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文化祭「藪之屋敷」に捧げる横浜×××高校の怪談
       やぶちゃん 2005年7月2日文化祭1日目書き下ろし

                (copyright 2005 Yabtyan)

 食堂の裏手の地下に、古い貯水槽がある。
 修理が入って、工事担当者が修理終了を確認するために、水槽内の写真を撮った。
 出来上がった写真には、貯水槽の底の部分に、髪を振り乱した武者の首が、恨みの表情と共にくっきりと写っていたそうだ。
 その写真は、歴代の事務長が金庫の底に隠しているそうだが、かつて本校にいた剣道の先生は、事務長の許可を得て見た。
 「血みどろのそれは凄惨な首だった」と、蒸し暑い合宿の夜、青い顔をして、しみじみ僕に語った。(話者 体育科教員 男性 1998年7月採録・やぶちゃん補足)



 職員室の前に、木がうっそうと茂った薄暗い庭がある。
 本校を36年前に、卒業した数学の教員は、僕がここに赴任すると決まった時、前任校の歓送迎会で、酒を飲みながら、次のような話を語った。

 戦争中、本校のある場所は陸軍の高射砲陣地であった。
 高高度を飛行するB29に射程距離の短い対空砲火など、何の効果もなく、逆に爆撃でひどい被害をこうむったと聞く。
 あの庭は、当時の高射砲陣地本部とその地下壕であったらしいが、直撃弾を受けて、上部の本部建物もろとも押し潰され、今も当時の遺体を残したままにしてある。

 そういえば、あの庭は、生徒はおろか、教員の誰も通るところを見たことがない。
 夏の一日、僕はあそこで涼んでいたが、風があるのにじっとりとして、息苦しい気がした。
 あの庭は、確かに、妖しい。
(話者 本校卒業生県立K高校数学科教員 男性 一九九八年六月採録・やぶちゃん補足)



 一九九九年の七月、僕はバスケットボール部の合宿で学校に泊まった。
 夜の十一時頃、本館の見回りをした。夜間も本館一階の電気は点灯したままにしておくことになっていた。
 体育館から、会議室横の入り口から入ったところ、ヒタヒタと間隔の短い足音がした。
 左手を見ると、ちょうど校長室の前を正面玄関の方へ、茶褐色の不思議な塊が、左右に揺れながら動いてゆくのだ。
 黒々と本体と同じぐらいの太い尾が見える。目を凝らして見たが、それは犬でも猫でもない。
 狸であった(もしくはアナグマかも知れぬ。素人にはこの区別は難しいのだそうだ)。
 狸は僕に気づいていなかった。思わず、狸が臆病な動物であることを思い出し、
「わっ!」
と背後から叱った。
 狸はものの美事に右手にコテンとひっくり返ると、ものすごいスピードで、玄関前の化学室の方に向かう廊下へと走り去って行った。
 何だか、ちょっとかわいそうで、しかし、面白かった。

 翌朝、廊下で出勤した校長とすれ違った。
 僕は思わず、振り返って、校長のお尻に尻尾がないか見てみたことは言うまでもない。
(一九九七年七月採録 話者 筆者自身の実体験)
注:この狸の棲みかと思しきところは、テニスコートの向こうの土手ではないかと推測している。しかし、あそこもこの五,六年で宅地化が進んだ。僕に脅された哀れな狸の一族も、死に絶えたやも知れぬ。これは本当に寂しい。



 二〇〇一年七月の、やはりバスケットボール部の合宿の時だった。横浜の花火大会の音がよく聞こえる晩だった。
 本館の業務員(正式には学校技能員と言う)室にあるシャワー室を使った。
 このシャワー室、実は教員にすこぶる評判が悪い。
 タイル張りで、もちろん常に清掃されている。脱衣所を抜けると、洗い場があり、その左手に、掘り込まれた浴槽が付随する。しかしこれは老朽化して機能せず、底に木のすのこを敷いて、その中でもシャワーが浴びられるようにしてある。
 しかし、何だかそこに入る気になれないのだ。年月が経って、赤錆や垢が目地に染み込み、ずばり、キモイの一言に尽きるのだ。
 僕はこのシャワー室に入るたびに、大江健三郎の「死者の奢り」を思い出す。医大の解剖死体を洗うバイトに従事する主人公の話だ。
 この使えない浴槽は、まさにあの小説の中で、ホルマリンを貯めて死体を浮かしている死体槽を、僕に彷彿とさせるのである。
 だが、その日は、その中に立ってシャワーを浴びてみた。
 外では、花火の音が断続的に聞こえた。しかし、それと同時にかすかな女性の話し声がするのである。哀しげな、何かを訴える涙声である。窓はないし、そもそも壁の向こうは学校の中庭である。こんな時間に人のいるはずもない。
 よく注意してみると、それは排水溝の中から聞こえるようにも思えた。
 僕は総身鳥肌立って、浴槽から飛び出て、下着を着けるのも早々に、職員室に戻った。
 よく考えると、風のやや強い夜であった。どこかの目に見えない隙間があって、そこを風が抜ける折に、女のすすり泣きとして聞こえたのだろう。
 でも、僕はそれ以来、浴槽の中には決して立たないし、シャワーも烏の行水だ。今年も合宿がやってくる。怖い。
 (二〇〇一年七月採録 話者 筆者自身の実体験)


「藪之屋敷」に捧げるやぶちゃんの封印怪談
         やぶちゃん 2005年7月2日文化祭2日目書き下ろし

 以下は、余りのまがまがしさから私が封印して、あえて語ることを禁じてきた怪談である。
 2年C組の血と汗の努力に感激して、ここにその封印を解く。


1「誰でもいいの」
 これは現在、某有名私立大学歴史学研究室に勤務する、私の友人Sの実話である。
 Sは、高校2年の時、両眼の網膜剥離(はくり)を患い、大船のK眼科に入院した。手術は成功したが、術後数日、絶対安静を命ぜられて、病院長の自宅の一部を改造した病室に入った。
 早い夕食も終わって、8時の看護婦の回診の後、両眼を包帯で巻いたままのSは、完全な闇の中、聴き飽きたラジオを切ると、ベッドでうつらうつらしていた。
 2時間ほど過ぎた10時頃であろうか、Sは、部屋に人の気配を感じて、目を醒ました。
 リノリウムの床をすり足で歩くスリッパのかすかな足音がした。
 Sのベッドにゆっくりと近づいてくる。
 絹ずれの音と、少し苦しげな息をする様子が、目の見えない、研ぎ澄まされたSの耳に入ってきた。
 その人物は、Sのベッドのすぐ左脇に立ったらしい。Sは回診の看護婦かと思い、思わず、声をかけた。
「誰?」
 すると目に見えぬその相手は、少しの沈黙の後、答えた。
「誰でも、いいの」
 少女の声であった。優しいその声が、その優しさゆえに、Sをぞっとさせた。そうして、Sがそう感じた瞬間、その人の気配が、消えた。ドアを開け閉めする音もなしに。
 Sはまんじりともせず、翌朝を待ち、朝の回診に来た看護婦に、聞いた。
「夕べ、8時以降、夜の私の部屋に来てくれましたか。」
「いいえ。でも、どうして? 誰か来たの?」
Sは夕べの出来事を、その看護婦に向かって話した。
 看護婦は、暫く押し黙ったまま、何も言わない。忘れた頃に、
「……それは……気のせいよ。」
と震えた声で言うと、足早に部屋を出て行く音がした。
 1週間後、彼の目は回復し、あの怪異は、その1日めだけであった。
 後日、Sはこの出来事を母親に話した。すると母親は妙な顔をして、
「おまえが入院していた病室は、K眼科の院長さんの娘さんの部屋だったって、看護婦さんが言ってたわ。娘さんは、5年前、高校2年生の時、心臓病でなくなったんだそうよ。」
と言った。

 Sは、30年以上経った今も、あの、優しくも寂しげな「誰でも、いいの」という声が、恐ろしさと、不思議な懐かしさと共に耳に残っているんだよと、私に語った。(終)

2005年12月5日追記:この話の退院の後日談部分だけは、怪異体験者と個人病院特定を避けるために、意識的に創作してあることをお断りしておく。


2 死の天使
 以下は、私自身の1987年7月、30歳の折の体験談である。

 尾瀬に行って、生水を飲み、A型肝炎に感染した。
 大船××病院の雑居部屋に入院を余儀なくされた。
 
 ある夜、息苦しさから目を醒ました。
 すると、ベッドの足元、向こうの通路に
――看護婦が一人、立っている。
 電灯が消えているのだが、ナース・キャップと白衣でそれと知れた。
 ところが、顔の部分だけが、妙にぼやけて、表情が、というよりも目鼻が分からない。目を凝らそうとしたその時、
――左腕をぎゅっとつかまれた。
 はっとして振り向くと、左隣のベッドの脳梗塞の老人が、大きな眼を見開いて、私のベッドの足元の方を見つめながら、私の腕を痛いほどつかんでいたのであった。その手は、激しく震えていた。
 私はその老人の形相に不気味さを覚えながらも、老人の視線の先、さっきの看護婦のことが気になってそちらに目を移した。
 看護婦は消えていた。

 私がナース・コールをして、老人の異変を告げ、彼は急遽、手術室へと運ばれていった。

 翌朝遅く目を醒ますと、左隣の老人の病床は新しいシーツに変えられており、老人の名札も、すでに抜き取られていた。(終)


3 つかむ腕
 以下は、私自身の1981年7月、25歳の折の体験談である。

 若い頃、県立H高校でワンダーフォーゲル部の顧問をしていた。夏の山行は槍ヶ岳が定番だった。
 「殺生ヒュッテ」の脇にテンぱって、槍を目指した。
 50人という空前絶後の部員数で、狭い穂槍に全員登頂させるには、3グループで入れ替わりをしなくてはならず、私はずっと穂槍の保守を担当した。
 次のグループが来るまでの間が、思いの外長く、なんとも飽きてきた。
 私は時間潰しに、槍では最も難関コースと言われる北尾根の下りを、少しばかり、冷やかしてみようと思い立った。
 7~8メートル下ると、一抱えほどの、ハングした岩にぶつかった。下は見えない。
 両腕で体を支え、乗っ越した。
 目の前にハングの下が見えた。岩のくぼみにモノクロームの男の遺影、位牌と水を入れたカップが供えられていた。
 何ともいやな気分になって、早々に穂槍に戻った。

 その夜、全員無事登頂を祝って、教員3人で軽くワインを飲み、早めに寝た。
カラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ……
 1時を回った頃であったか、誰かが置き忘れたシェラ・カップか何かが、外でころがる音に目を醒まさせられた。
 そのとたん、
――右足の太腿を強くつかまれた。
 この辺りには、たまに熊が出る。しかし、そのつかみ方は、間違いなく――人間の手――なのであった。
 五本の指、とりわけ、離れた親指の感触がしっかりと分かった。
 私は大方、隣に寝ている教員が寝ぼけてやっているのだろう思い、その腕を跳ねのけようと思った。
 しかし、やめた。
 なぜなら、私はテントの右端に寝ていたから。
 私の体の右手は――外――なのだ。
カラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ……
 それは、3分も続いたろうか、ふっと力が抜かれて、手は去った。私は、全身に気味悪い汗をかいて、朝まで凝っとしていた。

 翌朝、一番に外に出たが、カップらしきものはなかった。
 そうして、ニッカボッカを脱いで、そっと右足を見た。
――私の太腿には――赤く充血した、大人の手の指の跡が、五つ、くっきりと残っていた。(終)

 以上、2005年7月2日及び3日の担任クラス2年C組の文化祭お化け屋敷「藪之屋敷」のために当日、完全書下ろしで書いたものである。
 君達の思い出と共にプレゼントする。
                      2005年7月4日
やぶちゃん