やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
鎌倉攬勝考卷之三
[やぶちゃん注:底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。「鎌倉攬勝考」の解題・私のテクスト化ポリシーについては「鎌倉攬勝考卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。【作業開始:二〇一二年七月十三日 作業終了:二〇一二年八月四日】]
鎌倉攬勝考卷之三
鶴岡八幡宮並若宮神事行列之次第
麻上下着用兩人左右に立。〔極楽寺村長吏貮人勤之。〕
鐵棒兩人 〔極楽寺の長吏貮人左右に立、鐵棒を曳。〕
獅子二頭左右に列す。〔孫藤次下知之。〕
孫藤次〔素袍熨斗目著用。〕 大貫〔大太刀帶之。〕
面掛拾人〔二行。〕 大長刀
大鉾 幟二本
弓持 干珠・滿珠
御幣〔大麻袋。〕 錦幡
御錫杖 御鉾〔四月四本。八月三本。神人二行。〕
御幣〔四月四本 八月三本。〕下社家〔二行。〕勤之
職掌
[やぶちゃん注:「職掌」は底本では前の「御幣」の下の二段目にある(割注を同ポイントで示しているために、配せなくなった)。以下、同様の字配箇所は同じ。]
他所より出勤之社人 八乙女
伶人〔二行。〕 御衣箱〔神人持之。〕
御手箱〔神人酒間大夫役之。〕 御杖〔神人小大夫役之。〕
御箭〔神人仁王大夫役之。〕 御弓〔神人石川掃部役之。〕
御硯筐〔小別當。〕 御剱〔神主。〕
法螺〔承仕二人二行役之。〕 鐃〔松源寺花光院。二行。〕
合鉢〔二行。甲衆の内役之。〕 甲衆〔十二院。〕
衲衆〔此内御殿司職兩人、御鍵持兒一人宛相隨、一﨟灑水持兒一人相隨。〕
神輿〔四月四社。八月三社。〕
[やぶちゃん注:「神輿」は底本では前の「衲衆」の下の二段目にある(割注を同ポイントで示しているために、配せなくなった)。]
御經師 御大工〔兩人二行。〕
御沓持〔四月四人。八月三人。各二行。〕
御傘〔四月四本。八月三本。各二行。〕
御鑓十本〔差添警固十人二行。〕 神輿臺持〔白張着二行。〕
相州御代官所より、御神事警固役人出勤、但四月・八月兩度下役人召連、御神事道筋差添警衞し、鎌倉十四箇村名主共麻上下着用、夫勤之者召連出勤、神輿に付添警固、神輿舁其外夫役之者え下知をなせり。
[やぶちゃん注:以下は、の一文は底本では全体が一字下げ。]
新警固十人羽織着用、御神輿御幸筋警固、但右夫役之儀は雪ノ下村より出せり。
[やぶちゃん注:本項は出所が明らかでない。「鶴岡八幡宮社務職次第」か? 識者の御教授を乞う。
「孫藤次」水沢優雅氏の「樹陰読書」の「幸若舞と権力者」のページに幸若舞の芸能者として相模平塚の鶴若孫藤次を挙げ、『恐らく偽文書と思われる頼朝と梶原景時の花押のある判物を持ち、鶴岡八幡宮所属の舞々で相模八郡の舞々の元締め。永享五年(一四三三)足利持氏の花押を持つ判物を持ち権力者に接近したようで』あると記す(西暦のアラビア数字を漢数字に代えた。文中の「舞々」は「まいまい」と読み、「
「素袍」は「すはう(すおう)」と読み、「素襖」とも書く(こう書いた場合の歴史的仮名遣は「すあを」)
「熨斗目」は「のしめ」と読む。
「面掛拾人」これは京都石清水八幡宮に倣ったものであろう。また、これらは現在の坂ノ下にある御霊神社の九月十八日の例祭に行われる面掛行列(はらみっと行列)に用いられる面である。現在の面掛行列の先頭の天狗と次の獅子頭(二面)を除く、その後の行列の面は丁度、十面である。
「神人」は「じにん」「じんにん」と読み、神社において社の主家に仕えて神事・社務の補助や雑役に当たった下級神職のこと。以下、それぞれ個別の品物の供奉役に「酒間大夫」「小大夫」「仁王大夫」「石川掃部」とあるのは、神人の中でも有力な一族が複数生まれ、それぞれの供奉役がその神人の家系に継承されたことを意味しているように思われる。実際、実務集団としての神人は想像を絶する資力や強い実権を握るようになるのである。
「鐃」「どら」と読む。
「合鉢」不詳。識者の御教授を乞う。
「甲衆」恐らく「こうしゅう」と読むが、意味が分からない。現在の法隆寺の聖霊会にも「紫甲衆」「慮甲衆」「青甲衆」という僧列が続くことがネット上からは分かるが、「甲」の意味が不明である。僧帽の一種であろうか? それとも「かぶと」の意で、警護護持をシンボライズした僧兵の謂いか? 識者の御教授を乞う。
「衲衆」「なふしゆ(のうしゅ)」法会などで、袈裟を着け、
「灑水」「しやすい(しゃすい)」と読み、本来は水を注ぐの意であるが、密教に於いて加持した煩悩や
「一﨟」鶴岡八幡宮寺の最長老の謂いであろう。
「御經師」鶴岡八幡宮寺で経典等の書写に従事した職員であろう。
「鎌倉十四箇村」「鎌倉攬勝考卷之一」の「鎌倉總説」の「村名」に条には十四の村が挙げられている。参照されたい。]
鶴岡大別當舊跡 今十二院の内、等覺院の後に大ひなる谷あり。此所の地名を八正寺谷と唱ふ。是むかし大別當所の奮跡なりと、土人語れり。八幡の社頭より西に當れり。【鶴が岡社務職次第】を考ふるに、別當の坊を、最初より八正寺とは唱へず、別當職廿一世寶幢院宮僧正尊賢の代に、社務御影堂の號を、院宣を賜ひ、八正寺と稱せし事は、應永廿一年よりの事なり。委敷は【社務職次第】に見へたり。按ずるに、別當の坊を八正寺と名附しことは、八幡大神の託宣に、八正道の權迹を垂るゝといふ託宣にもとづきて、八正寺とは名附し事ならん。又云、別當の坊建立の事は【社務職次第】に云、壽永元年九月廿六日、點鶴岡之西麓(鶴岡の西麓に點じ)、宮寺別當坊を建てらる。今日柱立上棟、大庭平太景義奉行、武衞〔賴朝〕監臨し給ふと云云。大別當歴世の事は、【社務職次第】に載たるところを、援書して玆に錄す。
[やぶちゃん注:「等覺院」明治初期の地図等を見ると、等覚院(落飾して大島姓を名乗る)は、現在の県立近代美術館別館の道を隔てた正面カーブの外延部に当たり、この「等覺院の後」の「八正寺谷」という表現からは、西谷、現在の通称二十五坊ヶ谷と同じ場所を指していると考えられる。
「御影堂」貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」の「鶴岡二十五坊」に『若宮御影堂と称するものは、八幡像を安置するもので、建長三年(一二五一)十一月建立とされている。正嘉二年(一二五八)正月二十二日上棟、弘安三年(一二八〇)十一月、八幡宮炎上の際は御神体がここに遷された。貞和四年(一三四八)再建され、応永二十一年(一四一四)四月十三日、後小松上皇の勅願寺となり、八正寺と号すべき院宣を賜った。時の別当は亀山上皇の曽孫、宝幢院宮大僧正尊賢である。翌年供僧の坊号も院号に改められ、頗る随分の御興隆歟と称讃されている。八正寺はその後別当の称号となったらしく、空然も、その後の家国も、八正寺と称している(『風土記稿』『吾妻鏡』『社務職次第』『社務記録』「足利系図」)』。とあり、更に『八正寺のあったところを八正寺谷とよぶというから、これは西谷のことになる(『風土記稿』)』とある。
「寶幢院宮僧正尊賢」尊賢法親王(貞和元・興国六(一三四五)年~応永二十三(一四一六)年)は亀山天皇の曾孫で、
「八正道の權迹」は、釈迦が最初の説法で説いたとする涅槃に至る修行の基本たる、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定という八種の徳のこと。これが仏法の「正道」であり、「聖道」である。「權迹」は「ごんじやく」と読み、仏や菩薩などが人々を救うために、仮にこの世に姿を現したものの謂い。八幡神との一致から、本地垂迹説で説明している(但し、私は植田はどうも神道を称揚している傾向が見られ、彼自身は逆本地垂迹説に立っていた可能性を私は疑っている)。
「別當の坊建立の事は【社務職次第】に云……」とあるが、これは「吾妻鏡」の誤りであろう。壽永元(一一八二)年九月二十六日の条に同文が存在する。
「援書」引用。]
大別當歴世の名籍
圓曉 中納言阿闍梨、治十九年、輔仁親王の御孫なり。輔仁は後三條帝の第三の御子也。母は六條判官爲義の女、壽永元年九月廿日下向せられ、同廿三日武衞〔賴朝〕幷御房鶴岡の宮に參られ、若宮の拜殿にして、別當職の事を賜ひて、則芳約ありといふ。正治二年〔庚申〕十月廿六日、圓曉大僧正入寂。
[やぶちゃん注:「輔仁親王」(すけひと 延久五年(一〇七三)年~元永二(一一一九)年)は後三条天皇第三皇子。人望もあり詩歌にも優れたが、永久元(一一一三)年の鳥羽天皇暗殺未遂事件(永久の変)で皇位継承を断たれた。
「六條判官爲義」頼朝の祖父源爲義。但し、これは以下に示す「吾妻鏡」の「陸奥守源朝臣」(義家)の誤読と思われ、輔仁の妃は源義家女であった。その間の子が行恵、その次代の子が円暁であった。従って頼朝から見るとこの円暁は従兄弟に当たる。
「壽永元年九月廿日……」以下は、「吾妻鏡」の壽永元(一一八二)年九月二十日の条に基づく。
〇原文
廿日戊子。中納言法眼圓曉〔号宮法眼。〕自京都下向。是後三條院御後輔仁親王御孫。陸奥守源朝臣〔義家。〕御外孫也。武衛尋彼舊好。所被請申也。即參營中給。且御産間御祈事可被申處。爲果宿願。以下向便宜。參篭太神宮之間。于今遲々云々。祭主親隆卿令家人等奉送遼遠之境云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日戊子。中納言法眼圓曉 〔宮法眼と号す。〕京都より下向す。是れ、後三條院の御後、輔仁親王の御孫、陸奥守源朝臣〔義家。〕の御外孫なり。武衛、彼の舊好を尋ね、請じ申さるる所なり。即ち、營中に參り給ふ。且つは御産の間、御祈の事を申さるるべき處、宿願を果さんが爲に、下向の便冝を以て太神宮に參籠の間、今に遲々すと云々。
祭主親隆卿、家人等をして遼遠の境に送り奉らしむと云々。
・「陸奥守源朝臣〔義家。〕の御外孫なり」とあるが、義家に嫁いだ娘の子が行恵で、その子が円暁であるから「外曾孫」と言うのが正しい。
「御産」前月の八月十二日に頼家が誕生している。その出産平癒に合わせて頼朝は彼を招聘したものらしい。
「太神宮」伊勢神宮。
「親隆卿」大中臣親隆(長治二(一一〇五)年~文治三(一一八七)年)公卿にして伊勢神宮神職。長寛三(一一六五)年に叔父大中臣師親に継いで伊勢神宮祭主となった。祭主を十八年間勤め、
「同廿三日……」以下は、「吾妻鏡」の壽永元(一一八二)年九月二十三日の条に基づく。
〇原文
廿三日辛卯。武衞相催中納言法眼坊。參鶴岳給。是宮寺別當軄依被申付也。於拜殿有此芳約云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿三日辛卯。武衞、中納言法眼坊を相ひ催し、鶴岳に參り給ふ。是れ、宮寺別當職申し付けらるるに依りてなり。拜殿に於いて此の芳約有りと云々。
・「中納言法眼坊」円暁のこと。
・「芳約」「芳」は他者の慶事に附した敬意の接頭語。
「正治二年」西暦一二〇〇年。]
尊曉 宰相阿闍梨、圓曉僧正の舍弟、治六年、行教法印汀弟子也。號濱別當(濱の別當と號す)。正治二年十月二日〔補任〕、承元三年閃〔己巳〕九月十五日入寂。
[やぶちゃん注:鶴岡八幡宮寺別当として建仁元(一二〇一)年、法華八講や最勝八講を初めて修した人物である。
「正治二年」西暦一二〇〇年。
「汀弟子」不詳。「灌頂」のことか?
「承元三年」一二〇九年。]
定曉 三位法橋、號太別當。治十二年、平大納言時忠の一門。始は當社供僧公胤僧正漕頂弟子、建永元年五月十八日任社務職、建暦元年九月廿二日爲禪師御坊〔善哉〕受戒相伴上洛、健保五年五月十一日歸寂。
[やぶちゃん注:「卷之二」の「北斗堂跡」の項で既に注したが、私の拘りのある人物であり、本来なら、ここに注すべき内容であるので、そのまま再掲する。「ぢやうぎやう(じょうぎょう)」と読む。私はこの鶴岡八幡宮別当阿闍梨定暁なる人物にある疑念を抱いている(尊暁と同一人物とする記載がネット上に散見されるが、これは誤りである。尊暁は定暁の前の鶴岡八幡宮別当であり、定暁は彼から建永元(一二〇六)年五月三日に別当職を委譲されている。本文の十八日とは幕府がそれを認めて補任した日附で誤りではない)。着目すべきは以下に示される一連の事実である。建暦元(一二一一)年九月十五日に頼家の子善哉十二歳が、彼の下で出家しているが、彼善哉の法名は公暁――彼は公暁の師なのである。園城寺系の僧で、同年九月二十二日には公暁を伴って園城寺にて授戒するために上洛もしており、その関係は如何にも親密なのである。建保五(一二一七)年五月十一日に定暁は腫物を患って入滅するが、翌六月二十日には即座に、園城寺より帰った公暁が彼を継いで鶴岡八幡宮別当に就任する。――そして――翌々年の建保七(一二一九)年一月二十七日のカタストロフへと雪崩れ込んでゆくのである。――公暁の実朝暗殺に於いて、私は十代の終りから、この「定暁」なる人物がキー・パースンなのではないかと秘かに疑り続けてきた。定暁の出自……また、曾て調べた折りには、同名異人で定暁なる人物が見つかり、その人物がまた、本暗殺に繋がるような非常に興味深い人物であったと記憶する(資料を散佚したため、残念ながらこれ以上は書けない)……これは管見する限りでは誰も問題にしていないはずである。……しかし、もう、私の貧しい知見では、この問題をディグすることは不可能かも知れぬ。どなたかに衣鉢を嗣ぎたいと思う。
「平大納言時忠」(大治二(一一二七)年~文治五(一一八九)年)は公卿。桓武平氏高見王流。平清盛の継室時子の実弟。寿永二(一一八三)年には権大納言まで登ったが、壇の浦の合戦で捕虜となる。源義経を婿に迎えて生き残りを謀ったものの義経は失脚、頼朝によって能登配流となって同地で死去した。「平家物語」で「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」という名台詞で知られた人物でもある。]
公曉 左衞門法橋賴曉 俗號惡別當、治三年、左衞門督源賴家卿の三男、定曉弟子、建保四年夏の頃より爲學道、三井寺被住爲補當宮別當之闕、依尼御墓所之仰下向、同五年六月廿日〔補任〕、同十月十一日拜社〔十八歳〕、自今夜號有宿願之子細、上宮西之壇所可有千日參籠云云、他人無對面、纔に五首百日の内滅亡之條不思議一云云、同意之供僧良祐・賴信・良辨三人被改替也。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」に載る公暁による実朝暗殺の一部始終は「卷之二」の「石階」の項に詳述したのでそちらを参照されたい。
「同意之供僧良祐・賴信・良辨三人被改替也」僧賴信は「顯信」の誤り。静慮坊良祐(「吾妻鏡」には「浄意坊」とするが、恐らく「静慮」が正しい)・円乗顕信・乗蓮坊良弁と号し、鶴岡八幡宮供僧であるが、彼らは悉く平家一門である。これらの
〇原文
一日戊戌。鶴岡供僧淨意坊豎者良祐有其誤之由。依讒訴輩之説。被經御沙汰之處。不相交謀反事之間。又可安堵之旨。京兆下知給云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
一日戊戌。鶴岡供僧の淨意坊
と記すからである(「豎者」とは学僧が試される
〇原文
卅日丁酉。鶴岳供僧和泉阿闍梨重賀被管之由。雖有其聞。不奉与別當惡行之由。依聞食披。可安堵本坊之旨。右京兆被下御書云々。被召勝圓阿闍梨。被尋問犯否之處。勝圓申云。別當供僧爲各別。所致御祈禱也。別當罪科不可混之。但禪師師範三位僧都貞曉入滅之後。無受法御師之間。依二位家御定。眞言少々雖奉授。踈學而無御傳受。然間。就修學道。猶以不奉親近。况以如此陰謀。可被仰合乎。可足賢察云々。陳謝非無其謂之間。令安堵本職云々。又禪師後見備中阿闍梨之雪下屋地幷武州所領等。被収公之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
卅日丁酉。鶴岳の供僧、和泉阿闍梨
勝圓阿闍梨を召され、犯否を尋問せらるるの處、勝圓申して云はく、
「別當・供僧は各別と
と云々。陳謝、其の謂はれ無きに非ざるの間、本職を安堵せしむと云々。
又、禪師の後見備中阿闍梨の雪下の
この「被管」は被官で、勝圓阿闍梨が武家(恐らくは平家方の)の家臣であったことを示すか。これらの義時の尋問と下知は、衝撃の暗殺事件の中にあって、如何にも冷静沈着、出来過ぎた話に見えはすまいか? 私にはそう見えるのだ。そんな疑惑をヒントに、私は若き日の拙作「雪炎」の冒頭に、義時の間者の僧を配したのではあった。]
慶幸 三位僧都、俗號一年別當、治一年、元は永福寺別當實慶大僧正汀弟子、建保七年正月朔日任別當、承久二年正月朔日入滅。
[やぶちゃん注:「建保七年正月朔日任別當」は月が誤り。建保七(一二一九)年『三月』一日である。
「承久二年正月朔日入滅」は日附が誤り。承久二(一二二〇)年一月『十六日』である。「一年別當」と言うものの、彼の実際の別当在位はたった十ヶ月半であった。]
定豪 忍辱仙大僧正、兼法務、于時辨法橋、治二年、民部權少輔源延俊息〔西宮源氏〕、兼豪法印入室灌頂弟子、元は當社供僧、正治元年六月二日補勝長壽院別當〔寺務廿一年、〕承久二年正月廿一日遷補當社務職、嘉禎元年十一月十九日轉權任大僧正、同年九月廿四日於京都歸寂。
[やぶちゃん注:定豪(仁平二(一一五二)年~嘉禎四(一二三八)年)。父源延俊は五位蔵人民部権少輔。建久二(一一九一)年に鶴岡八幡宮供僧に補任、二年後には同地の宿老僧十名の一人とされ、正治元(一一九九)年、文覚の失脚によって神護寺を継承した性我に譲られる形で、頼家によって勝長寿院別当に補せられた。承久二(一二二〇)年一月二十一日に慶幸の後を受けて別当に補任され、以後は実質的な八幡宮の実権を掌握、翌年九月の別当辞任後も門人を別当に据えてその権威を保持した。以下、参照にしたウィキの「定豪」によれば、『更に翌年承久の乱が発生すると、鎌倉幕府のために祈禱を行い、その功績によって熊野三山検校・新熊野検校・高野山伝法院座主が与えられ、鎌倉幕府の仏教界への本格的関与の先駆となった』。『定豪の台頭の背景には鎌倉幕府との強いつながりや朝幕関係の安定を望む承久の乱後の朝廷の意向があったが、その一方で彼自身も九条家や久我家と連携して仁和寺御室の道深法親王と間で伝法院や広隆寺、東大寺の継承を巡って激しく争うなど、鎌倉幕府の意向とは一線を画した野心的な行動も見せている』。『定豪はその後も鎌倉を本拠として必要な場合に京都に上』り、安貞二(一二二八)年には東大寺別当に任ぜられたが、文暦元(一二三四)年、将軍頼経正室竹御所の御産祈禱に失敗し(母子ともに死去した)、その責任を取って、東大寺別当・東寺二長者を辞任した。嘉禎元(一二三五)年大僧正、翌年、九条道家の推挙により東寺長者筆頭である一長者(貫主)に任ぜられている(八十五歳での任命は当時の最高齢記録であった)。同三(一二三七)年には四条天皇の護持僧ともなっている。実に、承久の乱を挿んで宮廷と幕府、京都と鎌倉の仏教界をも牛耳った野心的な人物である。]
定雅 本名教雅、大藏卿阿闍梨、治九年、觀修寺參議藤原親雅卿の息男、定豪大僧正入室汀弟子、寛喜元年六月廿五日依供僧等訴訟、本主定豪悔還社務職、讓與定親法橋。
[やぶちゃん注:ネットのグーグル・ブックスで披見出来る鶴岡八幡宮編「鶴岡八幡宮年表」によれば、承久三(一二二一)年九月中には、彼は定豪から別当職を譲られている。
「藤原親雅」久安元(一一四五)年~承元四(一二一〇)年)。
「寛喜元年六月廿五日依供僧等訴訟、本主定豪悔還社務職、讓與定親法橋。」これは訓読するなら「寛喜元年六月廿五日、供僧等、訴訟に依り、本主定豪、社務職を悔い還へして、定親法橋に讓り與ふ。」となる。グーグル・ブックスの「鶴岡八幡宮年表」ではこの部分が公開されていないので、如何とも言い難いが、この部分、「吾妻鏡」の寛喜元 (一二二九) 年六月の二十五日の条には『廿五日辛酉。晴。左大臣法印定親補鶴岡別當職。是師匠定豪僧正悔還定雅讓之云々。』(廿五日辛酉。晴。左大臣法印定親、鶴岡別當職に補す。是れ、師匠定豪僧正、定雅から悔い還して之を讓ると云々。)とある。「悔い還す」というのは、「悔いて取り消す」の意で、既に他者(この場合は定雅)に譲渡された権利を、本来の所有権者(ここでは定豪)が契約を取り消して以前の状態に戻すことを言うから、この本文にある「訴訟」からも、定雅と師定豪との間に不和が生じたか、定雅が鶴岡八幡宮寺内に於いて同供僧らと何らかトラブルを起こし、それが致命的に悪化したため、定豪が定雅の別当職譲渡を撤回、新たに自分の別な弟子である定親にそれを譲ったということらしい(但し、別当職を解任されただけで、その後も「吾妻鏡」には供僧としての親雅の名を見ることは出来る)。詳細な内容が分かった際には、更新したい。]
定親 内大臣法橋、治十九年、土御門大臣通親公の御息、法務大僧正東寺一長者、東大寺別當法務大僧正、定豪入室灌頂弟子、寛喜元年六月五日〔補任〕、寶治元年六月十八日定親籠居。是は依爲三浦若狹前司泰村緣者也、文永二年七月廿五日於京都入寂。
[やぶちゃん注:定親(建仁三(一二〇三)年?~文永二(一二六五)年/文永三年?)は内大臣通親源(
「寛喜元年六月五日〔補任〕」とあるが寛喜元(一二二九)年六月「二十五日」の誤り。
「寶治元年六月十八日定親籠居。是は依爲三浦若狹前司泰村緣者也」とあるのは、彼の妹が三浦泰村に嫁していたため、宝治元(一二四七)年六月五日の宝治合戦後、三浦氏に連座して籠居を命ぜられたことを指す。同年七月に上洛、弘長元(一二六一)年東寺長者となるなど、失脚後も公家に重んぜられた。
「文永二年七月廿五日於京都入寂」は「鶴岡八幡宮寺社務職次第」によるもので、「東大寺別当次第」には『同三年九月九日六十四歳寂』とあるとする(「鎌倉・室町人名事典」の「定親」の中込律子氏の解説による)。]
隆辨 大納言法印、號如意寺、又號聖福寺殿、治三十七年、四條大納言隆房卿の息、大僧正權僧正兼法務圓法印灌頂弟子、寶治元年六月廿七日補任、建長四年十一月三日任權僧正、弘安六年八月十五日入寂七十六。
[やぶちゃん注:隆弁(承元二(一二〇八)年~弘安六(一二八三)年)は承久二(一二二〇)年に十三歳で園城寺に入って出家、学才の誉れ高く、天福二(一二三四)年には将軍頼経の招きによって鎌倉に下向、後に北条得宗家と結びついて園城寺を再興するなど、「鎌倉の政僧」の異名を持った。以下、参照したウィキの「隆弁」によれば、彼の成功の鍵は宝治合戦にあったとする。『一連の騒動は九条頼経やその支持勢力が執権北条時頼打倒を画策して起こしたものであった。当時、天台宗は九条兼実の実弟慈円が天台座主を務めて以来、九条家との密着が進み、また真言宗も朝廷の実力者である同家に靡いていた。そのため、一連の事件では多くの密教僧が時頼打倒のための祈祷を行っていた。その中で隆弁のみは時頼の依頼を受けてその許に参上して時頼勝利の祈祷を行ったのである。時頼の勝利に終わった後に、密教勢力は鎌倉から大いに後退して代わりに禅宗が進出することになったが、その中で隆弁のみが時頼の信任を得て、鎌倉幕府からの支援を受けることになったのであ』った。『このように順調な出世を遂げていた隆弁の最大の悲願は園城寺の再建であった。園城寺はかつて源頼朝から厚い信頼を受けていたが、園城寺で修業していた公暁が源実朝を暗殺した事件を機に幕府からの信頼を失って衰退しつつあったのである。隆弁の願いを聞いた時頼は園城寺への支援を約束し、また隆弁も園城寺末寺として如意寺を建立してその勧進に奔走』、文永元(一二六四)年には鎌倉在住のまま、園城寺別当に補され、翌文永二(一二六五)年、大僧正に昇っている。歌人としても知られた。
「聖福寺殿」は「しようふくじ」と読み、極楽寺の背後(西南)の尾根を越えた谷戸、現在の稲村ヶ崎正福寺公園付近にあった寺。「新編鎌倉志卷之六」の「聖福寺舊跡」に、
聖福寺の奮跡、極樂寺の西南にあり。大なる谷なり。此地に熊野權現の社あり。【東鑑】に、建長六年四月十八日、聖福寺の鎭守、諸神の神殿の上棟、所謂神驗、武内・稻荷・住吉・鹿島・諏訪・伊豆・筥根・三島・富士・夷の社等なり。是總じて、關東の長久、別して相州時賴の兩男〔
とあり、この建長六(一二五四)年でお分かりの通り、本寺の大勧進はまさに隆弁であったのである。
「四條大納言隆房」藤原隆房(久安四(一一四八)年~承元三(一二〇九)年)は公卿。正二位権大納言。平清盛娘を正室とし、平家没落後も建礼門院を庇護、後白河法皇寵臣としても知られた公家の権力者。歌人としても優れ、また「平家物語」の薄幸の女小督は最初、彼の愛人であった。]
賴助 亮法印、號圓城寺、又號佐々目僧正、治十四年、武藏守平經時の息、最明寺殿の甥也、守海法印入室汀〔三寶院〕、良瑜僧正汀〔安祥寺流〕、弘安六年八月廿六日〔補任〕、永仁四年二月廿八日寂〔五十二〕。
[やぶちゃん注:頼助(らいじょ 寛元三(一二四五)年~永仁四(一二九六)年)は第四代執権北条経時次男。父経時菩提所であった鎌倉佐々目ヶ谷にあった佐々目遺身院(廃寺)を拠点としたことから佐々目頼助とも呼ばれる。弘長二(一二六二)年前には出家、仁和寺流法助の弟子となって修行の後に鎌倉に戻り、弘安四(一二八一)年四月十六日には元寇の危機を前に執権北条時宗の命により異国降伏祈祷を行っている。弘安六(一二八三)年八月、北条氏出身者としては初めて鶴岡八幡宮の第十代別当となった。正応五(一二九二)年、大僧正・東大寺別当に就任。永仁四(一二九六)年に五十二歳で死去。別当職は弟子政助(北条時頼三男宗政の息)に譲渡した。因みに、鎌倉時代最後の別当となる第十七代有助(北条義時四男有時の子北条兼義の息)も頼助弟子であった。参照したウィキの「頼助」には、師『法助から頼助宛ての置文に、寺の事は鎌倉の執権北条時宗と重臣安達泰盛によくよく相談するように書かれており、鎌倉と京都仏教界の仲立ちを務めていた』とある。]
政助 亮法印、治八年、武藏守平宗政息、賴助大僧正入室汀、永仁四年二月廿七日任社務職、嘉元々年六月二日歸寂〔三十七〕。
[やぶちゃん注:父「平宗政」北条宗政(建長五(一二五三)年~弘安四(一二八一)年)は得宗家。第五代執権北条時頼三男で第八代執権時宗同母弟。第十代執権師時は彼の実子(父死後、伯父時宗猶子となった)。前の「隆辨」注で示した福寿丸である。]
道瑜 大僧正、號二條殿、又號如意寺殿、治七年、普光園院入道關白良實公〔二條殿〕御息、母は大友大炊助親秀女也。前大僧正隆辨入室受法、御室戸前大僧正道慶汀弟子、園城寺長吏、乾元二年六月十一日補社務職、同七月廿三日拜社日中嚴重之儀也、後別當坊至赤橋供奉人騎馬、延慶二年六月十八日辭職、同年七月二日入寂五十四。
[やぶちゃん注:「道瑜」(建長八・康元元(一二五六)年~延慶二(一三〇九)年)の補任は六月十八日ともいわれる旨、「鎌倉市史 社寺編」に記載がある。彼は師であった隆弁の後、園城寺の如意寺を管領、永仁五(一二九七)年十二月には鎌倉在住のまま、園城寺長吏に補任されている。
「普光園院入道關白良實公〔二條殿〕」二条良実(建保四(一二一六)年~文永七(一二七一)年)は公卿。九条道家次男。第四代将軍頼経の兄。関白。
「大友大炊助親秀」大友親秀(建久六(一一九五)年~宝治二(一二四八)年)は幕府御家人。第四代将軍頼経まで仕えた。官位「大炊助」は「おおいのすけ」と読む。
「乾元二年」西暦一三〇三年。]
道珍 大僧正、號堀川僧正、又號南瀧院、治五年、鷹司關白太政大臣基忠公の御息也、南瀧慌前大僧正靜珍入室汀、延慶二年六月十八日補任、正和二年八月十二日於房海宿坊入滅〔三十八〕。
[やぶちゃん注:「道珍」(文永十二・建治元(一二七五)年~正和二(一三一三)年)。徳治三(一三〇八)年六月、やはり鎌倉在任のまま、園城寺長吏となっている。享年三十二歳。
「鷹司關白太政大臣基忠」鷹司兼忠(弘長二(一二六二)年~正安三(一三〇一)年)は公卿。鷹司兼平次男(兄基忠の養子となる)。関白・摂政。
「房海宿坊」「房海」は次期別当の僧名。次項参照。「宿坊」については、湯山学氏はその「隆弁とその門流――北条氏と天台宗(寺門)――」(『鎌倉』第三十八号.昭和五十六(一九八一)年)(HP「後深草院二条」のここからの孫引き)で『鶴岡八幡宮別当であった房海の師、房源は長福寺別当であった。房源の師頼兼は園城寺別当であったが、弘長元年(一二六一)七月、鎌倉で死去した。同門の房暁は延慶二年』(一三〇九)年十月に鎌倉名越で死んでいるが、房暁の弟子房仙は名越長福寺の別当であったとされ、以下、『この名越長福寺は、隆弁が死んだ「関東長福寺」であろう。道珍が死去した「房海の宿所」もこの名越長福寺と推定される。つまり、房海をはじめ、その師房源・頼兼や房暁らは、この名越長福寺の別当として同寺に居住したのである』と推定されておられる。]
房海 刑部卿僧正、治四年、從二位宗教卿猶子、宮内卿法印房源入室、讃岐法印圓審汀弟子、園城寺別當右大將家法華堂別當、正和二年九月朔日〔補任〕、同十一月四日拜社、同三年八月轉大僧正、同五年八月三日入寂〔七十二〕。
[やぶちゃん注:「房海」(寛元二(一二四四)年~正和五(一三一六)年)も鎌倉在住のまま、園城寺別当となっている。正和元(一三一二)年には北条貞時(第九代執権であるがこの時は既に退任)の援助を得て、園城寺南院に勧学院を興している。
「從二位宗教」難波宗教(なんばむねのり 正治二(一二〇〇)年~?)は公卿。侍従・刑部卿。従二位。北条時頼の蹴鞠の師として鎌倉でたびたび蹴鞠の会を開いた。]
信助 號勸修寺大僧正、又號九條殿、治七年、九條攝政關白左大臣從一位教實公御孫、同攝政右大臣正二位忠家公の御孫也、御母は太政大臣公房公の御女也、勸修寺長吏、高野傳法院座主、東寺一長者、東大寺別當、勸修寺勝信僧正入室汀、正和五年八月十三日補社務職、御教書御使南條左衞門尉貞直、元亨二年十月十九日入寂〔五十七〕。
[やぶちゃん注:「信助」は「信忠」の誤り。信忠(文永三(一二六六)年~元亨二(一三二二)年)は定親以来久々の東寺系門流。
「九條攝政關白左大臣從一位教實公」九条教実(建暦元(一二一一)年~文暦二(一二三五)年)は公卿。九条道家長男。先に注した二条良実の弟、第四代将軍頼経兄。
「同攝政右大臣正二位忠家」九条忠家(寛喜元(一二二九)年~建治元(一二七五)年)は九条教実長男。従ってここで何れも「御孫」とするのはおかしい。信忠は忠家の孫ではなく子である。]
顯辨 大夫大僧正、號月輪院、治十年、越後守平顯時の息也、金澤修理大夫貞顯の兄なり、隆辨大僧正入室受法、實相院前大僧正靜譽汀、園城寺別當、長吏、法華堂別當、元亨二年正月十八日補社務職、御教書御使長崎次郎左衞門尉、元德三年四月廿八日入寂〔於金澤葬之、六十三。〕。
[やぶちゃん注:「顯辨」(文永五(一二六八)年~元徳二(一三三〇)年)。弘安三(一二八〇)年、十二で隆弁に入門、隆弁が没するまでの七年師事した。その後、園城寺別当を経て鎌倉に戻って右大将法華堂別当に就任、元亨二(一三二二)年、鶴岡若宮別当となった。嘉暦二(一三二七)年には園城寺長吏を兼務したが、翌年辞任している。参照したウィキの「顕弁」によれば、『園城寺の若手衆達からの信頼は篤く、隆弁の再来と称揚された。園城寺への戒壇勅許を巡る問題では衆徒達によって旗頭に擁立されたが、この運動は延暦寺の激しい抵抗にあい結局失敗に終わった』とある。先に示した湯山学氏の「隆弁とその門流――北条氏と天台宗(寺門)――」には、『元応元年(一三一九)園城寺の金堂供養を行ったとき、同寺別当であった顕弁は、幕府の権威をかさに着て、戒壇を設けたため、延暦寺衆徒の焼打ちにあった』とある。
「越後守平顯時」北条(金澤)顕時(宝治二(一二四八)年~正安三(一三〇一)年)。
「金澤修理大夫貞顯」北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~正慶二・元弘三年(一三三三)年)鎌倉幕府第十五代執権(権力抗争によって十日で辞任したので十日執権と呼ばれる)。幕府の滅亡とともに自刃した。
「法華堂別當」頼朝霊廟である法華堂の別当は房海も兼帯している。]
有助 上乘院大僧正、法務辨佐々目大僧正、治三年、駿河守平有時が孫、兼時の子也、東寺一長者、前佐々目大僧正賴助入室受法、元德三年四月廿六日補社務職、同廿九日拜社元弘三〔癸酉正慶二年也〕、五月廿二日、世上大亂之間於入道相模守高時が亭自殺畢、于時歳五十七、兒三人〔善王丸・寶珠丸・光王丸。〕、出世二人、靑侍十餘人自殺。
[やぶちゃん注:有助(建治三(一二七七)年~元弘三(一三三三)年)は鎌倉時代最後の別当である。
「駿河守平有時」北条有時(正治二(一二〇〇)年~文永七(一二七〇)年)。北条一門。第二代執権北条義時四男。第三代執権泰時異母弟。北条氏伊具流の祖。
「兼時」北条兼時(?~弘長三(一二六三)年)は有時の子。第六代将軍宗尊親王に仕えた。
「元德三年」西暦一三三一年。
「出世」弟子のことと思われる。]
覺助 二品親王、號聖護院官、治四年、後嵯峨帝第三御子也、大覺寺吉野院大伯父也、園城寺長吏、三山幷新熊野檢校職、四天王寺別當、元弘三年九月四日被補當社檢校職、無御下向、社務代覺伊僧正也、同十一月十一日下着、一心院住明石本坊、御勤以下宮中之事、毎事可有執沙汰之由、被下令旨於覺珍・賴珍畢、建武元年三月、被置不斷大般若經事、爲長壽寺殿御願、同二年九月廿八日總州佐坪一野御寄附、廿五日始行座不冷寄加料所事、建武二年八月廿七日佐々目領家職御寄進、二階堂別當御所へ直に被召供僧、被下御判物、奉行對馬民部云云。
[やぶちゃん注:本文にある通り、彼は鎌倉に下向せず、覚伊という弟子を代官として鎌倉に派遣した。彼の下着を元弘三(一三三三)年「十一月十一日」とするが、「鶴岡八幡宮年表」によれば、「十二月十一日」の誤り。次の「賴仲」に示されるが、覚助は建武三(一三三六)年六月二十日に別当職を辞めている。
「一心院住明石本坊」これは、一心院は明石本坊に住む、の意で「一心院明石本坊」は十二所にあった(現在は廃寺)。
「覺珍・賴珍」覚助の命を受けた覚伊の弟子の実務僧の名か。
「建武元」翌、西暦一三三四年。
「建武元年三月、被置不斷大般若經事」「鶴岡八幡宮年表」の三月二十三日にある尊勝護摩供を始行とあるのを指すか。
「長壽寺殿」足利尊氏。
「同二年九月廿八日總州佐坪一野御寄附」以下は「卷之二」の「不冷壇所」の項及び私の注を参照のこと。]
賴仲 少納言法印〔七十一〕、號法蓮院、治二十年、仁木次郎源師義息、佐々目大僧正賴助入室受法、地藏院大僧正親玄弟、建武三年六月廿日先被預社務職了〔七十一〕、同四年〔補任〕、曆應元年六月九日、遠江國宮口郷寄進狀、上杉戸部被渡之、同四年八月六日、上下御寶殿・内陣・御神物等檢知之目錄無相違歟、此序に奉拜御神體了、値遇結緣之至、隨喜之涙濕襟了、御殿司重契賴智、執行兼祐同前。康永元年五月十九日爲將軍家御願、自京都御正體二面調進奉開眼供養、即奉納寶殿也、文和四年十月二日歸寂〔九十〕。
[やぶちゃん注:「賴仲」(文永三(一二六六)年~正平十・文和四(一三五五)年)。彼の就任以降、鶴岡別当職は東密が独占することとなった。
「仁木次郎源師義」足利尊氏に仕えた
「同四年〔補任〕」建武四(一三三七)年一月五日。これでも分かるように、実際に別当職に就くことと、補任されることとは別である。
「曆應元年」翌西暦一三三八年。
「遠江國宮口郷」旧静岡県浜名郡内、現在の浜松市東区にあった。
「上杉戸部」初代関東管領で山内上杉家始祖の上杉憲顕のこと。「戸部」は民部の唐名。彼は従五位上民部大輔であった。この寄進は足利尊氏によるもの(「鎌倉市史 資料編第一」二七号資料)。
「康永元年」西暦三四二年。
「將軍家」勿論、足利尊氏。]
弘賢 左衞門督法印、西南院、治五十七年、加子七郎息也。前大僧正賴仲入室汀、無品親王遍智院聖尊重受、醍醐寺務法印、弘顯法印重受、貞雅法印西院印可、文和四年賴仲存日之内讓之旨、自京都安堵之御判物到來東寺二長者、康安二年五月任權僧正、應安三年六月轉正、至德四年六月轉大僧正、關東護持奉行、走湯山別當、月輪寺・松岡八幡宮・大門寺・勝無量寺・鑁阿寺・赤御堂・雞足寺・大岩寺・越後國府寺・安房淸澄寺・筥根山平泉寺・雪之下新宮熊野堂・柳營六天宮、此數箇所別當職兼之、應永十七年五月如睡入寂〔八十五〕。
[やぶちゃん注:ここに示された「弘賢」(嘉暦元・正中三年(一三二六)年~応永一七(一四一〇)年)の多数の別当職は殆どが関東の有力寺院で、彼は鶴岡八幡宮内に於ける別当を頂点とした組織作りのみならず、そこを頂点とした関東に於ける東密派の安定を確立した人物と言ってよい(以上は伊藤恭子氏の「鶴岡八幡宮別当頼仲と二人の弟子について」(二〇〇二年駒沢大学歴史学研究室内駒沢史学会刊『駒沢史学』)を参照した)。
「加子七郎」足利氏一門。詳細不詳。
「康安二年」貞治元(一三六二)年。
「應安三年」應安三/建徳元年・正平二十五(一三七〇)年。
「至德四年」元中三(一三八六)年。
「鑁阿寺」は「ばんなじ」と読む。栃木県足利市家富町にある真言宗大日派本山。以下、私は総ての寺社を十全に認識している訳ではないが、煩瑣になるので私の聞いたことがない社寺に限って以下は注する。
「赤御堂」は「あかみどう」と読む。現在の栃木県足利市樺崎町にあった足利家菩提寺
「松岡八幡宮」は足利氏によって勧請創建された社と考えられており、鶴岡八幡宮後方の東谷付近にあったものと推定されている(「鎌倉市史 社寺編」に拠る)。現存しない。
「大門寺」「大岩寺」複数あるが、私の資料では同定不能。
「雞足寺」は「けいそくじ」と読み、恐らくは滋賀県長浜市(旧伊香郡木之本町)に跡を残す真言宗豊山派の寺のことと思われる。同所
「柳營六天宮」「柳營」は幕府又は将軍を意味する。これについては「鎌倉市史 社寺編」に、足利尊氏を祀ったものと推定されており、別当職を鶴岡八幡宮とは別に置かれていることから鶴岡一山(狭義の上下宮の境内域)の外に祭祀され、尚且つ、恐らくは同系統の祭祀である先の「松岡八幡宮」の近く、やはり東谷にあったものと考えられる。]
尊賢 寶幢院宮僧正〔後大僧正〕、號常盤井官、治七年、龜山法皇御曾孫、恒明親王御孫、全仁親王の御子、大覺寺二品親王寛尊入室汀附法、明德元年五月六日、奉請下西院前大僧正弘賢灌頂附法〔三法院流〕應永十七年六月十三日令移別當坊給〔六十五〕、同十八年七月八日於八幡宮長日護摩〔愛染堂〕被始行、供僧奉仕三十人、加脇堂十人、社務開闢料所武藏國吉富郷五箇村、應永廿二年五月十五日、始行於下宮最勝王經、毎月一部講讀、護摩人數之外五人、學頭六人、料所吉富郷内中河原村此兩條御興隆云云、社務御影堂被成勅願寺、被號八正寺事、應永廿一年四月十三日院宣被下、八正寺供養事は同年十月庭儀曼荼羅供舞樂大阿闍梨社務高僧〔廿四人〕。
[やぶちゃん注:「尊賢」(貞和元・興国六(一三四五)年~応永二三(一四一六)年)。当時の鎌倉公方は足利持氏。ここには書かれていないが、応永二二(一四一五)年一月二十五日に彼は後小松上皇の勅裁を受けて鶴岡供僧頓覚坊(相承院)以下二十ヶ所の坊号を院号に改めており、近世まで続く鶴岡二十五坊の院号はここに始まる(「鎌倉市史 社寺編」に拠る)。
「全仁親王」は「ぜんじん」と読む。
「明德元年」元中七・明徳元年/康応二(一三九〇)年。
「武藏國吉富郷」現在の東京都日野市・府中市などに亙る一帯。
「社務御影堂被成勅願寺、被號八正寺事、應永廿一年四月十三日院宣被下」も後小松上皇によるもの。鶴岡八幡宮内の若宮観御影堂、別名八正寺を勅願所と定めたことを指す。
「庭儀」本堂の前で行なう神事仏事をいう。]
快尊 大納言法印號實相院〔廿四〕、治六箇月、上杉右衞門佐氏憲入道禪秀息也〔久我前大將通宣猶子〕、西南院前大僧正弘賢受法印可〔三寶院流〕、寶幢院宮大僧正汀弟子、大倉熊野堂・鑁阿寺・赤御堂・上總八幡別當、應永廿三年移別當坊給、同廿四年正月十日、淸隆〔持氏伯父〕・持仲〔持氏弟〕、幷禪秀一族以下馳籠別當坊、即時滅亡了、快尊於巨呂坂同滅亡了、此時別當坊・御影堂・對屋以下悉燒失。
[やぶちゃん注:「快尊」(明徳四(一三九三)年~応永二四(一四一七)年一月十日)上上杉氏憲(禅秀)の子。尊賢の逝去を受けて応永二十三(一四一六)年八月に補任されたが、同年十月二日、父が足利持氏に対して挙兵し、鎌倉府を急襲、上杉禅秀の乱を起し、善戦したが謀叛は失敗に終わり、本文に挙げられた通り、父を始めとするその首魁は雪ノ下の快尊の自坊であった宝性院で自刃、彼も巨福呂坂で自害して果てた。享年二十五歳であった。]
尊運 一位法眼〔直任〕、權少僧都・權大僧都、治十三年、浦松中納言豐光卿〔日野北〕猶子、實は上杉式部大夫朝廣息也、寶幢院宮大僧正尊賢入室受法印可、應永廿四年正月廿日補社務職、同廿三日雪之下被移〔十九〕、走場山別當・松岡八幡宮・柳營六天宮・西明寺等別當、同廿五年別當坊被新建、同十一月徙移、正長三年權僧正、永享三年八月廿六日入寂〔三十三〕。
[やぶちゃん注:「尊運」(応永六(一三九九)年~永享三(一四三一)年)。
「浦松中納言豐光」不詳。以下の私が調べた事蹟とは矛盾する。
「上杉式部大夫朝廣」扇谷上杉氏傍流の上杉朝定の孫。八条上杉朝広の子で、扇谷上杉家当主上杉氏定の養子となった。この上杉氏定は先の上杉禅秀の乱で持氏方に合力するも反乱軍に敗れて重傷を負い、自刃している。
「應永廿四年正月廿日」応永二四(一四一七)年一月十日の前別当快尊自刃からの十日間は鶴岡八幡宮別当職は不在であった。
「正長三年」は二年まで。永享二年ならば西暦一四三〇年。]
尊仲 中納言法印、一宮五郎入道道慶息也、西南院大僧正弘賢入室受法印可、足利鑁・樺崎赤御堂・大門寺・江島・雪之下新宮等數課所別當職拜社、永享三年十二月十九日被任社務職、關東護持奉行、同四年正月一日奉爲天下安全御祈禱、長日最勝王經被始行、料所武州師岡保内人江郷御寄進之、走湯山松岡小萱寺等別當。
[やぶちゃん注:この間の不思議な交代劇が記されていない。「鎌倉市史 社寺編」の記載によって補っておく。永享三(一四三一)年八月二十四日、前別当『尊運は別当職を弘尊(加子某の子)に譲り、同二十六日に入滅した。ところが、足利持氏はどうしたことか弘尊から別当職を奪って十二月二十五日これを尊仲(一色道慶の子)に与えられた』とあるばかりで理由を記さず、また「鶴岡八幡宮年表」でも不明で、然も八月二十七日から十二月十八日(「年表」も本記載と同じく十九日を持氏の補任とする。「市史」との齟齬の理由は不明)までの別当職は空白となっているのである。この謎の部分については識者の御教授を是非乞うものである。ともかくも、この尊仲という男は持氏に対しても何故は強い発言力を持っていたことが、永享の乱に於ける持氏方としての彼の最右翼的主張と経緯で明らかである。彼は結局、永享十一(一四三九)年、永享の乱に於いて持氏に組した廉で、京都六条河原で殺害されてしまう。
「師岡保内人江郷」「鎌倉市史 社寺編」によれば、「師岡」「保の内」の「人江郷」と読むようで、現在の横浜市鶴見区内とする。
「小萱寺」武蔵国河越荘内にあった寺か。現存しないと思われる。]
弘尊 號神守院、從三位持氏朝臣息男。
[やぶちゃん注:先の尊仲誅殺の叙述からも不審を起されるように、彼は持氏の子ではあり得ない。以下、「鎌倉市史 社寺編」の「鶴岡八幡宮」の弘尊に補任に関わる箇所及び『弘尊は持氏の子にあらず』と頭書する部分を引用する。
《引用開始》
弘尊は上杉持朝と太田資清との推薦で将軍義教から第二十五世の別当職に補任されたがその月日は明らかでない。だがそれは、永享十一年のことであり、その十一月には別当の地位にあった。しかし宝徳元年に足利成氏が鎌倉御所となった頃に、成氏の弟の定尊が宣旨をもって第二十六世の別当職に補任されたらしい。『相承院文書』の中の庚正二年十一月七日付の供僧職補任状は、定尊が出したものとみられる。しかしのち定尊は成氏に従って古河に移ったので(供僧の中にも古河へ行ったものがある)、弘尊が別当に還補されたが、それは応仁元年四月一日の宣下によってであろう。そして文明十一年の頃も引続き別当の職にあった。なお弘尊は持氏の子ではなく加子某の子であり、また別当尊仲は持氏の党に
《引用終了》
「宝徳元年」は西暦一四四九年、「庚正二年」は一四五六年、「応仁元年」は一四六七年、「文明十一年」一四七九年。成氏とそれに従った弘尊の鎌倉脱出・古河入りは康正元(一四五五)年一月と考えられるから、それ以降、実質的な別当職は不在となり、代行した人物があったものと考えられる。「鶴岡八幡宮年表」の別当職の欄には、定尊とともに康正二年八月の項から後、この弘尊還補(「年表」によれば、長禄三(一四五九)年四月二日に、堀越公方足利政知によって還補された)までの部分に「某」とある。以下の、「定尊」の注も多くをこれに譲る。]
定尊 此代より斷絶す。祖圓曉僧正より二十五代に及ぶ。
[やぶちゃん注:前注参照。その後、この古河にあって鶴岡八幡宮別当を名乗り続ける定尊と、幕府に公認された鶴岡八幡宮別当としての弘尊とが、別当職を並称することになった。「鶴岡八幡宮年表」によれば、この定尊は文明四(一四七二)年に
前件の如く、【社務職次第】に見ゆる處なり。永享以來、別當職階斷絶せしは、永享十一年二月、持氏朝臣父子滅亡、是より鎌倉に主君なく、寶徳元年に至り、成氏朝臣下向迄、凡十年ばかりも御所廢跡となりしゆへ、隨て別當職も斷絶に及び、供僧二十五院漸く衰へ、天正の頃には僅に五・六院も存せし由。
[やぶちゃん注:現在のところでは、尊敒は明応二(一四九三)年一月に古河公方足利政氏の子足利愛松王丸(後に出家して空然と名乗る)に別当職を譲ったが、この空然は永正七(一五一〇)年に還俗、その後は古河公方足利晴氏の子家国が名目上の別当となったようである(「鎌倉市史」に拠る。但し、「鶴岡八幡宮年表」は空然の還俗後も、その俗名「義明」を別当欄に記載し、点線(名目)で別当職部分を示している。「鎌倉市史 社寺編」には『永正も末年』『になると多くの社領が押領されていたらし』く、『そのため別当はその地位をたもつことが出来ず、また供僧もその数を減じつつあった』とあり、植田の記載がここで「斷絶」とするのは正しく、最後には『突然別当をやめてしばらくすると供僧を院家と呼ぶようになった。院家は社家(別当)にならう名称であろう』とある。]
小別當 馬場小路に居住す。【社務職次第】云、當社別當宮圓曉大僧正、三井寺より、壽永元年九月廿日下向、其時御供申せし肥前法橋永契と申坊官也。然るゆへ、建久二年十一月、別當宮圓曉御坊より小別當の官を賜り、社内の掃除奉行に定め置れしものなり。其後は御供方の奉行なり。別當の被官、坊官の類なりと云云。
[やぶちゃん注:「小別當」は御供物及び御燈火を奉行するのを主な職務とし、こちらは明治初年に至るまで連綿と存続していたと「鎌倉市史 社寺編」に記す。]
神主 大伴氏。是も馬場小路に住す。傳へいふ、建久二年十二月神主を定めらるゝといふ。右大將家より賜ふ假名がきの古文書を藏す。其寫左に出す。されども神主を定め給ふといふ事、【東鑑】には見へず。
[やぶちゃん注:以下の古文書は底本では全体が一字下げ。]
せん日さんろうの時、八まんくかうぬしの事おほせふくめぬ、おてまいらするしきはうといゝ、はまうみ同淸元のさたゝるべし。他人のさまたげあるへからざるところ也かしこ
文治二年四月日 源朝臣花押有り
此和ふみの註解は、【新編鎌倉志】に悉しければ、茲に略す。按ずるに、文治二年、神主へ賜る文ありて、夫より七・八年後に至り、建久三年三月廿一日
[やぶちゃん注:「鎌倉市史 社寺編」には建久二(一一九一)年『十二月には鶴岡八幡宮神主が定め置かれ、初めて大伴清元がこれに補せられたようであ』り、『これから大伴氏は神主職を世襲し連綿として明治初年に至るまで当社の神事に奉仕した』とするが、同時にこの文書(「鎌倉市史 資料編第一」三〇五)については『疑問があり信じ難い』とも記す。この文書については、本文にもある通り、「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「神主」の条に詳しい考証があり、私の附した注もあるので参照されたいが、それにしてもこの「鎌倉市史」の叙述は一体、何を言いたいのであろう。この文書は偽書である、しかし、頼朝によって大伴清元に神主職が定め置かれたのは事実である、としか読めない。昭和五一(一九七六)年より編纂された「鶴岡叢書」の公的な解説書の中には、神式の行事を司祭する神主の職が置かれたのを建久二(一一九一)年とし、八幡宮『の祭祀をつかさどったのは、真言宗系の僧侶』(供僧)たちと記し、『仏教色の濃い神仏習合の典型であった』と記す文脈で、『初代の神主は大伴清元で、以来、大伴家は明治維新に至るまで神主職を継承した』とするのだが、私には何だか妙にしっくりとこないのである。更に同叢書の、鶴岡八幡宮旧神主家大伴氏系譜四点を収録する「第一輯」の解説では、
《引用開始》
鶴岡八幡宮は神仏習合で、実際には供僧が祭祀などの主導権を握っており、鎌倉期を通じて、『吾妻鏡』には大伴神主の歴代の名が記述されていない。鈴木棠三による本書の解題では、大伴氏の系譜について、「室町期以後、大伴神主の地位が相対的にたかまって、その家系についても扮飾を必要とする事情が生れたのであろうか。本書に収録する一群の大伴系譜を学問的史料として使用する場合には、留意を要する点であろう。」としているが、歴代の神主の事蹟等を知るのに貴重な記述を含んでいる。
《引用終了》
とあるのである(下線部やぶちゃん)。植田の考証にある「吾妻鏡」の鶴岡八幡宮の「神主」の記載の初出が建長四(一二五二)年五月一日であるかどうかを私は精査したわけではないが、植田もいい加減にこんなことを書いたとも思えない。それに加えて鈴木棠三氏の解説などを読むと、現在記されてある「頼朝創建より連綿と続く確かな神主の正統」という鶴岡八幡宮神主史については、どうも植田同様、疑問を抱かざるを得ないという気がしてくるのである。]
十二箇院 徃古當直供僧也。鶴岡の社地より西の方にあり。入口に門有て、夫より内に、左右に院々軒を建て一區をなせり。傳へいふ、建久二年に右大將家、二十五の菩薩になり給ひ、院宣を奏し請て、供僧廿五坊を建立せられ、將軍家代々を歷て、足利家の世となりても、公方幷管領等の住居までは神社の崇敬も有しかど、享德年間に至り、足利成氏朝臣は古河に逃走せられ、上杉兩家も武藏國と上野國へ立越し、以來此地も空虛と成しより漸々衰へて、纔に六七院も殘りし由。是より以前、應永廿二年二月廿五日院宣を賜ひ、坊號をあらためられ院號となれり。是は公方成氏朝臣の代なり。然るに、東照大神祖君關東御料國と定められしより、文祿二年の比、十二箇院に御再興なさせ給ふといふ。偖玆に、東頰より西頰に終る迄を次第に書す。但し、初祖の名のみを揚て、遷寂其餘は大抵略せり。山號を雪下山とも鶴岡山とも稱し、各眞言宗古義なる内に、新義なるは三箇院入交れり。
[やぶちゃん注:本記載については先行注でカバー出来るので新たに注しない。また以下十二箇院についても「新編鎌倉志卷之一」で充分に注したので、そちらを参照されたい。]
我覺院 祖は密乘坊朝豪、號大納言僧都。法性寺禪定殿下忠通公の末子なり。〔眞言新義〕。
莊嚴院 祖は林東坊行耀、號山口法印。〔眞言古義〕。御入國以來は、關東五ケ寺の列を定め給ひしより、其五刹の列となれり。
相承院 祖は頓學坊良嘉律師、平家の一門也。【東鑑】云、治承四年八月廿四日杉山敗北の時、右大將家、
香象院 祖は善松坊重衍、號丹後豎者。中納言通秀卿の孫なり。〔眞言古義なり〕。
慧光院 祖は文惠坊永秀阿闍梨。〔眞言古義なり〕。
增福院 祖は寂靜坊成慶、號辨律師。平家一門也。〔眞言古義〕。
淨國院 祖は佛乘坊忠尊、號大夫律師。法性寺禪定殿下忠通公の猶子なり。〔眞言古義〕。
正覺院 祖は千南坊定曉、號三位法橋。平大納言時忠の一門なり。〔眞言古義〕。
海光院 祖は實藏坊義慶、號武藏阿闍梨。平家一門なり。〔眞言新義〕。
最勝院 祖は靜慮坊良祐豎者也。〔眞言古義〕。
安樂院 祖は安樂坊重慶法眼。平家一門也。〔眞言古義〕。
等覺院 祖は南禪坊良智、號肥前律師。本三位重衡卿の息也。《鏁大師》寺寶に弘法大師自作の木像あり。
若宮舊跡 由比濱大鳥居の東の方にあり。此邊を、徃昔は鶴岡と號しける舊地なり。右大將家、治承四年十月鎌倉に入給ふ最初、まづ遙に八幡宮を拜み給ふとあるは、爰に鎭座の宮殿をいふ。是則天喜年中、源賴義朝臣當所へ初て勸請の社頭なり。賴朝卿、今の地へ移し給はんとせらるゝ砌、本新兩所決しがたく、神前にて鬮を取給ふとあるも此地にて、本といふは爰の舊地をさし、新とは今の社地をさす。神監に任て、今の地に治定せしと云云。
[やぶちゃん注:現在の材木座一丁目にある元八幡。以下の記載は、まず「吾妻鏡」の治承四(一一八〇)年十月小七日丙戌の鎌倉入御の冒頭に、
〇原文
先奉遙拜鶴岡八幡宮給。
〇やぶちゃんの書き下し文
先づ鶴岡八幡宮を遙拜し奉り給ふ。
とあるのを指す。続く記載も同年同月十二日の冒頭、
〇原文
十二日辛卯。快晴。寅尅。爲崇祖宗。點小林郷之北山。構宮廟。被奉遷鶴岡宮於此所。以專光房暫爲別當職。令景義執行宮寺事。武衛此間潔齋給。當宮御在所。本新兩所用捨。賢慮猶危給之間。任神鑒。於寳前自令取探鬮給。治定當砌訖。然而未及花搆之餝。先作茅茨之營。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日辛卯。快晴。寅の尅、祖宗を祟めん爲に、小林郷の北山を點じ、宮廟を構へ、鶴岡宮を此の所に遷し奉らる。專光坊を以て暫く別當職と爲し、景義をして宮寺の事を執行せしむ。武衛、此の間潔齋し給ふ。當宮の御在所、本・新兩所の用捨、賢慮猶ほ危み給ふの間、
を元としている。「神鑒」は神のお告げ。「茅茨」は茅葺のこと。
ここで筆者が述べるように実は「鶴ヶ岡」というのはここの旧地名なのである。]
[荏柄天神社〔別當〕一乘院]
[やぶちゃん注:以下、「荏柄天神社」の解説は長いので、途中に注を挿入した。]
荏柄天神社 大倉の街道の北側、鳥居徃來際にあり。社前石階下名大門道二町餘、左右に松の並木あり。比大門路を馬場と唱ふ。此邊、古へは諸家の屋鋪多く、將軍家の御所よりも咫尺なれば、宿直昵近の人々等、調馬場とせしといふ。當社は古き鎭座にして、其傳えしれず。囘祿も數度に及び、社傳詳ならず。祭神は天満大神なり。別當所は一乘院荏柄山と號し、眞言古義、京都東寺の末寺、地は大門路の東の方にあり。天神本社南向〔紅梅殿老松殿〕本社左右にあり。神像は菅公束帶の像を安じ、作者不知。膝より下は燒こげたり。腹内に五臟六腑を造りこみたり。みぐしの内に、十一面觀音を納有といふ。或説に、荏草と書て、草をからと讀しむ。接ずるに、是は【和名抄】に出たる當郡中の古き卿名に、荏草と有。されば古記郷名荏草の地より移し、古き在所の地名を稱して、今に荏がら天神と唱ふる歟。據なければしるべからず。他所にも荏草の古地絶てしれず。土人いふ、北條氏直が下知として、此門前に札を建て、關錢といふを取て、宮社造營に寄附せしといひ、其關餞取場の棟札に書付あるといえども、其札何方に有るにや、知ものなければ慥ならず。
[やぶちゃん注:「當郡中の古き卿名に」の「卿名」は「郷名」の誤りと思われる。東京堂出版昭和五一(一九七六)年刊の白井永二編「鎌倉事典」によれば、『社伝によると、長治元年(一一〇四)八月二十五日天神の霊此の地に降臨したので奉斎、後鎌倉幕府の鬼門鎮守の社として崇められたと伝える。弘安四年(一二八一)将軍惟康親王』によって社殿の造営があり、また『足利公方成氏の度々の参詣があった』とも記す。また天文年間(一五三二年~一五五五年)の『社殿造営には、関を設けて関銭を徴した。現社殿は、鶴岡八幡宮の』関東大震災後の『復興工事の際の仮殿を移したものであるが、荏柄社は』古くより『八幡宮の旧殿を移す慣例があった』と記す。『天満天神は古来学問の神として信仰が厚く、大宰府・北野と並んで三天神とよばれ、室町時代以降、詩歌の献詠が盛んであった』(後掲される神宝参照)。『また冤罪を判ずるとする古い信仰もあって』「吾妻鏡」『に渋川守兼の歌を献じて至心を訴えた記事が見えている』(「守兼」とあるのは「兼守」の誤り)とあるのが次の記載である。以下は底本でも改行。]
建曆二年二月廿五日、澁川六郎兼守罪を得て、先達てより囚人となり、安達景盛に召預らる所、明曉、兼守を誅すべき旨景盛に命せられたるを、兼守傳え聞て其愁緒にたえず、依仍て十首の詠歌を荏柄の聖廟へ奉りしを、翌廿六日、工藤々三祐高、去夜荏柄の社に參籠し、今朝退出の砌、昨日兼守が奉納せし十首の歌を、御所に持參する處、將軍家〔實朝〕此道に賞翫し給ふに依て御感の餘り、則其罪を宥せらる。兼守虛名を愁ひ詠歌を奉り、今既に天神の利生に預り、又將軍の恩化を承ることは、をよそ鬼神を感ぜしむるといふと、唯今和歌にあるもの歟と云云。
[やぶちゃん注:「建曆二年二月」は建暦三(一二一三)二月の誤り。
〇原文
廿六日丁酉。晴。工藤藤三祐高。去夜參籠荏柄社。今朝退出之刻。取昨日兼守所奉之十首哥。持參御所。將軍家依賞翫此道給。御感之餘。則被宥其過矣。兼守愁虛名奉篇什。已預天神之利生。亦蒙將軍之恩化。凡感鬼神。只在和哥者歟。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿六日丁酉。晴。工藤藤三祐高、去ぬる夜、荏柄社に參り籠る。今朝退出の
「虛名」は冤罪。「篇什」は、詩歌を集めたもの。「澁川六郎兼守」は、直前に露顕した、源頼家遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立して執権北条義時打倒目指した泉小次郎親平(親衡とも書く)の謀反の徒党連座として同月十六日に捕縛されたうちの一人澁河刑部六郎兼守。現在の群馬県渋川市渋川は彼の本居。残る囚徒の多くは翌二月二十七日に流罪となり、その後、和田義盛甥の胤長が陸奥へ配流、和田合戦の遠因の一つとなった。
以下は、底本では改行なしで繋がる。]
」
寛元四年六月廿日、市河掃部允高光入道が妻相嫁するの始、もし離縁に及ば件の地を與ふべき約をせし契状あり。然るに離縁の砌、先約を違ひしゆへ、女訴訟せしかば、高光入道を糺明し給ふ時に、入道がいふ、落合藏人泰宗と密通せし由を申す。女も論じ申ゆへ、七ケ日荏柄の社壇に參籠し、起請を書進ずべき由仰付られ、女參籠す。御使平右近入道寂阿・鎌田三郎入道西佛等檢見を加る處に、七日七夜參籠して、其失なきの由各申ければ、女申條相立、掃部允入道に、契状の如く女に其地所を充行ひ、領掌せしむべき旨、今日是を定めらるゝと云云。【小田原北條所領役帳】に、荏柄天神領廿一百文とあり。今は社領十九貫百文といふ。
[やぶちゃん注:「寛元四年六月廿日」とあるが、年号月日総て誤りである(これはひどい)。実際には「吾妻鏡」寛元二(一二四四)年八月三日の条。
〇原文
三日辛未。市河女子藤原氏事。於荏柄社不密通落合藏人泰宗之由。書起請文。令參籠之間。以御使者寂阿。西佛被加檢見之處。七日七夜無其失之由。各申之。仍市河掃部入道見西所訴申之信濃國船山内靑沼村。伊勢國光吉名。甲斐國市河屋敷等者。可令氏女領掌之。至市河屋敷者。氏女一期之後。可賜見西子孫之由。今日被定之。氏女者見西舊妻也。令相嫁之始。若離別者。可知行件所々之旨。成契約之間。任契狀可充賜之趣。有氏女訴訟之時。令密通泰宗之旨。見西申之。依難被閣之。及起請參籠等沙汰云々。又爲領家進止之所々事。御家人相傳所帶等。雖爲本所。無指誤於改易者。任先度御教書之旨。可被申子細之趣。被仰六波羅云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
三日辛未。市河が女子藤原氏の事、荏柄社に於て落合藏人泰宗と密通せざるの由、起請文を書き、參籠せしむの間、御使者寂阿・西佛を以つて
神寶
[やぶちゃん注:以下の神宝類の記載で読みの分からぬものは、殆どが「新編鎌倉志卷之二」の「荏柄天神」の「神寶」のルビでカバー出来るので、そちらを参照されたい。]
天神畫像 一幅 康正元年六月十六日、今川上總介は、京都將軍の御下知を以て、成氏朝臣追討として、海道大軍鎌倉へ亂入し、谷七郷神社佛閣を追捕し、當社内陣の神體寶物を分捕して駿河へ奪ひ行し事、【大草紙】等にも見へたり。長享元年、荏柄天神の神體、駿河より還座とあるは、是則此自筆の畫像なりといふ。
[やぶちゃん注:「鎌倉市史 社寺編」によれば、この現存する『天神画像は鎌倉時代末期のもので、図柄は束帯で雲中に立ち、忿怒相である。社殿ではこの図柄が長治元』(一一〇四)『年八月二十二日、風雨雷電と共に、天から来って現在のいてうの木のところに落ち、光を発したという』(「いてう」はママ)とある。
「康正元年」西暦一四四五年。
「今川上總介」今川範忠(応永一五(一四〇八)年~寛正二(一四六一)年?)。ここに記されるのは享徳の乱の前記の成氏の鎌倉敗走古河退散のシーンである。「鎌倉大草紙」には、
京都に御沙汰ありて海道五ケ國の勢今川上總介を大將として御旗を下され鹿王院を被相添、同年の六月十六日鎌倉へ亂入。御所を初として谷七郷の神社佛閣追捕して悉燒拂、頼朝卿已後北條九代の繁昌は元弘の亂に滅亡し尊氏卿より成氏の御代に至て六代の相續の財寶この時皆燒亡して永代鎌倉亡所となり田畠あれはてける。まことにあさましき次第也。
とあり、そのすぐ後には、
享德四年六月、成氏爲退治、上總介範忠京都の御教書を帶し御旗給り東海道の御勢を引率、鎌倉へ發向す。鎌倉には木戸大森印東里見等、離山に待懸防戰ひけれども悉打負ければ成氏重て新手の勢二百餘騎を指向防けれども敵勢雲霞のごとく重りければ終に不叶打負、武州府中へ落行、路次の世谷さいと申所にて南一揆蜂起して待かけたり。梁田河内守結城先陣にて是を散々にかけ破り道をひらき成氏は武州せうぶに落着、敗軍の士卒を集、總州下河邊の城に被籠、此時の事にや鎌倉荏柄天神の社壇を破り駿州の軍兵等天神の神體を駿府へ亂取しけるとかや。其後神體自荏柄へ御歸の事あり。
ともある(HP「海南人文研究室」の「鎌倉大草紙」(抄)の当該箇所を正字化して引用させて頂いた)。因みに後者の部分では「享德四」とあるが、享徳四(一四四五)年は七月二十五日に改元したものでシークエンスは同じである。
「長享元年、荏柄天神の神體、駿河より還座」「長享元年」は西暦一四八七年。これは「鎌倉市史 社寺編」から、「鎌倉大日記」の記載に基づくことが分かる。]
龜山帝院宣一通
尊氏將軍自畫自讃地藏 一幅
文和四年六月六日と有。地藏の像、毎日一枚宛圖畫し給ふこと、【梅松論】に見えたり。其寫次に出す。又塔の辻の寶戒寺にも一枚あり。
[足利尊氏自画自賛地蔵図]
[やぶちゃん注:図の右下には、
尊氏公の
押字
(花押)
と書かれているのが見える。]
喩伽論 二卷 菅公の筆也。是は一部百卷のものを、十卷に書約めらる。其内の二卷なり。他は極樂寺三卷、金澤稱名寺に一卷、高野山金剛三昧院に一卷、竹生島に一卷、其餘の二卷は在所しれずといふ。
天神名號 一幅 義持將軍の書、南謨天滿大自在※神、顯山と有て、花押あり。顯山とは義持君の道號なり。
[やぶちゃん字注:「※」=(くさかんむり)+「曳」。]
同 一幅 鶴滿丸六歳書とあり。是は親鸞上人の童名なりといふ。
心經 一卷 紺紙金泥、源基氏朝臣の書なり。
法華經一部 三浦道寸書なり。
同 一部 大覺禪師書なり。
天神緣起 三卷 菅公一代記也。繪は土佐筆、詞書は藤原行能なり。
歌仙 三十枚 三藐院の關白信尹の筆也。紙數不足。
扇地紙 一枚 台德公の御眞蹟也。古歌八首其内、二首は端書なり。
刀 一腰 正宗作と云。無銘、長一尺三寸五分、指表に梅の彫、裏に天葢・不動の梵字・倶梨伽羅を彫たり。正宗が伯父大進房が作也。鞘黑塗、梅の蒔檜あり。
[刀の図]
笄 一本 後藤祐乘が彫物、赤銅に梅の色檜なり。
詩板 一枚 梅の詩をゑりたる枚也。詩は五山の禪衲の作、其數餘多ゆへ略す。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之二」の「荏柄天神」の「神寶」に総て掲載、私の注も完備しているので、是非、そちらを参照されたい。]
江亭記 一卷 江戸城靜勝軒へ寄越する詩並序也。最も五山の禪衲の作多く、數十なる故略す。此地に係れるものにもあらず。
[やぶちゃん注:同じく「新編鎌倉志卷之二」の「荏柄天神」の「神寶」に総て掲載、私の注も完備しているので(この注にはかなり苦労した)、是非、そちらを参照されたい。]
甘繩神明宮 佐々目が谷の西の路北に、樹木茂りたる社地なり。是は古へより伊勢の別宮と稱し、【東鑑】にも記せり。神主小池氏、文治二年正月二日、二品〔賴朝〕並に御臺所、甘繩神明宮御參とあり。其後も奉幣の事徃々出たり。地名を甘繩と號するゆへ、宮號にも古く唱へ來れり。又同年十月廿四日甘繩神明寶贊殿修理せられ、今日四面に荒垣をゆひ、幷鳥居を建らる。盛長の沙汰とし、二品監臨し給ふ。偖、山の内より西の方、藤澤路に玉繩といえる地名あり。相似たる地名ゆへ誤るべからず。又伊豆に甘繩と號する同名の地もあり。
[やぶちゃん注:「甘繩明神」社は関東武士団の神格的存在である源八幡太郎義家生誕の地ともされる、鎌倉でも最も由緒ある鎌倉最古の神社。鎌倉の伝説的長者染屋太郎太夫時忠が和銅三(七一〇)年に創建したと伝えられる。一説には後掲される長谷の御霊神社の祭神たる鎌倉権五郎景政が由比ヶ浜に新邸を建て、そこを「甘繩」邸と名付けたとも言われる(これは甘繩という地名が往古は現在よりも遙かに広範囲に及んだことをも意味していよう)。
「山の内より西の方、藤澤路に玉繩といえる地名あり」この叙述は、興味深い。何故なら、「新編鎌倉志卷之五」の「甘繩明神」では割注で『又【關東兵亂記】に玉繩の城あり。皆山の内の莊の内にあるを指すなり』とあってニュアンスが異なるからである。植田の時代には、玉繩村は既にして山の内の外と考えられ、往古の広大な山の内荘が既に衰亡していたことを意味しているものと読めるからである。
「伊豆に甘繩と號する同名の地もあり」不詳。少なくとも、現在、知られた地名としては伊豆に甘繩はない模様である。郷土史研究家の御教授を俟つ。]
[やぶちゃん注:創建は伝承では延暦二十(八〇一)年に蝦夷征伐に向かう途中の坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したものを頼朝の祖父源頼義が永承四(一〇四九)年に修理したと伝えられる。鎌倉初期には現在地に移築されている。
「玉泉院」浄光明寺にあった塔頭三院の一つ。「新編鎌倉志卷之五」の「巽荒神」の項にも既に『今は淨光明寺の玉泉院の持分也』とあるから、光圀らがそれを編纂した延宝二(一六七四)年から貞亨二(一六八五)年の間には既に管理がなされていた(「鎌倉市史 社寺編」では、文献学派よろしく寺蔵古文書から享保一三(一七二八)年を確定管理の証左とするが、これはそれよりも五十年近く遡ることが可能な記載である)。なお、恐らくは植田が記載した文政十二(一八二九)年から数年の後、天保末年(一八四四年)頃までには三院とも廃絶したと考えられている(「鎌倉市史 社寺編」に拠る)。]
相馬天王祠 網引地藏の山より西の山麓の、洞窟の内に祠あり。【東鑑】に元久二年十一月十五日、相馬二郎師常は、歳六十七、端座合掌決定往生す。念佛の行者なり。結緣として緇素集り拜すと。其後叢社に祀れり。或はいふ、師常を此窟中へ埋葬し、其後小祠に祀り置けるといふ。此師常は千葉介常胤が二男なり。念佛行者を天王と祀りしは、何人の所爲なるにや。
[やぶちゃん注:標題「相馬天王祠」は底本では「相馬天王嗣」。明らかな誤植なので訂した。この社自体は、享和元(一八〇一)年に寿福寺の隣に移築され、明治二(一八六九)年には「八坂大神」と改名されている。
「相馬の次郎師常」相馬師常(保延五(一一三九)年~元久二(一二〇五)年)は千葉常胤の子で相馬氏初代当主。父と頼朝挙兵に参じた古参の御家人。建仁元(一二〇一)年、父の逝去とともに出家し、法然の弟子となったと伝えられる。
「緇素」は「しそ」と読み、「緇」は黒、「素」は白で、僧と俗人の衣服から、僧俗の意。
「師常を此窟中へ埋葬し、其後小祠に祀り置けるといふ」及び「念佛行者を天王と祀りしは、何人の所爲なるにや」師常墓とされる、この
龜ケ
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志巻之四」に、
◯山王堂が谷
とある。植田が巧みに変化させながら流用している痕がよく分かる。また、「龜谷」という呼称が現在のそれよりも遙かに広範な地域を指していたこともよく分かる。]
五靈ノ社 長谷村より西南の方にあり。神主小坂氏、別當は極樂寺村にて、普明山成就院、古義眞言宗、同國手廣村靑蓮寺末なり。例祭九月十八日。權五郎景政を祀れりといふこと、【保元物語】にしるしたるより、普く人の稱する社號なり。されど其事のたがへるいはれ有。次第は葛原ケ岡の條にしるせり。合せ見るべし。【東鑑】に、文治元年八月廿二日午ノ刻、御靈の社鳴動し地震の如し。此事先に爲怪の由、大庭平太景能申之。仍て二品〔賴朝〕參り給ふ所、寶殿左右の扉破れたり。是を解謝の爲に、御願書御奉納のうへに、神樂等を行はるゝとあり。建久五年正月、八田右衞門尉知家御使として奉幣の事あり。當社、もとは梶原村にあり。いつの年にか此地に勸請しける。祭禮の時は、梶原村より神主出會して神事を修す。神主小坂氏も、景政が家從の末孫といふ。されば古へ社檀鳴動せしは、梶原村にての事なりしと、里老語れりといふ。
[やぶちゃん注:この手の考証が入ると、植田は俄然、オリジナリティを発揮し始める。本項に被差別民であった非人に関わる伝承を持った面掛行列(はらみっと行列)の記載がないのは残念であるが、これは明治の神仏分離令までこの行列が鶴岡八幡宮放生会(八月十五日)で行われていたからであろう。
「權五郎景政を祀れりといふこと、【保元物語】にしるしたるより、普く人の稱する社號なり。されど其事のたがへるいはれ有。次第は葛原ケ岡の條にしるせり」は、「鎌倉攬勝考卷之九」の「葛原岡」の記載の以下の部分を指す。
里老の語るを聞に、むかし梶原景時が先祖、鎌倉權守景成は、鎌倉幷梶原村邊を領しけるころ、此葛原が岡も梶原村の地にして、其頃までは、名もなき萱はらにて有しが、權守景成は、桓武平氏にて、葛原親王より出たれば、其親王を氏神に崇め奉り、宮社をいわひ、葛原の宮とも御靈の社とも稱し、此岡に鎭座なし奉りけり。文字は同じけれど、唱へを替てくづはらの御靈社と申せしより、此岡をくずはら岡とぞ土人稱しければ、竟に地名とは成にける。其後玆の宮を、梶原村へうつしてよりは、御靈の社とのみ唱ふ。されば社號は御靈權現にて、祭神は葛原親王を崇め祀れる事にぞ。又其後、鎌倉權八郎景經が代に至り、權五郎景政が靈を、御靈社に合せ祀れりといふ。是平氏の祖神なり。然るを、御靈の社といへば、權五郎景政を祀りし事とおもふは、尊卑を知らぬ誤りなり。御靈社へ景政を配しまつれる事をしるべし。既に朝廷にても、八所の御靈と稱し祀らしめ給ふは、崇德院・後鳥羽院、或は親王・攝家・大臣のたゝりをなし給ふを、八所の御靈と稱し、祀り給ふを以て知るべし。
但し、私はこの考えに従うことは出来ない(後注参照)。
「文治元年八月廿二日」は「廿七日」の誤り。以下に示す。文治元(一一八五)年八月二十七日の条を示す。
〇原文
廿七日丁丑。午剋。御靈社鳴動。頗如地震。此事先々爲怪之由。景能驚申之。仍二品參給之處。寳殿左右扉破訖。爲解謝之。被奉納御願書一通之上。巫女等面々有賜物。〔各藍摺二段歟。〕被行御神樂之後還御云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日丁丑。午の剋。御靈社、鳴動す。頗る地震のごとし。此の事、先々怪たるの由、景能、之を驚き申す。仍りて二品參り給ふの處、寳殿の左右の扉、破れ訖んぬ。之を解謝せんが爲に、御願書一通を奉納せらるるの上、巫女等、面々に賜物〔各々
この鳴動は何だろう。もしや、あの御霊神社の下には断層帯でもあったものか? はたまた、海浜に直近でもあり、一種の液状化現象によるものででもあろうか?――それとも――ここを支配管理していた、「前々から何かおかしいと思って御座った」と言っている大庭景能(大庭氏の一族が景政の鎌倉氏でもある)が、本社を頼朝の目に掛けてもらわんがため、大力の家来にでも命じて、社殿をこっそり鳴動させ、扉も打ち壊したものか?……などと考えてみるのも面白い。
「當社、もとは梶原村にあり。いつの年にか此地に勸請しける」とするが、「されば古へ社檀鳴動せしは、梶原村にての事なりしと、里老語れりといふ」も併せて、私には俄かには信じ難い(「鎌倉市史 社寺編」でもこれらは否定されている)。但し、ここで神主が祭儀に際して出張して来るという事実の記載は見逃せないのであって、何らかの江戸時代の鎌倉の氏子支配構造や、鎌倉に於ける被差別民の歴史と関係がありそうである。御霊社は全国に数多くあり、ある時、ある人物の御霊信仰が爆発的に伝染し、各地に共時的に祭祀が分立したと考える方が自然な気が私にはするが、如何か。梶原にある御霊神社は梶原景時の屋敷跡が同地に比定されることから、同じ鎌倉平氏である勇猛な武将鎌倉権五郎景政を氏族の祖神として祀ったと考えてよい。現在、この坂ノ下の御霊神社の方は、それ以前の平安後期の建立と推定されており、御霊は実は五霊で関東平氏五家の鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭各氏の祖霊を祀った神社が元であったとされている。それが後の御霊信仰の伝播に伴い、鎌倉権五郎景政の一柱となったと考えられているのである。
……因みに、私はこの神社が大好きである。御霊信仰に纏わるそのルーツの伝承から、力石伝説、江戸時代の滝沢馬琴の長男にして幕府医員であった種継に纏わる父馬琴の涙ぐましい息子の売り込みを感じさせる某人失明事件解明のエピソード、更に国木田独歩が棲んだ近代文学の足跡に至るまで、この神社で語れることは尽きないからである。もう、何年も行っていないけれど……]
佐介谷稻荷社 此谷内西南の方山際にあり。社木蔭森たり。扇ケ谷の華光院持なり。毎歳二月初午は參詣の人群をなす。偖、雪の下の等覺院に、此稻荷に附たる古文書あり。其文に、凶徒退治祈禱之事、殊可被致精誠之状如件。延文四年十二月十一日、佐介稻荷社別當三位僧都御房と有て、尊氏の花押あり。むかしは等覺院にて指揮せし事なるべし。
[やぶちゃん注:現在の佐介稲荷。「新編鎌倉志卷之五」では単に『稻荷社』とし、現在のように「佐介稲荷」と呼称されるようになったのは比較的新しいか。但し、本社はこの地の地名の由来の淵源に関わるものともされる。伊豆蛭ヶ小島に配流の身となっていた頼朝の夢枕にここの稲荷神が翁となって立ち、天下統一を予兆して平家討伐を慫慂、蜂起して開幕に至った。建久年間(一一九〇~九八)、頼朝は夢告成就を以て本社を見出し、畠山重忠に命じ、ここを霊地と定め、社殿を造営させたとする。かつて頼朝が兵衛の佐であったことから、一般に彼を
「華光院」「けこういん」と読む。廃寺。現在の英勝寺の線路を挟んだ向かい側、管領屋敷跡付近にあった真言宗の寺。
「等覺院」二十五坊の一。当院廃絶とともに以下の古文書も消失した模様である。
「凶徒退治祈禱之事、殊可被致精誠之状如件。」は「凶徒退治祈禱の事、殊に精誠を致さらるべきの状、件のごとし」と読む。]
愛宕堂 長谷小路より、佐介谷へ入右の方の山の出先にあり。古へ愛宕權現の社ありしといふ。【太平記】に、天狗堂と看たるゆへ其唱へ起り、愛宕と稱すれば、必ず天狗の説有は、役小角より始れり。本地をば勝軍地藏を安ずることになれり。上世肥後の國の人にて日羅といふもの、勇武の人にして、三韓へ渡り武を顯し、此人を埋葬せし所へ地藏堂を建たり。仍て土人日羅が武を稱して、勝軍地藏と呼びしが始なり。又大寶年中、役小角愛宕山へ登しに、大松の上に數萬の天狗あつまり、其酋長たるもの、唐土の善界・日本の太郎房榮術・天竺の日良と云云。仍て人間の日羅と、天狗の日良を誤り、愛宕社を祀るには必ず勝軍地藏を本地とす。夫に附會して天狗の説も始れり。【神社考】に、愛宕神は日羅が靈を祀る由を記したれども、【ト定記】には、愛宕神は伊弉曲尊と
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之五」には「天狗堂」で載る。
〇天狗堂
現在も佐介ヶ谷の東側丘陵の南端に天狗堂山という名が残る。ここには愛宕神社があったと伝えられ、祭神の愛宕権現が天狗に仮託されたことから、こう呼ばれたものと思われる。但し、私は「太平記」の天狗堂が現在の窟不動の東にあった愛宕社(最近、堂が大破してしまい地面に石組みのみが残るようである)で、これとは別な天狗堂であった可能性も考えている。識者の御教授を乞うものである。
「勝軍地藏」道祖神と習合した地蔵の呼称。しばしば見られる六地蔵は六道それぞれを守護する地蔵尊であり、他界への旅立ちの場としての葬場や墓地などに多く建立され、また道祖神信仰とも結びついて、町外れや辻に集落の結界の守護として建てられた場合も多かったことから、道祖神とも容易に習合した。道祖神は別にシャグジ(「石神」→「しゃくしん」→「しゃぐじん」→「しゃぐじ」)と呼んだことから、この「シャグジ」に「将軍」「勝軍」の字を当ててたのが名の由来で(ウィキの「地蔵菩薩」などを参考にした)、以下の日羅説は附会の類いであろう。
「日羅」(?~敏達天皇一二(五八三)年)は百済王に仕えた日本人。肥後国葦北の国造であった父は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた武人で、日羅は百済王から二位達率と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。敏達天皇の要請により日本に帰国し、朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した。その内容が百済に不利な内容であったため、その年十二月に百済人によって暗殺された。大分県大野川流域や宮崎県などに多くの密教系寺院を開基し、
磨崖仏を建立したとされている(ウィキの「日羅」を参照した)。
「大寶年中」西暦七〇一年から七〇四年。伝承では役小角(えんのおづぬ 舒明天皇六(六三四)年~大宝元(七〇一)年)は正に大宝元年の七月十六日に亡くなったとされている。ギリギリ、セーフ――でも雲に乗り、鬼神を操った仙人の彼は不滅ですから、問題ありません!
「役小角愛宕山へ登しに」の「愛宕山」は京都市右京区にある愛宕山。
「伊弉曲尊」の「曲」の字は「册」若しくは「冉」の誤植ではあるまいか?
「
名越山王堂 名越切通道の北の方の山に、むかし山王堂あり。【東鑑】に、建長四年二月八日燒亡の條に、北は名越山王堂とあり。又弘長三年三月十三日名越邊燒亡、山王堂其中にありと云云。今は廢社となれり。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之七」には「御猿畠山〔附山王堂の跡〕」に以下のように載る。
○御猿畠山〔附山王堂の跡〕
ここで植田の悪い癖がまた出た。「新編鎌倉志」の「【東鑑】に、建長四年二月八日の燒亡、北は名越の山王堂とあり」とあるのは建長六(一二五四)年一月十日の記事の誤りなのである。折角、オリジナリティが出てきたと思ったら、この確認怠慢の無批判引用で台無しである。正確な引用や諸注は「新編鎌倉志卷之七」の方をご覧頂きたい。]
住吉社 小坪の正覺寺の後山にあり。正覺寺の山號をも住吉山と號し、むかしは、小坪の内住吉といふ地名に唱へし由、されば古き社ならん。【光明寺開山傳記】に、三浦住吉谷悟眞寺に住して、淨土宗を弘通すとあり。今も小坪邊の生土神に崇むといふ。偖此住吉は、三浦部の地なれども、當郡に接附せし地なるゆへ、因に此編に錄せり。
[やぶちゃん注:ここで言う「悟眞寺」というのは光明寺の前身で現在とは別な所にあったとされる寺である。これには疑義があるものの、光明寺開山の良忠を荼毘に付した場所はこの正覚寺のある場所と考えられ、現在の同寺でもその遺跡と伝える。「鎌倉事典」の三浦勝男氏の「正覚寺」の項では、この悟真寺は、『背後に住吉城をひかえていることから、再三の合戦の被害で廃寺となったが、天文十年(一五四一)光明寺十八世快誉上人が正覚寺を起立したと伝える』と記す。
「弘通」は「ぐづう(ぐずう)」又は「ぐつう」と読み、仏教が広く世に行われること。また、仏教を普及させることを言う。
「生土神」「うぶうながみ」と読む。産土神。その土地の民草を守る土地神。]
熊野社 大倉十二社村の、光觸寺境内にある小社なり。むかしは名有社にて、此社ありしゆへ、十二社村と今に村名にもなれるといふ。【鶴岡社務職次夢】にも、大別當の兼帶所なること見へて、大倉熊野堂と有は此熊野なれども、今は光觸寺の境内鎭守となれり。
[やぶちゃん注:皆さんはこれは「十二所」の誤植と思われるかもしれないが、さにあらず、である。彼は確信犯で「十二社」と記している。「鎌倉攬勝考卷之一」の「〇今唱鎌倉中の村名」の「十二社村」にその根拠が示されているので見て頂きたいが、「新編鎌倉志」も「十二所」、そうして恐らくは植田の時代も、鎌倉の住人達は皆「十二所」と書き、現在も「十二所」である――植田という人物――妙なところで頑固だ。自分が正しいと思ったら、目の前の事実をも枉げてそれを貫いてしまうタイプなのである。――但し、時にそれが面白くもあるのであるが――そうしたバイアスをかけて本書は読まれねばなるまい。]
鎌倉攬勝考卷之三終