やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
鎌倉攬勝考卷之十附錄
[やぶちゃん注:底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。「鎌倉攬勝考」の解題・私のテクスト化ポリシーについては「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の私の冒頭注を参照されたい。【作業開始:二〇一一年七月十二日 作業終了:二〇一一年七月十三日】]
鎌倉攬勝考卷之十附錄
鎌倉の方城は、西南の方極樂寺切通と、大佛切通・假粧坂なり。海手は靈山ケ崎迄を經界とすることは、今も昔も同じ。爰に記する所は、鎌倉の境外ともいふべけれど、治承以來、此郷に府を開き給ひしより、稻村・固瀨まで、鎌倉の事實に係る所多ければ、固瀨川迄を附錄し、又加ふるに江島を附せり。
[やぶちゃん注:以上は、底本では全体が二字下げ。]
村名
津村〔或作積良。〕 津村郷深澤庄と唱ふ。村居は、金洗澤の山の北寄にあり。【東鑑】に、賴家將軍、積良に古き柳の名木有由を聞及れ、御臺に移し植させ給ふとあり。【江島縁起】に載て、圓ともかき、圓の大臣といふ説も、此地に因て設たる俗説あれども用ひがたし。
[やぶちゃん注:「圓の大臣」とは、葛城円(かつらぎのつぶら ?~安康天皇三(四五六)年)のことか。「日本書紀」によれば有力豪族として履中天皇二(四〇一)年に国政に参加、安康天皇三(四五六)年に眉輪王(まよわのおおきみ)が安康天皇を殺害した(眉輪王の変)際、眉輪王と共犯の嫌疑をかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を匿うも、次期帝位を狙う大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこと:後の雄略天皇)に屋敷を包囲され、降伏を願い出るも拒絶されて敗死したとされる。植田も疑問視するようにこの地と葛城円との関連は極めて薄いものと思われる。]
腰越村〔津村郷深澤庄。〕 【江島縁起】に、昔江島に惡龍すみて、人の子を呑たるゆへ、子死戀と書たるとあり。妄誕の説なるべし。右大將家のころより、此所にて斬戮及び梟首などせられける地なり。初め治承五年四月十九日、平井紀六を腰越の濵にて梟首するとあり。是は杉山合戰の時、北條三郎を討取しに依てなり。同年九月十六日、桐生六郎が、其主人足利俊綱を害し、其頸を持參し、武藏大路より景時がもとに案内を申す。然るに鎌倉には入られず、直に深澤を歴て〔大佛切通。〕、腰越へ向ふべき旨にて。腰越に至りければ、景時申ていふ、譜第の主人を誅するの造意、尤不當なり。賞翫に足らず。桐生を早く可誅との仰に依て、景時腰越にて是を誅し、主人俊綱が首の傍に、同敷桐生が首を梟首すといふ。又建暦三年五月五日和田亂の時、義盛が一味の張本なる横山右馬允時兼は、波多野三郎・横山五郎以下數十人、親昵の從類等、腰越の浦へ馳來る處に合戰最中なりと聞て、其黨皆蓑笠を腰越に弆置ければ、積て山を成けるといふ。【太平記】に、新田義貞、逞兵凡二萬餘騎を引率し、片瀨・腰越を打廻り、極樂寺へ莅み給ふとあり。又義貞は、先陣大館三郎宗氏、稻瀨川の邊にて討死し、此道筋難所たるゆへ、義貞は假粧坂え打廻り、鎌倉へ攻入給ふ。此地海岸にして、爰より稻村が崎七里が濱にて、寶德二年四月、成氏朝臣江島へ赴給ひし時、太田・長尾と、小山、宇都宮と合戰有しも此邊なり。猶次に出せり。應永廿四年五月十三日、岩松治部大輔入道天用を、龍の口にて斬戮せらると、【大草紙】に見えたるも此所なる由。龍の口も腰越の内なれば、玆の海濱にて首を刎られたり。
[やぶちゃん注:「平井紀六」は小平井久重。治承四(一一八〇)年の石橋山の合戦の最後となった八月二十四日の早河合戦の際、北条時政の長男北条三郎宗時を討ち取った平家方伊東祐親軍の武士。宗時が敗走した伊豆国平井郷(現・静岡県田方郡函南町平井)の出身か。頼朝が鎌倉に入場して後は遁走していたが、頼朝の探索によって治承五年一月六日相模蓑毛で工藤景光によって捕縛され、詮議の上、梟首となった。
「杉山合戰」はこれより先、石橋山の合戦の最終局面で大庭軍の追撃を受けて頼朝が逃げ込んだ土肥の椙山に逃げ込んだ「しとどの窟」で知られる一戦を言う。死を決した頼朝主従、土肥実平・北条時政及び嫡男宗時、二男義時らはここで別れたが、父や弟と別働した宗時のみが討死にした。
「桐生六郎」(?~寿永二(一一八三)年)は足利俊綱・忠綱父子の家人であったが、主人俊綱を弑逆(「譜第の主人を誅する」という表現は「東鑑」にもそうあるのであるが、これは下剋上であるから「誅」は本来ならおかしい表現である)、頼朝に御家人として恩賞を求め、本文にある通り、逆賊とし斬罪梟首となった。
「横山右馬允時兼」(仁平三(一一五三)年~建保一(一二一三)年)武蔵国横山荘の在地領主であった横山時広嫡男。鎌倉幕府創生期の有力御家人。建久元(一一九〇)年には頼朝上洛に供奉、後、右馬允(うまのじょう)に任官したが、建保元(一二一三)年の和田合戦の際、親族であった和田方に就き、自刃した。
「波多野三郎」は波多野盛通で時兼の聟、「横山五郎」は横山知時で時兼の甥。
「弆置ければ」は「をさめおきければ」と読んでいるか。
「莅み」は「のぞみ」(臨み)と読んでいるものと思われる。
「猶次に出せり」は、次の「七里が濱」の項の解説に詳述されている、宝徳二(一四五〇)年四月に起こった本件「江の島合戦」のことを指す。足利成氏への抵抗勢力であった山内上杉家家宰長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家家宰であった太田資清が成氏を襲撃、成氏は江の島へと避難、成氏方の小山持政や宇都宮等綱らが奮戦して長尾・太田軍は撤退、上杉重方の仲介で、表面上、和解、八月になって成氏は帰鎌した。
「岩松治部大輔入道天用」は岩松満純(?~応永二四(一四一七)年)の法号。室町前期の武将。上野新田荘の国人領主。応永二三(一四一六)年の上杉禅秀の乱では舅であった関東管領の禅秀方として戦い、鎌倉公方足利持氏の追放に功あったが、後に足利幕府の後ろ盾を受けた持氏が反攻、岩松は新田荘へ逃げて、禅秀の残党を集め上野国岩松で蜂起したが、武蔵入間川の合戦で敗れて捕縛され、ここ瀧ノ口で斬罪となった。]
固瀨村〔津村郷深澤莊。〕 或は片瀨ともかけり。村名は川の名に依て起れるもの歟。駿河次郎淸重が戰死も此所なり。新田義貞鎌倉合戰の時、片瀨・腰越・十間坂、五十ケ所に火を懸るとあり。
[やぶちゃん注:「駿河次郎淸重」は生没年不詳、源義経四天王の一人であるが、清重という名は江戸になって付会されたものらしい。元は猟師で当初は頼朝の家臣であったが、後に義経郎党となって平氏追討戦で活躍した。但し、一般には義経の奥州行に随伴し、衣川で討ち死にしたとされている。]
古蹟
針磨橋 極樂寺切通を透り、七里が濵のかたへ出る小橋なり。極樂寺坂の谷合より出る小流に架せり。此邊に、むかし針を製するもの住せしより、名附るともいえり。他國の地名に、針崎といふもあり。江州には磨針峠といふも是の類ならん。此橋をば鎌倉十橋の内に入たり。
[やぶちゃん注:現在、この橋は一般には「はりすりばし」と呼称されている。直近の稲村ヶ崎からは砂鉄が採取されるから、ここで針を製したというのは納得出来る話柄ではある。]
稻村 極樂寺切通を踰て南にあり。或説に、鎌倉公方滿兼朝臣の御弟、滿直と申せし人、此所におわせしゆへに、稻村殿と稱する由むかけり。此事誤りならん。至德年中、氏滿朝臣に陸奧・出羽兩國司を賜ひ、兩國の固として、應永六年御所の御弟滿貞は、奧州篠川へ下向、同滿直は出羽の稻村へ下向ありて、彼地にすみ給ふ。爰の稻村にはあらず。
[やぶちゃん注:「踰て」は「こえて」と読む。]
[新田義貞鎌倉合戦稲村ヶ崎の図 その一]
[やぶちゃん注:図上部の書き込みは、
正慶二年五月十八日新田
義貞の先鋒大館次郎
宗氏七里濱ニ打出て
極樂寺口へ攻畫る
で、潮が引く前のシーンを描写している。]
稻村崎 當所の南の海岸をいふ。【東鑑】、建久二年九月廿一日、右大將家海濱を遊覽の爲、稻村が崎の邊に出御し給ひ、小笠懸の勝負を見紛ふとあり。又云、建暦三年五月三日和田亂の時、曾我・中村・二ノ宮・河村の輩、軍勢雲霞の如く稻村が崎に陣し、御所より召給ふといえども、疑ひ思ふ氣色有ゆへ、速に參らず。依て御教書に、義時・廣元の連署のうえに、將軍家の御判を載らる。軍兵等是を拜見して、悉く御方に參入せりといふ。相州〔義時。〕并大官令〔廣元。〕の沙汰せしには、疑貽ありしは子細あることにはあらん。元弘三年五月廿一日夜半に、源義貞此邊に打莅み、明行月に敵陣を見給へば、北は切通極樂寺迄、山高く路嶮しきに、木戸を構え楯をつき、數萬の兵陣を双て並居たり。南は稻村が崎迄沙頭路狹く、浪打際まで逆茂木を繁く引懸て、澳四・五町が程に、大船を並て矢倉をかき、横矢射させんと構えたり。誠にや、此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理りなり。義貞馬より下り給ひ、海上はるばると伏拜み、龍神に所祈誓し給ひければ、其夜の月の入がたに、前々更に干る事もなき稻村が略崎、俄に廿餘町干潟となり、横失射んと構えたる數千の兵船も、引ゆく潮にさそはれて、遙の澳に漂よえり云云【太平記】。又【梅松論】にいふ、爰にふしぎなりしは、稻邑が崎の浪打際、石高く造細くして、軍勢の通路難義の處に、俄に鹽干して、合戰の間、干潟にて有し事は、是佛神の加護とぞ人申けるとあり。
[やぶちゃん注:「明行月に」は「明け行く月に」、「双て」は「ならびて」、「澳」は「おき」(沖)と読む。「四・五町」は一町が約一〇九メートルであるから、稲村ヶ崎の沖合四三〇~五四五メートル前後の位置に、幕府軍軍船が船に組んだ櫓の上から横矢を射掛けるために待ち構えていたところが、大潮で「廿餘町」引いたとあるから、これは実に波打ち際が激しく後退し、軍船は都合二キロ近くも沖へ退いてしまったことになる。弓矢の実戦での有効射程距離は六十メートルから百メートルが限界とされる。]
[新田義貞鎌倉合戦稲村ヶ崎の図 その二]
[やぶちゃん注:この図は、前の図から大潮で遥かに波打ち際が後退し、討幕軍が稲村ヶ崎を易々と越えんとする、その瞬間を描いたものである。]
袖の浦 稻邑が崎の海濱なり。其形は、袖の如くなるゆへ名附と。
【御集】
袖の浦の花の浪にもしらさりき、いか成秋の色に戀つゝ
順德帝御製
【家集】
袖の浦にたまらぬ玉のくたけつゝ、よりても遠くかへる波哉
藤原定家卿
しき波に獨や寢なん袖の浦、さはく湊による船もなし
西行法師
うき身をは恨みて袖をぬらすとも、さしもや浪に心くたけん
鴨長明
[やぶちゃん注:この袖が浦は稲村ヶ崎の西側(七里ヶ浜側)砂浜を指している。現在、辞書などで袖ヶ浦を七里ヶ浜の別称とする記載があるが、明治十六年刊の「江ノ島鎌倉名勝巡覧」でも「七里ヶ浜」を掲げた後に「行合川」を挟んで「袖ヶ浦」を揚げており、本書も次の次に「七里が濱」を掲げている以上、厳然と区別すべきである。]
十一人塚 稻邑と七里が濱の間、海手の方にあり。土人等いふ、むかし新田義貞の軍士十一人、此所にて討死せしを、塚に築き、上に十一面觀音の小堂を建たる跡なりといふ。新田方の軍士、其名もしれず。又其後、足利家の世となりて、御所持氏・成氏兩朝臣の時、此海濱にて合戰有し事見へたれば、何れの時戰死せしにや、姓名も傳えず。
七里が濱 稻邑が崎より腰越迄の海濱をいふ。坂東道〔六町一里なり。〕ゆへに名附たり。應永十七年七月、新田義宗の嫡孫の刑部少輔貞方を、千葉介兼胤が生捕しを、七里濱にて首を斬て、海に沈けるとあり。又此所は古戰場にて、應永廿三年、上杉禪秀が亂にも、七里が濵腰掛合戰あり。又其後寶德二年四月廿二日、太田備中守・長尾左衞門尉等張本にて、一味の大名をかたらひ、成氏御所を襲ひし時、御所は江の島へ遁れ給ふ。太田・長尾腰越迄寄來り、小山下野守取て返し、七里が濵にて戰ひけるが、小山無勢ゆへ、家從等八十餘人討死し、小山も手負しかば、續て小田讃岐守・宇都宮肥前守寄來り、太田・長尾と合戰し、散々に追討ければ、太田・長尾が郎黨百餘人討れける。叶はずして、粕州糟谷庄へ引退くといふ。仍て此邊戰死の枯骨多く、貝類に交りて有といふ。砂場一面に花貝・櫻貝、或は酢貝、其餘種々な貝品あり。又は鐵砂あり、日に映じて輝光をなせり。鐵器のものを磨くに用ひ、床壁などを塗に用ひて佳なり。
[やぶちゃん注:「坂東道〔六町一里なり。〕」の「坂東道」とは坂東路、田舎道を意味する語で、同時にこの表現は特殊な路程単位を用いていることを意味する。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかった。「新田義宗の嫡孫の刑部少輔貞方」は新田義宗は新田義貞の三男であるが、実質上の嫡男として新田氏を継いだ。「嫡孫の刑部少輔貞方」とあるが、これは新田義貞の嫡孫とすべきところを誤ったものか、或いは後掲するように彼を捕縛した千葉介兼胤の事蹟と交錯して誤ったものとも思われる。新田貞方(正平十(一三五五)年~応永十六(一四〇九)年)は新田義宗の嫡男。南朝方を支持、一時は奥州で勢力を拡大したが、北朝が優勢となって一時地下に潜ったが、鎌倉公方足利満兼が病臥するや、東国の旧南朝支持派に決起を促す書状を発した。ところがこれが露見して潜伏先が割れ、貞方父子は何と同じく新田義貞の曾孫である鎌倉府侍所千葉兼胤に捕縛され、祖父義貞所縁のここ七里ヶ浜で嫡子貞邦と共に斬首された。このシーンについて、ネット上の2チャンネル等に以下の引用がある。出所不詳であるが、生々しい臨場感があるので恣意的に正字化して以下に示す。
貞方をば、門前に引すへ、千葉介して謀叛の子細を尋らる。一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」と、たりふし申されければ、千葉介、「あれほどの不覺人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」と申されしかども、鎌倉殿、「朝敵の最なり。とう/\きれ。」との給へば、千葉介、此上は力及ばずとてたゝれけり。やがて七里ヶ濱にして、すでに敷皮のうへに引居たれども、おもひもきらず、「あはれ、千葉介は身内とこそきゝつるに、などや貞方をば申助給はぬやらん。」とて、起ぬふしぬなげきて、もだへこがれ給へば、幡谷刑部少輔切手にてありしが、太刀のあてどもおぼえねば、をさへて掻頸にぞしてける。見ぐるしかりし有樣なり。大の男の肥え太りたるが、首は取られて、むくろのうつぶさまに伏したる上に、すなご蹴かけられて、折ふし村雨の降りかかりたれば、背みぞにたまれる水、血まじりて紅を流せり。目も當てられぬ有樣なり。
「七里が濵腰掛合戰」とあるが、これは「腰掛合戰」ではなく「腰越合戰」の誤字か誤植ではあるまいか。
「仍て此邊戰死の枯骨多く、貝類に交りて有といふ」明治十六年刊の「江ノ島鎌倉名勝巡覧」でさえ、その「七里ヶ浜」に、
七里ヶ濱 江の島より東の方鎌倉の行路を云ふ。この浜は腰越村と稻村ケ崎の間だ関東道(六町を以つて一里とする七里なり)故に七里濱を名づく。古戰場にして今なほ太刀の折れ或ひは白骨など土砂に交はり時として掘り出すことありとぞ。
と記す(本文は「江ノ島マニアック」所載のものを恣意的に正字化、歴史的仮名遣に直したものである)。
「花貝」二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科ハナガイ Placamen tiara 。花貝は一般には桜貝の古称としても用いられるが、次に「櫻貝」が示されているので、現在の和名ハナガイに同定しておく。肋がフリルのように高く肥厚し、肋間に放射肋を持たないのが特徴。微小貝類で大変可愛らしい。房総半島・能登半島以南の浅海域に棲息。
「櫻貝」二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科サクラガイNitidotellina hokkaidoensis 。但し、実際には同じような形状と色をしたニッコウガイ科モモノハナガイ(エドザクラガイ)Moerella jedoensis やニッコウガイ科カバザクラ Nitidotellina iridella との混称である。一般的な個体は淡桃色から桃赤色を呈し、薄く壊れやすいが、コレクターに人気の高い貝である。
「酢貝」腹足綱古腹足目ニシキウズガイ上科サザエ科クボガイ亜科リュウテン属スガイ亜属スガイTurbo (Lunella) coreensis 。殻径二~三センチ内外の独楽型で、サザエをより平板に丸く小さくした感じの貝である。この「酢貝」という名は本来、本種の蓋に対する呼称であった(古来、酢をさした器にこの蓋を置き、蓋の上層に沈着した炭酸カルシウムが酢で溶解して蓋が動くのを見て楽しんだことに由来する)。貝自体にはカラクモガイ(唐雲貝)といった名があるのだが、スガイが正式和名となっている珍しいケースである。]
音無の瀧 七里が濵の西の方、土山の樹蔭を廻りて落る瀧なり。土山の流瀧ゆへ、水音せざる瀧なり。
日蓮袈裟掛松 音無の瀧より南にて、街道の北なり。一株の松あり。枝葉さかふ。是は日蓮、龍の口にて難に遭ひし時、袈裟を此松にかけるより名附たり。
行逢川 街道より西北の山合より、海手へ流れ出る小川なり。日蓮、龍の口にて難に逢ける時、奇瑞のこと有しに因て、其事を鎌倉ヘ言上する使と、又北條時賴より赦免の使者と、此川にて行合しゆへに名とす。
金洗澤 七里が濵の内、行逢川より西の方。上世此所にて、金を掘りたるゆへ名附といふ。按ずるに、爰にて掘たるにあらず。他にて掘得たる銅を、此所にて沙汰せしものなり。銅を掘しは、江の島に金窟の古坑數か所あり。彼地にて掘たるならん。【東鑑】、養和二年四月、右大將家江の島に赴き給ひ、歸御の時、此邊にて牛追物を命じ給ふとあり。或は旱年の時雨を祈らせ給ふ。靈所七瀨の御祓を行はせ給ふこと、往々【東鑑】に見えたり。此金洗澤は、其七ケ所の内なり。
[やぶちゃん注:「牛追物」は十世紀頃に始まった古い騎射修練の一つで、小牛を追い射るもの。牛を傷つけないように鏃を使わず、蟇目(ひきめ:鏑に穴をあけたもの。)や神頭(じんどう:中空でない小さな鈍体を装着したもの。)を用いた。「靈所七瀨」は、由比ヶ浜・片瀬川・武蔵金沢・葉山・柏尾・江ノ島と本金洗沢。]
小動 七里が濵を經て、腰越へ入左の方にある。巖の獨立せしあり。此邊をこゆるぎといふ。其巖上に小河あり。八王子の宮有て、又巖の端に海手へ差出たる松あり。風波の爲に絶ず動くゆへこゆるぎの松といふとなん。或は大磯の現を小動の本所にて、詠ずる和歌は、彼地をいふならん。されども土人等は、此ところなりとも傳ふるゆへ、しばらく玆に其歌を出せり。
君おもふ心を人にこゆるきの、磯の玉藻や人もからまし
躬恒
向ふことを待に月日はこゆるきの、磯にや出て今はうらみん
右近
こゆるきの磯の松風おとすれば、夕波ちとり立さはくなり
土御門内大臣
【紀行】
またや見む花の波さへこゆるきの、磯の枕の春のあけほの
宗祇
【紀行】
きのふ立けふ小動の磯の浪、いそひてゆかん夕くれのみち
北條氏康
【紀行】
見るかうちに春の浪わけこよろきの、沖に出たる海士の釣舟
玄旨法印
[やぶちゃん注:「八王子」は八王子権現のこと。近江国牛尾山を八王子山と呼び、本山とする、山岳信仰に天台宗や山王神道等が習合したもので、日吉山王権現又は牛頭天王眷属の八王子を祀るものとする。明治の廃仏毀釈令以前には多くの八王子社が各地に祀られていた。]
袂の浦 腰越の西続きの海濱をいふ。其形勢袂の如きゆへに名附たり。【夫木集】に、よみ人しれぬ歌に、
なひきこし訣の浦のかひしあらは、千鳥の跡を絶すとはなん
西行見返の松 腰越より、片瀨村へ至る右の方にあり。枝葉皆西のかたへ向ふ。傳えいふ、西行此所へ來り、西の方を見返り、此松の枝を都の方へ捻むけたりとて、又此払をねぢ松ともいふ。
[やぶちゃん注:現在、湘南モノレール湘南江ノ島駅前の道を常立寺前を通って、三百メートルほど北上した民家の間に小さな松があり、「西行戻り松」「西行見返り松」とされている。「吾妻鏡」に載るように、西行は実際に鎌倉を訪れている。]
笈燒松 片瀨村の西寄、民家のうしろの竹藪の際にあり。駿河次郎淸重が、此所にて笈を燒捨し所なりといふ。
[やぶちゃん注:現在の片瀬四丁目の旧家の敷地内に、この「笈焼き松」と「駿河次郎清重の墓」と称した五輪塔と多層塔様(これはしかし画像からは複数の石塔の寄せ集めに見える)のものがあったことが佐藤弘弥氏のHP「義経伝説」内の平野雅道氏の「義経と藤沢」の「駿河次郎清重の伝承」に掲載された写真(推定昭和初年)や片瀬地区自治町内会連絡協議会の西方町内会のネット記載によって判明したが、それによれば惜しくも二〇〇三年に宅地化されて現在には伝わっていない。]
唐が原 固瀨川の東なる原をいふ。【更級の記】に、もろこしが原、砂子いみじう白く、大和なでしここくうすく、錦おひけるやうに咲たりとあり。
【夫木】
名にしおはゝ虎やふすらん末路に、ありといふなるもろこしの原
藤原忠房
【懐中】
遙なるみち社うけれ兼てより、遠く見にけり唐がはら
よみ人しれず
【名奇】
まとろまん夜中にしはしむは玉の、夢路そちかき唐の原
鴨長明
【家集】
東路に唐が原におり立て、きぬをやからのころもといふらん
柿本人丸
[やぶちゃん注:「更級日記」の当該箇所の前後を含めて引用しておく(インテリア・グリーンの店ポトス提供の藤原定家自筆本の頁より)。
にしとみといふ所の山、繪よく書きたらむ屏風をたてならべたらむやうなり。片つ方は海、濱のさまも、寄せかへる浪の景色も、いみじうおもしろし。もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日行く。「夏はやまとなでしこの濃く薄く錦をひけるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬ」といふに、なほ所々はうちこぼれつゝ、あはれげに咲きわたれり。もろこしが原に、やまとなでしこも咲きけむこそなど、人々をかしがる。
この「更級日記」の「もろこしが原」はしかし、次章が直ぐに足柄となっており、片瀬海岸よりももっとずっと西方である可能性が強いように思われる。また、平塚版のタウン・ニュースの『町名探訪 第六十五回「唐ヶ原」』の記載に大磯町大磯から平塚市花水側西岸一帯の海浜を古く「もろこし河原」 と呼称しており、それは五世紀前後、この地で朝鮮からの集団移住者による開拓が行われたことに由来するとあり(高麗山もある)、更に昭和三十三(一九五八)年に行われた町名町界変更の際に、「もろこしがはら」は語呂が悪いとされて、現在の「唐ヶ原」(とうがはら)となったという経緯も記されている。先に引いた『村人の言い伝えによる地名・「ひらつか」は古くから存在したか?』を見ても、平塚から大磯辺りが由緒・経過といい、同定の分があるという気がする。従って以下の和歌も同様である。
二首目の上句の「社」は係助詞「こそ」と読む。『村人の言い伝えによる地名・「ひらつか」は古くから存在したか?』に東国古歌「懐中抄」読人知らずとして乗せる本歌は、
遙かなるうちこそうけれ夢ならぬ遠く見にけりもろこしの原
とある。]
砥上ヶ原 固瀨より西にあり。【西行物語】に、とかみが原を過るに、野原の露のひまより、風にさそはれ、鹿の鳴聲聞えければ、
柴松の葛のしげみに露こめて、砥上か原に小鹿なくなり
[やぶちゃん注:「柴松の」の歌の「露こめて」は「妻こめて」の誤りである。]
浦ちかき砥上か原に駒とめて、固瀨の川の鹽干をそまつ
西行
[やぶちゃん注:この「浦ちかき」は西行の歌ではなく、鴨長明の作である。]
立かえるなこりは春にむすひけん、砥上か原の葛の冬枯
同
[やぶちゃん注:「同」とあるが、ウィキの「砥上ヶ原」の「砥上ヶ原と文化」の砥上ヶ原を詠んだ和歌の一覧によれば、これは冷泉為相の作である。「為相百首」に所収する実景詠である。]
八松の八千代のかけにをもなれて、砥上か原に色もかわらし
同
[やぶちゃん注:「同」とあるが、ウィキの「砥上ヶ原」の「砥上ヶ原と文化」の砥上ヶ原を詠んだ和歌の一覧によれば、これは鴨長明の作である。「鴨長明集」に所収する実朝に拝謁するために鎌倉へ下向した際の実景詠である。]
やつ松が原といふは、砥上が原の北にあり。【盛衰記】に、三浦の人々、石橋の軍散じて、酒勾の宿より三浦へ透らんとて、馬を早めて行程に、八松が原・腰越・稻村・由比の濵を打越て、小坪坂を登るとあり。
片瀨川 【東鑑】に、国瀨と出たれど、川の名より村名にも、名附たることなるべし。されども此川は、蒼海え落口なれ、川水も片瀬に波立て、潮に混流するといふことにて、片瀨川とは號せしならん。此川の水源は、武藏國多摩郡と、當國の高座郡との山間より出て、東流する水路は、兩國の國堺を流るゝゆへ堺川と唱え、武藏の鶴間村より南へ折、當國の鶴間村へ係り、南流して此所に至る迄、又鎌倉郡と高座郡の郡界を流て、郡界の川となれり。【東鑑】に、治承四年十月廿六日、今日固瀨川の邊に於て、大庭三郎景観を梟首すとあり。建暦三年五月、和田が伴類の者、固瀨川の邊にて誅する者、二百三十四人とあり。
【御集】
歸りきて又見んことも固瀨川、濁れる水のすまぬ世なれは
宗尊親王
此御歌は、文永三年七月四日、宗尊親王、急に御歸洛の御旅裝有て御發輿の時、此川の邊にて、詠給ふ御述懷の御歌なるべし。
【家集】
打渡す今やしほひの固瀨川、思ひしよりも淺き水哉
爲相卿
炎早の時は、雨を祈らるゝ御祓を行ひ、或は水天供の修法を、靈所七ケ所にて行ふとあり。此所も七ケ所の内なり。
寺院
萬福寺 腰越村の内なり。龍護山と號す。古義眞言宗、同國手廣村靑蓮寺末なり。開山行基、本尊藥師如來〔行基作。〕弘法大師作の不動尊を安ず。此寺、義經の宿陣せられし事をいひ傳ふ。元暦二年五月十四日、源延尉義經、思ひの如く朝敵を平らげ、剰へ屋島の内府平宗盛を相具して參り、其賞兼て疑はさる處に、不儀の聞え有に依て、忽御氣色を蒙り、鎌倉へ入られず、腰越の驛に於て徒に日を渉るの間、愁欝の餘り、因幡前司廣元に附して、一通の欵状を幕府え奉るといふ。其状の下書なりとて、今も此寺にあり。辨慶が筆なりといひ傳ふ。文書中【東鑑】に見えしとは異なる所もあり。辨慶が書けること覺束なし。
硯地 寺の前庭にあり。寺傳に、義經の仰に依て、辨慶が欵状を書たる時、硯水を汲し池といふ。又池の端に、辨慶腰かけ松と名附るものあり。
[やぶちゃん注:「欵状」は「くわんじやう」と読み、「款状」と同じい。官位の懇望・訴訟の趣旨を記した嘆願書。私はつい先日、この腰越状を高校生に教授した。以下に「吾妻鏡」原文白文(国文学研究資料館の「吾妻鏡」画像データベースを視認底本として活字に起こした。字配も再現した)及び私の訓読文(生徒に示したものは飽くまで私の好みの読みに従って読んだが、今回、底本に施された訓点を一部参考にして補正した)と現代語訳を掲げておく。「吾妻鏡」元暦二(一一八五)年五月二十四日の記載である。
◯原文
廿四日戊午 源廷尉〔義經〕。如思平朝敵訖。剩相具前内府參上。其賞兼不疑之處。日來依有不儀之聞。忽蒙御氣色。不被入鎌倉中。於腰越驛徒渉日之間。愁欝之餘。付因幡前司廣元。奉一通款状。廣元雖披覽之。敢無分明仰。追可有左右之由云云。
彼書云。
左衞門少尉源義經。乍恐申上候。意趣者。被撰御代官其一。為 勅宣之御使。傾 朝敵。顯累代弓箭之藝。雪會稽恥辱。可被抽賞之處。思外依虎口讒言。被默止莫太之勲功。義經無犯而蒙咎。有功雖無誤。蒙御勘氣之間。空沈紅涙。倩案事意。良藥苦口。忠言逆耳。先言也。因茲。不被糺讒者實否。不被入鎌倉中之間。不能述素意。徒送數日。當于此時。永不奉拜恩顏。骨肉同胞之儀。既似空。宿運之極處歟。將又感先世之業因歟。悲哉。此條。故亡父尊靈不再誕給者。誰人申披愚意之悲歎。何輩垂哀憐哉。事新申状雖似述懷。義經受身體髮膚於父母。不經幾時節。故頭殿御他界之間。成孤。被抱母之懷中。赴大和國宇多郡龍門之牧以來。一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命。京都之經廻難治之間。令流行諸國。隱身於在々所々。爲栖邊土遠國。被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而爲平家一族追討令上洛之手合。誅戮木曾義仲之後。爲責傾平氏。或時峨々巖石策駿馬。不顧爲敵亡命。或時漫々大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之爲甲冑於枕。爲弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年來宿望之外。無他事。剩義經。補任五位尉之条。當家之面目。希代之重職。何事加之哉。雖然。今愁深歎切。自非佛神御助之外者。爭達愁訴。因茲。以諸神諸社牛王寶印之裏。不插野心之旨。奉請驚日本國中大少神祇冥道。雖書進數通起請文。猶以無御宥免。其我國神國也。神不可禀非禮。所憑非于他。偏仰貴殿廣大之御慈悲。伺便宜。令達高聞。被廻祕計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之餘慶於家門。永傳榮花於子孫。仍開年來之愁眉。得一期之安寧。不書盡詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義經恐惶謹言
元暦二年五月日
左衞門少尉源義經
進上 因幡前司殿
◯やぶちゃんの書き下し文
廿四日戊午 源の廷尉〔義經。〕、思ひの如ままに朝敵を平らげ訖はんぬ。剩つさへ相ひ具して前の内府を參上す。其の賞兼て疑ふべからざるの處、日來不儀の聞へ有るに依りて、忽ち御氣色を蒙り、鎌倉中に入れられず。腰越の驛に於て徒らに日を渉るの間、愁欝の餘りに、因幡前司廣元に付して、一通の款状を奉ず。廣元、之を披覽すと雖も、敢て分明の仰せ無し。追つて左右有るべきの由しと云云。
彼の書に云く、
左衞門少尉源義經、恐れ乍ら申上候意趣は、御代官の其一に撰ばれ、 勅宣の御使として、 朝敵を傾け、累代弓箭の藝を顯はし、會稽の恥辱を雪ぐ。抽賞を被るベきの處、思の外、虎口の讒言に依りて、莫太の勲功を默止せらる。義經犯すこと無くして咎を蒙る。功有りて誤り無しと雖も、御勘氣を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。倩々事の意を案ずるに、良藥口に苦く、忠言耳に逆らふは先言なり。茲に因りて、讒者の實否を糺されずして、鎌倉中に入れられざるの間、素意を述ぶる能はず、徒らに數日を送る。此の時に當りて、永く恩顏を拜し奉らずば、骨肉同胞の儀既に空しきに似たり。宿運の極まる處か、將た又た先世の業因を感ずるか。悲しきかな、此の條、故亡父の尊靈再誕し給はずんば、誰れ人か愚意の悲歎を申し披かんや、何れの輩か哀憐を垂れんや。事新しき申し状、述懷に似たりと雖も、義經、身體髮膚を父母に受け、幾時節を經ず、故頭殿御他界の間、孤と成り、母の懷の中に抱かれ、大和の國宇多の郡龍門の牧に赴きてより以來、一日片時も安堵の思ひに住せず、甲斐無きの命を存ふと雖も、京都の經廻難治の間、諸國に流行せしめ、身を在々所々に隱し、邊土遠國を栖と爲して、土民百姓等に服仕せらる。然れども幸慶忽ち純熟して、平家の一族追討の爲に、上洛せしむるの手合ひに、木曾義仲を誅戮するの後、平氏を責め傾けんが爲に、或時は峨々たる巖石に駿馬を策ち、敵の爲に命を亡ぼすを顧みず、或時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めんことを痛まず、骸を鯨鯢の鰓に懸く。加之、甲冑を枕と爲し、弓箭を業と爲す。本意は併しながら亡魂の憤りを休め奉り、年來の宿望を遂げんと欲するの外他事無し。剩へ義經五位の尉に補任の条、當家の面目希代の重職、何事か之に加へんや。然りと雖も、今、愁ひ深く、歎き切なり。自ら佛神の御助非ざるよりの外は、爭か愁訴を達せん。茲に因りて、諸神諸社牛王寶印の裏を以て、野心を插まざるの旨、日本國中大少の神祇冥道を請じ驚かし奉り、數通の起請文を書き進らすと雖も、猶ほ以て御宥免無し。我が國は神國なり。神は非禮を禀くべからず。憑む所は他に非ず、偏へに貴殿の廣大の御慈悲を仰ぐ。便宜を伺ひて高聞に達せしめ、祕計を廻らされ、誤無きの旨を優ぜられ、芳免に預からば、積善の餘慶を家門に及ぼし、永く榮花を子孫に傳へよ。仍りて年來の愁眉を開き、一期の安寧を得んこと、愚詞を書き盡さず、併しながら省略せしめ候ひ畢んぬ。賢察を垂れられんことを欲す、義經、恐惶謹言。
元暦二年五月日
左衞門少尉源義經
進上 因幡前司殿
◯やぶちゃんの勝手自在現代語訳(腰越状は読み易くするために、内容から何箇所かで改行し、ダッシュや点線を施した)
二十四日戊午 源の廷尉殿〔源義経。〕、思う存分、朝敵たる平氏を徹底的に誅伐し終え、その凱旋に加えて前の内府平家総大将平宗盛を連行して鎌倉に参上した。その論功行賞は疑いなくこの上ないものであったのだが、日頃、梶原景時からの不穏不義の聞こえが重なったがために、突如、頼朝殿の御勘気を蒙り、廷尉義経殿は鎌倉御府内への入府を拒絶された。腰越の宿駅に於いて徒らに日を経るうち、憂愁の感極まり、政所別当因幡前司広元殿宛の一通の請願書を奉った。広元殿は義経殿の思いを汲んでこれを上覧に供したのだが、頼朝殿からは一向に明確な仰せ言もなく、ただ追って沙汰があるとだけのことであった。
その彼の書状に言う。
左右衛門少尉源義経、恐れながら申し上げるその趣旨は、鎌倉殿源頼朝の御代官の第一に選ばれ、天皇の御命令の使者として朝敵を打ち、先祖代々の武芸を存分に発揮し、我らが源氏の積年の恨みを晴らすことが出来ました。これによって他の誰よりも抜きん出て褒美を受けて当然で御座いますのに、思いの外、恐ろしいまでの悪意を持ったいわれなき讒言によって多大な功績を無視されてしまいました。義経は犯してもいない罪を受け、功績があって誤ったことはしていないにも拘らず、兄上の怒りを受けてしまい、空しく血の涙を流して、心はどん底に沈んでおりまする……。
そんな中で、つらつらこのたびのことを考えてみまするに、良薬は口に苦く、正しい忠告に限って耳に痛いということは古人も述べている通りです。……まさにそこです!……兄上に讒言を伝えた者が、はたして誠実な人間であるか、不実な人間であるかをろくにお調べにもなられず、また、私めは鎌倉の御府内にさえも入れてもらえぬが故に、心からの弁明をする機会も与えられておりませぬ。そうして……そうして、ただ空しくこの数日を過ごしてしまいました……。
今この時、兄上の御尊顔を拝することが出来ぬとならば、血を分けた兄弟であるという事実さえ、空しいものになったも同様!……
私めの運命が私には分からぬ理由から何故か行き詰まってしまったのか、あるいは私めの知らぬ私の前世に、何か悪い業でもあったのかと感じさせるほどのこととでも申しましょうか!?……
ああっ! 何と悲しいことか!……
亡くなられた父源義朝様の御魂が再臨でもされない限り、一体、誰がこの私の悲しみと嘆きを思いやって、兄上に申し開きしてくれるでしょうか、いいえ! 誰も正直な私を救ってくれる方など、おりません! この無実の罪を受けた私をどこの誰が哀れんでくれるでしょうか、いいえ! 誰独り哀れに思ってくれる者など、おりません! 救ってくれる、哀れに思ってくれる方は、兄上! あなたしかおられぬのです!……
さても、この度の新たなこの弁明の手紙、私めが愚痴を述べているかのように見えると致しましても――この義経、父母に生を受けて以来、いくらも経たぬうちに、我らが父左馬頭義朝殿が亡くなられ、孤児となり、母の懐に抱かれ、大和の国宇陀の郡龍門の牧に赴いてからというもの、毎日片時も安心したことはこれ御座なく、生き甲斐のない命ばかりを長らえて参りましたけれども、京都周辺は非常に混乱をきたしておりましたので、諸国を流浪し、身をいろいろな所に隠しては、僻地や片田舎を栖かとし、卑しい百姓どもにさえ使役されたり致しました。しかし、幸にして素晴らしい運が結実致して、平家一族追討のために上洛したその先ずの手合せに、かの山猿木曾の義仲を見事誅殺、その後、平氏を亡さんがために、ある時は険しい岩山に駿馬をむち打って、命を失うことをも顧みず、ある時は果てしない海の暴風大波をしのぎ、身を海の藻屑とせんことをも厭わず、鯨の顎にかみ砕かれんかとするも顧みず、そればかりか、そもそもが日々、兜や鎧を枕に野宿し、殺生をこととする武芸を、生きるための本業と致して参ったのです。――しかし! しかし、これは愚痴では御座いません! 私めの本意は、亡き先祖の魂を鎮め奉り、長年の宿願で御座った源氏の家名の再興を遂げんと望む以外には、これ、全く御座らぬのです!……
しかも、義経が五位の左衛門尉に補任されましたことは、当家の面目も立ち、何と言っても類いまれなる重職で御座ればこそ、これ以上によきことなど、あるでしょうか?……
しかしながら……
今は愁いも深く、嘆こと、頻り……。
神や仏のお助けでもないことには、どうしてこの訴えを兄上のみ心にお伝えすることが出来ましょうや!……
いいえ! もうこうなっては神仏にすがるしか御座いませぬ!……
さればこそ、私めは諸神社の牛王法印の御札を裏返し、そこに私めが全く以って兄上に野心などは持って御座らぬこと、日本国中のあらゆる神や鬼神に誓いを立て、何通もの起請文を書いて兄上に奏上致しました……が、いまだにお許しが御座いませぬ……。
我が国は神の国にて御座る! その神に誓って起請文を書いたのに、これに背くようなことを、失礼ながら、神々が受けていいはずがないでは御座いませんか?!
――もう頼みにできるのはほかでもない、ただひたすら、あなた、因幡前司殿大江広元様の御慈悲を仰ぐばかり! 便宜を図って兄上のお耳にこの私めの思いを伝えさせ、秘計をもって私に過ちがないことを弁明して下さり、兄上からお許しに預かれたとならば、正しき私を救うという善行を積んだ貴兄広元殿の功徳は大江一族総てに及びまする! その大江氏の功徳による栄華を永く子孫に伝えられるがよい!
以上をもって、長年の私めの愁いを取り除き、一生の安穏を得ようと思うて御座る!
この悲しみは最早、言葉では書き尽くせませぬ!……
しかし……しかし。これでも省略し、省略し、何とか書き記したものなので御座います! どうか、お察しあれかし! 義経、心から謹んで大江広元様に申し上げるもので御座います。
元暦二年五月吉日
左衛門少尉源義経
進上 因幡前司殿
……私の母は今年(二〇一一年)の三月十九日に筋萎縮性側索硬化症のために亡くなった。その病院はこの腰越の近く、海を見下ろす江ノ島の見える病院であった。そうして――その病院の名、聖テレジア病院というは、若き日の母の洗礼名テレジアと同じであった――。]
龍口寺 腰越村の内なり。寂光山と號す。日蓮上人遷化の後に、弟子六老僧、力を合せ建立す。仍て日蓮を開山とし、此寺を八箇寺の輪番にて住職せり。腰越の内、神戸妙典寺〔比企谷妙本寺末。〕・神戸本成寺〔身延山末。〕神戸本立寺〔比企谷の末。〕・固瀨村法源寺〔中山の末。〕・固瀨村本蓮寺〔京本國寺末。〕・同所觀行寺〔國澤の末。〕・同所東漸寺〔中山の末。〕・同所常立寺〔碑文谷の末。〕是を固瀨の八ケ寺といふ。皆龍口寺の近所也。
本堂 日蓮上人の像、中老日法の作を安ず。堂内に日蓮上人頸の座右といふ有。注畫讃に、文永八年九月十二日、日蓮難に逢とあり。又日蓮一夜土の牢、堂の西の方山際に洞窟あるをいふ。日蓮敷皮石といふもあれど、古えのものは堂内に置けり。
七面社 本堂の後の山にあり。
番神堂 本堂の東にあり。松平飛騨守利次室家再興といふ。
龍口明神 津村・腰越兩村の土産神とす。社は龍口寺の東の山上にあり。別當は、眞言宗加護山寶善院といふ。津村にあり。注畫讃に、欽明天皇の十三年四月十二日、此地へ天女降居せり。是辨財天の應地なり。此湖水の惡龍、遙に天女の美質を伺ひ見て、竊に感じて、天女の所へ至る。天女不快して云、我本誓あり。普く群生を救ふ。汝慈憐なくして生命を斷。何ぞ好述とならん。龍いふ、我教命に任せん。自今以後、物のために毒をせずして、哀憐を垂んといふ。天女則諾せり。龍また誓を立て、南に向て山をなす。是れ龍の口山なりといふ。此事は【江の島縁起】にも見えたれど、詳なる事をしらず。
鎌倉攬勝考卷之十附錄終