やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
澄江堂雜詠 芥川龍之介 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年六月発行の『新潮』に掲載された。「臘梅」「沙羅の花」は作品集「梅・馬・鶯」に所収された。その関係上、「臘梅」「沙羅の花」は単独で電子テクスト化されているが(最初期のものは私のHPの「沙羅の花」と思われ、二〇〇五年九月四日に公開している)、この初出「澄江堂雜詠」の形で一括電子化され、公開されるのは恐らく初めてと思われる(私は既に先に掲げた「沙羅の花」以外に「芥川龍之介全句集 發句」及び「芥川龍之介歌集」で総てを分割公開している)。底本は岩波旧全集を用いた。各項の後に私の注を附した。【二〇一二年一〇月一五日】]
澄江堂雜詠
一 臘 梅
わが裏庭の垣のほとりに一株の臘梅あり。ことしも亦筑波おろしの寒きに琥珀に似たる數朶の花をつづりぬ。こは本所なるわが家にありしを田端に移し植ゑつるなり。嘉永それの年に鐫られたる本所繪圖をひらきたまはば、土屋佐渡守の屋敷の前に小さく「芥川」と記せるを見たまふらむ。この「芥川」ぞわが家なりける。わが家も德川家瓦解の後は多からぬ扶持さへ失ひければ、朝あさのけむりの立つべくもあらず、父ぎみ、叔父ぎみ道に立ちて家財のたぐひすら賣りたまひけるとぞ。おほぢの脇差しもあとをとどめず。今はただびと株の臘梅のみぞ十六世の孫には傳はりたりける。
臘梅や雪うち透かす枝の
[やぶちゃん注:芥川龍之介自死後、香典返しとして配布された自選七十七句からなる「澄江堂句集」にも、
臘梅や雪うち透かす枝のたけ
の表記で所収する(本作に掲げられる四句の発句は総てが「澄江堂句集」に所収しており、どれも芥川の自信作であったことが分かる)。
「臘梅」双子葉植物綱クスノキ目ロウバイ科ロウバイ Chimonanthus praecox。中国原産。一月から二月にかけて、やや光沢を持った外側の花弁が黄色、内側中心にある花弁が暗紫色の、香りの強い花を開く。「梅」と附くが、バラ科サクラ属スモモ亜属ウメ
Prunus mume の仲間と思われがちであるが、全くの別属である。唐の国から来たこともあり唐梅とも呼ばれ、また中国名も蠟梅であったことに因む。本草綱目」によれば花弁が蠟のような色であって尚且つ臘月(旧暦十二月の異名)に咲くことに由来するという(以上は主にウィキの「ロウバイ」の記載を参考にした)。
この臘梅については、芥川は大正一五(一九二六)年四月から翌一六年二月まで十一回に亙って『文藝春秋』に連載された「追憶」の中でも言及しており、
庭 木
新しい僕の家の庭には
と述べている。
「筑波おろし」筑波颪。狭義には茨城県南部から千葉県北部にかけての地域で冬季に吹く冷たく乾燥した北西風のこと。実際には筑波山の見えない関東地方で広く冬に吹き続く北風をこう呼称している。
「本所なるわが家」芥川龍之介の養家である芥川家はもと墨田区東両国(本作執筆当時は本所区小泉町と呼称した)にあった。明治四三(一九一〇)年一〇月、龍之介十八歳の時に府下豊多摩郡内藤新宿(現在の新宿区新宿)に一家移転し(実父新原敏三の経営する耕牧牧場の脇にあった敏三の持ち家)、その後更に大正三(一九一四)年の一〇月に田端へ移った。
「數朶」「すうだ」と読む。「朶」は枝に附いている花房を数える数詞。
「嘉永」西暦一八四八年から一八五四年。
「本所繪圖」江戸切絵図の戸松昌訓著「嘉永新
「鐫られたる」「ゑられたる」と読む。版木などを彫るから、出版するの意で用いる。
「土屋佐渡守」甲斐土屋氏の土屋佐渡守惣蔵を祖とする土屋家の屋敷。嘉永年間当時は常陸土浦藩藩主であった土屋寅直(徳川斉昭従弟)か。
「芥川」芥川家は代々、江戸城中奥に仕えた御奥坊主(幕府の茶事一切を取り仕切る武士。御数寄屋坊主。小納戸坊主)であった。
「おほぢ」祖父の兄弟の意の「従祖父」の「おほをぢ(おおおじ)」のことか? 筑摩書房全集類聚版は『祖父?』と注す。]
二 ちろり
明星のちろりにひびけほととぎす
これはお茶屋の二階の作。その後もあの位形の好い一對のちろりを見たことはない。この句に苦勞してゐる間に鼻の下の長い婆さんの藝者謠つて曰、「四條の橋から何とかを見れば、燈が一つ見える、あれは何とかの灯か、二軒茶屋の灯か」と。(勿論唄の記憶は確かではない。)
[やぶちゃん注:本句は大正一四(一九二五)年三月十二日附泉鏡太郎(鏡花)宛書簡(旧全集書簡番号一二九一)に『「置酒」と前書きして』と消息文の最後に記して出るのが初出。但し、前年の六月十二日附香取秀真宛(旧全集書簡番号一二〇三)に、
曉のちろりに響けほととぎす
の句形であったものの改稿である。また「澄江堂句集」では、
曉の
の表記で所収する。
「ちろり」「銚釐」。銅または真鍮製の酒を温めるのに用いる容器。筒形で下の方がやや細く、注ぎ口と取手が附く。
「四條の橋から何とかを見れば、燈が一つ見える、あれは何とかの灯か、二軒茶屋の灯か」は小唄「四条の橋から」。さわりの歌詞は、
〽四条の橋から灯がひとつ見ゆる
〽灯がひとつ見ゆる
〽あれは二軒茶屋の灯か
〽円山の灯か
〽ええそうじゃえ
音源は例えばこちらの「桃山晴衣の弾き唄い/小唄 四条の橋から」で聴ける。これ、最後の拍手さえなければ、何となく、京の御茶屋で在りし日の芥川龍之介といるような気になれる。]
三 「みやらび」
佐藤惣之助君に貰つた「琉球諸島風物詩集」によれば、琉球語に娘子を「みやらび」と言ふさうである。「みやらび」と言ふ言葉は美しい。即ち禮狀のはしに「みやらび」の歌一首を書いて送つた。何でもこの「みやらび」どもはしんとんとろりと佐藤君に見とれたやうに聞き及んでゐる。
空にみつ大和扇をかざしつつ來よとつげけむ「みやらび」あはれ
[やぶちゃん注:「佐藤惣之助」(明治二三(一八九〇)年~昭和十七(一九四二)年)は詩人・作詞家。大正五(一九一六)年に処女詩集「正義の兜」を出版。昭和に入ると作曲家古賀政男と組んで多くのヒット曲を生み出した。「琉球風物詩集」は正確には「琉球諸島風物詩集」で、大正十一(一九二二)年十一月京文社刊。当年夏の琉球弧・台湾行でものした詩集。
「みやらび」岩波版新全集第九巻「時折の歌」の該当歌の宗像和重氏の注記によれば「琉球諸島風物詩集」の詩「乙女座の下で」に『
「しんとんとろり」近松門左衛門の「
太平に國は治まる、御留守にも、弓馬嗜む梓弓、馬の庭乘り遠乘りと、けふも稽古に濱の宮、鳥居通の流鏑馬馬場、かっしかっしと歩まする。大坪流の鞍の内、乘分かつべき器量こそ、表小姓の數かずの、なかにも笹野權三とて武藝の譽れ世の人の、口の蓮葉の玉の露こぼるゝばかり好い男、鑓の權三は伊達者の、どうでも權三は好い男。油壺から出すやうな、しんとろとろりと見とれる男。うっとり見惚れる柳腰、京染模樣菅笠は、家中で誰の娘ぞや。お乳母らしいが小風呂敷、よけるふりして邪魔をする。權三それぞと見し人の、やうやうと乘止むれば、娘はそれぞと傍により「久しうござんす權三樣、御無事でおめでたうござります。ほんにまあお氣の強い、見ぬ顏もよい加減にしたがよい、さほど私が嫌ならば、なぜあの馬で踏み殺させて下さんせぬ。エヽこなさんはなう侍の白々しう。よう嘘をつかしゃんす」と睨む目のうちおろおろと、女は涙もろかりし(以下略)
この「しんとろとろり」は、後にしばしば「しんとんとろり」の表現で、娘らが伊達男に惚れるさまに用いられたようである。因みに、後年のことであるが、昭和初期の鶯芸者ブームの中、昭和九(一九三四)年にデビューした日本橋きみ栄の流行歌(端唄)の代表作の一つが「しんとろとろり」である。]
四 「今戸の猫」
畫賛などと言ふものはまだ一度もしたことはない。が、下島先生に岡本一平君の描いた夏目先生の戲畫をつきつけられ、いろいろ考へた揚句、やつとかう言ふ句を書いて見ることにした。
餅花を今戸の猫にささげばや
「今戸の猫」は通じないかも知れない。しかし作者は「今戸の狐」と言ふから、「今戸の猫」と稱することも差支へあるまいとこじつけてゐる。
[やぶちゃん注:「澄江堂句集」には「一平逸民の描ける夏目先生のカリカテユアに」という前書きを持って所収する。今戸の猫とは、勿論、「吾輩は猫である」の「我輩」を掛ける(後注参照)。
「下島先生」下島勲(明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年)は医師。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものし、空谷と号した。また書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。
「岡本一平」(明治一九(一八八六)年~昭和二四(一九四八)年)は漫画家・作詞家。彼は夏目漱石の戯画を複数描いているが、例えば「港区ゆかりの人物データベース」の「岡本一平」のページにある「漱石八態」の中の一枚などは、如何にもそれっぽい雰囲気のするものである。
「今戸」現在の東京都台東区にある地名。ここにある今戸神社は伏見稲荷から勧請した被官稲荷神社が有名であるが、招き猫発祥の地とも伝えられ、漱石の「吾輩は猫である」にも登場する。また、吾輩が苦沙弥先生食べ残しの雑煮を食うも、噛み切れず、歯にくっついてしまい、後足で立ち、左右の前足で餅を払い落とそうと、もがく。子供に「あら猫がお雑煮を食べて踊を踊つてゐる」と言われ、遂には苦沙弥先生から「この馬鹿野郎」と罵倒されるエピソードが「吾輩は猫である」の中ほどにある。]
五 松
大正十二年九月七日。芝へ行く。姉や弟の家のあたりは一面の燒け野原。いつか竹田の畫の展觀のあつた金持ちの家も灰燼になり、燒け棒杭になつた椎の木ばかり立つてゐる。あの畫も燒けたかななどと思ふ。增上寺は無事。三門前の松林の不相變だつたのは嬉しかつた。
松風をうつつに聞くよ夏帽子
[やぶちゃん注:「澄江堂句集」には「震災の後增上寺のほとりを過ぐ」という前書きを持って所収する。この句には、『にひはり』の大正一二(一九二三)年十二月に掲載された、
大震の後、偶芝山内を過ぎ、萬株の長松の恙なかりしを見る。
宛然故人と相逢ふが如し。欣懷自ら禁ずること能はず。
松風をうつゝに聞くよ古袷
という前書きを持った原句が先行して存在する。
「竹田」は
「三門」は山門に同じい。]
六 沙羅の花
沙羅木は植物園にもあるべし。わが見しは或人の庭なりけり。玉の如き花のにほへるもとには太湖石と呼べる石もありしを、今はた如何になりはてけむ、わが知れる人さへ風のたよりにただありとのみ聞えつつ。
ま た 立 ち か へ る 水 無 月 の
歎 き を た れ に か た る べ き。
沙 羅 の み づ 枝 に 花 さ け ば、
か な し き 人 の 目 ぞ 見 ゆ る。
[やぶちゃん注:「また立ちかへる水無月の」の後には読点などはない。ママである。本詩は大正一四(一九二五)年四月十七日附の修善寺からの室生犀星宛書簡(旧全集書簡番号一三〇六)に『又詩の如きものを二三篇作り候間お目にかけ候。よければ遠慮なくおほめ下され度候。原稿はそちらに置いて頂きいづれ歸京の上頂戴する事といたし度。』とし(この原稿とは以下の詩稿を指すと判断する)、次の二篇を記す。
歎きはよしやつきずとも
君につたへむすべもがな。
あまつそらには雲もなし。
また立ちかへる水無月の
歎きをたれにかたるべき
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。
詩の後に『但し誰にも見せぬように願上候(きまり惡ければ)尤も君の奥さんにだけはちよつと見てもらひたい氣もあり。感心しさうだつたら御見せ下され度候。』微妙な自負を記している。
「沙羅の花」ここはわざわざ「植物園」としている点、温室でなくても南方の地域では植生可能である点、更に芥川龍は特に「花のにほへる」と花の香りを強調している点から、これを私は本物の沙羅双樹、即ち、被子植物門双子葉植物綱アオイ目フタバガキ科
Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta と一応、同定したい。これはシャラソウジュ・サラノキ・シャラノキ(沙羅双樹・沙羅の木・娑羅の樹)ともいう(異属のナツツバキも、かく呼称されるので要注意。後文参照)。インドから東南アジアにかけて広く分布し、南方域では高さ三〇メートルにも達する巨木となる。釈迦がクシナガラで入滅した際、臥床の四辺にあったこの四双八本の木が、時ならぬ不思議な鶴の群れの如き白い花を咲かせ、忽ち枯れたとされ、涅槃図によく描かれる。ヒンディー語では「サール」と呼ばれ、日本語の「シャラ」または「サラ」の部分はこの読みに由来する。春に白い花を咲かせ、ジャスミンに似た香りを放つ。但し、耐寒性が弱いため、本邦で育てるには通常は温室が必要で、稀に温暖な地域の寺院に植えられている程度で希少である。各地の寺院では本種の代用としてツバキ科のナツツバキが植えられることが多く、そのためにナツツバキが「沙羅双樹」と呼ばれるようになり、ナツツバキ=サラソウジュという大誤解が生ずることとなってしまった(ここまでは主にウィキの「サラソウジュ」に拠った)。本注を作成するためにネット上の多くの記載を縦覧したが、サラソウジュ Shorea robusta とナツツバキ Stewartia pseudocamellia の両者を全く同一種と考えている致命的な誤りを犯している記載から、ナツツバキを仏教の沙羅双樹と取り違えている寺院や愛好家グループ、両者が別種であることを知りながら、分布や花の記載の途中で両者が混合してしまっている記載等々、甚だしく錯綜していることに気づいた)。一応、沙羅双樹として本邦で多く誤認されている双子葉植物綱ツバキ目ツバキ科ナツツバキ属ナツツバキ
Stewartia pseudocamellia ついても以下に記しておく。和名ナツツバキは仏教の聖樹であるフタバガキ科のサラソウジュ(娑羅双樹)に擬せられて、別名でシャラノキ(娑羅樹・沙羅・沙羅双樹などとも)と呼ばれているが、以上見たように全く異なる植物である。原産地は日本から朝鮮半島南部にかけてで、本邦では宮城県以西の本州・四国・九州に自生、樹高は一〇メートル程度。樹皮は帯紅色で平滑、葉は楕円形で長さ一〇センチメートル前後。ツバキのように肉厚の光沢のある葉ではなく、秋には落葉する。花期は六月から七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートルほどの白色の五弁。雄蘂の花糸が黄色い。朝に開花、夕方には落花する一日花(以上はウィキの「ナツツバキ」の拠った)。但し、ネット上の混乱と全く同様に、芥川龍之介が「植物園にもあるべし」と言ったのは、サラソウジュ Shorea robusta のことであったが、後の「わが見しは或人の庭なりけり。玉の如き花のにほへる」も方はナツツバキ Stewartia pseudocamellia の誤認ではなかったか、という推理は可能性として残る。何故なら、高木のサラソウジュ Shorea robusta は相当に成長しないと植物園の温室内でも花を咲かせることが出来ないとネット上の記載にあるからである。
「植物園」この時代の小説などで、東京でただ「大学」と言えば東京大学であるように、この「植物園」も一般名詞ではなく、芥川は現在の文京区白山にある小石川植物園(現在の正式名称は東京大学大学院理学系研究科附属植物園)のことを指しているものと思われる(全集類聚版ではそう断定している)。
「太湖石」中国の蘇州付近にある太湖周辺の丘陵から切り出される穴の多い複雑な形をした奇石で、太湖付近の丘や湖に浮かぶ島は青白い石灰岩で出来ているが、かつて内海だった太湖の水による長年の侵食によって石灰岩には多くの穴が開き、複雑な形と化した。太湖石は蘇州を初めとする中国各地の庭園に配されている(以上はウィキの「太湖石」に拠った)。
「わが知れる人」不詳であるが、文脈から言えば沙羅の花を見た庭の持ち主「或人」と思われ、また詩の「かなしき人」が芥川龍之介が最後に愛した『越しびと』片山廣子である以上、この「わが知れる人」にも既にして女人、しかも濃厚な廣子の影が被っていると私は見る。]
澄江堂雜詠 芥川龍之介 附やぶちゃん注 完