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鬼火へ

酒蟲   芥川龍之介
      附やぶちゃん注 附原典 附同柴田天馬訳


[やぶちゃん注:大正五(一九二六)年六月発行の『新思潮』第一年第四号に掲載され、後、作品集「羅生門」「鼻」「芋粥」に所収された。底本は岩波旧全集に拠ったが、読みの振れないルビは不要と考え、除去した。踊り字「〱」「〲」は正字に変えた。最後に私の注を加えてある。
 更に注の末尾に、同誌の「校正後に」に掲げられた芥川龍之介の二項と原典及びその訳である角川書店昭和五三(一九七八)年刊柴田天馬訳「聊斎志異」(角川文庫改版十五版)の訳文を配しておいた。藪野直史【二〇一三年五月五日】]

 
酒蟲

       一

 近年にない暑さである。どこを見ても、泥で固めた家々の屋根瓦が、鉛のやうに鈍く日の光を反射して、その下に懸けてある燕の巣さへ、この鹽梅では中にゐる雛や卵を、そのまゝ蒸殺むしころしてしまふかと思はれる。まして、畑と云ふはたけは、麻でも黍でも、皆、土いきれにぐつたりと頭をさげて、何一つ、靑いなりに、萎れてゐないものはない。その畑の上に見える空も、この頃の温氣うんきに中てられたせいか、地上に近い大氣は、晴れながら、どんよりと濁つて、その所々に、霰を炮烙ほうろくで煎つたやうな、かたばかりの雲の峰が、つぶつぶヽヽヽヽと浮かんでゐる。――「酒蟲しゆちう」の話は、この陽氣に、わざわざ炎天の打麥場だばくぢやうへ出てゐる、三人の男で始まるのである。
 不思議な事に、その中の一人は、素裸で、仰向けに地面ぢびたへ寢ころんでゐる。おまけに、どう云ふ譯だか、細引で、手も足もぐるぐるまきにされてゐる。が格別當人は、それを苦に病んでゐる容子もない。せいの低い、血色の好い、どことなく鈍重と云ふ感じを起させる、豚のやうにふとつた男である。それから手ごろな素燒の瓶が一つ、この男の枕もとに置いてあるが、これも中に何がはいつてゐるのだか、わからない。
 もう一人は、黄色い法衣ころもを着て、耳に小さな靑銅からかねの環をさげた、一見、象貌の奇古きこな沙門である。皮膚の色が並はづれて黑い上に、髮や鬚の縮れてゐる所を見ると、どうも葱嶺さうれいの西からでも來た人間らしい。これはさつきから根氣よく、朱柄しゆえ麈尾しゆびをふりふり、裸の男にたからうとする虻や蠅を追つてゐたが、流石に少しくたびれたと見えて、今では、例の素燒の瓶の側へ來て、七面鳥のやうな恰好をしながら、勿體もつたいらしくしやがんでゐる。
 あとの一人は、この二人からずつと離れて、打麥場の隅にある草房さうばうの軒下に立つてゐる。この男は、あごの先に、鼠の尻尾のやうなひげを、申譯だけに生やして、踵が隱れる程長い皁布衫さうふさんに、結目をだらしなく垂らした茶褐帶さかつたいと云ふ拵へである。白い鳥の羽で製つた團扇を、時々大事さうに使つてゐる容子では、多分、儒者か何かにちがひない。
 この三人が三人とも、云ひ合せたやうに、口をつぐんでゐる。その上、碌に身動きさへもしない、何か、これから起らうとする事に、非常な興味でも持つてゐて、その爲に、皆、息をひそめてゐるのではないかと思はれる。
 日は正に、亭午であらう。犬も午睡をしてゐるせいか、吠える聲一つ聞えない。打麥場を圍んでゐる麻や黍も、靑い葉を日に光らせて、ひつそりかんと靜まつてゐる。それから、その末に見える空も、一面に、熱くるしく、炎靄をたゞよはせて、雲の峰さへもこの旱に、肩息かたいきをついてゐるのかと、疑はれる。見渡した所、息が通つてゐるらしいのは、この三人の男の外にない。さうして、その三人が又、關帝廟に安置してある、泥塑の像のやうに沈默を守つてゐる。……  勿論、日本の話ではない。――支那の長山ちやうざんと云ふ所にある劉氏の打麥場で、或年の夏、起つた出來事である。

       二

 裸で、炎天に寢ころんでゐるのは、この打麥場の主人で、姓は劉、名は大成と云ふ、長山では、屈指の素封家の一人である。この男の道樂は、酒を飮む一方で、朝から、殆、さかづきを離したと云ふ事がない。それも、「獨酌する毎にすなはち、一甕を盡す」と云ふのだから、人並をはづれた酒量である。尤も前にも云つたやうに、「負郭の田三百畝、半はきびを種う」と云ふので、いんの爲に家産が累はされるやうな惧は、萬々ない。
 それが、何故、裸で、炎天に寢ころんでゐるかと云ふと、それには、かう云ふ因緣がある。――その日、劉が、同じ飮仲間の孫先生と一しよに(これが、白羽扇はくうせんを持つてゐた儒者である。)風通しのいゝへやで、竹婦人ちくふじんに靠れながら、棋局を鬪はせてゐると、召使ひの丫鬟あくわんが來て、「唯今、寶幢寺はうどうじとかにゐると云ふ、坊さんが御見えになりまして、是非、御主人に御目にかゝりたいと申しますが、いかゞ致しませう。」と云ふ。
 「なに、寶幢寺?」かう云つて、劉は小さなを、まぶしさうに、しばたたいたが、やがて、暑さうに肥つた體を起しながら、「では、こゝへ御通し申せ。」と云ひつけた。それから、孫先生の顏をちよいと見て「大方あの坊主でせう。」とつけ加へた。
 寶幢寺にゐる坊主と云ふのは、西域せいいきから來た蠻僧ばんそうである。これが、醫療も加へれば、房術も施すと云ふので、この界隈では、評判が高い。たとへば、張三の黑内障が、忽、快方に向つたとか、李四の病閹べうえんが、即座に平癒したとか、殆、奇蹟に近い噂が盛に行はれてゐるのである。――この噂は、二人とも聞いてゐた。その蠻僧が、今、何の用で、わざわざ、劉の所へ出むいて來たのであらう。勿論、劉の方から、迎へにやつた覺えなどは、全然ない。
 序に云つて置くが、劉は、一體、來客を悦ぶやうな男ではない。が、に一人、來客がある場合に、新來の客が來たとなると、大抵ならば、快く會つてやる。客の手前、客のあるのを自慢するとでも云つたらよささうな、小供らしい虛榮心を持つてゐるからである。それに、今日の蠻僧は、この頃、どこででも評判になつてゐる。決して、會つて恥しいやうな客ではない。――劉が會はうと云ひ出した動機は、大體こんな所にあつたのである。
 「何の用でせう。」
 「まづ、物貰ひですな。信施しんぜでもしてくれと云ふのでせう。」
 こんな事を、二人で話してゐる内に、やがて、丫鬟の案内で、はいつて來たのを見ると、せいの高い、紫石稜しせきれうのやうな眼をした、異形いぎやうな沙門である。黄色い法衣ころもを着て、その肩に、縮れた髮の伸びたのを、うるささうに垂らしてゐる。それが、朱柄しゆえの麈尾を持つたまゝ、のつそりへやのまん中に立つた。挨拶もしなければ、口もきかない。
 劉は、しばらく、ためらつてゐたが、その内に、それが何となく、不安になつて來たので「何か御用かな。」と訊いて見た。
 すると、蠻僧が云つた。「あなたでせうな、酒が好きなのは。」
 「さやう。」劉は、あまり問が唐突だしぬけなので、曖昧な返事をしながら、救を求めるやうに、孫先生の方を見た。孫先生は、すまして、獨りで、盤面に石を下してゐる。まるで、取り合ふ容子はない。
 「あなたは、珍しい病に罹つて御出になる。それを御存知ですかな。」蠻僧は念を押すやうに、かう云つた。劉は、病と聞いたので、けげんな顏をして、竹婦人を撫なでながら、
 「病――ですかな。」
 「さうです。」
 「いや、幼少の時から……」劉が何か云はうとすると、蠻僧はそれを遮さへぎつて、
「酒を飮まれても、醉ひますまいな。」
 「……」劉は、ぢろぢろ、相手の顏を見ながら、口を噤つぐんでしまつた。實際、この男は、いくら酒を飮んでも、醉つた事がないのである。
 「それが、病の證據ですよ。」蠻僧は、うすわらひをしながら、語をついで、「腹中に酒蟲がゐる。それを除かないと、この病は癒りません。貧道ひんだうは、あなたの病を癒しに來たのです。」
 「癒りますかな。」劉は思はず覺束おぼつかなさうな聲を出した。さうして、自分でそれを恥ぢた。
 「癒ればこそ、來ましたが。」
 すると、今まで、默つて、問答を聞いてゐた孫先生が、急に語を挾んだ。
 「何か、藥でも御用ひか。」
 「いや、藥なぞは用ひるまでもありません。」蠻僧は不愛想に、かう答へた。
 孫先生は、元來、道佛の二教を殆、無理由に輕蔑してゐる。だから、道士とか僧侶とかと一しよになつても、口をきいた事は滅多にない。それが、今ふと口を出す氣になつたのは、全く酒蟲と云ふ語の興味に動かされたからで、酒の好きな先生は、これを聞くと、自分の腹の中にも、酒蟲がゐはしないかと、聊、不安になつて來たのである。所が、蠻僧の不承不承な答を聞くと、急に、自分が莫迦にされたやうな氣がしたので、先生はちよいと顏をしかめながら、又元の通り、默々として棋子を下しはじめた。さうして、それと同時に、内心、こんな横柄わうへいな坊主に會つたり何ぞする主人の劉を、莫迦げてゐると思ひ出した。
 劉の方では、勿論そんな事には頓着とんちやくしない。
 「では、針でも使ひますかな。」
 「なに、もつと造作のない事です。」
 「ではまじなひですかな。」
 「いや、呪でもありません。」
 かう云ふ會話を繰返した末に、蠻僧は、簡單に、その療法を説明して聞かせた。――それによるに、唯、裸になつて、日向ひなたにぢつとしてゐさへすれば、よいと云ふのである。劉には、それが、甚、容易な事のやうに思はれた。その位の事で癒るなら、癒して貰ふのに越した事はない。その上、意識してはゐなかつたが、蠻僧の治療を受けると云ふ點で、好奇心も少しは動いてゐた。
 そこでとうとう、劉も、こつちから頭を下げて、「では、どうか一つ、癒して頂きませう。」と云ふ事になつた。――劉が、裸で、炎天の打麥場にねころんでゐるのには、かう云ふ謂いはれが、あるのである。
 すると蠻僧は、身動きをしてはいけないと云ふので、劉の體を細引で、ぐるぐる卷にした。それから、僮僕の一人に云ひつけて、酒を入れた素燒のかめを一つ、劉の枕もとへ持つて來させた。當座の行きがかりで、糟邱そうきうの良友たる孫先生が、この不思議な療治に立合ふ事になつたのは云ふまでもない。
 酒蟲と云ふ物が、どんな物だか、それが腹の中にゐなくなると、どうなるのだか、枕もとにある酒の瓶は、何にするつもりなのだか、それを知つてゐるのは、蠻僧の外に一人もない。かう云ふと、何も知らずに、炎天へ裸で出てゐる劉は、甚、迂濶なやうに思はれるが、普通の人間が、學校の教育などをうけるのも、實は大抵、これと同じやうな事をしてゐるのである。

       三

 暑い。額へ汗がぢりぢりと湧いて來て、それが玉になつたかと思ふと、つうつと生暖なまあつたかく、眼の方へ流れて來る。生憎、細引でしばられてゐるから、手を出して拭ふ譯には、勿論かない。そこで、首を動かして、汗の進路を變へやうとすると、その途端に、はげしく眩暈めまひがしさうな氣がしたので、殘念ながら、この計畫も亦、見合せる事にした。その中に、汗は遠慮なく、眶をぬらして、鼻の側から口許くちもとをまはりながら、頤の下まで流れて行く。氣味が惡い事夥しい。
 それまでは、眼をいて、白く焦された空や、葉をたらした麻畑を、まじまじと眺めてゐたが、汗が無暗に流れるやうになつてからは、それさへ斷念しなければならなくなつた。劉は、この時、始めて、汗が眼にはいると、しみるものだと云ふ事を、知つたのである。そこで、屠所の羊の樣な顏をして、神妙に眼をつぶりながら、ぢつと日に照りつけられてゐると、今度は、顏と云はず體と云はず、上になつてゐる部分の皮膚が、次第に或痛みを感じるやうになつて來た。皮膚の全面に、あらゆる方向へ動かうとする力が働いてゐるが、皮膚自身は、それに對して、毫も彈力を持つてゐない。それでどこもかしこも、ぴりぴりする――とでも説明したら、よからうと思ふ痛みである。これは、汗所あせどころの苦しさではない。劉は、少し蠻僧の治療をうけたのが、忌々いまいましくなつて來た。
 しかし、これは、後になつて考へて見ると、まだ苦しくない方の部だつたのである。――そのうちに、喉のどが渇いて來た。劉も、曹孟德か誰かが、前路ぜんろに梅林ありと云つて、軍士の渇をいやたと云ふ事は知つてゐる。が、今の場合、いくら、梅子の甘酸を念頭に浮べて見ても、喉の渇く事は、少しも前と變りがない。頤を動かして見たり、舌を嚙んで見たりしたが、口の中うちは依然として熱を持つてゐる。それも、枕もとの素燒のかめがなかつたら、まだ幾分でも、我慢がし易かつたのに違ひない。所が、瓶の口からは、芬々たる酒香が、間斷なく、劉の鼻を襲つて來る。しかも、氣のせいか、その酒香が、一分毎に、益々高くなつて來るやうな心もちさへする。劉は、せめて、瓶だけでも見ようと思つて、眼をあけた。上眼うはめを使つて見ると、瓶の口と、應揚にふくれた胴の半分ばかりが、眼にはいる。眼にはいるのは、それだけであるが、同時に、劉の想像には、その瓶のうす暗い内部に、黄金きんのやうな色をした酒のなみなみと湛へてゐる容子が、浮んで來た。思はず、ひびの出來た唇を、乾いた舌で舐めまはして見たが、唾の湧く氣色けしきは、更にない。汗さへ今では、日に干されて、前のやうには、流れなくなつてしまつた。
 すると、はげしい眩暈めまひが、つづいて、二三度起つた。頭痛はさつきから、しつきりなしにしてゐる。劉は、心の中うちで愈、蠻僧を怨めしく思つた。それから又何故、自分ともあるものが、あんな人間の口車に乘つて、こんな莫迦げた苦しみをするのだらうとも思つた。そのうちに、喉は、益々、渇いて來る。胸は妙にむかついて來る。もう我慢にも、ぢつとしてはゐられない。そこで劉はとうとう思切つて、枕もとの蠻僧に、療治の中止を申込まうしこむつもりで、喘ぎながら、口を開いた。――
 すると、その途端である。劉は、何とも知れないかたまりが、少しづゝ胸から喉へ這ひ上つて來るのを感じ出した。それが或は蚯蚓みゝずのやうに、蠕動ぜんどうしてゐるかと思ふと、或は守宮やもりのやうに、少しづゝ居ざつてゐるやうでもある。兎とに角かく或柔い物が、柔いなりに、むづりむづりと、食道を上へせり上つて來るのである。さうしてとうとうしまひに、それが、喉佛のどぼとけの下を、無理にすりぬけたと思ふと、今度はいきなり、どぜうか何かのやうにぬるりと暗い所をぬけ出して、勢よく外へとんで出た。
 と、その拍子に、例の素燒の瓶の方で、ぽちやりと、何か酒の中へ落ちるやうな音がした。
 すると、蠻僧が、急に落ちつけてゐた尻を持ち上げて、劉の體にかゝつてゐる、細引を解きはじめた。もう、酒蟲が出たから、安心しろと云ふのである。
 「出ましたかな。」劉は、うめくやうにかう云つて、ふらふらする頭を起しながら、物珍しさの餘り、喉の渇いたのも忘れて、裸のまま、瓶の側へ這ひよつた。それと見ると、孫先生も、白羽扇で日をよけながら、急いで、二人の方へやつて來る。さて、三人揃つて瓶の中を覗きこむと、肉の色が朱泥しゆでいに似た、小さな山椒魚のやうなものが、酒の中を泳いでゐる。長さは、三寸ばかりであらう。口もあれば、眼もある。どうやら、泳ぎながら、酒を飮んでゐるらしい。劉はこれを見ると、急に胸が惡くなつた。……

       四

 蠻僧の治療の効は、覿面てきめんに現れた。劉大成りうたいせいは、その日から、ぱつたり酒が飮めなくなつたのである。今は、匂を嗅ぐのも、嫌だと云ふ。所が、不思議な事に、劉の健康が、それから、少しづつ、衰へて來た。今年で、酒蟲を吐いてから、三年になるが、往年の丸丸と肥つてゐた俤は、何處にもない。色光澤いろつやの惡い皮膚が、脂じみたまま、險しい顏の骨を包んで、霜に侵された雙鬢が、纔に、顳顬こめかみの上に、殘つてゐるばかり、一年の中に、何度、床につくか、わからない位ださうである。
 しかし、それ以來、衰へたのは、劉の健康ばかりではない。劉の家産も亦、とんとん拍子に傾いて、今では、三百畝を以て數へた負郭ふくわくの田も、多くは人の手に渡つた。劉自身も、餘儀なく、馴れない手にすきを執つて、佗しいその日その日を送つてゐるのである。
 酒蟲を吐いて以來、何故、劉の健康が衰へたか。何故、家産が傾いたか――酒蟲を吐いたと云ふ事と、劉のその後の零落とを、因果の關係に並べて見る以上、これは、たれにでも起りやすい疑問である。現にこの疑問は、長山ちやうざんに住んでゐる、あらゆる職業の人人によつて繰返され、且、それらの人人の口から、あらゆる種類の答を與へられた。今、ここに擧げる三つの答も、實はその中から、最、代表的なものを選んだのに過ぎない。
 第一の答。酒蟲は、劉の福であつて、劉の病ではない。偶、暗愚の蠻僧に遇つた爲に、好んで、この天與の福を失ふやうな事になつたのである。
 第二の答。酒蟲は、劉の病であつて、劉の福ではない。何故なぜと云へば、一飮一甕を盡すなどと云ふ事は、到底、常人の考へられない所だからである。そこで、もし酒蟲を除かなかつたなら、劉は必久しからずして、死んだのに相違ない。して見ると、貧病、迭に至るのも、むしろ劉にとつては、幸福と云ふべきである。
 第三の答。酒蟲は、劉の病でもなければ、劉の福でもない。劉は、昔から酒ばかり飮んでゐた。劉の一生から酒を除けば、後には、何も殘らない。して見ると、劉はそく酒蟲、酒蟲は即劉である。だから、劉が酒蟲を去つたのは自ら己を殺したのも同前である。つまり、酒が飮めなくなつた日から、劉は劉にして、劉ではない。劉自身が既になくなつてゐたとしたら、昔日せきじつの劉の健康なり家産なりが、失はれたのも、至極、當然な話であらう。
 これらの答の中で、どれが、最よく、たうを得てゐるか、それは自分にもわからない。自分は、唯、支那の小説家の
Didacticism に倣ならつて、かう云ふ道徳的な判斷を、この話の最後に、列擧して見たまでゝある。


■やぶちゃん注
 龍之介は後掲する原典、蒲松齢「聊斎志異」の短い「酒蟲」という原作(白文二百六十七字)を、実に四節からなる凡そ二十五倍近く(単純字数換算)まで膨らませた。冒頭に酒蟲出現直前の炎天の麦内場の療治のシークエンスを見た目で謎めいて配し、「二」で時間を巻き戻して解き、「三」で酒蟲の吐出までを描く。この怪しげな療治シーンは「鼻」療治シーンの二番煎じの感が甚だ強く感じられ、その謂わんとするところの部分的テーマも酷似している。シークエンスを緻密に映画的なモンタージュを積み上げて、原話にない強いリアリズムの物語を構築した手腕は勿論だが、最後に近代的でパラドキシャルな人生的哲学的並列命題を読者に投げ出して見えを切って終わるという変化球も、やはり若き日のストーリー・テラー龍之介ならではのものではある。因みに勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊の関口安義・庄司達也編「芥川龍之介全作品事典」の「酒虫」(菅聡子執筆)によれば、この第二の解釈は蒲松齢没後に「聊斎志異」に評釈を施した清の但明倫の評、第三の解釈は芥川龍之介のものとされており、その最後のシニカルな解は如何にも龍之介好みであり、「侏儒の言葉」或いは「或阿呆の一生」にやや整形して記してあっても、これ、おかしくないアフォリズムと私には読める(リンク先は私のテクスト)。――売文が不能となってしまえば最早、芥川龍之介は芥川龍之介でなくなる、と芥川龍之介が考えたかのように。――

「一」注
・「畑と云ふはたけは」のルビはママ。余りに近いので見落としとは感じられず、一見奇異に思えるのだが、芥川龍之介の「黄梁夢」でも同様の現象が現れるところをみると、もしかすると、この当時の出版界では直近に同じ読みの漢字が出る場合、後の方にルビを振って前もかく読むことを示すのが通例であったのかも知れない。このことについては識者の御教授を乞うものである。
・「温氣」蒸し暑さ。
・「奇古」奇怪で古めかしいさま。
・「象貌」は「しやうばう(しょうぼう)」と読む。姿形。風体。
・「葱嶺」現在の西アジア最東端のヒンドゥークシュ山脈の付近にあるパミール高原の中国名。「パミール」はペルシャ語で「世界の屋根」を意味するといわれる。タジキスタン・アフガニスタン及び中国に跨り、平均標高五千メートル。タクラマカン砂漠を通るシルク・ロードはこの高原を越えて東西を結んでいた(以上はウィキの「パミール高原」に拠った)。
・「朱柄の麈尾」朱色の柄の払子ほっす。「麈尾」の「麈」は大きな鹿の意で、大鹿の尾の動きに従って、他の鹿の群れが動くところから、他が従うという意を寓して、その尾に象って作られたのが仏具の払子であることから、かくいう。
・「草房」草庵。
・「皁布衫」黒色の単衣ひとえの衣服。「皁」が黒、「衫」が単衣の上着。
・「茶褐帶」筑摩全集類聚版脚注に『黒味がかった茶色の帯』とある。
・「亭午」「亭」は至るの意で、太陽が真南に至る南中のことをいう。
・「炎靄」は「えんあい」と読む。炎のようなもや。陽炎。
・「長山」現在の山東省煙台市附近か。

「二」注
・「獨酌する毎に輒、一甕を盡す」原典の「毎獨酌、輒盡一甕」に基づく。後掲する原典を参照。独りで晩酌するたびに必ず一かめを空けてしまう。
・「負郭の田三百畝、半は黍を種う」原典の「負郭田三百畝、輒半種黍」に基づく。同前。「三百畝」は後掲する柴田天馬氏の注に『中国の一畝は、わが六畝ほどにあたる。三百畝は、わが十八町歩ぐらい』とあるから、一七八・五平方キロメートル相当。「負郭」とは「くるわ」、中国の城砦都市の城を「負う」(背後に置く)、外の謂いで城下の外の畑の意。
・「累はされる」は「わづらはされる」と読む。
・「惧」「おそれ」と読む。
・「萬々」は呼応の副詞「ばんばん」で下に打消を伴い、「少しも~ない」の意。
・「竹婦人」片腕や片足をこれに乗せて寝てことで涼を取る、竹製の筒状の抱き枕。ために。アジアに広く見られる。英名ダッチ・ワイフ(
Dutch wife)。
・「丫鬟」筑摩全集類聚版脚注によれば、この名は総角あげまきに結った髪の義、で一般名詞の娘、主に女中をいうとある。
・「房術」房中術。中国古来の養生術の一種で、房事(性生活)に於ける技法で男女和合の秘術をいう。詳しくはウィキの「房中術」を参照されたいが、筑摩全集類聚版脚注では、『元来は節欲の必要を説いたものらしいが、後には強精のための一種奇怪な霊力の術となり、病気もこれにて癒るとされた』と記す。
・「黑内障」黒そこひ。かつては瞳孔の色調が黒いままで、視力障害をきたす疾患を一纏めにかく呼称していたが、現在では網膜剥離や硝子体出血、黒内障などを指す複数の疾患を含む(ここまでウィキの「そこひ」の「黒そこひ」の記載)。狭義の「黑内障」(
amaurosis)は、本来は眼底に異常な所見がないにも拘らず、視力が著しく悪い状態を指すもので、中枢性の疾患が原因と考えられるものを指すが、習慣的には眼底疾患によるものをも含む。瞳孔が白く濁る白内障に対し、瞳孔が黒くて正常のようにみえることから発生した語で黒底翳そこひともいう。現在では病名としては単独で用いられることはなく、現存する病名は黒内障性猫眼(amaurotic cat’s eye)と家族性黒内障性白痴(amaurotic familial idiocy)のみである、と平凡社「世界大百科事典」の記載にある。
・「病閹」本来、この「閹」は門番・宮刑(去勢刑)に処せられた者・宦官の意であるが、別に「覆う」の意があり、筑摩全集類聚版脚注では、『腫物のこと』と注する。
・「信施」布施。
・「紫石稜」筑摩全集類聚版脚注では、『隴州から出る紫色で角のある石』と注する。隴州は現在の甘粛省南東部の地。アルアダイトなどとも呼ばれるものの仲間の、この紫石(Purpurite)か(リンク先は
weblio 辞書の鉱物図鑑)。
・「貧道」仏道修行の乏しいことから、一般に僧侶が自分を遜っていう一人称代名詞。拙僧。筑摩全集類聚版脚注では『主として道士の自称』とある。
・「棋子」碁石。
・「糟邱の良友」筑摩全集類聚版脚注に『糟邱は丘の如く積み上げた酒のかす。酒友達のこと』とある。

「三」注
・「眶」「まぶた」と読んでいよう。
・「屠所の羊」屠殺場へと引かれて行く羊で、刻々と死に近づいてゆくことの譬え。また、不幸にあって気力をなくしていることをも譬える「北本涅槃経」を典拠とする語。
・「曹孟德」魏の武帝曹操のあざな。ここに出るのは故事成句「梅林止渇ばいりんしかつ」(梅林、渇をとどむ)で、梅の林を思い出させて、口に唾を生じさせて喉の渇きをいやすの意(そこから一時凌ぎになることの譬えとして普通は使用するが、ここはまさに原義と相同)。曹操一行が行軍中に道に迷って水場の位置が分からなくなり、兵士達が喉の渇きを訴えたため、曹操が「前方に梅の林がある。実がたわわになっていて如何にも甘酸っぱい感じだ。あれで喉の渇きを癒すことが出来よう!」と号令したところ、兵士達はこれを聴き皆、口中に唾を生じ、一時的に渇きを凌ぐことが出来て、無事、前方にあった水源地まで辿りつくことが出来たという、「世説新語」の「仮譎かきつ第二十七」の二番目に載る記事に基づく語である。止渇之梅・梅酸止渇・望梅止渇などともいう(ここは「世説新語」原本に当たったが、他にも中川木材株式会社公式サイト内の「百の四文字熟語」の「梅林止渇」を参考にさせて貰った)。
・「梅子の甘酸」梅の実の甘酸っぱさ。
・「芬々」「ふんぷん」と読み、においの強いさま。
・「朱泥」鉄分の多い粘土を焼いて作る赤褐色の無釉陶器。明代に煎茶の流行に伴って宜興窯ぎこうようで創始された。急須や湯呑みを主とし、日本では常滑・伊部いんべ・四日市などで産する(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「四」注
・「一飮一甕」は「いちいんいちをう(いちいんいちおう)」と読む。
・「迭」は「かたみ」と読む。
・「支那の小説家の
Didacticism に倣ならつて」「Didacticism」は教訓主義(ダイダクティシズム)で、文学その他の芸術の中で教育的で有益な特質を強調する芸術観のことをいうが、蒲松齢が志怪譚を渉猟した「聊斎志異」に於いてしばしば教訓的附言を述べていることを指している。


■原典
[やぶちゃん注:中文サイト「開放文學」の「聊齋誌異」に載るものを参考に、句読点や記号を変更・省略して原典表記に近づけ、一部の漢字をユニ・コードの正字に変えた。また、直接話法(若しくはそれに準ずると私の判断した部分)を改行、さらに後に示した天馬氏の訳の段落構成に合わせても改行を施し、対照して読めるように便宜を施した。]

 酒蟲   蒲松齡

長山劉氏、體肥嗜飮。毎獨酌、輒盡一甕。負郭田三百畝、輒半種黍。而家豪富、不以飮爲累也。一番僧見之、謂、
「其身有異疾。」
劉答言、
「無。」
僧曰、
「君飮嘗不醉否。」
曰、
「有之。」
曰、
「此酒蟲也。」
劉愕然、便求醫療。曰、
「易耳。」
問、
「需何藥。」
俱言不須。但令於日中俯臥、縶手足、去首半尺許、置良醞一器。
移時、燥渴、思飮爲極。酒香入鼻、饞火上熾、而苦不得飮。忽覺咽中暴癢、哇有物出、直墮酒中。解縛視之、赤肉長三寸許、蠕動如游魚、口眼悉備。
劉驚謝。酬以金、不受、但乞其蟲。問、
「將何用。」
曰、
「此酒之精、甕中貯水、入蟲攪之、即成佳釀。」
劉使試之、果然。劉自是惡酒如仇。體漸瘦、家亦日貧、後飮食至不能給。
異史氏曰、「日盡一石、無損其富、不飮一斗、適以益貧。豈飮啄固有數乎。或言、『蟲是劉之福、非劉之病。僧愚之以成其術。』然歟否歟。」


■やぶちゃんの書き下し文
[やぶちゃん注:書き下しに際し一部で竹田晃・黒田真美子編著「中国古典小説選9 聊斎志異」(明治書院二〇〇九年刊)を参考にした。]

 酒蟲   蒲松齡

 長山の劉氏は、たい、肥え、飮むことをたしなむ。獨酌する毎に、すなはち一をうを盡くす。負郭田ふかくでん三百、輒ち半ははしよう。而して家、豪富ふがうなれば、飮むことを以つてはるいと爲さざるなり。一番僧ばんそう之れまみへて、謂ふ、
「其の身に異疾有り。」
と。
 劉答へて言ふ、
「無し。」
と。
 僧曰く、
「君、飮みても嘗つて醉はざるや否や。」
と。
 曰く、
「之れ有り。」
と。
 曰、
「此れ、酒蟲しゆちうなり。」
と。
 劉、愕然として、便すなはち醫療を求む。曰く、
「易きのみ。」
と。
 問ふ、
もとむるは何れの藥ぞ。」
と。
 みなもちひずと言ふ。但だ、日中に於いて俯臥せしめ、手足をつなぎ、首を去ること半尺ばかり、良醞りやううんを一器を置く。
 時を移して、燥渴さうかつし、飮むことを思ひて極みとる。酒香、鼻に入り、饞火さんくわ上りてさかんなれども、飮むを得ざるに苦しむ。忽ち、咽中いんちゆうにはかにかゆきを覺え、として物の出づる有り、直ちに酒中につ。縛を解きて之を視れば、赤肉、長さ三寸許り、蠕動すること、游魚のごとくして、口眼こうがん、悉く備はれり。
 劉、驚きて謝。むくゆるに金を以つてするも、受けずして、但だ、其の蟲を乞ふのみ。問ふ、
た何にか用ゐん。」
と。
曰く、
「此れは酒の精にして、甕中をうちゆうに水をたくはへ、蟲を入れて之れを攪かくさば、即ち、佳釀かぢやうと成る。」
と。
 劉、之れを試みしむれば、果して然り。劉、是れより酒をにくむことかたきのごとし。たい、漸く瘦せ、家も亦、日々に貧しく、後には飮食も給する能はざるに至る、と。
 異史氏いしし曰く、「日々一石を盡くせども、其の富を損ずる無く、一斗をも飮まざれども、だ以つて貧しきをすのみ。豈に飮啄いんたくもとより、すう、有るか。或いは言ふ、『蟲、是れ劉の福にして、劉の病ひに非ず。僧か之れをとして以つて其の術を成す。』と。然りか否か。」と。


■柴田天馬訳

 酒虫しゅちゅう

 長山ちょうざん劉氏りゅうしは飲みすけで、いつも独酌で一かめはあけるのである。負廓くるわそと一の田が三百あって、その半分にはむぎを植え、家は金持ちだったから、飲むために困るということはなかった。
 ある時、がいこくの僧が来たが、劉を見て、彼のからだには、ふしぎな病があると言った。劉が、
 「ないよ」
と答えると、坊主は言った、
 「あんたは、酒を飲んでも、いつも、酔わんじゃないかね」
「そうだ」
 「それは、酒虫というやつなんだ」
 劉は驚いて、医療りょうじを求めた。坊主が、
 「わけは、ない」
と言うので、どんな薬がいるのか、聞くと、坊主は、
 「いらんよ」
 と言って、日なかに、うつむけに寝させ、手足を縛ってから、五寸ばかり頭を離れたところに、一かめの良い酒を置いただけであった。しばらくすると、喉が、かわいて、ひどく飲みたいと思った。酒のにおいが鼻にはいって、饞火ほしさ三大熾もえていながら、飲めぬのが苦しいのである。と、喉が、にわかに、かゆくなった、と思うと、吐き出した物があって、すぐ酒の中に落ちた。いましめを解いてから、それを見ると、長さ三寸ばかりの、赤いのやつが、魚が泳いでいるように、うじうじと動いていた。口や眼が、ことごとく備わっているのである。
 劉は驚いて、金をやったが、坊主は受けとらず、ただ虫をくれと言うので、何に使うのかと聞くと、
「これは酒の精なのです。甕の中に水を貯え、虫を入れて、かきまぜると、良い酒が、できるのです」
 と言った。劉が試させてみると、果たして、そのとおりだった。
 劉は、それから、酒を、かたきのように、にくんだが、からだが、だんだん瘦せてきて、家も、日々、貧乏になってゆき、のちには、飲み食いも、できなくなった。

 異史氏りょうさいいわく、日に一石を尽くしても、その富をそこなうことがなく、一斗も飲まずに、たまたま、もって貧を増す、というのは、飲み食いが、がんらい、運命で、きまっているのでは、あるまいか。ある人が、虫は劉の福で、劉の病ではないのを、僧が、ばかにして、自分の術を、なしとげたのだ、と言ったが、そうか、そうでないか。

     注

一 城郭に接した良田である。史記の蘇秦伝に、蘇秦が「吾をして負郭の田二頃あらしめば、吾あに能く六国の相印を僻びんや」と言ったとある。ここでは負郭を、くるわ外、と訳しておく。
二 中国の一畝は、わが六畝ほどにあたる。三百畝は、わが十八町歩ぐらいである。
三 饞は、食慾であるが、ここでは飲慾に用いてある。くいたさ、では前文と一致せず、のみたさ、では原字と一致せぬので、ほしさ、と訳した。苦しいのである。

[やぶちゃん補注:原典への不審。「一石」「一斗」について、老婆心乍ら、附注しておくと、清代の「一斗」は現在のそれとは異なり、一〇・三五五リットルしかないから、凡そ五升五合五勺ほどに当たる。「一石」はその十倍相当。どうでもいいことであろうが、これでは孰れもとんでもない大酒のみに変わりはなくなってしまい、それこそ芥川のいうダイダクティシズムから見れば、「一斗をも飮まざれども」は「年に」かせいぜい「月に」辺りが頭にあった方が、「日に一石を盡せども」との対句の意が効果的に生きるような気が私にはする。]


■芥川龍之介「校正後に」

□酒蟲は材料を聊齋志異からとつた。原の話と殆變つた所はない。 (芥川)

□酒蟲は「しゆちう」で「さかむし」ではない。氣になるから、書き加へる。 (芥川)
   *
[やぶちゃん注:この「校正後に」の箇条の二つ目については、初出時、標題及び本文の「酒蟲」にはルビがなかった(ため)と底本後記にある。]