やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

鎌倉攬勝考卷之四

[やぶちゃん注:底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。「鎌倉攬勝考」の解題・私のテクスト化ポリシーについては「鎌倉攬勝考卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。
【作業開始:二〇一二年八月五日 作業終了:二〇一二年八月三〇日】]
鎌倉攬勝考卷之四
  佛刹


[建長寺]

建長寺 鶴岳より西北に相距こと五六町、巨福路坂の邊にあり。禪宗臨濟派、鎌倉五山の第一なり。開基は北條相模守平時賴の建立なり。【東鑑】に、建長三年十一月八日造畢す。本尊は丈六の地藏菩薩、應行の作なるを以て中尊とし、同像千體を安置、相州殊に精誠を凝し給ふとあり。同五年十一月二十五日、今日展梵席、願文之草は、前大内記茂範朝臣、淸書は相州也。導師宋朝道隆禪師、又一日之内に被遂(遂げらる)供養五部大乘經、この作善の旨趣、上は祈皇帝萬歳將軍家及重臣千秋天下太平、下訪三代上將二位家並御一門過去數輩沒後給と云云。則開山は大覺繹禪師、諱道隆、字蘭溪、宋朝の僧なり。寛元年中に來朝せり。【釋書】には、寶治の始隆蘭溪遊化本朝とあり。正嘉二年三月廿日、前武州禪室〔泰時〕御後室第三年遠忌、於建長寺一切經供養、導師道隆禪師、相州禪室〔時賴〕・相州・武州以下滿堂上と【東鑑】にあり。開山道隆遷寂は、弘安元年七月廿四日。寺領九十五貫九百文なり。
[やぶちゃん注:「造畢」とあるが、これは建物を造り終えるという意味で、この建長三(一二五一)年十一月八日というのは起工の日であるから誤りである。これは「吾妻鏡」の建長五(一二五三)年十一月二十五日、竣工の日の記載を元にして書いた際、『去建長三年十一月八日有事始。已造畢之間。今日展梵席。』とある部分を読み間違えたことによる錯誤である。以下に示す。
〇原文
廿五日庚子。霰降。辰尅以後小雨灌。建長寺供養也。以丈六地藏菩薩爲中尊。又安置同像千體。相州殊令凝精誠給。去建長三年十一月八日有事始。已造畢之間。今日展梵席。願文草前大内記茂範朝臣。淸書相州。導師宋朝僧道隆禪師。又一日内被冩供養五部大乘經。此作善旨趣。上祈皇帝萬歳。將軍家及重臣千秋。天下太平。下訪三代上將。二位家幷御一門過去數輩没後御云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿五日庚子。霰降る。辰の尅以後、小雨そそぐ。建長寺供養也。丈六の地藏菩薩を以つて中尊と爲し、又、同像千體を安置す。相州殊に精誠を凝らさしめ給ふ。去んぬる建長三年十一月八日、事始め有り。已に造畢ざうひつするの間、今日、梵席をぶ。願文の草は前大内記さきのだいないき茂範朝臣。淸書は相州。導師は宋朝僧道隆禪師。又、一日の内に五部の大乘經を冩し供養せらる。此の作善さぜん旨趣しいしゆは、上は皇帝萬歳ばんせい・將軍家及び重臣の千秋・天下の太平を祈り、下は三代の上將・二位家幷びに御一門の過去・數輩の没後をとぶらたまふと云々。
「寛元年中に來朝せり」現在の知見では蘭溪道隆(一二一三年~弘安元(一二七八)年)は寛元四(一二四六)年、渡宋していた泉涌寺の僧月翁智鏡との縁で来日、時に三十三歳であった。直後に「【釋書】には、寶治の始隆蘭溪遊化本朝とあり」とあるが、それだと宝治元(一二四七)年頃となる(宝治は三年までで建長に改元)。
「正嘉二年」西暦一二五八年。以下の記載は「吾妻鏡」に拠るもの。
「相州・武州」底本には「・」はないが、補った。「相州」は北条政村、武州は北条長時。]

金龍水 西外門の前なる堀際にあり。五水の其一なり。


[南外門額]


[西外門額]

[やぶちゃん注:それぞれ「天下禪林」「海東法窟」とある。]
二額共に朝鮮人竹西が書なり。裏銘に崇禎元年十一月とあり。
[やぶちゃん注:「崇禎元年」は明最後の皇帝毅宗の治世に用られた元号。西暦一六二八年。]

[總門の額]

[やぶちゃん注:「巨福山」と山号を記すが、本文にある通り。、「巨」一画入る。]
筆者詳ならず。土人の傳へしは、寧一山ネイイツサンが書ともいひ、又は趙子昂が書ともいへども、實は其傳へを失ひければ定かならず。又いふに巨の字に一點を加へたれば、時の人これを賞して、百貫點と稱せしといへり。

山門 樓上に十六羅漢を安ぜし、何時か散逸し、今は像を存せず。額は、宸翰なれども、寺傳に其帝の尊號を、土人等是を宋朝の僧子曇が書なりといへるは、訛なるべし。
此山門の下にて、毎歳七月十五日に、梶原施餓鬼會といふを修行す。是は開山大覺禪師在世の時、武者一騎來て施餓鬼會の終りしを見て、後悔の色を顯し、歸る時に開山是を見て呼かへさせ給ひ、又施餓鬼會を設てキカしむ。時に彼武者、我は梶原景時が靈なりといひて謝し歸る。シカしより以來、此寺には毎年七月施餓鬼會終て後に、梶原施餓鬼といふを修す。心經を、梵音にて二三輩にて誦す。其餘の大衆は、無言にて行道す。是を梵語心經と唱ふ。
[やぶちゃん注:「額は、宸翰なれども、寺傳に其帝の尊號を、土人等是を宋朝の僧子曇が書なりといへるは、訛なるべし。」の部分は文脈がおかしい。
「額は、宸翰なれども、寺傳に其帝の尊號を」
の後に
「傳へず、」
「記さず、」
などの脱落が想起され、その後に
「土人等是を宋朝の僧子曇が書なりといへるは、訛なるべし。」
とならないとおかしい。「訛」は「あやまり」と訓じているものと思われる。]


[山門の額]

[やぶちゃん注:「建長興國禪寺」と記す。]

浴室 總門を入て右の方山際にあり。浴室と額あり。

法塔 此法塔は文化年中造立せり。山門と佛殿の間にある大堂なり。八・九間四方程も有べし。堂内に本尊もなく、正面に大きやかなる須彌壇を設け、あたりに倚子などの在のみ。此大堂は、法式を修する所なりといふ。世俗の諺にいふ、空虛にして内にものなきものを、がらんどうといふは、伽藍堂といへることなるべし。されば法塔などを稱してより、此諺はおこれるならん。此堂則伽藍堂なり。
[やぶちゃん注:これは法堂はっとうが正しい。禅宗で講堂のことを言う。「文化年中」とあるが文化一一(一八一四)年の建立で現存する鎌倉最大級の木造建築で二〇〇五年に重要文化財に指定された。「新編鎌倉志」以後に造られた建物であるから、ここだけ植田の考証好みが突如出現して面白い。]

佛殿 法塔の後にあり。祈禱の牓を掲て、毎晨經誦修行。本尊地藏の事、前條に記せるがゆへ略す。中尊は應行が作にて、脇立千體の小像は惠心の作なりといふ。堂内土間壇上に、大常・太元・韋駄天・感應使者カンインスシヤ・聖德太子・千手觀音・文殊藥師の像を安じ、又御代々將軍家の尊牌あり。祖師壇には、達磨・慧能・百丈・臨濟・開山の像並前代住持の像牌あり。佛殿凡六間四面、唐戸附、彫物彩色皆剝落せり。傳へいふ、久能山の御宮御拜殿を御造替の節、賜ふともいひ、或は崇源院樣御靈屋御拜殿を賜ふともいふ。其匠作、寺院の堂塔とはたがへり。又總門・唐門も、御靈屋の御門なりといふ。
[やぶちゃん注:「太帝・太元・感應使者カンインスシヤ」は共に道教の神の一人。「太帝」は特に太湖地方で絶大な信仰を集めた水神系の土地神であった祠山張大帝を指し、「太元」は恐らく大元神で道教の最高神の一人太一神のことを言う。「感應使者」は元は道教の土地神の一人(この特異な読みは他では未見)。彼らは皆、本邦の禅宗寺院にしばしば伽藍守護神として祭られている。
以下び通り、仏殿の「祈禱の牓」の図が掲げられている。その上中央には活字縦書で、

 宸翰不詳

とのみ記す。]



[やぶちゃん注:以下の「梁牌銘」は底本では全体が一字下げ。]
  梁牌銘
今上皇帝、千佛埀手扶持、諸天至心擁護、長保南山壽、久爲北闕尊、同胡越於一家、通車書於萬國、正五位下行相模守平朝臣時賴敬書。
伏願、三品親王征夷大將軍、干戈偃息、海晏河淸、五穀豊登、萬民康榮、法輪常轉、佛日増輝、建長五年癸巳十一月五日、住持傳法、宋沙門道隆謹立、
[やぶちゃん注:底本では「干戈」が「于戈」であるが、訂した。「新編鎌倉志巻之三」に基づく書き下し文を以下に示す。
  梁牌の銘
今上皇帝、千佛手を垂れて扶持し、諸天心を至して擁護す。長く南山の壽を保ち、久しく北闕の尊と爲る。胡越を一家に同じ、車書を萬國に通ず。正五位下行相模の守平朝臣時賴敬して書す。
伏して願はくは、三品親王征夷大將軍、干戈偃息し、海晏河淸し、五穀豊登、萬民康榮、法輪常に轉じ、佛日輝を増さん。建長五年癸巳十一月五日。]

鐘樓 山門の東の方四趾鐘は、建長七年鑄成、銘文は開山大覺禪師書也。鐘差渡四尺五寸、長さ六尺六寸計、龍頭意壹尺七寸、銘文左に出す。
[やぶちゃん注:以下の鐘銘は底本では全体が一字下げ。]
  巨福山建長興國禪寺鐘銘
南閭浮提、各々以音聲長爲佛事、東州勝地、聊蒐榛莾、剏此道場、天人影向、龍象和光、雲歛霏開兮樓觀百尺、嵐敷翠拂兮勢壓諸方、事既前定、法亦恢張、圍範洪鐘結千人之緣會、宏撞高架鎭四海之安康、脱自一摸、重而難揚、圓成大器、鳴則非常、蒲牢纔吼、星斗晦藏、羣峯答響、心境倶亡、叩之大者其聲遠徹、叩之小者其應難量、東迎素月、西送夕陽、昏寐未醍、攪之則寤、宴安猶恣警之而莊、破塵勞之大夢、息物類之顚狂、妙覺覺空、根塵消殞、返聞聞盡、本性全彰、共證圓通三昧、永臻檀施千祥、因此善利、上祝親王、民豐歳稔、地久天長、建長七年乙卯二月廿一日、本寺大檀那相模守平朝臣時賴、謹勸千人同成大器、建長禪寺住持宋沙門道隆謹題、御勸進監寺僧琳長、大工大和權守物部重光。
[やぶちゃん注:以下、「新編鎌倉志巻之三」に基づく書き下し文を以下に示す。但し、「鎌倉市史 考古編」に基づき二箇所の「叩」を「扣」に訂した。
  巨福山建長興國禪寺鐘の銘
南閭浮提、各々音聲を以て長なへに佛事を爲す。東州の勝地、聊か榛莾を蒐り此の道場を剏む。天人影向し、龍象光を和ぐ。雲斂まり、霏開け、樓觀百尺、嵐敷き、翠拂ふ、勢諸方を壓す。事既に前定し、法も亦、恢張す。洪鐘を圍範して千人の縁會を結び、高架に宏撞して四海の安康を鎭む。一摸より脱して、重くして揚げ難し、大器を圓成して、鳴く時は則ち非常、蒲牢纔に吼へ、星斗晦藏す。羣峯、響に答へ、心境、倶に亡ぶ。之を扣ちて大なる者は、其の聲、遠く徹す。之を扣ちて小なる者は、其の應、量り難し。東の方、素月を迎へ、西の方、夕陽を送る。昏寐未だ醍めず。之を攪す時は則ち寤む。宴安猶を恣なるも、之を警めて莊なり。塵勞の大夢を破り、物類の顚狂を息む。妙覺覺空、根塵消殞す。返聞聞盡〔き〕て、本性全く彰る。共に圓通三昧を證し、永く檀施千祥に臻る。此の善利に因て、上は親王を祝し、民豐かに歳稔し、地久しく天長からん。建長七年乙卯二月廿一日、本寺大檀那、相模の守平の朝臣時賴、謹みて千人を勸めて同じく大器を成す。建長禪寺住持宋の沙門道隆謹みて題す。御勸進監寺の僧琳長、大工大和の權守の物部重光。
「剏む」は「はじむ」(始む)と読む。 「寤む」は「さむ」(醒む)と読む。 「臻る」は「いたる」(至る)と読む。
「榛莾」は「しんまう」「しんばう」と読み、草木が生い茂っているさまを言う。従って「蒐り」は「かり」(刈り)と読んだ。
「霏」は、ここでは雲や霞、また、そのように真理を曇らせるものの謂いででもあろう。]

觀音殿 佛殿より東の方にあり。圓通閣の額あり。毎月十八日には、大衆あつまり觀音懺法修す。
[やぶちゃん注:「懺法」は「せんぼふ(ぜんぼう)」と読み、経を誦して罪過を懺悔する法要を言う。]

方丈 龍王殿と名附、釋迦並開山隆蘭溪・平時賴等の像を安ず。前に四趾門有て、左右は屏垣を折廻せり。

[相模守平時賴〔木像〕]


書院 聽松軒と號す。 蘸碧池サンヘキチ 書院の庭にあり。
[やぶちゃん注:「蘸」は浸すの意。]

靈松 【元亨釋書】に、福山寢室の後に池有。池の側に松あり。其樹エダ直し。一日斜に偃して室に向ふ。衆徒是を怪しむ禪師話て云、偉服の人、松の上に居て我と語る。我問ふ、何れの所に住給ふと。答ていふ、山の左鶴岳なりと、語り終て見えず。其人の居るを以てのゆへに、偃すのみ。諸徒の云、鶴岳は八幡大神の祠所なり。おそらくは神玆に來る歟。是より其徒其樹に欄楯して、名附て靈松と稱すとあり。或は影向の松とも稱せり。
[やぶちゃん注:「福山寢室」未詳。「新編鎌倉志卷之三」はほぼ同文で、例によって引き写しと思われるが、分からない。巨「福山」方丈の住持の「寝室」ということか。識者の御教授を乞うものである。
「偃して」は「のべふして」と読む。
「欄楯」は「らんじゆん」と読み、仏塔を取り巻く柵をいう。]

開山塔 則此堂塔を、西來菴とも號す。

[外門の額]

[やぶちゃん注:額面は「嵩山」。下に
圓覺寺開山佛光禪師の書
と縦書きする。]


鐘樓 四趾中門を入て右に有。此鐘は扇が谷海藏寺の鐘也。銘文別に出す。
[やぶちゃん注:「建長寺圖」の「嵩山」と書かれた外門を入って左に折れると、次の「禪堂」敷地内の右手に確認出来るが、その手前に鐘の絵が描かれており、これである。「鎌倉市史 考古編」には「新編相模国風土記」に扇ケ谷海蔵寺鐘が何時西来庵(この場所。前の「開山塔」の項参照)に来たかわからない、と記してあるとする。但し、現存しない。
「銘文別に出す」は「卷之六」の「海藏寺」の項に出るが、短いので、ここにも引用しておく。
相州扇谷山海藏寺常住鑄鐘、勸進聖正南上座、大檀那沙彌常繼、應永念二年十一月念二日、
以下、「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」に載る鐘銘の、影印本にある訓点に従って書き下したものを示す。
相州、扇谷山海藏寺の常住、鐘を鑄る。勸進の聖、正南上座、大檀那、沙彌常繼、應永念二年十一月念二日
●「大檀那、沙彌常繼」は海蔵寺檀那であった扇谷上杉家当主、上杉弾正少弼氏定(文中三・応安七(一三七四)年~応永二三(一四一六)年)の法名。氏定は犬懸上杉家当主で前関東管領であった上杉禅秀が乱を起した際、当初劣勢であった持氏方に合力したが、反乱軍に敗れて重傷を負い、この鐘銘を記した翌応永二三年一〇月八日に藤沢道場(現在の遊行寺)で自害している。
●「念」は「廿」のこと。「念」と「廿」の中国音は共に<niàn>で音通することから。]

禪堂 鐘樓の續きにあり。投宿寮〔中門の左の方にあり。雲水投宿の寮なり。〕

食堂 〔中門を入て左の方、禪堂と相向ふ。〕

庫裡 食堂と投宿寮の間にあり。

昭堂 中門より正面、禪堂より並、食堂より昭堂まで左右より歩廊有。此昭堂の額は圓鑑とあり。〔開山筆〕。昭堂の内、右の方に達磨の像あり。開山の像は自作なりといふ。側に拄杖あり。開山、宋より携へ來れる渡海の拄杖と唱ふ。左の方に乙護童子の像あり。
[やぶちゃん注:「拄杖」は「しゆぢやう(しゅじょう)」若しくは「ちゆうぢやう(ちゅうじょう)」と読み、禅僧が行脚の際に用いる杖を言う。 「乙護童子」は御法童子とも言い、仏法守護に使役される童形をした鬼神。なお、この像は常楽寺境内にある無熱池伝説と関連する。寛元四(一二四六)年に来朝した大覚禅師蘭渓道隆(当時三三歳)は、数年後に執権北条時頼の懇請により鎌倉に入ったが、彼を開山として迎える建長寺が完成する(「東鑑」に建長五(一二五三)年落慶供養とある)までは、常楽寺に居住していた。彼には宋から随伴した給仕係(この職を宋の寺院にあって乙護と言った)の童子がいた。この少年があまりに美しかったがために、世間では禅僧たる者があろうことか美少女を侍らせているという悪評判が立った。するとこの童子、白蛇(白龍とも)となって、その正体が実は江ノ島の弁財天の使者たる乙護童子(護法童子)であったことを示したという話である。]

[中門の額 雲幽が書]

[やぶちゃん注:額面に、開山塔を含む一連の建物を塔頭のように「西來庵」と号している。]

舍利樹 昭堂の前にある混柏ビヤクシンを名附く。
【元亨釋書】に云、隆蘭溪を、闍維シヤイして五色の舍利を得たり。其烟、樹葉に觸て、纍々然として皆舍利をつゞる。門人遠方より至る者、數十日を歷て葬所に到て、林木を搜索して多く舍利を得たり。是より舍利樹と名附ると云云。
[やぶちゃん注:「混柏」は現在、一般には「柏槇」と書く。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属で建長寺のものは、和名カイヅカイブキ(異名カイヅカビャクシン)Juniperus chinensis cv. Pyramidalis であろう。成長が遅いが高木となり、赤褐色の樹皮が縦に薄く裂けるように長く剥がれる特徴を持つ。これが自己認識を解き放つことを目指す禅宗の教義にマッチし、しばしば禅寺に植えられた。
闍維シヤイ」は荼毘だびのこと。パーリ語の漢音訳で他にも「闍毘じゃび」「闍鼻多じゃびた」「耶維やい」等とも書く。]

嵩山 開山塔の後の山を名付。開山大覺禪師の塔並佛光禪師の塔あり。佛光は圓覺寺の開祖なれども、弘安二年來朝せしを平時宗鎌倉に請じ、建長寺に住し、同五年に圓覺寺開山となれども、日本最初の住地ゆへ、當山に葬して塔を嵩山に建ると云。

兜率巓トソツテン 嵩山の後の絶頂を名附く。

寺寶
[やぶちゃん注:以下、「寺寶」総てが、底本では原則、標題一行目が一字下げ、二行目以降が二字下げ。]

圓鑑一面 廚厨子入、西來庵に藏す。開山所持の鏡也。高三寸五分、横三寸、鏡面に觀音半身の像手に團扇を持、少し俯したる像に見ゆるなり。頭に天冠を戴き、首尾如意のごとく見ゆるものゝ一端に、瓔珞をたれ、珠を連る絲はなく、下にキンの如くなる物を著す。眼中にはヒトミを不入。鏡の後に、水中三日月の影逆サカシマに鑄附たり。其高さ半分ばかり有。上に梅の枝を鑄附、是を提る樣に環を附たり。鏡の形はカナヘのごとし。是を圓鑑と號する事は、開山在世の時よりみづから圓鑑と額を書、今に昭堂に掛させ給ふ故を以てなり。其圖左に出す。 【元亨釋書】に、大覺禪師所持の鏡あり。沒後、其徒是を收む。或人夢みけるに、其鏡禪師の儀貌を留むと、徒に告て乞見れば、髣髴として觀自在の像に似たり。諸徒傳へ看て是を異とす。平帥〔時宗〕是を聞て請て府に入る。其晻曖アンアイを疑ひ、工に命じて磨治さしむ。初め幽隱也。一磨を經て大悲の像鮮也。平帥悔謝して禮敬す。後に寧一山記を作ると有。【日件錄】に、西來庵に大覺禪師の圓鑑あり。親たり是を拜すれば、鏡中に觀音半身の像有手に芭蕉の扇を持。正しく視れば朦々として、遙に見れば儼然たりとあり。寧一山及禪師の記文、數多なれば悉く略し、一・二唯其端を摘て次に出せり。
[やぶちゃん注:「晻曖アンアイ」は、本来は樹木が鬱蒼と茂って小暗く、森林の気が立ち込めているさまをいうが、ここでは鏡面の厚味をもった暗さを言っている。この魔鏡の一種である「圓鑑」については「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の「圓鑑」の鏡の裏面の図も添え、詳細な考証が示されているので、参照されたい。]

[やぶちゃん注:以下、「圓鑑」の図。図の通り、有意な枠があって、中央上部に、
鑑靣
とあり、右手に、
建長寺開山所持之圓鏡 觀音の像あらはれしといふ。眼中にヒトミなく、瓔珞を置たる玉に糸なく、其下に巾の如き物を著す。大ひさ圖の如し。
と記し、左手には、
裏に紐附あり。摸樣は波に梅の枝有て、三日月をさかさまに鑄附たり。すへて常の丸鏡の如し。
と本文と同じことが書いてある。]

  圓鑑讚幷序      寧一山
圓覺寺比丘宗英、得此鏡於宋國、持歸、經三年後大覺退壽福徃甲州、以鏡送獻之、經一旬餘、忽然鏡面垢生、其後漸々現大士慈容、法光寺殿〔時宗〕聞之收藏禮事之、二年後造本寺觀音像乃藏腹中、今繪此像求題、一寧爲述偈云、〔云云〕下略す。
[やぶちゃん注:「經一旬餘」の「旬」は「句」であるが、「新編鎌倉志卷之三」の記載で訂した。以下に、「新編鎌倉志卷之三」に基づく書き下し文を示す。
  圓鑑の讚幷に序      寧一山
圓覺寺の比丘宗英、此の鏡を宋國に得て、持ち歸る。三年を經て後、大覺壽福を退きて甲州に徃くときに、鏡を以て之を送り獻ず。一旬餘を經て、忽然として鏡面垢生ず。其後漸々に大士の慈容を現ず。法光寺殿〔時宗〕之を聞きて、收藏して之に禮事す。二年の後、本寺の觀音の像を造りて乃ち腹中に藏む。今、此の像を繪きて題を求む。一寧、爲に偈を述ぶ。云く、
これは本文の約半分弱の肝心の讃に当たる偈をも欠いたとんでもない尻切れ蜻蛉の引用で、こんなのなら、引用しない方がましである。どうも植田の気持ちが分からない。原文全文及び書き下しと私の注は「新編鎌倉志卷之三」の当該箇所を参照されたい。]

  同賛         元僧本無
日本國建長禪寺靈鏡見像贊有序、宋成都蘭溪禪師得法無明性和尚、遂佩大父松源單傳直指之道、徃化日本、爰感國君輔、臣衆相契合、大振厥宗、晩示滅于建長之寢室、弟子收瘞舍利西來菴、賜大覺禪師圓鑑之塔、已而相州太守平公時宗、追慕罔怠、忽一夕夢、師語曰、世間生死人之大常、公何哀戀不已、吾之徒德温、收吾生前所蓄銅鑑、公若欲見老僧、看鑑足矣、覺而召温叙夢事、索鑑覽之、果若雲霧中微有人面焉者、亟命工刮磨之、乃得觀世音菩薩妙相歴然具備、合府僚佐、爭先快覩、莫不嗟異、と云云、下略す。
「新編鎌倉志卷之三」の記載に基づく書き下し文を示す。「有序」は割注であるのでそ、そのように示した。
  同贊         元の僧本無
日本國建長禪寺靈鏡見像の贊〔序有り〕、宋の成都蘭溪禪師道隆、法を無明性和尚に得たり。遂に大父松源單傳直指に道を佩び、徃きて日本を化す。爰に國君の輔を感ぜしめ、臣衆相ひ契合して、大に厥の宗を振ふ。晩に滅を建長に寢室に示す。弟子舍利を西來菴に收めうづむ。大覺禪師圓鑑の塔と賜ふ、已にして相州の太守平公時宗、追慕怠ること罔し。忽ちに一夕夢みらく、師、語りて曰く、世間の生死は人の大常、公、何ぞ哀戀已まざる。吾が徒、德温、吾が生前蓄ふる所の銅鑑を收む。公、若し老僧を見んと欲せば、鑑を看ば足りなんと。覺めて温を召して夢の事を叙して鑑を索して之を覽るに、果して雲霧の中に微かく人面なる者の有るがごとし。すみやかに工に命じて之を刮り磨し、乃ち觀世音菩薩の妙相歴然として具さに備ふるを得たり。合府の僚佐、先を爭ひて快覩し、嗟異せずと云ふことなし。
これも前項同様、本文の約半分弱、やはり肝心の讃に当たる偈をも欠いたとんでもない尻切れ蜻蛉の引用(一応、次の部分でお茶濁しで纏めてはいるが)――くどいが、再度言わせてもらおう――こんなのなら、引用しない方がましだ。無批判引用よりずっと性質が悪いぞ! 植田!――原文全文及び書き下しと私の注及び省略された諸氏の記文は「新編鎌倉志卷之三」の当該箇所を参照されたい。]

平時宗、此圓鑑の奇瑞を感じ、觀音大士を造り、其肚中に圓鑑を籠て、圓覺寺山門の閣に奉ぜり。然るに應安七年十一月廿三日、圓覺寺失火して堂閣悉く囘祿の時、建長寺守嚴首座夢中の告を得たりとて、圓覺寺山門閣灰燼の梵相の内より、圓鑑を搜得て建長の昭堂に納む。是當山の祖師、現形の鐘此災を免かれ、本寺に歸ること希有なりと稱せり。されども德雋が圓鑑の記實と、【日工集】の載する所は、其違ひ有けるとは雖ども、其事は論ぜず。【鎌倉志】に委しければ玆に略す。
[やぶちゃん注:「德雋」は「とくしゆん」又は「とくぜん」。省略された讃文の記者の名。この部分も「新編鎌倉志卷之三」の膨大な「圓鑑」項の最後にある、非常に重要な考証部を元にしたものであるが(必ず参照せずんばあらずの考証である)、植田はその、大切な部分――本編中に描かれている慶安七(一三七四)年の円覚寺大火というのは実は、ただの「囘祿」(火災)ではなく、建長寺開山大覚(蘭渓道隆)派門徒とその遷化後を継いで建長寺住持となり、後に円覚寺開山となった仏光(無学祖元)派の両門僧徒の抗争が「火種」となった建長寺と円覚寺の極めて政治的な出来事であった――に触れることもなく、「鎌倉志」に丸投げしてしまうのだ。――植田先生よ――こりゃあ、どう考えたって、へえ! 許し難いことですゼ!]
[やぶちゃん注:以下、「牡丹畫」まで二段組みであるが、読み易さを考え、一段表示とした。この辺り、ずっと「新編鎌倉志卷之三」からの無批判で粗雑な引用である。殆んど順列も同じである。――私は私の「新編鎌倉志」のテクスト・データをコピー・ペーストすればいいから(これは私の注だから植田先生、鏡返しは当たりませんぜ)楽だけどね――]
開山自作小觀音 一體
[やぶちゃん注:自作というは伝承であって、毛頭、事実ではあり得ない。「鎌倉市史 社寺編」は『無論、誤りである』と断じている。]

同九條袈裟 二頂〔環は水晶也〕

同七條袈裟 二頂〔環玳瑁六角〕

同直綴 三領
[やぶちゃん注:「直綴」は「じきとつ」と読み、偏衫へんさん(上衣)と裙子くんす(下衣)とを直接腰の部分で綴り合わせて一枚とした僧衣のこと。]

同念珠 二連〔金剛子〕

同坐具 二張

朗然居士畫像〔開山自筆の寶なり〕
[やぶちゃん注:この「朗然居士」とは現在、蘭渓を招聘した時の執権北条時宗と推定されている。]

牓 貮幅〔開山の筆〕
[やぶちゃん注:「牓」は「ばう」と読み、懸け札。額。]

金剛經 一卷〔開山書〕

朱衣達磨畫 〔開山筆〕

釋迦畫像 壹幅〔顏輝筆〕
[やぶちゃん注:「顏輝」は宋末元初の画家。生没年不詳。廬陵(現在の江西省吉安。別に浙江省江山とも)の出身。「寒山拾得図」など、怪奇にして神秘な画風は他の追従を許さないものであった。奇態な道釈画や水墨の猿を得意としたが、現在、本邦で確かな真筆とされるのは京都知恩院蔵になる「蝦蟇鉄拐図」一幅のみである。]

觀音畫像 卅二幅〔啓書記筆〕
[やぶちゃん注:「啓書記」は室町時代中期の画家の固有名。名を賢江、字を祥啓と言ったが、建長寺の書記を務めたことから一般にこの名で呼ばれる。京都で芸阿弥真芸に師事、当世の水墨画の名人として知られた。]

白衣觀音畫像 一幅〔思恭筆〕
[やぶちゃん注:「思恭」は関思恭せきしきょう(元禄十(一六九七)年~明和二(一七六六)年)で、江戸期の著名な書家。]

羅漢畫像 八幅〔兆殿司筆〕

涅槃像 二幅〔一幅は兆殿司 一幅は新筆〕
[やぶちゃん注:「兆殿司」は「ちょうでんす」と読み、室町前半の画僧。淡路生。名は吉山、字は明兆。兆殿司は通称で、師大道一以が東福寺二十八世となって東福寺殿司(禅寺で殿堂の掃除・灯明・香華・供物などの雑務一般を取り仕切った役僧)を務めたことによる。]

十六羅漢畫像 一幅〔顏輝筆〕

十六善神畫像 壹一幅〔唐筆〕
[やぶちゃん注:般若経の誦持者を守護するとされる十六の夜叉神やしゃじん。十二神将+四大天王で十六。]

三幅對繪中釋迦〔思恭〕左右猿猴〔牧溪筆〕
[やぶちゃん注:「牧溪」(?~一一八〇年)は「もっけい」と読み、蜀の画僧。姓は李、名は法常。臨安長慶寺の雑役僧であったが、水墨画に優れ、日本画にも大きな影響を与えた画家で、猿は彼の得意とする画題であった。なお、「新編鎌倉志」では、
案ずるに釋迦・猿猴別筆なれども、取り合はせて對とす。畫體相ひ似たるを以なり。
という丁寧な解説が附されている。]

並蔕蓮ヘイテイの繪 二幅〔顏輝筆〕
[やぶちゃん注:「並蔕蓮」は、「ヘイテイ」ではなく、「ヘイテイレン」が正しい。一つの茎からハスの花が二つ並んで咲いているものを言う。中国では一般には夫婦和合の画柄として好まれるものである。]

牡丹畫 一幅〔唐筆〕

法華經一部 一軸 紺紙金泥、日蓮書、袖紙の繪も日蓮筆也といふ。八の卷の末に、金泥にて判あり。又つぎめ毎□同じ花押あり。
鎌倉公方源持氏朝臣の花押なり。
[やぶちゃん注:□は脱字(恐らく植字ミス)による空白。「に」か。]

[足利持氏の花押]


[やぶちゃん注:筆写したものらしいが、「新編鎌倉志卷之三」のそれとはかなり違って見える(但し、掠れがひどいのでペイントで塗り潰し補正をしてある)。参考までに以下に「新編鎌倉志卷之三」のものも示す。

実際に、「鎌倉攬勝考」の図の方が図が大きい。]

右の外に、開山の袈裟等散失して常州に有しを、水府義公是を當寺へ納給ひ、住持頑室和尚に與ふる書の寫、左に出す。
[やぶちゃん注:「水府義公」は水戸光圀のこと。
以下、底本では頑室の返書までの全体が更に一字下げとなる。]
   與頑室和尚書         源光圀
未接道容、渇望日久、伏惟寶坊淸靜、法候萬福就告、家臣額田久兵衞信通、世々藏大覺禪師法衣墨蹟等、是宜在貴寺者、故今附介喜捨、永以鎭山門、其物件錄別幅、收納惟幸。
 延寶六年七月廿四日
[やぶちゃん注:以下、「新編鎌倉志卷之三」に従って書き下したものを示す。
   頑室和尚に與ふる書         源の光圀
未だ道容に接せず、渇望日に久し。伏しておもんんみれば寶坊淸靜、法候萬福、就きて告す、家臣額田久兵衞信通のぶみち、世々大覺禪師法衣墨蹟等を藏む。是れ宜しく貴寺に在るべき者なり。故に今、介に附して喜捨し、永く以て山門を鎭す。其の物件別幅に錄す。收納れ幸ひ。
「介に附して」とは、取り次ぐ形で、の謂いか。]

大覺禪師相伽梨〔黄紗、環玳瑁〕   一頂
[やぶちゃん注:「梨」は底本・影印ともに{「犂」-「牛」+「木」}であるが、ここは僧侶の袈裟である「僧伽梨そうかり」のことであるから、訂した。後掲の空山和尚の項も同様に処理した。]

大覺禪師尼師壇〔黄紗〕       一張
[やぶちゃん注:「尼師壇」は「にしだん」と読み、六物ろくもつ(僧尼が常持する六種の物。大衣・上衣・内衣の三衣さんえ・鉢・飲み水を漉すための袋である漉水嚢ろくすいのう、そして尼師壇。)の一。座臥する際に用いる地に敷く方形をした布のこと。]

大覺禪師拂子            一柄

大覺禪師肖像            一幅

大覺禪師牙〔納玉塔〕        一箇

大覺禪師墨蹟〔誡衆法語具名字印章〕 二幅
[やぶちゃん注:「誡衆法語具名字印章」は「衆を誡むる法語、名字印章を具ふ」と読む。]

空山和尚相伽梨〔生絹環象牙〕    一頂

空山和尚尼師壇〔緞子〕       一張

錦江和尚肖像〔讚中孝〕       一幅

不動明王幷矜伽羅・制多迦      各一軀
  峯照月彫造栂尾明慧供養
[やぶちゃん注:この「峯照月彫造栂尾明慧供養」は「新編鎌倉志卷之三」では「不動明王幷矜伽羅・制多迦」の割注としてある。「峯照月の彫造、栂尾とがのおの明慧の供養。」と読む。これは従って光圀の目録に書かれたものではない。]

  復水戸相公書     建長頑室玄廉
如賜示教、雖未奉芝顏、辱惠鳳箋、薫沐拜誦、就審臺閣鈞安、尊侯佳勝、伏承、大家之良臣額田氏信通、累世所祕在之大覺祖之法衣墨蹟等、所錄別幅之件々、永令鎭護吾山門、不堪戰慄感荷之至、誠惟四百年後如逢蘭溪再世之春、閣下、非仁德之渥、爭蒙如斯之餘庇乎、噫時哉、有數、圭復無措、佗時趨于貴府速伸忱謝、皇恐端肅不悉。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」に従って書き下したものを示す。
  水戸相公に復する書     建長頑室玄廉
示教を賜ふがごとく、未だ芝顏を奉ぜずと雖ども、辱く鳳箋を惠まる。薫沐拜誦、就きて審かにす臺閣鈞安、尊侯佳勝、伏して承はる。大家の良臣額田氏信通、累世祕在する所の大覺祖の法衣墨蹟等、別幅に錄する所の件々、永く吾が山門を鎭護せしむ。戰慄感荷の至りに堪へず、誠に惟れは四百年後蘭溪再世の春に逢ふがごとし。閣下、仁德の渥きに非ずば、いかでか斯くのごときの餘庇を蒙らんや。噫、時なるかな、數有り、圭復措くこと無く、佗時貴府に趨りて、速かに忱謝を伸べん。皇恐端肅不悉。
「圭復」は人から来た手紙を繰り返し読むこと。「佗時」は後日、「趨〔り〕て」は「はしりて」(走りて)と読む。]

建長興國禪寺碑文 一卷 其文は略す。此碑今は亡せり。
[やぶちゃん注:これは建長寺二十八世肯山聞悟覚海禅師なる人物によって書かれたものであるが、非常に長いもので、はっきり言って――極めつけの「悪文」――その上――面白くないこと請け合い――という代物である。「新編鎌倉志卷之三」に原文及び私の書き下し文と、非常な苦痛の中で行った注があるが(「新編鎌倉志」のテクスト登攀の、丹沢に例えると、だらだら坂が続く、つらいばかりの『馬鹿尾根』であった)、読むには相当の覚悟がいる。覚悟が決まったら――お読みなさい。]

華嚴塔跡 勝上勝へ登る路の左の方にあり。徃昔華嚴塔供養の䟽あり。其大略に云、鎌倉縣山内居住菩薩戒弟子尼圓成、爲故夫主最勝園寺〔貞時〕一十三回忌建之、元亨三年孟冬、於玆日慶懺、圓覺・壽福兩山和尚安座點眼佛事、三寶弟子菩薩戒尼圓成䟽云云。
[やぶちゃん注:二箇所に現れる「䟽」は「疏」と同字。以下、略伝部分を「新編鎌倉志」に従って書き下したものを示す。
鎌倉縣、山の内の居住、菩薩戒の弟子あま圓成、故夫主最勝園寺〔貞時〕一十三回忌の爲めに之を建つ。元亨三年、孟冬、玆の日に於て慶懺す。圓覺・壽福兩山の和尚、安座點眼佛事、三寶の弟子菩薩戒の尼圓成䟽す云云。
「圓成」は北条貞時の側室で、安達泰宗娘。剃髪後、覚海円成と名乗った。
「最勝園寺〔貞時。〕」北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)。鎌倉幕府第九代執権。「最勝園寺殿」戒名の殿号。
「慶懺」は「きやうさん(きょうさん)」と読み、落慶に同じ。新たに仏像・経巻・堂塔等を完成した際に行う供養のこと。]

勝上巘シヤウジヤウケン 方丈の後の高き山をいふ。開山の坐禪窟あり。今窟中に石地藏あり。傳へいふ、禪師此窟中に坐禪し給ふを、一遍上人來觀て、
 躍りはねよふしてたにもかなはぬを、いぬふりしてはいかか有へき 一遍上人
返し
 おとりはね庭に穗ひろふ小雀は、鷲のすみかをいかゝ知へき    大覺禪師
此時上人、禪師に參し、窟の側に上人が坐禪せし窟あり。此ゆへにや、開山の三百年忌の時、遊行上人の徒三百餘來り宿、忌半齋に仕し、昭堂の前にて躍り念佛執行せしといふ。其時の宿坊は妙高菴なり。上人の號は、知眞房。正應二年八月廿三日寂す。
[やぶちゃん注:「躍りはねよふしてたにもかなはぬを、いぬふりしてはいかか有へき」という一遍の歌は、「新編鎌倉志卷之三」では、
 躍りはねてふしてだにもかなはぬを、いねむりしてはいかゝあるべき
とする。
「宿忌」は忌日の前日。逮夜。
「半齋」は禅宗で早朝の粥と昼食の間の時刻をいう。
「上人の號は、知眞房。正應二年八月廿三日寂す」一遍(延応元(一二三九)年~正応二(一二八九)年)は当初、天台僧として出家、隨縁と名乗ったが、建長三(一二五一)年、法然の直弟子証空門下の聖達や華台に師事、そこで法名随縁は浄土教では不適切とされて知真(智真とも)と改名させられた。諸国行脚の途次、文永一一(一二七四)年に時宗を開祖、弘安二(一二七九)年に信濃国で踊り念仏を開始した。弘安五(一二八二)年には鎌倉入りを図ったが、不逞の輩として入府を制止されている。また「大覺禪師」蘭溪道隆は弘安元(一二七八)年)に没しており、この魅力的な説話は、残念ながら架空譚と考えられる。]

觀瀾閣カンランカク 勝上巘坐禪窟の前に跡あり。今は廢せり。
    觀瀾閣   義堂
 軒臨滄海渺風煙。  坐見數州來往船。
 世事紛々白鷗外。  百年眞樂一床眠。
[やぶちゃん注:ルビの「カン」はママ。
以下、「新編鎌倉志卷之三」に基づいて書き下したものを示す。
    觀瀾閣   義堂
  軒滄 海に臨みて 風煙 渺たり
  坐して見る 數州 來往の船
  世事 紛々たり 白鷗の外
 百年の眞樂 一床の眠
清涼なる禅味に富んだ佳句である。]

仙人澤 勝上巘より、西の方にある幽遠の地なり。上世此邊に異人すみける由。

不老水 仙人澤の側に有。異人此水を呑て、容貌のかはらざりけるより、仙水或は仙人池などゝも唱へしといふ。當所五名水の内なり。
[やぶちゃん注:現在も建長寺内鎌倉学園旧グラウンドのネット裏にあるが、八重葎となり立入は禁止である。湧水は止まっているか著しく減衰している模様である。前掲「建長寺圖」の西北の小高い山の裾にあり、その左の方に「仙人澤」の地名も見出せる。]

塔頭 總計四十八院、其内に現存するもの十八院、其餘卅院は今斷絶す。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」版行からは一四四年が経過しているが、塔頭数は同数である。今回は「新編鎌倉志卷之三」では行っていない各塔頭の開基の事蹟を注した。その内容は主に講談社の「デジタル版 日本人名大辞典」に拠った。]

華藏院 開基伯英和尚、諱德俊、當山六十世、八月十二日寂。此院は門外なり。
[やぶちゃん注:「伯英和尚」応永年中(一三九四~一四二八)に京都の南禅寺大寧院に住した入唐の僧という記載がネット上にあった以外は不詳。]

禪居菴 開基大鑑禪師、諱は正澄號淸拙。嘉暦元年來朝す。當山二十五世、暦應二年正月十七日寂、六十六。《髮長明神》寺の向ふに堂あり。摩利支天なり。又は髮長明神といふ有。是は淸拙の老母也と云。師を養ひ、宋より渡海せしに、師終に不謁。依て恨みて死す。是を明神に祀れりといふ。此院も門外にあり。
[やぶちゃん注:「大鑑禪師」清拙正澄(せいせつせいちょう 一二七四年~延元四年・暦応二(一三三九)年)。元の渡来僧。泰定三・嘉暦元(一三二六)年に北条貞時及び高時の招聘によって五十三歳で来朝、建長寺第二十二世(「當山二十五世」は誤り)となった。後、円覚寺や南禅寺を歴住、元弘三(一三三三)年には後醍醐天皇の勅によって京都の建仁寺第二十三世を嗣いだ。その後一度、建長寺の本庵に隠棲したが、勅命によって建仁寺に再住、そこで没した。「諱は正院」は「正澄」の誤り。


玉雲菴 開基妙慈弘濟大師、諱一寧號一山。台州の人なり。當山十世也。正安二年、宋朝文保元年十月廿五日寂、七十一。
[やぶちゃん注:「妙慈弘濟大師」一山一寧(一二四七年~文保元(一三一七)年)。台州臨海県(現在の浙江省台州地区臨海市)出身の臨済僧。来朝(「宋朝」は「來朝」の誤り)を正和二(一三一三)年とするが、前年の誤り。彼は又、「宋」からの渡来僧ではなく、過去の日本遠征(元寇)で失敗した元の第六代皇帝成宗が日本を従属国とするための懐柔策として送ってきた朝貢督促の国使としてであった。妙慈弘済大師という大師号も、そのために成宗が一寧に贈ったものである。以下、参照にしたウィキの「一山一寧」によれば、『大宰府に入った一寧は元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一寧らの真意を疑い伊豆修禅寺に幽閉し』てしまう。『それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていたが一寧が大師号を持つ高僧であったこと、滞日経験をもつ子曇を伴っていたことなどから死を免ぜられたと思われる』。『修善寺での一寧は禅の修養に日々を送り、また一寧の赦免を願い出る者がいたことから、貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した』。『幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れた。これを見て貞時もようやく疑念を解き』、永仁元(一二九三)年の火災以降、衰退しつつあった『建長寺を再建して住職に迎え、自らも帰依した。円覚寺・浄智寺の住職を経、正和二(一三一三)年には後宇多上皇の招きにより上洛、南禅寺三世となり、そこで没している。]

廣德菴 同正宗廣智禪師、諱印元號古先。薩州の人なり。當山三十八世、應安七年正月廿四日寂、八十。宋景濂碑銘を作る事は、長壽寺の下にあり。
[やぶちゃん注:「正宗廣智禪師」古先印元(こせんいんげん 永仁三(一二九五)年~応安七・文中三年(一三七四)年)。薩摩生。鎌倉円覚寺の桃渓得悟に入門して十三歳で得度、文保二(一三一八)年に元に渡り、天目山の中峰明本らに師事した後、嘉暦元(一三二六)年に前出の清拙正澄の来日に随って帰国し、清拙正澄が建長寺に入ると、経蔵を管理した。建武四・延元二(一三三七)年には夢窓疎石に請われて甲斐国恵林寺の住持となり、更に足利将軍家の信任を受けて足利直義から京都等持寺の開山に、足利義詮から鎌倉長寿寺の開山に招かれ、更に天龍寺の大勧進をも務めた。延文四・正平一四年(一三五九)年、円覚寺二十九世、次いで建長寺三十八世となった。晩年は長寿寺に住んだ。墓は建長寺広徳庵及び長寿寺曇芳庵にある(以上は、ウィキの「古先印元」に拠った)。]

寶珠菴 同本覺禪師、諱素安號了堂。筑州の人、大覺の法孫也。當山三十五世。貞和元年十月廿日示寂。此所に啓書記が舊跡あり。貧樂齋といふ。
[やぶちゃん注:「本覺禪師」了堂素安(正応五(一二九二)年~延文五・正平一五(一三六〇)年)。筑前出身。建長寺・寿福寺住持。]

龍峰菴 同佛燈國師、諱德儉號約翁。大覺の法嗣、相州の人、當山十五世也。元應二年五月十九日寂、七十六。【七會録】と云もの世に行る。
[やぶちゃん注:「佛燈國師」約翁徳倹(やくおうとっけん 寛元三(一二四五)年~元応二(一三二〇)年)。臨済僧。捨て子であったのを、「大覺」蘭渓道隆が貰い受けて童子役として養育、弟子とした。奈良東大寺にて十六歳で受戒の後、入宋八年を経て帰国、永仁四(一二九六)年に建長寺首座となって山ノ内に長勝寺(現在の円覚寺雲頂庵の位置にあった)を開いて住した。その後、東勝寺・浄妙寺・禅興寺(廃寺)を歴住、徳治元(一三〇六)年、勅命により京都建仁寺に住した。文保元(一三一七)年には前出の一山一寧の示寂による後宇多上皇からの懇請を受け、南禅寺に住した。上皇は仏灯大光国師の号を賜ったが、彼は再三固辞、仕方なく「仏灯」の二字のみを受けたという。]

龍源菴 此菴は元と傳燈菴なりしが、廢し、正統菴の中に龍源軒といへるが在しを爰に移し、龍源菴と號する由。もとの傳燈菴は宋の子曇が塔なりといひ傳ふ。
[やぶちゃん注:「子曇」西澗子曇(せいかんしどん/すどん 淳祐九(一二四九)年~嘉元四(一三〇六)年)は南宋及び元の渡来僧。浙江省出身。文永八(一二七一)年に初来日、後、正和元(一三一二)年の国使僧一山一寧に従って再来日した。前一山一寧の事蹟で記した如く曲折があったが、後には円覚寺・建長寺住持となった。書画に優れた。]

正統菴 開基佛國禪師、應供廣濟國師と號す。諱日顯、號は高峰、後嵯峨帝の皇子也。佛光の法嗣。當山十四世、正和五年十月廿日寂、七十六也。錄あり。《鬚そら大師》秩父山中大日向の大陽寺を開基し、常に山居し、世人鬚そら大師と稱せし、正統菴の額は、良恕法親王の筆なり。
正和五年九月、佛國禪師かまくらより下野の那須へくだり侍ける時、春はかならずくだりて、山の花をみるべきとちぎりけるに、十月入滅し侍ければ、佛應禪師のもとにつかはしける。
【藤谷和歌集】
さく花の春を契りしはかなさよ、風のこのはのとゝまらぬよに    藤原爲相
[やぶちゃん注:「佛國禪師」高峰顕日(こうほうけんにち 仁治二(一二四一)年~正和五(一三一六)年)のこと。後嵯峨天皇第二皇子。諱は顕日(「日顯」は錯字)。康元元(一二五六)年、出家、その後、兀庵普寧(ごったんふねい)や無学祖元に師事。北条貞時・高時父子の帰依を受け、鎌倉の浄妙寺・浄智寺・建長寺等の住持を歴任した。夢窓疎石は彼の門下。「應供廣濟國師」は彼に更に追贈された国師号。
「佛應禪師」南浦紹明(なんぽしょうみょう 嘉禎元(一二三五)年~延慶元(一三〇九)年)のこと。駿河出身。建長元(一二四九)年に蘭渓道隆に参禅、正元元(一二五九)年に渡宋、文永四(一二六七)年に帰国して建長寺に戻り、後、筑前国興徳寺や博多崇福そうふく寺住持を勤め、嘉元二(一三〇四)年、後宇多上皇の招きにより上洛して万寿寺に入った。徳治二(一三〇七)年、鎌倉に戻って建長寺住持となったが、翌年に没した(以上はウィキの「南浦紹明」に拠った)。
「鬚そら大師」「鬚そらずの大師」の意であろうが、不詳。識者の御教授を乞う。]

天源菴 開基大應國師、諱紹明號南浦、駿州の人、當山十三世、延慶元年十二月廿九日寂、七十三。【回會の録】あり。堂の額、普光とあり。後宇多帝の宸筆なり。堂に南浦の像あり。經藏には、一切經あり。門に雲關と額あり。大燈和尚投機の所なり。透過雲關無舊路と頌せしは此所なり。
柴屋軒宗長法師【東路のつと】に云、今月五日、天源菴に立よりて侍りし、淨光明寺の中慈恩院にして、
 風やけさ枝にとをくの松の雪
臘八。建長寺の永明軒にして、和漢一折あり。
 かさゝきのわたせる橋かあまつ霜
當寺天津橋などのことよせ計なるべし。
[やぶちゃん注:「大應國師」前項注の南浦紹明のこと。
「回會の録」「新編鎌倉志卷之三」は「四會の録」とする。「四」の誤りと思われるが「四會の録」なる南浦紹明の著作が確認出来ない。識者の御教授を乞う。
「大燈和尚」宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう 弘安五(一二八二)年~延元二・建武四(一三三八)年)、大燈国師のこと。師南浦紹明の建長寺入りに従い、徳治二(一三〇七)年、二十六歳で嗣法、後、約二十年草庵にあり、上洛して乞食行こつじきぎょうを行う。同郷の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立、これが大徳寺の起源とされる。建武四(一三三七)年、病臥の中、花園法皇が花園離宮を禅寺とするのに対し、それを正法山妙心寺と命名して示寂した。現在の妙心寺では、この建武四年を開創の年としている。その厳格さは峻烈にして無比、強烈な個性を持った禪者として知られる(以上は、ウィキの「宗峰妙超」を参照した)。
「透過雲關無舊路」は妙超二十六歳の降りの投機の偈の二つの内の一つ。以下に「大仙院文書」第二十七巻(八木書店二〇〇〇年刊)から引用し、私の書き下し文を附す。
 透過雲關無舊路
 靑天白日是家山
 機輪通編難人到
 金色頭陁還拱手
  雲關を透過して 旧路無し
  靑天 白日 是れ家山かさん
  機輪 通變 人の到ること難し
  金色の頭陁ずだ手をこまねきて還る
「臘八」「臘月八日」の略。十二月八日の釈迦成道の日。
「天津橋」は建長寺庭園方丈書院裏手の蘸碧池サンヘキチに懸る橋の名か。]

寶泉菴 開基佛果禪師、諱存圓號天鑑、當山六十三世、應永八年四月十一日寂。
[やぶちゃん注:「佛果禪師」天鑑存円(てんかんそんえん ?~応永八(一四〇一)年)南北朝から室町期の臨済僧。円覚寺無礙妙謙(むげみょうけん)に師事。伊豆韮山国清寺三世となって妙謙の法を嗣ぐ。永徳三・弘和三(一三八三)年に浄智寺に移り、後、円覚寺・建長寺の住持となる。]

向上菴 同國一禪師、諱世源號太古、常州人、當山十七世なり。元亨元年九月廿五日寂、八十九。
[やぶちゃん注:「國一禪師」太古世源(たいこせいげん 天福元・貞永二(一二三三)年~元亨元(一三二一)年)。常陸出身。建長寺の兀庵普寧、無学祖元に師事、祖元の法を嗣ぐ。川崎市多摩区菅仙谷にある寿福寺に室町期に造られた優れた頂相像が残る(リンク先は川崎市境域委員会HP内)。]

妙高菴 同覺海禪師、諱聞悟號肯山、肥前人、當山二十八世、八月二日示寂。
[やぶちゃん注:貞和二(一三四六)年創建。肯山聞悟像や蘭渓道隆に仕えたとされる伝説の乙護童子像が安置されている。
「覺海禪師」肯山聞悟こうざんもんごは例の建長寺創建時の史料にして稀代の悪文「建長寺興国禅寺碑文」の撰者。]

長好院 昔は拙誠菴と號す。織田三五郎平長好を葬し。後に長好院と改む。長好の法號極岩空八居士と稱す。石塔あり。
[やぶちゃん注:「織田三五郎平長好」は織田長好(元和三(一六一七)年~慶安四(一六五一)年)は織田頼長の長男、織田信長の大甥。信長の実弟であった祖父織田長益の興した茶の湯有楽流を継承、茶人として名を成した。その死去に際して親族や茶人千玄室らに宛てた「織田三五郎遺品分配目録」は、茶人大名の所持名物を知る第一級資料である。彼の墓地は京都の建仁寺にもある。]

正宗菴 開基大興禪師、諱道然號葦航、信州人、當山六世、正安三年十二月六日寂。
[やぶちゃん注:「大興禪師」葦航道然(いこうどうねん 承久元(一二一九)年~正安三(一三〇二)年)は蘭渓道隆に師事、その法を嗣いだ四高弟の一人。弘安四(一二八一)年、無学祖元の下で建長寺の首座となる。円覚寺・建長寺住持。]

同契菴 同妙覺禪師、諱禪鑑號象外、肥州の人、當山三十一也。文和四年十一月十八日、七十八。
[やぶちゃん注:象外禅鑑(ぞうがいぜんかん  弘安二(1279)年~文和四・正平一〇(一三五五)年)。肥前出身。円覚寺桃渓徳悟の法嗣。上総胎蔵寺を開き、後、円覚寺・建長寺住持となった。]

千龍菴 昔は雲澤菴と號し、其後改む。開基は佛日焰惠禪師、諱楚俊號明極ミンキ、明州の人、元德二年來朝、當山二十三世、建武三年九月廿七日寂、七十五。
[やぶちゃん注:「焰惠禪師」俊明極しゅんみんき。元徳元(一三二九)年に元から来朝、建長寺に住した臨済宗楊岐派松源派高僧、明極楚俊。「太平記」の「俊明極参内事」に預言者として登場する。以下にJーTEXT版国民文庫本の当該部を正字化して一部省略、更に私なりの読みを恣意的に加えたものを示す(正規の本文ではないことに御注意あられたい)。
去ぬる元享げんかう元年の春の比、元朝より俊明極とて、得智の禪師來朝せり。天子直きに異朝の僧に御相看の事は、前々さきざき更に無かりしか共、此君禪の宗旨に傾かせ給ひて、諸方參得の御志をはせしかば、御法談の爲に此禪師を禁中へぞ召されける。事の儀式餘りに微々ならんは、吾が朝の可恥とて、三公公卿も出仕のよそほひをつくろひ、蘭臺金馬らんだいきんめも守禦の備を嚴くせり。夜半に蠟燭をてて禪師參内せらる。主上紫宸殿に出御成りて、玉坐に席を薦め給ふ。禪師三拜禮訖りて、香を拈じて萬歳を祝す。時に勅問有りて曰く、「山にかけはしし、海にふなばしして得々として來たる。和尚何を以てか度生せん。」と。禪師答へて云く、「佛法緊要の處を以て度生せん。」と。重ねて曰く、「正當恁麼しやうたういんも時奈何。」と。答へて曰く、「天上に星有り、皆北にたんだく。人間、水として東に朝せずといふこと無し。」と。御法談畢りて、禪師拜揖はいいふして退出せらる。翌日別當實世さねよ卿を勅使にて禪師號を下さる。時に禪師勅使に向かひて、「此の君、亢龍かうりようの悔ひ有りと雖も、二度帝位をませ給ふべき御相有り。」とぞ申されける。今、君、亢龍の悔に合せ給ひけれ共、彼の禪師の相し申たりし事なれば、二度九五ふたたびきうごの帝位を踐ませ給はん事、疑ひ無き思めすに依りて、法體の御事は暫く有るまじき由を、強ひて仰せ出されけり。
「可恥」は中国語で「恥ずかしい」の意で、ここでは音で「かち」若しくは「はぢ」訓じているか。
「度生」は「じしょう」と読むネット上のテクストを見たが、意味不明。世を渡るの意か。
「得々として」は、わざわざ。「拱く」は、ある方向に向かうことを言う。
「亢龍の悔」の「亢龍」は天高く登りつめた龍で、盛者必衰の理を言う。
「拜揖」は朝廷内での儀式礼儀所作の作法のこと。
「九五」易では最大の陽数を九とし、五を君位に配する。そこから中国では「九五」で、この上なき地位としての帝位を意味するものとなった。]

雲外菴 開基佛壽禪師、諱妙環號樞翁、下野人、當山三十世、文和三年二月十八日寂、八十二。
[やぶちゃん注:「佛壽禪師」枢翁妙環(すうおうみょうかん  文永一〇(一二七三)年~文和三・正平九(一三五四)年)は下野雲巌寺高峰顕日こうほうけんにちの法嗣。後、建長寺・円覚寺住持となる。]

回春菴 同佛覺禪師、諱は德※號玉山、信州人、當山二十世、建武元年十月十八日寂、八十。此菴の後に大覺池有。《原田地藏》又山の上に原田地藏といふ有。是は地中に掘埋たりともいふ。傳へいふ、原田次郎種直が子鎌倉に來り、己が父の骨も此中に有やとて、由比の戰死の人の骨どもを取聚て粉にし、地藏を作りたりしものなりといふ。
[やぶちゃん注:「※」=「椸」-「木」+「王」。読みは「とくし」か「とくせ」であろうか。但し、現在の回春院のネット上の複数の記載には「徳璇」とあって、「とくせん」と読んでいる。
「原田次郎種直」(生没年不詳)は平安末期の武将。保元の乱以降、平氏配下の有力な武士団を形成、文治元(一一八五)年三月の壇ノ浦の戦いの後は領地を没収された上、扇ヶ谷(他説もあり)に幽閉された。しかし、本記述とは合わず、彼は鎌倉では死んでいない。建久元(一一九〇)年には赦免されて、更に鎌倉幕府御家人として筑前国怡土いとの庄に領地を与えられている。この説、如何にもおかしい。そもそも「由比の戰死の人の骨ども」というのは、原田種直との時代的な整合性を考えるなら、石橋山の合戦後の由比ヶ浜合戦(小壺坂合戦・小坪合戦とも)ということになる。頼朝を支持した三浦一族が鎌倉の由比ヶ浜で当時は平家方であった畠山重忠軍と対峙、いくたりかの戦死者が出た一件であるが、これは三浦と畠山のかなり限定的な小競り合いであって、原田種直との関連性は極めて薄い気がする。更に言えば、勿論、この当時、ここは鬱蒼とした山中であり、ここに地蔵を持ち込む必然性が認められない(骨のない供養のためならば、由比ヶ浜の近在に建ててこそである)。それ以降の由比ヶ浜の大規模な戦闘となれば下ること、幕府滅亡の際の鎌倉合戦しかないのである。どうも何らかの伝承の誤りがあるものと思われる。私の知る限りでは、この原田地蔵なるもの自体、現在に伝わっていないものと思われる。]

 以上十八院は、今現存する院なり。是より次に記せる三十院は當寺廢跡なり。
[やぶちゃん注:ここまで塔頭記載の多くを引用してきた「新編鎌倉志」の配列とは、此処に限って後半部分を除いて全く異なる。何故だろう。]
 雲光菴 大智菴 正本菴 建初菴 通玄菴
 大統菴 華光菴 傳衣菴 正受菴 梅洲菴
 龍興菴 正法院 都史菴 金龍菴 長生菴
 金剛院 傳芳菴 廣巖菴 大雄菴 吉祥菴
 梅岑菴 龍洲菴 瑞林菴 一溪菴 岱雲菴
 實際菴 竹林菴 正濟菴 東宗菴 壽昌院
右塔頭の總名也。皆【關東五山記】に見えたり。然れども此三十院は斷絶せり。
[やぶちゃん注:「傳芳菴」は「傳法菴」の、「龍洲菴」は「龍淵菴」の誤り。]

              [圓覺寺]

圓覺寺 瑞鹿山と號す。五山の第二なり。相模守平時宗、弘安五年壬丑臘月八日に建立。開山宋佛光禪師、諱祖元、字子元、弘安二年に來朝。同九年九月三日遷化。【元亨釋書】に傳あり。寺領百四十貫文。
[やぶちゃん注:「臘月」は十二月。]

白鷺池 總門外の左右にある池をいふ。開山來朝の時、八幡大神白鷺と化して、鎌倉の郷導をして此池に止れり。ゆへに名附と云。

外門 妙莊嚴域といふ額有し由。總門外東西二ケ所にあり。
[やぶちゃん注:図にも示されている。「新編鎌倉志卷之三」には『今はなし』とあるので、その後に再建されたことが分かる。]

總門 額は瑞鹿山とあり。後光嚴帝の宸筆なりといふ。

[総門額]


山門 圓覺興聖禪寺の額を掲ぐ。花園帝の宸筆なり。
[やぶちゃん注:これも「新編鎌倉志卷之三」には『山門の跡 山門は今亡びて、礎石のみあり』とあるが、再建されたことが図からも分かる。]

[山門額]


鐘樓 佛殿に向ひ、右の方山上にあり。土人圓覺寺の大鐘と唱ふ。正安の鐘なり。参詣の緇素に撞しむ。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘は底本では全体が二字下げ。]
   相模州瑞鹿山圓覺興聖禪寺鐘銘
鶴岡之北、富士之東、有大圓覺、爲釋氏宮、恢廓賢聖、蹴蹈象龍、範圍天地、槖籥全功、鎔金去鑛、鍛錬頑銅、成大法器、啓廸昏蒙、長鯨吼月、幽谷傳空、法王號令、神天景從、祐民贊國、植德旌忠、停酸息苦、超越樊籠、高輝佛日、普扇皇風、浩々湯々、聲震寰中、風調雨順、國泰民安、皇帝萬歳、重臣千秋、正安三年辛丑七月初八日、大檀那從四位上行相模守平朝臣貞時、勸緣同成大器、當寺住持、傳法宋沙門子曇謹銘、勸進者舊僧宗證、奉行、兵部橘朝臣博、同兵庫允源朝臣仲範、大工、大和權守物部國光、掌財、監寺僧至源・道虎、此月十七日巳時、大鐘昇樓、洪音發虛、謹具名目于后、喜捨助緣僐信、共壹千五百人、本寺僧衆貮百三十員、大耆舊慧寧・覺眼・宗證・道範、頭首、覺泉・覺俊・師侃・玄挺・崇喜・道生・性仙知事、聰因・知足・可珍・至牧・天順・元安・祖安、西堂德凞・自聰・德詮・源淸・志遠、當寺住持宋西澗和尚子曇、
[やぶちゃん注:「當寺住持」底本では「常時住持」。誤植。訂した。この鐘、総高二五九・四センチ/口径一四二センチの鎌倉期の特徴をよく示した梵鐘であり、現在の鎌倉でも最大の梵鐘である。以下、「新編鎌倉志卷之三」基づいて書き下したものを示す。
   相模州瑞鹿山圓覺興聖禪寺鐘の銘
鶴が岡の北、富士の東、大圓覺有り。釋氏の宮と爲す。賢聖を恢廓かいかくし、象龍を蹴蹈しゆうたうす。天地を範圍して、槖籥たくやく功を全きす。金を鎔し、鑛を去り、頑銅を鍛錬す。大法器を成して、昏蒙を啓廸けいてきす。長鯨月に吼す。幽谷空に傳ふ。法王の號令、神天景從けいぢゆうす。民をたすけ、國をたすけ、德を植ゑて、忠をあらはす。酸を停め、苦を息む。樊籠ばんろうを超越す。高く佛日を輝かし、普く皇風を扇ぐ。浩々湯々として、聲、寰中に震ふ。風調ひ、雨順ひ、國泰かに民安し。皇帝萬歳。重臣千秋。正安三年辛丑七月初八日、大檀那從四位上行相模の守平の朝臣貞時、縁を勸め、同じく大器を成す。當寺の住持、傳法、宋の沙門子曇すどん謹みて銘す。勸進は舊僧宗證。奉行、兵部橘の朝臣邦博。同兵庫の允源の朝臣仲範。大工、大和權の守物の部の國光。掌財、監寺僧至源・道虎。此の月十七日巳の時、大鐘樓に昇り、洪音虛に發す。謹みて名目を后に具ふ。喜捨助緣の僐信、共に壹千五百人、本寺の僧衆、貮百三十員、大耆舊だいききうは、慧寧・覺眼・宗證・道範、頭首は覺泉・覺俊・師侃しかん・玄挺・崇喜・道生・性仙、知事は聰因・知足・可珍・至牧・天順・元安・祖安、西堂せいどう德凞とくき・自聰・德詮・源淸・志遠、當寺住持宋西澗せいかん和尚子曇。
「恢廓」は広く大きなさまを言うが、ここは禅門として広く学僧聖賢のために門戸開いて、の意。
「象龍を蹴蹈す」の「象龍」は聖人高僧の比喩で、「蹴蹈」は、中国語では蹴躓けつまずくの意であるが、そうした聖賢が必ず足を留める、という意であろう。
「槖籥」は、蹈鞴たたらで用いるふいごのこと(槖は袋状の物、籥は笛(吹管)の意)。「鑛」精錬していない金属。荒金。
「啓廸」は啓発と同じい。
「景從」は影のように必ず伴うこと。いつも一緒にいること。
「樊籠」は「はんろう」とも読み、煩悩に縛られていることを言う。
「正安三年」は西暦一三〇一年。
「大檀那從四位上行相模の守平の朝臣貞時」第九代執権北条貞時。
「子曇」は最後に示される宋から渡来した当代の円覚寺住持西澗子曇。
「大耆旧」の「耆」は六十歳の意で、式典での賓者たる大年寄り。
「頭首」は式典の実務指揮者のことであろう。
「知事」は通常、禅宗に於いては六知事のことを指す。即ち、庶務雑事を司る六つの役職で都寺つうす(総監督)・監寺かんす(住持代理で実務責任者)・副寺ふうす(会計)・維那いの(実務担当者)・典座てんぞ(斎糧全般・賄方)・直歳しっすい(伽藍修理や寺領の山林田畑の管理及び作務一式担当)の総称であるが、ここでは鐘竣工の儀式の庶務方の意であろう。七人いる。
「西堂」は、中国で古来、西を賓位とすることから、禅宗で当該所属寺院の先代住職を「東堂」と呼ぶのに対して、他の寺院の前住職を敬意を込めて呼ぶ際に用いる語である。]
 萬里居士【梅花無盡藏】云、
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前書様の部分は私が改行した。]
  遊瑞鹿山圓覺寺、先入新殿燒香禮佛、
  見開山祖佛光禪師宿龍之丈室、
  攀鐘試鯨杵數聲、漫作鴻鐘詩。
 由來鏡有捨身文。 那箇伽※着意聞。
 毎杵聲中非幻法。 樓々殿々涌穿雲。
[やぶちゃん字注:「※」=「犂」-「牛」+「木」。]
[やぶちゃん注:「萬里居士【梅花無盡藏】」室町中期の禅僧万里集九ばんりしゅうくの詩文集。七巻。書名は著者が影響をうけた南宋の陸游りくゆうの詩「要識梅花無尽蔵 人人襟袖帯香帰」を出典とする。作品中最後の年記は文亀二(一五〇二)年三月で、著者自らが整理分類して各部類ごとに年代順に配した。題下および文末などに自注を附している。本文と自注には作者の足跡が及んだ各地の様子を伝え、紀行文としても優れている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。鎌倉来訪のシークエンスが多く、植田もしばしば引用している。但し、以上の円覚寺のパートはかなり省略が見られ、異同もある(詩では誤植と思われる部分もある)。以下に、グーグル・ブックスで辛うじて管見出来る市木武雄「梅花無尽蔵注釈」を参考にして当該箇所を引用し、同書を参考に書き下したものを示す。底本では原文は文章部分が一字下げであるが、逆転させ、詩は分かち書きとし、句読点を排除した。
二十有五日丁酉。遊瑞鹿山圓覺寺、先入新殿。燒香禮佛。見開山祖。〔宋慶元府人。姓許氏。母陳氏。在宋號祖元禪師。〕佛光禪師、宿龍之。〔宿龍開山塔額掲之。〕丈室。秀過長廊。山腹有小院。破屋數間。二童子午誦琅々。其一觀音品。其一周弼之三体絶句。余隔墻壁聽之。欣然不忍俄去。昔、坡老在白鶴峯下。迁居之夕。聽隣兒讀書之聲有愛作。忽往來于懷矣。午後攀鐘樓。試鯨杵數聲。扣叔悦座元之皈源軒。而點茶一中。又皈明月菴。因睡。一覺之後。漫作鴻鐘詩。
 舊來鐘有捨身文
 那个伽梨着意聞
 數杵聲中非幻法
 樓々殿々涌穿雲
〇書き下し文(市木氏による字の補正は【→ 】で示した。一部市木氏の訓読に従わなかった箇所がある。)
二十有五日にじふいうごにち丁酉ひのととり。瑞鹿山圓覺寺に遊ぶ。先づ新殿に入り、香を燒きて佛にらいす。開山の祖〔宋の慶元府の人なり。姓は許氏。母は陳氏。宋に在りては祖元禪師と號す。〕佛光禪師、「宿龍」の〔「宿龍」とは、開山塔の額の之を掲ぐ。〕丈室を見る。長廊を秀【→とうくわするに、山腹に小院有り。破屋數間あり。二童子の午誦ごしよう琅々らうらうたり。其のいつ觀音品くわんのんぼん、其の一は周弼しうひつの三体の絶句なり。余、墻壁しやうへきを隔てて之を聽き、欣然として、俄かに去るに忍びず。昔、坡老はらう、白鶴峯下に在り、迁居せんきよゆふべ、隣兒の讀書の聲を聽きて愛作有り。忽ちに懷に往來す。午後、鐘樓にぢ、鯨杵げいしよ、數聲を試む。叔悦座元しゆくえつぞげん皈源軒きげんけんたづねて、茶を一中に點ず。又、明月菴にかへり、因【→こんすいす。一たび覺むるの後、みだりに鴻鐘の詩を作る。
 舊來きうらい 鐘に捨身の文有り
 那个なこ伽梨かりも 意をけて聞かん
 數杵すうしよの聲中 幻法を非とす
 樓々 殿々に涌きて 雲を穿うが
●「二十有五日」文明一八(一四八六)年一〇月二五日。
●「周弼の三体」南宋の周弼撰になる「三体詩」。唐代の詩の選集で七言絶句・七言律詩・五言律詩の三つの形式に限って一六七人四九四首を所収する。
●「坡老」北宋最大の文人政治家蘇軾のこと。
●「白鶴峯」広東省にある山。蘇軾は一〇九四年に対立勢力であった新法派の台頭によって恵州(現在の広東省)に左遷されられた。
●「迁居」引越し。
●「忽ちに懷に往來す」その故事が、筆者万里集九の胸に去来した、のである。
●「叔悦座元」市木氏の注には太田道灌の叔父とも姪とも呼ばれる、とあって性別も定かでないが、室町期に円覚寺帰源庵を継いだ禅僧。この時を機会に万里とは非常に親しく交わった。
●「皈源軒」現在の漱石ら所縁の円覚寺帰源院。
●「茶を一中に點ず」一座の人々に茶をふるまって貰った。
●「明月菴」現在の明月院であろうか。
●「困睡」疲れて眠ること。
●「那个なこ」指示語。「个」は「箇」と同じ(数詞「ヶ」は「け」ではなく「こ」で、この「个」がもととされる)。あの。あれ。
●「伽梨かり」市木武雄氏の「梅花無尽蔵注釈」に『迦利・迦羅富ともいう。古代インドの王の名。仏の修行を妨げ、仏の耳、鼻、手等を切ったが、仏は少しも変らず、天大いに荒る、王驚き恐れ、悔いて仏門に入ると(本生経)。』と記されておられる。
●漢詩については市木武雄氏の訳を示す(一部に改行を施した)。
   《引用開始》
古くから伝わる鐘には、身を捨てて、仏恩に報じ、帰依するという銘文があったが、
この尊い鐘の音には、あの昔の悪玉、伽梨も本心にもどり、心を開いて聞くことであろう。
幾度かつく鐘の音色は、人間の心に、まぼろしのように起る悪心を打ちくだき退ける。
あたりを見ると、多くの塔や仏殿が湧き起るように聳え、雲を突きぬけんばかりである。
《引用終了》
如何にも詩で、あまり上手くもない。市木氏も『鐘の音が主題で』あるが、『日課として作ったような感がある』と注しておられる。]

佛殿 光明寶殿といふ額有。後光嚴帝の宸筆也。堂内土間造、祈禱と書たる額を掲ぐ。夢窻國師の筆也。本尊寶冠釋迦・梵天・帝釋、何れも卿殿キヤウノトノの作と云。祖師堂に百丈・臨濟と開山の像、幷前住の牌、祈禱殿に伽藍神、又代々將軍家の牌を安ず。
[やぶちゃん注:この天授二・永和二(一三七六)年再興(以下の梁牌銘による)の仏殿は先に示した「梅花無尽蔵」で『先づ新殿に入り、香を燒きて佛に禮す』とあるように、早くに失われて万里集九が訪れた文明一八(一四八六)年一〇月以前、「鎌倉市史 社寺編」に拠れば、彼の来訪の『この年に近い頃再建したものであろう』とあり、しかし彼が拝した新造の仏殿も永禄六(一五六三)年に火災で焼失、寛永二(一六二五)年に再建したものとされるとある。その後、関東大震災で崩壊、現在のものはコンクリート製の昭和三十九(一九六四)年に竣工した新しいものである。但し、新造に際しては元亀四(一五七三)年の図面をもとに建造されたもので、往古の禅宗様式をよく伝えている。
「卿殿」不詳。識者の御教授を乞う。]
[やぶちゃん注:以下、底本では次の「梁牌銘」の東と西の間に以下の図像が挟まる。一番上に、
大光明寶殿
の仏殿の額、その下に、右から左に、活字で
祈禱修正
兩額ともに夢窻
國師眞蹟
と横書き、その右の「祈禱」の右側には縦書活字で、
皆佛殿の額なり
とあって、それらの下、最下段に右側に縦書活字で、
伏見院の宸翰
とあって、
勅謚佛光禪師
の額が示される(「謚」〔=「諡」〕としたのは「寺寶」に出る本宸筆の実物の記載から。ご覧の通り、「謚」にも「諡」にも、実は、見えない)。]


[仏殿額]

[やぶちゃん注:本文にはない「大」の字がある。]


[「修正」及び「祈禱」の額]


[「伏見院の宸翰」とする額]

[やぶちゃん注:以下の「梁牌銘」は、最後の注まで含め、底本では全体が一字下げ。]
  梁牌銘 皇國益固、猶逾億萬斯年、民士淸平、廣統三千刹海、本寺大檀那左中將征夷大將軍源朝臣義滿敬立。〔東の方、〕
佛域新開、儼靈山法筵日、祖庭深密、榮少林華木春、永和二年丙辰十月念九日庚辰、當代住持嗣祖沙門此山妙在謹題。〔西の方。〕
  按ずるに當山第四十三世、諱妙在、字此山也は、定正院の開基也。
[やぶちゃん注:「廣統三千刹海」は、底本では「統」が脱落している。「鎌倉市史 資料編第二」の二一九資料で確認し、訂した。
「民士淸平」は「鎌倉市史 資料編第二」の二一九「圓覺寺佛殿梁牌銘」には「民土淸平」とする。「新編鎌倉志卷之三」でも「士」とする。但し、植田は「新編鎌倉志」を引き写したとしか思われない(最後の「按ずるに」まで真似ちゃだめでしょう、植田先生!)ので傍証にはならない。意味からは「土」が正しいように見受けられるが、暫くママとする。識者の御教授を乞う。
以下、梁牌銘を「新編鎌倉志卷之三」に基づいて書き下したものを示す。
  梁牌の銘
皇國益々固し。猶を億萬斯年をえん。民士淸平、廣く三千刹海を統ぶ。本寺の大檀那、左中將征夷大將軍源の朝臣義滿敬ひて立つ。
佛域新に開き、靈山法筵の日よりおごそかなり。祖庭深密、少林華木の春より榮ふ。永和二年丙辰十月念九日、庚辰、當代住持嗣祖沙門此山の妙在謹みて題す。
「念九日」は「廿九日」のこと。「廿」の俗音が「念」に通ずることから用いるという。
「永和二年」天授二・永和二(一三七六)年。]

明鏡堂跡 佛殿の東なり。

方丈 南向、前に四趾門あり。左右屛垣を打廻す。聖觀音の木像を安ず。此像、もとは明鏡堂の本尊なり。堂頽破し此に移す。毎月十八日、大衆懺法を修す。
[やぶちゃん注:「懺法」は「せんぼふ(せんぼう)」と読み、経を誦して罪過を懺悔さんげをする法要。ここでは観音懺法。]

[方丈の額]

[やぶちゃん注:上に右から横書の活字で、
張即之書
とある。「張即之」(一一八六年~一二六六年)とは南宋後期の政治家にして名書家。歴陽(安徽省)の人。禅に造詣が深く、彼の書風は禅僧の間で流行し、日本には入宋の禅僧らによって早くから伝わった。特に大楷を得意として注目されたと伝えられる。代表作に「李白嘉墓誌」(以上は「書道ジャーナル」の「張即之 書道の基礎知識 偉人編」を参照にした。リンク先で彼の書体が味わえる)。特に蘭渓道隆は張即之の書をよく学び、その張即之の書風を日本に最初に移入した人物でもあった(これはウィキの「蘭渓道隆」に拠る)。]

寺寶

佛牙舍利 長一寸二分、水晶の塔に納む。萬年山正續院と號す。今開山塔と稱す。方丈より西北に有。元は舍利堂と稱して、祥勝院と稱しけり。【神明鏡】に云、建永年中葉上僧正・明惠上人、遣唐使として、道宣律師來世の時、感得有し佛牙御舍利、所望の爲に渡り、唐帝より申給て歸朝す。實朝大臣は道宣の再誕也。偖、鎌倉乾正續院に置奉る。葉上は建仁寺の本當たりしかば、此寺に於て禪法を初め修す。我朝禪宗の初也。明惠は栂尾を建立すと有。又云、舍利記一卷あり。何人の記することを傳へず。甚長文にして疑しき節も多ければ略す。其文中に實朝大臣佛舍利を勝長壽院に安じ、後又大慈寺を建立し佛舍利を移し、毎年十月十五日舍利會を行はるゝと有。平貞時が代に至て、圓覺寺に舍利殿を剏建し、大慈寺よ玆に遷すと云。今毎月十五日には、舍利殿を開扉し、道俗に拜させけり。
[やぶちゃん注:この記載は「新編鎌倉志卷之三」の円覚寺の「方丈」の記載の順列入替大省略の引き写しでしかない。従って私も植田への呵責の念を一切持つことなく、概ね既存の私自身の当該注をおおっぴらに引用させて貰う。
「一寸二分 」約三・六三センチメートル。
「神明鏡」は十四世紀後半に書かれたと推測される作者不詳のかなり雑駁な編集になる年代記(神武天皇から後花園天皇まで)。
「建永年中」とは西暦一二〇六~一二〇七年である。これでは実朝渡中計画よりも前になり、尚且つ、突如として現れる「實朝大臣は、道宣の再誕也」という言辞も、寧ろ「吾妻鏡」に現れる和卿の台詞(「新編鎌倉志卷之三」の「方丈」の私の注に引用してあるので参照されたい)を受けて使っている感がある。
「葉上僧正」は後述されるように建仁寺を建立した栄西(永治元(一一四一)年~建保三(一二一五)年)を指すが、彼は一一六八及び一一八七年の二度入宋しているものの、建永年間には渡中していない。また、道宣所縁の仏牙舎利を持って帰国したという事実についても、調べた限りでは見当たらない。後、記される通り、元久二年(一二〇五)年に京に本邦初の禅寺である建仁寺を開き、第一世となった。翌年の正に建永元(一二〇六)年には重源の後任として東大寺勧進職に就任、既にこの時、齢六十五歳である。
「明惠上人」山城国栂尾高山寺開山にして夢記で知られる華厳宗の僧明恵(承安三(一一七三)年~寛喜四(一二三二)年)。しかし彼は二度、天竺へ渡らんとして果たせなかったことが知られている。即ち、明恵は渡中していないのである。但し、栄西の建仁寺建立の二年後に高山寺を開いた彼は、しばしば栄西を訪れて問答をしたと伝えられており、その折りに栄西が茶の効能を語って喫茶を勧め、明恵が茶の実を栂尾に播いて京に於ける茶の普及にも功があったことは知られている。
「舍利記」は植田の言うように、「甚長文にして疑しき節も多」い。しかし、面白い。「新編鎌倉志卷之三」はちゃんと全文を載せている。私も、その面白さゆえにガチで注を附けてある。是非、参照されたい。]

無學禪師自畫讃像 一幅 無學は開山佛光禪師の別號。

同禪師書 一幅 自筆 寧一山自筆狀 一通

臨濟禪師畫像 一幅 無準の贊なり。
[やぶちゃん注:「無準」は「ぶしゆん(ぶしゅん)」と読み、無準師範(一一七七年~一二四九年)。南宋の禅僧。明州清涼山や育王山(前掲注参照)などの名刹の住持を経て、五山第一位径山きんざん萬寿寺住持となった。円覚寺開山無学祖元や画僧牧谿もっけいは彼の門弟で、 日中両国で尊崇された高僧である。]

佛鑑禪師畫像 一幅 璵東陵贊なり。
[やぶちゃん注:「璵東陵」は東陵永璵とうりょうえいよ(一二八五年~一三六五年)。元の僧。無学祖元の甥で、足利直義の招聘により観応二・正平六(一三五一)年に来日、京の天竜寺・南禅寺、建長寺・円覚寺などの住持を歴任した。]

伏見帝宸筆 一幅 勅謚佛光禪師と有。三行大字也。
[やぶちゃん注:これを元に先に示した方丈の額の一枚が作られた。]

花園帝幷後光嚴帝の宸筆 一軸 花園帝の宸筆は圓覺興聖禪寺とあり。三行大字なり。後光嚴帝の宸筆は、瑞鹿山大光明寶殿とあり。共に一軸とす。
[やぶちゃん注:ここで「幅」でなく「軸」と言っているのは、本来、別々な一幅であったものを、合わせて一軸に表装し直したことを言うためであろう。これらを元に先に示した山門額「瑞鹿山」と「圓覺興聖禪寺」、方丈額「大光明寶殿」が作られた。]

後小松帝の院宣 一幅 光嚴帝綸旨 一幅 夢窓國師へ賜ふ綸旨也。

五百羅漢畫像 五十幅 内十七幅は兆殿主筆。其餘は唐筆。
[やぶちゃん注:「兆殿主」は「兆殿司」で「てうでんす(ちょうでんす)」と読む。先行する建長寺の「涅槃像」の注を参照されたい。]

平時宗書 一幅 自筆

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」では、この間に「佛光禪師の書 壹幅 自筆。」とある。この文書は「鎌倉市史 資料編第二」の資料番号一〇「無學祖元書狀案」(クレジットは弘安六(一二八三)年七月十八二日)として現存するから、植田の引き写し漏れである。]

後光嚴帝宸筆 額字なり。最勝輪の三字。

後小松帝宸筆 一幅 額なり。黄梅院の三字。

靑蓮院道圓法親王墨蹟 一幅
[やぶちゃん注:道円法親王(元仁元(一二二四)年~弘安四(一二八一)年/別に承元四(一二一〇)年~延応二(一二四〇)年とも)は土御門天皇皇子。真言僧。仁和寺蓮華光院や西院に住し、西院宮・安井宮と称せられた。]

開山所持硯 一面  觀音畫像 一幅 唐筆

跋陀婆羅菩薩畫像  一幅 畫師宗淵筆
[やぶちゃん注:「跋陀婆羅菩薩」は「ばつだばらぼさつ」で、インドのバドラパーラという僧。「妙法蓮華経」第一巻序品第一に登場する菩薩で、入浴せんとして開悟したとされ、僧堂では浴室に祀られる。
「宗淵」(生没年不詳)は室町後期の画僧。鎌倉円覚寺蔵主。雪舟に師事、彼の画風を忠実に嗣いだ愛弟子であった。]

辨財天石像 一軀 長七寸許、紫石蛇形なり。
[やぶちゃん注: 紅簾片岩こうれんせきへんがん(piemontite schist)の俗名。主にマンガンを多く含む紅簾石(piedmontite)と石英からなる結晶片岩で美しいピンク色を呈する。

南院國師眞蹟 一幅  普明國師眞跡 一幅

勅會法華御八講役付書 一卷 元亨二年十月廿四日と有。
[やぶちゃん注:「勅會法華御八講」は天皇臨席のもとに行われた法華八講を指す。「妙法蓮華経」八巻を一巻ずつ八座に分けて読誦・講釈する法会で、死者の追善供養を目的とし、正式には朝夕二座四日間で行う。
「元亨二年」は西暦一三二二年。]

南山自贊畫像 一幅  西園寺の書 二幅
[やぶちゃん注:「南山」は南山士雲(建長六(一二五四)年~建武二(一三三五)年)。大休正念や無学祖元に参禅、延慶三(一三一〇)年に東福寺第十一世となった。後に来鎌、崇寿寺(現存せず。現在の材木座附近に比定されている)を開いたが、建長寺・円覚寺などにも住した。
「西園寺の書 二幅」これは恐らく「鎌倉市史 資料編第二」の資料番号四五「西園寺公衡書狀」及び五一「西園寺公衡御教書」を指すか。とすると四五は先に掲げられた伏見帝(上皇)が宸筆を染めた円覚寺額を証明する文書(クレジットは延慶元(一三〇八)年九月二十九日)、五一は伏見上皇の建長寺及び円覚寺の両寺を定額寺じょうがくじとなす院宣の伝達文(クレジットは延慶元年十二月廿三日)。定額寺とは本来、奈良・平安期に官大寺や国分寺に次ぐ寺格と認めることをいうが、正式なものは正暦元(九九〇)年を最後に姿を消しているとされるから、有名無実なものと考えてよいか。]

平貞時圓覺寺壁書 二幅 貞時の花押あり。

平貞時自筆書 一幅 文保二年五月廿二日とあり。
[やぶちゃん注:「平貞時」は「平高時」の誤り。植田は「新編鎌倉志卷之三」のこの間にあった、
平貞時圓覺寺の壁書 貳幅 一幅は、永仁二年正月日とあり。一幅は、乾元二年二月十二日とあり。共に貞時の花押あり。
及び 同自筆の書 貳幅
を省略したのは許せるとして、名前を間違えたのは杜撰もいいところ。少なくともこれでは一事が万事、本書の歴史的価値は正に地に落ちたと批判されても、仕方がない。
「文保二年」西暦一三一八年。]

尊氏自筆法華經 壹卷
奧書に、
[やぶちゃん注:以下の奥書は底本では全体が二字下げ。]
奉爲三品觀公大禪定門、修五種妙行、觀應三年九月五日、書冩了、正二位源尊氏、花押有。觀公とは尊氏の父貞氏の法號、貞山道觀と云云。
[やぶちゃん注:以下、「奥書」部分を「新編鎌倉志卷之三」に基づき、書き下したものを示す。
三品觀公大禪定門の奉らん爲に、五種の妙行を修す。觀應三年九月五日、書冩し了る。正二位源の尊氏(花押) 「觀應三年」は西暦一三五二年。但し、この同月二十七日に文和に改元。先立つ同年二月に弟直義が急死しており、一般には病死とされるが、「太平記」では兄尊氏による毒殺説を記す。何れにせよ、本法華経書写の背景には父貞氏への追善の影に、直義への思いがあると見てよいであろう。]

同人直判状 二幅

義滿將軍墨蹟 四幅 一幅は宿龍と有。一幅は桂昌とあり。一幅は普現とあり。皆大字にて朱印二つあり。上は道有と有。下は天山とあり。皆小篆文也。按ずるに、義滿始は道有、後道義と改む。又一幅は正續院に、常陸國小鶴の庄を寄附の狀也。應永三年十二月廿七日、入道准三后前太政大臣、花押あり。

開山堂 方丈より西北四五町を隔つ。《正續院》正續院と放す。門に萬年山と額あり。《舍利殿》此堂は平貞時建立し、佛舍利を大慈寺より遷して祥勝院と號し、舍利殿なりしを、元弘三年癸酉七月八日、後醍醐帝綸旨に云、圓覺寺舍利殿を以て、開山常照國師の塔頭とすべきの旨天氣なり。是より開山塔と稱し、佛舍利をも堂内に安ず。毎年四月八日舍利開扉、緇素群をなす【日工集】に、貞治六年四月十五日、源氏滿圓覺寺に入、正續院の佛牙舍利を頂戴す。

[開山堂外門額]

[やぶちゃん注:「萬年山」とあり、下に右から横書活字で、
筆者不詳
とある。]

[開山堂の額]

[やぶちゃん注:「常照」とあり、額の左端には、
從三位源朝臣□
「□」は文字とは思われない。花押のようでもなく、不詳。識者の御教授を乞う。
下に、右から横書で、
足利氏滿朝臣の書
とある。]
蓋府君一代に一度開封す。是大宗國京師建仁寺の舍利なりとあり。此ゆへに、今は開山堂とす。堂上に常照といふ額あり。開山木像を安ず。元の掲傒斯塔の銘を作る、長文なるゆへ是を略す。
[やぶちゃん注:「元弘三年癸酉七月八日」鎌倉幕府は先立つ一ヶ月強前の同年五月に滅亡している。
「貞治六年」正平二十二・貞治六(一三六七)年。
「掲傒斯」(けいけいし 一二七四年~一三四四年)は元の文学者。貧家に育ったが刻苦勉励、翰林国史院編修となり、以降も翰林侍講学士などを歴任、公務としての歴史書編纂はもとより、名文家・名書家としても知られた。]

禪堂 開山堂へ向て右の方にあり。

[禪堂の額]

[やぶちゃん注:キャプションの下に、下に右から横書活字で、
無準和尚書
とある。無準師範(一一七七年~一二四九年)は。理宗から仏鑑禅師を諡された宋代禅林の巨匠で、無学祖元の師。額の字は「選佛場」。]

宿龍池 開山堂の後にあり。開山來朝の時、龍現じて船を護り送る。此地に止るゆへに名附。
[やぶちゃん注:「しゆくりやうち(しゅくりょうち)」と読む。]

坐禪窟 開山堂の山上にあり。開山坐禪せし所なり。

鹿岩 方丈の後の麓にあり。此寺草創の時、鹿の奇瑞あるゆへ山號を瑞鹿山と名附。鹿岩も其ゆへなり。
[やぶちゃん注:「ししがん」又は「ろくがん」と読む。]

玅香池 方丈の北にあり。
[やぶちゃん注:「玅」は「妙」に同じ。]

虎頭岩 玅香池の北にあり。
[やぶちゃん注:「ししがん」と読む。]
[やぶちゃん注:以下、「新編鎌倉志」版行からは一四四年が経過しているが、塔頭数は同数である。今回は「新編鎌倉志卷之三」では行っていない各塔頭の開基の事蹟を注した。その内容は主に講談社の「デジタル版 日本人名大辞典」に拠った。]

佛日菴 正續院の東北の角にあり。此菴は開基檀越の牌堂なり。平時宗の塔を慈氏殿と號す。木像あり。牌に法光寺殿道果大禪定門、弘安七年四月四日とあり。同貞時の塔を無衆殿と號す。木像は、牌に最勝園寺殿宗演大禪定門、慶長元年十月廿六日と有。同高時の塔を同光殿と號す。木像は、牌に日輪寺殿崇鑑大禪定門、元弘三年五月廿二日と有。又潮音院殿覺山志道大姉と牌有。是は時宗の室家、松が岡の開山なり云云。近世淸拙和尚といふ知識の僧も此菴の住持なり。三執權の木造は、三衣を着せし木造なり。
[やぶちゃん注:「無衆殿」は「無畏殿」の誤り。
「松が岡」は東慶寺のこと。
「淸拙和尚」清拙正澄せいせつしょうちょう(一二七四年~暦応二・延元(一三三九)年)鎌倉末から南北朝初期の臨済宗破庵派の来朝僧。日本禅宗大鑑派祖。福州(福建省)連江生。杭州(浙江省)浄慈寺の愚極智慧の法嗣。嘉暦元(一三二六)年に来日、北条高時の招きで鎌倉建長寺に住して禅規を刷新した。後、浄智寺・円覚寺を経て、後醍醐天皇の勅命により京都の建仁寺・南禅寺などに住した。諡号は大鑑禅師。 ]

桂昌菴 開基承先和尚、諱道欽。十二月六日寂。
[やぶちゃん注: 承先道欽しょうせんどうきん(?~至徳二(一三八五)年)は円覚寺第四十九世。]

傳宗菴 同 南山和尚、諱士雲、建武三年十月七日寂。
[やぶちゃん注:南山士雲(建長六(一二五四)年~建武二(一三三五)年)臨済宗聖一派の僧。聖一派の二大門派の一つ荘厳門派を興して純粋禅を提唱した。遠江(静岡県)生。円爾について出家、大休正念・無学祖元に歴参、後に東福寺に戻り、円爾から無準師範より伝わる法衣を授けられる。延慶三(一三一〇)年には東福寺第十一世となって、その後も鎌倉崇寿寺(廃寺)を開いて建長寺・円覚寺などの五山にも住した。塔所(墓所)は東福寺荘厳蔵院。]

白雲菴 同 東明和尚、諱慧日、暦應三年十月十四日寂。
[やぶちゃん注: 東明慧日とうみょうえにち(一二七二) 年~暦応三・興国元(一三四〇)年)は曹洞宗宏智派の来朝僧。日本禅宗東明派祖。明州(浙江省)定海県生。奉化県(浙江省)大同寺で出家、明州府城の天寧寺の直翁徳挙の法嗣。当初、明堂の白雲山宝慶寺に出世開堂したが、延慶二(一三〇九)年に北条貞時の招きに応じて来日、鎌倉の禅興寺(廃寺)・円覚寺・寿福寺・東勝寺(廃寺)・建長寺などに住し、鎌倉禅林の隆盛に尽力した。臨済宗一色のなかにあって曹洞宗旨の普及に努めた。円覚寺内に白雲庵を構えたために白雲門徒とも称せられた。因みにここが私、藪野家の菩提寺である。但し、私はここの墓には入らない。母と同じく慶応大学医学部に献体後、母と同じ多磨霊園慶応大学医学部献体合葬無縁墓地に入る。]

富陽菴 同 東岳和尚、諱文昱、應永廿三年二月廿三日寂。
[やぶちゃん注:東岳文昱とうがくぶんいく(?~応永二十三(一四一六)年)は円覚寺六十一世。]

壽德菴 同 月潭和尚、諱中圓。應永十四年九月七日寂。
[やぶちゃん注:月潭中円(永享六(一四三四)年~,明応三(一四九四)年)は円覚寺六十六世。]

正傳菴 同 大達禪師、諱正因、應安二年四月八日寂。
[やぶちゃん注:大達正因(?~応安二(一三六九)年)は円覚寺第二十四世。]

萬富山續燈菴 佛滿禪師、諱法忻、號大喜、今川基氏の子也。貞治五年九月廿四日寂、五十三。
[やぶちゃん注:仏満法忻ぶつまんほうきん(正和三(一三一四)年~正平二一年・貞治五(一三六六)年)は今川基氏四男で、円覚寺三十世。
「今川基氏」(正嘉三(一二五九)年~元亨三(一三二三)年)は三河国幡豆郡今川荘(現在の愛知県西尾市今川町)を支配した今川家第二代当主。この父の家系は後の戦国大名今川氏の祖流の一つとなる。]

傳衣山黄梅院 同正覺心宗普濟玄猷佛統天龍國師、諱疎石、號夢窻嗣法佛國、観應二年九月寂晦日示寂。
[やぶちゃん注:夢窓疎石(建治元(一二七五)年~観応二・正平六(一三五一)年)は、円覚寺開山仏光国師の孫弟子。円覚寺・南禅寺・浄智寺など五山の住職に就くこと八度、天龍寺・恵林寺など開山となった主たる寺は六ケ寺、後醍醐天皇初め南北両朝の帝から賜った国師号は七つ、これにより世に「七朝の帝師」と称えられた。北条高時・後醍醐帝・足利尊氏・直義兄弟からも深い帰依を受けた。苔寺西芳寺や瑞泉寺の庭園でも知られる優れた作庭家でもあった。円覚寺第十五世。塔所は京都市右京区にある臨川寺。]

寺寶古文書〔是より以下の文書は、黄梅院に藏するものなり。文言は數多なるゆへ、悉く記することを得ず。〕
[やぶちゃん注:以下は行空けを行わずに並記する。]
 夢窻國師手翰 一通
 同      四幅
 文和二年正月十九日 畠山兵衞藏人代小野助俊〔花押〕    文書一通
 貞治三年十月廿八日 加治刑部少輔殿左近將監〔花押〕    同 一通
 同年十一月甘四日 左近將監政親〔花押〕          同 一通
 同年同月同日 刑部丞實規                 同 一通
 應安五年二月十八日 細川相模守源賴之〔花押〕       同 一通
 應安五年九月十一日 沙彌〔花押〕             同 一通
 同年同月同日 安房入道殿沙彌〔花押〕           同 一通
[やぶちゃん注:以下には、図で示したように四方を線で囲った文書の写しが模式的に示されてある。ここで一応、活字化しておく。注は図の後に記す。]
                   散 位 三 善 朝 臣〔花押〕
長祿二年七月五日
                   近江前司藤原朝臣 〔花押〕
  三會院遺誡
右此十數段三會院遺誡也
心岩西堂自寫之將欲鎭于
黄梅院故爲證云
  永德癸亥仲冬十二日           雲 居 妙 葩
□ □


[やぶちゃん注:この文書の内、「右此十數段三會院遺誡也」以降の部分は「鎌倉市史 資料編第三 第四」の「黄梅院文書」の資料番号二「夢窓疎石臨川寺三會院遺誡寫」の掉尾の部分である。当該箇所の「鎌倉市史」の頭書には『心岩周己、疎石ノ三會院遺誡ヲ書寫シ黄梅院ニ納メントスルニヨリ、妙葩コレニ證判を加フ』とある。「三會院」とは「心岩周己」や「妙葩みょうは」の師夢窓疎石の開山になる京都市右京区の臨川寺にある、夢窓が生前に建立した寿塔、開山塔三会院さんねいんを指し(夢窓はここで示寂している)、これは即ち夢窓の遺言の写しなのである。それに兄弟弟子の妙葩が原本からの誤りない副本である旨の保証の判を押したものということになる。
「長祿二年」西暦一四五八年。その下の「散位三善朝臣」はこれを名乗る三善姓の武将は複数いるが、不詳。同様に連名の「近江前司藤原朝臣」も不詳。そもそも、この同一文書内の前と後ろに七十五年もの開きのあるクレジットがあることの意味するところは私の微力では分からぬ。七十五年後に、この二人の人物が、何らかの理由で更に本文書が間違いなく夢窓疎石遺誡の写しであることを証明したものか? 分からぬ。少なくとも現存する「夢窓疎石臨川寺三會院遺誡寫」にはこの三行分(底本では二行)は存在しない。また現存する一巻の「右此十數段三會院遺誡也」の直前には紙の継ぎ目がある。これらは少なくとも、ここを境に二枚の文書を張り合わせた(事実存在するとすれば)ものであったと思われる。識者の御教授を切に乞うものである。
「永德癸亥仲冬」は弘和三・永徳三(一三八三)年十一月。
「雲居妙葩」は室町期の臨済宗の禅僧春屋妙葩しゅんのくみょうは(応長元年(一三一二)年~元中五・嘉慶二(一三八八)年)。五山十刹制度を創始、五山派を興して五山文化に大きく貢献した僧として知られ、京の名刹天龍寺・南禅寺・相国寺・臨川寺などの住持となった。諡号、知覚普明国師。師夢窓疎石は母方の叔父でもあった。
「□ □」これは「鎌倉市史 資料編第三 第四」の「黄梅院文書」の資料番号二に、
   □〔朱印、印文、「釋妙葩印」〕 □〔朱印、印文、「春屋」〕
とある。]

 華厳塔再建化緣之書                      一軸
 證明左丞相征夷大將軍                     一通
[やぶちゃん注:以下はこの文書の文字を模式的に示したものらしい。右傍注と思われるものは底本ではポイント落ちだが、ここでは( )で示した。]
  (鹿苑院義滿)
     左大臣〔花押〕
    (源 基 氏)
      左兵衞督〔花押〕
     (斯波左衞門佐義明)
       左衞門佐〔花押〕
[やぶちゃん注:この文書は「鎌倉市史 資料編第三 第四」の「黄梅院文書」の資料番号三二の「義堂周信筆黄梅院華嚴塔勸緣疏幷奉加帳」の一部分である。この「義堂周信筆黄梅院華嚴塔勸緣疏」というのは恐らく前の「華厳塔再建化緣之書」と同じものである。即ち、現在、巻子本として纏めて貼られているものが、この頃にはばらばらになっていたものと考えられる。従ってこの「義堂周信筆黄梅院華嚴塔勸緣疏」が足利幕府が認めた真正の再建趣意書(勧進帳)であることの「證明」ということになる。「鎌倉市史」を見ると(《 》は「鎌倉市史」編者の割注など)、
證明 左丞相征夷大將軍《○以上縱横墨界ノ中ニアリ。》
……………………………………………………………《紙繼目》
 (義滿)
  左大臣〔花押〕《○以下各別筆ニカヽル》
     (氏滿)
     左兵衞督〔花押〕
……………………………………………………………《紙繼目》
         (斯波義將)
         左衞門佐〔花押〕
……………………………………………………………《紙繼目》
とあって、植田の右傍注が誤っていることも分かる。また、これらが本来は別々な書状であったことが編者による紙の継ぎ目と本書の記載からも見て取れる。]
 應永四年十二月三日 千坂越前守殿沙彌〔花押〕       文書一通
 同年十二月十三日 前越前守〔花押〕            同 一通
 應永十一年六月十二日 〔左衛門尉 花押 加賀守 同〕   文書一通
     植谷備前入道殿
 正長元年八月廿一日  〔前遠江守 花押 前筑前守 同〕  同 一通
     大石隼人佐殿
 同年八月廿二日    右同名 〔同人 花押 同人 同〕  同 一通
 永享十二年十月十三日 〔右馬允 花押 沙彌 同〕     同 一通
     長尾左衞門尉殿
 同年十二月七日    左衞門尉景仲〔花押〕        同 一通
 文和三年十一月十二日 尊氏〔花押〕            同 一通
    菴     主
         (基 氏)
 同年同月廿六日    左馬頭〔花押〕           同 一通
[やぶちゃん注:「(基 氏)」は底本では( )なしのポイント落ち。「左馬頭」の植田の傍注である。足利基氏(興国元・暦応三(一三四〇)年~正平二二・貞治六(一三六七)年)は正平七・文和元(一三五二)年に元服して基氏と名乗り、従五位下に叙されて左馬頭に任官、正平一四・延文四(一三五九)年に左兵衛督に転任するまで左馬頭であった。]
 貞治六年十月七日   義詮〔花押〕            同 一通
 永徳二年五月七日   源義滿〔花押〕           同 一通
     左兵衞佐殿
 至德四年三月十五日  基氏〔花押〕            同 一通
 應永四年七月廿日   左兵衞佐源朝臣〔花押〕       同 一通
 五月七日       左衞門尉義明〔花押〕        同 一通
     上杉安房入道殿
 貞治七年二月廿九日  右馬頭賴之〔花押〕         同 一通
 應永册五年三月十二日 安房守〔花押〕           同 一通
 卯月廿八日      成氏〔花押〕            同 一通
 五月十二日      修理亮忠景〔花押〕         同 一通
 文和三年十二月十二日 尊氏〔花押〕            同 一通
 應永四年十二月廿日  左兵衞督源朝臣〔花押〕       同 一通
 文和三年十月廿六日  左馬頭〔花押〕           同 一通
 至德四年三月十五日  ※1                同 一通
[やぶちゃん注:※1には以下の花押がある。]
            
 應永四年七月廿日   左兵衞督源朝臣〔花押〕       同 一通
 五月三日       義滿〔花押〕            同 一通
 永德二年五月七日   同 ※2              同 一通
[やぶちゃん注:※2には以下の花押がある。]
            
 貞治六年十月七日   同                 同 一通
 五月七日       左衞門佐義持〔花押〕        同 一通
 貞治七年二月廿七日  左馬頭〔花押〕           同 一通
 五月九日       義氏〔花押〕            同 一通
 十二月七日      長尾左衞門尉景仲〔花押〕      同 一通
 享德六年四月十二日  成氏〔花押〕            同 一通
 九月十七日      周糊〔花押〕            同 一通
     板倉大和守殿

如意菴 開基佛眞禪師、諱妙謙號無礙、應安二年七月十三日寂。
[やぶちゃん注: 無礙妙謙むげみょうけん(?~応安二・正平二四(一三六九)年)武蔵生。高峰顕日の法嗣。元に渡って中峰明本に師事、帰国後、寿福寺・円覚寺の住持となる。上杉憲顕に招かれて伊豆韮山の国清寺の開山となった。円覚寺三十六世。]

歸源菴 同佛惠禪師、諱是英號傑翁。永和四年三月十二日寂。
[やぶちゃん注: 傑翁是英けつおうぜえい(?~永和四・天授四(一三七八)年)。円覚寺の東峰通川・大川道通に師事。円覚寺三十八世。]

天池菴 同容山和尚、諱可允、延文五年四月十八日寂。
[やぶちゃん注:本庵は現在は廃絶して現存しない。「新編鎌倉志」も「容山」とするが「鎌倉市史 社寺編」の「円覚寺」の本庵の記載では「容谷」とする。彼については、私はこれ以上の知見を持たない。]

藏六菴 同佛源禪師、諱正念號大休、温州の人、文永六年己巳十月九日來朝、正應二年十一月晦日示寂、壽七十五。
[やぶちゃん注: 大休正念だいきゅうしょうねん(嘉定八(一二一五)年- 正応二(一二九〇)年)は、宋からの渡来僧。温州(浙江省)生。石渓心月の法嗣。文永六(一二六九)年、執権北条時宗の招聘によって来日、建長寺・寿福寺・円覚寺などに住し、浄智寺を開創。無学祖元らと共に鎌倉禅林の確立に尽力、時宗を初めとして弟宗政、時宗の子の貞時ら、多くの鎌倉武士に大きな感化を与えた。円覚寺第二世。]

 右十二院は今現存するものなり。
長壽院  瑞雲菴  寶珠菴  靑松菴  大仙菴
等慈菴  玅光菴  頂門菴  龍門菴  海會菴
東雲菴  慶雲菴  珠泉菴  正源菴  室龜菴
臥龍菴  利濟菴  定正菴  瑞光菴  大義菴
雲光菴
 右二十一院、【五山記】に見ゆれとども、今は廢せり。


[壽福寺]


壽福寺 龜谷山金剛壽福寺と號す。五山の第三なり、開山葉上房僧正榮西、始は禪律なり。敕特諡千光國師と稱す。起立は、幕下將軍賴朝卿御發願にして、尼御臺の御建立なり。治承四年十月六日、當所御打入、翌七日鶴岡八幡宮を遙に拜せられ、次に左典厩〔賴朝〕龜谷御舊跡を監臨し給ふ。最初此地に、右大將家殿營を建らるへき御沙汰有しといへども、地形挾く、且又先達より、岡崎平四郎義實彼御沒後を弔ひ奉らん爲に、一梵宇をたつ。依之、其儀を停止せらるゝとあり。《義朝の舊跡》此所は、左馬頭義朝の舊跡にて、其後は土屋次郎義淸宅地なり。此義淸は眞田余一義忠が弟なり。同五年三月朔日、右大將家の御母儀御忌日なるに依て、土屋次郎義淸が龜谷の堂にて佛事を修せらる。正治二年閏二月十二日、尼御臺所の御願として、伽藍建立せんが爲に、土屋次郎義淸が龜谷の地を點じ出さる。是下野國司〔義朝〕御舊跡なり。某御恩を報せぜんが爲に、岡崎義實兼て草堂をたつ。同十三日、龜谷の地を、葉上坊律師榮西に寄附し給ふ。清淨結界の地たるべきの由、仰下さる。結衆等、其地を行道す。施主監臨し給ふ。義淸假屋を構へ、珍膳を設く。建仁二年二月廿九日、故大僕卿義朝の、沼濱の御舊宅を毀ち。榮西律師の龜谷の寺に寄附し給ふ。當寺建立の最初なり。其沙汰有といへども、僅に彼御記念の爲に、幕下將軍殊に修復せられ、其破壞、しばらく顛倒の儀あるべからざるの由、定め置るゝの處に、僕卿尼御臺所の夢に入て、示されていふ、沼濱の亭に在て、海邊に漁を極む。是を壞て寺中に建立せしめば、六樂を得んと欲すと。御夢覺ての後、善信に記さしめゝ榮西に遣さる。善信云、六樂は六根樂かと云云。元久元年五月十六日、厄御所金剛壽福寺にて御佛事を修せらる。御祖父母の御追善とあり。今寺領八貫五百文といふ。
[やぶちゃん注:「岡崎平四郎義實彼沒後を弔ひ奉らん爲に」の「岡崎平四郎義實」(天永三(一一一二)年~正治二(一二〇〇)年)は三浦氏傍流の岡崎氏の祖で三浦義明の弟。いち早く源頼朝の挙兵に参じた古くからの源氏家人。「彼沒後」の「彼」は頼朝の父義朝のこと。義実は忠義心が厚く、平治の乱で義朝が敗死した後に、ここ義朝館跡であった亀谷の地に菩提を弔う祠を建立していた。
「右大將家の御母儀の御忌日」頼朝の母(?~保元四(一一五九)年)は本名未詳で、一般に由良姫又は由良御前と呼ばれる。熱田大宮司藤原季範娘、源義朝正室。
「土屋次郎義淸」岡崎義実次男。義実は石橋山の戦いで悲劇の美少年として知られる嫡男佐奈田義忠(彼は父の領地相模国大住郡岡崎(現在の平塚市岡崎)の西方、真田(佐奈田)の地(現在の平塚市真田)を領した)を失っている。
「結衆等、其地を行道す」「結衆」は法要などの仏事に集まった供僧衆を言い、「行道」は、列を成して読経しながら本尊や仏堂の周囲を時計回りに巡って供養礼拝することを言う。
「施主」は政子。
「大僕卿」は馬寮めりょうの主官、馬頭の唐名。典厩に同じ。
「沼濱の御舊宅」は鎌倉郡沼浜郷、現在の逗子市沼間にある法勝寺の位置にあった義朝の別邸を指す。
「壞ち」は「こぼち」と読み、この旧宅を分解して寿福寺境内に移築したことを言う。
「六樂」とは六根清浄の安寧を言う。義朝の霊は沼浜の別邸の前で漁師が殺生の限りを尽くしているために往生出来ない、故に移築せよ、と言っているのであろう。]

外門 古へは、天下古刹といふ額有しといへり。今は見えず。

佛殿 本尊は釋迦・文殊・普賢なり。《籠釋迦》釋迦は陳和卿が作にて、土俗籠釋迦といふ。籠にて作り、上を張たるものなり。
 祖師堂に、達磨・臨濟・百丈幷開山の像あり。土間堂には、伽藍神幷前住の牌・將軍家の尊儀を安ず。
[やぶちゃん注:「籠釋迦」は実際には粘土の原型の上に布を貼って作られたものである。
「尊儀」「尊貴の儀容」の意で、 仏・菩薩像や貴人の肖像・位牌などを敬っていう語。位牌とも読めるが、以下の実朝図像をも指しているか(この木像については他の項目に記載がない)。]

[右大臣實朝公木像 壽福寺安ず]

[やぶちゃん注:今回、画像を拡大しての汚損除去中に気付いたのだが、実はこの図像には衣冠束帯がそれぞれのパートで「クロ」(ほう:上着。)・「シロ」(指貫:下穿き。)と色指定されているのであった。私は今日の今日まで、お恥ずかしいことに、何らかの模様としてしか考えていなかった。但し、「鎌倉史跡導標」の本木像(大分、形が異なるがこれであろう)の写真を見ると、木肌が丸出しである。もしかすると、この木像は江戸末期までは、胡粉等で着色が成されていたのではなかろうか?]

本尊 籠釋迦・腹こもりの白衣觀音の畫像數百枚。出現の由來は、日々一枚づゝ書て、何日と日附あり。傳へいふ、實朝公の筆なりともいひ、尼御臺の筆ともいふ。今は散逸して、出現のものは少くなれる由。
[やぶちゃん注:ここに書かれた「腹こもりの白衣觀音の畫像」というのは、文字通り、本尊の釈迦胎内から発見されたもので、本「鎌倉攬勝考」で初めて明らかにされた貴重な記載である。以下の図像もさることながら、現在の関連諸書にもあまり記載されておらず、この植田のオリジナル記載はもっと再評価されてよいものと思う。――植田先生、ちょっと見直しました!]

[本尊籠釋迦の腹こもり白衣觀音の画像]

[やぶちゃん注:右下に
此所に日附
一枚毎に記
と記す。]

寺寶
[やぶちゃん注:以下の寺宝(「開山塔」の前まで)は全体が一字下げ。]
佛舍利 三粒 寶塔に納む。寺傳に松風の玉と異名す。是は元積翠菴にあり。實朝公所持の物也といふ。【東鑑】建曆二年六月廿日、實朝公壽福寺に渡御、方丈手ずから佛舍利三粒を將軍に奉ると有。其舍利をまた薨逝の後に、當寺へ納め給ふもの歟。
[やぶちゃん注:「積翠菴」は寿福寺の塔頭。創建当時は塔頭は十四を数えた。江戸時代、寛政二(一七九〇)年に幕命により本山である建長寺に提出された「寿福寺境内絵図」が現在残されているが、そこには広大な境内建築の他、この積翠庵の他に後に示される桂蔭庵と正隆庵・悟本庵の四塔頭が図示されている。但し、これらも明治初期にはすべて廃絶している。最後に掲げられる塔頭を参照。]

十六羅漢畫像 十六幅 桂蔭菴に有。【東鑑】、正治二年七月六日尼御臺所、京都にて十六羅漢像を圖せらる。佐々木四郎左衞門定綱是を調進す。今日到來、御拜見の後、葉上房の寺に送らる。同十五日開眼供養、導師は榮西律師と有。古への像は寺燒亡の時に災に及べり。今存するものは新物なり。
[やぶちゃん注:「桂蔭菴」寿福寺塔頭。廃絶。
「葉上房の寺」で栄西住持の寿福寺を指す。]

涅槃像 一幅 新筆なり。

千光國師畫像 一幅 新物。贊は黄檗隠元筆なり。
[やぶちゃん注:「千光國師」栄西の諡。]

開山塔 逍遙菴と號す。今は菴なく、塔は積翠菴に屬す。額あり、法雨塔とあり。開山木像を安ず。【東鑑】、建保三年六月五日、壽福寺の長老葉上僧正榮西入滅。痢病に依てなり。結縁と稱し、鎌倉中の諸人群集す。遠江守親廣、將軍家の御使として、終焉砌にノゾむとあり。然るに、【釋書】には、京師に歸り、建仁寺にして、七月五日寂、年七十五とあり。【東鑑】には大にコトなり。されども、七月五日を示寂の日とすることは、京・鎌倉ともに【釋書】によれるにや。
又如實妙觀と書たる牌有。二位禪尼平の政子の牌なり。嘉祿元年七月十一日薨、御年六十九云云。御堂御所の地にて、同十二日戌刻、荼毘し奉る。當寺の開基たるゆへ、位牌を安ず。 [やぶちゃん注:この叙述と考察は殆んどが「新編鎌倉志卷之四」「壽福寺」の「開山塔」の引き写しである。
「莅む」は「臨む」と同義。]
鐘 古へいぼなしの名鐘ありしを、小田原陣の時奪ひ去て、鐵砲の玉に鑄たりといふ。今の鐘は慶安四年の新鑄ゆへ、銘文を略す。
[やぶちゃん注:銘文は「新編鎌倉志卷之四」を参照。]

洞窟 二所。開山塔の後の方なる山麓の南寄にあり。《畫窟》一ケ所は土人例の方言に、畫窟エガキヤグラといふ。窟内を丈四方許に穿て、唐草摸樣を彩色にしたり。石塔有て、其奧に石函あり。これを右府實朝將軍の御廟なりといひ、相並て一ケ所は.二位禪尼の御廟なりといふ。又【東鑑】に、二君ともに勝長壽院に葬り奉れる事あり。されば當寺も、兩君御歸依なるゆへ、御分骨を葬りしことにやあらん。
[やぶちゃん注:「石函」の「函」は植字ミスで判読が不能。推定。なお、これは分骨ではなく、いずれも南北朝期の寿福寺復興期に造立された供養塔であって、納骨はされていないと考えられる。]

[右大臣實朝公庿塔]


[やぶちゃん注:右に、「右府實朝㰏庿塔」(庿」は「廟」の異体字)、左に、

繪かきやぐら又ハから草屋ぐらと唱ふ窟中石凾の上の方に
角なる横に長き孔あり此内へ何を納置たるものにや石を
もて塡たるゆへ内の子細わ住僧もむかしより是を知
れる者なき由又此窟に相並びて南旁にも岩屋あり
是を二位禪尼政子御庿なりといふ窟中に何もなくまた
此窟より狹く造りしさまも疎なり 二位尼の庿といふをば
用ひがたし 仍て考ふる事もあれば古墳の條に其事
をしるせり
とある(判読の誤りがあれば御教授をお願いしたい。そのために解説部の汚損は一切除去していない。)。]

歸雲洞 寺の西南の山にあり。

石切山 歸雲洞の南にて、山中は石切場なり。石切谷の山なり。
望夫石 右切山の上にあり。土人の説用ひかたし。西國松浦潟に其名高き望夫石あり。其餘海岸の地には、所々に其名あり。海邊にて立石あれば、其名を唱ふ。
[やぶちゃん注: 寿福寺の西南の奥の山は現在は観音山と呼称している。伝承ではここに観音が祀られていたとも言われるのだが、私はこれは、この望夫石を観音に見立てたものではあるまいかと考えている。かつてはこの山頂に直径五メートル程の岩が由比ガ浜方向に突き出ていたが地震で崩れたと伝えられる。現在は現認不能である。]

觀音堂舊跡 石切山の東の方半腹にあり。今は堂廢亡す。是は【釋書】に云、宋の佛源禪師、禪興寺に住せし時、夢中に觀音大士の告を得て、其後建長寺より龜谷山に移り、西南の一峰巖を鑿て、補陀の像を手刻し、觀音堂を剏建せしといふ。
[やぶちゃん注:「佛源禪師」大休正念。
「禪興寺」山ノ内の名月谷にあった。廃寺。現在の明月院はこの寺の塔頭であった。大休正念が来朝したのは文永六(一二六九)年で、「元亨釈書」には、彼は最初に建長寺に入って(当時は蘭渓道隆が住持)、後にここに移ったとする(本叙述の「其後建長寺」とあるのは道隆の死後に第二世として兀庵普寧が継いだその後の第三世のことを言っている)ので、本夢告の時期がだいたい推定出来る。]
「大士」は菩薩と同義。
「補陀」は「ふだ」と読み、補陀大士(補陀落山に住む菩薩)で、観世音菩薩の異称。]

桂陰菴 開基覺知禪師、諱希一號月山。
[やぶちゃん注:月山希一(?~(貞治五(一三六六)年)は、浄明寺にあった足利直義創建の大休寺(廃寺)の開山として名が見える。]

正隆菴 同 靈光禪師、諱慧堪號大用。
[やぶちゃん注: 大用慧堪だいゆうえかん(文永五(一二六八)年~貞和三・正平二(一三四七)年)は京都生。無学祖元の法嗣。本庵は彼の隠居所として創建された。]

悟本菴 同 佛智圓應禪師、諱巧安號險崖。
[やぶちゃん注:講談社「日本人名大辞典」には「嶮崖巧安けんがいこうあん」(建長四(一二五二)年~元徳三(一三三一)年)の表記で載る。肥前生。当初、天台を学び、後、建長寺で大休正念に師事、その法を嗣ぐ。肥前の大光寺を開山、円覚寺・建長寺・寿福寺などの住持を勤めた。]

積翠菴 同 通照禪師、諱惠雲號寒潭。
[やぶちゃん注:この僧は国師号・諡・号何れを用いても、ネット上でも調べ得なかった。]

 此四菴は今存在す。次に十一院は今廢亡す。

  松鵠菴  桂光菴  大澤菴  定光菴  聯燈菴
  松月菴  雲龍菴  大秀菴  桂昌菴  瑞龍菴
  龍興山乾德寺

淨智寺 明月院の向ふなり。金峰山と號す。五山の第四なり。開基は平師時〔時賴の孫〕のなり。法名を淨智寺道覺といふ。寺に牌有。開山は俳佛源禪師。諱正念大休と號す。當寺、もとは宋兀菴禪師の開基なれども、後又宋に歸る時、法嗣の眞應禪壯年なるゆへ、佛源に言を遺す。因て眞應と佛源を兩開山ともいふ。今寺領六貫百文餘なり。【大草紙】に、京の村雲ノ大体寺の開山妙テツは、宋朝の人にて、文永六年來朝す。夢窻の法嗣なり。足利直義歸依し、大体寺を開基して妙喆を開祖とし、直義入道して法名を大体寺と號せり。然るに高師直と不快ゆへに、妙喆は直義歸依僧なれば、此僧をも憎みけるに依て、妙喆關東へ來り、浄智寺に住し、大同妙喆和尚と號し、悟道發明の人にて終りし事は、寺の舊記殘れりと云云。然れども、【太平記】の作者曾てしらさざることを、如何なる無智愚盲のわざにや、妙喆を妙音に書、或は愛宕の天狗の記したるなどゝ、記し置けるやと、【太平記批判】にも見えたり。扨又、應永廿三年十月犬懸の上杉禪秀謀叛を企、持氏御所と管領憲基を討んとて、大軍を催し、不意に合戰に及び、御所方敗走し、持氏朝臣駿州瀨名へ渡れ給ひ、翌應永廿四年正月、今川の大軍鎌倉へ責入ければ、上砂禪秀が一族幷滿隆・持仲を初、同十日、雪の下の寶性院快尊法印が坊にて、悉く自殺せり。此快尊法印も禪秀が子なり。凶徒皆亡びけれが、持氏朝臣駿州より鎌倉へ歸座の所に、是迄の御所、凶徒等が爲に災に罹りけるゆへ、正月十七日、淨智寺に入給ひ、同三月廿四日迄當寺に御逗留、御所の再營いまだ造畢にいたらざれば、爰より梶原美作守が宅へ御移り、四月廿八日、大倉の御所へ還御と云云。又云、持氏朝臣は、永享十一年二月自殺せられし時、若君三人おはせしが、二人が結城にて、終に生捕られ命を失ひ給ふ。然るに三男永壽王丸、希有にして死を遮れ生長せられけるゆへ、上杉の人々、京都將軍家へ、永壽王を以て關原の主とせん事を願ひければ、持氏朝臣の跡を賜ひ、關東の主に任じ、寶德元年九月九日、京都より上州白井へ下向、夫より今日鎌倉へ入給ふ。然るに御所も十年餘も断絶ゆへ、浄智寺へ入給ひ、假の御所と定め、大倉御所造營始り、漸く同年十一月、大倉の御所出來、同晦日に御移徒也。夫迄當寺を假御所とせらる。
[やぶちゃん注:「平師時」は北条師時(建治(一二七五)年~応長元(一三一一)年)。第十代執権。浄智寺は第五代執権時頼三男北条宗政の菩提を弔うために弘安六(一二八三)年に創建、開基は北条師時とされるが、当時の師時は未だ八歳であり、実際には宗政夫人と兄北条時宗の創建になる。以下の開山の経緯についても本文にある通り特異で、当初は日本人僧南洲宏海(?~嘉元元(一三〇三)年)が招聘されるも任が重いとして、自らは准開山となり、自身の師であった宋からの渡来僧大休正念(文永六(一二六九)年来日)を迎えて入仏供養を実施、更に正念に先行した名僧で宏海の尊敬する師兀菴普寧を開山としたことから、兀菴・大休・南洲の三名が開山に名を連ねることとなった。「眞應禪師」は南洲宏海の諡号である。但し、やはり宋からの渡来僧であったこの兀菴普寧は、パトロンであった時頼の死後に支持者を失って文永二(一二六五)年には帰国しており、更に実は浄智寺開山の七年前の一二七六年に没している。
「京の村雲ノ大休寺の開基妙喆」の「大休寺」については、本文にも示されている「太平記」巻二十六の「妙吉侍者事付秦始皇帝事」の中に夢窓國師の弟子である「妙吉侍者と云ける僧」を以て、足利直義が「一条堀川村雲の反橋もどりばしと云所に、寺を立て宗風を開基」し、「馬門前に立列僧俗堂上に群集す。其一日の布施物一座の引手物なんど集めば、如山可積」という繁盛振りを見せたとあり、これがここに示された大休寺(若しくはその前身)であったと考えられる。「妙喆」(?~正平二一・貞治五(一三六六)年:但し、没年については正平四・貞和五(一三四九)年説もあり)は臨済僧。陸奥国福島の出身で下野国雲巌寺の高峰顕日(仏国国師)から嗣法、京都北禅寺(後の安国寺)を開山、京都真如寺や浄智寺の住持を務め、浄智寺では作庭も行っている。ただ、「太平記」での「妙吉」は、荼枳尼の修法を操って、直義の盲目的帰依を勝ち取り、妙吉に批判的であった室町幕府内の直義の対立勢力高師泰・師直兄弟を秦の滅亡をベースにした作話で批判した話で煽り、後の観応の擾乱を醸成せんとする佞僧として描かれている。「愛宕の天狗の記したるなどゝ、記し置けるや」は植田の「新編鎌倉志卷之三」からの引き写しの際の誤りであろう。「新編鎌倉志卷之三」では『愛宕の天狗の化したると記し置たり』とあるからである。これは妙吉の、悪意に満ちたこの煽りのエピソードの末尾に「太平記」作者が記したコメント「仁和寺の六本杉の梢にて、所々の天狗共が又天下を乱らんと様々に計りし事の端よと覚へたる」を言っているものと思われる。これは「太平記」巻二十五に記された幕政を操ろうとする僧階級の奸計への批判を、この権力欲と奸智に満ちた妙吉に敷衍した表現と思われる。HP「南北朝列伝」の「妙吉」の解説によれば「太平記」では、この妙吉自身が南朝方の怨霊によって乱を起こすために操られているという設定であると記す。更に、本記載にもある「鎌倉草紙」について、この妙吉が同時代にいた高僧大同妙喆と同一人物とする話が「鎌倉大草紙」に載っており、『妙喆は江戸初期に編纂された名僧列伝「本朝高僧伝」にも伝記が載る人物で、陸奥国の生まれで高峰顕日の弟子ということでは確かに夢窓疎石と兄弟弟子の関係にある。京の北禅寺・真如寺、鎌倉の浄智寺などに移り住んだ人物だが、「大草紙」は『直義の師で、師直に憎まれて鎌倉に下り浄智寺に入った』との記述をした上で『よく物を知らない太平記の作者はこれを「妙吉」と誤記した上に愛宕の天狗の化身のように書いている』と批判している。この記事をもってこの二人が同一人物とする説もあるのだが、「大草紙」自体が「太平記」より百年も後に書かれていること、「園太暦」が「妙吉」と明記していること、「高僧」イメージとのギャップから否定的にみる意見の方が強い』(記号の一部を変更した)とある。「園太暦」は「えんたいりゃく」と読み、南北朝期の公家洞院公賢とういんきんかたの日記。そもそもが「太平記」は歴史物語であって虚構性が結構強く、この見解が正しい気が私はする。
「法眷」は「はふけん」又は「ほつけん(ほっけん)」と読み、同じ師について学ぶ法燈の仲間を言う。]
外門 昔佛光國師の筆にて、實所在近と書たる額有し由。

山門 晋は解脱門といふ額を掲たるよし。今はなし。

佛殿 本尊釋迦・弥勒・彌陀を安ず。作不知、方丈・庫裏。
[やぶちゃん注: 三世仏さんぜぶつ。正面向かって左から阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来(これは現在の菩薩像ではなく釈迦入滅後五六億七千万年後に兜率天かん如来となって顕現した際の如来像)で、それぞれ阿彌陀が過去を、釈迦が現在を、弥勒が未来を象徴する。室町中期の作で、裳裾の表現などに、同時代の覚園寺薬師如来三尊像などとの共通性が認められる。]

寺寶

 韋駄天 一軀 宅間法限作 地藏 一軀 運慶作
 平貞時文書 二通
鐘樓 門を入て左の方にあり。慶安二年の銘有。
[やぶちゃん注:「慶安二年」西暦一六四九年。]

開山塔 藏組菴といふ。佛源の塔ならず、眞應禪師の塔也。眞應諱宏海、号南洲嗣法兀菴。
[やぶちゃん注:「眞應禪師」前の「平師時」の注を参照のこと。]

甘露井 開山塔の後にある淸泉をいふ。門外左の道端に淸水湧出す。是をも甘露井といふともいへり。十井の内なり。
[やぶちゃん注:以下は、「鎌倉攬勝考卷之一」の「五水」で既に私が考察した内容であるが、この「甘露井」がネックになっているので、再掲する。「鎌倉攬勝考卷之一」では「五水」(五名水)として「金龍水」(建長寺西総門前)・「不老水」(建長寺の後山。別名、仙人水)・「銭洗水」(佐介谷の西方。現在の銭洗弁財天)・「日蓮乞水」(名越切通手前)・「梶原太刀洗水」(朝夷奈切通鎌倉側手前)とするが、現在、例えば「かまくら子ども風土記」等では、「不老水」の代わりに「甘露水」を挙げている。この「甘露水」とは、浄智寺総門手前の池の石橋左手奥の池辺にあったという泉を指すという(現在、湧水は停止)。しかし、ここは訪れると「鎌倉十井の一 甘露の井」のやや古い石柱標を伴っており、実際に、やはり「新編鎌倉志」で初めて示される名数「鎌倉十井」の一つに数えられていることが分かる。これに本記載を勘案すると、これは、現在知られる「甘露の井」は、浄智寺内に二箇所あったこと(現在の浄智寺の方丈後ろなどには複数の井戸があるから二箇所以上あった可能性もある。なお、これらの中には現在も飲用可能な井戸がある)、江戸時代の段階でそのいずれが原「甘露水」「甘露の井」であったか同定できなくなっていたことが分かる。私は五名水のプロトタイプは、やはり「不老水」の方であると思う。では何故これが外れたか。それは正に現在ここに立ち入れないことと関係すると思うのである。「五名水」の中で、ここのみが往時も現在も一般の街道に面していない。「不老水」は建長寺寺内の最深部にある。そもそも鎌倉に五名水だの十井だのが選ばれるのは、逆に鎌倉の水質が全般に悪かったことを示している。さすれば上質の水は、何より庶民の人口に膾炙し、且つ同時にそこが気軽に利用出来てこその「五名水」であり「十井」でなくてはならなかったはずである。しかも「金龍水」の源泉は「不老水」を含むものであり、庶民の水需要は街道沿いの「金龍水」で賄え、「不老水」まで行く必要もないからでもある。では何故「甘露の井」が新しい「五名水」の一つに選ばれたのか? これはまさに「甘露の井」が、上記の通り、実は複数存在したから、使い勝手がよかったからではなかったか? 更に言えば、「十井」の名前にも理由があると私は思うのだ。以下、現在の名称を列挙してみると、
甘露の井・瓶の井・底脱そこぬけの井・扇の井・泉の井・鉄の井・棟立の井・星月夜の井・銚子の井・六角の井
である。さてこの内、仮に「~水」(「みず」でもよいがやはり「~すい」が一番である)としてしっくりして、尚且つ響きのグレードがいや高いのは、もう「甘露水」しかない(「泉水」では漢字で見ると一般名詞のようでぴんと来ず、「星月夜の水」は響きはいいものの、井戸の底の星でこそ分かる名称で、これでは意味が分からぬ)。しかないどころか、これは観音菩薩が持つ浄瓶に入った水であり、それは甘露の法雨を齎すものであってみれば、この「甘露」は、実は「井戸」より「名水」にこそ相応しい名称なのだと私は思うのである。以上の推論は私の勝手気儘な解釈であることは断っておく。]

盤陀石 開山塔の後に有。其謂れしれず。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」の挿入画を見る限り、円柱状の巨石であるから、これは恐らく現在の山西省東北部五台県にある古来からの霊山五台山(普陀山)にある奇霊石である盤陀石に倣ったものであろう。ただ、この石、現在の浄智寺では少なくとも私は見たことがない。]
正紹菴 開基傭佛宗禪師、諱崇喜嗣法佛光、上野国人なり。此一菴のみ存在す。其餘は廢亡せり。依て其名のみ出す。
[やぶちゃん注:見山崇喜(?~元亨三(一三二三)年)。渡宋から帰国後は浄智寺を経て南禅寺住持。後に常陸の三会寺や信濃の興禅寺を開いた。]

  正源菴  龍華山眞澄精舍   正覺菴  楞伽院
  大圓菴  同證菴  正印菴  興福院  福生菴
[やぶちゃん注:「龍華山眞澄精舍」は「龍華山眞際精舍」の誤り。
「楞伽」は「りようが(りょうが)」と読み、大乗仏典の一つである楞伽経に由来する。経の中に禅について説かれているため、中国初期の禅宗では特に重じられた。]

浄妙寺 公方屋敷の西に隣れり。稻荷山と號す。五山の第五なり。開山は荘嚴坊行勇法印、もとは鶴岡供僧なり。後に壽福寺の二世となる。古への開基は、寺にても其傳へを失へり。又開山塔を光明院といひ、位牌有て光明院殿本覺大姉と記し、裏に法樂寺殿の嫡女とあり。法樂寺は足利義氏の法號、光明院は其女也と云云。系圖にも見へたる由。又此寺を、昔は極樂寺といひしと、【釋書】等にも載たれど、按ずるに、極樂寺は法樂寺を誤りしにはあらずや。光明院の追福の爲に建立せしにも、其施主の名を失ひしは、古へとは宗派の轉ぜしゆへにや。思ふに、武藏前司義氏の息男宮内少輔泰氏の開基にて、父の法號法樂寺を寺號とし、姊女の法名光明院を、開山塔に授けし事にやあらん。されども其慥なることはしれず。其後讃岐守貞氏再建し給ふより、以來法樂寺を改て淨妙寺と號するなるべし。貞氏の法名を淨妙寺殿貞山道觀と稱し、元弘元年九月五日歿と當寺にて傳ふ。【梅松論】には、尊氏重て討手に御上洛、御入洛は同四月下旬なり。元弘元年にも笠置城退治の一方の大將として、御發向有しなり。今度は當將軍の御父、淨妙寺殿御逝去一兩月の中也。未御佛事の御沙汰にも及ばず、御悲涙にたえ兼させ給ふ折ふしと云云。依て考ふれば元弘三年の春逝去のことのやうに見えたり。されば寺傳を證とすべきにや。寺領四貫三百文を附せらる。
[やぶちゃん注:「位牌有て光明院殿本覺大姉と記し、裏に法樂寺殿の嫡女とあり」とあるが、この位牌は現存しない。
「足利義氏」(文治五(一一八九)年~建長六(一二五五)年)は足利家第三代当主。足利義兼三男。母は北条時政娘。建保元(一二一三)年の和田合戦では和田方勇将朝比奈義秀と戦って名を挙げ、検非違使から陸奥守・左馬頭になるなど、高位の官職を歴任、源家将軍が滅んだ後の源氏長者の地位を確保、後の足利家繁栄の基礎を築いた人物である。北条泰時の娘婿となり、承久の乱・宝治合戦にあっても一貫して北条方に組し、暦仁元(一二三八)年には北条政子のために高野山金剛三昧院に大仏殿を建立している。同姓同名の後の古河公方足利義氏は彼の子孫に当たる。
「宮内少輔泰氏」足利泰氏(建保四(一二一六)年~文永七(一二七〇)年)は足利家第七代当主。足利義氏嫡男。本文では彼を開基とするが、浄妙寺の前身、法楽寺は現在では、義氏の父足利家第二代当主足利義兼(久寿元(一一五四)年?~正治元(一一九九)年)の創建と考えられている。
「讃岐守貞氏」足利貞氏(文永一〇(一二七三)年~元弘元・元徳三(一三三一)年)は足利家第七代当主。第六代当主足利家時嫡男。貞氏の死去に伴い、側室の子である次男尊氏が家督を継いだ。尊氏が幕府に反旗を翻す二年前のことであった。但し、本文の「貞氏再建し給ふより、以來法樂寺を改て淨妙寺と號するなるべし」という考察は、「鎌倉市史 社寺編」で、浄妙寺への改名は『正嘉元年(一二五七)から正応元年(一二八八)の間』であり、確かに彼貞氏の道号は浄妙寺殿であるものの、彼はその改名下限の『正応元年には一六にすぎないので』改名自体は『貞氏によってなされたものではない』と否定されていいる。
「淨妙寺殿御逝去一兩月」は「梅松論」にそのように(伝本によっては「一兩日」とも)あるが、誤り(作為的な操作とする説もある)。従って植田の「元弘三年の春逝去のことのやうに見えたり」も無効となる。貞氏の逝去は元弘元・元徳三(一三三一)年九月五日である。]

佛殿 本尊阿彌陀〔作不知〕。

開山塔 光明院と號す。開山の木像、足利貞氏の木像あり。又直義の木像あり。是は大休寺廢せしゆへ、此所へ移せしもの歟。光明院殿の位牌のこと、前文に記せし如し。足利義氏の女にて、權大納言隆親卿の室、隆顯の母なりと。此事系圖にもありといふ。又【鎌倉志】に云、日光山中興昌宣といふは、義氏の子なりといひ、光明院は昌宣の妹なる由、【鎌倉志】に見えたれど、是は大に違有。昌宣は日光山四十三世の僧侶にて、遙に末なり。殊に昌宣寄附の、瀧尾社頭へ納し鐡の寶塔に、光明院法印昌宣、文明二年の銘有。義氏は建保の比の人にて、【東鑑】和田合戰に其名見えたり。建保より文明までは年時二百三十年餘を隔つ。光明院を號する謂れしれず。日光山に、元和・寛永の頃迄座禪院・光明院と記せしものあり。今も御本坊の稻荷を、光明院稻荷と土人稱すれば、もと光明院の鎭守にて有し事なり。
[やぶちゃん注:植田先生、珍しく「鎌倉志」を論難。いいですね!]

[足利貞氏木像  淨妙寺安ず]




鐘樓 門を入て右の方にあり。古鐘は天正庚寅小田原合戰の時に失たり。其後承應二年の新鑄なり。
[やぶちゃん注:「天正庚寅」は天正十八(一五九〇)年。
「承應二年」西暦一六五三年。]

稻荷社 寺より西の丘地にあり。鎭神なり。此社壇に、盜賊隱れ居たるを捕らへたる時、大倉の稻荷の邊さはがしき事を【東鑑】に、弘長元年五月朔日の條に見えたり。堯惠法師【北國紀行】に、此稻荷の靈驗のことをしるし、此社は鎌足公の鎌を納られし、鎌倉山は是なりと記せしは、當社の事也。此記は、土人の傳へをしるせるものなり。其據をしらず。されども、淨妙寺の山號も、此稻荷を稱すれば、古き叢祠なること論なし。
[やぶちゃん注:浄妙寺奥にある藤原鎌足を祀った鎌足稲荷。
「東鑑」の「弘長元年」西暦一二六一年の「五月朔日の條」は以下。
〇原文
一日壬戌。夜半。大倉稻荷邊聊物忩。彼社壇。此間連々有會合之輩。今夜夜行衆恠之。欲搦取之故也。悉迯散云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
一日壬戌。夜半。大倉稻荷の邊聊か物忩ぶつそう。彼の社壇に此の間、連々つれづれ會合の輩有り。今夜、夜行の衆、之をあやしみ、搦め取らんと欲が故なり、悉くげ散ずと云々。
「物忩」は「物騒」の意と同じ、但し、「物騒」の場合は、歴史的仮名遣は「ぶつさう」となる。
「【北國紀行】に、此稻荷の靈驗のことをしるし、此社は鎌足公の鎌を納られし、鎌倉山は是なりと記せし」とは以下の部分(底本は岩波新古典文学大系 中世日記紀行集」を元としたが、正字に直し、ルビの多くを排除した)。
翌日淨妙寺に入て見るに、臺荒れて春の草にかたぶき、檜皮ひはだ朽て苔の緑に等し。今は少室一華ひらき、五葉の遺薫も消えぬるかと覺ゆるに、宿智しゆくちの眉白き出て語る。此山に杉の木高き社は稻荷明神なり。白狐現るゝ時は寺家に佳瑞あり。門外の叢祠は鎌を手向たむけ侍り。往古の緣起失せて何の御神とも知らずと言へり。さてはこの御社は大職冠たいしよくくわんの御鎭座也。山なる鎭守はかの靈劍の鎌を納められし鎌倉山これなりと覺えて、
  柄取つかとりし神もます也杉の葉のき鎌埋む山の麓に
●「少室一華ひらき」小さな寺が一つ残るだけで。
●「五葉」禅宗五派を指すか。
●「宿智しゆくち」修業を積んだ善知識。老僧。
●「叢祠」本文にも現われる熟語であるが、草木に覆われた小祠。
●「柄取つかとりし神もます也杉の葉のき鎌埋む山の麓に」これは筆者尭恵の武家の都鎌倉への懐古と、鎌倉の名称起源の一つでもある、鎌足が霊鎌をここに埋めたとする伝承を絡めた一首である。以下、私なりの通釈を試みておく。
――刀剣の柄を勇ましく握って大化の改新を成し遂げられた大職冠鎌足公――その公が今も、こうして曾ての武士の都鎌倉に、神として祀られてあられる――その鎌のように鋭い葉を持ったこの鬱蒼とした杉木立の中――公が鎌を埋めたという「鎌倉」の山の麓に。……]

直心菴 總門の内右の方にあり。塔頭の今存するは、此菴ばかりなり。此外は寺に其名を傳ふるのみ。
[やぶちゃん注:現存しない。]

  靈芝菴  瑞龍菴  芳雲菴  禪昌菴  東漸菴
  佛智菴  萬春菴  知足菴
   此八菴は當時斷絶なり。



鎌倉攬勝考卷之四