やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
子供の病氣――一游亭に―― 芥川龍之介
附やぶちゃん詳細注
[やぶちやん注:大正一二(一九二三)年八月発行の『局外』に掲載され、後に作品集「黄雀風」(大正一三(一九二四)年七月一八日刊行)及び「芥川龍之介集」に所収された。本作は次男芥川多加志の発病から入院、後に全快するという、大正一二年六月八日(金曜日)の朝から十一日(月曜日)深夜までの事実に基づく四日間を主に描いた小品である。底本は岩波旧全集を用いた。但し、底本の本作は総ルビであるため、読みの振れるもの及び若い読者には難読と思われるもののみのパラルビとした。作業を効率化するため、加工用テキスト・ベースとして新字新仮名の青空文庫版のベタのテキスト・ファイル(入力 j.utiyama 氏校正かとうかおり氏になる筑摩全集類聚版芥川龍之介全集底本の二〇〇四年三月一五日更新版)からルビを排除したものを利用させて頂いたので、ここに記して謝意を表しておく(当該データには表記以外にも助詞の異同等の大きな違いが認められるが、私は新字採用の岩波新全集は勿論、岩波旧全集の旧ヴァージョンを底本とする新字採用の筑摩全集類聚版芥川龍之介全集も芥川龍之介の正規テクストとは見做していないので、その校異は省略する)。末尾に詳細な注を附した。なお、本テクストは、これから作業に入る芥川龍之介が随筆集「百艸」(翌年の大正一三(一九二四)年九月一七日刊行)に「澄江堂日録」として公開した記録の、その関連資料として必要性を感じ、テクスト化し、注釈を加えたものである。【二〇一二年九月二九日 藪野直史】
「TINA」様という未知の女性の方から寄せられたメールから、唯一、全く不詳であった謎であった「しほむき」を解明、私の考察を含めて注を補塡した。【二〇一二年一〇月四日】
私の注釈附電子テクスト「澄江堂日錄」が二〇一二年一〇月一一日に完成したのでリンクを追加し、一部の注の表現を改訂した。【二〇一二年一〇月一五日】]
子供の病氣
――一游亭に――
夏目先生は書の
――すると急に目がさめた。
翌朝目をさました時にも、夢のことははつきり覺えてゐた。淡窓は
Sさんは午前に一度、日の暮に一度診察に見えた。日の暮には多加志の
自分は夜も仕事をつづけ、一時ごろやつと床へはひつた。その前に
けれども
自分はSさんの歸つた
神經にさはることはそればかりではなかつた。午後には見知らない靑年が一人、金の工面を賴みに來た。「僕は筋肉勞働者ですが、C先生から先生に紹介狀を貰ひましたから」靑年は無骨さうにかう云つた。自分は現在
Sさんは日の暮にも洗腸をした。今度は粘液もずつと減つてゐた。「ああ、今晩は少のうございますね」手洗ひの湯をすすめに來た母はほとんど
翌朝自分の眼をさました時、伯母はもう次の間に自分の蚊帳を疊んでゐた。それが蚊帳の
多加志はたつた一晩のうちに、すつかり眼が窪んでゐた。
その日は客に會ふ日だつた。客は朝から四人ばかりあつた。自分は客と話しながら、入院の
そこへまた筋肉勞働者と稱する昨日の靑年も面會に來た。靑年は玄關に立つたまま、昨日貰つた二册の本は一圓二十錢にしかならなかつたから、もう四五圓くれないかと云ふ掛け合ひをはじめた。のみならず如何に斷つても、容易に歸るけしきを見せなかつた。自分はとうとう落着きを失ひ、「そんなことを聞いてゐる時間はない。歸つて貰おう」と怒鳴りつけた。靑年はまだ不服さうに、「ぢや電車賃だけ下さい。五十錢貰えば
四人の客は五人になつた。五人目の客は年の若い
自分は新たに來た客とジョルジュ・サンドの話などをしてゐた。その時庭木の若葉の
午後にも客は絶えなかつた。自分はやつと日の暮に病院へ出かける時間を得た。曇天は
N君の歸つたか歸らないのに、伯母も病院から歸つて來た。多加志は伯母の話によれば、その後も二度ばかり乳を吐いた。しかし幸ひ腦にだけは異狀も來ずにゐるらしかつた。伯母はまだこの外に看護婦は氣立ての善ささうなこと、今夜は病院へ妻の母が泊りに來てくれることなどを話した。「多加ちやんがあすこへはひると
家を出た時はまつ暗だつた。その中に細かい雨が降つてゐた。自分は門を出ると同時に、
病院へ着いたのは九時過ぎだつた。成程多加志の病室の外には姫百合や撫子が五六本、洗面器の水に浸されてゐた。病室の中の電燈の玉に風呂敷か何か懸つてゐたから、顏も見えない程薄暗かつた。其處に妻や妻の母は多加志を中に挾んだまま、帶を解かずに横になつてゐた。多加志は妻の母の腕を枕に、すやすや寢入つてゐるらしかつた。妻は自分の來たのを知ると一人だけ布團の上に坐り、小聲に「どうも御苦勞さま」と云つた。妻の母もやはり同じことを云つた。それは豫期してゐたよりも、氣輕い調子を帶びたものだつた。自分は幾分かほつとした氣になり、彼等の枕もとに腰を下した。妻は乳を飮ませられぬ爲に、多加志は泣くし、乳は張るし、二重に苦しい思ひをすると云つた。「とてもゴムの
* * * * *
多加志はやつと死なずにすんだ。自分は彼の小康を得た時、入院前後の消息を小品にしたいと思つたことがある。けれどもうつかりさう云ふものを作ると、又病氣がぶり返しさうな、迷信じみた心もちがした。その爲にとうとう書かずにしまつた。今は多加志も
□やぶちゃん注
〇勉誠社平成一二(二〇〇〇)年刊「芥川龍之介作品事典」の関口安義氏の解説によれば、『この作品には豊島与志雄の小説「生と死との記録」(『帝国文学』一九一八・一)が意識されている。「生と死との記録」は、幼い長男が消化不良で苦しみながら死に、一方で身重の妻が長女を安産する次第を冷静な筆致で綴ったもので』、芥川は豊島の当該作に学んで、自分が体験した事実を、『構想から筋立て、それに書き振りまでとりいれて作品化したのである』と解説なさっておられる(私は「生と死との記録」は未見)。
本作を事実と照らし合わせて考えるなら、その主部は、
大正一二(一九二三)年六月 八日早朝
に始まり、
同 六月一〇日夜九時過ぎ
で終わるものである。但し、冒頭注で示した「澄江堂日録」(これ自体が公刊されたもので、本当の芥川龍之介の私的な日録そのままであるかどうかは、甚だ疑問ではある)と比較すると、その細部は少なからず異なっている。当該箇所を日を追って順に見ると(「澄江堂日録」の中の語注はリンク先を参照されたい)、
六月八日
『サンディ毎日』の小説を起稿す。多加志、消化不良の氣味あり。夜下島先生、往診せらる。又藤澤氏來訪。
とあって、本作のように早朝から状態が悪く、夫婦間で即座に下島医師の診察を受けに行く相談が決まったという感じがしない。往診の回数も本作は午前中と「日の暮」の二度だが、ここでは「夜」の一度きりである。ここでは、事実は昼間に下島の元へ来診さえしていない可能性も窺える。
六月九日
菅藤氏と『ユキジリエル・デス・トイフエルス』を讀む。第二章はおほむね面白からず。事件も不自然に過ぎ、妖婦オイフェミイの性格も説明に過ぎたるものの如し。多加志の病、よろしからず。下島先生、診斷せらるること三度。
今度は逆に、下島の往診回数が一回多く(本作では午前中と「日の暮」の二度のみ)、「菅藤氏」なる人物の訪問は本作では描かれていない(後注「年の若い佛蘭西文學の研究者」の項を参照されたい)。
六月十日
午前、多加志を字津野病院に入院せしむ。室生、伊藤、池田、田沼、和田、成瀨、渡邊の諸氏來訪。
夜、宇津野博士を訪ふ。多加志の命、必ずしも絶望すべからざるが如し。『サンディ毎日』の小説を斷念す。
客の人数は本作では当初の「四人」から「五人」となり、そこから「午後にも客は絶えなかつた」とするだけで、最終的な人数を述べていないが、ここではその総数が七人を数えることが分かる。本作でもその程度と類推はされるのだが――「七」という実数は確かに表現するには多すぎる――のである。多加志の入院を尻目に七人もの来客と議論をする主人公というのは、私には戴けない。断るべきである。予め決められた仕方のない来訪であったとしても、私には「四」、「五」人が限界に近い。細かい部分であるが、芥川の表現の有意味性が、私には感じられるところである。本話の主部は、この夜の病室訪問で終わっている。ところが、「澄江堂日録」の方はと言えば、翌日の記事があり、
六月十一日
早朝、多加志の容體稍よろしとの電話あり。薄暮、病院に至る。又一游亭を訪ふ。座に古原草君あり、話熟、深更に及ぶ。再び病院に至れば門既に閉ぢたり。唯多加志の病室の燈火を見しのみ。
とある。この最後の頗る映像的で印象的な事実を、芥川は本作の方には描いていない。恐らくは、描こうと思ったのであろうが、最後のコーダとの連結が上手くいかないことから断念したものと思われる。森鷗外の「舞姫」ではないが、夜の病室の灯火では、ハッピー・エンドとは如何にも相性が悪い。
〇「一游亭に」「一游亭」は
〇「旭窓」「旭窓外史」次に掲げる広瀬淡窓の孫の代にはこういう名の人物はいない(全集類聚版注)。芥川も後文で「しかし旭窓だの夢窓だのと云ふのは全然架空の人物らしかつた」と言っている。但し、広瀬淡窓の末弟に
〇「淡窓」「廣瀨淡窓」広瀬淡窓(天明二(一七八二)年~安政三(一八五六)年)は儒学者で漢詩人。豊後国
〇「夢窓」広瀬淡窓の子や嗣子には夢窓なる人物はおらず、彼の子に当たる養子となったのは第三代塾主である廣瀬
〇「妻」芥川
〇「多加」「多加志」芥川多加志(大正一一(一九二二)年~昭和二〇(一九四五)年)は大正一一(一九二二)年十一月八日、芥川龍之介・文の次男として東京府北豊島郡瀧野川町字田端に出生した。当時は未だ生後六箇月であった。以下、私のブログ・カテゴリ「芥川多加志」中の「蒼白 芥川多加志 /附 芥川多加志略年譜」に書いた私の年譜から抜粋し、更に手を加えたものを示す。リンク先では、あらゆる点で父芥川龍之介に最も似ていたと言われ、三兄弟の中でも最も優れていたとも伝えられる、青年芥川多加志の書いた詩を読むことが出来る)。
昭和二(一九二七)年七月二四日の龍之介自死の際は四歳、聖学院附属幼稚園入園の三箇月後であった。鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」(河出書房新社一九九二年刊)の自死前日の下りを引く。七月二三日の『昼食は夫人や三児と楽しく談笑しながらとり、多加志が食卓を蹴ったので龍之介は多加志にお灸をすえた。』――死を美事に決していた龍之介に灸をすえられた多加志――私にはそこに龍之介の多加志への愛を見る。
例えばこれを、小沢章友はその小説「龍之介地獄変」(二〇〇一年新潮社刊)で頗る臨場感のある印章的暗示的な場面として描いている(私はこの小説が、ある個人的体験と共振して大変好きなのであるが)。
*
――昼飯の卓袱台で、比呂志が父の龍之介に描いてもらった絵を多加志に見せびらかし、多加志が父に今直ぐに僕にも描いてと駄々を捏ね、卓袱台の足を蹴る。その罰として灸のシーンとなるのである。おびえる多加志に心の中で語りかける。
『よくないことをしたら心が熱くなる。その熱さと痛みをおまえが忘れないように、お父さんはおまえにお灸をすえるのだ』。
しかし、多加志に足の小指に灸をすえた直後、多加志が
「かちかち山だよう。ぼうぼう山だよう」
と泣き叫ぶと、それを心配そうに見ていた伯母フキが
「似ているねえ。同じことを言っているよ」
と言う。
『ふと龍之介は自分が幼い多加志になったような錯覚を抱いた。』
そうして、
『灸の熱が多加志のあしの小指の皮膚につたわる寸前で、龍之介はもぐさを手でつまみあげた。手を焼く熱の痛みが胸に痛いほどに感じられて、龍之介は涙をこぼしそうになった。』
とあって、陽気な団欒の昼御飯となる。その後、龍之介は多加志を連れて、二階の書斎に行く。そこでかねての多加志の所望であった絵を描くのであるが、楕円形の島を描き、花を描き、そして
『その花に、愛らしい蝶の羽を生やさせた』。
訝る多加志に龍之介はこう言う。
『これはね、スマトラの忘れな草の花さ』
『いいかい、多加志。この日本のずうっとずうっと南に、ふしぎな島があるんだ。スマトラの忘れな草の島さ。その島にはとても匂いのいい、白いきれいな花が咲いている。その花はなんだと思う?』
『その花はね、魂なんだよ』
『そうさ、ひとは死ぬと、スマトラの忘れな草の島へ、蝶々のかたちをした魂になって飛んでいく。島にたどりつくと、蝶々は白い香り高い花に変わる。それから、時が来て、また花は蝶になって飛びたつのさ。こうやって』
と、もう一枚、その花が持っている蝶の羽を羽ばたかせて飛翔するさまを描いてやる。その二枚の絵をもらって、多加志はにこにこしながら階段を駆け下ってゆくのである――
*
ちなみに、この「スマトラの忘れな草」は龍之介の「沼」に登場する(リンク先は私のテクスト)。
*
昭和 二(一九二七)年 中里幼稚園(現在の聖学院付属幼稚園)入園
昭和 四(一九二九)年 豊島師範学校附属小学校入学
昭和一〇(一九三五)年 私立暁星中学校入学
昭和一五(一九四〇)年 東京外国語高等学校(現在の東京外語大)仏語部文科に入学するも重度の肋膜炎で一年余休学
昭和一七(一九四二)年 一月 三日 暁星中学校時代の旧友らと回覧雑誌『星座』創刊
昭和一八(一九四三)年一一月二一日 兄比呂志と最後の面会
一一月二八日 出征(陸軍朝鮮第二十二部隊入営)
昭和一九(一九四四)年 六月二九日 ビルマ戦線起死回生の投入のための陸軍第四十九師団歩兵第一〇六連隊(狼一八七〇二)の一兵士として朝鮮発
八月 二日 フランス領インドシナのサイゴン着
九月一三日 バンコク発
九月二五日 ビルマのキャウタン着
一〇月以降 ペグー付近の警備に当たる
昭和二〇(一九四五)年 一月 ラングーン街道陣地構築
三月 メイクテーラの戦闘
四月一三日 ビルマのヤーン県ヤメセン地区の市街戦にて胸部穿透性戦車砲弾破片創により戦死 享年二十二歳
*
戦友の一人が、多加志の小指の第二関節を切除し、遺骨として持ち帰ろうと試みたが、その戦友もまた行方不明となった。従って、慈眼寺のあの龍之介の墓の隣りにある芥川家の墓に、彼の骨は、ない――多加志は蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう……(年譜部分は新潮社二〇〇七年刊
〇「長男」「比呂志」後に文学座の名優となる芥川比呂志。彼は大正九(一九二〇)年三月三〇日生まれであるから、当時、満三歳と二ヵ月程である。
〇「Sさん」下島勲(明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年)。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川家及び芥川龍之介の主治医、また龍之介の友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものし、空谷と号した。また書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。底本後記によれば、実は初出では次の段落の「それが多少氣になり出したのはSさんから歸つて來た妻の言葉を聞いた時だつた。」の一ヶ所のみ、「それが多少氣になり出したのは下島さんから歸つて來た妻の言葉を聞いた時だつた。」と、実名を消し損なっている主旨の記載がある。
〇「講釋師に南窓と云ふのがあつた」全集類聚版脚注は『未詳。』とするが、これは江戸後期の講釈師
〇「敷島」国産の吸口付き煙草の銘柄。明治・大正・昭和初期迄の小説に頻繁に登場する、言わば文士のアイテムである。明治三七(一九〇四)年に発売され、昭和一八(一九四三)年販売終了。口付とは、紙巻き煙草に付属した同等かやや短い口紙と呼ばれるやや厚手の紙で出来た円筒形の吸い口のことで、喫煙時に十字や一文字に潰して吸う。確か私の大学時分まで「朝日」が生き残っていて、吸った覚えがある。
〇「洗腸」浣腸。
〇「さらひ出した」「
〇「後架」便所。元来は禅宗寺院で僧堂の後ろに架け渡して設けた洗面所のことを言った。「ごか」とも読む。
〇「母」養母芥川
〇「細帶一つになつた母は無器用に金槌を使つてゐた。その姿は何だか家庭に見るには、餘りにみすぼらしい氣のするものだつた。」恐らくは無地の
〇「その聲は年の七つも若い女學生になつたかと思ふ位」当時、文は数え二十四歳であるから、七年前は大正五(一九一六)年で十六歳(満十五歳)。正に龍之介が彼女にプロポーズの手紙を書いたのは、この大正五年八月二十五日のことであった。
〇「疫痢」三歳から六歳程度の小児の罹患することが多い、発熱・嘔吐・ひきつけ・意識混濁などを呈するところの細菌性赤痢の一病型を言う語。当時は死亡率が高かったが、近年では重症例は少ない。近年、医学的には小児期ショック様症候群と呼ぶらしい。なお従来、赤痢と呼ばれていたものは現在では細菌性赤痢とアメーバ性赤痢に分けられ、一般的に赤痢と呼ばれているものは赤痢菌による細菌性赤痢を言う。私の妻はかつて一緒に行ったトルコ旅行で、シゲラソンネ一相(Shigella sonnei D群赤痢菌・ソンネ赤痢菌)なる赤痢菌の細菌性赤痢に罹り、帰国後、美事に隔離されたことがある。
〇「疫痢ぢやありません。疫痢は乳離れをしない内には、――」細菌性赤痢は汚染された糞尿などから食物や水などを経由して経口感染するケースが大半であるから(私の妻とツアー一行大半はトルコの三ツ星ホテルのディナーの、大きなガラス・デキャンタ入りで密閉されたものではないミネラル・ウォーターが感染源であった。トルコでは、くれぐれもご注意を。私だけが何故感染しなかったかって? 私は旅行直前に副鼻腔炎の疑いがあり、旅行中、欠かさず抗生物質を飲み続けていたからであろうと推測する)、お乳しか飲まない乳児は感染率が低いことを言おうとしているものと思われる。
〇「見知らない靑年が一人、金の工面を賴みに來た」「かう云ふ寄附」社会主義者を標榜する労働運動家の、カンパを装ったタカリである。
〇「C先生」社会主義のシンパの活動家か作家らしいが、不詳。芥川龍之介はプロレタリア文学運動へも一定の理解を示していたから(但し、ここでは寧ろ、それらを軽蔑すべき対象としてカリカチャライズしてはいる)、何人かの候補は挙がろうが、これは作品上の虚構である可能性も拭えない(実際の「澄江堂日録」に記載がないこと、後年の年譜類でもこの事実を記さないことなどから推測した。但し、奥附を点検するとか、二度目に帰りの電車賃をせこくせびるなど、シークエンスとしては結構(「さらひ出した」並にえげつなく)、リアルで、こういう出来事に類似した事実の経験や、この若者と大差ない、芥川の名声目当てでやってくる若い推し掛け連中への一種の嫌悪感は以前からあったものと考えてよかろう)。
〇「自分は情ない心もちになつた」非売品の本だから売れないのではという、単細胞俗物的唯物主義者への痛烈な皮肉である。
〇「伯母」芥川フキ。養父道章の妹。儔の一つ上。当時、満六十七歳(フキの誕生日は八月四日)。
〇「U病院」駒込片町の小児科専門病院である宇津野病院。宮坂年譜によれば、院長は宇津野研。
〇「けれども指先に出して見ると、ほんたうの齒の缺けたのだつた。自分は少し迷信的になつた」歯が欠けることを不吉とする傾向は洋の東西を問わずある。
〇「抱一の三味線」琳派の名絵師
〇「年の若い佛蘭西文學の研究者」未詳。芥川の周辺には同期の
*菅藤政徳(明治二九(一八九六)年~昭和五六(一九八一)年)は独文学者で作家。明治大学名誉教授。ペン・ネームの
が訪れている。彼の生年を見て頂きたい。当時、満二十七歳である(芥川は三十一歳)。彼なら「年の若い」獨逸「文學の研究者」ではある。この辺に、私は本作の虚構があるように思われる。即ち、事実は若い菅藤との輪読批評であったが、話柄の内容をそっくり成瀬に付会(六月一〇日の来訪の折りの話であったのかも知れない)したのではなかったか、という私の推理である。
〇「しほむき」不詳。本来は「汐剥き」「塩剥き」で、アサリ・ハマグリ・バカガイなどを生きている時に剥き身にすること、また、そのものを言うが、「自分は色の惡い多加志の額へ、そつと脣を押しつけて見た。額は可也火照かなりほてつてゐた。しほむきもぴくぴく動いてゐた」という直後の描写からすると、額に唇を当てた際に視界に入る蟀谷(こめかみ)の青筋、静脈のことを言っているか? それとも剥き身の貝に近いというなら唇か? いろいろ調べてみたが、遂に分からない。識者の御教授を乞うものである。【二〇一二年一〇月四日追記】昨日の夕刻、「TINA」様という未知の女性の方から、「しほむきについて」と題されたメールを頂戴した。僕が九月二十九日のブログへ書いた本件への疑問に対するものであった。
この「TINA」様の御意見は――まさに目から鱗――であった。
*
「しほむき」はまさに芥川の「目」の前にあったのである――
子を育てたことのない僕には、「乳児」を間近に抱きしめたことの殆んどない僕には、気付けぬことであった――
謂わば、それは――
「目」を「むき」、そうだったかと、これを「しほ」に「頭」を隠したくなるような――
「子供」の『ひよめき』の如く、大人の僕の「目」が驚きで「ひよむ」くような――
そんな事実であったのである!
*
結論を最初に述べる。
――芥川龍之介が言う「しほむき」とは「ひよめき」=乳児の頭頂部前方(おでこの髪の生え際辺りの中央部)にある「大泉門」のことを指している――
私はこれを以って「しほむき」の謎は完全に解明されたと考えている。
以下、検証したい。
*
まず、「TINA」様のメールの一部を引用させて戴く(本日早朝、メール引用の許諾を頂いた)。
*
《引用開始(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた》
九月二十九日のブログ拝読しました。
全くの私見ですが、「しほむき」は「大泉門」のことではないでしょうか?
赤ちゃんのおでこの髪の生え際の少し上のあたりに、柔らかいぷよぷよした所があって、小さいうちはそこがひよひよと動きます。
大泉門は二歳ころには閉じると言われていますので、この時の多加志の年齢を考えると、まだ拍動していて、熱を見るために唇を近づければその動きは目に入ったと思われます。
私の母は、生きていれば九十四歳になりますが、大泉門のことを「ひよめき」とか、その場所が「ひよめいている」と言っておりました。
「しほむき」となんとなく通ずるものがあるかとも思います。
以上、ひらめいたままを書き、何の根拠もないことなのですが。
《引用終了》
*
「大泉門」という語は、不学にして初見であったが、赤ん坊の頭部にある柔らかい箇所というのには、流石に数少ない乳児を抱かせてもらった経験の中でうっすらとはあった。
「大泉門」を調べた(複数の育児・小児科等の医学的に信頼出来る記載に基づく)。
*
大泉門 英名 anterior fontanelle/anterior fontanel/bregmatic fontanel ラテン語 fonticulus anterior
(私の所持する昭和二七(一九五二)年研究社刊田中秀央編「羅和辞典」によれば、“fonticulus”は「小さな泉」の、“anterior”は「前にある・先にある」の意で、和名はこれに由来する。“fonticulus ”の項には医学用語として「顖門」とも書かれているが、これは音「シンモン」で、この大泉門・ひよむきのことを指す。)
乳児のおでこの正中線を頭頂部に向かって触れてゆくと、頭髪の生え際より少し上の部分に菱形をした柔らかいぷよぷよした部分があり、これを「大泉門」と呼称する。これは乳児の頭蓋骨の発達が未だ十分でないために生じている複数の頭骨(頭蓋骨は左右前頭骨・左右頭頂骨及び後頭骨の五枚から構成されている)間の縫合部にある比較的大きな隙間(ブレグマ(Bregma):矢状縫合と冠状縫合の交点のこと。)であり、他にも後頭部上部に「小泉門」、頭部左右眼窩上部水平位置前寄り、大泉門から下がったところに一対の「前側頭泉門」、その同水平位置の後頭部下方(耳の十時位置)の小泉門から下がったところに一対の「後側頭部泉門」がある(分かり易い図は「川崎医科大学附属川崎病院」の広報誌「医療の話題 シリーズ 脳手術の今 第八回」の附図1「小児の頭蓋骨」を参照。但し、このページ自体には乳児の頭骨についての記載はない)。
育児関連サイト「e-育児」の「育児用語辞典 大泉門」によれば、これらの隙間は分娩時には骨と骨が重なり合い、結果として頭部のサイズを小さくすることが可能となり、狭い産道をも通ることが出来るという機能を持っているとする。触れるとぺこぺことして柔らかく、観察すると、心臓の拍動に伴って頭部の皮膚が脈打っているのが視認出来ることもあると記されている。「大泉門」は生後九箇月から十箇月までは増大するが、その後は縮小して生後十六箇月には頭皮上から触知出来なくなり、個人差はあるが、完全に閉鎖するのは大体二歳を経過した頃であるとする(後頭骨と左右の頭頂骨との間にある小泉門は生後一箇月で閉じる)。
なお、「大泉門」は他に、既に示したように、「顖門」や「顋門」とも書き(後者は音「サイモン」で、「顋」はあご・えらの意であるが、古くは頭骨と顎骨は一緒くたに表現された)、辞書類ではこれらも「ひよめき」と訓じている(勿論、当て読みである)。
*
さて、当時の芥川多加志は注で示した通り、本シークエンス内では生後六箇月である。従って「大泉門」は、はっきりと視認出来た。
さらに、当該部の描写に立ち戻るならば、
『自分は色の惡い多加志の
――芥川(未確認であるが彼の身長は私と同じ一六七センチメートルであったという。当時としては低くはなく普通の背丈である)は伯母に抱かれた多加志の額に屈む形で額に唇を押し当てて熱を計っている。
――その目線は多加志のおでこの上方髪の生え際の直近にある
そう、考えてこそ自然である。
即ち、熱を測る芥川の目の前にあったのは――
「大泉門」=「ひよめき」
であったのだ。
*
次に、芥川がこれを「しほむき」と呼称している点について私なりの考察を試みる。
私の所持する昭和五〇(一九七五)年小学館刊「日本国語大辞典」の名詞「ひよめき」【顖門・顋門】の項には、
(ひよひよと動く意から)幼児の頭蓋骨で、骨と骨がまだ結合していないために呼吸のたびにひくひく動く頭頂の部分。頭のいちばんやわらかい部分。おどり。おどりこ。しんもん。
*雑排・野の錦「ひよめきへ雪を覚る峰の坊」
*歌舞伎・御摂勧進帳―二番目「まだひよめきも堅まらぬ
と記載、続く「発音」の項には〈なまり〉として、
ヒクメキ〔山梨奈良田・壱岐〕
ヒコメキ〔岐阜〕
ヒョーメキ・ヒョーメギ〔千葉〕
フェトメギ・ヘトビキ〔秋田〕
フエメギ・フエメギ〔山形〕
ヘットビキ・ヘットメキ〔仙台方言〕
で、標準アクセントは以下の通り(現代京都のそれも同じ)。
低高高高
ひよめき
この「発音」の項の内、本所両国育ち芥川の母語としたものに最も近い可能性があるのは、千葉方言の、
ヒョーメキ・ヒョーメギ
である。
芥川は江戸っ子である。従って「火箸」を「しばし」と発音する世界に生きた。されば、この、
「ヒョーメキ」
は
「ショーメキ」
若しくは
「シーメキ」
と発音された可能性が考えられる。この内、「ショー」は「シォー」に音転訛し易いように私には感じられる。さすれば、
「しょーめき」→「しぉーめき」→「しおめき」
で「しお」は「塩」の訓に類似するから、表記が、
「しょーめき」は「しほめき」へ変わった
と考えても、強ち無理はないように思われる(そうした変化が容易に起こるという事実を言語学的学問として私が学んだという訳ではない。ただ、牽強付会でなく、本件とは無関係に、自分なら恐らく容易にそうする、という実感である)。
ところが実際に発音してみると分かるが、この「しほめき」は如何にも同発音の異義も見当たらず、しかも発音し難い(と私は大いに感じる)。
私は、熟語の形成と記憶とは、それ固有でありながら、発音が似ているか同一のものとの区別化から生じるものではないか、と考えている。総てが全く異なった固有発音では、我々の言語や記憶はパンクしてしまうから、ある程度、それぞれの語彙の中で相同類似発音の別な語へと傾斜する属性を我々の言語進化は持っているように感ずる。
しかも「しほめき」の下部音節の頭音は「メ」でマ行音、「ム」に音列が近い。すると、
「しほめき」に近い知られた語彙は、
――「しほむき」――
となりはしまいか?
さて、
「しほむき」は「しおむき」で「汐剥き」「塩剥き」と表記し、アサリ・ハマグリ・バカガイなどを生きている時に剥き身にすること、また、そのものを言う
語である。
「ひよめき」の方言「ヒョーメキ・ヒョーメギ」は、潮干狩りで知られる千葉である。
芥川の育った本所両国のの直近、深川は、まさにアサリの剥き身を用いた深川飯で知られる。
即ち、これらの地域は、貝の「しほむき」が知られた一般名詞としてあった地域である(勿論、この私の仮説は千葉や本所深川から大泉門を「しほむき(しおむき)」と呼称した若しくはしている、というデータが求められなければならない。これをお読みになった方で、それを傍証して下さる方が手を挙げて下さると、恩幸これに過ぎたるはない)。
つけ加えて、更に想像を逞しくするならば――
赤ん坊の凹んだ頭部で拍動する柔らかな「ひよめき」
は
生の貝の剥き身の感じ
との間に、連想関係がないとは言えないようにも思われる。いや、寧ろ、私は強い親和性さえ、そこに認められるように感じられもするのである。
*
以上、私は小児科医でもないし、言語学者でもないし、最早、一介の国語教師でもない――しかし、
芥川龍之介が「子供の病氣」で使った「しほむき」とは「ひよむき」であり「大泉門」のことを指している
と断定することを最早、躊躇しないものである。
*
最後に。六年の電子テクスト作業の中で、数少ないわくわくする体験の場を与えて下さった、
TINAさんへ――ありがとう!
“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!――
〇「車」後文の描写で分かる通り、人力車である。
〇「ジョルジュ・サンド」George Sand(一八〇四年~一八七六年)はフェミニストの嚆矢とされる十九世紀フランスの著名な女流作家にして文学サロンのパトロン。本名はオーロール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)。パリで軍人貴族の父と庶民の母との間の婚前妊娠子として生まれた。彼女の曽祖父には軍事思想家のモーリス・ド・サックスがいる軍事貴族の家系である。父が早く亡くなったため、子供時代はアンドル県ノアンにある父方の祖母の館で過ごし、この田舎での生活は後の彼女の田園小説のモチーフとなった。一八二二年にカジミール・デュドヴァン男爵(Baron Casimir Dudevant)と結婚して一男一女を産んだが間もなく別居、その後、多くの男性と恋愛関係をもった。一八三一年に小説家ジュール・サンドー(Jules Sandeau)との合作で処女作 “Rose et Blanche”(邦訳「薔薇色の雲」)を書き、これ以後、サンドをペン・ネームとして使うようになった。その後 一八三〇年の“Indiana”(「アンディアナ」)で注目され、また男装して社交界に出入りして話題となった。一八三三年から一八三四年にかけて詩人のアルフレッド・ド・ミュッセと、またその後医師パジェロ、音楽家フランツ・リストとも関係を持った。さらにフレデリック・ショパンとは一八三八年(マジョルカ島への逃避行)から一八四七年までノアンで同棲した(別れた理由は彼女の子供たちを巡るトラブルなどとされる)。一八四〇年代には政治志向を強め、民主主義・社会主義の思想を懐いてカール・マルクス、ミハイル・バクーニンら政治思想家・活動家と交流、一八四八年の二月革命に際しては政治活動に参加したが、その後ノアンに隠棲、執筆に専念した。その後も女性権利拡張運動を主導するとともに文学作品を書き続け、ヴィクトル・ユーゴー、ギュスターヴ・フローベール、テオフィル・ゴーティエ、ゴンクール兄弟ら多くの文学者と友情を結んだ(以上はウィキの「ジョルジュ・サンド」からほぼ引用させて頂いた)。
〇「バルザック」Honoré de Balzac(オノレ・ド・バルザック 一七九九年~一八五〇年)は十九世紀フランスを代表する小説家。“de”貴族を気取った自称。イギリスの作家サマセット・モームは、『世界の十大小説』のなかで、バルザックを『確実に天才とよぶにふさわしい人物』と述べている。バルザックは九十篇の長編・短編からなる小説群『人間喜劇』を執筆したが、これはドストエフスキーやレフ・トルストイの近代文学の濫觴である十九世紀ロシア文学を生み出すことになる写実的小説群と言える。ヴィクトル・ユーゴーやアレキサンドル・デュマの親友でもあった。フランス中部のアンドル=エ=ロワール県の県庁所在地トゥールで生まれた。父はトゥールの要職にある実務家、母アンヌ=シャルロット=ロールはパリ育ちで、夫より三十歳あまりも年下であった。幼少時代からあまり母親に愛されず、生後すぐに近郊に住む乳母に預けられた。その後、寄宿学校に入れられて八歳から十四歳まで孤独な少年時代を送る。その六年間に母親が面会に訪れたのは二度だけだった。母親からの愛の欠乏と、その後の彼の人生における女性遍歴の多さは、関連づけて言及されることが多い。母親は神経質な人物であり、宗教家サン=マルタンやスヴェーデンボリらの神秘思想、メスメルの動物磁気に傾倒するような神秘主義者でもあった。そのことがバルザックに多大な影響を与え、それは例えば、『人間喜劇』の掉尾を飾る長篇、スヴェーデンボリに心酔して書かれた天使霊を主人公とする“Seraphtta”(「セラフィタ」一八三三年~一八三五年)を始めとする怪奇幻想的作品によく現れている。なお、バルザックは自分の母親について「おれを滅茶苦茶にしたのはお袋の奴だ」と終始主張していたという。一八一四年、父の仕事の都合で一家はパリへ引っ越し、バルザックはソルボンヌ大学に聴講生として通い、法科大学の入学試験に合格した。父の退官によってパリ郊外へ引っ越すことになった際、彼は公証人になることを望む両親の反対を押し切って一人パリに残り、創作活動に入った。一八二九年以降、諸小説を発表、一八三一年の“La Peau de chagrin”(「鮫皮」)で成功した。食も豪胆であったが借金も豪放で、事業の失敗や贅沢な生活のために膨れ上がった莫大な借金は、遂に彼の生前には清算されず、晩年に結婚したポーランド貴族の未亡人エヴェリーナ・ハンスカ伯爵夫人によって支払われた。バルザックの小説の特性は、社会全体を俯瞰する巨大な視点と同時に、人間の精神の内部を精密に描き、その双方を鮮烈な形で対応させていくというところにある。そうした社会と個人の関係の他に、芸術と人生、欲望と理性、男と女、聖と俗、霊肉といった様々な二元論をもとに、時に諧謔的に、時に幻想的に、時にサスペンスフルにと、様々な種類の人間を描くにあたって豊かな趣向を凝らして書かれた諸作品は、深刻で根源的なテーマを扱いながらもすぐれて娯楽的でもある。高潔な善人が物語に登場することも少なくなく、かれらは偽善的な社会のなかで生きることに苦しみながら、ほぼ例外なく苦悩のうちに死んでいく(一八三五年の “Le Père Goriot”(「ゴリオ爺さん」、同年の“Le lys dans la vallée”(「谷間のゆり」)等)。長くはない一生において実に多彩な傾向の物語を著しつづけた天才的な才能の持ち主であり、その多作・速筆にも関わらずアイデアが尽きることはなかった。社会におよそ存在しうるあらゆる人物・場面を描くことによってフランス社会史を形成する壮大な試み『人間喜劇』を構想したが、その死によって中絶した(以上はウィキの「バルザック」からほぼ引用させて頂いた。但し、著作原題と出版年はフランス語版ウィキの“Honoré de Balzac”により、邦訳題の一部は私の訳に代えた)。
〇「足駄」下駄の一種。足の下に履く物を古く「あしした」と呼び、その転訛。特に東日本で歯の高い
〇「大阪のN君」、大阪毎日新聞社傘下の東京日日新聞社(明治四四(一九一一)年に買収された)社員で芥川龍之介担当であった人物と思われ、先の『「サンデイ毎日」の特別號に載せる小説』の原稿受取に来たものであろう。大正七(一九一八)年の「我鬼窟日錄」には東京日日新聞社記者として松内則信(後に毎日新聞社重役)という人物を確認出来る(リンク先は私のテクスト)。彼の名前の方はイニシャルで「N」ではある。なお、この小説は翌年の大正一三(一九二四)年一月発行の『サンデー毎日』に載った「或敵討ちの話」(後に「伝吉の敵打ち」と改題。リンク先は青空文庫版)の原プランではなかったろうか? 鷺只雄氏の「年表読本 芥川龍之介」によれば、この作品の脱稿は前年の一二月一五日以前である。なお、それよりも前、大正一二年一〇月五日発行の同誌に「鸚鵡――大震覚え書きの一つ――」と作品を載せているが(リンク先は青空文庫版)、これは、この前月九月一日に起きた関東大震災に取材したもので、以前から構想していたものではない)。必ずしも、同一プランの作品を後の同一誌に載せるとは限らないが、一つの推理としては成り立つと思う。
〇「妻の母」塚本鈴。当時、満四十一歳。――このシークエンスにあるような、娘の三十一歳の夫に、未だ四十歳代の義母が、自分の赤く腫れた乳首を見せるというのは――現代では考えられない。――ちょっと吃驚しないか? 私はとってもドキッとしたよ。――
〇「日曜學校」多加志の年譜を見ると聖学院付属幼稚園に入園している。聖学院幼稚園は、明治四五(一九一二)年にアメリカのディサイプルス派宣教師ミセス・プレースによって、中里幼稚園として創立されたプロテスタントの幼稚園である(女子聖学院付属幼稚園への改称は昭和一五(一九四〇)年)。ネット検索をかけると、この幼稚園は芥川の家の近く、田端高台通りあり、『芥川龍之介・室生犀星のお子さんがたが通われました。室生犀星の詩の中には、聖学院の教会や宣教師が登場します』とある(個人のHP「万歩計」の以下のページより引用)ことから、当時、長男の比呂志(先に示した通り)満三歳と二ヵ月もここに通園していたか、日曜学校に通っていた可能性が極めて高い。即ち、この日曜学校は兄比呂志が通っていたものであり、その同級生の父母らが比呂志の弟の見舞いに花を贈ったのである。私には当時の田端文士村ならではの光景と映る。
〇「お花だけにいやな氣がしてね」私の想像であるが、見舞いに切り花というのは、日本では必ずしも一般的ではなかったのではないかと思われる。病者の家族が和ませるために花瓶に挿すことはあっても、見舞いに花を贈る習慣自体は私は近代のもののように思われる。そうすると、安政三(一八五六)年生まれで、当時満六十七歳であった伯母フキが「山百合」の白から、弔いの花を連想して不吉に感じたのは自然であるように思われる。但し、細かいことを言えば、ここで伯母は「多加ちやんがあすこへはひると
〇「日和下駄」晴天の日に履く、歯の低い差歯下駄。
〇「御祖師樣」日蓮宗に於ける日蓮の尊称。
〇「彼の小康を得た時」多加志の退院は、宮坂年譜によれば、六月中旬とある。
〇「その爲にとうとう書かずにしまつた」「自分は原稿を賴まれたのを機會に、とりあへずこの話を書いて見ることにした」芥川はもしかすると、当初の意識の中では、この作品を作中に登場する『サンデイ毎日』に、後日、原稿断念を承諾して呉れた謝意をも込めて発表するつもりではなかったろうか? それを直近の八月一日の『局外』に載せたのは、恐らく『局外』からの小説原稿依頼を彼が承諾してしまっており、その締切りが近づいていた(底本注記によれば本作の脱稿は初出文末に『十二、七、三』とあるとする。)、ところが小説作品は、この「子供の病氣」しかなかった(同日の発表には『女性改造』に載る知られた童話「白」があるが、これはそれ以前から同誌への発表を見込んで執筆していたものであったと仮定する)、『サンデー毎日』は断って早急に、ということはない、それなら、いっそ、これを『局外』に――といった勘案からの仕儀ではなかったろうか?――しかし私は、そうした芥川の打算が、結局、社員であるところの大阪毎日新聞社の不評を買い、「芥川の馘首事件」(鷺年譜の呼称。それによれば、詳細は不明ながら、恐らくは自分や多加志の『病気を口実に大毎には余り執筆しないが、他誌には小説を書いていることに対する不満が社内に高まった結果と思われる』と推定されておられる)が発生、大正一三(一九二四)年の一月一〇日頃(日付けは宮坂年譜によった)、社(東京日日新聞社か――宮坂年譜注)に赴いて事情を説明して、一応、収まるという事態を惹起させた(鷺年譜)のではなかったか? と推理するのである(無論、大毎社内の不評はそれより以前からあったのであろうが)。ここで鷺氏は収まったとするが、宮坂年譜を見ると、同月一八日の『読売新聞』の「よみうり抄」が、『芥川龍之介氏 「大阪毎日新聞」嘱託であったが解任となった』という記事を載せているという注記がある。芥川龍之介がここで大毎を事実上、解任されたのかどうかは宮坂年譜でも記載がないから分からぬが、実際、この後の自死するまでの間で、単発評等を除いて大阪毎日新聞関連への連載は死の年の五月六日から二二日までの「大東京繁盛記 本所両国」以外には見当たらないのである。――芥川龍之介がここに記す、本作執筆の不吉は、実は思わぬところで正しかった――とも言えるのではなかろうか?
子供の病氣――一游亭に―― 芥川龍之介 附やぶちゃん詳細注 完