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人柱の話     南方熊楠
徳川家と外国医者 南方熊楠


[やぶちゃん注:底本は1984年刊の「南方熊楠選集 第四巻 続南方随筆ほか」を用いた。本篇の末尾には、大正十四年九月発行の雑誌『変態心理』に掲載されたものとの記載があるが、底本の本篇末注記によると、実際には、大元のプロトタイプが、大正十四年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文【平凡社版全集未収録、私が電子テクスト化したものへのリンク】で、これをもとに書き改められたものが、表記の大正十四年九月『変態心理』に発表された。その後、『南方閑話』に収められた後、更に増補が加えられて『続南方随筆』に発表したものが、現在の稿である。本文では( )注記内の文字がポイント落ちになっているが、そのままとした。幾つかの本文注及び後注を附したが、その中で、南方熊楠「徳川家と外国医者」(本篇同様『続南方随筆』所載)のテクストも全文引用した。【2022年9月20日追記】ブログ・カテゴリ「南方熊楠」で「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附の「人柱の話」を全六回で完遂、また、同前で同年9月7日に「德川家と外國醫者」も電子化注した。向後、私の完全版はそちらとする。]

 

人柱の話

 

 建築、土工等を固めるため人柱を立てることは、今もある蕃族に行なわれ、その伝説や古蹟は文明諸国に少なからぬ。例せば、インドの土蕃が現時もこれを行なう由時々新聞にみえ、ボムパスの『サンタル・パーガナス口碑集』に、王が婿の強きを忌んで、畜類を供えても水が湧かぬ涸池(かれいけ)の中に乗馬のまま婿を立たせると、さすがは勇士で、水が湧いても退かず、馬の膝まできた、わが膝まできた、背まできたと唄いながら、いよいよ水に没した、その跡を追って、妻もまたその池に沈んだ話がある。『源平盛衰記』にもまた、清盛が経の島を築く時、白馬白鞍に童を一人のせて人柱に入れたとあれば、乗馬のままの人柱もあったらしい[やぶちゃん後注1]。ただし『平家物語』には、人柱を立てようと議したが、罪業を畏れ、一切経を石の面に書いて築いたから経の島と名づけた、とある[やぶちゃん後注2]。

 今少しインドの例を挙げると、マドラスの一砦は、建築の時、娘一人を壁に築き込んだ。チュナールの一橋は何度かけても落ちたから、梵種の娘をその地神に牲(にえ)にし、それがマリーすなわちそこの霊となり、凶事あるごとに祭られる。カーチアワールでは、城を築いたり、塔が傾いたり、池を掘るも水が溜(たま)らぬ時、人を牲にした。シカンダールプール砦を立てた時、梵種一人とズサード族の娘一人を牲にした。ボムベイのワダラ池に水が溜らなんだ時、村長の娘を牲にして水が溜った。ショルマット砦建立の際、一方の壁が繰り返し落ちたので、ある初生の児を生埋めするともはや落ちなんだという。近ごろも人口調査を行なうごとに、僻地の民はこれは橋等の人柱に立てる人を撰ぶためだと騒ぎ立つ。河畔の村人は橋が架けらるるごとに、嬰児を人柱に取られると驚惶する(一入九六年板、クルック『北印度(インド)俗宗および俚俗』二巻一七四頁。一九一六年板、ホワイトヘッド『南印度村神誌』六〇頁)。

 パンジャブのシアルコット砦を築くに、東南の稜堡が幾度も崩れたので、占者の言により寡婦の独り子の男児を牲にした。ビルマには、マンダレイの諸門の上に人牲を埋めて守護とし、タツン砦下に一勇士の屍を分かち埋めて、その砦を難攻不落にし、はなはだしきは土堤を固めんため皇后を池に沈めた。一七八〇年ごろタヴォイ市が創立された時、諸門を建つるに一柱ごとの穴に罪囚一人を入れ、上より柱を突き込んだゆえ四方へ鮮血が飛び散った。その霊が不断その柱の辺にさまよい、近づく者を害するより全市を無事にす、と信ぜられたのだ(タイラー『原始人文篇』二板、一巻一〇七頁。パルフォール『印度百科全書』三板、四七八頁)。

 支那には、春秋時代、呉王闔閭(こうりょ)の女(むすめ)滕玉(とうぎょく)がすてきな疳癪(かんしゃく)持ちで、王が食い残した魚をくれたと怒って自殺した。王これを病み、大きな冢(つか)を作って、金鼎、玉杯、銀樽等の宝とともに葬り、また呉の市中に白鶴を舞わし、万民が観                      

に来たところ、その男女をして鶴とともに冢の門に入らしめ、機を発して掩殺(えんさつ)した(『呉越春秋』二。『越絶書』二)。生を殺して、もって死に送る、国人これを非とするとあるから無理に殉殺したのだが、多少は冢を堅固にする意もあったろう。

『史記』の滑稽列伝に見えた、魏の文侯の時、鄴(ぎょう)の巫が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め洪水の予防としたは事すこぶる人柱に近い。ずっと後に、唐の郭子儀が河中を鎮した時、水患を止めてくれたら自分の娘を妻に奉ると河伯に禱ると水が退いた。さてほどなくその娘が疾(やまい)なしに死んだ。その骨で人形を作り廟に祀った。所の老子儀を徳とし、これを祠り河瀆親家翁すなわち河神の舅さまと名づけた。現に水に沈めずとも、水神に祀られた女は久しからぬうちに死すると信じたのだ。また漢の武帝は、黄河の水が瓠子(こし)の堤防を切った時、卒数万人を発してこれを塞がしめたのみか、みずから臨んで白馬玉璧(ぎょくへき)を堤の切れた処に置かしめたが、奏功せず。漢の王尊、東郡太守たりし時もこの堤が切れた。尊みずから吏民を率い、白馬を沈め珪璧を執り巫をして祝し請わしめ、自身をその堤に埋めんとした。至って貴い白馬や玉璧を人柱代りに入れてもきかぬゆえ、太守みずから人柱に立たんとした。元代に、浙江蕭山の楊伯遠の妻王氏は、その夫が里正たるところの堤が切れて、何度築いても成らず、官から責めらるるを歎き、みずから股肉を割いて水に投げ入れるとたちまち堤が成ったから股堰と名づけたとは、河伯もよくよく女の股に思し召しがあったのだ(『琅邪代酔編』三三。『史記』河渠書。『淵鑑類函』三六、三四〇、四三三。『大清一統志』一八〇)。

 本邦にも、経の島人柱の外に、陸中の松崎村で白馬に乗った男を人柱にし、その妻ともに水死した話がある(『人類学雑誌』三三巻一号、伊能嘉矩君[やぶちゃん後注3]の説)。江州浅井郡の馬川は、洪水の時白馬現じて往来人を悩ます。これは本文に述べた白馬に人を乗せ、もしくは白馬を人の代りに沈めた故事が忘れられて、馬の幽霊という迷信ばかり残ったと見える。それから、大夏の赫連勃々(かくれんぼつぼつ)が叱干阿利(しっかんあり)をして城を築かしめると、この者工事は上手だが至って残忍で、土を蒸して城を築き、錐でもみためしてちょっと入れば、すぐそこの担当者を殺し、その屍を築き込んだ。かくて築き立てた寧夏城は鉄石ほど堅く、明の※[やぶちゃん字注:※=「口」+「孛」。]拝の乱に官軍が三月あまり囲んで水攻めまでしたが、内変なき間は抜けなんだ。アイユランドのバリポールトリー城をデーン人が建てた時、四方から工夫を集め、日夜休みなし物食わずに苦役せしめ、仆(たお)るれば壁上にその体をなげかけ、その上に壁を築かしめた。のち土民がデーン人を追い払うた時、この城が最後に落ち父子三人のみ生きて囚われた。一同ただちに殺そうと言ったが、一人勧めてこれを助命し、その代りアイリッシュ人が常に羨むデーン人特長のヘザー木から美酒を造る秘訣を伝えよ、と言うた。初めはなかなか聴き入れなんだが、とうとう承引して、さらば伝えよう、だがわれ帰国してのちこのことが泄(も)れたらきっと殺さるるから只今眼前にこの子を殺せ、その上で秘訣を語ろう、と述べた。変な望みだが一向こっちに損の行かぬことと、その二子を殺すと、老父、「阿房どもめ、わが二子年若くて汝らに説かれて心動き、どうやら秘訣を授けそうだから殺させた。もはや秘訣は大丈夫洩るる気遣いがないわい」と大見得を切ったので、アイリッシュ人大いに怒り、その老人を寸断したが、造酒の秘法は今に伝わらぬそうだ。これらは人屍を築き込むと城が堅固だと明記はしおらぬが、左様信じたればこそ築き込んだので、その信念が堅かったによって、きわめてよく籠城したのだ(『近江輿地誌略』八五。『五雑狙』四。一八五九年板『ノーツ・エンド・キーリス撰抄』一〇一頁)。

 予が在英中親交したロバート・ダグラス男が『玉篋卦(ユツヘアケ)』という占い書から訳した文をタイラーの『原始人文篇』二板一巻一〇七頁に引いたが、「大工が家を建て初めるに、まず近処の地と木との神に牲を供うべし。その家が倒れぬようと願わば、柱を立てるに何か活きた物を下におき、その上に柱を下す。さて邪気を除くため斧で柱を打ちつつ、よしよしこの内に住む人々はいつも温かで食事足るべし、と唱える」とある。これに反し、工人が家を建てるに、種種とその家と住人をまじない破る法あり(『遵生八牋』七)。紀州西牟婁郡諸村には、大工が主人を怨み新築の家を呪して、白蟻を招き害を加うる術あるようにきく。

 

          二

 

 日本で最も名高いのは、例の「物をいふまい、物ゆた故に、父は長柄(ながら)の人柱」で、しばらく『和漢三才図会』に従うと、初めてこの橋を架けた時、水神のために人柱を入れねばならぬと、関を垂水村に構えて人を捕えんとす。そこへ同村の岩氏某がきて、人柱に使う人を袴につぎあるものときめよ、と差しいでた。ところが、そういう汝こそ袴につぎがあるではないかと捕われて、たちまち人柱にせられた。その弔いに大願寺を立てた。岩氏の娘は河内の禁野(きんや)の里に嫁したが、口は禍いの本と父に懲(こ)りて唖(おし)で押し通した。夫は幾世死ぬよの睦言(むつごと)も聞かず、姿あって媚なきは人形同然と飽き果てて送り返す途中、交野(かたの)の辻で雉の鳴くを聞き、射にかかると駕の内から妻が朗らかに、「物いはじ父は長柄の人柱、鳴かずば雉も射られざらまし」とよんだ。そんな美声を持ちながら今まで俺独り浪語させたと憤るうちにも大悦びで伴れ返り、それより大声揚げて累祖の位牌の覆えるも構わずふざけ通した慶事の紀念に雉子(きじ)塚を築き、杉を三本植えつけたのが現存す、てなことだ。

 この類語が外国にもあり。エジプト王ブーシーリスの世に、九年の飢饉あり、キプルス人フラシウス、毎年外国生れの者一人を牲にしたらよいと勧めたところが、自分が外国生れゆえ、イの一番に殺された由(スミス『希羅(ギリシアローマ)人伝神誌名彙』巻一)。『左伝』には、賈大夫が娶った美妻が言わず笑わず、雉を射取って見せるとたちまち物いい笑うた、とある(昭公二十八年)。

『摂陽群談』一二に、嵯峨の弘仁三年六月、岩氏人柱に立ったと見え、巻八に、その娘、名は光照前、美容世に勝れて紅顔朝日を嘲るばかりなり、とある。[やぶちゃん後注4]今二つ類話は、朝鮮鳴鶴里の土堤、幾度築いても成らず、小僧が人柱を立てよとすすめたところ、誰もその人なきよりすなわちかの小僧を人柱に入れて成就した。ルマニアの古い唄に、大工棟梁マヌリ、ある建築に取り懸かる前夜、夢の告げにその成就を欲せば明朝一番にその場へ来る女を人柱にせよ、と。さて明朝一番に来合わせたはマヌリの妻だったので、これを人柱に立てたというのだ(三輪環氏『伝説の朝鮮』二一二頁。一八八九年板、ジョーンスとクロップ『マジャール俚譚』三七七頁)。

 大正十四年六月二十五日『大阪毎日新聞』に、誰かが橋や築島に人柱はきくが築城に人柱は聞かぬというように書かれたが、井林広政氏[やぶちゃん後注5]から、かつて伊予大洲の城は立てる時お亀という女を人柱にしたので、お亀城と名づく、と聞いた。この人は大洲生れの士族なれば虚伝でもなかろう。

[やぶちゃん注:以下の段落(「特に書きつけておく。」迄)は、底本では全体が二字下げ。]

 横田伝松氏[やぶちゃん後注6]よりの来示に、大洲城を亀の城と呼んだのは後世で、古くは比地の城と唱えた。最初築いた時、下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒジと名づくる娘が中(あた)って生埋めされ、それより崩るることなし。東宇和郡多田村関地の池も、オセキという女を人柱に入れた伝説あり、と。氏は郡誌を編んだ人ときくから、特に書きつけておく。

 清水兵三君[やぶちゃん後注7]説(高木敏雄氏の『日本伝鋭集』に載す)には、雲州松江城を堀尾氏が築く時成功せず、毎晩その辺を美声で唄い通る娘を人柱にした、今も普門院寺の傍を「東北(とうぼく)」[やぶちゃん後注8]を謡いながら通れば、必ずその娘出て泣く、と。これは、その娘を弔うた寺で「東北」を謡う最中を捕わったとでもいう訳であろう。現に、予の宅の近所の邸に大きな垂枝松あり、その下を夜更けて「八島(やしま)」[やぶちゃん後注8]を謡うて通ると、幽公がでる。むかしその邸の主人が盲法師に芸させ「八島」を謡うところを試し切りにした、その幽じるしの由、いやですぜ、いやですぜ。

 イングランドとスコットランドの境部諸州の俗信に、パウリーヌダンターは古城砦、鐘楼、土牢等にある怪で、不断亜麻(あま)を打ち石臼で麦をつくようの音を出す。その昔が例より長く、また高く聞こゆる時、その所の主人が死または不幸にあう。むかしピクト人はこれらの建物を作った時、土台に人血を濺(そそ)いだから殺された輩が形を現ずる、と。後には人の代りに畜類を生埋めして寺を強固にするのがキリスト教国に行なわれた。英国で犬または豚、スウェーデンで綿羊などで、いずれもその霊が墓場を守ると信じた(一八七九年板、ヘンダーソン『北英諸州俚俗』二七四頁)。『甲子夜話』の、大坂城内に現ずる山伏、『老媼茶話』の、猪苗代城の亀姫、島原城の大女、姫路城天守の貴女等、築城の人柱に立った女の霊が、上に引いたインドのマリー同然いわゆるヌシとなりてその城を鎮守したものらしい。ヌシのことは末段に述ぶる。

 

          三

 

 五月十八日[やぶちゃん注:大正十四(1925)年。]薨ぜられた徳川頼倫侯は、しばしば揮毫に※[やぶちゃん字注:※=(上)「臥」+(下)「虎」。](てい)城倫と署せられた。和歌山城を虎臥山竹垣城というところへ、漢の名臣第五倫というのと音が似たゆえのことと思う。そんなむつかしい字は印刷に困ると諫言しょうと思うたが、口から出なんだ。これもお虎という女を人柱にしたよりの山号とか、幼時古老に聞いて面白からずと考えたによる。なお築城の人柱の例若干を書き集めておいたが、病人を抱えてこの稿を書くゆえ、引き出しえぬ[やぶちゃん後注9]。さて家光将軍の時日本にあった蘭人フランシス・カロンの記に、日本の諸侯が城壁を築く時、多少の臣民が礎として壁下に敷かれんと願い出ることあり。みずから好んで敷き殺された人の上に建てた壁は損ぜぬと信ずるからで、その人許可を得て礎の下に掘った穴にみずから横たわるを、重い石を下ろして砕き潰さる。ただし、かかる志願者は平素苦役に飽き果てた奴隷だから、望みのない世に永らえてるより死ぬがましという料簡でするのかもしれぬ、と(一八一一年板、ピンカートン『水陸旅行全集』七巻六二三頁)。

 べーリング・グールドの『奇態な遺風』に、蒙昧の人間が数本の杭(くい)に皮を張った小屋をそこここ持ち歩いてしばし仮住居した時代は、建築に深く注意をせなんだが、世が進んで礎をすえ土台を築くとなれば、建築の方則を知ること浅きより、しばしば壁崩れ柱傾くをみて地神の不機嫌ゆえと心得、恐懼のあまり地の幾分を占め用うる償いに人を牲に供えた、と。フレザーの『旧約全書の俚俗』には、英国の脱艦水夫ジャクソンが、今から八、九十年前フィジー島で王宮改築の際の目撃談を引きおる。それは柱の底の穴にその柱を抱かせて人を埋め、頭はまだ地上に出てあったので問い合わすと、家の下に人が坐して柱をささげねば家が永く立ちおらぬと答え、死んだ人が柱をささげるものかと尋ねると、人が自分の命を牲にしてまで柱をささげるその誠心を感じて、その人の死後は神が柱をささげくれると言うた、と。これでは女や小児を人柱にした訳が分からぬから、ざっとベーリング・グールド説の方が一般に適用しうると思う。またフレザーは敵城を占領する時などのマジナイにかかることを行なう由をも説いた。今度宮城二重櫓下[やぶちゃん後注9]から出た骸骨を検する人々の一読すべき物だ。

 国学に精通した人より、大昔、月経や精液を日本語で何と呼んだか分からぬときく。満足な男女に必ずある物だが、むやみにその名を呼ばなかったのだ。支那人は太古より豚を飼うたればこそ、家という字は屋根の下に豕と書く。アイユランドの辺地でみるごとく、人と豚と雑居したとみえる。それほど支那に普通で因縁深い豕のことを、マルコ・ポロがあれだけ支那事情を詳述した中に、一言も記しおらぬ。またこれほど大きな事件はなきに、一銭二銭の出し入れを洩らさず帳づけながら、今夜妻が孕んだらしいと書いておく人はまずないらしい。本邦の学者、今度の櫓下の白骨一件などにあうと、すぐ書籍を調べて書籍に見えぬから人柱など全くなかったなどいうが、これは日記にみえぬから、わが子が自分の子でないというに近い。大抵マジナイごとは秘密に行なうもので、人に知れるときかぬというが定則だ。それを鰻屋の出前のごとく、今何人人柱に立ったなど書きつくべきや。こんなことは、篤学の士があまねく遺物や伝説を探って、書籍外より材料を集め研究すべきである。

 中堀僖庵の『萩の栞』(天明四年再板)上の十一張裏に、「いけこめの御陵とは大和国薬師(寺か)の後にあり、いずれの御時にか采女御門の御別れを歎き、生きながら籠りたるなり」。これは垂仁帝の世に土偶をもって人に代え殉葬を止められたにかかわらず、後代までもまれにみずから進んで生埋めにされた者があったのが史籍に洩れて伝説に存した、と見える。いわゆる殉葬のうちには、御陵を堅むるための人柱もあったと察する。と書きおわりてまた捜ると、『明徳記』すでにこれを記し、薬師寺のあたりにその名を今に残しける池寵めの御座敷これなるべし、とあり。それより古く『俊頼口伝集』上にも、いけごめのみささぎとて薬師寺の西に幾許(いくばく)ものかであり、と見ゆ。

 またそんな残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康大いに怒りその身を寸断せしめた、とある[やぶちゃん後注11]。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貨(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ペピースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸侯近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。

 

          四

 

 こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある。西洋にも人柱が多く行なわれ、近ごろまでその実跡少なくなかったのは、上に引いたベーリング・グールドその他の民俗学者が証明する。二、三例を手当り次第列ねると、ロムルスがローマを創めた時、ファスッルス、キンクチリウス二人を埋め、大石を覆うた。カルタゴ人はフィレニ兄弟を国界に埋めて護国神とした。西暦紀元前一一四年、ローマがまだ共和国の時、リキニアほか二名の斎女、犯戒して男と交わり連累多く罪せられた体、わが国の江島騒動のごとし。この不浄を祓わんためヴュヌス・ヴェルチコルジアの大社を立てた時、ギリシア人二人、ゴール人二人を生埋めした。コルムバ尊者がスコットランドのヨナに寺を立てた時、昼間仕上げた工事を毎夜土地の神が壊すを防ぐとて、弟子一人(オラン尊者)を生埋めにした。されば、欧州がキリスト教に化した後も人柱は依然行なわれたので、この教は一神を奉ずるから地神などはさっぱりもてなくなり、人を牲に供えて地神を慰めるという考えは、おいおい人柱で土地の占領を確定し、建築を堅固にして崩れ動かざらしむるという信念に変わった、とベ[やぶちゃん注:先のベーリングを「ベ」と省略して言った。]氏は説いた。ここにおいて、西洋にはキリスト教が行き渡ってから人柱はすぐ跡を絶たなんだが、これを行なう信念は変わった、と判る。思うに東洋でも、同様の信念変遷が多少あっただろう。

 なおキリスト教一統後も欧州に人柱が行なわれた二、三の例を挙げれば、ヘンネベルグ旧城の壁額(レリーヴィング・アーチ)には、重賞を受けた左官が自分の子を築き込んだ。その子を壁の内に置き、菓子を与え、父が梯子に上り職工を指揮し、最後の一煉瓦で穴を塞ぐと子が泣いた。父たちまち自責のあまり、梯子から落ちて頭を潰した。リエベンスタイン城も同様で、母が人柱として子を売った。壁がだんだん高く築き上げらるると、子が「かかさん、まだ見える」、次に「かかさん、見えにくくなった」、最後に「かかさん、もうみえぬ」と叫んだそうだ。アイフェルの一城には、若い娘を壁に築き込み、穴一つあけ残して死ぬまで食事を与えた。オルデンブルグのブレクス寺(むろんキリスト教の)を立てるに土台固まらず、よって村吏川向うの貧婦の子を買って生埋めにした。一六一五年(大坂落城の元和元年)、オルデンブルグのギュンテル伯は、堤防を築くに小児を人柱にするところへ行き合わせその子を救い、これを売った母は禁獄、買った土方親方は大お目玉頂戴。しかるに、口碑にはこの伯自身の城の土台へ一小児を生埋めにしたという。以上は、英人がドイツの人柱の例ばかり書き集めた多くのうちの四、五例だが、独人の書いたのを調べたら英、仏等の例も多かろうが、あまり面白からぬことゆえ、これだけにする。とにかく欧州の方の人柱のやり方が、日本よりも残酷きわまる。その欧人またその子孫たる米人が、今度の唯一の例を引いてかれこれいわば、これ百歩をもって五十歩を責めるものだ。

 

          五

 

 英国で最も古い人柱の話は、有名な術士メルリンの伝にある。

 この者は賀茂の別雷神(わけいかずちのかみ)同然、父なし子だった。初めキリスト生まれて正法大いに興らんとした際、邪鬼輩、失業難を憂い相謀って一の法敵を誕生せしめ、大いに邪道を張るに決し、英国の一富家に禍いを降し、まず母をしてその独り息子を鬼と罵らしめて眼中その子を殺すと、母は悔いて縊死し、父も悲しんで悶死した。あとに娘三人残った。そのころ英国の法として私通した女を生埋めし、もしくは誰彼の別なく望みさえすりゃ男の意に随わしめた。邪鬼の誘惑で、姉娘まず淫戒を犯し生埋めされ、次の娘も同様の罪で多人の慰み物となった。季(すえ)怖れて聖僧プレイスに救いを求め、毎夜祈禱し十字を画いて寝よ、と教えられた。しばらくその通りして無事だったところ、一日隣人に勧められて飲酒し、酔ってその姉と闘い自宅へ逃げ込んだが、心騒ぐまま祈禱せず十字も画かず睡ったところを、好機会逸すべからずと邪鬼に犯され孕んだ。かくて生まれた男児がメルリンで、容貌優秀ながら全身黒毛で被われておった。こんな怪しい父なし子を生んだは怪しからぬと、その母を法廷へ引き出し生埋めの宣告をすると、メルリンたちまちその母を弁護し、われ実は強勢の魔の子だが、聖僧ブレイスこれを予知して生まれ落ちた即時に洗礼を行なわれたから邪道を脱れた。予が人の種でない証拠に、過去現在未来のことを知悉しおり、この裁判官などのごとく自分の父の名さえ知らぬ者の及ぶところでないと広言したので、判官大いに立腹した。メルリン、さらば貴公の母を喚べと言うので母を請じ、メを別室に延(ひ)いてわれは誰の実子ぞと問うと、この町の受持僧の子だ。貴公の母の夫だった男爵が旅行中の一夜、母が受持僧を引き入れて会いおるところへ、夫が不意に還って戸を敲いたので窓を開いて逃げさせた。その夜孕んだのが判官だ、これが虚言かと詰(なじ)ると、判官の母しばらく閉口ののち実にその通り、と告白した。そこで、判官厳しくその母を譴責して退廷せしめたあとで、メルリンいわく、今公の母は件(くだん)の僧方へ往った。僧はこのことの露顕を慙(は)じてただちに橋から川へ飛び入って死ぬ、と。やがてその通りの成行きに吃驚(びっくり)して、判官大いにメを尊敬し、即座にその母を放還した。

 それから五年後、ブリトン王ヴォルチガーンは、自分は前王を弑して位を簒(うば)[やぶちゃん注:新仮名に徹するならば、このルビは最早、「うぼ」と振るのがよいと思われる。]うた者ゆえ、いつどんな騒動が起こるかしれぬとあって、その防ぎにサリスベリー野に立つ高い丘に堅固な城を構えんと、工匠一万五千人をして取り掛からしめた。ところが、幾度築いてもその夜の間に壁が全く崩れる。よって星占者を召して尋ねると、七年前に人の種でない男児が生まれおる。彼を殺してその血を土台に濺(そそ)いだら必ず成功する、と言った。したがって、英国中に使者を出してそんな男児を求めしめると、その三人がメルリンが母とともに住む町で出会うた。その時、メルリンが他の小児と遊び争うと、一人の児が、汝は誰の子と知れず、実はわれわれを害せんとて魔が生んだ奴だ、と罵る。さてはこれがお尋ね者と三人刀を抜いて立ち向かうと、メルリン叮嚀に挨拶し、公らの用向きはかようかようでしょう、全く僕の血を濺いだって城は固まらない、と言う。三使大いに驚き、その母に逢うてその神智のことどもを聞いていよいよ呆れ、請うてメと同伴して王宮へ帰る。途上でさらに驚き入ったは、まず市場で一青年が履(くつ)を買うとて懸命に値を論ずるを見て、メが大いに笑うた。その訳を問うに、彼はその履を手に入れて自宅に入る前に死ぬはずと言うたが、果たしてそのごとくだった。翌日葬送の行列を見て、また大いに笑うたから何故と尋ねると、この死人は十歳ばかりの男児で行列の先頭に僧が唄い後に老年の貸主が悲しみ往くが、この二人の役割が顚倒しおる。その児実はその僧が喪主の妻に通じて産ませた者ゆえおかしい、と述べた。よって死児の母を厳しく詰(なじ)ると、果たしてその通りだった。三日目の午時ごろ、途上に何ごともなきにまた大いに笑うたので仔細を質(ただ)すと、只今王宮に珍事が起こったから笑うた、今の内大臣は美女が男装した者と知らず、王后しきりに言い寄れど従わぬから恋が妒(ねた)みに変じ、彼は妾を強辱しかけたと讒言(ざんげん)を信じ、大臣を捉えてさっそく絞殺の上支解(しかい)[やぶちゃん後注12]せよ、と命じたところだ。だから、公らのうち一人忙(いそ)ぎ帰って、大臣の男たるか女たるかを検査し、その無罪を証しやられよ、しかしてこれは僕の忠告によったと申されよ、と言うた。一便早馬で駆けつけ王に勧めて、王の眼前で内大臣が女たるを検出してこれを助命した、とあるからよほど露骨な検査をしたらしい。

さてこれようやく七歳のメルリンの告げたところと言うたので、王早くその児に逢うて城を固むる法を問わんと、みずから出迎えてメを宮中に招き盛饌を供し、翌日伴うて築城の場に至り、夜になると必ず壁が崩るるは合点行かぬというに、それはこの地底に赤白の二竜が棲み、毎夜闘うて地を震わすから、と答えた。王すなわち深くその地を掘らしめると、果たして二つの竜があり大戦争を仕出かし、赤い方が放死し白いのは消え失せた。かくて築城は功を奏したが、王の意安んぜず。二竜の争いは何の兆ぞと問うこと度重なりて、メルリン是非なく、王が先王の二弟と戦うて敗死する知らせと明かして消え失せた。のち果たして城を攻め落とされ、王も后も焚死したという(一八一一年板、エリス著『初世英国律語体伝奇集例』一巻二〇五―四三頁)。英国デヴォン州ホルスウォーシーの寺の壁を十五世紀に建てる時、人柱を入れた。アイユランドにも、円塔下より人の骸骨を掘り出したことがある(『大英百科全書』一一板、四巻七六二頁)。

 

          六

 

 一四六三年、ドイツ・ノガットの堰を直すに乞食を大酔させて埋め、一八四三年同国ハルレに新橋を立てるに、人民その下に小児を生埋めしょうと望んだ。デンマーク首都コッペンハーゲンの城壁いつも崩れるゆえ、椅子に無事の小児を載せ、玩具、食品をやり他意なく食い遊ぶを、左官棟梁十二人して円天井をかぶせ、喧ましい奏楽紛れに壁に築き込んでから堅固となった。伊国のアルタ橋は繰り返し落ちたから、その大工棟梁の妻を築き込んだ。その時妻が詛(のろ)うて、今にその橋花梗のごとく動揺する。露国のスラヴェンスク、黒死病で大いに荒らされ、再建の節、賢人の訓えに随い、一朝日出前に人を八方に使わして一番に出逢う者を捕えると小児だった。すなわち新砦の礎の下に生埋めしてこれをジェチネツ(小児城)と改称した。露国の小農どもは毎家ヌシあり、初めてその家を立てた祖先がなるところと信じ、よって新たに立つ家の主人、あるいは最初に新立の家に歩みを入れた者がすぐ死す、と信ず。けだし、古代よりの風として初立の家には、その家族中の最も老いた者が一番に入るのだ。ある所では、家を立て始める時斧を使い初める大工がある鳥または獣の名を呼ぶ。すると、その畜生は速やかに死ぬという。その時大工に自分の名を呼ばれたらすぐ死なねばならぬから、小農どもは大工を非常に慇懃に扱って己の名を呼ばれぬよう力(つと)める。ブルガリアでは、家を建てに掛かるに通りかかった人の影を糸で測り、礎の下にその糸を埋める。その人はただちに死ぬそうだ。ただし、人が通らねば一番に来合せた動物を測る。また人の代りに鶏や羊などを殺し、その血を土台に濺ぐこともある。セルヴィアでは、都市を建てるに人または人の影を壁に築き込むにあらざれば成功せず。影を築き込まれた人は、必ず速やかに死すと信じた。むかしその国王と二弟がスクタリ砦を立てた時、昼間仕上げた工事を夜分鬼が壊してやまず。よって相談して三人の妃のうち一番に食事を工人に運び来る者を築き込もうと定めた。王と次弟はひそかにこれを洩らしたので、その妃ども病と称して来たらず。末弟の妃は一向知らずに来たのを、王と次弟が捕えて人柱に立てた。この妃乞うて壁に穴を残し、毎日その児を伴れ来たらせてその穴から乳を呑ませること十二ヵ月にして死んだ。今にその壁より石灰を含んだ乳様の水が滴るを婦女詣(もう)で拝む(タイラー『原始人文篇』二板、一巻一〇四-五頁。一八七二年板、ラルストン『露国民謡』一二六-八頁)。

それからタイラーは、人柱の代りにドイツで空棺を、デンマークで羊や馬を生埋めにし、ギリシアでは礎を据えたのち一番に通りかかった人は年内に死ぬ、その禍を他に移さんとて、左官が羊、鶏を礎の上で殺す。ドイツの古話に、橋を崩さずに立てさせくれたら渡り初める者をやろうと鬼を欺き、橋成って一番に鶏を渡らせたことを述べ、同国に家が新たに立ったらまず猫か犬を入らしむるがよいという等の例を列ねある。

日本にも『甲子夜話』五九に、「彦根侯の江戸邸はもと加藤清正の邸で、その千畳敷の天井に乗物を釣り下げあり、人の開き見るを禁ず。あるいはいわく、清正、妻の屍を容れてあり。あるいは言う、この中に妖怪いて時として内より戸を開くをみるに、老婆の形なる者みゆ、と。数人の話すところかくのごとし」と。これはドイツで人柱の代りに空棺を埋めたごとく、人屍の代りに葬式の乗物を釣り下げて千畳敷のヌシとしたのであるまいか。同書三〇巻に、「世に言う、姫路の城中にオサカべという妖魅あり、城中に年久しく住めり、と。あるいは言う、天守櫓の上層にいて常に人の入るを嫌う。年に一度その城主のみこれに対面す。その余は人懼れて登らず。城主対面する時、妖その形を現わすに老婆なり、と言い伝う。(中略)姫路に一宿せし時宿主に問うに、なるほど城中に左様のことも侍り、ここにてハッテンドゥと申す。オサカべとは言わず。天守櫓の脇にこの祠ありてその神に事(つか)うる社僧あり。城主も尊仰せらる、と」[やぶちゃん後注14]。『老媼茶話』に、加藤明成、猪苗代城代として堀部主膳を置く。寛永十七年極月、主膳独り座敷にあるに禿(かむろ)一人現じ、汝久しく在城すれど今にこの城主に謁せず、急ぎ身を浄め上下を著し敬(つつし)んでお目見えすべし、という。主膳、この城主は主人明成で、城代は予なり、外に城主あるはずなし、と叱る。禿笑うて、姫路のオサカべ姫と猪苗代の亀姫を知らずや、汝命数すでに尽きたりと言い消失す。翌年元朝、主膳諸士の拝礼を受けんとて上下を著し広間へ出ると、上段に新しい棺桶がありその側に葬具を揃えあり、その夕大勢餅をつく音がする。正月十八日、主膳厠中より煩い付き二十日の暁に死す。その夏柴崎という士、七尺ばかりの大入道を切るに、古い大ムジナだった。爾来怪事絶えた、と載せある。

『垂加文集』の「会津山水記」にいわく、「会津城は鶴をもってこれを称し、猪苗代城は亀をもってこれを称す」と。これは鶴亀の名を付けた二女を生埋めしたによる名か。また姫路城主松平義俊の児小姓(ちごこしょう)森田図書十四歳で傍輩と賭(かけ)してボンボリを燈し、天守の七階目へ上り、三十四、五のいかにも気高き女十二一重(ひとえ)をきて読書するを見、仔細を話すと、ここまで確かに登った印(しるし)にとて兜のシコロをくれた。持って下るに、三階目で大入道に火を吹き消され、また取って帰し、彼女に火をつけ貰い帰った話を出す。この気高き女すなわちオサカべ姫であろう。『嬉遊笑覧』などをみると、オサカべは狐で、時々悪戯をして人を騒がせたらしい。

さてラルストン説に、露国の家のヌシ(ドモヴォイ)はしばしば家主の形を現じ、その家を経済的によく取り締まり、吉凶あるごとにこれを知らすが、またしばしば悪戯をなす、と。しかして家や城を建てる時、牲(にえ)にされた人畜がヌシになるのだ。類推するに、亀姫、オサカべ等も人柱に立てられた女の霊が城のヌシになったので、のちに狐、狢(むじな)と混同されたのだろう。

また予の幼時和歌山に橋本という士族あり。その家の屋根に白くされた馬の髑髏(どくろ)があった。むかし祖先が敵に殺されたと聞き、その妻長刀(なぎなた)を持って駆けつけたが敵見えず、せめてもの腹癒せに敵の馬を刎(は)ねその首を持ち帰って置いた、と聞いた。しかし、柳田君の『山鳥民謡集』一に、馬の髑髏を柱に懸けて鎮宅除災のためにし、また家の入口に立てて魔除けとする等の例を挙げたのを見ると、橋本氏のも、デンマークで馬を生埋めするごとく、家のヌシとしてその霊が家を衛(まも)りくれるとの信念よりした、と考えらる。柳田君が遠州相良辺の崖の横穴に石塔とともに安置した馬の髑髏などは、馬の生埋めの遺風で、その崖を崩れざらしむるために置いた物と惟う。

予はあまり知らぬことだが、本邦でも、上述の英国のパウリーや露国のドモヴォイに似た、奥州のザシキワラシ、三河・遠江のザシキ小僧、四国の赤シャグマ等の怪がある。家の仕事を助け、人を威(おど)し、吉凶を予示し、時々悪戯をなすなど、欧州の所伝に異ならぬ。これらことごとく人柱に立てたものの霊にもあらざるべきが、中にはむかし新築の家を堅めんと牲殺されたものの霊も多少あることと思う。飛騨、紀伊その他に老人を棄殺した故蹟があったり、京都近くに近年までおびただしく赤子を圧殺した墓地があったり、『日本紀』に、歴然と大化新政の詔を載せたうちに、そのころまでも人が死んだ時、みずから縊死して殉じ、また他人を絞殺し、また強いて死人の馬を殉殺し、とあれば垂仁帝が殉死を禁じた令もあまねく行なわれなんだのだ。さて『令義解』には、信濃国では妻が死んだ夫に殉ずる風が行なわれたという。久米邦武博士(『日本古代史』八五五頁)も言われた通り、そのころ地方の殊俗は国史に記すこと稀(まれ)なれば尋ぬるに由なきも、奴婢賤民の多い地方には人権乏しい男女小児を家の土台に埋めたことは必ずあるべく、その霊をその家のヌシとしたのがザシキワラシ等として残ったと惟わる。ザシキワラシ等のことは、大正十三年六月の『人類学雑誌』佐々木喜善氏の話、また柳田氏の『遠野物語』等にみゆ。

数年前の『大阪毎日』紙で、かつて御前で国書を進講した京都の猪熊[やぶちゃん後注13]先生の宅には、由来の知れぬ婦人が時々現われ、新来の下女などはこれを家内の一人と心得ることあり、と読んだ。沈香も屁もたきもひりもしないで、ただ現われるだけらしいが、これもその家のヌシの伝を失したものだろう。それから『甲子夜話』二二に、大坂城内に明かずの間あり、落城の時婦女自害せしより一度も開かず、これに入りもしくはその前の廊下に臥す者怪異に逢う、と。叡山行林院に児(ちご)がやとて開かざる室あり、これを開く老死す、と(柳原紀光『閑窓自語』)。むかし稚児が冤死した室らしい。欧州や西亜にも、仏語でいわゆるウープリエットが中世の城や大家に多く、地底の密室に人を押し寵めまた陥れてみずから死せしめた。現にその家に棲んで全く気づかぬほど巧みに設けたのもあるという(バートン『千一夜譚』二二七夜譚注)。人柱とちょっと似たことゆえ、書き添えおく。                                                 

また人柱でなく、刑罰として罪人を壁に築き込むのがある。一六七六年パリ板、タヴェルニューの『波斯(ペルシア)紀行』一巻六一六頁に、盗人の体を四つの小壁で詰め、頭だけ出してお慈悲に煙草をやり死ぬまですて置く、その切願のまま通行人が首を刎ねやるを禁ず、また罪人を裸で立たせ四つの壁で囲い、頭から漆喰(しっくい)を流しかけ堅まるままに、息も泣くこともできずに悩死せしむ、と。仏国のマルセルス尊者は腰まで埋めて三日晒(さら)されて殉教したと聞くが、頭から塗り籠められたと聞かぬと、一六二二年にかかる刑死の壁を見てピエトロ・デラ・ヴァレが書いた。

『嬉遊笑覧』巻一上に、「『東雅』に、南都に往きて僧寺のムロという物をみしかど、上世に室と言いし物の制ともみえず。もとこれ僧寺の制なるがゆえなるべしと言えるは非なり。そは宮室になりての製なり。上世の遺跡は、今も古き窖(あなぐら)の残りたるが九州などにはあり、と言えり。かの土蜘蛛と言いし者などの住みたる処もあるべしとかや。近くは鎌倉にことに多く、これまた上世の遺風なるべし。農民の物を入れおくために掘りたるも多く、また墓穴もあり。土俗これをヤグラと言う。『日本紀』に兵庫をヤグラと読めるは、箭を納るる処なればなり。これはその義にはあらず、谷倉の義なるべし。よりて塚穴をもなべていう。実朝公の墓穴には岩に彫物あるゆえに、絵かきやぐらという。また囚人を寵めるにも用いしとて、大塔の宮を始め景清、唐糸等が古跡あり(下略)」。

 紀州東牟婁郡に矢倉明神の社多し。方言に山の嶮峻なるを倉という。諸荘に嶮峻の巌山に祭れる神を矢倉明神と称すること多し。大抵はみな巌の霊を祭れるにて、別に社がない。矢倉のヤは伊波の約にて巌倉の義ならんとは『紀伊続風土記』八一の説だ。『唐糸草紙』に、唐糸の前、頼朝を刺さんとして捕われ石牢に入れられたとあれば、谷倉よりは岩倉の方が正義かもしれぬ。いずれにしても、このヤグラは櫓と同訓ながら別物だ。景清や唐糸がヤダラに囚われたとあるより、早計にも二物を混じて、二重櫓の下に囚われおった罪人の骸骨が今度出たなど断定する人もあろうかと、あらかじめ弁じおく。       (大正十四年九月『変態心理』一六巻三号)

 

■やぶちゃん後注:

 

1 「源平盛衰記」第二十六濃卷 入道非直人附慈心坊得閻魔請事

 

一年、日吉社へ被參けるにも、上達部、殿上人、數多、遣連などして、一の人の賀茂春日などへ御參詣あらんも、加程の事はあらじとぞ覺えし。社頭にして、千人の持經者を請じて供養あり。社々に神馬を引れ、色々の神寶を奉らる。七社權現、納受して、緋玉墻色を添、一乘讀誦の音、澄て、和光の影も長閑也。ゆゝしく目出かりし事共也。

又、福原の經島築れたりし事、直人(ただびと)のわざとは覺えず。彼島をば、阿波民部大輔成良が承て、承安二年癸巳歲、築初たりしを、次年、南風、忽に起て、白浪、頻に扣かば、打破られたりけるを、入道、倩(つらつら)、此事を案じて、人力、及難し、海龍王を可奉宥(なだめたてまつるべし)とて、白馬に白鞍を置、童を一人乘て、人柱をぞ被入ける。其上、又、法施を手向可奉とて、石面に一切經を書寫して、其石を以て築たりけり。誠に龍神、納受有けるにや、其後は恙なし。さてこそ此島をば經島とは名付たれ。上下徃來の船の恐なく、國家の御寶、末代の規模也。唐國の帝王まで聞え給つゝ、日本輪田の平親王と呼て、諸の珍寶を被送。帝皇へだにも不參に、難有面目なりき。(以下略)

 

 

2 「平家物語」巻六 築嶋

 

やがて葬送の夜、不思議の事、餘た有り。玉を磨き、金銀を鏤(ちりばめ)て作られし西八條殿、其夜、俄に燒ぬ。人の家の燒るは、常の習ひなれ共、淺間しかりし事共也。何者の所爲にや有けん、放火とぞ聞えし。又、其夜、六波羅の南に當て、人ならば、二、三十人が聲して、「嬉(うれし)や水鳴(なる)は瀧の水」と云ふ拍子を出して、舞躍り、ど、と、笑ふ聲しけり。去ぬる正月には、上皇、隱させ給ひて、天下、諒闇に成ぬ。僅に中一兩月を隔て、入道相國、薨ぜられぬ。怪の賤(しづ)の男、賤の女に至る迄、如何が憂へざるべき。是は如何樣にも天狗の所爲と云ふ沙汰にて、平家の侍の中に、はやりをの若者共、百餘人、笑ふ聲について、尋行て見れば、院の御所法住寺殿に、此二、三年は院も渡らせ給はず、御所預備前前司基宗と云ふ者有り。彼基宗が相知たる者共、二、三十人、夜に紛れて來り集り、酒を飮けるが、初は、かゝる折節に音なせそとて飮む程に、次第に飮醉て、か樣に舞躍ける也。ば、と、押寄せて、酒に醉たる者共、一人も漏さず、三十人ばかり搦て、六波羅へ將て參り、前右大將宗盛卿のおはしける坪の内にぞ引居たる。事の仔細を能々尋聞給ひて、實(げ)も其程に醉たらんずる者をば斬るべきにもあらず、とて、皆、許されけり。人の失ぬる跡には、恠しの者も朝夕に鐘打鳴し、例時懺法讀む事は、常の習ひなれども、此禪門薨ぜられぬる後は、供佛施僧の營と云ふ事もなし。朝夕は、唯、軍合戰の策より外は、他事なし。

凡は最後の所勞の有樣こそうたてけれ共、直人とも覺ぬ事共、多かりけり。日吉社へ參り給ひしにも、當家他家の公卿、多く供奉して、攝ろくの臣の春日御參詣、宇治入など云ふもとも、是には爭(いかで)か勝るべきとぞ、人、申ける。又、何事よりも、福原の經島、築いて今の世に至る迄、上下往來の船の煩なきこそ、目出たけれ。彼島は去る應保元年二月上旬に築始められたりけるが、同年の八月に俄に、大風、吹き、大浪、立て、皆、淘失(ゆりうしな)ひてき。同三年三月下旬に、阿波民部重能を奉行にて、築かせられけるが、人柱立てらるべしなど、公卿、僉議有しかども、罪業なりとて、石の面に一切經を書いて、築れたりける故にこそ、經島とは名づけたれ。

 

 

3 伊能嘉矩(1867~1925):岩手県遠野生。人類学者。台湾の日本植民地統治時代初期の官僚として、明治28(1895)年に渡台、台湾地誌や歴史、台湾民族研究の優れた業績を残したほか、遠野の郷土史研究を中心に本邦の民俗学的考察も多い。

 

 

4 「摂陽群談」巻十二 大願寺

「長柄郷土史ライブラリ」「攝陽群談」より該当部分を引用(一部補正。どちらも外部リンク)。

同郡佛性院村にあり。山號孤雲山、院名佛性院と稱す。推古天皇御宇草創。本尊彌陀、一寸八分閻浮檀金の尊容を安置す、是則、當鄕池中に出現の佛也。嵯峨天皇の御宇、弘仁三年壬辰夏六月、再雖令造長柄橋、其功成難し、水底に人柱を入れて築補あらば、可成就之由奏之、因つて往來を留捕之、岩氏と云ふ者、戯を作して、終に水底に入れり、一度、橋、成就し、勅願、正に滿り、再、寺院、營建して大願寺と改む、橋、朽て後、寺院のみと成れり。猶、委しくは、野の部、雉子繩手の記に詳也。一名、橋本寺と稱す。

【夫木】十六釋 信實

なからなる橋本寺もつくるなり、おこさぬ家を何にたとへむ

さらに同じサイトの以下のページも大いに参考になる。⇒「長柄の人柱」(外部リンク)

 

5 井林広政

南方熊楠の同窓生であった正岡子規の、大学予備門時代の友人の「七変人」の一人。

 

 

6 横田伝松

大洲の郷土史研究家。「曽根城史」「伊予の蔵川珍談」共著「大洲史談」等がある。

 

 

7 清水兵三

民俗学者。「出雲の民話民謡集」、論文に「出雲の土俗二三」「現代朝鮮洞里名の研究」等がある。

 

 

8 東北/八島

どちらも謡曲名。「東北」は和泉式部、「八島」は源義経を扱ったの複式夢幻能である。

 

 

9 病人

長男の南方熊弥は、この年の3月に精神病を発病し入院、この執筆時の5月より自宅での療養生活に入った。 

 

 

10 宮城二十櫓下から出た骸骨

関東大震災後の大正14(1925)年春より、皇居内の二重櫓は損壊した上物をすべて除去し、土台から改修、復元作業が行われたが、6月11日以降、当該敷地から複数の儀礼を施した人骨が発掘された事件を指す。

 

 

11 家康大いに怒りその身を寸断せしめた

これについて南方熊楠は同じ『南方随筆』で「徳川家と外国医者」として取上げている。以下にそのテクストを掲げる。底本は1984年刊の「南方熊楠選集 第四巻 続南方随筆ほか」を用いた。

 

徳川家と外国医者   南方熊楠

 

『変態心理』五月号[やぶちゃん注:大正十四(1925)年。]五〇四頁に、三田村鳶魚先生は、家綱将軍の病中支那医を殿中に招くの議が遂行されなんだことを記して、「その当時は、まだ異国人という者を気嫌いするような傾きがあって、技倆は認めても宮様とか将軍とか偉い人は決して診(み)せなかった、云々」とある。

 これを読んだ人々は、延宝以前には貴人や諸侯は決して外国医者にかからなんだと思わぬとも限らないから述べておきたいのであるが、『武徳編年集成』に、家康が天正七年八月その妻築山殿を誅した原因は、この夫人は甲斐から来た支那人減慶という医師を治療のため招きて淫行をほしいままにし、また彼を通じて武田氏に内応した、と記している。それから、元和二年五月二十二日、リチャード・ウィリアムがリチャード・コックスへ京都から贈った状には、家康最後の患いを主治医が癒すあたわず、老体の痛いゆえ壮者ほどに速く直らぬと言うたのを怒り、縛って寸断せしめた。よって島津殿その侍医たる支那人を薦め効験著しと聞く、と記している。   (大正十四年六月『変態心理』一五巻六号)

 

 

12 支解

四肢(両手両足)を切断する重刑。

 

 

13 猪熊夏樹

国学者。香川県生。京都白鳥神社祠官。『源氏物語湖月抄』の校訂等も手掛ける。