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芥川龍之介「VITA  SEXUALIS」やぶちゃん語注

 

[やぶちゃん注:本頁は、私の翻刻電子テクストである芥川龍之介「VITA  SEXUALIS(岩波版新全集第二十三巻所収を基礎底本とする)の語注である。愚かな自動言語フィルターを配慮して別頁で用意したものである(本文へは上記リンクで、別ウィンドウで開いて並置して御覧頂きたい)。注の中での年齢は満年齢を用いている。
 なお、検索その他でこの頁に来られた方の内、多少とも文学的学究に興味のある方は、必ず上端の
HPトップ及び私のテクスト集のリンク先から再入場されたい。ただの猥褻趣味のワード/フレーズ検索で、たまたま本頁に来てしまわれた方は、残念、この頁も、そして――私の総てのHP中のコンテンツもブログも――あなたの世界とは全く無縁である。速やかに退場されたい。【2010年10月31日】]

 

 

・「VITA  SEXUALIS」:本篇は勿論、森鷗外の「ヰタ・セクスアリス」(雑誌『昴』明治421909)年7月)に触発されて、後に芥川龍之介が公的な発表を意図ぜずに記した自己の性愛史ものである。本原稿を所持していた一人甥葛巻義敏氏は、芥川が彼に与えた性愛用教本であったと、本作の存在を初めて公にした「芥川龍之介未定稿集」の冒頭註で述べておられる。ラテン語としては「ウィータ・セクスアーリス」とカタカナ書きするのが最も近い。性愛史・性的生活・性的人生・性欲的生活(鷗外の「ヰタ・セクスアリス」中の表現)等と訳されるが、私は「性の遍歴」ぐらいがよいと感じている。なお、芥川龍之介は生前公開された作品の中では「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」の「二 牛乳」の中に、VITA  SEXUALISという表現を以下のように一箇所用いている。該当項の冒頭から出現する部分を含む箇所までを(丁度、意味上の切れもよい)引用しておく。
 信輔は全然母の乳を吸つたことのない少年だつた。元來體の弱かつた母は一粒種の彼を産んだ後さへ、一滴の乳も與へなかつた。のみならず乳母を養ふことも貧しい彼の家の生計には出來ない相談の一つだつた。彼はその爲に生まれ落ちた時から牛乳を飮んで育つて來た。それは當時の信輔には憎まずにはゐられぬ運命だつた。彼は毎朝臺所へ來る牛乳の壜を輕蔑した。又何を知らぬにもせよ、母の乳だけは知つてゐる彼の友だちを羨望した。現に小學へはひつた頃、年の若い彼の叔母は年始か何かに來てゐるうちに乳の張つたのを苦にし出した。乳は眞鍮の嗽ひ茶碗へいくら絞つても出て來なかつた。叔母は眉をひそめたまま、半ば彼をからかふやうに「信ちやんに吸つて貰はうか?」と言つた。けれども牛乳に育つた彼は勿論吸ひかたを知る筈はなかつた。叔母はとうとう隣の子に――穴藏大工の女の子に固い乳房を吸つて貰つた。乳房は盛り上つた半球の上へ青い靜脈をかがつてゐた。はにかみ易い信輔はたとひ吸ふことは出來たにもせよ、到底叔母の乳などを吸ふことは出來ないのに違ひなかつた。が、それにも關らずやはり隣の女の子を憎んだ。同時に又隣の女の子に乳を吸わせる叔母を憎んだ。この小事件は彼の記憶に重苦しい嫉妬ばかり殘してゐる。が、或はその外にも彼の Vita sexualis は當時にはじまつてゐたのかも知れない。………

・「實家」:芥川龍之介の実父新原(にいはら)敏三の芝区新銭座町十六番地(現・港区浜松町1丁目)の家。以下に見るように父は牛乳販売店耕牧舎の支配人で、牧場も併設していた。

delicate」:ただ平板な「デリケイト」ではない。幾つかの語義を重層させるために、わざわざ英語表記していると考えてよい。まずは「柔らかい」もつれ合う手足であり、女の手足の「ほっそりした、壊れやすい、傷つきやすい」「華奢な」手足であり、それはある種の「微妙な」何かを持っていて、その手足はどこか妙に「精巧、精緻で」、意味は分からないながらも、何処か「鋭敏」なものを孕み、「感度の良さ」を感じさせる肌である。そこには「微かに微妙な」、ある種、「珍味」のような独特の「味わい」が、子供ながらに直感的に感じられたことを示そうとしているように思われる。そうした直覚なればこそ「單なるcuriosity」とは矛盾しない。

・「單なるcuriosity」:好奇心、珍しさ、珍奇。

・「其時同じ三の組に藤田と云ふ女の子がゐた 黄八丈の袂の長い着物を着て白粉を濃くつけてゐた 今から考へると 餘り容貌も美しくない 何方かと云へば丸顏で 其上まるで表情のない顏であつた どう云ふものだか自分にはこの女の子がなつかしかつた 其癖一度も口をきいた事はない 唯 顏を合はすだけである そして殊に寐るときにこの女の子の事を考へて寐るのが 愉快であつた」:この藤田という子について、芥川龍之介は大正151926)年に発表した「追憶」の「幼稚園」の項目で、次のように語っている。

 

 僕は幼稚園へ通ひ出した。幼稚園は名高い囘向院の隣の江東小學校の附屬である。この幼稚園の庭の隅には大きい銀杏が一本あつた。僕はいつもその落葉を拾ひ、本の中に挾んだのを覺えてゐる。それから又或圓顏の女生徒が好きになつたのも覺えてゐる。唯如何にも不思議なのは今になつて考へて見ると、なぜ彼女を好きになつたか、僕自身にもはつきりしない。しかしその人の顏や名前は未だに記憶に殘つてゐる。僕はつひ去年の秋、幼稚園時代の友だちに遇ひ、その頃のことを話し合つた末、「先方でも覺えてゐるかしら」と言つた。

「そりや覺えてゐないだらう。」

 僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合はない、萩や芒に露の玉を散らした、袖の長い着物を着てゐたものである。

 

・「黃八丈」:黄色地に茶色や鳶色で縞や格子柄を織り出した絹織物。当初、八丈島名産であった。所謂、我々が時代劇や伊豆の踊り子でイメージする、よく若い娘の着ているあれである。前掲の「追憶」では「その人は少女に似合はない」、即ち「黄八丈」なんどとは違った「萩や芒に露の玉を散らした、袖の長い着物を着てゐ」る少女に変えられている。本当のところは、どうもこの「VITA  SEXUALIS」の方が真実らしい。

・「厩橋」:本来は隅田川にかかる橋名。西岸が台東区蔵前と駒形の堺、東岸が墨田区本所1丁目に当たる。なお、芥川家は本所区小泉町15番地(現・墨田区両国三丁目)にあった。この場合、江戸時代西岸にあった御厩河岸の辺りを指すか。春日通り沿い。

・「總武鐵道」:明治221889)年に設立、明治271894)年に市川・佐倉間で運行開始したが鉄道国有法公布により明治401907)年に総武本線として国有化された。

・「ポンチ」:風刺や寓意を込めた滑稽な漫画のポンチ絵の謂いか。マンガちゃん。

・「Omanko」:ここでは通常の男女の性行為をかく言っている。芥川は本作で女性生殖器の言いでも、また男性同士の同性愛行為(性交擬似的行為や肛門性交等を広く含んで)に対してもこれを用いている。

・「Zeugungsglied」:ドイツ語。男性生殖器。特に男根を指す。発音は「ツォイグングス・グリード」。

・「Pudenda」:“pudendum”の複数形。女性外陰部を言う解剖学用語。ラテン語由来で、「恥ずべき」の意の形容詞“pudendus”に基づく。発音は「ピューデンダ」。

・「Obscene pinture」春画。

・「ZeugungsgliedMと云ふ」Mは「マラ」「摩羅」で陰茎の古くからの隠語。ヒンドゥー教のシバ神のリンガ(男根)崇拝に由来する仏教用語語源説の他、ネット上に散見する記載では神道の鍛冶神天津摩羅命=天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)・天照眞良建雄命(アマテラスマラタケルオノミコト)等の土着神を語源とするなどといった記載がある。

・「大野さん」大野勘一。養父芥川道章を始めとする芥川家の一中節(浄瑠璃の一派。18世紀初期に都太夫一中が京で創始、やがて江戸で流行するも京阪では絶えた)の師匠であった宇治紫山の長男。本文にある通り、東京府給仕で、彼から英語・漢文・習字を習っていた。芥川より7歳年上であるとあるから、この頃、14歳。

・「この人の阿父さんや阿母さんは」という謂いはややおかしい気がする。この「阿父さんや阿母さん」というのは大野の実の両親のことを指しており、それをかく言うのはおかしい。さすれば岡部なる書生は大野の従兄弟ででもあったか。なれば「この人の阿父さんや阿母さん」という謂いも正しく、大野が実の父母のことをかく言うのも不自然ではなくなる。

・「中學校の一年生になるまで」芥川龍之介が東京府立第三中学校(現・領国高校)に入学したのは明治381905)年4月で、満13歳の時である。

・「尋常一年」芥川龍之介が江東尋常小学校(現・両国小学校)に入学したのは明治311898)年4月である。但し、年譜上は大野勘一のもとに通うようになったのは、その翌年からと思しい(芥川龍之介の自筆年譜では逆に明治35年からとする)。もしかすると尋常小学校一年の終わり頃から既に不定期に訪ねていたものかも知れない。

・「Sexual Intercourse」情交。性交。

・「Schamglied」ドイツ語。陰茎の意。陰部の意の“Scham”と、身体各部を示す“glied”の合成語。発音は「シャーム・グリート」。

・「Schamrinne」ドイツ語。会陰部の意。陰部の意の“Scham”と、「溝」の意である“rinne”の合成語。発音は「シャーム・リンネ」。

・「神田さんの小學校用英語讀本」神田乃武(ないぶ)著の「小学英語読本」(明治341901)年三省堂刊)。神田乃武(安政4(1857)年~大正121923)年)は英語学者。帝国大学文科大学ラテン語教授・東京高等師範学校教授・学習院教授・東京外国語学校校長・東京高等商業学校(現・一橋大学)教授を歴任、彼の編纂する英語教科書は広範に普及使用された。

・「河岸通り」浜町河岸通り。現在の明治座裏手にある浜町公園付近を隅田川に沿った通り。

・「馬車通り」両国馬車通り。隅田川から錦糸町まで、東西に続く直線の通り。河岸通りの対岸のやや北になる。

・「父は小さな銀行の取締役をしてゐた」新全集の宮坂覺氏の年譜の明治311898)年5月(龍之介6歳、尋常小学校入学直後)の項に養父芥川道章の東京府依願免官の記事を載せ、最後に『退職後は、銀行などに関係した』という付記がある。

・「高等一年になつた」明治351902)年4月、江東尋常小学校高等科1年に進学した。

・「Sodomy」芥川は狭義に同性間の性行為にのみ用いているが、原義的にはそれのみならず、異性間であってもサディズムやマゾヒズム等の異常な性行為や獣姦等、広範囲に含む。ラテン語“sodomia”に由来、ご存知の通り、旧約聖書創世記に現れる、性の乱れによってヤハウェの裁断で硫黄と火とによって瞬時に滅ぼされた町“Sodom”と“Gomorrah”ゴモラの伝説に基づく。

・「Schamhaar」ドイツ語。陰毛。発音は「シャーム・ハール」。後に出てくる単独の「HAAR」も同じ。

・「丹治郞」河竹黙阿弥作の散切物(ざんぎりもの)歌舞伎「月梅薫朧夜」(つきとうめかおるおぼろよ)の登場人物。待合の女将の妻子ある情人で、女将はその丹治郎への思いを断ち切れずアル中になり、忠節な使用人の青年を殺めてしまうという転落劇である。散切物は世話物の中でも明治新風俗を題材としたものを言う。実際のモデルとなった事件が起きた翌年の明治211888)年4月に浅草中村座で初演され、大人気を博した。

・「Zeugungsgeschäft」“Zeugungs”は「生殖」、“geschäft”は「仕事・用件・取引」の意で、「性行為」という合成語。発音は「ツォイグングス・ゲ・シェフト」。

・「exageration」誇張。

・「effect」効果。

・「上瀧」上瀧嵬(こうたきたかし 明治241891)年~?)龍之介の小学校・三中時代の同級生で、一高にも一緒に第三部独に入学、後に東大医学部を卒業、医師として廈門(アモイ)に赴いた(新全集人名解説索引による)。彼は、芥川龍之介「學校友だち」の冒頭に登場する人物である(以下、引用は岩波版旧全集より)。

 

上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜(アキナ)。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門の何とか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必しもさほどリアリストにあらず。西洋の小説にある醫者に似たり。子供の名を氻(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり。

 

・「ケースの空(カラ)」何のどんな空ケースなのか不明。同性愛者にちょっかいを出されたらぶつけて撃退効果のある「ケース」というのは? 識者の御教授を乞うものである。

・「春情」春を鬻ぐで売春、広く性行為の意でも用いる。

・「念佛講」本来は仏教用語で念仏を修行する信者の集まり。念仏を行う講中を言うが、隠語では輪姦のことを言う。

・「据膳に箸をとる」据え膳食わぬは男の恥のことか。女性から言い寄られた際、それに応じないようでは男として恥ということ。

・「本願寺」築地本願寺。

・「高等二年になつた」江東尋常小学校高等科二年のこと。明治361906)年、龍之介11歳。

・「高等四年」当時の高等小学校の課程は2年または4年であった。芥川の場合、在学中成績優秀であったから2年修了で中学進学が可能であったが、健康面や養子縁組のごたごたがあったため、進学が一年延期されて、明治381905)年3年修了で東京府立第三中学校(現・両国高校)に入学した。

・「高等二年の春には 中學校の試驗をうけるので」前注参照。

・「六間堀」本所の竪川と深川の小名木川をつなぐ川であるが、現在は埋め立てられ存在しない。永井荷風は「深川の散歩」の中で、『六間堀と呼ばれる溝渠は、万年橋のほとりから真直ぐに北の方本所竪川に通じている。その途中から支流は東の方に向い、弥勒寺の塀外を流れ、富川町や東元町の陋巷を横ぎって再び小名木川の本流に合している。』/『下谷の三味線掘が埋め立てられた後、市内の掘割の中でこの六間掘ほど暗惨にして不潔な川はあるまい。』とこの当時の六間堀を描写している。

・「汐時地藏」本所深川にある芭蕉所縁の要津寺(ようしんじ)にある潮時地蔵のこと。「神田雑学大学」の濱田政男氏の「巷談・本所の四季」によると、この『辺りには堀川がいっぱいありました。家の前にも六間堀というのがあったくらい。その先には五間堀があるという風に、堀が交通の便をなしていた。その堀はすべて隅田川に通じており、隅田川満潮になると堀川の水も水位が上がる。』/『すると、要津寺の地蔵さんもびっしょり濡れる。潮が引くとまた乾く。お地蔵さんを見ると、潮の満ち引きがわかる。舟の行き来も、潮の満ち引きで決まるから、その意味では便利である…とまあ、そんなことから潮時地蔵と言われた。その他、この地蔵さんの前には、なぜか拍子木がいっぱい積んであったとか。』/『お寺の歴史には、こんな記述が残っているそうです。ある時、夜回りの頭(かしらのことを番太郎といったらしい)が火の番をしていた。その男の子供が風邪を引いた。医者は簡単には治らない百日咳だという。頭はお地蔵さんに願をかけた。願いがかなって子供の病気は治った。番太郎はお寺に礼をしようと思ったが、金がない。そこで、商売道具の拍子木を地蔵さんに納めたという。』/『すると、誰いうとなくその噂が町中に広がり、子供が風邪をひくとその拍子木を借りてきて、オモチャにして遊ばせ、子供を外に出さないようにした。そして風邪が治ると、元通り地蔵さんに返した。不思議に風邪が治ると、その内に拍子木を倍にして地蔵さんに納める人が出てきた。だから地蔵さんの前には、何時でも拍子木が、山になっていたということです。』/『その地蔵さんも、関東大震災と東京大空襲の戦火に焼かれ、顔も崩れ落ちたので、今は首から上に袱紗をかけて本堂の中に安置してあると、ご住職から話を聞きました。』とあるので、かろうじて今も現存するらしい。更に、『東京朝日新聞』に連載された「東京の迷信」の明治401907)年11月6日の記事に「(三)▲汐時地蔵(咳一切)」として『一寸毛色の変つたのが深川区西六間堀町要津寺境内の汐時地蔵尊、御丈は纔か二尺許りの小ぽけなものだが、咳の病には非常な御利益があるといふので、近在からわざ/\草鞋穿にて参詣に来るものさへもある、願を懸る時に寺から小さな拍子木をいたゞき、満願の時に借た拍子木へ新調のものを添て奉納する定めになつて居る、拍子木は何のためかといふと、病中の子供には玩弄(おもちや)にさせおき、大人には首へ懸けさせて、例へば咳がコンコンと二つ出る時は拍子木をチヨン/\と二つ叩かせるなどは大いに洒落てゐる』とある(JTEXTの「東京の迷信」より転載)。

・「高等三年になつた」江東尋常小学校高等科3年のこと。明治371907)年、龍之介12歳。

・「石河岸なり薪河岸」不詳。江戸時代、川船の積荷の種類により、河岸が異なった。特に廻米を船積み出来る河岸を廻米河岸と呼び、廻米はできないが薪などの船積みは出来るかしを薪かしと呼称した。「石」は「いし」ではなく「こく」であるとすれば、この前者の廻米河岸を指すようにも思える。識者の御教授を乞う。

・「元德樣の縁日」墨田区立川にある元徳稲荷神社の縁日で、江戸の三大縁日の一つに数えられた。泉鏡花の「陽炎座」にも登場する。

・「囘向院」墨田区両国2丁目にある浄土宗の寺院。芥川龍之介には幼少期から縁の深い寺である。

・「鷄姦」男性の同性愛行為、肛門性交を言う。

・「中學校へはいつた」前掲注でも書いたが、芥川の場合、小学校高等科在学中は成績優秀であったから2年修了で中学進学が可能であったが、健康面や養子縁組のごたごたがあったため、進学が一年延期されて、明治381905)年3年修了で東京府立第三中学校(現・両国高校)に入学している。

・「姦まう」「なぐさもう」と訓読しているものと思われる。

・「芳年」月岡芳年(よしとし 天保101839)年~明治251892)年)最後の浮世絵師。歌川国芳に師事し、多彩な浮世絵を手がけたが、ここに記されたような「無惨絵」で頓に知られる。私も小学生5年生の時、図書室で見つけたかび臭い画集の中の「奥州安達がはらひとつ家の図」を幾度となく覗いては、下半身をどきつかせたのを今も忘れない。

・「六人の男が舟の中で一人の女を輪姦する所」この絵、私も見たことがある。現在、調査中。

・「もうぼや/\ときては駄目だが」陰毛が少しでも生えてきてはだめだという意味か。識者の御教授を乞う。

・「M鈕」Mは「マラ」。社会の窓のボタン。

・「房州の北條」千葉県安房郡にかつて存在した北条町。現在の館山市の中部に位置し、現在の内房線館山駅(実は現在の内房線館山駅は旧房総西線時代には安房北条駅であったが、昭和211946)年に改称している)がある地域で、館山町と並ぶ安房地域の拠点の一つであった。かつての館山町は、現在の館山市の中部の館山駅より南側の館山城寄りにあった町の名で、現在の館山は旧来は北条であり、館山とは別個な町であった。現在の館山市は昭和141939)年に新設合併によって誕生した市で、本当の館山町とは全く異なる自治体である(以上は「心」の「八十二」章の私の注記作業過程で知った事実である)。

・「semens」生理学用語で“sperm”精液のこと。“semen”の複数形は古くはsemina。ラテン語由来で“semen”→“semin”で英語の“seed”、種・実のことである。

・「野口男三郞の事件」野口男三郎(明治131880)年~明治411908)年7月2日死刑執行)謀殺強殺犯の他、著明な漢学者野口寧斎及び11歳の少年殺しの犯人としても疑われ、薬局店経営者強殺で絞首刑に処せられた。「朝日日本歴史人物事典」の関井光男氏の記載によれば、『大阪市生まれ。本名は武林男三郎。明治291896)年に学問を志し上京。初め理学博士石川千代松のもとに寄食したが、のち漢学者野口寧斎の書生となる。野口の妹ソエと恋愛関係に陥り婿養子となった。女児をもうけたが、東京外国語学校ロシア語卒(実は中退)などのウソがばれるなどで離縁される。金銭に困窮して、同38年5月、薬店経営の都築富五郎を殺し350円を奪った。逮捕後、警察は3年前に起こった11歳の少年河合荘亮(臀肉切り取り事件)、さらに薬店経営者殺しの2週間ほど前に起こった野口寧斎の死も男三郎による毒殺ではないかと疑いをかけた。演歌師が男三郎を「ああ世は夢かまぼろしか 獄舎にひとり思い寝の」と歌ったことで全国に知られるようになった。事件の方は、義父と少年殺しは立証されず、薬店経営者殺害の罪で絞首刑にされた』とある(読点を変更した)。補足しておくと、少年臀肉切り取り事件は義父野口寧斎が罹患していたハンセン病に、人肉が効くという迷信を信じたことによる犯行とされている。野口寧斎については、芥川龍之介には「骨董羹」の「罪と罰」中に言及がある。但し、原文の擬古文ではそれが分かりにくいので、私の翻案『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み やぶちゃん』の方でお読み頂くことをお薦めする。

・「西洋の色情狂の話」部分的に似た話は幾つも知っているが、この芥川が言う事件にぴったりのものを探しあぐねている。目下、調査中。

・「self abuse」=masturbationonanism。自慰行為。

・「いろは文庫」為永春水著(5編以降は2世為永春水著)渓斎英泉他画になる人情本。1854冊。天保7(1836)年~明治51872)年の36年の長きに渡って刊行された。忠臣蔵を世話物講談風に書き換えたもので、作中人物の会話は総てが江戸末期口語を再現している(以上は小学館「大辞泉」の「いろは文庫」の記載を参照した)。

・「和七とお蘭」和七は一般には小間物屋弥七で、実は塩冶浪人千崎弥五郎、お蘭は師直(吉良)の愛妾であろう。「いろは文庫」自体を未見なので、これ以上の解説は不能である。識者の御教授を乞う。

・「定九郞が御民を手ごめにしやとする所」「定九郎」は斧定九郎で「仮名手本忠臣蔵」五段目に登場する、塩冶浪人でありながら高家に内通する斧九太夫の息子という設定のピカレスクのことであろう。「お民」は不詳。「いろは文庫」自体を未見なので、これ以上の解説は不能である。識者の御教授を乞う。

・「四海波治め〔二字欠〕蒲團浪がたち」「四海波」は、しばしば耳にする祝儀用の謡いである「高砂」の一節「四海波静かにて、国も治まる時つ風、君の恵みぞありがたき」の部分通称である。【未定稿集】では「四海波始めて蒲團浪がたち」とあるが、これは矢張り、編者葛巻氏が「治」を「始」と誤読した可能性が高いと思われる。二字欠を補う力は私にはないが、この川柳は明らかに婚礼の謡曲「高砂や……四海波静かにて、国も治まる時つ風、君の恵みぞありがたき」もとうに終えた、その初夜、その新枕の褥のくんずほぐれつ大波波乱の様をそれに引っ掛けて皮肉猥雑に詠んだものである以上、「四海波」の後は次句である「国も治まる時つ風」の「治まる」を受けた洒落を言っている可能性が高いからである。よき補塡が浮かばれる識者の方の御教授を、是非乞うものである。