やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ


■芥川龍之介「戯作三昧」やぶちゃん注
                  
copyright 2008 Yabtyan

 

「戯作三昧」大正六年十一月 芥川龍之介 本文へ

 

○本ページは、私の電子テクストである大正8(1919)年新潮社刊の芥川龍之介作品集『傀儡師』所収版の「戯作三昧」(但し、底本は昭和551980)年ほるぷ社『特選 名著復刻全集 近代文学館』で復刻されたもの)の別ページ注である。各章末ごとに岩波版旧全集本文との相違箇所及びオリジナルな注を施してある(但し、しばしば見受けられるルビ位置の不整合は、全くの低レベルな誤植であり、一目判然としているので敢えて注記していない)。本文中の傍点「丶」は下線に代えた。なお、注釈の幾つかについては昭和461971)年刊の筑摩書房版全集類聚「芥川龍之介全集」の脚注を参考にし、また曲亭馬琴の事蹟については、特に千葉大学文学部の高木元氏の「曲亭馬琴」のページの記載事実に多くを依った。ここに謝す。

また、検索で此方に直に来られた方は、このリンクで私のHP「鬼火」又は私のやぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ一度向われることをお勧めする。

 

   「戯作三昧」 一 注

 

・天保二年九月:西暦1831年。この年馬琴は「西遊記」の翻案小説である合巻(後述)「金毘羅船利生纜(こんぴらぶねりしょうのともづな)」全八巻を完結刊行し、「新編金瓶梅(しんぺんきんぺいばい)」の初編を刊行している(後、天保111840)年に馬琴は失明するが、長男興継(おきつぐ:元服して宗伯と改名。号は琴嶺舍)の未亡人、路(みち)の口述筆記で弘化4(1847)年に完結)。また、この年の2月18日にはロシア船が蝦夷に侵入し役人と交戦した。まさに幕末の夜明けであった。なお、私の「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の「うつろ舟の蛮女 琴嶺舎」は、一応、この長男興継の兎園会での発表ということになっている(実際には父親の代筆である可能性が高い)。なお、「合巻(ごうかん)」とは、文化年間(18041817)年間に、黄表紙の複雑長編化によって生まれた草双紙の一種を言う。通常は5丁1冊を単位に数冊合わせ綴ったところから、こう読ばれた。濃厚な伝奇色や歌舞伎絵風の表紙画・挿絵が好まれ、その刊行は明治中期にまで及んだ。

・式亭三馬が何年か前に出版した滑稽本:当時はもう故人であった戯作者式亭三馬(安政5(1776)年~文政5(1822)年)の「浮世風呂」を指す。4編9冊で、北川美丸(よしまる)・歌川国直の画になる。前編は文化6(1809)年に出て、四編は文化10(1813)年の刊になる。湯屋を舞台に江戸庶民の生活と風俗を直接話法を主にして活写する。天保2(1831年からは二十年以上前で、少々「何年か前に」という表現は苦しい気もするが、江戸という時代の長い時間のベクトルの中にあっては、やはり二十数年もたかだか「何年か前」という思いが芥川にはあったのであろう。

・「神祇、釋教、戀、無常、みないりごみの浮世風呂」:「浮世風呂」の「前編巻之上」にある文句で、江戸市中のあらゆる階層と多様な風俗を一緒くたに裸にしてるつぼと化した湯屋の多様性を、伝統的な歌集の部立に引っ掛けて言挙げした部分である。「神祇釈教恋無常みないりごみの浮世風呂。所はいづくと定ねど時候は九月なかばの頃。銭湯天明ていまだ店を開かず。」と続き、芥川は本作の中の時間を冒頭で「九月」としたのは、「浮世風呂」を参考にした考証の合致性をも考えてのことかも知れない。

・嚊たばね:嚊束ね。たばねとも。文化年間に江戸下層階級の男子の間で流行した髪型の一。油を使用せずに水で結い、たぼ(髪の後ろの襟足に沿って張り出した部分)を膨ませ、髷の先を散らして、元結から後ろを高く反らしたもの。

・上り場:洗い場から脱衣場への上がり口。筑摩書房全集類聚版ではこれに「上(あが)り場(ば)」とルビを振っている。

・ちよん髷本多:本多髷とも。江戸中期以降に江戸の粋人の間で流行した丁髷。髷の先を非常に細く短く結ったもので、中剃り部分が広く目立つ。

・大銀杏:武士の髪形の一。髷の先をイチョウの葉のように広げて結った、現在の力士の髪型と同じ。

・由兵衞奴:髷を頭の後方に低くずり下げて結った髪型。

・虻蜂蜻蛉:子供の髪型で、完全剃らずに少し残した髪をハチやトンボの翅に似せて結ったもの。

・柘榴口:「四」で分かるように蒸し風呂形式であった当時の湯屋(ゆうや)では、浴槽の湯温を保つために洗い場との間に遮蔽の壁を置き、その下部を刳り貫いて出入り口とした。そこを言う。屈んで通らねばならぬところから、屈み入る→鏡(に)要る→鏡磨き用のザクロの実から作った酢→柘榴を掛けた命名と言われる。

・止め桶:湯屋で、体を洗うのに使う洗い場の桶。現在の湯汲み桶。

・甲斐絹:本来は、柔らかくした練り絹のことであるが、特に羽織等の裏地に用いられた高級絹織物を指す。本来は同様の舶来物であった「海気」(かいき)からの名称で、後の主要産地であった「甲斐絹」という表記は明治以降のものとも言われる。

・片々:筑摩書房全集類聚版ではこれに「(かた/\)」の清音ルビを振る。

・生活に疲れてゐる:この年、彼は64歳、馬琴とは複数の作者の架空作家ではないかと疑われた程に超人的な著作物をこなしていた。三度の食事も執筆をしながらという有様であったといわれる。私生活にあっては、医師にさせて期待の大きかった長男の興継が、生来の病弱と癇症を募らせ、妻の路――医師土岐村元立(ときむらげんりゅう)の娘――を迎えた翌年の文政111828)年の年、馬琴には孫に当たる太郎が生まれた頃に症状が重くなり、以後、馬琴の側で床に伏すことが多くなった。興継は天保6(1835)年5月に38歳で死去した。また馬琴自身も、本作中時間の二年後の天保4(1833)年の秋、右眼の視力の低下を訴えて次第に左眼も翳むようになった。天保111840)年、遂に馬琴は失明してしまう。「二」で芥川が描出するように既にこの頃、視力の衰弱は始まっていたと考えてもよいであろう。

・歌祭文:江戸の俗謡の一種。近世に入ってから、修行者であった山伏の語る神仏霊験の祭文が、その法螺貝や錫杖を用いた滑稽な語り口のものへと芸能化し、本格的な三味線を伴奏として伝承や市井の噂を素材として語る歌祭文となった。現在の浪花節のルーツである。

ありやす:岩波版旧全集では初出の「めりやす」に従っている。それが正しい。「ありやす」の「あ」は「め」の『傀儡師』編集時校正ミスである。「めりやす」は長唄の一種で歌舞伎の下座音楽として用いられたものを指す。登場人物の沈思憂愁の無言の演技に際して、しんみりした雰囲気を醸し出すために一般には独吟で唄われた。が多い。命名は、劇中に用いる実用性から芝居に合わせて唄がメリヤスの如く伸縮するからとも、沈んだ曲調が「滅入りやすし」であるからとも言われる。

よしこの:よしこの節の略で、江戸後期に流行した俗謡の一種。潮来節(いたこぶし)をルーツとするとされ、都々逸に似ている。七・七・七・五の四句形式で、天保の前、文政年間(18181829)に発生してから明治の中頃まで命脈を保った。「よしこの」はその唄の中に現われる囃子言葉の一節による。

・お出でになららなんぞとは:「お出でにならうなんぞとは」の誤植である。

・曲亭:ペンネーム曲亭馬琴をフルで訓じると「くるわでまこと」で、廓で誠の意を示し、通人が粋に遊ぶ遊廓で真摯に遊女に心を尽くす野夫といった意味である。ここで初めて、主人公が明かされ、我々はその見るもおぞましい痩骨のおいぼれが、あの押しも押されぬ流行作家、曲亭馬琴であることに驚くという趣向である。

・細銀杏:町人髪の一。一文字に髷を細く真直ぐに結った髪型。

・馬琴瀧澤瑣吉:(明和4(1767)年~嘉永元(1848)年)戯作者。江戸深川の旗本松平信成の用人であった瀧澤興義(おきよし)の五男として出生した。本名は興邦(おきくに)、後に解(とく or とくる)と改める。この「瑣吉」(さきち or さきつ)は字(あざな)である。なお、一般に知られる瀧澤馬琴という筆名は本人は全く用いておらず、明治以降に使われるようになったもので、本来、本姓と戯号を組み合わせて表記するというのは日本文学史の中でも稀である。

 

   「戯作三昧」 二 注

 

・八犬傳:読本「南総里見八犬伝」。馬琴畢生の代表作。96巻108冊。その初輯(しょしゅう)は文化111814)年に刊行され、その後、実に28年の歳月をかけて天保121841)年に完成した。完成時、馬琴は75歳、完全に失明し、前述した通り、最後は義理の娘の路の口述筆記によった。その間、孫の太郎の立身出世や家族の生計維持に苦労し、「六」に表れる蒐集した多量の蔵書も売却したりした。また馬琴の妻お百は、この亡き息子の賢妻路と夫との仲を猜疑し、激しく嫉妬して馬琴を苦しめたとされる。

・船蟲が瞽婦に身をやつして、小文吾を殺さうとする……:「南総里見八犬伝」第八輯巻之一から巻之二の内容。私は「南総里見八犬伝」未読にして語れないので、筑摩書房全集類聚版の脚注を引用する。『船虫は鷗尻の並五郎という悪漢の妻で毒婦。夫が犬田小文吾(八犬士の一人)に殺されたのを恨み、瞽婦(三味線を弾き歌を歌って銭を乞う盲の女)に身をやつして狙うが、逆に捕えられる。そこへ小文吾を探し求める荘介(八犬士の一人)が来て事情を知らずに船虫を救う。これが荘介・小文吾の会う機縁となる筋』。

・讀本:江戸中期から後期に刊行された小説の出版形態及び内容を総称した謂いで、「よみほん」と読む。大きさは概ね半紙二つ折りの半紙本であったが、中には大本(おおほん)や半紙本より小さな中本のものもあった。だいたい5~6巻分を1編として、各巻を当代の人気絵師らによる口絵と複数の挿絵が飾った。内容は伝奇色が強い複雑なプロットで牽引しながら、因果応報や儒教的教訓を語るものである。「南総里見八犬伝」は将にその代表例である。

・羅貫中:(生没年未詳)元末・明初の小説家。「三国志演義」の著者。

・眇:眼疾患としての斜視のこと。眼筋の異常により、一方の目が前を直視していても、他方の目が同一対象や方向から、はっきりとずれたり、別方向を向いている状態を言う。やぶにらみ。差別病名である。

・小銀杏:当時、好まれた武家や町人髪の一。髷の尻が通常より短く、全体も短く細く仕上げる。髷先を軽く広げて月代(さかやき)を広くとった細刷毛小銀杏等が好まれた。

・運座:膝回しとも。複数の人々が寄り合い、一定の題等を提示して、発句(現在の俳句)を作り、その場の中で秀句を互選する、文政年間に始まった句会。本来は連句で集った人々を連衆(れんじゅう)と言い、その場を「座」、回ってきた順や題で句を読むことを「運座」と言った。

・尤も一時はやつた事もあるが。:この述懐には、以下に綴られる根拠以外に、馬琴のある懐旧が含まれていはしまいか。千葉大学文学部の高木元氏の「曲亭馬琴」のページ の略歴によれば、旗本松平信成の用人であった馬琴の父瀧澤興義について『父は武士の道を説く反面、俳諧もたしなみ可蝶と号した。馬琴七歳の春「うぐひすの初音に眠る座頭かな」の吟があることを『罔両談』に記す。安永四(一七七五)年三月に父が五十一歳で死去し生活に窮す。主家の待遇は冷たくなり、十歳にして家督、幼君八十五郎に仕えた。』とし、更に『読書好きな馬琴にとり、わがままな幼君への奉公は耐えがたく、安永九(一七八〇)年十月馬琴十四歳の時、障子に「木がらしに思ひたちけり神の旅」と書き付けて出て行ってしまった。後に兄母と共に住み、兄の勧めで戸田家の徒士(かち)になるが、天明四(一七八四)年三月、十八歳の時再び出奔し市中を浮浪』したとする。馬琴の中に発句に纏わる何らかの幼少時の心象やトラウマ(心傷)があったと考えることはそう難しいことではないように思われる。

・眼くらの垣覗き:やっても全く分からない、無駄であることの譬え。差別言辞。

・彼にとつて、第二流の藝術である:実際の芥川龍之介にとって俳句はそのようなものとして意識されてはいなかった。逆に、芥川龍之介にとっての俳句が如何に詩人としての彼の中で大きな位置を占めていたかは、私の「やぶちゃん版芥川龍之介全句集」での彼の我鬼たる覚悟を見れば自ずと理解されるはずである。

 

   「戯作三昧」 三 注

 

・宗匠:筑摩書房全集類聚版ではこれに「(そうしやう)」の清音のルビを振る。

・では先生その中に一つ歌か發句かを書いて頂きたいものでございますな……:これが芥川龍之介自身、しばしば実感したところの不快体験であることは、彼の手紙等の記載や知人の思い出によく現れる。

 

   「戯作三昧」 四 注

 

・「洗湯の匂」:岩波版旧全集も同じであるが、筑摩書房全集類聚版では、ここが『「銭湯の匂」』となっている。岩波版旧全集の後記には、この部分の初出異同は示されていない。ちなみに青空文庫版(「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」1968(昭和43)年8月25日初版底本)では「銭湯」とする。作品冒頭でもこの松の湯を「錢湯」と記しており、表現全体からると今の感覚では「錢湯」が正しいようにも見えるが、本来、純然たる蒸風呂(現在の低温のサウナのように湯槽がなく専ら高温の水蒸気を送って風呂としたもの)に対して、湯が入れられた湯船に入る形式の銭湯は「洗湯(せんとう)」と称した。従って、私はこの柘榴口から入った後の湯船に浸かった馬琴の台詞として鍵括弧つきである点からも「洗湯」で正しいと思うのである。実際、この後、「五」の冒頭では、松の湯全体を今度は「洗湯」とも呼称しているからである。

・舟日覆:船の上に、日除けにかけた布製の覆い。ちなみに、芥川龍之介の旧友久米正雄の昭和181943)年刊行の句集「返り花」には

   ふためかすは魔か蝙蝠か舟日覆

という句が載る。久米の「戯作三昧」からのインスパイアか、それとも三汀(久米正雄の俳号)の句からの小説的剽窃か。確信犯であることは間違いない。

・著作堂主人:馬琴の戯号の一つ。他にも後出の蓑笠・玄同・閑斎・信天翁等、枚挙に暇がない。なお、芥川龍之介の澄江堂主人というペンネームとの関連を想起させるが、芥川龍之介が澄江堂の号を用いるようになるのは、大正111922)年1月からである。

・水滸傳の引寫し:「水滸伝」は明代初期、施耐庵(12961370)と羅貫中によってまとめられたとされる長篇小説。北宋の末年、現在の山東省の湖である梁山泊の水辺(=水滸)に集った宋江・魯智深といった実在・虚構の群盗像を描く。以下にウィキの「南総里見八犬伝」から、「水滸伝」との関連部分を引用する(但し作品の『 』は「 」に換えた)。『「八犬伝」にもっとも強い影響を及ぼしているのは「水滸伝」である。たとえば「水滸伝」では百八の魔星が飛び散り、のちに豪傑英雄として各地に現われるが、「八犬伝」では八つの数珠玉が飛び散り、のちに八犬士として世に現われる、というように発端と構成が共通する。粗暴な部分もある「水滸伝」の英傑たちの物語を換骨奪胎したものが「八犬伝」であり、忠臣・孝子・貞婦のおこないは報いられ、佞臣・姦夫・毒婦のおこないは罰せられる、儒教的道徳にもとづいた勧善懲悪の物語となっている。』そのような明白な換骨奪胎の関係にある両作を鬼の首を捕ったように判じて語る「眇の男」自体が滑稽なのである。更に言えば、晩年の馬琴にはまさに「傾城水滸伝(けいせいすいこでん)」という未完成となった合巻があり、これこそ「水滸伝」の翻案であり、そこでは舞台を鎌倉時代前期に移して、後鳥羽院の寵愛をいいことに専横を振う白拍子亀菊と源頼家暗殺の黒幕たる北条義時に対して敢然と立ち向かう烈女らが、近江賤ヶ岳の江鎮泊に立て籠もって闘うのである。

・ずぶ:副詞で、まったく、完全にの意。

・ずぶ京伝の二番煎じ:当時の有名戯作作家にして絵師であった亡き山東京伝(宝暦11(1761)年~文化13(1816)年)には、既に「水滸伝」の趣向を借りた読本「忠臣水滸伝」があったことを指す。「忠臣水滸伝」は北尾重政画で前編が寛政111799)年、後編が享和元(1801)年に刊行されている。しかし平凡社の「世界大百科事典」の当該作品の解説で高田衛氏は本作の構成が著名な「忠臣蔵」に『そのまま寄りかかっており、小説的な独自な展開には至っておらず、生硬で、趣向の遊戯性だけが目立つ失敗作』と断じており、認めるとすればただ『江戸期長編読本流行の契機を作ったという歴史的な意義』としてのみであろうとする。

・お染久松:宝永5(1708)年に大阪で実際にあった東堀瓦屋橋通の油屋太郎兵衛の娘お染と丁稚久松の心中の巷説及びそれを脚色した浄瑠璃・歌舞伎等の芝居又は俗謡を総称して言う。浄瑠璃では紀海音「お染久松袂の白しぼり」や近松半二の「新版歌祭文」、歌舞伎狂言では四世鶴屋南北の「お染久松色読販(うきなのよみうり)」などが挙げられる。

・松染情史秋七草:「しょうぜん(又は「まつそめ」とも)じょうしあきのななくさ」と訓ずる馬琴の読本の題名。文化61809)年、歌川豊広の絵で刊行。楠家秘伝兵法書「桜井」を巡る物語にお染久松の心中話を絡めたもの。

・表白してやりたい:論理的にはその無知をあからさまに、はっきりと批判出来、そのように論難してやりたい、の意。

・一九:(明和2(1765)年~天保2(1831)年)「東海道中膝栗毛」で有名な戯作者、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)。本作品中時間の前月、天保2年8月6日に亡くなっている。さすれば、この「眇の男」、伝承にある一九の有名な火葬に仕組まれた花火を、あっしは眺めたでげす、とでも誇りたい御仁なのかも知れない。

・そのためしさはに多かり:私は確認していないが、この男の謂いに従えば「そのためしさはに多かり」は馬琴の常套句ということであろう。そういった剽窃の類は実に沢山あるもんだ、という意味である。

・蓑笠軒隱者:「蓑笠」は先にも記したように、馬琴の戯号の一つ。但し、「蓑笠軒隱者」と記して用いているかどうかは私には不明である(少なくともネット検索ではこの文字列ではヒットしない)。

・便々と:形容動詞で、何もせずにいたずらに時を過ごすさま、又、だらだらとやたらに長いさま、を言う。

・フイリツピクス:“Philippics”。本来は雄弁家DemosthenesによるMacedoniaの王Philipへの専制的国家主義政策への痛烈な弾劾演説を指す。そこから、激しい攻撃演説及び罵倒を意味する語となった。芥川龍之介らしいペダントリーに富んだ謂いである。

・(補注)以上は、読むからに王朝物で古典作品を種本とした芥川龍之介への陰に陽に加えられた批判や、先行する作家達との心ない比較批判への、芥川の憤懣の謂いである。「天然自然の人間が出て」いると評される一九や三馬は、まさに芥川龍之介が作家として愛憎半ばした先行作家である志賀直哉や島崎藤村を想起させはしないか。ちなみに、この「戯作三昧」の連載を開始する(大正6(1917)年10月20日連載開始)直前の10月4日、芥川龍之介は志賀直哉の「和解」を読んで感心し、12日の友人山崎忠孝宛書簡(岩波版旧全集書簡番号三三七)で『「和解」を讀んで以來どうも小説を書くのが嫌になつた』と記している。

 

   「戯作三昧」 五 注

 

・洗湯:岩波版旧全集も同じであるが、筑摩書房全集類聚版では、「銭湯」となっている。前掲「三」の「洗湯の匂」の注を参照されたい。

・「諸國銘葉」の柿色の暖簾:煙草屋の暖簾である。

・「本黄楊」の黄いろい櫛形の招牌:櫛屋の看板。「招牌」は、筑摩書房全集類聚版では「(かんばん)」とルビする。

・「駕籠」の掛行燈:旅客運搬を商う駕籠屋の行燈(あんどん)。筑摩書房全集類聚版では「(あんどう)」とルビする。

・「卜筮」の算木の旗:「卜筮(ぼくぜい)」は占いのこと。その店の算木(さんぎ)の旗を言う。「算木の旗」は易に用いる、卦(け)を表す四角の六本の棒をアレンジした旗のこと。

・己:筑摩書房全集類聚版では「(おれ)」とルビする。

・實際彼の如く傍若無人な態度に出る人間が少かつたやうに、彼の如く他人の惡意に對して、敏感な人間も亦少かつたのである。さうして、この行爲の上では全く反對に思はれる二つの結果が、實は同じ原因――同じ神經作用から來てゐると云ふ事實にも、勿論彼はとうから氣がついてゐた。:これ以降は、当時の、いや、その後の作家としての、そうして人としての芥川龍之介の心性を吐露している意味深長な謂いである。

・脣:筑摩書房全集類聚版では「(くちびる)」とルビする。

・天日の歩みが止まる:天地の運行が停止する、時間の停止、全てが無化するという意味。

・比倫:比類。

・大傳奇:長篇の、現実には起こり得ないように思われる不可思議な幻想的怪奇的小説。

 

   「戯作三昧」 六 注

 

・ばら緒:細い繊維を何本もより合わせて作った鼻緒で、特に元禄時代に流行した。

・和泉屋:当時、馬琴の著作物の出版元であった。この名は馬琴の日記にも記されている。

・お百:寛政5(1793)年に馬琴が入り婿した飯田町中坂下の履物商の寡婦。三歳年上であった。

・御佛參:「ごぶつさん」と読む。

・坊ちやん:長男の興継と路との間にできた嫡孫、太郎。「十三」で登場する。詳しくはそちらに譲る。

・伜:長男の興継。実際ならば、この頃、既に病は進行していたものと思われる。

・山本様:不詳であるが、馬琴自身が一時、医を志し官医山本宗英の塾に入っており、息子の興継も医師となっているから、この山本宗英なる人物を芥川は想定しているのかも知れない。

・石刷:「いしずり」と読む。石碑等の文字を墨で摺って拓本としたもの。

・雙幅:掛け軸で、二幅の対になっているもの。

・破芭蕉:筑摩書房全集類聚版では「(やればしやう)」とルビする。

・婆娑と:「ばさ」と読む。乱れ動く形容。

・金瓶梅:ここで言うのは、中国の本物ではなく、先の「一」の注で記した、この年に刊行の馬琴の「新編金瓶梅」の初編を言っている。

・柔しい聲:「柔しい」は「柔(やさ)しい」と読む。

・鼠小僧次郎太夫:御存知の鼠小僧次郎吉である。以下は、「六」の叙述についての話となるが、筑摩書房全集類聚版注では『馬琴日記では鼠小僧が捕縛されたのは天保三年五月、さらし首になったのが同年八月のこと。「戯作三昧」は天保二年の話であるから、一年のずれがある。』と記す。こういう考証注は、いいね!

 

   「戯作三昧」 七 注

 

・荒尾但馬守:荒尾成裕(しげひろ)。鳥取藩家老で、後、幕末・明治初期にかけて藩政の改革に尽力した。

・御供押し:不詳。近習の添え者の謂いか。

・越後縮:麻織物の一種。新潟県魚沼地方を主産とする。カラムシ(双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシBoehmeria nivea var. nipononivea)を用い、地の縦糸に強い撚りをかけて織り上げることで、ちじみしぼ(皺)をつけた主に夏用の織物のことを言う。

・帷子:「かたびら」と読む。裏地を付けない一重のこと。

・白練の單衣:生糸で織った練られていない真っ白な絹で作った小袖(袖口の小さく縫いすぼまっている着流し風の上着)を言うか。

・「撫で廻した。」:筑摩書房全集類聚版注によると、ここは馬琴の日記の引用とする。私は馬琴日記を所持しないので、是非、原典を確認されたい。

 

   「戯作三昧」 八 注

 

・種彦:柳亭種彦(天明3(1789)年~天保13(1842)年)。幕臣にして戯作者。挿絵画家歌川国貞と協力して合巻の流行作家となる。代表作は「偐紫田舎源氏(にせむさきいなかげんじ)」(文政12(1829)年から天保12(1841)年の実に12年をかけて完成)であるが、水野忠邦の天保の改革(天保12(1941)年~天保14(1843)年)中、この作品で筆禍を受け罪科に問われて後、鬱病となり病死若しくは自殺したとされる。作中時間の天保2(1831)年には、彼の代表作で、歌舞伎の題材を選び舞台を見るままに描いた「正本製(しょうほんじたて)」12巻完結が版行されているので、それを指すか。これは表紙及び挿絵の人物が当時の実際の俳優の似顔を用いた、極めてビジュアルなムック本であった。ここで言う「種彦」が誰か、……そんな詮索はどうでもいいのだろうが、あの頃、いや、もしかしたら芥川龍之介亡き後の、戦後の、あの如何にもなセクシャルな刺激性を得意とした作家達を想定してみるのは、悪くないぜ。

・春水:為永春水(寛政2(1790)年~天保14(1844)年)。江戸の出版業者にして戯作者。式亭三馬・柳亭種彦らに師事し、人情本を得意とした。婦女子向けの恋愛小説「春色梅暦」で爆発的流行作家となるが、種彦と同様、天保121941)年に風俗壊乱の罪により手鎖50日の判決を受け、春水の諸本は絶版とされた。これは、私の全くの印象だが、その「春水」→「秋声」のアナグラムから当時の自然主義の流行作家であった徳田秋声を暗に指していはしまいか。

・この輕薄な、作者を自家の職人だと心得てゐる男の口から、呼びすてにされてまでも、原稿を書いてやる必要がどこにある?:この元になった芥川龍之介の嫌悪した編集者を特定することは、それほど困難なこととは思われないし、それは大変、知られた人物でもあるかも知れないな。

・手間取り:手間賃で雇われる人間、芥川龍之介がいつも口にした「買文業者」という謂い。

 

   「戯作三昧」 九 注

 

・ここゝまで:「ゝ」は「こ」の繰り返しの衍字。

・相州朽木上新田とかの長島政兵衞と云ふ男:私は悲しいことにここで思い出すのである。芥川龍之介の「トロツコ」である。僕はあの作品をテクスト化した際、ブログに次のように書いたのを思い出す。『この作は、芥川龍之介の知人で、作家志望だった力石平蔵の書いた原稿を素材にしたものである(凡そ倍に書き直したと聞く)。その後、力石の名が取り沙汰されることはなく、力石の原作を、僕は読んだことがない。力石の意識の中で「断續してゐる」その藪蔭には、芥川の後姿がちらちらと見え隠れするように見える時、僕は、この珠玉に、少しだけ淋しい気もすることがある。』……長島政兵衞が力石平蔵でないことを私は祈るばかりである(力石が長島のようであったとは思わない。それよりも、そのような確信犯として芥川がこれを書いたとしたら、私の中の芥川龍之介が哀しくなるということである)。「トロツコ」の発表は本作の発表の5年後、大正111922)年3月のことである。

・鄙吝:「ひりん」と読む。吝嗇(けち)のこと。

・彼はまだ今まで:「自分はあなたの八犬傳と云ひ、……」の段落の後ろ。岩波版旧全集ではここを初出に従い「彼はまだ今でも」とする。それも正しいとは思うが、これを衍字とするには、やや疑問が残る。

 

   「戯作三昧」 十 注

 

・落着がない:冒頭の一文の中。岩波版旧全集ではここを初出に従い「落着かない」とする。これは確かに誤植の可能性が高い。

・豹子頭林冲が:「ひょうしとう/りんちゅう」と読む。「水滸伝」中の勇猛な武将。魯智深の義兄弟とする。「豹子頭」は豹のように怖ろしい顔という意味の渾名。「三国志」の張飛の容貌である「豹頭環眼 燕頷虎鬚」と同じ表現がなされ、得意な武器も同様に蛇矛(槍棒)である。武芸は梁山泊中屈指。筑摩書房全集類聚版注によれば、『「水滸伝」百廿回本によれば、第十回。山神廟に風雪をしのぎ、まぐさ置場に火を放つくだり。』とある。私は「水滸伝」にも暗いが、作中、悲劇的な壮士として人気の高い人物であるという。

・佛參:「ぶつさん」と読む。

・纏綿する:からみつく、複雑に入り組む、の意。

・「先王の道」:儒家で言う仁に基づく理想的な聖賢の道徳的理想主義。

・磅礴:「ぼうはく」と読む。満ち広がる形容。

・偶:「たまたま」と読む。

・崋山渡邊登:渡辺崋山(寛政5(1793)年~天保12(1841)年)。洋学者にして画家。三河国田原藩家老であったが、画家谷文晁の門下となって西洋画法を取り入れた独自の画風を打ち立てた。高野長英や小関三英らと結び、幕府の攘夷論を批判する「慎機論」を著した結果、蛮社の獄に連座、逃走の後、郷国にて自刃した。馬琴の長男興継は伴に画を金子金陵に学んだ仲で、馬琴とも交友があった(馬琴は興継の死後に興継の肖像画を崋山に描かせてもいる)。なお、通称の「登」については筑摩書房全集類聚版では「のぼる」とルビを振る。揮毫では「のぼる」よりも「のぼり」とするものの方が多いとする。

・旁:「かたがた」と読む。

・繪絹:「えぎぬ」と読む。

・掌:筑摩書房全集類聚版では「(たなごゝろ)」とルビする。

・拊つて:打って。

・王摩詰:「おうまきつ」と読む。盛唐の詩人にして南画の祖とされる、王維。深く仏教に帰依し、杜甫の詩聖・李白の詩仙に対して詩仏と称される。

・食隨鳴磬巣烏下、行踏空林落葉聲:底本では「食隨鳴磬巣烏下、行踏空林落葉聲」の四箇所の返り点がポイント落ちで左下に入る。これは王維の以下の詩の頷聯の部分である。

 

   過乘如禪師蕭居士嵩丘蘭若   王維

  無著天親弟與兄

嵩邱蘭若一峰晴

食隨鳴磬巣烏下

行踏空林落葉聲

迸水定侵香案濕

雨花應共石床平

深洞長松何所有

儼然天竺古先生

 

○やぶちゃんの書き下し文

    乘如禪師・蕭居士が嵩丘の蘭若に過る   王維

無著 天親 弟と兄と

嵩丘の蘭若 一峰晴る

食は鳴磬に隨ひて巣烏下る

行は空林を踏みて落葉の聲あり

迸水は定めて香案を侵して濕ひ

雨花は應に石床と共に平らかなるべし

深洞 長松 何の有る所

儼然たり 天竺が古先生

 

○やぶちゃんの書き下し文(一部読み附き)

    乘如(じようによ)禪師・蕭(せう)居士(こじ)が

嵩丘(すうきう)の蘭若(らんにや)に過(よぎ)る   王維

無著(むじやく) 天親(てんじん) 弟と兄と

嵩丘の蘭若 一峰晴る

食は鳴磬(めいけい)に隨ひて巣烏(さうう)下り

行(かう)は空林を踏みて落葉の聲あり

迸水(ほうすい)は定めて香案を侵して濕ひ

雨花は應に石床(せきしやう)と共に平らかなるべし

深洞(しんどう) 長松(ちやうしよう) 何の有る所

儼然(げんぜん)たり 天竺(てんぢく)が古先生

 

○やぶちゃんの現代語訳

    乗如禅師と蕭居士のあられる嵩丘の寺院に立ち寄った折の歌   王維

御二人は無著大士と天親菩薩そのものとお見受けする ご兄弟

嵩丘のお寺 連なる峰々の一峰がくっきりと晴れ渡る

斎時(とき)を知らせる鳴磬の音(ね) それに随って鴉も巣を降りてくる

人気のない林中を跋渉すれば かさこそと落葉の声がする

山の泉からほとばしり出るこの上なく清らかな聖なる水の一滴(しずく)は

  きっと香炉を載せてある机に秘かに飛び散ってそれを濡らしているであろう

雨のように天から降りしきるこの世のものでない芳(かぐわ)しい花びらは

  きっと神仙の石の寝台(ねだい)と同じほどの高さにまで積もるのであろう

深い洞穴 高い松の木 そこにいらっしゃるのは誰(たれ)?

如何にもお二方はどちらもそっくりだ!

  天竺から仏となってお帰りになった老先生に――

 

○やぶちゃんの語釈(芥川の引用部を中心に)

「乘如禪師・蕭居士」:兄弟と思われる僧である以外は不詳。

「嵩丘」:嵩山。嵩高山。河南省登封県の北にある連峰。

「蘭若」:寺の建物を言う。

「過」:ちょっと立ち寄ること。

「無著天親」:どちらもインドの法相宗の祖とされる高僧(兄弟であった)の名。

「食」:寺院の定時の食事を言う斎時(とき)を指す。

「鳴磬」:寺院にあって時刻や行事を知らせるために打ち鳴らす石板。

「巣烏下」:これについて、1972年刊岩波文庫「王維詩集」(小川環樹他訳)の語注では、高木正一氏の説を引きつつ、『食事のとき一部を餓鬼に施すため食堂外に置く習慣があったらしく、それを目あてに下りて来るのだとされる。要するに次句とともに俗世とは異なる清浄な世界であるのをいう。』と記す。

「落葉聲」:これは意味上では落ち葉を踏んだ音の謂いであろうが、私は落ちる葉の立てる音も含めて訳した。

「迸水」:前記「王維詩集」注によれば、『東晋の名僧慧遠(えおん)は廬山を愛し、そこに寺を建てようとして土地探しをしたとき、のどの渇(かわ)いた弟子たちと誓いをたて、もしここが建てるにふさわしい場所なら神力により良い泉が出るであろうと杖で掘ると、清らかな泉が湧き出たという。それをふまえる。』とする。

「雨花」:これは実在の花ではなく、一種の法悦の花、ときじくの花の謂いである。前記「王維詩集」注には「法華経」に基づく話とし、『「序品(じょほん)」に「仏はこの経を説き終わって結跏趺坐(けっかふざ)し、無量義処三昧(むりょうぎしょざんまい)に入りて、身心(しんじん)動じたまわざりき。この時、天は曼陀羅華(まんだらけ)・摩訶曼荼羅華(まかまんだらけ)・曼殊沙華(まんじゅしゃけ)・摩訶曼殊沙華(まかまんじゅしゃけ)を雨(ふら)して仏の上及び諸(もろもろ)の大衆に散じ、普(あまね)く仏の世界は六種に震動す」』を引用した上、『ここは、仏が教えを説いて座禅に入ると、天から花の雨が降ったのに擬した。』とする。

「石床」:石で出来たベッド。神仙や隠者を暗示させるアイテム。

「儼然」:よく似ていること。そっくりであること。

「天竺古先生」:インドの老子。前記「王維詩集」注によれば、『六朝以来行われた説として、老子はインドに行って仏となり古先生と号したという。』とする。日本の本地垂迹説みたような話で、不謹慎にも私は思わず笑ってしまった。

 

   「戯作三昧」 十一 注

 

・後生恐るべし:「後生(こうせい)畏(おそ)るべし」と読む。後進の者の中には、努力次第で今後どのように向上発展する想像もつかない者がいる。だから恐れねばならない、の意で、出典は「論語」の「子罕篇」の以下の言葉より。

子曰。後生可畏。焉知來者之不如今也。四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已。

子曰く、後生畏るべし。焉(いづく)んぞ来者(らいしや)の今に如(し)かざるを知らんや。四十・五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦、畏るるに足らざるのみ。

・捗:読みの「はか」は「量(はかり)」の「はか」と同じで、仕事などの進み具合。やりおえた量のこと。進捗(しんちょく)状況。

 

   「戯作三昧」 十二 注

 

 

・改名主:名主の中で町奉行から風俗壊乱等の疑いがあるものを検閲することを命じられた名主。この場合の名主は町役人の一つで、町政を担当した下級官吏。町名主。

・陋を極める:見識や心根が極端に卑しく狭いさま。

・誨淫:男女の淫らなことについて教えること。

 

   「戯作三昧」 十三 注

 

・糅然:雑然。

・弓張月:馬琴の読本「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」。文化4(1807)年から同8(1811)年にかけて刊行された。葛飾北斎画。保元の乱で島流しとなった源義朝の弟鎮西八郎為朝を主人公とする。後半部では為朝は大島で死なずに琉球に渡り、八面六臂の大活躍する。

・南柯夢:馬琴の読本「三七全伝南柯夢(さんしちぜんでんなんかのゆめ)」。文化51808)年刊。葛飾北斎画。実際の心中事件「三勝(さんかつ)半七」ものを室町末期に移して脚色したもの。養父のために引き裂かれた半七とおさんの情話に、唐代の伝奇小説「南柯記」等を取り入れた作品。

・蹲螭の文鎭:うずくまっている螭龍(ちりょう:角のない龍。私の電子テクストである寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「螭龍」(あまりょう)の項を参照されたい)を象った文鎮。

・硯屏:「けんびょう」と読む。硯の側に立てて、風や散りを防ぐ小さな衝立。

・齎した:「齎(もたら)した」と読む。

・屑々たる作者輩:「屑々(せつせつ)たる作者輩(はい)」と読み、こせこせとつまらない小さなことにこだわるような愚劣な作家連中、の意。

・遼東の豕:「遼東(りょうとう)の豕(いのこ)」と読む。「後漢書」朱浮伝の、中国の遼東地方では珍しいとされた白い頭の豚が、河東地方では珍しくなかったという故事から、世間知らずのために、つまらないことを誇りに思って一人うぬぼれること、又はそのような人物の譬え。

・孫の太郎:先に記したように、文政111828)年、興継と妻路の間に生まれた孫の太郎である。作中時間では未だ三歳。馬琴は興継亡き後、この太郎に期待を掛け、金策や太郎の地位取得に奔走し、天保141843)年には将軍徳川家慶の日光御参詣の供奉の役に当たった折には、馬琴は事の外に喜んだ。馬琴は嘉永元(1848)年11月6日に「世の中のやくをのがれてもとのままかへすはあめとつちの人形」を辞世として亡くなった(享年82歳)が、馬琴が瀧澤家の将来を託した、そうして芥川が、馬琴の如何にも眼に入れて痛くない可愛さを表現した太郎は、馬琴死去の翌年、嘉永21848)年の10月、祖父の一周忌を待たずに22歳で世を去っているのである。

 

   「戯作三昧」 十四 注

 

・栗梅:やや薄い紫色を帯びた濃い赤茶色(栗の皮の色)を言う。私のHPブログの背景色である。

・靨:えくぼ。後出の「太郎はかう云つて……」の段落ではルビを振るが、この「栗梅の……」の段落ではルビを振っていない。

・糸鬢奴:本来は成人男性の髪形の一。月代(さかやき)を広く左右に剃り下げて、両方の鬢を細く糸のように残し、髷を頭の後方に低く結った。中間(ちゅうげん)・侠客等に好まれたが、ここは恐らく、それを真似た子供の髪型を指して言っている。

(補説)この時、芥川龍之介は未だ結婚していない。本作発表の翌年、大正7(1918)年の2月2日に結婚、長男比呂志の誕生は大正9(1920)年410日である。にも拘らず、私にはこの太郎と馬琴の会話に、強烈なリアリズムを覚えるのである。これは比呂志・多加志・也寸志との一齣、いや、私にはどうしてもあの、多加志の映像とかぶってくるのである――。

 

   「戯作三昧」 十五 注

 

・圓行燈:円筒形の行灯。遠州行灯。(リンク先は灯火器資料室室長中村氏のページ。灯も点るよ!)。

・神來の興:芸術的インスピレーション。ミューズの啓示。フラメンコのドゥエンデ。

・澎湃:「ほうはい」と読む。原義は、水がみなぎり逆巻くさま。ここは水の比喩で通しているのでそれでよいが、派生して、いろいろな事象やイメージが激しい勢いで沸き起こってくるさま、をも言い、勿論、それを掛けている。

・驅つた:「驅(か)つた」と読む。

・味到:「味到(みとう)」と読み、すべて味わいし尽くすことを意味する。

・丸藥:漢方の製剤をしているのである。但し、千葉大学文学部の高木元氏の「曲亭馬琴」のページによれば、興継は文政3(1820)年の秋に『松前志摩守の出入医者となり、二年後には筆頭として譜代の家臣並近習格となった』が、先に記したように、生来、虚弱にして癇症であり、孫の太郎が生まれた直後から病態が悪化し始める(病名は探り得なかった)。天保3(1832)年に『松前老侯が亡くなってからは、廃人同様の宗伯に対する待遇も冷たくなり、医業も廃して父の著作の手伝いなどをしていた』とあるから、この頃(天保21831年9月)に、このように自宅で調剤をする程の余力が残っていたかどうかは微妙である。

・尫弱:尩弱(おうじゃく)とも書く。虚弱。「尩」の原義は足萎えで、脛が変形していることを指す。