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武辺手段のこと   南方熊楠

 

[やぶちゃん注:本篇は大正2(1913)年9月発行の『民俗』(一年二報)に発表され、大正151925)年岡書院刊「続南方随筆」に所収された。底本は1984年平凡社刊の「南方熊楠選集 4」によった。本テクストは私の電子版根岸鎭衞「耳嚢 卷之一」翻刻訳注の資料として作成した。末尾に簡単な補注を施した。但し、私は「デカメロン」を所持せず、読んでもいない(私は本質的に喜劇が嫌いである)。パゾリーニの映画を見たぐらいもので(それも遺憾ながらパゾリーニ自身が演じた画家ジョットの映像以外、覚えていない)、今回のこの篇のボッカチオ『デカメロン』の第五日第二話の内容についての詳細については補注を附す能力を持たない。悪しからず。【2010年1月28日】同僚の世界史の先生からの教授を受けて「韃靼帝の子カッサン」の注を補正した。【2010年3月10日】

 

       武辺手段のこと

 

「武辺手段のこと」と題して根岸肥前守の『耳袋』二編に次の話がある。寛延の末ごろ、巨盗日本左衛門の余類の山伏、長三尺、周一寸の鉄棒を用いるのが上手で、諸国で手にあまった。ところが大阪町同心のうちに武辺の者ありて、手段もて難なく捕えた。その法と謂わば、この同心長五尺、廻り二寸近い鉄棒を作り、姿を変じてかの山伏の宿に詣(いた)り、知人になり、いろいろ物語の上、自分も鉄棒を使う由言うて、持参した棒を見せると、山伏驚きて、同心の大力を讃め、自分のと取更(とりか)えに、同心の棒を手に取って観る。隙に乗じ、山伏の鉄棒で山伏の真甲を打つ。山伏心得たりと同心の棒を取り上げたが、力に余って働き十分ならず。かれこれするうち、組の者入り来たりて捕えた。

 これは事実譚らしいが、似た話がイタリアの文豪ボッカチオの『デカメロン』の第五日第二話にある。この譚は、イタリアのリパリ島の富家の娘ゴスタンツァと、貧士マルツッチオが相惚れと来たが、女の父が男の貧を蔑みて結婚を許さぬ。男大いに奮発して、身富貴とならずば生きて再びこの島を見ぬと言い放ち、同志を募り海賊となり、繁盛したが、チュニス人と戦うて囚われたきり、故郷へ消息がない。娘失望のあまり、ひそかに家を出て海浜にゆき、空船を見出だし、海中で死のうと、それに乗って宛てもなく漕ぎ出し、哀しんで船中に臥すと、船は無難にチュニス近きスサ市につき、情ある漁婦に救われ、富家の老婦に奉公しおる。マルツッチオは長々獄中におるうち、チュニスへ敵が大挙して攻め入ろうとすると聞いて、獄吏に向かい、チュニス王、予の謀を用いたら必勝だと言う。獄吏からこのことを聞いた王は大悦びで、マルツッチオを延見(えんけん)して奇計を尋ねる。マルツッチオいわく、王の軍勢が用いる弓弦を、敵に少しも知れぬように、至って細うし、それに相応して矢筈をも至って狭うしなさい、さて戦場で双方存分矢を射尽して、いよいよ拾い集めた敵の矢を伺いるとなると、こなたは弦が細いから、敵の広い矢筈の欠を射ることが成るが、敵の弦は、こなたから放った矢の狭い矢筈には、ずっと太過ぎて何の用をもなさぬ。こなたは矢多く敵は矢がなくなる道理で、勝つこと疑いなし、と。王その策を用い大捷し、すなわちマルツッチオを牢から出し、寵遇限りなく大富貴となった。このこと国内へ知れ渡り、ゴスタンツァ女、マルツッチオを訪い、恋ゆえに辛苦した話をすると、大悦びで、王に請うて盛んに婚式を挙げ、大立身して夫婦が故郷へ帰ったということじゃ。エー・コリンダウッド・リー氏の『デカメロン、出所および類話』(一九〇九年板、一六〇頁)によると、ジォヴァニ・ヴィラニ(1348年歿せり)の『日記』巻八に、一二九九年、韃靼(だったん)帝の子カッサンが、おのれの軍兵の弦と筈を特に細くして、エジプト王を酷(むご)く破った、とある由。ヴィラニはボッカチオと同時代の人だ。

 

□やぶちゃん注

・「武辺」広義には武道に関する色々な事柄・華々しき戦歴の数々・またその人の謂いであるが、ここはもっとプラグマティックに、腕に覚えがある、といった意味である。

・「『耳袋』二編」とあるが、私の翻刻版した三一書房版(該当巻底本は東北大学図書館蔵狩野文庫本)「卷之一」にある。岩波文庫カリフォルニア大学バーークレー校本東アジア図書館蔵旧三井文庫本でも同じく「巻之一」である。

・「寛延の末」寛延は西暦1748年から1751年。「末」となると、寛延3(1750)年から翌寛延4・宝暦元(1751)年頃。これを日本左衞門が処刑された延享の末年の誤りととることも可能であるが、その後もこの後3年程、この鐵棒山伏が逃走しながらも暴れ廻ったと設定した方が如何にも面白い。

・「日本左衛門」(にっぽんざえもん 享保4(1719)年~延享4(1747)年)は本名浜島 庄兵衛といった大盗賊。以下、ウィキの「日本左衞門」を引用する。『尾張藩の下級武士の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道諸国を荒らしまわった。その後、被害にあった地元の豪農の訴えによって江戸から火付盗賊改方の長官徳山秀栄が派遣される(長官としているのは池波正太郎著作の「おとこの秘図」であり、史実本来の職位は不明)。日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっている(本所築地奉行は代々の徳山五兵衛でも重政のみ)。逃亡した日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念(当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった)』、『1747年1月7日に京都で自首し、同年3月11日(14日とも)に処刑され、首は遠江国見附に晒された。上記の碑には向島で捕縛されたとある。処刑の場所は遠州鈴ヶ森刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われている。罪状は確認されているだけで14件、2622両。実際はその数倍と言われる。その容貌については、180㎝近い長身の精悍な美丈夫で、顔に5㎝ほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている』。『後に義賊「日本駄右衛門」として脚色され、歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではなく、諸説入り乱れている』。

・「大阪町同心」大阪町奉行配下の同心。同心は、与力の下にあって現在の巡査に相当する職務を担当した(同心はこれに限らず、その他の諸奉行・京都所司代・城代・大番頭・書院番頭等の配下にもおり、諸藩の藩直属であった足軽階級の正式名を同心とするところもあったとウィキの「同心」にある)。

・「組の者」与力・同心配下の捕り手組のことであろう。

・「ボッカチオの『デカメロン』」Giovanni Boccacioジョヴァンニ・ボッカッチオ(13131375)は中世イタリアはフィレンツェの詩人・作家。ウィキの「ジョヴァンニ・ボッカッチョ」によれば、イタリアの詩人・文豪にして政治家であったDante Alighieriダンテ・アリギエーリ(12651321)より50歳以上年少であったが、逸早くダンテを理解し彼の賛美者となった。「コメディア(喜劇)」とのみ題されていたダンテの叙事詩に対して『ディヴィーナ』(神聖なる)の冠辞を付し、壮大な叙事詩たる「神聖喜劇―神曲」の題名を定着させた(但し、この事蹟については出典明示がなされていない)とあり、更に、イタリアの詩人にして文学者であったFrancesco Petrarcaフランチェスコ・ペトラルカ(13041374)『とは親交が深く、互いの研究や活動で刺激しあい、ルネサンスのさきがけもなった』と記す。「デカメロン」DecameronDecamerone)はボッカッチョの代表作で1349年から1351年にかけて執筆された(本邦は南北朝時代に相当)イタリア散文の濫觴、世界文学に於ける近代小説の魁として評価される作品である。書名はギリシャ語の「十日間」を意味する“deka hemerai”に由来し(但し、以下に記すように連続した十日間ではない)、「十日物語」とも。以下、平凡社「世界大百科事典」の杉浦明平氏の記載を引用する(読点及び記号の一部を変更、改行を省略した)。『1348年トスカナ地方を襲ったペストの記述から始まる。この恐るべきペストを避けるためにサンタ・マリア・ノベラ教会にたまたま落ちあった淑女7人と紳士3人とが14日間フィエゾレの丘で歌い踊り散歩して暇つぶしをしたが、そのうち金曜日、土曜日を除く10日間、毎日一人が女王または王として司会し、一つの主題を出して物語をすると他の9人がこれにつづいて話をする。こうして100の短編小説が語られる。その内容はフィレンツェをはじめイタリア各地だけでなく、フランスやオリエントなど当時の全世界にわたり、時代もさまざま、登場人物の身分、職業、容貌もさまざま、気質や性格も多種多様。道徳的に高尚な話から背徳的な猥談までこれまたいろいろである。ダンテの「神曲」に対して「人曲」ともいわれている。19世紀のイタリアの大文学史家デ・サンクティス以来、この作品は、中世の教会と封建制度を嘲笑する新興ブルジョアジーの勝利の記録としてたたえられた。たしかに、ありとあらゆる悪事を働いた悪党の代表人セル・チャペレットが臨終の際、自分の実際の言動とすべて反対のように告白したことによって聖者に列せられる第1日第1話や、聖職者の堕落ぶりや肉体の欲望をたたえる話などに関するかぎり、デ・サンクティスの評価は正しいが、中世的な騎士精神や信心深さをたたえた話も少なくない。しかし、やはり読者に魅力のあるのは、肉体のよろこびを謳歌したり、僧侶の堕落ぶりを暴露嘲笑する話であろう。この「デカメロン」は、手書きとして、イタリア中にひろがり、フランコ・サッケッティ、ロル・ジョバンニ・フィオレンティーノ、マスッチョ・サレルニターノ、マッテオ・バンデロのようなルネサンス短編小説作家に引き継がれたが、16世紀には、教会や聖職者の神聖を冒瀆する不敬の書としてローマ教皇庁の禁書目録に加えられた。というものの、写本のままこの小説集がヨーロッパ世界にひろがって愛読された結果、イギリスではチョーサーの「カンタベリー物語」、フランスではナバール王妃マルグリットの「エプタメロン」などが生まれ、近代文学とつながっていった。日本では明治時代に尾崎紅葉がこの著の一編を翻案して「鷹料理」を著したほか、二、三の翻案が見られたが、肝心の艶笑談は紹介されたこともなかった。エロ本の代表と見られていたからである。独訳本に拠って森田草平が「デカメロン」全訳を出版したのは1930年だった。ただし、そのうち最もおもしろい29編は、伏せ字だらけの別の小冊子として発行された。全編発行禁止になる危険を避けるためだった。第2次大戦後になって、日本でもやっと全訳本を読むことができることになった。野上素一、高橋久、岩崎純孝らの訳本がある』。

・「イタリアのリパリ島」Isola di LipariSiciliaシチリア島の北東沖に浮かぶエオリエ諸島最大の島。の紀元前4000年から人が住んでいたと言われています。城塞地区にはの住居跡も残り、居住の歴史は6000年前の新石器時代にまで遡るとされ、青銅器時代やギリシャ時代の遺跡が残る歴史の島である。ギリシャの詩人HomerosホメロスのOdysseia「オデュッセイア」に登場する風の神アイオロスの住む島とされ、島の名もホメロスの娘婿リパロに由来すると言う。古くは黒曜石や軽石(エオリエ諸島は火山列島)の交易で栄えた。現在はエオリエ諸島観光の拠点である。

・「チュニス」Tunisは現在のチュニジア共和国の首都。以下、ウィキの「チュニス」によると、古代フェニキア人によって建設されたカルタゴ近郊の町であったが、『ローマ共和国との間で戦争を繰り返し、紀元前146年の第三次ポエニ戦争で完全に破壊され』、『その後、ローマの属州アフリカとなり』再建、『376年のローマ帝国の分裂に伴い、東ローマ帝国の属州となった』。『7世紀にはウマイヤ朝(イスラム帝国)は、当時イフリーキヤと呼ばれたチュニジアの占領を目指していた。670年のオクバの遠征によってイフリーキヤにはカイラワーンが建設され、ウマイヤ帝国のアフリカ支配の拠点として更なる拡大をもくろんだが、ベルベル人の激しい抵抗にあって苦戦した。その後、ハッサン・イブン・アル=ヌマン率いるウマイヤ朝軍が東ローマ帝国軍を破ってカルタゴを占領、さらに701年にはベルベル人が支配するカヘナも攻略する。これ以降、この街はチュニスとしてアラブ人によって開発されること』となり、イスラーム化された。『一時期シチリア王国を築いたキリスト教徒のノルマン人に占領され』たこともあったが、『12世紀には西方から侵攻したモロッコのムワッヒド朝が支配することになった』とある。

・「空船」「うつろぶね」と読ませているか。このうつろぶねに乗るゴスタンツァのシーンは一種の創世神話の変形譚であろう。

・「スサ市」ウィキの「スース」によると、フランス語でSousseスースまたはアラビア語でSūsaスーサと言う。港湾都市。『チュニスの南約140kmに位置するチュニジア第三の都市で、人口は約43万人。町は美しく、「サヘルの真珠」といわれる。旧市街メディナはユネスコ世界遺産に登録され』た。『紀元前9世紀頃にフェニキア人によって「ハドルメントゥム(Hadrumentum)」として開かれた。古代ローマと同盟を結びんでいたため、ポエニ戦争中も含めパックス・ロマーナの700年の間比較的平和で、大きな被害を免れた』。『ローマ時代の後、ヴァンダル族、その後東ローマ帝国がこの町を占拠し、町の名を「ユスティニアノポリス(Justinianopolis)」と改名』、『7世紀にはアラブ人のイスラム教軍が現在のチュニジアを征服し、「スーサ(Sūsa)」と改名。その後すぐアグラブ朝の主要港となった。827年にアグラブ朝がシチリアに侵攻した際、スーサは主要基地となった』。『その後ヨーロッパでは技術革新が進みイスラム教に対して優勢に出始め、12世紀にはノルマン人に征服された時期もあり、その後スペインに征服された。18世紀にはヴェネツィア共和国とフランスに征服され、町の名をフランス風に「スース(Sousse)」と改名した。その後もアラブ風の町並みは残り、現在ではアラブ人による典型的な海岸の城砦都市として観光客が多く訪れる』。

・「延見」呼び寄せて対面すること。引見。

・「矢筈」(やはず)」は弓矢の矢の末端、弓の弦(つる)を受ける部分の名称。この時代のものは木製の矢柄を直接二股に削ったものであったと思われる。

・「エー・コリンダウッド・リー氏の『デカメロン、出所および類話』」A. Collingwood Lee, The Decameron, Its Sources and Analogues”(London, 1909)。

・「ジォヴァニ・ヴィラニ」Giovanni Villaniジョヴァンニ・ヴィッラーニ( 1348)のこと。ヴィッラーニはフィレンツェの銀行家にして歴史家。「新年代記」の作者として知られ、南方の言う「日記」もそれを指すものと思われる。以下、ウィキの「ジョヴァンニ・ヴィッラーニ」より引用する。『父親のヴィッラーノ・ディ・ストルド・ヴィッラーニはフィレンツェの有力な商人の1人であり、1300年にはダンテ・アリギエーリとともに市の行政委員(プリオーネ)を務めた(ただし、ほどなく辞任して翌年の政変で失脚した同僚ダンテと明暗を分けることとなる)。この年、ジョヴァンニはペルッツィ銀行に入社して1人前の商人の1人としてのスタートを切っている。この年はローマ教皇ボニファティウス8世が初めて聖年とした年であり、各地より20万人がローマ巡礼に訪れた。ジョヴァンニもまたこれに参加してローマを訪問して、ローマの史跡や文献に触れる機会があった。そこで彼は古代ローマ以来の歴史家の伝統が途絶したことを嘆き、「ローマの娘」を自負するフィレンツェ市民である自分がその伝統を復活さなければならないとする霊感に遭遇した(と、本人は主張した)ことによって、彼は「ローマの娘」フィレンツェを中心とする年代記編纂を決意したと伝えられている』。『だが、彼の決意とは裏腹に実際には商人・銀行家としての道を着実に歩む彼には執筆の時間はほとんど無かったと考えられている。代表者の死去によって当時の慣例に従ってペルッツィ銀行は一旦清算されることなると、彼は再設立されたペルッツィ銀行ではなく、縁戚の経営するブオナッコルシ銀行に移り、1325年には共同経営者となった。同時にフィレンツェ市の役職も歴任し、1316年・1317年・1321年には父と同じ行政委員に就任したほか、各種の委員を務め、この間に多くの行財政文書を閲覧する機会に恵まれた。ところが、1331年に市の防壁建築委員を務めていたジョヴァンニは突如公金横領の容疑で告発を受けることとなる。これは間もなく無実と判断されたが、政治的な挫折を経験したジョヴァンニの年代記執筆がこの時期より本格化していったと考えられている』。『ところが、ジョヴァンニの引退後、フィレンツェの政治は混乱して信用問題にまで発展、更に百年戦争による経済混乱も加わって、1340年代に入るとフィレンツェは恐慌状態に陥った結果、同地の主要銀行・商社のほとんどが破産に追い込まれた。1342年にブオナッコルシ銀行が破綻に追い込まれると、ジョヴァンニは債権者との交渉にあたったが、続いてペルッツィ銀行・バルディ銀行など他の会社も次々と倒産した混乱もあって混乱が収まらず、1346年2月にはジョヴァンニが債権者の要求によって一時投獄される事件も起きている。そして、1348年にフィレンツェを襲った黒死病はジョヴァンニの命をも奪っていくのである』。『その後、ジョヴァンニの後を引き継ぐ形で三弟のマッテオ・ヴィッラーニ(1363年没)とその子フィリッポ・ヴィッラーニも年代記を執筆している』とあり、以下、「新年代記」の内容を記載する。“Nuova Cronica”「新年代記」『は全12巻から構成され、大きく2部に分けられる。前半6巻はバベルの塔からフリードリヒ2世までを扱い、父祖以前の歴史に属するため先人の著書に依存する部分が多い。また、ジョヴァンニはラテン語をほとんど知らなかったとされる一方で、聖書や古典に関する知識が豊富であり、それが記述にも生かされている。後半の6巻は1266年のシャルル・ダンジューのシチリア王継承から始まり、父親あるいは自己の生きた時代を描いて1346年で終了している。彼が銀行家・政治家として活躍した1310年代を描いた第8巻以後については綿密な記載がされており、彼が優れた観察者であったことがうかがえる。特に第11巻にある1338年頃のフィレンツェの風景と経済状況に関する記述の緻密さはヤーコプ・ブルクハルトにも注目された。また、彼も同時代の他の人々と同じく熱心なキリスト教徒であり、神の裁きや占星術を信じた記述があるものの、一方で経済特に商業関係の記述においては合理的な記述を尽している』とある。南方は「『日記』」の『巻八』と記しており、このウィキの「新年代記」の記載内容と合致している。

・「韃靼帝の子カッサン」とはモンゴル帝国を構成したイル・カン国(イルハン国又はフレグ・ウルスとも呼ぶ)の第7代皇帝であったガザン・ハン(Ghāzān khān  ロシア語表記Газан-хан 12711304のことを指す。彼の曽祖父で初代のイル・カン国皇帝であるフレグはチンギス・ハーンの孫に当たる。ガザン・ハンはイスラム教に改宗してイラン人との融和を図るなどして内政を安定させ、政治的にも文化的にもイル・カン国の黄金時代を築いた名君であったが、34歳で夭折した。1299当時のエジプトはバフリー・マムルーク朝ナースィル・ムハンマドの統治時代であったが、南方の述べる通り、この年、イル・カン国のガザンがシリア侵攻を開始、ナースィルはシリア北部のマジュマア=アルムルージュでガザン・ハン軍で迎え撃ったが実戦経験が乏しかったために大敗を喫して敗走、イル・カン国はシリアを支配下に置き、ダマスクスを百日に渡って占領した。