やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

澄江堂日錄   芥川龍之介   附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月六日から十一日に至る芥川龍之介の日記(若しくは日記体を成した発表作)である。底本は岩波版旧全集に拠った。底本後記に拠れば、本作は初出未詳で、作品集「百艸」(大正一三(一九二四)年九月一七日刊行)に収められている、とある。また、底本に先行する普及版全集の本作の末尾には『(大正十二年)』のクレジットがあり、それに従って編年体編集の底本位置(第六巻)に配した旨の記載がある。私は本作は随筆集「百艸」のために特に挿入されたもので、初出は存在しないのではないか、と考えている(新全集の見解は当該巻を所持しないので不詳)。そうしてこの日記を自分の作品集に載せた意図は、ここではまだ語らないが、非常に多様で複雑な意味を持っているように私には思われてならないのである(少しだけ、言っておくなら、一つは分かり易い理由で、先行する小説集『黄雀風』に所収させた「子供の病氣」の原資料の提示による自分の小説のリアリズム性の立証にあるが、私はそんなことよりも片山廣子への芥川のいや増しに募る思いと、この掲載とが芥川の意識の底で意味深く絡んでいるように思われてならないのである)。因みに、芥川龍之介が自分の書斎の扁額を「我鬼窟」から「澄江堂」と変えたのは大正一一(一九二二)年の初春である(「澄江堂主人」の号の使用は同年一月二一日小穴隆一書簡を嚆矢とする)。なお、本テクストは以上のような理由から、「日録」類には配さず(なお、大正一四(一九二五)年二月四日から二月八日及び二月二七日の実際の日記である「澄江堂日錄」が他に存在する)、作品群の「子供の病氣」の前に置くこととした(岩波旧全集も同様の処置をとる。筑摩書房全集類聚版は日記として第六巻に配する)。それぞれの条の後に私の注を附して、日条の間には空行を設けた。既に公開済みの「子供の病氣」の私の注とダブる部分が多いが、煩瑣を厭わず再注した。但し、相互に齟齬する点に関しては「子供の病氣」の方の私の注を参照されたい。【二〇一二年一〇月十一日】]

澄江堂日錄

 六月六日
 蒲原君に枇杷を貰ふ。午後、永日莊にペルシャの古陶を觀る。價高うして購ふべからず。 [やぶちゃん注:「枇杷」これは、贈答者の氏名まで記しているから事実に相違なかろうが、私は、ここで、枇杷の実が成る時はその家から死人が出る、という古い迷信を想起した。この日録の公開が、明らかに「子供の病氣」という小説の素材となった事実を語り始めるものであるとすれば、冒頭「枇杷」の出現は美事に不吉である。因みに、私は味は嫌いではないが、あの果肉の色自体は死んだ生物の肉を連想させるようで(事実としてではなく生理的にそう連想してしまうのである)、実は好きではない。だから、この迷信も信じていないのだけれど、こういう場合に、容易に「不吉」なものとして私の心底に発動してしまうのである。
「蒲原」蒲原春夫かもはらはるお(明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)は小説家。長崎県生。芥川とは大正八(一九一九)年五月の最初の長崎訪問の際に面識を得、芥川が長崎を再訪(大正一一(一九二二)年五月)後、同郷で長崎中学校同級であった渡辺庫輔と共に上京、芥川に師事した。芥川家の近くに居を構え、主に長崎を舞台とするキリシタン小説を発表したり、芥川の編集になる『近代日本文芸読本』の手伝いなどをした。芥川没後は帰郷、長崎の郷土史研究家として、また書店を経営、市会議員なども務めている。
「永日莊」骨董商と思われるが、不詳。]

 六月七日
 午前、香取先生、鹿島氏と共に來訪、澄江堂の印を贈らる。鹿島氏、大雅書と稱する一軸を示さる。「衆芳搖落獨鮮妍」とあり。落款は九霞山樵。黑木欽堂氏の極めあり。但し何の爲の極めなるかを明かにせず。
[やぶちゃん注:「香取先生」:著名な鋳金工芸師香取秀眞かとりほつま(明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の文字通りの隣人(実際に隣家)にして友人であった。
「鹿島」鹿島龍蔵かしまたつぞう(明治一三(一八八〇)年~昭和二九(一九五四)年)は当時の鹿島建設鹿島組(後に現在の鹿島建設)副社長。彼は芥川の心酔者で田端文士村でサロン「道閑会」を組織し(無論、香取も会員)、芸術家たちのパトロンでもあった。
「澄江堂」冒頭注で示した通り、芥川が自分の書斎を「我鬼窟」から「澄江堂」と変えたのは大正一一(一九二二)年の初春であるから、その後早い時期に香取にこの印を依頼したものと考えられる。なお、この号の由来は、「芥川龍之介新事典」の田村修一氏の「澄江堂」の項によれば、大正一〇(一九二一)年の中国旅行での長江の印象からの連想説、「澄」は訓で「すみ」であることから、芥川が幼いころから親しんだ隅田川由来説(永井荷風「濹東綺譚」の最後に附された「作後贅言ぜいげん」の中に、『物徂徠は墨田川を澄江となしてゐたよやうに思つてゐる。天明の頃には墨田堤を葛坡かつはとなした詩人もあつた。明治の初年詩文の流行を極めた頃、小野湖山は向島の文字を雅馴ならずとなし、其音によつて夢香洲の三字を考出したが、これも久しからずして忘れられてしまつた。現時向島の妓街に夢香荘とよぶ連込宿がある。小野湖山の風流をぐ心であるのかどうか、未だ詳にするを得ない。』という一節がある)、芥川が「ごみの川」であることから、その反連想からの「澄んだ川」説などがある。芥川龍之介自身の言及は大正十四(一九二五)年十二月及び翌十五年一月発行の雑誌『文藝春秋』に掲載され、後に「侏儒の言葉」に所収された「澄江堂雜記――「侏儒の言葉」の代りに――」の「三 澄江堂」で、
 僕になぜ澄江堂などと號するかと尋ねる人がある。なぜと言ふほどの因縁はない。唯いつか漫然と澄江堂と號してしまつたのである。いつか佐佐木茂索君は「スミエと言ふ藝者に惚れたんですか?」と言つた。が、勿論そんな譯でもない。僕は時々本名の外に入らざる名などをつけることはよせば好かつたと思つてゐる。(十一月十二日)
とある程度で、真相は打ち明けていない。田村氏は続けて、この雅号の変更について久米正雄が「我鬼窟から澄江堂へ」の中で『前のやゝ道学臭を帯びた、小哲学風の慧智から彼は静に途徹した一路の心境へと歩みを運んだと見られる』という評を採り上げて『晩年のの芥川が「詩的精神」を提唱したことなどを考えると』『おそらく芥川の文学的モチーフの変化と密接なつながりがあり』、『重要な問題が含まれているものと思われる』と述べておられる。私もこの見解に激しく同意するものである。
「大雅」南画の大成者池大雅(享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)本姓は池野。雅号は数多くあるが、落款にあるとする「九霞山樵」はその一つ。
「黑木欽堂」(くろききんどう 慶応二(一八六六)年~大正一二(一九二三)年)は漢学者で書家。香川工芸学校長、東京帝国大学講師を務めた。法書会を設立して書道振興に尽くした。なお、彼はこの日記の書かれた約三か月後の八月三十一日に逝去する。
「衆芳搖落獨鮮妍」は、林和靖又は和靖先生で知られる北宋初の隠逸詩人林逋りんぽ(九六七年~一〇二八年)の七律「山園小梅」の初句と思われるが、「鮮妍」は「嬋妍」が正しい。以下に示す。
  山園小梅
 衆芳搖落獨嬋妍
 占盡風情向小園
 疎影横斜水淸淺
 暗香浮動月黄昏
 霜禽欲下先偸眼
 粉蝶如知合斷魂
 幸有微吟可相狎
 不須檀板共金樽
〇やぶちゃんの書き下し文
  山園の小梅しやうばい
 衆芳しゆうはう  搖落えうらくして 獨り 嬋妍せんけん
 風情ふうじやう占盡せんじんして 小園に向かふ
 疎影 横斜 水 淸淺
 暗香 浮動 月 黄昏くわうこん
 霜禽 下らんと欲して 先づ眼をぬす
 粉蝶 如し知らば まさに魂を斷つべし
 幸ひに微吟の相ひるべき有り
 須もちひず 檀板と金樽とを
〇やぶちゃん勝手自在現代語訳
 あらゆる花が散り去って、ただ梅花だけが、あでやかに美しく咲いている。
 その花一つが、この私の小さな庭の風情を、まさに独り占めしている。
 まばらな、その枝は――横ざまに斜めに伸び――清く浅い流れに――静かに影を落とす……
 ほの暗い、その香は――仄かに漂い――朧ろの月の黄昏たそがれに――甘く幽かに流れ来る……
 霜枯れどきの白き鳥は――枝に舞い降りんとして、思わず――己が身よりも全き白き――その花の白さが信じられずに、流し目で見る……
 時節柄、いるはずもない白き蝶が――もしもここに飛び来たったら、それはもう――己が身よりも全き白き――その花の白さに、きっと魂を奪われるに違いない……
 幸い、私の微かな声の歌声は、丁度、この可憐な花に、お似合いだ。
 私には――いらないんだ――賑やかな拍子木や金ぴかの酒杯なんか……
因みに、作者林逋は浙江杭州の市外にあった西湖の孤山に住み、梅を妻とし、鶴を子として独居閑適の生涯を送ったと伝えられているから、正にこの獨り嬋妍として咲く梅花は、詩人の最愛の女、なのである。また、この一軸にこの詩を書くということは、この絵は白梅を描いたものであると考えてよい。
「極め」主に書画などの美術品の筆者を鑑定した書付。
「何の爲の極めなるかを明かにせず」とは、絵全体が池大雅の真筆であることを証明する書付の形式をとっていないことを意味する。最悪の場合、落款だけが「池大雅」のものである可能性もあるわけである。]

 六月八日
 『サンデイ毎日』の小説を起稿す。多加志、消化不良の氣味あり。夜下島先生、往診せらる。又藤澤氏來訪。
[やぶちゃん注:「『サンデイ毎日』の小説を起稿す」十日の条に「斷念す」とあるため、不詳であるが、「起稿す」とある以上、作品の構想は出来て、書き出していたはずである。私は、この小説とは翌年の大正一三(一九二四)年一月発行の『サンデー毎日』に載った「或敵討ちの話」(後に「伝吉の敵打ち」と改題。リンク先は青空文庫版)の原プランではなかったろうか、と考えている。鷺只雄氏の「年表読本 芥川龍之介」(河出書房新社一九九二年刊)によれば、この作品の脱稿は前年の十二月十五日以前である。なお、それよりも前、大正一二年十月五日発行の同誌に「鸚鵡――大震覚え書きの一つ――」と作品を載せているが(リンク先は青空文庫版)、これは、この前月九月一日に起きた関東大震災に取材したもので、以前から構想していたものではない)。必ずしも、同一プランの作品を後の同一誌に載せるとは限らないが、一つの推理としては成り立つと思う。
「多加志」芥川多加志(大正一一(一九二二)年~昭和二〇(一九四五)年)は大正一一(一九二二)年十一月八日、芥川龍之介・文の次男として東京府北豊島郡瀧野川町字田端に出生した。当時は未だ生後六箇月であった。彼についての詳細は私のブログ・カテゴリ「芥川多加志」「子供の病氣」の私の注などを参照されたい。
「下島先生」医師下島勲(明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年)。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものし、空谷と号した。また書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。
「藤澤氏」藤沢古実ふじさわふるみ(明治三〇(一八九七)年~昭和四二(一九六七)年)は歌人・彫刻家。長野県生。東京美術学校(現・東京芸芸術大学)卒。本名、実。島木赤彦に師事して『アララギ』に入った(但し、赤彦の死後二年後の昭和三(一九二八)年二月号『アララギ』を最後に姿を消している。赤彦の後を継いだ齋藤茂吉との間に何かがあったらしい。この出来事は歌人と思われる個人の方のHP「はぐれ雲」の「静かに消えた古実」を参照した)。後、昭和一四(一九三九)年「国土」を創刊。山岳歌人として知られた。歌集「国原くにはら)。彫刻では昭和九(一九三四)年の「静立」が帝展特選となっている。家集の表題ともなったと思われる一首を示す(これらの主事蹟た短歌は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
 夕暮れて寂しくもあるか国原をおほにおほへる雲の海の上
因みに、この「又」というのは少々気になる謂いではある。「我鬼窟日錄」(リンク先は私のテクスト)などを見ても、頻繁な来訪でも芥川が望んでいる場合は、こういう書き方は芥川は日記ではしないと思われる。実は彼は、晩年の「晩春賣文日記」の昭和二(一九二七)年四月三十日の条に『藤澤古實氏來る。「大東京繁盛記」の插繪の件なり』ある筑摩書房脚注によって、当時、東京日日新聞社の記者であったことが分かるのである(東京日日新聞社は芥川が社員であった大阪毎日新聞社の傘下である)。この事実から、この訪問は芥川龍之介にとって極めて不快な原稿催促以外の何ものでもなかったことが判明するのである。藤澤古實なる名は、芥川龍之介の土屋文明の歌集「ふゆくさ」評『「ふゆくさ」讀後』(大正十四(一九二五)年十月発行『アララギ』)で「僕が今日柿本人麻呂とか乃至は藤澤古實とか言ふ、入らざる名前を覺えるやうになつたのは一にその老婆心切なる土屋の説明のおかげである」と現われている。歌聖人麻呂と並べて評価の高さを暗示させながらも、「入らざる」とは、意味深長な謂いではある。現存書簡に彼宛はおろか、彼の名もない。]

 六月九日
 菅藤氏と『ユキジリエル・デス・トイフェルス』を讀む。第二章はおほむね面白からず。事件も不自然に過ぎ、妖婦オイフェミイの性格も説明に過ぎたるものの如し。多加志の病、よろしからず。下島先生、診斷せらるること三度。
[やぶちゃん注:「菅藤氏」作家菅藤高徳かんとうたかのり(明治二九(一八九六)年~昭和五六(一九八一)年)。一般にはペン・ネーム木暮亮こぐれりょうで知られる。明治大学名誉教授。 福島市生。本東京帝国大学独文科卒。在学中より同人誌に参加。昭和九(一九三四)年に高木卓・真下五一らと『意識』を創刊。昭和一四(一九三九)年に「地上の子」で芥川賞予選候補、昭和一九(一九四四)年、「おらがいのち」で同候補。太平洋戦争前から戦後にわたって独文学者として明治大学教授、昭和三九(一九六四)年、独協大学教授。
「ユキジリエル・デス・トイフェルス」筑摩書房全集類聚版は『不詳。』とするが、これはエルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 一七七六年~一八二二年)の“Die Elixiere des Teufels”(「悪魔の霊液」「悪魔の美酒」「悪魔の霊酒」などと邦訳される)と思われる(私は未読)。英語版ウィキの当該作品“The Devil's Elixirs”によれば、ヒロインの名は“Aurelien”で、やや「オイフェミイ」に似るように思われる(英語読みするならオーレリアンであるが、これをフランス人のネイティヴが発音するのを聴いてみると「オフェリアン」と聴こえる)。識者の御教授を乞うものである。]

 六月十日
 午前、多加志を字津野病院に入院せしむ。室生、伊藤、池田、田沼、和田、成瀨、渡邊の諸氏來訪。夜、宇津野博士を訪ふ。多加志の命、必ずしも絶望すべからざるが如し。『サンデイ毎日』の小説を斷念す。
[やぶちゃん注:「字津野病院」駒込片町にあった小児科専門病院。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、院長は宇津野研。宇津野研うつのきわむ(明治一〇(一八七七)年~昭和一三(一九三八)年)は竹柏会会員で窪田空穂に師事した歌人宇津野研うつのけんとしても知られる。
「室生」室生犀星(明治二二(一八八九)年~昭和三七(一九六二)年)。芥川より三つ年上。芥川の彼との交際は大正六(一九一八)年一月十三日の日夏耿之介の処女詩集「転身の頌」出版記念会での出逢いに始まる。
「伊藤」宮坂覺氏の「芥川龍之介全集索引」(一九九三年岩波書店刊)の人名索引では不詳の人物として挙がっている。同索引で候補可能性のある伊藤姓は八名ほどいる。
「池田」宮坂覺氏の「芥川龍之介全集索引」(一九九三年岩波書店刊)の人名索引では不詳の人物として挙がっている。同索引で候補可能性のある池田姓は見当たらない。
「田沼」宮坂覺氏の「芥川龍之介全集索引」(一九九三年岩波書店刊)の人名索引では不詳の人物として挙がっている。同索引では他に田沼姓はいない。
「和田」宮坂覺氏の「芥川龍之介全集索引」(一九九三年岩波書店刊)の人名索引では不詳の人物として挙がっている。同索引で候補可能性のある和田姓は三人いる。
「成瀨」成瀬正一なるせせいいち(明治二五(一八九二)年昭和一一(一九三六)年)は小説家・フランス文学者で。ロマン・ロランの翻訳・紹介で知られる芥川龍之介の同期。東京帝国大学在学中に芥川龍之介らと第四次『新思潮』を創刊した。
「渡邊」渡辺庫輔わたなべくらすけ(明治三十四(一九〇一)年~昭和三十八(一九六三)年)は作家・長崎郷土史家。芥川が嘱望し、最も目をかけた弟子の一人。]

 六月十一日
 早朝、多加志の容體稍よろしとの電話あり。薄暮、病院に至る。又一游亭を訪ふ。座に古原草君あり、話熟、深更に及ぶ。再び病院に至れば門既に閉ぢたり。唯多加志の病室の燈火を見しのみ。
[やぶちゃん注:「一游亭」小穴隆一おあなりゅういち(明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)のこと。洋画家。芥川龍之介無二の盟友。一游亭は彼の俳号。芥川の単行本の装丁も手がけ、芥川が自死の意志を最初に告げた人物でもある。芥川には彼に宛てた遺書が残る。芥川より二歳年下。小穴は龍之介が遺書で遺児たちに、父と思えと、命じた人物である(しかし、文も遺児達も皆、龍之介の死後に彼からは縁遠くなってゆく)。次男多加志の名は「隆」を訓読みしたものに由来する。彼は前年の十一月二十七日に右足に脱疽の診断が下り、同年十二月二日に右足第四指を切断するも手遅れで、この年の一月四日には右足首から下を切断するという悲劇に見舞われている(この二度の手術に龍之介は立ち会っている)。
「古原草」遠藤古原草こげんそう(明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年)は俳人・蒔絵師。本名清平衛、「海紅」同人。小穴の友人で芥川とも親しかった。]