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鬼火へ

夏目先生   芥川龍之介

[やぶちゃん注:初出未詳。岩波版旧全集に先行する岩波普及版全集第九巻に所収。普及版全集には末尾に「(談話)」の文字がある、とする。底本は岩波版旧全集を用いた。本作は発表の年月日も不詳であるが、コンテンツの配列は、内容面から底本同様、「漱石先生の話」の後に置くこととした。一部の各条の後に、注を附した。また、この作品と類似する部分のある芥川龍之介「漱石先生の話」も参照のこと。]

 

夏目先生

 

 始めて先生に合つた時、萬歳と云ふことを人の中で言つたことがあるか、ないかと云ふ話が出た。で僕は、一度もないと言つた。さうしたら先生は、誰かの結婚式の時に、萬歳と云ふ音頭をとつて呉れと賴まれて、その時に言つたことがあると言はれた。それからその外に、よくは覺えてゐないが、二三度あると云ふ話であつた。その時、何故萬歳と云ふのが言ひ難いんだらうと云ふ話になつて、先生は、人の前で目立つことをするのは極りが惡いからだと言ふ、僕は、それもあるでせうが、一體萬歳と云ふ言葉が、人間が興奮して聲を出す時に、フラアと云ふ言葉のやうに出ないで、萬歳と云ふ言葉の響きが出にくいからなんだらうと言つた時、それを先生は斷乎として認めなかつた。それを僕が強情に言ひ張るもんだから、先生は厭な顏をして默つてしまつて、僕はへこたれたことがある。それ以來、どうも先生に反感を持たれてゐるやうな氣がした。

[やぶちゃん注:芥川龍之介が初めて夏目漱石に面会したのは、大正4(1915)年12月2日(もしくは11月25日とも)で、漱石の門下生であった仏文科の学生岡田耕三(後に林原姓)に伴われて、久米正雄と共に訪れた時とされる。この時の漱石山房には、内田百閒・鈴木三重吉・小宮豊隆・赤木桁平らが居り、以後、木曜会に出席することとなった。]

 

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或時、僕が、志賀さんの文章みたいなのは、書きたくても書けないと言つた。そして、どうしたらああ云ふ文章が書けるんでせうねと先生に言つたら、先生は、文章を書かうと思はずに、思ふまま書くからああ云ふ風に書けるんだらうとおつしやつた。さうして、俺もああ云ふのは書けないと言はれた。

 

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 往來を歩いてゐたら、荷車の馬が車を離れて追かけて來た。で、逃げ出してよその家へ飛び込んだことがあるけれど、その馬は自分を本當に追かけたのか、外の人を追かけたのか、未だに分らないと言はれたことがあつた。

 

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 正岡子規が「墨汁一滴」だか何かに、先生と一緒に早稻田あたりの田圃を散歩してゐた時、漱石が稻を知らないで驚いたと云ふことを書いてゐる。さうして先生とその話が出たことがあつた。さうしたら先生が言ふのには、いや俺は、米は田圃に植ゑるものから出來ることは知つて居る、田圃に植つて居るものが稻であると云ふことも知つて居る、唯、稻――目前にある稻と米との結合が分らなかつただけだ。正岡はそこまで論理的に考へなかつたんだと、威張つて居られた。

[やぶちゃん注:正岡子規の「墨汁一滴」から該当箇所を引く。明治34(1901)年5月30日の條である。底本は1984年刊の岩波文庫版を用いたが、一部のルビを排し、残すルビは歴史的仮名遣いに変え、ほとんどの漢字を恣意的に正字に直した。

 


 東京に生まれた女で四十にも成つて淺草の觀音樣を知らんといふのがある。嵐雪の句に

     五十にて四谷を見たり花の春

といふのがあるから嵐雪も五十で初めて四谷を見たのかも知れない。これも四十位になる東京の女に余が筍の話をしたらその女は驚いて、筍が竹になるのですかと不思議さうにいふて居た。この女は筍も竹も知つて居たのだけれど二つのものが同じものであるといふ事を知らなかつたのである。しかしこの女らは無智文盲だから特にかうであると思ふ人も多いであらうが決してさういふわけでない。余が漱石と共に高等中學に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない處である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稻田から關口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田も植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのか誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の實である事を知らなかつたといふ事である。都人士(とじんし)の菽麥(しゆくばく)を辨ぜざる事は往々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうといふにはどうしても一度は鄙住居(ひなずまひ)をせねばならぬ。             (五月三十日)

 

文中にある「菽麥を辨ぜざる」とは、豆と麦の区別がつかないことで、非常に愚かなものの喩えを言う。]

 

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 或る晩のこと、みんなが先生に猛然として、論戰を吹かけた。僕は何とも思はなかつたけれども、久米が氣にして、あんなに先生に戰を挑んでいいのだらうかと小宮さんに聞いた。さうしたら小宮さんが、先生はあれが得意なんだと言つた。皆に食つてかからせて蹴ちらすのが好きなんだと言つた。

 

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 エリシエエフ君が先生に、先生の物を飜譯するのに、「庭に出た」と云ふのと、「庭へ出た」と云ふのと、どこが違ふかと言つたら、先生は、俺も分らなくなつちやつたと言つて居られた。

[やぶちゃん注:セルゲイ・グリゴリエヴィッチ・エリセーエフ Sergei Grigorievich Eliseev(フランス亡命後改名セルジュ・エリセーエフ Serge Elisséeff 1889~1975ロシアの日本学者、東洋学者。明治41(1908)年、東京帝国大学入学、1912年卒。在学中、漱石の知遇を得、木曜会にも出席していた。ハーバード大学教授、ハーバード・イェンチン研究所所長等。第二次世界大戦中は、神田古書店街の爆撃阻止に動いたとされる。]

 

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 タガヤサンのステツキの話。鈴木さんが、先生の小説の中にあるタガヤサンのステツキの話を見て、タガヤサンは堅い木で、とてもステツキなんかに切れる木ではないと言つたら、先生が眞面目な顏で、でも今は鐵でさへも切れる機械があるのに、タガヤサンの木が切れない筈はないと言つた。

 

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 安井曾太郎の畫を見て、先生は細かさが丁度俺に似て居ると言はれた。

 

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 先生は一寸したことでもよくおこつた。僕が一ぺんかう云ふ話をした。人から聞いた話で、高楠順次郎が、夏目さんなんか大學に居るよりも、外へ出て作家になつた方がよかつた人だと云ふことを言つて居たと云ふ話をしたら、先生は忽ちムツとして、俺に言はせれば高楠こそ大學に居ない方がいいんだと言つた。

[やぶちゃん注:高楠順次郎(慶応2(1866)年~昭和2(1927)年)印度学・梵字学等の日本仏教学の大家にして、教育学者。文学博士。明治22(1889)年、東京帝国大学入学後、欧州留学、その後、30数年に亙って定年まで帝国大学にて教鞭を揮う。]

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 先生が錢湯に入つてゐたら、傍に居た奴が水だか湯だかひつかけた。先生はムツとしてその男を取つつかまへて馬鹿野郎と言つた。言つたが直ぐに後で怖くなつてどうしたらいいかと思つてゐたら、いい幸に向うがこつちの劍幕に驚いてあやまつてくれたんで、俺も助かつたと言つて居られた。

 

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 夜、どつかに火事があつて、先生、火事を見に行つて歸つて來たら、刑事が非常線を張つて居るのに引かかつてしまつた。刑事が、お前はどつちから來たんだと言つた。火事場の方角から言へば向うから來たに違ひないのだけれども、家の方角から言へば、こつちから來たに違ひない、それで家は向うを出て來たが、火事場はこつちから歸つて來たんだと言つたら、刑事が兎に角そこへ待つてゐろと云つたから、丁度そこに材木のやうなものが積んであるから、そこへかけて待つて居た。そして警察へ行くのも面白いなどと考へて居る中に、又誰かが引かかつて摑まつて來た。さうしたら先生に、もうお前は行つても宜しいと言つたので、折角、一寸警察へ行つて見たいなんて考へて居る時だつたから、刑事にもう少しなんなら待つて居ませうかと聞いたら、もうよしよしと言はれて歸つて來た。

 

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 骨董を集めるのが好きで、あるものを買つたが、その字が讀めなくて、聞いたら、專賣特許と云ふ字だつた。

[やぶちゃん注:正しくは「版權免許」。この件について、夏目漱石の書簡から二通を引用する。底本は、昭和41(1967)年刊の岩波版旧漱石全集を用いた。

 

〔明治40(1907)年11月5日付菅虎雄宛八七一書簡〕

古道具屋で左の印を買つて來た處何と讀やら分らず教へてもらひたい

[やぶちゃん注:この後に印影二つがあるが、ここで芥川が挙げている該当印のみを以下に画像で示す。元画像はモノクロームであるが、色彩加工を施して印影らしくしてみた。]

 

〔明治40(1907)年11月9日付菅虎雄宛八七五書簡〕

篆字を調べてもらつた處はいゝが版權免許は驚ろいたね元來何に使つたものだらうどうも御苦勞さま難有いがつまらない

 

八七五書簡が八七一の菅の返信への御礼であることは、底本注解にある。]

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 たしか正月だつたと思ふけれど、先生のお膳に粟が付いて居た。先生は糖尿病で甘いものは何も食へないのだ。所が先生、その栗を食ひながら、僕の家内はね、甘い物と云へば菓子だけだと思つてゐるんだよ、外のものならかまはないと思つてるんだよつて、首を縮めて食つて居た。

 

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 島崎柳塢の話。

[やぶちゃん注:島崎柳塢(しまざきりうう 元治2・慶応元(1865)年~昭和12(1937)年)日本画家。江戸の大田蜀山人の実弟の家系という。川端画学校の教授を務めた。「東都第一の美人画家」と称され、漢詩人、能書家としても知られた。]

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 先生はロダンを山師だと云ひ、モオパスサンを巾着切りみたいな奴だと言つてゐた。