「杜子春傳 李復言」やぶちゃん版語註
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[やぶちゃん注:以下の語註は、昭和四十六(1971)年明治書院刊 乾一夫氏によるもの、及び原文底本の学習研究社本の高橋稔・西岡晴彦両氏によるものを一部参考にした。見易さを考えて、概ねのシークエンスごとに空き行を作った。]
・周・隋:後の長安の描写から、実際にはこの話が唐の開元・天宝(713~755年)頃のことと分かる。作者は何故か意図的に時代をずらしている。
・落拓:豪放で、物事にこだわらないさま。または、散漫で締りのないさま。
・志氣閒曠:志が広く大きいこと。
・閒遊:のんびりと遊ぶこと。「閒」=「閑」
・蕩盡:すっかり使い尽くしてなくなること。
・親故:親戚と旧友。
・投:頼る。
・不事事:仕事をちゃんとしない。
・東市西門:国都長安は、城内の西と東に市が立てられていた。
・可掬:手ですくうことができるほどという意味で、ここでは杜子春の餓えによる疲労困憊の様子が、はっきりと面相に現れていることを示す。
・長吁:深い溜息をつく。
・疎薄:薄情。
・緡:本来は、釣糸であるが、漢の武帝の時、銭をそれで貫いて計量するようになり、銭の単位となった。ここでは、漠然とどのくらいの銭という程度の意味。
・波斯邸:ペルシャ人屋敷。唐代中期頃にはシルクロード貿易のために多くのペルシャ人が多く流入したため、政府は居留区を定めていた。西市のすぐ北に位置していた。
・羈旅:本来は旅を指すが、ここではあてどない放浪・流浪の生活を指す。
・輕:軽い高級な絹織物の服。
・不復以治生爲意:ちゃんとした生計を立てることなど意に解さなかった。
・倏忽:僅かな時間を言う。たちまち。あっという間に。
・愧謝:恥じ入ってひたすら謝る。
・憤發:心機一転、心を奮い立てる。
・謀身治生:身の上をしっかりと計り、ちゃんとした生活をする。
・石季倫:晋の大富豪石崇。荊州刺史となり海上貿易で巨万の富を得た。金谷に別荘を作り、贅沢の限りを尽くしたことは、李白の「春夜宴桃李園序」の末尾に現れる「如詩不成罰依金谷酒數」の「罰盃三斗」で著名。
・猗頓:春秋時代の魯の商人。貧困から身を興し、塩の売買によって王侯貴族と同等の富を築いたとされる。
・小豎:他者を見下して言う言葉。小僧っ子。青二才。ガキ。=「豎子」
・拙謀:しっかりした生き方をすることが下手である。
・膏肓:「病膏肓に在り」という「春秋左氏伝」から生まれた諺から。「膏」は心臓の下方を指し、「肓」は胸部と腹部の間にある横隔膜の上を指す。従って、「膏肓」は上下から指したm人体の深奥部を示す。古くからここに病因が潜む場合、治癒できないとされた。そこから、広く救い難い状態や趣味等に耽溺してしまっている様子を示すようになった。ここでは、病を貧に置き換えて比喩している。
・罄盡:=「蕩盡」
・孤孀:(杜一族の中の)孤児と未亡人。男系社会の中国では、嫁は一族の一員とみなされない上に、未亡人となった場合の地位はさらに極めて低かった。
・名教:聖人の教え。儒家の基本的な道徳。
・圓:完全である。守る。全うできる。
・中元:陰暦の七月十五日。
・老君:老子。ここでは、それを祀った老子廟を指す。
・百頃:「頃」は面積の単位。一頃は約580アール。従って、約6000アール。
・甲第:立派な邸宅。
・百餘閒:一間は約1.8メートル。間口が約180メートル以上の家。
・遷祔族親:旅の途中で亡くなり、他郷に埋葬されている一族の者の遺骸を、郷里の先祖の墳墓に合葬すること。
・煦:恵む。恩を返す。
・嘯:詩をうそぶく。口を尖らせて、詩を詠む。
・華山:長安の東方にあり、中国の五岳の一。現在の陜西省華県の西、秦嶺山脈中の高峰。伝説に、山頂の池に咲く蓮の華を食すと羽化登仙できるとも言われた。
・鶴:鶴は仙人の乗り物でもある。
・藥爐:不老不死等の仙薬を作るための練丹の炉。
・九尺餘:唐代の一尺は31.1センチメートル。約3メートル。
・玉女:美しい仙女。
・黄冠絳帔士:「黄冠」は道士の被り物。黄色は中国における最も高貴な色。「絳」は真っ赤な色。「帔」は袖なしのうちかけ。
・白石三丸:真っ白な石のような丸薬。
・巵:本来は四升入る円い大杯であるが、ここは単純に普通に一杯の意であろう。
・巨甕:おおきなかめ。
・旌旗:戦さの旗指し物の総称。
・戈甲:ほことかぶと。
・一丈:唐代の一丈は約3.1メートル。
・摧斬、爭射聲如雷:「斬りきざんでしまえ!」、「射殺せ!」といったポーズをとり、また、その声が雷のように響いた、の意。
竟不應。將軍者極怒而去。
・狻猊:獅子の別名。またはライオンから想定された肉食獣か。
・蝮:まむし。
・蝎:さそり。=「蠍」
・萬計:万をもって数えるほど、非常に数が多いこと。
・哮吼:猛って吠えること。
・拏攫:つかみ合う。
・搏噬:噛み合う。
・神色:精神の状態と顔色。態度。
・滂澍:雨が烈しく降り注ぐさま。
・晦瞑:真っ暗なさま。
・電光掣其前後:杜子春の前後を彼を押さえつけるかのように、電光(放電体)が水平に飛び交うさまを言っているか。
・須臾:しばらくして。
・瞬息:瞬きや一息する極めて短い間。あっという間に。
・钁:釜茹の刑に実際に用いられた大釜。
・長槍兩叉:乾氏は「長いやり。/二股になっている、さすまた。」とするが、学習研究社版は「長い槍を交差した(番兵どもが)」とする。イメージとしては後者が面白いが、「長槍を兩叉して」という読みは無理があろうと思われる。
・四面週匝:ぐるりを取り巻くこと。
・陋拙:いやしくつたないの意。ここでは粗忽者程度の謙遜の表現ととるべきであろう。
・執巾櫛:「手拭いと櫛を手に取る」の意で、起床後の身繕いの世話を言う。ここでは、広く妻としての身の回りの世話をしてきたことを指す謙遜の表現。
・不敢望君匍匐拜乞:「不敢」は「決して~しない」の強い否定の句法だから、「はいつくばって、拝み乞い願って下さいなどということを、私は決してあなたに望んでいやしません」という意となる。
・性命:=「生命」
・人誰無情:「誰(たれカ)~セン」は反語の句法。「一体どこに情けが無い人間がいるでしょうか? いえ、情けを持たない人など誰も、何処にも、いません!」の意となる。
・剉碓:押し切り。実際の処刑用具。これはまさに凌遅刑である。
・敕=「告」
・鎔銅:溶かした銅の中に投げ込まれ、溶けた銅を口から流しいれられる地獄。叫喚地獄。学習研究社版は「溶けた銅柱に登らされ」と紂王の炮烙の刑の如く訳しているが、とらない。
・碓擣:踏み臼。足で踏んでつくこと。臼に投げ込まれてこなごなにつかれる地獄。斬鎚地獄。
・磑磨:石製の碾き臼。臼に投げ込まれてこなごなに磨り潰される地獄。同前。
・火坑:火の穴。焦熱地獄。
・刀山、劍樹:針の山のように刀や剣を逆さに立て連ねた、山や樹木を歩かせられ、登り降りさせられる地獄。剣樹地獄。
・陰賊:陰陽五行説では男は陽気の存在、女は陰気の存在とされた。杜子春の異様な頑なさを男にあるまじき存在と規定したか。
・宋州單父縣:現在の山東省単(せん)県。
・丞:県の副官。副知事クラス。
・嘗:学習研究社版ではこれを通常のように「嘗(かつ)て」と訓読しているが、乾氏は『ここでは「常」の仮借と見て「つねに」の意に読む方がより適切のように思われる。』としており、私もそれに同感である。
・齊:等しい。その痛苦たるや一通りではなかったのだが、の意。
・親戚狎者:彼女(=杜子春の生まれ変わり)の親戚の中でなれ親しんだ軽率なお調子者。
・媒氏:媒酌人。一般に老婆が多く、とり持ち婆さんと呼ばれた。
・長舌之婦:おしゃべりな婦人。
・六禮:結婚に際してなさねばならない、正式な六つのステップ。
・多方:多くの(喋らせるための)手段・方法。
・昔賈大夫之妻……:この盧生の怒り心頭の台詞は「春秋左氏伝」の昭公二十八年の下りに現れる故事。賈という大夫(高級官僚)は容貌が醜く、美人の妻を迎えたものの夫を馬鹿にして三年もの間、口も利かず、笑いもしなかった。ある時、車に乗って郊外に遊び、賈が妻のために雉を射たところ、初めて笑顔を見せ、ものを言うようになったとする。
・今吾又陋不及賈:学習研究者版では、ここを傍注で「器量の悪さでは賈に及ばない」とし、通釈では「賈なんかに比べればはるかに上等なんだぞ。」と訳している。私も当初そのように解釈していたがこれはどうも、前後の文脈とうまく繋がらない気がする。乾氏はここを「今わしは身分が低く賈大夫には及ばないが、」と訳しており、この方が全体の意味がしっくりくるように思われる。賈は進士としか示されず、その後の大きな昇進も語られていないし、このすぐ後で、自分の文才を自慢し、雉撃ち等と比べものならないほど高尚なのだと言う辺りを考えてみても、乾氏の解釈の方がよい。
・安用其子:「安(いづクンゾ)~セン」は反語の句形。
・五更:午前四時前後。
・四合:四方を取り囲む。
・錯大:貧書生。罵りの称。
・臻:至る。及ぶ。人界の凡庸な感情を捨て去る境地に至るための努力が及ぶ。
・愛:肉親への愛着。
・上仙:仙人になること。=「登仙」
・子之身猶爲世界所容矣:おまえの存在は、やはり俗世間の範疇に在る。仙骨=仙才(仙人になるべき才能)がないことを言う。
・勉之哉:元気でやれよ、程度の措辞。
・基觀:仙薬を作るための炉のあった焼け残った建物を指す。