やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

飯田蛇笏   芥川龍之介   附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年三月発行の雑誌『雲母』に「蛇笏君と僕と」の題で掲載され、後に作品集「百艸」に「飯田蛇笏」と改題して納められた。底本は岩波版旧全集に拠った。なお、初出及び「百艸」では「死病得て爪美しき火桶かな」が「死病得て爪美しき火鉢かな」となっているが、底本では「火桶」と訂されており、蛇笏の原句も「火桶」であるので、ここでも蛇笏に敬意を表して「火桶」と訂した。因みに、この「火鉢」は「火桶」が歳時記に於いては季語としての「火鉢」に配される同義語であるから龍之介の誤記(私は龍之介の見た歳時記自体が誤っていた可能性もあると考える)。最後に私のマニアックな注を附した(本文の分量の八倍あるので御覚悟あれ)。本テクストは私藪野直史の完全野人化三年目突入記念として作成した【二〇一四年四月二日】]

 
飯田蛇笏

 或木曜日の晩、漱石先生の處へ遊びに行つてゐたら、何かの拍子に赤木桁平が頻に蛇笏を褒めはじめた。當時の僕は十七字などを並べたことのない人間だつた。勿論蛇笏の名も知らなかつた。が、さう云ふ偉い人を知らずにゐるのは不本意だつたから、その飯田蛇笏なるものの作句を二つ三つ尋ねて見た。赤木は即座に妙な句ばかりつづけさまに諳誦した。しかし僕は赤木のやうに、うまいとも何とも思はなかつた。正直に又「つまらんね」とも云つた。すると何ごとにもムキになる赤木は「君には俳句はわからん」と忽ち僕を撲滅した。
 丁度やはりその前後にちよつと「ホトトギス」を覗いて見たら、虛子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表してゐた。句もいくつか拔いてあつた。僕の蛇笏に對する評價はこの時も亦ネガティイフだつた。殊に細君のヒステリイか何かを材にした句などを好まなかつた。かう云ふ事件は句にするよりも、小説にすれば好いのにとも思つた。爾來僕は久しい間、ずつと蛇笏を忘れてゐた。
 その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云ふ蛇笏の句を發見した。この句は蛇笏に對する評價を一變する力を具へてゐた。僕は「ホトトギス」の雜詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽竊した。「癆咳の頰美しや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――僕は蛇笏の影響のもとにさう云ふ句なども製造した。
 當時又可笑しかつたことには赤木と俳談を鬪はせた次手に、うつかり蛇笏を賞讃したら、赤木は透かさず「君と雖も畢に蛇笏を認めたかね」と大いに僕を冷笑した。僕は「常談云つちやいけない。僕をして過たしめたものは實は君の諳誦なんだからな」とやつと冷笑を投げ返した。と云ふのは蛇笏を褒めた時に、博覽強記なる赤木桁平もどう云ふ頭の狂ひだつたか、「芋の露連山影を正うすヽヽヽヽヽ」と云ふ句を「連山影を齊うすヽヽヽヽヽ」と間違へて僕に聞かせたからである。
 しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に御無沙汰をし出した。それでも蛇笏には注意してゐた。或時句作をする靑年に會つたら、その靑年は何處かの句會に蛇笏を見かけたと云ふ話をした。同時に「蛇笏と云ふやつはいやに傲慢な男です」とも云つた。僕は惡口を云はれた蛇笏に甚だ賴もしい感じを抱いた。それは一つには僕自身も傲慢に安んじてゐる所から、同類の思ひをなしたのかも知れない。けれどもまだその外にも僕はいろいろの原因から、どうも俳人と云ふものは案外世渡りの術に長じた奸物らしい氣がしてゐた。「いやに傲慢な男です」などと云ふ非難は到底受けさうもない氣がしてゐた。それだけに惡口を云はれた蛇笏は惡口を云はれない連中よりも高等に違ひないと思つたのである。
 爾來更に何年かを閲した今日、僕は卒然飯田蛇笏と、――いや、もう昔の蛇笏ではない。今は飯田蛇笏君である。――手紙の往復をするやうになつた。蛇笏君の書は豫想したやうに如何にも俊爽の風を帶びてゐる。成程これでは小兒などに「いやに傲慢な男です」と惡口を云はれることもあるかも知れない。僕は蛇笏君の手紙を前に賴もしい感じを新たにした。
     春 雨 の 中 や 雪 お く 甲 斐 の 山
 これは僕の近作である。次手を以て甲斐の國にゐる蛇笏君に獻上したい。僕は又この頃思ひ出したやうに時時句作を試みてゐる。が、一度句作に遠ざかつた祟りには忽ち苦吟に陷つてしまふ。どうも蛇笏君などから鞭撻を感じた往年の感激は返らないらしい。所詮下手は下手なりに句作そのものを樂しむより外に安住する所はないと見える。
     お ら が 家 の 花 も 咲 い た る 番 茶 か な
 先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。

■やぶちゃん注

・「飯田蛇笏」(明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年)は本名飯田武治たけはる、別号に山廬さんろ。以下、ウィキの「飯田蛇笏」によれば、山梨県東八代郡五成村(後に境川村となり現在は笛吹市)の大地主の旧家の長男として生まれた。『山梨県では江戸期以来の宗匠が俳壇を形成し影響力を残しており、蛇笏も幼少期から旧来の月並俳句に親し』んだ。旧制甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を経て、明治三八(一九〇五)年に早稲田大学英文科に入学、早大では『高田蝶衣らの早稲田吟社の句会に参加し、同じ下宿の若山牧水らとも親交を深め句作や詩作をし、小説も手がけ『文庫』『新声』などに発表する。高浜虚子の主宰する『ホトヽギス』にも投句した。この時は号を玄骨と称していた』。この頃の虚子は小説への志向を示して次第に俳句から離れていった時期であったが、同時期の明治四二(一九〇九)年に『蛇笏は家庭事情から早大を中退し帰郷する。その後は家業の農業や養蚕に従事する一方で、松根東洋城の『国民新聞』への投句を始め』た。直後の山梨俳壇では明治四四(一九一一)年に萩原井泉水が『層雲』を創刊、『河東碧梧桐の影響で新傾向俳句へ転向した秋山秋紅蓼らを迎合し、翌年には』『井泉水や碧梧桐が甲府に招かれ、新傾向俳句が興隆した。蛇笏は伝統的俳句の立場からこれを批判し、『山梨毎日新聞』紙上において「俳諧我観」を連載し、自然風土に根ざした俳句を提唱し』ている。大正二(一九一三)年の『虚子の俳壇復帰と共に俳句の創作を再開し、『ホトヽギス』への投句を復活』した。大正三(一九一四)年、愛知県幡豆郡家武町はずぐんえたけちょう(現在の西尾市)で発刊された俳誌『キラゝ』の選者を務め、大正六(一九一七)年には同誌主宰となって誌名を『キラゝ』から『雲母うんも』に改めた(大正一四(一九二五)年には同誌の発行所を自家に近い甲府市に移している)。昭和七(一九三二)年に処女句集『山廬集』を出版、その後も故郷境川村での句作に精進、昭和三十七年十月三日に満七十七で逝去した。忌日を「山廬忌」と称する。没後五年後の昭和四二(一九六七)年には『彼の功績を称え、角川書店が「蛇笏賞」』が創設された。蛇笏は五人の男児に恵まれたが次男は病死し長男と三男は戦死し、四男龍太が家督を継いだ。飯田龍太はやはり俳人となって後に『雲母』を継承主宰した(同誌は蛇笏没後三十年目の平成四(一九九二)年に第九百号を以って終刊した)。(なお、引用元では一定しない俳誌『ホトトギス』の名称については、明治三〇(一八九七)年創刊時は『ほとゝぎす』と平仮名表記であったものの、明治三四(一九〇一)年十月に『ホトヽギス』と改めているので、この蛇笏の注では事蹟上から総て『ホトヽギス』に統一して訂した)。

・「或木曜日の晩、漱石先生の處へ遊びに行つてゐたら」これは所謂、夏目漱石宅で毎週木曜日に漱石の教員時代の教え子や漱石を慕う若手文学者が集まってさまざまな議論をした会合、木曜会の一齣である。ウィキの「木曜会(夏目漱石)」によれば、明治三九(一九〇六)年十月中旬頃、高弟の一人鈴木三重吉が毎週の漱石への面会日を木曜日午後三時以降と定めたことに由来するという。『この日は誰でも自由に来てよいことにしたので、かつての教え子以外の学生やその他の人物も多く来るようになった』。よく集まる顔ぶれには三重吉や同じ高弟の小宮豊隆・森田草平の他、『内田百間、野上弥生子らの小説家や、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいた。さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄らも学生時代から参加していた。彼らが一般的に漱石門下とされている。漱石は徒弟制などを取らなかったので、阿部次郎は「厳密に言えば漱石の弟子は一人もいない。所謂弟子というのは毎週木曜日に定期的に漱石の門をたたいた者のこと」と述べている。また、会長や幹事などを備えた組織として「木曜会」が存在していたわけでもない』とある。
 新全集の宮坂覺氏の年譜上の最新の知見によれば、芥川龍之介がこの木曜会に初めて出席したのは、大正四(一九一五)年十一月十八日木曜日のことで、漱石の門下生であった東京帝国大学仏文科の林原耕三に伴われて久米正雄と参加している。この時の会で内田百閒・鈴木三重吉・小宮豊隆・池崎忠孝(赤木桁平)と知り合い、以後、木曜会に出席するようになった。当日の様子を芥川龍之介は後の談話「漱石先生」の冒頭で述べている(リンク先は私の電子テクスト)。他にも昭和二(一九五七)年五月の新聞『東奥日報』に「芥川龍之介氏講演」と題して載った「漱石先生の話」の冒頭にも「木曜會」と題する龍之介の同会での印象やエピソードが綴られてある(リンク先はやはり私の電子テクスト)。当時、芥川龍之介は英文科三年で二十三歳、この十一月一日に『帝国文学』に「羅生門」を発表したばかり、しかも鷺只雄氏の年譜(「年表作家読本 芥川龍之介」河出書房新社一九九二年刊)によると、実はその三日後の十一月四日には後にまさに漱石に絶賛されるところとなる「鼻」を起筆してもいたとある。なお、鷺氏の「夏目漱石の木曜会」によれば、この頃の木曜会は『小宮らの第一世代は常連として足が遠のき、江口渙・岡田耕三・岡榮一郎・松浦嘉一・池崎忠孝(赤木桁平)らの第二世代がもっぱら出かけていたために芥川らはたちまち中心的なメンバーとなっていった』とある。
 以下に注するところの、『丁度やはりその前後にちよつと「ホトトギス」を覗いて見たら』という事実から、この冒頭の話は大正四(一九一五)年十一月十八日以降、翌大正五(一九一六)年半ば(五~六月ぐらいまでか)に行われた木曜会での出来事と考えてよいであろう。

・「赤木桁平」(明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)は評論家・政治家。本名、池崎忠孝。龍之介より一つ年上。初めて漱石の伝記を書いた人物として知られ、また大正期の「遊蕩文学撲滅論」で一世を風靡した。衆議院議員を三期務めた。ウィキの「赤木桁平」によれば、岡山県阿哲郡万歳村(現在の新見市)生まれで、東京帝国大学法科大学在学中に夏目漱石門下に入り、漱石の命名になる「赤木桁平」の筆名で文芸評論を書いたが、中でも、大正五(一九一六)年に『朝日新聞』に載せた「『遊蕩文学』の撲滅」で知られる。『これは、当時、花柳界を舞台にした小説が多く、「情話新集」なるシリーズが出ていたのを、「遊蕩文学」と名づけて攻撃したもので、その筆頭たる攻撃目標は近松秋江だったが、ほかに長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎、後藤末雄が槍玉に挙げられた。これは論争になったが、久保田や後藤は、攻撃されるほど花柳小説を書いてはいなかったし、当時、東京帝大系で非漱石系の親玉だった小山内薫が反論した中に、なぜ自分や永井荷風が攻撃目標になっていないのか、とあったが、谷崎潤一郎も批判されていなかった。また、もし少しも遊蕩的でない小説を書く者といったら、漱石と小川未明くらいしかいないではないかという反論もあった。谷崎や荷風が攻撃から外されていた点については、赤木が当時谷崎と親しく、谷崎の庇護者だった荷風にも遠慮したからだろうとされている』。『卒業後、『萬朝報』に入社し、論説部員を務めた。その後家業を継ぎ』、昭和一一(一九三六)年に衆議院議員に当選して政界に転身、第一次近衛内閣で文部参与官を務め、本名池崎忠孝で昭和四(一九二九)年以降は日米戦争を必然とする立場から盛んな著作活動を行なった。戦後、A級戦犯に指定されて巣鴨プリズンに収監されたが、後に病気のため釈放され、そのまま不遇のうちに死去したとある。彼は龍之介の第一作品集「羅生門」出版の紹介の労をとっており、晩年まで良好な関係が続いたが、芥川没後の昭和四(一九二九)年十二月の『新潮』に載った評論「亡友芥川龍之介への告別」は、知識によって人生を描くことは人生そのもののの生きた姿を捉えることではないという芥川龍之介をほぼ全否定する手厳しいものである。

・『「ホトトギス」を覗いて見たら、虛子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表してゐた』筑摩書房類聚版全集(昭和四六(一九七一)年刊)の脚注によれば、これは大正五(一九一六)年四月号の虚子の「進むべき俳句の道」飯田蛇笏篇の中の蛇笏評である。「進むべき俳句の道」は第一期『ホトトギス』の代表作家三十二名の虚子による人物と作品紹介の連載(大正四年四月から六年八月)で大正七(一九一八)年に単行本化された(これは最終的に主観句の跋扈を批判し、客観写生への回帰を主張するものとなった)。

・「細君のヒステリイか何かを材にした句」同じく筑摩書房類聚版全集脚注に、虚子の「進むべき道」には蛇笏の「妻激して唇蒼し枇杷の月に立つ」が引用されているとあり、諸本もこれに同定する。「大廬集」には大正四(一九一五)年の冬の部に載る句であるが、私はこれ、蛇笏の鬼趣調の句として読み、決して嫌いでない。しかし、鬼趣好み(以下に龍之介が示す自作二句に漂うのはまさに幽鬼を背後に匂わすような凄絶なある種の雰囲気である)のはずの龍之介はこれを「細君のヒステリイか何かを材にした句」として平板なリアリズムと見、言わば私小説的なモンタージュとしかとらずに「かう云ふ事件は句にするよりも、小説にすれば好いのにとも思つた」と述べているのが興味深い。龍之介にとってはこの「枇杷の月に立つ」「唇」の「蒼」ざめた「激した妻」の形相はあくまで「ヒステリイ」と処理される画像なのだ、という点ですこぶる面白いのである。

・「死病得て爪美しき火桶かな」同じく「大廬集」には大正四年の冬の部に載る句。

・「剽竊」「へうせつ(ひょうせつ)」で剽窃と同じい。

・「癆咳の頰美しや冬帽子」言わずもがな乍ら「癆咳」は「らうがい(ろうがい)」で漢方でいう結核のこと。大正七(一九一八)年十二月発行の『ホトトギス』雑詠欄に「鎌倉 我鬼」名義で入選した句(但し、当該初出では「癆咳の頰美しさや冬帽子」とある。私のオリジナル芥川龍之介全句集「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」の『ホトトギス「雜詠」欄』の注を参照されたい)。本句は芥川龍之介の死後に香典返しとして配られた「澄江堂句集」の第四句目に掲げられてある句である「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照)。この句が先の蛇笏の「死病得て」の句の「剽竊」であることは、後に龍之介自身が蛇笏に当てた書簡(大正一二(一九二三)年一二月一日附岩波旧全集書簡番号一一五一)で告白している。以下に引く。
   *
冠省雲母落手難有く存じますいろいろ拙句に御高評をたまはり感佩いたして居ります拙句「癆咳の頰うつくしや冬帽子」と申すのは尊句「死病得て爪美しき火鉢かな」からヒントを得たものと記憶しますこの頃舊來の句みないやになりと云つて新しい句境を拓くは容易ならず唯漫然と消光してゐますとりあへず御禮まで
     久しぶりに姪を見て
   かへり見る頰の肥りよ杏いろ
御一笑下され度候
    十二月一日   芥川龍之介
  飯田武治樣 侍史
   *
底本旧全集では正しく「死病得て爪美しき火桶かな」と「火桶」になっているが、これはどうも編者による恣意的な補正(但し、注記がない)らしい。岩波文庫二〇〇九年刊石割透編「芥川竜之介書簡集」によれば、ここは表記のように本作同様、「火鉢」と誤っている。この部分のみそれに拠った。以下、この書簡について少しく注する。
●『「雲母」の拙句高評』石割透編「芥川竜之介書簡集」注に、『飯田蛇笏「芥川君の俳句」(『雲母』一〇、一一月号)。蛇笏は、芥川の俳句について、「玄人ならざる玄人」と高く評価した』とあり、「癆咳の頰うつくしや冬帽子」の句について蛇笏はそこで、『「感じを主とした句」で、「やつれて見える頰のあたりを主觀的に描き出したところにうまみ」があると記している』(引用部は恣意的に正字化した)とある。
●「姪」は芥川瑠璃子(大正五(一九一六)年~平成十九(二〇〇七)年)のこと。芥川の次姉ヒサ(葛巻義敏母)が再婚した西川豊との間に生まれた長女で彼女は後に芥川の長男比呂志と結婚した。
 因みにこの書簡が出された同日には「あばばばば」が『中央公論』に発表されている。

・「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」「惣嫁」とは上方で路傍に立って客を引いた下級娼婦、夜鷹のこと。読みは「そうか」・「そうよめ」。ここは「そうか/ゆびの」と初句を字余りで読ませているか(中田雅敏氏は蝸牛社俳句文庫の「芥川龍之介」で「そうかし」と読んでられるが、私は今一つ従えないでいる)。この句は、雑誌『にひはり』に連載された芥川龍之介名義の「澄江堂句抄」の第三回目(大正十三年五月号)では(これが公の初出と思われる)、

   調は虛栗の佶屈を喜び、意は言水の幻怪を好める年少時代のさかしらなり。
惣嫁指の白きも葱に似たりけり

という前書を持って示されてある(岩波版普及版全集では、この前書の最後が、「年少時のさかしらなり。」ではなく、「數年前のさかしらなり。」となっている)。「虛栗」(みなしぐり)は榎本其角編になる蕉風俳諧確立の記念碑的作品集で、杜詩等による漢詩的佶屈に富む。「言水」(ごんすい)は池西言水で、談林から蕉風へと移行した俳人で、「木枯しの果てはありけり海の音」で知られ、俗に『木枯らしの言水』と称せられる。
 他に「我鬼窟句抄」などの句帳にも複数所載し、

葱に似て指の白きも惣嫁かな

という類型句(先行する草稿句であろう)も残る。なお、この句は前の句「癆咳の頰うつくしや冬帽子」よりも遙か前に句作された可能性が濃厚である。何故なら大正九(一九二〇)年十二月二十二日附齋藤茂吉宛旧全集書簡番号六三三に、

  この頃の句
惣嫁指の白きも葱に似たりけり

と既に出るからである。

・「芋の露連山影を正うす」蛇笏真骨頂の代表句。私はかつて中学生の頃、この句に出逢った折り、接写レンズで撮った里芋の葉の上に置かれた丸い大きな銀色の露(私はこれを小さな頃から偏愛してきた)の表面に甲斐の山並みが反転して映るのを、否、芋の露の中にある別世界の奇峰の連なりを幻視したのを今も忘れない。大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)によれば、この句には以下の自注があるとする(恣意的に正字化して示す)。
   *
今日に至るまでの歳月の中で、最も健康がすぐれなかった時である。隣村のY病院へ毎日薬瓶を提げて通つてゐた。南アルプス連峰が、爽涼たる大氣のなかに、きびしく禮容をととのへてゐた。身邊の植物(植物にかぎらず)は決して芋のみではなかつた。
   *
大野氏は以下、『家郷にとじこめられ、肉体は病のため衰弱しても、精神はつねに昂揚して彼岸を見つめていたのであろう。礼容をととのえているのは甲斐の山々のみでなく、作者もまたこれらの山の偉容に襟を正して向っている』と評しておられる。蓋し名評釈である。

・「齊うす」これは「ひとしうす」と読んでいるものと思われる。「齊」(斉)には偏らず正しい、という謂いもあるから、これを「ただしうす」と読めなくもない(名乗に「ただ」「ただし」もある)が、龍之介の桁平への指弾は間違いなく読みの間違い(であるからこそ龍之介は句意を十全に汲めずに低評価になったのだと非難している)であるから、やはり「ひとしうす」である。

・「手紙の往復をするやうになつた」残念ながら、蛇笏の書簡は旧全集によれば、先に掲げた以外には龍之介自死の年である昭和二(一九二九)年四月一十日附飯田蛇笏宛(表書きも蛇笏)の一通(旧全集書簡番号一五九二)しか載らない(即ち、現存する龍之介の蛇笏宛書簡は二通のみ)。以下に示す。
   *
冠省「雲母」の拙句高評ありがたく存候。專門家にああ云はれると素人少々鼻を高く致し候。但し蝶の舌の句は改作にあらず、おのづから「ゼンマイに似る」云々と記憶せしものに有之候。昔時の句屑を保存せざる小生の事故「鐡條に似て」云々とありしと云ふ貴説恐らくは正しかるべく、從つて、もう一度考へ直し度候。唯似る―― niru と滑る音、ゼンマイにかかりてちよつと未練あり、このラ行の音を欲しと思ふは素人考へにや。なほ又「かげろふや棟も落ちたる」は「棟も沈める」と改作致し候。あゝ何句もならべて見ると、調べに變化乏しくつくづく俳諧もむづかしきものなりと存候。この頃久保田君、句集を出すにつき、序を書けと云はれ、
   「冴返る鄰の屋根や夜半の雨」
御一笑下され度候。二月號「山廬近詠」中、
   「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」
人に迫るもの有之候。ああ云ふ句は東京にゐては到底出來ず、健羨に堪へず候。頓首
   四月十日                           芥川龍之介
  飯田蛇笏樣
   *
文中の「niru」は底本でも横書。以下、この書簡について少しく注(●)する。
●『「雲母」の拙句高評』石割透編「芥川竜之介書簡集」注に、『飯田蛇笏「虚子、竜之介、幹彦、三氏の俳句近業」(『雲母』一九二七年三月号)。『梅・馬・鶯』収録「発句」について蛇笏は、「俳人以外の人々」の中で、芥川の句境は久保田万太郎以上、「まさに群を拔くもの」があると評価した』(引用部は恣意的に正字化した)とある。
●「蝶の舌の句」芥川龍之介の句では最も人口に膾炙する一句、

蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな

で、没後の「澄江堂句集」の冒頭を飾る句。但し、これは作品集『梅・馬・鶯』の句形で、初出の大正七(一九一八)年八月号『ホトトギス』「雑詠」欄のそれは、

鐵條ぜんまいに似て蝶の舌暑さかな

であった。関口安義編「芥川龍之介新辞典」(翰林書房二〇〇三年刊)の「飯田蛇笏」(小室善弘氏執筆)の項の「蛇笏が推奨する芥川の句」によれば、この句は雑詠欄の第二位に挙がった句で当時、『ここで何度も上位になることは俳人として世に認められることでもあった』とし、『この句のどこが蛇笏好みだったかといえば、観察を通して、そのものの意外な特徴を端的に取り出し、どこか神秘的なものを感じさせる点にあろう』とあり、大正七(一九一八)年五月の『ホトトギス』で『「靈的に表現されんとする俳句」を説く蛇笏は、「現俳壇に於いて、私の主張する靈的表現であります主觀滴寫生として愛誦措く能はざる作品は其の數相當の多きに上るであらうと思ふがわけてもホトトギス雜詠に發表された『鐡條に似て蝶の舌暑さかな 我鬼』の如きは其代表的なものとして擧ぐるに躊躇せぬものである。」と高く評価している(「山廬随筆」『雲母』1919・7)。』と記す(引用文中の蛇笏の文章は恣意的に正字化した。以下、同じ)。この蛇笏の主張である「靈的表現」について、小室氏は脚注「霊的表現と鬼趣」に於いて、「靈的」と『は経験的事実の写生を超える精神的、神秘的なものと考えられ』るとされ、芥川龍之介の「我が俳諧修業」(大正一二(一九二三)年六月発表。リンク先は私の電子テクスト)に載る尋常小学校四年生の折りの作とする龍之介の句が(「我が俳諧修業」本文の前書は「小學校時代。――尋常四年の時に始めて十七字を並べて見る。」)、

落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな

(後書は「鏡花の小説など讀みゐたれば、その羅曼主義を學びたるなるべし。」)『だったことからして、芥川はその初期から蛇笏の言う「靈的」ということと無縁ではな』く、『泉鏡花の神秘的な浪曼主義をこよなく愛し、』「芭蕉雑記」(大正一二(一九二三)年発表。リンク先は私の電子テクスト「芭蕉雜記・續芭蕉雜記 附草稿」に於いても『芭蕉の句に「鬼趣」を見出そうとするのは芥川自身の資質とかかわるところが大き』く、『「靈的表現」と「鬼趣」とは蛇笏と芥川をつなぐキー・ワードである』と述べておられる。蓋し、言い得て妙の評言と思う。
 また、この改作について、蛇笏は『この改作は「却つて失敗」とし、感受性に「緊張」が欠けた』と評している、と石割透編「芥川竜之介書簡集」注にある。因みに私は、初期句形の中七と下五のモンタージュの妙味は捨てがたいものの、その内在律のぎくしゃくした感じが気になり、改作の「ゼンマイ」の片仮名表記と、龍之介の述べる「似る」の音の持つ韻律の方に不思議に発条の持つ動的な映像とそれが象徴する奇妙な「暑さ」の感じを支持するものである。
●『「かげろふや棟も落ちたる」は「棟も沈める」と改作致し候』。
●「久保田君、句集を出すにつき、序を書けと云はれ……」これは後の昭和四年五月二十日に俳書堂号友善堂(石割透編「芥川竜之介書簡集」注によれば当時の俳壇の重鎮籾山梓月しげつの経営した籾山書店と同一)から刊行された百四十九句を所収する久保田万太郎の「句集 道芝」を指すが、実際には先立つ同昭和二年五月一日発行の『文藝春秋』第五年第五号に掲載されている。現在のところ電子化データはネット上にないので、以下にその全文を示す(底本は岩波旧全集。末尾の書名とクレジットは同句集にあるものを後記によって差し替えた)。
   *

 
「道芝」の序

 久保田万太郎氏は僕の先輩である。小説家としても、俳人としても、同じ中學の卒業生としても、――かう云ふ先輩の作品を云々するのは禮を失してゐるかも知れない。しかし又或は久保田氏の後輩を遇するのに厚いことを顯す所以にもなるであらう。僕はその爲にこの句集に數行の序を作ることにした。
 久保田氏は元來東京と云ふ地方的色彩の強い作家である。この特色を指摘したのは何も僕に始まるのではない。詩人兼批評家たる福士幸次郎氏に始まるのである。しかもそれは福士氏の指摘したよりも或は更に強いものかも知れない。
 東京と云ふ地方的色彩の強い作家は久保田氏の外にも多いであらう。けれども東京ちうの東京の人々、――江戸時代の影の落ちた下町の人々を直寫したものは久保田氏の外には少ないであらう。現に下町の人々は久保田氏の小説や戲曲の中に彼等自身を感じてゐる。かう云ふのは決して形容ではない。單に如何とも出來ない事實である。(從つて又久保田氏の小説や戲曲は彼等以外の人々には通じない時さへないことはない。)しかし…………
 しかし僕の言ひたいのは久保田氏の小説や戲曲の特色ではない。久保田氏の發句の特色である。久保田氏の發句は季題並みに分ければ、所謂人事の句が頗る多い。のみならず所謂天文や地理の句も大抵は人間を、――生活を、――下町の匂を漂はせてゐる。のみならず度たび東京の町の名や店の名を用ひてゐる。(東京の方言を用ひてゐることは特筆するのにも及ばないであらう。)
       藥研堀
     大又の柳に夏も老いにけり
     襟卷や亡秋月あきづきが人となり
       馬場孤蝶先生におくる
     水の谷の池うめられつ空に凧
 それから久保田氏の發句は餘人の發句よりも抒情詩的である。かう云ふ心もちは久保田氏に度たび「淋し」とか「あはれ」とかと云ふ言葉を十七字の中に用ひさせるのであらう。が、最も情味に富んでゐるのは必しも特にそれ等の言葉を用ひたものには限つてゐない。
     新參の身にあかあかと灯りけり
     もち古りし夫婦の薯や冷奴
 最後に久保田氏は下五字の中に「けり」と使ふことを好んでゐる。この句集の中の發句は百五十句を越えてゐない。が、「けり」を使つた發句は四十二句に及んでゐる。これも亦恐らくは久保田氏の詠歎を欲する爲に生じたのであらう。若し伊藤左千夫の歌を彼自身の言葉のやうに「叫び」の歌であるとすれば、久保田氏の發句は東京の生んだ「叫び」の發句であるかも知れない。
 久保田氏の發句は一言に言へば千九百年以後の東京人の發句、しかも常にその背後に小説兼戲曲家たる久保田氏を感じさせる發句である。かう云ふ特色の著しい發句に佳作のあることは言はずとも善い。しかし久保田氏は旅中にあつてもやはり依然たる傘雨亭である。
     桑畑へ不二の尾消ゆる寒さかな
 僕は夜更けに電燈の下に一氣にこの惡文を艸した。尤もまだ何か言ひたいことの殘つてゐるやうにも感じてゐる。しかしペンを取り上げて見ると、格別何も言ひたいことはない。そこでペンを抛つのに當り、次手に發句を一つ作つて久保田氏の一笑を博することにした。
     冴え返る隣の屋根や夜半の雨
                        昭和二年四月四日

芥川龍之介 

   *
以下、この序についても少しく注(■)する(但し、人名注は煩瑣になるので概ねリンクでお茶を濁した)。
■「僕の先輩」孰れも東京府立第三中学校で、龍之介は一級下であった。但し、万太郎は明治三九(一九〇六)年の四年進級試験で数学の点が及第点に達せず落第、中退して慶應義塾普通部へ編入している(ウィキの「久保田万太郎」に拠る)。
■「福士幸次郎」ウィキの「福士幸次郎」をリンクしておく。
■「大又」は筑摩類聚版全集本文のルビでは「だいまた」と読んでおり、脚注に『薬研堀にあった料亭の名』とある。
■「秋月」筑摩類聚版全集の脚注に秋月桂太郎(明治四(一八七一)年~大正五(一九一六)年一月十九日)とする。講談社「日本人名大辞典」によれば、明治・大正時代の愛知県出身の舞台俳優。本名永田秀雄。銀行員から俳優に転じ、明治二六(一八九三)年に横浜つた座で初舞台、同三十三年には大阪朝日座で高田実らと第二次成美団を結成。喜多村緑郎らと関西新派の隆盛時代を築いた。当たり役は「金色夜叉」の間貫一など、とある。
■「馬場孤蝶」筑摩類聚版全集の脚注によれば、この頃は慶應義塾大学で英文学を講じていたとある(ウィキの「馬場孤蝶」をリンクしておく)。
■「水の谷の池」筑摩類聚版全集(昭和四六(一九七一)年刊)の脚注には、『現在の台東区金杉上町』(今現在は町名改正によって台東区下谷三丁目・根岸三丁目・四丁目に相当)で、『大震災までは深さ二間乃至六間』(約三・六~一〇・九メートル)『二千二百坪の池があった。一葉の「たけくらべ」に出ている。孤蝶は一葉と親しかった』ことから、かく前書がある旨の記載がある。杉村覚氏の個人サイト「台東区」の「朝日山弁天院」には「たけくらべ」の引用や本句とともに詳しい解説がある。必見。
■「久保田氏の發句は餘人の發句よりも抒情詩的である」筑摩類聚版全集の脚注によれば、万太郎自身が本句集の内容を『家常生活に根ざした抒情的な即興詩』と述べている、とある。
■『伊藤左千夫の歌を彼自身の言葉のやうに「叫び」の歌であるとすれば』筑摩類聚版全集の脚注に、大正元・明治四五(一九一二)年から大正二(一九一三)年にかけて『「アララギ」に発表された』左千夫の『歌論。作者の自然な叫びがあるかどうかを価値判断の基準とする』とある。なかなかに分かり難い論旨らしいが、ブログ「岩田亨の短歌工房」の『伊藤左千夫「叫びと話」を読む:斎藤茂吉の写生論の祖形・3』で詳しく分析がなされている。必読(ウィキの「伊藤左千夫」も一応、リンクしておく)。
■「傘雨亭」「さんうてい」と読む。万太郎の俳号で他に暮雨という号もある。
■「冴え返る隣の屋根や夜半の雨」先の書簡では「冴返る鄰の屋根や夜半の雨」とある。但し、この句は芥川龍之介が自ら厳選した発句の中には含まれていない。しかも本「道芝」の序以外には蛇笏宛書簡にしか認められない句で、最終的に龍之介は本句を自信作としては認識していなかったものと判断せざるを得ない。

 以下、再び昭和二(一九二九)年四月一十日附飯田蛇笏宛旧全集書簡番号一五九二書簡の注(●)に戻る。
●「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」後に「大廬集」昭和二年新年の部に所収されている。
 なお、この蛇笏宛書簡を書いた時期の前後に芥川は心中未遂を起こしている。四月七日とも四月十六日ともされているが(菊池寛宛の遺書は菊池自身が十六日附と「芥川の事ども」に書き記している。但し、この菊池の言う「遺書」なるもの実態は、その叙述自体からやや不分明な点がある)、執筆場としていた帝国ホテルに於いて妻文の幼な友達であった平松麻素子ますこと心中を計画したものの平松が小穴隆一や彼女の友人で歌人の柳原白蓮びゃくれんに告白し、白蓮や文本人の説得によって未遂に終わった。「或阿呆の一生」にある「ダブル・プラトニツク・スウイサイド」である(リンク先は私の電子テクスト)。

 以下、芥川龍之介「飯田蛇笏」本文の注に戻る。
・「春雨の中や雪おく甲斐の山」没後の「澄江堂句集」にある句で龍之介会心の一作。大正十三(一九二四)年五月『にひはり』の「澄江堂句抄」(連載)には、本作のことを示すと思われる『飯田蛇笏へ贈る文のはしに』という前書があるから、大方の方は既に感じておあられるであろうが、実は本句は本文で「これは僕の近作である。次手を以て甲斐の國にゐる蛇笏君に獻上したい」などというような、偶然に本作「飯田蛇笏」をものす以前に出来ていた全く無関係な句なんぞでは毛頭なく、蛇笏への贈答句として「甲斐の山」を詠み込んだ確信犯の創作句であったと考えるべきである。次の注も参照。
・「おらが家の花も咲いたる番茶かな」大正一三(一九二四)年二月二十七日小穴隆一宛旧全集書簡番号一一六五に、

  この頃の句
春雨の中やいづこに山の雪

おらが家の花も咲いたる番茶かな

と載る。前者はまさに先に挙げた「春雨の中や雪おく甲斐の山」という句の草稿句形ともとれ、興味深い。しかもその推敲は即座に行われたものと思われ、翌三月十二日瀧井孝作宛(旧全集書簡番号一一六六)書簡には、

この頃の句
  蛇笏に
春雨の中や雪おく甲斐の山

とあるのである(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句」参照)。また手帳「我鬼句抄」には大正十年以降の春の部の掉尾として、

おらが家の花もさいたる番茶かな ウマイウマイ

という記載がある(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」参照)。


芥川龍之介「飯田蛇笏」やぶちゃん注 了