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侏儒の言葉――病牀雜記――   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正141925)年10月発行の『文藝春秋』に上記のように「侏儒の言葉――病牀雜記――」で掲載されたものの、後の「病中雜記」は作品集『侏儒の言葉』に所収されたが、これは未収録である(これは勿論、納得出来ないことではない)。前者の表題の変更は従来の岩波版編者による恣意的なものであるから(この変更は心情的には理解できるが、全集編者としてはするべきことではない)、私は元のままを用いることとした。年譜等によれば、芥川はこの前月初旬、静養先の軽井沢(8月20日より滞在)で感冒のために4~5日病臥し、小穴隆一や堀辰雄らが看病をしたとあり、病態はかなり重いものであったらしい。9月7日に帰京するも、数日後の12日前後にぶり返し、再び20日迄病臥している。本作はその20日前後の時期に執筆と推定される。病中と名うつからには仕方がないとも言えるが、本来の「侏儒の言葉」の属性とは異なって、ひどく弛緩したものとなっている。底本は岩波版旧全集を用いた。末尾に簡単な注を附した(一部、筑摩書房全集類聚版脚注を参考にした)。]

 

侏儒の言葉
    ――病牀雜記――

 

 一、病中閑なるを幸ひ、諸雜誌の小説を十五篇ばかり讀む。瀧井君の「ゲテモノ」同君の作中にても一頭地を拔ける出來榮えなり。親父にも、倅にも、風景にも、朴にして雅を破らざること、もろこしの餅の如き味はひありと言ふべし。その手際の鮮かなるは恐らくは九月小説中の第一ならん乎。

 二、里見君の「蚊遣り」も亦十月小説中の白眉なり。唯聊か末段に至つて落筆匆々の憾みあらん乎。他は人情的か何か知らねど、不相變巧手の名に背かずと言ふべし。

 三、旅に病めることは珍らしからず。(今度も輕井澤の寐冷えを持ち越せるなり。)但し最も苦しかりしは丁度支那へ渡らんとせる前、下の關の宿屋に倒れし時ならん。この時も高が風邪なれど、東京、大阪、下の關と三度目のぶり返しなれば、存外熱も容易には下らず、おまけに手足にはピリン疹を生じたれば、女中などは少くとも梅毒患者位には思ひしなるべし。彼等の一人、僕を憐んで曰、「注射でもなすつたら、よろしうございませうに。」

東雲(しののめ)の煤ふる中や下の關

 四、彼は昨日「小咄文學」を罵り、今日恬然として「コント文學」を作る。宜なるかな。彼の健康なるや。

 五、小穴隆一、輕井澤の宿屋にて飯を食ふこと五椀の後女中の前に小皿を出し、「これに飯を少し」と言へば、佐佐木茂索、「まだ食ふ氣か」と言ふ。「ううん、手紙の封をするのだ」と言へど、茂索、中中承知せず「あとでそつと食ふ氣だらう」と言ふ。隆一、憮然として、「ぢや大和糊にするわ」と言へば、茂索、愈承知せず、「ははあ、糊でも舐める氣だな。」

 六、それから又玉突き場に遊びゐたるに、一人の年少紳士あり。僕等の仲間に入れてくれと言ふ。彼の僕等に對するや、未だ嘗「ます」と言ふ語尾を使はず、「そら、そこを厚く中てるんだ」などと命令すること屢なり。然れどもワン・ピイスを一着したる佐佐木夫人に對するや、慇懃に禮を施して曰、「あなたはソオシアル・ダンスをおやりですか?」佐佐木夫人の良人即ち佐佐木茂索、「あいつは一體何ものかね」と言へば、何度も玉に負けたる隆一、言下に正體を道破して曰、「小金をためた玉ボオイだらう。」

 七、輕井澤に芭蕉の句碑あり。「馬をさへながむる雪のあしたかな」の句を刻す。これは甲子吟行中の句なれば、名古屋あたりの作なるべし。それを何ゆゑに刻したるにや。因に言ふ、追分には「吹き飛ばす石は淺間の野分かな」の句碑あるよし。

 八、輕井澤の或骨董屋の英語、――「ジス・キリノ(桐の)・ボツクス・イズ・ベリイ・ナイス。」

 九、室生犀星、碓氷山上よりつらなる妙義の崔嵬たるを望んで曰、「妙義山と言ふ山は生姜に似てゐるね。」

 十、十項だけ書かんと思ひしも熱出でてペンを續けること能はず。

 

○やぶちゃん注

・瀧井君の「ゲテモノ」:「ゲテモノ」は瀧井孝作が同年9月に『改造』に発表した小説。筑摩書房全集類聚版脚注によれば、瀧井は同年12月号『新潮』に執筆した「私の本年発表した創作について」の中で、芥川氏にゲテモノがほめられたことが収穫であったと書いている、とある。

・里見君の「蚊遣り」:「蚊遣り」は里見弴が前者と同じく同年9月に『改造』に発表した小説。

・落筆匆々:筆運びが慌しく簡略になってしまうこと。

・支那へ渡らんとせる前……:大正101921)年3月大阪毎日新聞社海外視察員として中国に特派された時のこと。3月19日に東京を発ち、21日の門司発の船便に乗船予定であったが、20日、出発前に治まったと思っていた感冒がぶり返し、東海道線車中で発熱、大阪で下車して、同新聞社の薄田泣菫の紹介で旅館にて療養、27日に大阪を発ち、28日門司港発の筑後丸にて上海に向かった。30日上海着後も、ぶり返し31日から病臥、4月1日には乾性肋膜炎の診断を受けて、23日まで上海の里見病院に入院している。

・彼は昨日「小咄文學」を罵り、今日恬然として「コント文學」作る:「彼」は不詳。岩波版新全集注解で山田俊治氏は『コント文学を「小話文学」と難じたのは、芥川も出席した「新潮合評会」(一九二五年五月)での菊池寛だが、「彼」については未詳。批評者から実作者に転じた作家としては佐々木千之や水守亀之助などが考えられる。』とする。また、「コント文學」について同氏は『小話、掌編とも呼ばれ、短編小説よりさらに短い体裁で、人生の断面を描く小説形式。仏文学の conte gai を岡田三郎が紹介、実作して一九二四年頃よりブームとなる。』と説明している。「恬然」は、ここでは物事に拘らず、平然としていられる鉄面皮の意。

・小穴隆一、輕井澤の宿屋にて……:「輕井澤の宿屋」は芥川龍之介馴染みの軽井沢宿の外れにある老舗旅館「つるや」。この「五」と、続く次のビリヤードの「六」のシチュエーションは登場人物の描写から同年8月28日に軽井沢に小穴と佐佐木夫妻が来てからの数日内のことであろうと推測される(この28日には、“越しひと”片山廣子と娘が入れ違いに帰京してもいる。芥川が8月20日という朝夕冷えるようになる季節はずれの避暑に来たのは彼等との邂逅をなるべく避けるためであったと思われる。廣子への思いを断ち切らんとする芥川の苦悩は切ない)。冒頭注で示した通り、翌月初めには重い感冒に罹患するからである。なお「つるや」旅館内には撞球場があった。

・玉ボオイ:ビリヤード場でポイントをカウントする係。

・「馬をさへながむる雪のあしたかな」:「野ざらし紀行」(=甲乙吟行)で、

    熱田に詣

社頭大いに破れ、築地は倒れて叢に隱る。かしこに繩を張りて小社の跡をしるし、爰に石を据ゑて其神と名のる。蓬・忍、心のままに生たるぞ、中々にめでたきよりも心とどまりける。

 しのぶさへ枯て餠買ふやどり哉

    名古屋に入道の程風吟す

 狂句木枯の身は竹齋に似たる哉

 草枕犬も時雨るか夜の聲

    雪見に歩きて

 市人よ此笠賣らう雪の傘

    旅人を見る

 馬をさへ眺むる雪の朝哉

とある嘱目吟である。昨日からは一変した雪景色の朝、そこを行く馬の姿さえも何か違った新鮮なものに見えることだ――という意。句碑は「つるや」旅館の近くに立つ。

・「吹き飛ばす石は淺間の野分かな」:「更級紀行」で江戸への帰途、浅間山麓を通った際の掉尾を飾る句である。句碑は長野県北佐久郡軽井沢町追分、信濃追分宿跡の浅間神社境内に立つ。ちなみにこの句は芭蕉が苦吟したことで知られ、「更科紀行真蹟草稿」によればによれば、以下のような推敲句が存在する。

 吹き落す石は淺間の野分哉

 吹き落す石を淺間の野分哉

 吹き落す淺間は石の野分哉

 吹きおろす淺間は石の野分哉

 秋風や石吹きおろす淺間山

・崔嵬たる:「さいかい」と読む。一般には、山の状態が岩や石でごろごろしており、険しい様をいう。

・室生犀星、碓氷山上よりつらなる妙義の崔嵬たるを望んで曰、「妙義山と言ふ山は生姜に似てゐるね。」:1992年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」によれば、これは同年8月23日、犀星・堀辰雄と三人で碓氷峠に登った折のこととする。