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片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集
234首補注版》

 

[やぶちゃん注:以下の片山廣子(松村みね子)の短歌は、筑摩書房版現代短歌全集第三巻(1981年刊)に所収する第一歌集『翡翠』(かわせみ)及び原本を入手した第二歌集『野に住みて』(第二書房昭和29(1954)年刊)、昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」からの引用以外は、月曜社2004年刊の「燈火節」本文及び同書の鶴岡真弓氏解説文中に現れるもの、芥川龍之介が書評「翡翠 片山廣子氏著」で掲げたものに加えて、ネット上で披見し得る片山廣子関連の論文や他の作家の随筆、更にはgoogleの「片山広子 歌」又は「片山廣子」検索で挙がってくる250余のページを縦覧して見出した彼女の短歌を、大まかな年代順(推定)になるように並べたものである(即ち、概ね私の選歌ではなく、私の蒐集である点に注意されたい)。但し、一部は以上のような寄せ集めのパッチワークで、確認した歌集『翡翠』・改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」・『野に住みて』以外の短歌は、校正すべき底本がなく、私が披見した記述の引用者が引用を誤っている場合が考えられること(残念ながら『翡翠』『野に住みて』両歌集及び改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」総てについて複数箇所存在した)、また『翡翠』及び『野に住みて』、改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」以外の同一の詞書や歌群の中での前後は、必ずしも正しくないこと(引用者が順列通り引用している保証はない)を御承知置き戴きたい。以上の次第であるので、本来は正字表記としたいところであるが、引用元の多くが新字表記であるため、正字であることが判明しているものも新字体で表記した。なお、月曜社2004年刊の「燈火節」本文から引用と言ったが、初期文章の一篇「長き一日」(明治33(1900)年11月『こゝろの華』所収)に限っては、文中に数首の彼女の短歌及び断片が含まれていると思しいのだが、本テクストは複数の歌人の吟行を綴った擬古文で、私自身、未だ十全に読みこなしていないため、後日追加することとして、今回は採録を見合わせてあることをお断りしておく。

 彼女の『翡翠』及び『野に住みて』の二歌集及び改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」については、やっと全首を披見・入手、漸次、テクスト化を行っている(下記リンク参照)。実は私は短歌が大の苦手なのだが(私は中学時代に感じた、短歌は魂の飛躍のない短詩形文学である、という勝手な思い込みから未だに抜け切れないのである。寺山だろうが塚本だろうが、私には退屈至極の産物である)、それが、この廣子だけは別物なのである。それは無論、彼女が芥川龍之介の「越し人」であるからに他ならない。――そうして、私も芥川同様、彼女に恋しているから、である。

 最後に。一部を除き、採録した評論・論文やネット上の採取引用元ページを明らかにしていないのは、あくまでここでは観賞を本(もと)とし、五月蠅くなるのを嫌うからであり(それでなくても私の年代推定・校合注記でさえ五月蠅いと思われるであろう)、彼女の著作権が切れている以上、この行為は何らネット上の不法にして理不尽な行為とは言えないと考える。勿論、何十首もの一作家の短歌をページ製作者が自選しているものをコピー・ペーストした場合は、選者の選歌の意図を示す上で、その引用元(選者のページ)を明記するのが道義であると思うが(私の「琴線抄」ではそれを守って戴きたいということである)、不当に忘れられた彼女の場合、どのページも多くても引用歌は数首(二首から多くても二十数首程度)に留まり、この私のページような200を越える有意な数を掲載する選集サイトやページは現在のところ見当たらない(少なくとも私の検索では発見出来なかった)。従って、私の場合、私の注記部分を除くならば、このページの(あくまでこのページの、である)彼女の歌だけ全てをコピー・ペーストされて引用注記なしに個人的に用いられても私は一向に構わない(彼女の短歌を知って頂くためにも私はかえって望ましいこととさえ思っている)。但し、先に申し上げたように、私が蒐集した引用元(引用者)の誤植の可能性を排除出来ないこと、一部の短歌の順列には誤りがある可能性をやはり排除できないことを理解された上でのことではある(その後の原本類の入手・校閲により、その可能性は著しく低くなってはいる)。故に、あなた自身が、アカデミックな輩からの批判を回避されたいのであれば、私のこのやぶちゃんの非学術的勝手気儘蒐集ページからの転載であることを断わられた方がよろしいかとは思われる。なお、短歌の後に附した( )内の私の作歌年代注記等は、該当短歌を所収する作品やページの記載の内容等を参考に、私が個人的に調べた得た中で同定又は推定したものであって、単なる誰かの見解のコピー・ペーストなどではないことを断わっておく。なお、今後も未掲載首を発見し次第、増補してゆく。 【2009年3月23日(三歌集の披見・入手に伴い、2009年5月6日に更新によってかなりブラッシュ・アップしたため、以上の記載の一部を変更した)】

2009年3月25日】2首追加。

【2009年3月31日】『翡翠』に18首追加。
【2009年4月1日】14首追加、誤植訂正及び注記の一部とレイアウト並びに新知見により年代順を変更した。
【2009年4月2日】
9首追加、首数のカウント間違いや推定誤植を精査・訂正、新知見・年齢等の注記も追加、昨日の作業で行間が狭くなり、ブラウザ上、見にくいことが分かったため、再度レイアウトを変更した。
【2009年4月7日】
歌集『野に住みて』の原本を入手、誤植を補正、更に47首を追加して切りのいい220首とし、年代同定もやり直した。
【2009年4月11日】大きな異同を示す初期形「くれやすき山手の坂を下りくれば花屋のあかりに菊の花しろく」を含めて更に計10首を追加、やはり切りのいい230首とした。更に、筑摩書房版現代短歌全集第三巻(1981年刊)に所収する第一歌集『翡翠』を披見、『翡翠』部分の校訂と順列の整序を行った。他にも新知見により年代順列を変更、出典不明の歌も2首まで減らすことが出来た。この仕儀によって、全体の順列の杜撰さも大幅に解消されたものと自負している。
【2009年4月26日】歌集『野に住みて』の「軽井沢にありて」の「日中」歌群を打ち込んだ際に、最後の一首を落としていたことに気づき、挿入。その他、一部、誤植も発見し、訂正、下記の私のHPリンクを追加。
【2009年5月5・6日】改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」を管見。この新知見により3首を追加、注記の一部を追加・削除、またしても一部に誤植も発見・訂正。下記リンクも追加。年代推定補正により歌群の一部も移動した。
【2009年5月8日】一部配置変更・表記補正、注記を増補。作歌年代不明の歌は今回を以ってなくなった。
【2009年5月9日】脱字及び表記補正・注記増補。
【2009年5月15日】注記増補。
【2009年5月16日】注記増補。
【2009年11月22日】注記増補。

なお、私のHPには他に以下のものも用意してある(以下の4種は総て正字正仮名遣)。]

片山廣子歌集 翡翠 全 へ

片山廣子歌集「翡翠」抄――やぶちゃん琴線抄59首――へ

片山廣子集 《昭和6(1931)年9月改造社刊行『現代短歌全集』第十九巻版》全へ

片山廣子歌集「野に住みて」 全 附やぶちゃん注


片山廣子歌集「野に住みて」抄――やぶちゃん琴線抄79首――へ

 

 

片山廣子 短歌抄

 

 

春たてとなほふる雪のさむければ花まちかほにうくひすのなく

 

(明治31(1898)年2月発行の佐佐木信綱主宰短歌雑誌『こゝろの華』(後に『心の花』に改称)創刊号に信綱選で掲載。筆名は吉田ひろ子若しくは吉田廣子かと推定される。広子20歳。)

 

 

あらいそによせてはかへる波の音を

あはれいつまできかんとすらむ

 

(明治31(1898)年7月発行の『こゝろの華』(後に『心の花』に改称)所収の「漂流人」(筆名・吉田ひろ子)より。二行分かち書き。)

 

 

もとめこし鉢のつゝじを見てぞ思ふ花おほかりしふるさとのには

 

風あらく星の光すごしかゝる夜にいかなるつみをたれ犯すらむ

 

(明治34(1901)年刊『心の花』同人による歌文集『竹柏園集』第一編より。23歳。これ以降は筆名は片山ひろ子か片山廣子と推定される。)

 

 

  潜めるもの

我と君といづれか先に死ぬべきと思ふも寂し秋風吹けば

 

(『心の花』より。)

 

 

  夕空

一葉なくあたへつくしてなにの木ぞ木枯の野に安らかに立つ

 

(『心の花』より。)

 

 

相模の海よせかへる波にあはすべき

高きしらべはまたも聞こえじ

 

(明治42(1909)年6月下旬の作。31歳。同年8月号『心の花』所収の「照子の君をいたみまゐらせて」より。同年春(本文冒頭に『井関照子の君、花ちる春の頃遠く逝かせ給ひしより、はや二月にもあまりぬ。』とある。歌人井関照子への挽歌。歌後に歌と同じ高さで(本文より二字下げ)、

六月すゑ雨ふる日しるす    ひろ子

とある(字空き分ママ)。二行分かち書き。)

 

 

  いつはりごと

夫と子にさゝげはてぬるわが身にもなほのこるかな少女の心

 

ゆかりなきわが身かなしも罪の野に草つむ人の跡を追ふべく

 

ひろらなる君が心のうれしさよ夫ともいはじ友とたのまむ

 

つまづきし一人の人を惜しむかな大き都のほろびつる如

 

胸せばき詩人のむれ一あなにうめてひしめく声をきかずや

 

(明治43(1910)年一月号『心の花』より。32歳。)

 

 

うつくしきものゝすべてをあつめたる其(その)うつそみは隠ろひしはや

 

さわやかにいと花やかに笑(え)みましゝ、今年の春ぞ別れなりける

 

書きながすはかなき歌も清(きよ)らなる御目(おんめ)に入るをほこりとぞせし

 

千人はゆふべに死にて生るとも二たび来ます君ならめやは

 

豊島(としま)のや千本(ちもと)のいてふ落葉する夕日の森に御供(みとも)するかな

 

なき世(よ)まで君が心のかゝりけむその幼児をいだきてぞ泣く

 

掘りかへす新土(あらつち)の香(か)も痛ましう夕日にそむき只泣かれける

 

(以上7首は明治43(1910)年の佐々木弘綱・信綱門の歌人大塚楠緒子逝去(おおつかくすおこ/なおこ 明治8(1875)年~明治43(1910)年11月9日 享年36歳)の際の歎詠。広子32歳。長谷川時雨「大塚楠緒子」より。「さわやかに」の上の句の後の読点はママ。)

 

 

  青

 

女とはふと物いへばすぐほれるすぐに喜ぶああ罪がない

 

(「青」の前書に含まれる歌とあるが、公刊された三つの歌集にはこのような前書のものはない。但し、引用元ではこの歌と併せて『翡翠』所収の「あはれとも憐れむことの罪ならば我に罪あり神にも恥ぢず」(前掲『翡翠』部分に掲載済)の歌も同じ「青」の前書を持つものとして紹介されており、歌柄からも推測出来る通り、本首の創作年代は『翡翠』以前であることが判明した。『心の花』に掲載されたものであろう。とりあえずここに置く。)

 

 

何となく眺むる春の生垣を鳥とび立ちぬ野に飛びにけり ※

 

(大正5(1916)年刊第一歌集『翡翠』(かはせみ)の三百首の巻頭を飾る。)

 

我が生命かへりみせらるもづもづと這ふ虫見ればかへりみせらる

 

一言に黒きひとみもをどりつる春かへり来よ我が老いぬ間に

 

生死(いきしに)にかかはりあらぬことながらこの十日ほど心にかかる

 

野を歩む我もめづらしうららなる天つ青ぞら我が上にあり

 

灌木の枯れたる枝もうすあかう青木に交り霜とけにけり ※

 

あくびして我にかへればやはらかきまつげの陰にあふるる涙

 

しろき犬せなの巻毛のつややかに陽に眠るかな芝も青みぬ

 

(初句の「しろき犬」の「し」が草書体の(「志」-「心」+(同位置に「灬」から最右翼の点を消去したような三つの点)という特殊な字体となっているが、ひらがな「し」に改めた。)

 

さらさらと枯葉の落つる初冬の日の暖かさ黒髪をほす

 

あ我は秋のみそらの流れ雲たださばかりにかろくありたや

 

やぶ陰のしげみが中の白き花わがみほとけにたてまつらばや

 

日の光る木の間にやすむ小雀ら木の葉うごけば尾をふりてゐぬ ※

 

ひととせのある一時のわが迷ひくり返し見るまばたきのひま

 

ことわりも教も知らず恐れなくおもひのままに生きて死なばや

 

人の世の掟は人ぞつくりたる君を思はむ我がさまたげに

 

むかしわれ神の教を学びつる麻布のすみの灰色の家

 

子猫ならば遠野のやみに捨ててまし我が胸に来て啼くこゑ

 

女てふ迷ひの国を三十路ほどあゆみあゆみて踏みしほそみち

 

さまざまのわが思ひをばになひ来し此うつし身も捨てがたきかな

 

ゆるしがたき罪はありとも善人の千萬人にかへじとぞ思ふ

 

虫の音も風に乱るる夜の園を三たびめぐりて胸をさまりぬ

 

ゆめもなく寝ざめ寂しきあかつきを魔よしのび来て我に物いへ

 

(下の句の冒頭「魔よしのび来て」の「し」が草書体の(「志」-「心」+(同位置に「灬」から最右翼の点を消去したような三つの点)という特殊な字体となっているが、ひらがな「し」に改めた。)

 

あさましな過ぎ来し道を見かへれば只わが影をわれ抱き来ぬ

 

わが胸にまこと潜める物やあるありとも見えで立つかげろふよ

 

かしこしと常にあふぎし其人のあやまち聞けばふとよろこばる

 

月の夜や何とはなしに眺むればわがたましひの羽の音する

 

わが夢の海の白帆とふと浮ぶまぼろしびとのおも恋しけれ

 

ある夕べ迷ひ来りし此思ひやど貸ししより追へども去らず

 

我がよはひ我ならはしも皆すててよみがへる日のあれとのぞみぬ

 

いづくにか別れむ路にいたるまで共に行かんと思ひ定めき

 

沈丁花さきつづきたる石だたみ静にふみて戸の前に立つ ※

 

たゆたはずのぞみ抱きて若き日をのびよと思ふわが幼児よ ※

 

ほそぼそと朝の雨ふる銀のはり清くつめたくわがはだをさす

 

飴うりを子等は追ひ行く秋の日の流るる道にのこる笛の音

 

我をしも親と呼ぶひと二人あり斯くおもふ時こころをさまる ※

 

海くらしみそらも暗し二日月今下りて行くひかりのほそさ

 

一人ゐてあまりつよくも物おもふ空に声して答へは来ずや

 

曼珠沙華肩にかつぎて白狐たち黄なる夕日にさざめきをどる ※

 

湯のたぎる火鉢に倚りて只一人風吹く空の青きに見入る

 

わがむねにみなぎる力このままに注ぎいるべきうつろのあらば

 

鳥の巣の中よりあふぐ心地しぬ若葉のひまのいと青きそら

 

花草の信濃たか原あさ行けば人の世遠くみそらのちかき

 

霧ふかしうぐひすむせぶ雑木原とつくに人に路とひにけり

 

山羊の子は流のふちの桑の葉もはみ飽きたるか我により来る

 

極楽寺椿のまろ葉青光る日に温まり浪のおとをきく ※

 

はげしうも降り来る雨の音の中に我と心のいさかふ夜なり

 

身を分けし小さき人よなれも亦心強かれ清かれといのる

 

ほのくらく淡きおもひをのせて見む夜の片隅に浮く梅の花

 

つむじ風くるくる巻きて此心西の海にも吹き落とさなむ

 

わがのぞみ稲妻はしる遠空に見つと覚えて又やみになる

 

あはれとも憐れむことの罪ならば我に罪あり神にも恥ぢず

 

秋の風あかつき吹けば我が魂も白き羽負ひ遠き世に行く

 

あまつ世の魂の足音(あおと)も聞ゆらし夢の国往くあかつきの時

 

けぶり立つカフエー茶碗を見つめつついとしのびやかに眼はわらひけり

 

(下の句の冒頭「しのびやかに」の「し」が草書体の(「志」-「心」+(同位置に「灬」から最右翼の点を消去したような三つの点)という特殊な字体となっているが、ひらがな「し」に改めた。)

 

ためらふなもだすなすべて汝が心この一時に投げて砕けよ

 

銀のはさみに砂糖はさみて入れつれば泡うづまきてはや沈みたり

 

何を見るきのふも今日もをととひも此窓に椅りうつらうつらと

 

我が世にもつくづくあきぬ海賊の船など来たれ胸さわがしに

 

あきはててうとみはつれど人の世の何にも代へん我と思はず

 

其ために生命も魂も捧ぐべきものか人かのあれと祈りし

 

何を待つ今何を待つ山際のほのあかるみに笛遠く鳴る

 

よろこびかのぞみか我にふと来る翡翠の羽のかろきはばたき

 

いのらばや弱りはてぬる心もて今日のおもひに堪へん力を

 

(大正5(1916)年刊第一歌集『翡翠』(かはせみ)より。38歳。首末に「※」を打った8首は芥川龍之介が書評「翡翠 片山廣子氏著」で挙げたものである(「極楽寺」の一首は一部引用を誤った形で草稿にあり。該当のリンク先の末尾にある私の草稿の電子テクストを参照のこと)。なお、芥川は一部の首末に句点を打っているが、これは当時の芥川の表記上の癖で、原典にはない。なお、最後に私が引用した「いのらばや」の一首は歌集『翡翠』の掉尾を飾るものである。)

 

 

あまりにもよりどころなきはかなさに枕になづみ泣かされぬるかな

 

花ぐもる此くもり日をみはかべの花たえまなく散りてあるらむ

 

ありし日によからぬ妻の我なりしそれさへけふは忘れはてつる

 

(大正9(1920)年8月号『三田文学』所載の「かなしみの後に」(筆名は松村みね子)より。42歳。本文の記載から、同年3月14日の夫片山貞次郎(日銀計算局長・文書局長、後、理事)逝去後の春、4~5月頃の作と推定される。花ぐもるの一首は昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」の「生死」という歌群に所収するが、そこでの表記は、

花ぐもるこの曇り日をみ墓べの花たえまなく散りてあるらむ

とある。)

 

 

かへり来てあまり寂しきわが家の

   床のかけものかけかへて見る

 

死にしひと羨ましくもなりにけり

   あまり静けきこの月日かな

 

ある時はひとの声などきかまほし

   墓にはあらずわがすめる家

 

(大正9(1920)年3月14日夫片山貞次郎逝去後、数箇月後の作か。42歳。大正12(1923)年1月号『文化生活』所載の「迷信の遊戯」(筆名は松村みね子)より。本文は『四五年前のこと』で始まり、この首群の直前には『先日も古い手帳の中に書いてあつた其頃の歌を見つけ出して自分の歌ながらあまり愚痴つぽいので驚いたのであつた。自分の恥を臆面なしに書きつけて見る。』としていることから、年次を推定しようとしたが、発表時点から4~5年前では大正6(1917)年前後から大正8(1929)年頃まで遡ってしまう。歌柄からはどう見ても、夫片山貞次郎逝去後としか思えないので、ここに置く。二行分かち書き。

 

 

  一年を経て

生きてあればのぞみもありとおほせつるその言葉さへむなしとおもふ

 

イタリヤの古城に似たるさびしさの中に住むかなわがわかき子ら

 

我さきに死なばさびしくおはさむとわかき日のわれは言ひけるものを

 

(昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」より。同歌集の配置では、昭和になってからの位置にあるのだが、これは歌柄から見て、夫片山貞次郎逝去後の翌年大正10(1921)年の春としか思われないので、ここに配す。

 

 

  軽井沢にありて(大正十四年――昭和二十年)

 

(以下に現れる「軽井沢にありて」の総体は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した「軽井沢にありて(大正十四年――昭和二十年)」の全篇である。)

 

  軽井沢にありて

   日中

    信濃追分にて

はれやかに沓掛の町の屋根をみるこの川ほとり人なく明るし

 

しみじみとわれは見るなり朝の日の光さだまらぬ浮洲の夏ぐさ

 

風あらく大空のにごり澄みにけり山山に白き巻雲をのこし

 

板屋根のふるび静かなる町なかにただ一羽飛ぶつばめを見にけり

 

さびしさの大なる現はれの浅間山さやかなりけふの青空のなかに

 

影もなく白き路かな信濃なる追分のみちのわかれめに来つ

 

われら三人影もおとさぬ日中(につちう)に立つて清水のながれを見てをる

 

しづかにもまろ葉のみどり葉映るなり「これは山蕗」と同じことを言ふ

 

土橋を渡る土橋はゆらぐ草土手をおり来てみればのびろし畑は

 

明るすぎる野はらの空気まなつ日の荒さをもちて迫りくるなり

 

日傘させどまはりに日あり足もとの細ながれを見つつ人の来るを待つ

 

日の照りの一めんにおもし路のうへの馬糞にうごく青き蝶のむれ

 

[やぶちゃん注:公開はこれに先立つ(大正14(1925)年)が、芥川龍之介の旋頭歌「越びと」の、

うつけたるこころをもちて街(まち)ながめをり。
日ざかりの馬糞(ばふん)にひかる蝶のしづけさ。

は、その心に於いて本歌との相聞歌であると言って異を唱える人は最早あるまい。]

 

四五本の樹のかげにある腰掛場ことしも来たり腰かけてみる

 

しろじろとうら葉の光る樹樹ありて山すその風に吹かれたるかな

 

われわれも牧場のけものらと同じやうに静かになりて風に吹かれつつ

 

友だちら別れむとして草なかのひるがほの花みつけたるかな

 

をとこたち煙草のけむりを吹きにけりいつの代とわかぬ山里のまひるま

 

(以上は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した。「軽井沢にありて」歌群は歌集中、表記の通り、大正14(1925)年から昭和21(1946)年の長期間からの自選歌で、『野に住みて』中、最も古い部類に属す。以上は歌柄から私には生前の芥川龍之介の影が濃厚に感じられるため、便宜上、ここに暫く置く。これらの初出は昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」に、表記のように「日中」という詞書を附して掲載されたものである(但し、漢字平仮名表記の異同が数多く見られる)。後日、大正14(1925)年の夏を軽井沢で過した堀辰雄が義父上條松吉に宛てた書簡類があり、それを後年、堀辰雄自身が整理して「父への手紙」として整理した際のメモが遺されていることを知ったが、そこにはこれらの歌群を指すと思われる『○片山廣子「日中」』という柱の下、私の想像通り、『夏の末、片山夫人令嬢、芥川さんと一緒にドライブした折の作』という記載がある。これは現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、同年8月下旬23日~27日頃の出来事である。広子47歳、芥川龍之介33歳。)

 

 

さびしさに圧されて人は眼をあはすもろこしの葉のまひるのひかり

 

おのおのは言ふことなくて眺めたり村のなかよりひるの鐘鳴る

 

(上記の二首は、昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」の「日中」歌群に掲載されたものであるが、昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「日中」では廣子が削除したものである。)

 

 

あけがたの雨ふる庭を見てゐたり遠くに人の死ぬともしらず

 

(昭和2(1927)年8月8日消印山川柳子宛書簡より(手紙本文は前日8月7日に書かれたものと推定される)。49歳。歌の後に「七月二十四日朝のこと」と記す。勿論、これは芥川龍之介の自死への挽歌である。)

 

 

  軽井沢にありて

   はじめて六里ヶ原にあそぶ

わがさきに夕だちすぎけむ熔岩のくづれたる路のいちめんの露

 

(昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」では、本歌群は冒頭を飾り、その名称は「はじめて六里が原にあそぶ」で、「軽井沢にて」はない。なお、「片山広子集」では、例えば本歌の終句が「いちめんのつゆ」となるなど以下、漢字平仮名表記の異同が散見されるが、表現上の異同と見られるもの以外は注記を省略した。)

 

わが上をひとむらの雲流れゆく村雨をはりいま青きそら

 

のぼりこし山のたひらにとんぼ飛ぶ谿にも山にも黄ろき日のひかり

 

小瀬渓にこの松山はつづくといふ松の葉光りどこまでも松の山

 

山あひの空のあかるき日だまりにわれらの煙草のけむり尾をひく

 

(昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」には、ここに

あかるくて草とそらあり草のうへに時のわからぬ日のひかりつよく

という一首が入る。)

 

赤砂の浅間のやまの山ひだに光るすぢあり陽にふるへつつ

 

尾のひかる白きけもののかたちして雲一つとほる浅間のおもてに

 

雨遠くすぎ日の透きとほる草丘は一めんにほそき芒の穂ばかり

 

草も日もひとつ寂しさのこの野はらに生きたる人もまじらむとする

 

青くさの傾斜のむかふ大ぞらに光る山山は荒浪のごとく

 

生きものはわれわれのみと思ひゐたる野原の遠くに牛群れて立てり

 

とほくて顔もみえざる野うしども野のところどころに時どき動く

 

(昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」には、ここに

ならびゐて何ともいはずかぎりなき物たりなさにしづみゆく

という一首が入る。
この一首を歴史的仮名遣もめちゃくちゃな上、おまけに誤植も加えて引用するある論文には、芥川龍之介の死後の思いを詠んだものという記載があったが、本歌群の作歌状況(後述)から見て、「ならびいて」という語は、むしろ死後に芥川との過去のある出逢いの場面を回想して詠んだものとするべきものではなかろうかと私は判断する。)

 

八月の空気の中に一ところわが心のまはり暗きかげあり

 

わがむすめそばなる母を忘れはて野原のなかにさびしげなるかな

 

雲を見るわが子の瞳くろぐろとこの野のなかに静かなるかな

 

野のひろさ吾をかこめり人の世の人なることのいまは悲しも

 

野の遠くに雲の影うごき一ぽんの樹の立つところも曇りたるかな

 

(以上は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した。「六里ヶ原」は浅間山の北東山麓一帯を指す地名。浅間山を見上げ、山頂からの鬼押し出しの溶岩流跡がはっきりと見え、四方の眺望が素晴らしい。浅間山方向は天明噴火の影響から、植生が乏しく溶岩がむき出しであるが、下方にはカラマツ林が広がる。「軽井沢にありて」歌群内での順列から見ても(前掲「日中」歌群の直後)、歌柄から見ても、私には芥川龍之介の死後の孤独感が反映されているように感じられる。)

 

 

  軽井沢にありて

    碓氷

     見晴台にのぼりて

一ぽんの樹もなき山のたひらなりねぼけたる鴉うへを鳴きゆく

 

山も山も霞の中なるをながめたりどこを眺めても遠きとほき山

 

しめり風いちめんの熊笹に音を立つこの山も今かすみの中ならむ

 

(昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」には、ここに

仰むきにくまざさの中に寝たくおもふ笹の葉はさわぎすぐそこに空がある

すももの花みちにも峡にも降りつつあり峡をみおろして墓二つ立てる

という二首が入る。)

遠みねのほのかなるいろの山ざくら散りつつやある山つちましろに

 

(以上は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した。これが芥川龍之介自死の前か後ろかは容易には識別出来ないが、「軽井沢にありて」歌群内での順列から見ても(前掲「はじめて六里ヶ原にあそぶ」歌群の直後)、また歌柄に現れたある種の時空間の隔絶感や孤独感には芥川の死後を感じさせるように思われるので、便宜上、ここに暫く置く。底本では「見晴台にのぼりて」は有意にポイント落ち。なお、昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」の「碓氷見晴台にのぼりて」(その前の「軽井沢にて」はなし)と比べると漢字平仮名表記の異同が見られる。)

 

 

  軽井沢にありて

   しろき蛾

      つるや旅館、もみぢの部屋にて

白鷺の幅のまへなるしろ躑躅ほのかなるかな朝の目ざめに

 

亡き友のやどりし部屋に一夜寝て目さむれば聞こゆ小鳥のこゑごゑ

 

あさ暗きねどこに聞けばこの部屋をとりまく樹樹に雨降りてをり

 

午前九時庭樹あかるし茶をいれてわが飲む音をきけばをかしく

 

湯上がりのわが見る鏡ふかぶかと青ぐらき部屋の中に澄みたり

 

せと火ばち湯はたぎるなりわが側にしろき蛾の来たり畳にとまる

 

(以上は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した。「軽井沢にありて」歌群内での順列から見ても(前掲「碓氷」歌群の直後)、また 歌柄の孤独感、更に「亡き友」が明確に芥川龍之介を指すこと、「白き蛾」が芥川の魂を暗示させることなどから、便宜上、ここに暫く置くが、私は実際にはこれが「六里ヶ 原」「碓氷」よりも前の時空間で作られたと考えることも可能と思っている。いや、その方が詩想的にはより鮮明になるようにさえ思われるのである。底本では「つるや旅館 、もみぢの部屋にて」は有意にポイント落ち。)

 

 

ひとりゐの月日は長しそのなかにわがほがらかに聞きなれし声

 

(昭和6(1917)年4月発行の短歌雑誌『覇王樹』(橋田東聲追悼号)の「ロウラと南天」(筆名は松村みね子)より。53歳。同誌の主宰であった歌人橋田東聲(はしだとうせい 明治191886)年~昭和 5(1930)年12月2日 腸チフスのため逝去)への挽歌。)

 

 

  閑居

静脈のをぐろく見ゆるほそき手をひとりながむる日ぐれなりけり

 

(昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」より。)

 

 

  大森のうた

蜘蛛かろく風にふかれて落ちて来ぬわがまなさきに長くいとひき

 

(昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」より。)

 

 

くりおつるみねのほそみちゆきかへりにがくうれしもひとりなること

 

引用元は不明であるが、全文平仮名書きの活字になった短歌は管見し得る限りに於いて廣子のものでは他に例がなく、間違いなく昭和6(1931)年9月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山広子集」の巻頭、筆者の近影の裏に掲げられた短冊からの引き写しであると思われる。原文は私の当該電子テクストの画像をご覧になれば判る通り、「にかくうれしも」で濁点はない。

 

 

くれやすき山手の坂を下りくれば花屋のあかりに菊の花しろく

 

(昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』に、「ふるき家(昭和十八年――十九年)」〔底本では「十九年」ではなく「九年」とあるが脱字と判断し補った〕の「ふるき家」の中に現れる。次の歌の初期形と判断されるが、大きく句形が異なるため、別に掲げた。)

 

 

暮れかかる山手の坂にあかり射して花屋の窓の黄菊しらぎく

 

(昭和11(1936)年頃の秋、横浜山手の坂にての嘱目吟。「燈火節」(昭和28(1953)年6月暮らしの手帖社刊)の「花屋の窓」より。)

 

 

  軽井沢にありて

   雨

    昭和十三年六月、軽井沢愛宕の奥に堀辰雄氏を訪ふ

風まじり雨降る山に杉皮の家ぬれてゐたり君はいますや

 

栗鼠なりしや雨ひかり降る前庭をはしり過ぎたる小さきものは

 

雨つゆの降りかかる木の間くぐり来て君が家の庭に栗鼠のはしる見たり

 

そらおほふ木の葉に雨のあたるおと樅の木肌を流れおちる水

 

むすめらしくほそき姿のわかづまは黒き毛いとの上衣を着たり

 

フランスの新聞をこまく裂きて堀辰雄暖炉の火をもす

 

大き炉にまる薪の火が燃えおこり全山の樹樹あめの音を立つ

 

(以上は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した。昭和13(1938)年6月、軽井沢にて。廣子60歳。堀辰雄は、この年の4月に加藤多恵子と結婚している。その夫妻の仮住居であった軽井沢愛宕山水源池近くの新居への訪問吟。因みに、結婚に先立つ2月、辰雄は喀血している。底本では「昭和十三年六月、軽井沢愛宕の奥に堀辰雄氏を訪ふ」は有意にポイント落ち。「フランスの」の「こまく」は底本のママであるが、底本の「こまかく」の脱字である可能性が高いか。)

 

 

窓のそとに山蜂うなるまひるま二人がたべし胡瓜のサンドイツチ

 

草の名をよく知る友と路ゆきぬ武蔵野のはての青き砧まち

 

犬つれて青き砧の路を行くまぼろしの人はその日のままに

 

(昭和15(1940)年7月発行の『心の花』所収の「軽井沢と砧と」より。歌友であった富岡ふゆ(富岡冬野)への挽歌。富岡冬野(明治37(1904)年~昭和15(1940)年4月25日)は本名青木ふゆの(富岡は母方の姓)、別名松崎流子、富岡鉄斎の孫である。本文によれば、後の二首は前年の昭和14(1939)年に、映画会社勤務であった富岡の夫が上海に赴任することとなり、その離別の挨拶に富岡の住む世田谷区砧を訪れた際の追憶を、最初の一首はそれよりも数年前、軽井沢の廣子の別荘を富岡が訪れた際の回想をもとにしたものである。この内、「草の名を」の一首は昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「ふるき家(昭和十八年――十九年)」〔底本では「十九年」ではなく「九年」とあるが脱字と判断し補った。以下は注しない〕に、

  砧

   昭和十四年五月、富岡冬野氏を砧に訪ふ

草の名をよく知る友と路ゆけり武蔵野のはしの青き砧まち

とある〔「昭和十四年五月、富岡冬野氏を砧に訪ふ」は底本では有意にポイント落ち〕。ここでは助動詞や「はて」の語の選びにレクイエムへの心遣いが感じられて心打たれる。)

 

 

東北(とうほく)に子の住む家を見にくれば白き仔猫が鈴(すず)振りゐたり

 

(昭和16(1941)年10月の作。「燈火節」(昭和28(1953)年6月暮らしの手帖社刊)の「東北の家」より。作品本文によれば仙台での嘱目吟。これは昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「東北にて(昭和十六年――十八年)」の「東北にて」歌群の冒頭、

東北に子の住む家を見にくれば白き仔猫が鈴ふりゐたり

のルビなしの「ふりゐたり」の表記で、歌集の正真正銘の巻頭を飾っている歌でもある。

 

 

大野はら千歳の駅にわが待てば林檎をのせて青森の汽車

 

(昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「東北にて(昭和十六年――十八年)」の「東北にて」歌群に所収。「千歳の駅」は山形県の仙山線羽前千歳(うぜんちとせ)駅か。)

 

  秋夜

   塩釜の町をあるきて

りんご売り梨売る夜店は電気(あかり)明るしうしろに泊るからつぽの船

 

(昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「東北にて(昭和十六年――十八年)」の「秋夜」歌群に所収。底本では「塩釜の町をあるきて」は有意にポイント落ち。

 

 

たまきはる生命たのしみみちのくの鳴子(なるご)の山のもみぢ見むとす

 

をはり悲しく田道(たぢ)将軍が眠りいます蛇田よけふは秋の日のなか

 

(昭和17(1942)年の作。64歳。「燈火節」(昭和28(1953)年6月暮らしの手帖社刊)の「東北の家」より。作品本文によれば、前者は仙台にて小旅行の旅立ちの一首、後者は石巻への旅の途次、仙石線蛇田(へびた)での車中吟。「たまきはる」の一首は昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「東北にて(昭和十六年――十八年)」の「東北にて」歌群に「もみぢ」が「紅葉」の表記で所収、「をはり哀しく」の一首の方も、同じ「東北にて(昭和十六年――十八年)」の「石の巻」歌群に相同で所収している。「鳴子」は、陸羽東線の鳴子(なるこ)を指すか。「田道将軍」は「たみち」とも読み、仁徳天皇の御代に蝦夷(えみし)が反乱を起したのに対して、派遣された上毛(かみつけの)田道将軍のこと。蛇田村禅昌寺の近く、仙台への街道沿いに古墳があり、古来、「瓶塚」と呼ばれ、田道将軍の墳と伝えられている。「蛇田」という地名は、善戦空しく戦死した田道を、敵ながら天晴れと前線の兵士であった三人の蝦夷たちが憐れんで埋めたところ、非情な蝦夷の頭が怒って、その墓を暴こうとした。すると墓穴から大蛇が出現し、蝦夷の兵を悉く殺し尽くした。ただその埋葬した三人だけが助かったという話によるとする。

 

 

入海(いりうみ)の浅瀬の水草(みくさ)日にねむる手樽(てだる)の駅をわが過ぎにける

《入海の浅瀬の水草日にねむる手樽(てだる)の駅をわが過ぎにける》

 

みちのくの海辺の家にみだれ咲く黄菊しらぎく食(を)すためにありとも

《みちのくの海辺の家にみだれ咲く黄菊しら菊食(を)すためにありとも》

 

真昼間(まひるま)の空気騒がして鷗とぶ船つくり場の黒き屋根のへ

《まひるまの空気騒がして鷗とぶ船つくり場の黒き屋根のへ》

 

昼食(ひるげ)せむ家たづねつつ鷗飛ぶ裏町をゆき橋わたり行き

 

水に立つ石垣ふるく黒ずみて秋日のなかに白きかもめら

 

海かぜも日もまともなる丘の上に大洋(おほうみ)に向く神のみやしろ

《海かぜも日もまともなる丘の上に大洋(おほうみ)にむく神のみやしろ》

 

石の巻日和山(ひよりやま)のうへにわが見たる海とそらとの異(こと)なる日光(ひかり)

《石の巻日和山(ひよりやま)のうへにわが見たる海とそらとの異なる日光(ひかり)》

 

青海の波に一すぢかげりあり北上川の水流れ入る


《青海の波にひとすぢかげりあり北上川の水流れ入る》

 

大洋(おほうみ)は秋日まぶしくいにしへの伊峙(いし)の水門(みなと)を船出づる今日も

《大洋は秋日まぶしくいにしへの伊峙(いし)の水門(みなと)を船出づるけふも》

 

(昭和17(1942)年10月の作。「燈火節」(昭和28(1953)年6月暮らしの手帖社刊)の「東北の家」より。この首群の直前では、石巻の日和山を訪れた後、その裏山に小野小町の墓と伝えるものがあると聞いて(実見は出来ず)、『小町はふるさとの土を踏むため果してどの辺まで歩いて来たのだらうか? 何か心のゆかりを求めての旅であつたと思はれる。この日めづらしく私は歌を詠んだ。』と記す。「手樽の駅」の「手樽」は通常「てたる」と呼称し、宮城県宮城郡松島町手樽字茨崎にある仙石線の駅名。松島湾の最奥に位置する。「伊峙の水門」は石巻の港の古称。これらの歌は昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「東北にて(昭和十六年――十八年)」の「石の巻」歌群に載るが、一部表記が異なるものがある。異なるものについては『野に住みて』所収のものを《 》で示した。

 

 

丘のうへはしだり桜の花咲きみち東北のみやこ日も清らなる

 

(昭和18(1943)年4月中旬の作。「燈火節」(昭和28(1953)年6月暮らしの手帖社刊)の「東北の家」より。作品本文によれば、仙台にある、現在、榴岡(つつじがおか)公園と呼ばれる桜の名所での嘱目吟と推定される。この歌は昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「東北にて(昭和十六年――十八年)」の「仙台にて」歌群に載るが、

丘のうへはしだり桜の花咲きみち東北の都市(みやこ)日もきよらなる

二箇所の表記が異なる。

 

 

湯気こもる大き湯ぶねに浸りゐて無心に人の裸体をみつつ

 

われもまた湯気にかこまれ身を洗ふ裸体むらがる街湯のすみに

 

春の夜の雨もきこえしわが家のひとりの湯ぶね恋ふるともなく

 

(昭和18(1943)年前後の作か。「燈火節」(昭和28(1953)年6月暮らしの手帖社刊)の「入浴」より。本文によれば『今はもう十年以上も経ってゐるが』とあり、さらに『十年前には戦争の暗雲が国と人とを包み込んでおもく圧しつけてゐた』頃のことと読めるので、「燈火節」出版の昭和28(1953)年を起点に年次を推定した。大森の銭湯での嘱目吟とする。この三首は昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「ふるき家(昭和十八年――十九年)」の「街の湯」歌群に載るが、そこではわれもまた」の「街湯」に「まちゆ」のルビがある。

 

 

  待つ

 

待つといふ一つのことを教へられわれ髪白き老に入るなり

 

あまざかるアイルランドの詩人らをはらからと思ひしわが夢は消えぬ

 

世をさかり寡婦(ひとり)のわれにうらやすく人の洩らしし嘆きもあはれ

 

脚折れし玩具の鹿を箱によせかけ痛むこころに立たせて見つつ

 

動物は孤食すと聞けり年ながくひとり住みつつ一人ものを食へり

 

まどふ吾に一つ示教(をしへ)たまひける或るひの友よ香たてまつる

 

地獄といふ苦しみあへぐところなどこの世にあるを疑はぬなり

 

(昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「ふるき家(昭和十八年――十九年)」の「待つ」歌群に所収。昭和18(1943)年前後の作か。)

 

 

風立ちてまだ春わかきわが庭にいちごは白き花もちてゐる

 

つる伸びていちごは花をもちそめぬ蓬にまじる赤きそのつる

 

(昭和191934)年春、『殆ど一生といつてもよいほど長く住み馴れた』大森新井宿から杉並区浜田山への疎開を考えていた(実際の移転は6月)頃の歌。66歳。昭和25(1950)年一月号『心の花』所載の「いちごの花、松山の話など」より。歌の直後に『いちごの花を見ても名残惜しく、何時またこの家に帰つて来られるかと夢想もできない未来に心を走らせてみたりした。』と記している。この二首は昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「ふるき家(昭和十八年――十九年)」の「いちご」という前書で以下のような前書を伴って二首載る(異同がある)。

  いちご

   ながく住みたる大森を離れて井の頭線なる浜田山に移らむとす

かぜ立ちてまだ春わかきわが庭もいちごは白き花もちてゐる

 

つる伸びていちごは花をもちそめぬ蓬に交る赤きそのつる

底本では「ながく住みたる大森を離れて井の頭線なる浜田山に移らむとす」は有意にポイント落ち。

 

 

友のいひしよき言葉われと共にあり雨つゆのごとく心うるほす

 

昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「ふるき家(昭和十八年――十九年)」の「よき言葉」より。)

 

 

人げとほき野の風物に交りゐて生き残らばとわれは恐るる

 

(昭和19(1934)年六月、大森新井宿から杉並区浜田山へ疎開をした直後の歌と推定される。昭和25(1950)年一月号『心の花』所載の「いちごの花、松山の話など」より。この歌は昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「野に住みて(昭和十九年――二十二年)」の冒頭歌群「野に住みて」のまさに巻頭に、以下のような前書を伴って載る(異同がある)

  野に住みて

   昭和十九年六月、浜田山にうつる

人げ遠き野の風物に交りゐて生きのこらばとわれは恐るる


底本では「昭和十九年六月、浜田山にうつる」は有意にポイント落ち。

 

 

  砂漠

   旧約聖書、出埃及記をよみ、モーセをおもふ

四十年砂漠のなかに住みけりと読みしは古きよそぐにのこと

 

山にのぼり約束の国のぞみ見て息たえけると記(ふみ)には書けり

 

この二首は昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「ふるき家(昭和十八年――十九年)」の「砂漠」歌の巻頭二首。両首とも、明白に戦時中の作で、当時の日本国民の行く末を「出エジプト記」のイスラエルの民に擬えて警喩した反戦歌であることに着目されたい。なお、引用一本には、

山にのぼり約束の国のぞみ見て息たえけりと書には書きけり

と有意に異なるものがあり、こちらは初期形であった可能性もある(引用元不明のため断定は出来ない)。底本では「旧約聖書、出埃及記をよみ、モーセをおもふ」は有意にポイント落ち。

 

 

  軽井沢にありて

   山すその町

かれ葦はら青葦すでに育ちゐてあめつちの動き頼まるるなり

 

山すその町はひそかに灯をかくし屋根屋根くろく月も曇りたる

 

(以上は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した。「山すその」の歌の結句の「月も曇りたる」の「る」は印刷不鮮明であるが、推測 で「る」とした。少なくとも「り」ではない。これが昭和191934)年以降のものである確証はないが、それ以前という推測も不能であるため、大きな前書「軽井沢にありて(大正十四年――昭和二十年)」の記載から、暫くここに置く。

 

 

  軽井沢にありて

   七月

七月の青きいのちはすさまじく馬越(まごえ)の原に葦さやぐなり

 

葦はらの中の砂地に立ちとまり人がうしろから来るやうにおもふ

 

わが傘のみ一つ見ゆるかと心づき葦はらのなかに傘たたみたり

 

(以上は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した。これが昭和19(1934)年以降のものである確証はないが、それ以前という推測も不能であるため、大きな前書「軽井沢にありて(大正十四年――昭和二十年)」の記載から、暫くここに置く。)

 

 

  軽井沢にありて

   苔庭

    軽井沢の町のちかき室生犀星氏の庭にて

洞庭の湖(うみ)かたどりし苔庭にゆれ映る日を見ていましけり

 

(以上は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した。底本では「軽井沢の町のちかき室生犀星氏の庭にて」は有意にポイント落ち。これが昭和19(1934)年以降のものである確証はないが、それ以前という推測も不能であるため、大きな前書「軽井沢にありて(大正十四年――昭和二十年)」の記載から、暫くここに置く。)

 

 

終戦を見きわむるまで生きむとぞわがいひし言のあはれなるかな

 

(引用の一本にこの一首を『未発表ノートより』とする記載があったが、これは未発表でも何でもない。昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「野に住みて(昭和十九年――二十二年)」の「虚無」歌群にあるもの。前書に「軽井沢にありて八月十五日終戦の御放送をきく」とある。)

 

 

たたかひに敗れしもののみじめさをわれ今さらに嘆きいはめや

 

(昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「野に住みて(昭和十九年――二十二年)」の「不浪人」より。)

 

 

  軽井沢にありて

   初冬

かれ葦と枯木かさかさ音たつる野みちを過ぎて友が家(や)に来ぬ

 

夏庭に影をひろげし大木なり一葉も保(も)たず風にふかるる

 

ふと薪と白樺の枝(え)も古板も大き炉に燃しあたたまる部屋

 

霜つよく草枯れはつる夜もひるも炉をあかく燃す野のひとつ家

 

冬来たる野なかの家に炉をもして熱きあづきをもてなされつつ

 

家ゆする山かぜはげし朴の葉も紅葉も捲きてふきとばさるる

 

山おろし木の葉吹きちらす野を越えてまさやかに濃く浅間がみゆる

 

こがらしに雲ちぎれ浮く野に来たり見むとおもはぬ浅間に遇へる

 

(以上は、私の所持する昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』より、直接引用した。これが昭和19(1934)年以降のものである確証はないが、それ以前という推測も不能であるため、大きな前書「軽井沢にありて(大正十四年――昭和二十年)」の記載から、暫くここに置く。なお、これをもって『野に住みて』の「軽井沢にありて」全篇が終わる。)

 

 

  使

   昭和二十年三月二十四日達吉急逝す、わかれ住みて十月を経たり

使来てわれにいひける言葉なりかならず驚きなさいますな

 

昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「野に住みて(昭和十九年――二十二年)」より。昭和21(1946)年初頭の作と推定される。達吉は長男。享年45歳。東京大空襲直後であり、その後の散発的空襲のために亡くなったものかと推測していたのだが、病死であることが判明した。詞書の「わかれ住みて」とは、その年の六月に廣子が長年住み慣れた大森新井宿から杉並区浜田山に疎開した事実を指すか。としても「わかれ」の意が強く働いていると考え、作歌時期を推定した。

 

 

夢とほく散歩に行けどうつそみはひとりの家にわが飯を食す

 

人は死に吾はながらへ幾世経て今も親しくいともたのしき

 

わが側に人ゐるならねどゐるやうに一つのりんご卓の上に置く

 

昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)」冒頭の歌群「りんご」より。昭和24(1249)年秋の作と推定される。

 

 

大宮のうらの杉山鳥とびぬ一もと桜白く散りつつ

 

しろじろと柳の芽ぶく径に出づれば向うの丘の花は疲れ

 

(昭和251950)年一月号『心の花』所載の「いちごの花、松山の話」より。72歳。浜田山にて。歌前に『越してきて六年になる今年、程近い大宮八幡におまゐりして花を見た。生きて健康なうちに花を見たいと思つたのであらうか。その日は曇つてゐた。』とある。)

 

 

一枚の紙幣を持ちてけふを過ぎ心しぼみぬ吾わらふわれや

 

(昭和251950)年一月号『心の花』所載の「いちごの花、松山の話」より。浜田山にて。前の二首を示した後に『時々歌を日記の代りに詠んで置きたいと思つてゐても、その日その日が忙しい。』と記して、本歌をもって「いちごの花、松山の話」は終る。昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の「野に住みて(昭和十九年――二十二年)」の「不浪人」にも所収するがそこでは、

一枚の紙幣を持ちてけふを過ぎ心しぼみぬ吾を笑ふや

とあって、こちらが初期形と思われる。)

 

 

麦の芽のいまだをさなき畑に向く八百屋の店は一ぱいの林檎

 

深山路のもみぢ葉よりも色ふかく店の林檎らくれなゐめざまし

 

立ちて見つつ愉しむ心反射して一つ一つの林檎のほほゑみ

 

みちのくの遠くの畑にみのりたる木の実のにほひ吾を包みぬ

 

手にとればうす黄のりんご香りたつ熟れみのりたる果物の息

 

すばらしき好運われに来し如し大きデリシヤスを二つ買ひたり

 ※1

宵浅くあかり明るき卓の上に皿のりんごはいきいきとある

 ※2

わがいのる人に言われぬ祈りなどしみじみ交る林檎のにほひ

 ※3

饗宴のをはりしあとの静かさに時計を聴きぬ電気(あかり)さやけく

 

(昭和281953)年6月刊の「燈火節」(昭和28(1953)年6月暮らしの手帖社刊)の「林檎のうた」十首全篇。同年、広子75歳。「燈火節」中、短歌だけの内容はこれ一篇のみ。同年作としてここに置く。これら歌はすべて昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の最後の歌群「秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)」に「饗宴」という前書で同じ順列で所収するが、何故か広子は次の三首を削っている。

 

あま酸ゆき香りながれてくだものと共にわかゐる秋の夜の部屋 ※1

 

日のくれて静かなる家にりんご割る音がさくつと簡単にひびく ※2

 

人多く住みける家をおもひいづ林檎をもりし幾つもの皿 ※3

 

『野に住みて』でのそれぞれの削除された歌の位置を「※数字」で示しておいた。また、『野に住みて』では「すばらしき」の歌の「デリシヤス」の表記が「デリツシヤス」となっている。

 

 

けふよりぞ大寒といふに空青し風をききつつ熱き茶を飲む

 

ひとりゐてトーストたべるわが姿ひとよ見るなと思ひつつをかし

(昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の最後の歌群「秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)」の「春の色」に所収。)

 

 

  おもひでの駿河

      わが夫なくなりし大正九年には常のごとく軽
      井沢に避暑する気力もなく心身よわりてあり
      しを、人のすすめにより御殿場にゆきて七月
      八月を過しぬ。記憶すでにうすらぎてわが世
      の事ともおぼえず、ただその夏の富士をかす
      かに思ひ出でて

 

富士が嶺を土なるものとながめつつ駿河の国に旅寝せし夏

 

山百合のあまりにほへば戸をあけて暗やみの中に香を流しやる

 

(昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の最後の歌群「秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)」の「おもひでの駿河」に所収。前書は底本では有意にポイント落ち。前書はブラウザでの表示不具合を考え、底本と同じ位置で改行してある。)

 

 

生きるかひあるかと問はじ天地の一つの生命をわれ今日も愛す

 

(昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の最後の歌群「秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)」の「むらさき」に所収。)

 

 

まつすぐに素朴にいつも生きて来し吾をみじめと思ふことあり

 

(昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の最後の歌群「秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)」の「天使」に所収。)

 

 

  暗殺者

 

いくつもの灌木のかげ路に落ちけふよさよならとかなかなの声

 

書斎にシヤロツト・コルデーの絵を掛けて父はゆるしけむ美しき暗殺者を

 

(昭和29(1954)年刊第二歌集『野に住みて』の最後の歌群「秋も冬も(昭和二十四年――二十七年)」の「暗殺者」に所収。「シヤロツト・コルデー」はCharlotte Cordayシャルロット・コルデー(1768~1793)。フランス革命のジロンド派の刺客として、Jean-Paul Maratジャン=ポール・マラー(1743~1793年7月13日)を刺し殺した『暗殺の天使』。広子の父、吉田二郎はニューヨーク領事・ロンドン総領事を勤めた外交官であった。)

 

 

片山廣子短歌抄 了