とされた。同平章事あるいは平章と略される』。『元々は同中書門下三品という。唐初には中書令・門下侍中・尚書僕射がそれぞれ宰相職とされていたが、それよりも下の、主に尚書省の官僚が宰相に任じられることがあった。この時、中書令などの本来の宰相職より官品が低いのは不都合が生ずるので、臨時に同中書門下三品を授けて、中書令らと同格の正三品官としたのである。高宗の』六五〇年に『「同中書門下平章事」と改称され、中書令らと共に正式な宰相職とされた』。この話柄の時間の後になるが、『中唐以降、本来の宰相職であった中書令・門下侍中・尚書僕射が名誉職化するにつれ、それに代わって同平章事は事実上の宰相職として権限を強めていった。同平章事に任命される者は、中書侍郎(次官)や門下侍郎や六部のいずれかの尚書など、必ず本来の官職との兼任であった。節度使に対しても名誉称号として同平章事が授けられ、更には塩鉄転運使などにも授けられることもあった』とある。また、今村与志雄訳「唐宋伝奇集(上)」の「枕中記」の同注には、『唐代、宰相の代りの呼称。唐制では、中央政府最高機関の尚書、門下、中書三省の長官、すなわち尚書令、侍中、中書令が宰相として国務を統轄した。太宗以後、尚書令は設けず、侍中、中書令も必ずしも設け』なかったが、そこで『中書、門下二省の長官でない』者に対して同じ権限を与えて委託し、『宰相の職務を代行』させた。『そこで同中書門下平章事(平章は相談する、研究するという意味。事は政事をいう)と称した。唐代、宰相は一般に同時に四、五人置いた』とある。因みに、今村氏の注は知りたいことに飛び抜けて優れている注であると言える。
・「驩州」狭義には現在のベトナム社会主義共和国ゲアン省(ベトナム北中部に位置し、東はバクホ湾に、西はラオス人民民主共和国山岳部に接する)にかつて設置されていた州。設置は唐代初期の六二二年で、行政上の名は五年後の六二七年に演州と改称されている。演州は六三六年に一旦廃止されたが、七五四年に再設置、鎮南都護府(後の安南都護府)の管轄とされた(ここまではウィキの「演州」に拠る。位置はウィキの「ゲアン省」で確認されたい)。「枕中記」の「驩州」の諸注は多く単に「ベトナム」とする。筑摩類聚版芥川龍之介全集の脚注は、限定的に『ベトナム北部の地』とし、更に『当時の唐の領地で流刑地とされた』と孫の手クラスの注を附していて嬉しい。
・「中書令」宮廷の文書・詔勅を掌る中書省の長官であるが、ウィキの「中書令」によれば、『隋と唐早期には、皇帝が出す詔勅の起草を行うという役職から、非常に強い権限を持ち、実質的な宰相職となっていた。唐の太宗の治世では、中書令は參議朝政などの名で国政に参与するようになり、同中書門下三品もしくは同中書門下平章事を兼任しない宰相には実質的権限がなかった』とあり、唐の第二代皇帝太宗李世民の在位は六二六年から六四九年で本話内時間の七十年ほど前のことであり、廬生は失脚前の官職に丸々復帰していると考えてよいから、正しく「同中書門下平章事を兼任」する「宰相」で、「実質的権限」を持った権威者に復帰していたと考えられる。今村氏の注では、『唐代の中書省は、事実上、皇帝の枢要な執務機関で顧問の機構であり、職種が最も高かった』とあって、龍之介の「黃梁夢」の注としても読解をよく助けてくれるものである。
・「燕國公」「燕」は地名としては戦国時代の燕国のあった河北省北部、現在の北京を中心とする一帯を指すが、これは本邦の「〇〇守」同様の称号である。前に示した「枕中記」の今村氏の注に、『唐代、封爵を九等に分け、国公は第三等、秩』(ちつ:官位の順位。)『は従一品で、親王と群王につぐ。燕公国の燕は、称号にすぎない。古代の燕国地方の租税収入が支給されたのではない』とある。目から鱗。
・「寵辱の道」栄達と零落・名誉と屈辱という人生の道程。
・「窮達の運」困窮と栄達・貧困と富貴という人間の運命。
・「得喪の理」得ることと失うこと・成功と失敗という世の道理。
・「死生の情」人間の死と生というものの厳然たる非情な実体。
Ⅲ 原典
[やぶちゃん注:底本は私が大学二年の時の漢文学演習(詩経)で、数少ない「不可」を頂戴した故乾一夫氏の(その頃、現代文学にしか色気のなかった私が自主休講を積み重ねた結果――実際の動機は彼が当時の学生運動を殊更に『嫌悪』し、最初の授業の際に、数分の発言を謙虚に求めた核マル派の女子学生を暴力的に教室から排除した姿に私が『嫌悪』した結果であったがしかし、そのお蔭で畏敬する故吹野安先生に出逢うことが出来たとも言える)明治書院昭和四六(一九七一)年刊の「新釈漢文大系四十四 唐代伝奇」(内田泉之助との共著)に拠ったが、直接話法部分及び纏まったシークエンスでは改行を施し、段落冒頭は一字下げとした。私の判断で句読点の一部を変更してある。書き下し文・語釈及び現代語訳では、本文底本のそれ以外に東洋文庫版前野直彬編訳「唐代伝奇集 1」(平凡社一九六四年刊)・今村与志雄訳「唐宋伝奇集(上)」(岩波書店一九八八年刊)及び竹田晃・黒田真美子編著「中国古典小説選5」(明治書院二〇〇六年刊)を一部、参考にしたが、現代語訳は基本、オリジナルである。]
枕中記 沈既濟
開元七年。道士有呂翁者、得神仙術。行邯鄲道中、息邸舍。攝帽弛帶、隱囊而坐。俄見旅中少年。乃盧生也。衣短褐、乘靑駒、將適于田、亦止於邸中。與翁共席而坐、言笑殊暢。久之、盧生顧其衣裝敝褻、乃長歎息曰、
「大丈夫生世不諧、困如是也。」
翁曰、
「觀子形體、無苦無恙。談諧方適、而歎其困者、何也。」
生曰、
「吾此苟生耳。何適之謂。」
翁曰、
「此不謂適、而何謂適。」
答曰、
「士之生世、當建功樹名、出將入相、列鼎而食、選聲而聽、使族益昌、而家益肥。然後可以言適乎。吾嘗志于學、富於游藝。自惟當年、靑紫可拾。今已適壯、猶勤畎畝。非困而何。」
言訖、而目昏思寐。時主人方蒸黍。翁乃探囊中枕以授之曰、
「子枕吾枕。當令子榮適如志。」
其枕靑甆、而竅其兩端。生俛首就之。
見其竅漸大明朗、乃擧身而入、遂至其家。
數月、娶淸河崔氏女。女容甚麗、生資愈厚、生大悦。由是衣裝服馭、日益鮮盛。明年、擧進士、登第、釋褐祕校。應制、轉渭南尉。俄遷監察御史、轉起居舍人・知制誥。三載、出典同州、遷陜牧。生性好土功、自陜西鑿河八十里、以濟不通。邦人利之、刻石紀德。
移節忭州、領河南道採訪使、徴爲京兆尹。是歳、神武皇帝方事戎狄、恢宏土宇。會吐蕃悉抹邏及燭龍莽布支、攻陷瓜・沙、而節度使王君※新被殺、河湟震動。帝思將帥之才、遂除生御史中丞・河西道節度。大破戎虜、斬首七千級、開地九百里、築三大城、以遮要害。邊人立石於居延山以頌之。歸朝册勳、恩禮極盛。轉吏部侍郎、遷戸部尚書兼御史大夫。時望淸重、羣情翕習。大爲時宰所忌、以飛語中之、貶爲端州刺史。
[やぶちゃん字注:「※」=「奐」の上下を切り離して中央部分(「大」の上部)に「比」を入れ込んだ字体。]
三年、徴爲常侍。未幾、同中書門下平章事。與蕭中令嵩・裴侍中光庭同執大政十餘年、嘉謨密命、一日三接、獻替啓沃、號爲賢相。同列害之、復誣與邊將交結、所圖不軌。下制獄、府吏引從至其門、而急收之。生惶駭不測。謂妻子曰、
「吾家山東、有良田五頃、足以禦寒餒、何苦求祿。而今及此、思衣短褐、乘靑駒、行邯鄲道中、不可得也。」
引刃自刎。其妻救之、獲免。其罹者皆死、獨生爲中官保之、減罪死、投驩州。
數年、帝知寃、復追爲中書令、封燕國公、恩旨殊異。生五子。曰儉、曰傳、曰位、曰倜、曰倚、皆有才器。儉進士登第、爲考功員外。傳爲侍御史、位爲大常丞、倜爲萬年尉。倚最賢、年二十八、爲左襄。其姻媾皆天下望族。有孫十餘人。
兩竄荒徼、再登台鉉、出入中外、徊翔臺閣。五十餘年、崇盛赫奕。性頗奢蕩、甚好佚樂、後庭聲色、皆第一綺麗。前後賜良田・甲第・佳人・名馬、不可勝數。
後年漸衰邁、屢乞骸骨、不許。病、中人候問、相踵於道、名醫・上藥、無不至焉。將歿、上疏曰、
「臣本山東諸生、以田圃爲娯。偶逢聖運、得列官敍。過蒙殊獎、特秩鴻私、出擁節旌、入昇台輔。周旋中外、綿歷歳時。有忝天恩、無裨聖化。負乘貽寇。履薄增憂、日懼一日、不知老至。今年逾八十。位極三事。鍾漏並歇、筋骸倶耄、彌留沈頓、待時益盡。顧無成效、上答休明、空負深恩、永辭聖代。無任感戀之至。謹奉表陳謝。」
詔曰、
「卿以俊德、作朕元輔、出擁藩翰、入贊雍煕。昇平二紀、實卿所賴。比嬰疾疹、日謂痊平。豈斯沈痼、良用憫惻。今令驃騎大將軍高力士、就第候省。其勉加鍼石、爲予自愛。猶冀無妄、期於有瘳。」
是夕、薨。
盧生欠伸而悟。見其身方偃於邸舍、呂翁坐其傍、主人蒸黍未熟、觸類如故。生蹶然而興曰、
「豈其夢寐也。」
翁謂生曰、
「人生之適、亦如是矣。」
生憮然良久、謝曰、
「夫寵辱之道、窮達之運、得喪之理、死生之情、盡知之矣。此先生所以窒吾欲也。敢不受敎。」
稽首再拜而去。
●やぶちゃんの書き下し文+語注
[やぶちゃん注:読点は読み易さを考えて原文に打ったものにさらに追加してある。読みは諸家のものを参考にしながらも、一部には私がよりよいと考えるオリジナルな訓読を施してある。シークエンスごとに全八段に区切り、通し段落番号を附し、格段の後に語注を附した(語注には主に先に掲げた諸家のものを用いた。引用する場合は明記した)。但し、芥川龍之介の「黃梁夢」で注したものは省略した。]
枕中記 沈既濟
【第一段】
開元七年、道士に呂翁なる者有りて、神仙の術を得たり。邯鄲の道中を行きて、邸舍に 息ふ。帽を攝りて帶を弛め、囊に隱りて坐す。俄かにして旅中の少年を見る。乃ち盧生なり。短褐を衣、靑駒に乘り、將に田に適かんとし、亦、邸中に止まる。翁と席を共にして坐し、言笑殊に暢びやかなり。之れ、久しくして、盧生は其の衣裝の敝褻なるを顧みて、乃ち長歎息して曰く、
「大丈夫、世に生まれて諧はず、困しむこと是くのごときや。」
と。
翁曰く、
「子の形體を觀るに、苦も無く、恙も無きなり。談諧方に適するに、而も其の困しみを歎くは、何ぞや。」
と。
生曰く、
「吾れは此れ、苟しくも生くるのみ。何をか之れ、適とは謂はんや。」
と。
翁曰く、
「此れをば適と謂はずして、何をか適とや謂はん。」
と。
答へて曰く、
「士の世に生まるるや、當に功を建て、名を樹て、出でては將、入りては相、鼎を列ねては食ひ、聲を選んでは聽き、族をして益々昌へて、家益々肥えしむべし。然る後、以つて適と言ふべきか。吾れ、嘗て學に志し、游藝に富めり。自ら惟ふに、當年、靑紫を拾ふべしと。今、已に適に壯なるも、猶ほ畎畝に勤む。困しむに非ずして、何ぞや。」
と。
言ひ訖れば、而ち、目、昏み、寐ねんことを思ふ。時に主人は方に黍を蒸さんとす。翁、乃ち、囊中の枕を探して以つて之れを授けて曰く、
「子、吾が枕を枕せよ。當に子をして、榮適、志しのごとくならしむべし。」
と。
其の枕は靑甆にして、其の兩端を竅とす。生は首を俛して之に就く。
其の竅、漸く、大にして、明朗なるを見、乃ち身を擧げて入り、遂に其の家に至る。
●【第一段】語注
・「沈既濟」(七五〇 年頃?~八〇〇年頃)は唐代の歴史家・小説家。以下、ウィキの「沈既済」と「中国古典小説選5」の冒頭解説をカップリングして知り得る事蹟を示す。「旧唐書」「新唐書」に伝記が載る。蘇州呉の出身で、玄宗の天宝年間(七四二年~七五六年)かそれよりも少し前に生まれ、玄宗の孫代宗の大暦(七六六年~七七九年)末から代宗の長男徳宗の貞元年間(七八五年~八〇五年)という、安史の乱を含むまさに唐王朝の隆盛と激動の時代に中晩年を過ごした。徳宗の時、両税法(律令制の根幹である均田制や租庸調制を実質上捨てたもので夏・秋の二期徴税・原則銭納)の施行で知られる楊炎(当時は吏部侍郎)によって史家として推挙され、七八〇年に楊炎が宰相となった時に左拾遺(皇帝の諫言役・史館修撰(国史・実録の編纂担当)に任ぜられたものの、翌年楊炎が失脚・罷免(左遷の途次で絞殺)されると、連座して処州(現在の浙江省麗水市)に左遷された(この時の船中で妖狐の伝奇「任氏伝」を書いている)。貞元の初めになって故楊炎の政敵の失脚によって都に帰還、礼部員外郎(礼楽・外交担当である礼部の定員外職)となって在職のまま亡くなっている。歴史書「建中実録」十巻は高く評価されており、彼の残した伝記小説も後世の戯曲・小説に広く影響を及ぼした。「枕中記」の盧生の夢時間に於ける事蹟は偽書ばりの筆力が感じられるが、これはそうした史官としての実績や、自身の体験した政争上の事実に基づくものであるといえる。なお、この話はたった百字余りの六朝志怪小説をさらなる原典としたものであることが魯迅によって指摘されている(「Ⅴ 評釈」を参照)。また、本「枕中記」には「文苑英華」(八三三巻所収。題は「枕中記」)と「太平広記」(八十二巻「異人 二」に「呂翁」と題して収める)の二系統のテクストがあり、かなりの異同が見られる(本原文は前者を採用している。幾つかの重要な箇所の語注で異同に言及しておいた)。
・「開元七年」西暦七一九年。盛唐この時期は「開元の治」と呼ばれる、玄宗(在位は七一二年~七五六年)が善政を敷いた治世の前半で唐代屈指の絶頂期とされる。「太平広記」本は「開元十九年」(西暦七三一年)とするが、後に出る夢時間内の史実記載と前後してしまう部分が生じてしまうため、開元七年の方がよいと思われる。
・「邸舍」これは茶店ではなく、街道に面した旅館である。入口の土間が一種のラウンジとなっていて、飲食を供する旅人の休憩所となっていたものらしい。
・「短褐」麻や木綿製の丈の短い粗末な着衣。貧民や最下級の者の服装である。
・「靑駒」青毛(濃い青味を帯びた黒色の毛並をいう)の馬。
・「敝褻」これ自体が、衣服が古びて汚らしいことをいう語。先の「短褐」には「短褐穿結」という四字熟語もあり、これも貧しい人や卑しい人の着る衣服から、貧者の粗末な姿を形容する語として用いられ。
・「諧はず」「諧」は、適う・調子が合う・調和するの意で、ここは、思い通りにならない・思うに任せず、の謂い。次のキーワードである「適」を引き出すための枕である。
・「談諧」この「諧」は前のそれと異なり、諧謔の意で冗談を交えた談笑のこと。
・「適」本作のテーマの提示である。人にとっての「人生の適」=「生きることのまことの悦び」=「人の生き死に於ける真の自由」とは何か? という公案の提示である。
・「鼎」今村与志雄訳「唐宋伝奇集(上)」の注には、『鼎は古代、高貴な官職にある者の使用する食器。『漢書』六四「主父偃」』(しゅほ/えん 生没年不詳。武帝の賢臣であったが処刑された)『にある語に基づく。五鼎の食とは、牛、羊、豕(豚)、魚、麇』(獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科シラオジカ亜科ノロジカ
Capreolus capreolus のこと。小型のシカの仲間)『のこと。諸侯は五、卿大夫は三と、鼎の数が決められていた』とあり、これに従うなら、廬生はその鼎を「列ねて」と述べるからには、その野望の遠大であることが分かる。
・「選聲」選りすぐった歌姫の美声。
・「游藝に富めり」「論語」の「述而篇」に「子曰、志於道、拠於德、依於仁、遊於藝。」(子曰く、「道に志し、德に拠り、仁に依り、藝に遊ぶ。」と。)とあるように、この「藝」は儒教の基本的教養とされた礼(礼節・道徳)・楽(音楽)・射(弓術)・御(馬車を操る技術)・書(文学)・数(数学)の六芸を指し、士としての学芸総てに秀でていることをいう。
・「當年」自信に満ち満ちた野心満々の若き日、その当時の謂い。この辺りの叙述から廬生は、若き日より科挙試を何度も受けるも不合格であったこと、挫折の辛酸を舐めてきたことが暗に示されているのである。
・「靑紫を拾ふべし」「靑紫」は元は印綬(古代中国に於いて官吏がその身分や地位を示す印として天子から賜った印及びそれを下げるための組み紐)の綬(紐)の色をいい、九卿(九つの重役である官職。時代により名称が異なるが例えば周代では少師・少傅・少保・冢宰・司徒・司空・司馬・司寇・宗伯を指す)は青、より高位の公侯(諸侯)は紫であったことから(最高位は多色(皇帝で六色)で次いで萌黄、以下、紫・青・黒・黄の順)、高位高官の謂いとなった。
・「壯」三十歳。
・「畎畝」田圃。
・「時主人方蒸黍」乾氏の注に『この一句を『太平広記』本では』(前に示した原文は「文苑英華」を底本とするものである)「是時主人蒸黃梁爲饌」(是の時、主人は黃梁を蒸し、饌と爲さんとす。「饌」は食事の意)『に作る。であるから、「黄梁の夢」とか「黄梁一炊の夢」という成語は、この『太平広記』系統の本文によって生まれた語であることがわかる』とある。
・「榮適」自分の願い通りのことが叶って心から楽しむことをいう。
・「靑甆」青磁。紀元前十四世紀頃の殷が起源とされる。この唐の後の北宋末期から南宋期を絶頂期とした。
・「俛首」「俛」は伏せるの意で、枕に頭を載せて臥すこと。
・「言ひ訖れば、而ち、目、昏み、寐ねんことを思ふ」謂わずもがな乍ら、この睡魔自体が既にして呂翁の催眠術の結果である。
・「其の竅、漸く、大にして、明朗なるを見、乃ち身を擧げて入り、遂に其の家に至る」ここで初めて伝奇の面目躍如たるシーンが登場する。しばしば廬生の体が小さくなって枕の中に入るようにイメージしてしまう(仙術では確かに対象縮小はお手の物ではある)のであるが、ここの面白さは枕の両端の孔が巨大化するもので、それは一種の空間の歪みのように感じられて近年のSFXを先取りしたような面白さがある。そうして考えてみれば、実は本話はここだけが唯一、真に顕在的な怪異の場面なのである。
【第二段】
數月にして、淸河の崔氏が女を娶る。女の容、甚だ麗しくして、生資、愈々厚く、生は大いに悦ぶ。是れに由りて衣裝服馭、日に益々鮮盛たり。明年、進士に擧げられて、第に登り、褐を祕校に釋く。制に應じ、渭南の尉に轉ず。俄かにして監察御史に遷り、起居舍人・知制誥に轉ず。三載、出でて同州を典り、陜の牧に遷る。生は、性、土功を好み、陜西より河を鑿つこと八十里、以つて通ぜざるを濟す。邦人は之れを利とし、石に刻して德を紀せり。
●【第二段】語注
・「淸河の崔氏」今村氏の注によれば、唐代に於いては有力な氏族門閥として五姓七族が重視されたがその中の一族が、まさにこの「淸河の崔氏」であったとある。
・「生資」生活費。財産。
・「衣裝服馭」衣裳と馬車。「服馭」は本来は馬車を馭するの意。
・「鮮盛」艶やかで美しく豪勢なこと。派手。
・「進士に擧げられて」科挙試の有受験資格者として州県から推薦されること。その推薦者は郷貢と呼称した。推薦された受験者も合格者も孰れも進士と呼んだ。ここは前者。
・「第に登り」合格し。今村氏の注には『唐代、科挙の及第者は明経科』(科挙の受験に必要とされる学識課程の一つで、経書に関するものをいう)『の及第者が、毎年一百人乃至二百人ぐらい、「進士科」』(仕官後のエリート・コースとして最難関の人気課程であった)『は特に少なく、平均してせいぜい三十人ほどであった』とある。廬生の抜群の才が際立つ。
・「褐を祕校に釋く」「釋褐」は卑賤の者の衣服である「褐」を脱ぐの意から転じて初めて仕官するという意。「祕校」は秘書省校書郎の略で宮中の図書を官吏する官。比較的閑職であるらしいが、前野氏の注によれば、科挙試に『合格した者はまずこの職に任命され、勤務ぶりを見てそれぞれに官職を受けることが多かった』とあるものの、今村氏の注では『当時、出仕した人がうらやましがるポストであった』ともある。
・「制」乾氏と「中国古典小説選5」は単に『勅命』と訳すが、前野直彬編訳「唐代伝奇集 1」は『天子からじきじきの試問を受けて、』とし、今村氏は『制科の考試に参加して』と訳した上で注で、「制科」は科挙試の中でも特別に『皇帝の特命で開設され』たもので、『進士科、明経科の及第者及び現職の官員がこれを受けることができる。及第者は、特別に昇進でき』たとあり、また『制科の及第者は特に少なく、毎回、三、四人ほどであった』とある。訳は最も正確と思われる今村氏のものを使わさせて貰った。選りすぐりのエリート廬生の姿が垣間見られる。
・「同州」現在の陝西省渭南市一帯。
・「陜の牧」陜州(現在の河南省陜県で高原地帯である)の行政長官。「牧」は刺史や太守などの地方長官を指す。
・「土功」土木事業のこと。以下に運河の掘削の話が出るので土木治水事業とすべきであろう。
・「八十里」唐代の里程は一里が約五百六十メートルであるから、本邦の十一里強、約四十四・八キロメートルに相当する。
・「邦人」国人。土地の民。
・「利」便利の「利」又は悦ぶの意でここは両方の意で読めばよかろう。
【第三段】
節を忭州に移し、河南道採訪使を領し、徴されて京兆の尹と爲る。是の歳、神武皇帝は方に戎狄を事とし、土宇を恢宏す。 會々の悉抹邏しつまつら及び燭龍しよくりようの莽布支まうふし、瓜くわ・沙さを攻陷こうかんして、節度使王君※わうくんちやく、新たに殺され、河湟かくわう、震動す。帝は將帥の才を思ひ、遂に生を御史中丞・河西道かせいだう節度に除ぢよす。大いに戎虜を破り、首かうべを斬ること七千級、地を開くこと九百里、三大城を築き、以つて要害を遮さへぎる。邊人は石を居延山に立てて以つて之れを頌しようす。歸朝すれば勳いさをの册さくされて、恩禮、極めて盛んなり。吏部侍郎に轉じ、戸部こぶ尚書兼御史大夫に遷うつる。時望淸重じばうせいちやう、羣情翕習ぐんじやうきふしふす。大いに時の宰の忌む所と爲り、飛語を以つて之れに中あてられ、貶へんせられて端州の刺史と爲る。
[やぶちゃん字注:「※」=「奐」の上下を切り離して中央部分(「大」の上部)に「比」を入れ込んだ字体。]
●【第三段】語注
・「節を忭州に移し」「節を移す」は勅命を受けて別な地へ転任すること。「節」は本来は羽や牛の尻尾で作った旗印で、将軍や使者などに皇帝が自身の命であることを証明するために賜ったものを指す。本邦でも「節せちの旗」「大頭おおがしら」「節下せちげ」などと称して、棹の頂上に牛の尾の黒い毛又は黒く染めた苧おを束ねて垂らしたものを、天皇の即位や御禊ごけいの儀式の際に用いる。
・「忭州」現在の河南省開封市。洛陽の約百七十五キロメートル東方。
・「河南道」唐の貞観の初めに置かれた広域の地方名。黄河以南、現在の河南省・山東省の黄河以南と、江蘇省・安徽省の淮河わいが(旧名淮水)以北の地を指す。
・「採訪使」官名。正しくは採訪処置使。地方官吏の勤務評定を行って中央へ報告する監察官。
・「京兆の尹」官名。京師及びその近郊を管轄する行政長官。高級官僚職である。ウィキの「京兆尹」によれば、『隋初には京兆郡長官として京兆尹が設置されていたが、開皇初年に廃止されている。唐代になると開元初年に雍州が京兆尹と改称されたが、後に廃止され、京兆尹は官職制度上消滅した。しかしその後も京師所在地の行政長官を京兆尹と呼びならわす習慣が残された』とある。「開元初年」は西暦七一三年で本話はその六年後の設定(但し、話頭の事実時間)であるから、これは正真正銘の真正の京兆尹ということになろう。
・「神武皇帝」玄宗皇帝の尊号。乾氏の注によれば尊号は在位中に複数回(注には六回)臣下が奉ったもので、いろいろあることが分かるが(例えば最後に挙げられている天宝八(七四九)年のそれは「開元天地大宝聖文神武應道皇帝」)、この「神武」という文字はその六種総てに含まれる尊号である。
・「戎狄」えびす。異民族。厳密に言えば「東夷西戎南蛮北狄」であるから、西方と北の、現在のチベット族の祖とされる彝い族の先祖や突厥とっけつ(テュルク)や吐谷渾とよくこんといった部族がいた。
・「土宇」国土。
・「恢宏」拡大すること。
・「吐蕃」現在のチベット。
・「悉抹邏」実在した吐蕃の大将。「中国古典小説選5」の注によれば、「太平広記」本では「新諾羅」、「旧く唐書」「新唐書」は孰れも「悉諾邏恭祿」とする旨の記載がある。乾氏注に、史実では『彼が燭竜の莽布支と瓜州を攻陥したのは、開元十五(七二七)九月である』とあるから、ここは廬生の夢の内部に於ける時間が正確に描出される箇所である点に注意したい。邯鄲での冒頭時間からは八年が経過していることになっているから、廬生は架空時間では既に三十八歳頃である。
・「燭龍」乾氏注に『唐代におかれたが、今存在しない。甘粛省の地』とするが、前野氏は『異民族の一つ』とする。今村氏は『唐代の州名』で『もと突厥族』の『居住地』であったが、『太宗の貞観二十年(六四六)、突厥の漢北の各部族が唐に帰順した時に置かれた州の一つ。その地は現在のバイカル湖東にあたるという』と詳述する。前の「吐蕃」との並びからは前野氏の族名の方がバランスがよい。そう名付けた異民族の地に住む民の漢名と解すれば問題はあるまい。
・「莽布支」「中国古典小説選5」の注(これは「燭龍莽布支」の注)には、『両唐書に拠れば、吐蕃の瓜州侵略の際、悉諾邏』(先の悉抹邏のこと)『の副将として分遣隊長務めた』とある実在の武将である。
・「瓜・沙」瓜州と沙州。前者は現在の甘粛省安西県の東で、後者はその瓜州の西に当たる現在の甘粛省敦煌。このルートは知られたシルクロードで西域との通商貿易の拠点であると同時に西北辺境防衛の要衝でもあった。
・「節度使」唐及び五代の軍職で、唐の府兵制の崩壊・羈縻きび(唐の周辺異民族に対する統御政策の呼称)体制の破綻によって、傭兵から成る辺境防衛軍団の総司令官として登場した所謂、令外りょうげの官の代表的なもの。節度は軍隊の指揮を意味する。景雲元(七一〇)年以後、十の節度使が設けられた。安史の乱で国内要衝にも置かれるようになり、多くは観察使を兼ねて民政権をも掌握、地方軍閥と化した。九世紀の憲宗期に中央統制が一時回復されるが、後に再び自立化を強め、唐末には四十から五十、五代には三十から四十の節度使が存在して、各地で勢力を持った(以上は平凡社の「世界大百科事典」に拠った)。
・「王君※」[「※」=「奐」の上下を切り離して中央部分(「大」の上部)に「比」を入れ込んだ字体。]実在した節度使。「中国古典小説選5」の注に『吐蕃征討で戦功を挙げ、大将軍として晋昌県伯に封ぜられたが、開元十五年(七二七)』(乾氏注に『閏九月庚申』とある)に回紇かいこつ(ウイグル)族に『殺された』とある。先に続いて、荒唐無稽な伝奇空間に史実を持ち込んでリアリズムを高めてある。なお、今村与志雄訳「唐宋伝奇集(上)」の訳本文では、この「※」の字を、(上から下に順に「ク」+「口」+「比」+「犬」を繫げた字)で示してある。この字ならば「廣漢和辭典」に載り、「犬」部の十三画。音「チャク」で、意味は獣の名で兎に似て青い色をしており大きいとある他、弱いの意とある。
・「河湟」黄河と湟水河。湟水河は「中国古典小説選5」の注に『源は青海の東北、噶爾蔵嶺』(現在のチベット自治区噶爾ガル県内の山脈の名であろう)『甘粛省境入り大通河と合流して黄河に入る』とある。現在の甘粛省・青海省一帯の西北辺境地域全体を指すと考えてよい。
・「震動」この流域に住む人々はウイグル族の侵攻と治安の悪化で恐れ戦いていた、というのである。
・「御史中丞」御史台の副長官。官吏の非法の監察・弾劾、公卿の上奏文の受領と文書の違反を弾劾した、現在の検察次官に相当する官名。今村氏注によれば、長官である『御史大夫常設しないことが多く、御史中丞が代行』したとあり、また『のち、実力の強大な方鎮』(先に述べた節度使が中央政府から半ば独立した軍閥的存在をいう)『は、つねに皇帝の命令により御史中丞という称号を兼ねたものであ』ったとある。
・「河西道」唐代の広域地方名。今村氏注に、睿宗(玄宗の父)『の景雲二年(七一一)、隴右道の黄河以西の地区をきりはなして』出来た広域地区名とし、『大体、現在の甘粛、青海一帯の地区にあたる』とある。
・「除」新たに任命することをいう語。
・「戎虜」西方の異民族。
・「九百里」四方で前掲単位により換算するなら、実に五百四キロメートル四方という膨大な面積になる。
・「居延山」諸本は甘粛省内にある山の名とするが、今のところ地図に山の名としては見出せない。但し、今村氏の注には、『居延は城の名。いまの甘粛省酒泉県の附近にあった。焉支山は、その領界内にあり、居延山とは焉支山を指すか』とある。
・「勳の册され」乾氏は『勳を册され』「中国古典小説選5」では『勳を册し』と訓じている。しかし、これは所謂、戦争後などに行われる、手柄のあった者の名前を記録帳に記して、論功行賞を行うことを指しており、その場合、当然、係の役人が記すのであって自分で記すわけではないから、敢えて受身形で私は訓じた。
・「恩禮」皇帝が臣下の者に対して恩を施して、相応の礼遇を授けることをいう。
・「吏部侍郎」吏部は六部(隋から清まで中央政府の行政を分担した六つの官庁の総称。三省六部の一つ。因みに三省は中書省(法案の文章を作る機関)・門下省(法案を審査する機関。中書と門下が立法機関に相当する)・尚書省(門下省の審査を通った法案を行政化する機関)。この尚書省の下に実務機関としての六部があり、吏部・戸部(財政と地方行政担当)・礼部(礼制即ち教育及び道徳と外交担当)・兵部(軍事担当)・刑部(司法と警察担当)・工部(公共工事)を職掌した。六部の各長官を尚書と呼ぶ。)の一つ。吏部は尚書省六部の第一で、全文官の任免・評定・異動などの人事を担当した。唐の初期には科挙も主管したが、開元二四(七三六)年から礼部の主管に移った(以上は主にウィキの「吏部」及び「三省六部」の記載に拠った)。長官を尚書といい、「侍郎」は副長官に当たる。
・「戸部尚書」前注の通り、国家財政担当機関の長官。前野氏の注では『戸籍・納税などの事務』をも担当したようである。
・「御史大夫」御史台の長官。副丞相とも呼ばれた。参照したウィキの「御史大夫」によれば秦漢代に於いては、同官は『副宰相格として、或いは皇帝の側近の筆頭として、政策立案を司っていたようであり、その管轄する官署は御史府と称されていた』が、『景帝、武帝の時代頃から、皇帝の権威・権勢が強まると、相対的に行政執行官であり、官僚の最高ポストでもある丞相の権威が低下して名誉職の色合いが濃くなった。そこで皇帝の側近筆頭たる御史大夫が、宰相の役割を果たすようになった』とある。乾氏注には『御史台の長官。百僚の罪をただすことを掌る。今日の検察庁長官である』とあり、今村氏注には『御史大夫は、つねに他の官(六部の尚書、侍郎、京兆の尹など)が兼任した』ともある。
・「時望」時の人々から尊敬の念を以って仰ぎ見られること。
・「淸重」清廉潔白で重厚な人柄をいう。
・「羣情」群心。民草の心。
・「翕習」「翕」は気立てのよい・従順なといった意味があり、ここは心安く慣れ親しむことをいう。
・「飛語」流言飛語。
・「端州」現在の広東省高要県。現在の香港の北西約二〇〇キロメートルの内陸地域で広東省のほぼ中部に位置し、広州市からは西方へ約八〇キロメートル、古来から西江流域の重要な交通要地ではあったが、今村氏注によれば、『唐代、吏員を左遷する場合、嶺南道など京師から遠隔の各道に左遷することが多かった』とある。
・「刺史」一州の官吏を納める太守。
【第四段】
三年、徴めされて常侍と爲る。未だ幾いくばくもならずして、同中書門下平章事どうちゆうしよもんかへいしやうじたり。蕭中令嵩せうちうれいすう・裴侍中光庭はいじちゆうくわうていと同ともに大政たいせいを執ること十餘年、嘉謨密命かぼみつめい、一日に三接して、獻替啓沃けんたいけいよく、號して賢相と爲る。同列、之れを害し、復た邊將と交結して、圖はかる所の不軌なるを誣しふ。制を下して獄せんとし、府吏、從じゆうを引きて其の門に至り、急に之れを收めんとす。生、測らずして惶駭くわうがいす。謂ひて妻子に曰く、
「吾れは山東に家し、良田五頃けい有り、以つて寒餒かんたいを禦ふせぐに足れるに、何ぞ苦しみて祿を求めしや。而れども今、此ここに及びては、短褐を衣き、靑駒に乘り、邯鄲の道中を行かんことを思ふも、得べからざるなり。」
と。
刃やいばを引ひきて自刎じふんせんとす。其の妻之れを救ひて、免るるを獲えたり。其の罹かかれる者、皆、死せしも、獨り生のみは中官の爲に之れを保たすけられ、罪死を減じ、驩州くわんしうに投ぜらる。
●【第四段】語注
・「常侍」一般名詞では常に近くにいて奉仕することをいうが、ここは官名で正しくは散騎常侍。侍従に相当する。今村氏注によれば、『皇帝の顧問役だが、職掌のない高級の官職』とある。
・「蕭中令嵩」(?~七四九年)中書令の蕭嵩の意。実在の人物。蕭嵩(六六八年~七四九年)は字は喬甫、開元一六(七二八)年に中書令(臺灣ウィキの「蕭嵩」による。乾氏注は翌開元十七年とする)、天宝八(七四九)年には宰相となっている。今村氏注には、『開元年間、兵部尚書、朔方』(北方)、『河西などの節度使。』先に出た『悉諾邏の侵入の時、これを撃退して大功をたてた。宰相に任ぜられ、中書令に昇進した。玄宗の時の名宰相の一人』とある。
・「裴侍中光庭」侍中(門下省の長官。侍中府の官職の一つで皇帝の側近として皇帝の質問に備えて身辺に侍する役職)の裴光庭の意。実在の人物。裴光庭(六七六年~七三三年)は字は連城、玄宗の開元年間晩期には宰相であった。乾氏注には侍中就任は開元一八(七三〇)年とする。「同ともに
」とあるのが、やはり細部のリアリズムを示して面白い。なお、門下省については今村氏注に『中書省と同じ職務に枢要な機関だが、主として中書省の起草した一切の政令詔勅を再検討する役目をする』とある。
・「大政」天下の政治。
・「嘉謨」優れた国家的企画。
・「密命」皇帝からの秘密の命令。
・「三接」慣用表現で何度もの意。
・「獻替」善を勧めて悪を諌めるの謂いで、君主を補佐しすることをいう。「けんてい」とも読む。
・「啓沃」心中を啓ひらいて他者の心に沃そそぎ入れるという意で、心に思うことを隠さずに君主に上奏することをいう。
・「邊將」辺境の地の守備を担当する将軍。
・「交結」親交を通ずる、よしみを結ぶの意で、ここは結託してという意。
・「不軌」法律や規則などに従わないこと、謀反を企てることの意があるが、ここは後者。
・「制を下して獄せん」前に注したように「制」は勅命。それによって罪状の有無を調べて処断することを指す。
・「惶駭」恐れ戦くこと。
・「五頃」「頃」は面積の単位で、唐代の一頃は約五百八十ヘクタール相当であるから、二千九百ヘクタールに相当する(乾氏は換算して本邦の三十町歩ちょうぼとして『相当に広いことがわかる』と述べておられる)。因みに現在の日本最大の民間総合農場である小岩井農場が三千ヘクタールであるから、夢中の在野時代最後の廬生が持っていた田畑は、これ、とんでもなく広かったことにはなる。
・「寒餒」寒さの凍えと飢え。
・「短褐を衣、靑駒に乘り、邯鄲の道中を行かんことを思ふも、得べからざるなり」冒頭シーンを読者にフィード・バックさせる重要なポイントである。
と。
・「中官」広く朝廷内の官吏をいうが、限定的に宦官をも指すから、ここではそれであろう。後に出る高力士も宦官でまさにこの頃から皇帝や後宮で絶大な権力を宦官は持つようになっていた。また廬生はそうした権威を持った宦官にも人気があるほどに美形であったということか。
【第五段】
數年にして、帝、寃なりしを知り、復た追つて中書令と爲し、燕國公に封ほうじ、恩旨、殊に異なれり。五子を生む。曰く儉、曰く傳、曰く位、曰く倜てき、曰く倚い、皆、才器有り。儉は進士に登第し、考功員外と爲る。傳は侍御史と爲り、位は大常の丞と爲り、倜は萬年の尉と爲る。倚は最も賢けんにて、年二十八にして、左襄と爲る。其の姻媾いんこうは皆、天下の望族なり。孫十餘人有り。
●【第五段】語注
・「考功員外」「考功」の「考」は計るの意で全国の官吏の勤務評定を掌る官名。「員外」は正規の定員以外に追加された特別枠をいう。
・「侍御史」御史台の属官。主に中央政の各機関の監察・弾劾・審判に当たった官名。ウィキの「侍御史」によれば、『唐代宋代には台院と呼ばれ、殿中侍御史(殿院)、監察御史(察院)とともに、三台と称せられた』とある。
・「大常の丞」乾氏注に、『官名。宗廟・祭祀・礼儀を掌る職』とある。今村氏は現代語訳で「太常寺の丞」と訳されており、同注には、『太常寺は、唐代中央機関の一つ。礼、楽、祭祀を掌轄する。丞は機関内部の具体的な仕事について責任を持つ』とある。
・「萬年」現在の陝西省西安市臨潼区の東北部の一画に相当する地域。今村氏は注に『万年県は、唐代、首都長安区内にあり、京県といわれた』と附す。
・「左襄」左相。宰相のこと。「太平広記」本では「右補闕」に作るが、これは皇帝の政策や行動の問題点を諌める一種の御意見番らしい(前野氏注による)。但し、官式に恐ろしく詳しい今村氏の注では、襄は※(「※」=「褒」-「保」+「公」)の誤りかとされ、『左※は左保※、あるいは左補闕という。唐代、門下省に属する。皇帝を諌める職務』とある。この「※」の字は音「コン」で、原義は龍の模様を縫いとった天子の着る礼服の意で、後にそれを特に賜った三公(最高位に位置する三つの官職についている大臣のことで、周においては太師・太傅・太保、秦や前漢では行政を司る丞相(大司徒)・軍事を司る太尉(大司馬)・監察・政策立案を司る御史大夫(大司空)、後漢以降は司徒・司空・太尉と名を改められた。やがて三省六部の制が整えられるに及んで三公は名誉職となって時代によっては再び太師・太傅・太保の三官職が三公とされることもあったとウィキの「三公」にある)を指すとある。今村氏の注はまっこと快刀乱麻。
・「姻媾」親族。姻族。
・「望族」人から羨ましがられ重んじられる家柄。
【第六段】
兩ふたたび荒徼くわうけうに竄ざんせられ、再び台鉉だいげんに登り、中外に出入して、臺閣を徊翔くわいしやうす。五十餘年、崇盛赫奕すうせいかくえきたり。性、頗る奢蕩しやたう、甚だ佚樂いつらくを好み、後庭の聲色、皆、第一の綺麗たり。前後に良田・甲第かふてい・佳人・名馬を賜はること、數ふるに勝へず。
●【第六段】語注
・「荒徼」乾氏注に『中央を遠く離れた辺塞』とある、
・「台鉉」乾氏注によれば、「鉉」は鼎の持ち手の耳の部分をいい、鼎が帝位の象徴であることから、その「鉉」を皇帝を補佐する三公に喩えたものとする。
・「中外」京師の中央やその外である地方。
・「臺閣」乾氏注に『朝廷。今の内閣に当たる』とする。
・「徊翔」「臺閣」の要職を歴任したということであろう。
・「五十餘年」当時としては相当に長命で、且つ権勢を恣にしたことが分かる。
・「崇盛赫奕」乾氏注によれば、『「崇盛」は位が高く勢力のある意。「赫奕」は光りかがやいて世にあらわれるさま』とある。
・「奢蕩」奢り昂ぶり好き勝手放題のことをするの意
・「佚樂」遊興にうつつをぬかし、楽しむこと。
・「聲色」乾氏注では『ここでは歌い女などを含む、廬生につかえる多くの婦人をいう』とある。芥川の「黃梁夢」では限定的に朦朧にされてあるが、原典は明らかに側女を意味している。
・「甲第」立派な邸宅。
【第七段】
後のち、年とし漸く衰邁すゐまいし、屢々骸骨を乞へども、許されず。病みて、中人候問こうもんして、道に相ひ踵つぎ、名醫・上藥、至らざるは無し。將に歿せんとして、上疏じやうそして曰く、
「臣、本は山東の諸生にして、田圃を以つて娯たのしみと爲せり。偶々たまたま聖運に逢ひ、官敍くわんじよに列するを得たり。過あやまりて殊獎しゆしやうを蒙り、特に鴻私こうしを秩つみ、出でては節旌せつせいを擁し、入りては台輔たいほに昇る。中外に周旋して、歳時を綿歷す。天恩を忝かたじけなくすること有るも、聖化を裨たすくること無し。負乘ふじよう、寇あだを貽おくり、薄を履ふみて增々憂へ、日々一日いちじつを懼おそれ、老いの至るを知らざる。今年、八十を逾こゆ。位くらゐ
は三事を極めたり。鍾漏しようろう並びに歇つき、筋骸きんがい倶に耄おい、彌留沈頓びりうちんとんして、時の益々盡くるを待つ。顧みるに、效を成し、上かみが休明きうめいに答ふる無く、空しく深恩に負そむき、永く聖代を辭す。感戀の至りに任たふる無し。謹んで表へうを奉りて陳謝す。」
と。
詔みことのりして曰く、
「卿けいは俊德を以つて、朕ちんの元輔げんぽと作なり、出でては藩翰はんかんを擁し、入りては雍煕ようきを贊たすく。昇平二紀しようへいにきは、實に卿に賴る所なり。比このごろ疾疹しつしんに嬰かかり、日に痊平せんぺいせんことを謂おもふ。豈に斯ここに沈痼ちんこならんとは、良まことに用もつて憫惻びんそくす。今、驃騎へうき大將軍高力士をして、第に就きて候省こうせいせしむ。其れ、勉めて鍼石しんせきを加へ、予が爲ために自愛せよ。猶ほ冀こひねがはくは妄すること無く、瘳いゆる有るを期せよ。」
と。
是の夕べ、薨ず。
●【第七段】語注
・「衰邁」「邁」は「行く」で、年老いてゆく。
・「骸骨を乞へども」「骸骨を乞ふ」とは、臣下が、主君に一身を捧げて仕えた一個のこの身だが、既に老いさらばえ役に立てなくなったため致仕させてもらいたい。それに当たってはどうか、骨だけはお返し戴きたいという意で、「晏子春秋」外篇に基づく故事成句。辞職を願い出たけれども。
・「中人」広く宮中に奉仕する人の意(狭義には宦官を指す)。
・「候問」伺候訪問。お見舞い伺い。
・「上疏」事情や意見を述べた書状を主君・上官などに差し出すこと。また、その書状。上書。
・「聖運」天子の運命。皇運。在り難い神聖なる皇帝の巡り合わせ。
・「官敍」役人としての官職位階を授けること。
・「殊獎」特別な褒賞。殊の外、目を掛けられる、贔屓されることをいう。
・「鴻私」広大なる私(わたくし/プライベート)の恩恵。無論、皇帝のそれを指す。
・「秩み」積む。なお、この「秩」には別に、官位によって受ける俸給や官位官職の意もあり、そうした数々の重職をも任されたことを暗示させる表現であろう。
・「節旌」「節」は皇帝の公印のマークである旗印で既注。「旌」も似たようなもので、皇帝が旗竿の崎に旄ぼうという旗飾りを附け、これに鳥の羽などを垂らした旗。天子が任命の公印や士気を鼓舞するのに与えたものである。
・「台輔」古代中国に於いて三公(王を支える太保・太傅・太師)の位にあって天子を補佐して百官を統率する者を指す。宰相と同じい。
・「綿歷」長い時が経過すること。
・「聖化」神聖なる皇帝のありがたい徳化。
・「負乘」乾氏注に、『その器でない者が高い地位にあること』とあり、「中国古典小説選5」の注には、『「負」とは小人、「乗」は君子の器、小人でありながら君子がつくべき高い位にあること』とある。孰れも目から鱗の注であった。
・「寇を貽り」「寇」はあだをなすこと・害を加えることをいい、「胎」は贈る・遺すで、身に過ぎた地位なれば却って皇帝へ害を及ぼしたという謙遜の辞。
・「薄を履みて增々憂へ」「薄」は薄氷で、所謂、「薄氷を踏む思い」のために日々憂いが尽きず、というのである。乾氏の注にここは「論語」泰伯篇の「曾子有疾、召門弟子曰、啓予足、啓予手、詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄氷、而今而後、吾知免夫、小子。」(曾子、疾ひあり。門弟子を召して曰く、予が足を啓みよ、予が手を啓よ。詩に云ふ、「戰戰兢兢として深淵に臨むがごとく、薄氷を履むがごとし。」と。而今いまよりして後のち、吾れは免るることを知るかな、小子しようし。)を踏まえるとある。この「論語」の意味は、「詩経」の「小雅」の生への執着を詠んだ章句を引用しながら、末期を迎えるに当たって曾子が個人の肉体に対する執着や懼れから完全に解放される悦びを述べたものである。
・「老いの至るを知らざる」諸本は「知らず」と終止形で止めるが、ここは老残の感懐として私はどうしても体言止めで訓じたくなる。
・「今年、八十を逾ゆ」冒頭の邯鄲での実時間が開元七(七一九)年で当時、廬生は三十と述べているから、単純に計算すると、この時(夢内時間)、大暦四(七六九)年となる。これは史実時間にあっては、玄宗の三男粛宗の後を継いだ長男代宗の治世の最後に相当する。即ち、本話の夢内時間にあっては廬生は玄宗・粛宗・代宗に三人の皇帝に仕えたことになり、知られた唐王朝滅亡の危機であった安史の変も体験していることになる(しかしその辺が全く話に出てこないところを見ると、このパラレル・ワールドにあっては安史の変はなかったのかも知れない。とすれば、ここで廬が致仕の願いを上奏している相手も代宗とは限らないということになる。尊号ながら玄宗を登場させるだけでも問題があるであろうから、実際の唐朝の事蹟とは無論、わざと齟齬錯誤させてあるとは言えるが、寧ろそれがこの平行世界の面白さであると言えるのであろう)。但し、これについて乾氏はこの「八十」は「六十」の誤りとされ、そうすると本作の皇帝が正しく「神武皇帝」玄宗であってよく、後に出る高力士の登場も史実と一致し、何より、安史の変の起る直前に廬生は死んでいることになって、夢時間内の史実との齟齬が一切消失するという示唆に富む指摘をなさっておられる(そこには後の「二紀」の解釈のほぼ一致という証左も示されてある)。ただ惜しむらくは、「逾六十」とするテクストという文献学的物証がないことである。この論考は乾氏の余説の中の大きな柱の一つでもあるので、是非、当該書をお読みになられたい。
・「三事」先に注に出た三公の地位。宰相。
・「鍾漏並びに歇き」「鍾漏」宮中で時を告げるために打ち鳴らされる鐘と漏刻(水時計)のことだが、それらがともに「歇つつく」(停止する・中止する)というのは人の生の時間が終わりを迎える、余命が尽きることを譬えている。
・「筋骸」筋肉と骨格。
・「彌留沈頓」「彌留」は病いが一向に癒えず、かえって重くなってゆくことをいい、「沈頓」も同じく病いが甚だ重い状態を指す。
・「休明」「休」はここでは善い・麗しい・大きいの意で、皇帝の徳が大きく英明なることをいう美称。美明・聖明ともいう。
・「感戀」恋い慕う気持ち。皇帝の果てしない恩情(「深恩」)に対し、自身の皇帝への忠誠の思いを恋情として表現したものであろう。面白いのは、諸家がこの部分については全くほぼ一様に同じような訳し方をしている点である(下線やぶちゃん)。前野氏は、
『陛下の明らかなおん徳に答えたてまつるべき功績とてなく、むなしくご恩にそむきながら、永久に聖ひじりの御世から別れを告げるわが身をうしろ髪をひかれる思いにたえかねる次第でございます。』
乾氏は、
『天子様の立派な御治世にむくいる何らの功績もなく、むなしく大恩にそむいたまま、この御世を去ることになります。つきましては、うしろ髪を引かれる思いにたえられませぬ。』
竹田晃氏と黒田真美子氏のペアも、
『顧れば天子さまの明徳に報いるような業績を何一つ挙げられず、深い恩愛に負いたまま、永遠にこの御世みよを去ることになり、うしろ髪を引かれる思いに耐えられません。』
「無任感戀之至」――「感戀の至りに任ふる無し」――という文字列を訳すに際してこの四人の碩学の頭に全く偶然にも「うしろ髪を引かれる思い」という訳浮かんだのだろうか? それにしては前の部分の訳に美事なオリジナリティによる違いが強く感じられるのに対して、このコーダのステロタイプは解せない。私はこの白文と訓読文の文字列を見ながら(確かに「後ろ髪を引かれる思いに耐えられない」とは非常にいい訳ではあるけれども)、どうも普通に誰もがすんなりこの日本語を訳として想起出来るようには思われないのだが? 如何? 「後ろ髪を引かれる思い」がするというその対象者は私の印象では同等か同等以下の相手であって、目上や上位の人間に対して用いるのはどうも不遜な感じがする。確かに上手いけれど、皇帝に対する致仕願いの上奏文にはどう考えても相応しい訳語とは思われないのである。
・「表」文体の一種の名。事理を明らかにして君主に上奏する文書。
・「元輔」皇帝を輔佐する宰相。「元」は君主の意。
・「藩翰」「藩」は垣根で「翰」は柱、地方を鎮めて王室の守りや支えとなるべき国家の重臣の意で転じて諸侯を指す。「詩経」の「大雅」に由来する語。
・「雍煕」和らぎ楽しむの意であるが、ここは皇帝の目線から民草が心穏やかに平和に暮らし天下国家がよく治まっていることをいう。
・「昇平」世の中が平和でよく治まっていることをいう。平和に同じい。前野氏は『太平とまではいかないが、世の中がよく治まっている』ことをいうと注する。
・「二紀」一紀とは十二支一巡で十二年を指す時間単位であるから二十四年である。因みに代宗の在位は十二年、父粛宗の六年を足しても十八年であるが、例えば「昇平」という語を安史の乱後とするなら、玄宗の長安帰還七五七年末であるから、そこから代宗の退位の年までなら二十一年でほぼ謂いとしては自然となる。まあ、中国では厳密な数値表現は逆に嫌うし、そもそもがくどいが平行世界でもあるしね(但し、「今年、八十を逾ゆ」の注で記したように乾氏の説によれば「八十」が「六十」の誤写であったとすると、これはほぼ歴史的事実と合致する内容となることが主張されてある)。
・「疾疹に嬰り」病いに罹患する。
・「痊平」病気が治癒する。
・「沈痼」年久しく治らない重い病い。沈痾。宿痾に同じい。
・「憫惻」憐れみ傷ましいとして同情すること。
・「驃騎大將軍」は前漢以降の官職名。ウィキの「驃騎将軍」によれば、軍を率いる将軍位の一つで武帝が紀元前一二一年に霍去病を就任させたことに始まり、「続漢書」百官志によれば常に置かれるわけではなく、反乱の征伐を掌り、兵を指揮するとある。『将軍位としては大将軍に次ぎ、車騎将軍、衛将軍の上位に当たる』。唐代には『職名としての驃騎将軍は消滅したが、唐から明に至るまで武官の散官の名称として残り続けた。特に唐宋では「驃騎大将軍」は武散官の筆頭であった』とある。「散官」は本邦では職事官(実際の職掌に就く官職)ではない官職者をいうが、中国では職事官か否かに関わらず、従九位下より上位の品階を持つ全ての官人に与えられた称号をいう(ここはウィキの「散官」に拠る)。
・「高力士」ここでまた実在の知られた人物が登場する高力士(六八四年~七六二)は玄宗の腹心として仕えた宦官。潘州(広東省)出身。即位前の玄宗に仕えて中宗の皇后韋后やの皇帝高宗と則天武后の娘の太平公主らを排除して玄宗が即位するのに大功があり、玄宗の寵を背景に権勢を恣にした。宇文融・李林甫・楊国忠・安禄山らは孰れも彼と結んで高位昇進を得た。安史の乱の際に玄宗の蒙塵に従って成都に至ったが、後輩宦官の李輔国によって失脚させられた。後、許されたが帰京の途次に没した。唐代の宦官による政権介入は高力士に始まる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。乾氏注に『高力士は天宝七載(七四八)四月に驃騎大将軍になって』いるとある。驃騎将軍の注で示した通り、これを宦官の彼に賜ったところをみると全くの名誉職であることが分かる。俸禄は大将軍と同等であったらしい)が、この廬生が対しているのを玄宗皇帝とすることも、ここに高力士を登場させることも、先の「八十を逾ゆ」が動かないとすれば、また、「八十」として実際にこれが読まれてきたことを考えるならば、これはやはり外見上は平行世界のファンタジーということ/として読まれてきたということ、にはなろう。
・「候省」見舞うこと。
・「鍼石」鍼はり治療に用いる石製の鍼。ここは療治の意。「太平公記」本は「鍼灸」に作る。
【第八段】
盧生、欠伸あくびして悟さむ。其の身、方に邸舍に偃ふし、呂翁は其の傍らに坐し、主人は黍を蒸して未だ熟せず、類るゐに觸るるに故もとのごときを見る。生、蹶然けつぜんとして興おきて曰き、
「豈に、其れ、夢寐むびなるか。」
と。
翁、生に謂ひて曰き、
「人生の適てき、亦、是くのごとし。」
と。
生、憮然たること良やや久しくして、謝して曰く、
「夫それ、寵辱ちようじよくの道みち、窮達きゆうたつの運うん、得喪とくさうの理ことわり、死生しせいの情じよう、盡ことごとく之れを知れり。此れ、先生の吾が欲を窒ふさぐ所以ゆゑんなり。敢へて敎へを受けざらんや。」
と。
稽首再拜けいしゆさいはいして去る。
●【第八段】語注
・「蹶然」勢いよく立ち上がるさま。跳ね起きるさま。
・「夢寐」寝入っている夢を見ている間。
・「憮然」ここは意外なことに驚き、呆れているさまをいう。
・「此れ、先生の吾が欲を窒ぐ所以なり」冒頭に提示された、真の「適」(人生・生死に於ける真の悦び・自由)とは何か? という公案に対する正しい答えがここに提示されるのである。人が心から愉しみ満足出来る、そのまことの自由とは、実は逆に、「自らの欲を抑え込む」ことによって得られるという境地に廬生はここで到達しているのである。
・「敢へて敎へを受けざらんや。」反語であるから、どうして先生(呂翁)のその教えをお受け出来なかったなんてことがありましょうや?! いえ、しっかりと(自らの欲を抑えることが大切であるという核心の一点を)謹んでお享け致します、というのである。
・「稽首再拜」頭を地につけて二度拝礼すること。中国に於ける最も丁重な礼の示し方である。
Ⅳ やぶちゃん翻案「枕の中」
[やぶちゃん注:第一段の最後は少し翻案した。他にも第二段の頭など、シークエンスのリアリズムを疑似的に高めるために翻案した箇所があるので注意されたい。前の各段落相当の箇所を行空けした。]
枕の中 沈既済 藪野直史訳
開元七年のことである。
道士の呂翁りょおうと申す、これ、神仙の術を体得した者があった。
ある春の一日いちじつ、邯鄲への街道を逍遙するうち、とある旅籠はたごに一休みし、帽子を脱ぎ、帯を寛げ、荷い袋に凭れかかって座っていた。
するとそこを行く一人の若者に目が止まった。
それが廬生ろせいであった。
つんつるてんの如何にも粗末な服を着、青毛あおげの小馬に跨って、今しも自分の畑へ野良仕事をしに行こうとして、たまさか、この旅籠へ立ち寄って、呂翁と同席して茶を喫した。二人して談笑するそのさまは、これ、いかにも楽しそうである。
ところが、暫くすると、盧生は自分の着衣のみすぼらしいのを眺めては、深い溜め息をついて、
「……一箇の男子としてこの世に生を享けたにも拘わらず……思い通りになることはこれっぽちもない……かくも……落魄おちぶれている!……」
と嘆いた。
されば呂翁は、
「何の! お前さんの姿形なりを見たところじゃ、色艷は良し、体もがっしりとして、これ、何の問題もないではないか! 今さっきまで面白おかしく喋っておったに、ここにきて打って変わってそのように苦しみを嘆くというは、これ、一体どういうことじゃ?」
と応じた。
すると盧生は、
「……私は……ただ……ただ、生きている……というだけのこと。……そんな体たらくで、どうして『楽しい』なんて言えましょうか?!」
と投げやりに答えた。
呂翁は、
「この今が楽しくなくて、一体、どんなのを楽しいと言うんじゃい?」
と応じた。
盧生は言う。
「――男子たるもの、この世に生まれたからには――手柄を立てて名を挙げて、外にあっては戦さ場の大将、出仕しては宰相――大きな鼎をずらりと並べ、豪華な料理をてんこ盛り、選えりに選ったる歌姫うたひめを独り占めする、その美声――我が一族をいや栄えさせ、我ら一家の懐ふところをも、さても豊かに富ませる。……そうなってこそ初めて『楽しい』と言えるんじゃありませんか?!……私は若き日より学問を志し、六芸りくげいも孰れも得意です。その当時は、これ、高位高官なんぞ、道端の塵芥ごみでも拾うぐらいに容易に就けるものだとばかり思っておりました。……ところが今やもう三十にもなっていながら……相変わらずの、かくも哀れな野良仕事。……これを『苦しみ』と言わずして、何を『苦しみ』と言いましょうや?!」
と吐き捨てたところが……
……廬生……
……何か急に……
……目がくらくらとして、両の瞼まぶたがずしりと重くなり……不思議に無暗に眠たくなってくるのだった。
ぼんやりとした目に外で所在なさそうに青馬あおが道端の雑草を食はんでいるのが見える。
折しもこの時、旅籠屋の主人は客人のために黍きびを蒸して食事を作ろうとするところで、黍を投げ入れて蒸籠せいろを組む音が聴こえた。
呂翁は廬生の睡魔を看取るや、自分の荷い袋の中から一個の枕を探り出すと、徐ろにそれを盧生に手渡しながら言った。
「……お前さん、これを枕になさるがよかろうぞ。……この枕で眠ればのぅ……きっとお前さんが心に描いておるところの……思うがままの栄耀栄華が……叶うで、あろうょ……」
……朦朧とした意識の中で……廬生が見たそれは……青磁の枕であった……それは両端に孔があいていた……盧生はそのままそこに横になって……枕に頭をつけた……
……途端……廬生の頭の左右で……
……枕の……その黒々とした孔が……
……みるみるうちの洞窟のように大きくなり……
……しかもその中が昼のように明るく輝いているのが見えた……
……廬生は起き上がると……
……その中へと……
……入って行った……
……そのまま行く……と……
……おや? 何のことはない! そこは何の変りもない邯鄲の田舎であって、廬生はやはり普段と変わらぬ、己おのれのあばら家へと辿りついたに過ぎなかったのであった。
青毛あおも先に帰って秣まぐさを食はんでいた。
廬生は、枕の怪は、ただの思い過ごしであったかと思うと、
「……何じゃ! あの爺じじい! 胡散臭い、似非道士がッ!……」
と、何だか無性に腹が立って来て、そのまま、ふて寝してしまった。…………
それから数ヶ月が経った頃のことである。
廬生はひょんなことから知り合った、近所の取り持ち婆の世話で、清河の崔家の娘を嫁に貰うこととなった。
この娘、大層な器量好しであった上に、崔家も裕福であったから、廬の家の経済も日に日に豊かとなり、廬生は大いに悦んだ。
それからというもの、衣食住から外出時の乗物に至るまで、これもまた、日を追うて派手で贅沢になっていった。
翌年のこと、崔家の助力もあって、遂に進士に推おされ、美事合格、秘書省の校書郎と相いなる。
幾許いくばくもなくして、制科の考試を受け、またしても美事に合格し、渭南いなんの尉となり、また直ちに監察御史に転任、次いで起居舎人、知制誥ちせいこうへと、みるみる栄進していった。
三年の後、地方に移って、同州、次いで、陝せん州の長官を歴任した。盧生は生来せいらい、土木治水の事業に興味があり、またそれを得意としてもいたことから、陝では陝西から八十里もの運河を開鑿し、交通の便がなくて不便極まりなかった陝の地に自在自由なる水運の利を齎もたらした。陝の民草たみぐさは悦んで、石碑を建て、廬生の功徳を刻して讃えた。
その後のち、再び勅命を受けて汴べん州に移り、河南道採訪使を拝命、転じて都に還って晴れて京兆けいちょうの尹いんとなった。
さて、この年折しも、神武玄宗皇帝は周縁の異民族を討伐して領土を広めんとしておられた。が、この時、異民族の吐蕃とばんの新諾羅しつまつらと燭龍しょくりょうの莽布支もうふしが爪か州と沙さ州を攻め陥おとした上、新たに節度使に任じられていた王君※おうくんちゃくが、これまた異民族の回紇かいこつに殺されたばかりの頃で、かの黄河と湟水河こうすいがの流域に住まう民草は、もうこれ、生きた心地もせぬほどに恐れ戦いていたのであった[やぶちゃん字注:「※」=「奐」の上下を切り離して中央部分(「大」の上部)に「比」を入れ込んだ字体。]。
そこで皇帝は新たな将軍として、真の軍師・大将の器たる者の任命を急務とお考えになり、遂に盧生を御史中丞ぎょしちゅうじょう兼河西道節度使かせいどうせつどしに任命なされた。
かくて盧生は、その辺土にあって大いに異民族を撃破、実に敵の首級七千を斬り落とし、国土を九百里四方まで広げ、さらに三つの大城砦じょうさいをも築いて、これを要害の地とした。辺境の民草は彼に謝して、石碑を建て、その功徳を刻んで讃えた。
後、朝廷に帰還すると、廬生には論功行賞が待っており、そこでは皇帝から稀に見る厚遇と恩賞を受けた。
それから吏部侍郎りぶじろうとなり、次いで戸部尚書こぶしょうしょ兼御史大夫ぎょしだいふとなった。
その清廉潔白で重厚な人柄は、民草から仰ぎ見られ、人心を一心に集めた。
しかし、そのために時の宰相からひどく忌み厭わるることともなり、謂れなき誹謗中傷を受けた末、端州の刺史に左遷されてしまった。
それでも三年経つと、召し還されて常侍じょうじとなり、程なくして同中書門下平章事どうちゅうしょもんかへいしょうじとなった。
そして、辣腕の中書令であった蕭嵩しょうすうや侍中じちゅうの裴光庭はいこうていらとともに天下の政治を執り行うこと十余年、皇帝の政策や内々の勅諭を、これ、一日いちじつに何度も受けては、それらにつき、その可否や諫言を、臆することなく直じかに進言しては、皇帝を補佐したが故に、世に賢相と呼ばれた。
しかしまたしても、同輩どもがこれを妬み、『辺境に任ぜられておる武将連中と結託し、謀叛を企てている』と、誣告ぶこくされた。
その結果、暗愚な皇帝はそれを信じて断罪の勅命を下され、遂に下役人が部下の兵を引き連れ、廬生の屋敷へと押しかけて来、直ぐにも捕縛せんとした。
盧はこの火急の事態に恐懼きょうくし、妻子に向かい、
「――私は元来、山東に住まい、そなたを娶ってからというもの、相応に豊かとなり、良き田圃を五頃けいも持って、それを以って飢寒を凌ぐには実に十分であった。……だのに……どうしてかくも……官吏とならんと欲しては苦労し、その俸禄を我武者羅がむしゃらに求めようなどとしたのだろう?!……しかし……最早……今ここに至っては……これ……遠い昔のように……粗末な衣に身を包み……鈍重な青馬に跨って……邯鄲のあの街道を気儘に逍遙したいと思っても……もう叶わぬことと……相いなってしまった…………」
と言うや、短刀を引き寄せて抜き放つと、自らの首を刎はねて自刃せんとした。
しかしその時、咄嗟に妻が止めに入って、死は免れることが出来たのであった。
この時の謀叛の共犯者とされた者どもは、これ皆、悉く死罪に処されたものの、ただ盧生だけは、彼と親しかった、さる有力なる宦官の助命嘆願が受け入れられ、死罪一等減ぜられて驩州かんしゅうへの流罪で済んだ。
数年の後、皇帝は盧生のそれが冤罪であったことをお知りになられ、再び復させて中書令となされ、さらに燕国公にも封ふうぜられた。
冤罪と分かったからには皇帝の恩賜はまた格別で、廬生は完全に元の名声を奪還したのであった。
廬生には五人の子があった。順に儉けん・傳でん・位い・倜てき・倚きという。皆、才気煥発の秀才で、儉は進士に登第して考功員外こうこいんがいとなり、傳は侍御史じぎょし、位は太常たいじょうの丞じょう、倜は万年ばんねんの尉となった。末子の倚は最も賢く、二十八にして宰相職の左襄さじょうとなった。この子らの姻族も皆、天下に知られた人も羨む名家ばかりであった。孫も十人余り生まれた。
廬生は、その後もまたいろいろあり、二度ほど辺地へ謫たくされ、また二度ほど宰相となり、都と地方を往ったり来たりし、また、朝廷内にあっても、これ、あれやこれやの職を経巡った。
その間、五十余年、概ね、その権勢は結果としては、これ、光輝に満ちた華々しい隆盛の中にあったと言って、よい。
廬生は総じて、その性せい、贅沢なるものであって、盛んに遊蕩を好み、奥向きの歌姫うたひめらは皆、飛びっきりの美人ばかり、この時までに皇帝から賜った良田・公邸・美姫びき・駿馬しゅんめは、これ、いちいち数え切れぬほどの多さであった。
さても、そうこうするうち、次第に年衰え、たびたび辞職を願い出てはみたものの、皇帝は一向にお赦しになられなかった。
遂に病いとなったが、宮中の宦官どもの見舞いは引きも切らず、名医やら稀なる秘薬といった類いの至らざるはなし、というありさまであった。
いよいよ危篤という段になり、遂に皇帝に以下の如く上奏した。
――臣は元、山東の田舎の書生で御座いまして、ただ田畑を耕すことを楽しみとしておりました。ところが図らずも陛下のお目に留まり、官列に加えらるることと相い成りました。身に余る過褒かほうに与あずかり、格別の大恩を賜り、宮廷を出でて、地方に勅命を奉ずるに際しては、節度使や大将軍の御旗みはたを預かり、宮中に入っては、宰相の位にまで登らさせて戴きました。かくも都の内外を転々と致しますうち、思いの外、永き年月を過ごさせて戴くことと相い成りまして御座います。かく忝かたじめなくも、永きに亙り、陛下の御慈悲と計り知れぬ大恩を頂戴し続けて参ったにも拘わらず、臣は陛下の聖徳しょうとくを広むることの、その一助をさえも致すこと、これ、出来ませんでした。分不相応なる身分にあって、自分は『ただただ害を及ぼしたに過ぎぬのではなかろうか』と、薄氷を踏む思いばかりが募り、そうした危俱のみを抱いて、かくも日一日と過ぎ去り、己おのが身に老いの至るということをさえ、気づかずに参ったので御座います。しかし今、齢よわい八十を越え、位は三公を極めさせて戴きましたものの、最早、時は尽き、余命幾許いくばくもなく、筋骨、皆、衰え、病いは重く、気力も萎なえ、今はもう、ただ、死の時を待つばかりにて御座います。顧みますれば、陛下の明徳に報い得るような何らの業績をも遂ぐること能わず、深い陛下の御恩愛に背いたまま、永遠とわに御代みよを辞することと相い成りました。慙愧ざんきの念と、お名残り惜しさに、これ、耐えませぬ。謹んでここに表を奉じ、己おのが罪を謝す次第にて御座います――
皇帝はそれに対し、以下の詔みことのりを下した。
――卿けいは傑出した仁徳をもって朕ちんの重臣となり、出でては、そのそれぞれの地をよく鎮め治め守り、京師けいしに入っては、国の政まつりごとと平和のために朕に助力した。この平穏なる世が二十四年も続いたことは、まっこと、卿の助力に依るものである。近年、病いを患ったとのことであったが、常に平癒へと向かわんことを切に願っておったのであるが、却ってかくも重うなったと申すこと、これ、まっこと、不憫なること。今、驃騎ひょうき大將軍高力士こうりきしに命じ、卿が屋敷に見舞いを遣わす。努めて療治に専念し、予がために自愛せよ。――
盧生は、その詔を拝受した日の暮れ方、薨こうじた。――…………
……盧生は、大欠伸あくびをすると、ウーンと背を伸ばして、目を覚ました。
見れば、己おのが身は――何と――あの邯鄲の旅籠の土間で仰向けになって寝てしまっていたものらしい。
傍らには呂翁があの時のままに、いた。
旅籠の主人は先刻の通り、黍を蒸していたが、その黍は未だ、炊けた気配もないのであった。
周囲の様子も、これ、皆、記憶に残っている、つい眠ってしまう一瞬前の光景と、これまた、全く変わらないのであった。
外ではやはり、所在なさそうに青馬あおが道端の雑草を食はんでいた。
盧は、はっと驚いて、身を起こした。
「……あ、あれは……みんな……夢……だったの……か……」
呂翁が言う。
「――人生の栄達なんてものも――まあ、ざっとこんなものじゃよ。」
盧生は暫く、呆けたような感じでいた。
しかし、暫くすると、何かに思い至ったという様子で、呂翁に向かって叫んだ。
「……そもそも、名誉と屈辱という人の道程も、貧困と富貴ふうきという人の運命も、成功と失敗という世の道理も、人の死と生というもののその実体も――これ――確かに――全て悟り得ることが出来ました!……これは先生が私の欲というものを押し留とどめんとしてなされた仕儀であられたのですね?!――謹んで有り難く、先生のお教えに、従います!」
と、かく、きっぱり述べると、地に額を押し付けて再拝した。そうして脇に茶代を置き、背筋を伸ばすと、如何にも晴れ晴れとした表情で青馬あおに跨り、霞たなびく田圃の方へと悠然と去って行った。――
枕の中 完
Ⅴ 附言
(1)原典の祖型である六朝志怪
先の注で述べた通り、芥川龍之介の「黃梁夢」のこの原典「枕中記」は、「太平広記」巻二八三の「引幽明録」に載る以下のたった百四字から成る六朝志怪を更なる原典としていると考えられることが魯迅によって指摘されている(「中国小説史略」第八篇及び第五篇参照)。以下の原文はネット上の魔人姿氏(中国人の方と思われる)のこちらのブログにあるものを加工させて戴いた。訓読文は「枕中記」底本の乾氏の解説にあるものを参考にし、現代語訳は先の「中国古典小説選5」の巻末論文「唐代伝奇について」及び魯迅著中島長文訳注「中国小説史略」(平凡社一九九七年刊)を参考にした。
*
〇原文
宋世、焦湖廟有一柏枕。或云、玉枕。枕有小坼。時單父縣人楊林爲賈客、至廟祈求。廟巫謂曰、君欲好婚否。林曰、幸甚。巫即遣林近枕邊。因入坼中、遂見朱樓瓊室。有趙太尉在其中。即嫁女與林。生六子、皆爲秘書郎。歷數十年、幷無思歸之志。忽如夢覺、猶在枕旁。林愴然久之。
〇やぶちゃんの書き下し文
宋の世、焦湖廟せうこべうに一つの柏はくの枕有り。或いは云ふ、玉の枕なりと。枕に小坼せうたく有り。時に單父縣ぜんぽけんの人、楊林、賈客かかくたり、廟に至り祈求きぐす。廟巫べうふ、謂ひて曰く、
「君は好婚を欲するや否や。」
林曰く、
「幸甚なり。」
巫、即ち林をして枕邊まくらべに近づかしむ。因りて坼中たくちゆうに入り、遂に朱樓瓊室けいしつを見る。趙太尉てうたいいの其の中に在る有り。即ち女を嫁して林に與ふ。六子を生み、皆、秘書郎と爲る。數十年を歷ふるも、幷びに歸らんことを思ふの志し無し。忽こつとして夢の覺むるがごとくして、猶ほ枕の旁かたはらに在り。林、愴然さうぜんたること、之れ久しうす。
〇語注
・「宋の世」紀元前一一〇〇年頃~紀元前二八六年。周・春秋・戦国時代に亙って存在した国。都は商丘。周公旦が殷の紂王の異母兄微子啓を封じた国。都は商丘(現在の河南省)。斉・楚・魏の三国によって滅ぼされた。
・「焦湖廟」「焦湖」は現在の安徽省巣湖そうこ市で、巣湖という大きな湖の西端に位置する。そこにあった道教の廟。後に出る林の故郷「單父縣」からは直線距離で南南東約三六七キロメートルに相当する。
・「柏」中国ではヒノキ Chamaecyparis obtuse に代表される裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科 Cupressaceae や同科のコノテガシワ属
Platycladus 等の常緑樹に対する総称。本邦の双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節のカシワ Quercus
dentate とは異なる。ここでは「ひのき」と訓じておいた。
・「小坼」「坼」は裂け目・罅で、小さな亀裂を指す。
・「單父縣」現在の山東省菏沢かたく市単県。
・「趙太尉」古代の官名。秦と漢初までは武官の最高の者「尉の大なる者」の意(漢の武帝以後は大司馬に変わり、後漢では三公の首に置かれた)。
・「祕書郎」既注。秘書省校書郎の略で宮中の図書を官吏する官。
〇やぶちゃん現代語訳
六朝は宋の世、焦湖廟しょうこびょうの中に一箇の柏ひのきの木で製せられた――或いは玉製の枕とも――安置されてあった。その枕には小さな裂け目があった。
ある時のこと、単父ぜんぽ県の楊林という人物――彼は旅商人であった――が廟に参って願掛けをした。
すると廟の巫女みこが出て来て、林に、
「あなたさまは幸せな結婚をお望みなのでは御座いませぬか?」
と訊ねた。
林は図星であったので正直に、
「そうなれば、これは甚だ結構なことで御座います。」
と答えた。すると巫女はすぐに林をかの枕辺に近づかせた。
すると……忽ちのうちに林の体は小さくなって……そのまま……すうっと……裂け目の中に入ってしまった。……
……するとそこに、忽然と、朱塗りの楼閣や玉で飾った美しい部屋が現れるのを見た。
そこには趙太尉がおられた。そしてすぐに自分の娘を林に逢わせると、その場で林に嫁がせた。
女は六人の子を生み、皆、秘書郎となった。
林は数十年を経ても、故郷単父へ帰ろうという思いは起らなかった。――
――と
……ふっと夢から醒めたような気がしたが……
……気がつけば……さっきの……その焦湖廟の枕の傍らに立っていた自分を見出した。…………
それより永く、林は、哀しみにうちひしがれていた、という。
*
これを読むと、こうした志怪小説という形をとる以前に、実はさらなるプロトタイプとしての地方の博物誌としての「不思議な枕」の話が元にあったものではないかと思われる。また林の夢人生は廬生のそれとは異なり、一貫して幸福に満ちたものであり、幻想的な遊仙譚の域を出ないが、不思議な枕というアイテム、その裂け目と両端の孔を異界への通路とする設定、至福の婚姻と子らの出世を綴る辺りを見れば、「枕中記」が確信犯でこれをインスパイアしたと考えてよい。
(2)沈既済「枕中記」について
(1)の分量の実に十倍(「中国古典小説選5」の巻末論文「唐代伝奇について」に拠れば実に総字数千百三十七字である)膨れ上がった「枕中記」の最大の特徴は、史家沈既済の面目躍如たる夢時間内での虚実皮膜とも言うべき廬生一代記の驚くべき緻密さであろう。実際にはこの私のページを読む多くの読者は、注の煩瑣に退屈される方が多いと想像する。夢オチなのだから実際に地名や実在人物や事件や出来事を検証する必要は実際にはないと感じるであろうし、悲愴な自己拘束をかけた専門の研究者ででもない限り、真剣に語注をしようとも思わぬであろう(曾ての若き日の私もこうした注を軽視したことにかけては人後に落ちぬ輩であったことをここに告白する。私は今まで何度も「枕中記」を読んだのであるが、今回のこの電子化評釈で生まれて初めて真剣に精読したという気がしているくらいである)。しかし、この廬生の事蹟はまさに司馬遷の時代からこの唐代至るまで多くの士官の文学者たちが目の当たりにしてきた、波瀾万丈の、そしてそれ以上数奇にして悲劇的な士大夫階級の現実であったことを、沈は自らの失脚左遷や自身を推挙してくれた上司楊炎の暗殺といった体験の中に痛感していた。今村氏の注の最後には、『作者沈既済が、楊炎の失脚という切実な出来事をからませた政治批判という読み方もなされている(卞孝萱)』(卞孝萱べんこうけん 一九二四年~二〇〇九年:元南京大学中文系教授。文学博士)。『唐代、一種の官界出世双六の要素もあって、広く愛読され、李肇』(りちょう 生没年未詳:唐代の翰林学士。)の書いた「唐国史補(下)」『では、韓愈の「毛頴伝」』(「もうえいでん」と読む。文宝の筆を始皇帝に仕えた人物として擬人化し、その一生を歴史書風に真面目腐って書いた文章である)『とならべておりあげ、唐末の詩人房千里』(生没年未詳)『も、この作品を『列子』とともにとりあげて、作者の本意とは逆に、夢の快楽をそこに見出している』とあって、その読みが古来、多様になされてきたことが分かる。
「中国古典小説選5」の巻末論文「唐代伝奇について」(これは恐らく黒田真美子氏の執筆になるものと思われる)の本作の構成の上手さを簡潔に記しているが、特にその中でも最終局面の夢の部分から現実へ帰還する部分の卓抜した妙味を述べている部分を是非引いておきたい(引用文中の武田泰淳の末尾には注記号があり、それが勁草書房一九七〇年刊の「黄河海に入りて流る」からであること注されてある)。
《引用開始》
最後に、上奏文と詔勅が認められているが、この帝への礼を記した併儷体の上奏文とそれに答える帝からの見舞いの詔(みことのり)は史官としての沈既済の文才を示して、面目躍如である。だがそのものものしさのすぐあとに「――〈廬生はあくびをして、目をさました〉とつづく絶妙の効果。加うるに〈人生の楽しみとは、こんなもんじゃ〉と老人がつぶやく一語で、廬生と天子が交換した公文章の虚飾は一気にひきはがされるではないか」と武田泰淳は、「唐代伝奇小説の技術」という短文で指摘する。沈既済の価値観が正にここに集約されているといえよう。また、夢の世界と、最初と最後の現実世界との時間の相違を「黍を蒸す」時間を用いて際立たせている。楊林の話にはこの点も欠けているが、これによって現実世界のリアリティが格段に高まり、パラドクシカルな意味で「幻設」が確立するのである。
《引用終了》
この武田泰淳の指摘は、沈が本作で最も力を入れて書き、しかも作品のテーマとも直結する肝キモを剔抉てっけつして実に美事である。
また、同論文はこの直後の部分で総括的に『六朝志怪を祖型としつつも、唐代伝奇は右の如く、作者の存在が大きな意味を持ち、作者の創意の下に時空を備えた虚構世界が構築されていることを認め得よう。また志怪的要素を含んでいてもそこに比重があるのではなく、描こうとするのは人間である。それも生身の欲望や感情を有した個性ある人間を。伝奇における怪異は人間というこの不思議な存在を照し出す鏡にしか過ぎ』ないものであったという鋭い指摘をしている。私は正にその伝統を現代に蘇らせたのが芥川龍之介の「杜子春」であり、この「黃梁夢」であり、そしてそれに続く人間李徴の物語としての「山月記」であったと思うのである。
「枕中記」一巻の最大のテーマを私は、
人間にとっての「人生の適」=「生きることのまことの悦び」
であり、そして、その「生」は同時に連続する「死」と一体のものでもあるがゆえに、
「人の生き死に於ける真の自由」とは何か?
という哲学的な問題提起であると考えている。そうして、史書の列伝のような圧縮率の高い夢記述に対して額縁を成すところのこの前後の部分の内、この冒頭の呂翁と廬生の問答形式のシークエンスが何か妙に細かく丁寧な描写となっているのである。「枕中記」は単に「人生これ夢の如し」といった如何にもな利いた風な糞テーマなんぞではないのである。
夢の中の廬生は一見最終的に、家庭と子孫と権力という総ての社会的幸福の頂点に達して大往生を遂げたように見える。しかし私は、それは見えるだけであって、その夢を見た廬生はそのバーチャルに体験した自己の欲望によって構成演出された自作自演の壮大な叙事詩に、目覚めたその瞬間、大きな空虚感を抱いているのである。でなくして、どうして暫くの間、「憮然」(意外なことに驚き、呆れて)として、次に鮮やかに「此れ、先生の吾が欲を窒ぐ所以なり」! と歓喜に転ずることが出来ようか?
廬生は夢の中の自身の波瀾万丈の人生に、愛欲・野望・賞賛・猜疑・嫉妬という螺旋の中で行われる、人の欲望に付随する信不信のプラスとマイナスのエネルギーの絶望的な熱交換を知り、結局、その果てに冷却収縮萎縮し、遂には単なる点として零ゼロへと収束していくだけの己れの姿、
欲にとらわれた多くの人間の模式を――
人生的時間の中での連続する欲望の徒労という真実を感得した――
のである、と私は信じて疑わないのである。その観点から前半部を見ると、この「適」の字が字背の骨のように配されていることが分かる。全部で八箇所であるが、私は寧ろ、テーマの意味ではない用法としてプレに使用される、廬生が初めて馬に乗って登場する「將適于田」の「適」、及び如何にも心から楽しんで呂翁と談笑するシーンの「談諧方適」に着目する。そもそも何故、呂翁は廬生に目を留めたのか? それはまさに青馬に跨って悠然泰然として「行く」凛々しい青年廬生(三十歳ではあるが)の姿に惹かれたからに違いない。道士が人に惹かれるのは、その人物が仙骨を持っていることを絶対条件とする。とすれば、この美しい廬生の馬に乗って野良仕事へ向かって適ゆく姿は呂翁にとってまさに「生死に於ける真の自由」を知り得る仙骨を持った人物(教化の候補者)と映ったのだとしか考えられない。そしてそのプエル・エテルヌス(puer eternus)、「永遠の少年」の面影を持つ彼と茶を喫し、語り、呂翁は、そこで如何にもまさに「のびのびとした自由な」彼の人柄に触れた。だからこそ二人は「心から楽しんで談笑する」のである。そうして呂翁は廬生を教化に値する人物と認定、愚痴を零した彼に対して「談諧方に『適』するに」(今さっきまで面白おかしく喋っておったに)、何がお前の「適」じゃ? と水を向けるのである。この二つの「適」の用字をプレに用いているのは私は偶然ではないと思う。その証拠に、夢記述部分には「適」の字は一切使用されず(それは夢の中の廬生の人生には実は「適」はないという暗示でもあると私は思っている。そもそも廬の見る夢をこれが仙術である以上、呂翁は実は事前に知っているのである。そうしてもしその夢が本当に呂翁が最初に言っているような廬にとって正しく「當に子をして、榮適、志しのごとくならしむべし」というものであったなら、その夢記述の中に「適」の字は用いられるのが当然である。それが出ないのは、とりもなおさず、廬生の欲に基づく夢人生には微塵も真の「適」はないという証左なのである)、再度使用されるのは実にコーダの呂翁の決め台詞「人生の適てき、亦、是くのごとし。」一度きりなのである。
なお、この「枕中記」はその後、多くのインスパイア作品を生んでおり、知られたものでは元の馬致遠「邯鄲道省悟黃梁夢雜劇」・明の湯顕祖「邯鄲記」(劇)・清の蒲松齢「続黃粱」(リンク先は私の原文附き柴田天馬訳電子テクストで、当該カテゴリ「柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」はこの本テクストのために始動したものである)、本邦では世阿弥の謡曲「邯鄲」恋川春町の「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」(但し、田舎出の若者が目黒の粟餅屋で寝入るうち、富商の養子に迎えられて金々先生と呼ばれるお大尽となって吉原や辰巳で栄華な生活を送るも、悪手代や女郎に騙されて元の姿で追い出されるという夢を見て人生を悟るというパロディ)、そして芥川龍之介の本作と、そうした過去のインスパイア作品を換骨奪胎してしかも現代劇に改造した三島由紀夫の「近代能楽集」の巻頭を飾る「邯鄲」などが挙げられる。
最後に一言、個人的な思い出綴っておく。
私はこの「枕中記」を、富山県立伏木高等学校二年の時の漢文の授業で国語教師蟹谷徹先生から初めて聴いた時のことが忘れられない。先生は巧みな話術で面白おかしく志怪や伝奇をよく話して下さったものだった。その中でも「牡丹燈記」に次いで面白かったのが、まさにこの「枕中記」であった。ところが先生の「枕中記」は結末がちょっと違うのだ。廬生は高位高官に上り詰めるのだが、冤罪によって失脚し、遂には斬罪に処せられてしまうのである。先生の廬生は刑場に引きずられて行く途中も、情けなく「死にとうない! 死にとうない!」と喚き、断頭台の木の切株の上に首を横たえさせられると、「あらあっ! こんなんやったら、邯鄲の田舎で百姓やっとった方がなんぼかましやった!」と富山弁で叫ぶのである。最後に首切り役人が振りおろした、太ぶっとい剣の刃が(蟹谷先生はちゃんと黒板に青銅製の中央に峯のあるごっつい剣の絵を描いて「これは刃は鈍いからぶちっ! と押し切るんですね!」と如何にも楽しそう説明された)それが廬生の首筋に――ピタッ!――と触れた瞬間――廬生は目醒める――というのが蟹谷本「枕中記」であったのだ。私は授業が終わると、早速に図書室に行って二冊ほどの別編集の唐代伝奇をはぐって見たのだが、今さっき、先生の演じられた最も印象的なそこが――ない――。私はその日の放課後、廊下ですれ違った先生にそのことを尋ねてみた。不思議に明るいブルーの瞳(無論、先生は日本人なのだが、不思議に虹彩の色がそうだったのだ)を少年のようにキラッとさせて、「そうやったけ? 変んやねえ?」とおっしゃりながらも、何故か先生はずっと黙って私の顔を見て笑っておられた――そう――呂翁のように。私はあの、スリリングな感動物の――幻の蟹谷本「枕中記」を――今も探しているのである……
[やぶちゃん附注:自分にとってはいささか無粋な附注なのだが、実は今回、いろいろと渉猟するうちにこの先生のネタもとではないかと思われるものが分かってしまった。これは恐らく先に掲げた「枕中記」のインスパイアである、清の蒲松齢の「聊斎志異」に載る「續黃粱」を「枕中記」の後半にすり替えたものと思われる。「續黃粱」は「続」とあるが、続編という体裁ではなく、別箇な作で、主人公も「曾」という名の、とんでもないハネッカエリ者である。しかもその夢中での展開は「枕中記」とは似ても似つかぬもので、佞臣となった曾は爛れきった栄華の頂点から転落の一途を辿り、果ては山賊に殺されて地獄のさんざんな責め苦を受け、最後に女に転生してしかも冤罪で惨たらしい凌遅刑に処される(詳しくはリンク先の私の電子テクストである柴田天馬訳のそれをお読みになられたい。原文も附してある)。既にお気づきのことと思われるが、実はこの展開は寧ろ李復言の「杜子春傳」の方に酷似しており、蒲松齢自身が確信犯で「枕中記」と「杜子春傳」をカップリングしたものと思われる(リンク先は私の電子テクスト)。私は既に、私の偏愛する角川文庫版の鬼才柴田天馬氏の訳「続黄梁」をブログに公開している。未読の方は是非、お読み戴きたい。――にしても流石は蟹谷先生、面白さのツボ(夢覚醒のシーンとしては、「それ」に勝るものはないと私は思っている)を心得ていらっしゃった。やっぱりこれは私を志怪へと導いて下さった呂蟹谷翁ろけいこくおうの卓抜な呂蟹谷本「枕中記」だったのだ、という思いは今以って全く変わらないのである。――]
(3)芥川龍之介「黃梁夢」について
最初にここまで読み続けて下さった御仁は、私の客人まれびとである。感謝申し上げるものである。
さて、芥川龍之介は「枕中記」を読んで何を想ったか、から始めねばなるまい。
まずは気になるのは同じ唐代伝奇をインスパイアした、遙かにスリリングな名作(と私は誰が何と言おうと譲らない)「杜子春」である。ところがしかし、実に本作の発表は大正六(一九一七)年十月で、龍之介は満二十五歳、「鼻」で華々しいデビューを飾ったのは前年の二月、彼はこの時、未だ独身で文との結婚は翌大正七(一九一八)年二月二日であるから、まさに廬生が独身で暫くして崔家の娘を貰うことと一致しているのである。そして「杜子春」は「黃梁夢」発表の二年九ヶ月後の大正九(一九二〇)年七月で満二十八歳、この三ヶ月前には四月十日には長男比呂志が生まれているのである。龍之介の生活史の夢時間に於ける廬生的転回点がこの間には確かに存在したと言ってよい。
また、彼はこの前年の大正五(一九一六)年に清の蒲松齢の「聊斎志異」に載る「酒蟲」をインスパイアした「酒蟲」を発表してもいる(翌年五月刊の第一作品集「羅生門」に収録しているから相応に自信作であったことが分かる。因みに私の趣味の問題からこの作品名だけは発表当時の正字「蟲」で以下も表記するので悪しからず。リンク先は同じく本評に合わせて事前に公開した私の電子テクストで注・原典・同原典の柴田天馬訳等を完備したもの)。この原話は、
――大酒呑みで一晩の晩酌で一甕を空けてしまうのに全く酔わない劉氏のもとを異国の僧が訪ねてきて、それは酒虫しゅちゅうという虫による病いだとし、療治を施すと、長さ三寸ばかりの赤い、口や目鼻の揃った、魚が泳ぐように水中で動く虫を吐き出した。劉が療治の報酬を渡そうとすると僧は受け取らず、ただ虫を呉れという。何に使うのかと訊ねると、これは酒の精で、甕の水にこれを入れて掻き混ぜれば、良い酒が出来ると言って立ち去る。それからというもの、劉は酒を憎むようになって酒も飲めなくなったが、次第に痩せ細り、家産も傾き、遂には落魄れてろくろく食い物にもありつけなくなってしまった――という話に、最後に作者蒲松齢が――日に酒一石を尽くしてもその富を増し、節制して少しも飲まないのにますます貧となったというのは、人の飲み食いという現象はこれ既にして宿命として決まっているからではないかと述べた上で、ある人は「虫は劉の福であって病いなんかではなかったのを売僧まいすがまんまと騙して術を遣って福を己れものとしたのだ」と言ったが、果してそうなのか、それともそうでないのか――と附言しただけの短い原作を、龍之介は実に原作(白文で二百六十七字)を、四節からなる凡そ二十五倍近く(単純字数換算)まで膨らましている。冒頭に酒蟲出現直前の炎天の麦内場の療治のシークエンスを見た目で謎めいて配し、「二」で時間を巻き戻して解き、「三」で酒蟲の吐出までを描く。この怪しげな療治シーンは「鼻」の療治シーンの二番煎じの感が甚だ強く感じられ、その謂わんとするところの部分的テーマも酷似している。最後の四で原作と同じく主人公の肉体の衰弱と家産の凋落を述べた上、劉の住む長山ちやうざんの村人の人々の噂として蒲松齢の示したような見解に更に第二、第三の解釈を附加させてある(引用は岩波版旧全集に拠ったが、ルビは読みの振れそうな一部に留めた)。
*
酒蟲を吐いて以來、何故、劉の健康が衰へたか。何故、家産が傾いたか――酒蟲を吐いたと云ふ事と、劉のその後の零落とを、因果の關係に並べて見る以上、これは、誰たれにでも起りやすい疑問である。現にこの疑問は、長山に住んでゐる、あらゆる職業の人人によつて繰返され、且、それらの人人の口から、あらゆる種類の答を與へられた。今、ここに擧げる三つの答も、實はその中から、最、代表的なものを選んだのに過ぎない。
第一の答。酒蟲は、劉の福であつて、劉の病ではない。偶、暗愚の蠻僧に遇つた爲に、好んで、この天與の福を失ふやうな事になつたのである。
第二の答。酒蟲は、劉の病であつて、劉の福ではない。何故なぜと云へば、一飮一甕を盡すなどと云ふ事は、到底、常人の考へられない所だからである。そこで、もし酒蟲を除かなかつたなら、劉は必久しからずして、死んだのに相違ない。して見ると、貧病、迭に至るのも、寧むしろ劉にとつては、幸福と云ふべきである。
第三の答。酒蟲は、劉の病でもなければ、劉の福でもない。劉は、昔から酒ばかり飮んでゐた。劉の一生から酒を除けば、後には、何も殘らない。して見ると、劉は即そく酒蟲、酒蟲は即劉である。だから、劉が酒蟲を去つたのは自ら己を殺したのも同前である。つまり、酒が飮めなくなつた日から、劉は劉にして、劉ではない。劉自身が既になくなつてゐたとしたら、昔日せきじつの劉の健康なり家産なりが、失はれたのも、至極、當然な話であらう。
これらの答の中で、どれが、最よく、當たうを得てゐるか、それは自分にもわからない。自分は、唯、支那の小説家の Didacticism に倣ならつて、かう云ふ道徳的な判斷を、この話の最後に、列擧して見たまでゝある。
*
因みに「一飮一甕」は「いちいんいちをう(いちいんいちおう)」、「迭」は「かたみ」と読んでいよう。「支那の小説家の Didacticism に倣ならつて」の「Didacticism」は教訓主義(ダイダクティシズム)で、文学その他の芸術の中で教育的で有益な特質を強調する芸術観のことをいうが、前説でも述べたように、蒲松齢が志怪譚を渉猟した「聊斎志異」に於いてしばしば教訓的附言を述べていることを指している。
シークエンスを緻密に映画的なモンタージュを積み上げて、原話にない強いリアリズムの物語を構築した手腕は勿論だが、最後に近代西欧個人的でパラドキシャルな人生的で哲学的な並列命題を読者に投げ出して見えを切って終わるという変化球も、やはり若き日のストーリー・テラー龍之介ならではのものではある。勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊の関口安義・庄司達也編「芥川龍之介全作品事典」の「酒虫」(菅聡子執筆)によれば、この第二の解釈は蒲松齢没後に「聊斎志異」に評釈を施した清の但明倫の評、第三の解釈は芥川龍之介のものとされており、「侏儒の言葉」或いは「或阿呆の一生」にやや整形して記してあっても、これ、おかしくないアフォリズムと私には読める(リンク先は私のテクスト)。……売文が不能となってしまえば最早、芥川龍之介は芥川龍之介でなくなる、と芥川龍之介が考えたかのように。……
閑話休題。ところがそれに反して、本「黃梁夢」は「酒蟲」と全く対称的に、原話を究極まで切り詰めてしまっている。呂翁と廬生の出逢いはおろか、夢時間の記述を丸ごと省略、夢の内容は廬生にコマ撮りのように語らせて済ませている。「酒蟲」のきめ細かな(私に言わせるとやや退屈な)リアリズム描写も、「杜子春」のようなファンタジックなスペクタクルも何もない。万一、ストーリー・テラーとして龍之介が「枕中記」に夢内記述に食指が動かなかったとすれば、しかし「酒蟲」で蒲松齢の「聊斎志異」を種本とした彼は、まさに彼がインスパイアした「續黃梁」を知らなかったはずもなく、私の高校時代の先生ではないが、カップリングして作り直すことも出来たに違いない(但し、それはやらなくて結果的によかった。何故なら先に述べた通り、「続黄梁」(柴田天馬氏訳の私のテクスト)を読めば一目瞭然、それ自体が「枕中記」と「杜子春傳」の如何にもなカップリングなのであって、これを実現してしまっていたら、後の龍之介の「杜子春」は描かれなかったからである。いや、穿って考えるなら、龍之介にはこの時既に後年の「杜子春」インスパイアの計画があり、「續黃梁」は素材として捨てたのかも知れない)。しかし、龍之介の筆を以ってすれば格段に面白く描けるはずのその総てを切り捨てて、敢えてこうした手法を採ったのであった。
これは全くの個人的な印象だが、当時、まさに飛ぶ鳥を落とさんばかりの流行作家に瞬く間になった龍之介は、日々の賞賛と栄光に包まれ、あらゆる発想が滾々湧き出る一方、やはり「酒蟲」のような短編ならいざ知らず、「枕中記」の夢全体をちゃちでなく膨らますだけの時間的余裕も興味もなく(実際、それを龍之介がやっていたら「黃梁夢」は彼の数少ない、時代考証を十全に行った中編クラスのものとなっていたと私は断言出来る)、「枕中記」の偽書ばりの史書列伝並の夢記述箇所には、私も若き日に読むに際して少々退屈であったように、あまり惹きつけられなかったのだとも思われる。確かに、この老いた廬生が薨じ、その夢幻世界から現実世界へと帰還するシーンは龍之介ならずとも描きたくなる場面ではある(私は寧ろ、翻案で手を加えたように、冒頭の現実から夢幻へと移行する際の、青磁の枕の周囲の歪んでゆく空間の変容に強く惹かれるが――個人的には私の偏愛する漫画家諸星大二郎的なメタモルフォーゼとでも言おうか――しかしそれを描いてしまったら、どうしても夢記述もせずにはおけなくなってしまうから、当時の龍之介にはその選択肢はなかったと考えてよい)。
言わば、龍之介は、
――さても「廬生の夢」「邯鄲の夢」「一炊の夢」「黄梁夢」で人口に膾炙するところの、読者諸氏はもうとっくにご存知のかの沈既済が「枕中記」――それを私めが料理つくると、これ、一つ、かくなりまする――
という口上が響いてくる掌篇なのである。無論、実際には執筆にかかる時間が甚だ惜しいのだという隠れた理由がそこにはある。
そうである。これは二十五歳の、「鼻」で華々しくデビューを飾った新進気鋭の青年文士、「若き芥川龍之介という廬生」の唐突にして性急なる、半ばやっつけ仕事の気味も拭えぬ――宣言一つなのであった。
「芥川龍之介全作品事典」の「黄梁夢」の項で執筆者庄司達也氏は本作をまず総評して、先行する「酒蟲」の『末尾に見られるような、作者自身の評言による物語世界の相対化とは異なった方法だが、同様に読者の既知の転換を図っていると言え』、『ここに芥川の当時のテーマ設定の関心の有り様が、』まさに『後年の作品にも引き継がれてゆく方法的実験により物語世界の相対化を目指す芥川文学の特徴の一つが、既に確認される』と述べておられる。私はこの『相対化』という表現の持つニュアンスに今一つ抵抗を感ずるのだが、誤解を覚悟で敢えて言うならそれは、現実世界同様の複雑にして多層的、二律背反を引き起こすような心的複合コンプレクスに満ちた現実世界と同様に仮構された物語世界をも同様に相対化する、という意味であるならば十全に承服出来る意見である。
この後、庄司氏は次のように語る(文中の「蘆生」はママ)。
《引用開始》
作品の結末の力強い主張に、作者の人間主義的な側面を読んだのは山内祥史「黄梁夢」(『芥川龍之介事典』明治書院一九八五・一二二五)であった。一点の迷いもなく、自らの生の力の限りに生きていこうとする蘆生の姿に、若き日の芥川の生に向けた視線の内実を確認することが出来るだろう。しかしながら、早くに駒尺喜美がこの時期の芥川の内面の葛藤がすけて見える作品との評価を与えている通り(芥川龍之介研究会『芥川龍之介論』一九六四・九・一)、呂翁もまた芥川その人の一つの認識を体現している人物として捉えれば、そこには認識の人芥川と烈しい生への渇望を自覚する芥川、二人の芥川の葛藤が認められるのである。
《引用終了》
これらは原文のたった六文からなる以下の末尾に基づく解析である。
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盧生は、ぢれつたさうに呂翁の語を聞いてゐたが、相手が念を押すと共に、靑年らしい顏をあげて、眼をかゞやかせながら、かう云つた。
「夢だから、猶生きたいのです。あの夢のさめたやうに、この夢もさめる時が來るでせう。その時が來るまでの間、私は眞に生きたと云へる程生きたいのです。あなたはさう思ひませんか。」
呂翁は顏をしかめた儘、然りとも否とも答へなかつた。
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芥川の「黃梁夢」は読者の想定を真逆に裏切ることを確信犯とする。その導入は「ぢれつたさうに」で仄めかされ、如何にも「呂爺さん、あなたの謂わんとする説教は、悪いんですが、もう百も承知です。私は」というニュアンスで「靑年らしい顏をあげて、眼をかゞやかせ」ている廬生は最早原話の廬生ではなく、芥川廬生なのである。そうして、彼は非常に微妙にして巧妙なレトリックを用いてその気持ちを吐露する。「夢だから、猶生きたいのです」の「夢」とは、無論、自分がさっき見た長い個別的な「夢」なんぞでは、ない。これは人間の現実に於ける人生の「適」なるものは実は所詮如何なるものであっても――それは邯鄲で野良仕事に生涯を送ることと高位高官となって栄華を極めることをも含め、その他のあらゆる生死の選択肢を総て内包するものである――夢幻でしかなく、現象でしかないという唯幻論的前提に立つ哲学的措定なのである(個人的に私は芥川龍之介のこの考え方を支持するものである)。「あの夢のさめたやうに、この夢もさめる時が來るでせう」の前者の夢は勿論、「枕中記」の盧生が見た一連の個別的な夢を指す(そもそもそれは青磁の枕と呂翁の幻術によって生み出された文字通り、非現実の幻想である)が、後者の「夢」は生身の芥川廬生が現在自身の持つ希望・野心・欲望・抱負に基づいて創出する人生を指す。しかも芥川廬生はそれが夢幻的現象でしかないことを認知しており(それが「この夢もさめる時が來るでせう」という確述的推定として宣言される)、していることを認めた上でしかも、「その」やっぱり夢だったのかという大きな挫折と絶望が訪れる、その「時が來るまでの間」(その悲劇的到来をも芥川廬生は既に分かっているのである)、それに従って生きることを選択する、それに拠って積極的に突き進み生きたい、それを選ぶことこそが今の私には「私は眞に生きたと云」い得る唯一の方途なのだと宣揚し、遂には不遜にも、海千山千の神人か真人か聖人かと思しいどこぞの教祖みたような呂翁に対し、鮮やかな笑顔で――「あなたはさう思ひませんか」?――と逆に水を向けるのである。この「顏をしかめた儘、然りとも否とも答へ」得ない呂翁とは、まさに権威としての前近代的徳義心によって縛られている誰彼――それは具体には、自らに狂人の資質を孕ませ、父母の愛から遮断し、愛する吉田弥生との婚姻を禁じたと感ずるところの当時の龍之介にとっての目に見えぬ前近代的なる魑魅魍魎であったと同時に――そうした前近代的儒教道徳に基づく旧自我に加えて、芥川廬生自身の内なる、いろいろな信仰や宗教への傾斜や近現代哲学やの知見によって形成された新しい超自我ででもあったのである(その点に於いて私は庄司氏のいう『呂翁もまた芥川その人の一つの認識を体現している人物として捉え』るという視点に強く共感するものである)。
まさに――芥川廬生が「あなたはさう思ひませんか」? と語りかけ、「顏をしかめた儘、然りとも否とも答へ」得ないのは――呂翁なのではなく――これを読む我々読者自身であったのである。
そして駒尺氏がこの作品を『この時期の芥川の内面の葛藤がすけて見える』と読むのは実に正鵠を射ていることが、どなたにもお解り戴けるであろう。――芥川廬生は彼がここで宣言したように生きようとし――また、生きた。そうしてその短かった三十五年の生涯の事蹟の記録は「枕中記」の廬生以上に豊かで波瀾万丈にして正しく数奇であったと言える。芥川廬生龍之介はある意味、自身の性的欲望を遮断した現実に復讐すべく、その後の性愛に対してかなり奔放に生きようとした。まさに「夢だ」と分かっている果敢ない人生というものを、それでもその正直な欲に従って「生きたいと思」い、それを実行しようと懸命に生きたのである。若き日に文人として成功し、幸せな家庭にあって大家として戦中をものうのうと生き抜けることが出来ると思ったが、結局、その「夢もさめる時が來」たのであった。但し、芥川廬生が爽やかにかくも宣言したように、その「夢のさめた」「その時が來」た時、自ら毒をあおって自死したその直前に芥川龍之介自身が「私は眞に生きたと云へる程生きた」と感じたかどうかは、私には分からない。ただ、私は彼の「あなたはさう思ひませんか。」という芥川龍之介の呟きに、寧ろ、言いようのない淋しさと同時に、限りない彼の優しさを感じるとのみ述べて、この迂遠な注釈附言を終えたい。
再度、ここまでお読み戴いた奇特なるあなたに――人生の真の「適」――真まことの自由の到らんことを祈って――藪野廬生直史記――
芥川龍之介「黃粱夢」附やぶちゃん注+原典沈既濟「枕中記」全評釈+同原典沈既濟「枕中記」やぶちゃん翻案「枕の中」+α 完