芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫ 

やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ

鬼火へ

芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料一通

 ――二〇〇八年に新たに見出されたる

   遺書原本

    やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注――縦書版

(翻刻電子テクスト及び注・解釈 copyright 2009 Yabtyan

 

[やぶちゃん注:二〇〇八年五月、芥川比呂志・瑠璃子夫妻の三女であり、芥川龍之介の孫に当たる芥川耿子(あくたがわてるこ)氏より、焼却され存在しないとされていた幻の芥川龍之介の遺書原本四通、加えて新潮社との出版契約書原本(但し、年月日に誤りがある為、法律上、有効な契約書とは思われない。該当テクスト注参照)一通が日本近代文学館に寄贈された。既に同文学館に寄贈済の芥川文子宛「遺書追記」(本篇の「□2 芥川文子宛遺書断片」)及び小穴隆一宛遺書((本篇の「□6 小穴隆一宛遺書」)を合わせて七種、芥川龍之介遺書の現物の多くが揃ったことになる(総てではない。失われたその一部はこれこそ最早現存しないと考えてよいであろう。その内容については本頁の注で触れており、既に公開済みの私の「芥川龍之介(遺書五通)」の注でも考察している)。

 本頁は二〇〇九年一〇月二玄社より刊行された「芥川龍之介の書画」に「遺書篇」として画像掲載されているそれら七編総てを、私が図版から読み解いて(底本の図版解題の翻刻があるが敢えて参照せず、あくまで私の眼で読んだ。失礼ながら図版解題の翻刻は「□1 芥川文子宛遺書」の最初の一行から誤っている。「生かす工夫絶對に無用」の末尾に句点は、ない)電子テクスト化し、詳細なオリジナル注と解釈を附したものである。これが現在、最も信頼するに足るネット上の芥川龍之介の遺書の電子テクストであるという自負を持って、ここに公開するものである。

テクスト化に際しては、現物と一行字数を一致させ、芥川龍之介による消去及び訂正部も可能な限り、判読し、翻刻した。例えば

する〔め并せて世間を騷がす〕

は、

「する」を消して「め并せて世間を騷がす」に直している

ことを示す。

 その他、芥川の訂正方法やその位置など細部については各遺書の後注で示した。

 更に、現物との共通感を出すために、漢字の内、「関」(關)・「実」(實)・「恋」(戀)のように、明白な略字で、現在の新字と全く相同のものと私が判断したものは、新字を用い、後注で「ママ」表記をした。逆に「爲」(為)・「福」(福)・「數」(数)・「對」(対)のように、崩し字・略字で迷う漢字は正字とした。

 判読不能の字は「■」で示し、改原稿部分には縦罫を挿入した。

 後注の後に、通読し易くした翻刻整序版テクストを「●」で掲げた。不自然に見えるが、句読点の後の有意な空欄だけは維持した。

本頁は私のブログ「鬼火 日々の迷走」の、二〇〇六年五月一八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、凡そ三年七ヶ月でアクセス数が二〇万を突破した、その記念として作成公開したものである。

――我が愛する芥川龍之介我鬼の冥福を祈りつつ――

【二〇〇九年一二月二四日午後九時一五分 心朽窩主人記】

 本縦書頁は以上のコンセプトで作製した横書頁を縦書に作製し直し、一部の私の注表記内容を縦書用に変更したものである。この仕儀によって芥川龍之介の遺書の原型により近づけたものと思う。文字サイズは中若しくは小で各遺書の全体像が分かるが、フォントの関係上、中をお勧めする。

【二〇一一年一月一五日 心朽窩主人追記】]

 

 

芥川龍之介遺書

 

□1 芥川文子宛遺書

[やぶちゃん注:全二枚。松屋二〇×二〇=二〇〇字詰原稿用紙。二五センチ×一七・五センチ(底本は画像に縮小が施されているため、底本の石割透氏の図版解題の数値を示す)。罫色は画像では暗い藍色に見える。下欄外右方に製造社内の原稿用紙規格を示すものと思われる『(SM印 B…1  1020)』の印刷、左欄外下方に独特の書体活字の『松屋製』の印刷。ペン書き(私にはブラックに見える)。冒頭二行空き。「燒き棄てよ。……」以下は二枚目。原稿用紙仕様は同一。]


 

 

 一、 生かす工夫絶對に無用

 二、 絶命後小穴君に知らすべし。 絶命前に

は小穴君を苦しますこ〔め并せて世間を騷がす〕惧れあり。

 三、 絶命すまで來客には「暑さあたり」と披露

すべし。

 四、 下島先生と〔御〕相談の上、 自殺とする

]〔病〕殺とするも可。 若し自殺と定まりし時

は遺書(菊地宛)を菊地に与ふべし。 然らざれ


ば燒き棄てよ。 他の遺書(文子宛)は如何に関ら

ず披見し、 出來るだけ遺志に從ふやうにせよ。

 五、 遺物には小穴君に蓬平の蘭を贈るべし。

又義敏に松花硯(小硯)進贈贈るべし。

 六この遺書は直ちに燒棄せよ。

 

 

 

 

 


[やぶちゃん後注:

○「一」

・「一、」の読点は「一」と同じマス目内に打って下方を一マス空欄にしている。芥川は全体に句読点をその前の字の同一マス内右下に打ち、その下を一マス空けているので、そのような雰囲気を出すようにテクスト化してある。句読点や丸括弧、その他の記号等も前後に入れて一マス分はとっていない場合が多いが、縦書のブラウザでは不都合が生じるため、通常の全角で入れてある。以下ではこの記載を略す。

 

○「二」

・「苦しますこ〔め并せて世間を騷がす〕」の箇所では、「すこ」のみを直線で消し、右手上下に大きく吹き出して「め并せて世間を騷がす」としている(この書き入れ「め并せて世間を騷がす」には字間に有意な隙がある箇所があるが無視した)。「ま」を消し忘れている。記述途中、ここでの訂正と思われる。

 

○「三」

・一枚目六行目下欄外(この「三」の「……披露」の下欄外)中央に左から右に五本程のペン先を擦ったような各数ミリのギザギザの稲妻状の線、及びそのギザギザの線中央から左へ五ミリ程のところに右上から左下に、五ミリ程度の、やはりペン先を擦ったような斜線が入っている。これは汚損ではない。勿論、私の錯覚であるが、披見の瞬間、ノンブル「1」のようにさえ見えた。

 

○「四」

・「〔御〕」は同一マス内右への訂正。

・「]〔病〕殺」と示した部分は最初に「他」と書き、それを消して右手に「死」と書いて再び消し、左手に丸くかこんで吹き出し状にして決めた字としての「病」の字を入れている。勿論、「病死」とした積りの誤字であろう。

・「与ふべし」の「与」はママ。

・「下島先生」は下島勲(明治三(一八七〇)年~昭和二二(一九四七)年)のこと。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。俳句もものし、井上井月の研究家としても知られる。芥川が辞世「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」を残した相手でもある。

・「菊池」は盟友の作家、菊池寛。

・「関」はママ。

 

○「五」

・「小穴君」は小穴隆一(おあなりゅういち 明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)のこと。洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川の単行本の装丁も手がけ、芥川が自死の意志を最初に告げた人物でもある。彼に宛てた遺書は「□六 小穴隆一宛遺書」として後掲した。芥川より二歳年下である。

・「蓬平の蘭」とは、芥川龍之介の随筆「わが家の古玩」の冒頭に「蓬平(ほうへい)作(さく)墨蘭圖(ぼくらんづ)一幀(いつたう)」とあるものを指す。佐竹蓬平(寛延三(一七五〇)年~文化四(一八〇七)年)は信濃出身の日本画家。池大雅に師事した。蓬平は雅号で、本名は正夷、通称は佐蔵。底本の石割透氏の「図版解題」に芥川は大正一二(一九二三)年頃より関心を寄せて収集しようとしていたらしく、『この蘭の絵は北原大輔が贈った墨蘭』であると記す。北原大輔(明治二二(一八八九)年~昭和二六(一九五一)年)は長野出身の陶芸家・美術評論家。東京帝室博物館陶磁器主任。陶磁器批評及び収集の天才と言われた。芥川の田端の家の近所に住み、芥川龍之介とは親しく交際、「道閑会」のメンバーでもあった。道閑会とは芥川の心酔者であった実業家鹿島龍蔵(明治一三(一八八〇)年~昭和二九(一九五四)年 鹿島組御曹子にして現在の鹿島建設創業者)を中心とした、所謂、田端文士村の芸術家らのサークルで、芥川家の近くにあった芥川の養父道章の友人宮崎直次郎の経営になる高級会席料亭「天然自笑軒」を会場としていた(ここは芥川龍之介・文子の結婚披露宴会場としても知られるが、現存しない)。墨蘭とは彩色を施していない水墨画の蘭の絵を言う。墨竹や墨梅などと同じく、北宋末の文人がその始祖とされる。

・「義敏」は葛巻義敏(くずまきよしとし 明治四二(一九〇九)年~昭和六〇(一九八五)年)のこと。芥川が可愛がった甥。小説家を目指したが、芥川龍之介没後は専ら数多く所持した芥川関連資料(原稿・草稿・メモ)を小出しに公刊する「芥川研究家」であった。但し、そのやり口には多くの疑義や批判が向けられており(校訂の杜撰さや無断加筆等)、研究者の間では頗る評判が悪い。龍之介の盟友小穴隆一などは、芥川の死後、その著作の中で芥川の資料を恣意的に占有しようとしているとして、彼のことを『芥川家に巣食う家ダニ』と呼び、徹底的に糾弾している。私もこの男、如何にも胡散臭く感じる。但し、後の『□4 「わが子等に」遺書』で、小穴を父と思え、という芥川が記したのに反して、芥川家は龍之介の死後は小穴と疎遠になる。それはある意味、小穴も自分勝手で恣意的な芥川の真偽不明の怪情報(例えば私のブログ記事「芥川龍之介の出生の秘密」など)をその著作で垂れ流したからでもあろう。

・「松花硯」とは、稀物の硯の一つ。ネット上の「中国名硯網」の「松花石硯の歴史」に「松花石硯」と書いて『松花石、松花玉と言われ、明代に発見され』、四百年『余りの歴史を持』つものと記載されている。「松花石硯」とは高級硯用の石又は当該石を用いた硯を呼称する語のようであるが、この石で出来た硯を芥川は、こう呼称していると考えてよい。以下、清代の「聖祖仁皇帝御製硯説」に「康熙帝が故郷である吉林省松花江附近を行幸した際、土地の者が用いていた砥石を見て、その美しい淡青緑色の温潤な縞の模様を持った玉質の石はきっと名硯になるであろう言われ、硯職人に命じて仕上げさせたところ、名硯石である緑端にも勝るものであった」という記載があると記す。その後、この松花硯石は長く清朝宮廷用御用硯として巷間での使用が禁じられたため、清朝の衰退滅亡によって、永く幻の硯石となったらしい。一九七九年に吉林省の地質部門が砥石山の山中で同鉱石を再発見し、三百年振りに蘇ったとある(リンク先に画像あり。引用しようと思ったが、残念ながら日本語がややおかしいため、私が大きく整序したことをお断りしておく)。

 

○「六」

・「六」の下には読点も一字空けも施されていない。後五行は空白。]

 

 

●1 芥川文子宛遺書〔整序版〕

[やぶちゃん注:「二」の「苦しまめ」の「ま」は排除した。]

 

 一、 生かす工夫絶對に無用

 二、 絶命後小穴君に知らすべし。 絶命前には小穴君を苦しめ并せて世間を騷がす惧れあり。

 三、 絶命すまで來客には「暑さあたり」と披露すべし。

 四、 下島先生と御相談の上、 自殺とするも病殺とするも可。 若し自殺と定まりし時は遺書(菊地宛)を菊地に与ふべし。 然らざれば燒き棄てよ。 他の遺書(文子宛)は如何に関らず披見し、 出來るだけ遺志に從ふやうにせよ。

 五、 遺物には小穴君に蓬平の蘭を贈るべし。 又義敏に松花硯(小硯)を贈るべし。

 六この遺書は直ちに燒棄せよ。

 

 

 

□2 芥川文子宛遺書断片

[やぶちゃん注:底本では「芥川文子宛遺書断片Ⅱ」と呼称している。私の判断で次の「芥川文子宛遺書断片」と底本での順序を入れ替えた。原稿用紙仕様は□1と同一のものと思われるが、右側四行分が切断されて存在しない。残った左側部分六行に渡って書かれたものが以下である。ペン書き(私にはブラックに見える)。左欄外下方の「松屋製」の印刷の左とその下には二つのしっかり判別できる同一の「葛巻義敏」という方形所蔵印と思しい捺印があるが(上はやや薄い)、上の方の「葛巻義敏」印には左上から右下にペン(勿論、明らかに本文インクとは異なるもの)で二本の斜線が引かれている。以上、これは当該原稿用紙の五行目以降の部分のみの現存である。何かが書かれていた可能性の高い存在しない四行分を【□】で示した。]


【□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□】

【□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□】

【□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□】

【□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□】

  追記。この遺書は僕の死と共に文子より

三氏に示すべし。尚又右の條件の実行せられ

たる後は火中することを忘るべからず。

  再追記 僕は万一新潮社より抗議の出づる

ことを惧るる爲に別紙に4を認めて同封せん

とす。


[やぶちゃん後注:

○「追記」

・「僕の死共に」の「僕」の人偏の左上には有意な斑点があるが、汚損と思われる。

・「三氏」とは一見、「□1 芥川文子宛遺書」に示された小穴隆一・下島勲・菊池寛を指すもののように思われるが、「この遺書は僕の死と共に文子より三氏に示すべし」という言辞を、素直に読むならば「右の條件」の最後に示された項目と関連すると考える方がしっくりくる。その「右の條件」は勿論、今や明らかにはならない。――ならないのであるが、これら1~3の幻の項目については、以前に私が「芥川龍之介(遺書五通)」の注で検討した。根拠や経緯はそちらをお読み頂くとして、結論だけを述べると、そこで私は幻の3項目を、

【1 全集底本は原稿によること及び削除作品についての指示。】

【2 小穴隆一と文子の再婚の指示。】

【3 葛巻ひさ及び新原得二との義絶及び葛巻義敏の扶養の指示。】

の三つではないかと推定した(なお、仮定される項の1は相応に長いものであり、二行以上に及ぶ可能性があり、だとすればこの一枚の前に、もう一枚の原稿があった可能性も捨て切れない。実はこの私の推定を立証する記録がある。自死翌日七月二十五日の朝日新聞朝刊の記事の末尾、『芥川氏が夫人にあてた遺書は原稿用紙一枚半ばかりへペンの走り書きで認めたものであつたが、さすがに筆の跡も亂れ勝ちであつた』という一文である)。そうすると、この「三氏」とは正に葛巻ひさ・新原得二・葛巻義敏の三人を指すのではないかという解釈が成り立つ。疑義も多くあろうとは思われるが、しかし、これが現時点での私が信ずるところの、芥川龍之介の遺書全景であることを表明しておく。

・「実行」の「実」はママ。

 

○「再追記」

・「再追記」の後は一字空けとなっていて、句点はない。

・「万一」の「万」はママ。

・「」は同一マス右側に「より」を丸く吹き出し状にして訂正している。

・「ことを惧るる爲に」の「こ」のマスの右下方には有意に大きいやや薄い黒い点があるが、恐らく汚損であろう。

・「別紙に4を認めて」の別紙4とは次に掲げた「□3 芥川文子宛遺書断片」を指す。

 

◎この原稿、画像を更によく見ると、原稿用紙の右上方から左下方にかけて二箇所、明らかに斜めに引き裂いた跡があり、それを全く別な原稿用紙(一行目の部分にその台紙が見える箇所が大きく三箇所あるが、全く本松屋製とは異なる。罫の色やマス目の点罫がもっと詰って線のように見えるものである)に貼り付けて復元したものであることが分かる。]

 

 

●2 芥川文子宛遺書断片〔整序版〕

【□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□】

【□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□】

【□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□】

【□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□】

  追記。この遺書は僕の死と共に文子より三氏に示すべし。尚又右の條件の実行せられたる後は火中することを忘るべからず。

  再追記 僕は万一新潮社より抗議の出づることを惧るる爲に別紙に4を認めて同封せんとす。

 

 

 

□3 芥川文子宛遺書断片

[やぶちゃん注:底本では「芥川文子宛遺書断片Ⅰ」と呼称している。原稿用紙仕様は□1と同一。ペン書き(私にはブラックに見える)。冒頭一行空き。]


 

 4 僕の作品の出版権は(若し出版するも

のありとせん乎)岩波茂雄氏に讓渡すべし。 (

の新潮社に對する契約は破棄す。) 僕は〔但し〕夏目先〔装幀は〕

生を愛〔小穴隆〕一氏を煩はすべし。〔こと〕を條件とすべし。 (若

し岩波氏の承諾を得ざる時は既に本となれる

ものの外は如何なる書肆よりも出すべからず。)

            芥川龍之介

 


[やぶちゃん後注:

・「4」はアラビア数字。読点等は付随しない。

・「僕の作品の出版権は(若し出版するものありとせん乎)岩波茂雄氏に讓渡すべし」の「の」は二マス分。岩波茂雄(明治一四(一八八一)年~昭和二一(一九四六)年)は出版人。岩波書店創業者。以下、ウィキの「岩波茂雄」より引用する(アラビア数字は漢数字に変更した)。『神田高等女学校(現在の神田女学園)に奉職するも教師としての自信を喪失し退職。一九一三年(大正二年)、神田区南神保町に古本業岩波書店を開く。破格の正札販売を実施、古書店から出発し、夏目漱石の知遇を得て一九一四年には「こゝろ」を出版。これは自費出版であったが、岩波書店の処女出版と位置付けられる。漱石没後は安倍能成らと「漱石全集」を刊行した』。なお、底本の石割透氏の図版解題では、この遺書についての補足で、芥川の死後、昭和一二(一九三七)年迄の間で刊行された創作集及び随筆・評論集及び全集は『すべて岩波書店から刊行され、装丁は小穴隆一が担当した』として、「西方の人」「大道寺信輔の半生」「文芸的な、余りに文芸的な」及び第一次元版全集を挙げておられるが、これはやや誤解を生む表現である。実際には没後直ぐの昭和二(一九二七)年九月に新潮社が作品集「芥川龍之介集」を出版しており(これは生前の単発の別契約に基づくものであったのかも知れない。因みに、この遺書による一方的な芥川の契約破棄自体が理不尽なのであり、殆んど不満を示すことなく岩波に出版権を譲渡したとされる新潮社の見識こそ高く評価されなくてはならないであろう)、一二月には菊池寛の文芸春秋出版部から「侏儒の言葉」(装丁小穴隆一)、昭和三(一九二八)年一月に改造社より「現代日本文学全集 三〇 芥川龍之介集」、同年六月に改造社より童話集「三つの宝」(装丁挿絵共に小穴隆一)、昭和六(一九三一)年一一月に春陽堂より「蜘蛛の糸」があり、少なくともすべてが岩波書店刊行というわけではない。

・「出版権」の「権」はママ。

・「讓渡」は従来の全種類では「讓與」とされて来たものであるが、崩し方から見て「渡」である(上部の「岩波」の「波」と比較すれば、これが「氵」であることは一目瞭然である)。因みに、底本図版解題の石割透氏の判読でも「譲渡」となっている。

・「僕は〔但し〕夏目先〔装幀は〕生を愛小穴隆一氏を煩はすべし。〔こと〕を條件とすべし。」「装」はママ。この部分、現行全集の遺書類決定稿とされてきたものでは、

「僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版肆を同じうせんことを希望す。但し裝幀は小穴隆一氏を煩はすことを條件とすべし。」

となっている。本原稿で特に注目される事実は、

僕は〔但し〕」

を波線一本と直線一本で消して右に

「但し」

に書き換えているのに対し、

夏目先生を愛

の部分は

「夏目先」

の部分が波線一本と直線五本で消して右に

装幀は」

とし

生を愛」

の部分が波線一本と直線二本で消して右に

小穴隆」

と直している点、更に続く小穴の名前の

「一」

だけは普通にマス目に記されているという二点である(「べし。〔こと〕」は「べし」を直線一本で消して右に「こと」)。即ちこれは、この一枚を書き上げた後に直したものではなく、

「僕は夏目先生を愛」

まで書いた芥川が、そこで何ものかに躊躇し、このような訂正を施してから続けて書いた、ということを示している。私は極めて暗示的であると思う(これが下書きであるにしても)。

・最後の署名は八行目と九行目の行間に九行目の方に大きくかかる感じで、十三字目のマス辺りから本文の字の大きさよりもかなり大きめに署名されている。下は一マス分空いている。最終行は空行である。

 

◎最後に本原稿について総括を述べる。これは現在知られている以下「*」で挟んだ、芥川文子宛として先の「□2 芥川文子宛遺書断片」とカップリングされて全集に載るところの遺書の、後半部分の下書きと思われる。

 追記。この遺書は僕の死と共に文子より三氏に示すべし。尚又右の條件の實行せられたる後は火中することを忘るべからず。

 再追記 僕は萬一新潮社より抗議に出づることを惧るる爲に別紙に4を認めて同封せんとす。

 

4 僕の作品の出版權は(若し出版するものありとせん乎)岩波茂雄氏に讓與すべし。(僕の新潮社に對する契約は破棄す。)僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版書肆を同じうせんことを希望す。但し裝幀は小穴隆一氏を煩はすことを條件とすべし。(若し岩波氏の承諾を得ざる時は既に本となれるものの外は如何なる書肆よりも出すべからず。)勿論出版する期限等は全部岩波氏に一任すべし。この問題も谷口氏の意力に待つこと多かるべし。

この全集版の遺書に登場する「谷口氏」なる人物は不詳である。岩波書店の編集関係者か出版界に関わりのある関係ある人物のようにも見えるが、芥川の周辺で谷口姓というと、谷口喜作(明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年)なる人物が浮上する。上野広小路にあった菓子店「うさぎや」の店主で、甘党であった芥川は、ここの「喜作もなか」が大好物であったという。一見、たかが菓子屋の主人では、この叙述に見合う同定候補としては縁遠く見えるのだが、実は谷口喜作は俳人でもあり、俳句雑誌『梅紅』『碧』等に句や随筆を寄せ、多くの文化人とのコネクションを持っていたらしい。そこには我々の想像を越えた人脈があるのやも知れず、さればこそ、同定候補としては残しておくべきであろうと思われるのである。

ともかく、言うまでもなく今回のこの下書きと思われる原稿により、誰が見ても明らかにこの従来知られている全集遺書のカップリングは誤りであること、更にこの「□3 芥川文子宛遺書断片」の他に(前に、ではない。それは「□2 芥川文子宛遺書断片」で、芥川が「再追記 僕は萬一新潮社より抗議に出づることを惧るる爲に別紙に4を認めて同封せんとす。」とわざわざ「別紙」と述べていることからも明白である)アラビア数字1~3からなる芥川龍之介の文子への指示部分が別原稿で存在する可能性が極めて高いことが分かる(故にこそ「断片」でもあるのだ)。これら1~3の幻の項目については、「□2 芥川文子宛遺書断片」注で示し、また、以前に私が「芥川龍之介(遺書五通)」の注でも検討したので、そちらを参照されたい。なお、「新潮社に對する契約」は後に掲載する「□7 新潮社との出版契約書」を見られよ。

――さても――以下は私の空想である――

……私はふと思うのだ――何故に『これ』だけが下書なのか? 何故、この独立していて、公開されてもそれほどの問題がないと思われる(新潮社には大問題ではあったが、実際に岩波書店に譲渡されている以上、新潮社が芥川の遺志を受けてした大英断を示すためにも公表されてよい内容である)「別紙4」の現物が焼却されたのか?

 私はその秘密は「4」という数字にあると睨んでいる。

 遺族(恐らく宛名人である妻文子)は、1~3のプライベートな驚愕の項目を公表することは出来ないため(それを実行に移すことは不可能であった項目を含んでいたためとも言い得る)、それを破棄焼却しようと考えた(焼却自体は芥川の遺志でもある)。

 しかし「4」は死後の出版権に関わる深刻な事態も想定し得る(芥川自身がその危惧を述べている通り)事柄であったため、「追記」及び「再追記」の部分と共に、この「4」の決定稿が新潮社に示す必要があった。たと考えてよい(その時点は切断はなされていなかったであろう。1~3項の部分は裏に折り込んで見えないようにして提示したと考えた方が新潮社にいらぬ疑義を与えないとも思われる)。

 一応の新潮社の許諾が得られた後、この遺書は一旦、完全に破棄されかけたと考える。

 私はその時、実際に引き裂かれた跡が「追記」及び「再追記」の跡なのだと思う。この二箇所の裂いた跡は『切り取った六行分を裂いた跡』には見えない。これは『前四行が付いている正常な原稿用紙を破いた跡』であると推定されるからである。

 しかしそこで遺族は躊躇したのではなかったか? それは未来に想定し得る出版権訴訟に関わるプラグマティックな理由からである。新潮社は今、納得しても、後にその譲渡許諾を翻すかも知れない(実際に民事的にこの遺書による新潮社との契約破棄が正当であるかどうかはやや疑義がある)。そこで反古の該当部分の1~3項部分は切断され、焼却された。「追記」及び「再追記」の部分は残して復元しておいたのではなかったか?(事後にやはり出版に関わって訴訟その他が起きた時にはここはどうしても必須であるから)

 本来は「追記」は公表を拒否する直前の3項目に関わる部分であるから残したくはなかった。しかし、「再追記」の内容に対して、「再」の字が疑義を与え、後々出版権で揉めた場合に新潮社から「追記」の内容を質される可能性は排除出来ない。そこで「追記」は残した。また、1~3項を消去すれば、「追記」の内容は私が先の注で述べたように、「三氏」は小穴・下島・菊池と思わせることも可能であるからである。

 さて、この「追記」及び「再追記」部分と「4」は、遺書として全集に再録された後、その後、恐らく長く芥川家に残されていたのではないかと思われる。しかし、新潮社とのその後の揉め事も起こらず、それを残しておく必要が『遺族にとっては』なくなった。

 その際、遺族には「4」が気になったのではなかったか? 「4」は「1~3」の存在を意識させる。「1~3」はその総て若しくは一部が遺族にとっては存在してはならないものなのである。勿論、既に全集に示されてある「4」をここで焼却することには、さしたる意味はない。ないが、しかし、『遺族にとっては』、在ってはならない「1~3」に続く「4」の現物は破棄されることが、心理的に必要であったのではなかったかと思うのである。

――但し、この推論には致命的な欠陥がある。それは――

……であったならば、遺族は同時に断片「追記」及び「再追記」をも焼却するはずだからである。しかし、遺族はそうそう遺書を焼き捨てることは出来ぬとも言える。忌まわしい「1~3」に続く「4」が消滅した上は、最早、「4」という数字が記された(全集に活字となった)それは、永遠に解けない謎の数字に過ぎない。そのような遺族の安堵の中で、断片「追記」及び「再追記」は生き残ったとも言えないだろうか?

――いや、実は何処かの誰かの筐底に失われたはずの「4」の現物は――今も――残っているのかも知れないではないか――]

 

 

●3 芥川文子宛遺書断片〔整序版〕

 

 4 僕の作品の出版権は(若し出版するものありとせん乎)岩波茂雄氏に讓渡すべし。 (僕の新潮社に對する契約は破棄す。) 但し装幀は小穴隆一氏を煩はすことを條件とすべし。 (若し岩波氏の承諾を得ざる時は既に本となれるものの外は如何なる書肆よりも出すべからず。)

            芥川龍之介 

 

 

 

□4 「わが子等に」遺書

[やぶちゃん注:全三枚。原稿用紙仕様は□1と同一であるが、底本解題によると、寸法が二四・五センチ×一七・五センチと縦が有意に短い。他のものとは異なる納品期のものか。残念ながら、底本は画像に縮小倍率が示されていないために、実測することは不能である。ペン書き(私にはブラックに見える)。一字下げで一行目から書き出し、「わが子等に」の次の行は空行。「五茫々たる天命は……」以下は二枚目、「八汝等の父は……」以下は三枚目。]


 わが子等に。

 

 一人生は〔死に至る〕戰ひなることを忘るべからず。

 二從つて汝等の力を恃むことを勿れ。 汝

等の力を養ふを旨とせよ。

 三 小穴隆一を父と思へ。 從つて小穴の教

訓に從ふべし。

 四若しこの人生の戰ひに破れし時には汝等

の父の如く自殺せよ。 但し汝等の父の如く他

に不幸を及ぼすを避けよ。


 五茫々たる天命は知り難しと雖も、努めて

あらゆる〔汝等の家〕族に恃まず、 汝等の欲望を抛棄せ

よ。 是反つて汝等をして後年汝等を幸福にす〔平和ならし〕

〔む〕る途なり。

 六汝等の母を憐憫せよ。 然れどもその憐

憫に爲に汝等の意志を抂ぐべからず。 是亦却

つて汝等をして後〔年〕汝等の母を■〔を〕幸福ならしむ

べし。

 七汝等は皆汝等の父の如く神經質なるを免

れざるべし。 殊にその事実に注意せよ。 若し


 八汝等の父は汝等を愛す。 (若し汝等を愛せ

ざら〔ん〕乎、 或は汝等を棄てて顧みざる〔べ〕し。 汝

等を棄てて顧みざる能はらん乎、]〔る能は〕ば、 生路も亦なきに

しもあらず)

            芥川龍之介

 

 

 

 

 


[やぶちゃん後注:

○「一」

・「人」は四マス目にあり、消している。衍字か。

・「死に至る」は右側に挿入してある。

 

○「二」

・「從」は衍字を芥川が補正したものである。従来の遺書類では「二」の条中の「恃むことを勿れ」の部分に「恃むことを忘る勿れ」と「忘る」が各編者によって補塡が施されている。「一」での「忘るべからず」の語気の強さが影響して脱落した感じがある。まさに、これは芥川龍之介の気迫に満ちた肉声なのだ、という感がここから既にして、してくるのである。

 

○「三」

・「三」のみ、数字の後が一マス空けとなっている。

 

○「四」

・「戰ひに」の「戰」という筆記は、一見、「獸」という字に見紛う。

・「四」の条は従来の全集版では、

「但し汝等の父の如く 他に不幸を及ぼすを避けよ。」

となっていて、「父の如く」の後が一字空けとなっているが、これは誤りである。今回、原本写真を見ると、「の如く」の「の」の字辺りから、芥川はマス目の上方へ文字を記すようになっており、この「く」が遂には下から三マス目と二マス目の間の罫の丁度中央にかかってしまっている。ところが次の「他」の字では、やや上ながら最終マスに入っているために、ここに一字空けが存在するかのように見えただけであって、ここに『字空け』はないのである。向後、全集では訂正されるべき部分である。

 

○「五」

・「五」は「四」の同一マス右に訂正。

・「あらゆる〔汝等の家〕」は「あらゆる」を波線で消した右に訂正。波線での消去は、この遺書では、ここと最後の「八」の部分だけである。

・この条は興味深い。ここは当初、

「是反つて汝等をして後年汝等を幸福にする途なり。」

と書き切ったものを、後から

「幸福にす」

だけを直線で消し、更に四行目冒頭右側に「む」を加え、

「是反つて汝等をして後年汝等を平和ならしむる途なり。」

と変えたものなのである――「家族に恃まず」「汝等の欲望を抛棄すること」とは――芥川にとって――「幸福」の問題なのではなく、「平和」の問題であったのだ――。

 

○「六」

・「六」の直下の小さな円をぐるぐる巻いたような消しは、自信がないが、「の」の消しとした。直接、子供等に「汝等」と語りかけているように書いてきた芥川が、つい、汝等を省略して「の母」とやってしまったものを訂正したものではないかと私は読む。

・「年」の消去字「年」も自信があるわけではないが、見る限りでは極めてよく似た字形のものを消して右に「年」と記しているように思われる。字体が気に入らなかったのか、もしくは「年」以外に書き換えようとして、止め、元と同じ「年」としたのかも知れない。

・「是亦」の「」は同一マス内の訂正。左側のそれは潰れた「の」の字のようにも見える。

・「汝等の母■〔を〕」は最初に「を」を書き、それを消して何か――「と」か?――右に直し、更に再びその右に再び吹き出しで「を」と書き直している。

 

○「七」

・「事実」はママ。

・「若し」は興味深い削除である。芥川はここにどんな仮定を配そうとしたのであろう。――「若し」その神経との「戰ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ」という「四」のリフレインのようなものでも想定したのだろうか(それは如何にもくどくなる)。いや、もしかすると――ここは最終行最終二マスなのである――これに続く幻の三枚目の破棄された別原稿が存在した可能性も捨てきれない。それを破棄した芥川は、そこで「八」のコーダに突入したのではなかったか?

 

○「八」

・「」(同一マス内で「若」と訂正)は「汝」と書きかけて消したものと推定される。

〔ん〕」は同一マス内であるが「ん」をマス内右側に吹き出しにしてある。「ら」の衍字を補正したもののようにも見えるが、ひらがなの「か」のようにも見える。右に大きく吹き出しで「ん」と補正する。

・「〔べ〕し」の「べ」は脱字を右に挿入している。

・「汝等を棄てて顧みざる能はらん乎、]〔る能は〕ば、生路も亦なきにしもあらず」の部分は苦悩の跡がありありと見られる部分である。まず、

「汝等を棄てて顧みざる能はば」

と決定稿と全く同じに書いたものを、右側に

「汝等を棄てて顧みざらん乎、生路も亦なきにしもあらず」

としてみたものの、やはり波線で消して元に戻し(実際には波線は「乎、」に及んでいない)、左側に

「る能は」

と吹き出し状(右がもう使えない故ではあるが、左の吹き出しはこの一連の遺書では異例)に訂したものである。更によく見ると「顧み」の「顧」の漢字の左の上、マスの中に黒い人工的な本文と同一のインクと思われるものによって有意に大きい「●」(黒い小さな丸)が打たれている(汚損と考えるのが自然であろうが、妙にはっきりしているのは気になる)。加えて、「顧み」の「み」の字には、はっきりと分かる、なぞった跡が見られる。これは「棄てて」辺りから有意にインクが薄くなっており、ここでインクが切れ、薄くなったものを後からなぞったもののようにも推測されはする。

 

○署名

十二字下げで下は二マス分空いている。以下の五行は空行。

 

◎最後に本原稿から引き出せる、私の考える芥川龍之介自死の核心を述べる。芥川龍之介の遺書の内、最も芥川龍之介が作家芥川龍之介というポーズをせずに(若しくはなるべくしないように)書こうとしているもの、そして、死出に旅立とうとする芥川が、最も愛情を込めて書き記しているもの、それがこの「わが子等に」という遺書であることは、疑いようがない。小穴隆一宛遺書は先行して書かれており、そこには「或旧友に送る手記」ほどではないにしても、奇妙な言い方だが、まだ余裕の作家的ポーズが明白に見られる。しかし、この「わが子等に」は、或る意味、素直な覚悟の一筆である。即ち、ここにこそ私は芥川龍之介の自死の真意が隠されていると読むのである。

 

 従来、「或旧友に送る手記」に示された「ぼんやりとした不安」については、

・当時の妻文以外の複数の女性との関係と懊悩

・義兄の保険金詐欺疑惑と鉄道自殺の事後処理のための奔走による疲弊

・彼が行った『近代日本文芸読本』編集に絡むトラブル

等、己が引き起こした忌まわしいしがらみに捕らえられ、また内外の煩わしい事件に巻き込まれていた芥川が、

・極度の神経衰弱とそれに起因する心身症とも言うべき多様な身体不調

を常時訴えていたこと、加えて

・死の直前の宇野浩二の精神異常の実見や実母の遺伝に対する精神病発症恐怖を核とした神経症的な厭世的傾斜

という読解もなされてきた。また、

・自身の反戦厭戦思想と乖離してゆく国家の富国強兵化

・社会主義思想へのシンパシーと同時に持ったであろうところのプロレタリア文学運動への違和感

なども彼の中にあった「ぼんやりとした不安」の一因であったことは事実であろう。果ては、

・作家としてのインスピレーションの枯渇

という掟破りの無神経な巨砲まで繰り出してくる輩もいる。

 しかし、私には、その何れもが、芥川龍之介の自死の必然的要因としては響いてこない。正直、肯じ得ないものなのである。

 以下は、この遺書「わが子等に」から、私に語られた、芥川龍之介の自殺の主因である。

 

 芥川龍之介は自分の実母フクを狂人と意識し、更に実父新原敏三を激しく嫌悪拒否した。その父嫌悪の主因は、恐らく、手当たり次第に女に手をつけた敏三に対する強烈な「子」としての拒否感であったのだと私は思う。そしてまた私は、フクの精神病(又は神経症)の発症動機の一つは正にその敏三の不行跡にこそあったのではないかと考えている。

 勿論、芥川龍之介自身が、そのような心因性精神疾患として母のそれを認識していたことを感じさせる記載は、ない。ないが、少なくとも、芥川龍之介の心的複合(コンプレクス)の中にあっては、それは無意識的にも容易に結びついて構成されたであろうと私は考えるのである。

 そうした芥川龍之介にとって、自分自身の、実際にあった秀しげ子と姦通や、北原白秋のように、あり得たかも知れないそれによる姦通罪での告訴と収監――そして――双方が強烈に惹かれ合いながら、芥川自身が断腸の思いでそれを断ったところの、片山廣子との夢のようなアバンチュール――これらは、芥川龍之介という作家のゴシップや姦通罪という犯罪性を遙かに越えて――「狂人の母の子」である以上に――正に自分が決して認めることが出来ない忌まわしい「非―父」としての実父新原敏三のおぞましき「自己再現」と感じられたに違いない。

 即ち、芥川龍之介はまさに「わが子等」が、自分と同様の父嫌悪を自分に持つことを、最も恐れ、最も嫌悪したと考えてよいのである。

 でなくて、どうしてこの「わが子等に」の掉尾に、万感の思いを込めて「汝等の父は汝等を愛す。」「若し汝等を愛せざらん乎、或は汝等を棄てて顧みざるべし。汝等を棄てて顧みざる能はば、生路も亦なきにしもあらず」と書く必要があっただろう。――お前たちを愛していなかったなら、或いはお前たちを捨てて顧みないことも可能であろう、お前たちを捨てて一顧もせずに済むのならば、私には生き延びるという選択肢がないわけではない、と述べているのである(勿論、その恥と苦痛の対象は妻や養父母及び伯母フキという外延へも延びて行きはする。実際に芥川は「□6 小穴隆一宛遺書」で養父母への複雑にして微妙な思いを延々と述べてもいる。しかしそれは所詮、私にとってはたかが外延に過ぎぬ、のである。いや、芥川は自殺の真意としての、それを隠すために、その外延を長々と書き綴ったとも言えるのではあるまいか)。

――私は実に芥川龍之介のこの遺書を読んだ十八歳の時から、今まで、この最後の言葉がずっとどこかで引っ掛かっていた。それが今、五十二歳になって初めて、腑に落ちたのである。

 それは如何なる過去に考察され、示された芥川龍之介自死の原因説よりも、私にとって納得出来るものだったのである――いや、――私なら、そのために死ねる――ということである――私には残念ながら、子供はいないのだが――。

 

 ――芥川龍之介は芥川比呂志・多加志・也寸志という三人の自己の分身である「わが子等」から永遠に愛される、何よりも誰よりも「より良き父」である、ためにこそ、自死したのである――。

 

 ――それは、芥川龍之介にとって、正しくあらゆる死への誘惑の、最後の確かなスプリング・ボードであった――。

 ――いや、ここまで読んでこられた、ある人にとっては、こんな理由は、ある意味、陳腐で退屈な「自殺の主因」であるかも知れない。あの芥川に相応しくない、と感じる向きもあるやも知れぬ。しかし反論させてもらうなら、その「あの芥川」は、芥川の実像では、ない。そして、私にはこれこそが、如何にも、芥川龍之介の「自然」として彼の自死を「共感」出来る、最後の地平であったのである――。

 ――そして同時に――「汝等の父は汝等を愛す」――というそれは、「こゝろ」の先生の、あの、最期の笑みにさえ通ずるものでもあった――と、私は思うのである。いや、そう思いたいのである――。

 

 

●4 「わが子等に」遺書〔整序版〕

[やぶちゃん注:「八」の「乎」の消し忘れは排除した。]

 

 わが子等に。

 

 一人生は死に至る戰ひなることを忘るべからず。

 二從つて汝等の力を恃むことを勿れ。 汝等の力を養ふを旨とせよ。

 三 小穴隆一を父と思へ。 從つて小穴の教訓に從ふべし。

 四若しこの人生の戰ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ。 但し汝等の父の如く他に不幸を及ぼすを避けよ。

 五茫々たる天命は知り難しと雖も、努めて汝等の家族に恃まず、 汝等の欲望を抛棄せよ。 是反つて汝等をして後年汝等を平和ならしむる途なり。

 六汝等の母を憐憫せよ。 然れどもその憐憫に爲に汝等の意志を抂ぐべからず。 是亦却つて汝等をして後年汝等の母を幸福ならしむべし。

 七汝等は皆汝等の父の如く神經質なるを免れざるべし。 殊にその事実に注意せよ。

 八汝等の父は汝等を愛す。 (若し汝等を愛せざらん乎、 或は汝等を棄てて顧みざるべし。 汝等を棄てて顧みざる能はば、 生路も亦なきにしもあらず)

            芥川龍之介  

 

 

 

□5 菊池寛宛遺書

[やぶちゃん注:全二枚。原稿用紙仕様は□1と同一。ペン書き(私にはブラックに見える)。一行目は空行。「五あらゆる人々の赦さんことを請ひ、……」以下は二枚目。原稿用紙仕様は同一。ダッシュは三マスに及ぶ。]


 

 一他に貸せしもの、――― 鶴田君にアラビア

夜話十二巻あり。

 二他より借りしもの、――― 東洋本庫よ

Formosa(台湾)一册。 勝峯晋風氏より「潮音」

册。 下島先生より印數顆、 室生君より印

顆。 (印は所持者に見て貰ふべし。)

 三沖本君に印譜を作りて貰ふべし。 わが

追善などに〔句集を加へて〕配るもよし。

 四石塔の字は必ず小穴君を煩はすべし。


 五あらゆる人々の赦さんことを請ひ、 あら

ゆる人々を赦〔さ〕んとするわが心中を忘るる勿

れ。

 

 

 

 

 

 

 


[やぶちゃん後注:

○「一」

・「鶴田君」芥川晩年の交流で鶴田姓となると、出版者鶴田久作(つるたきゅうさく 明治七(一八七四)年~昭和三〇(一九五五)年)のことか。岩波版新全集の関口安義・宮坂覺編の人名解説によれば、明治四二(一九〇九)年に日本古典の文庫である「国民文庫」全五四冊の刊行を計画、国民文庫刊行会を設立した。後には「泰西名著文庫」「国訳漢文大成」などもものしているが、この「アラビア夜話十二巻」(=「アラビアン・ナイト」「千夜一夜物語」の英訳本であろう)とは、その「泰西名著文庫」の候補として鶴田が読んでいたものとも思われる。

・「十二巻」の「巻」はママ。

 

○「二」

・「東洋本庫」は東洋文庫の誤り。芥川の一高時代の同級生であった歴史学者・東洋学者の石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年)が主事として勤めていた。石田幹之助は東京帝国大学史学科卒業後、東大に残って史学研究室副手となり、学術調査で中国に渡ってモリソン文庫を受託(大正六(一九一七)年に三菱財閥総帥岩崎久弥が中華民国総統府顧問ジョージ・アーネスト・モリソン所蔵の中国関連欧文文献の膨大なコレクションを購入した際のモリソン文庫主任としての仕事を指す)、その後身である財団法人東洋文庫主事となって一七年間に渡って文庫の充実に尽力した。正式な財団法人としての東洋文庫の設立は大正一三(一九二四)年のことである。

・「Formosa(台湾)」の“Formosa”(フォルモサ)は筆記体。これは“Taiwan”台湾のこと(大航海時代にポルトガル語の「麗しき島」と言う意味の“Ilha formosan”からつけられた英語)。「台湾」の「台」「湾」はママ。書誌不詳であるが、英文の民俗地誌書か案内書ででもあろうか。新しい小説の素材を求めての読書か? それとも――晩年、芥川は台湾への旅行(再度のニグザイル?)でも考えていた時期があったか?

・「勝峯晋風」「」は「峯」という字を衍字で書きかけて消したもの。勝峯晋風(かつみねしんぷう 明治二〇(一八八七)年~昭和二九(一九五四)年)俳人・国文学者。本名晋三、晋風は俳号。新聞記者を経験後、俳諧の研究や著述に専念。伊藤松宇(安政六(一八五九)年~昭和一八(一九四三)年)主宰の俳誌『にひはり』をを編集、自らも俳誌『黄燈』創刊、また「日本俳書体系」』等の編纂刊行など、俳諧研究に大きく貢献した人物である。芥川はこの『にひはり』にも投句している。

・『「潮音」』は太田水穂(おおたみずほ 明治九(一八七六)年~昭和三〇(一九五五)年)主宰の短歌雑誌。底本の図版解題で石割透氏は『太田は大正中期から芭蕉研究会を小宮豊隆、和辻哲郎らと作り、芭蕉研究の成果を雑誌に反映させていた』と記しているから、この「潮音」の借受は芭蕉関連記事のためであったと石割氏は断定していることになる。

・この五行目と六行目の間には原稿用紙上辺から「印數顆」の「顆」の辺りまで、だんだん細くなる縦に焼けたペン跡の筋のようなものが入っている。汚損と捉えておく。

・「下島先生」は下島勲。「□1 芥川文子宛遺書」注参照。

・「室生君」は盟友の詩人室生犀星。

・「數」の「」は下のマスと同じ「數」の字を書きかけて、ぐしゃぐしゃと潰している。印の正確な数を思い出そうとして断念し、元の「數」に戻したか。

・「室生君より印二顆」は数字を書きかけたかのようにも見えるが、不明。

 

○「三」

・「三」にのみ「三」の同一マス内に読点がある。

沖本君」の「沖本君」は沖本常吉(明治三五(一九〇二)年~平成七(一九九五)年)は民俗学者。当時は東京日日新聞社社員(大正一五(一九二六)年入社)で、芥川龍之介の「本所両国」(昭和二(一九二七)年)『などの口述筆記もなし』(底本石割透氏図版解題に記載)たとある。以下、同解題から引用すると(記号を一部変更した)、『後には「芥川龍之介以前――本是山中人」(一九七七)を刊行、自らの郷里の出身であった芥川の実父』の新原(にいはら)敏三『などについての調査をまとめ、芥川の印譜について触れている』とある。上のマスの「」は何を消したのか不明であるが、もしかすると芥川は「三」に読点を打っていたために、通常の一マス空けを反射的にしてしまった(そのために書いた何かを消した)のかも知れない。

・「印譜を作りて貰ふべし。 わが追善などに〔句集を加へて〕配るもよし」の句集を加へて」は右側に書き入れ。芥川没後の同年一二月二〇日、文藝春秋出版部より「澄江堂句集 印譜附」が刊行されている。遺言通り、香典返しとして作成されたものである。

 

○「四」

・「小穴君」は小穴隆一。芥川の骨は芥川家の檀家寺である染井墓地の先、日蓮宗慈眼寺に、昭和二(一九二七)年七月二八日に葬られた。相州小松石(箱根産安山岩)の墓石で、大きさは芥川愛用の座布団大、墓石碑面の「芥川龍之介墓」はこの遺書通り、小穴隆一の筆になるものである。

 

○「五」

・「赦〔さ〕んとする」の「せ」の訂正は同一マス内で、マス内右手に吹き出しで「さ」とする。以下、七行は空行。]

 

 

5 菊池寛宛遺書〔整序版〕

 

 一他に貸せしもの、――― 鶴田君にアラビア夜話十二巻あり。

 二他より借りしもの、――― 東洋本庫よりFormosa(台湾)一册。 勝峯晋風氏より「潮音」數册。 下島先生より印數顆、 室生君より印二顆。 (印は所持者に見て貰ふべし。)

 三沖本君に印譜を作りて貰ふべし。 わが追善などに句集を加へて配るもよし。

 四石塔の字は必ず小穴君を煩はすべし。

 五あらゆる人々の赦さんことを請ひ、 あらゆる人々を赦さんとするわが心中を忘るる勿れ。

 

 

 

□6 小穴隆一宛遺書

[やぶちゃん注:全五枚。原稿用紙仕様は□1と同一であるが、欄外に印刷された「松屋製」等の字の活字が全く異なっており、時期の異なる納品のものを用いていることが分かる。これは次に掲げる関連資料「□7 遺書関連資料 佐藤義亮宛出版契約書」に使用されているものとよく似ている(よく似ているが別物ではある)。ペン書き(私にはブラックに見える)。後注に記す通り、これは自死よりも遙か前に書かれたものであることが、ここからも分かる。冒頭二行は空行。「じたことを少なからず後悔してゐる。……」以下は二枚目、「子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。……」以下は三枚目。「れども今になつて見ると、……」以下は四枚目。「のには常に迷惑を感じてゐた。……」以下は五枚目。この五枚の原稿用紙の仕様は同一である。文中、表記出来ない字は「※」=「口」+「責」。芥川による抹消線は総て波線である。]


 

 

 僕等人間は一事件の爲に容易に自殺などす

るものではない。 僕は多年過去の生活の總決算の

爲に自殺するのである。 しかしその中でも大

事件だつたのは僕が二十九歳の時に秀夫人と

罪を犯したことである。 僕は〔罪〕を犯したこと

に良心の呵責は感じてゐない。 唯相手を選ば

なかつた爲に(秀夫人の利己主義や動物的本能

の烈しさは〔は實に甚し〕いものである。) 僕の生存に不利だつ〔を生〕


じたことを少なからず後悔してゐる。 なほ又僕

と恋愛關係に落ちた女性は秀夫人ばかりでは

ない。 しかし僕は三十歳以後に新たに情人を

つくつたことはなかつた。 これも道德的に

くらなかつたのではない。 つく〔唯情人〕をつくるこ

に興味を感じ〔の利害を打算し〕なくなつた爲である。 (しかし

恋愛はし〔を感じ〕なかつた訣ではない。 〔僕〕はその〔時に〕に

「越し人」「相聞」 等の抒情詩を作り、 深入りしない

前に脱却した。) 僕は勿論死にたくない。 しか

し生きてゐるのは苦しい爲〔のも苦痛である〕〔。〕 他人は父母妻


子もあるのに自殺するのは〔阿呆〕を笑ふかも知れな

い。 が、 僕は一人ならば或は自殺せずにも〔しないで〕あ

らう。 僕は養家に人となり、 我侭らしい我侭

を言つたことはなかつた。(〔云〕ふよりも寧ろ言

ひ得なかつたのである。) 僕はこの養父母に對

する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。 しかし

これ〔も〕僕にとつてはどうすることも出來なか

つたのである。) 今僕が自殺するのは一生に一

度の我侭かも知れない。 僕もあらゆる青年の

やうにいろいろの夢を見たことがあつた。 け

 

れども今になつて見ると、畢竟〔氣〕違ひの子だ

つたのであらう。 僕は勿論〔現在〕は僕自身には勿

論、 あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。

            芥川龍之介

 P.S. 僕は支那へ旅行するのを機会にやつと

秀夫人の手を脱した。 (僕は洛陽の客桟にスト

リントベリイの「痴人の懺悔」を讀み、 彼も亦僕

のやうに情人に譃を書いてゐるのを知り、 苦

笑したことを覚えてゐる。) その後は一指も触

れたことはない。 が、 執拗に追ひかけられる


のには常に迷惑を感じてゐた。 僕は僕を愛し

ても、 僕を苦しめなかつた女神たちに(但しこ

の「たち」は二人以上の意である。 僕はそれほど

ドン・ジユアンではない。)〔心〕の感謝を感じてゐ

る。

 

 

 

 

 


[やぶちゃん注:

○一枚目

・「自殺など」同一マス内で訂正し、右に吹き出しで「を」とする。「な」ではなく「を」の可能性もあるか。

・「多年過去」二字とも同一マス内で訂正。

・「しかしその中でも大事件だつたのは」の「」は不明。「は」と書きかけて脱字に気づいたという感じがしないでもない。

 

・「秀夫人」秀しげ子(ひでしげこ 明治二三(一八九〇)年~昭和四八(一九七三)年)旧姓小瀧、本名繁子。日本女子大学校(現・日本女子大学)家政学部を卒業、その七日後の明治四五(一九一二)年四月二〇日、帝国劇場株式会社の照明や電気全般を管理保守する電気主任秀文逸と結婚、大正三(一九一四)年に長男、大正一〇(一九二一)年に次男を出産している。この長男出産前後より「□5 菊池寛宛遺書」に登場する太田水穂主宰の短歌雑誌『潮音』の歌人として知られるようになった(彼女の短歌は現在確認可能な限りでも四百五十首近くを数える)。

 二歳年下であった芥川龍之介との邂逅は、しげ子二九歳、大正八(一九一九)年の晩春六月一〇日、作家岩野泡鳴主宰の若手文士の食事会「十日会」での席上であった。芥川は、予てよりしげ子の知り合いであった広津和郎に、彼女への紹介をしつこく頼んだとされる。同年九月一〇日の十日会で再会、その時、密会の約束をしたものと推定される。この日以降、芥川は現存する日記に彼女のことを『愁人』と記すようになり、芥川が耽溺し、不倫へと転落してゆく過程が如実に分かる。高宮檀「芥川龍之介を愛した女性」(二〇〇六年彩流社刊)によれば、同九月一五日の夕刻、二人は深川富岡門前仲町(現・墨田区富岡町一丁目)にあった待合「真砂」(!)で肉体関係を持った(深夜に帰宅)。

 しかし、早くも九月二五日の再会の後には(当日も深夜の帰宅)、ある種の失望感を感じ、それを素直に日記に記している。

 その後は、私も幾つものテクストで注してきた通り、真正のストーカーと化してゆくしげ子から半ば逃れるように中国行きを決め(「或阿呆の一生」の『二十六 古代』参照)、彼女から距離を置くようになる。

 更に、中国から帰国した二ヶ月後の大正一〇(一九二一)年九月二四日(やはり高宮檀「芥川龍之介を愛した女性」(二〇〇六年彩流社刊)に拠る)、芥川は偶然、日本橋の料理屋で、龍門の四天王と呼ばれた弟子にして盟友の作家南部修太郎が、しげ子と密会していた現場に居合わせてしまう――

……因みに、この出来事が「藪の中」の素材となったことは、最近ではよく知られるようになったが(私の「芥川龍之介(遺書五通)」の注でも考察した)、待合の名前「真砂」は高宮氏の当該書の驚愕の功績である……

――これを契機に、急速にしげ子は芥川にとって激しい嫌悪と忌避の対象となっていった。芥川龍之介晩年にあっては『愁人』は「歯車」の「三 復讐」に『ミイラに近い裸體の女』として出現する『僕の復讐の神、――或狂人の娘』、更に「或阿呆の一生」の『二十一 狂人の娘』――

……先に記した大正八(一九一九)年九月一五日の映像である……なお、高宮氏がこれを小穴隆一の「二つの絵」で、芥川がしげ子と関係を持ったのは最初で最後、この一度きりと告白したことを無批判に信じておられるのに対しては、私は異論がある。少なくとも九月二五日もコイツスはあったと考えるのが自然であり、その後はなかったと考えるのも、私には不自然に思われる。本遺書の末尾に現れる中国から帰国して「その後は一指も触れたことはない」と芥川が言うのは事実であろうが、「その後」とは我々男子がこの手の話をするのに用いる使い古した常套的レトリックでもある。何より私は、私が弁解するとすれば、芥川のこのような手法を、確かに採るに違いないことを実感するからでもある……

――という汚穢に近い表現へと変容し、「三十八 復讐」にあっては、遂に

『かう云ふ彼女を絞め殺したい、殘虐な欲望さへない譯ではなかつた』

と記すに至るのである。

 

・「僕は〔罪〕を犯したこと」の「」の訂正は同一マス内で吹き出しで「罪」とする。「不義」「不倫」等を比定し得る。

・「呵※責」の「※」[「※」=「口」+「責」。]は同一マス内。「呵」に引かれた誤字の訂正と思われる。

・「秀夫人の利己主義や動物的本能の烈しさは〔は實に甚し〕いものである」「の烈しさは」に波線を引き、右に「は實に甚し」とする。この補正は「秀夫人の利己主義や動物的本能の列しさは」まで書いて、その場で補正したものであることを示している。意味深長である。いや、慎重という言うべきかも知れない。

・「不利だつ〔を生〕」は「不利」を消して、右に吹き出しで「を生」と訂す。「だ」はやや自信がない。

 

○二枚目

・「又僕と恋愛關係に落ちた」の「恋」はママ(以下総て同じ。略す)。「と」は同一マス内で、吹き出し訂正。「僕の」であれば、自ずとその後の叙述は異なっていた気がする。

・「道德的につくらなかつたのではない」の「」は脱字を正したかのように思われるが、同定には自信がない。

・「つく〔唯情人〕をつくること」右に訂正。取り消しの波線は「る」まで伸びていない。

・「〔唯情人〕をつくることに興味を感じなくなつ〔の利害を打算し〕た爲である」という部分はいたって興味深い。彼は既に

「唯情人をつくることに興味を感じなくなつた爲である」

と書いたものを訂正して

「の利害を打算し」

という前後を全く自然に繋げる言辞をここに挿入しているのである。特に「ことに興味を感じ」は下の「なくなつ」に比して、もっと激しく左右に振れる波線で消されている。この遺書は、死の直前に書かれたものではなく、小穴の証言が正しいとすれば、死の前年、大正一五(一九二六)年の四月以降のことと考えられるが、それでも遺書であることに変わりはない。死を決しながら、このように文章の書き換えを美事にしてしまう芥川には、今更ながら舌を巻かざるを得ない。

・「しかし恋愛はし〔を感じ〕なかつた訣ではない」ここで我々は芥川龍之介の心の核心を目の当たりにすることになる。彼は「恋愛はしなかつた訣ではない。」と書いたものを、「はし」を消し、右に吹き出しで「を感じ」と訂している。更に彼は激しく動揺している。「〔僕〕はその〔時に〕に」は「唯」の右に吹き出しで「僕」、「爲」を消して右に「時に」と訂す。――これは正に彼が「しかし恋愛はしなかつた訣ではな」く、実際にその後も新たな恋愛を「した」という本音――それは既に我々の周知の事実であるものの――その真実を、我々は、遂に彼自身の記述の中に見出したのだと言ってよい。我々は今まで「恋愛を感じなかつた訣ではない」という貴公子然としたポーズの龍之介像の中で、蛇の生殺しのような気分を何処かで味わっていたのではなかったか?――そうして更に! この元の文章は次のように続くのだ!

『しかし恋愛はしなかつた訣ではない。僕はその時に「越し人」「相聞」 等の抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。』

この彼が代表させている、恋多き彼にとって最も稀有であった恋愛は――芥川龍之介が生涯に於いて妻以外の女とした――まことの「恋」は――「越し人」「相聞」の絶唱の相手であった片山廣子以外の誰でもなかったことを、この文章は我々に伝えていると言い切ってよい。『僕はその〔時に〕に「越し人」「相聞」 等の抒情詩を作り』というこの部分、この三行で、芥川は激しく逡巡している。その証拠に彼は「に」を衍字でダブって補正(?)してしまっていることに気づかれるがよい。

最後にこの部分を私の推定する推敲順に示しておく(丸括弧をはずして、「に」のダブりは排除した)。

 

「唯情人をつくることに興味を感じなくなつた爲である。しかし恋愛はしなかつた訣ではない。唯」

「唯情人をつくることに興味を感じなくなつた爲である。しかし恋愛はしなかつた訣ではない。僕はその

「唯情人をつくることに興味を感じなくなつた爲である。しかし恋愛を感じなかつた訣ではない。僕はその時に「越し人」「相聞」 等の抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。」

 

・「僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのは苦しい爲〔のも苦痛である〕〔。〕」ここも興味深い。彼は最初、

「僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのは苦しい爲に」

として、さらに続けよう思ったのだが、

も苦痛である」

と右脇に書き換え、

「に」

を消して句点を新たに打つことで、力技で文を言い切ったものに変えているのである。ある種の弁解染みたくだくだしい表現を抑えようとしたものとも思われる。ここは「他人が」の前に一マス空いていることから、ここまで書いて、ここで、その判断と推敲をしていることが分かる。確かに我々も、自殺者本人であったとすれば――それは確かに躊躇する叙述部分である――少なくとも私なら、そう、である――

 

○三枚目

・「僕は一人ならば或は自殺せずにも〔しないで〕あらう。」は「せずにも」を消し、右に訂正。

・「〔云〕」は同一マス内で訂正。

・「養父母」養父芥川道章と養母芥川トモ。しかしここで着目すべきは、芥川が最も愛し、同時に深い確執もあった精神的には最も「芥川の母」的存在たる伯母フキが、明らかに意識的に総ての遺書から隠されている事実である。

・「これ〔も〕」は同一マス内で訂正。累加の係助詞「も」に変えた芥川龍之介の心の内が思いやられる部分である。

・「我侭」の「侭」はママ。以下同じ。

・「(〔云〕ふよりも寧ろ言ひ得なかったのである。)」ここの後ろの丸括弧は消去している。芥川龍之介の遺書の校閲は厳密である。丸括弧の位置一つさえおろそかにしていない。

・「どうすることも出來なかつたのである」この「も」はマスとマスの間に書いてしまったのを消したものである。几帳面な彼の性格が表れている。

 

○四枚目

・「〔氣〕違ひ」は「」と「氣」は同一マスであり、「氣」の左側に明らかな何かを書きかけて消した跡がある。「氣」の字体も現行の「気」の最終画がないような奇妙な字であるが、核心の言葉であるだけに旧字で示しておいた。

・「勿論〔現在〕」はそれぞれの同一マスの右方に訂正。

・「僕自身には」不明。「に」か「は」の衍字を消したようにも見え、「も」にも見える。

・「嫌悪」の「悪」はママ。

・「芥川龍之介」は十二字下げで、下が二マス空く。

・「P.S.」は縦書本文でも横書で一マスに総て入れてあるが、縦書ブラウザでは表記出来ないので御容赦願いたい。“POSTSCRIPT”の短縮形で、「(手紙の)追伸」「追記・後書」の意である。「或旧友に送る手記」といい――芥川龍之介は「芥川龍之介」という小説にもちゃんと「後書」を記さねば、済まなかったのである――

・「機会」の「会」はママ。

・「客桟」の「桟」はママ。中国語で旅館の意。

・『ストリントベリイの「痴人の懺悔」』スウェーデンの作家 Johan August Strindberg ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(一八四六~一九一二)の一八九三年の作品Die Beichte eines Thoren「痴人の告白」のこと。統合失調症が悪化、強烈な嫉妬の関係妄想が襲った時期の自伝的長編作品。妻が不貞をはたらいている(と思い込んでいる)「私」が、遂に妻の生殖器の形態まで作中で描写するという、文学史上、最大最悪のミソジニー(女性嫌悪)小説。

・「覚えてゐる」の「覚」はママ。

・「触れた」の「触」はママ。

 

○五枚目

・「のは〔阿呆〕」はそれぞれのマスで右に訂正。

・『但しこの「たち」は二人以上の意である』とは、せいぜい二~三人、多くても数人(ニュアンスからは五人を越えないという感じか)という意味合いで用いている。筆頭に片山廣子、次に心中未遂にまで至った妻文の幼馴染み平松麻素子(ますこ)、鎌倉の料理旅館小町園の女将野々口豊……これ以上は、私の愛する芥川龍之介のために、数え挙げるのは遠慮しておこう……。

・「ドン・ジユアン」中黒「・」は二マス目と三マス目の間に打っている。スペイン語の人名Don Juanドン・フアンのフランス語読み。一般にはドン・ファンと表記する。彼は十七世紀スペインの伝説上の放蕩者Don Juan Tenorioドン・フアン・テノーリオで、プレイボーイ・女たらしの意として一般名詞で用いられる。イタリア語ではモーツァルトでお馴染みにドン・ジョヴァンニである。芥川はモーツァルトが好きであった。……アインシュタインのように、彼の末期の耳にはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」が聴こえていたのかも知れない……。

・「衷〔心〕」は「心」と記したマスのやや左上方に、別な字を書きかけて消した跡が残っている。

・「る。」次行以下、五行空行。]

 

 

●6 小穴隆一宛遺書〔整序版〕

[やぶちゃん注:「つく〔唯情人〕をつくること」の消し忘れた「つくる」、及び「僕はその〔時に〕に」の消し忘れた「に」は排除した。]

 

 僕等人間は一事件の爲に容易に自殺などするものではない。 僕は過去の生活の總決算の爲に自殺するのである。 しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九歳の時に秀夫人と罪を犯したことである。 僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じてゐない。 唯相手を選ばなかつた爲に(秀夫人の利己主義や動物的本能は實に甚しいものである。) 僕の生存に不利を生じたことを少なからず後悔してゐる。 なほ又僕と恋愛關係に落ちた女性は秀夫人ばかりではない。 しかし僕は三十歳以後に新たに情人をつくつたことはなかつた。 これも道德的につくらなかつたのではない。 唯情人をつくることの利害を打算した爲である。 (しかし恋愛を感じなかつた訣ではない。 僕はその時に「越し人」「相聞」 等の抒情詩を作り、 深入りしない前に脱却した。) 僕は勿論死にたくない。 しかし生きてゐのも苦痛である。 他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。 が、 僕は一人ならば或は自殺しないであらう。 僕は養家に人となり、 我侭らしい我侭を言つたことはなかつた。(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである。 僕はこの養父母に對する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。 しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。) 今僕が自殺するのは一生に一度の我侭かも知れない。 僕もあらゆる靑年のやうにいろいろの夢を見たことがあつた。 けれども今になつて見ると、畢竟氣違ひの子だつたのであらう。 僕は現在は僕自身には勿論、 あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。

            芥川龍之介

 P.S. 僕は支那へ旅行するのを機会にやつと秀夫人の手を脱した。 (僕は洛陽の客桟にストリントベリイの「痴人の懺悔」を讀み、 彼も亦僕のやうに情人に譃を書いてゐるのを知り、 苦笑したことを覚えてゐる。) その後は一指も触れたことはない。 が、 執拗に追ひかけられるのには常に迷惑を感じてゐた。 僕は僕を愛しても、 僕を苦しめなかつた女神たちに(但しこの「たち」は二人以上の意である。 僕はそれほどドン・ジユアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる。

 

 

 

□7 遺書関連資料 佐藤義亮宛出版契約書

[やぶちゃん注:底本では「文子宛遺書関連資料」と標題を設け、「新潮社宛契約書」で、大正一五(一九二六)年一〇月一六日のクレジットを持つ『初公開資料』と附してある。全一枚。原稿用紙仕様は□1と同一であるが、「□6 小穴隆一宛遺書」と同じく、欄外に印刷された「松屋製」等の字の活字が全く異なっており、時期の異なる納品のものであることが分かる。更に細かく見てみると「□6 小穴隆一宛遺書」と全く同じものでもなくて、下欄外右方に製造社内の原稿用紙規格を示すものと思われる『(SM印 B…1  1020)』の「印」の活字がはっきりと異なるっている。やはり同一期の納品物とは思われないものである。ペン書き(私にはブラックに見える)。冒頭二行は空行。]


 

 

 僕ハ新潮社カラ呈出シタ別書ノ條件ニヨ

リ、 僕ノ全集ヲ出ス事ヲ新潮社ニ一任スル。

  大正十五年十月十日

            芥川龍之介㊞

 

 佐藤義亮樣

 

 


[やぶちゃん注:

・宛名人の佐藤義亮(さとうよしすけ 又は ぎりょう 明治一一(一八七八)年~昭和二六(一九五一)年)は新潮社の社長にして創立者。明治三七(一九〇四)年に新潮社を創立し、文芸雑誌「新潮」を創刊、当時は特に自然主義の興隆に貢献した。

・「別書」の「」は不明。マス右上に「φ」のような奇妙な字の消しが残る一字分消去である。平仮名の「の」か?

・「大正十五年十月十日」この日付年は誤記で、これは「大正十四年十月十日」が正しい旨の記載が底本の池内輝雄氏の「芥川龍之介の書画」という解説内に示されている(蛇足であるが、ややその底本の該当の解説箇所の文章はおかしい。恐らく丸括弧の後ろが脱落している)。ということは、これはもともと契約書としては無効であったということになる……まさか、そこまで芥川が考えていたなどということは、あるまいが……。

・署名は十二マス目の下半分から始まり、下は二字空け(十八マスの上三分の一強の部分に「介」の第四画が進入している)で、そこに「龍」一字が掘り込まれた縦長の朱印が捺印されている。

・「佐藤義亮樣」は七~八行目の行間に最も大きな字で記載されている。続く九及び一〇行目は空行である。]

 

 

7 遺書関連資料 佐藤義亮宛出版契約書〔整序版〕

 

 僕ハ新潮社カラ呈出シタ別書ノ條件ニヨリ、 僕ノ全集ヲ出ス事ヲ新潮社ニ一任スル。

  大正十五年十月十日

            芥川龍之介㊞  

 

 佐藤義亮樣

 

 

 

芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料一通――二〇〇八年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注――縦書版 完

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