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杜子春の物語 李 復言 やぶちゃん訳

                 (copyright 2006 Yabtyan
[やぶちゃん注:以下の翻訳は、「太平廣記」を底本として諸本によって校閲された1959年中華書局刊行の「唐人小説」を底本とした、昭和五十七(1983)年学習研究社刊「中国の古典 32 六朝・唐小説集」別冊の原文を元とした「やぶちゃん版訓読」をベースとした。但し、訳の自由度を上げるために、改行や句読点については、一致させていない。会話文の「曰」も多くを省略した。また、芥川龍之介の「杜子春」とシークエンスを一致させるために、恣意的に一~六の章に分けた。私は中国語を解さないので、とんでもない誤訳があるやも知れぬ。その時は、御一報下されば、恩幸これに過ぎたるはない。]

芥川龍之介「杜子春」へ

「杜子春傳」やぶちゃん版訓読へ

「杜子春傳」やぶちゃん版語註へ

「杜子春傳」原文へ

 

杜子春の物語 李 復言 やぶちゃん訳copyright 2006 Yabtyan

 

       一

 

 杜子春は、思うに周・隋にかけての人でしたでしょうか。若い時から磊落でずぼら、家業にはまるで興味がありません。そのくせ、気ばっかり大きくて、年中飲んだくれては、遊びほおけ、結局、親の財産もすっかり使い果たしてすっからかんになってしまいました。その後、親戚やら旧友やらに何かと頼ってきましたが、杜子春が何事によらずいい加減なことしかしないので、遂に誰からも相手にされなくなってしまったのでした。

 ちょうど冬の最中でしたが、衣服は破れ、お腹はぺこぺこ、長安の街中をとぼとぼとと歩いていました。日暮れになっても食い物にもありつけず、さまようばかりで、行くあてもありません。東の市の西の門の下に、餓えと寒さに呆けた顔でぼんやり空を仰いで、長いため息をついていました。
 
――ふと気が付くと、杖をついた一人の老人が杜子春の前に立っています。老人は杜子春に、こう訊ねました。

「お前さまは何を嘆いておられるのじゃ?」

 杜子春は自分のどんなにかやりきれない思いを述べ始めて、まさにあの親戚の薄情さを訴える段となると、その憤りたるや、顏の色がすっかり変わってしまうほどでした。

 すると老人は、即座に聞きました。

「幾らあったら、お前さま充分かね?」

「三万か、五万ぐらいもあれば、やっていけますか……。」

老人は即座に返します。

「まだまだ。」

そこで、

「十万。」

と、杜子春が言うと、またしても、

「まだまだ。」

それならばと、

「百万。」

と答えると、またしても

「まだまだ。」

杜子春が思い切って、

「三百万。」

と答えた時、初めて老人は

「いいじゃろ。」

と頷き、無造作に袖から銭一さしを取り出して、

「これは、当座、お前さまの今夜の分じゃ。明日の正午きっかり、お前さまを西の市の北のペルシャ人屋敷で待っていよう。くれぐれもその刻限に遅れてはならんぞ。」

と言い捨てて、去って行きました。

 翌日、定刻通り、そこへ杜子春が行ってみると、老人は果して三百万の銭をくれて、そうして名も告げずに立ち去ったのでした。

 

       二

 

 杜子春はすっかり大金持ちになりました。なった途端に、またぞろ、めらめらと遊び心に火が点いて、『私はもう生涯二度と、あんな落魂(おちぶ)れた浮き草みたいにはなるまい。』と思い込むと、もう、駿馬に乘って、軽々した上等な絹を身に纏い、飲み友達を集めては、糸竹を凝らし、妓楼に繰り込んでは、歌え踊れの大盤振る舞い――言うまでもなく、まっとうな仕事をして生活をきちんとしようなんてことは、これっぽちも考えちゃあいません。

 こうして一、二年が経つうちに、三百万の大枚もだんだん減ってまいります。着るものも乗りものも、高価なものから安いものへ、馬を手放して驢馬にしたかと思うと、今度は驢馬を売って歩くしかない――といった具合で、あっと言う間にもとの木阿弥。

 こうなった限りは、また、どうしようもなく、杜子春は、一人再び東の市の西の門の下へ行って、長いため息をつきました。――そのため息が終わらないうちに、ふと見ると目の前に老人がやってきています。そうして、杜子春の手を握ると、

「お前さまは、またこんなにおなりになすったかい。何と、まあ! されば、わしが今一度、お前さまをお助け申そうぞ。幾らあったら、お前さま、充分かね?」

とかつてと同じように訊きました。

 しかし、さすがに杜子春は恥ずかしくって答えられません。それでも老人は執拗に訊ねます。杜子春はますます恥じ入って、ただひたすら謝ってばかり。しかし、それを見た老人は、

「明日の正午、前の時に約束した同じ場所に来るのじゃ。」

と言い捨てて、去って行きました。

 翌日、杜子春が恥をしのんで例のペルシャ人屋敷へ赴きますと、今度は老人から一千万の銭をもらい受けました。


 さて杜子春、まだ銭をもらい受けぬうちは、大いに発奮して、『今度こそはこれを元手に全うな仕事を始めて、しっかりとした生活をうち立てれば、石季倫や猗頓を凌ぐ大変な富豪になれるぞ!』と考えていました。ところが……。


 いざ金が手に入ってみると、その決心もどこへやら、前にも増して本能の赴くままに、またしてももとの木阿弥の繰り返し。一、二年もしないうちに、前よりももっと貧乏になってしまいました。

 

       三

 

 杜子春はまたしても、例の東の市の西の門の下で、老人に逢いました。杜子春は余りの恥ずかしさに堪え切れず、両手で面を掩うと走って逃げ出そうとしました。老人は、すばやく杜子春の裾をぐっと引き止め、

「ああっ、なんとまあ、生きることの下手な御仁じゃ!」

と言いながら、今度はすぐに三千万の銭を杜子春に渡すと、

「これで治らないとしたら、お前さまの貧の病は致命症じゃ。」

と言いました。その時、杜子春は心の中で呟きました。

『私は、ずぼらで、よこしまな遊びにふけり、結局、人生、何もかも、すっからかんにしちまった。こんな落魄れた私は、親戚の金持ちでさえ、とってもかまってくれるもんじゃあない。だのに、この爺さんだけは、私に三度も金を恵んでくれた。――私はこの爺さんに何で報いたらよいのだろう?』

と。

 そこで杜子春は老人に向かって、思い切って次のように言ったのでした。

「今の私は、これだけの金を手に入れれば、きっとこの世の中で、人としてなすべき義理を全てやりおおせることができると思います。一族の中の、身寄りのない子供や未亡人の衣食の世話をしてやることで、聖人の教えにあるところの、人として正しい行いも立派にやり遂げることができましょう。お爺さんの深い恩には心より打たれておりますれば、そのなすべきことをなした暁には、この体一つ、ただもう、お爺さんの思うがままにお使い下さい。」

 老人はすがすがしい顔をすると、こう答えました。

「我が意を得たり! お前さまが、お前さまの満足できるこの世の生を治めおおせたならば、来年の中元の日、あの老子廟の二本の檜の下で、逢おうぞ。」

 杜子春の一族の孤児や未亡人の多くは淮南(わいなん)の辺りに住んでいましたので、三千万の金を持って揚州に向かい、良田百頃(けい)を買い求めると、街の真ん中に立派な大邸宅を建てて、更に大通りに面した要所要所にも間口百間(ひゃっけん)あまりの大きな別宅を作りました。そこに一族の孤児や未亡人をすべて呼び寄せて、それぞれの家に分けて住まわせたのでした。さらに、まだ独身の甥や姪たちには、それぞれ相手をめあわせてやり、また、客死して異郷に葬られたままの一族の者の遺骸は、それを引き取って、先祖の墳墓の地に合葬してやったのでした。最後に、恩ある者には恩返しを、讐ある者には復讐することも忘れませんでした。

 

       四

 

 こうして杜子春はなすべきことをすべてなし終え、約束の中元の日に出かけて行きました。老人はちょうど二本の檜の木蔭で詩を口ずさんでいるところでした。……

 ……そうして、それから二人は遂に華山の雲台峰に登ったのです。山に入ること四十里ほど、彼方に一つの館が見えてきました。それは見るからに厳かで清澄、一見して俗世間の人の住まいではありません。その館の高いところには五色の雲がたなびき、鶴の群れが鳴き交わしながら乱舞しています。中へ入ると広間があり、その真ん中に仙薬をつくるためとおぼしい炉があります。高さは九尺ばかり、紫色の炎が輝き、それが広間の窓や扉に反映して、何とも不思議な感じです。美しい仙女が九人、炉を周りに等間隔でまあるく立って、青龍と白虎が、分かれて前と後ろに控えているのです。

 ちょうどその時、日が落ちかかろうとしていたのですが、老人は既にもう、俗人の衣服を脱ぎ捨ててしまっていて、まさに黄色い冠りに、真っ赤な袖なしの内掛けをはおった、道士そのもののお姿なのでした。

 老人は白い石のような丸薬を三つと、一杯のお酒を杜子春に持ってきますと、すぐにこれを飲めと命じました。それを飲み終わったのを見届けてから、老人は一枚の虎の皮を取ると、室内の西の壁の前に敷き、東向きにして杜子春を座らせました。そうして、戒しめて次のように告げました。

「よいか 慎んで言葉を発してはならぬぞ。一見、尊く見える神や、怖そうな鬼神、おぞましく見える夜叉、恐ろしく感ずる猛獣、耐え切れそうもない地獄が、次々とお前の眼の前に現われる。さらに、お前の血のつながった者たちが、あるいは縛り上げられて、苦しむ姿を見ることとなる。それらの痛みと苦しみは、尋常ではない。が、しかし、それはすべて、真実では、ないのじゃ。ただひたすら動かず、言葉を発せずに居らねばならぬし、心安らかにして如何なるものも恐れぬがよい。さすれば、結局、何の苦しむところは、ない。必ずや、わしの言ったことを心に念じておるのじゃぞ。」

と言い終わると、老人は去って行ってしまいました。

 
その時、杜子春が、庭をよく見てみると、たった一つの大きな甕(かめ)に、満々と水が張られている、ただそれだけなのでした。――

 ――急に、旗指し物や矛や甲冑に身を固めた、千、いや、万という徒歩(かち)の兵やら騎馬の兵やらが、深い谷あいに犇き合って、そのおどろおどろしい叱責の声といったら、天地を揺り動かさんばかりなのです。その中に一人、大将軍と称する者がいて、身の長け一丈ばかり、人も馬も皆黄金に輝く鎧を着けていて、その光だけでまさに人を射るような恐ろしさなのです。大将軍の護衛、数百人、皆剣を杖の如く突き、弓を張って、まっしぐらに杜子春の坐っている正殿の中に入ってくるなり、杜子春を烈しく叱りつけました。

「貴様は何者だ?! 大将軍のお通りをまるで避けぬとは?!」

大将軍の護衛の者どもは、ぐっと剣をそばだてると、座っている杜子春に迫って、姓名を問い、何をしているのかと訊ねるのですが、杜子春は勿論、全く答えません。訊ねた者は大いに怒って、「切り刻め!」だの「いや、即座に射殺してしまえ!」だの、その怒号は雷のように杜子春の心を襲いました。しかし、ついに杜子春は答えません。將軍は、怒り心頭に発しながらも、何故かすっと消え去って行きました。――

 ――ほっとする間もなく、急に猛虎やら毒龍やら狻猊やら獅子やら蝮やら蝎やらが、数え切れないほどたくさん現れると、互いにたけり吠え叫び、互いにつかみ合いながら、我れ先に杜子春に進み寄って来て、今にも杜子春をつかんで食おうとしたり、その頭上をすれすれに飛び越えたりします。しかし、杜子春の様子は一向に変わりません。そんな彼等も、まもなく見えなくなってしまいました。――

 ――すると、烈しい雨が降り出し、雷が鳴り、電光が走り、辺りはすっかり真っ暗になってしまいました。次の瞬間には、火の輪が杜子春の左右を走り回り、加えて杜子春の前と後ろには、水平な雷のようなものが伸び縮みをして、全く目を開けていることさえ出来ないのです。いくばくもなく庭先の水深は一丈ほどにもなって、未だに稲光りが走り、大きな音を立てて、落ちかかってきます。それは、山も川もことごとく破壊しつくす勢いで、押しとどめようもない断固たるものなのです。あっという間に水は杜子春の膝の下にまで及びます。しかし、それでも杜子春は姿勢を崩すことなく、微動だにしないのでした。――

 すぐにまた、牛頭の獄卒、醜悪な顔つきの鬼神を率いて、あの将軍が引き返してきました。そうして、ぐらぐらと熱湯の煮え立っている大きな釜を、杜子春の前にどんと置きました。鬼どもは長い槍や叉股(さすまた)を持って、杜子春のぐるりを取り囲みます。鬼の一人が大将軍の命令を伝えて言います。

「姓名を言えばすぐに許してつかわす。言わぬとあらば、即座にお前の心臓を叉股で抉り出し、この釜の中に放りこんでしまうぞ!」

 それでも、杜子春は答えません。――

 ――すると、今度はなんと、鬼が杜子春の妻を捕らえてやってきたではありませんか。大将軍は、彼女を堂の階(きざはし)の下に引きずり出して指さすと、杜子春に、

「姓名を言えば、この女を許してやろう。」

と言いました。

 またしても杜子春は答えません。


 杜子春の妻は烈しく鞭打たれては、だらだらと血を流し、次いで、弓矢で射られ、刀で切られ、釜で煮られ、火で焼かれ……その苦しみはそれはもう耐えられたものではありません。彼女はついに大声で泣き叫びながら、杜子春に訴えました。

「私は確かに粗忽(そこつ)者で、あなたさまの名誉を傷つけも致しましたでしょう。それでも幸いにして、あなたさまの妻となり、お世話させて頂いて、はや十年余り。今、わけも分からず、畏れ多い鬼神(おにがみ)さまに捕えられた上に、わけも分からず、受けるこの苦しみ! とても耐えられたものではございません! 私は決して、あなたに、はいつくばって、命乞いをしてほしいなどと望んでいるのではありません! ただ、ただ一言、あなたさまのただ一言が頂けますれば、私の命はすぐにも助かるのです! 人には誰しも情けがあるでしょうに、どうしてあなたは、むごくも、その一言を惜しむのですか?!」

彼女の涙は庭の草の上に雨のように流れ落ち、その言葉は次第に怨みの、さらに罵りの響きとなって杜子春の耳をつん裂きました。

 杜子春は、それでも振り向きもしません。


 大将軍は、

「俺様が、貴様の女房を殺せないとでも、思ってるのか?」

と言うと、大きな押し切りを持ってこさせ、部下の者に命じて、杜子春の妻の体を、足の方から、正しく一寸刻みで切り刻みはじめました。妻の悲鳴はますます烈しくなってゆきます。

 それでもついに、杜子春は振り向きません。

 すると、将軍は、

「この悪党は、とっくの昔に妖術を手に入れて、すっかりできあがっちまってる。長くこの世に生かしておいては、よくない。」

とあっさり言うと、家来にあっという間に杜子春を斬り殺させてしまいました。――

 

       五

 

 ――切り殺されて、杜子春の魂は、冥界の閻魔大王の前に引き出されました。

「こいつが雲台峰の妖民か? 直ちに地獄へ引き渡せ!」

こうして杜子春はあらゆる地獄の責め苦を味わうこととなりました。

 ――溶けた銅の満たされた釜の中に投げ込まれるやら……


 ――溶けた銅を口から流し入れられるやら……


 ――大臼に投げ込まれてごつごつとつき砕かれるやら……


 ――碾(ひ)き臼に挟み込まれてこなごなに磨り潰されるやら……


 ――火炎の燃え盛る穴に放り込まれて焼き尽くされるやら……


 ――刀を逆さに立て連ねた山を歩き回らせられるやら……


 ――すべて抜き身の剣で出来た木を登り降りさせられるやら……


 ……それでも、杜子春は、老道士の戒めをひたすら心に念じ続けましたから、どうにかこうにか耐え忍ぶことができ、ついに呻き声一つ洩らすことはなかったのです。……

 

 ――獄卒が罪人杜子春が受けるべき刑罰がすべて終わったことを閻魔大王に告げました。

 しかし、大王は、杜子春を前に、こう命じました。

「こやつは男のくせに、途轍もない陰の気を受けた悪党である。故に、当然、このまま男として転生させることはかなわぬ。女にして、宋州単父(ぜんぽ)県の丞(じょう)である、王勧(おうかん)の家に生まれさせることにするがよい。」と。

 

 かくして、杜子春は王勧の娘としてこの世に生まれ変わりました。


 しかし、生れついての病弱、針や灸、薬や医者の世話にならぬ日は一日としてありません。おまけに、しょっちゅう、火種のあるところにはまり込んだり、寝台からころげ落ちたりと、まさにその日々受ける痛みや苦しみは、とても普通に耐えうるものではありませんでしたが、それでも決して声を上げることはないのでした。

 それでも人並み以上にすくすくと成長し、その容貌にいたっては誰が見ても絶世の美女。しかし、その美しい唇から言葉が発せられることは、ありません。ゆえに王家では、彼女は唖(おし)の娘だと思われておりました。親戚の中には馴れ親しんだことをいいことに、何かとちょっかいを出したり、果ては彼女をなぐさみものにする、というような不埒な者もおりましたが、それでもついに、呻き声の一つも返すことはなかったのでした。

 

 さて、同郷の者に、進士に登第した盧珪(ろけい)という男がおりました。彼女の美貌の噂を聞きつけ、恋い慕って、とり持ち婆さんを介して結婚を申し込んできたのでした。

 王の家では、彼女は唖であるからと固辞したのですが、盧は、

「いやしくも妻として賢ければ、どうして言葉など、要りましょうや。かえって、おしゃべりな女の戒めにさえなるではありませんか。」

と一歩も引きません。そこで、王も折れて、結婚を許しました。盧は婚姻の六礼(りくれい)の作法通り、彼女を嫁として迎え入れたのでした。

 

 かくして数年の内は、夫唱婦随、彼女は一人の男の子さえ生みました。さて、その子は、わずか二歳になったばかりなのに、その利発なことと言ったら、とても並ぶ者がないほど。

 ところがある日のことでした。盧は、その子を抱きあやしながら、妻に話しかけたのですが、当たり前ながら、彼女は何にも答えません。いろいろと言い方を変え、彼女の気を惹いてみたりしたのですが、勿論、何にも答えません。盧はその瞬間、今までの積もり積もった鬱憤が一度に火を噴いて、怒気を込めて言い放ちました。

「昔、賈大夫の妻は、その夫を馬鹿にして、少しも笑おうとしなかった。しかし賈が妻のために美事に雉を射たのを見た時、ついに初めて笑い、賈の憂いを解いたというぞ!……今、俺は身分が低い。確かに賈大夫には及ぶまいよ!……しかし、俺の文才は雉撃ちなんぞとは、比べものにならないほど高尚なんだ! それでも、お前は喋らない! 男たるもの、ここまで妻に馬鹿にされてまで、どうして、息子が要るものか!!」

と言い終わるが早いか、二歳になる息子の両足をひっつかんで、そのまま振り上げると、頭をそばの大きな石にたたきつけました。グシャッという手応えと共に頭が砕け、脳漿(のうしょう)と血しぶきが辺り一面に飛び散ります。――と、その時、杜子春の胸に、我が子への愛(いと)おしさが、堰を切ったように流れ出しました。杜子春は老道士との約束を忘れ、思わず声を洩らしてしまったのでした。――

「ああっ!」――

 

       六

 

「ああっ!」――

という、その声がまだ終わらぬうちに、ふと気がつくと、杜子春は杜子春のまんま、元の場所に坐っているのでした。老道士も杜子春の前にいます。未だ朝の四時頃になったばかりです。

 見上げると、紫の炎は館の屋根を突き破ってめらめらと燃え上がり、それとは別に、館の四方に大きな火が燃え上がって、館丸ごと燃え上がっているのです。老道士はため息をつくと、いかにもいまいましい口調で、

「このろくでなしが! わしもこのざまよ!」

と言って、即座に杜子春の髪の毛をわしづかみにすると、庭に置いた大きな甕の中へ、杜子春を投げ込みました。――

 ――暫くして、火は消えました。老道士は、甕からずぶ濡れになって這い出してきた杜子春の前に進み出て、こう言いました。

「お前は、心の喜び、怒り、悲しみ、怖れ、憎しみ、そして、情欲……皆、忘れ去ることができた……じゃが……それでも、まだ、忘れることができんものが、一つだけあった……肉親への愛じゃ……もし、そなたが「ああっ!」と洩らすことなく黙っていたら、おれの仙薬も完成し、お前もまた、仙人になれたものを……ああっ、仙才の得難きことよ!……おれの薬は再び煉ることができる……じゃが……お前の身はやはり、この世に生きるように、そのようにできあがっておる……まあ、元気でやるがよい!」

 そうして、老道士は遥かな山路を指さして帰るように命じました。

 しかし、杜子春は、すぐにはその道をたどらず、こっそりと炉のある焼け残りの館に登って見ました。炉はすでに壊れていました。炉の真ん中には、腕の太さほどの数尺ほどの鉄の柱が立っていて、道士は肌脱ぎになって、小刀でがりがりとその柱を削っているのでした。――

 杜子春は家に帰りましたが、老道士との誓いを忘れて、あのようになってしまったことが恥ずかしくてたまりませんでした。杜子春は、もう一度、老道士を手伝って自(みずか)らその過ちを償おうと考え、再び雲台峰へ登ってみたのですが、そこには人の踏み込める小径さえもないのでした。嘆きと悔いだけを背負って、杜子春は空しく帰ったのでした。

              (200630日「杜子春」やぶちゃん訳 完)