やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


鎌倉攬勝考卷之二


[やぶちゃん注:底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。「鎌倉攬勝考」の解題・私のテクスト化ポリシーについては「鎌倉攬勝考卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。【作業開始:二〇一二年六月十四日 作業:二〇一二年七月十三日】]

鎌倉攬勝考卷之二

  
鶴岡總説

[やぶちゃん注:以下、非常に長いので、各所で注を挿み、底の前後は改行し、注の後ろは一行空けを施してある。]
【東關紀行】〔前河内守親行〕 抑かまくらの始を申さば、故右大將家と聞え給ふは、水の尾の御門(淸和)の九世のまつえふたけき人にうけたり。さりにし淸泉(高倉)のすゑにあたりて、義兵をあげて朝敵をなびかすより、恩賞くはゝりて身をたて家をおこされ、つゐに瀧山の跡をつぎて將軍のめしをえたり。營館をこの所にしめ、佛神をそのみぎりにあがめ奉るよりこのかた、今繁昌の地となれり。中にも鶴岡の若宮は松栢のみどりいよいよしげく、蘋蘩のそなへかくる主なし。陪從をさだめて四季の御かぐらをこたらず。職掌に仰て八月の放生會をゝこなはる。崇神のいつくしみ、本社にかはらずと聞ゆ云云。
[やぶちゃん注:「東関紀行」の鎌倉の段の前半部からの引用(なお、作者源親行説は現在では否定され、作者未詳とする)。先にこの本文の疑義を示す。
「淸泉(高倉)」高倉天皇の陵墓は後清閑寺陵と呼ぶが、清泉と別称したという記載はない。高倉天皇の治世の末は頼朝挙兵を含む「治承」ではある(高倉帝は治承四(一一八〇)年四月二十二日に安徳帝に譲位した)。
「瀧山の跡をつぎて」は「隴山の跡をつぎて」の誤り。隴山は前漢の李広(その出身地からかく呼んでいる。彼は李陵の祖父で匈奴から飛将軍として恐れられた武将であった)が将軍職に就いたことを言う。
「をこたらず」正しくは「おこたらず」。
但し、以上ように誤字・誤植が疑われるので、以下に同箇所を含む日本古典全書版の鎌倉到着から鶴ヶ岡遊覧の部分を、ここに示しておく。

 くれかかるほどに下りつきぬれば、何がしのいりとかやいふ所に、あやしのしづが庵をかりてとどまりぬ。前は道にむかひて門なし。行人征馬かうじんせいば、すだれのもとに行きちがひ、うしろは山ちかくして窓に望む。鹿の音、蟲の聲、かきの上にいそがはし。旅店りよてんの都にことなる、さま變りて心すごし。
 かくしつつ、明かしくらすほどに、つれづれも慰むやとて、和賀江わかえ築島つきじま、三浦のみさきなどいふ浦々を行きて見れば、海上の眺望哀れを催して、こしかたに名高く面白き所々にも劣らずおぼゆ。
  さびしさは過ぎこしかたの浦々も
        ひとつながめの沖のつり舟
  玉よする三浦がさきの波間より
        出でたる月の影のさやけさ
 そもそも鎌倉の初めを申せば、故右大將家ときこえ給ふ、水の尾のみかどの九つの世のはつえを猛き人にうけたり。さりにし治承の末に當りて、義兵を擧げて朝敵をなびかすより、恩賞しきりに隴山ろうざんの跡をつぎて、將軍の召しを得たり。營館をこの所に占め、佛神をそのみぎりにあがめ奉るよりこのかた、いま繁昌の地となれり。中にも鶴が岡の若宮は、松柏の緑いよいよしげく、蘋蘩ひんぱんのそなへ缺くることなし。陪從べいじゆうを定めて四季の御神樂怠らず、職掌に仰せて、八月の放生會はうじやうゑを行はる。崇神のいつくしみ、本社に變らずときこゆ。

以下、以上の「東関紀行」に注する。
・「水の尾のみかど」第五十六代清和天皇。御陵が山城国葛野郡水尾村(京都市右京区嵯峨水尾清和の水尾山腹)にあることからの称。
「はつえ」末枝。末葉・子孫に同じ。
・「治承の末に當りて」頼朝の挙兵は治承四(一一八〇)年、翌治承五年七月、養和に改元。なお、頼朝の実際の挙兵は八月十七日であるが、以仁王の平氏追討の令旨を彼が受け取ったのは四月二十七日、正に高倉帝退位の五日後である。
・「蘋蘩のそなへ」「蘋蘩」は水草のウキクサとシロヨモギ。中国で祭祀に用いたことから、神前に供える供物の意。
・「陪從」賀茂・石清水・春日神社の祭りなどで、神前で行われる東遊あずまあそびの舞で、舞人に従って管弦や歌を演奏する地下の楽人。
・「放生會」捕らえた生き物を池や野に放しやる法会。仏教の殺生戒に基づくもので、奈良時代より行われた。八幡宮の祭りに八月十五日に行われ、ここに書かれている通り、石清水八幡宮のそれが最も有名である。]

《八幡宮鎭座由來》其往昔鎭座なし奉れることを繹るに、後冷泉院の御宇天喜年中に、奧の夷賊安倍賴時が王命に叛きしに仍て、源賴義に勅して凶徒賴時幷其子貞任等を征伐せしめ給ふ時下向せられ、八幡宮え丹祈の旨趣有て、年を經て夷賊悉く討滅し給ふことは、偏に宿願の冥助なりとて、凱旋の砌康平六年秋八月、潜に石淸水の大神を勸請し、瑞籬を當國由比の濵に建給ひ、地の名を鶴岳と稱せり。〔由比濱の舊跡あり、其神殿は今のしたの若宮これなり。〕
[やぶちゃん注:「繹るに」は「たづぬるに」と訓ずる。
「後冷泉院の御宇天喜年中に、……」前九年の役の始まりは複雑怪奇で、ここで簡単に述べることは出来難いが、前半の状況としては、十一世紀の中頃に安倍賴良よりよし=「安倍賴時」(?~天喜五(一〇五七)年)が朝廷への貢租を怠ったことから、永承六(一〇五一)年に陸奥守藤原登任なりとうが懲罰を試み、両者の間に戦闘が勃発(鬼切部おにきりべの戦い)、安倍氏が圧勝、敗れた登任は更迭される。そこで朝廷は同年、河内国(現在の大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏二代目源頼義を陸奥守に任じて赴任させ再攻略を計るが、その翌永承七(一〇五二)年に後冷泉天皇(在位は寛徳二(一〇四五)年から治暦四(一〇六八)年で、彼は在位のまま崩御しているから、彼は生存中は「冷泉院」ではなかった。これは彼への死後の追号である)の祖母上東門院(藤原道長娘中宮彰子)の病気快癒祈願の大赦が行われ、安倍氏は恩赦の対象となって、天喜元(一〇五三)年には安倍頼時は鎮守府将軍となっている(この前、頼良は陸奥に赴任した頼義を饗応、頼義と名が同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めて、一種の休戦状態が形成された)。ところが、頼義の陸奥守としての任期が終わる天喜四(一〇五六)年二月に阿久利川事件と呼ばれる謎の事件が発生(詳しくは私が参考にしたウィキの「前九年の役」の、当該項を参照されたい)、これが実質的な後半の戦闘の始まりとなった。頼義の人格的な弱さや戦略戦術上の拙さ、頼時戦死の後を引き継いだ嫡子安倍貞任(寛仁三(一〇一九)年?~康平五(一〇六二)年)の善戦によって戦闘は長引いたが、康平五(一〇六二)年、九月十七日に安倍氏の拠点である厨川柵(現在の岩手県盛岡市天昌寺町)・嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落。貞任は深手を負って捕虜となって亡くなり、ここに前九年の役は終息した。
「下向せられ、八幡宮え丹祈の旨趣有て」「丹祈」は、誠心を込めた祈り。これは、「下向」の際に、京都の石清水八幡宮の八幡神に戦勝と加護を祈ったことを言う。但し、一説には河内源氏氏神の壺井八幡宮とも言う。
「康平六年秋八月、潜に石淸水の大神を勸請し」西暦一〇六三年。前九年の役の終結の翌年(頼義による騒乱鎮定上奏は康平五年十二月十七日になされている)で、鎮定後の帰洛の途中ということになる。「潜に」は前の「丹祈の旨」を受けると考えてよいから、頼義はこの時、東国での地盤確保を企図して、「潜に」(朝廷の許可を得ずに)勧請したことが分かる。
「瑞籬を當國由比の濵に建給ひ、地の名を鶴岳と稱せり。〔由比濱の舊跡あり、其神殿は今のしたの若宮これなり。〕」「瑞籬」は「みづがき(みずがき)」と読み、神霊の宿る山・森・木などや神社の周囲に巡らした垣根。割注部分について初心者のために述べておくと、「由比濱の舊跡」がその最初の祭祀場所で、現在の材木座にある「元八幡」=「由比の若宮」を指す。これを頼朝が現在の鶴岡八幡宮の下宮の位置に遷座、「鶴岡若宮」と称した。その後、建久二(一一九一)年の鎌倉大火による全焼後、新たに石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮を創建した際、今の本宮(上宮)が主祭殿として配され、この時、「鶴岡若宮」がその「下宮」として再建されたたが、最初に遷座された後も、元の「由比の若宮」での社壇祭祀が続いたために、それが「下の若宮」とも呼ばれたことから、現在の下宮の「下の宮」「若宮」と類似した呼称が生じたと考えられる。即ち、
由比ヶ浜の八幡宮原型「元八幡」=「由比の若宮」「下の若宮」
その遷座した現在の鶴岡八幡宮下宮=「鶴岡若宮」「若宮」「下の宮」
という呼称の区別があると私は考えている。]

其後永保元年二月、源義家朝臣陸奧守に任じ、彼國下向の時修理を加え給ふ。
[やぶちゃん注:「永保元年」は西暦一〇八二年。当時、源の頼義嫡男八幡太郎「源義家」(長暦三(一〇三九)年~嘉承元(一一〇六)年)は当時白河帝の近侍(義家の陸奥守兼鎮守府将軍就任は永保三(一〇八三)年で、これは「新編鎌倉志卷之一」の記載と同様の、というより、あちらは呼称であるから許せるとしても、こちらは致命的な誤りを犯していると言える)であったが、この年、清原氏の内紛に介入して後三年の役が始まっている。但しこの合戦には朝廷の追討官符が出されておらず、少なくとも当時の朝廷にあっては私戦と認識されていた。従って寛治元(一〇八七)年十一月の戦勝報告後も恩賞はなく、翌寛治二年正月には陸奥守を罷免されてさえいる。その結果として義家は戦闘に参加した東国武士団の恩賞に私財を分け与え、それが東国に於ける絶大なる八幡太郎神話を形成するに至るのである。]

然るに治承四年十月十二日、右大將家祖宗を崇んが爲に、小林の郷の北山に宮廟を構え、鶴か岳の宮を遷し奉らる。伊豆權現の別當專光坊をして暫く別當坊とせられ、大庭平太影能奉行す。されどもいまだ華構の飾に及ず、松の柱、萱の軒を營給ふ。是より先に右大將家潔齋し給ひ、當社の御在所を遷座し奉らんと祈願せられしかど、神慮はかりがたく、仍て否を神鑒に任せんとて、寶前にて鬮をとらしめ給ふの後、此所に遷座治定せられ禮奠を行はるゝと云云。
[やぶちゃん注:ここは「吾妻鏡」の治承四(一一八〇)年十月十二日に条に拠る。以下にその全文を示す。筆者植田孟縉は、実はこれ以前の部分もこの記載に基づいて記していることが判明するからである。
〇原文
十二日辛卯。快晴。寅尅。爲崇祖宗。點小林郷之北山。搆宮廟。被奉遷鶴岡宮於此所。以專光房暫爲別當職。令景義執行宮寺事。武衛此間潔齋給。當宮御在所。本新兩所用捨。賢慮猶危給之間。任神鑒。於寳前自令取探鬮給。治定當砌訖。然而未及花搆之餝。先作茅茨之營。本社者。後冷泉院御宇。伊豫守源朝臣賴義奉 勅定。征伐安倍貞任之時。有丹祈之旨。康平六年秋八月。潛勸請石淸水。建瑞籬於當國由比郷。〔今號之下若宮。〕永保元年二月。陸奥守同朝臣義家加修復。今又奉遷小林郷。致蘋蘩禮奠云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日辛卯。快晴。寅の尅、祖宗を祟めんが爲に、小林郷の北山を點じ、宮廟を搆へ、鶴岡宮を此の所に遷し奉らる。專光坊を以て暫く別當職と爲し、景義、宮寺の事を執行せしむ。武衛、此の間、潔齋し給ふ。當宮の御在所、本新兩所の用捨、賢慮猶危ぶみ給ふの間、神鑒しんかんに任せ、寳前に於て自づからくじを取り探らしめ給ひて、當砌りに治定ちぢやうし訖んぬ。然而しかれども、未だ花搆のかざりに及ばず、先づ茅茨ばうしの營をす。本社は、後冷泉院の御宇、伊豫守源朝臣賴義、 勅定を奉りて、安倍貞任を征伐するの時、丹祈の旨有りて、康平六年秋八月、潛かに石淸水を勸請し、瑞籬を當國由比郷〔今之を下若宮と號す。〕に建つる。永保元年二月陸奥守、同朝臣義家修復を加ふ。今、又、小林郷に遷し奉り、蘋蘩ひんぴん禮奠れいてん致すと云々。
・「治承四年」西暦一一八〇年。
・「專光坊」専光房良暹(りょうせん 生没年不詳)伊豆国走湯山伊豆山権現住僧。頼朝の伊豆配流時代からの師である。
・「景義」は大庭景義(?~承元四(一二一〇)年?)。本文のように「景能」とも表記した。桓武平氏で相模国高座郡南部(現在の茅ヶ崎市・藤沢市)にあった大庭御厨(鎌倉時代末期には十三郷が有する相模国最大の伊勢神宮領)を領した。鎌倉権五郎景正を祖とし、保元の乱では弟大庭景親(石橋山合戦では平氏方として頼朝軍を大破、後に処刑)とともに義朝に従い、鎮西八郎為朝と戦い、治承四年の頼朝挙兵の当初から参加して功があった年来の御家人で、曽我の仇討ちの後、頼朝弟範頼に謀反の嫌疑がかけられ、古くからの範頼配下でもあった大庭景義は出家・謹慎を命ぜられたが、後に許されて、建久六(一一九五)年の東大寺再建供養の際には頼朝の隨兵を許されるなど、幕府草創期の長老として厚く遇された。
・「神鑒」神託。
・「華構」華やかで立派な建物の造り。
・「茅茨の營み」屋根をチガヤとイバラで葺いた質素な家屋の建造を言う。元は、聖帝堯は宮殿の屋根を葺いた茅や茨の端を切り揃えず、丸太のままの垂木を削らなかったとする「韓非子」の「五蠹ごと」の「茅茨不翦、采椽不」)茅茨剪きらず、采椽さいてん削らず)という質素な住居や倹約の譬の故事に基づく。]

或はいふ、賴義朝臣夷賊征伐の勅を奉じて下向の時、丹祈をこらしめ給ふ事は、往昔桓武天皇の延暦年中、奧の東夷叛きしかば、坂上田村麿に征夷將軍を賜ひ下向し、東夷悉く討平げ給ふ。是則八幡大神の加護に因てなりとて、奧州膽澤に八幡宮を勸請し、彼卿の弓箭幷鞭等を寶前に納給ふといふ。其先蹤に擬し給ひ、心中に此事を丹所せられ、果して賊平らぎしゆへ、此所に石淸水を勸請せられし事なり。されば文治五年九月、右大將家泰衡征伐の時、奧州膽澤郡鎭守府に至り、奉幣八幡宮瑞籬〔號第二の神殿〕田村丸將軍東夷を征せられし時、此所に勸請し給ひし神廟也。
[やぶちゃん注:この部分は「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年九月二十一日の条に基づく。
〇原文
廿一日戊寅。於伊澤郡鎭守府。令奉幣八幡宮〔號第二殿。〕瑞籬給云々。是田村麿將軍爲征東夷下向時。所奉勸請崇敬之靈廟也。彼卿所帶弓箭幷鞭等納置之。于今在寳藏云々。仍殊欽仰給。於向後者。神事悉以爲御願。可令執行給之由被仰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿一日戊寅。伊澤郡鎭守府に於て、八幡宮〔第二の殿と號す。〕瑞籬を奉幣せしめ給ふと云々。是れ、田村麿將軍東夷を征せんが爲に下向の時、勸請崇敬し奉る所の靈廟なり。彼の卿、帶る所の弓箭幷びに鞭等、之を納め置き、今に寳藏に在りと云々。仍て殊に欽仰し給ふ。向後に於ては、神事悉く以つて御願と爲し、執行せしめ給ふべきの由、仰せらると云々。
・「伊澤郡」岩手県南西部に位置する胆沢郡。
・「鎮守府」坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)は、延暦二十一(八〇二)年、阿弖流為あてるいの激しい抵抗を抑えて盛岡市以南を朝廷直轄支配地に組み入れ、胆沢城を築いた。それとともに多賀城にあった鎮守府はこの胆沢城に移された。この胆沢鎮守府は胆沢郡以北・岩手郡以南の奥六郡といわれた地域を管轄した。
・「八幡宮」現在の岩手県奥州市水沢区黒石町字小島にある石手堰いわてい神社。現在、通称は黒石神社。
・「第二の殿と號す」は「二宮と呼ぶ」の意。社伝によると「陸奥二宮」として「二宮明神」とも呼ばれた由、「玄松子の記録」の「石手堰神社」の頁にある。
・「彼の卿」。正三位大納言兼右近衛大将兵部卿であった坂上田村麻呂を指す。]

【東鑑】治承五年正月一日、右大將家鶴岳若宮え參り給ふ。從是以後日次の沙汰に不及、朔旦を以て當宮の奉幣の日と定めらるゝとあり。依て此後代々將軍家も此日を以て定式とせらる。又仰に當宮若宮去年假に建立せしゆへ、修營疎忽たるの間、先は萱の軒、松の柱を用ひしなり。今般華構の儀をなし奉り、專ら神威を賁るべしとて、土肥次郎安平、大庭平太景能に命じ給ひ、材木等の事を奉行せしめらる。將亦鎌倉中に可然の工匠なきに仍て、武藏の國淺草大工、字は郷司を召進すべき旨、御書を彼所の沙汰人等に下さる處。淺草大工等正月八日參著せしかば、先神體を假殿に遷座し奉らる。同年八月十五日、鶴岳若宮正遷宮に依て、右大將家御參、神事を修せらる。是より以來、八幡宮例祭は八月十五日とするの始なるにや。
[やぶちゃん注:「治承五年正月一日、……」は「吾妻鏡」の治承五(一一八一)年一月一日の以下の記事に基づく。
〇原文
一日戊申。卯尅。前武衞參鶴岳若宮給。不及日次沙汰。以朔旦被定當宮奉幤之日云々。三浦介義澄。畠山次郎重忠。大庭平太景義等率郎從。去半更以後警固辻々。御出儀御騎馬也。著御于禮殿。専光房良暹豫候此所。先神馬一疋引立寳前。宇佐美三郎祐茂。新田四郎忠常等引之。次法華經供養。御聽聞。事終還御之後。千葉介常胤献垸飯。相具三尺鯉魚。又上林下客不知其員云々。 〇やぶちゃんの書き下し文
一日戊申。卯の尅、前武衞、鶴岳若宮に參り給ふ。日次ひなみの沙汰に及ばず、朔旦を以て當宮へ奉幤奉るの日と定めらるると云々。
三浦介義澄、畠山次郎重忠、大庭平太景義等、郎從を率ひ、去ぬる半更より以後、辻々を警固す。御出の儀は御騎馬なり。礼殿に著御、專光坊良暹りやうせんあらかじめ此の所に候ず。先づ神馬一疋を寳前に引き立つ。宇佐美三郎祐茂すけしげ、新田四郎忠常等、之を引く。次に法華經供養御聽聞。事終りて還御の後、千葉介常胤、垸飯わうばんを献ず。三尺の鯉魚を相ひ具す。又、上林(じやうりん)・下若(かじやく)其の員を知らずと云々。
・「日次の沙汰に及ばず」は日の吉凶に関係なく、の意。
・「半更」は夜半。
・「垸飯」は「椀飯」「埦飯」とも書き、総て「おうばん」と読む。本来は他人を饗応する際の献立の一種を言ったが、後に饗宴を主とする儀式・行事自体を指した。
・「上林・下若」本来、「上林」は上林苑で、秦の始皇帝が建造した長安西方にあったとされる大庭園。漢の武帝が拡張して周囲約一五〇キロに及び、世の珍獣・奇草を集めたという。その上林苑の果実の意から、果物を指す。「下若」は本来は浙江省長興県若渓北岸の村名。水質が良く美酒を産することから、転じて美酒を指す。
「又仰に當宮若宮去年假に建立せしゆへ、修營疎忽たるの間、先は萱の軒、松の柱を用ひしなり。今般華構の儀をなし奉り、專ら神威を賁るべしとて、土肥次郎安平、大庭平太景能に命じ給ひ、材木等の事を奉行せしめらる」のパートは「吾妻鏡」治承五年五月十三日の条を張り込んである。「賁るべし」は「かざるべし」と訓ずる。
「將亦鎌倉中に可然の工匠なきに仍て、武藏の國淺草大工、字は郷司を召進すべき旨、御書を彼所の沙汰人等に下さる」の部分は同年七月三日の条の張り込み。
「淺草大工等正月八日參著せしかば、先神體を假殿に遷座し奉らる」は同年七月八日の条の張り込み。
「同年八月十五日、鶴岳若宮正遷宮に依て、右大將家御參、神事を修せらる」「吾妻鏡」同日の条より。治承五年は七月十四日に改元しているので厳密には養和元(一一八一)年である。]

然るに建久二年三月四日、小町邊より失火して、將軍家の殿宇幷御家人の第宅、若宮の神殿、廻廊、塔婆等悉く灰燼と化せり。神殿其外も治承五年に華構の營作有て莊嚴なりしが、僅に十年を經て焦土となれり。同十三日入夜、若宮假殿に遷座、別當法眼幷供僧巫女職掌等皆參入、右大將家監臨し給ひ、隨兵百餘人兼て官の四邊を警固す。義盛、景時、盛長等奉行すといふ。爰に同年四月廿六日、鶴ケ岡若宮のウヱの地に始て八幡宮を勸請し奉らんが爲に、寶殿を營作せられ、今日上棟也。奉行は主計允行政、幕府も御參と云云。因玆考ふるに此時うへの地に始て勸請せられ、祭神をも分ち八幡宮と稱し、下の地に鎭座の宮殿をば、したの若宮と稱し、是は庚平年中賴義朝臣勸請の舊社にて、治承の初に移し給ふ最初の宮殿ゆへ、地名をも移され鶴岡八幡と唱え、建久二年に若宮の後なる山の中段を地曳せられ、高き所に勸請の宮殿をば松ケ岡八幡と稱すること、【社務職次第】にも載たれば、社説に傳ふる處なり。《上の八幡と下の若宮》されば是よりうへとしたとの唱えおこれり。仍て上の八幡、下の若宮と唱え、上下とはいふべからざるものにや。扨同年十一月廿一日、上の八幡幷下の若宮及び末社等正遷宮、幕下御參宮なり。【社務職次第】に此時の遷宮に男山の御神體を移されけるゆへ、以後は八幡宮と科し奉れる由を載たり。因玆下の若宮は今に至るまでも神號を若宮大權現と稱せりといふ。【八幡宮詑宣の記】に、豐前の國に初て鎭めましませしことは、空中より八色の幡出現せしに仍て、八幡太神とは授け奉る。又詫して宣く、八方に八色の幡をあらはせるを八正幡といひ、八方の衆を度せんが爲なり云云。其後此詑宣を轉語し、正八幡と稱し奉れるの謂れならん。
[やぶちゃん注:「建久二年」西暦一一九一年。
「職掌」神社に仕えた下級神官。
「主計允行政」代々政所執事を務めた二階堂氏の祖二階堂行政(生没年不詳)。「主計允」は「かずえのじょう」と読んでおく(「かずえのつかさ」とも訓ずる)。
「幕府も御參」「吾妻鏡」原文では「幕下」。頼朝のこと。
「庚平年中」先に見たように、康平六(一〇六三)年八月。
「地曳」「ぢびき(じびき)」と読み、家屋などを建築する際に、地ならしや地突きを行う前に行う地曳き祭り。土地神への鎮めの儀式。
「男山の御神體」男山八幡宮。石清水八幡宮の旧称、
「八幡宮詑宣の記」不詳。「鎌倉市史 社寺編」の「鶴岡八幡宮」を管見するも、該当の文書は見当たらない。識者の御教授を乞う。
「豐前の國に初て鎭めましませしことは、……」現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇三十二(五七一)年に初めて宇佐の地(現在の大分県宇佐市に八幡総本宮宇佐神宮がある)に示顕したとする。また応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、神功皇后を合わせて八幡三神として祀っているがこれらは後付けの信仰で、古くは地主神の一柱であったと考えられる。参照したウィキの「八幡神」によれば、「八幡」の文字が初めて史実に出現するのは「続日本紀」の天平九(七三七)年の条で、読み方を同書天平勝宝元(七四九)年の宣命で「広幡乃八幡やはた大神」と読み、「日本霊異記」の「矢神やはた」や「源氏物語」玉鬘の帖の「やはたの宮」のように「八幡」は訓読が本来であったが、後の神仏習合によって仏家の読みである「ハチマン」と音読へと転化したと考えられている。『「幡」とは「神」の寄りつく「依り代」としての「旗」を意味する言葉とみられ』、『八幡は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り』、『また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる』『託宣をよくする神としても知られる』。八幡信仰は、軍神として武士を中心に爆発的流行するが、その淵源は石清水八幡宮自体が多くの荘園を有していたことに因る。]

角觝 建久三年八月十四日、廻廊の外庭に於て相撲の取手を召決せられ、右大將家御覽、藤判官邦通奉行す。
 一番 奈良ノ藤次   相手 荒次郎
 二番 鶴次郎     同  藤塚目
 三番 犬武五郎    同  白河ノ黑法師
 四番 佐賀良江六   同  傔伏太郎
 五番 所司ノ三郎   同  小熊ノ紀太
 六番 鬼王      同  荒瀨ノ五郎
 七番 紀六      同  王鶴
 八番 小中太     同  千手王
[やぶちゃん注:「角觝」は音は「かくてい」、これで「すまう(すもう)」とも読ませる。「角」は爭う、「觝」は触れるの意で、力比べや相撲をすること。中国起源。この建久三(一一九二)年八月十四日の「吾妻鏡」の条を見ると、翌日行われる次の項の放生会の神前奉納相撲の取手の予選会として行われていることが分かる。上段が勝ち力士である。「傔伏」は「傔杖」の誤植。鎌倉時代の四股名は自由で、プロレス並みに面白いではないか。幾つかを読んでおくと、「藤塚目」は「ふじつかめ」、「犬武五郎」は「いぬたけのごろう」、「白河ノ黑法師」は「しらかはのくろはうし」(若しくは「くろほっし」か「くろぼし」だが、「くろぼし」じゃ縁起が悪いか)、「佐賀良江六」は「さがれえのろく」、「傔杖太郎」は「けんぢやうたらう」、「小熊ノ紀太」は「こぐまのきた」、「鬼王」は「おにわう」、「王鶴」は「わうづる」(これは今でも使えそう)であろう。
「藤判官邦通」藤原邦通(生没年未詳)は頼朝の初期の右筆。有職故実に通じ、博覧強記、頼朝の旗挙げ以来の近臣である。緒戦の山木判官兼隆襲撃の際には、『直前に、酒宴にかこつけて兼隆の館に留まり、周囲の地形を絵図にして持ち帰り、それを基に頼朝達が作戦を練った』と伝えられる(以上はウィキの「藤原邦通」に拠った)。]

放生會 同十四日、鶴が岡にて始て放生會を行ふ、此砌幕下渡御以來恒例となれり。
[やぶちゃん注:「同十四日」は「同月十五日」の誤り。]


[やぶちゃん注:底本では見開き左右に絵がある。その右端上部(上の「迦陵頻」の右端)には、
  建久三年八月十五日供養
  の放生會終て同舞樂を
  修せる迦陵頻並胡蝶の
  一樂なり舞童是を修せり
とある。「迦陵頻かりょうびん」は雅楽の演目で「林邑八楽りんゆうはちがく」(天平八(七三六)年八月に天竺(南インド)の婆羅門僧正の名で知られた菩提僊那と林邑(南ベトナム)の僧の仏哲とが我が国に渡来して大安寺で四天王寺の楽人に伝えた曲目を言う)の一つ。左方(唐)楽に属する童子の四人舞で、セットで舞われた番舞が「胡蝶」。演目名は極楽浄土に住むという人面鳥身で美声を持つ霊鳥迦陵頻伽に由来する。以下、主に参照したウィキの「迦陵頻」より引用する。『平絹白地の袴の上に、赤系統の地色に小鳥を散らした尻長の紗の袍を着て、手には銅拍子(小型のシンバルのような道具)を持つ。足には脚伴の形をした鳥足というすね当てをつけて絲鞋を履き、背と胸に、牛革、又は重ね貼りした和紙に胡粉を引き紅や緑青で羽を描いた翼と胸当てをつける。頭に鍍金した唐草模様の宝冠(雅楽では、山形の額飾りと側頭部に二本の剣形の飾りを備えた金属製のヘッドバンドを指す。)をつけて二本の桜の枝をはさみ、図画資料では髪は下の輪のみの角髪に結うことが多い。化粧は稚児と同様の白塗りの厚化粧が原則となるが、しない場合や薄化粧の場合もある』。一方の「胡蝶」は飛び交う蝶をモチーフにした舞楽。以下、主に参照したウィキの「胡蝶」より引用する。『高麗楽(三韓楽の一つである高麗楽(高句麗の民族音楽)では無く、渤海楽・三韓楽を中心に平安時代に編集された音楽様式)・右方の舞に属するが、渤海や朝鮮半島が起源なのではなくて高麗楽の様式に則って日本で作られた曲。迦陵頻の番舞(つがいまい)として作られたため、迦陵頻を形式や装束のベースにおいている』。『曲の調子は高麗壱越調(唐楽の平調と同様)。作曲は藤原忠房、振り付けは敦実親王』。『童舞(わらべまい)として作られ』、原則として「迦陵頻」同様、四名の少年が舞うが、神社では巫女や少女が舞う場合もある、とする。「胡蝶」の方の装束と化粧は、『平絹白地の袴の上に、緑系統の地色に蝶を散らした尻長の紗の袍を着て、手には山吹の枝を持つ。足には絲鞋を履き、背と胸に、牛革、又は重ね貼りした和紙に胡粉を引き紅や緑青で蝶の羽を描いた翼と胸当てをつける。頭に鍍金した唐草模様の宝冠(雅楽では、山形の額飾りと側頭部に二本の剣形の飾りを備えた金属製のヘッドバンドを指す)をつけて二本の山吹の枝をはさみ、図画資料では髪は下の輪のみの角髪に結うことが多い。化粧は稚児と同様の白塗りの厚化粧が原則となるが、しない場合や薄化粧の場合もある』と、「迦陵頻」の番舞として対称性を示す。「迦陵頻」「胡蝶」何れも、『源氏物語「胡蝶」などを見ると、この衣装をつけさせた童子に宴会の際の舟を漕がせることなども行われていたらしい』と記す。]

舞樂 同十五日、供養の舞樂を修せらる。右大將家京都の伶人多好方を申下され、兼てより好方が傳へを得て今日修せらる。
 左 舞童 金王 瀧楠 彌陀王 伊豆熊
 右 同  夜叉 觀音 龜 菊 良 壽
[やぶちゃん注:「多好方」(おおのよしかた 大治五(一一三〇)年~建暦元(一二一一)年)伶人(雅楽師)。この前年の建久二(一一九一)年十一月二十一日の鶴岡遷宮式で頼朝に召されて「宮人」の曲を美事に歌い、畠山重忠や梶原景季、鶴岡八幡宮の楽人らに、この秘曲を伝授、頼朝から飛騨荒木郷を与えられている。
先立つ五ヶ月前の建久三(一一九二)年三月四日の条に、
〇原文
四日丙子。江次久家爲相傳神樂秘曲等上洛。仍被遣奉書於左近將監好節之許。平民部丞盛時奉行之。
 江次久家所上遣也。弓立星哥等爲相傳上洛之由申之。
 件哥以下神樂口傳故實。入意能々被教授。來八月放生
 會以前。定被參向關東歟。其時相具久家。可被下向者。
 鎌倉殿仰旨如此。仍執達如件。
     三月四日           盛時〔奉。〕
〇やぶちゃんの書き下し文
四日丙子。江次えじ久家、神樂の秘曲等を相傳せんが爲に上洛す。仍りて奉書を左近將監好節よしときの許に遣はさる。平民部丞盛時、之を奉行す。
 江次久家上せ遣はす所なり。弓立ゆたて星哥せいか等相傳の爲に
 上洛の由、之を申す。件の哥以下神樂の口傳・故實、
 こころを入れて能々教へ授けられ、來たる八月放生會以前
 に、定めて關東に參向せられんか、其の時、久家を相
 ひ具し、下向せらるべしとへれば、鎌倉殿仰せの旨、
 此くのごとし。仍りて執達、件のごとし。
     三月四日           盛時〔奉ず。〕
・「江次久家」(生没年未詳)頼朝側近。
・「左近將監好節」(応保三・長寛元(一一六三)年~建保五(一二一七)年)多好方の息子。「吾妻鏡」の後の建久四(一一九三)年十一月四日の条では、彼が鶴岡八幡宮で「宮人」を歌った際の奇瑞が示されている。
・「弓立」「星哥」雅楽の曲名。何れも秘曲とされる。
〇原文
四日丁夘。鶴岡八幡宮神事也。將軍家御參。先被行問答講。次及深更。有御神樂。多好節唱宮人曲。于時陰雲俄横而雨灑瑞籬。寒天雖暗兮星現寳殿。神威掲焉。凡耳難覃云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
四日丁夘。 鶴岡八幡宮神事なり。將軍家御參。先づ問答講を行なはる。次に深更に及びて御神樂。多好節、宮人の曲を唱ふ。時に陰雲 俄かに横はりて、雨、瑞籬に灑ぎ、寒天暗しと雖も、星、寳殿に現る。神威掲焉けちえん、凡耳におよび難しと云々。
・「掲焉」著しいこと。]


[やぶちゃん注:左端上部に、
建久三年八月十六日神事の
流鏑馬並競馬を行せ給ひし
なり于今遺例として此事
を執せり
とある。]

流鏑馬 競馬 同十六日修行せらる。毎日右大將家渡御。
前件の如く、右大將家建久三年より右の條々を始行せられしより、今に至るまて絶ず。毎歳八月十四日相撲ありて、十五日は放生會幷神事神輿を渡す。十六日は流鏑馬を修行し、競馬は中絶せり。又毎歳四月三日神事あり、神輿を渡す。是はウヱの八幡宮の祭なり。三輿を出す。〔祭神三體なり〕八月十五日はシタの若宮の神祭なり。神輿四輿を渡す。〔祭神四體なり〕《鶴岡神領》神領古へは御供料として當國桑原郷を寄附と【東鑑】に見へ、承久三年八月七日、武藏國矢古宇の郷五十餘町寄附の事あり。【小田原北條所領役帳】に、鶴岡神領百五十五貫八百七拾貮文、鎌倉社地五拾貫文、鎌倉之内五拾貫文、武藏國久良岐郡杉田之内總高貮百五拾五貫八百七拾貮文とあり。中古以來は永樂錢八百四拾貫文といふ。小別當・神主・十二院・伶人・八乙女其餘神人等皆配當す。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが「流鏑馬」は「やぶさめ」、「競馬」は「きそひうま」と読む。ウィキの「流鏑馬」より「歴史」の前半部を引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、注記記号を省略、改行部を連続させた)。『流鏑馬を含む弓馬礼法は、八九六年(寛平八年)に宇多天皇が源能有に命じて制定され、また『中右記』の永長元年(一〇九六年)の項などに記されているように、馬上における実戦的弓術の一つとして平安時代から存在した。関白藤原忠通によって春日大社若宮の社殿が改築され、保延二年(一一三六年)三月四日春日に詣で、若宮に社参(中右記・祐賢記文永一〇・二・二六条)し、九月十七日始めて春日若宮おん祭を行ない、大和武士によって今日まで「流鏑馬十騎」が奉納され続けてきた。(中右記・一代要記)『吾妻鏡』には源頼朝が西行に流鏑馬の教えを受け復活させたと記されている。鎌倉時代には「秀郷流」と呼ばれる技法も存在し、武士の嗜みとして、また幕府の行事に組み込まれたことも含めて盛んに稽古・実演された。北条時宗の執権時代までに、鶴岡八幡宮では四十七回の流鏑馬が納められたとされる。だが、しかし、個人の武勇に頼っていた時代から、兵法や兵器が進化して足軽や鉄砲による集団戦闘の時代である室町時代・安土桃山時代と、時を経るに従い、一時廃れた』とある。因みに、私の妻の教え子はこの伝統を今に伝える小笠原家の御曹司で、流鏑馬を引く。
「毎日右大將家渡御」は不審。実際の「吾妻鏡」の八月十六日の条は、『十六日丙辰。流鏑馬以下如例。』(十六日丙辰。流鏑馬以下、例のごとし。)の一文で終わっている。他の年では、確かに十五日の放生会に続いて「毎日」頼朝渡御していたようえあるが、この建久三年に限っては前日の八月十六日放生会には頼朝は出席していない。その理由はこの八月九日に次男(後の実朝)が生れ、その出産の穢れに抵触するからと思われる。
「桑原郷」現在の小田原市桑原。
「矢古宇」足立郡矢古宇。現在の埼玉県川口市及び草加市に広がるかなりの広域地名であったようである。
「久良岐郡杉田」現在の横浜市磯子区杉田周辺。
「八乙女」は「やをとめ」と読み、大嘗祭・新嘗祭などに於いて天皇が祖神及び天神地祇に飯を供し自らも食する神事に八男とともに奉仕した八人の采女うねめ
「神人」は「じにん」「じんにん」と読み、神社に仕え、神事・社務の補助や雑役に当たった下級神職。]

《古書古歌等に見えし鶴ケ岡》【金玉集】に鎌倉右大臣實朝公、鶴岡別當僧都のもとに雪降しあしたよみてつかはす。
 鶴か岡あふきて見れは嶺の松、こすゑはるかに雪そ積れる
 八幡山木高き松にゐるたつの、嶺しろたへにみゆき降らし
みづからかきて好士を撰侍りしに、内藤馬允知親を使としてつかはし侍りし歌なりと云云。
[やぶちゃん注:「金玉集」は「金槐集」の誤り。以下、和歌は総て読み易く書き換えて再掲する。二首連続で「金槐和歌集」の「巻之下 雑部」に入る(類従本では両首とも冬部)。一首目、
   鶴岡別當僧都のもとに雪降れりあしたよみてつかはす
 鶴か岡あふぎて見れば嶺の松こずゑはるかに雪ぞ積れる
二首目は下の句の「嶺」(みね)は「羽」(はね)の誤り。原著の誤植であろうか。
 八幡山木高き松にゐるたづの羽白たへにみゆき降らし
なお、その後書「みづからかきて好士を撰侍りしに、内藤馬允知親を使としてつかはし侍りし歌なり」は本歌のものではなく、同じ「金槐和歌集」の「巻之上 冬部」にある、
   返し
 ぬし知れと引きける駒の雪を分けばかしこき跡にかへれとぞ思ふ
   みづからかきて好士を撰び侍りしに内藤馬允知親を使と
   してつかはし侍りし
   歌なし
に付帯するもの(因みに、この最後の「歌なし」は、誤りとされているから、この「つかはし侍りし歌なり」の方が正しくは見える)。この一連のエピソードは「鎌倉攬勝考卷之九」の「民部大夫行光第跡」の項と私の注に詳しいので、参照されたい。因みに「内藤馬允知親」は実朝の側近の侍で、和歌に造詣深く、藤原定家の弟子となり、実朝と定家との斡旋役となった人物。]

〔夫木〕
 鶴か岡あをくつはさのたすけにて、高きに遷れ宿の鶯〔藤原爲實朝臣〕
[やぶちゃん注:公卿五条為実(文永三(一二六六)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)の歌。
 鶴が岡仰ぐ翼の助けにて高きに移れ宿の鶯]

〔家集〕
 山路より出てやきつる里近き、鶴か岡へに鳴ほとゝきす〔藤原爲相卿〕
[やぶちゃん注:冷泉為相の歌。
 山路より出でや來つる里近き鶴が岡べに鳴く郭公]

 鶴か岡こたかき松をふく風の、雲井にひゝく萬代の聲〔源基氏朝臣〕
[やぶちゃん注:足利尊氏四男で初代鎌倉公方足利基氏(興国元・暦応三(一三四〇)年~正平二十二・貞治六(一三六七)年)の歌。
 鶴が岡小高き松を吹く風の雲井にひびく萬代の聲]

堯惠法師【北國紀行】に、あくれば鶴が岡へ參りぬ。靈木長松つらなり森々たるに、玉をみがける社頭のたゝずまゐ、由比の濵の鳥居はるかにかすみわたりて誠に妙なり。
 吹のこす春の霞もおきつ洲に、たてるや鶴か岡の松風
[やぶちゃん注:和歌は、
 吹殘す春の霞もおきつ洲に立てるや鶴が岡の松風]

【東關紀行】にしばらく法施奉りて瑞籬に候すれば、神女がうたの曲は權現垂跡の陰教にかなひ、僧侶の經のこゑは衆生成道の因緣を伸。彼法性の雲のうえに寂光の月老たりといへども、若宮の林の問に應身の風あふぎてあらたなり。
 雲の上にくもらぬかけをおもへとも、雲より下にくもる月哉
月のひかりにたゝずみて、石屋イハヤ堂の山のこずゑはるかにながめて、いぶせくかへりぬ云云。
[やぶちゃん注:「東關紀行」は「海道記」の誤り。従って、本篇は基本が編年記載だから、これは前の「北国紀行」の前になくてはおかしいことになる。
「陰教」は「おんけう(おんきょう)」と読み、隠された神秘なる狭義の意であろう。
「伸」は「のぶ」で、述べる、の意。
「若宮」は下の宮。
「應身」仏には法身ほっしん(永遠不滅の真理で釈迦の本身)・報身ほうじん(真理を悟った力をもつ人格的存在)・応身おうじん(衆生済度のために現世に姿を現した仏)の三つの仏身があるが、ここでは仏の持つ真如を八幡神が応身に現じて衆生を教化する「気」は風となって満ち満ちていることを言う。
 雲の上にくもらぬかげを思へども雲より下にくもる月影
歌の意は、
……曇り一つない至高の真理である仏の真如を……我ら衆生は……心に観想することが出来る……出来はする……だが、しかし……我らの心はまた、ややもすれば穢れた下界の煩悩に曇らされるもの…… といった意であろう。]

【梅花無盡藏】に、〔萬里居士〕透千度小路、謁鶴岡之八幡宮、高門飛橋、回廊曲檻、雕玉鏤金、巍然不滅其昔、階除有不蹈之石、石紋之龜鶴、凡眼不得視之、
  千度壇達七里濵。 崢嶸華表奪龍鱗。
  回廊六十間靈地。 風不鳴條宗廟神。
[やぶちゃん注:以下、市木武雄氏の「梅花無尽蔵注釈」を参考にしながら書き下す。
千度小路を透りて、鶴岡の八幡宮に謁す。高門・飛橋、回廊・曲檻、玉をり、金をす、巍然ぎぜんとして其の昔しに減ぜず、階除かいぢよに蹈まずの石有り、石紋の龜・鶴、凡眼、之を視るを得ず。
  千度の壇 七里が濵に達す
  崢嶸さうくわうたる華表 龍鱗を奪ふ
  回廊 六十間の靈地
  風 條を鳴さず 宗廟神
「千度小路」現在の若宮大路の段葛の旧称。
「檻」は欄干。
「巍然」高く聳えるさま。
「階除」は階段。
「蹈まずの石有り、石紋の龜・鶴」これは同一の石。本文で後述されるが、水を掛けると鶴亀の文様が浮かび出るという霊石で、古くはこの石を「踏まずの石」と呼んだ。
「七里が濵に達す」市木武雄氏の「梅花無尽蔵注釈」を見ると、この「達」は「連」で、それならば「七里が濵に連なる」となる。
「崢嶸」これも、高く聳えるさま。
「華表」鳥居。これは叙述から、現在の三の鳥居(最も鶴岡寄り)であろう。
「龍鱗を奪ふ」龍の鱗を奪って飾ったかの如くの素晴らしき荘厳である、の意。
「條」は枝。 「宗廟神」源氏所縁の氏神であることを言う。]

【廻國雜紀】云、〔道興准后〕鶴が岡の八幡宮に參詣し侍れば、つたへ聞しにもすぐれたる宮だちなり。誠に信心膽に銘じてたつとくおぼへ侍る。抑當社別當祖師隆辨僧正經歴年久し。其階第道瑜准后、號を大如意寺といひ、兩代かの職に補し侍りき。由緒無双なることをおもひ出て神前に奉納の歌。
 神もわかむかしの風をわすれすは、鶴か岡への松としらるゝ
[やぶちゃん注:和歌は、群書類従版では、
 神もわが昔の風を忘れずば、鶴がをかべのまつとしらなむ
とある。]

【東路のつと】に、〔柴屋軒宗長法師〕
 霜ゆきをうは毛の鶴か岡の松
當社星霜のことなるべし。去秋七月中旬より、おなじ十二月はじめに、鎌倉までのことをかたのやうにかきちらし侍り。
[やぶちゃん注:「宗長」(そうちょう 文安五(一四四八)年~天文元(一五三二)年)は室町後期の連歌師。宗祇の弟子。「東路の津登」は永正六(一五〇九)年の紀行文。]

【東國紀行】〔天文十三年。〕宗牧愛阿彌鎌倉よりむかひにきたれり。しるべしてむかしの跡など問きく程に、暮かたになりて着たり。旅宿は大守より後藤かたへおほせつけられ、淸閑をそゑられ、幼庵より多田など案内者とてくはへられたれば、いづかたもおぼつかならず、舊跡のたびねその感あり。けふは三月一日早朝、先鶴が岡八幡宮參詣、松の木の間のさくらさかりにて、石淸水臨時の祭舞人のかざしにおもひまかせられたり。近年御遷宮、あけの玉がきよりはじめ、見る目をかゝやく。春の光わづかにむかしおぼへたり云云。
[やぶちゃん注:「宗牧」(そうぼく ?~天文十四(一五四五)年)は戦国期の連歌師。長・宗碩。天文十三(一五四四)年に東国の旅に出(途中で後奈良天皇から委託された奉書を尾張の織田信秀に届けている)、京都へ戻る途中、下野国佐野で没した。この旅の記録が「東国紀行」で、当時の豪族達の状況が分かる貴重な資料の一つである(以上はウィキの「宗牧」を参照した)。]

【北條氏康武野紀行】〔天文十五年仲秋〕すぎにし庚子のとし、宿願の事ありて此宮にまうてでけるが、やうやう八とせあまりにや成ぬらんとおぼえはべる。若宮の御まへにまいりて、
 たのみこし身はもののふの八幡山祈る契は萬代まてに
さて爰かしこの谷々山々、由比の濵、大鳥居、古寺、古跡をながめあぐれば云云、
[やぶちゃん注:「北条氏康」(永正十二(一五一五)年~元亀二(一五七一)年)相模の戦国大名。後北条氏第三代当主。関東から山内・扇谷両上杉氏を追放、武田氏・今川氏との間に甲相駿の三国間同盟を結ぶなど、世に相模の獅子と謳われた。天文十五(一五四六)年には扇谷上杉氏を滅亡させ、関東における抗争の主導権を握ったが、恐らくこの「すぎにし庚子のとし」(天文九(一五四〇)年)の彼の祈請は、この関東覇者となることにあったに違いない。古河公方を支配下に置き、上杉憲政との抗争で関東での実権を握った天文二十一(一五五二年)頃より、彼は関東管領を自称してもいる。引用は天文十五年北条氏康が武蔵野を騎行した際の「むさし野の記行」から。]

《社殿修築の沿革》是より其後鎌倉の將軍家代々崇敬し給ふ事は古えにかはらず。宮殿、堂塔、末社に至るまで、執權北條氏が沙汰として怠らず修理を加えけり。世も變革し、足利氏の料所となり、關東の主基氏朝臣居館を構えし以來、源家祖宗の崇め奉れる神廟なれば、猶尊敬厚かりし。滿兼朝臣の時應永十年、鶴が岡宮殿修理有て、同十一月十四日、正遷宮あり。奉行は管領上杉中務少輔入道禪助なり。
[やぶちゃん注:「應永十年」これは応永十一(一四〇三)年の誤り。続く日付は正しい。
「管領上杉中務少輔入道禪助」関東管領上杉朝宗(うえすぎともむね 建武元(一三三四)年?~応永二十一(一四一四)年)。氏憲(禅秀)の父。]

其後應永廿四年上杉禪秀の亂、又永享十一年持氏朝臣滅亡の亂あり。
[やぶちゃん注:「應永廿四年」西暦一四一七年。
「永享十一年」西暦一四三九年。]

其後成氏朝臣も享德四年古河へ遁逃の砌、今川の大軍亂入して神殿佛閣を燒、在々所々を追捕せしかば、元弘以來の大亂ゆへ、此時より鎌倉は悉く蒼茫の地となれり。
[やぶちゃん注:「享德四年」康正元年、西暦一四五五年。
「今川」今川範忠(応永十五(一四〇八)年~寛正二(一四六一)年?)。八代将軍足利義政から鎌倉公方足利成氏討伐を任じられ、同年六月、上杉氏討伐に向かって留守となっていた鎌倉を陥落させた。成氏は古河に逃走、以降、古河公方を名乗った。]

其後北條早雲小田原の城を欺き得て居住し、其子氏綱が天文九年に鶴が岡若宮八幡宮修造し、同年十一月十五日、正遷宮し奉るといふ。
[やぶちゃん注:「北條早雲小田原の城を欺き得て居住し」明応四(一四九五)年九月(異説あり)、北条早雲は相模小田原の大森藤頼を討ち、小田原城を奪取した。「北条記」によれば、以下のような姦策を用いたとされる(以下ウィキの「北条早雲」から引用)『早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる』。『その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたという』。但し、これは『典型的な城盗りの物語で、似たような話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもあり、どこまで真実か分らない』と記す。これは次代の北条氏綱を引き出すための枕であるが、実はこの間に、大永六(一五二六)年十二月、安房の里見義豊・実堯さねたか父子が鎌倉に乱入し、氏綱の軍鶴岡八幡宮付近で戦闘となり、八幡宮以下諸堂社が兵火により焼亡した。翌天文元(一五三二)年に氏綱による再建計画が始まり、実に八年かけてそれが実現するという経緯が省かれている。
「天文九年」西暦一五四〇年。
「同年十一月十五日、正遷宮」とあるが、「鎌倉市史 社寺編」の記載には十一月二十一日とある。]

氏康が代に至り、當國と武藏を大概打隨ふ體なれど、東國所々合戰最中ゆへ、當社の修理等は曾て顧ず、交戰を以て勉とせり。漸く天文の末に至り、大鳥居を修補せしことの見ゆるのみ。
[やぶちゃん注:「漸く天文の末に至り、大鳥居を修補せしことの見ゆ」何を元にしたものか不明。大鳥居は父氏綱が天文十一(一五四二)年に再建竣工している。「鎌倉市史 資料編第一」の鶴岡八幡宮文書の「一〇八 北條氏康判物」に天文十八(一五四九)年九月二十九日附で鶴岡門前の地を諸役免除とする旨の記載があるが(天文は二十四年まで)、これを誤読したものか? 識者の御教授を乞うものである。]

《上杉謙信參拜の事》永祿四年三月、上杉輝虎入道謙信は此度上洛し、管領憲政の家を繼て管領に任せられけるゆへ、鎌倉は管領代々の基本の地なれば、鶴が岡の宮殿へも參拜を遂んとす。將亦我は本氏長尾にて先祖より鎌倉の住人、元祖鎭守府將軍平忠通の嫡男を鎌倉權守景成といひ、其子鎌倉權五郎景正なり。長尾と名乘りしは忠通が舍弟鎌倉四郎景村が孫景弘といふもの、始て郡中長尾村に住してより地名もて氏に稱せり。彼といひ是といひ、由緒の地なれば迚小田原高麗寺の麓に陣をすへ、小田原城下を放火し、蓮池まで打入しかど、城中よりも敵出て喰留んともせざりしかば、夫より鎌倉へ張行せり。陣中にもとより近衞關白前嗣公を具し申ければ、此人を假の公方家と崇め、郷中の寺院に先年守邦親王の用ひ給ひし古き小八葉の車有ける呼を求出し、前嗣公を載申し、輝虎は管領ゆへ供奉しけり。先陣は太田美濃守入資正、小幡三河守憲重、長尾新五郎忠景、由良信濃守義鋼、成田下總守長春等なり。後陣は上杉家の舊臣小幡、白倉、見田、大石等なり。隨兵は越後の英士宇佐美、柿崎、甘糟、川田以下其餘竹俣、色部、石川、大關、山吉、毛利、杉原、加治、松川、平賀、鳥山等なり。鶴が岡參拜有ける時、千葉介国胤と小山大橡政朝と座列を論ぜり。輝虎捌していふ、千葉は右大將家の時より上首と定められたる家なり、小山も將軍秀郷以來關東の名家にて、千葉と對揚ひとしき家なれど、賴朝卿も小山政光以來子息三人の英武を稱し、親み厚きゆへ昵懇衆とせられしかば、千葉が次席可然とて事濟けり。然るに初社參の砌、成田長泰が先祖よりの例に任せ、赤橋の外に乘馬して輝虎が來るを待居たり。輝虎是を尋ければ、先祖式部少輔助高が妹は源賴義の母なり、賴義奧州下向の砌我家え立寄給ふ時に、助高出迎ひ途中にて兩方下馬して對面す。是より例とし、公方家へも管領へも馬上にて參り行合、たがひに下馬せし古例なりといふ。謙信大ひに怒り、古えの賴義は助高が外姪なれば左も有べし、今成田は我が旗下に屬したれば君臣にひとし、不敬なりとて家士に命じ、成田を馬より引落し、謙信扇にて成田の烏帽子を打落さる、長泰大ひに憤り、一族等も是より別心し、鎌倉を引退く。此餘大石等も同敷叛けると云云。謙信此はからひ、戰國の武將の風とはいひながら、楚忽なることは論なけれど、公方家も居所にさまよひ、管領も沈滅せしを、武威をもて關東の大各を隨え鶴岡へ參拜せしは、管領再興の一擧ならん。
[やぶちゃん注:「永祿四年」西暦一五六一年。
「將亦我は本氏長尾にて先祖より鎌倉の住人、元祖鎭守府將軍平忠通の嫡男を鎌倉權守景成といひ、其子鎌倉權五郎景正なり。長尾と名乘りしは忠通が舍弟鎌倉四郎景村が孫景弘といふもの、始て郡中長尾村に住してより地名もて氏に稱せり」と突然、この部分直接話法が出現するのは、恐らく「相州兵乱記」「謙信一代記」などからの引用と思われるが、戦国は守備範囲でなく不学なれば書名を示し得ない。識者の御教授を乞うものである。以下の記載は、現在の知見に拠れば、上杉の本姓長尾氏というのは桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏の一族で、長尾という家名は鎌倉景明の息子で大庭景宗の弟である景弘が相模国鎌倉郡長尾庄(現在の横浜市栄区長尾台町周辺)に住んで長尾次郎と称したことに始まるとされ、由緒ある坂東八平氏の一家系でもあった。
「小田原高麗寺の麓に陣をすへ、小田原城下を放火し、蓮池まで打入しかど、城中よりも敵出て喰留んともせざりしかば、夫より鎌倉へ張行せり」長尾景虎(謙信)は同年三月七日相模国に入って、小田原城に北条氏康・氏政父子を攻めた。以下、「鎌倉市史 社寺編」より引用すると、『氏康父子は武田晴信(信玄)・今川氏其の援を得てよくこれを防いだこともーつの理由であろうが、景虎は消耗戦術に引かかって兵粮に窮したらしく二十日ころになると軍をかえして鎌倉に入った。このため景虎の部将太田資正は二十二日付で八幡宮社内における軍勢衆庶らの濫妨狼籍を禁じている。景虎が上杉憲政の譲をうけ関東管領となり、上杉を称し名を政虎と改め、八幡宮で拝賀の儀を行ったのは二十六、七日頃であろう。そしてこのとき諸院家に所領等を与えたと伝えているが詳かでない。政虎は鎌倉に数日滞在し月末にはここを去ったらしい』とある。ここが本文の主要なシークエンスである。
「近衞關白前嗣」近衞前久(このえさきひさ 天文五(一五三六)年~慶長十七(一六一二)年)のこと。近衞家当主。戦国動乱期の関白左大臣・太政大臣を務めた。何度か改名しているが、天文二十四(一五五五年)従一位に昇叙して名を前嗣と改めたのが最後である。永禄二(一五五九)年に上洛した長尾景虎(謙信)と意気投合、血書の起請文を交わして盟約を結んだが、謙信の関東平定失敗によって訣別、後には信長と接近し、太政大臣職を信長に譲渡する予定であったとも言われるが、本能寺の変とそれに纏わる冤罪によって秀吉らの批判を受け、最後は家康を頼って命脈を保った。諸国を遍歴しながら積極的に政治参加を志向しつつも、和歌・連歌・書に優れ、有職故実にも詳しかった。馬術や鷹狩りにも抜群の力量を示して「龍山公鷹百首」という鷹狩の専門解説書を兼ねた歌集も執筆しており、公家としては、まさに波乱万丈の人生を送った人物と言えよう(以上はウィキの「近衞前久」を参照した)。
「守邦親王」(正安三(一三〇一)年~正慶二」元弘三年(一三三三)年)鎌倉幕府最後の第九代将軍。戦死ではなく、北条高時が五月二十二日に自刃した同日に将軍職を辞任して出家後、年内に鎌倉で薨去したとされる。逝去から実に二百二十八年後、滅んだ幕府将軍の小八葉の牛車(次注参照)が寺院に残っていたというところが、私には感慨深いのである。
「小八葉の車」網代車の一種で、車の箱の表面に小さな八葉の紋をつけた牛車。殿上人に広く用いられた。
「對揚」は「たいやう(たいよう)」と読み、釣り合っていること、対等の意。
「成田長泰」(明応四(一四九五)年?~天正元(一五七四)年)本姓藤原氏。家系は藤原師輔の流れを汲む成田氏。正室は長尾景英娘。武蔵国忍城を領していた。成田氏は代々山内上杉氏の被官を務めていたため、当初は関東管領上杉憲政に仕えたが、主家が衰えるのを見限って後北条氏に寝返った。その後関東管領に就任した上杉謙信が関東に進出するとその配下になる。しかし、永禄三(一五六〇)年に謙信が小田原城を包囲した後、北条氏康に降伏し、その家臣となった。以下、本文記載と関係するので、参照したウィキの「成田長泰」から引用する。『上杉謙信に反旗を翻したのは、一説には鶴岡八幡宮で行われた関東管領の就任式で長泰が下馬をしなかったことで謙信に扇で烏帽子を打ち落とされたため、兵を率いて居城へ戻ったといわれている(『相州兵乱記』)。長泰が下馬しなかったのは成田氏が藤原氏の流れをひく名門で、祖先は源義家にも下馬をせず挨拶をしたという名誉の家門であるため、長泰は古例により下馬をしなかったともいわれている』。『永禄六年(一五六三年)、謙信に忍城を攻められて降伏した。このため、隠居を命じられて嫡男の氏長に家督を譲るが、永禄九年(一五六六年)にこれを廃して家督を次男の長忠に譲ろうとしたために氏長と対立したが、弟の泰季や宿老の豊嶋美濃守らの反対に遭い結局、これを断念して出家し引退した。七十九歳で死去したという』とある(最後の引用はアラビア数字を漢数字に代えた)が、こちらの本文では後三年の役の源義家とではなく、前九年の、その父頼義と先祖の邂逅の故事としている。
 ――さて、以上の記事、戦国時代がお好きな方には極めて興味深い記載と思うし、この部分には私のよく知らない戦国武将の名が沢山連ねられている――が、私はここにこれ以上の注は附さずにおこうと思う。何故なら、私は戦国時代に――というより、それ以降の近代までの日本史に――今一つ、関心がないからである。そもそもがビッグ・ネームの上杉謙信が鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝したというのは、人によっては垂涎の話であろう。確かにこの社頭のシークエンスはいい。――がしかし、この条を眇めで読むなら、既に寒村化する鎌倉を、鎌倉氏の出自の地を――謙信は、社頭に成田長泰とけったいなトラブルを起こした上に、型通りの関東管領就任の神前報告を終えるとさっさと、クソ漁村と化していた鎌倉自体に関心の「か」の字も持たず、この宗祖の故地鎌倉を去ったのである(皮肉に言えばさればこそ八幡神は謙信に関東平定の野望を遂げさせなかったのだとも言えよう)。――私は、鎌倉というこの土地に対する独特の不思議な拘りがあるのである。私の嗅覚に、この鎌倉の土の匂いがしない一切の事象には、あまり触手が働かないのである。関心の在られる方は、本記載を元に、また、貴方の独自の深化を図れるがよろしかろう。私の意識が何時の日か、そちらに向かうことがあれば、また更なる注を附そうとは思う。もしかすると意外な宣言と思われるかも知れないが、これが私の節であればこそ、お許しあられたい。]

   
鶴ケ岡八幡宮

大鳥居 濵の大鳥居と稱す。《建立沿革》【東鑑】に、建保三年十月卅日、濱の鳥居新たに造らる。去る八月の大風に顚倒するゆへなり。仁治二年四月、大地震、南風に由比濱の大鳥居内潮にひかる。又寛元三年十月十九日、由比濱に大鳥居を建らる。左親衞〔時賴〕監臨せらるるとあり。【大草紙】に、應永廿年三月六日、由比濵の大鳥居御建立。上杉右衞門佐入道禪秀奉行す。此鳥居は賴朝公より代々公方の御再興の所なり。然ども久しく御造營なく笠木朽果ける處に、此御代かく御建立、目出度事なりとあり。又【鎌倉九代記】に、嘉慶二年六月、大鳥居を建らる。落慶の供養あり。奉行は上杉安房守入道道合と云云。其後天文廿一年卯月、北條氏康先君の遺願をも果し、且は武運永久をも祈らんが爲に、由比濱の大鳥居修造せし事【關東兵亂記】に見へたり。御當家の御代に至り、寛文乙巳五年より同八年の秋迄、宮殿、廊閣、堂塔、末社に至る迄悉く御再興有て、此時五ケ所の鳥居皆石にて造らる。爰の大鳥居兩柱の間六間半、高サ三丈一尺五寸、石柱の廻リ一丈二尺五寸、笠石長サ八間なり。此石は備前國大島より南海を廻して爰に寄らるゝといふ。《武藝御覽》此所は四邊打開しき地形ゆへに、古え右大將家以來代々將軍家出遊有て、遠笠掛、小笠掛、牛追物等其餘弓馬の藝能を覽給ひし地にして、治承六年六月七日、右大將家出遊、壯士等各弓馬の藝を施す。先牛追物あり。下河邊庄司、〔爲御合手〕榛谷四郎、和田太郎、同次郎、三浦十郎、愛甲三郎射手たり。次に股解沓モトキクツを以て長サ八尺の串をさして、愛甲三郎を召て射させ給ふ。五度射るに皆中せり。將軍家彼馬の跡と的の下を打せ給ふ處、其中間八杖たり。仍て此杖の數をつもり、是を相ひろめて馬場を可定由被仰出と云云。これより其後出遊の事往々【東鑑】に見へ、又諸英士等弓馬の藝を試る地なり。
[やぶちゃん注:先にも示した通り、現在とは三つの鳥居の呼称が逆になっているので注意を要する。しつこいようだが、現在の海に最も近い「一の鳥居」と呼称しているものが、「大鳥居」であり、「濱の鳥居」であり、三つめの鳥居という認識である。
「仁治二年四月、大地震、南風に由比濱の大鳥居内潮にひかる」これは仁治二(一二四一)年四月三日の記事であるが、該当箇所を見ると、「三日辛酉。霽。戌尅大地震。南風。由比浦大鳥居内拜殿被引潮流失。着岸船十餘艘破損。」(三日辛酉。霽。戌の尅 大地震。南風。由比浦の大鳥居内の拜殿、潮に引かれ流失、岸に着く船、十餘艘破損す。)とあり、ここに我々は、当時の大鳥居(現在の一の鳥居)には、恐らく鶴岡八幡宮を遙拝するための拝殿が付属していたことが分かる。更に言うなら、これは大鳥居自体が流失したのではないから、植田の記載はややおかしい気がする。もしかするとこの拝殿というのは鳥居とセットになった木造建築物であったのかも知れない。なお、現在の一の鳥居よりも鶴岡八幡宮寄りで、一九九〇年の発掘調査によって発見された木造柱痕は、調査の結果、戦国時代に北条氏康によって造立されたもの(ここに記された天文二十一(一五五二)年四月の修造を指すのであろう)本鳥居のものである可能性が高いとされている。
「應永廿年」西暦一四一三年。頼朝による建立(治承四(一一八〇)年)から、実に二三三年が経過している。
「嘉慶二年」元中五・ 嘉慶二(一三八八)年。将軍は足利義満、鎌倉公方は第二代足利氏密満。
「上杉安房守入道道合」は関東管領上杉憲方。
「寛文乙巳五年より同八年」、西暦一六六五年から一六六八年。この大改修の最後、寛文八年に江戸幕府第四代将軍徳川家綱によって寄進された石造明神鳥居が現在のもの(他の鳥居と一緒に石造改修されたが、関東大震災で倒壊、後にこの一の鳥居だけが昭和十二(一九三七)年に復元された。
「五ケ所の鳥居」現在の若宮大路にある三つの大鳥居と流鏑馬小路の東西の鳥居で五ヶ所。
「爰の大鳥居兩柱の間六間半、……」以下の計測数値などは、引き写し元と思われる「新編鎌倉志卷之一」の「大鳥居」の私の注に詳細な記載をしておいた。参照されたい。
「遠笠掛」「笠掛」(笠懸)とは疾走する馬上から的に鏑矢を放ち的を射る騎射。遠笠掛は最も一般的な笠懸で、的は直径一尺八寸(約五十五センチメートル)の円形でなめし革で造られている。これをさぐり(馬の走路)から五杖から十杖(約一一・三五メートルから二二・七メートル。「杖」は弦を掛けない弓の長さで、競射の際の距離単位で七尺八寸≒二・三六メートル)離れたところに立てた木枠に紐で三点留めし、張り吊るす。的は一つ(流鏑馬では三つ)。矢は大蟇目ひきめと呼ばれる大きめの蟇目鏑(鏑に穴をあけたもの)を付けた矢を用い、馬を疾走させながら射当てる。遠くの的を射る所から「遠笠懸」という。
「小笠掛」遠笠掛を射た後に馬場を逆走して射る騎射。的は一辺が四寸から八寸程度(約十二センチメートルから二十四センチメートル)四方の木製板を竹棹に挟み、らち(走路左右の柵)から一杖前後(約二・三メートル)離れた所に立てる。地上から低くして置かれるため、遠笠懸と違って騎手からは足下に的が見える。矢は小さめの蟇目鏑を付けた矢を用いる。小さな的を射る所から「小笠懸」という。元久年間(一二〇四年~一二〇五年)以降は次第に行われなくなったという(以上の笠懸の記述はウィキの「笠懸」に拠る)。
「牛追物」は十世紀頃に始まった古い騎射修練の一つで、小牛を追い射るもの。牛を傷つけないように鏃を使わず、蟇目や神頭じんどう(中空でない小さな鈍体を装着したもの)を用いた。
「股解沓」「モトキクツ」とルビするが、これは「モヽトキクツ」の誤りではなかろうか。現在、一般には「ももぬきくつ」と訓読される。こちらの個人の頁で『股解沓は乗馬用の長靴と解されているが、袴の上に履く巾の広い長袴の様な物だろう。もし靴だとしたら』幅は十センチ程度のものでしかなく、これを八尺(約二・四メートル)の距離で五射全て的中させるほどの正確さは和弓にはない、と解説しておられる。
「將軍家彼馬の跡と的の下を打せ給ふ處、其中間八杖たり。仍て此杖の數をつもり、是を相ひろめて馬場を可定由被仰出と云云」ここは「吾妻鏡」には「而武衞令打彼馬跡與的下給之處。其中間爲八杖也。仍積此杖數。可定相廣之馬場之由被仰出。」(而して武衛彼の馬の跡と的下とを打たしめ給ふの處、其の中間を八杖たり。仍りて此の杖數を積み、相廣あひひろの馬場を定むべきの由、仰せ出ださる。)で、植田の訓読はやや分かり難い。「八杖」一八・八八メートルで。「相廣」は四方の意。即ち、これを以って向後の公式な笠懸の馬場の四方の距離と定めたというのである。]

二ノ鳥居 大ひさ一の鳥居と同じ。此鳥居より濱の大鳥居まで六町四十五間あり。
[やぶちゃん注:「六町四十五間」約七三六・三メートル。現在の、二の鳥居から一の鳥居(当時の「濱の大鳥居」)までは地図上実測で八三四メートルほどあるが、先に示した通り、旧の「濱の大鳥居」はもっと八幡宮寄りにあったとされるから、百メートルの誤差は問題ないと言える。]

段葛ダンカヅラ 《七度小路》古名此唱へにあらず、【社務職次第】に七度小路、又は千度小路と唱へし由見へたり。或は置道とも號せしといふ。段蔓の名は中古以來の唱えにて、何に寄て名附しか定かならず。路幅五間許、高サ一尺五寸程、一ノ鳥居前より濱の大鳥居邊に至る。是は治承六年三月十五日、鶴岡社頭より由比濵に至るまで曲横を直くし、參詣の道を造り給はんとの御素願、御臺御懷孕御祈ゆへ始給ひ、武衛〔賴朝〕手づから沙汰しめ給ふに仍て、北條殿以下各土石を運び給ふとあり。
[やぶちゃん注:「段葛」江戸時代以降の記録に見える新称で、それ以前は「置路おきみち」「置石おきいし」「作道つくりみち」などと呼ばれていた。「段」は壇であり、「葛」は通常、社寺・宮殿などの基壇の上端の縁にある長方形をした、縁石縁石へりいしを兼ねた基盤を言うから、盛り上げた土壇場の上に葛石を押し並べて作った道という意であろう。ウィキの「段葛」には、『源頼朝などの武将が鎌倉に住むにつれて山を削り、少ない平地を増やして屋敷地を造成した。そのために山の保水力が低下し、雨が降るたび若宮大路に土砂や水が流れ込み、道がぬかるんで歩き辛くなったために、道から一段高い道を建設したのが段葛である。また、鎌倉幕府が攻め込まれるのを防ぐために、二の鳥居から鶴岡八幡宮に向かうにつれて、道幅が徐々に狭くなるようになっており、遠近法によって、実際の距離より長く見えるようになっている』とある。後者はあまり知られていない事実であるからよいが、前者は如何か。頼朝の鎌倉入城は治承四(一一八〇)年十月で、本段葛造営は「治承六年」=寿永元年、正しくは養和二(一一八二)年の三月十五日である。『山を削り、少ない平地を増やして屋敷地を造成した』結果、『山の保水力が低下し、雨が降るたび若宮大路に土砂や水が流れ込み、道がぬかるんで歩き辛くな』るなどという急激な環境変化が、当時、たった一年と数ヶ月で惹起し得たであろうか? 寧ろ、三方を山に囲まれ、底の浅い滑川と稲瀬川のみでは処理し切れない湿気が低地である現在の若宮大路付近に常に貯留し、現在より遙かに内部へと貫入していた由比ヶ浜には広範囲の汽水域があって、陸水の海洋への移行を阻んでいたと考える方が理に適っているとは言えまいか? なお、本文にあるように以前は「濱の大鳥居邊」から現在の一の鳥居まで存在したが、明応四(一四九六)年八月の地震の津波破壊などで、幕末には下馬までとなり、明治十一(一八七八)年の官有地編入で二の鳥居より海側の所有権を失って管理がなされなくなり、明治二十二(一八八九)年の横須賀線敷設工事によって一の鳥居二の鳥居間が完全に撤去され、消失してしまった。]

一ノ鳥居 此鳥居より濵まで十六餘あり。社頭入口兩柱の間四間、柱の廻り七尺許、是より二ノ鳥居迄の間四町拾六間餘といふ。夫より二ノ鳥居また濱の大鳥居なり。社地の東西に又鳥居あり。二所ともに都合五ケ所皆石にて造給ふことは寛文年中の御重營に依てなり。此鳥居前の東西する道を名附て、古えよ横大路と唱ふることは前篇に出せり。【社務職次第】に、養和元年十二月十六日、若宮に鳥居を建給ふ。景時、景能奉行す。武衞〔賴朝〕監臨し給ふと云云。
一ノ鳥居 此鳥居より濵まで十六町餘あり。社頭入口兩柱の間四間、柱の廻り七尺許、是より二ノ鳥居迄の間四町拾六間餘といふ。夫より二ノ鳥居また濱の大鳥居なり。社地の東西に又鳥居あり。二所ともに都合五ケ所皆石にて造給ふことは寛文年中の御重營に依てなり。《横大路》此鳥居前の東西する道を名附て、古えより横大路と唱ふることは前篇に出せり。【社務職次第】に、養和元年十二月十六日、若宮に鳥居を建給ふ。景時、景能奉行す。武衞〔賴朝〕監臨し給ふと云云。
[やぶちゃん注:「十六町餘」約一・七五キロメートル。現在の距離は地図実測で海岸線までの直線距離約一・九キロメートルで、当時の由比ヶ浜の陥入が分かる。
「社頭入口兩柱の間四間」約七・三メートル。当時の浜の大鳥居(現在の由比ヶ浜に最も近い一の鳥居)は左右柱間距離(下部計測)で約一一・八メートルであるから、この数値で見ると3/5程小さいことになる。
「柱の廻り七尺許」約二・一メートル。同じく当時の浜の大鳥居の左右石柱円周は約三・八メートルであるから、前者の直径が約六七センチメートル、後者が一メートル二一センチメートルであるから、柱の太さは凡そ半分弱小さい。
「是より二ノ鳥居迄の間四町拾六間餘」約四六五メートル。現在の地図上実測では四七七メートルで、当時の両鳥居の位置は現在と殆ど変らないことが分かる。
「養和元年」西暦一一八一年。
「景能」大庭景能。大庭景義の別名。
 以下に、ウィキの「若宮大路」にある明治元(一八六八)年のパブリック・ドメインの写真を配しておく。植田が見た時から四〇数年後の映像である。

段葛を東側から撮ったものであるが、二の鳥居は認められないので、現在の宇都宮稲荷大明神附近からの撮影かと思われる。]

池水 一の鳥居内、東西へ長き神池なり。壽永元年四月廿四日、鶴岡若宮の邊の水田〔號法卷田〕耕作の事を停て池に掘とあり。されば古へは雪の下邊まで水田にして、此池へ北山より各々の谷水落入、池はもとより深田にて田地え漑く用水の源にて有しならん。傳えいふ、平氏を追討の時ゆへ御臺所の御願に依て、大庭平太景能奉行として社前に池を造り、池中の東に四島、西に四島、合て八島を平氏の住所になぞらゑ、東の方より是を滅すとて、東に三島を殘し置て一島を潰せりといふ土人が傳説慥ならず。
[やぶちゃん注:「壽永元年」は五月二十七日に養和二(一一八二)年から改元するので、正確には「養和二年」。
「號法卷田」割注引用の誤り。「吾妻鏡」には「號弦卷田。」(弦巻田と號す。)とある。「絃卷田」については、私が「吾妻鏡」の検索で参考にさせて頂くことの多い、 HP「鎌倉歴史散策加藤塾」の中の「源平池について調べてみよう」に、「三町」(約三万平方メートル弱に相当)という数値を現在の源平池と比較した際、約『三分の一しかない。かつては、流鏑馬馬場から南全体が池だった。なお、弦巻田というのは、苗を弦が巻きつくように渦巻きに植えていく神へ捧げる為の米を栽培する斎田のことであろう』と記されており、加藤氏は飛騨高山の民家園でこれを実見されており、その際の田植えの方法について、田圃を丸く作って、中央に棒を立てて縄を結び、伸ばしたきったその縄の一方の端に三〇センチ間隔で苗を植えながら柱の周りをぐるぐると回っていく、すると『自然と渦巻き状に苗は植えられていき、最後に縄の巻きついた柱を抜く』と述べられておられる。他にも、この辺りが古くから広大な湿地であり、そこに吉祥のシンボルである鶴がやってきては、稲籾を播いたからとか、神域として武将がここで弓弦を外したことによるといった由来説があるようだが、加藤氏のこの見解が最も腑に落ちるものである。リンク先は豊富な画像と、加藤氏の膨大な資料の渉猟によって成された、素晴らしいページである。一読をお奨めする。なお、一応、引用の誤りとしたが、神法によって稲を渦巻き状に植える神田は「法卷田」と称してもおかしくはないようにも思われる。
「漑く」は「そそぐ」又は「すすぐ」と訓じ、田畑へ水を注ぎ込む、の意。因みにここの叙述は「段葛」の注で私が推理した状況を裏打ちするものとしても読める。
「合て八島を平氏の住所になぞらゑ」というのは私にはよく分からない。私は寧ろ、八島は本邦全域を言う大八洲国おおやしまとして、一種の浄土庭園として造形されたが、それに対して誰かが(伝承では政子が)、東の池を東の源氏に擬え、「三」は「産」に通じ、西は西へ逃げた平氏に通じ、「四」は「死」に通ずるが故に、東の島を一島潰したとする説を――それが事実であるかどうかは別として――面白いとは思う。なお現在、西の平家池は北半分に県立近代文学館本館が建って、島は二つに源氏、基、減じてしまっている。池水の配置については「新編鎌倉志卷之一」の「辨才天社」に画像を配してある。参照されたい。]

辨財天祠 池中東のかたにあり。堂二間に一間、本尊運慶の作、膝の上に琵琶を横たえたり。土人いふ、小松内府の持給ひし琵琶なりといひ傳ふ。其謂れ定かならず。祠は養和元年、大鳥居のこなた琵琶橋邊に在しを爰に移されしものなり。
[やぶちゃん注:本弁才天像については「新編鎌倉志卷之一」の「辨才天社」に画像を配してある。参照されたい。「小松内府」は平重盛のことである。]

赤橋 池に架せし反橋なり。長サ五間、幅三間、古え營造の頃丹漆にて塗たる橋ゆへ、舊く赤橋の名往々出たるものなるべし、《宗尊親王御歌の事》【東鑑】云、文永三年七月四日、宗尊親王御歸洛、路次出御、自北門赤橋西行、經武藏大路於赤橋前奉向御輿於若宮方、暫有御祈念、及御詠歌云云、此時の御歌の事を先輩の編集には、固瀨川をよみ給ひし御歌なりとしるせり。其御詠は人をも世をも恨み紛ひし御歌にて、神前に向ひ給ひ御名殘を惜ませ給ふ餘情なければ、按ずるに十と世餘りの御歌なるべしとおもはる。されども慥なることをしらねば、おのれが杜撰なるべし。とゝせあまりの御歌は、前篇鎌倉總説の條へ出したれば合せ見るべし。固瀨川の御歌は其地名の條へ出せり。
[やぶちゃん注:この橋は所謂、太鼓橋であるが、この形状は天地を繫ぐ虹と考えられており、とすれば、この登り下るに至難の橋は、元来は神の通り道、天の浮橋であったのではなかろうか? さて、以下の、この文永三(一二六六)年七月四日の条にある引用は、直前にある北条教時の騒擾(引用後に後述)の記事及び途中と後にある、佐介の亭を出て帰洛する将軍の供奉人等のリストを省略してある。供奉人・女房等のリストを除いて如何に示す。
〇原文
四日甲午。申剋。雨降。今日午剋騷動。中務權大輔教時朝臣召具甲冑軍兵數十騎。自藥師堂谷亭。至塔辻宿所。依之其近隣彌以群動。相州以東郷八郎入道。令制中書之行粧給。无所于陳謝云々。
戌刻。將軍家入御越後入道勝圓佐介亭。被用女房輿。可有御皈洛之御出門云々。
供奉人(以下、中略)
路次。出御自北門。赤橋西行。經武藏大路。於彼橋前。奉向御輿於若宮方。暫有御祈念。及御詠歌云々。
供奉人(以下、中略)
〇やぶちゃんの書き下し文
四日甲午。天晴。申尅、雨、降る。今日、午の尅、騷動す。中務權大輔教時朝臣、甲冑の軍兵數十騎を召し具し、藥師堂谷の亭より、塔の辻の宿所に至る。之に依て其の近隣彌々成(も)つて群動す。相州、東郷八郎入道を以つて、中書の行粧ぎやうさうを制せしめ給ふ。陳謝するに所無しと云々。
戌の刻、將軍家、越後入道勝圓が佐介の亭へ入御す。女房輿を用ゐらる。御歸洛有るべきの御出門と云々。
供奉人(以下、中略)
路次は北門より出御、赤橋を西へ行き、武藏大路を經(ふ)。彼(か)の橋の前に於いて、御輿を若宮の方に向け奉えい、暫く御祈念有りて、御詠歌に及ぶと云々。
供奉人(以下、中略)
この条の冒頭は、北条教時(嘉禎元(一二三五)年~文永九(一二七二)年)による、幕府の将軍送還への反示威行動による小さな擾乱を記している。北条教時は名越教時とも称し、北条一門名越流北条朝時の子で、母は北条時房の娘であった。引付衆・評定衆を務めたが、北条得宗家への敵愾心が強く、当時は第七代執権政村の連署であった北条時宗(「相州」)の制止を振り切ってこの騒擾を起こした。六年後の文永九(一二七二)年には遂に得宗家転覆を企ててクーデターを起こすが、第八代執権となっていた北条時宗の討伐軍によって討死にした(二月騒動)。「中書」は教時の官位中務権大輔如元の唐名。「行粧」は外出時の装束を言うが、ここは穏やかならざる出で立ちのことを指す。「東郷八郎入道」は「吾妻鏡」にここにしか出ない人物で不詳であるが、ここで収まった(「陳謝するに所無し」とは教時が東郷八郎の制止を受け入れて反省して深謝した謂いと読むならば)ということは、東郷八郎入道なる人物は時宗側近であると同時に、教時とも昵懇の間柄であったことが推定されよう。
「とゝせあまり」の歌は、「鎌倉攬勝考卷之一」の「鶴岡總説」に、
 十とせあまり五とせまても住なれて、なを忘られぬ鎌倉の里[宗尊親王]
とあるのを指す。和歌を整序して示す。
 十年あまり五年までも住み馴れてなほ忘られぬ鎌倉の里
第六代将軍宗尊親王(仁治三(一二四二)年~文永十一年(一二七四)年)は文永三年(一二六六)年六月、正室の近衛宰子(第七代将軍惟康親王母。事件後に京都送還)と僧良基(事件後に逐電)の密通事件を口実に幕府への謀叛の嫌疑をかけられ、北条時宗らによって将軍職解任・京都送還となった。植田は赤橋前で詠んだという幻しの和歌を本歌と推定しているが、現在、この歌は帰洛の際に藤沢の本蓮寺(モノレール目白山下駅近く)に泊った折りに詠まれたものとされている。満十歳で鎌倉に迎えられ、青春時代を過ごした鎌倉、今、妻に裏切られ、社会的にも(既にして傀儡将軍ではあったが)お払い箱とされる二十四歳の彼の想いは、いかばかりであったろう……。
「固瀨川の御歌は其地名の條へ出せり」は「鎌倉攬勝考卷之十附録」の「片瀨川」の項に、
歸りきて又見んことも固瀨川、濁れる水のすまぬ世なれは
         宗尊親王
此御歌は、文永三年七月四日、宗尊親王、急に御歸洛の御旅裝有て御發輿の時、此川の邊にて、詠給ふ御述懷の御歌なるべし。
とあるのを指す。和歌を整序して示す。
 歸り來てまた見んことも固瀨川濁れる水のすまぬ世なれば]

二王門 三間に二間なり。額を掲ぐ、鶴岡山とあり。是は曼珠院良恕法親王の書なり。左右に密迹金剛の像有。古へは八足の門ありし由、【東鑑】に、正治三年八月十一日、大風に鶴岡宮寺の八足の門顛倒とあり。


[二王(仁王)門額]

[やぶちゃん注:額の標記は挿絵を見る限りでは「鶴𦊆山」であろう。
「曼珠院良恕法親王」「珠」は「殊」の誤り。曼殊院良恕法親王(まんしゅいんりょうじょほうしんのう 天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)陽光院誠仁親王第三皇子で後陽成天皇の弟に当たる。曼殊院門跡(現在の京都市左京区一乗寺にある竹内門跡とも呼ばれる天台宗門跡寺院・青蓮院・三千院(梶井門跡)・妙法院・毘沙門堂門跡と並ぶ天台五門跡の一)。第百七十代天台座主。書画・和歌・連歌を能くした。]。
「密迹金剛」は「みつしやくかんがう(みっしゃくこんごう)」と読む。執金剛神しゅうこんごうじん・仁王・金剛力士に同じい。御馴染みの仏法を守護する夜叉神やしゃじんで、本来は一つの神格であったが、本邦では多く二神一対として寺門の左右に置かれるようになった。]

東西の鳥居 社地入口東西にあり。二基ともに石なり。大ひさ柱間丈三尺五寸、柱廻り四尺五寸、東西相同じ。

シタノ神殿 上の地へ登る石階の東の方、此所平坦の敵地なり。上と下との事は前に出たれば略す。拜殿の梁間に額を掲ぐ。若宮大權現の文字、靑蓮院宮尊純親王の眞蹟なり。《祭神は仁德帝御妹君》當社傳記に、下の宮四所、東は二所、久禮宇禮クレウレなり。仁德帝の御妹君なり。中殿は若宮仁德天皇なり。西は若殿、これも仁德の御妹君なりといふ。當社營建の事は前條に出せし如く、庚平六年、源賴義朝臣始て當所の由比の濱に勸請の鶴岡八幡にて、治承四年十月、右大將家小林郷北山の麓に移し給ふといふ舊社なり。同五年五月十三日、又營作を企給ひ去年假に營建ゆへ楚忽の義に依て、改て宮殿を莊嚴になさんと欲す。當所に工匠なければ武藏國淺草の大工ヨビナ郷司を召て花構の儀をなし、神威をカザらんとあるは當社の事なり。扨シタの宮、うへの宮にも古き棟札なく、寛文八年御造營の以來の札有のみ。當殿例祭は毎歳八月十五日、神輿四つ渡し奉る。


[下神殿額]

[やぶちゃん注:「久禮宇禮」久礼姫と宇礼姫。応神天皇の八皇子の中の二人とも言われる。]


[鶴ヶ岡社地並若宮小路]

高良大臣社 上の地有、末社と同神なり。若宮の西北にあり。椰の樹の東寄にあり。
[やぶちゃん注:福岡県久留米市の高良山にある高良神社に代表される八幡系の神。この祭神の本体については、武内宿禰説・藤大臣(神功皇后三韓征伐の際に高良神自ら皇后に従軍して名を藤大臣と称したという伝承のに基づく)説、月神説など様々な説が唱えられている。
「上の地有」は「新編鎌倉志卷之一」に「上の地の石の階を下り」というのが正しい。明治の初期までは上の宮へ登る階段の向かって右手、大きな手水鉢(現存せず)の、その右手にあった。少なくとも現在は当該地には存在しない。
「梛」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科ナギ Nageia nagi(シノニム:Decussocarpus nagi)。熊野神社及び熊野三山系の神社では神木とされ、一般的には雄雌一対が参道に植えられている。また、その名が凪に通じるとして特に船乗りに信仰されて葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏などに入れる俗習がある(以上はウィキの「ナギ」に拠った)。]

末社四所合社 三島・熱田・三輪・住吉・武内社の東にあり。
【東鑑]に元曆元年七月廿日、鶴岡若宮の傍に熱田明神を勸請、今日武衞〔賴朝〕參給とあり。同記に文治六年四月二日、鶴岡末社三島社祭とあり。
[やぶちゃん注:「武内社の東にあり」は前項高良社の東の誤りと思われる。武内社は後述されるが、今と同じく、上の宮の西側に付随するように祀られており、その東では上の宮の本殿になってしまう。]

同三所合杜 松童・源太夫・夷三郎社、神明宮の西にあり。松童といふは社説に應神帝の牛飼なりと。源太夫とは車牛なりとあり。又は元大武とも書とて、夷勸請のことは【東鑑】建長五年八月十四日、今度始て西門の脇に三郎大明神を勸請し奉らるる處なり。相州〔時賴〕參給ひ御神拜あり。中原光上宮人の曲を唱ふと云云。
[やぶちゃん注:「夷三郎」は現在でも夷神の別名として通用しているが、本来は「夷」と「三郎」は異なった神であったものと考えてよい。「三郎」はイサナキとイサナミの最初に産んだ奇形児蛭子とも、大国主命(大黒)の三番目に生まれた子の事代主命とも言われ、後者が出雲の美保崎で命が魚を釣ったという伝承から「三郎」は魚と釣竿を持った姿で描かれる祀られるようになったともされる。それに海神・漂着神・来訪神として複雑に習合を繰り返してきたらしい夷神に更に習合して夷三郎という一体神化が行われたらしい。
「中原光上」「なかはらのみつうえ」と読むようだが、彼はどうも舞楽師中原光氏(建保六(一二一八)年~正応三(一二九〇)年)のことのようである。
「宮人」は「みやびと」と読み、神楽歌の一曲。現存。]

天照大神宮 上の宮え登る石階より西にあり。
舞殿 二王門を入て正面上の地へ擧る石階の前にあり。三間に二間。【東鑑】に建久元年七月廿七日、鶴岡舞殿此間新建、今日被立之、行政爲奉行、右大將家監臨云云、
[やぶちゃん注:「建久元年七月廿七日」は建久四(一一九三)年二月廿七日の誤り。失礼乍ら、原本か底本かは分からないが、本「鎌倉攬勝考」の「吾妻鏡」の引用の年月日には誤りが思いの外多いので、注意しなくてはならない。以下に当該箇所を示す。
〇原文
廿七日甲子。鶴岡宮寺舞殿。此間新造。今日被立之。行政爲奉行。將軍家監臨給云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日甲子。鶴岡宮寺舞殿、此の間、新造す。今日、之を立てらる。行政、奉行と爲し、將軍家監臨し給ふと云々。
「行政」は既出。政所執事二階堂行政。]

經藏 石階え向て西の方五間四面なり。一切經藏四天王を安置す。《一切經供養》【社務職次第】には、建久五年十一月十三日、一切經供養の事ありと。〔此事【東鑑】に見えず〕【東鑑】建保四年三月三日。鶴岡八幡宮一切經會也。將軍家無御出。武州〔泰時〕爲御使神拜し給と云云。同年八月、北斗堂建立の後、十月北斗堂にて一切經供養し給ふと見へたれば、實朝將軍御代には輪藏はいまだ建立なかしゆへ、北斗堂へ一切經を納め置れける歟と思はる。然して後世造立せしものなるべし。從是三月三日一切經會恆例となる。【社務職次第】云、當社一切經は一千六百八十六部、五千三百五十一卷、三百九十九帙とあり。
[やぶちゃん注:本文中にあるように、これは「輪藏」形式の経蔵(以下、廃仏毀釈による本一切経の顛末などは「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「輪藏」の私の注を是非、御覧あられたい。 「北斗堂」「新編鎌倉志卷之一」の頃に『今は滅たり。古跡分明ならず。』とする。後述される。]

護摩堂 經藏の前にあり。五間に四間。五大尊を安ず、運慶作。
[やぶちゃん注:「五大尊」、五大明王。一般に真言密教(東密)では不動明王を中心に、東に降三世ごうざんぜ、西に大威徳だいいとく明王、南に軍荼利明王ぐんだり、北に金剛夜叉明王こんごうやしゃを配するが、天台密教(台密)では金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩うすさま明王が五大明王の一尊として数えられる。鎌倉期の鶴岡八幡宮寺は真言系が強かったと思われ(幕末時の二十五坊は総て真言宗)、前者であろう。]

藥師堂 若宮寶殿より東の方にあり。車間に四間。本尊藥師幷十二神の木像あり。古へは此堂を神宮寺とも解せしにや、承元二年四月廿五月、實朝將軍鶴岡の宮の傍に始て神宮寺を建らるゝとあり。同年十二月十二日、神宮寺造畢。安置本草藥師像。同十七日本尊藥師開眼とあり。又建曆元年十一月十六日、尼御臺所の御願として、金銅の藥師三尊〔各七尺〕の像を供養せらる。此本尊を鶴岡神宮寺に安置とあり。或説に、此像今は座不冷ザサマサズの壇所に金銅の藥師あるは是なりといふ。此堂を古へ神宮寺といひしなり。又八幡の宮殿をも神宮寺或は宮寺と稱せし事、ものに見えたり。夫ゆへにや、今もウエの地の樓門の額に八幡宮寺とあり。
[やぶちゃん注:この辺りも植田は「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」から引き写している。ここにあったとされる仏像の写真など、「藥師堂」の私の注を是非、御覧あられたい。]
寶塔 若宮の前にあり。二層、五間に四問。塔内に五智の如來を安ず。【東鑑】文治五年三月十五日、鶴岡八幡宮の傍に此間塔婆を建らる。丹漆塗、今日空輪クリンをあぐ。二品〔賴朝〕監臨し給ふ。同六月九日、御塔供養、導師法橋親性、兇願いは若宮別當法師圓曉、淸僧七口と云云。願文の草は新藤中納言兼光卿、淸書は堀川大納言忠親卿と云云。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「塔」に詳細注あり。特に元治元(一八六四)年十一月に、イギリス人従軍カメラマンであったベアトが撮った美事な写真もある。必見。]
鐘樓 塔の東の方にあり。堂二間四方、鐘の大ひさ三尺五寸、厚サ三寸五分、銘文あり。へ【社務職次第】にいふ、應永十三年七月十八日、小町邊より失火、餘燃鐘樓に吹付けるゆへ、一心院の大工鐘樓に登り消けると云云。《鐘は應永に改鑄》然れども其時鐘損ぜしにや、正和の銘を寫し、建長寺廣嚴尾大建僧、古本を書寫し新たに造ると【鎌倉志】に見えたれば、實は應永十三年のころ鑄直せしならん。
《鐘銘》
[やぶちゃん注:以下の鐘銘は、底本では全体が一字下げ。]
  鶴岡八幡宮鐘銘幷序
夫當宮者、馬臺東戌之州、鶴岡甲區之地、摸男山之宗祧、弘尊廟之權扉、以降禮神之囿、頌祇之堂焉、禮頌丕儼、春禴之尊、秋嘗之儀矣、春秋幾囘、鎭護年尚、答貺日新、然間、去玆迎姑洗、不圖欠靈祠、肆深仰玄鑒、忽跂經始。課般※1兮、是尊是尺、用規矩兮、不愆不忘、土木之勤、既雖及兩祀、斧斤之功、殆可謂不日、傍斯苔壖、而復鴻基、先撃蒲牢、而發鯨音、乃作銘曰、冶鑪甫就、寶器鑄陶、龍文製妙、鳧巧奇標、形非哆※2、聲不※3窕、應陰陽律、入宮商調、小大共振、淸濁孔昭、帶霜早和、隨風自搖、式驚千界、高徹九霄、梵響無斷、覃三會朝。正和五年二月日
[やぶちゃん字注:「※1」=「仁」-「二」+「垂」。「※2」=「口」+「弇」。「※3」=「扌」+「夸」+「瓜」。]
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「鐘樓」にある鐘銘と幾つかの箇所で相違があるが、これはやはり引き写しとみてよく、「式驚千界」の部分を除いて(これはこれが正しい。あちらは底本印刷時の誤植であろう)、あちらの方が信頼出来る(あちらは私が「鎌倉市史 社寺編」所収のものと校合もした)。書き下し文及び語注はあちらを参照されたい。]

北斗堂跡 社地に今其舊跡しれず。此所に始て別當の勸請せし堂なり。此後仁治年中、將軍家〔賴朝〕勸請の堂は大倉に祀り給ふ由【東鑑】に見ゆ。同書に建保四年八月十九日、鶴岳の宮の傍に、別當定曉僧都建立北斗堂、今日供養、小河法印忠快導師也、尼御臺御參云云、同十月廿九日、將軍家〔實朝〕爲御願、於鶴岡北斗堂有一切經供養、導師三位僧都定曉、將軍家御出、御臺御同車也、相州等扈從、廣元朝臣爲奉行云云、或記にいふ應永年中再興せしことあれば、其後廢したるべしともいえり。
[やぶちゃん注:「仁治年中、將軍家〔賴朝〕勸請の堂は大倉に祀り給ふ由【東鑑】に見ゆ」とあるのは、仁治元(一二四〇)年十月十九日の条「十九日己酉。天晴。大倉北斗堂地曳始事。佐渡前司。兵庫頭等可奉行之云々。」(十九日己酉。天晴。大倉の北斗堂地曳始めの事、佐渡前司、兵庫頭等之を奉行すべしと云々。)を指す。
「定曉」「ぢやうぎやう(じょうぎょう)」と読む。本件とは全く無関係であるが、私はこの鶴岡八幡宮別当阿闍梨定暁なる人物にある疑念を抱いている(尊暁と同一人物とする記載がネット上に散見されるが、これは誤りである。尊暁は定暁の前の鶴岡八幡宮別当であり、定暁は彼から建永元(一二〇六)年五月三日に別当職を委譲されている)。着目すべきは建暦元(一二一一)年九月十五日に頼家の子善哉十二歳が、彼の下で出家している事実である。かれの法名は公暁――彼は公暁の師なのである。園城寺系の僧で、同年九月二十二日には公暁を伴って園城寺にて授戒するために上洛もしており、その関係は如何にも親密なのである。建保五(一二一七)年五月十一日に定暁は腫物を患って入滅するが、翌六月二十日には即座に、園城寺より帰った公暁が彼を継いで鶴岡八幡宮別当に就任する。――そして――翌々年の建保七(一二一九)年一月二十七日のカタストロフへと雪崩れ込んでゆくのである。――公暁の実朝暗殺に於いて、私は十代の終りから、この「定暁」なる人物がキー・パースンなのではないかと秘かに疑り続けてきた。定暁の出自……また、曾て調べた折りには、同名異人で定暁なる人物が見つかり、その人物がまた、本暗殺に繋がるような非常に興味深い人物であったと記憶する(資料を散佚したため、残念ながらこれ以上は書けない)……これは管見する限りでは誰も問題にしていないはずである。……しかし、もう、私の貧しい知見では、この問題をディグすることは不可能かも知れぬ。どなたかに衣鉢を嗣ぎたいと思う。
「或記にいふ應永年中再興せしこと」応永は三十五年続き、昭和・明治に続く三番目の長きに亙った元号である。西暦一三九四年から一四二八年まで。この「或記」とは「鎌倉市史 社寺編」によって十四世紀の鶴岡社務記録である「鶴岡事書日記」を指すものと思われる。そこには応永四(一三九七)年に北斗堂造替が決まり、同年七月十六日に立柱上棟が行われたと記されているらしい(「鎌倉市史 社寺編」の「五 室町時代」に拠った)。]


石階 二王門正面是を登ればウエの地なり。石階幅一丈餘、此石階の東の方に梛の樹あり。西の方に銀杏の大樹あり。《實朝横死の事》【東鑑】承久元年正月廿七日、將軍家〔實朝〕右大臣拜賀の爲に鶴岡八幡宮に御參、〔酉の刻〕夜陰に及て神拜の事終り、漸々退出の處に、當社別當阿闍梨公曉石階の際に伺ひ來り、剱を取て亟相を侵し奉る[やぶちゃん字注:底本「亟相」誤植と見て、訂した]。其後隨兵等宮中え弛參るといえども、〔此時武田五郎信光先登に進む。〕讎敵しれず。或人いふ、ウエの宮の砌にて別當公曉父の敵を討し由名謁ナノラるといふ。依て各々雪の下の本坊へ襲ひ到るに、彼門弟の惡僧等籠り居て相戰ふ處に、長尾新六定景が子息太郎景茂、二郎胤景等先登を諍ふといふ。遂に惡僧等退散すといへども、阿闍梨此所に見へず。軍兵空敷退散し、諸人惘然たり。爰に阿闍梨は丞相の御首を捉て、後見の備中阿闍梨の雪の下北谷の宅〔今十二院の地なり。〕に行向はるゝ。膳をすゝむるの間も手を放さず御首を持といふ。阿闍梨此所より使者として、彌源大兵衞尉〔阿闍梨乳母子〕を三浦義村が方へ遣していふ、今既に將軍の闕あり、吾こそ東關の長なり、早く計議をめぐらすべきの由を示し合さる。義村此事を聞て、先君の恩化を忘れざるの間落涙數行し、更に詞も出し得ず。暫していふ、先蓬屋へ光臨有べし、且又御迎に兵士を獻ずべしとて、使者退去の後急ぎ使を義時へ達し、件の次第を告ければ、義時返答に、速に阿闍梨を誅すべき由を下知せしゆへ、急速に義村一族等を招集め評定せしに、阿闍梨は甚武勇に達し常人にあらず、輙く誅しかたかるべき由各評議する處に、義村勇敢の器を撰み、長尾新六定景を討手に定む。〔長尾も一族なり。[やぶちゃん注:底本「長屋」とあるが誤植と見て、訂した。]〕定景も辭退する事を得ず、座をタツて黒川縅の甲を著す、雜賀次郎〔西國の人強力の士〕以下郎徒五人を相具し、阿闍梨の在所備中阿闍梨の宅に赴く砌、阿闍梨は義村が方より迎ひの者延引の間、彼宅至らんと欲し鶴岡の後山へ登り、山傳へになさんと坊より出ける所に定景と途中に相逢ふ。御迎に參れりといふ。雜賀次郎忽に阿闍梨を懷き互に雌雄を爭ふ處に、定景大刀を取て阿闍梨の首を討落す。腹卷の上に素絹の衣を着せり。此人は金吾賴家將軍の御息也。母は賀茂六郎守長が女なり。〔是爲朝の孫女なり〕定景彼首を持歸り義村に渡す。即義村京兆〔義時〕の亭へ持參す。義時出逢て其首を見らる。安東次郎忠家脂燭を取。義時いふ。正敷未レ奉レ見二阿闍梨面一、猶疑給ありと云云。抑今日の異兼々怪のこととも有しといふ。出御の砌御庭の梅を覽じ給ひ、禁忌の和歌を詠じ給ふ。  出ていなは主なき宿となりぬとも、軒はの梅よ春をわするな [やぶちゃん字注:ここは底本では和歌の後、字間もなしに後文を続けるが、改行した。] 今朝宮内兵衞尉公氏に命じ、御髮を取あげさせ給ふ時に、御鬢の毛一筋を公氏に賜ひ、我のかたみにせよとの御意なり。公氏押いたゞき懷中せしが、右府薨逝の翌日葬し奉らんとせしに御しるしなし。昨夜新六が阿闍梨を誅せし時も丞相の御首を持給はず、所々尋しかど終にしれずといえり。仍て今日御しるしなければ、公氏に賜ひし御髮の毛を以て御鬢に入、御しるしとなし葬し奉るとあり。
[やぶちゃん注:実朝暗殺の前後を、「吾妻鏡」の記載に随って少しく見ておきたい。最後に「今日の異兼々怪のこととも有し」とあるが、まずは、右大臣拝賀の式の前々日、建保七(一二一九)年一月二十五日の条に早くもそれが現われる。
〇原文
廿五日壬辰。右馬權頭賴茂朝臣參籠于鶴岡宮。去夜跪拜殿。奉法施之際。一瞬眠中。鳩一羽居典厩之前。小童一人在其傍。小時童取杖打殺彼鳩。次打典厩狩衣袖。成奇異思曙之處。今朝廟庭有死鳩。見人怪之。賴茂朝臣依申事由有御占。泰貞宣賢等申不快之趣云々。 〇やぶちゃんの書き下し文
五日壬辰。右馬權頭賴茂朝臣、鶴岡宮に參籠す。去ぬる夜、拜殿に跪きて法施ほふせを奉るの際、一瞬の眠りの中に、鳩一羽典厩の前に居る。小童一人其の傍らに在り。小時しばらくあつて、童、杖を取りて彼の鳩を打ち殺し、次に典厩の狩衣の袖を打つ。奇異の思ひを成してくるの處、今朝、廟庭に死鳩有り。見る人、之を怪しむ。賴茂朝臣の申す事の由に依りて、御占有り。泰貞、宣賢等、不快の趣を申すと云々。
・「右馬權頭賴茂」源頼茂(治承三(一一七九)年~承久元(一二一九)年)。「典厩」は右馬権頭の唐名。大内裏守護職であったが、この後日、同年(改元して承久元年(一二一九年)の七月十三日に頼茂が将軍職に就くことを企てたとして(恐らくは討幕計画を察知された先制攻撃として)後鳥羽上皇の兵に居宅であった昭陽舎を襲撃され、仁寿殿に籠った上、火を掛け、自害している。ここに記された彼の夢告は、そこまでも予兆したものとして――ある。
・「泰貞、宣賢」安倍泰貞と安倍宣賢のぶかた。実朝に近侍した三人の陰陽師(もう一人は安倍親職ちかもと)。
以下、右大臣拝賀の式当日、建保七(一二一九)年一月二十七日の条を示す(途中「阿闍梨」の「阿」の省略が認められるが、私には気持ちが悪いので「阿」を総てに附した)。
〇原文
廿七日甲午。霽。入夜雪降。積二尺餘。今日將軍家右大臣爲拜賀。御參鶴岳八幡宮。酉刻御出。
[やぶちゃん注:行列供奉随兵の条は省略。]
令入宮寺樓門御之時。右京兆俄有心神御違例事。讓御劔於仲章朝臣。退去給。於神宮寺。御解脱之後。令歸小町御亭給。及夜陰。神拜事終。漸令退出御之處。當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相。其後隨兵等雖馳駕于宮中。〔武田五郎信光進先登。〕無所覓讎敵。或人云。於上宮之砌。別當阿闍梨公曉討父敵之由。被名謁云々。就之。各襲到于件雪下本坊。彼門弟惡僧等。籠于其内。相戰之處。長尾新六定景与子息太郎景茂。同次郎胤景等諍先登云々。勇士之赴戰塲之法。人以爲美談。遂悪僧敗北。阿闍梨不坐此所給。軍兵空退散。諸人惘然之外無他。爰阿闍梨持彼御首。被向于後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手於御首云々。被遣使者彌源太兵衞尉〔阿闍梨乳母子。〕於義村。今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合。是義村息男駒若丸依列門弟。被恃其好之故歟。義村聞此事。不忘先君恩化之間。落涙數行。更不及言語。少選。先可有光臨于蓬屋。且可獻御迎兵士之由申之。使者退去之後。義村發使者。件趣告於右京兆。京兆無左右。可奉誅阿闍梨之由。下知給之間。招聚一族等凝評定。阿闍梨者。太足武勇。非直也人。輙不可謀之。頗爲難儀之由。各相議之處。義村令撰勇敢之器。差長尾新六定景於討手。定景遂〔雪下合戰後。向義村宅。〕不能辞退。起座着黑皮威甲。相具雜賀次郎〔西國住人。強力者也。〕以下郎從五人。赴于阿闍梨在所備中阿闍梨宅之刻。阿闍梨者。義村使遲引之間。登鶴岳後面之峯。擬至于義村宅。仍與定景相逢途中。雜賀次郎忽懷阿闍梨。互諍雌雄之處。定景取太刀。梟阿闍梨〔着素絹衣腹卷。年廿云々。〕首。是金吾將軍〔頼家。〕御息。母賀茂六郎重長女〔爲朝孫女也。〕公胤僧正入室。貞曉僧都受法弟子也。定景持彼首皈畢。即義村持參京兆御亭。亭主出居。被見其首。安東次郎忠家取脂燭。李部被仰云。正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々。抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令著腹卷給云々。仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。仍被止之。又公氏候御鬢之處。自拔御鬢一筋。稱記念賜之。次覽庭梅。詠禁忌和歌給。
 出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
次御出南門之時。靈鳩頻鳴囀。自車下給之刻被突折雄劔云々。
又今夜中可糺彈阿闍梨群黨之旨。自二位家被仰下。信濃國住人中野太郎助能生虜少輔阿闍梨勝圓。具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。

〇やぶちゃんの書き下し文(読み易くするためにシークエンスごとに改行・行空けを施し、「・」で注を挿んだ)

廿七日甲午。霽。夜に入りて、雪、降る。積ること、二尺餘り。今日、將軍家右大臣の拜賀の爲に鶴岳八幡宮に御參。酉の刻、御出。
・「酉の刻」午後六時前後。

宮寺の樓門に入らしめたまふの時、右京兆、俄かに心神に御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に讓りて退去し給ふ。神宮寺に於て、御解脱の後、小町の御亭へ歸らしめ給ふ。
・「宮寺の樓門」とあることから、これは社頭と言っても、現在の源平池を抜けた、流鏑馬馬場の中央あった仁王門での出来事であったことが分かる。
・「右京兆、俄かに心神に御違例の事有り」人口に膾炙しているが、一ヶ月後の同建保七(一二一九)年二月八日の義時の大蔵薬師堂を参詣した条に、
■原文
八日乙巳。右京兆詣大倉藥師堂給。此梵宇。依靈夢之告。被草創之處。去月廿七日戌尅供奉之時。如夢兮白犬見御傍之後。御心神違亂之間。讓御劍於仲章朝臣。相具伊賀四郎許。退出畢。而右京兆者。被役御劔之由。禪師兼以存知之間。守其役人。斬仲章之首。當彼時。此堂戌神不坐于堂中給云云。
■やぶちゃんの書き下し文
八日乙巳。右京兆、大倉藥師堂に詣で給ふ。此の梵宇、靈夢の告に依りて、草創せるるの處、去ぬる月、廿七日戌の尅、供奉の時、夢のごとくにして白犬を御傍らに見るの後、御心神違亂の間、御劍を仲章朝臣に讓り、伊賀四郎許りを相具し、退出し畢ぬ。而して右京兆は、御劔を役せらるるの由、禪師、兼て以て存知の間、其の役の人を守りて、仲章の首を斬る。彼の時に當り、此の堂の戌神、堂中におはしまし給はずと云云。
と如何にも怪しげな後日譚を附すのである。
・「仲章」文書博士源(中原)仲章(なかあきら/なかあき ?~建保七(一二一九)年一月二十七日)。元は後鳥羽院近臣の儒学者であったが、建永元(一二〇六)年辺りから将軍実朝の侍読(教育係)となった。「吾妻鏡」元久元(一二〇四)年一月十二日の条に『十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始。相摸權守爲御侍讀。此「僧」儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。』(十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始め。相摸權守、御侍讀をたり。此の儒、殊なる文章無きに依りて、才名の譽無しと雖も、好んで書籍を集め、詳かに百家九流に通ずと云々。御讀合せの後、砂金五十兩、御劔一腰を中章に賜はる。)と記す。御存知のように、彼は実朝と一緒に公暁によって殺害されるのであるが、現在では、彼は宮廷と幕府の二重スパイであった可能性も疑われており、御剣持を北条義時から譲られたのも、実は偶然ではなかったとする説もある。
・「解脱」行列からの離脱。

夜陰に及び、神拜の事終り、漸く退出せしめたまふの處、當宮別當阿闍梨公曉、石階の際に窺ひ來たり、劔を取りて丞相を侵し奉る。
・「丞相」は大臣の唐名。

其の後、隨兵等、宮中に馳せ駕すと雖も、〔武田五郎信光、先登に進む。〕讎敵しゆうてきもとる所無し。或人の云はく、上宮の砌に於て、別當阿闍梨公曉、父の敵を討つの由、名謁なのると云々。
・「馳せ駕す」騎馬で乗り入れる。神域であるから異例中の異例である。
・「武田五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)平家追討以来、頼朝に付き従った旧臣。

之に就きて、各々件の雪下本坊に襲ひ到る。彼の門弟悪僧等、其の内に籠り、相ひ戰ふの處、長尾新六定景、子息太郎景茂・同次郎胤景等と先登を諍ふと云々。勇士の戰塲に赴くの法、人以て美談と爲す。遂に惡僧、敗北す。阿闍梨、此の所に坐し給はず。軍兵空しく退散す。
・「長尾新六定景」(生没年不詳)石橋山の合戦では大庭景親に従がって平家方についたが、源氏勝利の後、許され、和田合戦で功を立てた。ここで公暁を打ち取った時には既に相当な老齢であったと考えられる。今、私の書斎の正面に見える鎌倉市植木の久成寺境内に墓所がある。

諸人惘然ばうぜんの外無し。爰に阿闍梨、彼の御首を持ち、後見備中阿闍梨の雪の下北谷の宅に向はる。膳をすすむる間、猶ほ手を御首から放たずと云々。

使者彌源太兵衞尉〔阿闍梨の乳母子めのとご。〕を義村に遣はさる。「今將軍のけつ有り。吾、專ら東關の長に當るなり。早く計議を廻らすべし。」の由、示し合はさる。是れ、義村が息男、駒若丸、門弟に列するに依りて、其のよしみを恃まるるの故か。
・「闕」は欠。
・「東關の長」征夷大将軍。
・「駒若丸」(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)。三浦義村四男。三浦家当主となる泰村の同母弟。一説に公暁の若衆道の相手であったともされる。

義村此の事を聞き、先君の恩化を忘れざる間、落涙數行すうかう、更に言語に及ず。少選しばらくありて、「先づ蓬屋ほうをくに光臨有るべし。且つは御迎への兵士を獻ずべし。」の由、之を申す。
・「先君の恩化」亡き将軍実朝に対する恩義の念。
・「蓬屋」自邸の謙遜語。

使者退去の後、義村使者を發し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆左右さう無く、阿闍梨を誅し奉るべしの由、下知し給ふの間、一族等を招き聚め、評定を凝らす。「阿闍梨は、はなはだ武勇に足り、直人ただびとに非ず。たやすく之を謀るべからず。頗る難儀たるの由、各々相ひ議すの處、義村、勇敢のうつはを撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。定景、遂に〔雪の下の合戰の後、義村が宅に向ふ。〕辞退に能はず。
・この下りが、私のとって永い間、疑問なのである。真の黒幕を追求すべき必要性が少しでもあるとならば、義時は生捕りを命ぜねばならない。源家の嫡統である公暁を「誅し奉る」というのは如何にも変である。そのおかしさには誰もが気づくはずであり、そこを突かれれば、義時は後々までも追及されかねないのである。逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め(義時に謀略がばれたことの危険性が最も高いであろう)公暁の蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計ればよい(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置からも、義村は失敗した謀略ならばそれを簡単に総て末梢することが出来たのである)。その「不自然さ」を十全に説明しないで、乳母一連托生同族説から三浦陰謀説(中堅史家にも支持者は多い)を唱える永井路子氏には、私は今以って同調出来ないでいるである。

座を起ち、黑皮をどしよろひを着て、雜賀さいか次郎〔西國の住人、強力の者なり。〕以下の郎從五人を相ひ具し、阿闍梨の在所、備中阿闍梨宅于赴くのきざみ、阿闍梨は、義村の使ひ遲引するの間、鶴岳後面の峯に登り、義村宅に至らんと擬す。
・「擬す」~という目的のためにある行動に移ったことを言う。

仍りて定景と途中に相逢ふ。雜賀次郎、忽ち阿闍梨を懷き、互に雌雄をあらそふの處、定景、太刀を取り、阿闍梨〔素絹の衣に腹卷を着る。年廿と云々。〕の首をけうす。
・それでなくても、実朝殺害直後の公暁の行方は不明で神出鬼没なればこそ、これは三浦義村が予め、使者であった北弥源太兵衛尉に、それとなく援軍の移送経路は峯筋であると指示したものと考えなければ、こんなに都合よく行くはずがないと私は思う。
・「腹卷」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。
・「年廿」公暁の生年は正治二(一二〇〇)年であるから、満十九歳であった。

是れ、金吾將軍〔頼家。〕の御息、母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女也。〕。公胤こういん僧正に入室。貞曉僧都受法の弟子なり。
・「賀茂六郎重長」足助重長(あすけしげなが ?~治承五(一一八一)年?)のこと。伝承では墨俣川の戦いで敗れ、平家方に拘束された後に殺害されたとする。
・「公胤」(久安元(一一四五) 年~建保四(一二一六)年)天台僧。明王院と称す。園城寺長吏(園城寺での首長の呼称)に補され承元(一二〇七)年に僧正。後白河法皇や後鳥羽上皇の信仰を得て園城寺を興隆、源実朝や北条政子も帰依して鎌倉にも招請された。法然の「選択本願念仏集」(建久九(一一九八)年)を論難する「浄土決疑抄」を書くも、後に法然に逢って帰依し、自著は破棄したとされる。
・「貞曉」「定曉」のこと。前項「北斗堂跡」の私の注を参照されたい。

定景、彼の首を持ちかへをはんぬ。即ち義村、京兆の御亭に持參す。亭主、出居いでゐて其の首を見らる。安東次郎忠家、脂燭しそくを取る。李部、仰せられて云はく、「正に未だ阿闍梨のおもてを見奉ず。猶ほ疑貽ぎたい有りと云々。
・「安東次郎忠家」(生没年不詳)は北条義時の被官。先立つ和田合戦後にも、和田義盛らの首実験を担当している。
・「脂燭」は「指燭」、正しくは紙燭である。
・「李部」式部丞の唐名。北条泰時。彼は建保四(一二一六)年に式部丞に遷任されている。当時は満二十一歳。
・「疑貽」正しくは「疑殆」であるが、「吾妻鏡」すべて「疑貽」。疑惑の意。

抑々今日の勝事しようし、兼ねて變異を示す事、一に非ず。 所謂、御出立の期に及び、前大膳大夫入道、參進し申して云はく、「覺阿成人の後、未だ涙の顏面に浮ぶを知らず。而るに今、昵近奉るの處、落涙禁じ難し。是れ、ただなる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日、右大將軍御出の例に任せ、御束帶の下に、腹卷を著けしめ給ふべき。」と云々。仲章朝臣、申して云はく、「大臣大將に昇るの人、未だ其の式有らず。」と云々。仍りて之を止めらる。又、公氏きんうぢ御鬢ごびんに候ずるの處、御鬢より一筋抜き、「記念。」と稱して、之を賜はる。次で、庭の梅をみられて、禁忌の和歌を詠じ給ふ。
 出でていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
次に南門を御出の時、靈鳩、頻に鳴きさへづり、車より下り給ふのきざみ雄劔ゆうけんを突き折らると云々。
・「勝事」快挙の意以外に、驚くべき大事件の意がある。
・「前大膳大夫入道」「覺阿」大江広元。
・「公氏」宮内公氏。秦姓とも。
・この辺り、辛気臭い注よりも、私が二十一歳の時に書いた拙い小説「雪炎」をお読み戴けると――恩幸、これに過ぎたるはない――

又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃國の住人、中野太郎助能、少輔阿闍梨勝圓を生虜いけどり、右京兆の御亭へ具し參る。是れ、彼の受法の師をたるなりと云々。
・「二位家」北条政子。
・「中野太郎助能」(生没年未詳)幕府御家人。「吾妻鏡」では本件(公暁後見人であった勝円阿闍梨を捕縛し、北条義時邸へ連行)以外に、寛喜二(一二三〇)年二月八日の条で承久の乱での功績により、領していた筑前勝木荘の代わりに筑後高津・包行かねゆきの両名田を賜るという記事に出現する。
・「少輔阿闍梨勝圓を生虜」勝円は同月末日の三十日に義時の尋問を受けるが、申告内容から無罪となって、本職を安堵されている。一方、「吾妻鏡」同条には、公暁が最初に逃げ込んだ同じく「後見」の「備中阿闍梨」については雪の下宅地及び所領の没収が命ぜられている。

本文の最後、実朝葬送の部分は、翌日の建保七(一二一九)年一月二十八日の条に基づく。
〇原文
廿八日。今曉加藤判官次郎爲使節上洛。是依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰尅。御臺所令落飾御。莊嚴房律師行勇爲御戒師。又武藏守親廣。左衛門大夫時廣。前駿河守季時。秋田城介景盛。隱岐守行村。大夫尉景廉以下御家人百餘輩不堪薨御之哀傷。遂出家也。戌尅。將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日乙。今曉、加藤判官次郎、使節として上洛す。是れ、將軍家薨逝の由申さるるに依りてなり。行程五箇日と定めらるると云云。 辰の尅、御臺所、落飾らくしよくせしめたまふ。莊嚴房律師行勇、御戒師たり。又、武藏守親廣、左衛門大夫時廣、前駿河守季時、秋田城介景盛、隱岐守行村、大夫尉景廉以下の御家人百餘輩、薨御の哀傷に堪へず、出家を遂ぐなり。戌の尅、將軍家、勝長壽院の傍に葬り奉る。去ぬる夜、御首の在所を知らず、五體不具なり。其の憚り有るべきに依りて、昨日、公氏に給はる所の御鬢ごびんを以て、御頭みぐしに用ゐ、棺に入れ奉ると云云。
実朝の首は一体、何処へ行ってしまったのか? これも謎である。現在、秦野市東田原に「源実朝公御首塚みしるしづか」なるものがあるが、同市観光協会の記載などには、『公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴つねはる』や大津兵部『によってこの秦野の地に持ちこまれ』、『当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられ』とするが、これは到底、信じ難い。……失われた実朝の首の謎……例えば、実朝は実は生きていて、行きたくて行きたくて仕方のなかった宋へ目出度く渡って……僧となった……という義経ジンギスカン説の亜流は如何?]

樓門 石階の上の正面檐間に八幡宮寺と四字の額を掲ぐ。曼珠院良恕親王の書なり。樓門は三間に二間あり。此左右よりして廻廓續けり。樓門の前に石の狛犬左右にあり。又銅燈籠二基有。延慶三年庚戊七月、願主滋野景義、勸進藤原行安と銘す。一基は寛文年中の造獻にて、願主向井將監忠勝の銘あり。


[八幡宮寺額]


[やぶちゃん注:「曼珠院良恕法親王」「珠」は「殊」の誤り。「二王門」に既出。
「延慶三年」西暦一三一〇年。
「滋野景義」相模国の武将と思われるが不詳。「鎌倉市史 社寺編」には「滋野景善」とあり、こちらが正しいものと思われる。
「藤原行安」不詳。戦国武将に同姓同名がいるが、先の滋野と連名であって時代が合わないから、全くの別人。
「向井將監忠勝」(天正一十(一五八二)年~寛永十八(一六四一)年)。忠勝は江戸前期の武将・旗本で左近衛将監。徳川水軍として御船手奉行を勤めた。相模国三浦郡三崎宝蔵山を本拠とした(後に改易。罪状は不詳)。寛永九(一六三二)年には徳川家光の命により幕府の史上最大の「安宅丸」の造船を指揮、伊達政宗が支倉常長をローマに派遣した際の南蛮船「サン・フアン・バウティスタ号」の造船の際には、ウィリアム・アダムスとともに石巻まで出向いている造船の名手であった(以上はウィキの「向井忠勝」に拠る)。]

廻廊 樓門の東西四間宛、東西の脇十六問宛、北の方は十四間。

ウエノ神殿 是は一階高き所を開かれ、宮居を鎭め奉れるゆへうえの宮と稱すべきものなり。高低より起れる唱えにぞ有ける。宮の記に云、祭神三體、中尊を應神天皇、東は神功皇后なり、氣長足妃と稱す。西は妃大神、應神帝の御姉君なりといえり。本殿は竪九間、横間三間、幣殿は四間に三間、舞殿は四間に二間、南向なり。例祭は四月三日也。神輿三ツ渡し奉る。建久二年十一月廿二日、石淸水の御神像を遷し奉り、其時より八幡宮と號し奉れる事は前條にも出せり。【社務職次第】云、於當社始て被轉讀一切經事は建治二年五月廿日、以當社供僧等幷房源法印、覺承僧都以下五拾人、被轉讀之、御布施三百貫文也、幸壽御前、最勝園寺殿御祈禱也と云云。
[やぶちゃん注:この「社務職次第」は最後の「幸壽御前、最勝園寺殿御祈禱也」の部分に問題がある。たまたまグーグル・ブックスの画像で披見出来たそこには、
……是爲幸壽御前〔號最勝園寺殿〕御祈禱也。〔當社一切經轉讀始也。〕
とあって、書き下すと、
……是れは幸壽御前〔最勝園寺殿と號す。〕が御祈禱を爲すなり。〔當社、一切經の轉讀始めなり。〕
この「幸壽御前〔最勝園寺殿と號す。〕」は「建治二年」西暦一二七六年当時、満四歳であった第八代執権北条時宗嫡男幸寿丸、即ち、後の第九代執権北条貞時のことである。この時、幸寿丸は病か何かであったものか?]

武内社 本社の西脇玉垣の内にあり。武内宿彌を祀る。一名は高良明神又は玉垂神とも號す。社は二間に一間なり。

瑞籬 南の方左右三間宛、東西の兩脇八間宛、北の方は十間なり。

座不冷壇所ザサマサズノダンシヨ 座をさらず、天下安全、國土安穩なる御祈禱所なるゆへ斯は俗稱するものにや。是は長日勤行の壇所なり。廻廊東の方ヒサシにあり。本尊は御正體と號し、金銅の丸鏡形の内に彌陀を鑄附しを、厨子に納て常に扉を不開。外に十一面觀音、藥師各厨子入十二院、順番に一晝夜宛相勤、最勝王經、大般若經、仁王經等を讀誦せり。座不冷の事始行は【社務職次第】云、大別當二品親王覺助御代、建武元年甲戌三月。於當社不斷大般若經の事、長壽寺殿〔尊氏〕御願として始て修行座不冷せらる。同二年、總州佐坪一野等兩郷御寄附。又佐々目領家職御寄進と云云。此時より始りしなり。長日勤行の事は右大將家此地草創の時よりして、御願を始給ふこと、【東鑑】治承四年十月六日、長日勤行、法華・仁王・最勝王等、鎭護國家三部妙典、其外大般若經・觀音經・藥師經・壽命經等也、供僧奉・仕之・云云、治承五年十月六日、走湯山僧侶禪奝幷鶴岡供僧、大般若經衆、最勝講衆、免田二町、御下文を賜ふ〔免田は鶴岡西の谷也〕云云、其後龜山帝の御時、靈夢の感得に依て、猶又院宣をも賜る事ありしならん。是は徃古よりの長日勤行の壇所なり。【鶴岡執行職次第】云、右大將家の御時より供僧の一﨟をして執行職に補せられし以來は、祭典の行法幷法式の著到等、皆執行職の掌る事なり。
[やぶちゃん注:ここで五国鎮護のための驚異的な不断の行法が続けられていたのであるが、今は何の面影もない。唯一、ここに祀られていたものを廃仏毀釈時に寿福寺に移した銅造薬師如来坐像とが残るのみである(「新編鎌倉志卷之一」の「座不冷壇所」注の写真参照)。
「親王覺助」御嵯峨天皇皇子。
「總州佐坪一野等兩郷」現在の千葉県長生郡長南町佐坪及び同町にあった一野村。房総半島のほぼ中央に当たる。ここは以前に鶴岡八幡宮の社領であったものを、三浦高継が再寄進したもの。
「佐々目」武蔵国足立郡にあった郷村。笹目・篠目とも書く。現在の埼玉県さいたま市南西部から戸田市西部にかけた地域と考えられている。ここも元は社領であったが、幕府滅亡の動乱の中で美作権守某に横領されていたものを尊氏が奪還して再寄進したもの。この部分は「鎌倉市史 資料第一」の鶴岡八幡宮文書二三(足利尊氏寄進状)及び二四(三浦高継寄進状)に拠る。
「治承四年十月六日、長日勤行、法華・仁王・最勝王等、鎭護國家三部妙典、其外大般若經・觀音經・藥師經・壽命經等也、供僧奉・仕之・云云」は日附の誤り。正しくは治承(一一八〇)年十月十六日。また「供僧奉・仕之・云云」の「・」は、底本の衍字であろう。
〇原文
十六日乙未。爲武衞御願。於鶴岡若宮。被始長日勤行。所謂法華。仁王。最勝王等鎭護國家三部妙典。其外大般若經。觀世音經。藥師經。壽命經等也。供僧奉仕之。以相摸國桑原郷爲御供料所。
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日乙未。武衞の御願として、鶴岡若宮に於て、長日の勤行を始めらる。所謂、法華・仁王にんわう・最勝王等、鎭護國家三部の妙典、其の外、大般若經・觀世音經・藥師經・壽命經等なり。供僧、之を奉仕す。相摸國桑原郷を以つて御供料所と
・「相摸國桑原郷」は、現在の神奈川県小田原市桑原。
「走湯山僧侶禪奝」は貴志正造訳注「全譯吾妻鏡」では「禪睿ぜんえい」とする。
「亀山帝の御時」第九十代亀山天皇の在位は正元(一二五九)年から文永十一(一二七四)年。この記載は直接は「新編鎌倉志卷之一」の「座不冷壇所」の記載『龜山帝の時、御夢想に依て、御祈禱の綸旨院宣を成し下さる。』に拠るものと思われるが、それが何に拠るものであるかは不明である。識者の御教授を乞う。]

小御供所 樓門の西の方なる廻廊にあり。毎月朔日十九日又は五節供に爰にて御供を調ふる所なり。御殿司一人出仕、本殿幷諸末社等に備ふ。
[やぶちゃん注:「殿司」は「殿主」とも書き、「てんす」「でんす」と読む。主に禅宗で仏殿の清掃・荘厳・香華・供物などの庶務を受け持つ役僧を言う。]

頼朝社 本社の西にあり。《白旗明神》二間に三間、瑞籬東西四間、南北六間、或は白旗明神とも號す。社内に右大將家の木像〔束帶〕を安ぜり。左に住吉、右に聖天あり。此神社は賴家卿剏建といふ。毎年正月十三日御供を獻備し、樂を奏し神祭を修す。

竈殿 賴朝社の西の方にあり。五間に三間。此所は大御供所なり。毎年正月三箇日、四月三日、八月十五日御祭禮、五々三の御膳を供し寶殿に奉る。此時も樂を奏す。寶滿菩薩を安ず。
[やぶちゃん注:「五五三の御膳」膳立ての法式の一つ。七五三のうち、七の膳を略して五の膳としたもの。本膳に飯を入れて五種、二の膳に五種、三の膳に三種の料理を出すものを言う。
「寶滿菩薩」は、一般には宝満山に降臨したとされる神武天皇母玉依姫の中世の神仏習合による別称である。]

愛染堂 頼朝社の向ふに有。堂三間四面。本尊は運慶が作。堂内に地藏尊あり。是は後に爰へ安ぜしものなり。或説にいふ、八幡宮を祀れるに、は必ず愛染明王を安ずるを密家の祕旨なることゝいえり。
[やぶちゃん注:この本尊愛染明王像は廃仏毀釈により、前掲の薬師堂の仏像群とともに流浪することとなり、現在は五島美術館の所蔵となっている。詳細や画像は「新編鎌倉志卷之一」の「愛染堂」の私の注を参照。]

稻荷祀 本社より西の方愛染堂よりも又西の山にあり。《丸山》社は二間に一間、圍垣三間四方、此所を丸山と號す。初は本社の地に稻荷の祠有しを、建久二年右大將家本社剏建の砌此所へ移されしともいひ、又は二王門の前に有しともいふ。古き地主の神祠頽破せしを、寛文年中御修補を加へ給ふ時、爰の丸山へ移されてより丸山稻荷と號すと、【鎌倉志】にも見えたり。《松が岡稻荷》按ずるに往古より鎭座の稻荷にて、地主の祠なりといへば、是往古よりの松が岡稻荷にて有ぬらん。然るに爰にて舊號の松が岡稻荷といふ唱へも絶へて疎かなるゆへ、大倉の淨妙寺の鎭守稻荷を彼所にて松が岡稻荷は是なり、古え鎌足公の鎌を藏め給ひし地なりといふ話を附會して唱ふ。又云、此社内にもと異形の像ありしを、祀頭に有間敷ものなりとて取捨られたりと志にも記せり。さも有べき事にぞ。依て爰には其事を略せり。
[やぶちゃん注:「卷之一」の冒頭「鎌倉總説」でもそうだったが、植田は鎌足「鎌倉」起源説に疑義を持っている。ここではそれを「附會」とはっきり退けているのが分かる。
「此社内にもと異形の像ありしを、祀頭に有間敷ものなりとて取捨られたりと志にも記せり。さも有べき事にぞ。依て爰には其事を略せり」とは、妙に感情的な謂いであるが、「新編鎌倉志卷之一」の「稻荷社」にある「酒の宮」のことである。
今の稻荷の社ろ、本は仁王門の前に有て、十一面觀音と、醉臥の人の木像とを安じ、酒の宮と號す。近き頃大工遠江と云者有。甚だ酒を好で此を寄進す寛文年中の御再興の時、其體神道・佛道に曾て無き事也とて、酒の宮醉臥の像を取捨て、觀音ばかりを以て、稻荷の本體として、此丸山に社を立て、舊きに依て松岡の稻荷と號す。
植田はよほどの謹厳実直派ならんか……なれど、私には時々、彼の「略す」というのが、どこか、自分が「新編鎌倉志」から多くの引き写しをしていることへの引け目への演技という気が、しないでもないのである。]

影向石 傳えいふ、正應二年二月四日、大風雨して此石涌出すといふ。供僧圓頓坊が夢に、座不冷の行法聽聞の爲に龍神來り座せし石なりといふ。もとは一石なりしが、今は二石となる。其眞僞はいづれか定かならず。
[やぶちゃん注:「影向石」は「やうがういし(ようごういし)」と読み、神仏が仮の姿で垂迹すること若しくは神仏の来臨を言い、神が降臨する際に御座みくらとするとされる石をこう言う。安政二(一八五五)年四月に鎌倉を訪れた江戸の李院なる女性の書いた「江ノ島紀行」に鶴岡八幡宮を詣でた部分に『石段をあがれば、右に鶴龜石・影向石とて三つあり』とある。
「正應二年」西暦一二八九年。]

鶴龜石 石面を水にて洗ひ見れば、鶴龜の形輝き見ゆるといふ。二石ともに本社の前にあり。古く踏ざるの石といふ。
[やぶちゃん注:現在、この石は石段下の舞殿東側の、赤橋を渡った白幡社に向かう道筋に移されている。]

六角堂 廻廊の外東の方にあり。日本廻國の巡禮が納經堂なり。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」の同箇所でも述べたが、以下、再録する。こうした仏教関連施設は廃仏毀釈令によって完膚なきまでに破壊された。「鎌倉市史 社寺編」の「鶴岡八幡宮」の「八 神仏分離とその後」には、明治三(一八七〇)年五月までに諸堂宇は破壊され、古材木として売り払われ、仏像・経典・仏具も売却・焼棄、古物店に曝され、それらがまた各所を流転する様が述べられている。『鐘楼にあった正和五年鋳造銘の梵鐘は、横浜の古道具商が買取って鎌倉で鋳潰して持って行』き、『附近の町家には破壊された堂舎の古材を使用したものがあるといわれている』とその惨状を伝える。後で鐘銘が掲げられるが、正和五年とは西暦一三一七年、当時から遡っても五五〇年以上(今からなら凡そ七〇〇年)も昔の鎌倉時代の銘鐘であった。全く以て愚かな話である。自虐史観修正なんぞを声高に叫び、海外に流出した美術工芸品を返せと主張する前に、我々が過去にどんなに愚かしいこをして来たか、してしまったかをしっかりと検証する必要がある。過去の自分たちの愚かさを知らずにいることは少なくとも人として恥である。]

大神山 本殿の後なる山をいふ。上古は此山の名あるべからず、すべて鎌倉山の内なる松が岡にて有しならん。然るに建久中、右大將家此所に八幡宮勸請ありしより、八幡大神の奧の院山とも稱すべき地形なれば、竟に大神山と稱しけるより山の名は起れるならん。又は大臣山と書はおそらくは誤なるべし。
[やぶちゃん注:植田氏の力説も空しく、現在は「大臣山」と呼称されている。植田の謂いは至極尤もとも感じられるが、恐らくは、この呼称に鎌足伝承が含まれていることから、植田は殊更に嫌ったのではなかろうか。]

實朝社 本社の西の山上え登る傍にあり。二間に一間の宮なり。別號して柳營明神又は右府の宮とも稱す。賴經將軍造立し給ふといふ。

新宮イマミヤ 十二院の内、我覺院の門前より東の方、折て行上宮あり。三間に二間。《後鳥羽院の御靈を祠る》寛治元年四月十五日、後鳥羽帝の御靈を鶴岡のイヌヰに勸請し奉らる。彼御怨靈を宥め奉らんかために、日來一宇の社壇を建立せらる。社の後は深谷續き、此邊に六本松と稱する大杉あるか。一株にて六本になれるあり。土俗等爰は魔境なりといふ。【神明鏡】に後鳥羽帝崩御の後鎌倉中喧嘩鬪爭度々の中にも五月廿二日大騷動も有ければ、彼御怨念にもやと雪の下に新宮イマミヤと號し奉れり、法皇を祝ひ、順德帝と護持僧長玄法印を御眞體となし、上野國行山莊を神領となせりと云云。長嚴長玄は【東鑑】にいふ東大寺造營の尋師なる重源上人の事なり。文字は異なれども實は一人の事なりと、社僧の傳えも又斯の如しと云云。志に載る記に隨ふ。
[やぶちゃん注:「寛治元年四月十五日」は寛治元(一二四七)年四月二十五日の誤り。「吾妻鏡」より引用する。
〇原文
廿五日戊申。巳一點在暈云云。今日。被奉勸請後鳥羽院御靈於鶴岡乾山麓。是爲奉宥彼怨靈。日來所被建立一宇社壇也。以重尊僧都被補別當職云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿五日戊申。巳の一點、かさ在りと云云。
今日、後鳥羽院の御靈ごりやうを鶴岡の乾の山麓に勸請し奉つらる。是れ、彼の怨靈をなだめ奉つらんが爲に、日來一宇の社壇を建立せらるる所なり。重尊僧都を以て別當職に補せらると云云。
「護持僧長玄法印」については、「鎌倉市史 社寺編」に『長玄或は長厳ともいわれる』とあり、植田の「重源上人」説は誤りである。なお、廃仏毀釈後の現在は彼の代わりに土御門天皇を祀るよし、同書にある。
「上野國行山莊を神領となせり」も片山荘の誤り。旧群馬県多野郡吉井町内(現在は高崎市に編入)。]

神寶
弓一張
靱一口
眞羽矢十五本〔箆は黑悉鏃皆眞鍮鏃長サ三寸二分〕
[やぶちゃん注:以上の三項は底本では一行に書かれ、それぞれの間には『〇』が入るが、植田が大幅な参照をしたと考えてよい「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「神寶」に倣ってすべて改行した。
「靫」は「うつぼ」と読み、「空穂」とも書く。射手の腰や背に装着する矢を納めるための細長い筒。通常は竹製で漆塗で、表面に毛皮や鳥毛・毛氈などを張ったものなどもある。えびらと同じ。
「篦」は「の」と読み、矢の竹で出来た柄の部分。矢柄。この部分に記載には誤りがある。「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「神寶」の「眞羽矢マハノヤ」の項を見て頂ければ分るが、十二本の内の二本は、特殊な鏃であり、その特殊なものの中でも長い方の鏃が『三寸二分』(約九・七センチメートル)とある(これは異様に長い。尚、短い方は三・三センチメートル)。征矢の鏃は四センチ程であったと考えられるので、どちらも長短で特異なのである。その他は、恐らく見慣れた征矢の鏃であったものと思われる。植田は、失礼乍ら、現物を見ていないものと思われる。]

衞府太刀一振〔無銘鞘梨子地〕
兵庫鍍ノ太刀二振〔無銘〕
[やぶちゃん注:以上の二項は底本では一行に書かれ、それぞれの間には『〇』が入るが、前項同様、改行した。「衞府太刀」及び「兵庫鍍」(「ひやうごくさり(ひょうごくさり)と読む)の解説は「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「神寶」の当該箇所を参照のこと。以下、ここで新しい注を附さない限り、この「見よ」注は原則、略すか、「鎌倉志卷之一」注参照に留める。]
大刀四振長三寸二刀也。一刀は二尺。銘行光、綱家、泰國、綱廣なり。

硯箱 一合 梨子地蒔繪なり。籬に菊を金具にし、内に水入筆管あり。皆銀にて作れり。
十二手匣 一合 小道具は備らず。櫛三十有。大小有てもとは靑貝の彫物せし跡あり。櫛横二寸八分、高一寸二分、厚三分。櫛は今も世に行はるゝ政子形といふものと同じ製也。爰に有はいすの木櫛なり。靑貝の脱たる跡は星を打たる如くに見ゆ。
[やぶちゃん注:「政子形」政子型。飾櫛の形態の一種を言う。半月形の挿櫛で、実はこの櫛を模作したものである。即ち、いつの頃からか、この櫛が北条政子の遺品として認識されたものらしく、江戸の寛政年間に流行した。後には「鎌倉型」という、政子型よりも歯の部分が狭く、峰の部分が広いものが生まれている。]
十二單 一襲 十二ひとえと唱ふは俗語也。五重イツヽカサネキヌの事也。香色の裝束なり。裳は見へず、緋の袴と麯塵の袍あり。袍は地紋麒麟鳳凰、三布幅樺色の直衣あり。以上三品は後の世に神功皇后え證人か調進せしものなり。
[やぶちゃん注:「香色」は「こういろ」と読む。黄褐色。「麯塵の袍」は「きくぢんのはう(きくじんのほう)」と読み、「麹塵の袍」。禁色であった麹塵色(灰色がかった黄緑色)の袍(公家の装束の盤領まるえりの上衣)。詳細は「鎌倉志卷之一」注参照。]
院宣 一通 應永廿一年四月十三日とあり。

右大將家文書 二通の内一通の其文に、
[やぶちゃん注:以下の文書は底本では全体が一字下げ。] 奉寄相模圖鎌倉郡内鶴岡新宮若宮御領所事
右爲神威增益、爲所願成就奉寄也、方來更不可有牢籠之如件、壽永二年二月十七日、前右兵衞佐源賴朝〔花押〕。
一通は在當國貮箇所高田郷田島郷とあり。
[やぶちゃん注:植田が「新編鎌倉志」を無批判に引用していることが明らかになる箇所である。即ち、誤りをそのまんま、まるごと踏襲してしまっているのである。「鎌倉志卷之一」注参照。]

華嚴經 一卷 大織冠鎌足公書なり。

菩抱心論 一卷 〔細字〕智證大師書奧書あり。

大般若經 一卷 弘法大師書一部を二卷にし、細字一卷は鳩が峰にありといふ。爰にあるは初分なり。
[やぶちゃん注:「鳩が峰」は石清水八幡宮。石清水八幡宮は男山(鳩ヶ峰)山上に鎮座し、「男山」「鳩峰」とも呼称される。]

功德品一卷 菅家の書。

心經 二卷 紺紙金泥一卷には、貞治〔乙巳〕夷則二十五日源基氏書。一卷は、至德二年二月十六日源氏滿の書。

今朝坐具 各一具 香色也。是も鳩が峰より爰へ移せりといふ。外に應神天皇御袈裟と號し、句箱入にて社僧も見ることなしといふ。

五鈷杵 一箇 是を雲加持五鈷と號す。昔醍醐山に範俊、義範とて二人の名僧有。共に東寺の成尊の門弟なり。永保二年大旱魃す。範俊に詔して神泉苑にて雨を祈らしむ。義範が詔を得ざることを憤りて、醍醐山に登り俊の請ふ雨の法をさまたぐといふ。此事【元亨釋書】範俊が傳に詳なり。

小五鈷 一箇 禪林寺の宗叡僧正の所持なる金剛杵といえり。是も【元亨釋書】に傳あり。
[やぶちゃん注:「禪林寺」は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の聖衆来迎山しょうじゅらいごうさん無量寿院禅林寺。通称、永観堂で知られる。以下、私の大好きな本尊阿弥陀如来立像について、ウィキの「禅林寺」より引用しておく。この本尊は『顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある』。永保二(一〇八二)年、当時五十歳であった中興の祖本寺第七世住持律師永観(ようかん 長元六(一〇三三)年~天永二(一一一一)年)が『日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという』。魅力的な見返り美人の阿彌陀である。]
如意寶珠 一箇 内陣に深祕して人見ることなし。

牛玉 一顆    鹿玉 一顆

五指量愛染明王像 一軀 弘法大師作四寸許の丸木をフタと身に引分、身の方に愛染を作り附たり。臺座ともに一木にて作る。

辨財天 一軀 自然石也。錦の袋に入、内陣にあり。

藥師像 一軀 弘法大師作厨子入、前に十二神をも小像に刻みて扉に四天王をも彫附たり。希代の妙作といふ。

廻御影 祕物にて古より竟に見たる人なく、錦の袋に入、長三尺許、幅八寸四方程の箱に入、鳥居を立注連を引て、十二院一ケ月宛守護し、毎日三座の行を勤め、法華經を讀誦す。是をマハリ御影と名附く。緣起有。奧書に、元亨八年八月廿五日最勝敬任之以慈度自筆本寫之とあり。其略に云、賴朝尊仰之賴朝薨じて後、二位尼の信仰又甚し。其後時賴置鶴岡御宸殿正嘉年中奉遷八幡宮云云。傳えいふ、源賴義朝臣安倍貞任を征伐せんとて奧州下向の時、此御影を守にかけて下向せられ、既に事畢て歸洛の時、鎌倉に來り此御影を八幡宮に納らる。其後義家朝臣下向の時も茲に來り、御影を申請て守に掛、奧州退治して歸京の砌も又爰に來り、宮を修復し御影を納らる。賴朝卿豆州におはする時夢中の告に、二十五菩薩を勸請せよとて異人來て此御影を授く。賴朝卿是を受て後に四海を掌の中に治め、宮を由比濵より小林郷へ移し、廿五院を立て御影を納めらるゝといふ。

二ノ舞ノ面 二枚 拔頭面一枚
陵王ノ面 一枚 磯良ノ面 一枚 各妙作なりといふ。

歌仙 ウエシタとの宮内に掛。上の宮に掲たるは尊純法親王の墨蹟なり。下の宮に懸たるは良恕法親王の墨蹟にて、繪はともに狩野孝信なり。

柳原 若宮神殿の東の方、藥師堂の邊なり。此所は治承の頃までは水田なりしゆへ、柳など成木して有しならん。爰に古木の老大樹一本、片枯して地に倒れ、僅に枝葉を生ぜしあり。土人等いふ、此古木は古えよりの柳なり。《柳原の古歌》水邊に數根生ぜしゆへに、柳原と唱へしに依て古歌ありといふ。其歌は、
 年經たる鶴か岡への柳はら靑みにけりな春のしるしに
土人等此歌あるゆへ爰は柳原なりし證歌なりと口碑に唱ふ。何ものかかく杜撰の説を傳えたり。此歌は【歌枕名寄】に平泰時が歌なりとありて、柳原とはなし。松の葉と本歌に見へたり。鶴が岡をよめるには松をよみ合る古歌はあれども、柳をよみ合せたるためしなし。松の葉の五文字を誤りて、柳原と取ちがえたるものなり。土人が妄誕用ゆる處なし。
[やぶちゃん注:「年經たる鶴か岡への柳はら靑みにけりな春のしるしに」の和歌は、「夫木和歌抄」に「春歌中、柳」、作者「平泰時朝臣」として、
 年へたる鶴のをかべの柳原靑みにけりな春のしるしに
植田が言う「歌枕名寄」鶴岡には、
 としへたるつるがをかべの松の葉のあをみにけりな春のしるしに
更に、「六花集註」春部には、
 年へたる鶴が岡邊の柳原靑みにけりな春のしるしに
と本文と同じものが所載する。植田がとんでもない量の孫引きをしている「新編鎌倉志卷之一」の「柳原」では寧ろ逆に、『久しく此の所の歌也と云ならはしたることなれば、里俗の傳へ語れるを本とすべき歟。』と述べているのにも拘わらず、植田は、「土人が妄誕用ゆる處なし」という如何にも奇異な強い言葉で、飽くまで誤伝としている。ここには多量の無批判な引用を行っていることへの植田の中にある、ある種の罪障感が、逆の形で現れた心的複合(コンプレクス)のように思われてならないのだが如何?]

[やぶちゃん注:以下の「馬場迹」は非常に長い(植田はここで最後にオリジナリティを出したとも言える)ので、文の途中であっても注を挿み、その後ろには行空けを施した。]
馬場迹 右《流鏑馬・競馬興行》大將家文治三年、此所に馬場を構へ、恒例の流鏑馬幷競馬等を修せられけるゆへ棧敷を造り、右大將家より始て將軍家代々怠らず、其式を行ひ給ふ。毎度此棧敷え出御見物し給ふ。【東鑑】に、文治三年八月四日、今年於鶴岡、依可被行放生會、被宛催流鏑馬射手幷的立等之役云云、按ずるに此の節より始めて右の儀を興行せられし事なえり。《直實的立の役を辭す》此の時的立の役熊谷直實を申附られたり。然るに直實其役を辭退す。依て右大將家其辭退せし旨を尋給ひければ、直實答へ申ていふ、誰々が如きものゝ射藝を勤るには、若輩者の可勤役として可然哉の旨御答申ければ、汝役義を不足と存ずるや、射法の奧儀に斯る晴なる大儀の射藝を行ふ時は、的立の役は武功の者の勤る事なりと、其奧祕を演説し給ひければ、屈伏して其命に應ぜりとあり。是より例年の式となれり。
[やぶちゃん注:この記載の最後は「吾妻鏡」の記載事実とは異なる。以下で分かるように、熊谷直実は遂に承諾せず、所領を召し上げられているのである。十五日の放生会での流鏑馬の射手と的立て役は、文治三(一一八七)年八月四日に決められた。その日の条を見よう。
〇原文
四日壬申。今年於鶴岡依可被始行放生會。被宛催流鏑馬射手幷的立等役。其人數。以熊谷二郎直實。可立上手的之由。被仰之處。直實含鬱憤申云。御家人者皆傍輩也。而射手者騎馬。的立役人者歩行也。既似分勝劣。於如此事者。直實難從嚴命者。重仰云。如此所役者。守其身器。被仰付事也。全不分勝劣。就中的立役者非下職。且新日吉社祭御幸之時。召本所衆。被立流鏑馬的畢。思其濫觴訖猶射手之所役也。早可勤仕者。直實遂以不能進奉之間。依其科。可被召分所領之旨。被仰下云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
四日壬申。今年、鶴岡に於て放生會を始行せらるべきに依りて、流鏑馬の射手いて幷びに的立まとだて等の役を充て催さる。其の人數に熊谷二郎直實を以つて、上手かみての的を立てるべしの由、仰せらるるの處、直實、鬱憤を含め、申して云はく、御家人は皆傍輩なり。而るに射手は騎馬なり。的立の役人は歩行かちなり。既に勝劣を分かつに似たり。此の如き事は、直實、嚴命に從ひ難してへれば、重ねて仰せて云はく、此くのごとくの所役は、其の身のうつはを守り、仰せ付けらるる事なり。全く勝劣を分たず。就中なかんづくに、的立の役は下職に非ず。且つは新日吉社の祭りに御幸の時、本所の衆を召し、流鏑馬の的を立てられ畢んぬ。其の濫觴の説を思ふに、猶ほ射手の所役に越ゆるなり。早く勤仕すべしてへれば、直實、遂に以つて奉りを進ずるに能はずざるの間、其のとがに依りて、所領を召し分かたるべしの旨、仰せ下さると云々。
・「新日吉社の祭りに御幸の時」「新日吉社」は「いまひえしや」と読む。現在の京都府京都市東山区にある新日吉神宮(いまひえじんぐう)。永暦元(一一六〇)年に後白河上皇の命によって院の御所法住寺殿鎮守社として創建されたと伝えられる。即ち、「御幸」は「ごかう(ごこう)」と読んでおり(こう音読すると上皇・法皇・女院の外出を、「みゆき」と訓読すると天皇のそれを意味する)、後白河上皇の新日吉社参詣の折りの例を述べているのである。
・「本所の衆」荘園領主などの上位に位置する名目上の権利所有者。平安後期以降に領主が所領を守るために中央の権門勢家に土地を寄進することがあり、その寄進を受けた者をかくいう。所謂、貴族階級と考えてよかろう。]

同月九日鶴岡宮中殊以掃除し、今日造馬場結埒。仍て二品監臨し給ふ。若宮別當法眼被參會常胤・朝政・重忠・義澄以下の御家人群參云云。これは十五日の神事放生會幷流鏑馬等の式を行はれんが爲なり。
[やぶちゃん注:同九日の条。
〇原文
九日丁丑。鶴岡宮中殊以掃除。今日造馬塲結埒。仍二品監臨給。若宮別當法眼被參會。常胤。朝政。重忠。義澄以下御家人群參云々。
〇やぶちゃん書き下し文
九日丁丑。鶴岡宮の中、殊に以つて掃除、今日、馬塲を造り、らちふ。仍りて二品、監臨し給ふ。若宮別當法眼參會せらる。常胤・朝政・重忠・義澄以下の御家人群參すと云々。]

同十五日、鶴岡放生會なり。二品〔賴朝〕御出。參河守範賴、武藏守義信、信濃守遠光、遠江守義定、駿河守廣綱、小山兵衞尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衞門尉知家、足立右馬允遠元等扈從す。流鏑馬射手五騎、各先渡馬場(各々先づ馬場に渡り)。
 一番射手 長江太郎義景
 二番射手 伊澤五郎信光
 三番射手 下河邊庄司行平
 四番射手 小山千法師丸
 五番射手 三浦平六義村
各射訖。皆莫不中的(皆、的に中らざるといふこと莫し)。流鏑馬畢。《妙射手諏訪盛澄》其次に有珍事。諏訪大夫盛澄者流鏑馬の藝は秀郷朝臣の祕訣を慣ひ傳ふに依て、爰に平家に屬し、多年在京し、連に城南寺の流鏑馬以下の射藝に交れり。仍て關東へ參向すること頗延引の間、二品〔賴朝〕御氣色有て日來囚人となれり。然るに斷罪せられば流鏑馬の一流永く凌廢すべきの間、賢盧を思ひ煩はせ給ふこと旬月を涉るの處に、今日俄に召出され、仰に云、流鏑馬を射べき由にて、御厩第一の荒馬を賜ふ砌、御厩の舍人密に盛澄に告ていふ、此御馬は的の前にてかならず右の方え馳るなりといふ、則一の的の前へ出れば果して右の方へよれり。されども盛澄は生得の達者なれば押直して射るに始終無相射畢。□次に小土器コカワラケを五寸の串に挾て三本是を立らる。盛澄また悉射畢ぬ。次に件の三本の串を射よと重て仰出さる。盛澄承て、□に生涯の運命も此時を限りと、心中に取訪大明神を祈念し奉り、還て瑞籬の砌を拜み、靈神に仕え奉るべし者(テヘレば)唯今護擁を垂給えとて、然して後鏃を平に捻り廻して射けるに、五寸の串を皆射切畢ぬ。奉るもの感歎せさるものなし。二品〔賴朝〕御氣色快然とし、忽厚めの仰を蒙るといふ。
 此盛澄は後に名譽の射藝八人の内なりといえり。
[やぶちゃん注:□は空欄。植字ミスと思われる。以下の原典「吾妻鏡」と比較されたい。( )で示した部分は返り点や送り仮名がある部分を推定を交えて書き下したもの。以上は、その文治三(一一八七)年八月十五日の放生会当日の条に基づく。
〇原文
十五日癸未。鶴岡放生會。二品御出。參河守範賴。武藏守義信。信濃守遠光。遠江守義定。駿河守廣綱。小山兵衞尉朝政。千葉介常胤。三浦介義澄。八田右衞門尉知家。足立右馬允遠元等扈從。有流鏑馬。射手五騎。各先渡馬塲。次各射訖。皆莫不中的。其後有珍事。諏方大夫盛澄者。流鏑馬之藝窮。依慣傳秀郷朝臣祕决也。爰平家。多年在京。連々交城南寺流鏑馬以下射藝訖。仍參向關東事。頗延引之間。二品有御氣色。日來爲囚人也。而被断罪者。流鏑馬一流永可陵廢間。賢慮思食煩。渉旬月之處。今日俄被召出之。被仰可射流鏑馬之由。盛澄申領状。召賜御厩第一惡馬。盛澄欲令騎之刻。御厩舎人密々告盛澄云。此御馬於的前必馳于右方也云々。則於一的前。寄于右方。盛澄爲生得逹者。押直兮射之。始終無相違。次以小土器。挿于五寸之串。三被立之。盛澄亦悉射畢。次可射件三ケ串之由。重被仰出。盛澄承之。既雖思切生涯之運。心中奉祈念諏訪大明神。拜還瑞籬之砌。可仕靈神者。只今垂擁護給者。然後。鏃〔於〕平〔仁〕捻廻〔天〕射之。五寸串皆射切之。觀者莫不感。二品御氣色又快然。忽被仰厚免云々。今日流鏑馬。
 一番
 射手    長江太郎義景    的立    野三刑部丞成綱
 二番
 射手    伊澤五郎信光    的立    河勾七郎政賴
 三番
 射手    下河邊庄司行平   的立    勅使河原三郎有直
 四番
 射手    小山千法師丸    的立    淺羽小三郎行光
 五番
 射手    三浦平六義村    的立    横地太郎長重
〇やぶちゃん書き下し文
十五日癸未。鶴岡の放生會なり。二品御出。參河守範賴、武藏守義信、信濃守遠光、遠江守義定、駿河守廣綱、山兵衞尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衞門尉知家、足立右馬允遠元等、扈從す。流鏑馬有り。射手は五騎。各々先づ馬塲に渡り、次に各々射訖んぬ。皆、的に中らずといふこと莫し。其の後、珍事有り。諏方大夫盛澄といふ者、流鏑馬の藝を窮む。秀郷朝臣の秘决を慣ひ傳ふるに依りてなり。爰に平家にし、多年在京し、 連々城南寺つれづれせいなんじの流鏑馬以下の射藝に交はり訖んぬ。仍りて關東へ參向する事、頗る延引するの間、二品、御氣色有りて、日來、囚人めしうどたるなり。而して断罪せらるれば、流鏑馬一流、永く陵廢りようはいすべきの間、賢慮思しし煩ひ、旬月に渉るの處、今日、俄かに之を召出され、流鏑馬を射るべきの由、仰せらる。盛澄、領状を申す。御厩みまや第一の惡馬を召賜はる。盛澄、騎せしめんと欲するの刻、御厩の舎人とねり、密々に盛澄に告げて云はく、此の御馬、的の前に於いて必ず右方に馳せるなりと云々。則ち、一の的前に於いて右の方に寄る。盛澄、生得の逹者たれば、押し直しては之を射るに、始終、相違無し。次で小土器こかはらけを以つて五寸の串にさしはさみ、三つ、之を立てらる。盛澄、亦、悉く射畢んぬ。次いで件の三ケの串を射るべしの由、重ねて仰せ出ださる。盛澄、之を承り、既に生涯の運を思ひ切ると雖も、心中に諏訪大明神を祈念し奉り、瑞籬の砌りに拜還して、靈神に仕ふべしてへれば、只今、擁護おうごを垂れ給へてへり。然る後、鏃を水平に捻り回して之を射るに、五寸の串、皆、之を射切る。觀る者、感ぜずといふこと莫し。二品、御氣色、又、快然として、忽ちに厚免仰せらると云々。今日の流鏑馬、
 一番
 射手    長江太郎義景    的立    野三刑部丞のさのぎやうぶのじよう成綱
 二番
 射手    伊澤五郎信光    的立    河勾かはわ七郎政賴
 三番
 射手    下河邊庄司行平   的立    勅使河原てしがはら三郎有直
 四番
 射手    小山千法師丸おやまのせんはふしまる    的立    淺羽小三郎行光
 五番
 射手    三浦平六義村    的立    横地よこち太郎長重
・「諏訪盛澄」(生没年不詳)本姓、金刺氏。本来は信濃国諏訪下社の大祝(おおほうり:神官。)であった(故にこそクライマックスで諏訪大明神が出て来るのである)。ここに示されたように元は平家の家人であった。この逸話以後、頼朝に仕え、的始めや定例の流鏑馬などの射手を何度も勤めた。
・「城南寺」「じょうなんじ」とも。京都市伏見区にあった寺で永暦元(一一六〇)年以前の創建とされ、白河上皇御所であった鳥羽殿遺跡に造立されたと伝えられるが、現在は廃寺。この寺で行われていた城南寺祭は、競べ馬や競射など、平安末から鎌倉初期にかけては盛大に行われたという。寺の荒廃後は真幡寸まはたき神社(現在の城南宮)の城南宮神幸祭として受け継がれた。
・「陵廢」次第に衰え廃れること。
・「五寸」約一五センチであるから、挾んだ土器の小皿の小ささが分かる。最後には、この十五センチ以下になった(土器射切った以上、下手をすれば地面から十センチ程しか飛び出て居ないはずである)竹串を射切った彼の射芸は、これ、舌を巻くものがある。
・「靈神に仕ふべしてへれば、只今、擁護を垂れ給へ」『私は諏訪大明神神霊に仕えております身なればこそ、全神霊よ、今日只今、この我に御加護を垂れ給え!』。
・「鏃を水平に捻り回して」地面すれすれの細い的であるから、弓矢と立てず、横に捻るように鏃を水平にして射たことをいう。

「名譽の射藝八人」後掲される「吾妻鏡」嘉禎三(一二三七)年七月十九日の条に『八人射手』と出、ネット上でも鎌倉時代の射芸の「天下八名手」という名数が見つかるものの、その具体を記すものは管見した限りでは、ない。但し、ネット上では「弓馬四天王」という名数が「天下八名手」と同所に現われ、それは小笠原長清・武田信光・海野幸氏・望月重隆とするから、この「名譽の射藝八人」はこの四名に諏訪盛澄他三名と考えてよいか。ここまでである。残りの三名が誰であるか、御存知の方は御教授願いたい。なお、この「八人」は八幡神に掛けたものであろう。
なお、ここは最後に底本でも改行している。]

同四年十月廿日、大庭平太景能此間鶴岡馬場邊に小屋の幽亭を搆へ、是宮寺警固の爲なり。今日移徙のことあり。然るに其庭上多く栽樹皆紅葉盛にして如錦、甚催興の由申上る。依て幕府彼亭え入御し給ふ。若宮別當も參會し、御酒宴を催さるるの間、兒童及延年あり。
[やぶちゃん注:文治四(一一八八)年十月二十日の条。
〇原文
廿日壬午。景能此間於鶴岳馬塲邊搆小屋。是爲警固宮寺也。今日有移徙之儀。而其庭上多栽樹。各紅葉盛而如錦。太催興之由。依令申之。二品入御彼所。若宮別當參會。御酒宴之間。兒童及延年云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日壬午。景能、此の間、鶴岳の馬塲邊に於て小屋を搆ふ。是れ、宮寺を警固せんが爲なり。今日、移徙わたましの儀、有り。而るに、其の庭上に多く樹をう。各々紅葉盛りにして錦のごとし。はなはだ興を催すの由、之を申さしむるに依りて、二品、彼の所へ入御す。若宮別當參會し、御酒宴の間、兒童、延年えんねんに及ぶと云々。
・「小屋を搆ふ」これは一応、流鏑馬馬場の流鏑馬に於ける進発地点付近と推測されており、現在の八幡宮国宝館脇にある武道館辺と考えられているようであるが、近年の発掘調査によって、八幡宮社地の東側は現在の馬場の東の鳥居よりも更に東に延びていた可能性が出て来た。更に、本巻の掉尾に『馬場も荒蕪の地と成ければ、東西の鳥居内を以て流鏑馬の場となせり。』とあるのは、まさにその事実(実際には馬場の東側はもっと長かった)を語っているとは言えまいか? そうするとこの小屋ももっと東、現在の社地の埒外にあった可能性も出て来るように思われる。
・「延年」は寺院において大法会の後に僧侶や稚児によって演じられた日本の芸能。単独の芸能ではなく、舞楽・散楽・台詞のやりとりを含んだ風流且つ郷土色の強い歌舞音曲や、猿楽・白拍子・小歌などの貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じり合ったものを指す(以上はウィキの「延年」に拠った)。]
其後嘉禎三年七月十九日、武州〔泰時〕來月鶴岡神事の流鏑馬を、孫なる北條五郎時賴可爲射被との事にて、時賴始て此の役に預り、若輩なれば兼てよ□射藝調練のことあるべきに依て、今日於鶴岡の馬場爲被修其儀泰時は五郎時賴を相具して、馬場の棧敷え出らる。駿河前司義村以下の宿老等悉く參集す。《海野幸氏射道を談ず》于時被招海野左衞門尉幸氏泰時被談子細。是は古兵のうえ、右大將家の御代に射手名譽八人の内なり。故實の堪能にして、人の智處なるゆへなり。仍て武州〔泰時〕申さるゝは、射藝の體を一覽せられ、失禮の事、その餘故實の儀可被加諷諫之旨、武州被示合之。幸氏申ていふ、五郎殿射手の體最神妙也。生得堪能なる由を感じ申ける。武州猶も令問其失の可否給ふ事再三に及びけれはば、幸氏愁申ていふ、狹箭之時弓を一文字に令持給ふ、雖非無其説、この儀は於故右大將家の御前、被凝弓箭之談議之時、一文字に諸人皆一同の儀なり。然に佐藤兵衞尉憲淸入道西行申ていふ、弓は拳より押立て可引之樣に可持也。流鏑馬矢挾之時一文字に持事非禮なりと云云者(テイレば)、倩按此事に殊に殊勝なり。一文字に持ては誠に弓を引て即ち可射の躰には不見、聊か遲參なり。上を少し揚て可持ものと云云。依て下河邊〔行平〕工藤〔影光〕兩庄司、和田〔義盛〕望月〔重隆〕藤澤〔淸親〕等の三金吾、幷諏訪大夫〔盛澄〕愛甲三郎〔季隆〕等頗甘心し、各不及異議衆知し訖ぬ。しかれば是ばかりを可被直歟と云云。義村いふ。此説を聞せられ思ひ出し、正敷耳に觸候ひて面白く覺え候といふ。武州も殊に入興ありて、以來弓持樣は可用此説云云。猶又幸氏弓馬の事を談じける。義村態々使を宿所へ遣し、子息等を召寄て聽せける。流鏑馬幷笠懸以下作物の□實。的草鹿等の才學。大略究淵源。秉燭各退散すと云云。按ずるに、八人の内にて此時迄存命せしは幸氏ばかりにて有しならん。
[やぶちゃん注:□は底本では空白。以下、非常に長いが、これも「吾妻鏡」嘉禎三(一二三七)年七月十九日の条に基づく。
〇原文
十九日甲午。北條五郎時賴。始可被射來月放生會流鏑馬之間。此間初於鶴岳馬塲有其儀。今日。武州爲扶持之。被出流鏑馬屋。駿河前司以下宿老等參集。于時招海野左衛門尉幸氏。被談子細。是舊勞之上。幕下將軍御代。爲八人射手之内歟。故實之堪能被知人之故歟。仍見射藝之失禮。可加諷諫之旨。武州被示之。射手之躰尤神妙。凡爲生得堪能由。幸氏感申之。武州猶令問其失給。縡及再三。幸氏憖申之。挾箭之時。弓〔ヲ〕一文字〔ニ〕令持給事。雖非無其説。於故右大將家御前。被凝弓箭談議之時。一文字〔ニ〕弓〔ヲ〕持〔ツ〕事。諸人一同儀歟。然而佐藤兵衞尉憲淸入道〔西行〕云。弓〔ヲバ〕拳〔ヨリ〕押立〔テ〕可引之樣〔ニ〕可持也。流鏑馬。矢〔ヲ〕挾之時。一文字〔ニ〕持事〔ハ〕非禮也者。倩案。此事殊勝也。一文字〔ニ〕持〔テバ〕。誠〔ニ〕弓〔ヲ〕引〔テ〕。即可射之躰〔ニハ〕不見。聊遲〔キ〕姿也。上〔ヲ〕少〔キ〕揚〔テ〕。水走〔リニ〕可持之由〔ヲ〕被仰下之間。下河邊〔行平〕工藤〔景光〕兩庄司。和田〔義盛〕望月〔重隆〕藤澤〔淸親〕等三金吾。幷諏方大夫〔盛隆〕愛甲三郎〔季隆〕等。頗甘心。各不及異議。承知訖。然者是計〔ヲ〕可被直歟者。義村云。此事令聞此説。思出訖。正觸耳事候〔キ〕。面白候〔ト〕云々。武州亦入興。弓持樣。向後可用此説云々。此後。閣其儀一向被談弓馬事。義村態遣使者於宿所。召寄子息等令聽之。流鏑馬笠懸以下作物故實。的草鹿等才學。大略究淵源。秉燭以後各退散云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十九日甲午。北條五郎時賴、始めて來月の放生會で流鏑馬を射らるべきの間、此の間、初めて鶴岳の馬塲に於いて其の儀有り。今日。武州、之を扶持せんが爲に、流鏑馬の屋に出でらる。駿河前司以下の宿老等、參集す。時に海野左衛門尉幸氏を招き、子細を談ぜらる。是れ、舊勞の上、幕下將軍の御代、八人の射手の内たるか。故實の堪能かんのうを知らる人の故歟か。仍りて射藝の失禮を見て、諷諫ふかんを加ふべきの旨、武州、之を示さる。射手のてい、尤も神妙なり。凡そ生得の堪能たる由、幸氏、之を感じ申す。武州、猶ほ其の失を問はしめ給ふ。こと再三に及ぶ。幸氏、なまじひに之を申す。さしはさむの時、弓を一文字に持たしめ給ふ事、其の説、無きに非ずと雖も、故右大將家の御前に於て、弓箭の談議を凝らさるるの時、一文字に弓を持つ事、諸人一同の儀か。然れども、佐藤兵衛尉憲淸入道〔西行。〕云はく、弓をば拳より押し立て引くべきの樣に持つべきなり。流鏑馬は、矢を挾むの時、一文字に持つ事は禮に非ざるなりてへれば、倩々つらつら案ずるに、此の事、殊勝なり。一文字に持てば、誠に弓を引きて、即ち射るべきのていには見えず、聊か遲き姿なり。上を少しき揚げて、水走りに持つべきの由を仰せ下さるるの間、下河邊〔行平。〕・工藤〔景光。〕兩庄司、和田〔義盛。〕・望月〔重隆。〕・藤澤〔淸親。〕等の三金吾、幷びに諏方大夫〔盛隆。〕・愛甲三郎〔季隆。〕等、頗る甘心し、各々異議に及ばず、承知し訖んぬ。然らば、是れの計りを直さるるべきかてへれば、義村云はく、此の事、此の説を聞かしめ、思い出し訖んぬ。正に耳に觸れる事候ひき。面白く候ふと云々。武州、亦、興に入り、弓の持樣、向後、此の説を用ふべしきと云々。此の後、其の儀をさしおきて、一向に弓馬の事を談ぜらる。義村、態々わざわざ使者を宿所に遣はし、子息等を召寄せ、之を聽かしむ。流鏑馬・笠懸以下の作物つくりものの故實、的草鹿まとくさじし等の才學さいかく、大略、淵源を究め、秉燭へいしよく以後、各々退散すと云々。
・「流鏑馬の屋」本文の前に出た「宮寺警固の爲」に「大庭平太景能」が「鶴岡馬場邊に小屋の幽亭を搆へ」たものをいうか。
・「駿河前司」三浦義村。
・「海野左衛門尉幸氏」海野幸氏(承安二(一一七二)年~?)。信濃国滋野氏嫡流とされる海野氏当主にして鎌倉初期を代表する弓の名手。治承四(一一八〇)年に信濃国佐久郡依田城で挙兵した木曾義仲に、父兄らと共に参陣、寿永二(一一八三)年、義仲が頼朝との和睦のために嫡男清水冠者義高を鎌倉に送った際、同族の望月重隆(彼も「弓馬四天王」の一人)らと共に随行したが、元暦元(一一八四)年には義仲が滅ぼされ、義仲に従っていた父と兄も戦死を遂げた。一方、幸氏は主人義高の鎌倉脱出を試み、同年であった幸氏が義高に変装して義高を逃がす(この辺りは「新編鎌倉志卷之三」の「木曾塚」の注に詳述したので参照されたい)。しかし、それも空しく義高は頼朝の討手に捕えられて殺されるが、頼朝からその忠義が認められ、御家人の一人に加えられた(以上はウィキの「海野幸氏」を参照した)。
・「堪能」深くその道(専門の技芸)に通じ、優れ練達していること、若しくはその人。「たんのう」は慣用読み。
・「舊勞」ずっと以前から仕えて功労のあること。
・「失禮」後の「禮に非ざる」と同義で、本来弓術が定めている礼式からは外れた仕儀、個人の目だった癖の意であろう。
・「諷諫」遠回しの忠告。
・「縡」「事」に同じい。
・「なまじひに」しぶしぶ。
・「一文字」実際に射る直前に、弓を完全に水平に横たえて持っていること、を言うのであろう。
・「水走りに持つ」とは斜めに持つの意か。「一文字」、完全に水平に持つのではなく、少し斜めにして持って、今にも射んとするところの気迫を示し、射技に入る際には、自然に流れるように曲線を描いて(後世の剣術での「水走り」にはそうした意がある)弓を上げてられるようにしておく、の意と私は読んだ。
・「金吾」左衛門尉などの衛門府の官位の唐名。
・「其の儀をさしおきて、一向に弓馬の事を談ぜらる」弓の持ち方の話から、専ら、騎馬に於ける弓術の一般へと話を移したことを言う。
・「作物」的。
・「的草鹿」歩射ぶしゃ(徒歩での射術)の的。名称は、板で鹿の姿を作って革や布を張り、中に綿を入れて吊るしたことに由来する。鎌倉時代に始まり、室町時代には大的おおまと(現在の弓道で見かける直径五尺二寸(約一・五八メートル)の非常に大きな的。遠的競技用であろう。因みに現在の弓道の的は。一尺二寸、三六センチメートル)・円物まるもの(円形の皮革製の的)と合わせて、徒立かちだち三物みつものといわれた。
・「才學」細工や工夫。
・「秉燭」火の点し頃。夕刻。

「八人の内にて此時迄存命せしは幸氏ばかりにて有しならん」八人は先に示した如く、判然としないが、この海野幸氏は本話柄の嘉禎三(一二三七)年の時点で既に満六十五歳であった。ウィキの「海野幸氏」によれば、『幸氏の死期については、確かな記録は無い』が、「吾妻鏡」の建長二(一二五〇)年三月一日の閑院内裏造営雑掌分担目録の中に『幸氏と思われる「海野左衛門入道」の名が登場するのが、記録の最後と』考えられる、とある。貴志正造氏の「全譯 吾妻鏡」でもこの「海野左衛門入道」を幸氏と傍注する。驚くべきことにこれが事実なら、この時、幸氏は実に満七十八歳(しかも現役である!)、鎌倉期の人物としては非常な長命である。]

《神事射藝の衰廢》鶴岡の神事射藝を修すること古へは嚴重なりしかども、鎌倉も是より後は攝家の公達。又は親王家下向有て將軍に任し給ひしゆへ、公卿の風に押移され、自然に武備は衰へ、神事の式も漸々廢し、足利家の世に至りても、終には公方も他邦へ居を移されしかば、神事も廢亡し、かたがた今は流鏑馬の式も社人が其趣を修行し、馬場も荒蕪の地と成ければ、東西の鳥居内を以て流鏑馬の場となせり。
[やぶちゃん注:現在、例大祭翌日の九月十六日に弓馬術礼法小笠原教場宗家小笠原清忠氏一門によって鎌倉の流鏑馬神事は行われている。鎌倉武士の狩装束に身を包んだ射手が、騎馬で馬場を疾走し、配された三つの的を射抜く。因みに、小笠原流宗家の御曹司は私の妻の教え子である。……とここまで書いておいて……実は何と私は未だ、流鏑馬を見たことがないのである……]



鎌倉攬勝考卷之二