やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

澄江堂日錄 芥川龍之介 附やぶちゃんマニアック注 ⇒ 同縦書版

[やぶちゃん注:これは、大正一四(一九二五)年の、
〇 二月 四日~ 八日 五日間分
(六日は五日の条の最後に追記という形で記しているので記載有りと認める)と、
× 二月 九日~一六日
の欠落を挟んで、
〇 二月十七日
の六日分の芥川龍之介の日記(若しくは日記様作品)である。底本は岩波版旧全集を用いたが、以下に記す新全集版と校合して、本文各行開始位置と句読点の一部を後者で採った。新全集は山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」に所収する写真版に拠ったもので、後記によれば、用紙は罫紙で、最後の二月十七日の記載のみ墨書きで、他はペン書きとある。新全集の記号によれば、これらは一日宛一頁の罫紙と思われ、原本は日数分五枚(六日の条自体は存在しないため)存在するようである。
 各条の後に注を附し、更に本日録との関連を考え、年譜等の諸資料を用いて、空隙の幻の、
● 二月 九日~一六日
及び前後を含めた、
●大正一四(一九二五)年二月総て
(この年は平年で閏年ではないので二八日迄)の現時点での知られる年譜的諸事実を補塡しておいた(私の補塡部分は総て注記とし、本文と区別出来るように日附の頭に「●」を附した。
 なお私は、本日録が、本日録とは全く別物の「澄江堂日錄」(大正一二(一九二三)年六月六日から十一日の日録で、作品集「百艸」(大正一三(一九二四)年九月一七日刊行)に収められている「澄江堂日錄」)と同じく、何らかの目的をもって作為された、
偽「澄江堂日錄」である可能性が高い
と考えるものであるが(以下の諸注で明らかにしたつもりである)、一応、目次では旧全集の所収に準じて日録類の項に配しておくこととした。【二〇一二年十月十六日】]

澄江堂日錄

       
大正十四年

[やぶちゃん注:鷺只雄「年表読本 芥川龍之介」(河出書房新社一九九二年刊)及び新全集宮坂覺氏の年譜により、二月の頭を補塡しておく。
●二月一日 日曜
一月三十日に幼馴染みの野口功造・真造兄弟らの父(後掲される「大彦老人」のこと。後注参照)が逝去し、この日が告別式であったが、芥川は下旬から感冒に罹患して寝込んでいたため、弟子の蒲原春夫(後注参照)を代理で出席させている。因みにこの日の『中央公論』には「学校友だち」が発表されているが、そこにはまさに野口真造の項があり、『これも小學以來の友だちなり。呉服屋大彦の若旦那。但し餘り若旦那らしからず。品行方正にして學問好きなり。自宅の門を出る時にも、何か出かたの氣に入らざる時にはもう一度家へ引返し、更に出直すと言ふ位なれば、神經質なること想ふべし。小學時代に僕と冐險小説を作る。僕よりもうまかりしかも知れず。』と記されている。水木京太に読んだ脚本「継母家」の感想(一月十三日に書いたもの)に追伸を附して郵送している(後注参照)。

●二月二日
●二月三日
(以上両日には現在の資料では年譜的特記なし。)]

二月四日
力石平三、女中をつれて來る。十七歳。名はミツ。
勞働者(失業の)三人、金を貰ひに來る。但し甚だ慇懃なり。
神代來る。
小穴より來書。「よべの豆はばかりまでの寒さかな」とあり。宛名は風神殿。予の風邪にかかれるが爲なり。
久しぶりに句を作る。
    春雨や檜は霜に焦げながら
      一游亭の下宿を訪ひて、
    枝炭の火もほのめけや燒りんご
[やぶちゃん注:「力石平三」力石平蔵(ちからいしへいぞう 明治三一(一八九八)年~昭和五〇(一九七五)年)芥川作品の愛読者で、芥川の作品「トロツコ」「百合」「一塊の土」の素材(原プロット)提供者とされている。湯河原の石材業者の家に生まれ、芥川との初見は芥川の大正一〇(一九二一)年九月の湯河原静養の際かとも言われる。翌大正十一年頃、年下の女性と駆け落ちして芥川の世話で出版社金星堂に勤務したりする傍ら、創作に励み大正一五(一九二六)年二月の「文藝春秋」懸賞小説に「父と子と」が入選している。芥川の没後は郷里に戻った。翰林書房二〇〇三年刊の「芥川龍之介新事典」に『妹など身内の女性を芥川家の女中に世話』した事実が述べられており、このミツという少女もそうした一人であろう(妹ではあるまい。であれば、芥川ならそう書くであろう)。
「勞働者(失業の)三人、金を貰ひに來る。但し甚だ慇懃なり。」どうも気になるのだが、このシチュエーション、「子供の病氣」に登場するタカリの労働者と妙にダブる(こちらは文字通り『但し甚だ慇懃』なのだが、この『但し』がまるで、「子供の病氣」の時の労働者と違って『甚だ慇懃』であると芥川は述べているような錯覚に私は陥るのである(これはつい先日「子供の病氣」と、かの別稿である「澄江堂日錄」の電子テクスト化と注釈を施した負荷がかかっているからなのだが)。どうにも気になって仕方がないので、注記だけはさせて頂いた。牽強付会として無視されて構わない。
「神代」神代種亮こうじろたねすけ(明治一六(一八八三)年~昭和一〇(一九三五)年)書誌研究家。「校正の神様」と称された。島根県津和野町出身。松江師範学校を卒業して上京、海軍図書館などに勤務するかたわら、独自に明治文学の研究に従事、明治文化研究会の一員であった。校正術に秀で、雑誌『校正往来』を発刊した。芥川龍之介は自作の作品刊行の際に校正を頼んでいた。
「小穴」「一游亭」小穴隆一おあなりゅういち(明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)のこと。洋画家。芥川龍之介無二の盟友。一游亭は彼の俳号。芥川の単行本の装丁も手がけ、芥川が自死の意志を最初に告げた人物でもある。芥川には彼に宛てた遺書が残る。芥川より二歳年下。小穴は龍之介が遺書で遺児たちに、父と思えと、命じた人物である(しかし、文も遺児達も皆、龍之介の死後に彼からは縁遠くなってゆく)。次男多加志の名は「隆」を訓読みしたものに由来する。
「よべの豆はばかりまでの寒さかな」二月四日で節分に掛けた風邪の見舞句。
「久しぶりに句を作る」私は、この記載に依って、実はこの「澄江堂日錄」なるものが、実は本当の日記の断片でないのではないかと疑っている。何故なら、ここを読む誰もが、
×この日に芥川龍之介が小穴の見舞句に触発されて「久しぶりに句を作」った――
×見舞いの葉書を貰ったので小穴の下宿を訪ね、風邪に効くぞと林檎を焼いてもらい、彼と親しく話をした――
×そこでその内の自信作の二句を掲げた――
としか考えないと思うからである。ところが、
〇そうではない
のである。
 まず、
    春雨や檜は霜に焦げながら
の句は、
《二月一日附》水木京太宛旧全集書簡番号一二七九
に(水木京太みずききょうた(明治二七(一八九四)年~昭和二三(一九四八)年)は劇作家。小山内薫に師事した。母校慶応大学講師や「三田文学」、丸善の「学鐙」を編集、戦後は『劇場』の創刊に加わって主幹となった。戯曲「殉死」等。)
    春雨や檜は霜に焦げながら
と、ここと全く同一の句が記されており、しかもその句の後には、
「この句はけふ作り、少々得意故書き加へます」
とまでわざわざ作句日を明記して自信作と自慢しているのである。なお、この句は、二ヶ月後の四月に『文藝日本』に発表する歌謡・短歌・俳句計十篇からなる「澄江堂雜詠」に載せた、唯一の俳句でもあった。この後の二月二十八日附土屋文明宛書簡や、同日附佐藤春夫宛書簡にも記している、相当な自信作でもあった。
 しかも、である。次の一句、
  枝炭の火もほのめけや燒りんご
も、
《二月二日附》室生犀星宛旧全集書簡番号一二八〇
に「冠省先達は御見舞の品品難有く存候きのふ一遊亭より水墨の山茶花圖一帖とゞき候間お目にかけ候 お氣に入り候節は御手もとにお置き下され度候病中消閑の作句次手を以てお目にかけ候間御笑ひ下され度候」という手紙文とともに、前掲の「春雨や檜は霜に焦げながら」の句を挙げた、その後に、
   與一游亭話
枝炭の火もほのめけや燒林檎
と記すのである。これも前書き(「一游亭と話す」と読む)と「林檎」の表記を除いて全く相同である。即ち、
〇この「春雨は」と「枝炭の」の二句はこの日の作ではない
ということである。
 勿論、本条にも現われる通り、芥川は前月下旬より感冒のために床に就いていた模様であるから、感冒のために日記を何日か記さず、この再開した四日の部分で、その二日の作句とこの二句を載せたのだ、とも言われるかも知れない。しかし、書簡を見ると一月三十一日から二月二日までに芥川は室生犀星(三十一日)・香取秀真(一日)・蒲原春夫(一日)・水木京太(二日:この書簡は水木の脚本「継母家」の評で比較的長文であるが、実はこれ、一月十三日附で書かれたものを投函せずにあったものに、「二伸」で先の句を添えて出されたものである。)・室生犀星(二日)と、現存するだけで少なくとも四通の手紙を出しているのである。だのに、
×ここに見られるような備忘録的短文の日録を、芥川がこの六日より前の間、ずっと休止していた
ということ自体が私には如何にも考えにくいのである。
 ともかくもこの句の記載の書簡とのタイム・ラグは……何か……怪しい気がするのである……]

二月五日
香取先生より鴨を賜る。金澤の蕪鮓をおかへしにする。蕪鮓は泉さんに貰ひしもの。使を待たせておいて速製の歌を作る。「たてまつる蕪の鮓は日をへなばあぶらや浮かむただに食したまへ。」
妻、比呂志をつれて牛込へ行く。八洲相不變のよし。蒲原來る。
「たてまつる」を「金澤の」に改む。六日追記。
[やぶちゃん注:「香取先生」:香取秀真かとりほつま(明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は著名な鋳金工芸師。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の文字通りの隣人(実際に隣家)にして友人であった。
「蕪鮓」「かぶらずし」と読む。軽く塩漬けした蕪を薄く輪切りにし、寒鰤を薄切りにして挟み、それを麹に漬けたもの。北陸の冬の名産。因みに私の父はこれが大好物であるが、私はあの歯ごたえの悪さと、甘酸っぱい匂いとが苦手である。
「泉さん」泉鏡花。
「比呂志」長男芥川比呂志。当時、満四歳(比呂志は大正九(一九二〇)年の四月十日生まれであるが、戸籍上は三月三十日生まれとして入籍しており、諸資料でもそうなっている)。早期に学齢に達しさせるための仕儀か。
「牛込」旧東京市牛込区(現在は新宿区牛込)。神楽坂赤坂に妻文の実家塚本家があった。
「八洲」塚本八洲つかもとやしま(明治三六(一九〇三)年~昭和一九(一九四四)年)妻文子の弟。長崎県生。一高に入学、将来を期待されたものの、結核に罹患して後を闘病生活で送った。龍之介は彼の才能を高く評価していたとされる。
「蒲原」蒲原春夫かもはらはるお(明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)は小説家。長崎県生。芥川とは大正八(一九一九)年五月の最初の長崎訪問の際に面識を得、芥川が長崎を再訪(大正一一(一九二二)年五月)後、同郷で長崎中学校同級であった渡辺庫輔と共に上京、芥川に師事した。芥川家の近くに居を構え、主に長崎を舞台とするキリシタン小説を発表したり、芥川の編集になる『近代日本文芸読本』の手伝いなどをした。芥川没後は帰郷、長崎の郷土史研究家として、また書店を経営、市会議員なども務めている。
『「たてまつる」を「金澤の」に改む。六日追記。』これは、香取への贈答に添えた先の短歌(一部に読みを附した)、
 たてまつるかぶらすしは日をへなばあぶらや浮かむただにしたまへ

 金澤の蕪の鮓は日をへなばあぶらや浮かむただに食したまへ
に改作したことを意味する。この記載は一見、芥川の細かさをよく伝えるようにも思われる。何故なら、芥川は既に二月五日に、この歌を添えて蕪鮓を香取に送ったのであるが(旧全集書簡番号一二八一)、初句が気に入らず(確かに「たてまつる」では贈答の消息の注意書きみたようだ)に直した。現存しないが、芥川の性格から考えると、その改稿したものを清書して隣家の香取にも再送したものかも知れない。……しかし……違うのだ。……実はこれは、芥川が二ヶ月後の四月に『文藝日本』に発表する歌謡・短歌・俳句計十篇からなる「澄江堂雜詠」に載せた短歌の決定稿と一致するのである。即ち、彼は既にこの時点で、「澄江堂雜詠」の構想を企画し、そのための短歌推敲による改訂を、ここに記しているのである。]

二月七日
蒲原と編著ものに從ふ。
明日大彦老人の十日祭に當る故、精養軒に來てくれと言ふ囘状來る 德田さんの名の下に出席とあり。出席する事を約す。
菊池、三宅、岡來る。自笑軒にて晩飯。
庭の殘雪全く消ゆ。
中央公論に「田端人」を、思想に「澄江堂雜詩」を送る。
[やぶちゃん注:「編著ものに從ふ」芥川龍之介編集になる「近代日本文芸読本」の編集作業に従事するの意。全五集(巻)で東京日本橋馬喰町にあった興文社から同年十一月八日に一挙に刊行された。芥川の同読本序文では『文藝的或は文藝史的に一讀の價値ある作品を百四十八編』『收めたものである』と断定表現した後、やや自身の編集作業の問題点を挙げた上で、更に『この讀本が在來の文藝讀本よりも若干の長所があることを信じ、併せて文藝教育の上にも多少の貢獻を與へることを期待している』と言辞に注意しながらも自信を覗かせている。翰林書房の「芥川龍之介新事典」の「『近代日本文芸読本』事件」の記載によると、中学生対象の旧制中学校国語科用検定済副読本の計画で出発したもので、芥川の「序」の前にある「近代日本文藝讀本緣起」によれば、前掲の神代種亮の紹介による、興文社社長石川寅吉からの直接の依頼で、その日時は関東大震災当日、実に二年二箇月かけて完成に漕ぎつけた(「緣記」によれば、編集途中には一時期、余りの「骨の折れる仕事」に「本職も碌に出來ぬのに驚き、何度もこの仕事を抛たうとした」とも語っている)。ところが、出来上がってみると、社会主義的な実践行動が当局の忌避に触れる有島武郎と武者小路実篤の作品を除かない限り検定は通らないことが分かって申請は取り止めとなり、売り上げは上がらず、『芥川の手元に入った印税は微々たるもので、それも編集の手伝いをした蒲原春夫に渡してなくなってしま』ったにもかかわらず、その後、芥川はこの出版で儲けて書斎を建てた、貧乏作家の作品を集めて一人で儲けた、という噂が文壇に広がり、間の悪いことに、第五集に収録された「感傷的な事」という徳田秋声の作品の使用許諾依頼が、当の徳田に届いていなかったため、徳田が発行元である興文社に抗議をするという事態に発展した。芥川は文壇仲間と考えていた徳田の激しい抗議に狼狽し、結果として同読本所収の全一一九名(所収作品の総数は「序」にあるように一四八編であるが、複数作を掲載する作家が含まれている)の作家(若しくは遺族)に『薄謝』を以って謝罪するという後処理に追われることとなった(これに纏わる三木露風宛書簡や徳田秋声宛謝罪書簡は平成になってから新たに発見されている)。芥川は『そのために興文社から借金までして』いたとあり、これは芥川の自死に至る神経症的症状を増悪させた外的な大きな一因として挙げられる出来事であった。
「大彦老人」日本橋にあった呉服屋「大彦だいひこ」の旧主人。彼の次男である染織工芸家野口真造(明治二五(一八九二)年~昭和五〇(一九七五)年)は芥川の江東尋常小学校附属幼稚園入学時からの友人で、この父の逝去を受けて「大彦」を継ぎ、昭和二(一九二七)年、大彦染織美術研究所を創設、伝統工芸としての染色刺繡の研究や復元に努めた。後、戸板女子短期大学教授。先に示した「学校友だち」にあったように小学校時代に芥川とともに回覧雑誌『日の出界』『流星』を創っており(二月二十一日の私の注を参照のこと)、同じ染織家で独立した兄の功造とも芥川は昵懇であった。
「十日祭」「とうかさい」と読む。神葬祭で死後十日後に行う御霊祭(みたままつり)。
「精養軒」上野精養軒。上野公園内に現在もある老舗の西洋料理店。
「德田さん」徳田秋声。このシーンで、芥川が回状を見て徳田の出席を確認した理由は、秋声の甥が以下の岡栄一郎であり、岡は野口功造・真造の姪と結婚、その際の仲人を芥川が務めたものの、以下に見て行くと分かるように、既にこの頃、嫁姑の関係から岡夫妻は離婚話が進行していた。そうした只中での岡の親族で、且つ、文壇仲間でもあった徳田の出欠を確認したのである。穏やかならざる状況下であっても徳田が出席をする以上、仲人である芥川が顔を出さない訳には行かない。そのような芥川の繊細な気遣いが、この仕草には隠されているのである。それにしても――後の徳田絡みの曰く因縁の「近代日本文芸読本」編集の記事と、ここに徳田秋声の名が並ぶというのも――不吉なる奇しき縁とでも申そうか。
「菊地」菊地寛。
「三宅」三宅周太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四二(一九六七)年)は演劇評論家として特に文楽の再興に尽くした人物として知られる。当時は東京日々新聞学芸部記者であった。この翌年大正十五年には文藝春秋社の菊池寛に招かれて同社刊の第二次『演劇新潮』誌の編集長となっている。
「岡」岡栄一郎(明治二三(一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)は劇作家。東京帝大卒。漱石門下で芥川の勧めで戯曲を執筆、新解釈による史劇や演劇評論などで活躍した。代表作「槍持定助」など。日活で映画製作にも携わった。前年大正一三(一九二四)年六月二十五日に先に掲げた芥川の旧友野口功造真造兄弟の姪である綾子(長姉徳子の長女)と結婚し、芥川夫婦は初めての媒酌人を務めた。しかし、翌大正十四年の春の長女冨久子誕生の直後に離婚している。岡冨久子「妙ないきさつ」によれば(鷺只雄「年表読本 芥川龍之介」のコラム「はじめての仲人」からの孫引き)、離婚に至った原因は岡の姑『姑の気に入らなかった』結果、『追い出されたのである。のちに私は母に会っているけれど、『わたしの辛抱がたりなかったのよ、ごめんなさいね』と言っている。芥川がこの離婚の問題を心配している手紙が二、三通ある。(略)父は(略)芥川に八つ当たりして、ふたりの友情にひびが入った』とある。最後の部分は、岩波新全集の宮坂年譜で、離婚調停を受け持った芥川が同年四月二十九日附で『岡栄一郎に、離婚慰謝料(千円)に関する手紙を書く』とあったり、直後の五月一日附では『岡栄一郎から、慰謝料の金額について野口功造と相談したのではないかと抗議され、返事を書いて否定する』とあることからも分かる(これらの書簡は新全集版(前者が新全集書簡番号1414、後者が1422)のもので私は未見)。
「自笑軒」天然自笑軒。宮崎直次郎という養父芥川道草の一中節の相弟子が経営していた会席料理屋で、芥川家の田端への移転も、この宮崎の紹介であった。芥川龍之介の結婚披露宴もここで行われ、芥川家からも目と鼻の先である。
「田端人」は、大正一四(一九二五)年三月号『中央公論』所収(リンク先は青空文庫)。
「思想」これは岩波書店刊行の哲学・社会科学を中心とする和辻哲郎を主幹とした学術・思想雑誌『思想』(大正十年十月創刊)としか考えられない。
「澄江堂雜詩」不詳。これについては宮坂年譜に『詳細未詳』とあるきりで、例えば勉誠出版「芥川龍之介全作品事典」にも項目として挙がっておらず、確かに『未詳』以外の何ものでもない。しかし、本稿が確かに原稿として送付され、『思想』で没にされたとして、その後、本原稿が未詳であるというのは、如何にも解せぬと言わざるを得ないとは思わないか? 私はここで芥川龍之介が「澄江堂雜詩」と名付けた原稿が、その後も存在し、芥川自身によって保管――いや――再題されて他に転載されたと考えるのが自然であると考えるものである。では、それは何だったのか?
――表題と酷似するもので、この後の別雑誌に公開されたものは二つある。一つは同年四月の『文藝日本』に載った、
「澄江堂雜詠」
で歌謡六篇、短歌三首、俳句一句の計十作から成る韻文作品である。
――今一つは同年六月の『新潮』に載った俳文様形式の六編からなる同題の、
「澄江堂雜詠」
である。この内、「澄江堂雜詩」と呼んだとしてもおかしくないと思われるものは断然、韻文だけで構成された前者の「澄江堂雜詠」である。
――そこで、こういう仮説は成り立たないであろうか?
〔仮説Ⅰ〕――「澄江堂雜詩」とは――実は現在知られている歌謡六篇・短歌三首・俳句一句の計十作から成る韻文作品――「澄江堂雜詠」――であった。芥川龍之介はそれを、こともあろうに――かの天下の岩波が、軍靴の音が聞こえつつあるこの時期に、満を持して哲学・社会科学をメインとして発刊した学術・思想雑誌である――『思想』に送り付けた(勿論、原稿依頼は『思想』側から事前にあったのであろう)。主幹和辻哲郎は――芥川の友人で連句「車中聯吟」(大正十三(一九二四)年七月発行の『潮音』第一〇巻第七号に掲載。「やぶちゃん版芥川龍之介全句集 発句拾遺」参照)をものすほどの仲である上に、古代文芸への関心も深い――だから、芥川はこの原稿が採用されるものと思っていた。もしかすると和辻も掲載に乗り気だったのかも知れない。ところが――編集者の中から、
「……誰もが喉から手が出るほど欲しがる芥川氏の原稿ではありますが、幾ら古代歌謡を真似ているとは言え、プライベートな贈答歌やら、傷心の恋歌やら、糞をひり出す公達やら……失礼を承知の上で言わせて頂くならば、我々の目指している『思想』という雑誌のコンセプトからは……これは、著しく外れるとは申せませんか?……」
といった具合に、難色を示す者が出て来たのではなかったろうか? 和辻もそう言われてしまえば返す言葉はなかったであろう。……そうして……その「澄江堂雜詩」は……ボツ原稿となった。……しかし、あくまで自信作であったそれを、芥川は後日、依頼があった『文藝日本』の投稿に宛てたのではなかったか?……

――という仮説である。
――いや――
――そうしてまた、このような仮説を立て得るというのであれば、次のような可能性も挙げておかねばなるまい――寧ろ、少なくとも可能性を排除出来ないという理由からは示すべきであろう。それは、
〔仮説Ⅱ〕――「澄江堂雜詩」とは――現在、知られている片山廣子所縁の問題作である旋頭歌「越びと」二十五首(後注参照)であった。――しかし……以下は、前の仮説と同様、『思想』に相応しくないという理由で、その「澄江堂雜詩」はボツ原稿となった。……しかし……あくまで自信作で、是が非でも公開したい強い意向があった故に、芥川は直近の一週間後の二月十四日、絶対にボツにならない巧妙な手段を用いて(後注参照)、かの旋頭歌群が載るにこれ以上相応しいものはないと思われる『明星』の投稿原稿として「越びと」と改題の上、再投稿したのではなかったか?
――という仮説である。七日に『思想』が受け取った原稿がもしボツとされたのなら、作者への礼儀という点から考えても、そのボツとなった経緯を含めた謝罪と原稿返却は極めて迅速に行われたと考えてよいから、この仮定のスパンの一週間は決して短くて無理があるとは思われない。
――ただ、しかし、哀傷の絶唱旋頭歌「越びと」二十五首は、これ、「澄江堂雜詠」なんぞより遙かに『思想』には相応しくない(これは芥川龍之介自身でさえも、そう思ったに違いないはずである)。
――そうして何より、芥川はこの旋頭歌を是が非でも発表したかった、という核心が、この〔仮説Ⅱ〕の可能性を私の意識は排除するのである。この旋頭歌群は、まさに恋情の赤裸々なそれが載るに相応しい雑誌に載せたかった、載らなければならなかった、と芥川は考えたはずなのだ。従って、私はこの〔仮説Ⅱ〕は挙げながらにして、実は当時の芥川龍之介にとっては有り得ない選択肢であるとして引き下げたいと感じている、ということは是非、付け加えておきたいのである。]

二月八日
建具屋 書齋の杉戸を持ち來る。書齋のカマチは本の重量の爲もう二分五厘下りゐるよし。大彦老人の十日祭の御馳走に行く。德田さんに會ふ。德田さんは土耳古のネクタイ・ピンをして來た。午後二時散會。
歸りに室生による。一游亭の畫の落款をもう少し上げて貰ひ、下を一寸五分ほど斷ちたしと云ふ。室生の所にて堀、水上、小田に會ふ。
留守に山本實彦、春陽堂主人、神代など來たよし。春陽堂、良寛を一幅くれる。まだホンモノともガンブツとも見當つかず。
[やぶちゃん注:「カマチ」框。床などの板の端の部分を隠すための化粧横木。
「二分五厘」約七五ミリメートル強。汗牛充棟の澄江堂が髣髴とする。
「一寸五分」約四・五四センチメートル強。ここは室生が小穴から貰った絵とその軸装のバランスが気に入らず、仲の良い芥川を通して補正(落款の移動は本人でないと出来ないから)を求めているもののように思われる。
「堀」堀辰雄。
「水上」全集類聚版は『未詳。』とするが、これは高い確率で小説家水上瀧太郎(明治二〇(一八八七)年~昭和一五(一九四〇)年)ではないかと推測する。本名阿部章蔵。明治四四(一九一一)年に雑誌『三田文学』(永井荷風主宰)に「山の手の子」を発表、久保田万太郎とともに三田派の新進流行作家となる。代表作は「大阪」「大阪の宿」等。芥川龍之介との出逢いは大正六~七(一九一七~一九一八)年頃の『新詩社』主宰の短歌会席上と思われ、芥川龍之介は特に彼が大正八(一九一九)年に雑誌『新小説』に発表した小説「紐育―リヴアプウル」を高く評価していたという。また、大正一四(一九二六)年三月以降に春陽堂による「鏡花全集」出版企画では編集者の一人として、芥川龍之介及び小山内薫・谷崎潤一郎・里見弴・久保田万太郎と共に校訂編集作業に当たっており、同年十一月に出版された興文社の芥川龍之介編集になる「近代日本文芸読本」(全五巻)には、水上瀧太郎の「昼―祭りの日―」が収録されている。彼がこの時期に芥川と親しく接していたことは、この直近の二月二十二日附阿部章蔵宛書簡(旧全集書簡番号一二八五)及び三月八日附阿部章蔵宛速達で中身のない封筒(旧全集書簡番号一二八九)によって分かるからである(因みにこの前者は書信の内容が私にはよく分からない。後者の中身がないというのも不審である)。前者では冒頭『冠省先夜は失禮いたし候』とある。芥川は彼の本名の「藏」の字を書くのが苦手で(正直、嫌いなのである。因みに私も正字新字ともに何故か嫌いである)、書く際にはペンネームの水上瀧太郎の方をよく使う由、同年五月二日附阿部章蔵宛書簡(旧全集書簡番号一三二四)の二伸に記されているから、日記では当然、「水上」姓を使ったと考えてよい。
「小田」宮坂覺「芥川龍之介全集総索引」(岩波書店一九九三年刊)の「人名索引」でも「小田」姓はこの人物のみで、未詳。
「山本實彦」(やまもとさねひこ 明治一八(一八八五)年~昭和二七(一九五二)年)は改造社社長。鹿児島県生。日本大学卒。大正八(一九一九)年に改造社を創業、総合雑誌『改造』を創刊。志賀直哉「暗夜行路」や林芙美子「放浪記」・火野葦平「麦と兵隊」などが発表され、『中央公論』と併称される知識人必読の総合雑誌となった。また昭和二(一九二七)年には、最晩年の芥川龍之介が宣伝旅行に出かけた円本ブームの先駆け「現代日本文学全集」全六十三巻を刊行している。アインシュタインやラッセルなどの来日招聘にも尽力、日本の科学界・思想界にも大きく貢献した(以上は主にウィキの「山本実彦」に拠った)。
「春陽堂主人」春陽堂書店社長和田利彦(明治十八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)。広島生。早稲田大商科卒。初め博文館印刷所に勤務したが、春陽堂創業者和田篤太郎の養子となって社業を嗣いだ。関東大震災では日本橋にあった社屋を全焼するも、改造社に敢然と対抗する形で「明治大正文学全集」「日本戯曲全集」などを出版、円本ブームを巻き起こして再建した(以上は主に岩波新全集の関口安義・宮坂覺「人名解説索引」に拠った)。]

[やぶちゃん注:以下、底本では、ここまでと同一の空行で以って一気に二月十七日まで飛んでいる。その間を、年譜等の諸資料によって補塡しておく(本文と区別するために頭に「●」を附した。

●二月十一日
夕刻、本郷燕楽軒で開催された小説家協会総会に出席したか(宮坂年譜に拠る。理由は十三日の項参照)。

●二月十二日
(現在の資料では年譜的特記なし。)

●二月十三日
この日附『時事新報』の「文芸消息」欄に、二月十一日に小説家協会総会が開催、その際、幹事の選挙が行われた旨の記載があり、その投票によって就任したとする六名の幹事の中に芥川龍之介の名前が挙げられている。

●二月十四日 土曜
これよりも前の病床で与謝野晶子から歌集「瑠璃光」恵贈送付されたことへの礼状を書き、併せて片山廣子所縁の問題作である旋頭歌「越びと」二十五首を同封、私に言わせれば実に巧妙に――晶子の歌集を熱心に読んだことを伝え、遠慮がちな評で擽(くすぐ)り、晶子の関心を誘って、最後は押し付けにならぬような形で必然的を引き出すという――『明星』への掲載を依頼している。勿論、これは首尾よく、三月号の『明星』に掲載されることとなるのである。以下に、この書簡(田端発與謝野晶子宛 岩波旧全集書簡番号一二八二)を全掲しておく。

冠省先達は御本をありがたうございました。病中床の上でゆつくり拜見しました。あの連作のお歌は地震のならば地震の、温泉のならば温泉のと言ふやうに別丁を一頁づつ入れて頂くと讀む方で大へん助かりますが如何ですか。それから假名づかひ改定案につき、小生も改造に(三月の)惡口を書きました。但し小生のは要するに啖呵を切つたやうなものですが。この手紙と同封して旋頭歌を少々御覽に入れます。御採用下さるのならば明星におのせ下さい。落第ならば御返送下さつても結構です。小生自身には大抵落第してゐる歌ですから。右とりあへず當用のみ 頓首
    二月十四日                      芥川龍之介
   與謝野晶子樣

――私は、この
◎この日の出来事を抜いて残された「澄江堂日錄」
こそが、この
◎偽「澄江堂日錄」が芥川に必要とされた理由
だったのではないかと踏んでいる。――『この日の出来事を抜いた』という謂いは言葉足らずではある。では、こう言い直そう――
◎芥川にとっては向後に、何か「ある企略」があって、その中で、この『偽「澄江堂日錄」』小道具が必要になるかも知れない「ある事態」が予測されたのではなかったか?

――という推論である。これはあくまで私の勘だけに頼った仮説である。――しかし、この日録の空隙に
「越びと」の投稿
という
晩年の芥川龍之介にとって、とんでもない賭け――しかし、恐らくは片山廣子以外はそれを賭けとも何とも思わなかったのだが――
が隠されているのというは、偶然とは――私には思われないのである。

●二月十五日
●二月十六日
(以上の両日には現在の資料では年譜的特記なし。)]

二月十七日
道具屋、室生、神代、田沼、宮崎來ル。一枚モ仕事出來ズ。アシタハ又岡一件ノ爲ニ大彦來ルベシ。不愉快ナリ。
[やぶちゃん注:「田沼」宮坂覺「芥川龍之介全集総索引」(岩波書店一九九三年刊)の「人名索引」でも「田沼」姓はこの人物のみで、未詳。
「宮崎」全集類聚版は『未詳。』とするが、宮坂覺「芥川龍之介全集総索引」(岩波書店一九九三年刊)の「人名索引」にはフルネームで分かっている人物で、ここで芥川を訪問し得る宮崎姓の人物はいない。先に挙がった近くの天然自笑軒の主人で芥川とも親しかった宮崎直次郎は、残念ながら、この前月一月三日に脳出血で倒れ、同月九日に死亡している(後注に出る山崎光夫「藪の中の家」に拠る)。
「アシタハ又岡一件ノ爲ニ大彦來ルベシ」「不愉快ナリ」これは先に解説した岡の離婚問題の相談のために、岡の妻の叔父であると同時に芥川の幼馴染みでもある、父が亡くなって呉服屋「大彦」を継いだばかりの次男野口真造が来訪する予定を記したものである。仲人をやった関係上、致し方ないとはいえ、「不愉快」は、察して余りあると言える。]

[やぶちゃん注:以上で本「澄江堂日錄」は終わるが、冒頭の塚本八州の様態及び離婚問題を抱えた岡栄一郎の問題、更には野口真造とも親しかった清水昌彦の関連で二月末日までの年譜的事実を追補しておく。

●二月十八日
岡夫妻の、嫁姑の不仲から発展した離婚話のために岡夫人綾子の叔父で、芥川の友人でもあった野口真造が来訪するか(宮坂年譜は「来訪する」としているが、そのソースは本日録の前日の記載に基づくのであるから断定はおかしい)。以下、宮坂年譜では『夜、塚本八州が三度目の喀血をし、以後、見舞いなどで謀殺されることになる』(これは次の項で紹介する清水昌彦宛書簡に基づく事実)。『下島勲に往診を依頼し、二人で自動車に乗り、牛込神楽坂の塚本家に駆けつけ』、午後九時二〇分頃に帰宅している。ここは文藝春秋平成九(一九九七)年刊の山崎光夫氏の「藪の中の家」に載る下島の日記に基づいている。
下島勲(明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年)は医師。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものした。また書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。彼の家(医院)は、先に挙げた天然自笑軒の道を挟んだ西北斜め前にあった。山崎光夫「藪の中の家」より日記の当該箇所を引用しておく(但し、私のポリシーに則り、漢字は正字化し、芥川の日録と区別するために一行字数を減じてある)。
  二月十八日 半曇
 夜芥川氏の奥さんが來て弟君の病氣、面白からぬよしにつき
 是非往診しくれとのこと。早速承諾。芥川氏同道、自動車に
 て牛込神樂坂赤坂赤城神社界内、塚本氏を見舞ひ九時二十分
 頃歸宅。診察結果さしたることなし。芥川氏足駄をはき違へ
 たり。いつもながら呵し。
底本では山崎氏によって『往診しくれ』の部分で『し(て)くれ』と補塡があり、『界内』の「界」には『(境)』の傍注が附してある。『呵し』には「おかし」とルビを振る。ここでは特に『芥川氏足駄をはき違へたり。いつもながら呵し』というユーモラスな描写を記憶しておいて戴きたい。

●二月十九日
●二月二十日
(以上の両日には現在の資料では年譜的特記なし。)

●二月二十一日 土曜
小中学校時代の同級生で海軍将校になっていた清水昌彦が重度の結核で三島に療養中であることを本人からの手紙で知らされ、手紙を書く(恐らくこの日か直近の二日間で受け取ったものと思われる。ここは鷺年譜を参照した)。清水昌彦は、江東小学校時代に回覧雑誌を作ったりした幼馴染で、明治三十九(一九〇六)年に東京都立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の生徒だった芥川龍之介が書いた、近未来の日仏戦争を描く、夢オチ空想科学小説「廿年後之戦争」の中で、好戦の末、轟沈する『帝国一等装甲巡洋艦「石狩」』の最期を報じる「石狩分隊長少佐淸水昌彦氏」として登場している(リンク先は青空文庫。末尾をご覧頂きたい。『発行人 野口真造』及び『大売さばき 大彦屋書店』とあって、野口真造と芥川龍之介、そしてこの清水昌彦の交流もここでもはっきりと見てとれる)。彼は正に憧れの海軍士官となったが、その後は音信が途絶えていた。二月二十一日附旧全集書簡番号一二八四の清水昌彦宛書簡(田端発信)の全文を以下に示す(「〱」は正字に直した)。

冠省君の手紙を見て驚いたそんな病気になつてゐようとは夢にも知らなかつたのだから。第一君が呼吸器病にならうなどとは誰も想像出来なかつた筈だ。君の手紙は野口眞造へ郵便で送る。僕は胃を患ひ、腸を患ひ、神経衰弱を患ひ、惡い所だらけで暮らしてゐる。生きて面白い世の中とも思はないが、死んで面白い世の中とも思はない。僕も生きられるだけ生きる。君も一日も長く生きろ。實は僕の妻(山本喜譽司の姪だ)の弟も惡くて今度三度目の喀血をしたのでいま見舞に行くやら何やらごたごたしてゐる所だ。其處へ君の手紙が來たので餘計心にこたへた。何か東京に用はないか。もつと早く知らせてくれれば何かと便利だつたかも知れないと思つてゐる。この手紙は夜書いてゐる。明日近著「黄雀風」を送る。禮状、返事等一切心配しないでくれ給へ。
   冴え返る夜半ヨハの海べを思ひけり
    二月二十一日夜   龍之介
   昌彦樣

素の龍之介の優しさが伝わってくる手紙である。清水はしかし、同年四月十日前後に逝去の報が入った。同年四月十三日の府立三中時代の共通の友人西川英二郎宛の書簡(旧全集書簡番号一三〇〇)には「淸水昌彦が死んだ。咽喉結核と腸結核になつて死んだのだ。死ぬ前に細君に傳染してこの方が先へ死んでしまつた。孤兒四歳。」と書いている。
 なお清水は翌大正十五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載された芥川龍之介の「追憶」(後に『侏儒の言葉』にも所収)の中の「水泳」に登場している。以下、当該章「水泳」を総て引用する(引用元は私のテクスト)。

       水  泳

 僕の水泳を習つたのは日本水泳協會だつた。水泳協會に通つたのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通つた筈である。當時は水泳協會も蘆の茂つた中洲から安田の屋敷前へ移つてゐた。僕はそこへ二三人の同級の友達と通つて行つた。淸水昌彦もその一人だつた。
 「僕は誰にもわかるまいと思つて水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびつくりしてしまつた。ウンコは水よりも輕いもんなんだね。」
 かう云ふことを話した淸水も海軍將校になつた後、一昨年(大正十三年)の春に故人になつた。僕はその二、三週間前に轉地先の三島からよこした淸水の手紙を覺えてゐる。
 「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併發してゐる。妻は僕と同じ病氣に罹り僕よりも先に死んでしまつた。あとには今年五つになる女の子が一人殘つてゐる。………まづは生前の御挨拶まで」
 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思ひ、なんとか云ふ發句を書いたりした。今はもう發句は覺えてゐない。併し「喉頭結核でも絶望するには當たらぬ」などと云ふ氣休めを並べたことだけは未だにはつきりと覺えてゐる。

年次や子の年などの些細な部分などは問題ではない。芥川の「追憶」の叙述に粉飾は皆無である。

●二十二日
●二十三日
●二十四日
●二十五日
●二十六日
(以上には現在の資料では年譜的特記なし。)

●二十七日
前掲書山崎光夫「藪の中の家」の下島の日記に基づくと、下島勲を伴って弟八州を再度見舞ために塚本家を訪れる。下島は診察後、芥川と一緒に『洋食屋で夕食をとって、銀座に出、雪模様の中、日本橋まで歩く。カフェーに寄り、熱い紅茶を飲んで電車(市電)に乗った。団子坂を通るあたりで二人は故森鷗外を偲んで、潮見坂談義にふける』(団子坂はその坂上から佃島辺の海が見えたことから潮見坂とも呼ばれた。鷗外の住んだ観潮楼は団子坂の途中で藪下の通りを右に曲がったところにあった)。『動坂で電車を降りると雪はひどい吹雪に変わっていた薬局で傘を借りたが』(「薬局」なのは下島の職業上の信頼度からであろう)、この時に龍之介は又しても『いつもながら呵し』な行動に出る、として山崎氏は下島日記を引用されている。
  此時電車へカバンを忘れたのを氣付く。思はずシマッタと
  云ふと徐ろに芥川君が外套の下から出してくれたので安心
  した。
ここで薬局で傘を借りようとして鞄に気づくのは如何にもリアルである。医師の証明は往診鞄を示すだけでも足りよう。なお、ここで山崎氏はこの部分の日記原本について『日記の本文では、「ので安心した」に縦線を引いて消去し、その右側に訂正文を書いているが判読できない』と記されており、フリークで重箱の隅をほじくりたい私などは、その訂正文の内容に惹かれる(もしかするとそこには下島の隠された芥川への複雑な感情が示されているかも知れないからである)。山崎氏は『この手の悪戯には同業の物書きたちが何度もひっかかって』おり、悪戯者『龍之介を彷彿とさせる』と述べておられる。年譜的事実だけを管見すれば――大彦老人の死――感冒罹患――今一つ気乗りしなくなっていた「近代日本文芸読本」の編集作業――片山廣子へ掻き毟りたくなるような哀傷――岡の離婚問題に絡む人的トラブル――八州の結核悪化――少年期の思い出の中のプエル・エテルヌス清水昌彦のあくまで暗い人生……と、あたかも不幸と絶望が腐臭を放つような事柄が内から外からも襲って来て『不愉快に消光してゐる』(次条参照)芥川しか見えないものが、こうした下島のサイド・ライトが当たることによって、芥川や下島はもとより、読んでいる我々自身がほっと一息出来る、芥川のポジティヴな日常が垣間見えてくるではないか。

●二月二十八日 土曜
土屋文明から歌集『冬くさ』を贈呈されたことへの礼状を書き(旧全集書簡番号一二八七)、郷里の和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)に帰っていた佐藤春夫には、隣りの香取秀真からも新宮は良いところの由『聞いてゐるので行つて見たい氣もする僕は雅俗いろいろ混用の爲仕事も出來ず不愉快に消光してゐるの田舍に落ちついてゐるのは羨しい』と書き送っている(旧全集書簡番号一二八八)。冒頭で述べたように、両者への書簡には二月一日に創った例の句が添えられている――「ゴルトベルグ変奏曲」の如く、私の注もこのアリアに戻って終わりと――致そう――]

   春雨や檜は霜に焦げながら


澄江堂日錄 芥川龍之介 附やぶちゃんマニアック注 完