やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ
鬼火へ


白 □旧全集版 及び ■作品集『三つの寶』版  芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年八月発行の雑誌『女性改造』に掲載された。底本は「□旧全集版」は岩波版旧全集(初出誌底本)を、「■作品集『三つの寶』版」は昭和四七(一九七二)年ほるぷ社刊「名著復刻 日本児童文学館」の復刻版を用いた。
 芥川龍之介作・小穴(おあな)隆一畫『三つの寶』は、芥川龍之介の死後、昭和三(一六二八)年六月に改造社より刊行された芥川龍之介の代表的童話六篇(「白」・「蜘蛛の糸」「魔術」「杜子春」・「アグニの神」・「三つの寶」。リンク先は私の正字正仮名電子テクスト)を合わせた童話集であるが、「白」はその巻頭を飾る作品である。その冒頭の「序に代へて」は佐藤春夫の筆になる「他界へのハガキ」と更に標題し、「芥川君」と始まる手紙文で頗る印象的なものであるが、その中で佐藤は『君はこの本の出るのを楽しみにしてゐたといふではないか。君はなぜ、せめては、この本が出るまで待ってはゐなかつたのだ。』と書く。そうして最後に『……君は我々にはもう用はないかも知れないけれど、僕は一ぺん君に逢ひたいと思つてゐる。逢つて話したい。でも僕のはうから手輕には――君がやつたやうに思ひ切つては君のところへ出かけられない。だから君から一度來てもら度と思ふ――夢にでも現にでも。君の嫌だつた犬は寢室には入れないで置くから。犬と言へば君は、犬好きの坊ちやんの名前に僕の名を使つたね。それを君が書きながら、一瞬間、君が僕のことを思つてくれた記憶があるようで、僕にはそれがたいへんにうれしい。ハガキだからけふはこれだけ。そのうち君に宛ててもつと長く書かうよ。』と、本作「白」の登場人物少年春夫に触れて愛情の籠もったコーダとなっている(末尾には『下界では昭和二年十月十日の夜』と、最後のクレジットにまで気が効いている)。因みに、末尾「跋」文は本作品集刊行に尽力し、挿絵も描いた芥川の畏友小穴隆一の手になるものであるが、そこでは『作者の、芥川龍之介は、この本が出來上あがらないうちに病氣のために死にました。』と幼年の読者を配慮した優しい筆致である。最後に小穴は『私は、みなさんが私共の歲になつてから、この本をお讀みになつたあなたがたの時代は餘計にたのしかつたと思はれやしないか、さう思ふから三つの寶の出來上がつたことは愉快です。』(改行)『どうか』、あなたがたは、三つの寶のなかの王子のやうに、お姬樣のやうに、この世のなかに、信じ合ひ助けあつて行つて下さい。』と記している(クレジットは『昭和二年十月は廿四日朝』とある)。【二〇二〇年四月十一日追記】以上の佐藤(私はブログ・カテゴリ「佐藤春夫」で著作権満了となった彼の著作の幾つかを電子化注している)と小穴(私はやはりブログ・カテゴリ「芥川龍之介盟友 小穴隆一」で著作権満了となった私の所持する彼の著作物を電子化注している)の序文と跋文は「■作品集『三つの寶』版」の「白」の前後に恣意的に挿入して電子化した。

 底本はいずれも総ルビ(前者は数字の一部にルビがない通常の総ルビで、後者は非常に珍しく子供向けに数字にまでルビが入っている)であるが、読みの振れるもの等に限って禁欲的に当該語句の後に( )で表記した。なお、「□旧全集版」テクストの内、

・「二」本文中の「黑塀(くろべい)」「黑塀(くろへい)」のルビの混在

・「二」の終わり近くの「とうとう」(底本では後半は踊り字「〱」。これは『三つの寶』版でも踊り字でない「とうとう」で一緒である。歴史的仮名遣は正しくは「たうとう」である。因みに、『三つの寶』版はそもそもが「々」「ゝ」などの踊り字さえも一切使用していない子供に向けた丁寧な表記となっているのである)

・「三」の第一段落中の「あの客待ちの自動車のように」の「ように」

・「三」の仔犬ナポレオンの台詞中の「カレエ、ライスだの、」の「カレエ」の後の読点

・「四」の『朝日日日新聞』記事末尾の「で出來ず」の「で」

・「四」の『東京朝日新聞』記事中の「エドワアド、バアクレエ氏」の「エドワアド」の後の読点

・「四」の『國民新聞』中の地名「上河内」の表記(これは『三つの寶』版でも同じ)

・「四」の『讀賣新聞』中の学名表記「ルプス、ヂガンテイクス」の「ルプス」の後の読点

・「五」の同じく「とうとう」(但し、ここは踊り字ではない。『三つの寶』版も同じ)

・「五」の「自殺しやう」(歴史的仮名遣は「自殺しよう」でよい)

などは、総てママである。更に底本校異によれば、昭和九(一六三四)年~昭和一〇(一九三五)年発行の岩波の通称「普及版全集」では、

「二」の最終行の

「白はため息を洩らした儘、少時は唯電柱の下にぼんやり足をとめてゐました。」

「白はため息を洩らした儘、少時は唯電柱の下にぼんやり空を眺めてゐました。」

とあり、同様に、

「四」の最終行(『讀賣新聞』記事最終行)

「小田原署長を相手どつた告訴を起すといきまいてゐる。」

も普及版全集では、

「小田原署長を相手どつた告訴を起すといきまいてゐる。等、等、等。」

となっているとする。そしてその違いが「■作品集『三つの寶』版」と類似して現れていることから(同一ではない)、普及版全集の「白」は作品集『三つの寶』を底本の一つとして参考使用したものではないかと私には推定される。しかし、例えば、全集版では「二」の第二文の「𢌞(まは)りさへ」に漢字を当てていながら、同じ「二」の内の「跳ねまはつたりしながら、一生懸命に吠え立てました」の部分ではひらがなとなっているのに対して、作品集版では二ヶ所ともに「廻」が当てられてあるなど、用字に不審点がままある。されば、テクストとして区別化するため、「■作品集『三つの寶』版」では底本の改ページ部分に【改頁】を挿入した。『三つの寶』は実際には天地左右に黄土色の二・五センチメートル幅の飾罫(額縁型)が附いている。
 但し、私は、本作の芥川龍之介の原型は前者の旧岩波版全集のそれに近いものであると考えてよいようには思われる。普及版全集版及び作品集『三つの寶』版は芥川龍之介以外の第三者によって一部が書き直されている可能性が高いと私は考えている。

 簡単に注を附しておくと、この「四」の『讀賣新聞』中に現れる「シベリヤ產大狼」の「ルプス、ヂガンテイクス」なる学名は恐らく“Lupus giganticus”と思われるが、このような正式な学名を持つオオカミは実在しないものと思われる(以下の種のシノニムではある可能性がないとは言えないが、恐らく、ない)。シベリアオオカミ(別名カムチャッカオオカミは Canis Lupus Albus、ツンドラオオカミ(別名シロオオカミ)は Canis Lupus Tundarums である。また、言わずもがなであるが、本作に登場するカフエ「大正軒」、映画『義犬』等や、実在する各新聞の記事等は、総て芥川龍之介の創作に係るものである。
 本テクストは二〇一〇年芥川龍之介八十四回忌河童忌の記念テクストとして、また本作が好きな、『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み』で私の有能な助手として活躍してくれた現役東大生 Tark C60. O. Fullerene 君へのささやかなプレゼントとしても作成した(現在、理系学生として極めて優秀な成績を修めながら、何と文系に色気を持ち始め、どうもこの私の付けた渾名を改名せねばならぬ可能性が高くなってきたらしいが【二〇二〇年四月十一日追記:その後、彼は果敢に文転した。今だから言うが、私はそれに積極的に賛同した一人である。】)。現時点でネット上には、ここに示した「□旧全集版」や「■作品集『三つの寶』版」に相当する、芥川龍之介が書いたものに最も近い、或いは芥川龍之介が望んだと思われるものに最も近い(と佐藤春夫や小穴隆一が思った)童話「白」のテクストは、存在しないはずであると秘かに自負するものである。【二〇一〇年七月二十四日八十四回忌河童忌の日に】

とうにパブリック・ドメインになった小穴隆一の二枚の挿絵を挿入した。もっと早くにやるべきはずだったのだが、忘れていた。【二〇二〇年四月十日 Coronavirus disease 2019(COVID-19) による神奈川県「緊急事態宣言」の四日目に】【二〇二〇年四月十一日追記:以上の私の注の一部を改稿し、以下の本文も厳密に再校閲して複数あった誤りを正した。斜線を用いた踊り字は実は私は生理的に甚だ嫌いなので(旧全集版にのみあり、「三つの寶」版には使用されていない)、今回、正字に代えた。】]



□旧全集版

  

       一

 或春の午(ひる)過ぎです。白と云ふ犬は土を嗅ぎ嗅ぎ、靜かな往來を步いてゐました。狹い往來の兩側にはずつと芽をふいた生け垣が續き、その又生け垣の間にはちらほら櫻なども咲いてゐます。白は生垣に沿ひながら、ふと或橫町へ曲りました。が、そちらへ曲つたと思ふと、さもびつくりしたやうに、突然立ち止つてしまひました。

 それも無理はありません。その橫町の七八間先には印半纏を着た犬殺(いぬころ)しが一人、罠を後(うし)ろに隱したまま、一匹の黑犬(くろいぬ)を狙つてゐるのです。しかも黑犬は何も知らずに、この犬殺しの投げてくれたパンか何かを食べてゐるのです。けれども白が驚いたのはそのせゐばかりではありません。見知らぬ犬ならば兎も角も、今犬殺しに狙はれてゐるのはお隣の飼ひ犬の黑なのです。每朝顏を合せる度にお互の鼻の匂を嗅ぎ合ふ、大の仲よしの黑なのです。

 白は思はず大聲に、「黑君! あぶない!」と叫ばうとしました。が、その拍子に犬殺しはじろりと白へ目をやりました。「教へて見ろ! 貴樣から先へ罠にかけるぞ。」――犬殺しの目にはありありとさう云ふ嚇(おどか)しが浮んでゐます。白は餘りの恐しさに、思はず吠えるのを忘れました。いや、忘れたばかりではありません。一刻もぢつとしてはゐられぬ程、臆病風が立ち出したのです。白は犬殺しに目を配りながら、じりじり後すざりを始めました。さうして又生け垣の蔭に犬殺しの姿が隱れるが早いか、可哀さうな黑を殘した儘、一目散に逃げ出しました。

 その途端に罠が飛んだのでせう。續けさまにけたゝましい黑の鳴き聲が聞えました。しかし白は引き返すどころか、足を止めるけしきもありません。ぬかるみを飛び越え、石ころを蹴散らし、往來止めの繩を擦り拔け、五味ための箱を引つくり返し、振り向きもせずに逃げ續けました。御覽なさい。坂を駈け下りるのを! そら、自動車に轢かれさうになりました! 白はもう命の助かりたさに夢中になつてゐるのかも知れません。いや、白の耳の底には未に黑の鳴き聲が虻のやうに唸つてゐるのです。

 「きやあん。きやあん。助けてくれえ! きやあん。きやあん。助けてくれえ!」

       二

 白はやつと喘ぎ喘ぎ、主人の家へ歸つて來ました。黑塀(くろべい)の下の犬くゞりを拔け、物置き小屋を𢌞りさへすれば、犬小屋のある裏庭です。白は殆ど風のやうに、裏庭の芝生へ駈けこみました。もう此處(ここ)迄逃げて來れば、罠にかゝる心配はありません。おまけに靑(あを)あをした芝生には、幸ひお孃さんや坊ちやんもボオル投げをして遊んでゐます。それを見た白の嬉しさは何と云へば好(い)いのでせう? 白は尻つ尾を振りながら、一足飛びにそこへ飛んで行きました。

 「お孃さん! 坊ちやん! 今日は犬殺しに遇ひましたよ」

 白は二人を見上げると、息もつかずにかう云ひました。(尤もお孃さんや坊ちやんには犬の言葉はわかりませんから、わんわんと聞えるだけなのです。)しかし今日はどうしたのか、お孃さんも坊ちやんも唯呆氣(あつけ)にとられたやうに、頭さへ撫でてはくれません。白は不思議に思ひながらも、もう一度二人に話しかけました。

 「お孃さん! あなたは犬殺しを御存知ですか? それは恐ろしいやつですよ。坊ちやん! わたしは助かりましたが、お隣の黑君は摑まりましたぜ。」

 それでもお孃さんや坊ちやんは顏を見合せてゐるばかりです。おまけに二人は少時(しばらく)すると、こんな妙なことさへ云ひ出すのです。

 「何處(どこ)の犬でせう? 春夫さん。」

 「何處の犬だらう? 姉さん。」

 何處の犬! 今度は白の方が呆氣にとられました。(白にはお孃さんや坊ちやんの言葉もちやんと聞きわけることが出來るのです。我々は犬の言葉がわからないものですから、犬もやはり我々の言葉はわからないやうに考へてゐますが、實際はさうではありません。犬が藝を覺えるのは我々の言葉がわかるからです。しかし我々は犬の言葉を聞きわけることが出來ませんから、闇の中を見通すことだの、かすかな匂を嗅ぎ當てることだの、犬の教へてくれる藝は一つも覺えることが出來ません。)

 「何處の犬とはどうしたのです? わたしですよ! 白ですよ!」

 けれどもお孃さんは不相變(あひかはらず)氣味惡そうに白を眺めてゐます。

 「お隣の黑の兄弟かしら?」

 「黑の兄弟かも知れないね。」坊ちやんもバツトをおもちやにしながら、考へ深そうに答へました。「こいつも體中まつ黑だから。」

 白は急に背中の毛が逆立つやうに感じました。まつ黑! そんな筈はありません。白はまだ仔犬の時から、牛乳のやうに白かつたのですから。しかし今前足を見ると、――いや、前足ばかりではありません。胸も、腹も、後足(あとあし)も、すらりと上品に延びた尻つ尾も、みんな鍋底のやうにまつ黑なのです。まつ黑! まつ黑! 白は氣でも違つたやうに、飛び上つたり、跳ねまはつたりしながら、一生懸命に吠え立てました。

 「あら、どうしませう? 春夫さん。この犬はきつと狂犬だわよ。」

 お孃さんは其處に立ちすくんだなり、今にも泣きさうな聲を出しました。しかし坊ちやんは勇敢です。白は忽ち左の肩をぽかりとバツトに打たれました。と思ふと二度目のバツトも頭の上へ飛んで來ます。白はその下をくゞるが早いか、元來た方へ逃げ出しました。けれども今度はさつきのやうに、一町も二町も逃げ出しはしません。芝生のはづれには棕櫚(しゆろ)の木のかげに、クリイム色に塗つた犬小屋があります。白は犬小屋の前へ來ると、小さい主人たちを振り返りました。

 「お孃さん! 坊ちやん! わたしはあの白なのですよ。いくらまつ黑になつてゐても、やつぱりあの白なのですよ。」

 白の聲は何とも云はれぬ悲しさと怒りとに震へてゐました。けれどもお孃さんや坊ちやんにはさう云ふ白の心もちものみこめる筈はありません。現にお孃さんは憎らしさうに、「まだあすこに吠えてゐるわ。ほんたうに圖々しい野良犬ね」などと、地だんだを踏んでゐるのです。坊ちやんも、――坊ちやんは小徑の砂利を拾ふと、力一ぱい白へ投げつけました。

 「畜生! まだ愚圖々々(ぐづぐづ)してゐるな。これでもか? これでもか?」

 砂利は續けさまに飛んで來ました。中には白の耳のつけ根へ、血の滲む位(くらゐ)當つたのもあります。白はとうとう尻尾を卷き、黑塀(くろへい)の外へぬけ出しました。黑塀(くろへい)の外には春の日の光に銀の粉なを浴びた紋白蝶が一羽、氣樂さうにひらひら飛んでゐます。

 「あゝ、けふから宿無し犬になるのか?」

 白はため息を洩らした儘、少時は唯電柱の下にぼんやり足をとめてゐました。

       三

 お孃さんや坊ちやんに逐ひ出された白は東京中をうろうろ步きました。しかし何處へどうしても、忘れることの出來ないのはまつ黑になつた姿のことです。白は客の顏を映してゐる理髮店の鏡を恐れました。雨上(あめあが)りの空を映してゐる往來の水たまりを恐れました。往來の若葉を映してゐる飾り窓の硝子(がらす)を恐れました。いや、カフエのテエブルに黑ビイルを湛へてゐるコツプさへ、――けれどもそれが何になりませう? あの自動車を御覽なさい。えゝ、あの公園の外にとまつた、大きい黑塗りの自動車です。漆を光らせた自動車の車體は今こちらへ步いて來る白の姿を映しました。――はつきりと、鏡のやうに。白の姿を映すものはあの客待ちの自動車のように、至るところにある譯なのです。もしあれを見たとすれば、どんなに白は恐れるでせう。それ、白の顏を御覽なさい。白は苦しさうに唸つたと思ふと、忽ち公園の中へ駈けこみました。

 公園の中には鈴懸(すゞかけ)の若葉にかすかな風が渡つてゐます。白は頭を垂れたなり、木木の間を步いて行きました。此處には幸ひ池の外には、姿を映すものも見當りません。物音は唯白薔薇に群れる蜂の聲が聞えるばかりです。白は平和な公園の空氣に、少時は醜い黑犬になつた日ごろの悲しさも忘れてゐました。

 しかしさう云ふ幸福さへ五分と續いたかどうかわかりません。白は唯夢のやうに、ベンチの並んでゐる路ばたへ出ました。するとその路の曲り角の向うにけたゝましい犬の聲が起つたのです。

 「きやん。きやん。助けてくれえ! きやあん。きやあん。助けてくれえ!」

 白は思はず身震ひをしました。この聲は白の心の中へ、あの恐ろしい黑の最後をもう一度はつきり浮ばせたのです。白は目をつぶつたまゝ、元來た方へ逃げ出さうとしました。けれどもそれは言葉通り、ほんの一瞬の間のことです。白は凄(すさ)まじい唸り聲を洩らすと、きりりと又振り返りました。

 「きやあん。きやあん。助けてくれえ! きやあん。きやあん。助けてくれえ!」

 この聲は又白の耳にはかう云ふ言葉にも聞えるのです。

 「きやあん。きやあん。臆病ものになるな! きやあん。臆病ものになるな!」

 白は頭を低めるが早いか、聲のする方へ駈け出しました。

 けれども其處へ來て見ると、白の目の前へ現れたのは犬殺しなどではありません。唯學校の歸りらしい、洋服を着た子供が二三人、頸のまはりへ繩をつけた茶色の子犬を引きずりながら、何かわいわい騷いでゐるのです。子犬は一所懸命に引きずられまいともがきもがき、「助けてくれえ。」と繰り返してゐました。しかし子供たちはそんな聲に耳を借すけしきもありません。唯笑つたり、怒鳴つたり、或は又子犬の腹を靴で蹴つたりするばかりです。

 白は少しもためらはずに、子供たちを目がけて吠えかゝりました。不意を打たれた子供たちは驚いたの驚かないのではありません。又實際白の容子は火のやうに燃えた眼の色と云ひ、 刄物(はもの)のやうにむき出した牙の列と云ひ、今にも嚙みつくかと思ふ位(くらゐ)、恐ろしい權幕を見せてゐるのです。子供たちは四方へ逃げ散りました。中には餘り狼狽したはずみに、路ばたの花壇へ飛びこんだのもあります。白は二三間(げん)追ひかけた後(のち)、くるりと仔犬をふり返ると、叱るやうにかう聲をかけました。[やぶちゃん注:「刄物」の「刄」は底本では最終画の払いの頭に短い左払いが打たれてある字体である。]

 「さあ、俺と一しよに來い。お前の家(うち)迄送つてやるから。」

 白は元來た木々の間へ、まつしぐらに又駈けこみました。茶色の仔犬も嬉しさうに、べンチをくゞり、薔薇を蹴散らし、白に負けまいと走つて來ます。まだ頸にぶら下つた、長い繩をひきずりながら。

         *    *    *    *   

 二三時間たつた後(のち)、白は貧しいカフエの前に茶色の仔犬と佇んでゐました。晝も薄暗いカフエの中にはもう赤あかと電燈がともり、音のかすれた蓄音機は浪花節か何かやつてゐるやうです。仔犬は得意さうに尾を振りながら、かう白へ話しかけました。

 「僕は此處に住んでゐるのです。この大正軒と云ふカフエの中に。――おぢさんは何處に住んでゐるのです?」

 「おぢさんかい? おぢさんは――ずつと遠い町にゐる。」

 白は寂しさうにため息をしました。

 「ぢやもうおぢさんはうちへ歸らう。」

 「まあお待ちなさい。おじさんの御主人はやかましいのですか?」

 「御主人? なぜ又そんなことを尋ねるのだい?」

 「もし御主人がやかましくなければ、今夜は此處に泊つて行つて下さい。それから僕のお母さんにも命拾ひの御禮を云はせて下さい。僕の家(うち)には牛乳だの、カレエ、ライスだの、ビフテキだの、いろいろな御馳走があるのです。」

 「ありがたう。ありがたう。だがおぢさんは用があるから、御馳走になるのはこの次にしよう。――ぢやお前のお母さんによろしく。」

 白はちよいと空を見てから、靜かに敷石の上を步き出しました。空にはカフエの屋根のはづれに、三日月もそろそろ光り出してゐます。

 「おぢさん。おぢさん。おぢさんと云へば!」

 仔犬は悲しさうに鼻を鳴らしました。

 「ぢや名前だけ聞かして下さい。僕の名前はナポレオンと云ふのです。ナポちやんだのナポ公だのとも云はれますけれども。――おぢさんの名前は何と云ふのです?」

 「おじさんの名前は白と云ふのだよ。」

 「白――ですか? 白と云ふのは不思議ですね。おぢさんは何處も黑いぢやありませんか?」

 白は胸が一ぱいになりました。

 「それでも白と云ふのだよ。」

 「ぢや白のおぢさんと云ひませう。白のおぢさん。是非又近い内に一度來て下さい。」

 「じやナポ公、さやうなら!」

 「御機嫌好(ごきげんよ)う、白のおぢさん! さやうなら、さやうなら!」

       四

 その後(のち)の白はどうなつたか?――それは一一(いちいち)話さずとも、いろいろの新聞に傳へられてゐます。大かたどなたも御存知でせう。度々危(あやふ)い人命を救つた、勇ましい一匹の黑犬のあるのを。又一時(じ)『義犬(ぎけん)』と云ふ活動寫眞の流行したことを。あの黑犬こそ白だつたのです。しかしまだ不幸にも御存じのない方があれば、どうか下(しも)に引用した新聞の記事を讀んで下さい。

 東京日日新聞。 昨十八日(五月)午前八時四十分、奧羽線上り急行列車が田端驛附近の踏切りを通過する際、踏切り番人の過失に依り、田端一二三會社員柴山鐵太郎の長男實彦(さねひこ)(四歲)が列車の通る線路内に立ち入り、危(あやふ)く轢死を遂げようとした。その時逞しい黑犬が一匹、稻妻のやうに踏切りへ飛びこみ、目前に迫つた列車の車輪から、見事に實彦を救ひ出した。この勇敢なる黑犬は人々の立騷いでゐる間(あひだ)に何處かへ姿を隱した爲、表彰したいにもすることで出來ず、當局は大いに困つてゐる。

 東京朝日新聞。輕井澤に避暑中のアメリカ富豪エドワアド、バアクレエ氏の夫人はペルシア產の猫を寵愛してゐる。すると最近同氏の別莊へ七尺餘りの大蛇(だいじや)が現れ、ヴエランダにゐる猫を吞まうとした。其處へ見慣れぬ黑犬が一匹、突然猫を救ひに駈けつけ、二十分に亙る奮鬪の後(のち)、とうとうその大蛇を嚙み殺した。しかしこのけなげな犬は何處かへ姿を隱した爲、夫人は五千弗(ドル)の賞金を懸け、犬の行衞(ゆくゑ)を求めてゐる。

 國民新聞。日本アルプス橫斷中、一時行方不明になつた第一高等學校の生徒三名は七日(八月)上河内(かみかうち)の溫泉へ着(ちやく)した。一行は穗高山(ほだかやま)と槍ケ嶽(たけ)との間(あひだ)に途(みち)を失ひ、且(かつ)過日の暴風雨に天幕(てんと)糧食等(とう)を奪はれた爲、殆ど死を覺悟してゐた。然るに何處からか黑犬が一匹、一行のさまよつてゐた溪谷に現れ、恰(あたか)も案内をするやうに、先へ立つて步き出した。一行はこの犬の後(あと)に從ひ、一日餘り步いた後(のち)、やつと上河内へ着することが出來た。しかし犬は目の下に溫泉宿の屋根が見えると、一聲(ひとこゑ)嬉しさうに吠えたきり、もう一度もと來た熊笹(くまざゝ)の中へ姿を隱してしまつたと云ふ。一行は皆この犬が來たのは神明(しんめい)の加護だと信じてゐる。

 時事新報。十三日(九月)の名古屋市の大火は燒死者十餘名に及んだが、橫關(よこぜき)名古屋市長なども愛兒を失はうとした一人である。令息武矩(たけのり)(三歲)は如何なる家族の手落ちからか、猛火の中の二階に殘され、既に灰燼(くわいじん)とならうとしたところを、一匹の黑犬のために啣(くは)へ出された。市長は今後名古屋市に限り、野犬撲殺を禁ずると云つてゐる。

 讀賣新聞。小田原町(をだはらまち)城内(じやうない)公園に連日の人氣を集めてゐた宮城巡囘動物園のシベリヤ產大狼(おほおほかみ)は二十五日(十月)午後二時ごろ、突然巖疊(がんでふ)な檻を破り、木戶番二名を負傷させた後(のち)、箱根方面へ逸走(いつそう)した。小田原署はその爲に非常動員を行ひ、全町に亙る警戒線を布(し)いた。すると午後四時半ごろ、右の狼は十字町(じまち)に現れ、一匹の黑犬と嚙み合ひを始めた。黑犬は惡戰頗(すこぶ)る努め、ついに敵を嚙み伏せるに至つた。其處へ警戒中の巡査も駈けつけ、直ちに狼を銃殺した。この狼はルプス、ヂガンテイクスと稱し、最も兇猛な種屬であると云ふ。なほ宮城動物園主は狼の銃殺を不當とし、小田原署長を相手どつた告訴を起すといきまいてゐる。

       五

 或秋の眞夜中です。體も心も疲れ切つた白は主人の家(いへ)へ歸つて來ました。勿論お孃さんや坊ちやんはとうに床へはいつてゐます。いや、今は誰(たれ)一人起きてゐるものもありますまい。ひつそりした裏庭の芝生の上にも、唯高い棕櫚の木の梢に白い月が一輪浮んでゐるだけです。白は昔の犬小屋の前に、露に濡れた體を休めました。それから寂しい月を相手に、かういふ獨り語(ごと)を始めました。

 「お月樣! お月樣! わたしは黑君を見殺しにしました。わたしの體のまつ黑になつたのも、大かたそのせいかと思つてゐます。しかしわたしはお孃さんや坊ちやんにお別れ申してから、あらゆる危險と戰つて來ました。それは一つには何かの拍子に煤(すゝ)よりも黑い體を見ると、臆病を耻じる氣が起つたからです。けれどもしまひには黑いのがいやさに、――この黑いわたしを殺したさに、或は火の中へ飛びこんだり、或は又狼と戰つたりしました。が、不思議にもわたしの命はどんな强敵にも奪はれません。死もわたしの顏を見ると、何處かへ逃げ去つてしまふのです。わたしはとうとう苦しさの餘り、自殺しやうと決心しました。唯自殺をするにつけても、唯一目會ひたいのは可哀がつて下すつた御主人です。勿論お孃さんや坊ちやんはあしたにもわたしの姿を見ると、きつと又野良犬と思ふでせう。ことによれば坊ちやんのバツトに打ち殺されてしまふかも知れません。しかしそれでも本望です。お月樣! お月樣! わたしは御主人の顏を見る外に、何も願ふことはありません。その爲に今夜ははるばるともう一度此處へ歸つて來ました。どうか夜の明け次第、お孃さんや坊ちやんに會はして下さい。」

 白は獨り語(ごと)を云ひ終ると、芝生に顎をさしのべたなり、何時(いつ)かぐつすり寢入つてしまひました。

         *    *    *    *   

 「驚いたわねえ、春夫さん。」

 「どうしたんだらう? 姉さん。」

 白は小さい主人の聲に、はつと目を開きました。見ればお孃さんや坊ちやんは犬小屋の前に佇んだ儘、不思議さうに顏を見合せてゐます。白は一度擧げた目を又芝生の上へ伏せてしまひました。お孃さんや坊ちやんは白がまつ黑に變つた時にも、やはり今のやうに驚いたものです。あの時の悲しさを考へると、――白は今では歸つて來たことを後悔する氣さへ起しました。するとその途端です。坊ちやんは突然飛び上ると、大聲にかう叫びました。

 「お父さん! お母さん! 白が又歸つて來ましたよ!」

 白が! 白は思はず飛び起きました。すると逃げるとでも思つたのでせう。お孃さんは兩手を延ばしながら、しつかり白の頸を抑へました。同時に白はお孃さんの目へ、ぢつと彼の目を移しました。お孃さんの目には黑い瞳にありありと犬小屋が映つてゐます。高い棕櫚の木のかげになつたクリイム色の犬小屋が、――そんなことは當然に違ひありません。しかしその犬小屋の前には米粒程の小ささに、白い犬が一匹坐つてゐるのです。淸らかに、ほつそりと。――白は唯恍惚(くわうこつ)とこの犬の姿に見入りました。

 「あら、白は泣いてゐるわよ。」

 お孃さんは白を抱きしめた儘、坊ちやんの顏を見上げました。坊ちやんは――御覽なさい、坊ちやんの威張つてゐるのを!

 「へつ、姉さんだつて泣いてゐる癖に!」



■作品集『三つの寶』版

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通り、ここに敢えて佐藤春夫の、作品集『三つの寶』に寄せた序文を示す。序文の扉部分に「序に代へて」と表題し、それを捲ったページから見開きで載る。本文表題の「他界からのハガキ」(原本では「他界へ」のポイントが大きく、それに比して「の」は少し小さく、「ハガキ」はさらに相対的には小さいように見え、「凄ワザ!」と感心したくなったのだが、これは実際には総て同ポイントで、漢字・ひらがな「へ」と「の」の活字内での打ち出し位置・カタカナの活字面がそれぞれ異なる結果として、見かけ上そう見えるだけであった。参考までに作品集『三つの寶』の装飾なども判るので頭に画像を添えおくこととする)は底本では本文より二字分上から記されてある。総ルビであるが、読みは一部に留めた。]



他界へのハガキ
 芥川君
 君の立派な書物が出來上る。君はこの本の出るのを樂しみにしてゐたといふではないか。君はなぜ、せめては、この本の出るまで待つてはゐなかつたのだ。さうして又なぜ、ここへ君自身のペンで序文を書かなかつたのだ。君が自分で書かないばかりに、僕にこんな氣の利かないことを書かれて了(しま)ふぢやないか。だが、僕だつて困るのだよ。君の遺族や小穴(をあな)君などがそれを求めるけれど、君の本を飾れるやうなことが僕に書けるものか。でも僕はこの本のためにたつた一つだけは手柄をしたよ。それはね、これの校了の校正刷を讀んでゐて誤植を一つ發見して直(なほ)して置いた事だ。尤もその手柄と、こんなことを卷頭に書いて君の美しい本をきたなくする罪とでは、差引にならないかも知れない。口惜しかつたら出て來て不足を云ひたまへ。それともこの文章を僕は今夜枕もとへ置いて置くから、これで惡かつたら、どう書いたがいいか、來て一つそれを僕に敎へてくれたまへ。ヸリヤム・ブレイクの兄弟がヰリヤムに對してしたやうに。君はもう我々には用はないかも知れないけれど、僕は一ぺん君に逢ひたいと思つてゐる。逢つて話したい。でも、僕の方からはさう手輕(てが)るには――君がやつたやうに思ひ切つては君のところへ出かけられない。だから君から一度來てもら度(た)いと思ふ――夢にでも現(うつつ)にでも。君の嫌(きらひ)だった犬は寢室には入れないで置くから。犬と言へば君は、犬好きの坊ちやんの名前に僕の名を使つたね。それを君が書きながら一瞬間、君が僕のことを思つてくれた記錄があるやうで、僕にはそれがへんにうれしい。ハガキだからけふはこれだけ。そのうち君に宛ててもつと長く書かうよ。
  下界では昭和二年十月十日の夜      
佐 藤 春 夫



    白

【改頁】

       一

 或春の午(ひる)過ぎです。白と云ふ犬は土を嗅ぎ嗅ぎ、靜かな往來を步いてゐました。狹い往來の兩側にはずつと芽をふいた生垣(いけがき)が續き、その又生垣の間にはちらほら櫻なども咲いてゐます。白は生垣に沿ひながら、ふと或橫町へ曲りました。が、そちらへ曲つたと思ふと、さもびつくりしたやうに、突然立ち止つてしまひました。

 それも無理はありません。その橫町の七八間先には印半纏を着た犬殺(いぬころ)しが一人、罠を後に隱したまま、一匹の黑犬(くろいぬ)を狙つてゐるのです。しかも黑犬は何も知らずに、この犬殺しの投げてくれたパンか何かを食べてゐるのです。けれども白が驚いたのはそのせゐばかりではありません。見知らぬ犬ならばともかくも、今犬殺しに狙はれてゐるのはお隣の飼犬の黑なのです。每朝顏を合せる度にお互の鼻の匂を嗅ぎ合ふ、大の仲よしの黑なのです。

【改頁(見開き)】

 白は思はず大聲に「黑君! あぶない!」と叫ばうとしました。が、その拍子に犬殺しはじろりと白へ目をやりました。「教へて見ろ! 貴樣から先へ罠にかけるぞ。」――犬殺しの目にはありありとさう云ふ嚇(おどか)しが浮んでゐます。白は餘りの恐ろしさに、思はず吠えるのを忘れました。いや、忘れたばかりではありません。一刻もぢつとしてはゐられぬ程、臆病風が立ち出したのです。白は犬殺しに目を配りながら、じりじり後すざりを始めました。さうして又生垣の蔭に犬殺しの姿が隱れるが早いか、可哀さうな黑を殘したまま、一目散に逃げ出しました。

 その途端に罠が飛んだのでせう。續けさまにけたたましい黑の鳴き聲が聞えました。しかし白は引き返すどころか、足を止めるけしきもありません。ぬかるみを飛び越え、石ころを蹴散らし、往來どめの繩を擦り拔け、五味(ごみ)ための箱を引つくり返し、振り向きもせずに逃げ續けました。御覽なさい。坂を駈けおりるのを! そら、自動車に轢かれさうになりました! 白はもう命の助かりたさに夢中になつてゐるのかも知れません。いや、白の耳の底には未に黑の鳴き聲が虻のやうに唸つてゐるのです。

【改頁】

 「きやあん。きやあん。助けてくれえ! きやあん。きやあん。助けてくれえ!」

       二

 白はやつと喘ぎ喘ぎ、主人の家へ歸つて來ました。黑塀(くろべい)の下の犬くぐりを拔け、物置小屋を廻りさへすれば、犬小屋のある裏庭です。白は殆ど風のやうに、裏庭の芝生へ駈けこみました。もう此處(このところ)迄逃げて來れば、罠にかかる心配はありません。おまけに靑(あを)あをした芝生には、幸ひお孃さんや坊ちやんもボオル投げをして遊んでゐます。それを見た白の嬉しさは何と云へば好(い)いのでせう? 白は尻つ尾を振りながら、一足飛びにそこへ飛んで行きました。

「お孃さん! 坊ちやん! 今日は犬殺しに遇ひましたよ。」

 白は二人を見上げると、息もつかずにかう云ひました。(尤もお孃さんや坊ちやんには犬の言葉はわかりませんから、わんわんと聞えるだけなのです。)しかし今日はどうしたのか、お孃さんも坊ちやんも唯呆氣(あつけ)にとられたやうに、頭さへ撫でて

【改頁(見開き)】

はくれません。白は不思議に思ひながらも、もう一度二人に話しかけました。

 「お孃さん! あなたは犬殺しを御存じですか? それは恐ろしいやつですよ。坊ちやん! わたしは助かりましたが、お隣の黑君は摑まりましたぜ。」

 それでもお孃さんや坊ちやんは顏を見合せてゐるばかりです。おまけに二人は少時(しばらく)すると、こんな妙なことさへ云ひ出すのです。

 「何處(どこ)の犬でせう? 春夫さん。」

 「何處の犬だらう? 姉さん。」

 何處の犬? 今度は白の方が呆氣にとられました。(白にはお孃さんや坊ちやんの言葉もちやんと聞きわけることが出來るのです。我我は犬の言葉がわからないものですから、犬もやはり我我の言葉はわからないやうに考へてゐますが、實際はさうではありません。犬が藝を覺えるのは我我の言葉がわかるからです。しかし我我は犬の言葉を聞きわけることが出來ませんから、闇の中を見通すことだの、かすかな匂を嗅ぎ當てることだの、犬の教へてくれる藝は一つも覺えることが出來ません。)

【改頁】

 「何處の犬とはどうしたのです? わたしですよ! 白ですよ!」

 けれどもお孃さんは不相變(あひかはらず)氣味惡そうに白を眺めてゐます。

 「お隣の黑の兄弟かしら?」

 「黑の兄弟かも知れないね。」坊ちやんもバツトをおもちやにしながら、考深そうに答へました。「こいつも體中まつ黑だから。」

 白は急に背中の毛が逆立つやうに感じました。まつ黑! そんな筈はありません。白はまだ子犬の時から、牛乳のやうに白かつたのですから。しかし今前足を見ると、――いや、前足ばかりではありません。胸も、腹も、後足(あとあし)も、すらりと上品に延びた尻尾も、みんな鍋底のやうにまつ黑なのです。まつ黑! まつ黑! 白は氣でも違つたやうに、飛び上つたり、跳ね廻つたりしながら、一所懸命に吠え立てました。

 「あら、どうしませう? 春夫さん。この犬はきつと狂犬だわよ。」

 お孃さんは其處に立ちすくんだなり、今にも泣きさうな聲を出しました。しかし坊ちやんは勇敢です。白は忽ち左の肩をぽかりとバツトに打たれました。と

【改頁(見開き)】

思ふと二度目のバツトも頭の上へ飛んで來ます。白はその下をくぐるが早いか、元來た方へ逃げ出しました。けれども今度はさつきのやうに、一町も二町も逃げ出しはしません。芝生のはづれには梭櫚(しゆろ)の木のかげに、クリイム色に塗つた犬小屋があります。白は犬小屋の前へ來ると、小さい主人たちを振り返りました。

 「お孃さん! 坊ちやん! わたしはあの白なのですよ、いくらまつ黑になつてゐても、やつぱりあの白なのですよ。」

 白の聲は何とも云はれぬ悲しさと怒りとに震へてゐました。けれどもお孃さんや坊ちやんにはさう云ふ白の心もちも呑みこめる筈はありません。現にお孃さんは憎らしさうに、「まだあすこに吠えてゐるわ。ほんたうにずうずうしい野良犬ね」などと、地だんだを踏んでゐるのです。坊ちやんも、――坊ちやんは小徑の砂利を拾ふと、力一ぱい白へ投げつけました。

 「畜生! まだ愚圖愚圖(ぐづぐづ)してゐるな。これでもか? これでもか?」

 砂利は續けさまに飛んで來ました。中には白の耳のつけ根へ、血の滲む位(くらゐ)當つたのもあります。白はとうとう尻尾を卷き、黑塀(くろべい)の外へぬけ出しました。黑塀(くろべい)の

【改頁】

外には春の日の光に銀の粉(こな)を浴びた紋白蝶が一羽、氣樂さうにひらひら飛んでゐます。

 「ああ、けふから宿無し犬になるのか?」

 白はため息を洩らしたまま、少時は唯電柱の下にぼんやり空を眺めてゐました。

       三

 お孃さんや坊ちやんに逐ひ出された白は東京中をうろうろ步きました。しかし何處へどうしても、忘れることの出來ないのはまつ黑になつた姿のことです。白は客の顏を映してゐる理髮店の鏡を恐れました。雨上(あめあが)りの空を映してゐる往來の水たまりを恐れました。往來の若葉を映してゐる飾り窓の硝子(がらす)を恐れました。いや、カフエのテエブルに黑ビイルを湛へてゐるコツプさへ、――けれどもそれが何になりませう? あの自動車を御覽なさい。ええ、あの公園の外にとまつた、大きい黑塗りの自動車です。漆を光らせた自動車の車體は今こちらへ步いて來る

【改頁(見開き)】

[やぶちゃん注:この左頁に小穴隆一の以下の「茶色の子犬」の画がある。]


【改頁】

[やぶちゃん注:この右頁は白紙である。]

白の姿を映しました。――はつきりと、鏡のやうに。白の姿を映すものはあの客待の自動車のように、到るところにある訣(わけ)なのです。もしあれを見たとすれば、どんなに白は恐れるでせう。そら、白の顏を御覽なさい。白は苦しさうに唸つたと思ふと忽ち公園の中へ駈けこみました。

 公園の中には鈴懸(すずかけ)の若葉にかすかな風が渡つてゐます。白は頭を垂れたなり、木木の間を步いて行きました。此處(ここ)には幸ひ池の外には、姿を映すものも見當りません。物音は唯白薔薇に群れる蜂の聲が聞えるばかりです。白は平和な公園の空氣に、少時は醜い黑犬になつた日ごろの悲しさも忘れてゐました。

 しかしさう云ふ幸福さへ五分と續いたかどうかわかりません。白は唯夢のやうに、ベンチの竝(なら)んでゐる路ばたへ出ました。するとその路の曲り角の向うにけたたましい犬の聲が起つたのです。

 「きやん。きやん。助けてくれえ! きやあん。きやあん。助けてくれえ!」

 白は思はず身震ひをしました。この聲は白の心の中へ、あの恐ろしい黑の最期をもう一度はつきり浮ばせたのです。白は目をつぶつたまま、元來た方へ逃げ出

【改頁】

さうとしました。けれどもそれは言葉通り、ほんの一瞬の間のことです。白は凄(すさま)じい唸り聲を洩らすと、きりりと又振り返りました。

 「きやあん。きやあん。助けてくれえ! きやあん。きやあん。助けてくれえ!」

 この聲は又白の耳にはかう云ふ言葉にも聞えるのです。

 「きやあん。きやあん。臆病ものになるな! きやあん。臆病ものになるな!」

 白は頭を低めるが早いか、聲のする方へ駈け出しました。

 けれども其處へ來て見ると、白の目の前へ現れたのは犬殺しなどではありません。唯學校の歸りらしい、洋服を着た子供が二三人、頸のまはりへ繩をつけた茶色の子犬を引きずりながら、何かわいわい騷いでゐるのです。子犬は一所懸命に引きずられまいともがきもがき、「助けてくれえ。」と繰り返してゐました。しかし子供たちはそんな聲に耳を借すけしきもありません。唯笑つたり、怒鳴つたり、或は又子犬の腹を靴で蹴つたりするばかりです。

 白は少しもためらはずに、子供たちを目がけて吠えかかりました。不意を打たれた子供たちは驚いたの驚かないのではありません。又實際白の容子は火のや

【改頁(見開き)】

うに燃えた眼の色と云ひ、 刃物(はもの)のやうにむき出した牙の列と云ひ、今にも嚙みつくかと思ふ位(くらゐ)、恐ろしいけんまくを見せてゐるのです。子供たちは四方へ逃げ散りました。中には餘り狼狽したはずみに、路ばたの花壇へ飛びこんだのもあります。白は二三間(げん)追ひかけた後(のち)、くるりと子犬を振り返ると、叱るやうにかう聲をかけました。[やぶちゃん注:「刃物」の「刃」は底本では最終画の「ヽ」が二画目の左外に打たれた字体である。]

 「さあ、おれと一しよに來い。お前の家(うち)まで送つてやるから。」

 白は元來た木木の間へ、まつしぐらに又駈けこみました。茶色の子犬も嬉しさうに、べンチをくぐり、薔薇を蹴散らし、白に負けまいと走つて來ます。まだ頸にぶら下つた、長い繩をひきずりながら。

      ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×

 二三時間たつた後(のち)、白は貧しいカフエの前に茶色の子犬と佇んでゐました。晝も薄暗いカフエの中にはもう赤あかと電燈がともり、音のかすれた蓄音機は浪花節か何かやつてゐるやうです。子犬は得意さうに尾を振りながら、かう白へ話しかけました。

【改頁】

 「僕は此處に住んでゐるのです。この大正軒と云ふカフエの中に。――をぢさんは何處に住んでゐるのです?」

 「をぢさんかい? をぢさんは――ずつと遠い町にゐる。」

 白は寂しさうにため息をしました。

 「ぢやもうをぢさんは家(うち)へ歸らう。」

 「まあお待ちなさい。をじさんの御主人はやかましいのですか?」

 「御主人? なぜ又そんなことを尋ねるのだい?」

 「もし御主人がやかましくなければ、今夜は此處に泊つて行つて下さい。それから僕のお母さんにも命拾ひの御禮を云はせて下さい。僕の家(うち)には牛乳だの、カレエ・ライスだの、ビフテキだの、いろいろな御馳走があるのです。」

 「ありがたう。ありがたう。だがをぢさんは用があるから、御馳走になるのはこの次にしよう。――ぢやお前のお母さんによろしく。」

 白はちよいと空を見てから、靜かに敷石の上を步き出しました。空にはカフエの屋根のはづれに、三日月もそろそろ光り出してゐます。

【改頁(見開き)】

 「をぢさん。をぢさん。をぢさんと云へば!」

 子犬は悲しさうに鼻を鳴らしました。

 「ぢや名前だけ聞かして下さい。僕の名前はナポレオンと云ふのです。ナポちやんだのナポ公だのとも云はれますけれども。――おぢさんの名前は何と云ふのです?」

 「おじさんの名前は白と云ふのだよ。」

 「白――ですか? 白と云ふのは不思議ですね。をぢさんは何處も黑いぢやありませんか?」

 白は胸が一ぱいになりました。

 「それでも白と云ふのだよ。」

 「ぢや白のをぢさんと云ひませう。白のをぢさん。是非又近い内に一度來て下さい。」

 「ぢやナポ公、さやうなら!」

 「御機嫌好(ごきげんよ)う、白のをぢさん! さやうなら、さやうなら!」

【改頁】

       四

 その後(のち)の白はどうなつたか?――それは一一(いちいち)話さずとも、いろいろの新聞に傳へられてゐます。大かたどなたも御存知でせう。度度危(あやふ)い人命を救つた、勇ましい一匹の黑犬のあるのを。又一時(じ)『義犬(ぎけん)』と云ふ活動寫眞の流行したことを。あの黑犬こそ白だつたのです。しかしまだ不幸にも御存じのない方があれば、どうか下(しも)に引用した新聞の記事を讀んで下さい。

 東京日日新聞。 昨十八日(五月)午前八時四十分(しじつぷん)、奧羽線上り急行列車が田端驛附近の踏切を通過する際、踏切番人の過失に依り、田端一二三(ひやくにじふさん)會社員柴山鐵太郎の長男實彦(さねひこ)(四(し)歲)が列車の通る線路内に立ち入り、危(あやふ)く轢死を遂げようとした。その時逞しい黑犬が一匹、稻妻のやうに踏切へ飛びこみ、目前に迫つた列車の車輪から、見事に實彦を救ひ出した。この勇敢なる黑犬は人人の立騷いでゐる間(あひだ)に何處かへ姿を隱した爲、表彰したいにもすることで出來ず、當局は大いに困つてゐる。

【改頁(見開き)】

 東京朝日新聞。輕井澤に避暑中のアメリカ富豪エドワアド・バアクレエ氏の夫人はペルシア產の猫を寵愛してゐる。すると最近同氏の別莊へ七(しち)尺餘りの大蛇(だいじや)が現れ、ヴェランダにゐる猫を呑まうとした。其處へ見慣れぬ黑犬が一匹、突然猫を救ひに駈けつけ、二十分(にじつぷん)に亙る奮鬪の後(のち)、とうとうその大蛇を嚙み殺した。しかしこのけなげな犬は何處かへ姿を隱した爲、夫人は五千弗(ドル)の賞金を懸け、犬の行方(ゆくへ)を求めてゐる。

 國民新聞。日本アルプス橫斷中、一時行方不明になつた第一高等學校の生徒三名は七日(なぬか)(八月)上河内(かみかうち)の溫泉へ着(ちやく)した。一行は穗高山(ほだかやま)と槍ケ嶽(だけ)との間(あひだ)に途(みち)を失ひ、且(かつ)過日の暴風雨に天幕(テント)糧食等(とう)を奪はれた爲、殆ど死を覺悟してゐた。然るに何處からか黑犬が一匹、一行のさまよつてゐた溪谷に現れ、恰(あだか)も案内をするやうに、先へ立つて步き出した。一行はこの犬の後(あと)に從ひ、一日餘り步いた後(のち)、やつと上河内へ着すことが出來た。しかし犬は目の下に溫泉宿の屋根が見えると、一聲(ひとこゑ)嬉しさうに吠えたきり、もう一度もと來た熊笹(くまささ)の中へ姿を隱してしまつたと云ふ。一行は皆この犬が來たのは神明(しんめい)の加護だと信じてゐる。

【改頁】

 時事新報。十三日(九月)の名古屋市の大火は燒死者十餘名に及んだが、橫關(よこぜき)名古屋市長なども愛兒を失はうとした一人である。令息武矩(たけのり)(三歲)は如何なる家族の手落からか、猛火の中の二階に殘され、既に灰燼(くわいじん)とならうとしたところを、一匹の黑犬のために啣(くは)へ出された。市長は今後名古屋市に限り、野犬撲殺を禁ずると云つてゐる。

 讀賣新聞。小田原町(をだはらまち)城内(じやうない)公園に連日の人氣を集めてゐた宮城巡回動物園のシベリヤ產大狼(おほおほかみ)は二十五日(十月)午後二時ごろ突然巖乘(がんじよう)な檻を破り、木戶番二名を負傷させた後(のち)、箱根方面へ逸走(いつそう)した。小田原署はその爲に非常動員を行ひ、全町に亙る警戒線を布(し)いた。すると午後四時半ごろ、右の狼は十字町(じふじまち)に現れ、一匹の黑犬と嚙み合ひを始めた。黑犬は惡戰頗(すこぶ)る努め、ついに敵を嚙み伏せるに至つた。其處へ警戒中の巡査も駈けつけ、直ちに狼を銃殺した。この狼はルプス・ヂガンティクスと稱し、最も兇猛な種屬であると云ふ。なほ宮城動物園主は狼の銃殺を不當とし、小田原署長を相手どつた告訴を起すといきまいてゐる。等(とう)。等。等。

【改頁(見開き)】

[やぶちゃん注:この左頁に以下の小穴隆一の「白」の画がある。]



【改頁】

[やぶちゃん注:この右頁は白紙である。]

       五

 或秋の眞夜中です。體も心も疲れ切つた白は主人の家(いへ)へ歸つて來ました。勿論お孃さんや坊ちやんはとうに床へはひつてゐます。いや、今は誰(たれ)一人起きてゐるものもありますまい。ひつそりした裏庭の芝生の上にも、唯高い椶櫚(しゆろ)の木の梢に白い月が一輪浮んでゐるだけです。白は昔の犬小屋の前に、露に濡れた體を休めました。それから寂しい月を相手に、かういふ獨語(ひとりごと)を始めました。

 「お月樣! お月樣! わたしは黑君を見殺しにしました。わたしの體のまつ黑になつたのも、大かたそのせいかと思つてゐます。しかしわたしはお孃さんや坊ちやんにお別れ申してから、あらゆる危險と戰つて來ました。それは一つには何かの拍子に煤(すす)よりも黑い體を見ると、臆病を恥じる氣が起つたからです。けれどもしまひには黑いのがいやさに、――この黑いわたしを殺したさに、或は火の中へ飛びこんだり、或は又狼と戰つたりしました。が、不思議にもわたしの命はどん

【改頁】

な强敵にも奪はれません。死もわたしの顏を見ると、何處かへ逃げ去つてしまふのです。わたしはとうとう苦しさの餘り、自殺しようと決心しました。唯自殺をするにつけても、唯一目會ひたいのは可哀がつて下すつた御主人です。勿論お孃さんや坊ちやんはあしたにもわたしの姿を見ると、きつと又野良犬と思ふでせう。ことによれば坊ちやんのバットに打ち殺されてしまふかも知れません。しかしそれでも本望です。お月樣! お月樣! わたしは御主人の顏を見る外に、何も願ふことはありません。その爲今夜ははるばるともう一度此處へ歸つて來ました。どうか夜の明け次第、お孃さんや坊ちやんに會はして下さい。」

 白は獨語(ひとりごと)を云ひ終ると、芝生に腭(あご)をさしのべたなり、何時(いつ)かぐつすり寢入つてしまひました。

      ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×

 「驚いたわねえ、春夫さん。」

 「どうしたんだらう? 姉さん。」

 白は小さい主人の聲に、はつと目を開きました。見ればお孃さんや坊ちやんは

【改頁(見開き)】

犬小屋の前に佇んだ儘、不思議さうに顏を見合せてゐます。白は一度擧げた目を又芝生の上へ伏せてしまひました。お孃さんや坊ちやんは白がまつ黑に變つた時にも、やはり今のやうに驚いたものです。あの時の悲しさを考へると、――白は今では歸つて來たことを後悔する氣さへ起しました。するとその途端です。坊ちやんは突然飛び上ると、大聲にかう叫びました。

 「お父さん! お母さん! 白が又歸つて來ましたよ!」

 白が! 白は思はず飛び起きました。すると逃げるとでも思つたのでせう。お孃さんは兩手を延ばしながら、しつかり白の頸を押へました。同時に白はお孃さんの目へ、ぢつと彼の目を移しました。お孃さんの目には黑い瞳にありありと犬小屋が映つてゐます。高い椶櫚(しゆろ)の木のかげになつたクリイム色の犬小屋が、――そんなことは當然に違ひありません。しかしその犬小屋の前には米粒程の小ささに、白い犬が一匹坐つてゐるのです。淸らかに、ほつそりと。――白は唯恍惚(くわうこつ)とこの犬の姿に見入りました。

 「あら、白は泣いてゐるわよ。」

【改頁】

 お孃さんは白を抱きしめた儘坊ちやんの顏を見上げました。坊ちやんは――御覽なさい、坊ちやんの威張つてゐるのを!

 「へつ、姉さんだつて泣いてゐる癖に!」



[やぶちゃん注:以下、次の見開き頁まですべて白紙。冒頭注で述べた通り、ここに敢て小穴隆一の、作品集『三つの寶』に寄せた跋文を示す。跋文の扉部分に「跋」と表題し、それを捲ったページから見開きで載る。総ルビであるが、読みは一部に留めた。文中に頻出する字空けはママである。私の電子化したものを見て戴くと判るが、これは小穴特有の癖である。「もでる」のひらがな書き、「下すた」はママである。本文中の「私」は総て「わたくし」と訓じている。]



 あなたがたはあなたがたの 一番仲のいいひと、一番好きな方がたと、御一つしよに、この 三つの寶 を御覽になりませうが、この本は、芥川さんと私(わたくし)がいまから三年前に計畫したものであります。 私達は一つの卓子(テエブル)のうへにひろげて 縱からも 橫からも みんなが首をつつこんで讀める本がこしらへてみたかつたのです。この本の差畫(さしゑ)のもでるになつて下さつたかたがたばかりではありません。私共の空想 われわれがこの程度の本をこしらへるにもなかなかの努力がいりました。みなさんにこれ以上の贅澤の本は今日(こんにち)の日本ではこしらへてあげることが出來ません。私達の計畫を聞いた方がたは みんながよろこんでこの本の出來あがる日をたのしんで下(くだす)すたものです。著者の、芥川龍之介は、この本が出來あがらないうちに病氣のために死にました。これは私にとりましては大變に淋しいことであります。けれども この本をお讀みになる方がたは、はじめ私達が考へてゐましたように、みんな仲よく首をつつこんで御覽になつて下さい。
 私は、みなさんが私共の歲になつてから、この本をお讀みになつたあなたがたの時代は、餘計にたのしかつたと思はれやあしないか、さう思ふから、三つの寶 の出來あがったことは愉快です。
 どうか あなたがたは、三つの寶のなかの王子(わうじ)のやうに お姬樣のやうに この世のなかに、信じ合ひ助けあつて行つて下さい。
   昭和二年十月廿四日朝         
小 穴 隆 一