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鬼火へ


漱石先生の話   芥川龍之介

[やぶちゃん注:昭和2(1957)年5月24日から27日までの4日間に亙って新聞『東奥日報』に「芥川龍之介氏講演」として掲載された。底本は岩波版旧全集を用いた。第一回の冒頭に「北海道の講演旅行を終へ、廿一日青森に來合せた芥川龍之助氏は當日青森に開催中の改造社主催本社後援の文學講演會で『漱石先生の話』をされた、以下は其講演の記者の筆記であつて文責は勿論私にある(一記者)」〔「芥川龍之助」は当該新聞の記載のママの注記が底本にある。〕とあると底本後記にきす。底本には傍点「丶」があるが、筆記録の性質上、排除し、同様の理由からルビもその殆んどを省略した。また、この作品と類似する部分のある芥川龍之介「夏目先生」も参照のこと。]

 

漱石先生の話

 

       木 曜 會

 

 大正四五年の頃私達、私や久米君、松岡君、今東北帝大の先生をしてゐる小宮豐隆先生、野上臼川(きうせん)先生などよく夏目先生の宅(たく)に出入りしました。と言つても一週一囘、木曜日の夜に寄ることにしてゐましたが、木曜會とは誰が名づけたものかはつきりしません。先生のお宅は玄關の次ぎが居間で、その次ぎが客間で、その奧に先生の書齋があるのですが、書齋は疊なしで、板の上に絨氈(じうたん)を敷いた十疊位の室で、先生はその絨氈の上に座布團を敷き机に向つて原稿を書いて居られた。其書齋は先生の自慢の一つであつて、ある時かう言はれたことがある。『先達、京都の茶室をたくさん見て來たが、あんな茶室より、俺の書齋の方がずつと雄大で立派だ………』

 私達の木曜會はいつもその書齋で開かれました、先生の書齋の雄大さなど私にはよくわからなかつたが、天井板に鼠の穴が見え、處々に鼠の小便の跡も見ることが出來ました、書齋一つの高窓があるのですが、その高窓に監獄か、氣狂ひ病院の窓にでもあるやうな頑丈な鐵格子がしてありました、どんな了簡で先生があんな頑丈な鐵格子を用ひたものか私にはまだ疑問の一つになつて居ます――その書齋で私達は先生を中心に夜を更(ふ)かしたものです。『もう遲いから歸りたまへ』と先生に注意されてはじめて座をたつといふ有樣でした――先生のお宅は早稻田南町で、今では先生の宅の跡も大廈(たいか)高樓が竝んで居りますがその頃、先生の宅を出ると道路の向ふ側がお醫者さんの宅で、その側に小さい一尺ばかりのどぶがあつた、夜更けて先生の宅を出た私達はきまつてそのどぶに立小便をやりました。不思議なもので一人がやると、みんなやりました。今は大學教授の小宮先生や野上臼川先生も立小便の組でした。ある晩、僕と久米君とが兩先生に一足おくれて外へ出てどぶへ立小便に行くと、小宮、野上兩先生に並んで……やりながら、小宮先生が『僕は近頃、後頭部に白い髮がぼつ/\出て來ましたよ。』といふと野上先生も『僕も發見しました』と語り合つてゐたことをきいたことなどあります。木曜會では色々な議論が出ました。小宮先生などは、先生に喰つてかゝることが多く、私達若いものは、はら/\したものです。ある時、例の通り夜更けに宅を出た、立小便のところで小宮先生に『あんなに先生に議論を吹つかけて良いものでせうか』ときくと、小宮さんが言ふには『先生は僕達の喰つてかかるのを一手に引受け、はじめは輕くあしらつておき、最後に猪(い)が兎(うさぎ)を蹴散らすやうに、僕達をやつつけるのが得意なんだよ、あれは享樂してゐるんだから、君達もどん/\やり給へ』……といふので、それから私達もちよい/\先生に喰つてかかるやうになりました。

 

       國  辱

 

 先生の書齋は先生自慢の一つだつたに拘らず、こんなことがあつた。――ある時、アメリカの女(もう少し尊敬して言へば、御婦人)が二人連名で、先生へ訪問を申し込んだことがある。その女と言ふのは觀光團か何かで日本に來たアメリカの文學――文學者とまで行かなくとも詩など好んで讀んでゐる女らしく、勿論英語で申込の手紙を先生に寄せたのです。それに對し先生は訪問を斷られた。斷りの手紙は矢張り英文で認(したた)めたのですが小説を一篇書くよりその方が骨が折れたと申されました。……アメリカの女の訪問を斷られたことは如何にも不審に思はれたので、おそる/\先生に『どうしてまた、アメリカの女が折角會ひたいといふのを、斷られたんです』ときくと『夏目漱石ともあらうものが、こんなうすきたない書齋で鼠の小便の下に住んでゐる所を、あいつ等に見せられるか、アメリカに歸つて日本の文學者なんて實に悲慘なものだなんと吹聽されて見ろ、日本の國辱だ』といかつい顏をしました。先生は實にかうした一面が多かつた人であります。

 

       錢  湯

 

 先生はよく錢湯に出かけられた。ある日先生は流し場で石鹼をつかつてゐると、傍の上り湯のとこに一人の頑丈な男がどん/\湯を浴びながら、後に跼(かゞ)んでゐる先生の頭の上にその飛沫を遠慮會釋もなく浴びせかけた。――根がかんしやく持の先生は一途にむつと腹が立つたのででかい聲を張り上げて『馬鹿野郎』とどなりつけた。――どなりつけたまではよかつたが、それと同時にこの男が自分に手向つて來たらどうせうと思ふと、急に怖ろしくなつて少しうろたへたさうですが、先生のえらい權幕におそれたものかその男が、素直な聲で『すみません』と謝まつた……『おかげでやつと助かつたよ』と先生はほんとうに助かつたやうに述懷されました。

 

       詩  作

 

 先生の肝癪は實に有名なもので殊に胃腸の惡い日にはそれがひどかつた。平素でも仕事をしてゐる時はきちんと机に向つて、氣むづかしい顏をしてましたが大抵朝の九時頃から午前中原稿を書かれた。最も仕事に熱中されたのは『行人』の時と『明暗』の時で、朝の九時頃から午後の六時頃までぶつ通し書れたことも珍らしくなかつた。しかしそれは例外で、午後は仕事をきり上げて詩作に耽けられた。詩と言つても新體詩ではなく漢詩です。漢詩といふ奴は(――私などさつぱりわかりませんが)韻などゝふ六ケ敷い約束事があつて仲々面倒臭く、漱石先生もよ程その詩作が苦しかつたと見え、うん/\唸つて、七言絶句や五絶を一つか二つものしたものですがその詩作最中の先生と來たら迚(とて)もよりつき難いむづかし顏(かほ)をしてゐたものです。

 

       志賀君と先生

 

 私などはじめて先生とこへ上つてお目通りした時はどうも胸に動悸がして膝頭がブル/\ふるへたものでしたが――先輩の志賀直哉君がある日先生をはじめて訪ねまして、例の書齋に通された。先生は机の側の座蒲圈に嚴然と座り、さあ何處からでもやつて來いと言はぬ許りに構へ、禪坊主が座禪の時のやうに落着いてゐるので志賀君どこへもとりつく島がなく默然と先生の前に控へたが、膝頭がガタ/\とふるへ出して益々心細くなつて來た頃一匹の蠅が飛んで來て先生の鼻の横つちよに留まつた。先生はその蠅を追ふために手をあげたら、志賀君も救はれたのですが、先生は嚴然としたまゝ頭を横に一つ強くふつてその蠅を迫つた……ので志賀君はいよ/\困つてしまつたといふ話がありますが其時の志賀君の震ひ方がよ程強かつたものと見え、志賀君が歸つた後で先生の奧さんが先生に『あの方は心臟病か何かでせう』と言つたといふことです。

 

       檢  束

 

 先生のお宅は早稻田南町でしたがある晩界隈で火事があつた。恰度(ちやうど)先生がその火事の町を通つてこれから宅の方へ歸りかけてゐた處ヘジヤンと來たのですから、先生は非常線で圍まれてしまつたのです。そんなことには頓着(とんぢやく)のない先生がぼつ/\歩いて來るといよく非常線に差しかゝつた。巡査が威丈高な聲で『何つちから來た』ときいた。そこで先生は『はじめはこつちから(宅の方)來たが今はあつちの方(火事場の方)から來た』と頗るロジカルな先生らしい答へをした。元よりそんなロジツクなどわからう筈もない巡査は、うろん臭い奴とにらんで早速先生を檢束し、道側(みちがは)の材木を指して『かけろ』と言つたまま、又あたふたと出て行つたが間もなくもう一人の檢束された者を引つばつて來た。巡査はいきなり『貴樣は歸つても良い』と先生をにらみつけた。その時先生はこの儘其處を去るのが惜しく、なんとか一晩位警察の監房で送つて見たい氣になつて『代りが來たから追立てるんですか、もう少し此處へおかして下さい』と言つた處巡査は大へん怒つた顏をして『ぐづ/\言はんで行け』と叫んだので仕方なく宅へ歸つたといふ話もあります。

 

       禪 坊 主

 

 ある禪寺に古畫や器物の國寶があることを知つた先生はある日俥(くるま)でわざ/\此寺へ出かけ、一刻も早く國寶を見たさに靴の紐を解きかけた處、取次僧が跼(かゞ)んでゐる先生の頭の上から大音聲(だいおんじやう)で『お前はなんで靴の紐をとくのだ、誰(たれ)がお前に上がれといふた』と叱りつけた。先生もいかにもと思つて一寸(ちよつと)たぢ/\の形で顏を上げると、その瞬間取次僧は衝立の蔭にひらりと隱れた。叱られて何か言はうとした先生の形を見てとり衝立の物蔭に姿をかくしたところ流石禪坊主だと内心打たれる所があり、そのまゝ靴の紐を結び直して引返さうとすると急に衝立の蒔からその坊主が表れて『怒らずに歸るのは感心、感心』とほめ立てたさうですが先生は『衝立の蔭にかくれたまではよかつたが、後から感心々々と聲をかけるなぞまだまだ臭い、あれだからまだ玄關番などしてるのだ』と思つたさうです。

 

       女

 

 ある人が先生に、『先生のやうな方でも女に惚れるやうなことがありますか』ときくと、先生はじばらく無言でその人をにらみつけてゐたが『あばただと思つて馬鹿にするな』と言つたといふことを極く最近ある友達からきゝました。