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朝日新聞連載「心」(「中 兩親と私」パート初出)

朝日新聞連載「心」(「下 先生と遺書」パート初出)

「こゝろ」マニアックス

やぶちゃん贋作「こゝろ佚文」

やぶちゃんの教え子のマニアック「こゝろ」小論文


夏目漱石作

 先生の遺書(一)~(三十六) 附やぶちゃんの摑み

『東京朝日新聞』

大正3(1914)年4月20日(月曜日)~5月28日(木曜日)掲載分

(単行本「こゝろ」「上 先生と私」相当パート)

 

[やぶちゃん冒頭注:本テクストは、今から96年前の今日から『東京朝日新聞』及び『大阪朝日新聞』に全110回で連載された夏目漱石の「心」の復刻を、2010年の同一日付で私のブログに連載することで、日本人が最初に漱石の「心」に出逢った、その日その日を、同じ季節の中、且つ元の新聞小説の雰囲気で日々味わうことを目指した私のブログ・プロジェクトに端を発するものである。

 本作は新聞連載時は一貫して「心(こゝろ)」と漢字表記で、現行の単行本「こゝろ」のように「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の3パートには分かれておらず、最終百十回迄、やはり一貫して「先生の遺書」という副題で維持された。

 今回、単行本の「上 先生と私」に相当する第(一)章から第(三十六)章を滞りなく公開し得た。それを記念して該当パートを一挙にここに置くものである。

 なお、この連載は理由は不明であるが、『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』で途中から掲載日がズレを生じ始め(第49回掲載が『東京朝日新聞』6月10日(水曜日)であったものが、『大阪朝日新聞』6月11日(木曜日)となっている。6月10日の『大阪朝日新聞』には掲載がない)、その後も新たな『大阪朝日新聞』不掲載があったりして、最終的には『東京朝日新聞』の第百十回(最終回)掲載が大正3(1914)年8月11日(火曜日)であったのに対し、『大阪朝日新聞』のそれは8月17日(月曜日)と6日遅れとなっている。あくまで私は『最初の「心」』ということで『東京朝日新聞』掲載分に拘った。

 原典は総ルビであるが、私のHPビルダーでのルビは極めて煩瑣でブログでも読み難くなるため、読みの振れそうな漢語(高校生が読むに極めて難しいと判断したものに限り、極めて禁欲的に選んだ)及び特異な読み方をしているもののみに限定して( )で読みを附した。これについて注意されたいが、「相談(さうたん)」「有難(ありかた)う」「近所(きんしよ)」や「己」と「已」の相互誤植のように、そこには当然植字の際の単純な誤りと思われるものも含まれている。そうした誤りも可能な限り、忠実に再現して、ナマに味わってゆこうというのが本テクストである。従って、そうしたものであっても「ママ」表記等は五月蠅くなるので附していない。ただ、濁音のルビはかすれやすく、底本(後述)の画像はページによっては極めて見難いため、濁音が脱落しているのかも知れないし、擦れて見えないだけかもしれないものは正しい用法の方を選んで、読みを振らなかったものも多い。ともかく、実は想像を絶する程、校正が杜撰である。実際、漱石は途中、第七十七回の致命的な誤植にその癇癪を爆発させ、朝日新聞社に手紙を送っている。

 但し、踊り字の濁点付きは正字に直し、「江」の字の崩し字の「え」は「え」に直した。一部の熟語は一度読みを振った後は一切読みを省略したものもあり、「有(も)たない」「夫(それ)は」「不圖(ふと)」「許(ばか)り」等の一部の癖のある読みは最初の数回に附した後は省略した。これらは「こゝろ」を読む上での読み癖として学習して頂きたい。フォントは、やはり新聞の活字に近いものを感じて戴くために頁全体を明朝太字とした。

 底本は平成3(1991)年和泉書院刊の近代文学初出復刻6『夏目漱石集「心」』(玉井敬之・鳥居正晴・木村功編)の天理図書館蔵『東京朝日新聞』写真版画像本文を用いたが、画像の判読は完全に私自身の眼によった。

 将来はオリジナルな詳細注を総てに附す覚悟ではあるものの、今回それを行っているとプロジェクトが頓挫する可能性が高かったため、涙を呑んで「やぶちゃんの摑み」という感想を附すに留めた。これは、飽くまで自由気儘手前勝手なオリジナルに私の考える、その章の摑みと思える感想、というコンセプトで押し通した(私が気になる――というより付けたいと感じた語注と一部の誤植注記も含む)。これもしかし、何う間違つても、私自身のもので、間に合せに借りた損料着ではない。他の「こゝろ」のテクストでは味わえない私だけのものであると秘かに自負するものである。

 なお、総標題と副題及び末尾の飾り罫線を底本より画像で読み込んで挿入、新聞小説の雰囲気を感じる便(よすが)とした。

 また、本ページの「♡やぶちゃんの摑み」は私のライフ・ワークの作業場として、今後も注記増殖を続ける。その際、余程大きな改稿でない限りは、更新記載は行わない。今回からして、既にブログ記載のものに追加している。「♡やぶちゃんの摑み」は常にここが新しい。

   献辞

「こゝろ」を総て暗記していて、私が求めれば即座にどんな場所でも朗々と暗誦してくれる、私にとっての学生の「私」、及び、本プロジェクト予告時にエールを呉れ、開始後には毎日楽しみにしていると言ってくれた二人の女性――その三人――

――私の秘蔵っ子の教え子にして畏友たるS君
――黒猫嬢
――ゆりちゃん

に、この『「心」テクスト 附やぶちゃんの摑み』の全文を捧げる。

2010年5月29日

 

 

 漱 石

  先生の遺書

      (一)

 私(わたし)は其人を常に先生と呼んでゐた。だから此處でもたゞ先生と書く丈で本名を打ち明けない。是は世間を憚かる遠慮といふよりも、其方が私に取つて自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執つても心持は同じ事である。餘所々々(よそ/\)しい頭文字抔(など)はとても使ふ氣にならない。

 私が先生と知り合になつたのは鎌倉である。其時私はまだ若々しい書生であつた。暑中休暇を利用して海水浴に行つた友達から是非來いといふ端書を受取つたので、私は多少の金を工面して、出掛る事にした。私は金の工面に二三日を費した。所が私が鎌倉に着いて三日と經たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に國元から歸れといふ電報を受け取つた。電報には母が病氣だからと斷つてあつた。けれども友達はそれを信じなかつた。友達はかねてから國元にゐる親達に勸まない結婚を強ひられてゐた。彼は現代の習慣からいふと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心の當人が氣に入らなかつた。夫(それ)で夏休みに當然歸るべき所を、わざと避けて東京の近くで遊んでゐたのである。彼は電報を私に見せて何うしやうと相談(さうたん)をした。私には何うして可(い)いか分らなかつた。けれども實際彼の母が病氣であるとすれば彼は固(もと)より歸るべき筈であつた。それで彼はとうとう歸る事になつた。折角來た私は一人取り殘された。

 學校の授業が始まるにはまだ大分(だいぶ)日數(につすう)があるので、鎌倉に居(を)つても可(よ)し、歸つても可(よ)いといふ境遇にゐた私は、當分元の宿に留(と)まる覺悟をした。友達は中國(ちうこく)のある資産家の息子で金に不自由のない男であつたけれども、學校が學校なのと年が年なので、生活の程度は私とさう變りもしなかつた。從つて一人坊(ひとりぼつ)ちになつた私は別に恰好(かつかう)な宿を探す面倒も有たなかつたのである。

 宿は鎌倉でも邊鄙(へんぴ)な方角にあつた。玉突だのアイスクリームだのといふハイカラなものには長い畷(なはて)を一つ越さなければ手が屆かなかつた。車で行つても二十錢は取られた。けれども個人の別莊は其處此處にいくつでも建てられてゐた。それに海へは極近いので海水浴を遣るには至極便利な地位を占めてゐた。

 私は毎日海へ這入りに出掛けた。古い燻(くす)ぶり返つた藁葺(わらふき)の間を通り拔けて磯へ下りると、此邊にそれ程の都會人種が住んでゐるかと思ふ程、避暑に來た男や女で砂の上が動いてゐた。ある時は海の中が錢湯の樣に黑い頭でごちや/\してゐる事もあつた。其中に知つた人を一人も有(も)たない私も、斯ういふ賑やかな景色の中に裹(つゝ)まれて、砂の上に寐そべつて見たり、膝頭を波に打たして其處いらを跳ね廻るのは愉快であつた。

 私は實に先生を此雜沓の間(あひだ)に見付出したのである。其時海岸には掛茶屋(かけちやや)が二軒(のき)あつた。私は不圖(ふと)した機會(はづみ)から其一軒(けん)の方に行き慣れてゐた。長谷(はせ)邊(へん)に大きな別莊を構へてゐる人と違つて、各自(めい/\)に專有の着換塲(きがへば)を拵えてゐない此處いらの避暑客には、是非共斯うした共同着換所(きようどうきがへしよ)といつた風なものが必要なのであつた。彼等は此處で茶を飮み、此處で休息する外に、此處で海水着(かいすゐき)を洗濯(せんだく)させたり、此處で鹹(しほ)はゆい身體(からだ)を淸めたり、此處へ帽子や傘を預けたりするのである。海水着(かいすゐき)を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあつたので、私は海へ這入る度に其茶屋へ一切を脱ぎ棄てる事にしてゐた。

やぶちゃんの摑み:

「心」というこの総標題と副題「先生の遺書」の関係について述べておく。漱石は、この新聞連載小説では、実は「心」という総標題の下に複数の短編で本作全体を構成するというオムニバス・ストーリーの形式を予定していたとされる。即ち「先生の遺書」は、例えば1箇月なり2箇月弱なりで終了する作品として構想されたものであった。ところが、書いているうちに例のどんどん長くなってしまう漱石の癖によって、オムニバスどころか一大長篇になってしまったのであった。そして漱石は連載中、この幻の短編である「先生の遺書」の副題を変更することなく(変更のしようがないとも言えるが)そのまま使い続けたのであった。そのため、当時の新聞小説の愛読者は、この題名から、いつになったら先生の遺書が読めるのかと、相当に焦らされたものと推測される(現在の「下 先生と遺書 一」は実に連載から約2箇月弱後の第55回――『東京朝日新聞』で6月16(火)、『大阪朝日新聞』で6月18(木)――でのことであった)。即ち、当時の読者は、この冒頭から先生の死を「先生の遺書」という表題によって十分過ぎるほど認知した上で読んでいたのであり、現行の単行本を読み始めるのとは、微妙に印象が異なるという事実も見逃してはならない。

「私(わたし)」驚天動地! 初出では「わたくし」ではなく「わたし」だった!……しかし……僕はもう刷り込まれて「わたくし」でないと朗読出来なくなっているのだ……。

「餘所々々しい頭文字抔はとても使ふ氣にならない」は意味深長である。先生はその遺書で「K」という「餘所々々しい頭文字」を使って恋敵を示した。これは「先生」の心性と、今現在この手記を記す「私=学生」の心性の明らかな違い、いや、今は「先生」よりも成長した人間としての「学生=私」を表明する大切な一言である。なお、この一段落によって読者であるあなたは、この「私」なる人物から『特に選ばれたたった一人』として、『極内密に「私」だけが知る「先生」の秘密を打明けられる』のだ、という構造を持っていることに、この時点で気付いておいて欲しいと私は思う。これは公的に不特定多数に示された「私」の告白『ではない』。この手記が、そのような極めて特殊な『読者であるあなた一人への「私」の秘密の告白録』であるということは、追々この場で立証してゆきたいと思う。

「若々しい」現在のフラットな用法とは違う。「未熟な」とか「無知な」といった負のニュアンスの語である。

「暑中休暇を利用して海水浴に行つた友達」は単に「私」と「先生」の出逢いをセットするための小道具だなどと考えてはいけない。この友達が帰郷することになる事態は、この「心」という小説のテーマと密接に関わってくるものであるからだ。この友人は「かねてから國元にゐる親達に勸まない結婚を強ひられて」おり、「彼は現代の習慣からいふと結婚するにはあまり年が若過ぎ」、「それに肝心の當人が」その結婚相手の女を「氣に入らなかつた」のである。しかし、「實際彼の母が病氣であるとすれば彼は固より歸」らねばならないという伝統的道徳律にも縛られている。結局は彼の場合は「とうとう歸る事になつた」のである。そこでは、明言していないものの、やはり帰るべきではなかろうかという忠告が当の「私」からも成された臭いさえする。これは先生が叔父の策略によって従姉妹と結婚させられそうになる事実、更には「私」が危篤の父を置いて、東京に向かうという事実への伏線であり、本作の『日本の家という呪縛』という隠されたテーマとも密接に関わって来るものである。更にもう一つのポイントは、この時の「私」の若さ=年齢及びその学齢の問題である。底本の(十一)の「其時の私は既に大學生であつた。」の注で、ここ(一)で「私」が「先生」と知り合った際の年号年齢説として以下の三つを掲げている。即ち、ここでの「私」の年齢・学齢について、

(1)江藤淳説  明治431910)年   大学2年

(2)平岡敏夫説 明治411908)年 高等学校3年

(3)藤井淑禎説 明治401907)年 高等学校1年 又は

         明治411908)年 高等学校2年

があるとする(注の最後には大正2(1913)年当時は東京帝国大学入学者の平均年齢は22.5歳であったというデータも示されている)。(1)の江藤説は問題にならない。誤りである。これでは(十一)の冒頭の一句「其時の私は既に大學生であつた」の謂いが如何にも不自然である。また、この説を採ると「先生」と「私」との濃厚な接触時間はたったの1年ぽっきりということになってしまうのだ。私は嘗て、自身の「こゝろ」研究の過程で、この時の「私」を、明治451912)年当時、満23歳か24歳と推定して逆算、明治211888)年に中部内陸地方辺りに生まれ、明治391906)年に17歳で第一高等學校に入学したものと考え、(3)の藤井説の二番目の仮説と同意見、

明治41(1908)年 19歳

 7月下旬か8月  第二学年終了後の暑中休暇に鎌倉海岸で先生と出会う。

と推定した(私のHP『「こゝろ」マニアックス』所収の年表を参照)。私は現在もこの考えを変える意思は全くない。

「畷」田圃道。畦道。

「車で行つても二十錢は取られた」勿論、人力車でである。

「古い燻ぶり返つた藁葺の間を通り拔けて磯へ下りると」とあるが、これは次の「長谷邊に大きな別莊を構へてゐる人と違つて」という叙述と対応して、ここが由比ヶ浜の、海に向かって左側、所謂、材木座海岸であることを明確に示すものである。これは次の(三)に示される「先生」の宿の位置からも容易に理解される同定地なのである。それは何より、私自身が幼少時から慣れ親しんだ地でもあるからでもある。是非、リンク先をお読みあれ。これが「やぶちゃんの摑み」と称する所以である。――ふふふ♪]

 

 

  先生の遺書

      (二)

 私が其掛茶屋(かけぢやや)で先生を見た時は、先生は丁度着物を脱いで是から海へ入(はい)らうとする所であつた。私は其反對に濡れた身體を風に吹かして水から上つて來た。二人の間には目を遮る幾多の黑い頭が動いてゐた。特別の事情のない限り、私は遂に先生を見逃したかも知れなかつた。それ程濱邊が混雜し、それ程私の頭が放漫であつたにも拘はらず、私がすぐ先生を見付出したのは、先生が一人の西洋人を伴れてゐたからである。

 其西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋(かけちやや)へ入るや否や、すぐ私の注意を惹いた。純粹の日本の浴衣を着てゐた彼は、それを床几(しやうぎ)の上にすぽりと放り出した儘、腕組(うでぐみ)をして海の方を向て立つてゐた。彼は我々の穿く猿股一つの外何物も肌に着けてゐなかつた。私には夫(それ)が第一不思議だつた。私は其二日前に由井(ゆゐ)が濱(はま)迄行つて、砂の上にしやがみながら、長い間西洋人の海へ入る樣子を眺めてゐた。私の尻を卸した所は少し小高い丘の上で、其すぐ傍(わき)がホテルの裏口になつてゐたので、私の凝としてゐる間(あひだ)に、大分多くの男が鹽(しほ)を浴びに出て來たが、いづれも胴と腕と股(もゝ)は出してゐなかつた。女は殊更肉を隱し勝であつた。大抵は頭に護謨製(ごむせい)の頭巾を被つて、海老茶や紺や藍の色を波間に浮かしてゐた。さういふ有樣を目撃した許(ばか)りの私の眼には、猿股一つで濟まして皆(みん)なの前に立つてゐる此西洋人が如何にも珍らしく見えた。

 彼はやがて自分の傍(わき)を顧みて、其處にこゞんでゐる日本人(にほんじん)に、一言二言何か云つた。其日本人は砂の上に落ちた手拭を拾ひ上げてゐる所であつたが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ步き出した。其人が即ち先生であつた。

 私は單に好奇心の爲に、並んで濱邊を下りて行く二人の後姿を見守つてゐた。すると彼等は眞直に波の中に足を踏み込んだ。さうして遠淺の磯近(ぢか)くにわい/\騒いでゐる多人數(たにんず)の間を通り拔けて、比較的廣々した所へ來ると、二人とも泳ぎ出した。彼等の頭が小さく見える迄沖の方へ向いて行つた。夫から引き返して又一直線に濱邊迄戻つて來た。掛茶屋(かけぢやや)へ歸ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身體を拭いて着物を着て、さつさと何處へか行つて仕舞つた。

 彼等の出て行つた後(あと)、私は矢張元の床几に腰を卸して烟草を吹かしてゐた。其時私はぽかんとしながら先生の事を考へた。どうも何處かで見た事のある顏の樣に思はれてならなかつた。然し何うしても何時何處で會つた人か想ひ出せずに仕舞つた。

 其時の私は屈托がないといふより寧ろ無聊(ぶれう)に苦しんでゐた。それで翌日(あくるひ)も亦先生に會つた時刻を見計らつて、わざ/\掛茶屋(かけちやや)迄出かけて見た。すると西洋人は來ないで先生一人麥藁帽を被つて遣(やつ)て來た。先生は眼鏡をとつて臺の上に置いて。すぐ手拭で頭を包んで、すた/\濱を下りて行つた。先生が昨日の樣に騒がしい浴客(よくかく)の中を通り拔けて、一人で泳ぎ出した時、私は急に其(その)後(あと)が追ひ掛けたくなつた。私は淺い水を頭の上迄跳かして相當の深さの所迄來て其處から先生を目標に拔手(ぬきで)を切つた。すると先生は昨日と違つて、一種の弧線を描いて、妙な方向から岸の方へ歸り始めた。それで私の目的は遂に達せられなかつた。私が陸(をか)へ上つて雫(しづく)の垂れる手を振りながら掛茶屋(かけちやや)に入(はい)ると、先生はもうちやんと着物を着て入違ひに外へ出て行つた。

 

[♡やぶちゃんの摑み:上の通り、この回には最後に飾罫がない。

♡「先生」私は前章注で述べた通り、嘗て「先生」の年次を詳細に推定したことがある。詳しい根拠などは私のHPの『「こゝろ」マニアックス』を参照されたいが、彼が自死した明治451912)年当時を満35歳か36歳と推定、以下のように仮に設定してみた。

明治101877)年前後 新潟に生まれる。

明治341901)年   23

 2月中旬 K自殺。

 同年5月 奥さんとお嬢さんと共に現在の家に転居。

 同年6月 東京帝國大學卒業。

 同年暮れ 靜と結婚。

明治411908)年   31

 同年8月 鎌倉材木座海岸にて語り手「私」と出逢う。

諸君が考えているようには、「先生」は実は決して年老いてはいないのである。大事な点だ。Kの死後、十年以上経過している等と言うことは、心理学的な分析及び現実的諸証拠からも、全くあり得ないことなのだ。そしてまた、十年以上生き永らえてしまい、「私」に逢わず、明治大帝の死と乃木大将の殉死と言う事態に遭遇しなければ、僕は、「先生」は自殺しなかった、と断言出来るのだ。それなら「先生」は、その遺書冒頭で彼自身が記した如く、人生を「ミイラの樣に存在して行」ったに違いないからなのだ。――そうして、そうした「先生」を想像する時、私は心底、慄っとするのである。

♡「先生が一人の西洋人を伴れてゐたから」この限定は深い意味があると考えざるを得ない。そうしてこれ以降の「私」の視線が、この西洋人の裸体の「肉」に注がれ続けることに注視せねばならない。そうしてこの視線は――或る意味、極めて同性愛的傾向を感じさせる猥雑なる視線(その猥雑さを「私」は全く意識していないのであるが)であることに気づかねばならぬのだ。

♡「我々の穿く猿股」猿股自体を西洋褌とも言うが、ここではよくイメージされる股引、薄い下着としての猿股よりも、やや生地の厚いものとも考えられる。明治十年代以降に海水浴で盛んに用いられるようになったパンツ式の男性用水着である。

♡「遠淺の磯近く」材木座海岸の小坪(逗子)寄りには、日本最初の人工の築港跡である和賀江ノ島があり、現在でも岩礁が残り、ゴロタ石も多く(北条泰時は岩石を多量にここに投げ入れて港を作った)、砂浜海岸である由比ヶ浜でも、所謂、磯浜の雰囲気を今も持っている。従って私の馴染んでいる材木座海岸の表現としては「磯」は必ずしも違和感がない。但し、漱石は岩礁性海岸としての「磯」と言う語を用いているのではなく、広義の海岸の意味で、この語を用いているようには感じられる。

♡「拔手」「ぬきて」とも読む。日本伝統の古式泳法の一つ。水をかいた両手を交互に水面上に抜き出し、足は蛙足又は煽り足で進む泳ぎ方。

♡「どうも何處かで見た事のある顏の樣に思はれてならなかつた」このデジャ・ヴュ(既視感)は重要な「私」の特異的心性である。ここに小説「心」という世界は本格的に起動するのである。

♡「一種の弧線」作品全体を支配する円形運動の最初の発現部である。勿論、現実的には、ここで「先生」は、妙な若者が自分をストーカーしていることに薄々勘づいて回避したとも言えるという解釈も大事である。]

 

 

  先生の遺書

      (三)

 私は次の日も同じ時刻に濱へ行つて先生の顏を見た。其次の日にも亦同じ事を繰返した。けれども物を云ひ掛ける機會も、挨拶をする塲合も、二人の間には起らなかつた。其上先生の態度は寧ろ非社交的であつた。一定の時刻に超然として來て、また超然と歸つて行つた。周圍がいくら賑やかでも、それには殆ど注意を拂ふ樣子が見えなかつた。最初一所に來た西洋人は其後(そのご)丸で姿を見せなかつた。先生はいつでも一人であつた。

 或時先生が例の通りさつさと海から上つて來て、いつもの場所に脱ぎ棄てた浴衣を着やうとすると、何うした譯か、其浴衣に砂が一杯着いてゐた。先生はそれを落すために、後向になつて、浴衣を二三度振(ふる)つた。すると着物の下に置いてあつた眼鏡(めがね)が板の隙間から下へ落ちた。先生(さきせい)は白絣(しろかすり)の上へ兵兒帶(へこおび)を締めてから、眼鏡の失くなつたのに氣が付いたと見え、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛の下へ首と手を突ツ込んで眼鏡を拾ひ出した。先生は有難(ありかた)うと云つて、それを私の手から受取つた。

 次の日私は先生の後(あと)につゞいて海へ飛び込んだ。さうして先生と一所の方角に泳いで行つた。二丁程沖へ出ると、先生は後(うしろ)を振り返つて私に話し掛けた。廣い蒼い海の表面に浮いてゐるものは、其近所(きんしよ)に私等二人より外になかつた。さうして強い太陽の光が、眼の屆く限り水と山とを照してゐた。私は自由と歡喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂つた。先生は又ぱたりと手足の運動を已(や)めて仰向になつた儘浪の上に寐た。私も其眞似をした。靑空の色がぎら/\と眼を射るやうに痛烈な色(しき)を私の顏に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな聲を出した。

 しばらくして海の中で起き上る樣に姿勢を改めた先生は、「もう歸りませんか」と云つて私を促した。比較的強い體質を有(も)つた私は、もつと海の中で遊んでゐたかつた。然し先生から誘はれた時、私はすぐ「えゝ歸りませう」と快よく答へた。さうして二人で又元の路を濱邊へ引き返した。

 私は是から先生と懇意になつた。然し先生が何處にゐるかは未(ま)だ知らなかつた。

 夫から中二日(ふづか)置いて丁度三日目の午後だつたと思ふ。先生と掛茶屋(かけぢやや)で出會つた時、先生は突然私に向つて、「君はまだ大分(だいぶ)長く此處に居る積ですか」と聞いた。考へのない私は斯ういふ問に答へる丈の用意を頭の中に蓄えてゐなかつた。それで「何うだか分りません」と答へた。然しにや/\笑つてゐる先生の顏を見た時、私は急に極りが惡くなつた。「先生は?」と聞き返さずにはゐられなかつた。是が私の口を出た先生といふ言葉の始りである。

 私は其晩先生の宿を尋ねた。宿と云つても普通の旅館と違つて、廣い寺の境内(けいたい)にある別莊のやうな建物(たてもの)であつた。其處に住んでゐる人の先生の家族でない事も解つた。私が先生々々と呼び掛けるので、先生は苦笑ひをした。私はそれが年長者に對する私の口癖(くちくせ)だと云つて辯解した。私は此間の西洋人の事を聞いて見た。先生は彼の風變りの所や、もう鎌倉にゐない事や、色々の話をした末、日本人にさへあまり交際(つきあひ)を有たないのに、さういふ外國人と近付になつたのは不思議だと云つたりした。私は最後に先生に向つて、何處かで先生を見たやうに思ふけれども、何うしても思ひ出せないと云つた。若い私は其時暗に相手も私と同じ樣な感じを有つてゐはしまいかと疑つた。さうして腹の中で先生の返事を豫期してかゝつた。所が先生はしばらく沈吟したあとで、「何うも君の顏には見覺がありませんね。人違ひぢやないですか」と云つたので私は變に一種の失望を感じた。

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「いつもの塲所に脱ぎ棄てた浴衣を着やうとすると、何うした譯か、其浴衣に砂が一杯着いてゐた」何故、「何うした譯か」なのか? 意地の悪いやぶちゃんは、これは「私」が砂をかけておいたのだとさえ、思うのである。さすれば、以下の叙述には嘘がある。「私」は先生(以下、特別な場合を除き、「先生」という括弧書きは省略する)の眼鏡を予め、下に落としておいたのではなかったか? 勿論、先生と接触を謀るための「策略」として、である。

♡「先生は又ぱたりと手足の運動を已めて仰向になつた儘浪の上に寐た」これについて、ある論文は死のポーズであるととっている。面白い解釈である。ただ、そこから先生が海への入水自殺で果てたのだ、という結論を導き出す論があるが、これは如何かと思う。入水自殺の土左衛門は遺体が汚い。遺族の静がそれを本人確認せねばならないシーンの可能性を考えると、先生の自殺の条件から、当然、一番に排除されると私は思う。

♡「にや/\笑つてゐる先生」気がつかれたか? こんな最初で先生は意外にも「にや/\笑つてゐる」のである。

♡「廣い寺の境内」現在の神奈川県鎌倉市材木座61719にある天照山光明寺である。浄土宗関東大本山。本尊阿弥陀如来、開基北条経時、開山浄土宗三祖然阿良忠(ねんなりょうちゅう)。漱石がこの寺の奥にある貸し別荘にしばしば避暑したことは、全集の注を始め、多くの資料に示されている。鎌倉から逗子へ抜ける街道沿いにあり、材木座海岸に近い。鎌倉の繁華街からは最も遠い「邊鄙(へんぴ)」な位置にある。

♡「私は變に一種の失望を感じた」これは先のデジャ・ヴュを受けるのであるが、全く以ってこれは、「私」の異様な心性である。異様? いや、至極、素直な恋愛感情の表明である。「私」の内なる同性愛傾向を、私はここでも強く感じるものである。]

 

 

  先生の遺書

      (四)

 私は月の末(すゑ)に東京へ歸つた。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずつと前であつた。私は先生と別れる時に、「是から折々御宅へ伺つても宜(よ)ござんすか」と聞いた。先生は單簡(たんかん)にたゞ「えゝ入らつしやい」と云つた丈であつた。其時分の私は先生と餘程懇意になつた積でゐたので、先生からもう少し濃かな言葉を豫期して掛つたのである。それで此物足りない返事が少し私の自信を傷めた。

 私は斯(かう)いふ事でよく先生から失望させられた。先生はそれに氣が付いてゐる樣でもあり、又全く氣が付かない樣でもあつた。私は又輕微な失望を繰返しながら、それがために先生から離れて行く氣にはなれなかつた。寧ろそれとは反對で、不安に搖(うご)かされる度に、もつと前へ進みたくなつた。もつと前へ進めば、私の豫期するあるものが、何時(いつ)か眼の前に滿足に現れて來るだらうと思つた。私は若かつた。けれども凡ての人間に對して、若い血が斯う素直に働かうとは思はなかつた。私は何故(なぜ)先生に對して丈斯んな心持が起るのか解らなかつた。それが先生の亡くなつた今日(こんにち)になつて、始めて解つて來た。先生は始めから私を嫌つてゐたのではなかつたのである。先生が私に示した時々の素氣(そつけ)ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠(とほざ)けやうとする不快の表現ではなかつたのである。傷ましい先生は、自分に近づかうとする人間に、近づく程の價値のないものだから止せといふ警告を與へたのである。他(ひと)の懷かしみに應じない先生は、他(ひと)を輕蔑する前に、まづ自分を輕蔑してゐたものと見える。

 私は無論先生を訪ねる積で東京へ歸つて來た、歸つてから授業の始まる迄にはまだ二週間の日數(ひかぞ)があるので、其うちに一度行(いつ)て置かうと思つた。然し歸つて二日三日と經つうちに、鎌倉に居た時の氣分が段々薄くなつて來た。さうして其上に彩られる大都會の空氣が、記憶の復活に伴ふ強い刺激と共に、濃く私の心を染付けた。私は往來で學生の顏を見るたびに新しい學年に對する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。

 授業が始まつて、一ケ月ばかりすると私の心に、又一種の弛(ゆる)みが出來てきた。私は何だか不足な顏をして往來を步き始めた。物欲しさうに自分の室(へや)の中を見廻した。私の頭には再び先生の顏が浮いて出た。私は又先生に會ひたくなつた。

 始めて先生の宅(うち)を訪ねた時、先生は留守であつた。二度目に行つたのは次の日曜だと覺えてゐる。晴れた空が身に沁み込むやうに感ぜられる好(い)い日和であつた。其日も先生は留守であつた。鎌倉にゐた時、私は先生自身の口から、何時(いつ)でも大抵宅(うち)にゐるといふ事を聞いた。寧ろ外出嫌ひだといふ事も聞いた。二度來て二度とも會へなかつた私は、其言葉を思ひ出して、理由もない不滿を何處かに感じた。私はすぐ玄關先を去らなかつた。下女の顏を見て少し躊躇して其處に立つてゐた。此前名刺を取次いだ記憶のある下女は、私を待たして置いて又内へ這入つた。すると奧さんらしい人が代つて出て來た。美しい奧さんであつた。

 私は其人から鄭寧(ていねい)に先生の出先を教へられた。先生は例月其日になると雜司ケ谷の墓地にある或佛へ花を手向けに行く習慣なのださうである。「たつた今出た許りで、十分になるか、ならないかで御座います」と奧さんは氣の毒さうに云つて呉れた。私は會釋して外へ出た。賑かな町の方へ一丁程步くと、私も散步がてら雜司ケ谷へ行つて見る氣になつた。先生に會へるか會へないかといふ好奇心も動いた。夫ですぐ踵(きびす)を回らした。

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「月の末」当時の高校の暑中休暇は9月10日頃迄であった。従ってここは8月末である。

♡「其時分の私は先生と餘程懇意になつた積でゐたので、先生からもう少し濃かな言葉を豫期して掛つたのである。それで此物足りない返事が少し私の自信を傷めた」思い込みを強めた同性愛傾向を如実に摑める部分である。

♡「私は斯いふ事でよく先生から失望させられた」以下、これを叙述している現在の「私」の告解であることに気づかねばならぬ。「私の豫期するあるもの」とは何か? そのようなものを求めて君は人に近づく時、その人は君にとってどのような存在か? ということをじっくりと考えて見給え。

♡「私は何故先生に對して丈斯んな心持が起るのか解らなかつた。それが先生の亡くなつた今日になつて、始めて解つて來た」先生がこの記載時に既に亡くなっていることが、ここで初めて示される重要な場面である。そうしてこれは、「私」の重大な告解であることに気づかねばならぬ。既にして「私」は、過去の「私」ではないという事実である。「私は何故先生に對して丈斯んな心持が起るのか」その当時は「解らなかつた」が、「それが先生の亡くなつた」この手記を記している「今日になつて、始めて解つて來た」、いや、十全に解っているのである。それが何であるかに気づかない君には、「こゝろ」の謎は、永遠に解けぬと言ってよい。

♡「名刺」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注によれば、この頃には西洋の習慣が急速に日本社会に浸透、学生や女学生も名刺の交換をするのが普通であったとする。但し、「私」のものは所謂、活版の印刷物ではなくて手書きのものであった可能性も高いと思われる。

♡「下女」殆んど我々読者の意識に上らないが、先生の家には下女がいる。この下女を驚天動地のキャラクターとして描いたのが日活1955年製作の市川昆の「こころ」であった。これについては私のブログ『「こゝろ」3種(+1)映像作品評』で記した。興味のある方は、お読みあれ。但し、このブログ記事は、かなり危ないぜ。

♡「すると奧さんらしい人が代つて出て來た。美しい奧さんであつた。」「靜」の初登場のシーンである。詳しい根拠は私のHPの『「こゝろ」マニアックス』を参照されたいが、この「靜」は諸君が考えるよりも、恐らく若い。この時、私の推定では、

「靜」は26

である。私はまた、本章の時間を嘗て仮に次のように推定した。

明治411908)年 19

 7月下旬か8月     第二学年終了後の暑中休暇に鎌倉海岸で先生と出会う。

  9月11日頃      高校(第三学年)が始まる。

 10月 4日(日)又は  先生の家を初めて訪問するが、留守。

 10月11日(日)

 10月11日(日)又は  先生の家を再訪。留守。

 10月18日(日)    奥さんの言葉で、雑司ヶ谷墓地で先生と再会。

これも私のHPの『「こゝろ」マニアックス』所収の年表を参照されたい。ともかく、私がここで言いたいのは、学生の「私」と「靜」はそんなに年齢差はないのである。最大で7歳、もっと短い可能性さえ考え得るという事実なのである。なお、申し上げておくが、以上の年月日には確定的的根拠があるわけではない(仮定した日の曜日は事実を確認してあるので正確ではある)。一つの遊びとして楽しんでもらいたい。]

 

 

  先生の遺書

      (五)

 私は墓地の手前にある苗畠(なへばたけ)の左側(ひだりかは)ら這入つて、兩方に楓を植ゑ付けた廣い道を奧の方へ進んで行つた。すると其(その)端(はづ)れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て來た。私は其人の眼鏡の緣が日に光る迄近く寄て行つた。さうして出拔(だしぬ)けに「先生」と大きな聲を掛けた。先生は突然立ち留(ど)まつて私の顏を見た。

 「何うして‥‥、何うして‥‥」

 先生は同じ言葉を二遍繰り返した。其言葉は森閑とした晝の中(うち)に異樣な調子をもつて繰り返された。私は急に何とも應へられなくなつた。

 「私の後を跟(つ)けて來たのですか。何うして‥‥」

 先生の態度は寧ろ落付いてゐた。聲は寧ろ沈んでゐた。けれども其表情の中には判然(はつきり)云へない樣な一種の曇りがあつた。

 私は私が何うして此處へ來たかを先生に話した。

 「誰の墓へ參りに行つたか、妻が其人の名を云ひましたか」

 「いゝえ、其んな事は何も仰しやいません」

 「さうですか。――さう、夫は云ふ筈がありませんね、始めて會つた貴方に。いふ必要がないんだから」

 先生は漸く得心したらしい樣子であつた。然し私には其意味が丸で解らなかつた。

 先生と私は通(とほり)へ出やうとして墓の間を拔けた。依撒伯拉(いさべら)何々の墓だの、神僕ロギンの墓だのといふ傍(かたはら)に、一切衆生悉有佛生(いつさいしゆじやうしつうふつしやう)と書いた塔婆などが建てゝあつた。全權公使何々といふのもあつた。私は安得烈(あんどれ)と彫(ほ)り付けた小さい墓の前で、「是は何と讀むんでせう」と先生に聞いた。「アンドレとでも讀ませる積でせうね」と云つて先生は苦笑した。

 先生は是等の墓標が現す人(ひと)種々(さまざま)の樣式に對して、私程に滑稽もアイロニーも認めてないらしかつた。私が丸い墓石だの細長い御影(みかげ)の碑だのを指して、しきりに彼是云ひたがるのを、始めのうちは默つて聞いてゐたが、仕舞に「貴方は死といふ事實をまだ眞面目に考へた事がありませんね」と云つた。私は默つた。先生もそれぎり何とも云はなくなつた。

 墓地の區切(くき)り目に、大きな銀杏(いてう)が一本空を隱すやうに立つてゐた。其下へ來た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。此木がすつかり黄葉して、こゝいらの地面は金色(きんいろ)の落葉(おとば)で埋まるやうになります」と云つた。先生は月に一度づゝは必ず此木の下を通るのであつた。

 向ふの方で凸凹の地面をならして新墓地を作つてゐる男が、鍬の手を休めて私達を見てゐた。私達は其處から左へ切れてすぐ街道へ出た。

 是から何處へ行くといふ目的(あて)のない私は、たゞ先生の步く方へ步いて行つたた。先生は何時もより口數を利かなかつた。それでも私は左程の窮窟を感じなかつたので、ぶら/\一所に步いて行つた。

 「すぐ御宅へ御歸りですか」

 「えゝ別に寄(よる)所もありませんから」

 二人は又默つて南の方へ坂を下(おり)た。

 「先生の御宅(おたく)の墓地はあすこにあるんですか」と私が又口を利き出した。

 「いゝえ」

 「何方の御墓があるんですか。―御親類の御墓ですか」

 「いゝえ」

 先生は是以外に何も答へなかつた。私も其話しはそれぎりにして切り上げた。すると一町程步いた後で、先生が不意に其處へ戻つて來た。

 「あすこには私の友達(ともたち)の墓があるんです」

 「御友達(ともたち)の御墓へ毎月御參りをなさるんですか」

 「さうです」

 先生は其日是以外を語らなかつた。

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「墓地」現在の東京都豊島区南池袋4丁目にある東京都立霊園雑司ヶ谷霊園。無宗派。面積約115,400㎡。明治7(1874)年91日、当時の東京府が東京会議所に命じて造営、明治221889)年に東京市管轄となっていた(昭和101935)年には「雑司ヶ谷霊園」に名称を変更、現在は東京都公園協会管理)。ジョン(中浜)万次郎・井上哲次郎・小泉八雲・ケーベル・島村抱月・岩野泡鳴・大町桂月・押川春浪・村山槐多・泉鏡花・東條英機・竹久夢二・永井荷風・古川ロッパ(緑波)・福永武彦・サトウハチロー・東郷青児・大川橋蔵・中川一政・村山知義等の著名人の墓が多い。夏目漱石自身の墓もここにある。また、ここでの墳墓の描写は夏目漱石が大正元(1912)年1129日、前年に亡くなった五女ひな子の墓参のために雑司ヶ谷霊園を訪れた日記にある(一部に私が手を加えてある)、

『依撒伯拉何々の墓、安得烈何の墓。神僕ロギンの墓。其前に一切衆生、悉有佛生とい』ふ塔婆、『全權公使ヽヽといふのもある。』

という記載を、季節を初冬から晩夏に変えて、ほぼそのままに用いている。

♡「私は其人の眼鏡の緣が日に光る迄近く寄て行つた」頗る映像的で印象的なシーンである。映画に撮りたい欲求を禁じ得ぬ。

♡「一切衆生悉有佛生」正しくは「一切衆生悉有佛性」で、読みは同じ。総ての生きとし生けるものは仏となるべき仏性を本来具有しているという仏説。「涅槃経」の「高貴徳王菩薩品(ぼん)」及び「獅子吼菩薩品」に現われる謂い。

♡「御影の碑」花崗岩で出来た墓標。「御影」は御影石で花崗岩のこと。現在の神戸市灘区御影一帯は古来、花崗岩を多産したことからの通称。

♡「向ふの方で凸凹の地面をならして新墓地を作つてゐる男が、鍬の手を休めて私達を見てゐた。」さる論文で、この男こそKの亡霊である、との解釈を読んだ。――ほくそ笑んだ――が、面白い――私も私の書いた「こゝろ」のフェイク「こゝろ佚文」でこの解釈を実は援用させて潜ませてある。但しこれは、前掲注の大正元(1912)年1129日の日記に『入口に土をならして新墓地を作つてゐる男が鍬の手をやすめて我等を見た』と実景として記されている事実ではあることも添えておこう。]

 

 

  先生の遺書

      (六)

 私はそれから時々先生を訪問するやうになつた。行くたびに先生は在宅であつた。先生に會ふ度數が重なるに伴(つ)れて、私は益(ます/\)繁く先生の玄關へ足を運んだ。

 けれども先生の私に對する態度は初めて挨拶をした時も、懇意になつた其後も、あまり變りはなかつた。先生は何時も靜で懇意になつた其後(そののち)も、あまり變りはなかつた。ある時は靜過ぎて淋しい位であつた。私は最初から先生には近づき難(かた)い不思議があるやうに思つてゐた。それでゐて、何うしても近づかなければ居られないといふ感じが、何處かに強く働いた。斯ういふ感じを先生に對して有(もつ)てゐたものは、多くの人のうちで或は私だけかも知れない。然し其私丈には此直感が後(のち)になつて事實の上に證據立てられたのだから、私は若々しいと云はれても、馬鹿氣てゐると笑はれても、それを見越した自分の直覺をとにかく賴もしく又嬉しく思つてゐる。人間を愛し得る人、愛せずにはゐられない人、それでゐて自分の懷に入(い)らうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出來ない人、―是が先生であつた。

 今云つた通り先生は始終(ししう)靜かであつた。落付いてゐた。けれども時として變な曇りが其顏を橫切(よこき)る事があつた。窓に黑い鳥影(とりかげ)が射すやうに。射すかと思ふと、すぐ消えるには消えたが。私が始めて其曇りを先生の眉間に認めたのは、雜司ケ谷の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であつた。私は其異樣の瞬間に、今迄快よく流れてゐた心臟の潮流を一寸(ちよつと)鈍らせた。然しそれは單に一時(じ)の結滯に過ぎなかつた。私の心は五分を經(だ)たないうちに平素の彈力を回復した。私はそれぎり暗さうなこの雲の影を忘れてしまつた。ゆくりなくまた夫(それ)を思ひ出させられたのは、小春の盡きるに間のない或る晩の事であつた。

 先生と話してゐた私は、不圖先生がわざ/\注意して呉れた銀杏の大樹を眼の前に想ひ浮かべた。勘定して見ると、先生が毎月例(まいげつれい)として墓參に行く日が、それから丁度三日目に當つてゐた。其三日目は私の課業が午(ひる)で終へる樂な日であつた。私は先生に向つて斯う云つた。

 「先生雜司ケ谷の銀杏はもう散つて仕舞つたでせうか」

 「まだ空坊主(からばうず)にはならないでせう」

 先生はさう答へながら私の顏を見守つた。さうして其處からしばし眼を離さなかつた。私はすぐ云つた。

 「今度御墓參りに入らつしやる時に御伴をしても宜(よ)ござんすか。私は先生と一所に彼處(あすこ)いらが散步して見たい」

 「私は墓參りに行くんで、散步に行くんぢやないですよ」

 「然し序(ついで)に散步をなすつたら丁度好(い)いぢやありませんか」

 先生は何とも答へなかつた。しばらくしてから、「私のは本當の墓參り丈なんだから」と云つて、何處迄も墓參と散步を切離さうとする風に見えた。私と行きたくない口實だか何だか、私には其時の先生が、如何にも子供らしくて變に思はれた。私はなほと先へ出る氣になつた。

「ぢや御墓參りでも好(い)いから一所に伴れて行つて下さい。私も御墓參りをしますから」

 實際私には墓參と散步との區別が殆(ほとん)ど無意味のやうに思はれたのである。すると先生の眉がちよつと曇つた。眼のうちにも異樣の光が出た。それは迷惑とも嫌惡とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであつた。私は忽ち雜司ケ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思ひ起した。二つの表情は全く同じだつたのである。

 「私は」と先生が云つた。「私はあなたに話す事の出來ない或理由があつて、他(ひと)と一所にあすこへ墓參りには行きたくないのです。自分の妻(さい)さへまだ伴れて行つた事がないのです」

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「然し其私丈には此直感が後になつて事實の上に證據立てられた」如何にもまどろっこしい言い方であるが、これは先生が「私」に遺書を託した――そのことを指しているのである。

♡「若々しい」(一)で注した通り、現在のフラットな用法とは違う。「未熟な」とか「無知な」といったニュアンスの語である。

♡「小春の盡きるに間のない或る晩の事」これをそのまま新暦の十月下旬晦日近いある日と取るには無理があるように思われる。何故なら次の先生の台詞「まだ空坊主にはならないでせう」という語がそぐわないからである。銀杏は正に十月下旬のこの頃に紅葉の盛りを迎えているはずだからである。この「小春」は陰暦で述べたものと考えると辻褄が合う。例えば、これを私が推定している明治411908)年のことと仮定するならば、

新暦 明治411908)年 10 30日→旧暦同年10 6

旧暦 明治411908)年 10 30日→明治同年11 23

これが11月の20日過ぎのシークエンスとしてぴったり来るのである。「私」が陰暦を用いることに違和感がある向きは、彼が(四十四)(=「中 兩親と私」八)で東京に経つ日の吉凶を母に見てもらうという点、そもそも陰暦の自然現象に合わせた月の異名であり、時に春のような暖かい日が実際にあったとすれば、「(陰暦)小春の盡きるに間のない或る晩の事」で何ら不思議ではない、と言っておこう。

♡「まだ空坊主にはならないでせう」前章に掲げた注の大正元(1912)年1129日の日記に、銀杏ではないが『欅のから坊主になつた下に楓が左右に植え付けられて黄と紅との色が左右にうつくしく映る。』と記している。銀杏は11月中下旬には落葉が始まるが、個体差が激しく、12月上旬でも青い葉を付けて落葉しない樹もある。但し、この漱石の日記から推測すると、大正元(1912)年1129日には完全に落葉していたものと思われ(銀杏の描写がない)、このモデルとなった雑司ヶ谷の銀杏は比較的早い時期に落葉するタイプなのかも知れない。実際に行って見てみるに若くはなし、である。……(「ああっ、早くこんな仕事はやめにして、そんな風に雑司ヶ谷をまた、ぶらぶらしてみたいもんだ」やぶちゃんの独白)……

♡「それは迷惑とも嫌惡とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであつた」これは美事に不達意の文章である。「それは迷惑」というのでもないが「迷惑」だというニュアンスを保持し、「嫌惡」というのでもないが「嫌惡」というニュアンスを保持し、「畏怖」というのでもないが「畏怖」というニュアンスを保持するところの、「迷惑」「嫌惡」「嫌惡」の何れにも該当しない、「微かな不安」というものに似た、しかし「微かな不安」とも言い切れないようなものであった、というのである。

♡「自分の妻さへまだ伴れて行つた事がないのです」遺書で明らかになるように、これは事実に反する。しかし先生は嘘をついたのではない。先生は靜をこのKの墓に一度連れて行ったという事実(「こゝろ」「下」五十一)を、自分の過去の記憶から消去したかったからこそ、このような錯誤・発言をしたのだと私は解釈している。なお私は、この先生に雑司ヶ谷の墓参の同行を望むも断られるというエピソードを「私」19歳、明治411908)年の11月下旬頃と推定している。]

 

 

  先生の遺書

      (七)

 私は不思議に思つた。然し私は先生を研究する氣で其(その)宅(うち)へ出入りをするのではなかつた。私はたゞ其儘にして打過ぎた。今考へると其時の私の態度は、私の生活のうちで寧ろ尊(たつと)むべきものゝ一つであつた。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際(つきあひ)が出來たのだと思ふ。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向つて、研究的に働らき掛(かけ)たなら、二人の間を繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなく其時ふつりと切れて仕舞つたらう。若い私は全く自分の態度を自覺してゐなかつた。それだから尊いのかも知れないが、もし間違へて裏へ出たとしたら、何んな結果が二人の仲に落ちて來たらう。私は想像してもぞつとする。先生はそれでなくても、冷たい眼(まなこ)で研究されるのを絶えず恐れてゐたのである。

 私は月に二度若くは三度づゝ必ず先生の宅へ行くやうになつた。私の足が段々繁くなつた時のある日、先生は突然私に向つて聞いた。

 「あなたは何でさう度々私のやうなものの宅へ遣つて來るのですか」

 「何でと云つて、そんな特別な意味はありません。――然し御邪魔なんですか」

 「邪魔だとは云ひません」

 成程迷惑といふ樣子は、先生の何處にも見えなかつた。私は先生の交際(かうさい)の範圍の極めて狹い事を知つてゐた。先生の元の同級生などで、其頃東京に居るものは殆んど二人(ふたり)か三人(さんにん)しかないといふ事も知つてゐた。先生と國郷(こくきやう)の學生などには時たま座敷で同座する場合もあつたが、彼等のいづれもは皆(みん)な私程先生に親しみを有つてゐないやうに見受けられた。

 「私は淋(さび)しい人間です」と先生が云つた。「だから貴方の來て下さる事を喜こんでゐます。だから何故さう度々(たびだび)來るのかと云つて聞いたのです」

 「そりや又何故です」

 私が斯う聞き返した時、先生は何とも答へなかつた。たゞ私の顏を見て「あなたは幾歳(いくつ)ですか」と云つた。

 此問答(もんたふ)は私に取つて頗る不得要領のものであつたが、私は其時底迄押さずに歸つて仕舞つた。しかも夫から四日と經たないうちに又先生を訪問した。先生は座敷へ出るや否や笑ひ出した。

 「又來ましたね」と云つた。

 「えゝ來ました」と云つて自分も笑つた。

 私は外の人から斯う云はれたら屹度癪に觸つたらうと思ふ。然し先生に斯う云はれた時は、丸で反對であつた。癪に觸らない許りでなく却(かへつ)て愉快だつた。

 「私は淋(さび)しい人間です」と先生は其晩又此間の言葉を繰り返した。「私は淋(さび)しい人間ですが、ことによると貴方も淋(さび)しい人間ぢやないですか、私は淋(さび)しくつても年を取つてゐるから、動かずにゐられるが、若いあなたは左右は行かないのでせう。動ける丈動きたいのでせう。動いて何かに打(ぶ)つかりたいのでせう。‥‥」

 「私はちつとも淋(さむ)しくはありません」

 「若いうち程淋(さむ)しいものはありません。そんなら何故貴方はさう度々私の宅へ來るのですか」

 此處でも此間の言葉が又先生の口から繰り返された。

 「あなたは私に會つても恐らくまだ淋(さび)しい氣が何處かでしてゐるでせう。私にはあなたの爲に其淋(さび)しさを根本から引き拔いて上げる丈の力がないんだから。貴方は外(ほか)の方を向いて今に手を廣げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」

 先生は斯う云つて淋(さび)しい笑ひ方をした。

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「二人の間を繋ぐ同情の糸」とある。先生と「私」は(少なくともわ「私」の理解の上では)そのような「同情」によって結索されていたということを押えねばならぬ。ではそのような「同情」とは如何なる「同情」か? 「私」には如何なる同時的共時的心性が先生に働いていたのかを考えることは大切である。そうしてそれは巧妙に隠されている。そもそも生前の「私」の感じていた「同情の糸」は「私」にさえ不分明であったではないか。それが、死後にこのように表現し得るようになったのであるが、それは実は生前の「私」の感じていた先生への「同情の糸」とは変化した「同情の糸」でなくてはならぬ。何故なら、あの驚愕の遺書を読んでいるか読んでいないかという線は画然たるものがあるのであり、あの遺書の世界を知ることは、「私」を全く異なった人生のステージ(次元)へと誘うものだからである――私はそれが「よりよい人生のステージ」であるかどうかは微妙に留保するものであるが……。

♡「何んな結果が二人の仲に落ちて來たらう。私は想像してもぞつとする」それは「何んな結果」であったのか? 「想像してもぞつとする」結果とは、如何なる結果か?

♡「冷たい眼で研究される」これによって総ての漱石の、この「心(こゝろ)」に関わる研究書は、筆者漱石によって無効宣言がなされていると言える(私のこの注釈も含めて)。僕らは多かれ少なかれ「先生」を「冷たい眼で研究」して来たし、これからも、する、のだ。さすれば僕らは永遠に心の闇から抜け出られないのかも知れぬ――いや、しかし、少なくとも一つの救いはある――それは――『熱い燃える眼で先生を見よ!』だ! そうすれば、自ずと「心」は見えてくる、と漱石は言っているのかも知れない――。

♡「私は淋しい人間です」本作最大のキーワード。この淋しさの意味を嚙みしめよ!

♡『「だから貴方の來て下さる事を喜こんでゐます。だから何故さう度々(たびだび)來るのかと云つて聞いたのです」/「そりや又何故です」』この「私」の反応は頗る共感出来る。先生の謂いはとんでもなく意味不明である。「私は淋しい人間」「だから貴方の來て下さる事を喜こんでゐ」る。「だから何故さう度々來るのかと云つて聞いた」というこの異様なアンビバレントな心性をつらまえねばならぬ! 淋しい人間は慕って人が来ることを素直に喜んで、「何故さう度々來るのか」なんてことは口が裂けたって訊かないぜ!――しかし、こんな「淋しい」先生が僕にもミリキ的♡

♡「先生は斯う云つて淋しい笑ひ方をした」この「淋しい笑ひ方をした」のは何故かを考えよ! 先生は何故「淋しい」のか?!

♡「貴方は外の方を向いて今に手を廣げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」勿論、この先生の予言は外れる。しかし――何故、外れたかを考えてみたことがあるか? 先生が自死したから――これ以外には、ないだろ?]

 

 

  先生の遺書

      (八)

 幸にして先生の豫言は實現されずに濟んだ。經驗のない當時の私は、此豫言の中(うち)に含まれてゐる明白な意義さへ了解し得なかつた。私は依然として先生に會ひに行つた。其内いつの間にか先生の食卓で飯を食ふやうになつた。自然の結果奧さんとも口を利かなければならないやうになつた。

 普通の人間として私は女に對して冷淡ではなかつた。けれども年の若い私の今迄經過して來た境遇からいつて、私は殆んど交際(かうさい)らしい交際を女に結んだ事がなかつた。それが原因か何うかは疑問だが、私の興味は往來で出合ふ知りもしない女に向つて多く働く丈であつた。先生の奧さんには其前玄關で會つた時、美くしいといふ印象を受けた。それから會ふたんびに同じ印象を受けない事はなかつた。然しそれ以外に私は是と云つてとくに奧さんに就いて語るべき何物も有たないやうな氣がした。

 是は奧さんに特色がないと云ふよりも、特色を示す機會が來なかつたのだと解釋する方が正當かも知れない。然し私はいつでも先生に附屬した一部分の樣な心持で奧さんに對してゐた。奧さんも自分の夫の所へ來る書生だからといふ好意で、私を遇してゐたらしい。だから中間に立つ先生を取り除ければ、つまり二人はばら/\になつてゐた。それで始めて知り合になつた時の奧さんに就いては、たゞ美くしいといふ外に何の感じも殘つてゐない。

 ある時私は先生の宅で酒を飮まされた。其時奧さんが出て來て傍(そば)で酌をして呉れた。先生はいつもより愉快さうに見えた。奧さんに「お前も一つ御上り」と云つて、自分の飲み干した盃(さかづき)を差した。奧さんは「私は‥‥」と辭退しかけた後(あと)、迷惑さうにそれを受取つた。奧さんは綺麗な眉を寄せて、私の半分ばかり注いで上げた盃を、唇の先へ持つて行つた。奧さんと先生の間に下(しも)のやうな會話が始まつた。

 「珍らしい事。私に呑めと仰しやつた事は滅多にないのにね」

 「御前は嫌ひだからさ。然し稀(たま)には飮むといゝよ。好(い)い心持になるよ」

 「些(ちつ)ともならないわ。苦しいぎりで。でも貴夫(あなた)は大變御愉快(ごゆくわい)さうね、少し御酒(ごしゆ)を召上ると」

 「時によると大變愉快になる。然し何時でもといふ譯には行かない」 

 「今夜は如何です」 

 「今夜は好(い)い心持だね」

 「是から毎晩少しづゝ召上(めしあが)ると宜ござんすよ」

 「左右は行かない」

 「召上(めしや)がつて下さいよ。其方が淋(さむ)しくなくつて好(い)いから」 

 先生の宅は夫婦と下女だけであつた。行(い)くたびに大抵はひそりとしてゐた。高い笑ひ聲などの聞こえ試は丸(まる)るでなかつた。或時は宅の中にゐるものは先生と私だけのやうな氣がした。 

 「子供でもあると好いんですがね」と奧さんは私の方を向いて云つた。私は「左右ですな」と答へた。然し私の心には何の同情も起らなかつた。子供を持つた事のない其時の私は、子供をたゞ蒼蠅(うるさ)いものゝ樣に考へてゐた。

 「一人貰つて遣らうか」と先生が云つた。 

 「貰ッ子ぢや、ねえあなた」と奧さんは又私の方を向いた。 

 「子供は何時迄經つたつて出來つこないよ」と先生が云つた。

 奧さんは默つてゐた。「何故です」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」と云つて高く笑つた。

[♡やぶちゃんの摑み:

 ♡「幸にして先生の豫言は實現されずに濟んだ」前章注でも言ったが、この謂いは深い。既に先生が亡くなっている事実を知っている読者は、もし、先生が死なずに今も生きていたなら、可能性として予言通り、「私」は先生から遠ざかっているかも知れないことをも示唆するからである。

♡「私は殆んど交際らしい交際を女に結んだ事がなかつた」ここから、この時の「私」が童貞であることが決定的となる。「私」は女を買ったこともないと私は考える。

♡「是は奧さんに特色がないと云ふよりも、特色を示す機會が來なかつたのだと解釋する方が正當かも知れない。然し私はいつでも先生に附屬した一部分の樣な心持で奧さんに對してゐた。奧さんも自分の夫の所へ來る書生だからといふ好意で、私を遇してゐたらしい。だから中間に立つ先生を取り除ければ、つまり二人はばら/\になつてゐた。それで始めて知り合になつた時の奧さんに就いては、たゞ美くしいといふ外に何の感じも殘つてゐない。」秦恒平のおぞまし靜=学生結婚説は、この部分の叙述を素直に解析するだけでも誤りであることが分かる、自分の妻とした女性――かつて恋愛感情を抱く以前の存在――に対して、このような叙述をすることは、私には――少なくとも私には――絶対に考えられないことである。本作全体を無心に読んで、この「私」が将来、この「奥さん」と結婚すると考える奴は、僕にはとんでもねぇ、すっとこどっこいとしか思えない。その証拠? 簡単だよ! 過去13回私は「こゝろ」の感想や小論文を書かせて来たが、誰一人として自律的に靜と「私」が結婚するという結論に到った者はなかったと記憶する(秦説を知って――私は十数年程前から授業で紹介はするようになった――それを引用、それもある、ありかも知れないとする数人――それも1,800人近い生徒の内、数人に満たないのである。更にそれ以前にはそういう見解を示す生徒は皆無であったということを断言する)。如何にそのおぞましい考え方が現実に「あり得ない」ものであるかを――高校生の自由恋愛の自由発想なら、もっと確率的に出たって不思議じゃないのに――この数字が如実に示している。

「其方が淋しくなくつて好いから」靜は先生との夫婦生活に現在、強い「淋しさ」を感じていることを、ここにはっきりと表明した。この「淋しさ」の『謂い』は尋常陳腐なものではないことに気付くべし! 何故、靜は淋しいのかに!

♡「子供を持つた事のない其時の私は、子供をたゞ蒼蠅いものゝ樣に考へてゐた」一部の研究者は、これを英文小説の回想体小説に見られがちな表現法に過ぎず、ここから筆者の「私」が現在子供を持っているという事実を引き出すのは性急であるとする(若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」等)が、如何か? 素直に読むなら、この記載時に「私」は既に子供の親となっている、と少なくとも私は読むし、そう読むのが自然であると考える。それを阻む要素は何もない、と考える。「私」は結婚している。そして、子供がいるのだ。但し、その結婚相手は決して絶対金輪際、「靜」では、ない!

♡「天罰だからさ」痛恨の一打である。私は若き日、最初に「こゝろ」を読んだ際、このシークエンス、この台詞で、例外的に、この愛する先生に対して激しい生理的嫌悪を感じたことを告白しておく。]

 

 

  先生の遺書

      (九)

 私の知る限り先生と奧さんとは、仲の好い夫婦の一對(つゐ)であつた。家庭の一員として暮らした事のない私のことだから、深い消息は無論解らなかつたけれども、座敷で私と對坐してゐる時、先生は何かの序に、下女を呼ばないで、奧さんを呼ぶ事があつた。(奧さんの名は靜(しづ)といつた)先生は「おい靜」と何時でも襖の方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て來る奧さんの樣子も甚だ素直であつた。ときたま御馳走になつて、奧さんが席へ現はれる塲合抔には、此關係が一層明らかに二人の間に描き出される樣であつた。

 先生は時々奧さんを伴れて、音樂會だの芝居だのに行つた。夫から夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二三度以上あつた。私は箱根から貰つた繪端書をまだ持つてゐる。日光へ行つた時は紅葉(もみぢ)の葉を一枚封じ込めた郵便も貰つた。

 當時の私の眼に映つた先生と奧さんの間柄はまづ斯んなものであつた。そのうちにたつた一つの例外があつた。ある日私が何時もの通り、先生の玄關から案内を賴まうとすると、座敷の方で誰かの話し聲がした。能く聞くと、それが尋常の談話ではなくつて、どうも言逆(いさか)ひらしかつた。先生の宅は玄關の次がすぐ座敷になつてゐるので、格子の前に立つてゐた私の耳に其言逆ひの調子丈は略(ほゞ)分つた。さうして其うちの一人が先生だといふ事も、時々高まつて來る男の方の聲で解つた。相手は先生よりも低い音(おん)なので、誰だか判然しなかつたが、何うも奧さんらしく感ぜられた 泣いてゐる樣でもあつた。私はどうしたものだらうと思つて玄關先で迷つたが、すぐ決心をして其儘下宿へ歸つた。

 妙に不安な心持が私を襲つて來た。私は書物を讀んでも呑み込む能力を失つて仕舞つた。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ來て私の名を呼んだ。私は驚ろいて窓を開けた。先生は散步しやうと云つて、下から私を誘つた。先刻(さつき)帶の間へ包(くる)んだ儘の時計を出して見ると、もう八時過であつた。私は歸つたなりまだ袴を着けてゐた。私は夫なりすぐ表へ出た。

 其晩私は先生と一所に麥酒(ビール)を飮んだ。先生は元來酒量に乏しい人であつた。ある程度迄飮んで、それで醉(ゑ)へなければ、醉ふ迄飮んで見るといふ冒險の出來ない人であつた。

 「今日は駄目です」と云つて先生は苦笑(くるせう)した。

 「愉快になれませんか」と私は氣の毒さうに聞いた。

 私の腹の中(なか)には始終先刻(さつき)の事が引つ懸つてゐた。肴(さかな)の骨が咽喉(のど)に刺さつた時の樣に、私は苦しんだ。打ち明けて見やうかと考へたり、止した方が好からうかと思ひ直したりする動搖が、妙に私の樣子をそは/\させた。

 「君、今夜は何うかしてゐますね」と先生の方から云ひ出した。「實は私も少し變なのですよ。君に分りますか」

 私は何の答もし得なかつた。

 「實は先刻(さつき)妻(さい)と少し喧嘩をしてね。それで下らない神經を昂奮させて仕舞つたんです」と先生が又云つた。

 「何うして‥‥」

 私には喧嘩といふ言葉が口へ出て來なかつた。

 「妻が私を誤解するのです。それを誤解だと云つて聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」

 「何んなに先生を誤解なさるんですか」

 先生は私の此問に答へやうとはしなかつた。

 「妻が考へてゐるやうな人間なら、私だつて斯んなに苦しんでゐやしない」

 先生が何んなに苦しんでゐるか、是も私には想像の及ばない問題であつた。

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「奧さんの名は靜(しづ)といつた」奥さんの本名「靜」の初出である。本作には乃木大将の他には「私」の母の「光」及び父の知人「作さん」(名と思われる)、「私」の妹の夫「關さん」(姓と思われる)以外には固有人名が全くと言うほど出現しない。さればこそこの「靜」という名は意味深長である。御存知の通り、この作品にはもう一人の「靜」がひっそりと一瞬間だけ写真で登場する。乃木希典夫人「靜子」である。鹿児島藩医湯地定之・貞子夫妻の四女(七人兄弟姉妹の末っ子)として生まれ、数え年20歳で10歳年上の乃木と結婚した。4人の子を儲けたが下の二人は生後間もなく夭折、長男勝典は明治37年5月27日の日露戦争金州南山戦で腸を貫通する重傷を受けて戦死、同1130日には希典自身が第3軍司令官を務めていた203高地戦で次男保典が砲弾の着弾の煽りを受けて滑落、頭部粉砕により即死した。靜子は希典と共に自死、享年54(満52)歳であった。乃木は当初靜を自死の道連れにするつもりはなかったが(遺書の記述による)、靜自身がお供する強い意志を示したため許諾、乃木の自死後即座に並座、短刀で左胸部を二度突いて自刃を遂げた。漱石が先生の奥さんに「靜」という名を特異的に付けたことと、乃木の妻の本名が「靜」であることは、漱石の確信犯的行為である。その命名のからくりを解き明かすだけでも、本作は一筋繩では行かないのである。

♡「約一時間ばかりすると先生が窓の下へ來て私の名を呼んだ」先生の家と「私」の下宿は決して離れていないこと(シークエンスから先生が宅を出たのは「私」の訪問の直後とは思われない。先生が「私」に逢おうと即座に思ったとも思われず、苛立ちの中で足早に歩いたとしても、先生の宅と「私」の下宿の距離は徒歩で最長45分程度から30分程度、2㎞前後を想定し得る)が、これによって明らかになる。

♡「妻が考へてゐるやうな人間」は(十七)で靜から「私」に直接明らかにされる。有体に言えば厭世主義者、単なるペシミストである。]

 

 

  先生の遺書

      (十)

 二人が歸るとき步きながらの沈默が一丁も二丁もつゞいた。其後で突然先生が口を利き出した。

 「惡い事をした。怒(おこ)つて出たから妻は嘸(さぞ)心配をしてゐるだらう。考へると女は可哀さうなものですね。私の妻などは私より外に丸で賴りにするものがないんだから」

 先生の言葉は一寸其處で途切れたが、別に私の返事を期待する樣子もなく、すぐ其續きへ移つて行つた。

 「さう云ふと、夫(おつと)の方は如何にも心丈夫の樣で少し滑稽だが。君、私は君の眼に何う映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」

 「中位(ちうぐらい)に見えます」と私は答へた。此答は先生に取つて少し案外らしかつた。先生は又口を閉ぢて、無言で步き出した。

 先生の宅へ歸るには私の下宿のつい傍(そば)を通るのが順路であつた。私は其處迄來て、曲り角で分れるのが先生に濟まない樣な氣がした。「序に御宅の前まで御伴しませうか」と云つた。先生は忽ち手で私を遮ぎつた。

 「もう遲いから早く歸り玉へ。私も歸つて遣るんだから、妻君の爲に」

 先生が最後に付け加へた「妻君の爲に」といふ言葉は妙に其時の私の心を暖かにした。私は其言葉のために、歸つてから安心して寢る事が出來た。私は其後(そのご)も長い間此「妻君の爲に」といふ言葉を忘れなかつた。

 先生と奧さんの間に起つた波瀾が、大したものでない事は是でも解つた。それが又滅多に起る現象でなかつた事も、其後(そのご)絶えず出入をして來た私には略(ほぼ)推察が出來た。それ所か先生はある時斯んな感想すら私に洩らした。

 「私は世の中で女といふものをたつた一人しか知らない。妻以外の女は殆んど女として私に訴へないのです。妻の方でも、私を天下にたゞ一人しかない男と思つて呉れてゐます。さういふ意味から云つて、私には最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」

 私は今前後の行き掛りを忘れて仕舞たから、先生が何の爲に斯んな自白を私に爲(し)て聞かせたのか、判然(はつきり)云ふ事が出來ない。けれども先生の態度の眞面目であつたのと、調子の沈んでゐたのとは、今だに記憶に殘つてゐる。其時たゞ私の耳に異樣に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」といふ最後の一句であつた。先生は何故幸福な人間と云ひ切らないで、あるべき筈であると斷わつたのか。私にはそれ丈が不審であつた。ことに其處へ一種の力を入れた先生の語氣が不審であつた。先生は事實果して幸福なのだらうか、又幸福であるべき筈でありながら、それ程幸福でないのだらうか。私は心の中(うち)で疑ぐらざるを得なかつた。けれども其疑ひは一時(じ)限り何處かへ葬むられて仕舞つた。

 私は其うち先生の留守に行つて、奧さんと二人差向ひで話をする機會に出合つた。先生は其日橫濱を出帆する汽船に乘つて外國へ行くべき友人を新橋へ送りに行つて留守であつた。橫濱から船に乘る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのは其頃の習慣であつた。私はある書物に就いて先生に話して貰ふ必要があつたので、豫(あらか)じめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行(ゆき)は前日わざ/\告別に來た友人に對する禮義として其日突然起つた出來事であつた。先生はすぐ歸るから留守でも私に待つてゐるやうにと云ひ殘して行つた。それで私は座敷へ上(あが)つて、先生を待つ間、奧さんと話をした。

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「私には最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」ここは単行本では「私達(わたくしたち)は最も幸福に生れた人間の一對であるべき筈です」と書き直される。この初出の「私には」という条件文は、より明白な自己本位の側に立った表明になっている点で、極めて興味深い。「こゝろ」「五十一」の卒業・結婚後半年弱後(Kの死後約半年後に相当)に先生は「御嬢さん如何にも幸福らしく見えました。私も幸福だつたのです」と述べている(しかし「此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではではなからうかと思ひました」とも述べるのであるが)。]

 

 

  先生の遺書

      (十一)

 其時の私は既に大學生であつた。始めて先生の宅へ來た頃から見るとずつと成人した氣でゐた。奧さんとも大分懇意になつた後(のち)であつた。私は奧さんに對して何の窮屈も感じなかつた。差向ひで色々の話をした。然しそれは特色のない唯の談話だから、今では丸で忘れて仕舞つた。そのうちでたつた一つ私の耳に留まつたものがある。然しそれを話す前に、一寸斷つて置きたい事がある。

 先生は大學出身であつた。是は始めから私に知れてゐた。然し先生の何もしないで遊んでゐるといふ事は、東京へ歸つて少し經つてから始めて分つた。私は其時何うして遊んでゐられるのかと思つた。

 先生は丸で世間に名前を知られてゐない人であつた。だから先生の學問や思想に就ては、先生と密接の關係を有つてゐる私より外に敬意を拂ふものゝあるべき筈がなかつた。それを私は常に惜い事だと云つた。先生は又「私のやうなものが世の中へ出て、口を利いては濟まない」と答へるぎりで、取合はなかつた。私には其答が謙遜過ぎて却つて世間を冷評する樣にも聞こえた。實際先生は時々昔の同級生で今著名になつてゐる誰彼(たれかれ)を捉へて、ひどく無遠慮な批評を加へる事があつた。それで私は露骨に其矛盾を擧げて云々して見た。私の精神は反抗の意味といふよりも、世間が先生を知らないで平氣でゐるのが殘念だつたからである。其時先生は沈んだ調子で、「何うしても私は世間に向つて働らき掛ける資格のない男だから仕方がありません」と云つた。先生の顏には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解らなかつたけれども、何しろ二の句の繼げない程に強いものだつたので、私はそれぎり何もいふ勇氣が出なかつた。

 私が奧さんと話してゐる間に、問題が自然先生の事から其處へ落ちて來た。

 「先生は何故あゝやつて、宅で考へたり勉強したりなさる丈で、世の中へ出て仕事をなさらないんでせう」

 「あの人は駄目ですよ。さういふ事が嫌ひなんですから」

 「つまり下らない事だと悟つてゐらつしやるんでせうか」

 「悟るの悟らないのつて、―そりや女だからわたくしには解りませんけれど、恐らくそんな意味ぢやないでせう。矢つ張(ぱ)り何か遣りたいのでせう。それでゐて出來ないんです。だから氣の毒ですわ」

 「然し先生は健康からいつて、別に何處も惡い所はない樣ぢやありませんか」

 「丈夫ですとも。何にも持病はありません」

 「それで何故活動が出來ないんでせう」

 「それが解らないのよ、あなた。それが解る位なら私だつて、こんなに心配しやしません。わからないから氣の毒でたまらないんです」

 奧さんの語氣には非常に同情があつた。それでも口元丈には微笑が見えた。外側から云へば、私の方が寧ろ眞面目だつた。私は六づかしい顏をして默つてゐた。すると奧さんが急に思ひ出した樣に又口を開いた。

 「若い時はあんな人ぢやなかつたんですよ。若い時は丸で違つてゐました。それが全く變つて仕舞つたんです」

 「若い時つて何時頃ですか」と私が聞いた。

 「書生時代よ」

 「書生時代から先生を知つてゐらつしやつたんですか」

 奧さんは急に薄赤い顏をした。

やぶちゃんの摑み:先生は高等遊民であることが明らかにされる。

「其時の私は既に大學生であつた」今までの「摑み」で示したように、「私」は高等學校2年の時、先生に出会った。そうして、明治421909)年20歳の年、7月に第一高等學校卒業。9月に東京帝國大學に入学したと推定するものである。

♡「先生の何もしないで遊んでゐるといふ事」相応な財産を銀行に預け、その金利で生活しているということ(通常なら高い確率で家作や地代も含まれるものだが、先生は土地は持っておらず――先生の宅の土地は借地であることは(三十五)で語られる――貸家を経営しているとも思われない)。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」でここに関連して「こゝろ」「上」の二十七の「先生が何うして遊んでゐられるか」の注に、明治441911)年8月の雑誌『新公論』に掲載された手島四郎「東京市民を職業別に見た結果」という記事に、『「東京市内で一万人以上を有せる職業」は農業や官公吏員、軍人軍属を始めとして四四あり、そのなかで五万人以上を有する職業は、大工職(五万二四三人)、官公吏員(六万九九七二人)、日雇業(五万七八七六人)、そして財産及恩給等に依る者(五万九四九九人)の四種しかなかった。これとは別に、土地家屋の収益に依る者も三万五四六〇人もおり、一見何もしないで暮らしていた層は意外に多かったことがこれでわかる』とある。単純にこの二つを合わせるのは実数にはなるまいが、少なくとも高等遊民に見える人の数は有に5~6万人以上はいたことになる。因みに大正元(1912)年で東京都の人口は約200万人であるから、意外なことに、こうした「人種」は決して稀であったとは言えない、のである。

「然しそれを話す前に、一寸斷つて置きたい事がある」これ以下の部分、私は漱石の文章があまりうまくいっていない印象を受けるところである。「一寸斷つて置きたい事」は、次の二段落分総てであるのだが、まず、これがやや焦って先生のプロフィルを言うだけ言ってしまおうといった感じに読めるのである。情報が解説的で詰め込み過ぎである。更に、その末尾は「何しろ二の句の繼げない程に強いものだつたので、私はそれぎり何もいふ勇氣が出なかつた。」で断ち切れているのであるが、ここは『「何しろ二の句の繼げない程に強いものだつたので、私はそれぎり何もいふ勇氣が出なかつた」という経験がかつてあつたのである。』ぐらいにならないと、この冒頭に呼応しないし、奥さんとの会話へのジョイントとしてもサイズが合わないように思われるのである。

「大學出身」東京帝国大学卒であることを示す。明治の後期には京都・東北・九州の各帝国大学が創立されていたが、単に「大学出身」と言えば、東京帝国大学卒の謂いとして通用していた。]

 

 

  先生の遺書

      (十二)

 奧さんは東京の人であつた。それは曾て先生からも奧さん自身からも聞いて知つてゐた。奧さんは「本當いふと合の子なんですよ」と云つた。奧さんの父親はたしか鳥取か何處かの出であるのに、御母さんの方はまだ江戸といつた時分の市ケ谷で生れた女なので、奧さんは冗談半分さう云つたのである。所が先生は全く方角違ひの新潟縣人であつた。だから奧さんがもし先生の書生時代を知つてゐるとすれば、郷里の關係からでない事は明(あきら)かであつた。然し薄赤い顏をした奧さんはそれより以上の話をしたくない樣だつたので、私の方でも深くは聞かずに置いた。

 先生と知合になつてから先生の亡くなる迄に、私は隨分色々の問題で先生の思想や情操に觸れて見たが、結婚當時の狀況に就いては、殆んど何ものも聞き得なかつた。私は時によると、それを善意に解釋しても見た。年輩の先生の事だから、艶(なま)めかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと愼(つつし)しんでゐるのだらうと思つた。時によると、又それを惡くも取つた。先生に限らず、奧さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人した爲めに、さういふ艶(つや)つぽい問題になると、正直に自分を開放する丈の勇氣がないのだらうと考へた。尤も何方(どちら)も推測に過ぎなかつた。さうして何方の推測の裏にも、二人の結婚の奧に橫たはる花やかなロマンスの存在を假定してゐた。

 私の假定は果して誤らなかつた。けれども私はたゞ戀の半面丈を想像に描(えが)き得たに過ぎなかつた。先生は美くしい戀愛の裏(うち)に、恐ろしい悲劇を持つてゐた。さうして其悲劇の何んなに先生に取つて見慘(みじめ)なものであるかは相手の奧さんに丸で知れてゐなかつた。奧さんは今でもそれを知らずにゐる。先生はそれを奧さんに隱して死んだ。先生は奧さんの幸福を破壞する前に、先づ自分の生命を破壞して仕舞つた。

 私は今此悲劇に就いて何事も語らない。其悲劇のために寧ろ生れ出たともいへる二人の戀愛に就いては、先刻云つた通りであつた。二人とも私には殆んど何も話して呉れなかつた。奧さんは愼みのために、先生は又それ以上の深い理由のために。

 たゞ一つ私の記憶に殘つてゐる事がある。或時花時分に私は先生と一所に上野へ行つた。さうして其處で美くしい一對の男女を見た。彼等は睦まじさうに寄添つて花の下を步いてゐた。塲所が塲所なので、花よりも其方(そちら)を向いて眼を峙(そば)だてゝゐる人が澤山あつた。

 「新婚の夫婦のやうだね」と先生が云つた。

 「仲が好ささうですね」と私が答へた。

 先生は苦笑さへしなかつた。二人の男女(なんによ)を視線の外(ほか)に置くやうな方角へ足を向けた。それから私に斯う聞いた。

 「君は戀をした事がありますか」

 私はないと答へた。

 「戀をしたくはありませんか」

 私は答へなかつた。

 「したくない事はないでせう」

 「えゝ」

 「君は今あの男と女を見て、冷評(ひやか)しましたね。あの冷評のうちには君が戀を求めながら相手を得られないといふ不快の聲が交つてゐませう」

 『そんな風に聞こえましたか」

 「聞こえました。戀の滿足を味はつてゐる人はもつと暖かい聲を出すものです。然し‥‥然し君、戀は罪惡ですよ。解つてゐますか」

 私は急に驚ろかされた。何とも返事をしなかつた。

 

やぶちゃんの摑み:先生が最早いないこと、自殺したことが初めて明らかにされると同時に、以下次の回まで、印象的な上野の花見時のシークエンスとなる。そこでは先生の不可解な論理(恋愛観)が突如、炸裂する。先生は「靜」の「黑い長い髮で縛られた時の心持」即ち「恋の滿足」を知っている――が、その「戀」の誘惑とエクスタシー、いや「戀」そのものが既にして「罪惡」なのだと「私」に警告する――そしてその会話に突如として投げ込まれた、唐突にして奇体な「君は私が何故毎月雜司ケ谷の墓地に埋つてゐる友人の墓へ參るのか知つてゐますか」(十三)という、「私」には全く解答不能不可解場違いな質問――フラッシュのように強烈な伏線が縦横に走るこの異様な画面は、一読、忘れ難い。そのホリゾントには……あの桜の花が散りばめられるのだ……。なお、画像で示した通り、この回で冒頭の表題「心」の装飾的背景画が変わっている。上の通り、この回には最後に飾罫がない。

「先生と知合になつてから先生の亡くなる迄」私の年譜的研究では、それは実にたった4年間でしかなかったのである(当時の大学就学期間は3年間であった)。

「奧さんは今でもそれを知らずにゐる。先生はそれを奧さんに隱して死んだ」これは飽くまで現在形である。靜(以下、特別な場合を除き、「靜」という括弧書きは省略する)は現在も知らないのである。そうして、靜は今後も知らずに生き、そして死ぬ、と私は確信している。「私」が先生の遺書の最後の禁則を破って先生の過去の事実を靜に告白することは、私には100%あり得ないこととして認識されている。これは絶対に譲れぬ私の覚悟を持った『節』である――そうでないことが立証できるなら私は永遠にこの作品を捨てる覚悟があるということである――。況や、『この手記を以って世間に公表、それによって同時に靜にも告知がなされることになる』なんどという解釈は、秦恒平の靜と「私」を結婚させるというのと同じく(これは性質が似ているだけでなく、その意識構造に於いても同一の腐った根っこを持っている)、とんでもなくえげつなく気持ちの悪い考え方である。それは「心」の心性総てを否定することに他ならない。最近流行りのそれこそ我儘やりたい放題の「自由と獨立と己れとに充ちた現代に生れた」テクスト論に遊び過ぎた軽薄者の戯言である。――そして残念なことに、それが今の「こゝろ」研究を触れなば爛れんおぞましき瘴気に満たしているのである――。

♡「先生は奧さんの幸福を破壞する前に、先づ自分の生命を破壞して仕舞つた」先生の自死が初めてここに明示される。

「或時花時分に私は先生と一所に上野へ行つた」桜の満開(若しくは八分咲きの頃)の上野の映像を想起せよ。ここに私は後年の梶井基次郎の作品から『一體どんな樹の花でも、所謂眞つ盛りといふ狀態に達すると、あたりの空氣のなかへ一種神祕な雰圍氣を撒き散らすものだ。それは、よく𢌞つた獨樂が完全な靜止に澄むやうに、また、音樂の上手な演奏がきまつてなにかの幻覺を伴ふやうに、灼熱した生殖の幻覺させる後光のやうなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。』(梶井基次郎「櫻の樹の下には」より)を私の注の代わりとして、引用しておきたい。]

 

 

  先生の遺書

      (十三)

 我々は群集の中にゐた。群集はいづれも嬉しさうな顏をしてゐた。其處を通り拔けて、花も人も見えない森の中へ來る迄は、同じ問題を口にする機會がなかつた。

 「戀は罪惡ですか」と私が其時突然聞いた。

 「罪惡です。たしかに」と答へた時の先生の語氣は前と同じ樣に強かつた。

 「何故ですか」

 「何故だか今に解ります。今にぢやない、もう解つてゐる筈です。あなたの心はとつくの昔から既に戀で動いてゐるぢやありませんか」

私は一應自分の胸の中(なか)を調(しらべ)て見た。けれども其處は案外に空虚であつた。思ひ中(あた)る樣なものは何にもなかつた。

 「私(わたくし)の胸の中(なか)に是といふ目的物は一つもありません。私(わたくし)は先生に何も隱してはゐない積です」

 「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだらうと思つて動きたくなるのです」

 「今それ程動いちやゐません」

 「あなたは物足りない結果私の所に動いて來たぢやありませんか」

 「それは左右かも知れません。然しそれは戀とは違ひます」

 「戀に上る階段なんです。異性と抱き合ふ順序として、まづ同性の私の所へ動いて來たのです」

 「私には二つのものが全く性質を異にしてゐるやうに思はれます」

 「いや同じです。私は男として何うしてもあなたに滿足を與へられない人間なのです。それから、ある特別の事情があつて、猶更あなたに滿足を與へられないでゐるのです。私は實際御氣の毒に思つてゐます。あなたが私から餘所へ動いて行(い)くのは仕方がない。私は寧ろそれを希望してゐるのです。然し‥‥」

 私は變に悲しくなつた。

 「私(わたくし)は先生から離れて行くやうに御思ひになれば仕方がありませんが、私(わたくし)にそんな氣の起つた事はまだありません」

 先生は私の言葉に耳を貸さなかつた。

 「然し氣を付けないと不可ない。戀は罪惡なんだから。私の所では滿足が得られない代りに危險もないが、―君、黑い長い髮で縛られた時の心持を知つてゐますか」

 私は想像で知つてゐた。然し事實としては知らなかつた。いづれにしても先生のいふ罪惡といふ意味は朦朧としてよく解らなかつた。其上私は少し不愉快になつた。

 「先生、罪惡といふ意味をもつと判然(はつきり)云つて聞かして下さい。それでなければ此問題を此處で切り上げて下さい。私(わたくし)自身に罪惡といふ意味が判然解る迄」

 「惡い事をした。私はあなたに眞實(まこと)を話してゐる氣でゐた。所が實際は、あなたを焦慮(じら)してゐたのだ。私は惡い事をした」

 先生と私とは博物館の裏から鶯溪(うぐゐすだに)の方角に靜かな步調で步いて行つた。垣(かき)の隙間から廣い庭の一部に茂る熊笹が幽邃(いうすゐ)に見えた。

 「君は私が何故毎月雜司ケ谷の墓地に埋つてゐる友人の墓へ參るのか知つてゐますか」

 先生の此問は全く突然であつた。しかも先生は私が此問に對して答へられないといふ事も能く承知してゐた。私はしばらく返事をしなかつた。すると先生は始めて氣が付いたやうに斯う云つた。

 「又惡い事を云つた。焦慮せるのが惡いと思つて、説明しやうとすると、其説明が又あなたを焦慮せるやうな結果になる。何うも仕方がない。此問題はこれで止めませう。とにかく戀は罪惡ですよ、よござんすか。さうして神聖なものですよ」

 私には先生の話が益(ます/\)解らなくなつた。然し先生はそれぎり戀を口にしなかつた。

やぶちゃんの摑み:

「私(わたくし)の胸の中に是といふ目的物は一つもありません。私(わたくし)は先生に何も隱してはゐない積です」ここで「心」の冒頭から初めて「私(わたくし)」という読みが現われる。これは本章の「私」の台詞のみに限定して用いられており、意識的な確信犯的使用である(読みを振らなかった地の文や先生の台詞の中の「私」は「わたし」なのである)。なおかつ、これはこの章だけに限定的に見られる極めて特異な現象である。

「戀に上る階段なんです。異性と抱き合ふ順序として、まづ同性の私の所へ動いて來たのです」私は22歳の時に読んだ昭和291954)年新潮社刊の福永武彦「草の花」に現われる『春日さん』の台詞 で、“asexuel”→“bisexual”→“homosexuel”で『そうして大人になるんだ』という下りを、まるで「心」のこの部分の注釈であるかのように――少なくとも僕にとって素直に目から鱗と感じられたのを――今も、鮮やかに思い出す――。

「君、黑い長い髮で縛られた時の心持を知つてゐますか」ここで男の「私」に対して、「氣を付けないと不可ない」と言い、「戀は罪惡」と断定、「私の所では滿足が得られない代りに危險もない」と保障した上で、「私」が女を知らないことなど分かりきっている癖に、敢えて「君、黑い長い髮で縛られた時の心持を知つてゐますか」と駄目押しの禁忌を提示するのである。更にこの文脈では、「罪惡」としての「戀」は女によって発動され、ある種の「滿足」を与えてはくれるものの、「氣を付け」ねばならぬ極めて「危險」な「罪惡」なのであると言うのだ。「黑い長い髮」は能動的に蛇のように男を雁字搦めにし、男は「縛られ」るがままに「罪惡」へと陥る――私には、ここには「女」を、男を諸悪の根源へと能動的に誘い込もうとする存在である、というような偏頗なる蔑視思想(しかしそれは「パイドロス」の昔から語られてきた伝統的な根強いものではある)が垣間見えるように思われる。また、ここに漱石の女性観の限界が露呈しているとも私は読むものである。

「私は男として何うしてもあなたに滿足を與へられない人間なのです。それから、ある特別の事情があつて、猶更あなたに滿足を與へられないでゐるのです。私は實際御氣の毒に思つてゐます。あなたが私から餘所へ動いて行くのは仕方がない。私は寧ろそれを希望してゐるのです。然し‥‥」この4点リーダー部分を仮想して見よ。このアンビバレントな心性に着目せよ。先生は『本來の私自身が、大して「あなたに滿足を與へられない」性質(たち)の「人間なので」す。しかし、それに加えて「ある特別の事情があつて、猶更あなたに滿足を與へられないでゐる」――本當は何とかして少しでも滿足を與へて上げ度いが――「與へられないでゐるのです。私は實際」、さうしたディレンマを抱へ乍ら、片やあなたに「御氣の毒に思つてゐます。」その結果として「あなたが私から餘所へ動いて行くのは仕方がない。」いや、「私は寧ろ」あなたに滿足を與へられぬのなら、いつそ「あなたが私から餘所へ動いて行く」のを「希望してゐる」と己れに信じ込ませたいとさへ思ふ「のです。然し‥‥」に続く、先生の震える心性の復元作業が、「心」を読み解く上で必須である。しかしここに限らず、先生の「‥‥」の復元は極めて難関である。容易に我々に解答を与えてくれない。その作業過程だけでも、恐らく長大な論文が一本書ける。

「幽邃」景色や絵が奥深く、物静かなさま。

「戀は罪惡ですよ、よござんすか。さうして神聖なものですよ」このパラドクス、アンビバレントな思想にこそ先生が引き裂かれたものが垣間見える。いや、このような――恣意的な恋愛の弁別と乖離――こそが先生を『生き地獄』へ導いたのだとも言えるのではあるまいか?]

 

 

  先生の遺書

      (十四)

 年の若い私は稍(やゝ)ともすると一圖になり易かつた。少なくとも先生の眼にはさう映つてゐたらしい。私には學校の講義よりも先生の談話(たんわ)の方が有益なのであつた。教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであつた。とゞの詰りをいへば、教壇に立つて私を指導して呉れる偉い人々よりも只獨りを守つて多くを語らない先生の方が偉く見えたのであつた。

 「あんまり逆上(のぼせ)ちや不可(いけ)ません」と先生がいつた。

 「覺めた結果として左右思ふんです」と答へた時の私には充分の自信があつた。其自信を先生は肯(うけ)がつて呉れなかつた。

 「あなたは熱に浮かされてゐるのです。熱がさめると厭になります。私は今のあなたから夫程に思はれるのを、苦しく感じてゐます。然し是から先の貴方に起るべき變化を豫想して見ると、猶苦しくなります」

 「私はそれ程輕薄に思はれてゐるんですか。それ程不信用なんですか」

 「私は御氣の毒に思ふのです」

 「氣の毒だが信用されないと仰しやるんですか」

 先生は迷惑さうに庭の方を向いた。其庭に、此間迄重さうな赤い強い色をぽた/\點じてゐた椿の花はもう一つも見えなかつた。先生は座敷から此椿の花をよく眺める癖があつた。

「信用しないつて、特にあなたを信用しないんぢやない。人間全體を信用しないんです」

 其時生垣の向ふで金魚賣らしい聲がした。其外には何の聞こえるものもなかつた。大通りから二丁も深く折れ込んだ小路(こうぢ)は存外靜かであつた。家(うち)の中(なか)は何時もの通りひつそりしてゐた。私は次の間に奧さんのゐる事を知つてゐた。默つて針仕事か何かしてゐる奧さんの耳に私の話し聲が聞こえるといふ事も知つてゐた。然し私は全くそれを忘れて仕舞つた。

 「ぢや奧さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。

 先生は少し不安な顏をした。さうして直接の答を避けた。

 「私は私自身さへ信用してゐないのです。つまり自分で自分が信用出來ないから、人も信用できないやうになつてゐるのです。自分を呪ふより外に仕方がないのです」

 「さう六づかしく考へれば、誰だつて確かなものはないでせう」

 「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚ろいたんです。さうして非常に怖くなつたんです」

 私はもう少し先迄同じ道を辿つて行きたかつた。すると襖の陰で「あなた、あなた」といふ奧さんの聲が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といつた。奧さんは「一寸」と先生を次の間へ呼んだ。二人の間に何んな用事が起つたのか、私には解らなかつた。それを想像する餘裕を與へない程早く先生は又座敷へ歸つて來た。

 「兎に角あまり私を信用しては不可ませんよ。今に後悔するから。さうして自分が欺むかれた返報に、殘酷な復讐をするやうになるものだから」

 「そりや何ういふ意味ですか」

 「かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未來の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未來の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己(おの)れとに充ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此(この)淋(さび)しみを味はわなくてはならないでせう」

 私はかういふ覺悟を有つてゐる先生に對して、云ふべき言葉を知らなかつた。

 

やぶちゃんの摑み:僕はこのシークエンスが大好きだ。何より僕にはこの「金魚~~~ぇ、金魚~~~……」という声が聴こえてくる……上の通り、この回には最後に飾罫がない。

「あんまり逆上ちや不可ません」この「逆上(のぼせ)る」という動詞は「夢中になる」「入れ込む」「過度に信頼する」といった意味で用いている。面白いのは通常、これは例えば『女にのぼせる』等の恋に夢中になる際にしばしば用いる形容である。

「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚ろいたんです。さうして非常に怖くなつたんです」先生の黒い光が強烈に一閃するシーンである。朗読が最も難しいところ。抑圧的な陰鬱なる昂奮が肝心。

「すると襖の陰で「あなた、あなた」といふ奧さんの聲が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といつた。奧さんは「一寸」と先生を次の間へ呼んだ。二人の間に何んな用事が起つたのか、私には解らなかつた。それを想像する餘裕を與へない程早く先生は又座敷へ歸つて來た」ここで靜は何を言ったのか。勿論、それはこの先生と「私」の談話内容に関わるものではなかったろう。例えば――今夜は「私」も御一緒に御夕食をなさってはいかが? お肉にしましょうか? お魚?――といった生活的な些事であろう。しかし、靜がここの二人の会話に水を差したのは確信犯である。靜は先生の「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚ろいたんです。さうして非常に怖くなつたんです」という尋常ならざる言葉と語気を耳にして、女の直感として、先生の心理状態の危さを感じたのだ。このままでは話は尋常ならざる雰囲気に発展するということを、普段の先生の性質から本能的に感じ取った。だからこそ、敢えてこの絶妙なところに水を差した、差せたのである。靜を甘く見てはいけない。

「かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未來の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未來の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」先生は個人的に「未來の侮辱」を生じないようにするために他者からの一切の「今の尊敬を斥け」る、今よりも「一層淋しい未來の私」を我慢するぐらいなら、「淋しい今の私を我慢」する、と言明する。しかしその個人的言説(ディスクール)は即座に普遍的概念に帰納され、「自由と獨立と己れとに充ちた現代に生れた我々」は「自由と獨立と己れ」という欲求を満たした「その犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならない」と言うのである。この「我々」及び「みんな」という語に着目せねばならない。それは先生はもとより、「私」も、そしてこの「私」が一人だけ選んだ現代の読者である「あなた」もそこに含まれるということである。しかし、そこで先生の話柄の微妙な感触を摑む必要があろう。即ち、私はそれがとんでもない地獄の「淋しみ」であることが分かっているが、あなた方(「私」と読者である「あなた」)には、それが一見、大した「淋しみ」に見えない、いや、もしかすると「淋しみ」として実感されることさえないかも知れぬ――しかし、それはあなた方を、その絶対の「淋しみ」=孤独地獄へと導く導火線なのだ、と先生は警告しているのである。「自由と獨立と己れ」に西欧近代的個人の確立・個人の自我の尊重・欲望やエゴイズムという人間性の止揚(アウフヘーベン)……といった如何にも美味そうなフルコースの満漢全席に混入された『絶対の孤独』という致死量の毒薬に気付け! と先生は言っているのである。それにしても余りにも余りなテーマの提示ではある。こんな小説作法の悪いところを芥川龍之介は学んでしまい、その初期には忠実に自作に再現してしまった。漱石が「鼻」を逍遙するのがよく分かるというものだ。読者は間違えないものの――その分、読者は教授されなければならぬ馬鹿者として扱われていることに気付かない――。]

 

 

  先生の遺書

      (十五)

 其後(そのご)私は奧さんの顏を見るたびに氣になつた。先生は奧さんに對しても始終斯ういふ態度に出るのだらうか。若しさうだとすれば、奧さんはそれで滿足なのだらうか。

 奧さんの樣子は滿足とも不滿足とも極(き)めやうがなかつた。私は夫程近く奧さんに接觸する機會がなかつたから。それから奧さんは私に會ふたびに尋常であつたから。最後に先生の居る席でなければ私と奧さんとは滅多に顏を合せなかつたから。

 私の疑惑はまだ其上にもあつた。先生の人間に對する此覺悟は何處から來るのだらうか。たゞ冷たい眼で自分を内省したり現代を觀察したりした結果なのだらうか。先生は坐つて考へる質(た)の人であつた。先生の頭さへあれば、斯ういふ態度は坐つて世の中を考へてゐても自然と出て來るものだらうか。私には左右ばかりとは思へなかつた。先生の覺悟は生きた覺悟らしかつた。火に燒けて冷却し切つた石造家屋の輪廓とは違つてゐた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であつた。けれども其思想家の纏め上(あげ)た主義の裏には、強い事實が織り込まれてゐるらしかつた。自分と切り離された他人の事實でなくつて、自分自身が痛切に味はつた事實、血が熱くなつたり脈が止まつたりする程の事實が、疊み込まれてゐるらしかつた。

 是は私の胸で推測するがものはない。先生自身既にさうだと告白してゐた。たゞ其告白が雲の峰のやうであつた。私の頭の上に正體の知れない恐ろしいものを蔽ひ被せた。さうして何故それが恐ろしいか私にも解らなかつた。告白はぼうとしてゐた。それでゐて明らかに私の神經を震はせた。

 私は先生の此人生觀の基點に、或強烈な戀愛事情を假定して見た。(無論先生と奧さんとの間に起つた)。先生がかつて戀は罪惡だといつた事から照らし合せて見ると、多少それが手掛りにもなつた。然し先生は現に奧さんを愛してゐると私に告げた。すると二人の戀から斯んな厭世に近い覺悟が出やう筈がなかつた。「かつては其人の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとする」と云つた先生の言葉は、現代一般の誰彼(たれかれ)に就いて用ひられるべきで、先生と奧さんの間には當てはまらないものゝやうでもあつた。

 雜司ケ谷にある誰だか分らない人の墓、―是も私の記憶に時々動いた。私はそれが先生と深い緣故のある墓だといふ事を知つてゐた。先生の生活に近づきつゝありながら、近づく事の出來ない私は、先生の頭の中にある生命(い ち)の斷片として、其墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども私に取つて其墓は全く死んだものであつた。二人の間にある生命(いのち)の扉を開ける鍵にはならなかつた。寧ろ二人の間に立つて、自由の往來を妨げる魔物のやうであつた。

 さう斯うしてゐるうちに、私は又奧さんと差向ひで話しをしなければならない時機が來た。その頃は日の詰つて行くせわしない秋に、誰も注意を惹かれる肌寒の季節であつた。先生の附近で盗難に罹(かゝ)つたものが二三日續いて出た。盗難はいづれも宵の口であつた。大したものを持つて行かれた家は殆んどなかつたけれども、這入られた所では必ず何か取られた。奧さんは氣味をわるくした。そこへ先生がある晩家を空けなければならない事情が出來てきた。先生と同郷の友人で地方の病院に奉職してゐるものが上京したため、先生は外の二三名と共に、ある所で其友人に飯を喰はせなければならなくなつた。先生は譯を話して、私に歸つてくる間迄の留守番を賴んだ。私はすぐ引受けた。

やぶちゃんの摑み:

「推測するがものはない」漱石の好んだ表現で、「~する必要はない」「~する価値はない」の意であるが、私は本当にこんな日本語が普通に存在したのかどうか、永いこと、疑問に思っている岩波版新全集の重松泰雄氏の注にははっきりと『近世以後の用法』とある)。漱石の「二百十日」の「ここが阿蘇なら、あした六時に起きるがものはない。もう二三日逗留して、すぐ熊本へ引き返そうぢやないか」が分かりやすい用例である。『このことは私がぐだぐだと心の内で推測なんどする必要などはない。第一、先生自身がとっくにそうだと告白していた事実であるからだ』という意味である。『先生自身がとっくにそうだと告白していた』というのは直接は先行する(十四)の「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚ろいたんです。さうして非常に怖くなつたんです」という台詞を指す。それにしてもこの「~がものはない」という言い回し、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注によれば、格助詞「が」に形式名詞「もの」が付いたものとするのであるが、私にはぴったりくる格助詞「が」の用法が見当たらないのだが。この成句、意味だけでなく、ともかく朗読し辛い。朗読では「がもの」とソリッドに発音しない限り、最早、逆接の接続助詞「が」にしか聞えないし、取れないのである。いや、これは私は正直、接続助詞ではないかと秘かに思ってさえいるのである。国語学者の方、是非とも御教授願いたい。

「私に取つて其墓は全く死んだものであつた。二人の間にある生命(いのち)の扉を開ける鍵にはならなかつた。寧ろ二人の間に立つて、自由の往來を妨げる魔物のやうであつた」このK(の墓)を「魔物」と表現するこの言葉は、当時の「私」の感想というよりも、執筆時の「私」が先生の遺書に無意識に牽引されて当時の自身の印象を語っているものと私は読む。何故なら、これは全く先生の遺書でのKに対する表現と同一だからである。即ち、あのKの切ない御嬢さんへの恋情の告白が行われた直後の描写に現われる。「つまり私には彼が一種の魔物のやうに思へたからでせう。私は永久彼に祟られたのではなからうかといふ氣さへしました」である。いや、「私」にとってKとは今この時(この執筆時)にあっても『魔物』である、という意識がどこかにあるのかも知れない。

「その頃は日の詰つて行くせわしない秋に、誰も注意を惹かれる肌寒の季節であつた。先生の附近で盗難に罹つたものが二三日續いて出た」とは突発的偶発的な盗難という記載ではない。晩秋、冬着にこと欠いている者が盗みに入るという季節的な恒常性を持った盗難であることを示しているのである。]

 

 

  先生の遺書

      (十六)

 私の行つたのはまだ灯の點くか點かない暮方であつたが、几帳面な先生はもう宅にゐなかつた。「時間に後れると惡いつて、つい今したが出掛けました」と云つた奧さんは、私を先生の書齋へ案内した。

 書齋には洋机(テーブル)と椅子の外に、澤山の書物が美くしい脊皮(せがは)を並べて、硝子越(ガラすごし)に電燈の光で照らされてゐた。奧さんは火鉢の前に敷いた座蒲團の上へ私を坐らせて、「ちつと其處いらにある本でも讀んでゐて下さい」と斷つて出て行つた。私は丁度主人の歸りを待ち受ける客のやうな氣がして濟まなかつた。私は畏こまつた儘烟草を飮んでゐた。奧さんが茶の間で何か下女に話してゐる聲が聞こえた。書齋は茶の間の緣側を突き當つて折れ曲つた角にあるので、棟(むね)の位置からいふと、座敷よりも却つて掛け離れた靜かさを領してゐた。一しきりで奧さんの話聲が已(や)むと、後はしんとした。私は泥棒を待ち受ける樣な心持で、凝としながら氣を何處かに配つた。

 三十分程すると、奧さんが又書齋の入口へ顏を出した。「おや」と云つて、輕く驚(おどろ)ろいた時の眼(め)を私に向けた。さうして客に來た人のやうに鹿爪(しかつめ)らしく控えてゐる私を可笑しさうに見た。

 「それぢや窮屈でせう」

 「いえ、窮屈ぢやありません」

 「でも退屈でせう」

 「いゝえ。泥棒が來るかと思つて緊張してゐるから退屈でもありません」

 奧さんは手に紅茶茶碗(こうちやぢやわん)を持つた儘、笑ひながら其處に立つてゐた。

 「此處は隅つこだから番をするには好くありませんね」と私が云つた。

 「ぢや失禮ですがもつと眞中(まんなか)へ出て來て頂戴(ちやうたい)。御退屈だらうと思つて、御茶を入れて持つて來たんですが、茶の間で宜しければ彼方(あちら)で上げますから」

 私は奧さんの後に尾(つい)て書齋を出た。茶の間には綺麗な長火鉢に鐵瓶が鳴つてゐた。私は其處で茶と菓子(くわこ)の御馳走になつた。奧さんは寢られないと不可(いけな)いといつて、茶碗に手を觸れなかつた。

 「先生は矢張り時々斯んな會へ御出掛になるんですか」

 「いゝえ滅多に出た事はありません。近頃は段々人の顏を見るのが嫌になるやうです」斯ういつた奧さんの樣子に、別段困つたものだといふ風も見えなかつたので、私はつい大膽になつた。

 「それぢや奧さん丈が例外なんですか」

 「いゝえ私も嫌はれてゐる一人なんです」

 「そりや嘘です」と私が云つた。「奧さん自身嘘と知りながら左右仰やるんでせう」

 「何故」

 「私に云はせると、奧さんが好きになつたから世間が嫌ひになるんですもの」

 「あなたは學問をする方(かた)丈(だけ)あつて、中々御(ご)上手ね。空つぽな理窟を使ひこなす事が。世の中が嫌になつたから、私迄も嫌になつたんだとも云はれるぢやありませんか。それと同なじ理窟で」

 「兩方とも云はれる事は云はれますが、此塲合は私の方が正しいのです」

 「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白さうに。空の盃でよくあゝ飽きずに獻酬(けんしう)が出來ると思ひますわ」

 奧さんの言葉は少し手痛(てひど)かつた。然し其言葉の耳障(みゝざはり)からいふと、決して猛烈なものではなかつた。自分に頭惱のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出す程に奧さんは現代的でなかつた。奧さんはそれよりもつと底の方に沈んだ心を大事にしてゐるらしく見えた。

やぶちゃんの摑み:私はこの留守番のシークエンスを明治441911)年「私」22歳の晩秋、十月下旬頃と推定している。

「まだ灯の點くか點かない暮方」当時は日没後に電気が一律に供給されて点灯可能となった。

「此處は隅つこ」書斎が先生の家作で隅の方に位置することを言う。以下の画像は、恐らく(実は自筆で汚く写した絵があるのだが、これを私自身が何から写したか不思議なことに記憶がないのである)先生の家を想定復元された論文片岡豊氏の「『こゝろ』の〈家〉」(1991年『立教女子学院短大紀要』22)から写したものと思われる(後架や風呂・下女部屋・台所の位置は本文からは導き出せない)先生宅の見取り図を元に、やはり私自身が描き直したものである(方位は(二十一)の書斎の日当たりの良さから私が類推した)。

一応、「1991・片岡原案 2010・藪野(改)」としておく。]

 

 

  先生の遺書

      (十七)

 私はまだ其後(そのあと)にいふべき事を有つてゐた。けれども奧さんから徒らに議論を仕掛ける男のやうに取られては困ると思つて遠慮した。奧さんは飮み干した紅茶茶碗(こうちやちやわん)の底を覗いて默つてゐる私を外(そ)らさないやうに、「もう一杯上げませうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を奧さんの手に渡した。

 「いくつ?一つ?二ツつ?」

妙なもので角砂糖(かくさたう)を撮(つま)み上げた奧さんは、私の顏を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の數(かぞ)を聞いた。奧さんの態度は私に媚びるといふ程ではなかつたけれども、先刻(さつき)の強い言葉を力(つと)めて打ち消さうとする愛嬌に充ちてゐた。

 私は默つて茶を飮んだ。飮んでしまつても默つてゐた。

 「あなた大變默り込んぢまつたのね」と奧さんが云つた。

 「何かいふと又議論を仕掛けるなんて、叱り付けられさうですから」と私は答へた。

 「まさか」と奧さんが再び云つた。

 二人はそれを緒口(いとくち)に又話を始めた。さうして又二人に共通な興味のある先生を問題にした。

 「奧さん、先刻(さつき)の續きをもう少し云はせて下さいませんか。奧(お)さんには空(から)な理窟と聞こえるかも知れませんが、私はそんな上の空で云つてる事ぢやないんだから」

 「ぢや仰やい」

 「今奧さんが急に居なくなつたとしたら、先生は現在の通りで生きてゐられるでせうか」

 「そりや分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外に仕方がないぢやありませんか。私の所へ持つて來る問題ぢやないわ」

 「奧さん、私は眞面目ですよ。だから逃げちや不可ません。正直に答へなくつちや」

 「正直よ。正直に云つて私には分らないのよ」

 「ぢや奧さんは先生を何の位(くらい)愛してゐらつしやるんですか。これは先生に聞くより寧ろ奧さんに伺つていゝ質問ですから、あなたに伺ひます」

 「何もそんな事を開き直つて聞かなくつても好(い)いぢやありませんか」

 「眞面目腐つて聞くがものはない。分り切つてると仰やるんですか」

 「まあ左右よ」

 「その位(くらゐ)先生に忠實なあなたが急に居なくなつたら、先生は何うなるんでせう。世の中の何方を向いても面白さうでない先生は、あなたが急にゐなくなつたら後で何うなるでせう。先生から見てぢやない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるんでせうか、不幸になるでせうか」

 「そりや私から見れば分つてゐます。(先生はさう思つてゐないかも知れませんが)。先生は私を離れゝば不幸になる丈です。或は生きてゐられないかも知れませんよ。さういふと、已惚(うぬぼ)れになるやうですが、私は今先生を人間として出來る丈幸福にしてゐるんだと信じてゐますわ。どんな人があつても私程先生を幸福にできるものはないと迄思ひ込んでゐますわ。それだから斯うして落ち付いてゐられるんです」

 「その信念が先生の心に好く映る筈だと私は思ひますが」

 「それは別問題ですわ」

 「矢張(やつぱ)り先生から嫌はれてゐると仰やるんですか」

 「私は嫌はれてるとは思ひません。嫌はれる譯がないんですもの。然し先生は世間が嫌なんでせう。世間といふより近頃では人間が嫌になつてゐるんでせう。だから其人間の一人(いちにん)として、私も好かれる筈がないぢやありませんか」

 奧さんの嫌はれてゐるといふ意味がやつと私に呑み込めた。

 

やぶちゃんの摑み:

♡「外らさないやうに」話をそこで終わらせないように、「私」をこの話から逃さないようにするために、「もう一杯上げませうか」と話を継いだ、という意味である。

「妙なもので角砂糖を撮み上げた奧さんは、私の顏を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の數を聞いた。」というのは、通常、彼女が淹れる紅茶には既に砂糖が溶かされているのが普通であったのに(先刻の紅茶がそうであったと推定される)、ここではわざわざ入れる角砂糖の数を訊いてきたことに対する「妙な」である。やや黙って堅くなっている「私」を和ませようとして、アプローチをかけた靜のポーズなのであるが、この靜に何とも言えぬ幽かな、それでいて魅力的な年上の女のどきどきするようなコケティシュさを覚えるのは……私だけだろうか?]

 

 

  先生の遺書

      (十八)

 私は奧さんの理解力に感心した。奧さんの態度が舊式の日本(にほん)の女らしくない所も私の注意に一種の刺戟を與へた。それで奧さんは其頃流行り始めた所謂新しい言葉などは殆んど使はなかつた。

 私は女といふものに深い交際をした經驗のない迂濶な靑年であつた。男としての私は、異性に對する本能から、憧憬(どうけい)の目的物として常に女を夢みてゐた。けれどもそれは懷かしい春の雲を眺めるやうな心持で、たゞ漠然と夢みてゐたに過ぎなかつた。だから實際の女の前へ出ると、私の感情が突然變る事が時々あつた。私は自分の前に現はれた女のために引き付けられる代りに、其塲に臨んで却つて變な反撥力(はんばづりよく)を感じた。奧さんに對した私にはそんな氣が丸で出なかつた。普通男女(なんによ)の間に橫はる思想の不平均といふ考も殆ど起らなかつた。私は奧さんの女であるといふ事を忘れた。私はたゞ誠實なる先生の批評家及び同情家として奧さんを眺めた。

 「奧さん、私が此前何故先生が世間的にもつと活動なさらないのだらうと云つて、あなたに聞いた時に、あなたは仰やつた事がありますね。元はあゝぢやなかつたんだつて」

 「えゝ云ひました。實際彼(あ)んなぢやなかつたんですもの」

 「何んなだつたんですか」

 「あなたの希望なさるやうな、又私の希望するやうな賴もしい人だつたんです」

 「それが何うして急に變化なすつたんですか」

 「急にぢやありません、段々(たんたん)あゝなつて來たのよ」

 「奧さんは其間(あひだ)始終先生と一所にゐらしつたんでせう」

 「無論ゐましたわ。夫婦ですもの」

 「ぢや先生が左右變つて行かれる原因がちやんと解るべき筈ですがね」

 「それだから困るのよ。あなたから左右云はれると實に辛いんですが、私には何う考へても、考へやうがないんですもの。私は今迄何遍あの人に、何うぞ打ち明けて下さいつて賴んで見たか分りやしません」

 「先生は何と仰しやるんですか」

 「何にも云ふ事はない、何にも心配する事はない、おれは斯ういふ性質になつたんだからと云ふ丈で、取り合つて呉れないんです」

 私は默つてゐた。奧さんも言葉を途切らした。下女部屋にゐる下女はことりとも音をさせなかつた。私は丸で泥棒の事を忘れて仕舞つた。

 「あなたは私に責任があるんだと思つてやしませんか」と突然奧さんが聞いた。

 「いゝえ」と私が答へた。

 「何うぞ隱さずに云つて下さい。さう思はれるのは身を切られるより辛いんだから」と奧さんが又云つた。「是でも私は先生のために出來る丈の事はしてゐる積なんです」

 「そりや先生も左右認めてゐられるんだから、大丈夫(たいぢやうふ)です。御安心なさい、私が保證します」

 奧さんは火鉢の灰を掻き馴らした。それから水注(みづさし)の水を鐵瓶に注した。鐵瓶は忽ち鳴りを沈めた。

 「私はとう/\辛防(しんばう)し切れなくなつて、先生に聞きました。私に惡い所があるなら遠慮なく云つて下さい、改められる缺點なら改めるからつて、すると先生は、御前に缺點なんかありやしない、缺點はおれの方にある丈だと云ふんです。さう云はれると、私悲しくなつて仕樣がないんです、涙が出て猶の事自分の惡い所が聞きたくなるんです」

 奧さんは眼の中(うち)に涙を一杯溜めた。

やぶちゃんの摑み:

「あなたの希望なさるやうな、又私の希望するやうな賴もしい人だつたんです」この靜の謂いは、薄っぺらいものではない。靜が「私」が内心希望している先生像を十全に認知していることを示している。靜は「私」自身や読者である我々が考えるのと案に相違して、「私」の内実を想像以上につらまえているという事実に注意すべきである。

「私は女といふものに深い交際をした經驗のない迂濶な靑年であつた」以下によって「私」が童貞である事実が駄目押しで確定する。「私」は所謂「少年」である点をつらまえよ。

「普通男女の間に橫はる思想の不平均」この理性的な謂いを言い換えれば、それは「必竟女だからあゝなのだ、女といふものは何うせ愚なものだ」という偏見と相同である(相似ではなく相同である)。勿論、これは勿論、先生の遺書に現われる謂いである(単行本の「下」の十四)。そこにある「私」のそれではなく、筆者漱石の女性蔑視という限界性をつらまえる必要がある。

「下女部屋」(十六)の「やぶちゃんの摑み」の図を参照されたい。]

 

 

  先生の遺書

      (十九)

 始め私は理解のある女性(によしやう)として奧さんに對してゐた。私が其氣で話してゐるうちに、奧さんの樣子が次第に變つて來た。奧さんは私の頭惱に訴へる代りに、私の心臟(ハート)を動かし始めた。自分と夫の間には何の蟠(わだか)まりもない、又ない筈であるのに、矢張(やは)り何かある。それだのに眼を開けて見極めやうとすると、矢張り何にもない。奧さんの苦にする要點は此處にあつた。

 奧さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的だから、其結果として自分も嫌はれてゐるのだと斷言した。さう斷言して置きながら、ちつとも其處に落ち付いてゐられなかつた。底を割ると、却つて其逆を考へてゐた。先生は自分を嫌ふ結果、とう/\世の中迄厭になつたのだらうと推測してゐた。けれども何う骨を折つても、其推測を突き留(とめ)て事實とする事が出來なかつた。先生の態度は何處迄も良人(をつと)らしかつた。親切で優しかつた。疑ひの塊りを其日/\の情合で包んで、そつと胸の奧に仕舞つて置いた奧さんは、其晩その包みの中を私の前で開けて見せた。

 「あなた何う思つて?」と聞いた。「私からあゝなつたのか、それともあなたのいふ人生觀とか何とかいふものから、あゝなつたのか。隱さず云つて頂戴」

 私は何も隱す氣はなかつた。けれども私の知らないあるものが其處に存在(ぞんざい)してゐるとすれば、私の答が何であらうと、それが奧さんを滿足(まんそく)させる筈がなかつた。さうして私は其處に私の知らないあるものがあると信じてゐた。

 「私には解りません」

 奧さんは豫期の外れた時に見る憐れな表情を其咄嗟に現はした。私はすぐ私の言葉を繼ぎ足した。

 「然し先生が奧さんを嫌つてゐらつしやらない事丈は保證します。私は先生自身の口から聞いた通りを奧さんに傳へる丈です。先生は嘘を吐かない方でせう」

 奧さんは何とも答へなかつた。しばらくしてから斯う云つた。

 「實は私すこし思ひ中(あた)る事があるんですけれども‥‥」

 「先生があゝ云ふ風になつた源因に就いてですか」

 「えゝ。もしそれが源因だとすれば、私の責任丈はなくなるんだから、夫丈でも私大變樂になれるんですが、‥‥」

 「何んな事ですか」

 奧さんは云ひ澁つて膝の上に置いた自分の手を眺めてゐた。

 「あなた判斷して下すつて。云ふから」

 「私に出來る判斷なら遣ります」

 「みんなは云へないのよ。みんな云ふと叱られるから。叱られない所丈よ」

 私は緊張して唾液を呑み込んだ。

 「先生がまだ大學にゐる時分、大變仲の好い御友達が一人あつたのよ。其方が丁度卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」

 奧さんは私の耳に私語くやうな小さな聲で、「實は變死したんです」と云つた。それは「何うして」と聞き返さずにはゐられない樣な云ひ方であつた。

 「それつ切りしか云へないのよ。けれども其事があつてから後なんです。先生の性質が段々變つて來たのは。何故其方が死んだのか、私には解らないの。先生にも恐らく解つてゐないでせう。けれども夫から先生が變つて來たと思へば、さう思はれない事もないのよ」

 「其人の墓ですか、雜司ケ谷にあるのは」

 「それも云はない事になつてるから云ひません。然し人間は親友を一人亡くした丈で、そんなに變化できるものでせうか。私はそれが知りたくつて堪らないんです。だから其處を一つ貴方に判斷して頂きたいと思ふの」

 私の判斷は寧ろ否定の方に傾いてゐた。

やぶちゃんの摑み:

「理解のある」理性的な。理知的な。

「底を割る」本心を隠さず明かす。

「もしそれが源因だとすれば、私の責任丈はなくなるんだから、夫丈でも私大變樂になれるんですが、‥‥」というこの謂いによって、先生が仮に靜に自身の苦悩を告白出来たとしても、その核心は永遠に靜には理解出来ない、と私は思う。あなたも思わないか? 靜に責任は『ある』し、その責任を自覚出来ない以上、先生の苦悩を共有することは出来ない!

「みんなは云へないのよ。みんな云ふと叱られるから。叱られない所丈よ」以下の、「それつ切りしか云へないのよ」「「それも云はない事になつてるから云ひません」という言辞に着目せよ! これは一般的な不特定多数への先生の靜への禁則では、ない。先生は恐らく、「私」が頻繁に先生の宅を訪れるようになった極めて早い時点で、靜に『Kのことに於いては決して仔細をあの青年に語ってはいけない』という禁則を厳しく明言していたことが明らかになる。それは何故かを考えよ!

「實は變死したんです」このKの自死がほぼ明確に示される印象的なシーンは、「私の耳に私語くやう」に「私」の方に乗り出すのである。作中「私」と靜が最も肉体的に接近する印象を与えるように仕組まれたシーンでもあることに着目せよ!

「私の判斷は寧ろ否定の方に傾いてゐた」これは重要な心内表現である。私は、一般論として友人の死で人格は変異しない、なんどということを思っている、『のではない』! 提示された靜の質問は直前にある(勿論、先生が変わった原因として友人の死を語ったのは、それより数分前ではあったが)。にも拘わらず、「私」がまるでじっくりと考えたかのように「私の判斷は寧ろ否定の方に傾いてゐた」と記すのは、実は直前の「私」の「其人の墓ですか、雜司ケ谷にあるのは」と密接に関わりを持つからだ。即ち、ここで「私」は「魔物」――(十五)を確認せよ!――であるあの墓の主に無意識に嫉妬を抱いているのである。「私」は無意識下に於いて、幽冥に在りながら、今も心において親密に先生と繋がっているあの『忌まわしい』墓の主と、『愛する』先生とを切り離してしまいたいと願望しているのである。でなくてどうして、性急な「私の判斷」が下せよう!]

 

 

  先生の遺書

      (二十)

 私は私のつらまへた事實の許す限り、奧さんを慰めやうとした。奧さんも亦出來る丈私によつて慰さめられたさうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合つた。けれども私はもともと事の大根(おほね)を攫(つか)んでゐなかつた。奧さんの不安も實は其處に漂よふ薄い雲に似た疑惑から出て來てゐた。事件の眞相になると、奧さん自身にも多くは知れてゐなかつた。知れてゐる所でも悉皆(すつかり)は私に話す事が出來なかつた。從つて慰さめる私も、慰さめられる奧さんも、共に波に浮いて、ゆら/\してゐた。ゆら/\しながら、奧さんは何處迄も手を出して、覺束ない私の判斷に縋(すが)り付かうとした。

 十時頃になつて先生の靴の音が玄關に聞えた時、奧さんは急に今迄の凡てを忘れたやうに、前に坐つてゐる私を其方退(そつちの)けにして立ち上つた。さうして格子を開ける先生を殆んど出合頭に迎へた。私は取り殘されながら、後から奧さんに尾(つ)いて行つた。下女丈は假寐(うたゝね)でもしてゐたと見えて、ついに出て來なかつた。

 先生は寧ろ機嫌(きけん)がよかつた。然し奧さんの調子は更によかつた。今しがた奧さんの美しい眼(め)のうちに溜つた涙の光と、それから黑い眉毛の根に寄せられた八の字を記憶してゐた私は、其變化を異常なものとして注意深く眺めた。もしそれが詐りでなかつたならば、(實際それは詐(いつは)りとは思へなかつたが)、今迄の奧さんの訴へは感傷(センチメント)を玩(もてあそ)ぶためにとくに私を相手に拵へた、徒(いたづ)らな女性の遊戲と取れない事もなかつた。尤も其時の私には奧さんをそれ程批評的に見る氣は起らなかつた。私は奧さんの態度の急に輝やいて來たのを見て、寧ろ安心した。是ならばさう心配する必要もなかつたんだと考へ直した。

 先生は笑ひながら「どうも御苦勞さま、泥棒は來ませんでしたか」と私に聞いた。それから「來ないんで張合が拔けやしませんか」と云つた。

 歸る時、奧さんは「どうも御氣の毒さま」と會釋した。其調子は忙がしい處を暇を潰させて氣の毒だといふよりも、折角來たのに泥棒が這入らなくつて氣の毒だといふ冗談のやうに聞こえた。奧さんはさう云ひながら、先刻(さつき)出した西洋菓子の殘りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを袂へ入れて、人通りの少ない夜寒(よさむ)の小路(こうぢ)を曲折して賑やかな町の方へ急いだ。

 私は其晩の事を記憶のうちから抽(ひ)き拔いて此處へ詳しく書いた。是(これ)は書く丈の必要があるから書いたのだが、實をいふと、奧さんに菓子を貰つて歸るときの氣分では、それ程當夜の會話を重く見てゐなかつた。私は其翌日午飯を食ひに學校から歸つてきて、昨夜(ゆふべ)机の上に載せて置いた菓子の包を見ると、すぐ其中からチヨコレーを塗つた鳶(とび)色のカステラを出して頰張つた。さうしてそれを食ふ時に、必竟此菓子を私に呉れた二人の男女(なんによ)は、幸福な一對として世の中に存在してゐるのだと自覺しつゝ味はつた。

 秋が暮れて冬が來る迄格別の事もなかつた。私は先生の宅へ出這りをする序に、衣服の洗ひ張や仕立方などを奧さんに賴んだ。それ迄繻絆(じゆばん)といふものを着た事のない私が、シヤツの上に黑い襟のかゝつたものを重ねるやうになつたのは此時からであつた。子供のない奧さんは、さういふ世話を燒くのが却つて退屈凌ぎになつて、結句(けつく)身體(からだ)の藥だ位の事を云つてゐた。

 「こりや手織ね。こんな地の好(い)い着物は今迄縫つた事がないわ。其代り縫ひ惡(にく)いのよそりあ。丸で針が立たないんですもの。御蔭で針を二本折りましたわ」

 斯(こん)な苦情をいふ時ですら、奧さんは別に面倒臭いといふ顏をしなかつた。

やぶちゃんの摑み:

「從つて慰さめる私も、慰さめられる奧さんも、共に波に浮いて、ゆら/\してゐた。ゆら/\しながら、奧さんは何處迄も手を出して、覺束ない私の判斷に縋り付かうとした」本件叙述についてフロイトならば、「私」の無意識下の靜に対する性的願望の象徴表現であると分析するはずである。私もその見解に賛同するものである。しかし言わずもがな乍ら「無意識下の」である。先に述べた通り私は、秦恒平のように靜と「私」を結婚させるなんどということは夢にも百億光年の先にも考えてはいない。

「先生は寧ろ機嫌がよかつた」のは何故か? 「同郷の友人で地方の病院に奉職してゐるものが上京したため、先生は外の二三名と共に、ある所で其友人に飯を喰はせなければならなくなつた」益々人嫌いになりつつある(それは「私」との密接な繋がりが出来た結果として、『逆に』益々激しくなっていたはずだと私は分析する)先生が、その『ねばならない』会で愉快な気分になったとは考え難いではないか! 「私」にとって先生のその様子が如何にも意外だったからこそ「寧ろ」と添えたのではなかったか?――だとすれば――そう、その通り。答えは一つしかない。――先生は、靜と「私」を二人きりにして親しく話させることが出来たことに於いて「機嫌がよかつた」のである。先生のその複雑な心性を、私は私の書いた「こゝろ」のフェイク「こゝろ佚文」でも匂わせた。再三言う。先生の意識は、靜が「私」に、「私」が靜に好感を持つことには確信犯なのである。しかし、靜と「私」が将来、実際の恋愛関係になり、自身亡き後にでも(この時は勿論、自殺を考えている訳ではないが)夫婦になることなどは、考えてはいない。いや、もしかすると遺書を託す決意がこの時点でない以上、この時には何処かに漠然と私の死後そうなってもよい、という考えはあったかも知れぬ(飽くまで可能性の問題である。排除できない、という意味である)。しかし、「私」に遺書を託すことを決意した時点で、それは、ない、のである。そうして、そもそも、「私」には奥さんと結ばれるという希望や意識は、その人生にあって一度として芽生えなかったものと、私は確信する。しかし……私のこのくどい謂いに、誰かは、こう質問するかも知れない……「靜の心の中にあっては「私」への思いはどうであったか? 「私」を男として愛する気持ちは芽生えなかったのか?」と。――それは分からぬ――ないとは言い切れぬ、とだけ、答えておこう。――私は女ではないから、女の気持ちを確信をもって断言する立場にないからでもあり、但しそれはまた、逃げでもなければ、女性の性愛を区別・差別するものでも、決してない。――そもそも『何も知らない』(ここが肝心である。本作で『何も知らない』(はずである)のは彼女だけなのである)靜は、夢魔の如き本作に於いて、誰よりもあらゆる枷から自由なのである。自由な選択をし得るのである。――告白しよう。私はここで、この靜が芥川龍之介が最後に愛した片山廣子であったとしたら……と考えるのだ。私は靜の生年を明治141519811982)年前後と推定している。片山廣子は明治111978)年の生まれである……もう、いいだろう……後は私の片山廣子のテクストや私の考える彼女と芥川と恋愛についての見解をお読み頂ければ、私の言わんとするところはお分かり頂けるものと思う……だから、私には「分からぬ」としか言いようがないのである――。

「然し奧さんの調子は更によかつた。今しがた奧さんの美しい眼(め)のうちに溜つた涙の光と、それから黑い眉毛の根に寄せられた八の字を記憶してゐた私は、其變化を異常なものとして注意深く眺めた。もしそれが詐りでなかつたならば、(實際それは詐りとは思へなかつたが)、今迄の奧さんの訴へは感傷(センチメント)を玩ぶためにとくに私を相手に拵へた、徒(いたづ)らな女性の遊戲と取れない事もなかつた」ここは勿論、「私」が「異常」とまで感ずるほどに豹変した靜に対して、「私」が自分は弄ばれたのではなかろうかと思う、という部分に、靜の中にある、小悪魔的な一面を疑わせるという面白いところではある。しかし勿論、それは直後の「尤も其時の私には奧さんをそれ程批評的に見る氣は起らなかつた。私は奧さんの態度の急に輝やいて來たのを見て、寧ろ安心した。是ならばさう心配する必要もなかつたんだと考へ直した」という叙述によって急激に希釈されてしまうように配慮されている。しかし逆に私は、この「其時の私には」に着目する。但し間違ってはいけない。私は、この「其時の私には」とは、叙述している今の「私」が靜に対してこの時とは相対的な意味に於いて批判的視点を持つようになった、なんどということを問題にしたいのではない。私が言いたいのは、ここが遺書で示される若き日の靜への極めて強い伏線となっているということの確認である。既に読んだ方は思い出すがよい。遺書の中に出現する靜=「御孃さん」の独特な一面を。Kが来る前、先生の部屋に入り込んで何時までも動かない御嬢さん。彼女は「却つて平氣でした。これが琴を浚ふのに聲さへ碌に出せなかつたあの女かしらと疑がはれる位、耻づかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、『はい』と返事をする丈で、容易に腰を上げない事さへありました。それでゐて御孃さんは決して子供ではなかつたのです。私の眼には能くそれが解つてゐました。能く解るやうに振る舞つて見せる痕迹さへ明らかでした。」(単行本「下」十三)という『リードする女』の描写、またある日先生が帰宅するとKと御嬢さんだけが家にいて、奥さんと下女が家にいない。こんなことは今までになかったから「何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌でした。若い女に共通な點だと云へばそれ迄かも知れませんが、御孃さんも下らない事に能く笑ひたがる女でした。然し御孃さんは私の顏色を見て、すぐ不斷の表情に歸りました。急用ではないが、一寸用があつて出たのだと眞面目に答へました。下宿人の私にはそれ以上問ひ詰める權利はありません。私は沈默」する。そうしてその日の晩飯のシーンで「私は其卓上で奥さんから其日何時もの時刻に肴屋が來なかつたので、私達に食はせるものを買ひに町へ行かなければならなかつたのだといふ説明を聞かされました。成程客を置いてゐる以上、それも尤もな事だと私が考へた時、御孃さんは私の顏を見て又笑ひ出」すシーン、Kへの決定的な嫉妬心が萌芽する、あの雨上がりの沿道でKと御嬢さんと出逢った日のその晩飯のシーンで、何処へ行ったのかという先生の問いに対して「御孃さんは私の嫌な例の笑ひ方をするのです。さうして何處へ行つたか中てゝ見ろと仕舞に云ふのです。其頃の私はまだ癇癪持でしたから、さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立ちました。所が其所に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人だつたのです。Kは寧ろ平氣でした。御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其所の區別が一寸判然しない點がありました。若い女として御孃さんは思慮に富んだ方でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです」(「下」三十四)という二箇所に現われる靜の『小悪魔のような嫌な笑い』。これらの遺書のそのシーンに至った時、今度は逆に「御孃さん」から靜へと、ここへとフィード・バックする機能を、この(二十)の靜の豹変は持っているように思われるのである。

『先生は笑ひながら「どうも御苦勞さま、泥棒は來ませんでしたか」と私に聞いた。それから「來ないんで張合が拔けやしませんか」と云つた』この言葉はつまらぬ冗談として受け流していいのだろうか? 先生がかつてこんな冗談を言ったことがあったか? この後の場面でもいい。ない。わざわざ寡黙な先生の台詞としては、私は大いに気になるのである。単行本の「上」に当る部分の先生の直接話法は、その一句一言、「こゝろ」の核心に至るための珠玉でないものはない。漱石はそうした確信犯的意識の中で「上」を書いているのだ。さすれば、これは『意味』がある。精神分析学的に見てみよう。先に私が示したように、靜と「私」を二人きりにして親しく話させることが出来たことに於いて「機嫌がよかつた」先生の意識と直結するものと私は解釈する。「泥棒は來」ていたのだ。妻を盗むかもしれない「泥棒」が。いや、その「泥棒」は先生自身が呼び込んだ者であった。ところが、その「泥棒」は自身を「泥棒」として全く意識していなかった(無意識下においてはそうではなかったかもしれないことは先の部分で述べた)。そうしてその「泥棒」が自らの役割を意識していないという確信は、実は先生自身のものでもあったのだ。そうしてその想定通り、「泥棒」は「泥棒」らしい行為の痕跡すら残さず、盗まれることのなかった妻と一緒に私を迎えたのであった。「來ないんで張合が拔け」てちょっと残念だったのは先生の内心であったが、しかしそれは同時に先生の「私」への信頼の証しとして先生の大きな安心と結びついたアンビバレントな感情であったのだ。こういう少しだけ危い、しかし、痛快な感覚を、先生は永く味わったことがなかった――Kの自死以来――それが大きな満足の種となって先生の心の「機嫌」の良さと、珍しくも下らぬこの冗談となって現われたのではなかったか? そしてこの無意識は、実に美事に「私」だけでなく、靜にさえ共有されているのである! でなくてどうして「私」が先生の宅を辞するに際して靜の「どうも御氣の毒さま」という挨拶の語感が「折角來たのに泥棒が這入らなくつて氣の毒だといふ冗談のやうに聞こえ」るだろう! ここでは先生と靜と「私」の三人総てが無意識の共同正犯なのである。

♡「午飯を食ひに學校から歸つてきて」これによって「私」の下宿が東京帝国大学に極めて近い位置、本郷周辺にあることが判然とする。(九)では先生が散歩をしようと言ってこの下宿を訪ねていることから考えると、先生の宅も矢張り本郷近辺からそう遠くない位置にあるものと思われるのである。

「それ迄繻絆といふものを着た事のない私が、シヤツの上に黑い襟のかゝつたものを重ねるやうになつた」「繻絆」は“gibão”でポルトガル語由来で、肌につけて着る短い衣で汗取りの肌着であるが、襟や袖に外見用のために装飾的な布が付随した。それまで「私」は飾りのない下着のシャツの端を見せたままの格好(それも若者の普通の姿でもあった)だったものを、少し身綺麗にして繻絆を着用するようになったということである。記されていないが、そういうお洒落を促したのは、実は靜ではなかったろうか?]

 

 

  先生の遺書

      (二十一)

 冬が來た時、私は偶然國へ歸へらなければならない事になつた。私の母から受取つた手紙の中に、父の病氣の經過が面白くない樣子を書いて、今が今といふ心配もあるまいが、年が年だから、出來るなら都合して歸つて來てくれと賴むやうに付け足してあつた。

 父はかねてから腎臟を病んでゐた。中年以後の人に屢(しば/\)見る通り、父の此病は慢性であつた。其代り要心さへしてゐれば急變のないものと當人も家族のものも信じて疑はなかつた。現に父は養生の御蔭一つで、今日迄何うか斯うか凌(しの)いで來たやうに客が來ると吹聽してゐた。其父が、母の書信によると、庭へ出て何かしてゐる機(はづみ)に突然眩暈(めまひ)がして引ツ繰返(くりかへ)つた。家内のものは輕症の腦溢血と思ひ違へて、すぐその手當をした。後で醫者から何うも左右ではないらしい、矢張り持病の結果だらうといふ判斷を得て、始めて卒倒と腎臟病とを結び付けて考へるやうになつたのである。

 冬休みが來るにはまだ少し間があつた。私は學期の終り迄待つてゐても差支(さしつかへ)あるまいと思つて一日二日其儘にして置いた。すると其一日二日の間(あひだ)に、父の寢てゐる樣子だの、母の心配してゐる顏だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦(くる)しさを甞(な)めた私は、とう/\歸る決心をした。國から旅費を送らせる手數(てかぞ)と時間を省くため、私は暇乞(いとまごひ)かたがた先生の所へ行つて、要(い)る丈の金を一時(じ)立て替へてもらふ事にした。

 先生は少し風邪の氣味で、座敷へ出るのが臆劫(おつこふ)だといつて、私をその書齋に通した。書齋の硝子戸から冬に入(い)つて稀に見るやうな懷かしい和らかな日光が机掛(つくゑかけ)の上に射してゐた。先生は此日あたりの好(い)い室(へや)の中へ大きな火鉢を置いて、五德(ごとく)の上に懸けた金盥(かなたらひ)から立ち上る湯氣で、呼吸の苦しくなるのを防いでゐた。

 「大病は好いが、ちよつとした風邪などは却つて厭なものですね」と云つた先生は、苦笑しながら私の顏を見た。

先生は病氣といふ病氣をした事のない人であつた。先生の言葉を聞いた私は笑ひたくなつた。

 「私は風邪位なら我慢しますが、それ以上の病氣は眞平です。先生だつて同じ事でせう。試みに遣つて御覽になるとよく解ります」

 「左右かね。私は病氣になる位(くらゐ)なら、死病に罹りたいと思つてる」

 私は先生のいふ事に格別注意を拂はなかつた。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。

 「そりや困るでせう。其位(くらゐ)なら今手元にある筈だから持つて行き玉へ」

 先生は奧さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせて呉れた。それを奧の茶箪笥か何かの抽出から出して來た奧さんは、白い半紙の上へ鄭寧(ていねい)に重ねて、「そりや御心配ですね」と云つた。

 「何遍も卒倒したんですか」と先生が聞いた。

 「手紙には何とも書いてありませんが。―そんなに何度も引ツ繰り返るものですか」

 「えゝ」

 先生の奧さんの母親といふ人も私の父と同じ病氣で亡くなつたのだと云ふ事が始めて私に解つた。

 「何うせ六(む)づかしいんでせう」と私が云つた。

 「左右さね。私が代られゝば代つて上げても好いが。―嘔氣はあるんですか」

 「何うですか、何(なん)とも書いてないから、大方ないんでせう」

 「嘔氣さへ來なければまだ大丈夫ですよ」と奧さんが云つた。

 私は其晩の汽車で東京を立つた。

やぶちゃんの摑み:先生の死病罹患願望が示されるショッキングなシーンである。

「私は偶然國へ歸へらなければならない事になつた」私は先に示した通り、「私」の郷里を中部内陸地方を同定している。その根拠は次章(二十二)での椎茸と危篤の父を置いて東京へと向かう最後のシーンで「東京行の汽車に飛び乘つてしまつた」という表現からである。まず四国・北海道は消去される。干椎茸の産地であり、ある程度の距離の位置(「こゝろ」「中」の「十」で「停車塲のある駅から迎えた醫者」とあり、それを(二十三)では「念のためにわざ/\遠くから相當の醫者を招いたりして」と表現していると思われるので、近くではない。徒歩では「私」の実家から相当に遠い位置にある都市と思われる)に鉄道の東京へ直行出来る汽車の発着する駅が存在し、そこから東京へは夜行列車が走っている程度には有意に距離があり、先生の出身地である新潟とはそれほど近くなく――近ければそうした謂いが出現するはずであり、家の作りも似ているはず(単行本「中」の「五」で明治天皇の崩御を受けて弔旗を揚げた「私」が田舎の自分の家を眺めながら『私はかつて先生から「あなたの宅の構は何んな體裁ですか。私の郷里の方とは大分趣が違つてゐますかね」と聞かれた事を思ひ出した。私は自分の生れた此古い家を、先生に見せたくもあつた。又先生に見せるのが恥づかしくもあつた』というシーンから「私」の家は雪国新潟の造りとは異なるものなのである)であるから、上越や信越北部ではないというのが私の見解である。その家の作りが異なる点では更に、新潟と同じ雪国である東北地方はそれと相似すると考え得るので東北地方も除外出来よう。加えて(一)で「中國」地方の友達を登場させているが、これが同郷であるという雰囲気を少なくとも私は感じ得ない。従って中国地方は除外される。更に次の(二十二)章で「私」は自分の兄がいる場所を「遠い九州」と表現していることから、九州も除外される。これらを余り無理せずにすっきりクリア出来るのは中央線沿線しかないと踏むのである。諏訪・松本辺りの山間部を私は想定する。一部の論文等には山陽辺りを想定しているものがある。しかし兵庫から九州を「遠い」と言うのは、やや苦しい気がする。なお、私の読者の中には中部地方に帰るのに金を借りるほどのことはあるまいと思う連中もいるだろう。それに答えよう。私は大学時分、両親が富山にいた。帰るのはいつも安い急行の直行夜行列車を用いた。11時近くに上野を出、高岡に早朝に着いた。しかし何時でも帰れたかというと、夏と年末、特に帰省のために一週間前から食費を節約をしてやっと切符が買えた。勿論、両親に土産物を買うなんどという余裕もなかった。――さあ、これでよろしいか?

「父はかねてから腎臟を病んでゐた。中年以後の人に屢見る通り、父の此病は慢性であつた」タイプによって血尿型のIgA腎症・ネフローゼ・巣状糸球体硬化症・膜性腎症等による慢性腎炎は現在も根本的な原因は不明であり、早期に発見治療管理しないと経過はよくない。本作に描写される「私」の父の症状は悪化した慢性腎炎や糖尿病が、所謂、重度な腎不全を引き起こしてゆく過程を示しているものと思われる。以下、万有製薬の「メルクマニュアル家庭版 慢性腎不全 143章 腎不全」の「症状」から引用する(改行を省略した)。『慢性腎不全の症状は徐々に現れるか、急性腎不全から発展して起こります。軽症から中等度の腎不全の人では、尿素など血液中の代謝性老廃物の値が高くなっていくのにもかかわらず、軽い症状しか現れないことがあります。この段階では、夜間に何度も尿意を感じて排尿するようになります(夜間多尿症)。正常な腎臓は夜間に尿から水分を再吸収し、尿の量を減らして濃縮しますが、腎不全の人ではその能力が低下しているためこうした現象が起こります。腎不全が進行して代謝性老廃物が血液中に蓄積すると、疲労感や脱力感を感じるようになり、注意力が低下します。こうした症状は、血液の酸性度が高くなるアシドーシスという状態になるに伴って悪化します。食欲減退や息切れが起こることもあります。疲労感や脱力感は、赤血球の産生量が減少して貧血になっていることでも生じます。慢性腎不全の人はあざができやすくなったり、切り傷などのけがをすると、出血が簡単に止まらなくなったりする傾向があります。慢性腎不全になると、感染に対する体の抵抗力も低下します。代謝性老廃物が血液中に蓄積していくと、筋肉や神経が損傷を受けるため、筋肉のひきつり、筋力低下、けいれん、痛みなどが起こります。腕や足にチクチクするような感覚が生じたり、特定の部分の感覚がなくなったりします。血液中に代謝性老廃物が蓄積すると、脳がうまく機能しなくなる脳障害の状態になり、意識混濁、無気力、けいれん発作を起こします。弱った腎臓は血圧を上げるホルモンを産生するため、腎不全の人には高血圧がよくみられます。さらに、弱った腎臓は余分の塩や水分を排出できません。塩分や水分の貯留は心不全の原因になり、これによって息切れが生じます。代謝性老廃物が蓄積すると、心臓を包む心膜に炎症が生じることがあります(心膜炎)。この合併症は、胸の痛みや低血圧を引き起こします。血液中の中性脂肪濃度がしばしば上昇し、高血圧とともにアテローム動脈硬化のリスクを高めます。また、血液中に代謝性老廃物がたまると、吐き気、嘔吐、口の中の不快感なども起こるようになり、栄養不良や体重の減少が生じます。慢性腎不全が進行すると、消化管潰瘍と出血が起こります。皮膚の色が黄ばんだ褐色になり、ときには尿素の濃度が非常に高いために、汗に含まれる尿素が結晶化して皮膚が白い粉をふいたようになることもあります。慢性腎不全の人では、全身がかゆくなることもあります。慢性腎不全に伴って起こる特定の状態が長期間続くと、骨組織の形成と維持がうまくいかなくなります(腎性骨ジストロフィ)。副甲状腺ホルモンの濃度が高い状態、血液中のカルシトリオール(活性型ビタミンD)の濃度が低い状態、カルシウムの吸収が低下した状態、血液中のリン濃度が高い状態などがこれに相当します。腎性骨ジストロフィになると、骨が痛み、骨折の危険性が高くなります』。本作では重要な役回りである明治天皇が糖尿病から尿毒症を併発して亡くなることと父の病気(更に靜の母=「こゝろ」「下」の「奥さん」も同病で逝去という設定)合わせた設定である。……成る程、その症状、これ惨めな末路である。いつか糖尿病の私も、こうなるわけだ……。

「先生は少し風邪の氣味で、座敷へ出るのが臆劫だといつて、私をその書齋に通した」という叙述は、普段、先生は書斎に寝起きしているということを意味している。

♡「此日あたりの好い室」先生の書斎が南向きであることが分かる。

『「左右かね。私は病氣になる位(くらゐ)なら、死病に罹りたいと思つてる」/私は先生のいふ事に格別注意を拂はなかつた。』これは先生らしいアイロニーではない謎めいた本心の言葉なのであるが、「私」がそれを「格別注意」して受け止めないのは不自然ではない。実際には、父の病態への強い不安を抱いている「私」には、この先生の台詞は如何にも嫌な気持ちを引き起こしたはずである。それを総てが終ったこの手記の記載時まで引き上げて不快印象を払拭し、言わば今は亡き先生へ配慮した表現となっているのである。しかし、この時点ではまだ「私」の父の病態は先生に説明されていないのだから、先生が圧倒的に悪いというわけではない。問題は次の謂いだ。

「左右さね。私が代られゝば代つて上げても好いが」先生は靜の母の看病の経験から重度の腎臓病の病態に極めて詳しい。先生は専門分野は間違いなく文科であるが、どこか医師のような風格を感じる。性格的にも科学者のように気休めは言えないタイプである(「ウルトラQ」の「バルンガ」の奈良丸博士のように)。「左右さね。」は「そうですねえ……慢性腎炎でその様態だとかなり厳しい感じだなあ。」という率直な第一声である。しかし、問題はその次の「私が代られゝば代つて上げても好いが」だ。これは勿論、先生にとってみれば、冗談でも何でもない。誠に本気で真面目に言っているのである。これこそ直前の「私は病氣になる位なら、死病に罹りたいと思つてる」をダイレクトに受けている言葉なのだ。しかしこれは、「私」には極めて不快な、『冗談はなしにして下さい、先生。』と言いたくなるほどの嫌な発言に受け取られたはずである。このシーンが靜の気休めの励ましで終わり、最終行であっけなく「私」が東京を去る描写で終るのは、そうした「私」の――金を貸してくれたから文句は言えないけれど、今の私に、あの言いは聊か不謹慎――という印象を持ったことを暗示しているように私には思えるのである。しかしそれだけに同時に、読者には先生ののっぴきならない死病願望が逆に印象付けられるとも言えるのではあるが――。]

 

 

  先生の遺書

      (二十二)

 父の病氣は思つた程惡くはなかつた。それでも着いた時は、床(とこ)の上に胡坐(あぐら)をかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢して斯う凝(ぢつ)としてゐる。なにもう起きても好(い)いのさ」と云つた。然し其翌日からは母が止めるのも聞かずに、とう/\床を上げさせて仕舞つた。母は不承不性(ふしやうぶしやう)に太織(ふとおり)の蒲團を疊みながら、「御父さんは御前が歸つて來たので、急に氣が強くおなりなんだよ」と云つた。私には父の擧動がさして虚勢を張つてゐるやうにも思へなかつた。

 私の兄はある職を帶びて遠い九州にゐた。是は萬一の事がある塲合でなければ、容易に父母の顏を見る自由の利かない男であつた。妹は今國(いまくに)へ嫁いだ。是も急塲の間に合ふ樣に、おいそれと呼び寄せられる女ではなかつた。兄妹(きやうだい)三人のうちで、一番便利なのは矢張り書生をしてゐる私丈であつた。其私が母の云ひ付け通り學校の課業を放り出して、休み前に歸つて來たといふ事が、父には大きな滿足であつた。

 「是しきの病氣に學校を休ませては氣の毒だ。御母さんがあまり仰山な手紙を書くものだから不可い」

 父は口では斯う云つた。斯ういつた許りでなく、今迄敷いてゐた床を上げさせて、何時ものやうな元氣を示した。

 「あんまり輕はずみをして又逆回(ぶりかへ)すと不可ませんよ」

 私の此注意を父は愉快さうに然し極めて輕く受けた。

 「なに大丈夫、是で何時もの樣に要心さへしてゐれば」

 實際父は大丈夫らしかつた。家の中を自由に往來して、息も切れなければ、眩暈(めまひ)も感じなかつた。たゞ顏色丈は普通の人よりも大變惡かつたが、是は又今始まつた症狀でもないので、私達(わたしだち)は格別それを氣に留めなかつた。

 私は先生に手紙を書いて恩借(おんしやく)の禮を述べた。正月上京する時に持參するからそれ迄待つてくれるやうにと斷つた。さうして父の病狀の思つた程險惡でない事、此分なら當分安心な事、眩暈も嘔氣も皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪(ふうじや)に就いても一言(ごん)の見舞を附け加へた。私は先生の風邪を實際輕く見てゐたので。

 私は其手紙を出す時に決して先生の返事を豫期してゐなかつた。出した後で父や母と先生の噂などをしながら、遙かに先生の書齋を想像した。

 「こんど東京へ行くときには椎茸でも持つて行つて御上げ」

 「えゝ、然し先生が干した椎茸なぞを食ふかしら」

 「旨くはないが、別に嫌な人もないだらう」

 私には椎茸と先生を結び付けて考へるのが變であつた。

 先生の返事が來た時、私は一寸驚ろかされた。ことにその内容が特別の用件を含んでゐなかつた時、驚ろかされた。先生はたゞ親切づくで、返事を書いてくれたんだと私は思つた。さう思ふと、その簡單な一本(ほん)の手紙が私には大層な喜びになつた。尤も是は私が先生から受取つた第一の手紙に相違なかつたが。

 第一といふと私と先生の間には書信の往復がたび/\あつたやうに思はれるが、事實は決してさうでない事を一寸斷つて置きたい。私は先生の生前にたつた二通の手紙しか貰つてゐない。其一通は今いふ此簡單な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛で書いた大變長いものである。

 父は病氣の性質として、運動を愼しまなければならないので、床を上げてからも、殆んど戸外(そと)へは出なかつた。一度天氣のごく穩やかな日の午後庭へ下りた事があるが、其時は萬一を氣遣つて、私が引き添ふやうに傍(そば)に付いてゐた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせやうとしても、父は笑つて應じなかつた。

やぶちゃんの摑み:

「太織の蒲團」玉糸や熨斗糸(のしいと)で織った平織りの絹織物を言う。次章で周縁地方都市か医師を往診させたりもしており、「私」の家は豪家とは言わないまでも、相応に暮らす富農であることが窺がわれる。

「兄はある職を帶びて遠い九州にゐた」漱石の事蹟(三十代前半に熊本第五高等学校に勤務)を考えれば、熊本がイメージされているか。

「今國(いまくに)」奈良県大和郡山市に今国府(いまご)という地名はあるが、著名な地名に「今国」という地名はない。そもそも固有名詞に極めて禁欲的な本作でこのような特異地名を用いるはずはない。「こゝろ」ではご存知の通り、「近國」となっている。単なる誤植である。

「私は先生の風邪を實際輕く見てゐたので。」この一文は奇異な感じを受ける。「實際輕く見てゐた」感冒がそうではなかった、漱石はこの時、ちらと先生に早々に死んでもらうことを考えたのではないか? そんな気がする一文である。

「私には椎茸と先生を結び付けて考へるのが變であつた」如何にも田舎臭くドン臭い「椎茸」(ドンコ)と、都会的に洗練された先生のギャップを「變」と言っているのであろうが、これはそれこそ「變」な一文と私には映る。漱石が、時々或る漢字を凝っと見ていると、この漢字が何故、そのような読みや意味になるのか分からなく事があると述べているのを何かで読んだことがあるが(これは所謂、ゲシュタルト崩壊の一種として一般人にも普通に生ずる現象ではある)、ここも椎茸と先生が別次元の生き物であるかのようなどうしようもない乖離した対象物としての感覚に陥っているような印象を受ける。私は実にここに、漱石の統合失調症の後遺症を見る。ただ土産として持って行けと言っているに過ぎない母の言葉を受けて、「私」がわざわざ椎茸と先生を「結び付けて考へ」て、「變」と言うこと自体が「變」=異常である、「變」だという妄想(関係妄想の逆変形の如きもの)の痕跡である。]

 

 

  先生の遺書

      (二十三)

 私は退屈な父の相手としてよく將棋盤に向つた。二人とも無精な性質(たち)なので、炬燵にあたつた儘、盤を櫓(やぐら)の上へ載せて、駒を動かすたびに、わざ/\手を掛蒲團の下から出すやうな事をした。時々持駒を失くして、次の勝負の來る迄雙方(さうはう)とも知らずにゐたりした。それを母が灰の中から見付出して、火箸で挾み上げるといふ滑稽もあつた。

 「碁だと盤が高過ぎる上に、足が着いてゐるから、炬燵の上では打てないが、其處へ來ると將棋盤は好(い)いね、斯うして樂に差せるから。無精者には持つて來いだ。もう一番遣らう」

 父は勝つた時は必ずもう一番遣らうと云つた。其癖負けた時にも、もう一番遣らうと云つた。要するに、勝つても負けても、炬燵にあたつて、將棋を差したがる男であつた。始めのうちは珍らしいので、此隱居じみた娯樂が私にも相當の興味を與へたが、少し時日か經つに伴(つ)れて、若い私の氣力は其位な刺戟で滿足出來なくなつた。私は金や香車(きやうしや)を握つた拳を頭の上へ伸して、時々思ひ切つたあくびをした。

 私は東京の事を考へた。さうして漲(みなぎ)る心臟の血潮の奧に、活動々々と打ちつゞける鼓動を聞いた。不思議にも其鼓動の音が、ある微妙な意識狀態から、先生の力で強められてゐるやうに感じた。

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。兩方とも世間から見れば、生きてゐるか死んでゐるか分らない程大人しい男であつた。他(ひと)に認められるといふ點からいへば何方(どつち)も零(れい)であつた。それでゐて、此將棋を差したがる父は、單なる娯樂の相手としても私には物足りなかつた。かつて遊興のために往來をした覺のない先生は、歡樂の交際から出る親しみ以上に、何時(いつ)か私の頭に影響を與へてゐた。たゞ頭といふのはあまりに冷か過ぎるから、私は胸と云ひ直したい。肉のなかに先生の力が喰ひ込んでゐると云つても、血のなかに先生の命が流れてゐると云つても、其時の私には少しも誇張でないやうに思はれた。私は父が私の本當の父であり、先生は又いふ迄もなく、あかの他人であるといふ明白な事實を、ことさらに眼の前に並べて見て、始めて大きな眞理でも發見しかたの如くに驚ろいた。

 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今迄珍らしかつた私が段段陳腐になつて來た。是は夏休みなどに國へ歸る誰でもが一樣に經驗する心持だらうと思ふが、當座の一週間位(くらゐ)は下にも置かないやうに、ちやほや歡待されるのに、其峠を定規(ていき)通(とほ)り通り越すと、あとはそろ/\家族の熱が冷めて來て、仕舞には有つても無くつても構はないものゝやうに粗末に取り扱はれ勝になるものである。私も滯在中に其峠を通り越した。其上私は國へ歸るたびに、父にも母にも解らない變な所を東京から持つて歸つた。昔でいふと儒者の家へ切支丹の臭を持ち込むやうに、私の持つて歸るものは父とも母とも調和しなかつた。無論私はそれを隱してゐた。けれども元々身に着いてゐるものだから、出すまいと思つても、何時かそれが父や母の眼に留つた。私はつい面白くなくなつた。早く東京へ歸りたくなつた。

 父の病氣は幸ひ現狀維持の儘で、少しも惡い方へ進む模樣は見えなかつた。念のためにわざ/\遠くから相當の醫者を招いたりして、愼重に診察して貰つても矢張り私の知つてゐる以外に異狀は認められなかつた。私は冬休みの盡きる少し前に國を立つ事にした。立つと云ひ出すと、人情は妙なもので、父も母も反對した。

 「もう歸るのかい、まだ早いぢやないか」と母が云つた。

 「まだ四五日居ても間に合ふんだらう」と父が云つた。

 私は自分の極めた出立(しゆつたつ)の日を動かさなかつた。

やぶちゃんの摑み:「私」の家族構成が明らかになる。父母と九州に在勤する兄の他に近隣県の他家へ嫁いでいる妹がいる。妹の嫁ぎ先の姓は「關」(せき)である(「こゝろ」「中」十四)。私の「こゝろ」の授業を受けた諸君は、この章を試験の範囲としたはずである。思い出されたい。

「要するに、勝つても負けても、炬燵にあたつて、將棋を差したがる男であつた」「私」の父親に対する失望に近い感情が表明される。それは更に「それでゐて、此將棋を差したがる父は、單なる娯樂の相手としても私には物足りなかつた」と畳み掛けられるテッテ的なものとしてである。それは、私の中で血肉化している赤の他人である先生、肉親である父より遙かに自分に大きな影響を与えている巨人のような存在感のある人物としての先生、人間として父よりも人生上の「父」なる必要不可欠な存在としての先生を読者に印象付け、遂に実父を捨てて最早この世にいない先生を求めて東京行の汽車に飛び乗ってしまう「私」への伏線である。それを読者が殊更に反道徳的なものとして捉えないようにするための希釈的伏線である。が、「始めて大きな眞理でも發見しかたの如くに驚ろいた」等、やや大袈裟過ぎて私には逆に作為的で不自然な印象を与える章でもある。

「のつそつ」元来は伸びたり縮んだりする樣であるが、ここは退屈した様子を言う。その具体的な動作が正に前の「私は金や香車を握つた拳を頭の上へ伸して、時々思ひ切つたあくびをした。」と表わされている。

「變な所」先生や大学で得られた新時代の西洋の学問・知識・文化に基づく新しいものの考え方や都会風の新しい習俗。

「儒者の家へ切支丹の臭を持ち込むやうに」ここも試験問題にしたところ。日本の伝統的道徳観を保持した父母を「儒者」に、外国の目新しい文化を身につけた自分を「切支丹」に比喩する。実はここには更に、後に先生によって表明されるところの、漱石の田舎蔑視の意識、田舎者⇔都会人、前近代的封建主義者⇔近代的知識人という二項対立をも透かし見せてもいる部分である。]

 

 

  先生の遺書

      (二十四)

 東京へ歸つて見ると、松飾はいつか取拂はれてゐた。町は寒い風の吹くに任せて、何處を見ても是といふ程の正月めいた景氣はなかつた。

 私は早速先生のうちへ金を返しに行つた。例の椎茸も序に持つて行つた。たゞ出すのは少し變だから、母が是を差上げて呉れといひましたとわざ/\斷つて奧さんの前へ置いた。椎茸は新らしい菓子折に入れてあつた。鄭寧(ていねい)に禮を述べた奧さんは、次の間へ立つ時、其折を持つて見て、輕いのに驚ろかされたのか、「こりや何の御菓子」と聞いた。奧さんは懇意になると、斯んな所に極めて淡泊な小供らしい心を見せた。

 二人とも父の病氣について、色々懸念の問を繰り返してくれた中に、先生は斯んな事をいつた。

 「成程容體を聞くと、今が今何うといふ事もないやうですが、病氣が病氣だから餘程氣をつけないと不可ません」

 先生は腎臟の病に就いて私の知らない事を多く知つてゐた。

 「自分で病氣に罹つてゐながら、氣が付かないで平氣でゐるのがあの病の特色です。私の知つたある士官は、とう/\それで遣られたが、全く嘘のやうな死に方をしたんですよ。何しろ傍に寢てゐた細君が看病をする暇(ひま)もなんにもない位(くらゐ)なんですからね。夜中に一寸(ちよつと)苦しいと云つて、細君を起したぎり、翌る朝はもう死んでゐたんです。しかも細君は夫が寢てゐるとばかり思つてたんだつて云ふんだから」

 今迄樂天的に傾むいてゐた私は急に不安になつた。

 「私の父(おやぢ)もそんなになるんでせうか。ならんとも云へないですね」

 「醫者は何と云ふのです」

 「醫者は到底治らないといふんです。けれども當分の所心配はあるまいともいふんです」

 「夫ぢや好(い)いでせう。醫者が左右いふなら。私の今話したのは氣が付かずにゐた人の事で、しかもそれが隨分亂暴な軍人なんだから」

 私は稍(やゝ)安心した。私の變化を凝と見てゐた先生は、それから斯う付け足した。

 「然し人間は健康にしろ病氣にしろ、どつちにしても脆いものですね。いつ何んな事で何んな死にやうをしないとも限らないから」

 「先生もそんな事を考へて御出ですか」

 「いくら丈夫の私でも、滿更考へない事もありません」

 先生の口元には微笑の影が見えた。

 「よくころりと死ぬ人があるぢやありませんか。自然に。それからあつと思ふ間(ま)に死ぬ人もあるでせう。不自然な暴力で」

 「不自然な暴力つて何ですか」

 「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使ふんでせう」

 「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力の御蔭ですね」

 「殺される方はちつとも考へてゐなかつた。成程左右いへば左右だ」

 其日はそれで歸つた。歸つてからも父の病氣の事はそれ程苦にならなかつた。先生のいつた自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいふ言葉も、其塲限りの淺い印象を與へた丈で、後は何等のこだわりを私の頭に殘さなかつた。私は今迄幾度か手を着けやうとしては手を引つ込めた卒業論文を、愈(いよ/\)本式に書き始めなければならないと思ひ出した。

やぶちゃんの摑み:先生の口から「自殺」の語が語られる初出部分(本文でも初出)として重要なシーンである。ここでタイトル画が変更される。このフォーヴな人物を配したタイトル画は実にこの後、(五十三)まで用いられる。(五十三)章とは、実は「こゝろ」「中」の終わりから一つ目(「十七」)で、「私」が前章で到着した先生の遺書を、初めて読み始めるシーンである。残念ながらこのタイトル画は恐らく総て、作品の内容を考えた画ではない。しかし、(五十三)までが一種の「私」の苦悩を中心に展開することを考えると、この考える人みたような人物の背景は何となくしっくり来る(但し、これはスカートを穿いた女性像であろう)。

「松飾はいつか取拂はれてゐた」当時の習慣から言って(六日夕刻に松飾は外す)これは1月7日以降である。大学の始業は1月8日であるから、この訪問は明治451912)年(この時の「私」の年齢は推定23歳)1月7日であった可能性が高い。

「夜中に一寸苦しいと云つて、細君を起したぎり、翌る朝はもう死んでゐたんです。しかも細君は夫が寢てゐるとばかり思つてたんだつて云ふんだから」これは種々の腎臓病が悪化し、脳卒中を伴った尿毒症性昏睡若しくはそれによって二次的に生じた心不全のための卒倒・昏睡そして死の様態であろう。

「殺される方はちつとも考へてゐなかつた。成程左右いへば左右だ」先生は自身の自殺のことばかりを考えていて「殺される方はちつとも考へてゐなかつた」のである。先生の尋常ならざる不断の自殺念慮を明白に見て取ることが出来る台詞である。

「私は今迄幾度か手を着けやうとしては手を引つ込めた卒業論文を、愈本式に書き始めなければならないと思ひ出した」この明治451912)年の東京帝国大学の卒論提出期限は4月30日であった。本件に関しては、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注が詳しい。そこで藤井氏は明治391906)年東京帝国大学を卒業した作家森田草平の昭和221947)年の作品「漱石先生と私」から引用して卒業論文の『提出の期限は四月一杯と前から極っていた』と記す。更に金子健二『金子健二の日記によると、このあと五月末に卒業論文の成績発表、そしてその合格者への口頭試験は六月中旬に行われている』とある(藤井氏が参照したのは1948年いちろ社刊の「人間漱石」からである)。金子健二(明治18(1880)年~昭和371962)年)は、新潟県出身の英文学者。高田中学校から東京郁文館中学校・第四高等学校を経、明治381905)年に東京帝国大学英文科を卒業している。]

 

 

  先生の遺書

      (二十五)

 其年の六月に卒業する筈の私は、是非共此論文を成規通(どほ)り四月一杯(はい)に書き上げて仕舞はなければならなかつた。二、三、四と指を折つて餘る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を疑ぐつた。他のものは餘程前から材料を蒐(あつ)めたり、ノートを溜めたりして、餘所目にも忙がしさうに見えるのに、私丈はまだ何にも手を着けずにゐた。私にはたゞ年が改たまつたら大いに遣らうといふ決心丈があつた。私は其決心で遣り出した。さうして忽ち動けなくなつた。今迄大きな問題を空(くう)に描いて、骨組丈は略(ほゞ)出來上つてゐる位(くらゐ)に考へてゐた私は、頭を抑(おさ)えて惱み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。さうして練り上げた思想を系統的に纏める手數を省くために、たゞ書物の中にある材料を並べて、それに相當な結論を一寸付け加へる事にした。

 私の選擇した問題は先生の專門と緣故の近いものであつた。私がかつてその選擇に就いて先生の意見を尋ねた時、先生は好(い)いでせうと云つた。狼狽した氣味の私は、早速先生の所へ出掛けて、私の讀まなければならない參考書を聞いた。先生は自分の知つてゐる限りの知識を、快よく私に與へて呉れた上に、必要の書物を二三册貸さうと云つた。然し先生は此點について毫(がう)も私を指導する任に當らうとしなかつた。

 「近頃はあんまり書物を讀まないから、新らしい事は知りませんよ。學校の先生に聞いた方が好いでせう」

 先生は一時非常の讀書家であつたが、其後何ういふ譯か、前程此方面に興味が働らかなくなつたやうだと、かつて奧さんから聞いた事があるのを、私は其時不圖思ひ出した。私は論文を餘所(よそ)にして、そゞろに口を開いた。

 「先生は何故元のやうに書物に興味を有ち得ないんですか」

 「何故といふ譯もありませんが。‥‥つまり幾何(いくら)本を讀んでもそれ程えらくならないと思ふ所爲(せゐ)でせう。それから‥‥」

 「それから、未だあるんですか」

 「まだあるといふ程の理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のやうに極(きまり)が惡かつたものだが、近頃は知らないといふ事が、それ程の恥でないやうに見え出したものだから、つい無理にも本を讀んで見やうといふ元氣が出なくなつたのでせう。まあ早く云へば老い込んだのです」

 先生の言葉は寧ろ平靜であつた。世間に脊中を向けた人の苦味(くみ)を帶びてゐなかつた丈に、私にはそれ程の手應(てごたへ)もなかつた。私は先生を老い込んだとも思はない代りに、偉いとも感心せずに歸つた。

 それからの私は殆ど論文に祟られた精神病者の樣に眼を赤くして苦しんだ。私は一年前に卒業した友達に就いて、色々な樣子を聞いて見たりした。そのうちの一人は締切の日に車で事務所へ馳(か)けつけて漸く間に合はせたと云つた。他(た)の一人は五時を十五分程後(おく)らして持つて行つたため、危うく跳ね付けられやうとした所を、主任教授の好意でやつと受理して貰つたと云つた。私は不安を感ずると共に度胸を据ゑた。毎日机の前で精根のつゞく限り働らいた。でなければ、薄暗(うすくら)い書庫に這入つて、高い本棚のあちらこちらを見廻した。私の眼(め)は好事家が骨董でも掘り出す時のやうに脊表紙の金文字をあさつた。

 梅が咲くにつけて寒い風は段々向を南へ更へて行つた。それが一仕切(ひとしきり)經つと、櫻の噂がちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のやうに正面許り見て、論文に鞭(むちう)たれた。私はつひに四月の下旬が來て、やつと豫定通りのものを書き上げる迄、先生の敷居を跨(またが)なかつた。

 

やぶちゃんの摑み:上の通り、この回には最後に飾罫がない。

「私の選擇した問題は先生の專門と緣故の近いものであつた」という叙述により、先生の専攻した学科と「私」の専攻している学科が同一分野であることが分かる。その専門分野は如何なるものであったかということについて、私は嘗て考察したことがあるが、先ず勿論、理科ではなく文科、本文から先生はその分野の新知識の吸収に最早積極的ではないから、そのような新知識・新学説や今日的判断・新しい判例を必要とする法科ではあり得ない。そうなると漱石の専門であった英文科等が頭に浮かぶのであるが、そうした文学科や史学科であるにしては、先生と「私」との会話に一切そうした具体的会話が見出せない点、除外するべきであると思われる。そうなると哲学か宗教か心理学辺りが同定候補となるが、哲学や宗教はKの専門分野で、「こゝろ」「下」二十四章でKとは「後では專門が違ましたから」という表現が現われるのでこれらも排除される。私は二人の専門は、私も専攻したかった心理学ではなかろうかと現在は思っている。明治の末年と言えば心理学は正に急速に興隆してきた学問であった。新刊書も続々出現し、有島武郎や芥川龍之介等、多くの邦人作家もそうした学術書を参考にして実験的な小説を書いたりした。因みに作品名「心」にも相応しいし、統合失調症に罹患した経験のある漱石には複雑な思いはあったであろうが、興味深い学問であったはずだ。なお、当時の東京帝国大学の学科については、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の本章の「練り上げた思想」の注に、東京帝国大学文科では『明治三十七年九月から従来の九学科制が廃止され、哲学科、史学科、文学科からなる三学科制がとられていた。ちなみに哲学科のなかの専修学科(明治43より)としては、「哲学及哲学史」、「支那学」、「印度哲学」、「心理学」、「倫理学」、「宗教学」、「美学」、「教育学」、「社会学」があった』とある。先生の卒業を私は明治311898)年に想定しているので、東京大学文学部のサイトで9学科制を確認すると以下の通りである。

第一 哲学科

第二 国文学科

第三 漢学科

第四 史学科

第五 博言学科

第六 英文学科

第七 独逸文学科

第八 国史科

第九 仏蘭西文学科

以上の条件を総合し、この9学科を眺めると矢張り先生は第一哲学科が相応しい気がする。そうしてKは哲学史か宗教を専攻し、先生は心理学を取ったのではなかったか。そうして「私」の卒業は明治451912)年であるから、上記の専修科について他の学科も再度確認しておくと、明治431910)年9月で3学科19専修学科を確認出来る。

第一 哲学科

  哲学・支那哲学・印度哲学・心理学・倫理学・宗教学・美学・教育学・社会学

第二 史学科

  国史学・東洋史学・西洋史学

第三 文学科

  国文学・支那文学・梵文学・英吉利文学・独逸文学・仏蘭西文学・言語学

矢張り「私」が学んでいそうな専修学科は第一哲学科の心理学であろう。

「そゞろに」通常は、何となく、といった意味であるが、ここは肝心の論文の話を外れて、軽率にもとか不覚にも、とったニュアンスか。]

 

 

  先生の遺書

      (二十六)

 私の自由になつたのは、八重櫻の散つた枝にいつしか靑い葉が霞むやうに伸び始める初夏の季節であつた。私は籠を拔け出した小鳥の心をもつて、廣い天地を一目(め)に見渡しながら、自由に羽搏きをした。私はすぐ先生の家へ行つた。枳殻(からたち)の垣が黑ずんだ枝の上に、萌(もえ)るやうな芽を吹いてゐたり、柘榴の枯れた幹から、つや/\しい茶褐色の葉が、柔らかさうに日光を映してゐたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて始めてそんなものを見るやうな珍らしさを覺えた。

 先生は嬉しさうな私の顏を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といつた。私は「御蔭(ごかげ)で漸く濟みました。もう何にもする事はありません」と云つた。

 實際其時の私は、自分のなすべき凡ての仕事が既に結了して、是から先は威張つて遊んで居ても構はないやうな晴やかな心持でゐた。私は書き上げた自分の論文に對して充分の自信と滿足(まんそく)を有つてゐた。私は先生の前で、しきりに其内容を喋々(てふ/\)した。先生は何時もの調子で、「成程」とか、「左右ですか」とか云つてくれたが、それ以上の批評は少しも加へなかつた。私は物足りないといふよりも、聊か拍子拔けの氣味であつた。それでも其日私の氣力は、因循らしく見える先生の態度に逆襲を試みる程に生々(いき/\)してゐた。私は靑く蘇生(よみがへ)らうとする大きな自然の中に、先生を誘ひ出さうとした。

 「先生何處かへ散步しませう。外へ出ると大變好(い)い心持です」

 「何處へ」

 「私は何處でも構はなかつた。たゞ先生を伴れて郊外へ出たかつた。

 一時間の後(のち)、先生と私は目的通(とほ)り市を離れて、村とも町とも區別の付かない靜かな所を宛(あて)もなく步いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を挘(も)ぎ取つて芝笛(しばふえ)を鳴らした。ある鹿兒島人を友達にもつて、その人の眞似をしつゝ自然に習ひ覺えた私は、此芝笛といふものを鳴らす事が上手であつた。私が得意にそれを吹きつゞけると、先生は知らん顏をして餘所(よそ)を向いて步いた。

 やがて若葉に鎖ざされたやうに蓊欝(こんもり)した小高い一構(ひとかま)への下に細い路が開けた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだら/\上りになつてゐる入口を眺めて、「這入つて見やうか」と云つた。私はすぐ「植木屋ですね」と答へた。

 植込の中を一うねりして奧へ上(のぼ)ると左側に家(うち)があつた。明け放つた障子の内はがらんとして人の影も見えなかつた。たゞ軒先に据ゑた大きな鉢の中に飼つてある金魚が動いてゐた。

 「靜かだね。斷わらずに這入つても構はないだらうか」

 「構はないでせう」

 二人は又奧の方へ進んだ。然しそこにも人影は見えなかつた。躑躅(つつし)が燃えるやうに咲き亂れてゐた。先生はそのうちで樺色(かばいろ)の丈の高いのを指して、「是は霧島でせう」と云つた。

 芍藥(しやくやく)も十坪あまり一面に植付けられてゐたが、まだ季節が來ないので花を着けてゐるのは一本もなかつた。此芍藥畠の傍にある古びた緣臺のやうなものゝ上に先生は大の字なりに寢た。私は其(その)餘つた端の方に腰を卸して烟草を吹かした。先生は蒼い透き徹るやうな空を見てゐた。私は私を包む若葉の色に心を奪はれてゐた。其若葉の色をよく/\眺めると、一々違(ちか)つてゐた。同じ楓の樹でも同じ色を枝に着けてゐるものは一つもなかつた。細い杉苗の頂(いたゞ)に投げ被(かぶ)せてあつた先生の帽子が風に吹かれて落ちた。

やぶちゃんの摑み:

「因循らしく見える先生の態度に逆襲を試みる」これは極めて特殊な遣い方がなされいるように思われる。「因循」は辞書的には「①古い習慣や方法等に従うばかりで、それを一向に改めようとしないこと。②思い切りが悪く、ぐずぐずしている様子。引っ込み思案な樣」を言うこれはこの日の先生の態度が特別に「因循らしく見える」のでは勿論、ない。普段から何やらん謎めいた過去の出来事に拘って、はっきり物を言ってくれない先生、多くを語らず一面引っ込み思案な暗い感じに見える先生に対して、この正に自由を謳歌して飛び立たんばかりのこの今の「私」が「逆襲を試み」ようとしているのである。

「かなめ」バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ属カナメモチ Photinia glabra のこと。アカメガシ。ソバノキ。若葉は紅色を帯びて美しく、丁度、5月頃に小さな白色の五弁花を多数つけるが、描写のないところを見ると開花前か。生垣によく用いられる。葉は互生し、両端の尖った長楕円形。葉長は5~10cm程で革質、縁に細かな鋸歯を持つ。葉の表面が滑らかで丈夫な点で「芝笛」(=草笛)の素材となる。

「蓊欝した」当て読み。本来は「ヲウウツ(オウウツ)」と読む。草や木が盛んに茂っている様を言う。

「植木屋」本章の舞台について、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」では、ここを現在の巣鴨の染井辺に同定している。私の所持する嘉永年間(18481853)に完備した「尾張屋(金鱗堂)板・江戸切絵図」を見ても、丁度、建部内匠頭屋敷(現・染井霊園)の北東、染井稲荷の北西の部分に「此辺染井村植木屋多シ」と記す。明治期に至ってもここ染井は植木屋が多かった。『ここでは先生宅からおそらくは徒歩で「一時間の後』に植木屋のある一角にたどりついたというのだから、先生宅が私の下宿のある帝大近辺』(これにつては藤井氏と同様、(二十)の「午飯を食ひに學校から歸つてきて」のところで「私」の下宿が東京帝国大学に極めて近い位置、本郷周辺にあり、更に(九)では先生が散歩をしようと言ってこの下宿を訪ねていることから考えると先生の宅も矢張り本郷近辺からそう遠くない位置にあるものと私も考えるものである)『からさして遠くないとすれば、帝大から三、四キロメートルの距離にある染井』がイメージされているのではないかと推測されている。藤井氏は続く「霧島」の注でも川添登『東京の原風景 都市と田園との交流』(昭和541979)年NHKブックス刊)より引用して、『五種のキリシマツツジが鹿児島から送られ、そのうちの三種が、染井の伊藤伊兵衛のもとに来たのは明暦二年(一六五六)のことであり、以後つつじが大流行し、植木業の盛んな地域として染井もそれにつれて大きく発展した。明治四十四年刊の『東京近郊名所図会17』にも「種樹家多し」として巣鴨、上駒込伝中、染井辺には庭樹及び盆栽を作りて産業と為すもの多し。栽花園内山長太郎、群芳園高田弥三郎、梅谷園荒井与左衛門、植草園伊藤太郎吉等は巣鴨大通りに居住するものにして。染井辺には殊に多しとする。一々歴覧して花間に逍遥せば。いふべからざる興味あらむ」』と記されている旨、記載があり、加えて、次の「楓」の注でも同書を根拠として『巣鴨・染井でつつじの次に知られていたのは楓であった』とある。この植木屋を染井に同定すること、私も激しく同感するものである。――実は、お読みになられた方はお分かり頂けたこと思うが――私の書いた「こゝろ」のフェイク「こゝろ佚文」の舞台は染井霊園である――しかしこれは、藤井氏のこれらの注を受けて書いたものではないことをここに明言する――だって実はこれは、そのすぐ裏手にある芥川龍之介の墓(慈眼寺)と、そうして……そうして私の、ある秘かな実体験を潜ませたフェイクだからである。……この偶然に私は、私と「こゝろ」との深い因緣、業(ごう)のようなものを、強く激しく感じるのである……。]

 

 

  先生の遺書

      (二十七)

 私はすぐ其帽子を取り上げた。所々に着いてゐる赤土を爪で彈きながら先生を呼んだ。

 「先生帽子が落ちました」

 「ありがたう」

 身體(からだ)を半分起してそれを受取つた先生は、起きるとも寢るとも片付(かたづ)かない其姿勢の儘で、變な事を私に聞いた。

 「突然だが、君の家には財産が餘程あるんですか」

 「あるといふ程ありやしません」

 「まあ何の位あるのかね。失禮の樣だが」

 「何の位つて、山と田地が少しある限(ぎり)で、金なんか丸で無いんでせう。

 先生が私の家の經濟に就いて、問らしい問を掛けたのはこれが始めてゞあつた。私の方はまだ先生の暮し向に關して、何も聞いた事がなかつた。先生と知合になつた始め、私は先生が何うして遊んでゐられるかを疑ぐつた。其後も此疑ひは絶えず私の胸を去らなかつた。然し私はそんな露骨な問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけと許り思つて何時でも控えてゐた。若葉の色で疲れた眼を休ませてゐた私の心は、偶然また其疑ひに觸れた。

 「先生は何うなんです。何の位の財産を有つてゐらつしやるんですか」

 「私は財産家と見えますか」

 先生は平生(へいせい)から寧ろ質素な服裝をしてゐた。それに家内は小人數(こにんず)であつた。從つて住宅も決して廣くはなかつた。けれども其生活の物質的に豐な事は、内輪に這入り込まない私の眼にさへ明らかであつた。要するに先生の暮しは贅澤といへない迄も、あたぢけなく切り詰めた無彈力性のものではなかつた。

 「左右でせう」と私が云つた。

 「そりや其(その)位(くらゐ)の金はあるさ。けれども決して財産家ぢやありせん。財産家ならもつと大きな家でも造るさ」

 此時先生は起き上つて、緣臺の上に胡坐(あぐら)をかいてゐたが、斯う云ひ終ると、竹の杖の先で地面の上へ圓のやうなものを描き始めた。それが濟むと、今度はステツキを突き刺すやうに眞直に立てた。

 「是でも元は財産家なんだがなあ」

 先生の言葉は半分獨言のやうであつた。それですぐ後に尾(つ)いて行き損なつた私は、つい默つてゐた。

 「是でも元は財産家なんですよ、君」と云ひ直した先生は、次に私の顏を見て微笑した。私はそれでも何とも答へなかつた。寧ろ不調法で答へられなかつたのである。すると先生が又問題を他へ移した。

 「あなたの御父さんの病氣は其後何うなりました」

 私は父の病氣について正月以後何にも知らなかつた。月々國から送つてくれる爲替(かはせ)と共に來る簡單な手紙は、例の通り父の手蹟であつたが、病氣の訴へはそのうちに殆ど見當らなかつた。其上書體も確であつた。此種の病人に見る顫(ふるへ)が少しも筆の運を亂してゐなかつた。

 「何とも云つて來ませんが、もう好(い)いんでせう」

 「好(よ)ければ結構だが、病症が病症なんだからね」

 「矢張(やつぱ)り駄目ですかね。でも當分(たうふん)は持ち合つてるんでせう。何とも云つて來ませんよ」

 「さうですか」

 私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病氣を尋ねたりするのを、普通の談話―胸に浮かんだ儘を其通り口にする、普通の談話と思つて聞いてゐた。所が先生の言葉の底には兩方を結び付ける大きな意味があつた。先生自身の經驗を持たない私は無論其處に氣が付く筈がなかつた。

やぶちゃんの摑み:

「あたじけない」は「吝嗇(けち)な」「しわい」という意味。元来は悪いことを示す接頭語「あた」+中世・近世かけて用いられた「よくない」「つまらない」の意の形容詞「しげない」がついたもの。如何にも吝嗇臭く生活を切り詰めていることが伝わってくるような守銭奴の如き生活様態ではないという謂い。

「竹の杖の先で地面の上へ圓のやうなものを描き始めた。それが濟むと、今度はステツキを突き刺すやうに眞直に立てた。」本作にしばしば現われる円運動、それも先生自身が明確に図形として描き出す円、と中心点への支持のシーン。幾つかの円運動中、最も顕在化されており、漱石の確信犯的謎かけの場面である。私はとりあえずこれを“uroboros”ウロボロス(尾を飲み込む蛇)を見た。それは錬金術に於ける相反する不完全なる二対象の結婚――理想的結合の完全性の象徴に始まり、始原・循環から永劫回帰、死/再生・破壊/創造の両義的意味を探ったりもしたが、未だに納得可能な答えは出ない(本件を素材とした眼から鱗の論文にも出逢ったことはない)。とりあえず複数のシンボルを引き出し得る(闘争としての「蛇」という都合の良い解釈も含めて)点ではウロボロスは都合がよい。勿論、私も最初期に考えたが、「心」という形象――漢字の象形及びその語義からのシンボルととることも可能であるが、それでは他にも現われる総ての円運動を説明することが苦しく感じられる。私は嘗て『秘密を共有することの痛み-「こゝろ」考 書き捨て』で、この円運動を求心力と遠心力の拮抗という象徴で解釈してみた。よろしければそちらも御覧あれ。これは今後も「心」最大の謎であり続けるであろう。【2016年6月16日追記】今回、芥川龍之介の「侏儒の言葉」のオリジナルな全注釈を行っている中で、その一章、

   *

       死

 マイレンデルは頗る正確に死の魅力を記述してゐる。實際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圈外に逃れることは出來ない。のみならず同心圓をめぐるやうにぢりぢり死の前へ步み寄るのである。

   *

を考察するうち(その結果である『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 死』をリンクしておく)、森鷗外晩年の知られた随想「妄想」(まうぞう(もうぞう):明治四四(一九一一)年『三田文學』)の後半に(引用は岩波版「鷗外選集」に拠ったが、恣意的に正字化した。「フイリツプ マインレンデル」「ハルトマン」はルビ。下線はやぶちゃん)、

   *

 自分は此儘で人生の下り坂を下つて行く。そしてその下り果てた所が死だといふことを知つて居る。
 併しその死はこはくはない。人の説に、老年になるに從つて增長するといふ「死の恐怖」が、自分には無い。

 若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に橫はつてゐる謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。次第に薄らいだ。解けずに橫はつてゐる謎が見えないのではない。見えてゐる謎を解くべきものだと思はないのでもない。それを解かうとしてあせらなくなつたのである。

 この頃自分は Philipp Mainlaender(フイリツプ マインレンデル)が事を聞いて、その男の書いた救拔の哲學を讀んで見た。

 此男は Hartmann(ハルトマン)の迷の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の𢌞りに大きい圏を畫いて、震慄しながら步いてゐる。その圏が漸く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項(うなじ)に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。

 さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。

 自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬(しようけい)」も無い。

 死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。

   *

とあるのに行き当たった。この叙述は、まさにこの「先生」の円運動と異様なほど酷似しているように思われてならない。或いは、漱石は鷗外のこの一節をヒントとして「先生」の円運動を創成したものではあるまいか?

「不調法」ルビは「ふてうはう」に見えるが画像のすれの可能性もあり、読みを振らなかった。原義は行き届かず、手際の悪いことで、ここではどう応答してよいのか、うまい答えが浮かばなかったので黙っていたということを指す。]

 

 

  先生の遺書

      (二十八)

 「君のうちに財産があるなら、今のうちに能く始末をつけて貰つて置かないと不可いと思ふがね、餘計な御世話だけれども。君の御父さんが達者なうちに、貰うものはちやんと貰つて置くやうにしたら何うですか。萬一の事があつたあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」

 「えゝ」

 私は先生の言葉に大した注意を拂はなかつた。私の家庭でそんな心配をしてゐるものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じてゐた。其上先生のいふ事の、先生として、あまりに實際的なのに私は少し驚ろかされた。然し其處は年長者に對する平生の敬意が私を無口にした。

 「あなたの御父さんが亡くなられるのを、今から豫想して掛るやうな言葉遣をするのが氣に觸つたら許して呉れ玉へ。然し人間は死ぬものだからね。何んなに達者なものでも、何時死ぬか分らないものだからね」

 先生の口氣は珍らしく苦々しかつた。

 「そんな事をちつとも氣に掛けちやゐません」と私は辯解した。

 「君の兄妹(きやうだい)は何人でしたかね」と先生が聞いた。

 先生は其上に私の家族の人數を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父や叔母の樣子を問ひなどした。さうして最後に斯ういつた。

 「みんな善(い)い人ですか」

 「別に惡い人間といふ程のものもゐないやうです。大抵田舍者ですから」

 「田舍者は何故惡くないんですか」

 私は此追窮に苦しんだ。然し先生は私に返事を考へさせる餘裕さへ與へなかつた。

 「田舍者は都會のものより却つて惡い位なものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、是といつて、惡い人間はゐないやうだと云ひましたね。然し惡い人間といふ一種の人間が世の中にあると君は思つてゐるんですか。そんな鑄型(いかた)に入れたやうな惡人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際(まきは)に、急に惡人に變るんだから恐ろしいのです。だから油斷が出來ないんです」

 先生のいふ事は、此處で切れる樣子もなかつた。私は又此處で何か云はうとした。すると後の方で犬が急に吠え出した。先生も私も驚いて後(うしろ)を振り返つた。

 緣臺の橫から後部へ掛けて植ゑ付けてある杉苗の傍(そば)に、熊笹が三坪程地を隱すやうに茂つて生えてゐた。犬はその顏と脊を熊笹の上に現はして、盛んに吠え立てた。そこへ十(とを)位(くらゐ)の小供が馳けて來て犬を叱り附けた。小供は徽章(きしやう)の着いた黑い帽子を被つたまゝ先生の前へ廻つて禮をした。

 「叔父さん、這入つて來る時、家に誰もゐなかつたかい」と聞いた。

 「誰もゐなかつたよ」

 「姉さんやおつかさんが勝手の方に居たのに」

 「さうか、居たのかい」

 「あゝ。叔父さん、今日(こんち)はつて、斷つて這入つて來ると好かつたのに」

 先生は苦笑した。懷中から蟇口を出して、五錢の白銅(はくどう)を小供の手に握らせた。

 「おつかさんに左右云つとくれ。少し此處で休まして下さいつて」

 小供は怜悧(りかう)さうな眼に笑ひを漲(みなぎ)らして、首肯(うなづ)いて見せた。

 「今斥候(せつこう)長になつてる所なんだよ」

 小供は斯う斷つて、躑躅(つゞじ)の間を下の方へ駈け下りて行つた。尤も尻尾を高く卷いて小供の後を追ひ掛けた。しばらくすると同じ位の年格好の小供(ことも)が二三人、是も斥候長の下りて行つた方へ駈けていつた。

やぶちゃんの摑み:本章から(三十)まで、先生のトラウマである財産問題が語られる重要なシーンである。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」には「達者なうちに、貰うものはちやんと」の注として、この頃の旧民法規定が詳細に解説されている。詳細はそちらを披見されたいが、要は戸主財産は長男の単独相続を原則規定としながら、実際には兄弟姉妹への財産配分分与が行われたとある。『その塲合、相続人である長男には二分の一、残りの二分の一をその長男も含めた兄弟姉妹で均等分割する(姉妹の放棄はありうる)』とある。

♡「田舍者は何故惡くないんですか」ここからが朗読時の摑みである。次の台詞は「私」の呼吸を想定しながら、その息をも食うように、陰鬱なる昂奮と共に語り出すのである。

「三坪」「こゝろ」では数字にもルビがあり、「みつぼ」と読んでいる。

♡「田舍者は都會のものより却つて惡い位なものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、是といつて、惡い人間はゐないやうだと云ひましたね。然し惡い人間といふ一種の人間が世の中にあると君は思つてゐるんですか。そんな鑄型に入れたやうな惡人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に惡人に變るんだから恐ろしいのです。だから油斷が出來ないんです」「私」が田舎で感じた違和感に発した漱石の田舎蔑視の意識表明が先生の口を通して明白な憎悪となって流露する。田舎者⇔都会人=前近代的封建主義者⇔近代的知識人という二項対立に更に悪人⇔善人の対立構造をやや無理矢理に嵌め込み、トリプルで重層強化させる。ここを江藤淳を初め、何人もの研究者が荀子の性悪説と絡めて論じている。これは漱石が装丁を総て担当した「こゝろ」の単行本表紙「康煕字典」の「心」の項の語義パートの一部を引き、その冒頭が「荀子」の「解蔽篇」であるのを根拠とするのであるが、私は見当違いも甚だしいと思う。そもそも単行本表紙の「康煕字典」の「心」の項は「荀子」の「解蔽篇」の引用だけではない。それに「禮大學疏」「釋名」「易復卦」(とその「註」)と続く。そこに示されていない「荀子」の思想を援用して解釈するなら、これら「禮大學疏」「釋名」「易復卦」総てを等価に用いて論ずるべきである。私はこれらを解釈の方途にすることに否定的なのではない。しっかり総てを使い切れと言いたいのだ。「荀子」だけを選択して自説に牽強付会しておいて、鬼の首を取ったかのような気になっているのがおかしいと言っているのである。そもそも先生の「平生はみんな善人なんです」の謂いの何処が性悪説なんだ?! この私と言う馬鹿に分かるように教えてくんな!

♡「すると後の方で犬が急に吠え出した。先生も私も驚いて後を振り返つた」本作ではこうした会話の中断がしばしば起こるが、これは新聞連載小説の作法としては極自然に思われる。精読するわけではない新聞小説には、こうしたインターミッションが不可欠であるし、第一、他の章に見られるようなやや造ったソクラテスの弁論みたようなソリッドな表明より、この方が私にはリアルでしっくりくる。

♡「小供は徽章の着いた黑い帽子を被つたまゝ先生の前へ廻つて禮をした」勘違いしてはいけない。この少年は西洋風の学帽(小学校指定のものではなく軍帽を真似たこの子のプライベートな帽子の可能性もある)を被っているが、服は当然、和服である。

♡「五錢の白銅」菊五銭白銅貨かそれに次ぐ稲五銭白銅貨の何れかである。直径20.6㎜。品位・銅750/ニッケル250。量目・4.67g。本邦初の日本人技術者のみによって鋳造された記念すべき硬貨であったが、簡単な図案であったために偽造が相次いだといわれる。年号側が製造年号(外円上部)下中央に大きく「五」その下外円に「大日本」(右から左で以下同じ)、反対側上部外円に「五錢」、中央に菊花、下外円にこれのみ左から右へ「5SEN」と記す。コレクターの記載を見ると明治221889)年から301897)年の銘までが存在するとあるので、この場面の時間だと既に鋳造停止から15年が経過している古い銅貨である。稲5銭白銅貨は同じく直径・品位・量目共に菊五銭白銅貨と同一。菊五銭白銅貨の偽造を防止するため、図案変更した白銅貨。年号側が外円に製造年号(右から左)・「大日本」(右から左)・「5SEN」(左から右)を配し、中央に複雑な光彩を放つ旭日が描かれ、反対は中央に縦書きで「五錢」、その左右に細密な稲穂を配す(稲穂は下部で結わかれている)。明治301897)年から381905)年銘までがあるという。少年が怪訝に思わないところを見ると稲五銭白銅貨であろう。

「斥候」“patrol”の訳語。「戦闘斥候」“combat patrol”とも。本隊移動に先行して前衛として配され、進行方面の偵察・索敵を任務とする任務とする隊の長。軍曹クラス。]

 

 

  先生の遺書

      (二十九)

 先生の談話(たんわ)は、此犬と小供のために、結末迄進行する事が出來なくなつたので、私はつひに其要領を得ないでしまつた。先生の氣にする財産云々の掛念(けねん)は其時の私には全くなかつた。私の性質として、又私の境遇からいつて、其時の私には、そんな利害の念に頭を惱ます餘地がなかつたのである。考へると是は私がまだ世間に出ない爲でもあり、又實際其塲に臨まない爲でもあつたらうが、兎に角若い私には何故か金の問題が遠くの方に見えた。

 先生の話のうちでたゞ一つ底(そこ)迄聞きたかつたのは、人間がいざといふ間際に、誰でも惡人になるといふ言葉の意味であつた。單なる言葉としては、是丈でも私に解らない事はなかつた。然し私は此句に就いてもつと知りたかつた。

 犬と小供が去つたあと、廣い若葉の園(その)は再び故(もと)の靜かさに歸つた。さうして我々は沈默に鎖ざされた人の樣にしばらく動かずにゐた。うるはしい空の色が其時次第に光を失なつて來た。眼の前にある樹は大概(たいがい)楓であつたが、其枝に滴るやうに吹いた輕い緑の若葉(わかは)が、段々暗くなつて行く樣に思はれた。遠い往來を荷車を引いて行く響(ひゞき)がごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて緣日へでも出掛けるものと想像した。先生は其音を聞くと、急に瞑想から呼息(いき)を吹き返した人のやうに立ち上つた。

 「もう、徐々(そろ/\)歸りませう。大分日が永くなつたやうだが、矢張(やつぱ)斯う安閑としてゐるうちには、何時の間にか暮れて行くんだね」

 先生の脊中には、さつき緣臺(えんたい)の上に仰向(あふむき)に寐た痕が一杯(はい)着いてゐた。私は兩手でそれを拂ひ落した。

 「ありがたう。脂(やに)がこびり着いてやしませんか」

 「綺麗に落ちました」

 「此羽織はつい此間拵らえた許なんだよ。だから無暗に汚して歸ると、妻に叱られるからね。有難(ありかた)う」

 二人は又だら/\坂(ざか)の中途にある家の前へ來た。這入る時には誰も氣色の見えなかつた緣に、御上さんが、十五六の娘を相手に、絲卷へ糸を卷きつけてゐた。二人は大きな金魚鉢の橫から、「どうも御邪魔をしました」と挨拶した。御上さんは「いゝえ御構ひ申しも致しませんで」と禮を返した後(あと)、先刻小供に遣つた白銅の禮を述べた。

 門口を出て二三町來た時、私はついに先生に向つて口を切つた。

 「さき程先生の云はれた、人間は誰でもいざといふ間際(まきは)に惡人になるんだといふ意味ですね。あれは何ういふ意味ですか」

 「意味といつて、深い意味もありません。―つまり事實なんですよ。理窟ぢやないんだ」

 「事實で差支ありませんが、私の伺ひたいのは、いざといふ間際といふ意味なんです。一體何んな塲合を指すのですか」

 先生は笑ひ出した。恰(あたか)も時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合がないと云つた風に。

 「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ惡人になるのさ」

 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰まらなかつた。先生が調子に乘らない如く、私も拍子拔けの氣味であつた。私は澄ましてさつさと步き出した。いきほひ先生は少し後れ勝になつた。先生はあとから「おい/\」と聲を掛けた。

 「そら見給へ」

 「何をですか」

 「君の氣分だつて、私の返事一つですく變るぢやないか」

 待ち合はせるために振り向いて立ち留まつた私の顏を見て、先生は斯う云つた。

 

[♡やぶちゃんの摑み:上の通り、この回には最後に飾罫がない。

♡「脂」松脂。縁台が松材で出来ていたのであろう。

♡『私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰まらなかつた。先生が調子に乘らない如く、私も拍子拔けの氣味であつた。私は澄ましてさつさと步き出した。いきほひ先生は少し後れ勝になつた。先生はあとから「おい/\」と聲を掛けた』「私」が先生に対して面白くないという不満を実際の行動に移してでも見せ付けなくてはならないと感じる極めて珍しい場面である。次章の冒頭でそれは頂点に達する。――しかしこれ、何だか、何かに似てないか?]

 

 

  先生の遺書

      (三十)

 其時の私は腹の中で先生を憎らしく思つた。肩を並べて步き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにゐた。しかし先生の方では、それに氣が付いてゐたのか、ゐないのか、丸で私の態度に拘泥(こだわ)る樣子を見せなかつた。いつもの通り沈默がちに落付き拂つた步調をすまして運んで行くので、私は少し業腹(ごうはら)になつた。何とかいつて一つ先生を遣つ付けて見たくなつて來た。

 「先生」

 「何ですか」

 「先生はさつき少し昂奮なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでゐる時に。私は先生の昂奮したのを滅多に見た事がないんですが、今日は珍らしい所を拜見した樣な氣がします」

 先生はすぐ返事をしなかつた。私はそれを手應(てごたへ)のあつたやうにも思つた。また的が外れたやうにも感じた。仕方かないから後は云はない事にした。すると先生がいきなり道の端へ寄つて行つた。さうして綺麗に刈り込んだ生垣の下(した)で、裾をまくつて小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやり其處に立つてゐた。

 「やあ失敬」

 先生は斯ういつて又步き出した。私はとう/\先生を遣り込める事を斷念した。私達の通る道は段々賑やかになつた。今迄ちらほらと見えた廣い畠の斜面や平地(ひらち)が、全く眼に入らないやうに左右の家並が揃つてきた。それでも所々宅地の隅などに、豌豆(ゑんどう)の蔓(つる)を竹にからませたり、金網で鶏を圍ひ飼ひにしたりするのが閑靜に眺められた。市中(しちう)から歸る駄馬が仕切(しき)りなく擦れ違つて行つた。こんなものに始終氣を奪られがちな私は、さつき迄胸の中にあつた問題を何處かへ振り落して仕舞つた。先生が突然其處へ後戻りをした時、私は實際それを忘れてゐた。

 「私は先刻(さつき)そんなに昂奮したやうに見えたんですか」

 「そんなにと云ふ程でもありませんが、少し‥‥」

 「いや見えても構はない。實際昂奮するんだから。私は財産の事をいふと屹度昂奮するんです。君には何う見えるか知らないが、私は是で大變執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから」

 先生の言葉は元よりも猶昂奮してゐた。然し私の驚ろいたのは、決して其調子ではなかつた。寧ろ先生の言葉が私の耳に訴へる意味そのものであつた。先生の口から斯んな自白を聞くのは、いかな私にも全く意外に相違なかつた。私は先生の性質の特色として、斯んな執着力(しふぢやくりよく)を未だ嘗て想像した事さへなかつた。私は先生をもつと弱い人と信じてゐた。さうして其弱くて高い處に、私の懷かしみの根を置いてゐた。一時(じ)の氣分で先生にちよつと盾を突いて見やうとした私は、此言葉の前に小さくなつた。先生は斯う云つた。

 「私は他(ひと)に欺むかれたのです。しかも血のつゞいた親戚のものから欺むかれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であつたらしい彼等は、父の死ぬや否や許しがたい不德義漢(ふとくぎかん)に變つたのです。私は彼等から受けた屈辱と損害を小供の時から今日(けふ)迄(まで)脊負(しよ)はされてゐる。恐らく死ぬ迄脊負(しよ)はされ通しでせう。私は死ぬ迄それを忘れる事が出來ないんだから。然し私はまだ復讐をしずにゐる。考へると私は個人に對する復讐以上の事を現に遣つてゐるんだ。私は彼等を憎む許りぢやない、彼等が代表してゐる人間といふものを、一般(はん)に憎む事を覺えたのだ。私はそれで澤山だと思ふ」

 私は慰藉(ゐしや)の言葉さへ口へ出せなかつた。

 

やぶちゃんの摑み:先生が自身の過去を始めて具体的に開示する場面である。先生が自身の口から具体的な過去を語るのは実はここだけで、後は遺書まで待たねばならぬ。そういう意味で、この章は重要視されてきた。しかし、今回、私はその台詞のプレ場面に着目した。――何かに似てる――例えば、こんなのはどうだ?

 その時の僕は胸の内で彼女を憎らしく思ったさ。だから仲良く肩を並べて歩き出してからも、少し意固地になって僕の聞きたい事をわざと聞かずにいた。だけど彼女の方は、それに気づいてるのか、いないのか、まるで僕の不機嫌な態度に拘る様子すら見せないんだ。彼女はいつもの通り言葉少なに、ちょっとつんとしたような、何でもないわといった感じの歩調を、すましたまんま運んで行く――僕は少し腹が立ってきたんだ。何とか何か言いかけて、一つ、彼女を困らせてみたくなったんだ。

 「ねえ、君?」

 「何?」

 「君、さっき少し――昂奮――したよね。ほら、あの植木屋の庭で休んだ時さ。僕は君の昂奮するのってさ――滅多に見たこと、ないよ。――今日は珍らしいところを見せてもらったよ。……」

 彼女はすぐには返事をしなかった。僕はそれを――手応えあったか? とも思った。また、こいつもいつもと同(おんな)じで的が外れちまったのかなあ? とも感じた。――だからやっぱり、張り合いがないので、仕方ないから後はもう何にも言わないことにしたんだ。

これはもう、少しばかり拗ねてしまった恋人同士の会話以外の何ものでも、ない。そうして先生の放尿を経て、「私」にとって驚天動地の開示が始まるのである。先生に開示を促したのは何であったか? それは、とりも直さず、この今まで従順だった「私」の掟破りの意地悪い行動と言辞に触発されたものと見なくてはならぬ。さらにそこに挟まる形の立小便が開示の覚悟の禪機となっていることにも着目せねばならぬ。

 即ち、先生はここで求めようとするものを与えてくれない拗ねた「私」に、逆に、真に自分(先生)を『愛している「私」』を確認し得たのではなかったか?

 そして先生は考えたのだ。

――真に『愛する』ということをこの「私」に教えねばならない!――

――『愛する』ということはそんな拗ねた意地悪な会話によっては決して成就せぬ!――

――そのためには――真に人を『愛する』ためには――私がこれからするように、誰も知らない自身のおぞましい過去を語る『覚悟』がなくてはならぬ!――

と。でなくて、どうして先生は過去を開示しよう!

 勿論、親戚の者に裏切られた結果、更に『何かがあったために』人間全体を憎悪するようになったというそれは半公的に知られた過去が大半を占めるのではあるが、お分かりの通り、「然し私はまだ復讐をしずにゐる。考へると私は個人に對する復讐以上の事を現に遣つてゐるんだ。私は彼等を憎む許りぢやない、彼等が代表してゐる人間といふものを、一般に憎む事を覺えたのだ」という言明(ディスクール)部分こそがここでの核心・摑みなのである。そこで先生は「私」に『何かがあったために』の部分を意味深長に暗示的に開示したのである。これは先生が「私」を、「私」だけには過去を語ってよいであろう(ここでは未だ可能性可・可能性大の初期レベルではあるが)と決意した証し以外の何ものでもない。

 そして、そう考えた時、「すると先生がいきなり道の端へ寄つて行つた。さうして綺麗に刈り込んだ生垣の下で、裾をまくつて小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやり其處に立つてゐた。」『「やあ失敬」』「先生は斯ういつて又步き出した。私はとう/\先生を遣り込める事を斷念した」の部分は禪の公案のスタイルであることが判明する。即ち、それ風に言うなら、

 弟子曰く、

「師、既に昂奮す、作麼生(そもさん)、何所爲。」

と。

 師、默して道傍に寄りて墻下(せうか)に放尿す。

 弟子、膝下に拜せり。

である。この小便のびゅっと飛ぶ勢い、じゃあじゃあという音、その濛々たる湯気――いや、これこそ禪機ならぬ禪気なのである。師の過去を知ることは師の生死更には弟子の生死をも支配することを、この立小便は一瞬にして示したのであった――。

 当初、私はこれをフロイト的に解釈しようと試みたことがある。即ち、見えざる先生の男根(ファルス)の出現である。放尿は性行為と創造の象徴であり、ここで父権的超自我存在としての先生が「私」をレイプし、性的社会的人生的な意味での処罰と支配が行われ、その代償として、支配者(神)とまぐわった者の特権として過去の開示の占有が示されるという図式であるが、フロイトへの興味が薄れつつある今の私には、これは、小便が臭うぐらいに如何にも臭いという気がしている。今私はここを矢張り、禪機ととるのである。以下、言いたいことはほぼ言ってしまったので、個々の「摑み」は簡単に済ませる。

「君には何う見えるか知らないが、私は是で大變執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから」という部分では、先生の自己評と「私」の先生の性格の認識の落差を押さえておく必要がある。この台詞の後で「私」が語るように、この先生の自己観察は、「私」にとって意外中の意外であって、私は先生を「もつと弱い人と信じて」おり、その「弱くて高い處に」一種の共感を持っていたのだと言う。ということは先生は殊更に、自己の性情を「私」に隠していたということになるのだが、そうではない。先生は「大變執念深い男」としての自分を生来の自分とは認識していない。「私」の前では、いや、「私」の前だけで、先生は本来の自身の「弱くて高い」性質(たち)を安心して示し得たのであった。

「個人に對する復讐以上の事を遣つてゐる」この意味不明の文句、更にそこから脈絡不明の「人間といふものを」憎むようになったという言説が示され、吐き捨てるように「私はそれで澤山だと思ふ」が来る(この語気は先生の台詞の中で最も憎悪に満ちた部分で朗読では最も注意を有するところだ)。これが美事に本作を推理ドラマに仕立て上げる。「こゝろ」の「上」パートはあらゆるシークエンス・シーンが典型的な探偵小説の手法を用いていると言ってもよいと思われる。]

 

 

  先生の遺書

      (三十一)

 其日の談話も遂にこれぎりで發展せずにしまつた。私は寧ろ先生の態度に畏縮(ゐしゆく)して、先へ進む氣が起らなかつたのである。

 二人は市(し)の外れから電車に乘つたが、車内では殆んど口を聞かなかつた。電車を降りると間もなく別れなければならなかつた。別れる時の先生は、又變つてゐた。常よりは晴やかな調子で、「是から六月迄は一番氣樂な時ですね。ことによると生涯で一番氣樂かも知れない。精出して遊び玉へ」と云つた。私は笑つて帽子を脱つた。其時私は先生の顏を見て、先生は果して心の何處で、一般(ぱん)の人間を憎んでゐるのだらうかと疑つた。その眼、その口、何處にも厭世的の影は射してゐなかつた。

 私は思想上の問題に就いて、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。然し同じ問題に就いて、利益を受けやうとしても、受けられない事が間々(まま)あつたと云はなければならない。先生の談話は時として不得要領に終つた。其日二人の間に起つた郊外の談話も、此不得要領の一例として私の胸の裏(うら)に殘つた。

 無遠慮な私は、ある時遂にそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑つてゐた。私は斯う云つた。

 「頭が鈍くて要領を得ないのは構ひまんせんが、ちやんと解つてる癖に、はつきり云つて呉れないのは困ります」

 「私は何にも隱してやしません」

 「隱してゐらつしやいます」

 「あなたは私の思想とか意見とかいふものと、私の過去とを、ごちや/\に考へてゐるんぢやありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏(まと)め上げた考(かんが)へを無暗に人に隱しやしません。隱す必要がないんだから。けれども私の過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それは又別問題になります」

 「別問題とは思はれません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私には殆ど價値のないものになります。私は魂の吹き込まれてゐない人形を與へられた丈で、滿足は出來ないのです」

 先生はあきれたと云つた風に、私の顏を見た。卷烟草を持つてゐた其手が少し顫へた。

 「あなたは大膽だ」

 「たゞ眞面目なんです。眞面目に人生から教訓を受けたいのです」

 「私の過去を訐(あば)いてもですか」

 訐くといふ言葉が、突然恐ろしい響を以て、私の耳を打つた。私は今私の前に坐つてゐるのが、一人(ひとり)の罪人であつて、不斷から尊敬してゐる先生でないやうな氣がした。先生の顏は蒼かつた。

 「あなたは本當に眞面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけてゐる。だから實はあなたも疑つてゐる。然し何うもあなた丈は疑りたくない。あなたは疑るには餘りに單純すぎる樣だ。私は死ぬ前にたつた一人で好(い)いから、他(ひと)を信用して死にたいと思つてゐる。あなたは其たつた一人になれますか。なつて呉れますか。あなたは腹の底から眞面目ですか」

 「もし私の命が眞面目なものなら、私の今いつた事も眞面目です」

 私の聲は顫へた。

 「よろしい」と先生が云つた。「話しませう。私の過去を殘らず、あなたに話して上げませう。其代り‥‥。いやそれは構はない。然し私の過去はあなたに取つて夫程有益でないかも知れませんよ。聞かない方が增(まし)かも知れませんよ。それから、―今は話せないんだから、其(その)積(つもり)でゐて下さい。適當の時機が來なくつちや話さないんだから」

 私は下宿へ歸つてからも一種の壓迫を感じた。

やぶちゃんの摑み:先生が「私」に過去を語ることを約束する重要なシーンであるが、3段落目から4段落目へのジョイントはかなり強引で唐突、全体も如何にもコマ落としの感を免れぬ。おまけに漱石は二人の会話の背後の景色を一切描いていない。読者には勢い、「今私の前に坐つてゐる」辺りからも、件の会話が先生の宅で行われたと思うしかない。にも拘らず、室内を全く描かず、カメラは先生の煙草を持つ手の震えのアップのみというのも、先の郊外の植木屋でのシーンが極めて情景描写に富んでいただけに、如何にも植木屋の潅木に竹製の煙管を接いだみたような妙な感じである。第一、ここが先生の宅である以上、「私」の急迫と先生の過去の秘密の暴露に関わる言明を、靜や下女が『聞いていない』ということ(要は靜や下女が屋内にいないこと)を示す描写設定が実は必要不可欠であるはずである。それが全くない。どうも漱石は、短気で辻褄合わせが大嫌いな漱石は、読者にこうした肝心の部分を説明するのが、最早、面倒になってしまったのではなかろうか? この日は連載から丁度ぴったり、一箇月目なのである。漱石はもしかするとこの時まだ、複数短編でこの「心」構成するという予定を実行する気でいたのではなかったか? そんなくだくだしい説明をしていたら何時まで経っても終わらん、早いとこ切り上げないとオムニバスにならんぞ、と焦ったのかも知れないという気さえしてくるのである。

「二人は市の外れから電車に乘つた」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注及び「電車を降りると間もなく別れなければならなかつた」の注が明解に物語ってくれている。染井が前段の同定地として正しければ、染井通りを山手線を跨ぐ染井橋まで戻って右折、中山道に出れば『白山方向から来た市営の路面電車に乗ることができ』る。「電車を降りると間もなく別れなければならなかつた」という表現は二人の自宅の『最寄りの停車場が同じであったらしいことがわかる』。「私」が帝国大学近くに下宿していることは昼飯を食いに帰った箇所で述べたから(藤井氏同様に私もそう考えた)、『先生宅も本郷周辺ということがここからも推定できる。巣鴨からの路線だとすると、春日町かその一つ手前あたりで降りれば、本郷通りまでは歩いても五分とかからない。』と記されておられる。岩波版新全集の重松注には、山の手の「市の外れ」の駅として「巣鴨橋」「大塚郡市境界」「渋谷」「新宿角筈」(つのはず)等を挙げておられる。

♡「是から六月迄は一番氣樂な時ですね。ことによると生涯で一番氣樂かも知れない。精出して遊び玉へ」東京帝国大学文科大学学科試験は論文試験とそれを受けた複数教員による口述試問であった。「東京大学百年史」によれば、卒業論文は4月30日までと決められており、口述諮問は6月1日~同月20日までの間で行われた。先生の謂いは、その口述諮問までの空隙を指している。因みに口述諮問は、幾つかの実録によると相当に突っ込まれ、冷や汗ものであったらしい。

「裏(うら)」のこの「う」のルビは上を左にして転倒している。

「話しませう。私の過去を殘らず、あなたに話して上げませう。其代り‥‥。いやそれは構はない。然し私の過去はあなたに取つて夫程有益でないかも知れませんよ。聞かない方が增かも知れませんよ。それから、―今は話せないんだから、其積でゐて下さい。適當の時機が來なくつちや話さないんだから」先生が「私」に自己の過去を完全に開示することを言明する大切な台詞であるが、私は永くこの「其代り‥‥」のリーダー部分が気に掛かってしょうがないのである。このリーダーの復元は思ったより簡単ではない。何故なら、まず直後の「いやそれは構はない」の「それ」が指示する内容の問題がある。普通に読み過せば『過去をこの「私」に総て告白すること』は「構はない」のだと読んでしまう。しかし、果してそうか? 「然し」以下の文脈は「私」が圧迫を感ずるほどに、強い不分明な警告として読者に示されるものの、本作をこの後、読み解いてゆくことになる読者にはさほど「不得要領」なもの、総てを読み終えた読後にも残るような不可解さとして残るようなものではなく、寧ろ遺書の提示によって分明なものとなるはずのものである。しかし、今の私はそこで立ち止ってみたいのだ。そうしてこの瞬間の先生の心の底の『顔』を見極めてみたいのだ。この「其代り‥‥」の部分は、直に「其代り、私の過去はあなたに取つて夫程有益でないかも知れませんよ」と繋がるものでは、ない、と言いたいのである。ここで、先生はもっと別なある謂い・表現を言わんとしたのではなかったか? 即ち、ある驚天動地の言明である。例えば(これはあくまで指示語の関係を示すための例であって私の考える復元案ではない)「其代り、――其代り私はこの自身の命を絶たねばならないことになります。いやそれは構はない。……」といった文脈である。私が言いたいのは、この「いやそれは構はない」に現われた「それ」が指す内容が、例えば「私はこの自身の命を絶たねばならないことにな」る、を指すという可能性である。そこのあるのは先生の過去を知ることによって生じる未来の「私」の決定的な人生行路の変容予言かも知れない。何らかの自身の死に拘わる言明やそれを暗示する比喩かも知れない。いや、遺書の最後に示されるのと類似した何か具体的なある種の禁止を含む命令(それは不作為を命じるものかもしれないし、作為を命じるものなのかも知れない)。「其代り‥‥」のリーダー部分にこそ、「それ」の指示内容が隠されている、それを受けたモノローグのようなものが「いやそれは構はない」という台詞である、という読みが可能であるということを言いたいのである。そうすると、この「‥‥」の復元が、ここでの一つの先生の覚悟の決定的本質を復元する作業になる、ということを言いたいのである。何も出てこないかも知れない。何かが垣間見えるかも知れない。それは分からぬ。しかし、そうした推察の作業を疎かにした時、私は遂に先生がKの「覺悟、――覺悟ならない事もない」の台詞を読み違えた失敗を、あの瞬間のKの『顔』を先生が見逃したのと同じ痛恨の失敗を、我々自身が繰り返す虞れがある、と言いたいのである。]

 

 

 

  先生の遺書

      (三十二)

 私の論文は自分が評價してゐた程に、教授の眼にはよく見えなかつたらしい。それでも私は豫定通り及第(きふたい)した。卒業式の日、私は黴臭くなつた古い冬服を行李の中から出して着た。式塲にならぶと、何れもこれもみな暑さうな顏ばかりであつた。私は風の通らない厚羅紗の下に密封された自分の身體(からだ)を持て餘した。しばらく立つてゐるうちに手に持つたハンケチがぐしよ/\になつた。

 私は式が濟むとすく歸つて裸體(はだか)になつた。下宿の二階の窓をあけて、遠目鏡(とほめがね)のやうにぐる/\卷いた卒業證書の穴から、見える丈の世の中を見渡した。それから其卒業證書を机の上に放り出した。さうして大の字になつて、室の眞中に寐そべつた。私は寐ながら自分の過去を顧みた。又自分の未來を想像した。すると其間に立つて一區切を付けてゐる此卒業證書なるものが、意味のあるやうな、又意味のないやうな變な紙に思はれた。

 私は其晩先生の家へ御馳走に招かれて行つた。是はもし卒業したら其日の晩餐は餘所で食はずに、先生の食卓で濟ますといふ前からの約束であつた。

 食卓は約束通り座敷の緣近くに据ゑられてあつた。模樣の織り出された厚い糊の硬(こは)い卓布(テーブルクロース)が美くしく且淸らかに電燈の光を射返してゐた。先生のうちで飯を食ふと、屹度(きつと)此西洋料理店に見るやうな白いリン子ルの上に、箸や茶碗が置かれた。さうしてそれが必ず洗濯したての眞白なものに限られてゐた。

 「カラやカフスと同じ事さ。汚(よご)れたのを用ひる位なら、一層始から色の着いたものを使ふが好(い)い。白ければ純白でなくつちや」

 斯う云はれて見ると、成程先生は潔癖(けつへき)であつた。書齋なども實に整然(きちり)と片付(かたつ)いてゐた。無頓着な私には、先生のさういふ特色が折々著るしく眼に留まつた。

 「先生は癇性ですね」とかつて奧さんに告げた時、奧さんは「でも着物などは、それ程氣にしないやうですよ」と答へた事があつた。それを傍(そば)に聞いてゐた先生は、「本當をいふと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考へると實に馬鹿々々しい性分だ」と云つて笑つた。精神的に癇性といふ意味は、俗に神經質といふ意味か、又は倫理的に潔癖(けつへき)だといふ意味か、私には解らなかつた。奧さんにも能く通じないらしかつた。

 其晩私は先生と向ひ合はせに、例の白い卓布(たくふ)の前に坐つた。奧さんは二人を左右に置いて、獨り庭の方を正面にして席を占めた。

 「御目出たう」と云つて、先生が私のために盃(さかづき)を上げて呉れた。私は此盃に對して夫程嬉しい氣を起さなかつた。無論私自身の心が此言葉に反響するやうに、飛び立つ嬉しさを有つてゐなかつたのが、一つの原因であつた。けれども先生の云ひ方も決して私の嬉しさを唆(そゝ)る浮々した調子を帶びてゐなかつた。先生は笑つて杯(さかづき)を上げた。私は其笑のうちに、些(ちつ)とも意地の惡いアイロエーを認めなかつた。同時に目出たいといふ眞情(しんじやう)も汲み取る事が出來なかつた。先生の笑は、「世間はこんな塲合によく御目出たうと云ひたがるものですね」と私に物語つてゐた。

 奧さんは私に「結構ね。嘸(さぞ)御父さんや御母さんは御喜びでせう」と云つて呉れた。私は突然病氣の父の事を考へた。早くあの卒業證書を持つて行つて見せて遣らうと思つた。

 「先生の卒業證書は何うしました」と私が聞いた。

 「何うしたかね、―まだ何處かに仕舞つてあつたかね」と先生が奧さんに聞いた。

 「えゝ、たしか仕舞つてある筈ですが」

 卒業證書の在處(ありどころ)は二人とも能く知らなかつた。

やぶちゃんの摑み:この明治451912)年の東京帝国大学の卒業式は7月10日(水)であった。但し、この後の郷里での叙述を見てゆくと第(四十一)章(「こゝろ」「中兩親と私」五に「私が歸つたのは七月の五六日」という叙述が現われるので、漱石は作中設定としては7月1日(月)から3日(水)頃に卒業式を設定しているものと思われる。

 一部の比較的若い教え子の中には、私がこの冒頭2段落分と「こゝろ」「中 両親と私」の「一」の後半分、郷里に持ち帰った卒業証書を父に見せるシーンを併記して、

【○】以下の文章は、[A]が主人公の学生の卒業式の日の場面(上三十二の冒頭)、[B]がその卒業の直後、学生が郷里に帰郷した場面(中一の末尾)である。この二つの卒業証書に描写に象徴させて漱石が示そうとした比喩的な意味について、[A]と[B]を対比しながら、段落を作らずに三百字以上で自由に論ぜよ。[30点+α]

という小論文問題を私の試験で解かされた嫌な思い出を想起した者もいるであろう。いや、この卒業証書の遠眼鏡というのは、それ程に(高校2年生の試験問題に出せる程に)如何にも分かり易い象徴表現であるということである。解答例? よろしい、私の稚拙なそれをお見せしておこう。言っておくが、これは全く私のオリジナルな問題だから、どこかの高校の国語教師に試験問題公開しては困ると文句を言われる筋合いは全くない。私が作成した「こゝろ」の問題の中では結構気に入っている問題でもある。採点基準も添えておく。

【採点基準】

・三百字を越えていないものは×。(段落を作った者は、空欄部を詰めて計算し、二百に満たなければ×、満ちていれば○とする)

・文末不成立はマイナス2点。(文末に赤で×)

・文脈がおかしい部分(意味が通らない)はマイナス2点。(該当部分に赤波線で×)

・記載内容の明確な誤り(学生を先生と取り違えていたり、季節を錯誤した解答等)はマイナス3点。(該当部分に赤波線で×)

【やぶちゃんの解答例】

 帝大卒は、この時代にあっても近代的知識人としてのステイタス・シンボルであった。[B]で、その卒業証書をありがたがる父母を見るまでもなく、それは明白である。[A]で、その証書を遠眼鏡のようにして、世間を見渡すという私の行為は、帝大卒という資格によって、またそこで得たアカデミズムの知識や理論によって、この現実の世界の真実を分析し、見極めることが出来るかどうか、ということを比喩していよう。しかし、私はそれを「放り出し」、「変な紙」としか感じない点で、その有効性に対し、極めて否定的であると言える。それは[B]の、床の間ですぐ倒れる証書にも、薄っぺらい紙のような力のない学問という皮肉としても表現されているようにも見える。しかし、この[B]場面は、寧ろ、もはや「父の自由にはならな」い存在となった――新しいものの見方や考え方を身につけた――私を象徴するものとして、それとは別に読み解く方が自然に思われる。(実字数399字)

♡「裸體になつた」今の私には――これが(二)で先生の連れの外国人が「純粹の日本の浴衣を着てゐた」のを「床几の上にすぽりと放り出し」て「猿股一つの外何物も肌に着けてゐな」い姿で「腕組をして海の方を向て立つてゐ」る姿と妙な相似性を持ってダブって見えて仕方がないのである――。

♡「リン子ル」「リンネル」と読む。

「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用ひる位なら、一層始から色の着いたものを使ふが好い。白ければ純白でなくつちや」言わずもがなの伏線である。「私はたゞ妻の記憶に暗黑な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫の印氣でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋して下さい」という遺書の叙述(「こゝろ」「下 先生と遺書」五十二)への伏線である。漱石は極めて数学的な合理性を尊ぶ人物だったのかも知れない。ここは後に「上 先生と私」となる(三十二)まで数えて5章目に当るが、「こゝろ」五十二から最終章までは――やはり丁度、5章なのである。

♡「癇症」には「ちょっとした刺激にもすぐ怒る性質。激しやすい気質。また、そのさま。」という意味と、「異常に潔癖な性質。また、そのさま。神経質。」という意味がある。「私」は後者の意味を更に二分しているが、その謂いは分からぬではない。漱石は前者であったが、この先生は明らかに後者の性質である。そしてここでの先生自身の言いは勿論、「倫理的に潔癖」であるという謂いである。そして「私には解らなかつた。奧さんにも能く通じないらしかつた」と言う「私」と「私」に観察される靜――その観察が正鵠を射ているとすれば。勿論、射ていると私は思う――は、二人とも致命的に鈍感である、と言わざるを得ない。

♡「アイロエー」「アイロニー」の誤植。

♡「卒業證書の在處は二人とも能く知らなかつた」「私」が卒業証書に象徴される大学卒と言うステイタスに意味を見出していないのと同様に、先生も、そうして靜もさして価値を見出していないことを示している。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」でも、ここに注して、私と同様の解釈をされている。が、藤井氏はその後に、その前に靜が「結構ね。嘸御父さんや御母さんは御喜びでせう」と言っているのは、『おそらく「世間はこんなときに」という先生の愛想なしの発言をとりつくろうためであったろう。これに対して、「早くあの卒業証書を持つて行つて」と考える私のほうは、徐々に先生によって洗脳されつつあったとはいえ、まだまだ世俗的な価値観・常識を保持していた。』と記される。この引用の後半は肯んずるものである(しかし、注するに必要な注釈かと言えば微妙に留保したい)が、前半はとんだ勘違いをなさっている。先生は「お目出たう」と言った後、杯を上げて笑い、その笑いの中に「世間はこんな塲合によく御目出たうと云ひたがるものですね」という意味合いを含ませて、黙って笑っていたのであって、こんな文句を直に言ったのではない。また、百歩譲ってそのような意味合いを靜が夫の笑みに中に看取したとしても、そのために、夫のやや醒めた含みの笑みを「とりつくろうため」に「結構ね。嘸御父さんや御母さんは御喜びでせう」と言っているのでも、ない。これは極めて自然で心からの女=母としての心情の発露の表現である。私には藤井氏が妙な拘りの中でこの部分の注をお書きになっているように思われてならない。]

 

 

  先生の遺書

      (三十三)

 飯になつた時、奧さんは傍(そば)に坐つてゐる下女を立たせて、自分で給仕(きふし)の役をつとめた。これが表立(おもてた)たない客に對する先生の家の仕來(しきた)りらしかつた。始めの一二回は私も窮屈を感じたが、度數の重なるにつけ、茶碗を奧さんの前へ出すのが、何でもなくなつた。「御茶?御飯?隨分よく食べるのね」

 奧さんの方でも思ひ切つて遠慮のない事を云ふことがあつた。然し其日は、時候が時候なので、そんなに調戲(からか)はれる程食慾が進まなかつた。

 「もう御仕舞。あなた近頃大變小食になつたのね」

 「小食になつたんぢやありません。暑いんで食はれないんです」

 奧さんは下女を呼んで食卓を片付(かたつ)けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子(みづくわし)を運ばせた。

 「是は宅(うち)で拵えたのよ」

 用のない奧さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふだけの餘裕があると見えた。私はそれを二杯更(か)へて貰つた。

 「君も愈(いよ/\)卒業したが、是から何をする氣ですか」と先生が聞いた。先生は半分緣側の方へ席をずらして、敷居際で脊中を障子に靠(も)たせてゐた。

 私にはたゞ卒業したといふ自覺がある丈で、是から何をしやうといふ目的(あて)もなかつた。返事にためらつてゐる私を見た時、奧さんは「教師?」と聞いた。それにも答へずにゐると、今度は、「ぢや御役人?」と又聞かれた。私も先生も笑ひ出した。

 「本當いふと、まだ何をする考へもないんです。實は職業といふものに就いて、全く考へた事がない位なんですから。だいち何れが善(い)いか、何れが惡いか、自分が遣つて見た上でないと解らないんだから、選擇に困る譯だと思ひます」

 「それも左右ね。けれどもあなたは必竟財産があるからそんな呑氣な事を云つてゐられるのよ。是が困る人で御覽なさい。中々あなたの樣に落付いちや居られないから」

 私の友達(ともたち)には卒業しない前から、中學教師の口を探してゐる人があつた。私は腹の中で奧さんのいふ事實を認めた。然し斯う云つた。

 「少し先生にかぶれたんでせう」

 「碌なかぶれ方をして下さらないのね」

 先生は苦笑した。

 「かぶれても構はないから、其代り此間云つた通り、御父さんの生きてるうちに、相當の財産を分けて貰つて御置きなさい。それでないと決して油斷はならない」

 私は先生と一所に、郊外の植木屋の廣い庭の奧で話した、あの躑躅の咲いてゐる五月の初めを思ひ出した。あの時歸り途に、先生が昂奮した語氣で、私に物語つた強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、寧ろ凄い言葉であつた。けれども事實を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあつた。

 「奧さん、御宅の財産は餘ツ程あるんですか」

 「何だつてそんな事を御聞になるの」

 「先生に聞いても教へて下さらないから」

 奧さんは笑ひながら先生の顏を見た。

 「教へて上げる程ないからでせう」

 「でも何の位あつたら先生のやうにしてゐられるか、宅へ歸つて一つ父に談判する時の參考にしますから聞かして下さい」

 先生は庭の方を向いて、澄まして煙草を吹かしてゐた。相手は自然奧さんでなければならなかつた。

 「何の位つて程ありやしませんわ。まあ斯うして何うか斯うか暮して行かれる丈よ、あなた。―そりや何うでも宜(い)いとして、あなたは是から何か爲さらなくつちや本當に不可せんよ。先生のやうにごろ/\許りしてゐちや‥‥」

 「ごろ/\許りしてゐやしないさ」

 先生はちよつと顏丈向け直して、奧さんの言葉を否定した。

[♡やぶちゃんの摑み:

♡『奧さんは「教師?」と聞いた』底本注に10年前に当たる明治351902)年の東京帝国大学卒業生雇用形態調査報告が載り、首位が官庁技術者1,068人、次点が教職員で890人とある。その中で『文科大学の卒業生は三〇九人である。そして文科大学の卒業者は五三一人であるから、半数以上が学校教職員になったことになる。』とある。漱石自身も明治261893)年に帝国大学を卒業後、高等師範学校・愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現・松山東高校)・第五高等学校(現・熊本大学)の英語教師を勤め、明治331900)年5月から明治361903)年12月迄のロンドン留学を挟んで、明治361903)年には第一高等学校及び東京帝国大学講師として招聘されている(その授業は総体に不評であったことはよく知られるところである)。明治401907)年のに朝日新聞社に入社し専業作家になるまで実に約11年間(留学を除く)教職にあった。但し、もし「私」が哲学かであったとすると、教職は極めて困難であったものと思われる。何故なら、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」によれば、『哲学科の出身者は、教職免許科目が、ほとんど無用の長物の「修身」しかとれず(成績が優秀だと英語の免許も取れた由)、いっそう就職に苦慮したという。ちなみに修身はたいていは校長か教頭が担当したので、新人教員などは必要ではなかったのである。』とあるからである。

♡『今度は、「ぢや御役人?」と又聞かれた。私も先生も笑ひ出した』私は今までこの笑いには一種の先生と「私」の役人に対する鋭いアイロニーのみを認めていたのであるが、前掲藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」には違う解釈が示されているので引用しておく。『行政官吏、司法官吏への就職は、法科大学出身者が他を圧倒していた。行政官吏の場合で言うと、大正八年までの統計で、法科出身者の一六〇〇余名に対して、私が在学すると思われる文科出身者はわずかに二二名(『東京大学百年史 通史二』)。したがって、ここではその実現性の乏しさが、一面では先生や私の笑いを誘ったとも見られる。』]

 

 

  先生の遺書

      (三十四)

 私は其夜十時過に先生の家を辭した。二三日うちに歸國する筈になつてゐたので、座を立つ前に私は一寸暇乞の言葉を述べた。

 「又當分御目にかゝれませんから」

 「九月には出て入らつしやるんでせうね」

 私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て來る必要もなかつた。然し暑い盛りの八月を東京迄來て送らうとも考へてゐなかつた。私には位置を求めるための貴重な時間といふものがなかつた。

 「まあ九月頃になるでせう」

 「ぢや隨分御機嫌よう。私達も此夏はことによると何處かへ行くかも知れないのよ。隨分暑さうだから。行つたら又繪端書でも送つて上げませう」

 「何ちらの見當です。若し入(い)らつしやるとすれば」

 先生は此問答をにや/\笑つて聞いてゐた。

 「何まだ行くとも行かないとも極(き)めてゐやしないんです」

 席を立たうとした時に、先生は急に私をつらまへて、「時に御父さんの病氣は何うなんです」と聞いた。私は父の健康に就いて殆ど知る所がなかつた。何とも云つて來ない以上、惡くはないのだらう位に考へてゐた。

 「そんなに容易(たやす)く考へられる病氣ぢやありませんよ。尿毒症が出ると、もう駄目(ため)なんだから」

 尿毒症といふ言葉も意味も私には解らなかつた。此前の冬休みに國で醫者と會見した時に、私はそんな術語を丸で聞かなかつた。

 「本當に大事にして御上げなさいよ」と奧さんもいつた。「毒が腦へ𢌞るやうになると、もう夫つきりよ、あなた。笑ひ事ぢやないわ」

 無經驗な私は氣味を惡がりながらも、にや/\してゐた。

 「何うせ助からない病氣ださうですから、いくら心配したつて仕方がありません」

 「さう思ひ切りよく考へれば、夫迄ですけれども」

 奧さんは昔同じ病氣で死んだといふ自分の御母さんの事でも憶ひ出したのか、沈んだ調子で斯ういつたなり下を向いた。私も父の運命が本當に氣の毒になつた。

 すると先生が突然奧さんの方を向いた。

 「靜、御前はおれより先へ死ぬだらうかね」

 「何故」

 「何故でもない、たゞ聞いた見るのさ。それとも己(おれ)の方が御前より前に片付くかな。大抵世間ぢや旦那が先で、細君が後へ殘るのが當り前のやうになつてるね」

 「さう極(きま)つた譯でもないわ。けれども男の方は何うしても、そら年が上でせう」

 「だから先へ死ぬといふ理窟なのかね。すると己も御前より先にあの世へ行かなくつちやならない事になるね」

 「あなたは特別よ」

 「さうかね」

 「だつて丈夫なんですもの。殆ど煩つた例(ためし)がないぢやありませんか。そりや何うしたつて私の方が先だわ」

 「先かな」

 「え、屹度先よ」

 先生は私の顏を見た。私は笑つた。

 「然しもしおれの方が先へ行くとするね。さうしたら御前何うする」

 「何うするつて‥‥」

 奧さんは其處で口籠つた。先生の死に對する想像的な悲哀が、ちよつと奧さんの胸を襲つたらしかつた。けれども再び顏をあげた時は、もう氣分を更へてゐた。

 「何うするつて、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定(らうせうふぢやう)つていふ位(くらゐ)だから」

 奧さんはことさらに私の方を見て笑談(ぜうだん)らしく斯う云つた。

[♡やぶちゃんの摑み:この第三十四回まで、一日の不掲載もなく連載は続いていたが、翌日5月24日(日曜日)より5月26日(火曜日)までの3日間、「心」の連載は休止している(勿論、私の連載もそれに合わせる)。理由はこの連載の直前、4月9日に崩御した明治天皇皇后昭憲皇太后(旧名・一条美子(はるこ) 嘉永2(1849)年417日~大正3(1914)年)の大葬の儀のためである。24日に代々木葬場殿の儀、2526日の両日に渡って桃山斂葬の儀が執り行われ、伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)に葬られた。死を語り合う先生と靜――昭憲皇太后斂葬の儀……偶然ではあろうが、何やらん、不思議な因縁を感ずるところではある……。

♡「私は其夜十時過に先生の家を辭した」という文頭で始まり乍ら、実際に「私」が「先生の家を辭」すのは実に次章の後半である。漱石はここで先生と「私」とを永遠に訣別させることに決しているものと思う(次注で示すように先生がそう決している『わけではない』)。そしてまた、この辺りで漱石はオムニバス・スタイルを断念して長篇への覚悟をしたもの、とも判断するのであるが、如何?

♡「私達も此夏はことによると何處かへ行くかも知れないのよ」……以下について、私は以前2009年9月30日のブログに次のように書いた。引用しておく。

今日の今まで、気づかなかった――これは極めて意味深長な会話ではないか! 「先生」は叔母の病気の看病が落ち着いて家に戻った靜と旅に出たのではなかったか? そうして――そうして、そこで「先生」は自死を決行したのではなかったか? その楽しい旅の中の、不意の蒸発=失踪こそ、正に「頓死」したかのような、「氣が狂つたと思はれ」るようなシチュエーションを導きは、せぬか? いや、何より「必ず九月に出て來る必要もなかつた」九月に、彼は正にやってくる――しかし、先生も靜も、実は、そこには、居ないのではなかったか? 僕はもう大分以前から、真剣に――「こゝろ」の「中 十九」以下の続きの詳細なシークエンスを描いてみたい悪魔的誘惑にかられているのである――

そして、「先生は此」二人の「問答をにや/\笑つて聞いてゐ」るのである。そして「にや/\笑」いながら、「何まだ行くとも行かないとも極めてゐやしないんです」と言う。そして、「私」が暇するために「席を立たうとした時に、先生は急に私」の腕(であろう)をぎゅっと「つらまへて」引き止め、以下の父の病気から死の話へと雪崩れ込む。この腕を摑むシーンは実景として映像を想定してみると、如何にも妙な感じが――その奥底には、最早、「私」とは永遠に逢えぬという鬼気迫るような不気味ささえ含んだものが――私にはあるように思われてならないのだが、如何? 但し、遺書によれば先生は「私」に逢って過去を開示する積りでいたと語っているから、ここで確信犯として先生がそのような行動に出たわけではないであろう。これは一種の霊感的描写であるように思われる。

♡「尿毒症」腎機能低下により惹起される多様な変化を腎不全或いは尿毒症と呼ぶ。ここで先生が言わんとするところは慢性腎不全、所謂、ネフロン数が減少して老廃物の対体外排泄が不全になることで、糖尿病・糸球体腎炎に多く見られ、慢性腎盂腎炎・先天性腎尿路奇形・痛風・ネフローゼ・各種腎炎・腎硬化症・悪性高血圧等を病因とする。尿毒症とは腎機能の高度な悪化から生じる全身性の重篤な変化を言う。以下、医療介護健康総合サイト・ウエブ・ドクター」の「腎不全と尿毒症」より引用する。

   《引用開始》

 急性腎不全の際、また慢性腎不全の末期状態に、腎機能が大きく低下していることから下記のような変化を生じます。

  1)神経、精神症状

不眠、頭痛、傾眠、不眠、痙攣、昏睡、うつ状態、不安感、錯乱その他。

  2)内分泌、代謝異常症状

無月経、高脂血症、生殖能低下、低栄養状態その他。

  3)末梢神経系症状

知覚異常、麻痺、筋力低下その他。

  4)循環器症状

高血圧、心膜炎、心筋炎、貧血、尿毒症性肺その他。

  5)消化器症状

口臭、悪心、嘔吐、食欲不振、口内炎、腸炎、消化管潰瘍その他。

  6)眼症状

網膜症、角膜症その他。

  7)皮膚症状

貧血状、色素沈着、皮膚掻痒感、皮下出血その他。

  8)電解質異常症状

血清ナトリウム、カルシウム、三酸化水素値の低下、血清カリウム、マグネシウム、四酸化リン値の上昇その他。

  9)造血器症状

貧血、出血傾向その他。

   《引用終了》

靜の言う「毒が腦へ𢌞るやうになると」というのは、脳神経が侵されることによる『1)神経、精神症状』や『3)末梢神経系症状』及び『4)循環器症状』等を言うものと思われる。当時は腎臓炎による死亡率が高まっており、明治天皇も、その死因について一般には心臓麻痺とされているものの、現在では尿毒症であった可能性が高いし、連載直前に崩御したその皇后(後の昭憲皇太后)も慢性気管支カタルと腎臓炎による狭心症から、尿毒症を併発して亡くなっている(直接の死因は狭心症発作と心臓麻痺とされる)。従って、本作の関係者の多くが腎臓病で亡くなっているという設定は必ずしも不自然なものではない。

♡「老少不定」老人だからと言って早く死ぬ訳ではなく、少年だからと言って長生きする訳ではない、人間何時死ぬかは分からぬということ。人の死期は予知不能で、儚く定め難いことを言う。寛仁元(1017)年に書かれた源信の「観心略要集」に依る故事成句。]

 

 

  先生の遺書

      (三十五)

 私は立て掛けた腰を又卸(チろ)して、話の區切(くきり)の付く迄二人の相手になつてゐた。

 「君は何う思ひます」と先生が聞いた。

 先生が先へ死ぬか、奧さんが早く亡くなるか、固より私に判斷のつくべき問題ではなかつた。私はたゞ笑つてゐた。

 「壽命は分りませんね。私にも」

 「是ばかりは本當に壽命ですからね。生(うまれ)た時にちやんと極つた年數をもらつて來るんだから仕方がないわ。先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同(おん)なじよ、あなた、亡くなつたのが」

 「亡くなられた日がですか」

 「まさか日迄同なじぢやないけれども。でもまあ同なじよ。だつて續いて亡くなつちまつたんですもの」

 此知識は私にとつて新らしいものであつた。私は不思議に思つた。

 「何うしてさう一度に死なれたんですか」

 奧さんは私の問に答へやうとした。先生はそれを遮つた。

 「そんな話は御止しよ。つまらないから」

 先生は手に持つた團扇(うちわ)をわざとばたばた云はせた。さうして又奧さんを顧みた。

 「靜、おれが死んだら此(この)家(うち)を御前に遣らう」

 奧さんは笑ひ出した。

 「序に地面(ちめん)も下さいよ」

 「地面(ちめん)は他(ひと)のものだから仕方がない。其代りおれの持つてるものは皆(みん)な御前に遣るよ」

 「何うも有難う。けれども橫文字の本なんか貰つても仕樣がないわね」

 「古本屋に賣るさ」

 「賣ればいくらになつて」

 先生はいくらとも云はなかつた。けれども先生の話は、容易に自分の死といふ遠い問題を離れなかつた。さうして其死は必ず奧さんの前に起るものと假定されてゐた。(無論笑談(ぜうだん)らしい輕味(かるみ)を帶びた口調ではあつたが)。

 奧さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答へをしてゐるらしく見えた。それが何時の間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。

 「おれが死んだら、おれが死んだらつて、まあ何遍仰しやるの。後生(ごしやう)だからもう好(い)い加減にして、おれが死んだらは止して頂戴。緣喜(えんぎ)でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思ひ通りにして上げるから、それで好いぢやありませんか」

 先生は庭の方を向いて笑つた。然しそれぎり奧さんの厭がる事を云はなくなつた。私もあまり長くなるので、すぐ席を立つた。先生と奧さんは玄關迄送つて出た。

 「御病人を御大事に」と奧さんがいつた。

 「また九月に」と先生がいつた。

 私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。玄關と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐやうに、夜陰(やいん)のうちに枝を張つてゐた。私は二三步動き出しながら、黑ずんだ葉に被はれてゐる其梢を見て、來るべき秋の花と香を想ひ浮べた。私は先生の宅と此木犀とを、以前から心のうちで、離す事の出來ないものゝやうに、一所に記憶してゐた。私が偶然其樹の前に立つて、再びこの宅の玄關を跨ぐべき次の秋に思を馳せた時、今迄格子の間から射してゐた玄關の電燈がふつと消えた。先生夫婦はそれぎり奧へ這入たらしかつた。私は一人暗い表へ出た。

 私はすぐ下宿へは戻らなかなつた。國へ歸る前に調のへる買物もあつたし、御馳走を詰めた胃袋にくつろぎを與へる必要もあつたので、たゞ賑やかな町の方へ步いて行つた。町はまだ宵の口であつた。用事もなささうな男女(なんによ)がぞろ/\動く中に、私は今日私と一所に卒業したなにがしに會つた。彼は私を無理やりにある酒塲へ連れ込んだ。私は其處で麥酒(ビール)の泡のやうな彼の氣焰(きえん)を聞かされた。私の下宿へ歸つたのは十二時過であつた。

[♡やぶちゃんの摑み:先生と「私」の最後の別れのシーンである。木犀の樹下に来るべき秋に思いを馳せる「私」――その瞬間、「今迄格子の間から射してゐた玄關の電燈がふつと消えた」――この映像は一読忘れ難い。そうしてこれは後の(四十一)(=「こゝろ」「中 兩親と私」の五)の明治天皇崩御の直後の叙述、

 私は又一人家のなかへ這入つた。自分の机の置いてある所へ來て、新聞を讀みながら、遠い東京の有樣を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、何んなに暗いなかで何んなに動いてゐるだらうかの畫面に集められた。私はその黑いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都會の、不安でざわ/\してゐるなかに、一點の燈火の如くに先生の家を見た。私は其時此燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれてゐる事に氣が付かなかつた。しばらくすれば、其灯も亦ふつと消えてしまふべき運命を、眼の前に控えてゐるのだとは固より氣が付かなかつた。[やぶちゃん注:下線部やぶちゃん。]

という痛恨の心象シークエンスへの強い伏線として機能することになるのである。

♡「卸(チろ)して」ルビ「おろ」の誤植。

♡『「壽命は分りませんね。私にも」/「是ばかりは本當に壽命ですからね。生(うまれ)た時にちやんと極つた年數をもらつて來るんだから仕方がないわ。先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同(おん)なじよ、あなた、亡くなつたのが」』「心」自筆原稿でもこの通り(前者が「私」の、後者が靜の台詞)であるが、単行本「こゝろ」ではこの台詞が、

「壽命は分りませんね。私にも是ばかりは本當に壽命ですからね。生(うまれ)た時にちやんと極つた年數をもらつて來るんだから仕方がないわ。先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同(おん)なじよ、あなた、亡くなつたのが」

と一体になってしまい、すべてを靜の台詞として処理している。確かに、直前で「私はたゞ笑つてゐ」るだけだから、応答しないというのは自然だと言われればそれまでだが(若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は「こゝろ」本文の方が適切と思われると注される)、私には「壽命は分りませんね。私にも」は男の台詞に感じられ、また「私にも是ばかりは本當に壽命ですからね」は「私にも」という条件が下位の文脈を規定出来ず、宙ぶらりんにしか読めない。かつて授業で朗読しても、常に間違えるところで、「私」の台詞と思って読んでしまい、読み直したこと、何度あったか知れないのである。私は断固として、この初出形が正しいと思う。

♡「先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同なじよ、あなた、亡くなつたのが」以下によって、先生の父母は流行性伝染病により亡くなったらしいことが類推されるようになっている。(五十七)=「こゝろ」「下 先生と遺書」三で腸チフスであったことが示される。

♡「橫文字の本」先生の書斎にある相応な量の蔵書の半数以上(大半かも知れない)が洋書であることが分かる。この辺りは漱石の専門であった英文学を想起させるところであるが、以前の注でも記したように心理学や哲学は、当時、新思想や新学派がみるみる勃興し、その多くは西欧から数多く発信されたものであった。

♡「(無論笑談らしい輕味を帶びた口調ではあつたが)。」これは同日連載であった大坂朝日新聞版では「(無論笑談らしい輕味を帶びた口調であつたが)。」と「は」がなく、更に単行本「こゝろ」では珍しく全体が完全に削除されて、更に改行せずに次の段落と繋がっている。即ち、

 先生はいくらとも云はなかつた。けれども先生の話は、容易に自分の死といふ遠い問題を離れなかつた。さうして其死は必ず奧さんの前に起るものと假定されてゐた。奧さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答へをしてゐるらしく見えた。それが何時の間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。

と続いて、靜のセンチメンタルでやや悲壮さを持った強い口調(靜の先生へのものとしては特異点であると言ってよい)が引き出されるのである。確かにこの丸括弧は言わずもがなで、靜の内なる先生へのディレンマを殺いでいるように思われる。

♡『「また九月に」と先生がいつた。』先生の遺書で((百九)=「こゝろ」「下 先生と遺書」五十五)、

 記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散步した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後には何時でも黑い影が括ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を步いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、嘘を吐いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度會ふ積でゐたのです。

と先生が語る通り、この時点で先生は必ず「私」と逢おうと、逢いたいと思っていたのである。先生は「私」と必ず逢いたかったのである。そこを押えておいて、「私」に逢わずに亡くなった先生の、その「心」を、考えねばならぬのである。

♡「木犀」被子植物門双子葉植物綱ゴマノハグサ目モクセイ科モクセイ属 Osmanthusに属する常緑小高木の総称。中国原産。中国名桂花。本邦ではギンモクセイ(銀木犀) Osmanthus fragrans Lour. var. fragrans ・キンモクセイ(金木犀) Osmanthus fragrans Lour. var. aurantiacus Makino ・ウスギモクセイ(薄黄木犀) Osmanthus fragrans Lour. var. thunbergii Makino 三種の総称であるが、単に「木犀」と言った場合、ギンモクセイを指すことが多く、先生の玄関先のこれもギンモクセイと考えてよいであろう。中秋、香気の強い星形の4弁の小花が数多く咲く。雌雄異株であるが、本邦には雄株しかないと言われている(以上は主にウィキの「モクセイ」に依った)。古来、中国の美女はその花を浸した酒を口に含んで、花の香をさせながら恋人に逢ったという。花言葉はモクセイ全般に「謙遜・真実」、金木犀は「あなたは高潔です」、そして銀木犀は――「初恋」――である。]

 

 

  先生の遺書

      (三十六)

 私は其翌日も暑さを冒して、賴まれものを買ひ集めて步いた。手紙で注文を受けた時は何でもないやうに考へてゐたのが、いざとなると大變臆劫(おくくふ)に感ぜられた。私は電車の中で汗を拭きながら、他の時間と手數(てすう)に氣の毒といふ觀念を丸で有つてゐない田舍者を憎らしく思つた。

 私は此一夏を無爲に過ごす氣はなかつた。國へ歸つてから。日程といふやうなものを豫(あらかじ)め作つて置いたので、それを履行するに必要な書物も手に入れなければならなかつた。私は半日を丸善の二階で潰す覺悟でゐた。私は自分に關係の深い部門の書籍棚(しよせきたな)の前に立つて、隅から隅迄一册づつ點檢して行つた。

 買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟であつた。小僧にいふと、いくらでも出しては呉れるが、偖(さて)何れを選んでいゝのか、買ふ段になつては、只迷ふ丈であつた。其上價が極めて不定であつた。安からうと思つて聞くと、非常に高かつたり、高からうと考へて、聞かずにゐると、却つて大變安かつたりした。或はいくら比べて見ても、何處から價格の差違が出るのか見當の付かないのもあつた。私は全く弱らせられた。さうして心のうちで、何故先生の奧さんを煩はさなかつたかを悔いた。

 私は鞄を買つた。無論和製の下等な品に過ぎなかつたが、それでも金具やなどがぴか/\してゐるので、田舍ものを威嚇(おど)かすには充分であつた。此鞄を買ふといふ事は、私の母の注文であつた。卒業したら新らしい鞄を買つて、そのなかに一切の土産ものを入れて歸るやうにと、わざ/\手紙(てかみ)の中に書いてあつた。私は其文句を讀んだ時に笑ひ出した。私には母の料簡が解らないといふよりも、其言葉が一種の滑稽として訴へたのである。

 私は暇乞をする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立つて國へ歸つた。此冬以來父の病氣に就いて先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、何ういふものか、それが大して苦にならなかつた。私は寧ろ父が居なくなつたあとの母を想像して氣の毒に思つた。其位だから私は心の何處かで、父は既に亡くなるべきものと覺悟してゐたに違ひなかつた。九州にゐる兄へ遣つた手紙のなかにも、私は父の到底故(もと)の樣な健康體になる見込のない事を述べた。一度などは職務の都合もあらうが、出來るなら繰合(くりあはせ)て此夏位一度顏丈でも見に歸つたら何うたと迄書いた。其上年寄が二人ぎりで田舍にゐるのは定めて心細いだらう、我々も子として遺憾の至りであるといふやうな感傷的な文句さへ使つた。私は實際心に浮ぶ儘を書いた。けれども書いたあとの氣分は書いた時とは違つてゐた。

 私はさうした矛盾を汽車の中で考へた。考へてゐるうちに自分が自分に氣の變りやすい輕薄ものゝやうに思はれて來た。私は不愉快になつた。私は又先生夫婦の事を想ひ浮べた。ことに二三日前晩食(ばんしよく)に呼ばれた時の會話を憶ひ出した。

 「何つちが先へ死ぬだらう」

 私は其晩先生と奧さんの間に起つた疑問をひとり口の内(うち)で繰り返して見た。さうして此疑問には誰(たれ)も自信をもつて答へる事が出來ないのだと思つた。然し何方が先へ死ぬと判然(はつきり)分つてゐたならば、先生は何うするだらう。奧さんは何うするだらう。先生も奧さんも、今のやうな態度でゐるより外に仕方がないだらうと思つた。(死に近づきつゝある父を國元に控へながら、此私が何うする事も出來ないやうに)。私は人間を果敢(はか)ないものに觀じた。人間の何うする事も出來ない持つて生れた輕薄を、果敢ないものに觀じた。

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「國へ歸つてから。日程」は「國へ歸つてからの日程」の誤植。

♡「丸善の二階で潰す覺悟でゐた。私は自分に關係の深い部門の書籍棚の前に立つて、隅から隅迄一册づつ點檢して行つた」このシーンは明治451912)年の7月であるが、丸善はその2年前、明治431910)年5月に日本橋区通町3丁目に新社屋を落成している。赤煉瓦4階建の日本最初の鉄骨建築であった。丸善は国内刊行物も扱ってはいたが(但し一階)、二階は洋書売り場で、後半の「隅から隅迄一册づつ點檢して行つた」というのも和書ではなく、その棚の本総てが洋書であった故のニュアンスを感じるところである。和書ならば専門書でも「一册づつ點檢」するという大仰な言葉遣いを私ならしないからである。また、ここでは、文学書や文学系研究書ではなく、冷徹に「一册づつ點檢」しなくてはならないという点、俄然、心理学・哲学の専門書の印象が強いとも言える。因みに、この丸善の二階は、夥しい作家たちによって語られ、日本近代文学・近代思想の象徴的存在と言っても過言ではない。

♡「半襟」掛け襟の一つ。襦袢(じゅばん)の襟の上に重ねて掛ける飾り襟。当時は贈答品としてよく用いられた。

♡「金具やなどがぴか/\してゐるので、田舍ものを威嚇かすには充分であつた」この鞄の購入指示は母からであったが、ここに言う田舎者をビビらせてやるに足る金ピカ、とほくそ笑んでいるのは「私」であることに注意。既に見てきたように作中、こうした田舎者への徹底した差別意識は多くの登場人物に反映されている。「坊つちやん」漱石の拭い難いトラウマなのである。

♡「見に歸つたら何うた」の「何うた」は「何うだ」の誤植。

♡「さうした矛盾」ここは私には少々読みにくい(論理的にすっきりしない)部分である。「私」は、当然、致命的な病に罹患している父を「一番心配しなければならない地位にありながら、何ういふものか」直近に迫りつつあるはずの父の死という事実を真剣に実感することが出来ず、それどころか「大して苦に」さえ「ならなかつた」。いや、それどころか不謹慎にも「寧ろ父が居なくなつたあとの」ことに専ら思いを馳せ、父を失った「母を想像して氣の毒に思つた」りした。即ち、「私は心の何處かで、父は既に亡くなる」ことが決まったもの、そのようなものとして諦め、残った者達の未来を考えるのが最も適切な「ものと覺悟してゐたに違ひなかつた」。

――ところが――(と私なら逆接の接続詞で繋げたいところなのである)

同じ頃、「九州にゐる兄へ遣つた手紙」では(「のなかにも」が私にはおかしな表現に思える)、「私は父の到底故の樣な健康體になる見込のない事を述べ」、「一度などは職務の都合もあらうが、出來るなら繰合て此夏位一度顏丈でも見に歸つたら何う」だ「と迄書いた」りしたのである。「其上年寄が二人ぎりで田舍にゐるのは定めて心細いだらう、我々も子として遺憾の至りであるといふやうな感傷的な文句さへ」も「使つ」て不実な兄を暗に責め、故郷への帰還さえ仄めかしたりした。いや、その筆を染めていた時は「私は實際」に「心に浮ぶ儘を書いた」のである。嘘はなかった。「けれども」その手紙を書き終えた途端、「氣分は」あっという間に「書いた時とは違つ」たものになっていた。即ち、元の木阿弥、「死に近づきつゝある父を國元に控へながら、此私」は「何うする事も出來ない」、出来ないんだからあれこれ悩んでもしょうがない、生きている人間の方が死んだ――死につつある、死ぬことが定まった――人間より大切だ――という感懐に「私」は捕らわれ、「さうした矛盾を汽車の中で考へ」ているのである。しかし、問題はここからであって、「考へてゐるうちに自分が自分に氣の變りやすい輕薄ものゝやうに思はれて來た。私は不愉快になつた」という部分にこそ、そのような(正に先生と同じく)『矛盾な存在』である自己の内実に、「私」が覚醒しつつあるのだ、ということに気づかねばならぬ。]


朝日新聞連載「心」(「中 兩親と私」パート初出)

朝日新聞連載「心」(「下 先生と遺書」パート初出)

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