「人柱の話」(上)・(下) 南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)
[やぶちゃん注:本篇は大正十四(1925)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に、それぞれ以下のように(上)・(下)として分割掲載された論文を翻刻したものである。平凡社版「南方熊楠全集」にも未収録のもので、既に私が電子テクスト化した南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型がこの論文である。底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」p156-159所収の南方熊楠「人柱の話」を用いたが、これは新聞からの翻字であるらしく、残念ながら一部の漢字に疑義・決定的な誤判読があるため、適宜、同じく「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所載の、同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正十四(1925)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項――の中に所収の「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿(但しこちらはルビなしで後半の一部に省略がある) p171-174 をも参照した。底本はかなりルビが振られているが、煩瑣を避けて誤読の可能性のあるもの、及び改訂増補された後の「人柱の話」とのはっきりした違いを示していると思われる箇所を中心に読みを附した。但し、新聞のルビは通常、筆者ではなく、新聞社の編集者が勝手に杜撰打ったから、これは当てにならない。例えば、特に濁点がないからと言って、熊楠が「ひとはしら」と清音で読んでいた、などという断定は不可である。新聞ルビの濁点や半濁点が落ちるのは、当時は常識だからである。傍点「丶」は下線に代えた。本篇については、プロトタイプを味わうために底本通りの正字正仮名遣の翻刻とした。なお、先に公開している「人柱の話」に附した注は一切省略したので、こちらを先に読まれた方は、そちらの注を参照されたい。(上)と(下)の間に「*」を配した。
【2017年1月28日追記】訳あって、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」の記事をリンクさせておく。この驚くべき事実が記されてある雑誌が、書庫の底に沈んでしまっていて、今すぐには記載論文が明記出来ないのが残念であるが、この事実は、例えば、つい先程、発見したこちらの方の引用記載などにより真実であることがお分かり頂けるはずである。]
人柱の話(上) 南方熊楠
建築土工等を固めるため人柱(はしら)を立る事は今も或る蕃族に行なはれその傳說や古蹟は文明諸國に少からぬ。例せば印度の土蕃が現時もこれを行ふ由時々新聞にみえ、ボムパスのサンタルパーガナス口碑集に王が婿の强きを忌で畜類を供へても水が湧かぬ涸池の中に乘馬のまゝ婿を立たせるとさすがは勇士で水が湧いても退かずわが膝まできた馬の膝まできた背まできたと唄ひながら彌ます水に沒した跡を追うて妻も又その池に沈んだ話あり。源平盛衰記(げんへいせいすいき)又淸盛が經の島を築く時白馬(うま)白鞍(くら)に童を一人乘せて人柱に入れたとあれば、乘馬のまゝの人柱(はしら)もあったらしい。但し平家物語には、人柱(はしら)立てようと議したが、罪劫を畏れ一切經を石の面(おもて)に書いて築いたから經の島と名づけた、とある。
日本で最も名高いのは例の「物をいふまい物ゆたゆゑに、父は長柄の人柱(はしら)」で、姑く和漢三才圖會に從ふと、初めて此橋を掛た時、水神のために人柱(はしら)を入れねばならぬとて關を垂水村に構へて人を捕へんとす、そこへ同村の岩氏(いはうじ)某(ぼう)がきて、人柱(はしら)に使ふ人を袴にツギあるものときめよと差(さし)でた。所が、左いふ汝の袴にツギがあるではないかと捕はれて、惣ち人柱(はしら)にせられた。その弔ひに大願寺を立た。岩氏の娘は河内の禁野(きんや)の里に嫁したが口は禍いの本と父に懲りて啞でおし通した。夫は丸で人形同然と飽きはてゝ送り返す途中交野(かたの)の辻で雉鳴くを聞き射にかゝると駕の内から朗かに妻(さい)が「物いはじ父は長柄の人柱、鳴かずば雉も射られざらまし」と詠んだ。そんな美聲を持ちながら……と憤る内にも大悅びでつれ返り大聲揚げて夫妻ふざけ通した慶事の紀念に雉子塚(つか)を築き杉を三本植えつけたのが現存すといふ樣な事だ。類話が外國にもあつてエジプト王ブーシーリスの世に九年の大旱ありキプルス人フラシウス每年外國生れの者一人をいけにえにしたらよいとすゝめた所が、自分が外國生れゆゑイの一番に殺された由。左傳には、賈大夫が娶つた美妻がいはず笑はずきじを射取つて見せると惣ちものいひ笑うたとある。
この程の本紙に、誰かゞ橋や築島(つきしま)に人柱はきくが築城に人柱(はしら)は聞かぬといふ樣に書かれたが、井林廣政氏から、かつて伊豫大洲の城は立る時お龜てふ女を人柱にしたのでお龜城と名づくと聞いた。此人大洲生れの士族なれば虛傳でもなからう。淸水兵三君說には、雲州松江城を堀尾氏が築く時成功せず、每晩その邊を美聲で唄ひ通る娘を人柱にした、今も普門院寺の傍を東北を謠(うたひ)乍ら通れば必ずその娘出て泣くと。是はその娘を弔ふた寺で東北を謠ふ最中を捕(とら)はれたとでもいふ譯であらう。現に予の宅(たく)の近所(しよ)の邸に大きな垂(さがり)枝松有り、その下を夜更けて八島を謠う[やぶちゃん注:ママ。]て通ると幽公がでる。昔その邸の主人が盲法師に藝させ八島をうたふ所を試し切りにしたその幽印(ゆうしるし)の由。否(いや)ですぜ\/。五月十八日薨ぜられた德川賴倫(よりのり)侯は、屢ば揮毫にてい(編輯者曰く臥虎の二字を合(がつ)して一字にした字なれど活字なきゆゑカナのまゝにして置く[やぶちゃん注:これは文字通り、大阪毎日新聞社の編集者による注である。])城倫(ぜうりん)と署せられた。和歌山城を虎臥(とらふす)山竹垣(かき)の城(しろ)といふ所へ、唐の名臣第(てい)五倫といふのと音が似た音ゆゑの事と思ふ。そんな六つかしい字は印刷に困ると諫言せうと思ふたが口から出なんだ。これもお虎といふ女を人柱(はしら)にしたからの山號とか幼時古老に聞いて面白からぬと考へたによる。なほ築城の人柱(はしら)の例若干を書集め置いたが、病人を抱(かかへ)て此稿を書く故引き出し得ない。扨家光將軍の時日本にあつた蘭人カロンの記に諸侯が城壁を築く時多少の臣民が礎(いしづゑ)として壁下(かべのした)に敷かれんと願ひ出る事あり。自ら好んで敷殺(しきころ)された人の上に建(たて)た壁は損ぜぬと信ずるからで、その人許可を得て礎の下に掘た穴に自ら橫たはるを重い石を下して碎き潰さる、但しかゝる志願者は平素苦役に厭果てた奴隸だから望みない世に永らへるより死ぬがよしてふ料簡でするのかもしれぬと。
べーリング・グールドの「奇態な遺風」に蒙昧の人間が數本の杭に皮を張つた小屋をそここゝ持ちあるいて暫し假住居(かりゐ)した時代は建築に深く注意せなんだが、世が進んで礎をする土臺を築くとなれば、建築の方則を知ること淺きより屢々壁崩れ柱傾くを見て地(ちの)神の不機嫌ゆゑと心得、恐懼の餘り地の幾分を占(しめ)用ふる償ひに人を牲(いけにえ)に供へたと。フレザーの「舊約全書の俚俗」には、英國の脫艦水夫ジヤツクソンが今から八九十年前フイジー島で王宮改築の際の目擊談を引居(ひきゐ)るそれは柱の底の穴に其(その)柱を抱せて人を埋(うづ)め頭はまだ地上に出あつたので問合はすと、家の下に人が坐して柱をさゝげねば家が永く立(たち)居らぬと答へ、死んだ人が柱をさゝげるものかと尋ねると、人が自分の命を牲(せい)にしてまで柱をさゝげるその誠(せい)心を感じてその人の死後は神が柱をさゝげくれるというたと。これでは女や小兒を人柱にした譯が分からぬから、雜(ざつ)とベーリング・グールド說の方が一汎に適用し得るとおもふ。又フレザーは敵城を占領する時などのマジナイかゝることを行ふ由をも說きある。今度宮城二重櫓下から出た骸骨を檢(けん)する人々の一讀すべきものだ。
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人柱の話(下) 南方熊楠
國學に精通した人より、大昔し月經や精液を日本語で何と呼ぶか分からぬときく。滿足な男女に必ずある物だが、無暗にその名をよばなかつたのだ。支那人は太古よりぶたを飼うたればこそ家といふ字は屋根の下に豕(いのこ)と書く。アイユランドの邊地で見る如く人とぶたと雜居したとみえる。それ程支那に普通で因緣深い豕のことを、マルコ・ポロがあれ程支那事情を詳述した中に一言(ごん)も記しをらぬ。又これ程大きな件はなきに一錢二錢の出し入れを洩らさず帳つけながら今夜妻が孕んだらしいと書いておく人は先(まづ)ないらしい。本邦(ほう)の學者、今度の櫓下の白骨一件などにあふとすぐ書籍を調べて書籍に見えぬから人柱(はしら)などは全くなかつた事などいふがこれは日記にみえぬから、吾子が自分の子でないといふに近い。大抵マジナヒ事は祕密に行なふもので人に知らるゝと利かぬといふが定則(ていそく)だ。それをうなぎ屋の出前の如く今何人人柱(はしら)に立(たて)たなど書きつくべきや。こんなことは、篤學の士があまねく遺物や傳說をさぐつて書籍外より材料を集め研究すべきである。又そんな殘酷な事は上古蒙昧の世は知らず二三百年前にあつたと思はれぬなどいふ人も多からんが、家康公薨する二日前に三池典(てん)太の刀もて罪人を試さしめ切味最好(いとよし)と聞いて自ら二三度振廻し、我(われ)此劍で永く子孫を護るべしと顏色よかつたといひ、コツクスの日記には侍醫が公は老年故若者程速く病(やまひ)が癒ぬと答へたので家康大いに怒りその身を寸斷せしめたとある。試し切りは刀を人よりも尊んだ甚だ不條理且不人道な事だが百年前後までもまゝ行なはれたらしく水牢(ろう)蛇責(へびせ)めその他確(かく)たる書史に書かねどどうも皆無でなかつたらしい、殘酷な事は多々ある。三代將軍薨去の節諸侯數人が殉死したなど虛說といひ黑(くろ)め能はぬ。又こんな事が外國へ聞こえては大きな國辱といふ人もあらんかなれど、そんな國辱はどの國にもある。西洋にも人柱(はしら)が多く行はれ近頃までその實蹟少くなかつたは上にひいたベーリング・グールドその他の民俗學者が證明する。二三例を手當り次第つらねるとロムルスがローマを始めた時アスツルス[やぶちゃん注:底本及び改訂増補「人柱の話」共に「ファスツルス」とするも、写真版稿では以上のようになっている。底本は促音表記に疑義があるので、これを採用する。]、キンクチリウス二人を埋め大石をおほうた。カルタゴ人はフヰレニ兄弟を國堺(さかひ)に埋(うづ)めて護國神とした。コルムバ尊者がスコツトランドのヨナに寺を立てた時晝間仕上た工事を每夜土地の神がこわす[やぶちゃん注:ママ。]を防ぐとて弟子一人を生埋めにした。されば歐州がキリスト敎に化した後も人柱(はしら)は依然行はれたので、此敎は一神を奉ずるから地神などは薩張(さつは)りもてなくなり人を牲(いけにえ)に供へて地神をなぐめるてふ考へは、追々人柱もて土地の占領を確定し建築を堅固(けんこ)にして崩れ動かざらしむるてふ信念に變つた、とベ氏は說いた。こゝにおいて西洋には耶蘇敎が行き渡つてから人柱(はしら)はすぐ跡を絕たなんだがこれを行ふ信念は變つたとわかる。思ふに東洋でも同樣の信念變遷が多少あつたゞらう。なほキリスト敎一統後も歐州に人柱(はしら)が行れた二三の例を擧ぐれば、ヘンネベルグ舊城の壁額(レリーヴイング・アーチ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]には重賞を受(うけ)た左官が自分の子を築き込んだ。その子を壁の内に置き菓子を與へ父が梯子に上つて職工を指揮し最後の一煉瓦で穴を塞ぐと子が泣いた。父惣ち自責の餘り梯子から落ちて頭を潰した。リエぺンスタイン城も同樣で母が人柱として子を賣つた。壁が段々高く築(つ)き上げらるゝと、子が「カゝサンまだ見える」次ぎに「カゝサン見え惡くなつた」最後に「カゝサンモー見えぬ」と叫んださうだ、アイフエルの一城には若い娘を壁に築き込み穴一つあけ殘して死ぬまで食事を與へた。オルデンブルグのブレクス寺(無論キリスト敎の)を立つるに土臺かたまらず、よつて村吏川向ふの貧婦(ひんふ)の子を買つて生埋めにした。一六一五(大坂落城の元和元年)年、オルデンブルグのギユンテル伯は、堤防を築くに小兒を人柱にする處へ行合せその子を救ひこれを賣つた母を禁獄、買つた土方親方はお目玉頂戴。然るに口碑にはこの伯自身の城の土臺へ一小兒を生埋めにしたといふ。以上は、英(えい)人がドイツの人柱(はしら)斗り書き集めた多くの内の四五例だが、獨(どく)人の書いたのを調べたら又英佛(えいふつ)等(とう)の例も多からうが餘り面白からぬことゆゑ、これ丈にする。兎に角歐州の方が人柱(はしら)のやり方が日本よりも殘酷極まる。その歐人またその子孫たる米人が今度のただ一の例を引て彼これいはゞこれ百步を以て五十步を責める者だ。
序でに申す。廿五日の本紙で東久世内匠頭(くせたくみのかみ)が實際道灌はどこに居(ゐ)たといふ事が分らぬといはれた樣拜讀した。余在米の頃櫻井延三郞氏より聞いたは氏の父惇三君とか宮城經營に當たつた時に宮城内に何とかいふ小流(りう)あり埋(うめ)ねばならぬ處、上野景範(かげのり)子はこればかりが道灌當時の物そのまゝゆゑ保存したしと主張せしも榎本武揚(ぶよう)子がいかに故跡なればとて便宜上潰すは止むを得ずといひて潰してしまつたとか。江戶城をその舊敵だつた薩人が保存せうといふ物を、その囘復のために北海道により戰うた舊幕臣のチヤキ\/が造作もなく潰さんといひ張つたとは辻褄の合(あは)ぬ話と思うたが、後に承はりしは上野子は洋行歸りのハイカラ過(すぎ)て精養軒で山縣公になぐられ大騷ぎを生じた人だが、後ち大に國粹家となり神道を篤信(とくしん)されたと、從つて道灌遺跡保存の主張もあつたさうな事と惟(おも)ふ。件の延三郞氏は明治廿三年頃加州で養生中死なれ父君(ふくん)もその前後に歿せられた。信州出身の高官だつたと覺える。(完)
[やぶちゃん注:この最後の段落は、主旨からずれるためであろう、後の改訂増補版「人柱の話」からは、姿を消す。なお、冒頭に紹介した、『「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正十四(1925)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項――の中に所収の「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿』では、以上の冒頭部分が、以下のように大きく省略されている(文中の空欄や句読点の違いも有り)ので、以下に掲げておく。
序でに余在米の頃櫻井 三郎氏より聞いたは氏の父惇三君とか宮城經營に當たつた時に宮城内に何とかいふ小流あり埋ねばならぬ處、上野景範子こればかりが、道灌當時の物そのまゝゆゑ保存したしと主張せしも、榎本武揚子がいかに故跡なればとて、便宜上潰すは止むを得ずといひて、潰してしまつたとか。(以下略)
続く省略部分は最後迄、一部の句読点のほかは、全く同一である。]