HP鬼火

やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン
僕のオリジナル古典教材による授業の一部を公開する。

【第一夜】「うつろ舟の異人の女」
 
円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見! (copyright 2005 Yabtyan)

◎本文

うつろ舟の蛮女   琴嶺舎

 享和三年癸亥の春二月廿二日の時ばかりに、当時寄合席小笠原越中守(高四千石、)知行所常陸国はらやどりといふ浜にて、沖のかたに舟の如きもの遥に見えしかば、浦人等小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に浜辺に引きつけてよく見るに、その舟のかたち、譬へば香盒(ハコ)のごとくにしてまろく長さ三間あまり、上は硝子障子にして、チヤン(松脂)をもて塗りつめ、底は鉄の板がねを段々(ダンダン)筋のごとくに張りたり。海巌にあたるとも打ち砕かれざる為なるべし。上より内の透き徹りて隠れなきを、みな立ちよりて見てけるに、そのかたち異様なるひとりの婦人ぞゐたりける。
  その図左の如し〔原文付図 ⇒ 舟の図 及び 婦人の図
そが眉と髪の毛の赤かるに、その顔も桃色にて、頭髪は仮髪(イレガミ)なるが、白く長くして背(ソビラ)に垂れたり〔頭書、解按ずるに、二魯西亜一見録人物の条下に云、女の衣服が筒袖にて腰より上を、細く仕立云々また髪の毛は、白き粉をぬりかけ結び申候云々、これによりて見るときは、この蛮女の頭髪の白きも白き粉を塗りたるならん。魯西亜属国の婦人にやありけんか。なほ考ふべし。〕。そは獣の毛か。より糸か。これをしるものあることなし。迭に言語(コトバ)の通ぜねば、いづこのものぞと問ふよしもあらず。この蛮女二尺四方の筥をもてり。特に愛するものとおぼしく、しばらくもはなさずして。人をしもちかづけず。その船中にあるものを。これかれと検せしに、
 水二升許小瓶に入れてあり〔一本に、二升を二斗に作り、小瓶を小船に作れり。いまだ孰か是を知らず。〕敷物二枚あり。菓子やうのものあり。又肉を煉りたる如き食物あり。
浦人等うちつどひて評議するを、のどかに見つゝゑめるのみ。故老の云、是は蛮国の王の女の他へ嫁したるが、密夫ありてその事あらはれ、その密夫は刑せらしを、さすがに王のむすめなれば、殺すに忍びずして、虚舟(ウツロブネ)に乗せて流しつゝ、生死を天に任せしものか。しからば其箱の中なるは、密夫の首にやあらんずらん。むかしもかゝる蛮女のうつろ船に乗せられたるが、近き浜辺に漂着せしことありけり。その船中には俎板のごときものに載せたる人の首の、なまなましきがありけるよし、口碑に伝ふるを合せ考ふれば。件の箱の中なるも、さる類のものなるべし。されば蛮女がいとをしみて、身をはなさゞるなめりといひしとぞ。この事、官府へ聞えあげ奉りては、雑費も大かたならぬに、かゝるものをば突き流したる先例もあればとて、又もとのごとく船に乗せて、沖へ引き出だしつゝ推し流したりとなん。もし仁人の心をもてせば、かくまでにはあるまじきを、そはその蛮女の不幸なるべし。又その舟の中に、□□□□[注:舟の図中の右上方に書かれた四文字が入る。]等の蛮字の多くありしといふによりて、後におもふに、ちかきころ浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船にも、これらの蛮字ありけり。かゝれば件の蛮女はイギリスか。もしくはベンガラ、もしくはアメリカなどの蛮王の女なりけんか。これも亦知るべからず。当時好事のものゝ写し伝へたるは、右の如し。図説共に疎鹵にして具(ツブサ)ならぬを憾とす。よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。[注:吉川弘文館「日本随筆大成 第二期 1 兎園小説 草廬漫筆」 曲亭馬琴編「兎園小説」第十一集より。下線は底本では傍点「ヽ」。]

●訳

うつろ舟の異人の女   滝沢興継琴嶺舎

 享和三年癸亥(みずのとい)春、二月二十二日の昼頃に、当時は寄合席であった小笠原越中守(石高は四千石)の知行所、常陸の国の「はらやどり」という浜で、沖の彼方に舟のようなものがはるかに見えたので、土地の漁師達が沢山の小舟を漕ぎ出して、それを浜辺に引きあげて、よく観察して見たところ、(まず)その舟の(全体の)形は香合のようで、丸く(円盤型で)、直径五メートル五十センチほど、(円盤の)上部はガラス張りの障子状、(桟に相当するところや下部の縁との部分は)チャン(松ヤニ)を用いて塗り固めてあり、下半分は(細く切った)鉄板を段々になるように連ねて筋状に張り合わせてある。岩礁に衝突しても砕かれないように(頑丈な造りに)してあるのであろう。上から内部がガラス越しによく見通せたので、皆がそばに寄って覗き込んだところ、何とも異様な風貌の女が一人、座っていたのであった。

 その(女性と乗り物の)図は左の如きものである。〔原文付図 ⇒ 舟の図 及び 婦人の図

 その女性の眉と髪は赤く、顔の色も桃色で、頭髪は白い付け髪で、それが長く背中に垂れている。〔頭注:私[注:これは筆者の父滝沢馬琴の注である]が思うに、「二魯西亜一見録」の人物の章のところに書かれている、『女性の衣服は筒袖で、腰から上の(ウエスト)部分を(ぎゅっと)細く仕立てて云々……』また『髪の毛は、(何かの)白い粉を塗った上で結んでおりまする云々……』とあるのに照らし合わせて見る時、この南蛮人の女の頭髪が白いのも(その)白い粉を塗ってあったのであろう。(従って彼女は)ロシアの属国の出身の婦人なのではないだろうか。なお一考を要する。〕付け髪の素材について、獣毛であるか撚り糸であるか、(そばにいた者達がいろいろ観察したが、)これが何であるか知る者はいなかった。互いに言葉が通じないので、どこから来たのかと問うこともできない。この南蛮人の女は六十センチ四方の箱を持っていた。(その箱を)特に大事にしているように思われ、ちょっとの間も手放すことなく(しっかりと抱いており)、(その箱には)人さえ近づけさせなかった。その(円盤型の)船中にあるものを、あれこれと検査して見たところ、

水が二升ほど小ぶりの瓶に入れてあり〔私が参考にした記録の一つには、「二升」を「二斗」と書き、「小瓶」を「小船」と書いてあった。未だにこのどちらが正しいのか分からない〕、敷物が二枚あった。菓子のようなものがあった。また獣肉を練ったような食べ物があった。

(彼女は)漁師達が集まって(彼女の処遇について)評議をするのを、おっとりと見ながら、微笑んでいるばかりである。一人の古老が言うことには、
「これは、南蛮人の国の王女で、(他国に)嫁に行ったのだが、愛人の男がいて、それが露見し、その男は処刑されたが、さすがにこの女は王の娘なので、殺すに忍びず、このうつろ舟に乗せて流して、その生死を天に任せたのではなかろうか。とすれば、あの箱の中身は愛人の男の首なのではあるまいか。その昔にもこのような南蛮人の女で、うつろ舟に乗せられたのが、近い浜辺に漂着したことがあった。舟の中には、俎板のようなものに載せてある人の首の、(斬首したばかりの)真新しいやつがあったという、言い伝えと考え合わせても、あの箱の中身も、そのような類いのものに違いない。だから、あの南蛮人の女がいとおしんで肌身離さず(持って)いるのに違いなかろう」
と言ったということである。
 この事件、お役所に届け出申し上げると、(取り調べのための)こまごました費用の(村の)負担が半端ではないことに加えて、このような(漂着者のような)者を(届け出ることなくこっそりと)沖へ突き流した先例もあるからということで、女をもとの通り、舟に乗せて、沖へ引き出して、押し流してしまったということである。

 もし思いやりの心でもってこの事件に(真摯に)当たったならば、そこまではしないであろうに、それはまさにその南蛮人の女の不幸というものであろう。(かわいそうなことをしたものだ。)
 また、そのうつろ舟の内部(の面)に、□□□□等の南蛮の文字が多く書かれてあったと言うことであったが、後になって気づいたことだが、近頃、浦賀の沖に投錨したイギリス船にも、これらにそっくりな南蛮の文字があったのである。だとすれば、かの南蛮人の女はイギリスの者であったのか、もしくはベンガル、もしくはアメリカ等の南蛮人の国の王の娘であったのであろうか。これまた、今となっては知るよしもない。当時の好事家が写して伝えたものは、右の通りである。(それにしても)図も説明も杜撰なものであって、具体的でないのが大いに残念である。よく知っている者がいるならば、是非とも尋ねてみたいことなのである。

◆語釈
・琴嶺舎:「兎園小説」は複数の好事家の談話のアンソロジーで、これはこの話の提供者のペンネームである。本名、滝沢興継、雅号は宗柏、馬琴の子息である。松前候の医員であったが天保六年(一八三五)に三十八歳で若死にしている。馬琴はこの子を非常に可愛がり、医師としての評判を上げてやるために自作の作品の中で宣伝をしたりしている。実はこの「兎園小説」の彼の提供したとされる話のいくつかも、残された原稿の一部から、馬琴が息子のために代作したということが森銑三によって明らかにされている。
・享和三年癸亥:干支は「みづのとゐ」と読んでおく。一八〇三年。干支は正しい。古文献では、こうした干支が間違っている記録は信憑性が極めて低い。

●補説1
《時代背景》
 幕藩体制の解体が進み、対外情勢の緊迫に伴い、国是の鎖国政策そのものが動揺をきたし始めた頃である。寛政八(一七九六)年にはイギリスの艦船が室蘭に来航しており、文化元(一八〇四)年には、ロシアからの使者レザロフが長崎に入港し、通商を要求してくるのである。異人の女の到来が、まさに開国の機運がここに切って落とされた頃のことであるのは興味深い。

・二月二十二日:この年は閏一月があったため、一八〇三年四月十三日に相当する。
・寄合席:江戸時代の旗本で、番方・役方に就かない者の呼称。禄高三千石以上。「席」は地位という意味。
・知行所:旗本が支配地として給付された土地。
・常陸国:現在の茨城県。
☆はらやどり:後述する、同話を載せる「梅の塵」では原舎浜(はらとのはま)と記載。現在の鹿島灘の大洗海岸とも言われるが、実在地名には同定できない。ちなみに最近、大洗と鹿島の中間地点のある大竹海岸に、この話をもとに遊具を兼ねた円盤形のモニュメントが作られた。またインターネット情報では、子生(こなぢ)海岸というかなり有力な説を発見した。この地はそのモニュメントがある海岸から北へ五、六キロ行った場所であるという。『海岸線を辿っていくと、そこが子生海岸になる。ここには子生弁天があって、ここにお参りすれば子供を授けてくれると、古くから信じられているという』(ホームページ「ツーリングドライブ」コラム「2002/10/17 はらやどり浜」内田一成より引用)伝承といい、名称といい、これは同定としては極めて信憑性が高いと思われる。

●補説2
《地名の表記に隠されたもの》
 実はさりげないこの表記にこそ、この話の内包する民俗学的或いは諧謔的な意味が隠れていはしないだろうか。
 まず、「常陸」は「常盤」「常磐」「ときは」で、本来、実在の地名ではなく、中世の草子や説経節等の語り物などに出現する、この世ならぬ国を示すことに注意しなくてはならない。それは、戌亥(北西)の方角に存在し、そこには祖先の霊がおり、富や豊饒をもたらしてくれるユートピアと考えられた。「常陸」=「ときは」とは「常にその性質を変えずに存続し続ける岩石」の意味であるが、「常」の字の共有から「常世」と混同され、ほぼ常世と同意に用いられたと考えられているのである。
 すなわちこの伝承自体は、この世の事ではない「常世」の国の出来事として、本来、作話された可能性があるということである。
 そう読んだ時、「はらやどり」という名称も、妙に気にかかるのである。「はら」は「やどり」との関係から考えて「腹」であり、これはまさに「うつろ舟の腹(内部)に宿っていた(乗っていた)」女が上陸するに格好な名称ではないか。
 先に紹介したインターネット情報で子生海岸を同定して筆者は、『子生の弁天様にお参りして、子供が腹に宿る。まさに「はらやどり」そのままではないか。兎園小説がまとめられてから二〇〇年あまり、「はらやどり浜」は鹿島灘のどの海岸を指すのか謎だったわけだが、それが、いともあっさり解明されてしまった。もっとも、それをまた検証してみなければ、はっきりと解明されたとはいえないわけだが、謎解きは、得てして、そんな風に気抜けするほど、悩みに悩んだ答えがあっさり見つかったりするものだ。それに、「はらやどり浜」=「子生浜」という図式は、自分の中で正解だという手ごたえが感じられる』(ホームページ「ツーリングドライブ」コラム「2002/10/17 はらやどり浜」内田一成より引用)と述べておられるが、逆に、そのような子宝伝説をもとに、このうつろ舟の蛮女の伝説が作話されたと考えることも出来よう(これは勿論、子生の弁天の由来の考証をする必要がある)。
 馬琴は稀代の戯作作家である(本作を私はまさに馬琴の代作と考えている。その根拠は頭書と地の文の相補性と文体の連続性である)。恐らくこのような民俗学的な言語パロディを面白く思っていたに違いない。
 しかし、考証オタクでもあった彼は、書くうちに現実的解釈を続々と追加してゆく。その中で、彼はこれを事実の物語と変成させてゆくのである(明らかに後代の作品である「梅の塵」が完全な事実談として記載しているのは、まさに、この江戸の都市伝説が信じられる噂話として変化していったであろう証である)。
 誤解してもらっては困るのだが、私はこの話をフィクションだと言っているのではない。まさにこのエピソードは、虚実皮膜の面白さと、その後の典型的な流言の変遷過程を示す格好の資料という側面をまずは持っていると言えるということを確認したかったのである。民俗学的考察や心理学的分析とはそのようなパラレルなものであることを知ってもらいたいのである。

・香盒(はこ)[正しくは「かうがふ」]:香料を入れる容器。漆塗・蒔絵・陶器などがある。香箱。香合。円盤状である。
・三間:約五メートル五十センチ。
・チャン:通常は「瀝青」を意味するが、この頃は同様な充填・塗装材たる松脂もこのように言ったのであろう。
*瀝青:(chian turpentine の略という) タールを蒸留して得る残滓、または油田地帯などに天然に流出固化する黒色ないし濃褐色の粘質または固体の有機物質。道路舗装や塗料などに用いる。ピッチ。【「広辞苑」より引用】
☆その図左の如し:別紙図参照〔取り込めないので残念ながら省略〕
・仮髪(いれがみ):髪を結う時に添え入れる髪。いれげ。
☆頭書(かしらがき):書物の本文の上部に解釈などを書き加えること
☆解(とく):馬琴の本名である。もとは「興邦」(おきくに)と言い、後に「解」と改めた。
・二魯西亜一見録:作品を同定出来なかった。但し、最初の「ニ」は「按ずるに」の「に」の衍字ではないかとも思われる。
・二尺:約六十センチ。
・迭に(たがひに):本来は「かはるがはるに」と読むところであるが、恐らく「互いに、かかわって」というこの字義から読んでいると判断し、このように読む。
・筥(はこ):但し、本来この字は四角い箱の意味の「筐」の対語で丸い箱を指す。
・検(けみ)す[サ行変格活用]
・水二升許:これは筆者の記載であるが、先の頭書と比べると、その語り口の共通性が私には感じられる。これも本作が滝沢馬琴の代作であると感じさせるところである。
・孰(いづれ)か[漢文脈に現れる疑問の助字]
・菓子やうのもの:パンかクッキーであろう。
・肉を煉りたる如き食物:腸詰(ソーセージ)の類か、もしくはレバーペーストか。保存食ならば燻製肉か干肉であろうが、「煉」は「ねる」であって、そのような意味はない。
・虚舟(うつろぶね):うつほぶね。うつおぶね。空舟とも。本来は、大木の中をくりぬいて造った丸木舟を言う。ここでは、中が中空になった構造を言っている。
☆あらんずらん→あらむずらむ:本来は「あらむとすらむ」で、推量の助動詞「むず」に更に現在推量の助動詞「らむ」がついているのであるが、中世以降は「んずらん」で一語のように用いられるようになる。単に推量の強調形と考えてよい。
・なめり→なんめり(断定の助動詞「なり」連体形「なる」の撥音便無表記+婉曲の助動詞)
☆雑費も大かたならぬ:このような事件の場合の官憲の出張や接待はすべて現地の人々の負担となった。寒漁村にとっては、大いに迷惑であったろう。
・となん:「聞きけり」等が省略され、ここで伝聞が終了し、以下は馬琴の補説である。
☆□□□□等の蛮字:別紙図〔取り込めないので残念ながら省略〕及び補説4参照。
・ちかきころ浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船:「兎園小説」成立の一八二五年より以前で、このような事実を調べると、一八一八(文化一五/文政元)年のイギリス人ゴルドンの浦賀来航を指していると思われる。打払令によって撃退された著名なモリソン号の来航は、一八三七(天保八)年である。
・歇(カヽ)りたる:この字は「やむ」「つく」としか訓じないが、この字の「やすむ」「とどまる」の意味で、「繋留」の「繋」の訓を借りたものと思われる。
・ベンガラ:縦糸が絹糸、横糸が木綿の織物である「紅柄縞」(べんがらじま)はオランダ人がインドから伝えたとされており、ここはインド半島東北部のベンガルを指すと考えてよい。
・疎鹵(そろ):おろそか。疎漏。粗略。
・憾(うらみ):心残りに思う。残念に思う。「遺憾」
・まほしき(願望の助動詞)
・かし(念を押す終助詞)

*引用文献「兎園小説」
 江戸後期の随筆。編者は滝沢解(曲亭馬琴)。一八二五(文政八)年成立。同年、滝沢解、山崎美成を主導者として、屋代弘賢、関思亮、西原好和ら計十二名の好事家によって、江戸や諸国の奇事異聞を持ち寄る「兎園会」と称する月一回の寄合いが持たれ、その文稿が回覧されたが、その集大成が本書である。三百話に近い怪談奇談が語られ、当時の人々の風俗史を語る上でも貴重な資料と言える。             

◆以下に「兎園小説」の挿絵中の注記の訳文及びそれへの注を添えた。〔原文付図 ⇒ 舟の図 及び 婦人の図

・図中解説文の訳

婦人の図の上方の書き込み〕
①かつらの束髪は白い。何とも言いようのない(見たことない不思議な)しろものである。
 *「假髻」(すえ)とは元は奈良・平安時代に女性の髪を豊かに見せるために添えた他者の髪で作った添え髪のこと。「髻」 は単独では「たぶさ」で、「頭髻(たきふさ)」の変化したものかとされ、髪の毛を頭上に集めて束ねたところ。「もとどり」とも称する。
婦人の図の右の書き込み〕
②(ボタン等服に装飾として付けられた)練り物の飾り玉が青い。
 *ネリ玉=練り物:薬物を練って固め、珊瑚や宝石に似せた飾り玉。
婦人の図の左の書き込み〕
③この(抱えた)箱は約六十センチ四方。
〔舟の図の上方右寄りの書き込み〕
④このような南蛮の字が船中に多く書かれていた。
舟の図の上方の書き込み〕
⑤ガラス張りの障子状、その他の部分は松脂で塗り固めてある。
舟の図の下方右寄りの書き込み〕
⑥鉄(板)を用いて張ってある。
舟の図の下方の書き込み〕
⑦(円盤の)直径は五メートル半程。



◆参考文(同話を所収する「梅の塵」の本文と訳・注釈)
 *引用文献「梅の塵」:梅の舎主人の見聞記。天保年間(一八三〇~一八四四)の人と思われるが、一切不詳。

◎本文

○空船の事
 享和三癸亥年三月二十四日、常陸の国原舎浜(はらとのはま)と云う処へ、異船漂着せり。其船の形ち[注:ママ]、空(うつろ)にして、釜の如く、又半に釜の刃の如きもの有。是よりうへは黒塗にして、四方に窓あり。障子はことごとく、チヤンにてかたむ。下の方に筋鉄(すじかね[注:ママ。本来は「すぢかね」。])をうち、何も南蛮鉄の最上なるもの也。総船の高さ一尺弐寸、横径(よこさしわたし)一丈八尺なり。此中に婦人壱人ありけるが、凡年齢二十歳許に見えて、身の丈五尺、色白き事雪の如く、黒髪あざやかに長く後にたれ、其美顔(うつくしきかほ)なる事云計りなし。身に着たるは異(こと)やうなる織物にて、名は知れず。言語は一向に通ぜず。また小さ成箱を持て、如何なるものか、人を寄せ付ずとぞ。船中鋪物(しきもの)と見ゆるもの二枚あり。和らかにして、何と云もの乎しれず。食物は、菓子と思鋪(おぼしき)もの、併に煉たるもの、其外肉類あり。また茶碗一つ、模様は見事成る物なれども分明(わか)らず。原舎(はらとの)の浜は、小笠原和泉公の領地なり。[注:吉川弘文館「日本随筆大成 第二期 2 松屋叢話(他)」 梅の舎主人「梅の塵」より] 

●訳

○うつろ舟のこと
 享和三癸亥年三月二十四日、常陸の国の原舎浜(はらとのはま)という所に、不思議な舟が漂着した。その舟の形は、中が空洞で、釜のような形で、また、(球状の水平面の)中央部分に釜の刃(=はかま)のようなものがある。そこから上は黒塗りで、四方に(向いた)窓がある。(それぞれの窓の)障子はすべて松ヤニで塗り固められている。はかまの下の部分には(板状の)筋鉄を打って(補強して)あり、それはどの部分も南蛮鉄の最上の品質のものである。およそ舟の高さ三メートル六十センチ、(水平面の)横の直径は五メートル四十センチである。(さて)この舟の中には一人の婦人がいたが、およそ年齢は二十歳ぐらいに見え、身長一メートル五十センチ、肌の白さは雪のごとく、鮮やかな黒髪を長く後ろに垂らし、その美貌と言ったら言いようもないほどである。身につけている衣服は見たこともない異様な織りで、何という名の織物なのか分からない。言葉は全く通じない。また、小さな箱を持っており、何が入っている箱なのか、(ともかく)決してその箱に人を寄せつけなかったということである。舟の中に、敷物と見られるものが二枚あった。柔らかで、何という素材かも分からなかった。(さらに舟中の)食物(として)は、菓子と思しきものや、(何かを)練った(ペースト状の)食べ物、その他にも肉類などがあった。また茶碗が一つ(あって)、模様は見事なものであったが、いったい何の模様なのか、これもまた分からなかった。原舎浜というのは、小笠原和泉公の領地である。

◆「梅の塵」の図〔舟及び婦人の図

◆注釈
・三月二十四日:「兎園小説」より一月程後である。
・半(なかば):中央部分。
・刃:これは図を見る限り、釜の袴の部分を言っている。
・何(いづれ)も
・総(およそ)
・舟の高さ一尺弐寸:約三メートル六十センチ強。「兎園小説」にはない貴重な情報である。
・横径一丈八尺:直径約五メートル五十センチ弱。単位が異なるが「兎園小説」と一致する。
・凡(およそ)
・二十歳許(ばかり):新情報である。次の身長や髪の長さからの類推か。
・五尺:一五〇センチ強。これも「兎園小説」にはない。
・色白き事雪の如く、黒髪あざやかに長く後にたれ、其美顔(うつくしきかほ)なる事云計(いふばか)りなし:「兎園小説」と髪の描写が異なる。言語を絶する美人であったことも着目しておこう。

●補説3
 「梅の塵」は記載量が少なく事後のことも記載しない不完全なものであるが、微妙に「兎園小説」の不明部分を補完している。その点で、これはもしかすると「兎園小説」とは別な同話のソースから得たものとも思われる。決定的相違点に見える髪の描写も、当時ヨーロッパで流行していたシルバーのかつらに着目した「兎園小説」と、その下の実際の長い髪に着目したのだと考えて何ら問題はあるまい。

・小さ成(ちひさなる)
・鋪物=敷物。総じて「兎園小説」よりも観察が行き届いていて、現実味を感じさせる。高級なベルベットかタペストリー状の織物であろう。この女性の高貴な出自を感じさせる重要なファクターである。
・乎(か):係助詞の文末用法。終助詞とも。

●補説4
《不時着したUFO? うつろ舟の形状》
 超常現象を否定する識者も、ややこのうつろ舟の形状には頭を悩ますに違いない。二話を総合すると、これがまさにUFOの如き円盤状をなし、その直径五メートル四、五十センチメートル内外、それに比例させて、人が入れることを考慮すると、「梅の塵」の高さ約三メートルは妥当な線で、実際に作図して見ると分かるが、図1よりもさらに円盤状となる。更にご丁寧にも「梅の塵」の図ではフライング・ソーサー染みた周辺翼(はかま)も付属した、かなり巨大なものなのである。
 かくの如き船型はそれこそ現代のエアーバルブの大型救命ゴムボートにならあるが、古来の伝統的な通常の洋船和船には見られないものである(樽船やたらい船があるが、このように上面を完全に覆った円盤状のものは、少なくとも私は寡聞にして知らない)。
 但し、これが「兎園小説」の古老のように、刑罰を目的とした特殊なもので、そのようなものが他国にあった可能性は否定出来ないであろう。

《白人美形と言えばアダムスキーの金星人? うつろ舟の女は何者か》
 しかし更に言えば、これは刑罰ではなく、ある種の宗教的儀礼に用いられる神聖な(従って実用的形状ではないと言える。当時の操船技術から考えても、この形状が航行可能な船舶の形状とは思われない)船であった可能性もあると私は考える。
 たとえば日本においても、補陀落(インド南部にあると伝えられるPotalakaの音訳)に向かって決死の船出をする、熊野以南の補陀落渡海信仰がある。屋形船の木製コンテナの中に幾ばくかの食物を入れて渡海の上人を密閉し、沖へと送り出したのである。実際に琉球に生きて漂着し、仏法を普及させた渡海上人もいる、実際に行われた儀礼である。
 そしてそもそも、「古事記」の倭健(ヤマトタケル)神話中、走水の海渡りの神を鎮めるために、后の弟橘比売(オトタチバナヒメ)が皇子に代わって入水した例に示されるように、古今東西、海洋系の神は女の生贄を好むものなのである(船乗りが女性の乗船を嫌うのは一見逆に見えるが、これは後代、海神が弁財天のように女神化されたために、嫉妬をすると考えられたからではないかと思われる。何より実際には、和船において古くから、航海の無事を祈って船底に密かに祭られる呪物が、女性の髪の毛や陰毛であったりする事実は余り知られていない)。
 まさに女神の性質を感じさせる地名である「はらやどり」の村人たちが、自分達の村の平穏のために「推し流し」たように、この女性もそのような神への供儀として「推し流」されてきた者、一種の生贄の巫女であったとさえ言えないであろうか。今後は、このような民俗習慣がロシアにあったかどうかを考証する面白さが残る。
 私には、村人の談合を、黙って、ちょっと微笑みつつも見つめている寂しげな彼女の姿は、ある種の宗教的諦観に裏打ちされた、崇高とも言える美しくも哀しいシーンであるようにさえ、思われるのである。

《無線操縦機か? タブーの箱は何?》
 彼女の所持する箱は最大の謎だ。しかし二尺四方というのは抱えるだけでも難儀な大きさである。「梅の塵」では小さな箱と表現しており、もう少しコンパクトであったかもしれない。私は前記のように彼女が巫女であったという推測から、これはある種の神文、神への祝詞に類するものが封印されたものと考えるが、「兎園小説」の古老の、処刑された愛人の首という考察は、なかなかに文学的浪漫的な味わいがあり、このエピソードを魅力的にしている最大の山場であろうと思う。この謎は、この作品の文学的眼目とも言えよう。この謎あってこそ、この話は永遠にエンターテインメントとして我々を楽しませてくれるのである。

《エイリアンの宇宙文字? 蛮字の検討》
 次に、このに見える奇態な文字について考察してみよう。
 そもそもこの絵自体の資料性は、③で「四方」と言いながら、長方形をしている点や、⑥のかなり書き込まれている船底の細部(ボルト状の構造物や鉄板の白黒の差異等)についての説明が全くない点等、検討に値するものとは言えない面があるのであるが、作者自身がこの字体に対して、後日、この字から強い現実的な考証の意欲を示しているわけで、作者のそのような興味を喚起するだけの、ある種の強い「類似性」をこの図の文字は持っていたのだと考えざるを得ない。即ち、この字形は、いい加減に創作されたものではないと考えてよいと思われるのである。
 まず考えられるのは、これらが実見されて書かれたものであるとすると、当時の習慣から、船中に書かれた文字を、日本風に縦に見たに違いないと思われるということである。とすれば、これは連続した意味ある単語ではなく(「等の蛮字の多くあり」という記述がそれを語っている)、横書された各文字列の内、特徴的な字(大文字或いは装飾性の高い字等)を選び出して、それを、知らずに横転させて写したものと考えるのが自然であろう。
 そうなるとこれは、横にして検証すべきである(「梅の塵」の記載では、船底にはベルベットかタペストリー状の敷物があったとあり、文字は船の下半分の内部側面に記載されていたと考える時、一層その妥当性が示唆される)。
 それでは、まずは次の二種類の文字を見ていただこう。

  
Ж ж   Ф ф

如何であろう、記載された文字の中央の二字と極めてよく似ていると感じられるであろう。これはそれぞれロシア文字のアルファベット、

  
Ж ж     ジェ(英語にはない。「ジェット機」の「ジェ」の音に相当する文字)

  
Ф ф     エフ(英語のFにあたる。ギリシャ語のファイ(φ)から来ている)

である。現代の日本人でも、英語にない、これらの英語にない字形は初めて見ても印象に残りやすい。さらに両脇の字も同じくロシア文字のアルファベット、

  
Д д     デ(英語のDにあたる。君達は知らずにこれを絵文字に使っているだろ?)

  
Я я     ヤ(英語にはない。日本語の「や」、別発音では「い」に似た発音)

を、ゴシックのような装飾体や装飾された筆記体で記したものに似ているように思えるのである(このデルタ形の上下の○は装飾字体や草書のカーブ部分を感じさせる)。
 馬琴は文中、「イギリス船にも、これらの蛮字ありけり」と英語の文字と同じものだと言っているのだが、装飾されたり、ゴシック体で書かれた英語のアルファベットは(それが全く異なった言語体系のロシア文字であったとしても)、それは日本人にとって恐らく全く同じ印象を与えたに違いないのである。ここに俄然、この女性の故郷がロシアまたはその属国という馬琴の考証の確かさが伝わってくるではないか。
 ちなみに、面白いことにヨーロッパ・ロシア地域で頻繁に目撃されたUFO(未確認飛行物体)の特徴の一つが、船底に「王」「Ж」の字を刻んだ円盤であったことを思い出した(ご丁寧にウンモ星人という名前も分かっている!?)。二百年を隔てて我々の前に出現する二つの「王」のマーク、何だかそれだけでゾクゾクするキッチュな面白さを感じるではないか。
   *** 
 それにしても我々は、常世から漂着する賜物を受け取りながら、その実、厄介になりそうなものを必ず海に「推し流し」て生きて来た。海洋汚染をし続ける現在も構造は同じである。そうして海の彼方のユートピアを裏切りしてきた以上、かつての幸福を授けてくれるはずのニライカナイは、我々に望まざる返礼をしてくるとも言えるのではあるまいか。

【第一夜】了
【やぶちゃん2018年9月17日追記:ブログ・カテゴリ「柳田國男」で本篇を扱った柳田國男の論文「うつぼ舟の話」(全七章)の全電子化注を終えた。但し、私は注で激しい柳田國男批判をしているので、彼の信望者は読まぬが身の為と言い添えておく。】【2021年10月21日追記:ブログ・カテゴリ「兎園小説」に於いて、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) うつろ舟の蠻女』を正字正仮名で、注もテツテ的にブラッシュアップして公開したので、そちらを完全版とする。】



【第二夜】「妖しい少女」
 
存在しない不可思議な少女は都会の雑踏の闇に忽然と姿を消した! (copyright 2005 Yabtyan)

◎本文

   ○あやしき少女の事   文宝亭 録
新肴町嘉兵衛店大工伝吉儀、先月廿五日朝五時比、七歳に罷成候娘かめと申す者を連れ、弓町大助店忍冬湯と申す薬湯渡世致し候栄吉方へ入湯に罷越候処、十一二歳位に相見え候女子髪ゆひ候者、右女子同様に入湯いたし居、右かめと友達の様に心やすく咄などいたし、伝吉帰り候節、娘かめにはよきものを遣し可申間、残し置候様申候に付、何の心も不附残し置、伝吉罷帰り申し候処、しばらく過ぎて右之女子、かめを連れ伝吉宅へ参りなれなれ敷いたし、右かめの髪などゆひ遣し、菓子抔遣し候に付、住所相尋候得ば右之忍冬湯向米屋の娘之由申聞、夫より直にかめをつれ木挽町芝居に参り、帰りに同人伯父のよし、同所二丁目裏屋へはいり、かめへ古き丹後島の帯壱筋、木綿島子供前垂壱つ、黒縮緬おこそ頭巾壱、右三品を呉れ相帰し申候。又候翌朝徳利へ酒壱合程入持参、母より遣候趣申候。即刻、又々酒少々徳利へ入れ、めざし鰯一くし持参、自分とかんをいたしたべ、伝吉方に有合候浅漬香の物を貰ひたべ、是は何方にて何程に買ひ候哉と承り相帰り、又候間も無之右浅漬一本調ひ持参、自分洗ひ一寸位づつ大きくきり不作法にたべ相帰り申候に付、不思議に存じ。同夜伝吉妻いくと申者、右之忍冬湯向米屋へ礼に参り候処一向相知れ不申候。猶又翌朝廿八日早朝に右之娘参候間、住所再応相尋候得共、彼是申し紛し候に付き、右いく同人忰兼次郎と申す十六歳に相成候者両人にて、行先を見届可申と申合、右娘帰り候節、跡をつけ参候処、南横町より西紺屋町河岸へ足早に参候間、見届可申と存候内、何方へ参候哉見失ひ、一向行方相知れ不申候に付、右町内を近辺とも再応承り合候処、右の少女、此節処々へ参り娘の子の髪などゆひ遣し候に付、宿を承り候へ共、家々にて替り候名前のみ申候儀に付、全く狐狸の成す業にも可有之哉、此節専ら処々方々にて、右体の取沙汰御座候に付、此段申上候以上。
 子十二月十一日
                    新肴町名主後見 西紺屋町名主 弥五右衛門
右書上げのまま写し、こは文化元甲子年の事なり。[注:吉川弘文館「日本随筆大成 第二期 1 兎園小説 草廬漫筆」 曲亭馬琴編「兎園小説」第三集より]

●訳(臨場感を出す為に一部の間接話法を直接話法に変えてある。また申し文という性質上、文章がほとんど切れないので、適宜、句点を打ち、シークエンスごとに改行、行空けし、読み易さを図った。)

   ○妖しい少女のこと   亀屋久右衛門文宝亭 記録
 新肴町の嘉兵衛店に住む大工伝吉という者が、先月二十五日の朝五時頃、七歳になる娘のかめと申します者を連れ、弓町大助店の忍冬湯と申します薬湯の銭湯を経営しておりますところの栄吉のところへ、湯に入りに参りましたところ、その湯屋(の客)に十一、二歳くらいに見えます女の子で、(もう)髪は結い上げている少女がおりまして、その少女が、一緒に風呂に入り、同座し、娘のかめと友達のように心安く話など致しておりました。
 そのうち、伝吉が帰ろうと致しますと、
少女「かめちゃんにいいものあげたいの、だからね、もうちょっと一緒に居させてね」
と申しますので、伝吉は(かめの知り合いの子かと)[注:続き具合から補った。]何の不審も感じずに、娘を残して一人で先に帰ったのでございます。
 さて伝吉が家に帰って暫くののち、少女はかめを連れて伝吉宅に帰って参りました。ところが、(その少女は伝吉の家に上がり込むと)随分馴れ馴れしく振る舞いまして、かめの髪を結ってやったり、菓子等をくれたり致しますので、(少女に)住所を尋ねましたところ、忍冬湯の向かいの米屋の娘だと申しました。
 それからすぐに、少女はかめを連れて木挽町の芝居を見に行き、(帰ったかめに聞いたところ、)[注:続き具合から補った。]帰りに少女の伯父の家だという、木挽町二丁目の裏長屋に入って、かめに古い丹後島の帯一本、木綿島の子供の前垂れ一つ、黒縮緬のおこそ頭巾一つ、以上の三品をくれて、かめを帰しましたのでございます。

 さてまたその翌(二十七日)朝、小娘は徳利に酒を一合ほど入れて持参し、
少女「母が伝吉さんところへ持って行くようにと言ったのよ」
というようなことを申しまし(て帰りまし)[注:続き具合から補った。]た。
 (しかし)すぐに、またまた酒少々を徳利に入れた上に、(今度は)目刺し鰯一串と一緒に持参しまして、(あれよあれよという間に)自分でその酒を燗致しまして、(なんと鰯を肴に)酒を飲み、さらに伝吉の家にあった浅漬けの香の物を貰って食べた上、
少女「ね? これはどこで、どれくらい買ったの?」
と尋ねて、また帰って行きました。
 (しかし)また、その後間もなくすぐやって来まして、伝吉の家のと同じ浅漬けを丸一本持参し、自分で洗って三センチぐらいずつ、(えらく)大きくぶつ切りにした上、(なんとも)無作法に食べて帰って行きましたので、流石に伝吉方でも変に思いました。
 (そこでまず)その夜、伝吉の妻のいくと申す者が、忍冬湯の向かいの米屋にお礼に参りましたところが、米屋は、そのような娘はいないと申すのでございます。(その米屋の)近所を尋ねても、やはり一向に(そのような少女は)知らないとのことでございました。

 それでもなお、二十八日早朝に、また小娘が参りましたので、住所を再び尋ねようと致しましたが、あれこれと言いごまかすのでございます。
 そこで、いくと、いくの兼次郎と申します十六歳になる息子と二人で、行く先をつけて確かめようと申し合わせ、少女が帰る折、跡をつけましたのでございます。
 南横町から西紺屋町河岸へと足早に行くのまでは見届けたのでございますが、その先はどこへ行ったやら見失ってしまい、一向に行方知れずになってしまったのでございます。見失った西紺屋町近辺で再びいろいろ尋ねて見ましたところ、(なんと)この少女は近頃、(この辺りの町内でも)あちこちの家に参っては、(その家の)小さい娘の髪などを結っやったりしておりまして、少女に住所を尋ねると、それぞれの家々で違ったことを言っておりまして、名前だけは申すという次第でございました。

 さても全く狐か狸の所業ででもあろよと、最近、しきりにこの辺り一帯で以上のような噂になっておりますゆえ、このように(お上に)申し上げます次第です。

 子年十二月十一日

                    新肴町名主後見 西紺屋町名主 弥五右衛門  
 以上は書かれた(申し文)そのままを書き写したものである。これは文化元年甲子の年ことである。

◆注釈(町名や現在地の同定についてはインターネットを駆使して同定した)
・文宝亭:「兎園小説」序によると、亀屋久右衛門、本名不詳。飯田町で薬種を商い、後に二代目蜀山人の号を継いだとある。
・新肴町(しんさかなまち):現在の銀座三丁目の西。
・店(たな/ここでは連濁して「だな」):貸家。江戸時代、長屋全体には所有する大家の名前や通称地名等を付けて呼んだ。 
・儀:(主に文章語として) 人を示す体言に添えて、「それについて言えば」の意を示す。特に訳す必要はない。
☆罷成候(まかりなりさふらふ):町方役人に提出するための書状であるため、全文が候文の丁寧表現であり、またそのほとんどの場面で、庶民の行動が謙譲表現になっている。この「罷る」は単に自己側の行動を卑下した謙譲表現である。「なる」は準公式文書の改まった表現であって、全体を訳すと「参りました」となる。
・弓町:現在の銀座二丁目の西。
・先月:十一月。
・薬湯:薬風呂。薬草・薬石等を混入した風呂であるが、これは江戸期の湯屋(ゆうや=銭湯)であるので、蒸気の中に薫蒸した薬草等を入れたものである可能性もある。
・渡世:それを生業としていることを指す。営業。
・罷越候処(まかりこしさうらふところ)
☆十一二歳位に相見え:後にも多出する「相」(あひ)は漢文脈によく現れる用字で、ある動作や状態の場面において、何か対象が存在することを示しており、「互いに」という意味ではない。
           
●補説1
 ここでは「相見え」の部分に着目しておこう。この少女は実際には、子供っぽい顔であったのかもしれない。もっと年上の可能性が大きい。
 それは次の、「髪ゆひ候者」という部分が根拠となろう。これは当時の髪上げの習慣が十一歳が下限であったからこそ、このように述べていると考えられるからである。すなわち伝吉は専ら少女の髪形に引かれる形で年齢推定をしているのである。

・居(をり):これは、当時の湯屋の構造から、湯に膝まで浸かっていたか、板敷きに座っていたかの二様に取れる。
・咄(はなし)
・節(せつ):折、時。
・娘かめにはよきものを遣し可申間、残し置候:ここは少女の間接話法である。
・遣す(つかはす):やる。与える。贈る。これは本来尊敬語である(「遣ふ」未然形+尊敬の助動詞「す」)が、現代語の「あげる」(「やる」の尊敬語)同様に、江戸期には敬語の意味を喪失していた。 ・可申間(まうすべきあいだ):~しようとしておりますので。この助動詞「べし」は予定。予想の用法である。
☆何の心も不附(つけず):「こころつく」は他動詞下二段なので(四段ならば自動詞)、①心をとめる。執心する。②注意する。警告する。ここでは②で、「気にかけない」の意味である。そうすると、伝吉がなぜ気にかけなかったのかが問題となる。これは彼がこの少女を、自分の知らない娘かめの友達だと考えたとしか思えない。でなければ、不用意に娘を託すはずがないからである。そこで訳文では(かめの知り合いの子かと)と補った。
・なれなれ敷(しく):「敷」は形容詞の活用語尾。よくこのように漢字表記した。文章からは余りそのような印象を受けないが、事実は伝吉一家がびっくりするような馴れ馴れしい行動があったか、もしくは後述の翌日の行動等が記載時に影響したのかもしれない。
・菓子抔遣し:「抔」は「等」の異体字。ここでは少女が菓子を与えていることに注意しておきたい。以下この少女、子供にも関わらず余裕があるのである。
・相尋候得ば(あひたづねさうらふうれば):尋ねて見ましたところ。接続助詞「ば」は順接の確定条件なので、とりあえず文法的に正しく、「得」は「うれ」と已然形で読んでおく。
・右之忍冬湯向米屋(みぎのにんとうゆむかひこめや)
・夫(それ)
・直に(ただちに)
・木挽町:現在の銀座四丁目。まさに現在の歌舞伎座がある場所である。
・裏屋:裏長屋。
・丹後島の帯:「島」は「縞」である。丹後国(現在の京都府北部)与謝(よざ)地方から産出した縞の紬(つむぎ)織物。丹後産のものは最高級品である。
・前垂:エプロン。
・縮緬:生地の表面に細かな縮じわ(=しぼ(皺))のある絹織物。やはり丹後が随一とされた。
・おこそ頭巾:方形の布に耳掛けのひも輪をつけたずきん。主として冬季、防寒のために着装したもので、上等品は浜ちりめんで作ったという。黒縮緬の子供用ともなると、これはどうみても、大変な高級品ということになろう。
・持参(もちまゐり)
・遣候趣申候(つかはしさうらふおもむきまうしさうらふ):持って行くようにと言われましたというような内容のことを(少女が)申しました。
・自分と(おのづと):自分から。勝手に。
・かん:酒のお燗。  
・たべ:これは持参した目刺しを肴にして、酒を飲んだことを指している。見た目十一、二歳の少女、これはやはり当時としても相当に奇異なものに見えたであろう。
・有合(ありあはせし):たまたまあったもの。おかずの余りであろう。
☆是は何方(いづかたにて)にて何程(いかほど)に買ひ候哉:「哉」は「や」で疑問の終助詞。

●補説2
 直接話法である。
 ここで是非着目してもらいたいのは「何程に」という表現である。
 これは「どれくらい」という意味である。単に、このおこうこが気に入ったのならば「何方にて」で十分なはずである。伝吉や記載者名主弥五右衛門がわざわざこう書いたのは、「何程に」と少女が言ったことが奇異に思えたからに相違あるまい。
 即ち、この少女はおこうこ(漬物)がいかなる形状をしているか知らないからこそ「何程に」という頓珍漢な質問をしたのでないだろうか。おこうこを知らない庶民の子はいないだろう。さてこの子は何者か?

・又候間も無之(またさうらふまもなくこれ):「之」は少女。またその日のうちに間もなくすぐやってきまして。
・調ひ(ととのひ):準備する。そろえる。
・自分(おのづ[と]/おのづから)
・一寸:約三センチメートル。おこうこの切り方としては、大変な厚さである。
☆不作法:「なれなれ敷」に次いで出現する批判的な言辞である。確かに、一日に二度も来訪、三センチのおこうこをバリバリ食べ、酒を飲む十歳余りの少女は強烈である。
・一向(いつかう):(副詞/下に打消を伴い)全く。
・再応(さいおう):再度。再び。
・共(ども):逆接の接続助詞。よく漢字表記する。
・忰=伜(せがれ)
・見届可申:(見届け申すべしと申し合はせ):見届けるのがよかろうと話し合い。「べし」は適当の用法。
・南横町:現在の神田岩本町が、嘗ての紺屋町二丁目横町を明治二年に合併していることまでは突き止めたが、現行の岩本町では、ロケーションが北に飛び過ぎるから、違う。正式な町名ではなく、一般名詞の「南」にあった狭い「橫町(よこちやう)」を抜けて、の意でとるべきであろうか。或いは南紺屋町が、次注の西紺屋町の北に道を隔てて接しているから、「南」紺屋町の「橫町」(よこちょう)から「西紺屋町」に抜けたというのを略したものかも知れない。当時の切絵図を用いて彼女の足跡を追跡して見るのも面白い。
・西紺屋町:現在の神田から銀座二丁目から四丁目の西の部分にあった広い町の名。
・河岸(かし):河川の船から人や荷物を上げ下ろしする場所。銀座神田川沿いの一角であろう。 ・哉(や):前出の疑問の終助詞。
・とも:不詳。「共」で、近辺を何カ所も、という意味か。または「共に」の「に」の脱字で、いくと兼次郎二人一緒に、の意味かもしれない。
・承り合(うけたまはりあひ):謹んで(少女のことについて二人で)聞き回って。
・可有之哉(これあるべきかな):「哉」は「や」と読んで疑問の終助詞とも取れるが、風聞になっている内容を考えると、詠嘆の終助詞の方がお上へのインパクトが強くてよいと思う。
・右体(みぎてい):「体」(てい)は名詞の接尾語的な用法で、~のようなもの、~風な。以上のような話が。
・此段申上候以上(このだんまうしあげさうらふいじやう):地下文書の常套的な擱筆の措辞。
・子:文化元年は二行後に示されるように干支は甲子であるので、こう記載した。当時の年号記載では極めて一般的である。そもそも最近のことを記載し、それがアップトゥデイトに読まれるものであるならば、干支の十二支の部分をのみを記せば、まず誰も年を誤ることなかったからである。
・名主:近世における村の長。名主のほかに庄屋、肝煎(きもいり)等の称があり、一般的には東国では名主、西国では庄屋が多い。ここで「新肴町名主後見 西紺屋町名主」という名義になっているのは、新肴町名主が若いか、もしくは何らかの理由で不在・職務遂行不能なために、隣町の西紺屋町名主弥五右衛門が代理人となったということであろうか。
・文化元甲子年:一八〇四年。ちなみに第一夜の話の翌年のことである。

●補説3
《狐狸妖怪か? はたまた時空を越えたタイムトラベラーか? 少女の正体は?》
 この少女は何者であったのか?
 人々は狐狸の変化と捉え、その不可解さゆえに役所への上申さえ行っている。しかし、どうであろう、この少女は当時の法どころか、公序良俗に反するような行為は何もしていないのである(あえて言うならば伝吉の家での飲酒や無作法、住所詐称していることを挙げることはできようが、それによって誰かが不利益を被っているわけでもないのである)。上申の意図はまさに狐狸のような行い(あくまで「ような」である。人々は全部が全部、実際に狐狸のしわざと思い込んでいたのではあるまい。何らかの悪党の大働きのための下調べのようなものとして、彼女の行動を現実的に捉えてもいたのかも知れない)であるであるから、きっと今に何かの悪事に繋がるであろうと考えて、何らかの探索や予防策を含めて、怪現象の終息を官憲に望んだのであろう。
 しかし少なくともそれに繋がる異変は起こらなかったと見てよい。「兎園小説」成立の一八二五年まで、二十一年が経過している。もし何らかの影響関係のありそうな事件が出来していれば、考証オタクの馬琴が黙っているはずがないからである(「うつろ舟の女」の考証好きを考えてみるがいい。そんな話を面白くするような事件があれば、彼は真っ先に飛びついたはずだ)。
 狐狸妖怪の類いでないとしたら、どのような解釈が可能であるか。そのヒントは、やはり原文の中に見いだし得ると思うのである。
 補説2で述べたように、この少女は極めて一般的な下層庶民伝吉の家にあった粗末な浅漬けの香の物の実物さえ知らないのである。これは庶民ではあり得ないし、当時差別されていた非差別民、穢多・非人層でも、なおのことあり得ないことである(ちなみに話は外れるが、当時の江戸の穢多・非人層が我々の想像とはかなり違って、相当な生活程度を維持しており、弾左衛門等を統率者として、ある種組織的民主的とも言える生活を営んでいたことは是非知っておいてもらいたい)。
 この少女、気前がいい。七歳のかめにお菓子をやるどころか、芝居を見に連れて行くわ(当時、子供から観劇料を取ったかどうかは分からないが、取ったとすれば少女が払ったとしか思えない)、その帰りには伯父と称する者の家に行き、目の玉が飛び出るような高価な品々をプレゼントしているのである。ちなみにこのかめにその伯父の「裏屋」なるものが何処であったかを尋ねていないのが悔やまれる。
 そもそもこれは七歳のかめが語った言葉であり、訳した如く、本当に「裏長屋」であったのかどうかでさえ私は疑わしいと思っている。しがない大工の七歳の子供である。武家屋敷に裏から入ったり、武士や豪商の別宅や別荘のひっそりとした場所に連れて行かれても、正確にその場を表現し得たとは思われないのだ。
 しかし、豪商の娘ならば、それなりに正体はばれよう。隠す意図を本人がまずは持たないと思われるし、町屋ならば、人が聞き回り、噂になれば自ずと特定されるからだ。
 さて、現代からタイムスリップした少女といった超常現象を排除するならば、而してこの少女は間違いなく、武家の、それも、相当な上流階級の娘なのではあるまいかというのが私の推測だ。
 そうなるとこれはもう、テレビの時代劇にありそうなエピソードを想起させる。どこぞのやんちゃでお転婆なお姫様が、日に日にお忍びで町へ出て、遊興する。気弱な家臣達は彼女に振り回され、言われるがままに、プレゼントの品を取り揃えておいたりしてご機嫌を取るしか方法がない。しかしそこに遠山の金さんや水戸黄門が現れるかどうかは私の夢想の範囲内ではない。
 さて、しかしあんな話が本当にあったのかって? 私も勿論聴いたことがない。そんな事実はどう考えたって武家の恥、記録に残りようがないもの。しかし、なかったとは言えまい。否定するのなら、君は、どんな真相をここに打ち立てるか? 是非私をうならせるような仮説立てて見給様願上奉候!
   ***
 言っておくがもしこれが正式な上申書であったとしたら、いたずらなんかでは決してあり得ないのだ。そもそも実在する地名屋号、実在する人名でなかったら、この話は版行される価値がない。すぐに分かるような嘘を、少なくとも天下の馬琴とその一党がつくはずがないからだ。そんな嘘なら戯作でいくらでも書ける。本話に散見される細部に渡るリアリティ、これはまさに事実としてあったのだと私は確信する。
 ともかく真相があるにせよ、作り話にせよ、この少女、リアルでありながら、同時に極めてファンタジックだ。何より、まずは必ず妹のような幼少の子の髪を結い、好きなことをして、好きなことを言って、そして忽然と消えてしまう。それで正真正銘、人を傷つけず、ふっと消えてしまう……こんな純粋な子って、今時、珍しくはないかしら? 私はこの少女に会って見たい気がする。そうして一緒にふっと消えてしまいたいような気もするのだ……。

【第二夜】了

【2021年10月21日追記:ブログ・カテゴリ「兎園小説」に於いて、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) あやしき少女の事』を正字正仮名で、注もテツテ的にブラッシュアップして公開したので、そちらを完全版とする。】



第三夜】「不思議な尼の懴悔の物語」

 
凄惨な過去を語る美しき尼、その驚愕のエンディングに、あなたは耐えられるか! (copyright 2005 Yabtyan)

○本文

   不思議の尼懴解物語の事

 文化巳の年の春、親友の来たりて語りけるは、去年の事也、知れるもの大和廻りして、大和に奇成(きなる)咄(はな)しに聞し由。村名は忘れたり、往来端の茶屋に立寄、雨に逢て暫く休みしが、日も暮に及びければ頻りに頼みて右茶屋に宿りしに、あるじ出て彼是(かれこれ)咄しける内に、当夏奇成事ありと云ひし故、切に其訳を尋ければ年の頃十九、廿と見えし殊之外美麗成尼壱人来たりて、当国何とか言へる名高き寺を尋ね、「右場所までは里数何程有や」と申しける故、「是よりは七、八里も有べし。何故右之処を尋給ふや」と承りしに、「我等はいとけなき時両親にも別れ、村内の有福(いうふく)なる人に仕へて生長なしけるが、わけ有て尼となりて、今日の師の坊のもとへと志しけれど、女の道はか行ず暮に及びぬれば、夜通し行んなれど今宵爰許(ここもと)にとめ給らば、翌日こそ彼寺へ日高く行ん」と云へる様、偽とも思はれず、『哀れ成事』とおもひて、『一夜を止めんが、得(とく)と様子聞ての上』と思ひ、「さるにても御身年もいと若く何故法心(ほつしん)し給ふや。見るに美しき生まれなればわけこそ有らん。有の儘(まま)に語り給はゞ宿参らすべき」と申しければ、「さらば我等身の上さんげなし可申(まうすべし)。御家内を集めて聞き給はれ」と申しけるゆへ、妻子などをも為逢(あはせ)て事の本末を聞しに、ちかき村何某といへる者、彼尼を生み出て両親とも打ちつゞき身まかりしが、壱人の娘にて村中世話して育(はごく)みけるを、其郷に棟高き農家、不便におもひて養ひとり育られ拾五、六に成けるに、主人いつしか心をかけける故其心に任せ通じけるが、主人の妻ふと煩ひ付て日増に重りけるを、幼(いと)けなきよりはごくみ育てし女人なれば、心の丈(たけ)看病なして仕へけるに、最早存命不定なる程に煩ひて、夫に申しけるは、「我は最早存命難計(はかりがたし)。若身まかりし後、異妻(ことづま)迎へ給ふ程ならば、幼きより養育せし事なれば、右の女を我跡へすへ給へよ」といゝしを、「かゝる心細き事ないゝけん。養生して快気あれかし」と答えしに、亦彼(かの)女に向かひて、「夫には斯々(かくかく)言ひしぞ。若身まかりなば、我に代り家の事などまめまめしくなせよ」といひしを、「こは心得ぬ仰(おほせ)や。よくよく保養なして快気あられよ」と諌(いさめ)を入れて仕へしに、或日夕暮に成て、「今日は存(ぞんぢ)の外快間(こころよきあいだ)、我を伴ひ近きあたりの観音へ涼みがてら連行(つれゆく)べし」と申しける故、『主人は村用にて宿にあらず。いなまば病気のさはりとも成べし』と手を引て立出けるが、「歩行(あゆみ)苦しき」由にて、彼女子の脊におはれて行程に、殊之外苦しみ命終(みやうじゆう)の体(てい)にも見へければ、「いかにや」と振あを向に見しに其顔色殊に怖しく、「わつ」と其処に倒れ気絶せしに、主人も戻りて家内へ尋ねければ、「病気の様子にては中々観音参詣は思ひ寄らざりける事也」と、自分併(ならびに)召仕へ、村内の者打寄(うちより)、跡より来りみしに、負れし女房は事きれ、負し女も気絶なしけるを、水などそゝぎて女子息出ける故、二人とも連帰りて見けるに、彼女房、手を女子の肩より胸へかけ、しかと取付居たりしが、右両手いかにしても放れず、種々心を尽すといへ共放れず。無拠(よんどころなく)手首を切りて引放し、死骸は厚く葬送なしけれど、我等が肩に取付きし手首は今に残りあり。是より我等も菩提心を発(ほつ)し尼と成りしなり。最前主の、『年若美しき尼の独り歩行、若輩の者など懸想(おもひかけ)、理不尽も有るべき』と、疑ひ給ふ様子なれど、若き男言ひ寄る事有りても、此手首を為見(みせ)ぬればおそれて寄付者なし、是見給へとて、肌ぬひで見せける。家内の者も一同見て恐れあへりと、彼(かの)友物語せしや。[注:岩波書店 岩波文庫 根岸鎮衛著長谷川強校注「耳嚢(下)」より。但し、校注者の付けた現代仮名遣いのルビがやや読解にうるさいので、最小限に排除し、さらに歴史的仮名遣いに新ため、記号の一部も改変した。]     

●現代語訳[注:後半部は伝聞三人称間接話法となっている部分があるが、臨場感を出すために、尼の一人称直接話法にし、時制改変や敬語の追加をし、点線も多用した。また読み易さを考え、シークエンスごとに適宜改行した。]

   不思議な尼の懺悔の物語のこと

 文化六年巳年の春、私の親友がやって来て、(その彼の知人の話として)語ったことである。
「去年のことだ、知人が大和・奈良辺りに遊んで、その大和で奇妙な話を耳にしたというのだ。村の名は忘れたが、往来に面した茶屋に立ち寄って、(ちょうど)雨が降ってきたので、暫く休んでいたのだが、(気が付くと)陽も暮れかけてしまったので、ちょっとしつこく頼んでこの茶屋に宿ったところ、(その晩方、店仕舞いした)主人が出てきて、あれやこれや四方山話をしているうちに、その主人が、
主人「この夏、奇怪なことがありましてな‥‥‥」
と言ったので、(好奇心から)どこがどう奇怪であったかと、話を乞うたのだが‥‥‥

   ▲▲▲   [以下、茶屋の主人の語り]

‥‥‥年の頃は、十九か二十(はたち)と見えて、それはもう見たこともないような別嬪(べっぴん)の尼さんが、たった一人でやって来ましてな、この大和の国の○○という名高い寺の在所を尋ねて、
尼「その場所まではここから何里ほどございますか」
と申しますゆえ、
主人「ここからはかれこれ七、八里もありましょうぞ。どうしてそのようなところをお尋ねなさるのじゃ?」
とうかがったところ、
尼「私めは幼い時に両親にも別れ、村内(むらうち)の裕福な人にお仕えし、成人致しましたのですが、ある訳があって尼となりまして、今日、(かの寺の、私めの出家の導師であられる)師の僧坊へ尋ね行くつもりでございましたが、女の足のこと、少しも路がはかどらず、陽も暮れてしまいましたので、夜通し歩こうとも思いましたが、今宵、こちらにお泊め下さるならば、(早朝に立ちますれば)きっと明日は陽の高いうちに、寺に着きましょう」
と語るその様子は、嘘とも思われませんので、私も哀れなことよと思いまして、一夜の宿をとは思いましたが、まあしっかりと素性を聞いての上でなくては、とも思いまして、
主人「それにしても、お前さま、若い身空で、何故にご出家なさったのじゃ? まあ見るからに美しい生まれの人じゃて、よくよくの訳があろうほどに。さてもありのままにお話下さったならば、宿はお貸し申そうぞ」
と申しました。すると、
尼「‥‥‥それならば私めの身の上を懺悔し申し上げましょう‥‥‥お身内の方々をお呼びになり、とくとお聞きくださいまし‥‥‥」
と申しましたゆえ、妻子等を呼び寄せまして、さて、尼の身の上の一部始終を、聞いたのでございますが‥‥‥

   ***   [以下、尼の語り]

‥‥‥(私の生まれは)ここからほど近い村の○○という家で、私めを生んでまもなく、両親は相次いで身まかり(縁者も誰もいなくなり)ました。一人娘でしたので、村中の者が世話をして育ててくれましたが、その里のうちでも特に裕福な農家の旦那さまが、不憫に思い、養子として引き取り、育って下さったのでございます‥‥‥

‥‥‥そうして(忘れもしませぬ)、十五、六歳になりました頃、旦那さまはいつしか私めに思いをかけることとなり、私めも(育てていただいたご恩がございますゆえに)、旦那さまの意のままに体をまかせることとなってしまったのでございます‥‥‥

‥‥‥すると奥さまは急に病みつかれ、日増しに重くなってゆくのを、幼い頃より心をこめて親鳥が羽で我子を守るように育てて下さった女性ですので、私めも深く心をこめて看病いたしました‥‥‥

‥‥‥さて、最早命も危ういと言うほどに患った折に、奥さまが旦那さまに申し上げることには、
奥方「私は最早生きのびることは難しいわ。もしも私が身まかったら、その後、他から妻をお迎えになるくらいならば、幼い頃より(大切に)養い育てたのですから、この子を、私のあとに妻としてお迎えなされませ」
と言ったのには、旦那さまも
旦那「そのような心弱いことを言ってはいけないよ。養生して元気になるんだよ」
と答えましたが、次に奥さまは私めに向かって、
奥方「夫にはさても今のように申ましたぞえ。もし私が身まかったならば、私に代わって、家のことは万事誠を尽くしてなすのですよ」
と言うのを、
私(=現在の尼)「これは何と訳のわからないことを仰るのですか! どうかしっかり養生されてお元気になって下さいまし」
と諌めて看病を続けました‥‥‥

‥‥‥さて、ある日、夕暮れになりまして、奥さまが、
奥方「今日は思いのほか、調子が好いので、私を一緒に、近くの観音様へ涼みがてらお参りに連れていっておくれ」
と(強く)申しますので、私めは『旦那さまは村の御用で家にいないし‥‥‥(とは言え)否めば病気の障(さわ)りもなろうか』と思い、(あえて)手を引いて外出いたしましたのでございます‥‥‥

‥‥‥さて、しばらく歩くうちに、
奥方「歩くのは苦しいわ‥‥‥」
とのことで、私の背に負われて行くうちに、奥さまは、殊のほか苦しみ始め、今にも死にそうな様子にも見えましたので、
私「どうなされました!?」
と(肩越しに)振り仰いで見るに、その顔の恐ろしいことと言ったら‥‥‥!!
私は、
「わあっ!」
と、その場に倒れて、気絶してしまったのでございます‥‥‥

‥‥‥旦那さまも、家に戻ると(私どもがいないので)、家中の者に尋ねたところ(観音さまへ参ったと聞き)、
旦那「あの病状で観音参詣など、思いもよらぬことじゃ!」
と(慌てて)、ご自分はもちろん、召使や村内の者も集まり、私どもの後を追って来て見たところが、背負われた奥さまはすでにこと切れており‥‥‥私めも気絶しておりました(のを見つけられ)、水などをかけて、私めは息を吹き返したのでございます‥‥‥

‥‥‥私ども二人を皆で家に連れて帰ってよく見ますと、奥さまは、手を私の肩から胸へしっかりとかけたままでございましたが‥‥‥さてその両手が、取り付いたまま、いかにしても離れませぬ‥‥‥様々に手を尽くしたのですがびくともいたしませなんだ‥‥‥

‥‥‥さても、仕方がなくその手首を切断して、ご遺体を引き剥がしまして‥‥‥奥様のご遺体は手厚く葬られましたけれども‥‥‥その、私めの肩(から胸)に取り付いた手首は‥‥‥今も残っておるのでございますよ‥‥‥

‥‥‥このことがあって‥‥‥私めも菩提心を発しまして、尼となったのでございます‥‥‥最前より、こちらのご亭主さまは、『年若き美しい尼の一人旅、若い者などに言い寄られたり、意に添わぬ苦労もあろうに』と、お疑いなさるご様子でございましたが‥‥‥

‥‥‥若い男が言い寄ることがございましても‥‥‥その時は、ほれ、この手首を見せますれば‥‥‥恐れて寄りつく者など、おりませんのよ‥‥‥これを、御覧なさい、ませ‥‥‥

   ***

と‥‥‥肌を脱いで‥‥‥見せました‥‥‥家中の者も、皆見て、心底震え上がりましたよ‥‥‥

   ▲▲▲

‥‥‥と、その友達は(私に)語ったのであったよ。

◆語釈
・懴解(さんげ)=懺悔:(梵語のクサマ「懺」はその音写、「悔」はその意訳)仏教用語。本来は濁らない「さんげ」が正しい。ザンギサンゲ(慚愧懺悔)と熟語で用いることが多かったために、ザンギの影響で濁音化して江戸時代にザンゲとなったとも言われている。過去に犯した罪を神仏や人々の前で告白して許しを請うこと。
・文化巳の年:文化六(一八〇九)年。
・大和廻(めぐ)り:現在の奈良県。奈良近辺の寺社仏閣の観光旅行。
・奇成咄(きなるはな)しに聞(きき)し由(よし):この「に」は格助詞で「~として」という資格の用法。
・頻りに頼みて右茶屋に宿りし:これが尼のケースと似ていたため、茶屋の主人はこの話を思い出した、というストーリーの流れをちゃんと押さえた伏線である。
・殊之外(ことのほか)
・何とか言へる名高き寺:ここは固有名詞を伏せるための意図的な改変。作者の友人の話では、ここには当然ちゃんとした寺名が入っていた。当時でも実名表記はやはり問題があった。
・七、八里:約二十八~三十二キロメートル。
・我等:丁寧な言い方として一人称単数でも使う。
・有福(いうふく)=裕福
・今日の師の坊のもとへと志しけれど:彼女は既に出家しているので、この場合の師というのは、一般には出家得度した際の、導師となった僧侶をさす。彼女が、新たに就くべき師とも取れるが、新たに就く前には正式には師と呼称しないであろうから、訳では、(かの寺の、私めの出家の導師であられる)としておいた。
・はか(果・捗):仕事の進み具合。はかどり。進捗。ここでは、踏破距離を指す。
・爰許(ここもと):この場所で。
・日高く:日中に。
・偽(いつはり)
・得(とく)と:念をいれて。しっかりと。
・様子聞ての上:関所においても「入り鉄砲と出女」の言葉があるように、女の一人旅は江戸時代、かなり警戒された。特にこの女性の場合、尼(出家の身である尼は逆に容認されうる条件ではあるが)であるがまだ若い。躍り巫女の系譜を引く、尼を装ったいかがわしい商い(売春)をする者、もしくは変装した悪行の者も多くいたに違いなく、この茶屋の主人の警戒心は自然である。
法心(ほつしん)=発心:本来は仏教用語で、菩提の心を起こす事。発起。出家すること。
・有の儘(まま)に語り給はゞ宿参らすべき:主人は尼であるのでとりあえず敬語を用いている点に注意。
・為逢(あはせ):(サ行下二)集める。合わせる。

●補説1
 しかし、この部分は、それ以上に深読みができそうだ。尼に語らせることに拘るこの茶屋の主人、ちょっとこの尼に対して色気がありそうだ。勿論、手を出そうと言うはっきりとした意志は感じないが、美形の尼と膝突き合わせて、彼女に過去を語らせることへのやや甘ったるい色欲が感じられるのである。
 その証拠に、彼女は懺悔の話をするのに、わざわざ「御家内を集めて聞き給はれ」と述べているのである。これは、そのような主人の猥雑な心を見抜いた尼の牽制の台詞と言えないだろうか。
 そしてそれがラスト・シーンの秀抜な伏線ともなっていると思われるのである。

・何某といへる者:ここも姓を伏せるための意図的な改変。少なくとも尼の話では、ここには当然ちゃんとした家名が入っていたであろう。そもそも近在の村の実在姓名が登場して初めて聞き手(この場合は茶屋の主人)は尼の話を信じてくれるからである。
・本末:始めと終わり。始終。
・育(はごく)み=(はぐくむ):①親鳥がその羽で雛をおおいつつむ。②養い育てる。成長発展をねがって育成する。③なでいつくしむ。かばい守る。
・棟(むね)高き農家:大家。裕福な家。
・不便=不憫:実はこの「不便」が正しく、「不憫」「不愍」は後の当て字である。①つごうが悪いこと。困ること。不都合。ふべん。②めんどうをみること。かわいがること。③あわれむべきこと。かわいそうなこと。
・重り:(動詞四段「重る」)病気が重くなる。
・心の丈(たけ):「丈」はあるかぎり、ありたけの意味。
・存命不定(ぞんめいふぢやう):生死のほどがわからないこと。
・若(もし)
・かゝる心細き事ないゝけん(言ひけん):本来は呼応の副詞「な」を受けて禁止の終助詞「そ」が文末に来て「な言ひそ」で、「言ってはいけない」となるところ。

●補説2
 当時このような破格は一般的ではあったのかも知れないが、それが、かえって夫の慌てたた感じをよく表現されているのかもしれない。明らかに、夫は自分の養女との密通の事実があるために、それを見透かされたこの妻の言葉に(妻は完全に密通に気づいている。でなければこの後の惨事は起こりえない)大いに狼狽しているのである。

・斯々(かくかく):内容を省略して引用する語。かようかよう。
・ぞ:(終助詞) 聞き手に対して自分の発言を強調する。江戸後期以後の用法。
・まめまめしく:(忠実忠実し・形容詞シク)①非常に誠実である。はなはだまじめである。②よく勤め働くさまである。③日常生活に必要である。実用のものである。ここでは、②の意味だが、①の意味も込めて訳した。
・心得ぬ:趣意を理解できない。合点がゆかない。
・諌(いさめ):目上の人の非をいさめること。また、その言葉。諫言(かんげん)。忠告。
・いかにや(ある/おはする):結びの省略。
・彼女房/女子:それぞれ奥方/私=尼。
・無拠(よんどころなく)
・菩提心 :悟りを求め仏道を行おうとする心。無上道心。

●補説3
 さてここで「最前主の、『年若美しき尼の独り歩行、若輩の者など懸想(おもひかけ)、理不尽も有るべき』と、疑ひ給ふ様子なれど」と尼は述べる。これは先の主人の台詞、「さるにても御身年もいと若く何故法心(ほつしん)し給ふや。見るに美しき生まれなればわけこそ有らん。有の儘(まま)に語り給はゞ宿参らすべき」を指しているわけだが、補説1で推測した通り、尼は鋭く、そこでの主人の猥雑な思いを言い当てていると言えよう。ここで主人はすでに尼に心を読まれてしまい、精神的にも圧倒されてしまっているのである。それでこそ、この後にやってくる主人の心理的な衝撃はより大きくなるのである。

・彼友物語せしや:直接体験過去の助動詞「き」が用いられているので、彼友とは作者根岸鎮衛の友人である(友人に話した知人ではない)。感動を示す間投助詞「や」には根岸鎮衛自身の素直な驚愕がよく現れていると思われる。
*引用文献「耳嚢」
 近世後期の随筆。根岸鎮衛(やすもり)(一七三七‐一八一五)著。自序ででは「耳臥」と記している。十巻。各巻百話で、全千話(但し、完備本はカリフォルニア大学バークレー校アジア図書館蔵の旧三井文庫本のみ)。広く街談・忌説・奇聞の類を集めたもので、一七八二(天明二)年頃から書き始められ、死の前年一八一四(文化十一)年に完成。著者根岸鎮衛は幕臣で、佐渡奉行、勘定奉行を経て一七九八(寛政十)年より町奉行を勤め、江戸の名奉行として知られた人物でもある。

●補説4
《ジェイコブズの「猿の手」のエンディングを凌駕する、尼の乳をわしずかみにする手の 正体は!?》
 この小話は、この作者の友人(または友人の知人)の創作だったとしても、極めて上質の、加えてホラーの勘所を心憎いまでに完璧に押さえた名作だと思う。そもそも、民俗学的に考えると、冒頭の私の友人の知人の話であるという断り書きは、その無名性、匿名性という古今東西の噂話、アーバン・レジェンド(都市伝説)の常套的設定、必須属性なのである。
 まず構成の妙を考えてみる。絶世の若き尼という設定は、茶屋の主人ならずとも、ゴシップの匂い、通俗的興味をそそられざるを得ない。すなわち、我々は容易にこの一介の庶民である茶屋の主人と一体化する。我々は、知らず知らずのうちに、膝を突き合わせるようにして、粗末な煤けた茶屋で、この尼の話を聞く主人になるように作られているのである。
 そして、その語る内容は、まさに我々の好奇心をくすぐる展開の連続である。出生と同時に天涯孤独となる美少女、それが豪農の養女となるも、その家の主人のお手がつく。勿論、そこは極めてあっさりと語られてはいるのだが、聞く我々は、十五、六の少女の悲劇の、猥雑にして哀しい映像をそれぞれに空想するわけである。
 次の展開も、我々を裏切らない。主人の奥方が病みつき(この病因の一つは明らかに既に娘への嫉妬心であろう)、次第に悪くなり、お決まりの遺言である。しかし、当時の習慣から見れば、一見自然なその言葉の背後には、強烈な娘への遺恨がわだかまっている。表面的な平静が、逆に主人と娘の二人の平衡感覚を失わせてゆき、彼らはますます精神的に追い詰められてゆくのが、手にとるように伝わってくるではないか。
 そしてカタストロフがやってくる。この観音参りのシーンが突然、具体的な細部描写になっているところも、注意したいところである。エンディングの驚愕のリアリズムを効果的に高めるためには、既に、ここからの詳細な描写が必要になってくるのである。特に直接話法の勝利である。「歩行(あゆみ)苦しき」から、奥方を背負い、「いかにや」、そして「わつ」に至る流れは、美事な戯曲とも言える。
 さらに言えば、『主人は村用にて宿にあらず。いなまば病気のさはりとも成べし』という心内語にも注意したい。この尼は自分が最後の最後まで、奥方を母と思い、背負ってまでも誠意を示し続けたことをもちゃんと表明しているのである。これは実は大変大切なことなのである。なぜなら、この少女(=尼)がこの奥方に対して悪感情を抱いたり、オーバーに言えばここで殺意を抱いたりすれば、この話の最後の驚愕は逆に、その恐怖の度合いを殺がれてしまうからだ。この主人の強要を拒めなかった誠実で哀れな少女は、にもかかわらず強烈な奥方の嫉妬の犠牲になったという構造式であってこそ、この救いがたい最後の恐怖は完成するのである。悪女の報いでは当たり前であって、本当の意味では怖くないのである。
 背負った奥方を「振あを向に見しに」という場面も、映像的表現力で迫る。自分の顔と奥方の、いや「鬼」の顔が接するのである。恐怖は背後にあって最も効果的だ。我々は常に見えない無防備な背に恐怖を感じるのだ。ここでは、まさにその背に恐怖がとり憑いているのである!
 手首の話を聞く茶屋の主人は、まさに息を呑むと言うがふさわしいだろう。補説3で述べたように、最早彼は、尼の手中にあるといってよい。そして、やってくるのだ!
「是見給へとて、肌ぬひで見せける」
これほどの完全な戦慄のクライマックスはなかなか名作の戯曲にもない。映像は急速にズームインする。美しく白い女のふくよかな両の乳房と、そして、それをわしずかみにする干からびた赤黒いミイラの奥方の手首を!
   ***
 これが創作された話ではなかったと仮定しよう。
 それでは話中の尼の語りは本当であったのか、それとも、いやらしい主人をぞっとさせるための悪戯っぽい嘘っぱちだったのか。
 無事、師の寺へ安全に辿りつくために誰かが考えた(因果応報譚としては仏教説話に似たような話はあるから、作り話とすれば僧侶によるものである可能性が強い)策であったのか。しかも、そのためにわざわざざ模造の腕を胸に付けてまで準備した、手の込んだ芝居だったのか。
 やや信憑性に疑問が残るとすれば、懺悔の冒頭、この茶屋に「ちかき村何某といへる者、彼尼を生み出て」という表現であろうか。近在の村であれば、何故に、暮れかかる時刻に、この茶屋を訪れたのか。初めから、早朝に村を出ればよかろう。すぐに出ねばならない理由があったのかも知れぬが、その村に近い茶屋で遠くの寺の所在を尋ねるのも不可解な気がする。「ちかき」の一語、これは疑わしい。
 懺悔の内容とは違う、別な何らかの過去があって行脚する尼であったのかも知れぬ(寺云々の話は泊めてもらうための口実であったと仮定できる)。ただ、当時のこと、本人が述べたように「年若美しき尼の独り歩行、若輩の者など懸想(おもひかけ)、理不尽も有る」危険に満ちていた。そこで、普段から、模造の腕を胸に付けておき、時によってはこのような話をして難を逃れていたという可能性もあろうか。
   ***
 最後に。そうであったとしても、私は、この話を最初に読んだ時、これは模造の手ではないと感じたのである。
 それではやはり奥方の怨念の手首なのか?
 私は、この手は、左右の腋下リンパ節から腫脹した、進行した乳癌の病巣ではないかと思うのである。
 そして、私はこの女の懺悔もその大筋において真実であると認めたいのである。
 主家の主人と不義密通を犯した上、育ての母である奥方の、裏切り者という影の声に怯える中、恨みを押し隠したまま奥方は死に(ここで奥方に悪意や殺意を抱いていたと仮定するのは自由である。それでも私の仮説に影響はない)、その前後に、彼女の乳癌が発症したのではなかったか。若年性の、それも乳癌は進行が早いことは周知の事実である。なおかつ、花岡青洲の書き残した図譜を見ても、放置した乳癌の末期型はまさに赤黒く見るも無残な腫脹変形を起こす。まさに「癌」という字義の如く盛り上がる岩塊であり、リンパと血管が共に膨れ上がった患部は、脇の下から胸に張り付いたミイラの如き腕のようにも見えたであろう。
 それを彼女は、奥方の怨念、不義密通の因果応報と感じた。そしておのが罪の深さ故に出家、行脚に旅立ったと‥‥‥そんな夢想を私はする。皆さんの一人一人の夢想をお聞きしたいものである。
 そんな哀しい話を私に創らせるほどに、私は、このまたとないホラーの、この尼に何とも言えぬ幸薄さ、言い知れぬ寂しさを感じ、そして何故か惹かれるのである……その声に……「これを、御覧なさい、ませ‥‥‥」という彼女の甘く優しく素敵に恐ろしい幻の声に‥‥‥。

【第三夜】了
【2015年1月14日追記:ブログ・カテゴリ「耳嚢」に於いて、『耳囊 卷之九 不思議の尼懴解物語の事』を正字正仮名で、注もテツテ的にブラッシュアップして公開したので、そちらを完全版とする。】

HP鬼火