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芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯

 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.
                   附やぶちゃん注
        ☞ PDF縦書版へ(本頁とは編集コンセプトを変えてあるので強く推奨する)

[やぶちゃん注:本作は佐藤春夫(明治25(1892)年~昭和39(1964)年)が、「澄江堂遺珠」として昭和6(1931)年9月から翌年1月までに発行された雑誌『古東多万ことたま』(やぽんな書房・佐藤春夫編)第一年第一号から第三号(号数は本文末尾に記された本書の校正者神代種亮こうじろたねすけの「卷尾に」による。本誌は国立国会図書館の書誌データによれば月刊らしいが、実際には各月に発刊されてはいないことになる)に掲載したものを佐藤自身がさらに整理し、二年後の昭和八年三月二十日に岩波書店より芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯さんしゅう「澄江堂遺珠 
Sois belle, sois triste.」として刊行したものである。内容的には序にある佐藤の「はしがき」にも記されてあるように昭和4(1929)年2月28日発行の岩波書店「芥川龍之介全集」(岩波書店版第一次「芥川龍之介全集」全八巻。昭和2年11月に刊行を開始、昭和4年2月に完結した。「元版全集」と通称する)の「別冊」に載る堀辰雄編の芥川龍之介の「詩歌」から漏れた詩稿を「纂輯」したものではある。纂輯とは「文書や材料を集めて書物にまとめること」の言いで編纂・編集と同義で用いられるのであるが、私はまさしく本書の場合――暗号めいてばらばらになっている友芥川龍之介の「歌草」の謎の断片を「搔き集め」、そこから「戰の庭に倒れた」芥川龍之介という「もののふ」たる友の「傷手をしらべ」、遂に恐るべき一箇の書物として纏め上げた稀奇書――と言えると思っている(鍵括弧内の語は本文最後の佐藤自身の献詩の一節である)。
 佐藤春夫が江口渙を通じて芥川龍之介と初めて面会したのは、大正6(1917)年3月中旬、互いに25歳の時であった(二人は同年生まれである)。これは芥川が作品集「羅生門」を刊行したり「偸盗」を発表する前月であり、佐藤はと言えば、まさにこの年に神奈川県都筑郡中里村(現在の横浜市)に移住して田園生活を開始、画作に精を出しつつ、かの名作「病める薔薇」の執筆を始める時期と一致する。三ヶ月も経たない同年6月1日に日本橋のレストラン「鴻の巣」で開催された芥川龍之介「羅生門」出版記念会「羅生門の会」では佐藤が開会の辞を述べる名誉を得ており、龍之介とは急速に親密度が増したことが窺われる。
 本ページは、そうした著者佐藤春夫の亡き友への限りない愛惜というコンセプトで、装幀や紙質に至るまで徹底的に考え尽くされた、奇妙ながら龍之介遺愛と言ってもよい本書の面影を、種々の著作侵害に抵触せぬよう配慮しながら、なるべく伝え得るように作ったつもりである。ただ、私でない誰もが可能なただの平板鈍愚な電子テクストに終わらせぬために恥ずかしながら不肖私藪野直史のオリジナルな注を各所に配してあり、それが折角の原本の美しさを穢していることについては内心忸怩たる思いがあることは言い添えておく。
 底本は日本近代文学館発行「名著復刻 芥川龍之介文学館」(昭和52(1977)年発行)の岩波書店発行の初版復刻本を用いた。
 底本では佐藤春夫の三字下げの評注は本文よりもポイントが落ちるが、敢えて一部の例外を除いて同ポイントとしつつ(佐藤の役割を考えれば、私は寧ろこれが正しいとさえ考えている)、改行箇所は底本に準じて一行字数を一致させた。但し、鍵括弧や読点の半角(総て)は見た目が悪いので(私にとって)、総て全角にしてある)。また、佐藤春夫による注意強調の傍点であるが、これは拡大して戴くと分かるが、通常の黒の傍点「ヽ」ではなく、白抜き傍点「﹆」である。
 一部に注を附した。当初は総ての各詩篇について、現存する資料との校合を試みようとしたが、実は冒頭の一篇から既に躓いてしまったのである。則ち、この冒頭の一篇からして、全く同一の文字列を持った同一テクストは――実は――少なくとも現存するテクスト類には――ない――のである。則ちこれは、「澄江堂遺珠」や堀辰雄の旧全集「未定稿」は――単純にして虚心坦懐の芥川龍之介の一篇を忠実に書写したものでは――全くない――ということなのである。一応、最初の一篇にのみはそうした校合結果の注を附したが、以下では特に注しておかねばならぬと私が考えた重大な部分のみに限った。これらの解析はしかし、向後、私自身、生涯、続けていきたいと考えている(そのために私はブログにカテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔』を創っておいた(これはまさに痙攣的な恐るべき「澄江堂遺珠」との格闘の修羅場となると覚悟しているが、それは私と芥川龍之介の出逢いの究極の因縁と心得ている。これをここに告白し、これ以上述べることは控えたいと思う)。
 なお、本書の副題のような「Sois belle, sois triste.」は詩稿の欄外に記されたメモに基づく(後掲する装幀貼り交ぜに出る)。これ自体はフランス語で「より美しかれ、より悲しかれ」の意であり、またこれはボードレール( Charles Baudelaire )が1861年5月に発表した「悲しいマドリガル(恋歌)」( Madrigal triste )――現在は「 悪の華」( Fleurs du mal )の続編・補遺に含まれる一篇――の一節である。私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の旧全集「未定詩稿」の最後に附した私の注で原詩総てを示してあるので参照されたい。【2015年1月1日】]












[やぶちゃん注:箱(約縦23/横17・8/厚さ1・9センチメートル)。順に表・裏・背・両天地(天、地の順。なお、天の横で支えに用いたのは本体の底部分である)。芥川龍之介の直筆詩稿の一部が切り張りされた独特の装幀である(末尾の神代種亮の「卷尾に」に『見返し及び箱貼りは原本の部分を複寫して應用したものである』とある)。表の書名その他は佐藤春夫の直筆かと思われる。装幀者も彼と思われるが装幀挿画者の表示はない。小穴隆一(著作権継続中)の可能性も排除は出来ないが、取り敢えず、本書の一つの特異な装幀であり、しかも本書の芥川龍之介直筆稿である。これなくしては「澄江堂遺珠」の香りを再現出来ないと私は考えるので、敢えて前に掲げておいた。著作権継続中の筆者若しくはその著作権継承者からの要請があれば以上の画像は取り下げる。以下、直筆原稿を可能な限り、独自に判読し、活字化してみることとする(切り貼りであることから一篇の連続性を優先し、開始位置のパートに全篇を示すこととした。従って他の箇所に送ったものやダブって判読したものがある。判読の際には岩波版新全集第二十三巻(1998年刊)の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』パートを参考にしたが、その過程で不思議なことに同一であるはずのそれとの齟齬を発見した。ここでは活字に起こすだけで注は附さない。近い将来行う同『「澄江堂遺珠」関連資料』を元にした電子化注釈でそれは行う。取り消し線は抹消を示す。以下の原稿判読電子化にはこの注は略す)。

●表部分
*標題紙(中央やや上部にピンクの現在の付箋紙様のものに右から左へ、佐藤春夫に拠るかと思われる手書きで記す。以下、逆に綴って示す)


芥川龍之介遺著
佐藤春夫纂輯
詩 集
澄江堂遺珠
sois belle, sois triste
昭和癸酉
岩 波 書 店 刊


「癸酉」は「みずのととり」で昭和8(1933)年の干支。
*最も使用面積の多いこの標題紙の張られた稿(*最上部にある抹消一行「人を殺せどなほあかぬ」は次の裏での判読に回す)。本文罫欄外上部頭書様パートに、

黄龍寺の晦
堂老師

吾 爾に隱す
ことなし(論語)

としるし、以下、本文部分に次の詩稿が載るが、先の標題紙によって九行分が完全に見えなくなっている。標題紙はかなり厚手のもので透過せず、下にあるであろう稿は全く読み取れない(強い光源を当てて見たりしたが見えない)。これは新全集『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁24』とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻五七六頁)と等しいと思われる(マスキングされている部分の行数も完全に一致するからである。なお、これは『頁24』の総てである)。そこで判読可能な前三行と後五行の間に『「澄江堂遺珠」関連資料』に示されたものを再現させて以下に示す。『「澄江堂遺珠」関連資料』による再現部分は下部に【再現】と入れた(同新全集は新字体コンセプトであるが、幸い、このマスキングされた部分には正字と異なる新字が散在存在しない)。

   ひとり葉卷を吸ひ居れば
   雪は幽かにつもるなり
   こよひはきみも
   ひとり小床に眠れかし   【再現】
   きみもこよひはほのぼのと 【再現】
   きみもこよひはしらじらと 【再現】
   きみもこよひは冷え冷えと 【再現】
                【再現】
   みどりはくらき楢の葉に  【再現】
   ひるの光のしづむとき   【再現】
   つととびたてる大鴉    【再現】
                【再現】
   ひとり葉卷きをすひ居れば
   雪は幽かにつもるなり
   こよひはきみもしらじらと
   ひとり小床にいねよかし
   ひよりいねよと祈るかな

*(下部の九行分の稿は次の裏での判読に回す)

●裏部分
*最上部にある稿(表から天の部分を経てここに至る)は、『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁22』とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻575頁)と等しい(最後の一部が欠であるが、実は別な貼り交ぜでそこは出る。後掲)と思われる(但し、三箇所に不審な点がある)。取り消し線は抹消を示す。HP作成ソフトの関係上、続いておらず別々に抹消しているものの間は全角一字分明けてある(半角にしたいがそうすると見た目が繋がって見えてしまうため)。

   人を殺せどなほあかぬ
    妬み心も今ぞ知る

   みどりは暗き楢の葉に
   晝の光は沈むとき
   ひとを殺せどなほあかぬ
   妬み心も覺しか
       ■
   風に吹かるる曼珠沙華
   散れる 何の

①二行目頭の「■」は何かの字を一字書いてそれを十文字マークで抹消したように見える。「石」か?
②「妬み心も覺しか」の次行の「覺」の左にあるのは記号のような不思議なもので判読出来ない。
③「散れる」の抹消の後にある「何」の抹消字は自信はないが、初見では「何の」と判読し得た。これは「何」をぐるぐると抹消し、「の」を消し忘れている。なお、以上の三点の私の判読(不能を含む)部は『「澄江堂遺珠」関連資料』には存在しないことになっている。

*中央部にある稿は『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁26』とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻五七七頁)と等しいと思われる。

   綠はくらき楢の葉に
   晝の光の沈むとき
   わが欲念
   わが欲念はひとすぢに
   をんなを得むと
   ふと眼に見ゆる
   君が心のお
    光は
    何かはふとも口ごもりし
    その日

   みどりはくらき楢の葉に
   ひるの光のしづむとき
   わがきみが心のおとろへを
   ふとわが

『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁26』では「わが欲念はひとすぢに」は全抹消、抹消の「君が心のお」は「君が心の」とする。さらにこの次の抹消の「光は」との間に一行空けがある。よくみるとこの直筆原稿では行空けはないものの、「光は」以下の三行が半角分前の詩篇の位置よりも有意に下がっているのが分かるので、新全集編者はここで詩篇を改稿したと判断したのであろう。また、この三行目の抹消「その日」は『頁26』では「その」で「日」はない。

*最下部から地を経由して表下部へ続く稿は、前の最上部(表から天の部分を経てここに至る)にある『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁22』稿とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻575頁)と等しい。先の最後の一部の欠部分がここでは見えている。煩を厭わず活字化する。


   人を殺せどなほあかぬ
    妬み心も今ぞ知る

   みどりは暗き楢の葉に
   晝の光は沈むとき
   ひとを殺せどなほあかぬ
   妬み心も覺しか
       ■
   風に吹かるる曼珠沙華
   散れる 何の

   夕まく夕べは
   いや遠白む波見れば□に來れば
   人なき

最後の四行分(最初の空行を含む)が前の貼り交ぜではなかった。『頁22』稿では「いや遠白む波見れば」と「ば」する。「□に來れば」の「□」は判読不能。『頁22』稿でも『〔一字不明〕』とする。因みにこれが『頁22』稿との総てである。

●背部分
 佐藤春夫に拠るかと思われる手書き。ここだけが「編」となっていて「纂輯」でないのが特異。

  澄江堂遺珠   芥川龍之介遺著佐藤春夫編

●天部分
前掲『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁22』稿の「 妬み心も今ぞ知る」と空行一行分。
●地部分
同前稿の「みどりは暗き楢の葉に」と「晝の光は沈むとき」の二行分。]





[やぶちゃん注:本体(約縦22・4/横17・5/厚さ1・5センチメートル)。多色の美しい墨絵流し。背の書名、

  澄 江 堂 遺 珠     佐 藤 春 夫 編

は金箔押。装幀及び画家不詳。作者若しくはその著作権継承者からの要請があれば以上の画像は取り下げる。権利主張としてあり得ないと私は考えているが、完全な画像を示した場合に復刻版出版者から疑義が出ぬよう、左右の一部をわざと切っているので注意されたい。実横全長(約35・5センチメートル。耳の部分で収縮が生じる)で合わせて凡そ5センチメートル分をカットしてある。]







[やぶちゃん注:表紙見開き。順に右(効き紙側)と左(遊び側)。芥川龍之介の直筆詩稿である。これは詩原稿そのものであって、装幀として著作権を要求することは出来ないと判断出来るが、やはり用心のために一部を恣意的に問題のない端部分をカットしてある(次も同じ。この注は略す)。以下、直筆原稿を可能な限り、活字化してみる。

●右(効き紙側)部分
『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁38』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻五八三頁)。本文罫欄外上部頭書様パートに、

      Sois belle, sois triste ト云フ

と記す。

   水の上なる夕明り
   畫舫にひとをおもほへば
   わかぬぎたがすて行きしマチ箱の薔薇の花
   白きばかりぞうつつなる
    水のうへなる夕明り
    畫舫にひとをおもほへば
    たがすて行きし
    わがかかぶれるヘルメツト
    白きばかりぞうつつなる

    はるけき人を思ひつつ
    わが急がする驢馬の上
    穗麥がくれに朝燒けし
    ひがしの空ぞ忘れられね

     さかし
    

「赤白きばかりぞうつつなる」の「ぞ」が吹き出しで右から挿入。「驢」の字は原稿では「盧」を「戸」としたトンデモ字。『頁38』稿では「赤白きばかりぞうつつなる」と「水のうへなる夕明り」の間に空行がある。最後の抹消字は不詳であるが、これは『頁38』稿では存在しないことになっている。

●左(遊び側)部分
前の稿の続き。『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁39』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻584頁)。

   畫舫はゆるる水明り
   はるけき人をおもほへば
   わがかかぶれるヘルメツト
   白きばかりぞうつつなる

   幽に雪のつ■■
   幽かに雪のつもる夜は
   ひとりいねよと祈りけり

   疑ひぶかきさがなれば
   疑ふものは數おほし
   薔薇に刺ある蛇蛇に舌
   女ゆゑなる涙さへ
   幽かに雪のつもる夜は
   ひとり葉卷をくはへつつ
   幽かに君も小夜床に

最後の三行は原稿では一気に斜線で以って総て削除している点に注意。『頁39』稿には私の判読不能箇所は存在しないことになっている。]







[やぶちゃん注:裏表紙見開き。順に右(遊び側)と左(効き紙側)。芥川龍之介の直筆詩稿である。裏表紙見開きであるが、表紙側と同じく芥川龍之介の直筆詩稿でありながら、しかもその表側のそれとは違う箇所であるから、敢えてここに配した。以下、直筆原稿を可能な限り、活字化してみる。
●右(遊び側) 部分
『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁36』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻581~582頁)。

   妬し妬しと
   嵐は襲ふ松山に
   松の叫ぶも興ありや
   山はなだるる嵐雲
   松をゆするもおもしろし興ありや
   人を殺せどなほ飽かぬ
   妬み心をもつ身には
   妬み心になやみつつ
   嵐の谷を行く身に

   雲はなだるる峯々に
   ■■
   昔めきたる竹むら多き瀟湘に
   昔めきたる雨きけど

[やぶちゃん注:ここで下段にシフトしている。]

      嵐は襲ふ松山に
      松のさけぶも興ありや
      妬し妬しと
      峽をひとり行く身には

      人を殺せどなほ飽かぬ
      妬み心も今ぞ知る も知るときは
      山にふとなだるる嵐雲
      松をゆするも興ありや

『頁36』稿では「■■」抹消部分は『二字不明』とあるが、私には「生贄」と書いて抹消したかのように見える。また、下段の最初の「嵐は襲ふ松山に/松のさけぶも興ありや/妬し妬しと/峽をひとり行く身には」は『頁36』稿では生きているが、明らかに一気に斜線を三本も引いて抹消していることが分かる

●左(効き紙側)部分
前の稿の続き。『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁37』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻582~583頁)。

   竹むら多き瀟湘に
   夕の雨ぞ
   

   大竹むらの雨の音
   思ふ今は
   幽かにひと■

   夜半は風なき窓のへに
   薔薇は

   古き都は來て見れば靑々と
   穗麥ばかりぞなびきたる
   朝燒け

[やぶちゃん注:ここで下段にシフトしている。]

      古き都に來て見れば
      路も


      幽かにひとり眠てあらむ


      わが急がする驢馬の上
      穗麥がくれに朝燒くるけし
      ひがしの空ぞわすられね


      ひがしの空は赤々と
      朝燒けし

『頁37』稿では、私が判読不能とした抹消字三字は存在しないことになっている。]



      詩集



[やぶちゃん注:扉の後にさらに遊び白紙一枚が入って左頁の中央より右寄りに小さく「詩集」。これは印刷ミスではなく、紙を透かして下の次の次の頁の「澄江堂遺珠」の文字が幽かにみえるようにしてあるのである。改頁。]





[やぶちゃん注:左頁に「澄江堂遺珠」。ここにのみ雲竜紙うんりゅうし(三椏或いは楮の地紙に手ちぎりした楮の長い繊維を散らせて雲形文様を出した和紙)様の特殊和紙が使用されてある。この扉の「澄江堂遺珠」の独特の味わい深い文字は、末尾の神代種亮の「卷尾に」に『扉の「澄江堂遺珠」の五文字は朝鮮古銅活字より採取したもの』とあり、上記画像の文字自体は著作権を侵害しないことが分かっている。改頁。]





[やぶちゃん注:左頁に。改頁。]

[やぶちゃん注:ここ(ハトロン紙を挟んで左頁)に親友小穴隆一の芥川龍之介の肖像画「白衣(びゃくえ)」(大正11(1922)年二科展出品作)が入るが、著作権継続中のため省略する。]




                                はしがき

[やぶちゃん注:上部三分の一に以上に示した、岩(?)とひねこびた枯木のデッサンが入る。これは以下、本作の佐藤春夫の序文も含めて本文頁(図版頁と54頁にある、佐藤による図版その他についての解説頁及び「卷尾に」と奥附を除く)の上部を常に占めている。装幀挿画者の表示はないが、五十四頁の佐藤の解説によってこれは稿に描かれた芥川龍之介自身の手遊びであったことが分かる。これなくしては「澄江堂遺珠」の香りを再現出来ないと私は考えるので敢えて前に掲げておいた。なお、公開直後に教え子より、この絵はこれは蘇軾の「枯木竹石図」にインスパイアされたものではないかと教授を受けた。中文サイト「視覚素養」の「枯木竹石圖」所収の画像を添付しておく。如何にも! らしい!!

 ここで改頁となり、左頁から佐藤春夫の序が始まる。以下、「卷尾に」の前まで、これが常に頁の上部三分の一を占めているのだというイメージでお読み戴きたい。]

[やぶちゃん注:以下、佐藤春夫「はしがき」本文。改頁で左頁から始まる(右頁は全くの白紙で挿絵もない)。なお、ここ以降では必要のない限り、改頁の注は附さない。]

 岩波版「芥川龍之介全集」の中に收錄された詩篇は堀辰雄君の編纂にかかるものにして、故人の遺志を體して完成を重んずる精神を飽くまでも尊重せる細心の用意をもつてなされたもの、出來得る限り多數の採錄を努められたるも、その嚴密なる用意の結果は却つて多少の遺漏を生じてそこに逸せられたものも尠くない。これを惜んで先年、遺友の間に故人の三周忌記念として散佚せる詩篇を集成して更に一卷の詩集を得ばやとの議起り、その材料を蒐集し得て業を予に託された。予が性質の疎懶と身邊の多事とは荏苒今日に及んでも未だその任を果し得ない。この責任のもとより予にあるはこれを否定すべくもないが、敢て他に理由を求むれば、業の至難を擧げて遁辭とすることも出來るであらう。遺稿は故人が二三の特別に親愛な友人に寄せて感懷を述べた一束の私書と別に三册の手記册に筆錄した未定稿とである。この三册を予は假に各第一第二第三と呼んでゐるが、第一號は四六版形で單行本の製本見本かとも見るべきを用ひ、これには作者が自ら完作としたかと思へるものを一頁に一章づつ丹念に淨寫してある。恐らく作者は逐次會心のものを悉くここに列記し最後の稿本をこれに作成する意嚮があつたかと見られる。他の二册第二號第三號に至つては第一號とは全然その趣を異にしてゐて、外形も俗にいふ大學ノートなる洋罫紙のノートブツクで全く腹稿の備忘とも見るべきものが感興のまま不用意に記入されてゐるので逐次推敲變化の痕明らかで、一字も苟もせざる作者が心血の淋漓たるもの一目歷然たるに、その間また折にふれては詩作とは表面上何の關聯もなき斷片的感想や筆のすさびの戲畫などさへも記入されて、作者が心理的推移や感興の程度などを窺ふには實に珍重至極な絶好の資料であるが、それならばこそ一層取捨整理に迷ふ點が尠少ではない。既に作者自身がこれを爲し得なかつたとさへ見るべきだからである。堀君が册子第一號及び私書中の詩章は悉くこれを既刊集中に完全に收錄しながら、第二號及び第三號よりは完作の趣を具へたるに近きものを僅に數篇しか抄出せず他の大部分はこれを逸したのは故無きに非ずと首肯されるのであつた。予も亦、これが選擇整理の方針に迷ふのあまり、時には寧ろ作者の意を體してこれを世に示すを斷念して然る可きかとさへ思ふのであつたがかくては永久にこれを世に問ふの機を失ふを思うては割愛に忍びざるの意も亦禁じ得なかつた。かくてこれを通讀玩味すること數次、その結果、頃日予は一つの整理方針の端緒を發見し得た。即ちこの二册の未定稿册子は内容的に見てほぼ三部分に分ち得ることに氣づいたからである。即ち、稿本には作者が最も會心切實としたらしい二三行の句があつてこの二三行をいかに活用すべきかに就いて作者が執拗な努力を示し、爲に一册子の大半を費して尚これを決定せざる箇所が二箇所ほどある。予はこの二三行を中心としてこの二箇所を探究してみることによつてこの部分はほぼ解決するだらうと看取したのである。この二箇所の外にもう一つは故人が支那旅行中のつれづれを慰めんとしてその間の口吟をしるし留めたと思へる部分が一種の自然的關絡によつて統一されてゐるのを見出したのである。この最後のものには、ところどころに「思ふはとほき人の上」の句を反復して用ひ、これを用ひざるものにも自らにしてこの情懷を帶びでゐるのを見るのである。これらのもの約十章は蓋し「支那游記」中にその適切なるを個所を得てこれを篏鏤することによつて最も光彩を放つべきを予は信じて疑はないのであるが、終にその所を得ざるはこれを如何とも爲すべからざるを徒らに歎ぜざるを得ない。換音すれば予はこの結ぼれ縺れた一縷の絲束をそのむすぼれの大きな部分に從つて、思ひ切つて三つに切斷することを敢てした上で、徐ろにむすぼれを解かんと試みるのである。たとひ完全な一條を得ること能はずとするも、これによつて價値多き部分を棄却し去らずにすませることが出來たら幸甚だと考へたからである。或は暴擧との辭を得んことを惧れるけれども、予としてはこれでも愼重な考慮の末の最上のものと信ぜられる唯一の方法であつたのである。予は決然としてこの方法を斷行する。かくてこれらの三部分のうち容易なるものからこれを始めて完了せんことを期するのであるが、その第一部は「思ふはとほき人の上」を主題とする支那游記詩章で手帳第二號より抄出したものである。予は予の見て最も自然とする順序に從つて以下の如くこれを排列したが、この一章は依て以てありし日の多恨なる一游子の面影を多少とも髣髴せしむるの一助たり得たならば乃ち予の能事は足るとして今は專らこれを旨とした。作者が感興の推移或は推敲の痕を索ぬるは別に期する所があるからである。予は故人が或は一應予のおせつかいを咎めるかを惧れるが、結局はその友情がこれを宥すことを信ずるが故に敢てこれを整理しで予が編輯する本誌上に發表するのである。これを緒言として逐次整理し得るに從つてこれを完了し以て澄江堂新詩集一卷を世に送り、併せて故人が晩年の消息を明かにしてその傳記の最後の一頁を得んことを期するものであるが、江湖の諸君子乞ふ幸に故人の靈とともに予が衷情を諒として、予を目して亡友の遺稿を私するものとせざらん事を切に希望すと云爾。
   故人が第四周忌の前四日の夜、
         夜木山房に於て編者記す。

[やぶちゃん注:以上九頁分の佐藤春夫の序。気になる語などを注しておく(若い読者を意識して注したため、一部は言わずもがなとお感じになられるかと思うものも敢えて入れてある)。
・『岩波版「芥川龍之介全集」の中に收錄された詩篇は堀辰雄君の編纂にかかるもの』冒頭に注したが、再掲しておく。昭和4(1929)年2月28日発行の岩波書店「芥川龍之介全集」(岩波書店版第一次「芥川龍之介全集」全八巻。昭和2年11月に刊行を開始、昭和4年2月に完結した。「元版全集」と通称する)の「別冊」に載る堀辰雄編の芥川龍之介の「詩歌」のパートを指す。
・「三周忌」芥川龍之介は昭和2(1929)年7月24日に自死したから、昭和5(1930)年7月に相当する。
・「疎懶」「そらん」と読む。無精なこと、怠けるさま。
・「荏苒」「じんぜん」と読む。なすことのないままに歳月が無駄に過ぎるさま。また、物事が延び延びになること。「荏」は柔らかである。力が抜けていてだらしない。じわじわとしているさまを指し、「苒」はその「荏」の持つ「じわじわ」感を示すための擬態語的添辞らしい。
・「遺稿は故人が二三の特別に親愛な友人に寄せて感懷を述べた一束の私書と別に三册の手記册に筆錄した未定稿とである。この三册を予は假に各第一第二第三と呼んでゐる」岩波版新全集第二十三巻(1998年刊)の『「澄江堂遺珠」関連資料』の「後記」(海老井栄次・岩割透共著)によれば、この原「澄江堂遺珠」の内、佐藤が「第一號」と呼称しているノートは現在、所在不明である。しかし、『元版全集別冊に紹介されている「詩歌」のうちの「拾遺」、及び普及版全集第九巻の「詩」に紹介されている「心境」から「戯れに⑵」までの詩は、元版全集以後、岩波書店から刊行されているいずれの全集においても一貫して配列は変わっていない』(ここに示された詩は総て私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」で読める。参照されたい)とし、以下その元版全集月報の第八号に記された「編輯者のノオト」から次の部分を引用している。『「心境」以下の今樣風の詩は全部、一つの帳面に淸書されてあつたものである。それらは大正十年頃の作品のやうに思はれる』(原本を持たないので引用元の表記を恣意的に正字化して示した)。これに続けて、『こうしたことを考慮すれば、「心境」から「戯れに⑵」までの詩は、この「第一号」のノートに記されていたものに基づいている、と推測される』とあるのである。則ち、原「澄江堂遺珠」を探ろうとする我々は、原「澄江堂遺珠」には現在は失われてしまって最早見ることが出来ないと思われる、この幻の「第一號」ノートが存在したという重大にして深刻な事実に直面することになるのである。なお、同「後記」には、この「第二號」及び「第三號」に該当すると思われる山梨県立文学館蔵のノートについての記述があり、「第二號」(「後記」では一九九三年刊山梨県立文学館刊の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」の標題に基づき「澄江堂遺珠ノート1」と称している)は『左開きノートで「BUN-UN-DO’S」のもの。筆記されているのは計三四頁、白紙の箇所は計六八頁で、黒インク、墨で記されている』とあり、「第三號」(「後記」では同前「芥川龍之介資料集・図版2」の標題に基づき「澄江堂遺珠ノート2」と称している)『右開きのノートで、同じく「BUN-UN-DO’S」のもの。筆記されている箇所は計六一頁、白紙の箇所は一頁であり、黒インクで記されている』とある。同後記はこれらの現存物から、
現在我々が読む佐藤春夫纂輯に成るこの「澄江堂遺珠」は、佐藤が「第二號」と呼称するもの(山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」の「澄江堂遺珠ノート1」と称するもの)から主に採録されたものと推定
されるとし、
旧全集「未定詩稿」(その総ては私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」で読める。参照されたい。この「未定稿」だけの単独ファイルも私のサイトで近日公開する予定である)の方は、佐藤が「第三號」と呼称するもの(山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」の「澄江堂遺珠ノート2」と称するもの)から主に採録されたものと推定
されるとする。なお、これらの『事情を踏まえ』て新たに編集されたものが、岩波版新全集題二十三巻に載る『「澄江堂遺珠」関連資料』という驚くべき労作である(これも私のサイトで近日独自の編集を加えて公開する予定である)。「後記」には、この佐藤の「澄江堂遺珠」及び堀辰雄編になる『「未定稿」の源泉資料の全貌を示すべく、忠実に活字に再現し、「未定稿」は前回全集を底本として、その後に配した』とある。確かに佐藤はここで『堀君が册子第一號及び私書中の詩章は悉くこれを既刊集中に完全に收錄し』ていると述べているから、この新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』は『「未定稿」の源泉資料の全貌』であるとは、まずは『推測』してよいとは『思われる』。以上の二語は同「後記」の中でそれぞれに二回も用いられている。確かに『示すべく』と「べく」が用いられてはあるが、私は文学研究も厳密に科学的でなくてはならないと考えている。「第一號」ノートを既に我々が失ってしまっている以上、私はこれを『源泉資料の全貌』と称して無条件に遥拝することは微妙に留保したい気がするのである。そもそも今回、私は上記の通り、『「澄江堂遺珠」関連資料』に存在しないことになっている抹消箇所を装幀の貼り交ぜ自筆稿の中に複数発見しているからである。
・「四六版」127×188ミリメートル。新書判(一〇三×一八二)よりも大きく、教科書や文芸雑誌類等のA5判(148×210)よりも小さい(印刷会社の正確なデータに拠った)。
・「意嚮」「いかう(いこう)」と読む。意向に同じい。
・「淋漓たる」水・血・汗などの溢れ滴るさま。
・「尠少」「せんせう(せんしょう)」と読み、非常に少ないさまをいう。鮮少。
・「頃日」「きやうじつ(きょうじつ)/けじつ」と読み、この頃。近頃。
・「關絡」関係性と連絡通底性の意であろうが、漢方の経絡関連の記載には見かけるものの、日常的には見馴れない漢語である。
・「篏鏤」「かんる」又は「かんろう」と読むか。「篏」ははめる・はまる・穴の意(「嵌」と同義であろう)、「鏤」は「ちりばめる」であるから、金銀・宝石などを一面に散らすように嵌め込む、また比喩的に文章のところどころに美しい言葉などを交えるの謂いである。されば適切な位置に美しく調和的に象嵌するの謂いである。
・「縺れた」「もつれた」と読む。
・「能事」「のうじ」と読む。なすべき事柄。
・「索ぬる」これは「もとめる」の誤植ではなかろうか? それとも「たづぬる」と読んでいるか? 識者の御教授を乞う。
・「宥す」「ゆるす」と読む。許す。
・「本誌上」冒頭に注した雑誌『古東多万ことたま』(やぽんな書房・佐藤春夫編)。昭和6(1931)年9月から翌年1月までに発行された同誌の第一年第一号から第三号に本作は初出掲載された。さすれば、この「はしがき」は本単行本のためではなく、初出の恐らくは『古東多万』第一年第一号に掲載されたものをほぼそのまま載せたものと考え得る。
・「私する」「わたくしする」と読む。
・「云爾」「いふのみ」と読む。
・「故人が第四周忌の前四日の夜」昭和2年7月24日が芥川龍之介自死の日附であるから、これは昭和6(1931)年7月20日の夜である。
・「夜木山房」「夜木」の読みも含め不詳。佐藤春夫の書斎の号のように思われるが、情報がない。識者の御教授を乞うものである。]



 思ふはとほき人の上



[やぶちゃん注:以上は佐藤春夫による一頁一行標題。改頁。左頁から以下の本文。]



    *
何かはふともくごもりし
消えし言葉は如何なりし
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは

[やぶちゃん注:「何かはふともくごもりし」という一行と完全一致するものは、実は現存する資料の中にはたった一篇しかない。それは、新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』のパートの『頁11』に現われる、それである。以下に同頁を総て示す。取り消し線は抹消を、下線はそれに先立つプレ抹消を指す(但し、これは私独自の仕儀)。
   《引用開始》
かそかにゆきのつもるよは

こよひばかりはひややかに
ひとりいぬ

入日の空を仰ぎつつ
何かはふともくごもりし
せんすべ
消えし言葉は如何なりし

運河むるる上る鯉魚の群あまた
波もさざらに上るとき
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
   《引用終了》
次に、この抹消箇所を消去してみる。
   《提示開始》
かそかにゆきのつもるよは

こよひばかりはひややかに
ひとりいぬ

何かはふともくごもりし
消えし言葉は如何なりし

鯉魚あまた
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
   《提示終了》
では、この一篇に関係する部分のみを次に抽出してみる。
   《提示開始》
何かはふともくごもりし
消えし言葉は如何なりし

鯉魚あまた
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
   《提示終了》
こうしてみても(斜体化はやぶちゃん)、本来、別フレーズであることを示す空行と、抹消していない「鯉魚あまた」が間に挟まって、実は「澄江堂遺珠」のこの一篇は全く再現されないと言ってよいのである。
 では、一歩下がって酷似したものはどうか?
 実は「何かはふとも口ごもりし」ならば全部で七つの資料にヒットする。一つは堀辰雄の編集したと思しい現在「詩歌未定稿」と称するもので、そこではまさに同一のパートに三ヶ所連続で登場する(斜体化はやぶちゃん)。
   《引用開始》
    *

何かはふとも口ごもりし

えやは忘れむ入日空
せんすべなげに仰ぎつつ
何かはふとも口ごもりし
その

入日の空を仰ぎつつ
何かはふとも口ごもりし

消えし言葉は如何なりし

    *

「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは

「思ふはとほき人の上」
船のサロンにただひとり
玫瑰の茶を畷りつつ
ふとつぶやきし寂しさは

    *
   《引用終了》
一見すると、文字列だけならば、一致して見えるが、ここでも詩句は「*」で分断されており、一篇のソリッドなものではないのである(しかも「口ごもりし」と表記が異なる)。
 他には『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁23』に、
   《引用開始》
何かはふとも口ごもりし

大路この この のこる夕明り

戸のもの櫻見やりつつ
何かはふとも口ごもりし

戸のもの

きみ

何かはふとも口ごもりし
せんすべなげに□まひつつ
えやは忘れむ入日空
せんすべなげに仰ぎつつ
何かはふともほほえみし口ごもりし
その日のその
   《引用終了》
と出るが、本篇の後の二行とは一致部がない。後は同『頁26』の一部、
   《引用開始》
光は
何かはふとも口ごもりし
その
   《引用終了》
本編の後に続く詩句と相同相似の文字列はないのである。
 さすれば、佐藤は先に掲げた二つ、即ち、
・新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』のパートの『頁11』
若しくは(これは考え難いことであり、その可能性は極めて低いと考えたいのだが)、
・推定堀辰雄編の「未定稿」
の、孰れも分断された詩篇を、恣意的に接続して一篇に捏造したとしか思われないのである。以下、冒頭注で述べた通り、本「澄江堂遺珠」の各詩篇の考証はこれを後の作業に譲ることとするが、少なくとも私は、我々はこの「澄江堂遺珠」の数多の絶唱を――芥川龍之介の生の肉声の吟詠として聴いてはいけない――と断言するものである。]
    *
梨花を盛る一村の風景暗し
    *
何かはふとも口ごもりし
えやは忘れむ入日空
せんすべなげに仰ぎつつ
何かはふとも口ごもりし

「思ふはとほき人の上」
船のサロンにただひとり
玫瑰の茶を畷りつつ
ふとつぶやきし寂しさは

[やぶちゃん注:「玫瑰」音は「まいくわい(まいかい)」訓じて「はまなす」と読むが、孰れとも考え得る。歌柄が芥川の中国行の際のイメージを思わせ、その場合は寧ろ、音「マイクワイ(マイカイ)」或いは中国音を音写した「メイクイ」の可能性が高いと思うからである(後者については芥川龍之介の「江南游記」「六 西湖(一)」に『私は玫瑰(メイクイ)のはいつた茶碗を前に、ぼんやり頰杖をついた儘、ちよいと蔭甫(いんぽ)先生を輕蔑した』と出るからである。リンク先は孰れも私の注釈附テクスト)。中国原産のバラ亜綱バラ目バラ科バラ属ハマナス Rosa rugosa は、あちらでは普通に花を乾燥させて茶や酒の香料とする。中国音「méigui」。]
    *
畫舫にひとをおもほへば
たがすて行きし薔薇の花
白きばかりぞうつつなる

[やぶちゃん注:「畫舫」は「ぐわばう(がぼう)」と読み、絵を描いたり、極彩色を施したりした中国の遊覧船をいう。中国音「huàfǎng」。]
    *
畫舫はゆるる水明り
はるけき人をおもほへば

わがかかぶれるヘルメツト
白きばかりぞうつつなる

   右の一章の上欄には横書にて
     Sois belle, sois triste. ト云フ
   (美しかれ、悲しかれ)(?)と記入しあり。

    *
はるけき人を思ひつつ
わが急がする驢馬の上
穗麥がくれに朝燒けし
ひがしの空ぞ忘られね
    *
古き都は靑々と
穗麥ばかりぞ
なびきたる
朝燒け

[やぶちゃん注:底本では「なびきたる」で改頁となっており、その間に以下の蘇州の北寺の塔の前で撮られた驢馬に跨る芥川龍之介の写真が入る。撮影者は不詳であるが、恐らく案内者であった島津四十起しまづよそき(明治4(1871)年~昭和23(1948)年:俳人・歌人。明治33(1900)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正2(1914)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。戦後は生地兵庫に帰った。)と考えられ、とすれば写真の著作権は満了している(違う撮影者若しくはその著作権継承者からの要請があれば以下の画像は取り下げる)。]



     劉園
人なき院にただひとり
古りたる岩を見て立てば
花木犀は見えねども
冷たき香こそ身にはしめ

   右「劉園」は西湖劉莊の園に於ての口吟か。

[やぶちゃん注:私は旧全集の「詩歌二」で初めてこの詩を読んで以降、この「劉園」をずっと蘇州古城の西北にある明の嘉靖年間に徐時泰が建てた中国四大名園の一つである「留園」であると思い込んできた。それは「留園」は古えは「劉園」と書いたという事実、そして、芥川龍之介の「江南游記」の「二十 蘇州の水」の冒頭に(リンク先は私の注釈附電子テクスト)、
   *
 主人。寒山寺だの虎邱こきうだのの外にも、蘇州には名高い庭がある。留園だとか、西園だとか。――
 客。それも皆つまらないのぢやないか?
 主人。まあ、格別敬服もしないね。ただ留園の廣いのには、――園その物が廣いのぢやない、屋敷全體の廣いのには、いささか妙な心もちになつた。つまり白壁の八幡知やはたしらずだね。どちらへ行つても同じやうに、廊下や座敷が續いてゐる。庭も大抵同じやうに、竹だの芭蕉だの太湖石だの、似たやうな物があるばかりだから、いよいよ迷子になりかねない。あんな屋敷へ誘拐された日には、ちよいと逃げる訣にも行かないだらう。
   *
と述べていること(この詩の雰囲気とこの龍之介の述懐部が私には妙にしっくりと重なったのである)、そして何より実際に私も「留園」を訪れてその「漏窓」と言われる透かし窓や奇岩奇石の迷宮のような作りに素敵に異界を覚えたことによる鉄壁の確信なのであった。従って私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」では、
[やぶちゃん注:「劉園」明の嘉靖年間に徐時泰が建てた中国四大名園の一つ。私も行ったが「漏窓」と言われる透かし窓や奇岩奇石の迷宮のような作りに素敵に異界を覚えた。]
という注を附してきた。
 ところが今回、この芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」を電子化注釈する過程の中で、その確信が揺らいできたのである。問題はこの佐藤の注である。彼はこの「劉園」を蘇州古城の「留園」ではなく、『西湖劉莊の園』ではないかと注しているからであった。そこで中国滞在の長い教え子にこのことについて以下の質問を試みてみた。以下はその際の私の消息文の後半部分である。
   《引用開始》
私が注で言っているのは現在の蘇州古城の西北にある「留園」(但し、昔は「劉園」という呼称であったといいます)ですが、実は「西湖劉荘」と佐藤が注している方は、現在の「杭州西湖国賓館」の別称「劉荘」なのだろうと遅まきながら気づきました。私は単純に自分が気に入ったあの庭園の記憶と、この詩の持つ雰囲気から「留園」と完全に思い込んで注していたのですが、これは西湖の「劉荘」でしょうか? 私は西湖に行っていないので判断がつきません。しかし中国の観光サイトには「杭州西湖国賓館」について、
   *
西湖の西側にあって、三面が湖に臨んでいて、後ろが丁家山である。三十六万平米土地を占め、沿西湖の総長は二キロである。ホテルは緻密、調和、豪華な江南建築で有名になって、庭に小橋、水亭、古樹があり、建築物が緻密で、飾り付けが上品で、人文景勝もいっぱいあるので、「西湖第一の名園」という称号がある。
   *
とあり、これはもしかすると、佐藤の言う、現在の「杭州西湖国賓館」=「劉園」での感懐吟の可能性が出てきたのです。あなたは何度も西湖を訪問されているので、出来ればご判断を仰げればと思っています。
   《引用終了》
 これに対する教え子の返事を引用する。
   《引用開始》
西湖西岸の国賓館については、わたしもはっきりしたことは分かりません。西湖西岸にはここ数年の間に何度も足を運び、時には家族と、時には会社の同僚たちとゆっくり散策しました。ただし、国賓館そのものに入ったことがあったかどうか、定かに憶えていません。ただ、西湖のほとりと言えば、蘇州の、留園はもちろんいかなる庭園と比べてもスケールが断然異なります。西湖周辺というのは、まさに見はるかす限りの夢のような風景が広がり、私は何度訪れてもうっとりしてしまいます。そうですねえ、例えは悪いかもしれませんが、京都の庭園のせせこまさと、奈良の旧都跡との違いというのでしょうか(かなり偏見が入っています、すみません)。私は、留園の小世界で感慨にふける龍之介より、西湖畔の茫洋として天地の広がりに立ち尽くす龍之介の方が、今ありありと眼に浮かぶのです……
追伸 とりわけ西湖の西岸は、汀の線が入り組んでおり、波もほとんどなく鏡のようです。靄の立つ早朝や、霧雨に降り込められた風情など、まさしく絶品です。
   《引用終了》
この文面を眺めながら、私はこの一篇への注は書き直さねばならぬと感じた。私の中では偏愛する「留園」であって欲しいという無意識の力が働いたのであるが、そもそも龍之介は「江南游記」の上記の引用で「留園」と記している。彼が同じ「留園」を詩に詠んだとすれば、そこでは標題を「劉園」とせずに「留園」としたに違いない。とすれば、これはやはり――佐藤が注で推測し、教え子が述べるように実体としては実はせせこましい(実際にそれは事実である)「留園」とは比較にならない広大広角の西湖の「劉園」こそが、本詩のロケーションであった――と推定するのが正しいという結論に至ったからである。大方の識者の御批判を俟つものである。]
    *
欲識東坡狂醉處
至今泉聲

[やぶちゃん注:「欲識東坡狂醉處」は「識らんと欲す 東坡狂醉の處」、「至今泉聲」は「至今(しこん) 泉の聲」(今なお、往時より湧き出ずる泉の音が聴こえる)か。龍之介が訪ねた蘇東坡の旧跡としては西湖があり、「江南游記 六 西湖(一)」「江南游記 九 西湖(四)」などに蘇東坡の名が出る。特に前者の叙述には、先行する詩に用いられている「玫瑰メイクイ」の茶を飲むシーンや「畫舫」が登場する。]
    *
しらべかなしき蛇皮線に
小翠花セウスヰホアは歌ひけり
耳環は耳にゆらげども
きみに似たるを如何せむ

[やぶちゃん注:「小翠花」は別名于連泉うれんせん、龍之介の「上海游記」の「九 戲台(上)」「十 戲臺(下)」にも記される京劇の花旦(huādàn:可愛い若い女性役の男優。)の名優である。]
    *
みどり明るき芭蕉葉に
水にのぞめる家あまた
夾竹桃
薊花すぎ
アカシヤの落ち花
しつとりと黄な瓦踏む


  麥秀
げんげ野に羊雨空を仰ぎ
粉江の塔が見ゆる麥の穗のび
菜たね莢になる水中の鼻さき
石橋に草生ゆる農人の行かんともせず
そらまめ花さく中の墓なり
籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨

   右「麥秀」六句はその詩體と詩情とを異にす
   るとは云へ亦當然支那游記詩章中のもの
   なるべし。

[やぶちゃん注:当初、「澄江堂遺珠」のみで虚心坦懐に芥川龍之介の詩想を読み解こうとしたが、この詩の「粉江の塔」「水中」という語に忽ち行き詰ってしまった。「水中の鼻さき」?……まず、「粉江」で検索したが、龍之介の中国旅行の行程の中にこのような地名(或いは川の名前)は見出せなかった。そこで中国滞留の長い教え子に聴いたところ、「聴いたことがありません。これは本当に中国の地名ですか? 他に情報はありませんか?」との返事を得た。そこで、『「澄江堂遺珠」関連資料』の当該資料を探ってみると、驚くべきことが分かった。これは同資料の『ノート1』の『頁1』に載る以下の詩に該当するのだが(取り消し線は芥川龍之介による抹消を示す)、

   麥 秀

げんげ野に羊雨空を仰ぎ
松江の塔が見ゆる麥の穗のび
菜たね莢になりる水牛の鼻さき
石橋に草生ゆる雨空の 農人農人行かんともせず
そらまめ花さく中の墓なり
籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨

「粉江」ではなく「松江」であり、「水中」ではなく「水牛」なのである!
「水牛」は納得した。では「松江の塔」とは?……「松江」と言えば、芥川龍之介所縁とすればかの出雲の松江(私の芥川龍之介「松江印象記」初出形テクストを参照)があるが、「塔」は不審であり、この他に出るロケーションは、佐藤春夫が敢えてここにこの詩を配したように、佐藤が誤読したか誤植かは不明だが「水牛」を引くまでもなく、中国大陸での嘱目と考えなくてはおかしい。そもそも「春雨」が出るが、龍之介の松江訪問は真夏である。とすると……「松江しようかうの塔」……と称すべきものは中国にないか?……検索をかけると!……あった!――「松江方塔」である! 上海市観光局公式サイトの記載などよれば、現在の上海市郊外の西区にある古城で、「方塔」は正式名称を「興聖教寺塔」といい、土木構造製の九段階方形の塔で高さは四二・五メートル、造形と構造は唐代の煉瓦作りの塔を真似たもので、中国国内では極めて少ない唐代の北宋塔とある。但し、龍之介はここを訪れた形跡は現存する資料の中にはない。この情報を先の教え子に提示してみた。すると、
   《引用開始》(本人の承諾済)
はい! 松江というのは非常に知れ渡った地名であり、上海市に松江区という行政区もあります。塔も有名です。ただ、かなり距離があります。龍之介はせいぜい上海郊外と言っても同文書院あたりまでしか行っていないという印象でしたので、不思議です。もしかしたら、実際に行っていなくても、写真などで見たのかしらん……龍之介は、そんなことしないよな……
先生、龍之介が上海から杭州へ向かう際に、汽車から見えたのではないかしら? 現在の鉄路(新幹線でなく在来線:昔の線路もおそらく同じ場所を通っていたと仮定すれば)から、距離にして一キロメートル足らずです。これなら、絶対に見えたはずです。僕もその在来軌道を何度も利用しました。しかし残念なことに、方塔が見えた記憶は一度もないのですけれども。
   《引用終了》
という返事を貰った。そこではたと思い当った。この詩は「げんげ野に羊雨空を仰」いでいて、「松江の塔」が「麥の穗のび」た先に「見」えるのであり、「菜たね莢になる水牛の鼻さき」が過ぎ行き、「石橋に草生ゆる雨空の」の中を「農人」は「行かんともせず」に立ち尽くすのが見え、今度は「そらまめ花さく中の墓」があって、「籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨」の降っている景なのだ! これらを嘱目する龍之介は、その「松江の塔」に登ったり、その塔の直下に立ったりなどはしていないのだ! しかも景色は目まぐるしく変わっているではないか?! こんな風に景色がつぎつぎと移り変わるのは――これは車窓から見た景色なのではないか?!……こんなことを考えて、私はまさに教え子の言うように、その杭州に向かう汽車から「麦の穂の伸びた先に松江方塔が見えたのではないか?」と返事をものした。
   《引用開始》
はい! 大正10(1921)年5月2日。汽車が上海を出て間もなくのことになるはずです。上海市内を出発して約30キロほど走ったところですから、当時の汽車の速度などを考えれば約1時間ほどといったところでしょうか。
   《引用終了》
と返事が返ってきた。私はもう、誰が何と言おうとこれは興聖教寺塔、松江しょうこうの塔の遠望であると信じて疑わないのである!――]

[やぶちゃん注:次の左頁が次の佐藤春夫による一行標題。中央。]



 或る雪の夜



   次に澄江堂手記册より抄錄せんとするは
   種々に書き改められて然も終に完成せざ
   る一小曲なり。その内容に從ひて假に「或
   雪の夜」と題す。甚しく出色の文字とも
   見えざれども、故人がこれがために濺げる
   苦心はこれを閑却し難きこものあるを思ひ
   てこれを捨てざるなり。册子中このあた
   りを繙き行けば詩に憑かれたるがごとき
   故人の風貌のそぞろに髣髴たるものある
   に非ずや、これを以下に見られよ。

[やぶちゃん注:「繙き」「ひもとき」と読む。]
   *
かそかに雪のつもる夜は
折り焚く柴もつきやすし
こよひはきみも冷やかに
ひとりねよとぞ祈るなる

   右の一章は左上より右下へかけて斜なす
   直線によつて抹殺されあるものなるが、す
   ぐ次の頁には第二行を記入せざる外は一
   字も相違なきものを再記して同じく抹殺
   せり。その直あとより

かそけき雪のつもる夜は
ココアのもさめやすし
こよひはきみもひややかに
ひとりねよとぞいのる﹆﹆﹆なる

   同じく抹殺せるも尚大同小異のものの記
   入と抹殺を反復すること左の如し。


かそか﹆﹆﹆に雪のつもる夜は
ココアの湯氣もさ﹆﹆﹆﹆めやすし
きみもこよひは冷や﹆﹆かに
ひとりねよとぞ祈る﹆﹆なる

幽か﹆﹆に雪のつもる夜は
ココアの色も澄み﹆﹆﹆﹆やすし
こよひ            
こよひはも冷やかに
獨りねよとぞ祈るなる

[やぶちゃん注:この三行目の空欄は底本では行同幅で下部の横罫がない開放型である(凡愚の私ではどうしてもそれをここにうまく表示出来なかった。御寛恕あれかし)。後掲する新全集版『「澄江堂遺珠」関連資料』を見ると、「こよひ」で始まる幾つかの詞章のバリエーションが見えるから、そうした不定複数の抹消詞章を暗に示すものと私には思われる。少なくともこれは何字分を抹消したか確定出来ないという謂いでは「ない」と考えてよいよいと思う。以下、最後の二箇所(注を施してある)以外は総てがこの下方開放の長方形を成すが、以下は注しない。]

幽かに雪のつもる夜は
ココアの色も澄みやすし
今宵はひと﹆﹆も冷やかに
ひとり﹆﹆﹆寢よとぞ祈るなる

幽かに雪のつもる夜は
ココアの色も澄みやすし
こよひはひとも冷やかに
ひとり寢よとぞ祈るなる

   右は兩章とも×を以て抹殺せり。その後
   二頁の間は「ひとりねよとぞ祈るなる」は跡
   を絶ちたるもこは一時的の中止にして三
   頁目には再び

かすかに(この行――にて抹殺)
幽かに雪の

   と記しかけてその後には
   「思ふはとほきひとの上
    昔めきたる竹むらに」
   とつづきたり。さてその後の頁にはまた

幽に雪のつもる夜は
   (一行あき)
かかるゆうべはひややかに
ひとり寢ぬべきひとならば」

   (「 」中の八字を消してその左側に「ねよとぞ思
   ふなる」と書き改めたり。
   さてこの七八行後には

雪は幽かにきえゆけり
みれん        

   とありて
   *
夕づく牧の水明り
花もつ草はゆらぎつつ
幽かに雪も消ゆるこそ
みれんの        

   と一轉して、さて

水は明るき牧のへも
花もつ草のさゆらぎも
みれんは牧の水明り
花もつ草の        

   と別作の努力にうつりしも次の頁九行目
   あたりより三たび

幽かに雪のつもる夜は
折り焚く柴もつきやすし
幽かにいねむきみならば﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆
   (一行あき)
ひとりいぬべききみならば}併記して對比
幽かにきみもいねよかし }推敲せしか。

[やぶちゃん注:「}」は底本では二行に亙る大きな「}」である。]

   その後四頁目より改めて反復連續するも
   の次の如し。

ひとり        
雪は幽かにつもるなり
きみも今宵はひややかに
ひとりいね﹆﹆よと祈りつつ

幽かに雪のつもる夜は
ひとり胡桃を剝きにけり
きみも今宵はひややかに
ひとり寢ね﹆﹆よと祈りつつ

幽かに雪のつもる夜は
  ココアを啜りけり(消)
ひとり胡桃を剝きゐたり
こよひは君も冷や﹆﹆かに
ひとりいねよと祈りつつ

幽かに雪のつもる夜は
折り焚く柴もつきやすし
幽かにひとりいねよかし
ひとりいねよと   あ

幽かに雪のつもる夜は
君も幽かにいねよかし
ひとり      あ
しら雪に夕ぐれ竹のしなひかな﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆
君もかなしき小夜床に
ひとり      あ

     あ  しら雪も
幽かに今はつもれかし
きみも(消)
幽かにひとりいねよかし

かかるゆうべはきみもまた
幽かにひとりいねよかし

ゆうべとなればしら雪も﹆﹆﹆﹆
幽かにおほへかし﹆﹆﹆﹆﹆
さては(消)
ゆうべかなしき

幽かに雪のつもる夜は
折り焚く柴もつきやすし
「思ふはとほきひとの上」
幽かにひとりいねてがな

   の如き窮餘の句法も現はるるに到つて未
   だ適歸するところを見出し得ざりしも、更
   に再起して

ひとり葉卷をすひをれば
雪は幽かにつもるなる
こよひはひともしらじら﹆﹆﹆﹆
ひとり小床にいねよかし
ひとりいねよと祈るかな﹆﹆

   幾度か詩筆は徒らに彷徨して時には「いね
   よ」に代ふるに「眠れ」を以てし、或は突唐に「な
   みだ」「ひとづま」等の語を記して消せるも
   のなどに詩想の混亂の跡さへ見ゆるも尚
   筆を捨てず、最後には再び

幽かに雪のつもる夜は
折り焚く柴もつきやすし
「思ふはとほきひとの上」
幽かにひとりいねてがな

   のごとき無意味なる反復ありて然も詩魔
   はなほ退散することなく更に第何囘目か
   を出直して

ひとり葉卷をすひをれば
雪はかすかにつもるなり
こよひはひともしらじらと
ひとり小床にいねよかし
ひとりいねよと祈るかな

ひとり葉卷をすひ居れば
雪はかすかにつもるなり
かかるゆうべはきみもまた
ひとり幽かにいねよかし

ひとり葉卷をすひ居れば
雪はかすかにつもるなり
かなしきひとも﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆かかる夜は
幽かにひとりいねよかし

(ひとり胡桃を剝き居れば
(雪は幽かにつもるなり
(ともに胡桃を剝かずとも
(ひとりあるべき人ならば

   とあり、この最後の意を言外にのこしたる
   一章には大なる弧線を上部に記して他と
   區別し、些か自ら許せるかの觀あり。かく
   て第二號册子の約三分の二はこれがため
   に空費されたり。徒らに空しき努力の跡
   を示せるに過ぎざるに似たるも、亦以て故
   人が創作上の態度とその生活的機微の一
   端とを併せ窺ふに足るものあるを思ひ敢
   て煩を厭はずここに抄錄する所以なり。

[やぶちゃん注:最後の詩篇の頭の部分は佐藤が注するように、底本では巨大な一つの「(」(弧線)である。]



   又册子第一號に「雪」と題せる

初夜の鐘の音聞ゆれば
雪は幽かにつもるなり
初夜の鐘の音消えゆけば
汝はいまひとと眠るらむ

   とあるは前記苦心の一章の完成の姿とも
   見るを得べし。

   なほ
   *
ひとり山路を越えゆけば
月は﹆﹆幽かに照らすなり
ともに山路を越えずとも
ひとり眠ぬべき君ならば

   この一章も前期の「或る冬の夜」の連作につ
   づきて記入されてある別作なるが、これ亦そ
   の情緒に於ては「或る冬の夜」の連續と見る
   べし。

   ここにこれを補ふ所以なり。右の一章に
   つづきて左の斷章あり。これ亦連作とし
   てこれを見るとき感慨甚だ深からずや。

雨に濡れたる草紅葉
侘しき野路をわが行けば
片山かげにただふたり
住まむ藁家ぞ眼に見ゆる

きみとゆかまし山のかひ
山のかひには日はけむり
日はけむるへに古草屋
草屋にきみとゆきてまし

きみとゆかまし山のかひ
山のかひには竹けむり
竹けむるへにうす紅葉
うす紅葉ちる        

きみと住みなば   }
           山の峽
ひとざととほき(消)}
山の峽にも日は煙り
日は煙る     あ

[やぶちゃん注:「}」は底本では二行(空きなし)に亙る一つの括弧で、その下に「山の峽」が配されてある。]

   即ち知る個人はその愛する者とともに世
   を避けて安住すべき幽篁叢裡の一草堂の
   秋日を夢想せる數刻ありしことを。
   これを册子第一號中に戲れに⑴⑵と題し
   たる左の二章

汝と住むべくは下町の
水どろは靑き溝づたひ
汝が洗湯の徃き來には
晝もなきづる蚊を聞かむ
             戲れに⑴

汝と住むべくは下町の
晝は寂しき露路の奥
古簾垂れたる窓の上に
鉢の雁皮も花さかむ
             戲れに⑵

[やぶちゃん注:ここに図版「漫畫筆蹟」が入るが、掲載は注の後に回した。]

   と對照する時一段の興味を覺ゆるなるべ
   し。隱栖もとより厭ふところに非ず、ただ
   その地を相して或は人煙遠き田圃を擇ば
   んか、はた大隱の寧ろ市井に隱るべきかを
   迷へるを見よ。然も「汝と住むべくは」の詩
   情に於ては根蒂竟に一なり。

[やぶちゃん注:「根蒂」は「こんたい」と読む。原義は根とへたで、転じて、物事の土台、よりどころの意。根蔕。「雁皮」は古く奈良時代から紙の原材料とされてきたフトモモ目ジンチョウゲ科ガンピ Diplomorpha sikokiana を指し、初夏に枝の端に黄色の小花を頭状花序に7から20、密生させるものであるが(グーグル画像検索「雁皮の花」)、どう考えても地味な花で、それをまた鉢植えにするというのは、如何にも変わった趣味と言わざるを得ない。そうした不審を解いてくれるのが、後掲する本テクストの末尾の神代種亮の「卷尾に」という文章で、神代はそこで「雁皮」について、これ『は事實から看て明かに「眼皮」の誤書である。雁皮は製紙の原料とする灌木で、鉢植ゑとして花を賞することは殆ど罕な植物である。眼皮は多年生草本で、達磨大師が九年面壁の際に睡魔の侵すことを憂へて自ら上下の目葢を剪つて地に棄てたのが花に化したのだと傳へられてゐる。花瓣は肉赤色で細長い。』と記している(「罕な」は「まれな」と読み、「稀」と同義。「目葢」は「まぶた」)。まさにこれは目から鱗である。これはジンチョウゲ科のガンピではなく、中国原産で花卉観賞用に栽培されるナデシコ目ナデシコ科の多年草である別なガンピ(岩菲がんぴLychnis coronata であったのである。こちらのガンピ(岩菲)は茎は数本叢生し、高さは40~90センチメートルほどになり、卵状楕円形の葉を対生させ、初夏に上部の葉腋に五弁花を開くが、花の色は黄赤色や白色といった変化に富む。グーグル画像検索「Lychnis coronataでその鮮やかな花を見られたい。これは確かに神代の言う通り、「雁皮」ではなく「岩菲」に違いない。]



[やぶちゃん注:以上は芥川龍之介の原稿にある龍之介自身の落書。底本画像を見易く横に補正した。以下は、底本の54頁の佐藤春夫による図版及び本書の例の上部に配された芥川龍之介のデッサン、その他、草稿のメモとそれについての解説である。このうち、芥川龍之介メモ類は頁の左半分上方に横書となっており、その下方に佐藤が『蛇足』と称する解説が入っている。]

 澄江堂がノートブツク中には筆のすさびと見るべき戲畫のたぐひ或は隨想のメモあることは既に述べたるが如し。本文上部に用ゐたる裝飾はその筆のすさびの一例を利用したるものにして原册にも同じく上欄にカツトの如くデザインしあるものなり。また次に掲ぐるは隨感的メモの一例にて下方なるは編者が蛇足なり。

[やぶちゃん注:以下、横書の龍之介のメモ。]
Kunst
1) Kunst
 ハ Ausdruck ナリ、
   單ナル Liebe ニ非ズ。
2) Ausdruck ハ即、Eindruck ナリ。
3) Ausdruck ヲ Wesen トスル
   Kunst ニ Technique ナカルベ
   カラズ( Cézanne ノ例)
4) Technique ハ手段ナリ、
   Ausdruck  ハ目的ナリ、本末顚
   倒ノ弊アルベカラズ。

[やぶちゃん注:概ねドイツ語であるが、「Technique」の綴りはフランス語である。ドイツ語は「Technik」。フランス語経由で入った外来語だからであろうか。但し、フランス語「Technique」自体もフランス語にとって外来語で、もとはギリシャ語の「techne」(テクネー)で「technique」は「techne」の形容詞形「technikos」(テクニコス)が直接の語源である。参照した独協医科大学ドイツ語教室のサイト内のこちらのエッセイによれば、ギリシャ語の「technikos」は一旦、「technicus」(テクニクス)というラテン語形に変化し、それがフランス語への橋渡しとなったらしい。則ち、「technikos」(ギ)→「technicus」(ラ)→「technique」(仏)→「Technik」(独)や「technique」(英)となった旨の記載がある。英語学が専門の芥川にとってはフランス語として知られた違和感のない綴りだったのであろう。
 新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁21』を見ると、
   *
Kunst
1) Kunst Wesen Ausdruck ナリ單ナル Liebe ニ非ズ。
2) Ausdruck ハ即 Eindruck ナリ、
3) Ausdruck Wesen トスル KunstTechnique ナカルベカラズ( Cézanne ノ例、
4) Technique ハ手段ナリ Ausdruck ハ目的ナリ本末顚倒ノ弊アルベカラズ
   *
これを見ると「1)」の箇所に「ノ Wesen」が脱落しているのが分かる。一応、以下の訳は「KunstWesen Ausdruck ナリ」を正しく訳しているから、

1) Kunst ノ Wesen ハ Ausdruck ナリ、
   單ナル Liebe ニ非ズ。

と正しいものを示しておくこととする。
 以下、佐藤の縦書の解説。「ザ」の右の半角「?」は、意味が通らないために佐藤が補訂した『(ラザ)』に対する佐藤の疑問符である。]

一 藝術ノ本質ハ表現ナリ、單ナル愛ニ非ズ。
二 評言ハ即、印象ナリ。
三 表現ヲ本質トスル藝術ニ手法ナカ(ラザ)ルベカラズ(セザンヌノ例)。
四 手法ハ手段ナリ、表現ハ目的ナリ、本末顚倒ノ弊アルベカラズ。



 老を待たんとする心と妬み心と



雨にぬれたる草紅葉
侘しき野路をわが行けば
片山かげにただふたり
住まむ藁家ぞ眼に見ゆる

   ふたりかの草堂に住み得て願ひは農に老
   いんといふにありしが如し。――

われら老いなばもろともに
穗麥もさはに刈り干さむ

夢むは
穗麥刈り干す老ふたり
明るき雨もすぎ行けば
虹もまふへにかかれかし

夢むはとほき野のはてに
穗麥刈り干す老ふたり

明るき雨のすぎゆかば
        {らじや
虹もまうへにかか{れとぞ(消)
        {れかし(消)

ひとり胡桃を剝き居れば
雪は幽かにつもるなり
ともに胡桃は剝かずとも
ひとりあるべき人ならば

   見よ我等はここにしてまた「或る雪の夜」に
   接續すべき一端緒を發見せり。宛然八幡
   の藪知らずなり。

[やぶちゃん注:「宛然」音は「ゑんぜん」であるが、ここは「さながら」と訓じているように思われる。まさにそれ自身と思われるさま。そっくりであるさま。
「八幡の藪知らず」「やはたのやぶしらず(やわたのやぶしらず)」と読む。千葉県市川市八幡、現在の市川市役所前にある森の通称。古くから、禁足地」とされ、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名な地で、転じて迷うことの譬え、ラビリンス、迷宮の意。]

何か寂しきはつ秋の
日かげうつろふ靄の中
茨ゆ立ちし鵲か
ふと思はるる人の顏

[やぶちゃん注:「ゆ」上代の格助詞。基本は動作・作用の起点を示すから、~から、~より。また、移動する動作の経過する場所を示して、~を、~を通ってであるが、ここは「立ちし」とあるから、前者でよい。
「鵲」狭義にはスズメ目カラス科カササギ Pica pica を指し、日本へは十六世紀末頃に朝鮮から持ち込まれたとされ、筑紫平野で繁殖するが、古典的世界では現在のコウノトリ目サギ科サギ亜科アオサギ Ardea cinerea などを指すと考えられている。龍之介は歌語として、七夕の架け橋を作る、愛する者同士を繋ぐ伝説の鳥と用いていると考えてよいであろう。]

夢むは遠き野のはてに
穗麥刈り干す老ふたり
仄けき雨の過ぎ行かば
虹もまうへにかかるらむ

夢むはとほき野のはてに
穗麥刈り干す老ふたり
         雨はすぐるとも
虹は幽        
我らが末は野のはてに
穗麥刈り干す老ふたり

[やぶちゃん注:「         雨はすぐるとも」の空欄のみ、標記通りの正長方形で開放終わりは開放していない。]

虹は幽かにかかれかし
たとへばとほき野のはてに
穗麥刈り干すわれらなり

われらは今日も野のはてに
穗麥刈るなる老ふたり
雨に濡るるはすべもなし
幽かにかかる虹もがな

雨はけむれる午さがり
實梅の落つる音きけば
ひとを忘れむすべをなみ
老を待たむと思ひしか

ひとを忘れむすべもがな
ある日は古き書のなか
(ママ)
〔香と書きて消しあるも月にては調子の上にて何とよむべきか不明〕も消ゆる
白薔薇の
老いを待たむと思ひしが

[やぶちゃん注:「〔香と書きて消しあるも月にては調子の上にて何とよむべきか不明〕」は二行ポイント落ちの割注。便宜上、〔 〕を附したが、底本では括弧は存在しない。]

ひとを忘れむすべもがな
ある日は秋の山峽に

   ……中絶して「夫妻敵」と人物の書き出しあ
   りて、王と宦者との對話あるう戲曲的斷片を
   記しあり……

[やぶちゃん注:「宦者」宦官。]

忘れはてなむすべもがな
ある日は        
ゆうべとなれば
物の象(かたち)はまぎれ

物の象のしづむごと(消)
老さりくれば        

牧の小川も草花も
夕となれば煙るなり
われらが戀も        

牧の小川も草花も
夕となれば煙るなり
わが悲しみも
老さりくれば消ゆるらむ

夕となれば家々も
畑なか路も煙るなり
今は忘れぬおもかげを
老さりくれば消ゆるらむ

ゆうべとなれば波の穗も
船の帆綱も煙るなり
今は忘れぬおもかげも
老さりくれば消ゆるらむ

ゆうべとなれば波の穗も
遠島山も煙るなり
今は忘れぬおもかげも
夢にまがふは何時ならむ

夕となれば家々も
畑なか路も煙るなり
今は忘れぬ        
老され來れば消ゆるらむ

   別にただ一行
   「今は忘れぬひとの眼も」
   と記入しあるも、「ひとの眼も」のみは抹殺せ
   り。
   かくて、老の到るを待つて熱情の自らなる
   消解を待たんとの詩想は遂にその完全な
   る形態を賦與されずして終りぬ。この詩
   成らざるは惜むべし。
   然も甚だしく惜むに足らざる似たり。
   最も惜むべきは彼がこの詩想を實現せず
   してその一命を壯年にして自ら失へるの
   一事なりとす。
   假りに「ねたみ心」とも題しつべき數篇の小
   曲を發見す。
   試みにこれを左に列記せん。

ひとをころせどなほあかぬ
ねたみごころもいまぞしる
垣にからめる薔薇の實も
いくつむしりてすてにけむ

垣にからめる薔薇の實も
いくつむしりて捨てにけむ
ひとを殺せどなほあかぬ
ねたみ心に堪ふる日は

人を殺せどなほ飽かぬ
妬み心を知るときは
山になだるる嵐雪
松をゆするも興ありや

   同じ心をうたひて「惡念」と題したるは

松葉牡丹をむしりつつ
人殺さむと思ひけり
光まばゆき晝なれど
女ゆゑにはすべもなや
   *
夜ごとに君と眠るべき
男あらずばなぐさまむ

  右二句はこれを抹殺しあり。蓋しその發
  想のあまりに粗野端的なるを好まざるが
  故ならんか。然もこの實感はこれは歌は
  ではやみ難かりしは既に「惡念」に於て我等
  これを見たり。更に、册子第一號中

微風は散らせ柚の花を
金魚は泳げ水の上を
汝は弄べ畫團扇を
虎疫ころりは殺せ汝がつま
                     夏

   と云ひ、なほ別に一佳篇を成すあり。――

[やぶちゃん注:以上の一篇の「微風は散らせ柚の花を」のところで改頁となり、ここにこの一篇総てを示した以下の図版が入る。これはそれを活字に起こすと、

 微風は散らせ柚の花を
 金魚は泳げ水の上を
 汝は弄べ 画團扇を
 虎疫ころりは殺せ汝がつま
       夏

と三行目に有意な字空きがあることが分かる。]



この身は鱶の餌ともなれ
汝を賭け物に博打たむ
ぴるぜん・まりあも見そなはせ
汝に夫あるはたへがたし
          船乘りのざれ歌

   ああ人を殺さざりし彼は遂に自らを殺せし
   なるか。非か。

[やぶちゃん注:「びるぜん・まりあ」はポルトガル語の「virgin maria」で聖処女マリアのこと。]

ひとをまつままのさびしさは
時雨かけたるアーク燈
まだくれはてぬ町ぞらに
こころはふるふ光かな

[やぶちゃん注:「アーク燈」アーク放電による発光を利用した光源。特に電極に炭素棒を用いたもので空気中で放電させるアーク放電灯を指し、明治初期には街路灯に用いられた。]

   その他單獨の短章にして作者自身×印を
   以て題に代へたる作十章あるも、こは完作
   として既に全集中に収錄されあるを以て、
   ここには抄出することなし。ただ二三句
   のみに止まりて未だ章を成さざれども趣
   に富めるものを玉屑として拾ひ得て試み
   に次に示さんか。

[やぶちゃん注:ここで佐藤が「その他單獨の短章にして作者自身×印を以て題に代へたる作十章ある」と言っているのはやや問題がある。確かに佐藤は「こは完作として既に全集中に収錄されある」と述べているから、現在の芥川龍之介の詩歌として旧全集の詩歌パート或いは断片に収録されているものを指している。しかし現在は「作者自身×印を以て題に代へたる作」は数作しかなく、旧全集時代に既に仮題や断片という呼称で載せられてしまい、佐藤が言っているものが現在の旧全集に載っているものと完全一致し、漏れがない、とは誰も断言出来ないという点で問題なのである。さらにお気づきになった方もおられると思うが、この部分は前の佐藤の解説の流れから言うと、最早、所在不明となった「第一號」ノートの中の詩を言っているように読めてしまうのである。そうすると、「ただ二三句のみに止まりて未だ章を成さざれども趣に富めるものを玉屑として拾ひ得て試みに次に示さんか」という文句は、素直に読むと、「第一號」ノートの中にそのようなものがあるように読めてしまうという点である。但し、以下で佐藤が引くのは、実は新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート1』、佐藤が言う「第二號」ノートのものではある。佐藤はここでそうした厳密な物謂いをしなかったのだというだけのことであれば、それはそれでよい。しかしだからこそ、「第一號」ノートを喪失している我々は、原「澄江堂遺珠」の全貌を見てはいないのかも知れないという可能性を、やはり残すとも言えるのである。]

栴檀の木の花ふるふ
花ふるふ夜の水明り
水明りにもさしぐめる
さしぐめる眼は        

こぼるる藤に月させど
心は        

しみらに雪はふりしきる
         秋の薔薇に

[やぶちゃん注:「しみらに」は「終(しみ)らに」という副詞で、一日中、間断なく。絶えずひっきりなしに、の意。]

   この類なほ入念にこれを求めなば、さすが
   に一台の名匠が筆端より出でし字々句々
   皆その片鱗神采陸離たらざるはなく、ただ
   に二三にして足るべからず、就中、

[やぶちゃん注:「神采」「しんさい」と読み、原義は精神と姿であるが、特に優れた風貌の意で用いる。神彩。「陸離」は、美しく光りきらめくさま。]

ゆふべととなれば海原に
波は音なく
君があたりの
ただほのぼのと見入りたる

死なんと思ひし

入日はゆる空の中
涙は落        

部屋ぬちにゆうべはきたり
椅子つくゑあるは花瓶はながめ
ものみをはうつつにあらぬ(この三行消)

[やぶちゃん注:この三篇はとんでもない詩篇なのである。何故か?――これは現在、旧全集中にも、また新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』にも、如何なる芥川龍之介の「詩歌」集成の中にも――見出すことが出来ない文字列だからである!――佐藤はこれらを何から引用したのか? 新全集が佐藤の言う「第二號」「第三號」と同一なのだとすれば、幻の「第一號」の可能性しかない。若しくは実は新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の言う『ノート1・2』というのは完本ではない可能性もある――ということになるのではあるまいか? 識者の見解を俟つものではあるが、やはり「澄江堂遺珠」は永遠の夢魔なのではあるまいか?]

   これらの句はやや長き一篇の連續的碎片
   かとも見るべく、一頁中に或は三行或は
   三四行置きに散記せるもの、或は故人が「死と
   戲れたり」と稱する鵠沼の寓居の一夕を
   詠出せんとせしに非ざるかを疑はしめて
   唐突たる「死なんと思ひし」の一句は作者が
   後日の「美しけれどそは悲しき﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆」かの自裁あ
   るを以てか、慄然として人を寒からしむ。
   かく閲し來れば一把の未定詩稿は故人が
   心中の消息を傳へて餘りあり。語らずし
   て愁なきに似たらし故人が雙眸に似て幽
   麗典雅なるその遺詩は最も雄辯なる告白
   者に優るの觀を呈するに非ずや。
   擱筆せんとして感あり、乃ち拙詩一篇を附
   記す。

   友が歌草搔き集め
   搔きあつめつつ思ふかな
   みやび男とのみおもひしを、
   たとへばわれらもののふの
   戰の庭に倒れたる
   君を見出でて紅にそむ
   君が傷手をしらべ見るかと。

      昭和辛未十二月十四日夕、春夫記す。



 卷尾に

 芥川さんから親しく枚正を託された最後のものは「三つの寶」であつた。その中に讀み落した活字が一つあった。「魔術」の中に「骨牌」とか「金貨」とかいふ語があつて、その次に「札」といふ字が出て來るのでルビが「さつ」となつてゐたのを看落したのである。佐藤春夫さんが「誤植を一つ發見して直して置いた」と序文に書いてゐるのは之を指してゐる。今その佐藤さんから遺篇の枚正を託されて感慨の切なるものを覺える。
 校正刷を讀みながら心づいた文字二三を左に摘記して置く。
 「はしがき」中に「本誌」とあるのは「古東多万」のことで、第一號から第三號に亙つて連載されたものに新に補正を加へたものである。
 二十三頁一行の「夾竹桃」は原本には「杏竹桃」とあつたものを編者が訂正したのである。
 三十三頁四行、四十頁二行、同四行、同七行、四十四頁七行、六十七頁一行、六十七頁一行、同五行、七十七頁四行、七十八頁三行の「ゆうべ」は明かに「ゆふべ」の書損であると推測する。芥川さんは他の述作に於て決して「夕」の場合に「昨夜」の假名遣を用ゐてゐない。
 四十八頁四行の「眠ぬ」は「寢ぬ」の意に用ゐたものである。書損と看られぬこともない。
 五十二頁五行「露路」は「露地」と書く意志であつたものと判ぜられる。但し「地」の字では「路」の感じが出ないと芥川さんが考へてゐたかも知れないが、最初に「お時宜」と書いたものを後に私が注意したので「お時儀」と改めたことから推考すると、恐らくは「露地」と書いただらうと思はれる。
 五十二頁七行の「雁皮」は事實から看て明かに「眼皮」の誤書である。雁皮は製紙の原料とする灌木で、鉢植ゑとして花を賞することは殆ど罕な植物である。眼皮は多年生草本で、達磨大師が九年面壁の際に睡魔の侵すことを憂へて自ら上下の目葢を剪つて地に棄てたのが花に化したのだと傳へられてゐる。花瓣は肉赤色で細長い。
 六十頁七行の「仄けき」は「かそけき」と讀むのであらう。「丸善の二階」と題する短歌には「幽けみ」と「幽」の字が用ゐてある。「仄」の字を「かすか」と用ゐた例は芥川さんの他の作には無い所である。
 旁點の箇所は前後の文字の異同に對して讀者の注意を喚ばんが爲に編者の加へたものである。
 扉の「澄江堂遺珠」の五文字は朝鮮古銅活字より採取したもの。見返し及び箱貼りは原本の部分を複寫して應用したものである。
     昭和七年十月三十一日
                  神  代  種  亮

[やぶちゃん注:筆者「神代種亮」(明治16(1883)年~昭和10(1935)年)は「こうじろたねすけ」と読む。龍之介より九歳上。書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた。芥川は作品集の刊行時には彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。彼をよく知らない方から見ると、幾ら親しかったとは言え、芥川龍之介のような大家の遺稿集の跋文を何故、校正担当者が書いているのかと不審に思われることであろう。またこの「卷尾に」の内容も、文字通り校正を終えた「卷尾に」という内容で一般的な遺稿集の追悼の意を含んだ跋文とは趣きを異にしている。正直、変な跋であると私は感ずる。そもそもが『校正の神様』という呼称が胡散臭い。森洋介氏のサイト「書庫 或いは、集藏體 archive」の中の「校正癖 あるいはコレクトマニア綺譚」の記載が彼の実体を良く伝えてくれる。例えばその引用では、『なぜ、校正の神様なのか? 頼まれないのに、大作家の著書をつぶさに点検し、誤字や誤植を見つけては、その作家に送りつけた。大作家を始め数多くの作家を知己に持ってゐたのはこの為めであった。作家たちは、神代の力量を認めて、次の著作には彼の校正を求め、自然と校正に関する権威といふ風に扱はれ出し、何時か神様の尊称を呈上された』(廣瀬千香「私の荷風記」)とあり、『神代種亮には逍遥や荷風と格別に昵懇なのだと、装う癖が度を過ぎて強かったのではないか』と推察され、神代はまさに『校正家、とでも言うより仕方のない畸人伝中の人。校正の名人と自称して知名の文士や学者などに擦り寄り、ひとかど文人として振舞う、この世界に何時の時代にもよくある型タイプである』(谷沢永一「文豪たちの大喧嘩――鷗外・逍遥・樗牛」)と酷評されてある。但し、筆者の森氏はこれらの批判に対し、『なるほど、多分それが一半ではあったらう。特に後年、人たる身で神樣呼ばはりされるやうになってはつけ上がらずにゐる方が難しからう(それゆゑ後には荷風からも疎んじられたりする)。けれど、取り卷き連の知友氣取りはよくあることでも名士に近づくに校正を以てすることは誰でも能く爲す所ではないし、はじめ頼まれもせぬうちから正誤を送りつけた初心までを賣名心のみと取るのは酷である。それは作家に取り入る魂膽もあったかしれないが、他面で校正者の性分として、思惑拔きに、間違ひを見つけると默ってをられないといふことがある。それが愛讀する書であれば、なほさら。むしろ普通は著者に誤謬を細かく指摘すれば嫌はれかねぬものを、歡迎されぬと知りながら訂さずにおかない、已むに已まれぬこの氣性。それが、校正癖といふものではないか。必也正名乎かならずやなをたださんか(『論語』子路第十三)』と綴られ、神代を『讀書人の業と言ふべき』『コレクトマニア correctomania――即ち校正癖』の持ち主であったのだと位置づけておられる。一つの中立的な評価というべきであろう。但し、冥界の芥川龍之介が、神代が「澄江堂遺珠」の跋を書いた事実をどう思っているかを考えるとやや気持ちとしては複雑である。確かに芥川の諸作品集の校正や彼の「近代日本文芸読本」の影に彼の姿が親しげに見え隠れすることは事実である。しかし例えば、大正13(1924)年8月19日附小穴一游亭(隆一)宛(旧全集書簡番号一二三六)には、神代が校正した前日公刊された自身の短編作品集「黄雀風」(新潮社刊)に対して、『黄雀風一讀。神代の校正に少々憤慨してゐる』と記している。作者自身が『憤慨してゐる』というのは明らかに神代が原文を弄ったり、とんでもない思い込みのルビを附してあったものとしか思われず、そのような越権行為を無断で平気で確信犯でやってしまう校正者は、これは「神様」どころか「校正職不適格者」であることは最早、言を俟たない。
「三つの寶」没後の昭和3(1927)年6月20日改造社刊。遺作ながら、芥川龍之介唯一の童話集となった。佐藤春夫の序文(後に全文を掲げる)や装幀挿画を担当した小穴隆一の跋を読むと、この作品集の企画が芥川龍之介生前に行われていたことが明記されており、二人ともに龍之介自身もこの本の出るのを樂しみにしていたことを記している。小穴跋には『芥川さんと私がいまから三年前に計畫したものであ』ると企画期日も明記されているが、現在の諸研究ではこの作品集の企画時期は特定されていない。なお、小穴の跋は子どもに向けて書いており、『著者の、芥川龍之介は、この本が出來あがらないうちに病氣のために死にました』と記しているのが、哀感をそそる。収録作品は「白」「蜘蛛の糸」「魔術」「杜子春」「アグニの神」「三つの宝」の六篇である。小穴の挿画が出色。
『その中に讀み落した活字が一つあった。「魔術」の中に「骨牌」とか「金貨」とかいふ語があつて、その次に「札」といふ字が出て來るのでルビが「さつ」となつてゐたのを看落したのである』これは「魔術」(リンク先は私の電子テクスト)の後半部で主人公が「骨牌かるた」(トランプ)をするシークエンスに出る三ヶ所の「ふだ」(カード・手札てふだ)の語を指す(この三箇所総てか一箇所かは不明。因みに調べてみると「魔術」には「骨牌机かるたづくゑ」という文字列があるが、ここに記された内容とは異なるし、「机」を「札」とやらかしたものを見落としていたら、幾らなんでも「校正の神様」も堕天するからあり得ない)。あまり知られている事実は思われないが、文学作品の初出ルビというのは、実は泉鏡花のように作者自身が総ルビの原稿を書くことは極めて稀れであり、作者自身が特に難読若しくは誤読防止のために特に明記した場合を除き、殆んどは校正者が附していたのである。
『佐藤春夫さんが「誤植を一つ發見して直して置いた」と序文に書いてゐるのは之を指してゐる』以下、佐藤春夫の序(独立頁大標題は「序に代えて」で見出し題が「他界へのハガキ」である)全文を示す。底本は「名著復刻 日本児童文学館」(昭和47(1972)年ほるぷ社刊)の復刻版「三つの寶」を用いた。但し、底本は総ルビであるが、誤読の虞れは殆んどないと判断し、二箇所を除き略してある)。
   *

 序に代へて

他界へのハガキ
  芥川君
  君の立派な書物が出來上る。君はこの本の出るのを樂しみにしてゐたといふではないか。君はなぜ、せめては、この本の出るまで待つてはゐなかつたのだ。さうして又なぜ、ここへ君自身のぺンで序文を書かなかつたのだ。君が自分で書かないばかりに、僕にこんな氣の利かないことを書かれて了ふぢやないか。だが、僕だつて困るのだよ。君の遺族や小穴君などがそれを求めるけれど、君の本を飾れるやうなことが僕に書けるものか。でも僕はこの本のためにたつた一つだけは手柄をしたよ。それはね、これの投了の校正刷を讀んでゐて誤植を一つ發見して直して置いた事だ。尤もその手柄と、こんなことを卷頭に書いて君の美しい本ときたなくする罪とでは、差引にならないかも知れない。口惜くやしかつたら出て來て不足を云ひたまへ。それともこの文章を僕は今夜枕もとへ置いて置くから、これで惡かつたら、どう書いたがいいか、て一つそれを僕に教へてくれたまへ。ヸリアム・ブレイクの兄弟がヸリヤムに對してしたやうに。君はもう我々には用はないかも知れないけれど、僕は一ぺん君に逢ひたいと思つてゐる。逢つて話したい。でも、僕の方からはさう手輕るには――君がやつたやうに思ひ切つては君のところへ出かけられない。だから君から一度來てもらひ度いと思ふ――夢にでも現にでも。君の嫌だつた犬は寢室には入れないで置くから。犬と言へば君は、犬好きの坊ちやんの名前に僕の名を使つたね。それを君が書きながら一瞬間、君が僕のことを思つてくれた記録があるやうで、僕にはそれがへんにうれしい。ハガキだからけふはこれだけ。そのうち君に宛ててもつと長く書かうよ。
 下界では昭和二年十月十日の夜   佐 藤 春 夫
   *
この「他界へのハガキ」に二ヶ所だけ注しておく。
・「ヸリアム・ブレイクの兄弟がヸリヤムに對してしたやうに」サイト「Digital English and American Poetry Archive」の「ブレイクの生涯」に、ウィリアムは実弟ロバートに彫版術などを教えたが、『まもなく病死する。ロバートが亡くなってから、ブレイクはロバートの霊が天井を抜けて昇天するのを見たと言っている』とある。この辺のことを指すか。
・「犬好きの坊ちやんの名前に僕の名を使つたね」本作品集冒頭にも載る「白」(リンク先は私の「□旧全集版及び■作品集『三つの寶』版」電子テクスト)の主人公は「春夫」である。

『最初に「お時宜」と書いたものを後に私が注意したので「お時儀」と改めたことから推考すると、恐らくは「露地」と書いただらうと思はれる』これは恐ろしく傲慢な発言である。こんな跋文は私なら御免蒙りたい。
『五十二頁七行の「雁皮」は事實から看て明かに「眼皮」の誤書である。雁皮は製紙の原料とする灌木で、鉢植ゑとして花を賞することは殆ど罕な植物である。眼皮は多年生草本で、達磨大師が九年面壁の際に睡魔の侵すことを憂へて自ら上下の目葢を剪つて地に棄てたのが花に化したのだと傳へられてゐる。花瓣は肉赤色で細長い』ともかくも厭な感じの跋ではあるが、これだけは目から鱗であった。詳しくは前掲の、
   汝と住むべくは下町の
   晝は寂しき露路の奥
   古簾垂れたる窓の上に
   鉢の雁皮も花さかむ
             戲れに⑵
に附した私の注(これに続く佐藤の評言の後に附してある)を参照されたい。
『「丸善の二階」と題する短歌には「幽けみ」と「幽」の字が用ゐてある』この一首は、大正11(1922)年3月発行の『中央公論』の「現代芸術家餘技集」の大見出しのもと、「芥川龍之介」の署名で掲載された「我鬼抄」の短歌パート(他に俳句30句と画賛2)に載る、

  丸善の二階
しぐれふる町をかそけみここにして海彼かいひの本をめでにけるかも

である。これは葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」には、

  丸善の二階
しぐれ降る町を靜けみ此處ここにして海彼かいひの本を愛でにけるかも

の形で載る。「靜けみ」は「静かなので」の意(但し、これは「しづけみ」と読むのが普通で「かそけみ」とは読まないであろう)。「み」は接尾語で形容詞語幹に付いて原因理由を表す。葛巻末尾に『(大正八年頃-大正十二年頃 未発表)』と創作推定年が示されているから、後者が先行作か改案かは不明である。以上については私の「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集」を参照されたい。
「朝鮮古銅活字」古活字版の銅活字のこと。但し、金属業者間では表面の劣化がない非情に品質の良い銅材を上銅・上故銅と呼ぶが、「故」は縁起がよくないとして「古銅」と表記するらしい。さすれば、これは「古い」意味以外に「上質の」の意も含まれているようでり、銅活字自体が非常に高価なものであったろうから、朝鮮古銅活字自体はそうした稀少価値のブランド・ステイタスも持っているものなのであろう。]



       圖版目次

     一 白衣像   小穴隆一筆
     一 南支漫遊中驢背の著者
     一 漫畫筆蹟
     一 詩稿筆蹟



                  (下島製本)
昭和八年三月十五日印刷    定價金貮圓拾錢
昭和八年三月二十日發行

          著者   芥川龍之介
          編者   佐藤春夫
               東京市神田區一ツ橋通町三番地
  (佐藤印)   發行者  岩波茂雄
               東京市神田區錦町三丁目十七番地
          印刷者  白井赫太郎
               東京市神田區一ツ橋通町三番地
          發行所  岩波書店

[やぶちゃん注:奥附。底本では「(下島製本)」を除く全体が黒枠で囲われている。佐藤の印は岩波の社票「種蒔く人」の印刷物の上に捺印されてある。以下、岩波書店刊行の芥川龍之介の「西方の人」「大導寺信輔の半生」「文藝的な、餘りに文藝的な」(以上は単行本)「偸盗」「侏儒の言葉」(以上二冊は岩波文庫版)の広告が各解説附きで一頁宛に続くが、略す。]


芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯

 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.

 附やぶちゃん注 完