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[やぶちゃん注:僕21歳の若書きの実朝の暗殺を素材にした歴史小説。大学のクラス雑誌に発表して、そのまんま忘れていた。永井路子の三浦黒幕説(乳母の家系は育てた子を殺することはないという、一見まことしやかであるが、よく考えるとそんな縛りが歴史に通用するとは、僕には思えないセオリー)に対する大いなる不満から書いたもの。因みに当時のペン・ネームは「藪野史」で「ふびと」と読ませた。]
雪炎 藪野 史 作 ☞PDF縦書版へ
(copyright 2005 Yabtyan)
身につもる罪やいかなる罪ならむ
けふ降雪と共にけななむ
「十中八九、間違いございません。公暁は明日の拝賀の式にて事を成すでございましょう。」
と、その影は言った。それを聞いた男はゆらりと揺れた燈心の向こうで、にやりと笑い、
「もしあわよくばそうなったとして、そなたは一応、公暁の弟子故、捕らえはするが、じき放免に致す。褒美はその後。暫くは我慢せよ。」
影は黙って額ずくが早いか、庭の植え込みに幽かな音を残して、右京兆義時の前から姿を消した。
再び燈心が揺れた。執権屋敷を渡る風には、微かな雪の予感が感じられる。右京兆は縁に出ると、焦点のない視線を裏山の闇に投じた。
……思えば暇のかかった御前立であった。鈍感な公暁に、これほどまでの復讐の炎をかき立たせんがために、何通の投げ文を書き、何人の間者を接触させたことか。……しかし、何と申しても今度の功は奴であろう。巧みに公暁の弟子の内に潜り込ませ、日夜、父君の敵は鎌倉殿と吹き込ませたのには効果があった。……二年前の十月、公暁が宿願によって八幡宮寺で千日の行に入ったと聞いた時から、事はそう遠くはあるまいと思っていたが――
右京兆はぶるっと体を震わせると、部屋に戻った。燈心はそろそろ消えかかっている。
……誰も昨年多くの反対を押し切って建立した、大倉薬師堂が、この日のための大道具だとは思うまい。筋立ても整っている。……私は明日、拝賀の式の行列が社頭へ来た時、眼前を白犬が横切るのを見るのだ。見えるのは私だけでよい。そうして俄かに心神違乱し、御剣持を誰かに譲って場を辞す。後々になって、その丁度同じ時刻に、薬師堂の十二神将戌神の像が消えていたぐらいの風聞を流せば、これはちょっとした霊異譚にもなろう。……しかし、私の代役はちと哀れよ、下手をすれば鎌倉殿と一蓮托生、親の敵と首を刎ねられもしようほどに……まあ、それも北条のためよ、諦めてもらおう、己が首ばかりは、すげ替えはきかぬからな――
と、そこまで考えて右京兆はぞくりとした。部屋の底冷えのせいばかりではない。彼らしくもない不敬の思いが念頭を掠めたのである。無数の人間を手に懸けてきた彼も、仏を手技に用いるのは初めてのように思えた。今日までは、彼は一種の演出として薬師を拝んできたのだった。帰依の心など、微塵もなかった。だが、此処に至って、捉え処のない不安が右京兆の心に湧き始めていた。
ふと見ると部屋は殆んど闇にのまれ、じいじいと音を立てながら、小さな燈が今にも命を絶ちかけていた。
右京兆は僅かに口元を歪めて苦笑すると、これからは少しまともな御参りをすることとしようか、とぼんやり考えた途端――ふっと燈心が消えた。
その夜、覚阿入道広元は御奥からの内々の御沙汰で、尼御台政子のもとへ参ずる途次にあった。
入道してからというもの、広元は大倉御所東方の草深い地に居を構えていたが僧形とは言え、長年幕府に仕え、数少ない公家出として右大将家御時には公文所別当に、専横な二代将軍に釘をさした合議制の一員にも迎えられ、今もって幕府長老としての立場は揺ぎない。しかし、東国のむくつけき武者共の中にあって、こうして命脈を保っていられるのも、偏に北条一族あればこそでもあった。
眠い眼をこすりこすり夜道を急ぐ入道は、馬の鼻から白く長い息の出るのをぼんやり見つつ、ふと、以前にもこんなことがあったなと思った。ちょうど今日のような肌寒い季節、同じ人のもとへ馬を秘かに馬を走らせたことが――
明日の拝賀の祝儀を控えられてであろう、鎌倉殿の御寝所の燈は消えている。侍女に導かれて部屋に入ると、既に尼御台は燈心の向こうに、顔を半ば影にして座していた。
……老いたものよ、互いに。――
入道は、燈心を隔てた顔に一瞬、女の若き日と己が思いを感じた。
「夜分、ご苦労なことでした。」
……なんの、声は未だ艶やかなままよと入道は心中、戯れた。
尼御台は人払いをすると、入道のもとに寄り添い、親しく手を取って、小さな嘆息をした。入道は、危うく手を引きかけたが、もはやそれほどの毅然とした男であったわけではない。彼は、未だこの女がかつてのように私を慕い、何か又荷厄介な事を自分頼もうとしているなということを、経験から感じ取ったのである。そうして、今、これから起ころうとしている事とは、政情に敏感であったが故に生き抜いてきた入道に、言うまでもなく、分かっていた。
「私は、これ以上、子を失いとうない……」
ぽつりと言ったその言葉は、分かっていながらも、入道の内心に焼き鏝を押し付けたように感ぜられた。
「と……仰せられると……」
入道は無駄と知りつつ知らばくれて、あらぬ方の闇に眼をやっていた。煮え切らず、うやむやしたことしか言えぬ、それがこの男なのである。逆に言えば、それが血を血で洗うこの世に生きるための処世術でもあったかも知れぬ。だが、尼御台は、入道の心を見透かすように、
「そなたも薄々勘付いておるでしょう、弟が陰で色々手を廻しておることを。」
万事休す。かと言って、老いたる我に何が出来よう。彼が黙っていると、突然、
「私、明日の拝賀の御式、不吉な気持ちがしてなりませぬ。何か厭な予感がするのです。弟を問い質してみても、知らぬ存ぜぬの一点張り、そのくせ、眼には邪悪な輝きが見えるのです。……入道殿、聞いておられるのか?」
「それは政子殿のご不安がそう見せたのではありませぬか?」
強い確信に満ちた語気に、幾分躊躇しながらも、入道はわざと落ち着いた素振りで問い返した。だが、彼は、それが最後の悪あがきにしか過ぎず、もうとうに彼女の流れにのまれてしまっている自分を感じずにはいられなかった。
「いいえ、血を分けた弟、私には、はっきりと分かります。」
入道は、ぴしりと頬を打たれたように感じた。
……右大将家が落馬して亡くなられた時、政子は四十と三、俺は五十と二つであった。政務を助ける傍ら、いつしか人には憚られる関係に落ちていった。あの頃は、こうなって自然だったのだと、よく自分に言い聞かせたものだったが――
「何とか、何とかそなたの力で……」
涙ながらの尼御台の姿に、何が出来るという目算があった訳でもなかったが。一つの宿命と諦めた。そうして、そっと女の肩に手を置いた。
……この女からは、のがれられぬ――
己の死と、この女の死が、漠然と彼の心の底に二層の滓となって沈殿するような気がした。
夜更けて、入道は御所を退出した。
その時、垣間見た殿の御寝所の方で、小さな燈が点っているのに、彼はおやっと思った。
彼を追い払うように、一陣の寒風が彼の面を襲った。
「今朝、侍所別当式部代夫泰時様より、次の御沙汰あり。本日の目出度き右大臣拝賀の御式にあって、警護に当たる者共心して聞くべし。」
拝賀供奉随兵奉行たる大夫判官行村の太々とした声が、各所警備の長達の頭を掠めた。昨晩からの冷え込みは、ますます度を増して、居並ぶ者の中には、しきりに体を震わせているのも多い。
「別当殿は、父君右京兆殿の御助言を鑑みられ、八幡宮寺境内に配すこととせし随兵分は、全て路次随兵として編入致すようにとの御沙汰なり。」
行村は、こほんと、小さな咳をすると、簡単に理由を述べた。即ち、鎌倉殿におかせられては、常日頃より京の風を貴ばれており、儀式の神聖さに気を御遣いになられる故、極力、無骨なる武者姿は御目に留まらぬようにせねばならぬ、との右京兆からのお言葉であったというのである。
武者達の顔に一様の表情があった。かはたれ時薄暗い辺りで、皆の心は再び暁の暗闇に立ち戻ったかのように。
――ちっ、また京の真似事か
――鎌倉殿には、武を尊ばれる御心が僅かでもおありになるのか。これでは、警護のお勤めも身が入らぬわ
新規警護分担が申し渡され、武士達はのろのろと庭を出て行った。
侍所とて、無風流もなかろうとの鎌倉殿のお言葉で植えられた梅が、がらんとした庭の隅で、妙な孤高を保っていた。
鋭く尖った波の頭の群れが沖から追ってくる。冷たい風が砂を舞い上げて、容赦なく松林へと撒き散らし、二人の漁師が焚く火をも消さんとしている。
火の両側で向かい合っている漁師は、今し方まで、由比ヶ浜の小坪寄りの和賀江で投網を打ったりしていたが、海の荒れとこの冷えに耐え切れず、いいだこ一匹取れぬ手ぶらのまま、濡れた体を乾かしていた。べたべたした潮気に加え、刺すような砂塵、寒気と二人はかなり腐っていた。
一人が傍らに集めた細枝の流木を何本か取ると、ほきっ、ほきっ、と折り、火の中へ投げ込んだ。ぱちぱちといって、ぽっと炎が立った。
「今日は、たそがれ時にゃあ、雪でも降るかの。」
その男は、煙に眼をしばたたかせながら、ぼそっと言った。
「おう。そんな塩梅だ。」
ともう一人が答えた。そうして、手を眼の上にかざして海を見つめる。岸から程遠からぬ所にある、黒い残骸が眼に留まる。
それは二年前、鎌倉殿が宋人陳和卿に命じて造らせた唐船のなれの果てであった。鎌倉殿は周囲の諫めも聞き入れられず、聞くところでは何とその船で渡唐するつもりでさえあられたようだが、遠浅のこの海で、あのような大船を進水しようなど、そもそも馬鹿げている。巷では、執権の右京兆殿が秘かに浮かばぬように細工したとかいうまことしやかな噂も流れてはいるが、漁師の眼は、和卿のいかさまをとうに見抜いていた。
「時に、夕刻から鎌倉殿の何たらの儀式があるそうじゃのう。」
と、男は廃船を眺めながら言った。するともう一人は、ぺっとつばを吐くと、
「何の。わしらの知ったことかい。佐殿が鎌倉へお入りになってこの方、のどかじゃった此処も、なんとまあ、血腥くなったことじゃ。」
暫くの間、二人は黙っていた。どちらが言うでもなく、蛸挿しやら網やらを束ねると、大儀そうに立ち上がって焚き火に砂をかけた。
ぶすっ、ぶすっ、と真っ白な煙が噴出し、松林をすっと巡って、灰色の虚空へと昇っていった。一つの魂の昇天にも似て。
焦りを覚えながら、入道は御所の廊下を歩いていた。心持ち眼を赤くしているのは、昨夜、一睡もしていないからであろう。もう未の刻をかなり回っていた。
「御免仕る。」
入道の声に二人の男が振り向いた。鎌倉殿、そして文章博士源仲章である。
入道は型通りの祝辞奉納をすると、暫く無言の儘、凝っと鎌倉殿を見つめていた。彼の眼は、いつになく鋭さを持って居、仲章などは、ただならぬ入道の雰囲気に落ち着かない思いがしたが、鎌倉殿はと言えば、いつもの少し翳りのある御顔で、落ち着いて、
「どうした。入道。」
と冴え渡った声で問いかけた。
――さあて、一世一代の大舞台よ――
と入道は心の中で呟いた。
彼は、ゆっくりと右手で両眼を押さえ、はっと我に返ったように懐紙を取り出すと、如何にも大仰に涙を拭う仕草をした。そうして、おもむろに、
「我覚阿、成人して後、未だ嘗て涙顔面に浮かびしことは、ござりませなんだ。しかるに、今、こうして昵近致します処、落涙禁じられませぬ。」
つっと鼻を啜る。
「これは只事ではござりませぬ。定めて仔細のある事と……」
入道は、ちらと仲章を睨んで、
「思うのでござりまする。」
仲章の驚きをよそに、鎌倉殿は前と変わらぬ調子で、
「して、何と。」
入道は万を辞して、ゆっくりと語りだす。
「はい。老いたる者の杞憂と思し召し、何とぞ御束帯の下に腹巻をお付け下されよ。これは決して先例の無き事ではござりませぬ。先の東大寺供養の砌、右大将御出座の際には、確かに腹巻をお付け遊ばされましたぞ。」
入道にはかなりの目算があった。右大将家の先例を引けば、父君を殊の外に敬い給う鎌倉殿は、これを必ずやお受けになるに違いない。略式とは言え、腹巻は鎧として機能が充分にあり、いざという時にも……
「それはなりませぬでしょう。」
入道は、その鋭い眼光を、その忌まわしい言葉の主に向けた。
「大臣大将に昇る人に、未だそのような式はありませぬ。」
甲高い女々しい声で、無表情な言葉を一息に言ってのけてしまったは、仲章であった。
この男、鎌倉殿の読書のお相手なるほどの読書好きで、周囲では百家九流に通ずとの大した評判である。いつぞやの年の読書初めでは、若年の鎌倉殿が痛く感心されて、彼に破格に、砂金五十両、御剣一腰を与えたこともあった。
鎌倉殿は、別に悩む様子もなく、
「腹巻は、せんでよかろう。」
と言うと、入道に笑いかけた。だがそこに何とも言えない一種諦観の閃きがあったことを、入道も、況や、仲章も気付くことはなかった。
――黴臭き書痴が! 斯様な時にひけらかしをって!――
入道は、俯いて歯軋りをした。
すっ、すっと櫛の梳く音を耳元に聞きながら、彼は
――後、二つ――
と思った。
「公氏。」
と彼は自らの髪を調している背後の男に名を呼んだ。
「はい。」
公氏は反射的に梳く手を止める。
すると、なすがままにされていた彼は、手を頭の上にやると、くっと己が髪を一筋引き抜いて、
「記念に。」
と言った。彼には公氏の狼狽が手に取るように分かったが、頭上に掲げられた彼の右手は微動だにせず、一本の黒髪を絡ませたまま、静止している。
「取るがよい。」
「は、はい。」
暫くすると、後ろ髪が梳かれ始めたが、彼には頭部を伝わって、小刻みの震えがはっきりと感じられた。
――これで、一つ――
と彼は、心の中で数えた。
彼にも分かっていた。自分は邪魔者であること。そうして、誰が、何処で、何をしようとしているかということ。――そうして、恐らく今日で命運尽きることも。
彼が時に見せた、淋しい笑い――それはまさしく、不気味な悲壮の表象であった。 あの唐船、華やかに飾られた、己が開放の悲願を込めた普陀落渡海の如き唐船が、惨めに座礁し、おぞましく朽ちてゆくのを見つつ洩らした、そうしてまた、入道懸命の糞芝居の言葉に対して。彼が向けた微笑は、すべてがそれであった。
彼は命運を受け入れる代わりに、その道程に幾つもの超然とした自身を刻印してきたのだった。
それも、後一つ。
「調え終わりまして御座います。」
公氏の言葉に軽く頷くと、彼は縁先に出た。酉の刻限は迫っている。
――早く――
と彼は思う。
御所の庭は、谷戸の日向に位置していた。鎌倉の谷戸でも日当たりのよい斜面では、春の息吹きが思いの外はや感じられ、時として、今の時期に鶯の鳴くこともしばしばである。丁度、縁の正面には彼の好きな梅の木があり、もう既に、小さな蕾が、赤く枝に散らばっている。どんよりとした寒空に、却ってそれはよく合う。彼は庭へ顔を向けたまま、
「公氏、紙筆を。」
と命じる。
――さあ、終わろう――
彼は、小さく独白した。昨夜のうちに読んだ歌を、もう一度確かめるために眼を閉じた。
公氏が筆と巻紙を差し上げた。いつもの笑みを浮かべると、さらりと一気に書き上げる。
出ていなば主なき宿と成りぬとも
軒端の梅よ春をわするな
――幕を引いた――
と彼は思った。当り前の歌人として、当り前の辞世を認め、当り前に死ぬること、それが最後に彼が演ずべき姿であった。
赤い蕾に、空から白い蕾が、ぽつり、またぽつりと乗り始めた……
うっすらと降りた雪の上に、誰かが摘まんでいたものを、諦めて淋しそうに放すかのように、また雪が降る積む。
横大路に差し掛かった右大臣拝賀の行列は、あたかも雪中に悶える大蛇の如く、続いていた。
行列が八幡宮寺楼門に入りかけた時、ちょっとした不祥事が起こった。前駈の列の先頭に加わっていた右京兆が、額に手をやると、ゆらっと倒れそうになった。前駈笠持の、あっという声に、その前列の殿上人のしんがりを歩いていた男が、しゃがみかけた右京兆の体を支えた。
「右京兆殿、如何なされた。」
「おおっ……。」
右京兆は、男を見上げる。
「おお、仲章殿。」
この出来事はその周囲の者達を除いて、余り知られなかった。更に、俄かに不快となった右京兆義時が、名誉ある右大臣御剣持の任を、文章博士源仲章に託して、退出してしまったこととなると、他人は言うに及ばず、息子で警備責任者たる侍所別当式部代夫泰時にさえも知らされずに、目出度い席での無作法としてこっそりと処理された。
そうしてもう一人――どこかの前栽の背後に潜む暗殺者も、それを知らない。
大雪の気配である。
鶴ヶ岡の夜は、粗い粒子の中に埋もれている。凡そ一尺近くも積もった上に、なお雪は降り止むことを知らない。階の上の本殿からの、幽かなざわめきも、その白さに吸い込まれ、その代わりに、雪明りはその張りつめた空間を、幻の如く、照らし出す。
拝賀の式は、後暫くで終わる。
そうして芝居染みた大掛かりな悲劇の幕もまた。
階下に開かれた道も、はや一面に白い。
その白さ故に、炎の如き真赤な血の予感を漂わせて――無言に雪は、降る……
心の心をよめる
神といひ仏といふも世中の
人のこゝろのほかのものかは
(1977年10月3日稿 一部2005年改 一部2006年改)