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花屋の窓   片山廣子

[やぶちゃん注:昭和25(1950)年9月発行の雑誌『女人短歌』に掲載され、昭和28(1953)年6月に暮しの手帖社刊の片山廣子「燈火節」に所収された。底本は2004年月曜社刊の片山廣子/松村みね子「燈火節」を用いたが、底本は新字であり、親本は正字であったと判断されることと私のポリシーから、恣意的にその殆んどを正字に換えた。

最後に。本作は是非、芥川龍之介の『Gaity座の「サロメ」』とペアで読んで頂きたいのである。【2008年1月20日】

2007年月曜社刊の正字版の片山廣子「新編 燈火節」を入手したため、再校訂を行った(結果はタイプ・ミスによる「ゲエテ一座」(×)→「ゲエテー座」の1箇所)。但し、ルビについては編集者が適宜処理したものであり、一部は不要、一部は私が肯んずることが出来ないという理由から、採用しなかった。【2010年12月26日】]

 

花屋の窓

 

 暮れかかる山手の坂にあかり射して花屋の窓の黄菊しらぎく

 この歌は、昭和十一年ごろ横濱の山手の坂で詠んだのであるが、そのときの花屋の花の色や路にさした電氣の白い光も、すこしも顯れてゐない。何度か詠みなほしてみても駄目なので、そのまま投げてしまつた。しかし歌はともかく、秋のたそがれの坂の景色を私はその後も時々おもひ出してゐた。

 まだ靜かな世の中で、大森山王にゐた娘たち夫婦が私を横濱に遊びに誘つてくれた。遊びにといつても週間の日の午後四時ごろ出かけたのだから、ちよつとした夕食をするのが目的で、その前に彼の大好きな場所であつたフランス領事館の前のあき地に行つて散歩した。その時分のタクシイは一圓五十錢ぐらゐの料金で、大森八景坂からそのフランス領事館の坂の上まで私たちをはこんでくれた。

 夕日がまだ暖かい丘の草はらを歩き廻つて崖ぎはに出ると、海はもう沈んだ光になつて、わづかばかりの鷗が高くひくく飛んでゐた。

 その草はらで暫く休んでから、領事館の横を通つて急な坂道を下り始めた。片側は崖で、片側に一二軒の小家があつたが戸ざして火影もなく、みじか日がすつかり暮れて坂は暗くなつてゐた。坂を下りきる邊にあかりが白く路にさしてゐる家があつた。花屋で、中は一ぱいの西洋花が滿ちみちて、大きなガラスの窓には白と黄の大輪の菊が咲きほこつてゐるのだつた。鉢植のが黄菊で、きり花が白菊だつたか、その反對であつたか今思ひ出せないけれど、その窓がまぶしいほど明るい世界を暗い路に見せてゐた。山手の外人の家に花を入れる店らしく、その邊にほかの店は一つもないやうだつた。店内にも路にもそのときわれわれのほかに一人の人間も見えず靜かな夜みちを、そこから左にそれて南京町の方へ歩いて、聘珍(へいちん)で夕食をすました。

 その後も横濱へは何度か買物や遊びに行つたけれど、この花屋の道にはそれきり出たことがなく、ただ家に歸つて來てから、あの花屋の店は今日も花で一ぱいかしらなぞと考へたりした。焦土となつた横濱がぐんぐん復興して來たと聞いて、私はまた昔のやうに花屋の窓の電氣にうき出す菊の花を思ひゑがいた。

 先日、「うめ うま うぐひす」といふ芥川龍之介隨筆集を讀んでゐた時、ゲエテー座のサロメを見物に行くところで、夕がた何處かの坂の中途で作者が、闇の中に明るい花屋のガラス窓を見るくだりがあつた。

  「僕等四人の一高の生徒は日暮れがたの汽車に乘り、七時何分かに横濱へ着いた。
  それから何町をどう歩いたかはやはり判然と覺えてゐない。唯何處かの坂へかか
  ると、屋並みも見えない闇の中に明るい硝子窓がたつた一つあり、その又窓の中
  に菊の花が澤山咲いてゐたのを覺えてゐる。それは或は西洋人相手の花屋か何か
  の店だつたであらう。が、ちよつと覗きこんだ所では誰も窓の中にゐる樣子は見
  えない。しかも菊の花の群がつた上には煙草の煙の輸になつたのが一つ、ちやん
  と空中に漂つてゐる。僕はこの窓の前を通る時に妙に嬉しい心もちがした。」

 これは、山手の坂のあの同じ花屋であることは確かである。妙に嬉しい心もちがしたと作者がいふところで私も妙にうれしくなつて、菊の花の群がつた上に漂つてゐる煙草の煙の輪を、私も見たやうな錯覺さへもち始めた。「夢のふるさと」といふやうな言葉でいふのはまはりくどいが、靜かなおちつきの世界を芥川さんも私もおのおの違つた時間に覗いて見たのであつたらう。