やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ

[やぶちゃん注:大正
141925)年8月発行の雑誌『女性』に『「サロメ」その他』の標題で、『一「サロメ」』「二 變遷」「三 或抗議」「四 艶avとして掲載されたが、後に最初の『一「サロメ」』の項だけが独立してGaity座の「サロメ」』という標題で翌大正15・昭和元(1926)年12月に発行された生前最後の随筆集「梅・馬・鶯」に所収された。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビのため、読みの振れるもののみを示した。それぞれのアフォリズムの後に私の注を施した。]

 

變遷その他   芥川龍之介

 

變  遷

 

 萬法(ばんぽう)の流轉を信ずる僕と雖も、目前に世態(せたい)の變遷を見ては多少の感慨なきを得ない。現にいつか垣の外に「茄子(なすび)の苗や胡瓜の苗、……ヂギタリスの苗や高山植物の苗」と言ふ苗賣りの聲を聞いた時にはしみじみ時好(じかう)の移つたことを感じた。が、更に驚いたのはこの頃ふと架上(かぜう)の書を椽側の日の光に曝した時である。僕は從來衣魚と言ふ蟲は決して和本や唐本以外に食はぬものと信じてゐた。けれども千九百二十五年の衣魚は舶來本の背などにも穴をあけてゐる。僕はこの衣魚の跡を眺めた時に進化論を思ひ、ラマルクを思ひ、日本文化の上に起つた維新以後六十年の變遷を思つた。三十世紀の衣魚はことによると、樟腦やナフタリンも食ふかも知れない。

 

[やぶちゃん注

・ヂキタリス:ゴマノハグサ科キツネノテブクロ(ジギタリスの和名)属ジギタリスDigitalis purpurea。強心成分ジギトキシン(Digitoxine)等を含む周知の毒草であるが、現在も観賞用としてよく植えられているのを見かける。

・衣魚:多く見られるのは昆虫綱シミ目シミ亜目シミ科の外来種と考えられるセイヨウシミLepisma saccharina。在来種としてのヤマトシミCtenolepisma villosaはセイヨウシミの侵入圧により減少傾向。最近では良く知られるようになったが、シミによる書籍の食害は極めて軽微で、芥川の言うトンネルのような「穴をあけ」て判読不能になる程激しく食害するのは、全くの別種である昆虫綱鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科Anobiidaeのシバンムシ類(特に和洋書の区別なく穿孔食痕を齎すのはザウテルシバンムシFalsogastrallus sauteri)である。]

 

或(ある)抗議

 

「文壇に幅を利かせてゐるのはやはり小説や戲曲である。短歌や俳句はいつになつても畢(つひ)に幅を利かせることは出來ない。」――僕の見聞する所によれば、誰(たれ)でもかう言ふことを信じてゐる。「誰でも」は勿論小説家や戲曲家ばかりを指すのではない。歌人や俳人自身さへ大抵かう信じるか、或はかう世間一般に信じてゐられると信じてゐる。が、堂堂たる批評家たちの短歌や俳句を批評するのを見ると、不思議にも決して威張つたことはない。いづれも「わたしは素人であるが」などと謙抑(けんよく)の言を並べてゐる。謙抑の言を並べてゐるのはもとより見上げた心がけである。しかしかう言ふ批評家たちの小説や戲曲を批評するや、決して「素人であるが」とは言はない。恰(あたか)も父母未生前(ふぼみしやうぜん)より小説や戲曲に通じてゐたやうに滔滔(たうたう)、聒聒(くわつくわつ)、絮絮(じよじよ)、綿綿と不幸なる僕等に教(おしへ)を垂れるのである。すると文壇に幅を利かせてゐるのは必ずしも小説や戲曲ではない。寧ろ人麻呂以來の短歌であり、芭蕉以來の俳句である。それを小説や戲曲ばかり幅を利かせてゐるやうに誣(し)ひられるのは少くとも善良なる僕等には甚だ迷惑と言はなければならぬ。のみならず短歌や俳句ばかりいつまでも幅を利かせてゐるのは勿論不公平を極めてゐる。サント・ブウヴも或は高きにゐてユウゴオやバルザツクを批評したかも知れない。が、ミユツセを批評する時にも格別「わたしは素人であるが」と帽子を脱がなかつたのは確かである。堂堂たる日本の批評家たちもちつとは僕等に同情して横暴なる歌人や俳人の上に敢然と大鐵槌を下(くだ)すが好(よ)い。若し又それは出來ないと言ふならば、――僕は當然の權利としてかう批評家たちに要求しなければならぬ。――僕等の作品を批評する時にも一應は帽子を脱いだ上、歌人や俳人に對するやうに「素人であるが」と斷り給へ。

 

[やぶちゃん注

・聒聒:お喋りで、それによって他人の心をかき乱すさま。

・絮絮:くどくどとしつこく話すさま。

・誣ひられる:批判されるという「そしる」の意味で用いているようにも思われるが、ここは「小説や戲曲ばかり幅を利かせてゐる」訳ではないのに、という「誣」の本義の一つである、冤罪をかぶせられるという「しいる(しふ)」のニュアンスを読み取るべき。

・サント・ブウヴ:シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ(Charles Augustin Sainte-Beuve  18041869)。フランスの文芸評論家。アカデミー・フランセーズ会員。近代文芸批評の確立者。ここに揚がる小説のユゴーやバルザックと並び称された。「文学的人物伝」「ポール・ロワイヤル史」「月曜閑談」等。

・ミユツセ:アルフレッド・ルイ・シャルル・ド・ミュッセ(Alfred Louis Charles de Musset 18101857)。フランスのロマン主義の作家で、詩・戯曲・小説・戯曲等の多くのジャンルを手掛けた。初演の「ヴェネチアの夜」の大不評から、所謂、レーゼドラマの創始者となる。代表作としては「戯れに恋はすまじ」が知られ、これらのレーゼドラマを集大成した戯曲集の題名が「肘掛椅子の中での観物」。筑摩書房全集類聚版の注によると、サント=ブーヴはミュッセについて「世人は彼の事を仰々しく言い過ぎる。彼は確かに美しい迫力を持っている。だがそれ以上の何がある」と評している、と記す。]

 

艷  

 

「……自分の如きものにさへ、屡々(しばしば)手紙を寄せて交(かう)を求めた婦人が十指に餘る。未(ま)だ御目にかかつた事はないが夢に見ましたと云ふのがある。御兄樣(おにいさま)と呼ぶ事を御許し下さいませと云ふのがある。寫眞を呉れと云ふのがある。何か肌に着けた物を呉れと云ふのがある。使ひ古した手巾(はんけち)を呉れれば處女(しよぢよ)として最も清く尊(たつと)きものを差上げますと云ふのもあつた。何たる清き交際であらう。……」

 これは水上瀧太郎君の「友はえらぶべし」の中の一節である。僕はこの一節を讀んだ時に少しも掛値なしに瞠目した。水上君の小説は必ずしも天下の女性の讀者を隨喜せしめるのに足るものではない。しかも猶彼等の或ものは水上君を御兄樣を稱し、又彼等の或ものは水上君の寫眞など(!)を筐底に祕めたがつてゐるのである。飜つて僕自身のことを考へると、――尤も僕の小説は水上君の小説よりも下手かも知れない。が、少くとも女性の讀者に多少の魅力のあることは決して「勤人」や「海上日記」や「葡萄酒」の後(あと)には落ちない筈である。しかし行年(げうねん)二十五にして才人の名を博してよりこのかた、僕のことを御兄樣と呼んだり、僕の寫眞を欲しがつたりする美人の手紙などの來たことはない。況や僕の手巾を貰へば、「處女として最も清く尊(たふと[やぶちゃん注:前出と読みが異なるが、ママ。])きものを差上げます。」と言ふ春風萬里(しゆんぷうばんり)の手紙をやである。僕の思はず瞠目したのも偶然ではないと言はなければならぬ。

 けれども偶々かう言つたにしろ、直ちに僕を輕蔑するならば、それは勿論大早計である。僕にも亦時に好意を表する女性の讀者のない訣ではない。彼等の一人(ひとり)は去年の夏、のべつに僕に手紙をよこした。しかもそれ等は内容證明でなければ必ず配達證明だつた。僕は萬事を抛擲して何度もそれ等を熟讀した。實際又僕には熟讀する必要もあつたのに違ひない。それ等はいづれも百圓の金を至急返せと言ふ手紙だつた。のみならずそれ等を書いたのは名前も聞いたことのない女性だつた。それから又彼等の或ものは僕の「春服(しゆんぷく)」を上梓した頃、絶えず僕に「アララギ」調の寫生の歌を送つて來た。歌はうまいのかまづいのか、散文的な僕にはわからなかつた。いや、必ずしも一首殘らずわからなかつた次第ではない。「日の下(した)の入江音なし息づくと見れど音こそなかりけるかも」などは確かに僕にもうまいらしかつた。けれどもこの歌はとうの昔にもう齋藤茂吉君の歌集に出てゐるのに違ひなかつた。それから又彼等の或ものは僕の支那へ出かけた留守に僕に會ひに上京した。僕は勿論不幸にも彼女に會ふことは出來なかつた。が、彼女は半月ほどした後(のち)、はるばる僕に一すぢの葡萄色のネク・タイを送つて來た。何でも彼女の手紙によれば、それは明治天皇の愛用し給うたネク・タイであり、彼女のそれを送つて來たのは何年か前に墓になつた母の幽靈の命令に從つたものだとか言ふことだつた。それから又彼等の或ものは、……

 兔に角僕にも手紙を寄せた女性の讀者のゐることは疑ふべからざる事實である。が、彼等は僕に對するや、水上君に對するやうに纏綿(てんめん)たる情緒(ぜうちよ)を示したことはない。これは抑(そこそ)も何の爲であらうか? 僕は僕に手紙を寄せた何人かの天涯の美人を考へ、つまり僕の女性の讀者は水上君の女性の讀者よりもはるかに彼等の社交的趣味の進歩してゐる爲と斷定した。成程彼等の或ものは彼女自身の歌の代りに齋藤君の歌を送つて來た。しかしそれは僕のことを夢に見ると言ふ代りに、彼女も僕の先輩たる齋藤君の歌集などを讀んでゐることを傳へたのであらう。又彼等の或ものはお兄樣と僕を呼びたかつたかも知れない。が、彼女の遠慮深さは百圓の金を返せと言ふ内容證明の手紙を書かせたのである。又彼等の或ものは明治天皇の愛用し給うた――これだけは正直に白状すれば、確かに僕にも難解である。けれども彼女の淑(つつま)しさの餘り、僕の手巾(はんけち)を呉れと言ふ代りに、歴史的意義あるネク・タイを送つて來たのではないであらうか? 僕の女性の讀者なるものはいづれも上(かみ)に示したやうに纖細な神經を具へてゐる。して見れば水上君に手紙を寄せた無數の女性の讀者よりも數等優れてゐると言はなければならぬ。よし又僕の斷定に多少の誤りはあるにもしろ、――たとへば彼等の或ものは不幸なる狂人だつたにもしろ、少くとも唐突として水上君に手巾を呉れと言つた讀者よりも氣違ひじみてゐないことは確かである。僕はかう考へた時に私(ひそ)かに僕自身の幸運を讚美しない訣には行(い)かなかつた。日本の文壇廣しと雖も、僕ほど艷bノ富んだ作家は或は一人もゐないかも知れない。

 

[やぶちゃん注

・水上瀧太郎:明治201887)年−昭和151940)年 明治441911)年に雑誌『三田文学』(永井荷風主宰)に「山の手の子」を発表、久保田万太郎とともに三田派の新進流行作家となる。本作が発表された大正151926)年には休刊していた『三田文学』を復刊し、まさに三田派の代表作家となっていた。代表作は「大阪」「大阪の宿」等。芥川龍之介とは、大正67年(19171918)年頃の「新詩社」主宰の短歌会席上と思われ、芥川龍之介は特に彼が大正8(1919)年に雑誌『新小説』に発表した小説「紐育―リヴアプウル」を高く評価していたという。また、大正141926)年3月以降に春陽堂による「鏡花全集」出版企画では編集者の一人として、芥川龍之介及び小山内薫・谷崎潤一郎・里見ク・久保田万太郎と共に校訂編集作業に当たっており、同年11月に出版された興文社の芥川龍之介編集になる「近代日本文芸読本」(全5巻)には、水上瀧太郎の「昼―祭りの日―」が収録されている。

・「勤人」:水上瀧太郎の大正131923)年『三田文学』発表の小説。商事会社人事課長柏節三を主人公としたサラリーマン小説。水上瀧太郎自身、 終生、作家と明治生命保険会社(現・明治安田生命)のサラリーマンの二足の草鞋を履いた。彼のモットーは「会社員としては最も勤勉であり、作家としては最も純粋」であったという。なお、明治生命保険会社は彼の父親であり、福沢諭吉の門下生であった水上泰蔵の創立になる。

・「海上日記」:水上瀧太郎の大正5(1916)年『三田文学』発表の小説。水上は明治451912)年に慶應義塾大学理財科を卒業後、アメリカのハーバード大学に留学、その後、ロンドン・パリを経てこの年に帰国、前掲のように明治生命社員となったが、本作はその渡米体験を下敷きとしている。類聚版注によれば、題名は『小説らしい小説と絶縁するために日記を記す心持で書こうという』作者の思いの現れであるということらしい。

・「葡萄酒」:水上瀧太郎の大正9(1920)年雑誌『人間』発表の小説。

・「行年二十五にして才人の名を博してよりこのかた」:芥川龍之介が第四次『新思潮』を創刊し、『鼻』をそれに発表したのは、大正5(1916)年2月15日のことであった。人口に膾炙しているように、それへの夏目漱石の激賞の手紙が、彼の実質的な文壇デビューと言える。芥川龍之介、数え年25歳(満年齢では彼の誕生日が3月1日であるので未だ23歳)の春であった。

・「春服」:大正121923)年518日に春陽堂より出版した芥川龍之介の第六短編集の題名。収録作品は「六の宮の姫君」「トロツコ」・「おぎん」・「往生繪卷」・「お富の貞操」・「三つの寶」・「庭」・「神神の微笑」・「奇遇」・「藪の中」・「母」・「好色」・「報恩記」・「老いたる素戔嗚尊」・「わが散文詩」の以上15篇。

・『「日の下の……」』:大正101921)年刊の齋藤茂吉の第二歌集「あらたま」所収の一首。

・纏綿:ある思いが、心に纏(まつ)わりついて、少しも離れようとしないさま。]