湖南の扇 芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正15(1926)年1月発行の雑誌『中央公論』に掲載され、後、生前最後の創作集となった『湖南の扇』(文芸春秋社出版部昭和2(1927)年6月20日発行)に所収された。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビで五月蠅くなるため、音読に迷うもののみのパラルビとした。傍点「ヽ」は下線に代えた。末尾に私の注を附した。【2009年9月20日】一部の表記ミスや新字を正字に訂した。【2018年1月10日】]
湖南の扇
廣東(かんとん)に生れた孫逸仙等(ら)を除けば、目ぼしい支那の革命家は、――黃興、蔡鍔(さいがく)、宋教仁等はいづれも湖南に生れてゐる。これは勿論曾國藩や張之洞の感化にもよつたのであらう。しかしその感化を説明する爲にはやはり湖南の民(たみ)自身の負けぬ氣の強いことも考へなければならぬ。僕は湖南へ旅行した時、偶然ちよつと小説じみた下(しも)の小事件に遭遇した。この小事件もことによると、情熱に富んだ湖南の民の面目(めんぼく)を示すことになるのかも知れない。………
* * * * *
大正十年五月十六日の午後四時頃、僕の乘つてゐた沅江丸(げんかうまる)は長沙の棧橋へ橫着けになつた。
僕はその何分か前に甲板の欄干へ凭りかかつたまま、だんだん左舷へ迫つて來る湖南の府城を眺めてゐた。高い曇天の山の前に白壁や瓦屋根を積み上げた長沙は豫想以上に見すぼらしかつた。殊に狹苦しい埠頭のあたりは新しい赤煉瓦の西洋家屋や葉柳なども見えるだけに殆ど飯田河岸(がし)と變らなかつた。僕は當時長江に沿うた大抵の都會に幻滅してゐたから、長沙にも勿論豚の外に見るもののないことを覺悟してゐた。しかしかう言ふ見すぼらしさはやはり僕には失望に近い感情を與へたのに違ひなかつた。
沅江丸は運命に從ふやうにじりじり棧橋へ近づいて行つた。同時に又蒼い湘江の水もじりじり幅を縮めて行つた。すると薄汚い支那人が一人、提籃(ていらん)か何かをぶら下げたなり、突然僕の目の下からひらりと棧橋へ飛び移つた。それは實際人間よりも、蝗(いなご)に近い早業だつた。が、あつと思ふうちに今度は天秤捧を橫たへたのが見事に又水を跳り越えた。續いて二人、五人、八人、――見る見る僕の目の下はのべつに棧橋へ飛び移る無數の支那人に埋まつてしまつた。と思ふと船はいつの間にかもう赤煉瓦の西洋家屋や葉柳などの並んだ前にどつしりと橫着けに聳えてゐた。
僕はやつと欄干を離れ、同じ「社」のBさんを物色し出した。長沙に六年もゐるBさんはけふも特に沅江丸へ出迎ひに來てくれる筈になつてゐた。が、Bさんらしい姿は容易に僕には見つからなかつた。のみならず舷梯(げんてい)を上下するのは老若(らうにやく)の支那人ばかりだつた。彼等は互に押し合ひへし合ひ、口々に何か騷いでゐた。殊に一人の老紳士などは舷梯を下りざまにふり返りながら、後(うしろ)にゐる苦力(クウリイ)を擲(なぐ)つたりしてゐた。それは長江を遡つて來た僕には決して珍しい見ものではなかつた。けれども亦格別見慣れたことを長江に感謝したい見ものでもなかつた。
僕はだんだん苛立たしさを感じ、もう一度欄干によりかかりながら、やはり人波の去來する埠頭の前後を眺めまはした。そこには肝腎のBさんは勿論、日本人は一人も見當らなかつた。しかし僕は棧橋の向うに、――枝のつまつた葉柳の下に一人の支那美人を發見した。彼女は水色の夏衣裳の胸にメダルか何かをぶら下げた、如何にも子供らしい女だつた。僕の目は或はそれだけでも彼女に惹かれたかも知れなかつた。が、彼女はその上に高い甲板を見上げたまま、紅の濃い口もとに微笑を浮かべ、誰(たれ)かに合ひ圖でもするやうに半開きの扇をかざしてゐた。………
「おい、君。」
僕は驚いてふり返つた。僕の後ろにはいつの間にか鼠色の大掛兒(タアクアル)を着た支那人が一人、顏中に愛嬌を漲らせてゐた。僕はちよつとこの支那人の誰であるかがわからなかつた。けれども忽ち彼の顏に、――就中(なかんづく)彼の薄い眉毛(まゆげ)に舊友の一人を思ひ出した。
「やあ、君か。さうさう、君は湖南の産(うまれ)だつたつけね。」
「うん、ここに開業してゐる。」
譚永年(たんえいねん)は僕と同期に一高から東大の醫科へはいつた留學生中の才人だつた。
「けふは誰かの出迎ひかい?」
「うん、誰かの、――誰だと思ふ?」
「僕の出迎ひぢやないだらう?」
譚はちよつと口をすぼめ、ひよつとこに近い笑ひ顏をした。
「ところが君の出迎ひなんだよ。Bさんは生憎五六日前からマラリア熱に罹つてゐる。」
「ぢやBさんに賴まれたんだね?」
「賴まれないでも來るつもりだつた。」
僕は彼の昔から愛想(あいさう)の好(い)いのを思ひ出した。譚は僕等の寄宿舍生活中、誰(たれ)にも惡感(あくかん)を與へたことはなかつた。若し又多少でも僕等の間に不評判になつてゐたとすれば、それはやはり同室だつた菊池寛の言つたやうに餘りに誰にもこれと言ふほどの惡感を與へていないことだつた。………
「だが君の厄介になるのは氣の毒だな。僕は實は宿のこともBさんに任かせつきりになつてゐるんだが、………」
「宿は日本人倶樂部(くらぶ)に話してある。半月でも一月でも差支へない。」
「一月でも? 常談言つちやいけない。僕は三晩泊めて貰へりや好(い)いんだ。」
譚は驚いたと言ふよりも急に愛嬌のない顏になつた。
「たつた三晩しか泊らないのか?」
「さあ、土匪(どひ)の斬罪か何か見物でも出來りや格別だが、………」
僕はかう答へながら、内心長沙の人譚永年の顏をしかめるのを豫想してゐた。しかし彼はもう一度愛想の好い顏に返つたぎり、少しもこだわらずに返事をした。
「ぢやもう一週間前に來(く)りや好(い)いのに。あすこに少し空き地が見えるね。――」
それは赤煉瓦の西洋家屋の前、――丁度あの枝のつまつた葉柳のある處に當つてゐた。が、さつきの支那美人はいつかもうそこには見えなくなつてゐた。
「あすこでこの間五人ばかり一時(じ)に首を斬られたんだがね。そら、あの犬の步いてゐる處で、………」
「そりや惜しいことをしたな。」
「斬罪だけは日本ぢや見る訣に行かない。」
譚は大聲に笑つた後、ちよつと眞面目になつたと思ふと、無造作に話頭を一轉した。
「ぢやそろそろ出かけようか? 車ももうあすこに待たせてあるんだ。」
* * * * *
僕は翌々十八日の午後、折角の譚の勸めに從ひ、湘江を隔てた嶽麓(がくろく)へ麓山寺や愛晩亭を見物に出かけた。
僕等を乘せたモオタア・ボオトは在留日本人の「中の島」と呼ぶ三角洲を左にしながら、二時前後の湘江を走つて行つた。からりと晴れ上つた五月の天氣は兩岸の風景を鮮かにしてゐた。僕等の右に連つた長沙も白壁や瓦屋根の光つてゐるだけにきのふほど憂鬱には見えなかつた。まして柑類(かんるゐ)の木の茂つた、石垣の長い三角洲はところどころに小ぢんまりした西洋家屋を覗かせたり、その又西洋家屋の間に綱に吊つた洗濯ものを閃かせたり、如何にも活き活きと橫たはつてゐた。
譚は若い船頭に命令を與へる必要上、ボオトの艫(へさき)に陣どつてゐた。が、命令を與へるよりものべつに僕に話しかけてゐた。
「あれが日本領事館だ。………このオペラ・グラスを使ひ給へ。………その右にあるのは日淸汽船會社。」
僕は葉卷を銜(くは)へたまま、舟ばたの外へ片手を下ろし、時々僕の指先に當る湘江の水勢(すゐせい)を樂しんでゐた。譚の言葉は僕の耳に唯一つづりの騷音だつた。しかし彼の指さす通り、兩岸の風景へ目をやるのは勿論僕にも不快ではなかつた。
「この三角洲は橘洲(きつしう)と言つてね。………」
「ああ、鳶が鳴いてゐる。」
「鳶が?………うん、鳶も澤山ゐる。そら、いつか張繼堯(ちやうけいげう)と譚延闓(たんえんがい)との戰爭があつた時だね、あの時にや張の部下の死骸がいくつもこの川へ流れて來たもんだ。すると又鳶が一人の死骸へ二羽も三羽も下りて來てね………」
丁度譚のかう言ひかけた時、僕等の乘つてゐたモオタア・ボオトはやはり一艘のモオタア・ボオトと五六間隔ててすれ違つた。それは支那服の靑年の外にも見事に粧つた支那美人を二三人乘せたボオトだつた。僕はこれ等の支那美人よりも寧ろそのボオトの大辷(おほすべ)りに浪を越えるのを見守つてゐた。けれども譚は話半ばに彼等の姿を見るが早いか、殆ど仇(かたき)にでも遇つたやうに倉皇(さうくわう)と僕にオペラ・グラスを渡した。
「あの女を見給へ。あの艫に坐つてゐる女を。」
僕は誰にでも急(せ)つつかれると、一層何かとこだわり易い親讓りの片意地を持合せてゐた。のみならずそのボオトの殘した浪はこちらの舟ばたを洗ひながら、僕の手をカフスまでずぶ濡れにしてゐた。
「なぜ?」
「まあ、なぜでも好いから、あの女を見給へ。」
「美人かい?」
「ああ、美人だ。美人だ。」
彼等を乘せたモオタア・ボオトはいつかもう十間ほど離れてゐた。僕はやつと體を扭(ね)ぢまげ、オペラ・グラスの度を調節した。同時に又突然向うのボオトのぐいと後ずさりをする錯覺を感じた。「あの女」は圓い風景の中にちよつと顏を橫にしたまま、誰かの話を聞いてゐると見え、時々微笑を洩らしてゐた。顋(あご)の四角い彼女の顏は唯目の大きいと言ふ以外に格別美しいとは思はれなかつた。が、彼女の前髮や薄い黃色の夏衣裳の川風に波を打つてゐるのは遠目にも綺麗に違ひなかつた。
「見えたか?」
「うん、睫毛まで見える。しかしあんまり美人ぢやないな。」
僕は何か得意らしい譚ともう一度顏を向ひ合せた。
「あの女がどうかしたのかい?」
譚はふだんのおしやべりにも似ず、悠々と卷煙草に火をつけてから、あべこべに僕に問ひ返した。
「きのふ僕はさう言つたね、――あの棧橋の前の空き地で五人ばかり土匪の首を斬つたつて?」
「うん、それは覺えてゐる。」
「その仲間の頭目は黃六一と言つてね。――ああ、そいつも斬られたんだ。――これが又右の手には小銃を持ち、左の手にはピストルを持つて一時に二人射殺すと言ふ、湖南でも評判の惡黨だつたんだがね。………」
譚は忽ち黃六一の一生の惡業を話し出した。彼の話は大部分新聞記事の受け賣りらしかつた。しかし幸ひ血の匀よりもロマンティックな色彩に富んだものだつた。黃の平生(へいぜい)密輸入者たちに黃老爺と呼ばれてゐた話、又湘潭(しやうたん)の或商人から三千元を強奪した話、又腿(もも)に彈丸を受けた樊(はん)阿七と言ふ副頭目を肩に蘆林潭(ろりんたん)を泳ぎ越した話、又岳州(がくしう)の或山道に十二人の步兵を射倒した話、――譚は殆ど黃六一を崇拜してゐるのかと思ふ位、熱心にそんなことを話しつづけた。
「何しろ君、そいつは殺人擄人(りよじん)百十七件と言ふんだからね。」
彼は時々話の合ひ間にかう言ふ註釋も加へたりした。僕も勿論僕自身に何の損害も受けない限り、決して土匪は嫌ひではなかつた。が、いずれも大差のない武勇談ばかり聞かせられるのには多少の退屈を感じ出した。
「そこであの女はどうしたんだね?」
譚はやつとにやにやしながら、内心僕の豫想したのと餘り變らない返事をした。
「あの女は黃の情婦だつたんだよ。」
僕は彼の註文通り、驚嘆する訣には行かなかつた。けれども浮かない顏をしたまま、葉卷を銜えてゐるのも氣の毒だつた。
「ふん、土匪も洒落れたもんだね。」
「何、黃などは知れたものさ。何しろ前淸(ぜんしん)の末年(ばつねん)にゐた強盜蔡(さい)などと言ふやつは月收一萬元を越してゐたんだからね。こいつは上海の租界の外に堂々たる洋館を構へてゐたもんだ。細君は勿論、妾までも、………」
「ぢやあの女は藝者か何かかい?」
「うん、玉蘭と言ふ藝者でね、あれでも黃の生きてゐた時には中々幅を利かしてゐたもんだよ。………」
譚は何か思ひ出したやうに少時(しばらく)口を噤んだまま、薄笑ひばかり浮かべてゐた。が、やがて卷煙草を投げると、眞面目にかう言ふ相談をしかけた。
「嶽麓には湘南工業學校と言ふ學校も一つあるんだがね、そいつをまつ先に參觀しようぢやないか?」
「うん、見ても差支へない。」
僕は煮え切らない返事をした。それはついきのふの朝、或女學校を參觀に出かけ、存外烈しい排日的空氣に不快を感じてゐた爲だつた。しかし僕等を乘せたボオトは僕の氣もちなどには頓着せず、「中の島」の鼻を大まはりに不相變晴れやかな水の上をまつ直に嶽麓へ近づいて行つた。………
* * * * *
僕はやはり同じ日の晩、或妓館の梯子段(はしごだん)を譚と一しよに上つて行つた。
僕等の通つた二階の部屋は中央に据ゑたテエブルは勿論、椅子も、唾壺(たんつぼ)も、衣裳簟笥(だんす)も、上海(シヤンハイ)や漢口(かんこう)の妓館にあるのと殆ど變りは見えなかつた。が、この部屋の天井の隅には針金細工の鳥籠が一つ、硝子窓の側にぶら下げてあつた。その又籠の中には栗鼠が二匹、全然何の音も立てずに止まり木を上つたり下つたりしてゐた。それは窓や戸口に下げた、赤い更紗(さらさ)の布と一しよに珍しい見ものに違ひなかつた。しかし少くとも僕の目には氣味の惡い見ものにも違ひなかつた。
この部屋に僕等を迎へたのは小肥りに肥つた鴇婦(ポオプウ)だつた。譚は彼女を見るが早いか、雄辯に何か話し出した。彼女も愛嬌そのもののやうに滑かに彼と應對してゐた。が、彼等の話してゐる言葉は一言も僕にはわからなかつた。(これは勿論僕自身の支那語に通じていない爲である。しかし元來長沙の言葉は北京官話に通じてゐる耳にも決して容易にはわからないらしい。)
譚は鴇婦(ポオプウ)と話した後、大きい紅木(こうぼく)のテエブルヘ僕と差向ひに腰を下ろした。それから彼女の運んで來た活版刷(くわつぱんずり)の局票(きよくへう)の上へ藝者の名前を書きはじめた。張湘娥(ちやうしやうが)、王巧雲(わうかうううん)、含芳(がんはう)、醉玉樓(すゐぎよくろう)、愛媛々(あいゑん/\)、――それ等はいづれも旅行者の僕には支那小説の女主人公にふさはしい名前ばかりだつた。
「玉蘭も呼ぼうか?」
僕は返事をしたいにもしろ、生憎鴇婦(ポオプウ)の火を擦つてくれる卷煙草の一本を吸ひつけてゐた。が、譚はテエブル越しにちよつと僕の顏を見たぎり、無頓着に筆を揮つたらしかつた。
そこへ濶達にはいつて來たのは細い金緣の眼鏡をかけた、血色の好い圓顏の藝者だつた。彼女は白い夏衣裳にダイアモンドを幾つも輝かせてゐた。のみならずテニスか水泳かの選手らしい體格も具へてゐた。僕はかう言ふ彼女の姿に美醜や好惡を感ずるよりも妙に痛切な矛盾を感じた。彼女は實際この部屋の空氣と、――殊に鳥籠の中の栗鼠とは吊り合はない存在に違ひなかつた。
彼女はちよつと目禮したぎり、躍るやうに譚の側へ步み寄つた。しかも彼の鄰に坐ると、片手を彼の膝の上に置き、宛囀(ゑんてん)と何かしやべり出した。譚も、――譚は勿論得意さうに是了是了(シイラシイラ)などと答へてゐた。
「これはこの家にゐる藝者でね、林大嬌(りんたいけう)と言ふ人だよ。」
僕は譚にかう言はれた時、おのづから彼の長沙にも少ない金持の子だつたのを思ひ出した。
それから十分ばかりたつた後、僕等はやはり向ひ合つたまま、木の子だの鷄だの白菜だのの多い四川料理の晩飯をはじめてゐた。藝者はもう林大嬌の外にも大勢僕等をとり卷いてゐた。のみならず彼等の後ろには鳥打帽子などをかぶつた男も五六人胡弓(こきう)を構へてゐた。藝者は時々坐つたなり、丁度胡弓の音に吊られるやうに甲高い唄をうたひ出した。それは僕にも必ずしも全然面白味のないものではなかつた。しかし僕は京調(けいてう)の黨馬(たうば)や西皮調(せいひてう)の汾河灣(ふんかわん)よりも僕の左に坐つた藝者に遙かに興味を感じてゐた。
僕の左に坐つたのは僕のをととひ沅江丸の上から僅かに一瞥した支那美人だつた。彼女は水色の夏衣裳の胸に不相變(あひかはらず)メダルをぶら下げてゐた。が、間近に來たのを見ると、たとひ病的な弱々しさはあつても、存外うひうひしい處はなかつた。僕は彼女の橫顏を見ながら、いつか日かげの土に育つた、小さい球根を考へたりしてゐた。
「おい、君の鄰に坐つてゐるのはね、――」
譚は老酒(ラオチユ)に赤らんだ顏に人懷(ひとなつ)こい微笑を浮かべたまま、蝦を盛り上げた皿越しに突然僕へ聲をかけた。
「それは含芳と言ふ人だよ」
僕は譚の顏を見ると、なぜか彼にはをととひのことを打ち明ける心もちを失つてしまつた。
「この人の言葉は綺麗だね。Rの音などは佛蘭西(フランス)人のようだ。」
「うん、その人は北京(ペキン)生れだから。」
僕等の話題になつたことは含芳自身にもわかつたらしかつた。彼女は現に僕の顏へ時々素早い目をやりながら、早口に譚と問答をし出した。けれども啞(おふし)に變らない僕はこの時もやはりいつもの通り、唯二人の顏色を見比べてゐるより外はなかつた。
「君はいつ長沙へ來たと尋(き)くからね、をととひ來たばかりだと返事をすると、その人もをととひは誰かの出迎ひに埠頭まで行つたと言つてゐるんだ。」
譚はかう言ふ通譯をした後、もう一度含芳へ話しかけた。が、彼女は頰笑んだきり、子供のやうにいやいやをしてゐた。
「ふん、どうしても白狀しない。誰の出迎ひに行つたと尋いてゐるんだが。……」
すると突然林大嬌は持つてゐた卷煙草に含芳を指さし、嘲るやうに何か言ひ放つた。含芳は確かにはつとしたと見え、いきなり僕の膝を抑へるやうにした。しかしやつと微笑したと思ふと、すぐに又一こと言ひ返した。僕は勿論この芝居に、――或はこの芝居のかげになつた、存外深いらしい彼等の敵意に好奇心を感ぜずにはゐられなかつた。
「おい、何と言つたんだい?」
「その人は誰の出迎ひでもない、お母さんの出迎ひに行つたんだと言ふんだ。何、今ここにゐる先生がね、×××と言ふ長沙の役者の出迎ひか何かだらうと言つたもんだから。」(僕は生憎その名前だけはノオトにとる訣に行かなかつた。)
「お母さん?」
「お母さんと言ふのは義理のお母さんだよ。つまりその人だの玉蘭だのを抱えてゐる家の鴇婦(ポオプウ)のことだね。」
譚は僕の問(とひ)を片づけると、老酒(ラオチユ)を一杯煽つてから、急に滔々と辯じ出した。それは僕には這箇這箇(チイコチイコ)の外には一こともわからない話だつた。が、藝者や鴇婦(ポオプウ)などの熱心に聞いてゐるだけでも、何か興味のあることらしかつた。のみならず時々僕の顏へ彼等の目をやる所を見ると、少くとも幾分かは僕自身にも關係を持つたことらしかつた。僕は人目には平然と卷煙草を銜へてゐたものの、だんだん苛立たしさを感じはじめた。
「莫迦! 何を話してゐるんだ?」
「何、けふ嶽麓へ出かける途中、玉蘭に遇つたことを話してゐるんだ。それから……」
譚は上脣を嘗めながら、前よりも上機嫌につけ加へた。
「それから君は斬罪と言ふものを見たがつてゐることを話してゐるんだ。」
「何だ、つまらない。」
僕はかう言ふ説明を聞いても、未だに顏を見せない玉蘭は勿論、彼女の友だちの含芳にも格別氣の毒とは思はなかつた。けれども含芳の顏を見た時、理智的には彼女の心もちを可也はつきりと了解した。彼女は耳環を震はせながら、テエブルのかげになつた膝の上に手巾(ハンケチ)を結んだり解いたりしてゐた。
「ぢやこれもつまらないか?」
譚は後にゐた鴇婦(ポオプウ)の手から小さい紙包みを一つ受け取り、得々とそれをひろげだした。その又紙の中には煎餠(せんべい)位(ぐらゐ)大きい、チョコレェトの色に干からびた、妙なものが一枚包んであつた。
「何だ、それは?」
「これか? これは唯のビスケットだがね。………そら、さつき黃六一と云ふ土匪の頭目の話をしたろう? あの黃の首の血をしみこませてあるんだ。これこそ日本ぢや見ることは出來ない。」
「そんなものを又何にするんだ?」
「何にするもんか? 食ふだけだよ。この邊ぢや未だにこれを食へば、無病息災になると思つてゐるんだ。」
譚は晴れ晴れと微笑したまま、丁度この時テエブルを離れた二三人の藝者に挨拶した。が、含芳の立ちかかるのを見ると、殆ど憐みを乞ふやうに何か笑つたりしやべつたりした。のみならずしまひには片手を擧げ、正面の僕を指さしたりした。含芳はちよつとためらつた後、もう一度やつと微笑を浮かべ、テエブルの前に腰を下した。僕は大いに可愛(かはい)かつたから、一座の人目に觸れないやうにそつと彼女の手を握つていてやつた。
「こんな迷信こそ國辱だね。僕などは醫者と言ふ職業上、ずいぶんやかましくも言つてゐるんだが………」
「それは斬罪があるからだけさ。腦味噌の黑燒きなどは日本でも嚥(の)んでゐる。」
「まさか。」
「いや、まさかぢやない。僕も嚥んだ。尤も子供のうちだつたが。………」
僕はかう言ふ話の中に玉蘭の來たのに氣づいてゐた。彼女は鴇婦(ポオプウ)と立ち話をした後、含芳の鄰に腰を下ろした。
譚は玉蘭の來たのを見ると、又僕をそつちのけに彼女に愛嬌をふりまき出した。彼女は外光に眺めるよりも幾分かは美しいのに違ひなかつた。少くとも彼女の笑ふ度にエナメルのやうに齒の光るのは見事だつたのに違ひなかつた。しかし僕はその齒並(はな)みにおのずから栗鼠を思ひ出した。栗鼠は今でも不相變、赤い更紗の布を下げた硝子窓に近い鳥籠の中に二匹とも滑らかに上下してゐた。
「ぢや一つこれをどうだ?」
譚はビスケットを折つて見せた。ビスケットは折り口も同じ色だつた。
「莫迦を言へ。」
僕は勿論首を振つた。譚は大聲に笑つてから、今度は鄰の林大嬌ヘビスケットの一片を勸めようとした。林大嬌はちよつと顏をしかめ、斜めに彼の手を押し戾した。彼は同じ常談を何人かの藝者と繰り返した。が、そのうちにいつの間にか、やはり愛想の好い顏をしたまま、身動きもしない玉蘭の前へ褐色の一片を突きつけてゐた。
僕はちよつとそのビスケットの匀(にほひ)だけ嗅いで見たい誘惑を感じた。
「おい、僕にもそれを見せてくれ。」
「うん、こつちにまだ半分ある。」
譚は殆ど左利きのやうに殘りの一片を投げてよこした。僕は小皿や箸の間からその一片を拾ひ上げた。けれども折角拾ひ上げると、急に嗅いで見る氣もなくなつたから、默つてテエブルの下へ落してしまつた。
すると玉蘭は譚の顏を見つめ、二こと三こと問答をした。それからビスケットを受け取つた後、彼女を見守つた一座を相手に早口に何かしやべり出した。
「どうだ、通譯しようか?」
譚はテエブルに頰杖をつき、そろそろ呂律(ろれつ)の怪しい舌にかう僕へ話しかけた。
「うん、通譯してくれ。」
「好いか? 逐語譯だよ。わたしは喜んでわたしの愛する………黃老爺の血を味はひます………」
僕は體の震へるのを感じた。それは僕の膝を抑へた含芳の手の震へるのだつた。
「あなたがたもどうかわたしのやうに、………あなたがたの愛する人を、………」
玉蘭は譚の言葉の中にいつかもう美しい齒にビスケットの一片を嚙みはじめてゐた。………
* * * * *
僕は三泊の豫定通り、五月十九日の午後五時頃、前と同じ沅江丸の甲板の欄干によりかかつてゐた。白壁や瓦屋根を積み上げた長沙は何か僕には無氣味だつた。それは次第に迫つて來る暮色の影響に違ひなかつた。僕は葉卷を銜へたまま、何度もあの愛嬌の好い譚永年の顏を思ひ出した。が、譚は何の爲か、僕の見送りには立たなかつた。
沅江丸の長沙を發したのは確か七時か七時半だつた。僕は食事をすませた後(のち)、薄暗い船室の電燈の下(もと)に僕の滯在費を計算し出した。僕の目の前には扇が一本、二尺に足りない机の外へ桃色の流蘇(ふさ)を垂らしてゐた。この扇は僕のここへ來る前に誰かの置き忘れて行つたものだつた。僕は鉛筆を動かしながら、時々又譚の顏を思ひ出した。彼の玉蘭を苦しめた理由ははつきりとは僕にもわからなかつた。しかし僕の滯在費は――僕は未だに覺えてゐる、日本の金に換算(くわんさん)すると、丁度十二圓五十錢だつた。
(大正十四・一二・?)
[やぶちゃん注:以下、中国関係の人物についてはは、主にウィキの各人の記載を参照した。また、芥川が挙げる以外にも、直後の革命期から現代にかけても、毛沢東・劉少奇・彭徳懐・胡耀邦・朱鎔基といった中国共産党歴代の要人が湖南省の出身である。
・「孫逸仙」は中国革命の父たる初代中華民国臨時大総統、孫文(Sūn Wén スン ウェン 1866~1925)のこと。中国では一般に号である孫中山(Sūn Zhōngshān スン ヂョンシャン)の名で呼ばれるが、欧米では彼のクリスチャン名である孫逸仙の広東語音のローマ字表記Sun Yat-senで呼ばれることが多い。彼は広東省中山市香山県の生まれである。
・「黃興」Huáng Xīng(フアン シン 1874~1916)は武昌起義を指導し、孫文と共に辛亥革命の革命家として双璧を成す。南京臨時政府陸軍総長兼参謀長。長沙出身。
・「蔡鍔」Cài È(ツァイ オー 1882~1916)軍人。辛亥革命に呼応して昆明で挙兵、雲貴総督を捕虜にして雲南省を掌握した(重九起義)。後、袁世凱による帝制の企図を挫いた護国戦争の発動者としても知られる。湖南省宝慶県出身。
・「宋教仁」Sòng Jiàorén(ソン ジャオレン 1882~1913)、武昌起義に参加、湖南省都督府代表となる。後、袁世凱と対立、革命組織を改組した国民党を組織し、事実上の党首として活躍したが、袁世凱のヒットマンによって上海で暗殺された。湖南省桃源県出身。
・「曾國藩」Zēng Guófān(ツォン クゥオファン 1811~1872)は清末の軍人・政治家・学者。弱体化した清軍に代わる湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。1868年には漢人として初めて地方官最高位である直隷総督となった。張之洞・李鴻章・左宗棠と並ぶ「四大名臣」の一人。彼も湖南省湘郷県出身である。
・「張之洞」Zhāng Zhīdòng(ヂャン ヂードン 1837~1909)清末の洋務派官僚。「四大名臣」の一人。彼は直隷(現・河北省)南皮の出身であるが、湖広総督となっており、これは湖北省及び湖南省の軍・民政権を合わせた統括者であった。主に武漢を拠点に富国強兵・殖産興業に努めた。
・「大正十年五月十六日の午後四時頃、僕の乘つてゐた沅江丸は長沙の棧橋へ橫着けになつた」芥川の長沙訪問の実際とは日付が異なる(滞在期間は同じ)。この時、芥川は未だ上海にいた。彼はこの翌日である5月17日夜に上海に別れを告げて、長江を遡り、漢口へと向かっている。蕪湖・九江・廬山等を経て、5月26日頃に漢口に到着、5月29日には洞庭湖へ赴き、同日中に長沙着、6月1日迄の4日間、ここに滞在した。6月6日夜には漢口を列車で出発、鄭州を経て、6月10日に洛陽に赴いている。「沅江丸」は当時、日清汽船会社が当該の湘江航路で運行していた実在する船舶で、1904年に就航、857t(山田俊治氏の岩波新全集注解では930tとするが、中文サイト「中華軍艦博物館」の「外國輪船公司」の「日清汽船」の記載を信じる)。これについては、「関西大学アジア交流文化研究センターニューズレター」(ネット上のPDFファイルで閲覧可能)の松浦章氏の論文「湖南汽船会社沅江丸船長であった小關世男雄と『海事要綱』」に以下のような詳細な記載がある。『1860年の北京条約の締結によって清朝中国は英国に長江におけるイギリス船の航行の自由を認めると、その後アメリカにも同様に長江で汽船を航行させ、日本も日清戦争後の下関条約の締結で中国の内河に汽船を航行できる利権を得た』。『そのような時期に開設された汽船航路に漢口から湖南への航路があ』り、『日本は、明治35年(光緒二八、1902)2月12日に帝国議会貴族院に提出された「清国河湖航運業拡張ニ関スル件」によって湖南汽船会社の発足を可能にする法案を可決し、洞庭湖を中心とする湖南航路が国策の援助を得て開かれることになった。そして湖南汽船会社は明治37年(光緒三〇、1904)3月に湖南航路を開業』している。『開業一年後の明治38年(光緒三一、1905)3月30日付の在長沙領事館分館の報告である「清国湖南省湘潭商業視察復命書」によれば、湖南汽船会社の活動状況は「湘南汽船会社ノ沅江丸、湘江丸ノ二隻定期ニ漢口・湘潭間ヲ往復シ、太古・怡和ノ両洋行各一隻(昌和、沙市)ノ汽船ハ不定期ニ漢口・湘潭間ヲ往復ス。此外長沙・湘潭間ノミヲ往復スル小汽船三隻アリ。即チ両湖汽船会社ノ所有小汽船湘靖及ヒ、漢口ニ在ル清国人所有ニ係ル江天、鴻昇ノ二小汽船ニシテ、右三隻小汽船ハ専ラ長沙・湘潭間乗客ノ輸送ニ従事シ、毎日各汽船共両地一回宛往復ス」』とあり、この引用された「清国湖南省湘潭商業視察復命書」に、ズバリ「沅江丸」の名を見出せる。同論文によれば『この湖南汽船会社は、明治37年(光緒三〇、1904)3月に初めて湖南航路を開設してより、同40年(光緒三三、1907)3月に日清汽船会社の成立により合併されるまでの僅か3年の営業であった』ことが知れる。芥川は実際にこの沅江丸に乗船したものと考えてよい。
・「府城」「府」は唐から清まで県の上に置かれた行政区画。ここでは湖南省省都である長沙の町並みを古い言い方で呼んだのである。
・「飯田河岸」現在の千代田区飯田橋の中央線小石川橋梁をくぐった左手の神田川南岸を言った。広大な河岸地であったが、現在は埋め立てられ、面影はない。
・「僕は當時長江に沿うた大抵の都會に幻滅してゐたから、長沙にも勿論豚の外に見るもののないことを覺悟してゐた」これはこの実際の5月19日の経験、実際の長沙到着(5月29日)の十日前の、蕪湖での経験を踏まえている。「長江游記」の「一 蕪湖」に、
しかし私の紳士的禮讓も、蝉に似た西村の顏を見ると、忽(たちまち)何處かに消滅してしまふ。これは西村の罪ではない。君僕の代りにお前おれを使ふ、我我の親みの罪である。さもなければ往來の眞ん中に、尿(いばり)をする豚と向ひ合つた時も、あんなに不快を公表する事は、當分差控へる氣になつたかも知れない。
「つまらない所だな、蕪湖と云ふのは。――いや一蕪湖ばかりぢやないね。おれはもう支那には飽き厭きしてしまつた。」
とある(西村は芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた)。「長江游記」に遙かに先行する、実際の中国で書かれた書簡でも天津発信の七月十二日附齋藤貞吉(西村貞吉。前述「長江游記」の「一 蕪湖」の旧姓)宛九二六書簡(岩波版旧全集書簡番号)に、
北京で蟬の聲をききお前を思ひ出した蕪湖には今もブタが橫行してゐるだらうな
とある。
・「提籃」竹や藤を組んで作った手提げ籠。
・「苦力(クウリイ)」“ kǔlì”で肉体労働者の意であるが、ここは湘江であるので、私にとっては、しっくりくるところの「港湾の荷積労務者」の謂いである。
・「大掛兒(タアクアル)」“tàiguàér”。男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。
・「マラリア熱」アピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目に属する単細胞生物マラリア原虫Plasmodium sp.に感染することによって生じる熱病。熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum・三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax・四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae・卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。感染は『雌のハマダラカがマラリア感染者を吸血し、生殖母体を含む血液を摂取することで始まる。続く1~2週間で、蚊の中の生殖母体が有性生殖し、感染性のスポロゾイトを産生する。その蚊が再び人を吸血するとスポロゾイトが伝染し、スポロゾイトはすぐに肝細胞に感染する。原虫は肝細胞内で成長して組織(分裂体)になる。それぞれの分裂体(シゾット)が10,000~30,000のメロゾイトを産生し、1~3週間後に肝細胞が破裂するとメロゾイトが血流に放出される。それぞれのメロゾイトは赤血球に侵入して変態し,栄養型となる。栄養型は発育して赤血球(分裂体)となり、さらにメロゾイトを産生し、メロゾイトは48~72 時間後に赤血球を破裂させ血漿中に放出される。これらのメロゾイトは直ちに新しい赤血球に侵入し、このサイクルを繰り返す。/肝臓内の組織分裂体は,三日熱マラリア原虫および卵形マラリア原虫による感染ではヒプノゾイトとして最長3年間存続するが, 熱帯熱マラリア原虫や四日熱マラリア原虫による感染では存続しない。これらの休眠型は“放出タイムカプセル”の役割を果たして再発を引き起こし、化学療法が複雑となる(休眠型を死滅させる薬物がほとんどないため)。』潜伏期間や症状については以下。『潜伏期間は通常三日熱マラリア原虫で12~17日、熱帯熱マラリア原虫で9~14日、卵形マラリア原虫で16~18日あるいはそれ以上、四日熱マラリア原虫で約1カ月(18~40日)あるいはそれ以上(数年)である。しかしながら、温帯気候に生息する三日熱マラリア原虫株の中には、感染後数カ月から1年以上臨床疾患を引き起こさないものもいる。/全ての型のマラリアに共通する症状は、貧血、黄疸、脾腫、肝腫大、および破裂した赤血球からのメロゾイト放出と同時に起こるマラリア発作(悪寒)である。古典的発作は、倦怠、突然の悪寒と39~41℃に達する発熱、速くて弱い脈拍、多尿、高まる頭痛と悪心で始まる。2~6時間後に解熱して2~3時間にわたり多量の発汗があり、次に極度の疲労が生じる。感染開始時の発熱はしばしば消耗性である。確立された感染症においては、マラリア発作が典型的には種によって約2~3日毎に起こるが,その間隔は厳密ではない。/貧血は熱帯熱マラリア原虫感染または慢性の三日熱マラリア原虫感染で重度となることがあり、四日熱マラリア原虫では軽度となる傾向がある。通常、脾腫は臨床疾患の第1週の終わりには触知可能となるが、熱帯熱マラリア原虫では起こらないこともある。腫大した脾臓は柔らかく、外傷性破裂を起こしやすい。機能的免疫が発達するにつれ、マラリア発作の再発に伴い脾腫は軽減する。多くの発作の後、脾臓は線維化して硬くなり、ときとして著しく肥大することがある(熱帯性脾腫)。脾腫は通常肝腫大を併発する。』特に熱帯熱マラリアについて記載する。『熱帯熱マラリア原虫は微小血管に作用するため最も重度の疾患を引き起こす。もし未治療ならば致死的疾患を引き起こす可能性が高い唯一の種であり、非免疫患者は初期症状から数日以内に死亡することがある。脳性マラリアの患者は、被刺激性から痙攣および昏睡まで様々な症状を発現する。呼吸促迫症候群、下痢、黄疸、上腹部圧痛、網膜出血、冷獗マラリア(ショック様症候群)および重度の血小板減少も起こりうる。血流量の減少、原虫が寄生した赤血球による血管閉塞、または免疫複合体の沈着から腎不全が生じることがある。血管内溶血に起因するヘモグロビン血症およびヘモグロビン尿症が進行し、自然発生的またはキニーネによる治療後のいずれかで、黒水熱(尿が暗色になることにより付けられた名称)が生じる。低血糖症がよくみられ、キニーネ治療および関連する高インスリン血症により悪化することがある。胎盤の病変により、自然流産、死産、またはまれに先天性感染を来しうる。』他の三日熱マラリア原虫・四日熱マラリア原虫・卵形マラリア原虫にあっては通常は重要な臓器に障害を与えることはなく、死亡例も稀である。以上はの引用は「メルクマニュアル18版」の「マラリア」を用いた。何故、このように長々と引用したか? それは私が5年前、友人を熱帯熱マラリアで亡くしているからである。以下の私のブログをお読み頂きたい。今の殆んどの医者はマラリアの患者を見たことがないから、症状を知らない。インフルエンザで済ましてしまう(彼もそうだった)。家族や知人が海外感染症の疑いを訴え、検査した時には、遅かった。多臓器不全であっと言う間に亡くなった。医者たるもの、誤診しておいて、その病気を知らなかったから、で許される、はずが、ない。
・「日本人倶樂部」筑摩全集類聚版には、『長沙在留の日本人で結成していた社交クラブ。』とある。このように注出来るというのは、この組織がそのような社交クラブとして特異的で、単なる日本人会とは異なった組織であったということなのであろうか?
・「土匪」土着民で生活の困窮から、武装して略奪や暴行殺人を日常的に行うようになった盗賊集団を言う。
・「嶽麓」長沙を流れる湘江西岸には道教の五岳の一つである衡山があり、南を司ることから南嶽と別称され、古くは寿嶽と言った(標高1,298m)が、長沙はその北の山塊ピークである嶽麓山(現・岳麓山)の麓に当るため、長沙西部及び全体をこのように別称するものと思われる。
・「麓山寺」衡山の麓、嶽麓山の麓にある寺。湖湘第一寺と呼ばれる湖南省最古の仏教聖地。晋代、268年に創建された。
・「愛晩亭」嶽麓山にある中国四名亭の一。清代の1792年の創建で、楓の紅葉が美しい名所で、当時は愛葉亭・愛楓亭と呼ばれたが、晩唐の杜牧の著名な詩「山行」の転句「停車坐愛楓林晩」(車を停めて坐(そぞろ)に愛す楓林の晩(くれ)」に因み、愛晩亭と改称されたという。
・「柑類」柑橘類。湖南省は中国最大級の柑橘類の産地である。
・「日本領事館」山田俊治氏の岩波新全集注解に、明治37(1904)年に『漢口領事館分館として開館、翌年長沙領事館となる。長沙城内平浪宮にあった。』とある。
・「日淸汽船會社」注に既出。清末から中華民国期にかけて、中国に於いて長江流域を中心に船舶を運航していた日本企業。
・「橘洲」橘子洲とも言う。長沙を流れる湘江の中洲。長さ約5㎞・幅500m。古く良質の橘子(柑橘類の一種と思われるが不詳)のを産したということからこの名が付いたとされる。「小蓬莱」の異名を持ち、現在は岳麓山を隣に置く観光スポットとして知られる。
・「張繼堯と譚延闓との戰爭」芥川龍之介の中国関連の「手帳6」にも、
○張繼堯〔湯(弟)〕ト譚延闓トノ戰の時張の部下の屍骸土を蔽ふ事淺ければ屍骸湘江を流る。
とあり、「張繼堯〔湯(弟)〕」という注記風記載の細かさが気になりはするのであるが、「張繼堯」は恐らく張敬堯の誤りではないかと思われる。この部分には芥川龍之介の大きな錯誤があると考えられるので、以下、やや変則的な表示を行う。
●張敬堯Zhāng Jìngyáo(ヂャン ジンヤオ 1880~1933)は清末中華民国初期の軍人。北京政府及び軍閥の安徽派に所属、後に北方各派・満州国に属した軍人。安徽省霍丘出身。武昌蜂起後の湖北で戦い、
1915~16年の護国軍の討伐等に参加、
1918年には段祺瑞の命を受けて湖南省督軍兼代理省長となった
が、専横著しく、
1920年6月には直隷派の呉佩孚(ごはいふ)や馮玉祥(ふうぎょくしょう)及び趙恒愓(ちょうこうてき)らによって戦わずして職を追われた。その後の湖南督軍兼湘軍総司令は趙恒愓である。
その後、奉天派の張作霖を頼るも、1922年の第1次奉直戦争で奉天派が敗れるや、呉佩孚に寝返る。1932年には今度は満州国軍に所属、日本軍に連携した諜報活動に従事するも、国民党特務機関のヒットマンに刺殺された。
●譚延闓Tán Yánkǎi(タン ユエンカイ 1879~1930)は、湖南省茶陵県出身の軍人。
1912年、袁世凱から湖南都督に任命
されたが、同年8月の国民党成立後はこれに参加、国民党湖南省支部長となった。
1913年の第二革命では省の独立宣言をするも失敗、
その後、
1915年の護国戦争勃発後は当時の湖南都督の専横に対する追放運動が湖南省で発生、
1915年7月には、当時の湖南都督を追放、
1916年8月に北京政府から湖南省長兼督軍に任命
されている。その後の政権抗争で一時辞職するが、
1920年6月には湖南督軍張敬堯を追放、湖南省督軍兼省長に復帰
している。しかし、今度は先に挙げた湘軍総司令趙恒愓ら湖南省軍内の権力者との内部抗争が激化、内乱に発展、それを鎮圧出来なかったために同年11月に辞職し、湖南省から退く。その後、1922年には孫文に接近、1923年に大元帥府内務部長から建設部長兼大本営秘書長となり、同年7月には、孫文から湖南省省長兼湘軍総司令に任命され、仇敵趙恒愓と激戦を展開した。趙恒愓は直隷派の呉佩孚から支援を受けて戦局は膠着したため、孫文の命により戦線を離れ、広東省へ向かい、広州での1924年の中国国民党第1回全国代表大会で中央執行委員会委員に選出された。孫文の死後も国民党の軍属とし活躍、蒋介石の北伐の後方支援を担った。1928年に初代国民政府主席や初代行政院院長を歴任している。
さて、以上の二人の事蹟を時系列で並べて頂くと分かるのだが、二人がそれぞれの頭目として戦った「張繼堯と譚延闓との戰爭」に相当するものは、ない、と言ってよい。1915年の護国戦争及び1920年6月の湖南督軍張敬堯追放時に接点があるが、前者を「張繼堯と譚延闓との戰爭」と呼称するには無理があり、後者は多くの記載が「戦わずして」「追放」という語を用いている。逢えて言うなら、後者によって名前が知られるようになった、この二人が、嘗て加わったところの護国戦争の惨状を、極めて乱暴な非歴史的な形で表現した、と取ることは可能かもしれない。筑摩全集類聚版では、「張繼堯」の表記を「張敬堯」の誤りとし、しかも、さらにそれを湘軍総司令「趙恒愓」の誤りととっているように読める。即ち、1923年の「趙恒愓と譚延闓との戦争」(中国で「譚趙之戦」と呼称)ととっている節(ふし)がある。そこでは確かに川面に死体累々たる惨状があったかも知れない(あったであろう)。しかし、それは、ない、のである。何故なら、この主人公及び芥川龍之介が中国に渡航したのは1921年だからである。芥川はもしかすると(本篇の執筆は1926年)、その後の軍閥抗争の事実と誤ったか、もしくは確信犯で擬似的虚構をここに持ち込んだのかもしれない。現在、この件については中国史の専門家に検討を依頼している。
・「倉皇」慌てふためくさま。慌しい様子。
・「黃老爺」「老爺」は中国語で“lăoyé”(ラオイエ)で、ここでは「親分」「頭」「旦那」と言った尊称である。
・「湘潭」現在の湖南省中東部、長沙の南の湘江上流に位置する湘潭市。唐代に湘潭県が置かれ商業都市として発展し、「米市」「薬都」と呼ばれ、また、蓮の栽培が盛んなことから「蓮郷」とも呼称され、現在は毛沢東の出身地として著名。
・「蘆林潭」「ろりたん」。地名。湘陰県蘆林潭。ここで湘江が洞庭湖に注ぐ。
・「岳州」洞庭湖東岸の河港都市。茶の積み出し地として知られ、漢詩で知られる岳陽楼がある。
・「擄人」捕虜。
・「前淸の末年」清代(1644~1912)の前期の終わりの意であるから、乾隆帝(1711~1799)頃となるが、本文に「こいつは上海の租界の外に堂々たる洋館を構へてゐた」とあるからもっと後の道光帝(1782~1850)の頃、阿片戦争敗北の1842年以降の租界形成前後の話である。
・「強盜蔡」不詳。識者の御教授を乞う。
・「湘南工業學校」芥川龍之介の中国関連の「手帳6」に、
○湘南公立工業學校。惟楚有材、於斯爲盛――白堊號房。○成立大會。○學達性天(コウキ)(靑へ金)○日本國旗。紙旗。紙花。黑ベンチ。白エンダン。○道南正脈、(金へ藍靑)、乾隆(白カベ)。周圍に龍。○教室。hunting Cap. 電氣工學。○米教師二人。○閲書室。實習室(何もなし)。○庭は石ダタミに草。小さキ桐。石上ニハフ鷄。傘(飴色)干さる。○化學藥品室。iron-humonium, iron-salphate. 牡丹花の白瓶、詩あり。
とある。
・「或女學校を參觀に出かけ、存外烈しい排日的空氣に不快を感じてゐた」芥川龍之介の「雜信一束」の「七 學校」に以下のようにある。
長沙の天心第一女子師範學校並に附屬高等小學校を參觀。古今に稀なる佛頂面をした年少の教師に案内して貰ふ。女學生は皆排日の爲に鉛筆や何かを使はないから、机の上に筆硯を具へ、幾何や代數をやつてゐる始末だ。次手に寄宿舍もー見したいと思ひ、通辭の少年に掛け合つて貰ふと、教師愈(いよいよ)佛頂面をして曰、「それはお斷り申します。先達(せんだつて)もここの寄宿舍へは兵卒が五六人闖入し、強姦事件を惹き起した後ですから!」
芥川龍之介の中国関連の「手帳6」には、この時のメモを以下のように記している。
○天心第一女子師範學校。古稻田。white in black. 附屬幼稚園。附屬高等小學校、國民學校。green in wood. 門内はイボタの生垣。右美育園、草花。○縫紉、樂歌、作文、國文、手工。硯墨、石磐、一齊に答ふ。〇二階。裁縫室。圖書室。女子白話旬報(机上)。石膏の果物。圖書少。用器畫の形。一級より二人を出し整理す。○議事會辨公室、董事禽辨公室――小學義會。○不要忘了今日。我校的運動會(verse libre)。――小學作文。○自治週刊。文會週報○study, essay, story, poetry. ○私有財産Vermögen――Copy from a book. 新國語(Peking 來)。○寄宿舍。rape があるといけませんから。○蒙養部。白壁四方。柘榴、無花果、ブランコ、遊動圓木(touching)、製作(貼紙)、ダンベル、ボオト、木馬、ブラン(藤の)、砂(大箱中)。
後の事ながら、1923年の6月1日には、この長沙の学生の排日運動に対する鎮圧と称して日本海軍陸戦隊が中国に侵入している(長沙事件)。
・「更紗」ポルトガル語の“saraa”に由来。主に木綿地に人物・花・鳥獣などの模様を多色で染め出した織物。本来は16世紀末のインドで高級な多彩木綿織物布のことを“saraso”又は“sarasses”と呼称したことに由来するという。
・「鴇婦(ポオプウ)」“băofù”はやり手婆のこと。一般には遊郭にあって遊女の指導や差配を取りし来る老女を言う。
・「北京官話」「官話」は厳密には中国語の方言区分を言う語。官話方言とも言うが、ここでは共通語・標準語としての北京語の意味で用いている。ウィキの「北京語」には、『普通話、國語、華語などと呼ばれる中国語の標準語は北京の発音を基本としており、これを俗に北京語と呼ぶ場合もあるが、完全に同じではない。普通話は文言(漢文)の語彙語法を取り込んだ教養ある知識人の北京語を基準にしており、北京の街角で話される日常語とはずれがある。日本語の標準語と東京方言のような関係にあると考えるとわかりやすいであろう。』という極めてわかりやすい解説がなされている。まさにここで芥川が言う「北京官話」とは「文言(漢文)の語彙語法を取り込んだ教養ある知識人の北京語を基準にし」た「普通話」を言っているというわけである。
・「紅木」「こうき」とも読む。英名“redsander wood”又は“red sandal wood”、モクレン綱バラ亜綱マメ目マメ科Pterocarpus属サンダルシタン(コウキシタン)Pterocarpus santalinus。インド南東部を原産とする中高木で、東南アジアや中国の雲南省などを主産地とする。家具業界では紫檀・紅酸枝とも呼ばれる稀少銘木である(但し、その場合はPterocarpus santalinusではない別種のものも含まれる模様)。中国楽器の二胡や日本の三味線の棹等の楽器の材料としても知られる。ただ、中国では「紅木」で色が赤若しくは赤黒い銘木素材をこう呼んできたので、上掲種とは限らない。
・「局票」当時の中国で、妓を呼び出すために妓楼に差し出す名札。
・「濶達」度量が広く、小事にこだわらないさま。悠然と入ってきたのである。
・「宛囀」言葉や声などが淀みなく、滑らかに発せられるさま。
・「是了是了(シイラシイラ)」“shìliăo shìliăo”は「はいはい」「そうそう」「そうだ、そうだ」という肯定・服従・賛同を意味する語。
・「林大嬌」この妓女は「上海游記」の「南國の美人」(十五~十六)に登場する実在する老妓女林黛玉(りんたいぎよく)の面影を感じさせる。そこでは「神州日報」社長余洵(よじゆん)が局票に名を記しながら「これがあの林黛玉です。もう行年五十八ですがね。最近二十年間の政局の祕密を知つてゐるのは、大總統の徐世昌を除けば、この人一人とか云ふ事です。」と芥川に語っている。林黛玉は本名を梅逢春、芸名を林黛玉と言った清末の女優。当時は女優を辞め、別格芸妓として生計を立てていたらしい。「上海游記」の筑摩版全集類聚脚注によれば、『清末、女性だけの一座が上海群仙茶園によった時の名優』とあり、新全集の「上海游記」神田由美子氏の注解では、更に補足して『「拾玉鐲」「紡棉花」「遺翠花」等の演目を得意とし、長江一帯に名声が高かった』と記す。「茶園」とは茶畑ではない。客同士が会話や軽食も可能なテーブルや椅子を配置した中国様式の劇場のことである。因みにこの「林黛玉」という芸名は、本来は清朝中期に書かれた女性を中心に据えた恋愛白話小説である曹雪芹の「紅楼夢」の登場人物の名で、主人公賈宝玉に次ぐヒロインでもある。作品中の十二人美少女、金陵十二釵の一人で、感受性豊かな薄幸の才女として描かれる細腰の美人である。加藤徹氏の「芥川龍之介が見た京劇」の中の「芥川を驚嘆させた京劇女優――林黛玉(三)」では、この後、彼女は『積年のアヘン吸引がたたり、翌二二年冬、寝たきりの状態となった。そして二四年五月、苦痛にのたうちまわりながら死んだ。』と記し、『清末民初の京劇女優については、その「妓戯兼営」という性格上、京劇史研究における扱いも冷淡である』という一代の名女優の悲劇を語っておられる。
・「京調」現在、この語は京劇と同義で用いられるが、秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」によれば、実は芥川が渡中したこの頃、「京劇」という語は未だ定着していなかった、とある。所謂、当時、主流になりつつあった新劇としての「原」京劇は「皮黄戯」と呼ばれ、劇の曲想に主に二つの節があった。それを「西皮」調・「二黄」調と言う。西皮調は快濶で激しく、二黄調は落ち着いた静かな曲想を言った。
・「黨馬」筑摩全集類聚版脚注では、『戯曲。官吏が十八名の大盗を護送してゆく途中で事故を起し、罪にとわれる話。』とするのであるが、そもそも「黨馬」(党馬)なる京劇が存在しない。山田俊治氏の岩波新全集注解では、『党馬は京劇「当鐗売馬」のことか。』とある。確かに京劇には「當鐗賣馬」という演目名を見出せるが、ここまでである。この山田氏の言う「當鐗賣馬」が正しく、「黨馬」は芥川の誤りであり(字面からはその可能性は極めて高いが)、筑摩版の言う内容が「黨馬」ならぬ「當鐗賣馬」であるかどうかも、分からない。山田氏にはせめて「當鐗賣馬」の梗概を記して欲しかった。
・「西皮調」前掲「京調」の注を参照。
・「汾河灣」は当時の西皮調京劇の人気演目の一つ。加藤徹氏の「芥川龍之介が見た京劇」の中の「京劇の歌を唱う芸者たち――林黛玉(二)」によれば薛仁貴(せつじんき)『は若いころは貧乏な雇われ人で、主家の娘・柳迎春と駆け落ちする。やがて大きな戦争が始まり、薛仁貴は出征。柳迎春は男子を生み、「丁山」と名づける。年月がたち、丁山は少年となり、弓で雁を射落として母を養う。いっぽう、薛仁貴は東の外国との戦争で大手柄を立て、出世を遂げ、妻を探しに故郷にもどり、汾河湾の地まで来る。突然、虎があらわれ、薛仁貴はあわてて矢を射て、誤って丁山を射殺する。その後、薛仁貴は妻を探しあて、感激の再会を果たす。息子が生まれていたことを知って彼が喜んだのも束の間。彼は妻の話を聞くうちに、さきほど矢で射殺した少年が自分の息子であることを悟り、夫婦は悲嘆にくれる。』というストーリー。ここは「上海游記」の「十六 南國の美人(中)」のシーンを下敷としていると思われる。参照されたい。
・「啞(おふし)」寺島良安の「和漢三才図会」巻十「人倫之用」に聾唖者のことを「瘖瘂」と書いて「おふし」とルビを振る。幾つかの古文にこの読みは見出せるが、「瘖瘂」のそれぞれの字にこのような音はなく(音ならば「いんあ」)、本来、言語障害者を意味する「おふし」に漢字を当てたに過ぎない。「おふし」「をふし」という古語の読みの語源は不明である。識者の御教授を乞う。
・「這箇這箇(チイコチイコ)」“zhègè zhègè”これ、それ、このもの、このことという指示語や、返事がうまく出来ない時に、ごまかしの繋ぎとして入れる、日本語の「えー」に相当する語。
・「これは唯のビスケットだがね。………そら、さつき黃六一と云ふ土匪の頭目の話をしたろう? あの黃の首の血をしみこませてあるんだ。」芥川龍之介の中国関連の「手帳6」に
○日淸汽船の傍、中日銀行の敷地及税關と日淸汽船との間に死刑を行ふ。刀にて首を斬る。支那人饅頭を血にひたし食ふ。――佐野氏。
とあるのを踏まえる。関口安義氏の「特派員芥川龍之介」には、中国人留学生による魯迅の「薬」と本篇の比較論文があることが記されている(彭春陽「芥川龍之介と魯迅――「湖南の扇」と「薬」を中心として―」(1990)及び施小煒「<人血饅頭>と<人血ビスケット>―「湖南の扇」について―」(1995)の二篇。残念ながら私は未見)。私は若年より魯迅を愛読しており、この魯迅の「薬」は私が小学校6年生の時に初めて読み、現在まで繰り返し読んできた作品である。全篇が脳内に映像化出来るほど耽溺しており、魯迅の作品で躊躇することなく最も好きな作品に挙げるものでもある。高校生の時(1972年か1973年)には、この「薬」で富山県の読書感想文コンクールの朝日か毎日の新聞社賞も貰っている。後に大学生3年生(1977年)になって芥川龍之介全集を入手、全集通読を志し、本篇迄読み進んだ際、この中国人留学生と同じように、そこに魯迅の「薬」に通底するイメージを感じたことを記憶している。しかし、これが魯迅の「薬」をインスパイアしたものだとは思わなかったし、現在も思っていない。私は芥川を弁護するためではなく(いや、私は芥川の「湖南の扇」が、というより、この玉蘭が好きであるが、魯迅の「薬」は、その巧妙な構成や卓抜な描写力――人血饅頭を食った少年の一人称からその饅頭の味が語られるのである!――等に於いて本篇より遙かに優れて重層的な寓話である)、この<人血ビスケット>のシークエンスは芥川のオリジナルな発想であると断言したい。関口氏も同書で二人の論考をひとまず評価しながら、『芥川が魯迅の初期小説「薬」を読んでいた、あるいはその梗概を聞かされていたというのは、あくまで仮定にとどまる』ものであり、『人の血を含ませた饅頭が難病に効くとは、中国ではひろく言い伝えられていたようである。』と記す。私(やぶちゃん)に言わせれば、だからこそ「薬」はあると言ってよい。魯迅にはこの野蛮な風弊を糾弾する意図――「薬」の本来の主題がそうだというのではない。主題はもっと深く重い――もあった。魯迅は常に中国人民の良き伝統の中の忌まわしき旧弊への鮮やかな指弾の意図が多くの作品中に現れるのである。関口氏は続けて、『それだけに「薬」と「湖南の扇」をストレートに結びつけることは無理がある。人血饅頭への関心は「薬」よりも彭春陽も紹介している龍之介の「手帳六」に見られる「日清汽船の傍、中日銀行の敷地及税関と日清汽船との間に死刑を行ふ。刀にて首を斬る。支那人饅頭を血にひたし食ふ。――佐野氏」という長沙滞在中の見聞メモに負うところが大きかったはずである。』とされる。私も肯んずることの出来る、頗る正しい解釈である。勿論、その後で関口氏も言うように、こうした『龍之介作品と魯迅作品との比較研究は、今後も芥川研究の重要課題』であり、『日本と中国の同時代作家が、ともに時代の嵐の中でいかに闘ったか、その軌跡の共通性に目を留め』て行かねば、あの「時代の真実」は見えてはこないであろう。
・「腦味噌の黑燒きなどは日本でも嚥んでゐる」以下、第二次世界大戦で中国を侵略した日本兵の異常なる蛮行を綴った以下のページ(タイトル「脳を食った話」)
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/nou.html
に「歩一〇四物語」より以下の記事を引用する(本ページは冒頭左に「非公開」とあるため、リンクを貼らず、トップ・ページやHP及びHP製作者の名も伏せることとする)、
Aの妹は肺病(結核と思うが)である。Aは両親がなく妹と二人だけであった。不治の病と宣告されていた。妹の病気には脳の黒焼がいいということを聞いていた。彼は敵兵の脳をひそかにとって、おぼろげな話をたよりに黒焼を作って凱旋の日を待った。
HPの製作者の別ページによれば「歩一〇四物語」は昭和44(1969)年発行。主に歩一〇四物語刊行会事務長門馬桂氏が執筆。当時の愛知揆一外務大臣・山本壮一郎宮城県知事や同連隊の実質的な指揮者であった山田栴二元旅団長らが揮毫や推薦の言葉を寄せている、とある。上記該当ページには他にも詳細な日本兵による中国人の脳の喫食事件が他の証言者の記録から引用されている。但し、相当に凄惨な内容である。お読みになる場合は、相応な覚悟が必要であることを申し添えておく。本邦に於いても人肉や脳の黒焼きがハンセン病や結核の特効薬であるといった誤った迷信は古くからあり、作中の「僕」が語るように、近代に至るまでそうした例や猟奇事件も報告されている。
・「僕は三泊の豫定通り、五月十九日の午後五時頃」先の注で示した通り、実際には6月1日。3泊は正しい。因みに、この時刻が正確なものであるとすれば、年譜での不全(中国旅行中の日程時程には不明なものが多い)を補い得るものである。当時の沅江丸運行の時刻表との確認が出来れば、確度は極めて高まる。
・「十二圓五十錢」芥川龍之介は金銭には細かかったから、これは実際の長沙滞在中の実払の経費と考えてよい。目安として示せば、白米10㎏は大正10(1921)年が2円5銭だったものが、大正15(1926)年は2円52銭。また大正10(1921)年はビール大瓶一本39銭、雑誌『中央公論』一冊60銭、歌舞伎座木戸銭7円80銭。大正14(1925)年の市バス乗車賃7銭、大正15(1926)年は1ヶ月のラジオ放送受信料が1円、万年筆用インク一瓶30銭である。
・「(大正十四・一二・?)」「湖南の扇」の脱稿は大正14(1925)年12月15日。]