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北條九代記 序 藪野直史冒頭注 を読む
鎌倉 北條九代記 卷第一 附やぶちゃん注
[藪野直史注:二〇一三年三月三十一日野人化一周年を記念して公開。]
○本朝將帥の元始
[やぶちゃん注:「是物部氏の始祖なり」とあるが、道臣命は大伴氏の祖神であるから、「大伴氏の始祖なり」の誤りである。
「邊要」京を離れた辺地の要所。
「聖武天皇の御宇に始れり」現在の知見では、
「文屋綿丸」
「坂上田村丸」文室綿麻呂の前任者であった東夷征討の責任者坂上田村麻呂は延暦一五(七九六)年鎮守将軍に任命され、翌延暦一六(七九七)年に征夷大将軍に昇格している。また、同類の称を遡るならば、和銅二(七〇九)年に「鎮東将軍」に任ぜられた
「参議藤原忠文」(貞観一五(八七三)年~天暦元(九四七)年)の「征東大将軍」叙任は天慶三(九四〇)年で平将門追討を目的としたもの。当時六十八歳であったが、実際には忠文の関東下着前に、将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれていた(ウィキの「藤原忠文」に拠る)。
「木曾義仲都に上り、兵權を執るの日征東將軍に任じ給ふ」寿永二(一一八三)年八月十六日に「旭の将軍」(征夷大将軍に準ずる特別職として後白河法皇が与えたもの)の号を受けたことを指す。彼は翌寿永三年一月十五日には、正式な征東大将軍の宣下を受けている。
「牛角」互角。
「承久の末に攝家の御息を鎌倉に申下し、征夷將軍に仰ぎ奉る」建保七(一二一九)年一月二十七日に実朝が暗殺され、建保七年は四月十二日に改元されて承久元年となる。将軍の後継者として五摂家の一つである九条家の九条道家三男(源賴朝同母妹坊門姫曾孫)
○右大將賴朝創業
爰に右大將源朝臣賴朝は淸和天皇十代の後胤左馬頭義朝の三男なり。後白河院の御宇、保元三年二月に生年十二歳にして皇后宮
[やぶちゃん注:「高倉宮」。以仁王のこと。三条高倉に邸宅があったことから、こう別称された。
「敗績」は、大敗して今までの功績を失うこと。
「伏木の中に隱れ給ふ」底本の頭書きには『虛説といふ』とあり、現在知られる一般的な話柄では、現在の湯河原町山中にある洞窟「しとどの
「豐嶋」底本では「てしま」とルビするが、採らない。
「たのもしくぞ思ひ給ひけれ」はママ。]
○鎌倉草創 付 來歷
上總權介廣常は當國の軍勢二萬餘騎を引率して、隅田川の邊に參向す。賴朝の
[やぶちゃん注:「大量の英機」才気煥発でその度量が計り知れない大きなものであること。
「大職冠鎌足公は常陸國に誕生し」一般に藤原鎌足の出生地は「藤氏家伝」によって大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)とされ、藤原姓もその出生地の地名から取られたものとされるが、「大鏡」では常陸国鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)とする説もある。
「八荒」国の八方の果て。全世界。
「總州鷺沼」現在の千葉県習志野市津田沼の一部。
「治承三年十月六日」は「治承四年」の誤りである。]
○鶴ヶ岡八幡宮修造遷宮
大庭平太景義に仰せて、鎌倉
[やぶちゃん注:標題「鶴ヶ岡八幡宮」の「ヶ」には、底本では明らかな濁点が附されている。以降にも散見するが、以後本注は略す。
「蘋蘩蘊藻」「蘋蘩」は浮草と
「
「神慮定て納受新に」神もまた、この新しい神宮寺の建立をお納めになったのを契機となさって、の意。
「国衙垂跡の惠」「国衙」は極めて広義の、日本各地の国庁によって支配された正当な国土の謂い、「垂跡」はその日本に神が衆生済度のために仮の神や人の姿となって現われて統率し、それら全国を正しく安定させる恩恵の謂い。
「施與」恵みを与えること。]
○鎌倉新造の御館
同年十二月、鶴ヶ岡の東の方、大倉の郷に
[やぶちゃん注:「合期」間に合うこと。
「知家事」政所の職掌の一つで、
「知家事兼通」「吾妻鏡」治承四年十月九日の条に基づくが、そこでは「兼道」とある。この人物、不詳であるが、個人のHP「北道倶楽部」の「奈良平安期の鎌倉 頼朝の父義朝の頃」のページの「知家事(兼道)が山内の宅」に鋭い考証が載せられてある。そこでは「知家事兼」道の邸の解体された木材が、大倉まで、どのルートで運ばれたかの考証までなさっておられ、極めて興味深い。
「正曆年中」西暦九九〇年から九九五年。
「同月十一日土木の功を遂げしかば、賴朝即ち渡御し給ふ」治承四(一一八〇)年十二月十二日に
「十八間」約三二・七メートル。
「大名」鎌倉時代のそれは、多くの
「小名」大名主に比して、有意に規模の小さい名田しか領していない武士。]
○平氏東國討手没落
大相國淸盛入道、大に驚き、嫡孫小松少將維盛を大將軍とし、薩摩守忠度を副將とし、上總守忠淸、齋藤別當實盛を侍大將として、三萬餘騎、賴朝追討のため、駿河國富士川の西の岸に
[やぶちゃん注:標題「平氏」は「へいじ」、「討手」は「うつて」と振る。後半部は常陸国金砂城(現在の常陸太田市上宮河内町の西方にある金砂山の山城)に於ける頼朝軍と常陸佐竹氏との戦いである「金砂城の戦い」を語る。まず、現在の知見をウィキの「金砂城の戦い」で見る(ここでは「きんさじょう」と音読みしている。アラビア数字は漢数字に代えた)。『治承四年(一一八〇年)十月、富士川の戦いに勝利した源頼朝は敗走する平家を追撃すべしと命じるが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らが、まず佐竹氏を討つべきと主張した。その意見を取り入れた頼朝は平家追撃を諦め佐竹討伐に向かうことにする』。『十月二十七日、頼朝は軍勢を引き連れ佐竹氏のいる常陸に向かって出発する。この日は頼朝の衰日(陰陽道で行動に支障があるとされる日)にあたり、周囲は出発に反対したが、頼朝は「二十七日こそ以仁王の令旨が到着した吉日である」として反対を押し切って出陣した。十一月四日、頼朝は常陸国府に入る。そこで軍議が開かれた』。『まず、佐竹一族の一人佐竹義政が、縁者である上総広常に矢立橋に誘い出された所を誅殺された。この動きを見て動揺した佐竹氏の中には頼朝方に寝返ったり逃亡する者も出てきた。五日、金砂城に立て籠もった佐竹秀義らに対して総攻撃が仕掛けられ、熊谷直実、平山季重が真っ先に城を登った。佐竹氏当主隆義は在京中で不在であったものの、金砂城が断崖に位置する難攻不落の城郭であり、佐竹氏の守りは強固であると見た頼朝は、広常の献策により、金砂城には入城していなかった秀義の叔父佐竹義季を味方につくよう勧誘する。義季は頼朝軍に加わって金砂城を攻撃した。城のつくりに詳しい義季の案内で金砂城は攻め落とされた』。『その後、城を守っていた秀義は奥州(または常陸奥郡)の花園城へと逃亡した』。『佐竹義李は御家人に列せられ、佐竹秀義の所領が頼朝の家人たちに与えられた。新たな占領地を得たことによる御家人たちへの恩賞、地理的には現に鬼怒川水系と香取海を支配して更に北の奥州藤原氏と提携の可能性があり、関東に残る平氏方最大勢力であった佐竹氏を屈服させた事は、関東を基盤とした頼朝政権確立の上で重要な位置を占める戦いであった』。『しかし、頼朝は関東の諸豪族に対しては一旦帰服を促す使者を派遣した上で対応を決定しているのに対して、佐竹氏に対してはそうした動きが確認できないことから、この戦いは相馬御厨や香取海沿岸の帰属問題で佐竹義宗(隆義の弟)や片岡常春と対立関係にあった上総広常・千葉常胤などの房総平氏および同一族と婚姻関係にある三浦義澄が房総地域から佐竹氏勢力を排除するために頼朝に攻撃を要求したとする学説もある』。また、延慶本「平家物語」『によると治承五年の春に佐竹隆義が頼朝と戦った記載があったり』、「玉葉」の翌治承五(一一八一)年四月二十一日条に『浮説ながら佐竹氏が常陸国で頼朝と敵対したとの記載がある。また佐竹氏の存在が奥州藤原氏と共に頼朝の上洛拒否の理由とされた。以上のようなことから、この金砂城の戦いのみで佐竹氏を屈服させたわけではなく、治承・寿永の乱の後期まで佐竹氏は常陸国において頼朝に対して敵対的な行動を取り続けたとみる学説もある』とある。
「佐竹太郎義政味方に屬す」以上のウィキの記載との齟齬でお分かりのように、この部分、筆者は「吾妻鏡」を誤読(若しくは省略した結果、誤記載となってしまった)しているように思われる。佐竹義政は和議に応じたものの、その場で謀殺されている。先のウィキが基づいたところの「吾妻鏡」の当該箇所、治承四(一一八〇)年十一月四日から六日の条を実際に読もう。
*
〇原文
四日壬子。武衞着常陸國府給。佐竹者。權威及境外。郎從滿國中。然者。莫楚忽之儀。熟有計策。可被加誅罰之由。常胤。廣常。義澄。實平已下宿老之類。凝群議。先爲度彼輩之存案。以緣者。遣上總權介廣常。被案内之處。太郎義政者。申即可參之由。冠者秀義者。其從兵軼於義政。亦父四郎隆義在平家方。旁有思慮。無左右稱不可參上。引込于當國金砂城。然而義政者。依廣常誘引。參于大矢橋邊之間。武衞退件家人等於外。招其主一人於橋中央。令廣常誅之。太速也。從軍或傾首歸伏。或戰足逃走。其後爲攻撃秀義。被遣軍兵。所謂下河邊庄司行平。同四郎政義。土肥次郎實平。和田太郎義盛。土屋三郎宗遠。佐々木太郎定綱。同三郎盛綱。熊谷次郎直實。平山武者所季重以下輩也。相率數千強兵競至。佐竹冠者於金砂。築城壁。固要害。兼以備防戰之儀。敢不搖心。動干戈。發矢石。彼城郭者。構高山頂也。御方軍兵者。進於麓溪谷。故兩方在所。已如天地。然間。自城飛來矢石。多以中御方壯士。自御方所射之矢者。太難覃于山岳之上。又嚴石塞路。人馬共失行歩。因玆。軍士徒費心府。迷兵法。雖然。不能退去。憖以挾箭相窺之間。日既入西。月又出東云々。
五日癸丑。寅尅。實平宗遠等進使者於武衞。申云。佐竹所搆之塞。非人力之可敗。其内所籠之兵者。又莫不以一當千。能可被廻賢慮者。依之及被召老軍等之意見。廣常申云。秀義叔父有佐竹藏人。藏人者。智謀勝人。欲心越世也。可被行賞之旨有恩約者。定加秀義滅亡之計歟者。依令許容其儀給。則被遣廣常於侍中之許。侍中喜廣常之來臨。倒衣相逢之。廣常云。近日東國之親疎。莫不奉歸往于武衞。而秀義主獨爲仇敵。太無所據事也。雖骨肉。客何令與彼不義哉。早參武衞。討取秀義可令領掌件遺跡者。侍中忽和順。本自爲案内者之間。相具廣常。廻金砂城之後。作時聲。其音殆響城郭。是所不圖也。仍秀義及郎從等忘防禦之術。周章横行。廣常彌得力攻戰之間。逃亡云々。秀義暗跡云々。
六日甲寅。丑尅。廣常入秀義逃亡之跡。燒拂城壁。其後分遣軍兵等於方々道路。搜求秀義主之處。入深山。赴奥州花園城之由。風聞云々。
〇やぶちゃんの書き下し文(日ごとに注を附した)
四日壬子。武衞、常陸國府に着き給ふ。佐竹は權威を境外に及び、郎從は國中に滿つ。然れば、楚忽の儀莫く、
[やぶちゃん各注:・「軼ぐ」過ぎるの意味で、秀義の郎等は義政のそれよりも遙かに武運に優れている、の謂い。
・「旁々」これは副詞で、いずれにしても、どのみちの謂い。]
五日癸丑。寅の尅、實平・宗遠等、使者を武衞に
[やぶちゃん各注:・「佐竹藏人」佐竹義季(生没年未詳)。頼朝の挙兵には加わらなかったために頼朝軍の追討を受けたが、ここに見るように上総介広常の懐柔策に乗って頼朝軍に内通、甥佐竹秀義を亡ぼした。その功によって後に幕府御家人となったが、頼朝に、この時の親族の裏切りを疎まれ、文治三(一一八七)年三月二十一日に駿河へ蟄居させられている。
・「侍中」秀義。
・「衣を倒にして」慌てるさまを言うが、歓迎するの意にも用いる。ここは後者。]
六日甲寅。丑の尅、廣常、秀義逃亡の跡に入りて城壁を燒き拂ふ。其の後、軍兵等を方々の道路に分ち遣はして、秀義
[やぶちゃん各注:・「花園城」現在の茨城県北茨城市華川町花園にあった山城。]
*
「
○瀧口三郎經俊斬罪を宥めらる
[やぶちゃん注:標題「宥めらる」は「なだめらる」と訓ずる。
「山内瀧口三郎經俊」
・「禪室の
・「
・「矢の口巻」鏃を指し込んだ
・「
・「優じて」「優す(優ず)」はさ行変格活用の動詞で、厚くもてなす、優遇する、褒めるの謂いがある。ここは老乳母の、子息処罰への悲嘆を目の当たりにして、特別に厚遇し、特に経俊の死罪を減じて大目に見たことを指している。]
○木曾義仲上洛 付 平家都落
東國には兵衞佐賴朝の武威、日を
[やぶちゃん注:「西海南海」「西海」は九州、「南海」は四国及び紀伊半島を指す。
「緒方惟義」(生没年不詳)。惟栄・惟能とも書く。豊後大野郡の郡領
「河野通淸」?~養和元(一一八一)年)伊予国風早郡河野郷(現在の愛媛県北条市)を本領とし、伊予権介に任じて河野介と称した。頼朝をはじめとする反平家勢力が各地で蜂起した際、伊予国内で競合関係にあった
「治承四年六月に淸盛の計として、都を攝州福原に遷さる」治承四(一一八〇)年六月二日に京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれて、ここに正式に行宮が置かれ、清盛は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画していた(和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域。以上はウィキの「福原京」に拠る。次の注も同じ)。
「翌年十二月又舊都平安城に遷返す」「翌年」「十二月」はそれぞれ「同年」「十一月」の誤り。遷都から凡そ六ヶ月後の治承四(一一八〇)年十一月二十三日に京都へ還幸した。これは源氏の挙兵に対応するため、清盛が決断したとされる。
「同二年三月賴朝と義仲と不和に及ぶ」「同二年」では「養和二年」となるので誤り。寿永二(一一八三)年が正しい。この「不和」とは、寿永二(一一八三)年二月、頼朝と敵対し敗れた源為義三男志田義広及び、頼朝から追い払われた源為義十男源行家ら叔父が義仲を頼って身を寄せ、この二人を庇護したことで頼朝と義仲の関係が悪化したことに起因する。別説として「平家物語」「源平盛衰記」では甲斐武田氏第五代当主武田信光が娘を義仲嫡男義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したともある。義高は同三月中に鎌倉に入っている模様である(ウィキの「源義仲」に拠る)。
「かしづきて婿とせらる」「かしづきて」の「傅く」という動詞は①「大切に守る」・「大事に育てる」。②「世話を焼く」・「後見する」の謂いで、意味から高校生がしばしば間違えるが、謙譲の敬語では、ない。ここは②、「婿」は頼朝長女大姫の婿である。
「同四月平家の維盛、通盛を兩大將として、十萬餘騎北國に發向す」も前の誤りを構造上受けてしまうので、「同年」は寿永二(一一八三)年の誤りであると注しておく。「四月」十七日のことであった。
「越中國礪竝山」越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現在の富山県小矢部市及び石川県河北郡津幡町)で五月十一日に行われた倶利伽羅峠の戦い。
「俣野五郎景久」(?~寿永二(一一八三)年)相模国大庭御厨俣野郷の住人。身長六尺(約一八二センチメートル)を超える強力で相撲の名手とされる。治承四(一一八〇)年の石橋山の戦で平家方の兄大庭景親に従い、富士山北麓で甲斐源氏に敗戦、京都へ逃れた。その後、平維盛に従って六月一日、倶利伽羅合戦敗走後の加賀国篠原(現在の石川県加賀市旧篠原村地区)での篠原の戦いで敗れ、自害した。
「齋藤別當實盛」(天永二(一一一一)年~寿永二(一一八三)年)は越前国の出身、武蔵国幡羅郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれた。彼は義仲の父源
むざんやな甲の下のきりぎりす
の名吟を残しているのは周知の通りである。
「阿波民部重能」
「打靡けり」制圧した、の意。都落ち以降の平家をひたすら西海への遁走と滅びへの勾配としか捉えない「平家物語」を主軸とした文学的仏教的読みが多いが、私はそうは思っていない。例えば上横手雅敬氏の「源平の盛衰」(講談社文庫一九九七年刊)によれば、清盛を中心とした平家には、『畿内における軍事政権の樹立が困難であるならば、太宰府を中心とする九州ないしは内海の地域的軍事政権の樹立が構想されていたと考えてよ』く、『其の後の政治的推移によって実現はしなかったものの、のちに都落ちした平氏が最初に根拠地としたのは太宰府だった。そして地域的軍事政権とは、思い切った表現をするんならば、太宰府幕府(ないしは太宰府国家)のことなのである』と述べられ、治承三(一一七三)年の鹿ヶ谷の謀議を契機とする『クーデターによって成立した平家政権は、同四年の富士川での敗戦を契機として、養和元年以来、相次いで斬新な政策を打ち出し、武家政権への脱皮をとげつつあった。ただ、それらの政策が実を結ぶには、時すでにおそく、事態の転回は、より急速であった』と、目から鱗の歴史学上の解説されておられるが、まさにここでの「北条九代記」の筆者の書き振りと、そうした真相とが軌を一にしているように思われて私には甚だ興味深いのである。]
〇賴朝腰越に出づる 付 榎嶋辨才天
同四月五日、賴朝、逍遙の御爲に
[やぶちゃん注:「榎嶋」江の島。
「辨才天」弁才天は仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名。以下、ウィキの「弁財天」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更、注記記号を省略した)。『経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い』。『本来、仏教の尊格であるが、日本では神道の神とも見なされ「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と同一視されることがある』。『また、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である、市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることも多く、古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い』。『「サラスヴァティー」の漢訳は「辯才天」であるが、既述の理由により日本ではのちに「辨財天」とも書かれるようになった。「辯」と「辨」とは音は同じであるが、異なる意味を持つ漢字であり、「辯才(言語・才能)」「辨財(財産をおさめる)」を「辯財」「辨才」で代用することはできない。戦後、当用漢字の制定により「辯」と「辨」は共に「弁」に統合されたので、現在は「弁才天」または「弁財天」と書くのが一般的である』。『原語の「サラスヴァティー」は聖なる河の名を表すサンスクリット語である。元来、古代インドの河神であるが、河の流れる音や河畔の祭祀での賛歌から、言葉を司る女神ヴァーチェと同一視され、音楽神、福徳神、学芸神、戦勝神など幅広い性格をもつに至った。像容は八臂像と二臂像の二つに大別される。八臂像は「金光明最勝王経」「大弁才天女品(ほん)」の所説によるもので、八本の手には、弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・投げ縄)を持つと説かれる。その全てが武器に類するものである。同経典では弁才・知恵の神としての性格が多く説かれているが、その像容は戦神としての姿が強調されている』。『一方、二臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え、「大日経」では、妙音天、美音天と呼ばれる。元のサラスヴァティーにより近い姿である。ただし、胎蔵曼荼羅中に見える二臂像は、後世日本で広く信仰された天女形ではなく、菩薩形の像である』。『日本での弁才天信仰は既に奈良時代に始まっており、東大寺法華堂(三月堂)安置の八臂の立像(塑像)は、破損甚大ながら、日本最古の尊像として貴重である。その後、平安時代には弁才天の作例はほとんど知られず、鎌倉時代の作例もごく少数である』。『京都市・白雲神社の弁才天像(二臂の坐像)は、胎蔵曼荼羅に見えるのと同じく菩薩形で、琵琶を演奏する形の珍しい像である。この像は琵琶の名手として知られた太政大臣・藤原師長が信仰していた像と言われ、様式的にも鎌倉時代初期のもので、日本における二臂弁才天の最古例と見なされている。同時代の作例としては他に大阪府・高貴寺像(二臂坐像)や、文永三年(一二六六年)の銘がある鎌倉市・鶴岡八幡宮像(二臂坐像)が知られる。近世以降の作例は、八臂の坐像、二臂の琵琶弾奏像共に多く見られる』。以下、「習合」について。『中世以降、弁才天は宇賀神(出自不明の蛇神、日本の神とも外来の神とも)と習合して、頭上に翁面蛇体の宇賀神像をいただく姿の、宇賀弁才天(宇賀神将・宇賀神王とも呼ばれる)が広く信仰されるようになる。弁才天の化身は蛇や龍とされるが、その所説はインド・中国の経典には見られず、それが説かれているのは、日本で撰述された宇賀弁才天の偽経においてである』。『宇賀弁才天は八臂像の作例が多く、その持物は「金光明経」の八臂弁才天が全て武器であるのに対し、新たに「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなっている』。『弁才天には「十五童子」が眷属として従うが、これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれ、平安風童子の角髪(みずら)に結った姿をとる。十六童子とされる場合もある』。以下、近世の信仰についてが記されているが、江島神社が記載に現われ、また、本書を書き読んだ人々の意識の中の弁天信仰を考える上では必要であるので、やはり引用しておきたい。『近世になると「七福神」の一員としても信仰されるようになる。中世において、大黒天・毘沙門天・弁才天の三尊が合一した三面大黒天の像を祀った記録があり、大黒・恵比寿の並祀と共に、七福神の基になったと見られて』おり、『また、元来インドの河神であることから、日本でも、水辺、島、池、泉など水に深い関係のある場所に祀られることが多く、弁天島や弁天池と名付けられた場所が数多くある。そのため弁才天は、日本土着の水神や、記紀神話の代表的な海上神である市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、神社の祭神として祀られることが多くなった』。『「日本三大弁才天」と称される、竹生島・宝厳寺、宮島・大願寺、天川村・天河大弁財天社は、いずれも海や湖や川などの水に関係している(いずれの社寺を三大弁才天と見なすかについては異説があり、その他には、江ノ島・江島神社などがある)』。『弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となった。元々弁才天を祭神としていたが現在は市杵嶋姫命として祀る神社としては、奈良県の天河大弁財天社などがある。神奈川県の江島神社は主祭神を宗像三女神に改め、弁才天は摂社で祀られる』。『弁才天は財宝神としての性格を持つようになると、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることが多くなった。鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社はその典型的な例で、同神社境内奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰が』生じ、『近世以降の弁才天信仰は、仏教、神道、民間信仰が混交して、複雑な様相を示している』とある。ここで「北條九代記」の作者は、弁才天の持ち物のうち、「寶珠」に着目して語っており、これは以上の記載から、中世以降の八臂の宇賀弁才天像をイメージしており、現世利益の福財信仰としての視点が強く働いている(読者も同様であることを確信犯として)ことが看取出来る。
「同四月五日」文脈からは「同」は前段冒頭の治承五(一一八一)年となり、誤り。これは養和二(一一八二)年(五月二十七日に寿永に改元)の出来事である(従って前段の後半からは遡った内容となる)。この冒頭部分と末尾は「吾妻鏡」の四月五日の条に基づく。以下に示す。
〇原文
五日乙巳。武衞令出腰越邊江嶋給。足利冠者。北條殿。新田冠者。畠山次郎。下河邊庄司。同四郎。結城七郎。上総權介。足立右馬允。土肥次郎。宇佐美平次。佐々木太郎。同三郎。和田小太郎。三浦十郎。佐野太郎等候御共。是高雄文學上人。爲祈武衞御願。奉勸請大辨才天於此嶋。始行供養法之間。故以令監臨給。密議。此事爲調伏鎭守府將軍藤原秀衡也云々。今日即被立鳥居。其後令還給。於金洗澤邊。有牛追物。下河邊庄司。和田小太郎。小山田三郎。愛甲三郎等。依有箭員。各賜色皮紺絹等。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日乙巳。武衞、腰越邊江嶋に出でしめ給ふ。足利冠者・北條殿・新田冠者・畠山次郎・下河邊庄司・同四郎・結城七郎・上総權介・足立右馬允・土肥次郎・宇佐美平次・佐々木太郎・同三郎・和田小太郎・三浦十郎・佐野太郎等、御共に候ず。是れ、高雄の
・最初の「御共」の内の名が挙がる十六名の人物を順に以下に正字で示しておく。
足利義兼・北條時政・新田義重・畠山重忠・下河邊行平・下河邊政義・結城朝光・上総廣常・足立遠元・土肥實平・宇佐美實政・佐々木定綱・佐々木盛綱・和田義盛・三浦義連・佐野基綱
・「文學上人」頼朝に決起を促した文覺は、こうも書く。
・「金洗澤」七里ヶ浜の行合川の西。「新編鎌倉志卷之六」には『此所ろにて昔し金を掘りたる故に名く』とする。「金」とあるが、恐らくは稲村ヶ崎から七里ヶ浜一帯で採取される砂鉄の精錬を行った場所と考えられる。本「北條九代記」の「金洗坂」は「澤」の誤りである。
・「牛追物」鎌倉期に流行した騎射による弓術の一つ。馬上から柵内に放した小牛を追いながら、蟇目・
・牛追物の名の挙がる四名の射手を順に以下に正字で示す。
下河邊行平・和田義盛・小山田重成・愛甲三郎季隆
・「箭員有るに依りて」牛に的中した矢数が多かったので。
・「色皮・紺絹」色染めをした皮革や藍染めの絹。
「三世諸仏」過去・現在・未来の三世に亙って存在する一切の仏。
「転法輪」仏の教法を説くこと。真の仏法が誤った考えや煩悩を悉く破砕することを、
「利生」「
「化導」衆生を
「教法既に閻浮提に滅盡の時この大辨才龍宮にをさまるといへり」の「閻浮提」は仏教でいう人間が住むところの全世界のことであるから、これは末法思想に基づく謂いと考えられ、真の仏法の教え「教」は存在しても、「行」と「信」が行われなくなった末法にあっては、この弁財天は龍宮に隠れてしまうと言われている、の謂いであろう。仏法が尽き滅びる訳ではない。
「四王天三十二將」仏の守護神である四王天(持国天・増長天・広目天・多聞天)配下の護法善神である天部の弁才天・大黒天・吉祥天・韋駄天・摩利支天・歓喜天・金剛力士・鬼子母神・十二神将・十二天(帝釈天・火天・焔魔天・羅刹天・水天・風天・毘沙門天・
・「
・「數町」一町は約一〇九メートル。現在の地図で計測すると国道一三四号線の江ノ島入口から江ノ島大橋を渡り切ったところで凡そ六三五メートルあるが、当時の陸側の南端はもう少し内陸にあったと考えられるから、七〇〇メートル前後で、「數町」(数百メートル)という表現は妥当と言える。
「漣漪」さざ波が立つさま。
「數丈」一丈は約三メートル。いろいろ調べたが、現在の資料には御岩屋の内部の高さを記したものがない。私のブログ「鎌倉江の島名所カード 江ノ島・御岩屋」に掲載した写真から推測すると、開口部でも六メートル近くあり、海食洞の内部の手前はもっと抉れているから海面からは一〇前後はあろうか。当時とはかなり内部の様子が違うとは思うが、暗闇でもあるから「數丈」にはやや誇張が感じられはするが、不自然とは言い難い。なお、この写真は第一岩屋と思われる。因みに本記載とは余り比較にならないが、整備された現在の奥行きは第一岩屋が一五二メートル、第二岩屋が一一二メートルある。更に付け加えておくと、大正一二(一九二二)年九月一日の関東大震災で江の島付近は六〇センチメートルから一メートルほど隆起している。
「岌々」高いさま、また、危ういさまをも言う。
「役行者伊豆の大嶋に流されし時」飛鳥から奈良初期の修験道の開祖
「當來の出世に方て、三會説法の辨才はこの嶋より現るべし」の「當來の出世」とは、現在、兜率天で修行をしている弥勒菩薩が、釋迦入滅後の五十六億七千万年後の未来に如来となって姿を現すことを指す。「三會説法」はその弥勒菩薩が人間界に下った後、
「二世」「今世」と「後生」、現世と来世。
「悉地」梵語“Siddhi”の音写。成就の意。真言の秘法を修めて成就したところの悟りを言う。]
〇勝長壽院造立
木曾冠者義仲、京都に入て、平家追落の賞として、左馬頭に
[やぶちゃん注:「芹生」は現代音「せりょう」と読み、現在の京都市左京区大原の西方、大原川(高野川)の西岸にある草生の南の古名。
「十一月に鶴ヶ岡の東に方て、勝長壽院を建立し」前の部分に「去年壽永二」(一一八三)年とあるのを受け、ここはその翌年、改元して元暦元(一一八四)年の「十一月」である。但し、「十一月」二十六日に行われたのは土地に縄張りをして基礎造りを始める地曳始の儀(地鎮祭)で、その後、文治元(一一八五)年二月十九日に事始め(本格起工)が行われ(ここで「吾妻鏡」は本建物を『南御堂』と呼称している)、同四月十一日が立柱(起工式)が行われ、五ヶ月後の九月三日に義朝と鎌田正清の首級が、ここ『南御堂の地に』埋葬されたとある。成朝作の阿彌陀本尊が安置されたのは同十月二十一日で、この頃は堂と門が立っていたに過ぎなかったと考えられている。
「定朝」
「丈六」これは仏像用語で、これで一丈六尺の意。釈迦の身長が一丈六尺(約四・八五メートル)であったとされるのに因む。座像の場合は半分の八尺に作るが、それも丈六と言う。]
○淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎
木曾〔の〕義仲の嫡子淸水〔の〕冠者義高は人質として賴朝に渡されしを、婿にしてかしづかる。然るに義仲、朝敵の名に懸り、江州にて
[やぶちゃん注:過去、「新編鎌倉志巻之三」の「常楽寺 木曽塚」や「鎌倉攬勝考卷之五」の「常楽寺」で語ってきたように、これは鎌倉初期の出来事の中でも、私にとって最も忘れ難い、元暦元(一一八五)年四月の大姫(当時満六歳)と清水冠者義高(同じく十一歳)の悲恋のシークエンスである。以下に「吾妻鏡」の当該関連部分(四月二十一日・二十六日・六月二十七日)を示す。
〇原文(元暦元(一一八五)年四月小)
廿一日己丑。自去夜。殿中聊物忩。是志水冠者雖爲武衞御聟。亡父已蒙 勅勘。被戮之間。爲其子其意趣尤依難度。可被誅之由内々思食立。被仰含此趣於昵近壯士等。女房等伺聞此事。密々告申姫公御方。仍志水冠者廻計略。今曉遁去給。此間。假女房之姿。姫君御方女房圍之出墎内畢。隱置馬於他所令乘之。爲不令人聞。以綿裹蹄云々。而海野小太郎幸氏者。與志水同年也。日夜在座右。片時無立去。仍今相替之。入彼帳臺。臥宿衣之下。出髻。日闌之後。出于志水之常居所。不改日來形勢。獨打雙六。志水好雙六之勝負。朝暮翫之。幸氏必爲其合手。然間。至于殿中男女。只成于今令坐給思之處。及晩縡露顯。武衞太忿怒給。則被召禁幸氏。又分遣堀藤次親家已下軍兵於方々道路。被仰可討止之由云々。姫公周章令銷魂給。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿一日己丑。去ぬる夜より殿中聊か
而うして海野小太郎幸氏は志水と同年なり。日夜座右に在りて片時も立ち去ること無し。仍りて今、之れに相ひ替りて、彼の帳臺に入り、宿衣の下に臥して、髻を出だす。日
姫公、周章し、魂を
[やぶちゃん補注:「墎内」は「廓内」と同義で、御所内のこと。]
*
〇原文(元暦元(一一八五)年四月小)
廿六日甲午。堀藤次親家郎從藤内光澄皈參。於入間河原。誅志水冠者之由申之。此事雖爲密議。姫公已令漏聞之給。愁歎之餘令斷漿水給。可謂理運。御臺所又依察彼御心中。御哀傷殊太。然間殿中男女多以含歎色云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿六日甲午。堀藤次親家が郎從の藤内光澄、
[やぶちゃん補注:「皈參」は「返參」で帰参と同義。「入間河原に於いて」入間川八丁の渡し付近。現在の狭山市入間川三丁目には、後に政子が建てたとされる義高を祀る清水八幡宮が残る(「狭山市」公式HPの「清水八幡宮」)。]
*
[やぶちゃん補注:この間、五月一日の条に甲斐・信濃にあった清水冠者義高の残党征伐進発の下命の記事、同二日の条には『依志水冠者誅戮事。諸國御家人馳參。凡成群云々』とある。]
*
〇原文(元暦元(一一八五)年六月小)
廿七日甲申。堀藤次親家郎從被梟首。是依御臺所御憤也。去四月之比。爲御使討志水冠者之故也。其事已後。姫公御哀傷之餘。已沈病床給。追日憔悴。諸人莫不驚騷。依志水誅戮事。有此御病。偏起於彼男之不儀。縱雖奉仰。内々不啓子細於姫公御方哉之由。御臺所強憤申給之間。武衞不能遁逃。還以被處斬罪云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日甲申。堀藤次親家が郎從、
[やぶちゃん補注:「内々に子細を姫公の御方に啓さざるや」は頭に「何故」などが省略されていよう。逆に破格が政子の憤激を伝える。]
「朝敵の名に懸り」この「懸り」は、私には仕組まれた
「
「海野小太郎幸氏」
「宿直」
「日闌る」日がすっかり昇る。
「
「漿水」
「理に伏して」大姫がかくなるも、仕方なく、もっともなること、と思い。
「楚忽」粗忽。]
○義經の妾白拍子靜
北條四郎時政上洛して、平氏の一類所々に
吉野山みねの白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ戀しき
しつやしづしづの
その聲の美しさ、空に滿ち、雲に通ひ、梁塵、
[やぶちゃん注:「北條四郎時政上洛」は文治元(一一八五)年十一月二十五日。同日、行家・義経の追補の宣旨が下された。以下に見るように、これは静捕縛の十二日後で、「吾妻鏡」では、その間に、
十八日の条に前日に捕縛された静の供述(後注参照)に基づき、更なる(これより前から捜索は行われていた)吉野の僧徒による義経の山狩りの記事が載り、静については、『靜者。執行頗令憐愍相勞之後。稱可進鎌倉之由云々。』(靜は、
同二十日の条には、義経・行家が京都を出立して、先の六日に大物の浜から船に乗り込んで出帆せんとした際、暴風に遭って難破したという噂の立っているところに、帰京した八島時清によって、二人は現在も死んでいない、という情報が齎されたとある。同条は続けて、義経とともに九州へ落ちようとしていた平時実(義経に接近した平時忠の子で、父時忠同様、流罪の判決を受けながらも執行が猶予されて未だ京都にいた)の捕縛記事が載る(なお、この時実は文治二(一一八六)年一月に上総国に配流されるが、文治五(一一八九)年には赦免されて帰京し、建暦元(一二一一)年には従三位に叙されている)。
二十二日には、
〇原文
辛丑。豫州凌吉野山深雪。潜向多武峰。是爲祈請大織冠御影云々。到着之所者。南院内藤室。其坊主号十字坊之惡僧也。賞翫豫州云々。
〇やぶちゃんの書き出し文
廿二日辛丑。豫州吉野山の深雪を凌ぎ、
到着の所は、南院の内、
ともある(「多武峰」は現在の奈良県桜井市南部にある山及びその一帯の地域名。「大織冠」は藤原鎌足で、伝承によれば多武峰には、鎌足長男の僧定恵が父の墓をここに遷したとされている。「藤室」南院藤室という多武峰に林立していた寺の一つらしい。現在の多武峰観光ホテル付近にあったという。「惡僧」は豪勇の僧兵の意。)。
「遍照寺」右京区嵯峨広沢西裏町にある真言宗の寺院。通称、広沢不動尊。
「高雄の文覺上人」この「平家物語」の「六代斬られ」で知られる六代(彼は平清盛の祖父正盛から数えて直系六代目に当たる)平高清捕縛と、文覚による助命嘆願(六代は彼の弟子であった)は「吾妻鏡」の同年十二月一七日の条に、その頼朝による許諾(文覚へ御預け)は同十二月二十四日の条に載る。六代はこの後、文治五(一一八九)年)に剃髪して妙覚と号し、建久五(一一九四)年五月に鎌倉に下向、大江広元を通じて頼朝に異心無く出家した旨を伝え、同六月十五日には頼朝に謁見、「吾妻鏡」の記載からは、その後に関東の一寺の別当職に任ぜられたものかとも思われる。その後も僧として諸国行脚したが、頼朝の死の直後、庇護者であった文覚が三左衞門事件で土御門通親襲撃計画の謀略に連座して隠岐に配流されると、六代も文覚坊の宿所であった京の二条猪熊猪熊にて捕縛され、鎌倉へ護送の上、逗子の田越川畔にて処刑された。享年二十七歳であった。
「伊豫守義經の妾靜女といふ白拍子は義經歿落して、吉野山に捨てられしを、吉野の執行是を藏王堂の邊にして捕へたり」静捕縛の記事は文治元年十一月十七日の記事の現われる。以下に示す(以下、「吾妻鏡」の補注は「・」で示した)。
●主題 アリア 静の捕縛と最初の供述
〇原文
十七日丙申。豫州籠大和國吉野山之由。風聞之間。執行相催惡僧等。日來雖索山林。無其實之處。今夜亥剋。豫州妾靜自當山藤尾坂降到于藏王堂。其躰尤奇恠。衆徒等見咎之。相具向執行坊。具問子細。靜云。吾是九郎大夫判官〔今伊與守〕妾也。自大物濱豫州來此山。五ケ日逗留之處。衆徒蜂起之由依風聞。伊與守者假山臥之姿逐電訖。于時與數多金銀類於我。付雜色男等欲送京。而彼男共取財寳。弃置于深峯雪中之間。如此迷來云々。
〇やぶちゃんの書き下し文(「伊與」を「伊豫」に変えた)
十七日丙申。豫州、大和國吉野山に籠るの由、風聞の間、
以下、「吾妻鏡」注。
・「執行」「しゆぎやう(しゅぎょう)」とも読み、寺社で諸務を行う僧の統括責任者。
・「藤尾坂」吉野山中千本にある。
・「藏王堂」中千本にある
・「執行坊」先に
・「大物の濱」現在の兵庫県尼崎市の海浜部の旧地名。古くは
「白拍子」平安末から鎌倉にかけて流行した白拍子という歌舞を演じた主に女性(子供)の芸人。今様や朗詠などを歌いつつ、水干・立烏帽子に佩刀という男装にて舞ったことから男舞とも言われた。ウィキの「白拍子」によれば、『古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという』。『このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった』とある。
「都に上せて北條に送渡す」吉野の執行が静を京の北条時政の元へ護送したのは、捕縛から十九日後の十二月八日であったが、その直後に時政によって尋問が行われ、一週間後の十五日に鎌倉にその内容が伝えられた。
●第一変奏 静の北条時政による尋問とその供述
〇原文
十五日甲子。北條殿飛脚自京都參着。被注申洛中子細。謀反人家屋等先點定之。同意惡事之輩。當時露顯分。不逐電之樣廻計略。此上又申師中納言殿畢。次豫州妾出來。相尋之處。豫州出都赴西海之曉。被相伴至大物濱。而船漂倒之間。不遂渡海。伴類皆分散。其夜者宿天王寺。豫州自此逐電。于時約曰。今一兩日於當所可相待。可遣迎者也。但過約日者速可行避云々。相待之處。送馬之間乘之。雖不知何所。經路次。有三ケ日。到吉野山。逗留彼山五ケ日。遂別離。其後更不知行方。吾凌深山雪。希有而著藏王堂之時。執行所虜置也者。申狀如此。何樣可計沙汰乎云々。
若公御平愈云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十五日甲子。北條殿が飛脚、京都より參着す。洛中の子細を注し申さる。謀反人が家屋等、先ず之を
「豫州都を出で西海へ赴くの曉、相ひ伴はれて大物の濱へ至る。而るに船、
若公、御平愈と云々。
・「點定」土地・家屋・農作物を没収又は差し押さえすること。
・「師中納言」公卿吉田経房(永治二(一一四二)年~正治二(一二〇〇)年)。藤原光房の子。彼は頼朝に高く評価されて初代関東申次(新設の朝廷職で鎌倉幕府方の六波羅探題とともに朝廷・院と幕府の間の連絡・意見調整を行った)の濫觴となったと考えられている。ただ、平氏政権下に於いて極めて順調に出世し乍ら、何故、彼がここに至って同じく順調に新幕派の地位就けたのかは、よく分かっていない。参考にしたウィキの「吉田経房」によれば、経房はその兄と二代に渡って『伊豆守であり、伊豆国の在庁官人であった頼朝の義父・北条時政と交流があったという説がある。また経房と頼朝の関係を見ると、二人ともかつては上西門院の側近で面識があったと考えられ』、その辺に真相がありそうではある。
・「若公」源頼家。十一日に急病を発していた。
「關東に下すべき由仰に依て鎌倉に遣す」前の時政の伝令を受けて、翌文治二(一一八六)年一月廿九日の条に、
●第二変奏 頼朝による静の鎌倉護送指令
〇原文
廿九日戊申。豫州在所于今不聞。而猶有可被推問事。可進靜女之由。被仰北條殿云々。又此事尤可有沙汰由。付經房卿令申給云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿九日戊申。豫州が在所今に聞かず。而うして猶ほ推問せらるべき事有り、靜女を
又、此の事尤も沙汰有るべき由、經房卿に付して申さしめ給ふと云々。
とある。最後の部分は、後白河法皇に対する義経探索の徹底要請の謂いである。因みに、実は例の頼朝の後白河法皇に対する、かの有名な驚天動地の評言『仍日本第一大天狗者。更非他者歟。』(仍つて日本第一の大天狗は、更に他者に非ざるか。)は、正に静捕縛の文治元年十一月十七日の前条同月十七日の条の最後に現われている。
以上を受けて時政は、
●第三変奏 時政の静鎌倉護送了解
〇原文
十三日辛酉。當番雜色自京都著。進北條殿状等。靜女相催可送進。(以下略)
〇やぶちゃん書き下し
十三日辛酉。當番の雜色、京都より參着し、北條殿の状等を進ず。靜女を相ひ催し送り進ずべし。
と送っている。この次項の二月十八日には『豫州隱住多武峯事風聞。依之彼師壇鞍馬東光坊阿闍梨。南都周防得業等。有同意之疑。可被召下之云々。』(豫州多武峯に隱れ住む事風聞す。之に依りて彼の師壇鞍馬の東光坊阿闍梨、南都の
「その母磯禪師」磯禅師(生没年不詳)は白拍子の租ともされる人物。静御前の母で礒野禅尼とも。以下、ウィキの「磯禅師」によれば、『出身地は大和国磯野(現在の奈良県大和高田市礒野)とも讃岐国小磯(現在の香川県東かがわ市小磯)ともいわれる。自身も白拍子であり、『貴嶺問答』によると京の貴族の屋敷に白拍子の派遣などを行っていた』。鳥羽天皇の御世、藤原信西がすぐれた曲を選んで、磯禅師に白い水干に鞘巻をさし、烏帽子の男装で舞わせたのが白拍子の始まりと「徒然草」にあり、静御前に白拍子を伝えたとする。但し、「徒然草」は磯禅師や静御前が生きた時代から一五〇年も後に書かれたものであるからその信憑性はないに等しい、とある。『奈良県大和高田市礒野は礒野禅尼の里といわれ』、本文に示された総てが終わった後、『静はここに身を寄せたとも伝えられる』とある。
「その母磯禪師も伴うて下りしに……」静磯禅師の鎌倉下向は、先の時政の手紙参着から三十一日後の文治二(一一八六)年三月一日であった。この日は奇しくも諸国惣追捕使・地頭職が補せられた、幕府の地固めのエポック・メーキングな日でもある(以下の前略部分がそれ)。
●第四変奏 静及び母磯禅師鎌倉参着
〇原文
一日己夘。(前略)
今日。豫州妾靜依召自京都參着于鎌倉。北條殿所被送進也。母礒禪師伴之。則爲主計允〔行政〕沙汰。點安逹新三郎宅招入之云々。
〇やぶちゃん書き下し文
今日、豫州が妾靜、召に依りて京都より鎌倉に參着す。北條殿送り進ぜらるる所なり。母の礒禪師、之を伴ふ。則ち
・「主計允」二階堂行政(生没年不詳)。代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。当時は藤原姓であったが、後に鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂と称した。
・「沙汰」は主担当。
・「安逹新三郎」安達清経(生没年未詳)。安達景盛の子、安達盛長の孫に当たる。当時は雑色の頭領であったが、義経と不和になった頼朝の命によって、以前から京都で義経の監視及び報告の任務を任ぜられた人物でもある。
・「點じて」は、指定して、の意。
「筑後途權守俊兼」藤原俊兼(生没年未詳)。頼朝の右筆。
「民部丞盛時」平盛時(生没年不詳)。同じく頼朝の右筆。彼らは一応、政所上級官僚として庶務に当たったようであるが、実際には頼朝の個人的秘書としての性格が強い。
「義經の事を尋ね
●第五変奏 幕府による静への尋問とその供述
〇原文
六日甲申。召靜女。以俊兼盛時等。被尋問豫州事。先日逗留吉野山之由申之。太以不被信用者。靜申云。非山中。當山僧坊也。而依聞大衆蜂起事。自其所以山臥之姿。稱可入大峯之由入山。件坊主僧送之。我又慕而至一鳥居邊之處。女人不入峯之由。彼僧相叱之間。赴京方之時。在共雜色等取財寳。逐電之後。迷行于藏王堂云々。重被尋坊主僧名。申忘却之由。凡於京都申旨。與今口狀頗依違。任法可召問之旨。被仰出云々。又或入大峯云々。或來多武峯後。逐電之由風聞。彼是間定有虛事歟云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
六日甲申。靜女を召し、俊兼、盛時等を以つて、豫州の事を尋ね問はる。「先日、吉野山に逗留の由、之を申す。太だ以て信用ぜられず。」てへれば、靜、申して云はく、「山中に非ず、當山の僧坊なり。而るに大衆蜂起の事を聞くに依りて、其の所より山臥の姿を以つて、大峯に入るべきの由を稱して入山す。件の坊主の僧、之を送る。我、又、慕ひて一の鳥居の邊に至るの處、女人は
又、或ひは大峯に入ると云々。或ひは多武峯に來たりて後、逐電の由、風聞す。彼れ是れの間、定めて虛事有るかと云々。
「依違」曖昧な態度をとること。
この記載の後、「吾妻鏡」では同三月二十二日の条に、
●第六変奏 静懐妊の明示
〇原文
廿二日庚子。靜女事。雖被尋問子細。不知豫州在所之由申切畢。當時所懷妊彼子息也。産生之後可被返遣由。有沙汰云々。
〇やぶちゃんの書きし出し文
廿二日庚子。靜女の事、子細を尋ね問はると雖も、豫州の在所を知らざる由、申し切り畢んぬ。當時、彼の子息を懷妊する所なり。
『賴朝卿御臺所鶴ヶ岡にまゐらせらる。御臺の仰に、「かの靜と云ふ白拍子は今樣の上手にて舞の曲は世に雙なしと聞く。……』以下は、同年四月八日の条に基づく。
●第七変奏 鶴岡八幡宮寺上宮廻廊に於ける静の舞の一件
〇原文
八日乙夘。二品幷御臺所御參鶴岳宮。以次被召出靜女於廻廊。是依可令施舞曲也。此事去比被仰之處。申病痾之由不參。於身不屑者者。雖不能左右。爲豫州妾。忽出揚焉砌之條。頗耻辱之由。日來内々雖澁申之。彼既天下名仁也。適參向。歸洛在近。不見其藝者無念由。御臺所頻以令勸申給之間被召之。偏可備 大菩薩冥感之旨。被仰云々。近日只有別緒之愁。更無舞曲之業由。臨座猶固辞。然而貴命及再三之間。憖廻白雪之袖。發黄竹之歌。左衞門尉祐經鼓。是生數代勇士之家。雖繼楯戟之塵。歷一﨟上日之職。自携歌吹曲之故也。從此役歟。畠山二郎重忠爲銅拍子。靜先吟出歌云。よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこひしき。次歌別物曲之後。又吟和歌云。しつやしつしつのをたまきくり返し昔を今になすよしもかな。誠是社壇之壯觀。梁塵殆可動。上下皆催興感。二品仰云。於八幡宮寳前。施藝之時。尤可祝關東万歳之處。不憚所聞食。募反逆義經。歌別曲歌。奇恠云々。御臺所被報申云。君爲流人坐豆州給之比。於吾雖有芳契。北條殿怖時宜。潛被引籠之。而猶和順君。迷暗夜。凌深雨。到君之所。亦出石橋戰塲給之時。獨殘留伊豆山。不知君存亡。日夜消魂。論其愁者。如今靜之心。忘豫州多年之好。不戀慕者。非貞女之姿。寄形外之風情。謝動中之露膽。尤可謂幽玄。抂可賞翫給云々。于時休御憤云々。小時押出〔卯花重。〕於簾外。被纏頭之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
八日乙卯。
近日、只だ
吉野山峯の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ戀しき
次に
しづやしづしづの
誠に是れ、社壇の壯觀、梁塵も
御臺所、
時に御憤り
・「二品」官位の二位の異称、吾妻鏡では右大将家とともに頼朝のことを指す。頼朝は文治五(一一八九)年一月五日に四十三歳で正二位に昇叙している。
・「身の不屑に於いては、左右に能はず」「不屑」は不肖で不幸の意、自身が囚われの身となっていることを言う。「左右に能はず」捕縛者である頼朝の命に服さないということなど出来ようはずもないところであるが、の意。
・「豫州の妾として忽ちに掲焉の砌りに出ずるの条」「掲焉」は「けつえん」とも読み、目立つさま、著しいさま。『義経のたかが愛人として、あからさまに会衆の面前に晒され出でるということは』の意。
・「偏へに大菩薩の冥感に備ふべきの旨」頼朝(若しくは政子)が、『これはもう屹度、神仏ながらも八幡台菩薩さえそなたの妙技に感じ給うに違いない』と静を引きだすためにヨイショしているのである。いや、懼れ多い神仏の名を出して、最早、彼女に拒絶出来ないようにする目的もあろう。巫女の系譜を引く白拍子ならばこそ、また猶更に出坐の拒否は出来なくなったとも言えようか。
・「近日、只だ別緒の愁ひ有り。更に舞曲の業無き」「別緒」は情緒・感情の意で、悲嘆限りなき感懐にうちひしがれて、の意。懐妊の悦びも束の間、咎人となった義経、その別離を言う。「更に舞曲の業無き」とは、『それ故に、とても
・「憖ひに」自分の意志に反して無理に行うことを言う。
・「黄竹の歌」は
・「左衞門尉祐經」工藤祐経(?~建久四(一一九三)年)。頼朝の寵臣。曽我兄弟に父河津祐泰の仇として討たれる彼である。
・「一﨟」六位蔵人の首席。
・「上日」「じょうにち」とも読み、本来は古代の官人が宮中へ出勤した日、また、その日に出勤することを指した。ここではかつて朝廷へ蔵人として勤務していたことを指している。
・「銅拍子」禅宗で法会に用いる銅製のシンバル。
・「吉野山峯の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ戀しき」は、「古今和歌集」の第三二七番歌壬生忠岑の、
み吉野の山の白雪踏み分けて入りしにし人のおとづれもせぬ
の本歌取りで、消息文さえ寄越さぬ遁世者を雪山に消えた義経に代えている。
・「別物の曲」別離を主題とした今様の舞。
・「しづやしづしづの苧環かへし昔を今になすよしもがな」「伊勢物語」第三十二段の、
いにしへのしづのをだまきくりかへしむかしを今になすよしもがな
の本歌取りである。「しづ」は「倭文」という字を宛てる日本古来の織物の糸で、梶や麻などの
「梁塵
「和順」(人を信じ)心穏やかに従うこと。
・「外に形はるるの風情に寄せ、中に動くの露膽を謝す」政子は『――見せて呉れた舞と、その立ち姿の――外へと十二分に放たれた、その美しき風情――これ、謂いようもない上に――その心の内に動いた――その静の素直にして一途な思いにも――
・「幽玄」奥深く計り知れぬほどに美しいこと。
・「卯の花重」重ねの色目で、夏の初めの装束。かなり後になるが、永正三(一五〇六)年に書かれた「女官飾鈔」には小袿が葡萄〔表・蘇芳/裏・
・「纒頭」祝儀として貰った衣服を頭に纏ったところから、歌舞・演芸などをなした者に褒美として衣服・金銭などを与えること、また、そのものを言う。
「奉幣」神に
「白雪」白雪曲。春秋戦国時代に遡る琴の名曲。
「工藤祐經、梶原景茂、千葉常秀、八田朝重、藤判官代邦通等靜が旅宿に行向ひ、酒宴を催して遊びけり。……」このシーンは鶴岡の舞の一件から凡そ一月後の「吾妻鏡」文治五年五月十四日の条に基づく。
●第八変奏 静、梶原景孳茂の酔狂を咎む
〇原文
十四日辛夘。左衞尉祐經。梶原三郎景茂。千葉平次常秀。八田太郎朝重。藤判官代邦通等。面々相具下若等。向靜旅宿。玩酒催宴。郢曲盡妙。靜母磯禪師又施藝云々。景茂傾數盃。聊一醉。此間通艶言於靜。靜頗落涙云。豫州者鎌倉殿御連枝。吾者彼妾也。爲御家人身。爭存普通男女哉。豫州不牢籠者。對面于和主。猶不可有事也。况於今儀哉云々。(後略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十四日辛夘。左衞門尉祐經、梶原三郎景茂、千葉平次常秀、八田太郎朝重、藤判官代邦通等、面々に
景茂、數盃を傾け、聊か一醉す。此の間、艶言を靜に通ず。靜、頗る落涙して云はく、「豫州は鎌倉殿が御連枝、吾は彼の妾なり。御家人の身として、
「梶原三郎景茂」(仁安二(一一六七)年~正治二(一二〇〇)年)は梶原景時三男。源平合戦及び後の奥州合戦でも戦功を挙げて建久元(一一九〇)年には左兵衞尉に任ぜられたが、正治元(一一九九)年の御家人六十六名による梶原景時糾弾の連判状によって父とともに鎌倉を追われ、後、父に従って京へと登る途中、駿河国にて在地武士団の襲撃を受けて討死にした。参考にしたウィキの「梶原景茂」によれば、彼の『子孫は、子の景永が陸奥国の早馬神社に下向し(既に景時の兄景實が開いていた)、室町時代には近畿、さらに阿波国、讃岐国へと広がり、一部は尾張国に住み、織田信長の家臣となった』とある。
「千葉平次常秀」(生没年不詳)千葉常胤の孫。上総千葉氏の祖。源平合戦及び後の奥州合戦でも祖父常胤とともに戦って戦功を挙げ、建久元(一一九〇)年の頼朝上洛に従った際、祖父に譲られて左兵衞尉に任ぜられている。
「八田太郎知重」(長寛二(一一六四)年~安貞二(一二二八)年)頼朝古参の重臣八田知家嫡男であるが、承久の乱以後の行跡は不明。
「大和判官代藤原邦道」「吾妻鏡」には多数登場するが詳細不詳。
・「郢曲」は平安から鎌倉にかけての日本の宮廷音楽の内で「歌いもの」に属するものの総称。語源は春秋戦国時代の楚の首都郢で歌唱されたという卑俗な歌謡に由来する。参照したウィキの「郢曲」によれば、『平安時代初期には朗詠、催馬楽、神楽歌、風俗歌など宮廷歌謡の総称であったが、平安時代中期には今様(今様歌)を含むようになり、平安末期からは神歌(かみうた)、足柄、片下(かたおろし)、古柳(こやなぎ)、沙羅林(さらのはやし)などの雑芸をも包含し、歌謡一般を指す広い意味のことばとなった』とし、『鎌倉時代に、前代の今様を受けて鎌倉を中心とする東国の武士たちに愛唱されたのが、早歌と呼ばれる長編歌謡で』、これは「源氏物語」「和漢朗詠集」といった本邦の文芸作品や仏典・漢籍を出典とする七五調を基本とする歌謡で、本話柄よりも遙かにあとではあるが、永仁四(一二九六)以年前成立の歌謡集「宴曲集」は歌謡作者明空の編纂による。現在の研究でも早歌は「郢曲」の範疇に含めることがあり、あるいは、公家の郢曲にかわる「武家の郢曲」ともいうべき性格を有する歌謡であったとも考えられている。『その詞章には、武家ならでは思考法や美意識の反映がみられ、後代の曲舞や能楽の成り立ちにも多大な影響をあたえることとなったといわれている』とあって、このシークエンスを想像する際、非常に参考になる。
・「御連枝」貴人の兄弟姉妹。
・「今の儀」景茂が静を口説いたことを指す。
この記載以降の「吾妻鏡」の静―義経関連記事を順に見ると、
同五月二十七日の条には、夜、静が、南御堂に参籠していた大姫の仰せによって参上、芸を奉って禄を受けている。同月十七日に『常に御邪氣の御氣色あ』ってそれを退治するため十四日間の参籠に入っていた。この日は、やや早いのだが、その参籠最後の夜であったと記す。……当時、大姫は数え九歳……義高との悲恋に重いPTSDとなった彼女は、傷心の静と、そこで、何を思い、どのような言葉を交わしたのであろうか?……想像してみたくなるシークエンスではないか。……
同六月七日の条には、義経、伊勢神宮に参詣、その後に大和に姿を現したなどの風聞が書かれ、
同六月十三日の条には、義経の母(常盤御前)・妹の捕縛と鎌倉への護送伺の記事が載る。「玉葉」によれば、この時、常盤は義経が岩倉にいると証言したため捜索が行われたが、すでに逃げた後であったとし、この二人も鎌倉へ送られた形跡はなく、釈放されたものとみられ、これが常盤に関する記録の最後となる(ウィキの「常盤御前」に拠る)。
同六月二十二日の条に、義経、仁和寺・
それから一月半ほどが経った同閏七月十日の条には、義経を手引きしたとす
同二十六日の条には、先の五郎丸の白状に基づいて、義経に味方する叡山の僧を差し出すよう、座主全玄に連絡したところ、彼らは既に逃亡したとの答えであったが、にも拘わらず、未だ十一日の段階では延暦寺に潜んで居るかのような噂が絶えず、その旨、後白河法皇へ奏聞、それを受けて十六日に公卿の
「文治二年閏七月二十九日靜即ち男子を産生す。……」以下に「吾妻鏡」を示す。
●第九変奏 静、男子を出産し、殺害さる
〇原文
閏七月小廿九日庚戌。靜産生男子。是豫州息男也。依被待件期。于今所被抑留歸洛也。而其父奉背關東。企謀逆逐電。其子若爲女子者。早可給母。於爲男子者。今雖在襁褓内。爭不怖畏將來哉。未熟時斷命條可宜之由治定。仍今日仰安逹新三郎。令弃由比浦。先之。新三郎御使欲請取彼赤子。靜敢不出之。纏衣抱臥。叫喚及數剋之間。安逹頻譴責。礒禪師殊恐申。押取赤子與御使。此事。御臺所御愁歎。雖被宥申之不叶云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿九日庚戌。靜、男子を
・「礒禪師、殊に恐れ申し」は御使清経の権幕へではなく、間接的な頼朝への畏怖表現である。
「八月十五日靜は暇給はりて都に上る。樣々の重寶共御臺、姫君の御方より給はりけり」これは文治二(一一八六)年「九月」十五日の誤り。
●終曲 アリア 静と磯禅師の帰洛
〇原文
十六日己未。靜母子給暇歸洛。御臺所幷姫君依憐愍御。多賜重寳。是爲被尋問豫州在所。被召下畢。而別離以後事者。不知之由申之。則雖可被返遣。産生之程所逗留也。
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日己未。靜母子、暇を給はりて歸洛す。御臺所幷びに姫君、
ここに最後に大姫が登場していることを見逃してはならない。大姫は確かに静の一片の氷心――確かな女の真心――を……つらまえていたのである。……静は――去ってゆく――]
〇西行法師談話
八月十五日、賴朝卿、鶴ヶ岡に參詣し給ふ。御下向の道に於て一人の老僧鳥居の
[やぶちゃん注:「同年」文治二(一一八六)年。以上は「吾妻鏡」に拠る。八月十五・十六日両日の条を以下に示す。
〇原文
十五日己丑。二品御參詣鶴岡宮。而老僧一人徘徊鳥居邊。恠之。以景季令問名字給之處。佐藤兵衞尉憲淸法師也。今号西行云々。仍奉幣以後。心靜遂謁見。可談和歌事之由被仰遣。西行令申承之由。廻宮寺奉法施。二品爲召彼人。早速還御。則招引營中。及御芳談。此間。就哥道幷弓馬事。條々有被尋仰事。西行申云。弓馬事者。在俗之當初。憖雖傳家風。保延三年八月遁世之時。秀郷朝臣以來九代嫡家相承兵法燒失。依爲罪業因。其事曾以不殘留心底。皆忘却了。詠哥者。對花月動感之折節。僅作卅一字許也。全不知奥旨。然者。是彼無所欲報申云々。然而恩問不等閑之間。於弓馬事者。具以申之。即令俊兼記置其詞給。縡被專終夜云々。
十六日庚寅。午剋。西行上人退出。頻雖抑留。敢不拘之。二品以銀作猫。被宛贈物。上人乍拝領之。於門外與放遊嬰兒云々。是請重源上人約諾。東大寺料爲勸進沙金。赴奥州。以此便路。巡礼鶴岡云々。陸奥守秀衡入道者。上人一族也。
〇やぶちゃん書き下し文
十五日己丑。二品、鶴岡宮に御参詣。而して老僧一人、鳥居邊に徘徊す。之を
仍て
然れども、恩問、
即ち、俊兼をして其の詞を記し置かしめ給ふ。
十六日庚寅。午剋、西行上人退出す。頻りに抑へ留むと雖も、敢て之に拘はらず。二品、
是れ、
陸奥守秀衡入道は、上人の一族なり。
西行(元永元(一一一八)年~文治六(一一九〇)年)は当時、満六十八歳、頼朝三十九歳であった。「宮寺を廻り、法施奉る」は西行の行動。
・「保延三年八月遁世の時」西暦一一三七年。このクレジットで鳥羽院の北面武士としての記録が残り、現在の知見では、西行の出家は保延六(一一四〇)年十月十五日のこととする。
・「秀郷」弓の名手として知られた将門討伐の猛将鎮守府将軍藤原秀郷。西行、俗名佐藤義清は藤原秀郷の流れを汲む佐藤氏の嫡子として生まれ、秀郷から数えて九世の孫に当たる。
・「憖ひに」ここでは、(祖秀郷の弓術の直伝を)中途半端に、の謙遜。
・「恩問」他者の訪問や書状を敬いって感謝の意をこめていう語。誠意を込めた(頼朝公の)お訊ね。
・「俊乘坊重源上人」(ちょうげん 保安二(一一二一)年~建永元(一二〇六)年)。紀季重の子。長承二(一一三三)年、真言宗の醍醐寺で出家、南宋を三度訪れたともされる(彼自身の虚説とも)。後に法然に学び、四国・熊野など各地で修行をして勧進念仏を広め、勧進聖の祖となった。東大寺大勧進職として治承四(一一八〇)年十二月の平家攻略により焼失した東大寺の再建復興を果たした。
「是は俊乘坊重源上人に約をうけ、東大寺勸進の爲奥州秀衡は一族なれば、陸奥に赴くたよりに鶴ヶ岡に順禮すと聞えたり」という附言は意味深長である。まず、前日の冒頭で「老僧一人、鳥居邊に徘徊す」とあるが、これは明らかな意識的な行動に見えてくるということだ。「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条では、西行はこの日が放生会であることを知っており、実は彼の頼朝謁見は計画的な行動であったのであり、『頼朝との面会の意図は、東大寺勧進物の安全な輸送を取り付けるためだと思われる』と注されておられる(因みにここで梶原景季を不審僧の確認に遣わしたことについても彼の父『梶原平三景時共々徳大寺の被官をやっていた。西行も同じなので、知り合いらしい』とある)。穿って考えるならば、義経を庇護している疑いが濃厚な秀衡の、義経隠匿の状況や秀衡自身及びその周辺事情の探索を頼朝が暗に西行に依頼したという可能性もないとは言えまい。]
○伊豫守義經自殺
伊豫守義經、備前守行家は賴朝卿に背き奉りて
[やぶちゃん注:「和泉国近木郷」「近木」は「こぎ」と読む。
「常陸房昌明」(生没年未詳)は「しょうみょう」とも読む。当初は延暦寺の僧であったが武芸に優れ、平家滅亡後は北条時政に従い、京都警備に当たった。ここにある源行家追討、奥州藤原攻め、承久の乱で活躍、
「堀彌太郎景光」(?~文治二(一一八六)年)出自不明。「平治物語」では『金商人』とあることから、金売り吉次の後身とも伝えられる。当初、義経都落ちに同行したが、後に別れて京都潜伏中に文治二(一一八六)年九月二十日に捕縛され、義経が南都興福寺の聖弘得業に匿われている(前出)こと、義経の使者として後白河法皇の近臣藤原範季と連絡をちっていたを白状している。その後に斬首されたとも言われるが定かではない。
「糟屋藤太」糟屋有季(?~建仁三(一二〇三)年)。相模国大住郡糟屋荘(現在の伊勢原市一帯)荘司糟屋盛久の子。妻は比企能員の娘。石橋山の戦いでは大庭景親に従っていたが、その後、頼朝に臣従したと見られ、寿永二(一一八三)年には源義経率いる源義仲討伐軍に属して、宇治川の戦いに加わっている。文治二(一一八六)年、失脚して都落ちした義経探索のため、比企朝宗の手勢に属して上洛、義経の郎党佐藤忠信・堀景光を捕縛した。奥州合戦に従軍、頼朝死後の正治二(一二〇〇)年に起った梶原景時の変では景時討伐軍に属して賞を受けている。建仁三(一二〇三)年九月二日に比企能員の変が勃発、能員の娘婿であった有季は比企一族とともに北条義時軍と戦って討死にした。参照したウィキの「糟屋有季」によれば、この時、『有季が頼家の子一幡を逃がすべく小御所に立て籠もり、敵方に命を惜しまれて逃げるように呼びかけれられたが答えず、最後まで奮戦して討ち死にした様子が』「愚管抄」に記されている、とある。
「佐藤忠信」(応保元(一一六一)年?~文治二(一一八六)年)は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治(藤原忠継とも)を父とする。以下、ウィキの「佐藤忠信」によれば、治承四(一一八〇)年、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により兄継信と共に義経に随行、義経の郎党として平家追討軍に加わった(兄継信は屋島の戦いで討死)。元暦二(一一八五)年の壇ノ浦の戦いの後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、この忠信も共に兵衞尉に任官しており、頼朝から「秀衡の郎党が衞府に任ぜられるなど過去に例が無い。身の程を知ったらよかろう。その気になっているのは猫(狢・狸とも)にも落ちる。」と罵られたとする。文治元(一一八五)年十月十七日、『義経と頼朝が対立し、京都の義経の屋敷に頼朝からの刺客である土佐坊昌俊が差し向けられ、義経は屋敷に残った僅かな郎党の中で忠信を伴い、自ら門を飛び出して来て応戦している』。同年十一月三日、『都を落ちる義経に同行するが、九州へ向かう船が難破し一行は離散。忠信は宇治の辺りで義経と別れ、都に潜伏』、文治二(一一八六)年九月二十二日、『人妻であるかつての恋人に手紙を送った事から、その夫によって鎌倉から派遣されていた御家人の糟屋有季に居所を密告され、潜伏していた中御門東洞院を襲撃される。精兵であった忠信は奮戦するも、多勢に無勢で郎党』二人と共に自害して果てた。室町初期に書かれた「義経記」では『忠信は、義経の囮となって吉野から一人都に戻って奮戦し、壮絶な自害をする主要人物の一人となって』おり、この名場面から、後の浄瑠璃や歌舞伎の演目として名高い「義経千本桜」の「狐忠信」こと「源九郎狐」が誕生した。継信・忠信兄弟の妻たちは、息子二人を失い、『嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めんとそれぞれの夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せたという逸話があり、婦女子教育の教材として昭和初期までの国定教科書に掲載された』とある。
「
「義經叶はずして、妻子を殺して自害せらる。年三三歳なり」現在の知見では義経の生年は平治元(一一五九)年で
「新田冠者高平を使として、義經の首級を鎌倉にぞ送りける」「新田冠者高平」は藤原泰衡の家臣。「吾妻鏡」の文治五(一一八九)六月十三日の条を見ておこう。
〇原文
十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高平持參豫州首於腰越浦。言上事由。仍爲加實撿。遣和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各著甲直垂。相具甲冑郎從二十騎。件首納黑漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糇。今高平者。令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十三日辛丑。泰衡が使者新田の冠者高平、豫州の首を腰越の浦に持參し、事の由を言上す。仍りて
・「蘇公」「蘇」は夏・殷の頃、現在の河南省済源県の西南にあった(春秋時代に
「忠衡」藤原忠衡(仁安二(一一六七)年~文治五(一一八九)年)。藤原秀衡三男、藤原泰衡の異母弟。通称の泉三郎・泉冠者とは、秀衡の館であった柳之御所にほど近い泉屋の東を住まいとしていたことに基づく。忠衡は父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張するが、意見が対立した兄の泰衡によって誅殺された。「吾妻鏡」の文治五年六月二十六日の条には、『廿六日甲寅。奥州有兵革。泰衡誅弟泉三郎忠衡。〔年廿三。〕是同意與州之間。依有宣下旨也云々。』(廿六日甲寅。奥州に
「人数を遣して攻討けり」の主語は兄藤原泰衡である。]
○賴朝卿奥入 付 泰衡滅亡
[やぶちゃん注:本条はやや長いので、シークエンスごとに私の標題を附けた上で、数パートに分けて注を入れた。従って実際には文章は総て連続している。]
賴朝、仰せけるは、「義經を討てまゐらせしは忠に似たりといへども、兩度の宣旨、賴期が
[やぶちゃん注:〈頼朝奥州追伐進発〉湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は「吾妻鏡」よりも浅井了意作「将軍記」に類似する、とある(「将軍記」なる作品は私は未見)。
「奥入」は「おくいり」と読む。
「京都に奏聞して宣旨を給はり、人數をぞ催されける」泰衡が討ち取った義経の首の到着は同月十三日であるから、わずか十日余りで泰衡の追討を決している。これはどうも最初からそういう計画であったことがしっかり臭ってくる速さである。なお、ここでは恰も迅速に宣旨が出たように読めてしまうが、実際には朝廷側が難色を示した。以下、「吾妻鏡」でその経緯を順に見よう。まず、最初は文治五(一一八九)年六月二十四日の条から。
〇原文
廿四日壬子。奥州泰衡。日來隱容與州科。已軼反逆也。仍爲征之。可令發向給之間。御旗一流可調進之由。被仰常胤。絹者朝政依召献之云々。及晩。右武衞消息到來。奥州追討事。御沙汰之趣。内々被申之。其趣。連々被經沙汰。此事。關東鬱陶雖難默止。義顯已被誅訖。今年造太神宮棟。大佛寺造營。彼是計會。追討之儀。可有猶豫者。其旨已欲被献殿下御教書云々。又御厩司事。就被免仰。申領状訖云々。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
廿四日壬子。奥州の泰衡、日來、與州を隱容するの
晩に及びて、
・「調進」新調すること。
・「朝政」頼朝直参の家臣
・「右武衞」右兵衞の唐名で、ここでは右兵衞督であった親幕派の公卿一条能保のこと。
・「連々沙汰を經らる」何度も審議をなさった。
・「關東の鬱陶、黙止し難しと雖も」幕府の苛立ち、これは、朝廷としても看過することも出来難きことではあるけれども。
・「義顯」幕府の謀叛人義経の二度目の強制改名の名。当初は「義經の妾白拍子靜」の注で示したように親幕派(但し先の一条能保とは不仲)の関白藤原兼実の息子の「良経」と同訓であるのを憚って「義行」と改めた。ところが、その後、義経の逃亡が長引き、隠れ住む先も定かならざる事態の中で、これは「義行」(よく行く)という呼称が悪いとして「義顕」(よく顕われる)に改名をしていた。
・「造太神宮の上棟」伊勢神宮の式年遷宮のこと。
・「大佛寺」東大寺大仏殿。
・「殿下」藤原兼実。
同年六月二十五日の条。
〇原文
廿五日癸丑。奥州事。猶可被下追討 宣旨之由。重被申京都云々。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
廿五日癸丑。奥州の事、猶ほ追討の宣旨を下さるべきの由、重ねて京都へ申さると云々。
同年六月二十六日の条。
〇原文
廿六日甲寅。奥州有兵革。泰衡誅弟泉三郎忠衡。〔年廿三。〕是同意与州之間。依有宣下旨也云々。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
廿六日甲寅。奥州に
既出であるが出す。それでも奥州進発に変化がないのが不審な向きもあるかもしれないが、実は、この事実をこの時点では頼朝はこの事実を知らないのである。現在の「吾妻鏡」の記事はアップ・トゥ・デイトに書かれたものではなく、ずっと後年になって諸資料を基にして編集執筆されたものなのである。
同年六月二十七日の条。
〇原文
廿七日乙夘。此間奥州征伐沙汰之外無他事。此事。依被申宣旨。被催軍士等。群集鎌之輩。已及一千人也。爲義盛。景時奉行。日來注交名。前圖書允爲執筆。今日覽之。而武藏下野兩國者。爲御下向巡路之間。彼住人等者。各致用意。可參會于御進發前途之由。所被觸仰也。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
廿七日乙夘。此の間、奥州征伐の沙汰の外他事無し。此の事、宣旨を申さるるに依りて、軍士等を催さる。鎌倉へ
・「軍士等を催さる」諸兵徴集のお触れをお出しになられた。
・「日來、交名を注す」日単位で到着した武士より順に名前を届け出させる。
・「前圖書允執筆たり」「前図書允」は不詳「執筆」は書記係。
同年六月二十八日の条。
〇原文
廿八日丙辰。鶴岡放生會。來月朔日可被遂行之旨。有其沙汰。是於式月者。定可有御坐奥州之上。爲泰衡征伐御祈禱。及此儀云々。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
廿八日丙辰。鶴岡の放生會、來月朔日に遂行せらるべきの旨、其の沙汰有り。是れ、式月に於いては、定めし奥州に御坐有るべきの上、泰衡征伐の御祈禱と爲し、此の儀に及ぶと云々。
鶴岡八幡宮寺の放生会は通常は八月十五日に行われた(実際に当日は頼朝は奥州征伐に出陣中で、鶴岡八幡宮では当八月十五日、式日であるので再度、放生会が行われている)。
同年六月二十九日の条。
〇原文
廿九日丁巳。日來御禮敬愛染王像。被送于武藏慈光山。以之爲本尊。可抽奥州征伐御祈禱之由。被仰含別當嚴耀幷衆徒等。當寺者。本自所有御歸依也。去治承三年三月二日。自伊豆國。遣御使盛長。令鑄洪鐘給。則被刻御署名於件鐘面云々。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
廿九日丁巳。日來、御
・「愛染王像」愛染明王像。通常は一面六臂の忿怒相で、頭部には如何なる苦難にも挫折しない強さを象徴する獅子の冠を頂き、叡知を収めた宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座る。弓箭を持っていて身体は真紅、後背に日輪を背負って表現されることが多い。また、天に向かって弓を引いたり、騎馬であったりと、武士にも好まれた。
・「慈光山」埼玉県比企郡都
・「治承三年」西暦一一七九年。
同年六月三十日の条。
〇原文
卅日戊午。大庭平太景能者。爲武家古老。兵法存故實之間。故以被召出之。被仰合奥州征伐事。曰。此事窺天聽之處。于今無勅許。憖召聚御家人。爲之如何。可計申者。景能不及思案。申云。軍中聞將軍之令。不聞天子之詔云々。已被經奉聞之上者。強不可令待其左右給。隨而泰衡者。受繼累代御家人遺跡者也。雖不被下綸旨。加治罸給。有何事哉。就中。群參軍士費數日之條。還而人之煩也。早可令發向給者。申狀頗有御感。剩賜御厩御馬。〔置鞍。〕小山七郎朝光引立庭上。景能在緣。朝光取差繩端。投景能前。景能乍居請取之。令取郎從。二品入御之後。景能招朝光。賀云。吾老耄之上。保元合戰之時。被疵之後。不行歩進退。今雖拜領御馬。難下庭上之處。被投繩。思其芳志。直千金云々。二品又感朝光所爲給云々。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
卅日戊午。大庭平太景能は武家の古老たり。兵法の故實を存ずるの間、
「此の事、天聽を窺ふの處、今に勅許無し。
てへれば、景能、思案に及ばず、申して云はく、
「軍中、將軍の令を聞き、天子の
「已に奏聞を經らるるの上は、強ちに其の
てへれば、申し狀、頗る御感あり。
「吾れ
と云々。
二品、又、朝光が所爲に感じ給ふと云々。
・「大庭平太景能」大庭景義(大治三(一一二八)年)?~承元四(一二一〇)年)。既出で、知られた武将であるが、ここでは主役級であるので解説しておく。景能とも表記。鎌倉権五郎景政の曾孫とされる。以下、ウィキの「大庭景義」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『若くして源義朝に忠誠を誓う。保元元年(一一五六年)の保元の乱においては義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の景親に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した』。『治承四年(一一八〇年)に源頼朝が挙兵すると、弟の景親と袂を分かち頼朝の麾下に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという』(景親は梟首)。『その後も草創期の鎌倉幕府において、長老格として重きをなした。藤原泰衡を征伐する際、頼朝は後白河法皇の院宣を得られず苦慮していた。しかし景義が、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張。その意見が採用された』。『後に景義は出家している。嫡男の大庭景兼が跡を継いだ』が、出家の理由については「吾妻鏡」などに僅かに記述があるのみで、『今日でも謎が多いが、それによれば建久四年(一一九三年)の八月、大庭景義は同じ相模の有力武士の岡崎義実とともに、老齢を理由に出家したことになっている。しかしわずか二年後に景義は「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ、愁鬱のまま三年を過ごして参りました」と書面を奉じ、許されたとある』ことから、『この時期に景義らが何らかの事件により失脚した可能性が高いと想定される』とある。
・「
・「軍中、將軍の令を聞き、天子の詔を聞かず。」「十八史略」に載る以下の故事に基づく(原文及び書き下し文・語注の一部は個人ブログ「寡黙堂ひとりごと」の「十八史略 覇上・棘門の軍は児戯のみ」を参考にさせて頂いたが、書き下し文の一部に手を加えてある)。
〇原文
六年、匈奴寇上郡雲中。詔將軍周亞夫屯細柳、劉禮次覇上、徐厲次棘門、以備胡。上自勞軍、至覇上及棘門軍、直馳入。大將以下騎送迎。已而之細柳。不得入。先驅曰、天子且至軍門。都尉曰、軍中聞將軍令、不聞天子詔。上乃使使持節、詔將軍亞夫。乃傳言開門。門士請車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。上乃按轡、徐行至營、成禮去。羣臣皆驚。上曰、嗟乎、此眞將軍矣。向者覇上棘門軍兒戲耳。
〇書き下し文
六年、匈奴、上郡・雲中に
「天子、且に軍門に至らんとす。」
と。都尉曰はく、
「軍中には將軍の令を聞きて、天子の詔を聞かず。」
と。上、乃ち使ひをして節を持し、將軍亜夫に詔せしむ。乃ち言を伝へて門を開かしむ。門士、車騎に請ふて曰はく、
「將軍約す、軍中は
と。上、乃ち
「嗟乎、此れ、真の将軍なり。
と。
・「上郡」は陜西省の地名。
・「雲中」は山西省の地名。
・「周亞夫」(?~前一四三年)は周勃の子で、兄の周勝之が人を殺して領国を召し上げられたため、その後を継いで条侯(絳侯)となった。
・「細柳・覇上・棘門」陜西省の地名。長安の近郊。
・「屯・次」何れも留まって守備すること。
・「轡を按じ」
・「治罸」治罰。取り締まり、罰すること。景能は泰衡は家来筋に当たるのであるから、綸旨なしに私罰しても構わない、と言うのである。
・「就中、群參の軍士數日を費すの條、還つて人の煩ひなり」中でも特に、群参しておる兵士らが無為に日を費やすというのは、却って戦意が
「文治五年七月八日千葉介に仰せて、新造の御旗を奉らせらる」「吾妻鏡」を引く。
〇原文
八日丙寅。千葉介常胤献新調御旗。其長任入道將軍家〔賴義。〕御旗寸法。一丈二尺二幅也。又有白糸縫物。上云。伊勢大神宮八幡大菩薩云々。下縫鳩二羽。〔相對云々。〕是爲奥州追討也。治承四年。常胤相率軍勢。參向之後。諸國奉歸往。依其佳例。今度御旗事。別以被仰之。絹者小山兵衞尉朝政進之。先祖將軍輙亡朝敵之故也。此御旗。以三浦介義澄爲御使。被遣鶴岡別當坊。於宮寺。七ケ日可令加持之由被仰云々。又下河邊庄司行平。依仰調獻御甲。今日自持參之。開櫃盖置御前。相副紺地錦御甲直垂上下。御覽之處。冑後付笠標。仰曰。此簡付袖爲尋常儀歟。如何者。行平申云。是曩祖秀郷朝臣佳例也。其上。兵本意者先登也。進先登之時。敵者以名謁知其仁。吾衆自後見此簡。可必知某先登之由者也。但可令付袖給否。可在御意。調進如此物之時。用家樣者故實也云々。于時蒙御感。
〇やぶちゃんの書き下し文
八日丙寅。千葉介常胤、新調の御旗を献ず。其の
下に鳩二羽〔相ひ對すと云々。〕を縫ふ。是れ、奥州追討の爲なり。治承四年、常胤、軍勢を相ひ率いて參向の後、諸國歸往し奉る。其の佳例に依りて、今度の御旗の事、別して以て之を仰せらる。絹は小山兵衞尉朝政、之を進ず。先祖の將軍、
又、下河邊庄司行平、仰せに依りて御
「此の
てへれば、行平、申して云はく、
「是れ、
と云々。
時に御感を蒙る。
・「一丈二尺」約三・六メートル。
・「先祖の將軍」平将門を滅ぼした藤原秀郷。小山朝政は秀郷の直系子孫とされる。
・「下河邊庄司行平」彼も藤原秀郷流小山氏庶流の下河辺氏の直系。
「鳥海宗任」安倍貞任の弟安陪宗任。鳥海の柵の主であったことから鳥海三郎とも呼ばれた。
「同じき十九日賴朝卿奥州追伐の首途し給ふ。」この間、七月十二日に追討の宣旨受取の飛脚が発せられるが、「吾妻鏡」十六日の条には、
〇原文
七月小十六日甲戌。右武衞〔能保〕使者後藤兵衞尉基淸。幷先日自是上洛飛脚等參著。基淸申云。泰衡追討 宣旨事。攝政公卿已下。被經度々沙汰訖。而義顯出來。此上猶及追討儀者。可爲天下大事。今年許可有猶豫歟之由。去七日被下 宣旨也。早可達子細之由。帥中納言相觸之。可爲何樣哉云々。令聞此事給。殊有御鬱憤。軍士多以豫參之間。已有若干費。何期後年哉。於今者。必定可令發向給之由。被仰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日甲戌。右武衞〔能保。〕が使者の後藤兵衞尉基淸、幷びに先日是より上洛する飛脚等參著す。基淸、申して云はく、
「泰衡追討の宣旨の事、攝政公卿已下、度々沙汰を經られ訖んぬ。而るに
と云々。
此の事を聞かしめ給ひ、殊に御鬱憤有り。
「軍士多く以て豫參の間、已に
「後藤兵衞尉基淸」後藤基清(?~承久三(一二二一)年)実父は佐藤仲清(佐藤義清(西行)の兄弟)。後に後藤実基の養子となった。源頼朝に仕え、元暦三(一一八五)年の屋島の戦いに参加したが、後に娘が一条能保の妻となった関係上、在京御家人として一条能保の家士となっていた。この後、正治元(一一九九)年に源通親への襲撃を企てた三左衞門事件で讃岐国守護を解任され、それ以後は後鳥羽上皇との関係を深め、西面武士・検非違使となり、承久の乱では後鳥羽上皇方について敗北、幕府方についた子の基綱に処刑された(以上はウィキの「後藤基清」に拠る)。
・「帥中納言」公卿吉田経房(永治二(一一四二)年~正治二(一二〇〇)年)。元暦元(一一八四)年前後に頼朝によって実質的な初代関東申次役に任ぜられたと考えられている。
・「若干」沢山。
以下、十七日に奥州追討軍の部署定めが行われている。筆者はこれも本文執筆の参考にしているので引いておく。
〇原文
十七日乙亥。可有御下向于奥州事。終日被經沙汰。此間。可被相分三手者。所謂東海道大將軍。千葉介常胤。八田右衞門尉知家。各相具一族等幷常陸。下総國兩國勇士等。經宇大行方。廻岩城岩崎。渡遇隈河湊。可參會也。北陸道大將軍。比企藤四郎能員。宇佐美平次實政等者。經下道相催上野國高山。小林。大胡。佐貫等住人。自越後國。出出羽國念種關。可遂合戰。二品者大手自中路。可有御下向。先陣可爲畠山次郎重忠之由。召仰之。次合戰謀。有其譽之輩。無勢之間。定難彰勳功歟。然者可被付勢之由被定。仍武藏。上野兩國内黨者等者。從于加藤次景廉。葛西三郎淸重等。可遂合戰之由。以義盛。景時等被仰含。次御留守事。所仰大夫屬入道也。隼人佑。藤判官代。佐々木次郎。大庭平太。義勝房已下輩可候云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十七日乙亥。奥州于御下向有るべき事、終日沙汰を經らる。此の間、
「三手に相ひ分けらるべし。」
てへり。所謂、東海道の大將軍は千葉介常胤、八田右衞門尉知家、各々一族等幷びに常陸・下総國の兩國の勇士等を相ひ具し、
・「東海道の大將軍は千葉介常胤、八田右衞門尉知家、各々一族等幷びに常陸・下総國の兩國の勇士等を相ひ具し」この「東海道」は海岸通りを指し、現在の常磐線のルートを言う語。常陸は八田が守護、下総は千葉が守護であった。
・「宇太」現在の福島県浜通り北端の旧宇多郡。現在の相馬市。
・「行方」現在の茨城県南東部の行方市及び潮来市一帯。
・「岩城」現在の福島県いわき市。
・「岩崎」現在の福島県小名浜市岩出岩崎。小名浜港から北方約五キロメートルの内陸。
・「遇隅河の湊」現在の宮城県
・「宇佐美平次實政」(?~文治六(一一九〇)年)現在の静岡県の伊豆田方郡大見荘の住人。頼朝挙兵以来の直参。奥州藤原氏の藤原泰衡の郎党であった大河兼任の乱で戦死。
・「下道を經」とあるが以下で高山を初めとして現在の群馬県内を通っていることから、これは現在の「上の道」と呼称されるルートと思われる。
・「上野國高山」現在の群馬県藤岡市高山。
・「小林」現在の群馬県藤岡市小林。高山の約五キロメートル東北。
・「大胡」現在の群馬県前橋市大胡町。前橋の約一〇キロメートル東方。
・「左貫」現在の群馬県館林市明和町の旧地名。
・「出羽國念種關」現在の山形県鶴岡市鼠ヶ関。鶴岡市南西部に位置し、新潟県との県境に面している。ウィキの「鼠ヶ関」によれば、『名の通り古代より関所が置かれていた。古くは、蝦夷進出の拠点となり、磐舟柵と出羽柵の中間にあるとされた、都岐沙羅柵が鼠ヶ関周辺にあったのではないかと推定されているが、史跡が発見されていないため、史実として確定していない。白河関・勿来関とともに奥羽三関と呼ばれ、東北地方への玄関になっていた。当時の文書には根津とする表記もある』。昭和四三(一九六八)年、『発掘調査が行われて存在が確認され、鶴岡市指定史跡「古代鼠ヶ関址」となった』とある。
・「合戰の謀」戦闘時の企略。
・「其の譽有るの輩は、無勢の間、定めて勳功を
・「加藤次景廉」(仁安元(一一六六)年?~承久三(一二二一)年)は直参、頼朝挙兵の際、平氏の目代山木兼隆の首を討ち取っている。
・「葛西兵衞尉淸重」(応保元(一一六一)年?~暦仁元(一二三八)年?)。頼朝に従って歴戦、頼朝の寵臣で幕府初期の重臣の一人。初代奥州総奉行葛西氏の初代当主。
・「大夫屬入道」初代問注所執事三善康信(保延六(一一四〇)年~承久三(一二二一)年)。入道後は善信を名乗った。
・「隼人佑」三善康清(生没年未詳)。康信の弟。実務官僚。以仁王挙兵の際に兄康信の意を受けて伊豆へ下り、頼朝に挙兵の旨を伝えた人物である。
・「藤判官代」藤原邦道。京から下洛していた文官。
・「佐々木次郎」佐々木経高(?~承久三年(一二二一)年)は頼朝に挙兵時から仕えた直参。幕府では三箇国の守護を兼ねたが、承久の乱で官軍に属して敗北、自害した。
・「大庭平太」大庭景能。
・「義勝房」
以下、進発当日文治五(一一八九)年七月十九日の条の冒頭を示す。
〇原文
十九日丁丑。巳尅。二品爲征伐奥州泰衡發向給。此刻。景時申云。城四郎長茂者。無雙勇士也。雖囚人。此時被召具。有何事哉云々。尤可然之由被仰。仍相觸其趣於長茂。長茂成喜悦。候御共。但爲囚人差旗之條。有其恐。可給御旗之由申之。而依仰用私旗訖。于時長茂談傍輩云。見此旗。逃亡郎從等可來從云々。御進發儀。先陣畠山次郎重忠也。(以下、略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十九日丁丑。巳の尅、二品奥州の泰衡を征伐せんが爲に、發向し給ふ。此の刻、景時、申して云はく。「城四郎長茂は、無雙の勇士なり。囚人と雖も、此の時、召し具せられんこと、何事か有らんや。」と云々。
尤も然るべしの由、仰せらる。仍りて、其の趣、長茂に相ひ觸る。長茂、喜悦を成して、御共に候ず。「但し、囚人として旗を差すの條、其の恐れ有り。御旗を給はるべし。」の由、之を申す。而るに仰せに依りて私の旗を用ゐ訖んぬ。時に長茂、傍輩に談じて云はく、「此の旗を見て、逃亡の郎從等來り從うべし。」と云々。御進發の儀、先陣は畠山次郎重忠なり。(以下、略)
・「城四郎長茂」
「陸奥國伊達郡阿津樫山に著き給ふ」頼朝は七月二十九日に白河の関を越え、翌八月七日に現在の福島県伊達郡国見町厚樫山近くの国見宿へ到着している(「吾妻鏡」の当該条は次のパートの注で示す)。]
泰衡この由聞きて、阿津樫山に城郭を構へ、國見宿の中間に
[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅰ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月七日の条。
〇原文
七日甲午。二品着御于陸奥國伊逹郡阿津賀志山邊國見驛。而及半更雷鳴。御旅館有霹靂。上下成恐怖之思云々。泰衡日來聞二品發向給事。於阿津賀志山。築城壁固要害。國見宿與彼山之中間。俄搆口五丈堀。堰入逢隈河流柵。以異母兄西木戸太郎國衡爲大將軍。差副金剛別當秀綱。其子下須房太郎秀方已下二万騎軍兵。凡山内三十里之間。健士充滿。加之於苅田郡。又搆城郭。名取廣瀬兩河引大繩柵。泰衡者陣于國分原。鞭楯。亦栗原。三迫。黑岩口。一野邊。以若九郎大夫。余平六已下郎從爲大將軍。差置數千勇士。又遣田河太郎行文。秋田三郎致文。警固出羽國云々。入夜。明曉可攻撃泰衡先陣之由。二品内々被仰合于老軍等。仍重忠召所相具之疋夫八十人。以用意鋤鍬。令運土石。塞件堀。敢不可有人馬之煩。思慮已通神歟。小山七郎朝光退御寢所邊。〔依爲近習祗候。〕相具兄朝政之郎從等。到于阿津賀志山。依懸意於先登也。
〇やぶちゃんの書き下し文
七日甲午。二品、陸奥國
泰衡、日來、二品發向し給ふ事を聞き、阿津賀志山に於いて、城壁を築き、要害を固む。國見宿と彼の山の中間に、俄かに
夜に入りて、明曉、泰衡の先陣を攻撃すべきの由、二品、内々老軍等に仰せ合はせらる。仍りて重忠が相ひ具す所の
・「阿津賀志の山」現在の
・「口五丈の堀」幅約十五メ-トルの堀。阿武隈川までこの幅で深さ約三メ-トルの堀を、実に総延長三・二キロメートルに及ぶもの(しかも
・「山内三十里」これは六町を一里とする坂東道単位。「坂東道」とは坂東路、田舎道を意味する語で、通常の一里とは異なる特殊な路程単位である。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかった。従ってここは約十九キロメートル四方の謂いとなるが、厚樫山自体が低山であり、山域は大きく見積もっても数キロ四方で、これはいっかな坂東路でも如何にもな誇張表現ではある。
・「刈田郡」宮城県南部西端に位置する。現在含まれる
・「名取川」宮城県仙台市及び名取市を流れ、歌枕として知られる。
・「広瀬川」宮城県仙台市を流れる。仙台市のシンボルとして親しまれ、さとう宗幸の「青葉城恋唄」で全国的に知名度が高いが、先の名取川の支流である。
・「國分原鞭楯」現在の仙台市
・「栗原」現在の宮城県北西部に位置する栗原市
・「三迫」現在の栗原市
・「黒岩口」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注には現在の『栗原市栗駒か宮城県白石市鷹巣黒岩下』とある。
・「一野邊」同じく「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注は現在の『宮城県白石市越河市野か』とする。
・「田河太郎行文」(?~文治五(一一八九)年)。
・「秋田三郎致文」(?~文治五(一一八九)年)。「むねぶみ」「ただぶみ」とも読む。出羽国秋田郡(現在の秋田市)を本拠地とした奥州藤原氏郎党。
・「小山七郎朝光」「小山」は「おやま」と読む。結城朝光(仁安三(一一六八)年~建長六(一二五四)年)。結城家始祖。ウィキの「結城朝光」によれば、寿永二(一一八三)年二月二十三日、『鎌倉への侵攻を図った志田義広と足利忠綱の連合軍を、八田知家と父の政光、兄の朝政、宗政ら共に野木宮合戦で破り、この論功行賞により結城郡』(現在の茨城県結城市)『の地頭職に任命される。義広との戦いに先んじて、頼朝が鶴岡八幡宮で戦勝を祈願すると、朝光は義広が敗北するという「神託」を告げ、頼朝から称賛された』。その後も元暦元(一一八四)年の木曾義仲追討の源範頼・義経軍に参加、宇治川・壇ノ浦の参戦した。鎌倉に帰還後の同年五月には『戦勝報告のため東下した義経を酒匂宿に訪ね、頼朝の使者として「鎌倉入り不可」の口上を伝え』る役を務めている。次の場面に現われるように、奥州合戦ではこの『阿津賀志山の戦いで、敵将・金剛別当を討ち取るなど活躍。その功により奥州白河三郡を与えられ』た。翌建久元(一一九〇)年に奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定にも参加、以後、『梶原景時と並ぶ頼朝の側近と目されるようになった』。『頼朝が東大寺再建の供養に参列した際、衆徒の間で乱闘が起こったが、この時、朝光は見事な調停を行い、衆徒達から「容貌美好、口弁分明」と称賛された』という。頼朝没後の正治元(一一九九)年十月の「梶原景時讒訴事件」では三浦義村ら有力御家人六十六名を結集して「景時糾弾訴状」を連名で作成、二代将軍源頼家に提出、梶原景時失脚とその敗死に大きな役割を果たしている。その後も評定衆の一員となるなど、幕政に重きを成した。『若き日から念仏に傾倒していた朝光は、法然、次いで時領常陸国下妻に滞在していた親鸞に深く帰依し、その晩年は念願の出家を果たし、結城上野入道日阿と号し、結城称名寺を建立。信仰に生きる日々を送』った、とある。]
賴朝卿の先陣、矢合して攻掛る。小山
[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅱ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月八日の条。
八日乙未。金剛別當季綱率數千騎。陣于阿津賀志山前。夘剋。二品先試遣畠山次郎重忠。小山七郎朝光。加藤次景廉。工藤小次郎行光。同三郎祐光等。始箭合。秀綱等雖相防之。大軍襲重。攻責之間。及巳剋。賊徒退散。秀綱馳歸于大木戸。告合戰敗北之由於大將軍國衡。仍弥廻計畧云々。又泰衡郎從信夫佐藤庄司。〔又號湯庄司。是繼信忠信等父也。〕相具叔父河邊太郎高經。伊賀良目七郎高重等。陣于石那坂之上。堀湟懸入逢隈河水於其中。引柵。張石弓。相待討手。爰常陸入道念西子息常陸冠者爲宗。同次郎爲重。同三郎資綱。同四郎爲家等潛相具甲冑於秣之中。進出于伊逹郡澤原邊。先登發矢石。佐藤庄司等爭死挑戰。爲重資綱爲家等被疵。然而爲宗殊忘命。攻戰之間。庄司已下宗者十八人之首。爲宗兄弟獲之。梟于阿津賀志山上經岡也云々。〕今日早旦。於鎌倉。專光房任二品之芳契。攀登御亭之後山。始梵宇營作。先白地立假柱四本。授觀音堂之號。是自御進發日。可爲廿日之由。雖蒙御旨。依夢想告如此云々。而時尅自相當于阿津賀志山箭合。可謂奇特云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
八日乙未。金剛別當季綱、數千騎を率いて、阿津賀志山の前に陣す。
又、泰衡が郎從の
今日早旦。鎌倉に於いて、專光房、二品の芳契に任せて、御亭の後山へ
而るに時尅、自づから阿津賀志山の箭合せに相ひ當る。奇特と謂ひつべしと云々。
・「金剛別當秀季綱」金剛秀綱(生没年未詳)。後文では一貫して「秀綱」と記されるから、単なる誤字と思われる。羽後国由利郡新城(現在の秋田県秋田市新城)を所領する奥州藤原氏の郎党。
・「夘の剋」は卯刻で、午前六時頃。
・「巳の剋」午前十時頃。
・「佐藤庄司」佐藤
・「伊賀良目七郎高重」伊賀良目高重(?~文治五(一一八九)年)。福島県信夫郡にあった
・「石那坂」現在、福島市平石の東北本線上り線の石名坂トンネル付近に石那坂古戦場の碑が建てられているが、同定は定かではない。
・「常陸入道念西」「ねんさい」と読む。幕府御家人。通説では伊達氏初代当主伊達朝宗(大治四(一一二九)年~正治元(一一九九)年)に比定されている。諸説はウィキの「常陸入道念西」及び「伊達朝宗」に詳しい。念西は常陸国伊佐郡を本拠地としていた関東武士で、本戦功によって、この伊達郡に移り、伊達氏を名乗るようになったともされる。
・「伊逹郡澤原」福島県伊達郡の中の旧地域名らしい。「北條九代記」の「
・「
・「經ケ岡」本地名は現在も厚樫山東麓に残っており、中通り北部の阿武隈川北岸の宮城県境・厚樫山東麓に比定されている(「角川日本地名大辞典」に拠る)。]
泰衡が郎従
[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅲ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月九日の条。
〇原文
九日丙申。入夜。明旦越阿津賀志山。可遂合戰之由被定之。爰三浦平六義村。葛西三郎淸重。工藤小次郎行光。同三郎祐光。狩野五郎親光。藤澤次郎淸近。河村千鶴丸。〔年十三才。〕以上七騎。潛馳過畠山次郎之陣。越此山。欲進前登。是天曙之後。與大軍同時難凌嶮岨之故也。于時重忠郎從成淸伺得此事。諫主人云。今度合戰奉先陣。拔群眉目也。而見傍輩所爭。難温座歟。早可塞彼前途。不然者。訴申事由。停止濫吹。可被越此山云々。重忠云。其事不可然。縱以他人之力雖退敵。已奉先陣之上者。重忠之不向以前合戰者。皆可爲重忠一身之勳功。且欲進先登之輩事。妨申之條。非武略本意。且獨似願抽賞。只作惘然。神妙之儀也云々。七騎終夜越峯嶺。遂馳著木戸口。各名謁之處。泰衡郎從〔下部〕伴藤八已下強兵攻戰。此間。工藤小次郎行光先登。狩野工藤五郎損命。伴藤八者。六郡第一強力者也。行光相戰。兩人並轡取合。暫雖爭死生。遂爲行光被誅。行光取彼頸付鳥付。差木戸登之處。勇士二騎離馬取合。行光見之。廻轡問其名字。藤澤次郎淸近欲取敵之由稱之。仍落合。相共誅滅件敵之。兩人安駕。休息之間。淸近感行光合力之餘。以彼息男可爲聟之由。成楚忽契約云々。次淸重幷千鶴丸等。撃獲數輩敵。亦親能猶子左近將監能直者。當時爲殊近仕。常候御座右。而親能兼日招宮六兼仗國平。談云。今度能直赴戰塲之初也。汝加扶持。可令戰者。仍國平固守其約。去夜。潜推參二品御寢所邊。喚出能直。〔上臥也。〕相具之。越阿津賀志山。攻戰之間。討取佐藤三秀員父子〔國衡近親郎等。〕畢。此宮六者。長井齊藤別當實盛(埼玉県妻沼町)外甥也。實盛屬平家。滅亡之後。爲囚人。始被召預于上總權介廣常。廣常誅戮之後。又被預親能。而依有勇敢之譽。親能申子細。令付能直云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
九日丙申。夜に入り、明旦、阿津賀志山を越え、合戰を遂ぐべきの由、之れを定めらる。爰に三浦平六義村・葛西三郎淸重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・狩野五郎親光・藤澤次郎淸近・河村
「今度の合戰に先陣を奉ること、拔群の眉目なり。而るに傍輩の爭ふ所を見て、温座し難からんか。早く彼の前途を塞ぐべし。然らずんば、事の由を訴へ申し、
と云々。
重忠云はく、
「其の事、然るべからず。縱ひ他人の力を以つて敵を退くと雖も、已に先陣を奉るの上は、重忠が向はざる以前の合戰は、皆、重忠一身の勳功たるべし。且は、先登に進まんと欲するの輩の事、妨げ申すの條、武略の本意に非ず。且は、獨り
と云々。
七騎は終夜峯嶺を越え、遂に木戸口に馳せ著く。各々
次で淸重幷びに千鶴丸等、數輩の敵を撃ち
亦、親能は
「今度、能直は戰塲に赴くの初めなり。汝、扶持を加へ、戰はしむべし。」
てへり。仍つて國平、固く其の約を守り、去ぬる夜、潛かに二品の御寢所邊へ推參し、能直〔
以降、武将を一々注しているとなかなか進まないので、私が気になる人物やシークエンスでの主要人物のみをチョイスするのをお許し戴きたい。
・「工藤小次郎行光」(生没年未詳)は工藤景光の子で、頼朝の強兵に呼応して父とともに甲斐で挙兵、後、頼朝に仕えた。この阿津賀志山木戸口攻めの功により、陸奥岩井郡を与えられている。
・「藤澤次郎淸近」藤沢淸親と同一人物であろう。木曽義仲の嫡男義重(義高)が頼朝の人質にされた際に一緒に鎌倉へ下った家臣の一人であったが、義高誅殺後は幕府御家人となった。後に弓の名手として
・「河村千鶴丸」後の河村秀淸(治承元・安元三(一一七七)年~?)。相模出身、通称四郎。承久の乱では北条泰時に従って京の宇治橋で戦っている。
・「成淸」
・「伴藤八」秀衡の代からのトップ・クラスの家臣の一人。
・「鳥付」馬の鞍の
・「彼の息男を以つて聟と爲すべきの由、楚忽の契約を成す」とは藤澤淸近は工藤行光が手助けしてくれたことに感謝する余り、その休息の間に、その場で、行光の息子を自分の娘の婿とすることを即行、約束してしまった。
・「淸重幷びに千鶴丸等、數輩の敵を撃ち獲たり」葛西淸重は、この奥州藤原氏滅亡後の九月に頼朝による論功行賞で勲功抜群として胆沢郡・磐井郡・牡鹿郡など数ヶ所に所領を賜った上、初代奥州総奉行に任じられている。当時、彼は満二十八歳であった。その彼と同等に「幷」べて河村千鶴丸が挙がっていることは注目に値しよう。満十二歳の少年千鶴丸が勲功第一の淸重と同等の首級を挙げたということである。
・「親能」中原親能(康治二(一一四三)年~承元二(一二〇九)年)。文官の御家人。公家方とのパイプ役として働き、文治二(一一八六)年に京都守護に任じられている。後、建久二(一一九一)年に政所公事奉行に任ぜられ、後の十三人の合議制の一人ともなった。
・「左近將監能直」大友能直(承安二(一一七二)年~貞応二(一二二三)年)は相模国愛甲郡古庄郷司近藤(古庄)能成の子として生まれ、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗ったが、能成が早世したため、母の姉婿中原親能の養子となり、中原能直とも名乗った。文治四(一一八八)年に十七歳で元服、この年の十月十四日に源頼朝の内々の推挙によって左近将監に任じられる。当時は病いのために相模の大友郷にあって、十二月十七日になって初めて大倉御所に出仕、頼朝の御前に召されて任官の礼を述べているが、この阿津賀志山の戦いはそれからたかだか八月後のことに過ぎない。「吾妻鏡」では能直を、頼朝の『無双の寵仁』(並ぶ者のないお気に入り)と記している。その後も頼朝の近習を務め、建久四(一一九三)年の曾我兄弟仇討ち事件では曾我時致の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとした所を、能直が押し止めて身辺を守っている。建久七(一一九六)年一月には豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行となり、現地へ下向、承元元(一二〇七)年頃には筑後国守護に任ぜられているが、任地への在国は一時的なものであったと考えられ(九州には守護代を配していたと見られる)、京と鎌倉を頻繁に往来している(以上はウィキの「大友能直」に拠る)。
・「宮六傔仗國平」
・「上臥」本来は宮廷用語で、宮中や院中などで
・「佐藤三秀員」「
寄手の大軍、木戸口に詰寄せ、畠山、小山兄弟、三浦の人々、猛威を振うて
[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅳ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の頭の部分を示す(後は以下の回で示す)。
〇原文
十日丁酉。夘剋。二品已越阿津賀志山給。大軍攻近于木戸口。建戈傳箭。然而國衡輙難敗傾。重忠。朝政。朝光。義盛。行平。成廣。義澄。義連。景廉。淸重等。振武威弃身命。其鬪戰之聲。響山谷。動郷村。爰去夜小山七郎朝光。幷宇都宮左衞門尉朝綱郎從。紀權守。波賀次郎大夫已下七人。以安藤次爲山案内者。面々負甲疋馬。密々出御旅館。自伊逹郡藤田宿。向會津之方。越于土湯之嵩。鳥取越等。攀登于大木戸上。國衡後陣之山。發時聲飛箭。此間。城中大騷動。稱搦手襲來由。國平已下邊將。無益于搆塞。失力于廻謀。忽以逃亡。于時雖天曙。被霧隔。秋山影暗。朝路跡滑。不分兩方之間。國衡郎從等。漏網之魚類多之。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁酉。夘剋。二品已に阿津賀志山を越え給ふ。大軍、木戸口に攻め近づき、
重忠・朝政・朝光・義盛・行平・成廣・義澄・義連・景廉・淸重等、武威を振ひて
・「伊達郡藤田宿」現在の福島県伊達郡国見町。
・「土湯の嵩」saitohpb氏のブログ「つれづれなるままに」の「石那坂の戦い(4)」の『「土湯嵩」について』に、『阿津賀志山の山陰は湯ノ倉大森山なり。(信達二郡村誌付録)とあり、当時小坂、鳥取辺の山に、地元の人が「土湯嶽」と呼び慣らしていた山があったことが伺える。(宮城県側に下れば小原温泉がある。)室町幕府が羽州探題をおいてからは「羽州街道」とされた道がある。難所であるその山を越え、東に鳥取越~山崎峠~石母田峠と五〇〇メートル級の山峰が阿津賀志山の北を巻いて大木戸に至る。(「安藤次は、自ら朝光らの武将を誘い、この作戦の郷導となる」二郡村誌付録)「吾妻鏡」八月十日の条記述には何の疑問もない』とある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更させて頂いた)。
・「鳥取越」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注には、現在の『国見町小坂峠へ上ると鳥取股根ケ窪に地名が残るし、阿津賀志山の裏へ出られそうである』と記しておられる。因みに、阿津賀志山から遙か四十キロメートル南西方の福島県福島市の「土湯」温泉町には「鳥取越」の地名があるが、ここではない。なお、底本頭注に『下に越えを補ひて解すべし』とある。
・「搆塞」要塞。
・「時に天曙くると雖も、霧に隔てられ、秋山、影暗く、朝路、跡滑らかにして、兩方を分けざるの間、國衡が郎從等、網を漏るるの魚の類ひ、之れ、多し」ここは映像が鮮やかに浮かんでくる名調子の場面。「兩方を分かたざる」とは敵味方が不分明であることをいう。
・「大木戸」現在の福島県伊達郡国見町に残る阿津賀志山
以下、「北條九代記」本文に対する注。
「宇都宮左衞門尉
「
その中に金剛別當が子息
[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き(後は以下の回で示す)。
〇原文
十日丁酉。(前略)
其中金剛別當子息下須房太郎秀方。〔年十三。〕殘留防戰。駕黑駮馬。敵向髦陣。其氣色掲焉也。工藤小次郎行光欲馳並之剋。行光郎從藤五男。相隔而取合于秀方。此間見顏色。幼稚者也。雖問姓名。敢不發詞。然而一人留之條。稱有子細。誅之畢。強力之甚不似若少。相爭之處。對揚良久云々。(後略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁酉。(前略)
その中に金剛甥當が子息
[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き(後は以下の回で示す)。
〇原文
十日丁酉。(前略)
其中金剛別當子息下須房太郎秀方。〔年十三。〕殘留防戰。駕黑駮馬。敵向髦陣。其氣色掲焉也。工藤小次郎行光欲馳並之剋。行光郎從藤五男。相隔而取合于秀方。此間見顏色。幼稚者也。雖問姓名。敢不發詞。然而一人留之條。稱有子細。誅之畢。強力之甚不似若少。相爭之處。對揚良久云々。(後略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁酉。(前略)
其の中に金剛別當が子息下須房太郎秀方〔年十三。〕殘り留まりて防戰す。
・「下須房太郎秀方」諸資料の読みでは「かすぼう」とも「かすほ」ともともある。「かすふさ」でもよさそうである。――puer eternus――プエル・エテルヌス――私としてはこれ、独立して示してやりたかったのである。
・「其の氣色、掲焉なり」「掲焉」は既出。その気迫たるや、一目瞭然である、の意。
・「藤五男」ある資料の読みでは「とうごおとこ」とあるが、私は「とうごだん」と読みたい。
・「子細有り」相応の覚悟を持った名将の子息ならん、と。
・「對揚すること」対等に組み戦うこと。]
國衡は城を出でて、出羽の道より大關山を越える所に、和田小太郎義盛、
[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅵ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き、残り総てを示しておく。
〇原文
十日丁酉。(前略)
又小山七郎朝光討金剛別當。其後退散武兵等。馳向于泰衡陣。阿津賀志山陣大敗之由告之。泰衡周章失度。逃亡赴奥方。國衡亦逐電。二品令追其後給。扈從軍士之中。和田小太郎義盛馳拔于先陣。及昏黑。到于芝田郡大高宮邊。西木戸太郎國衡者。經出羽道。欲越大關山。而今馳過彼宮前路右手田畔。義盛追懸之。稱可返合之由。國衡令名謁。廻駕之間。互相逢于弓手。國衡挾十四束箭。義盛飛十三束箭。其矢。國衡未引弓箭。射融國衡之甲射向袖。中膊之間。國衡者痛疵開退。義盛者又依射殊大將軍。廻思慮搆二箭相開。于時重忠率大軍馳來。隔于義盛國衡之中。重忠門客大串次郎相逢國衡。々々所駕之馬者。奥州第一駿馬。〔九寸。〕號高楯黑也。大肥満國衡駕之。毎日必三ケ度。雖馳登平泉高山。不降汗之馬也。而國衡怖義盛之二箭。驚重忠之大軍。閣道路。打入深田之間。雖加數度鞭。馬敢不能上陸。大串等彌得理。梟首太速也。亦泰衡郎從等。以金十郎。匂當八。赤田次郎。爲大將軍。根無藤邊搆城郭之間。三澤安藤四郎。飯富源太已下猶追奔攻戰。凶徒更無雌伏之氣。彌結烏合之群。於根無藤與四方坂之中間。兩方進退及七ケ度。然金十郎討亡之後皆敗績。匂當八。赤田次郎已下。生虜卅人也。此所合戰無爲者。偏在三澤安藤四郎兵略者也。今日於鎌倉。御臺所以御所中女房數輩。有鶴岡百度詣。是奥州追討御祈精也云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁酉。(前略)
又、小山七郎朝光、金剛別當を討つ。其の後退散の武兵等、泰衡の陣に馳せ向ひ、阿津賀志山の陣大敗の由、之を告ぐ。泰衡、周章し度を失ひて逃亡し、奥の方へ赴く。國衡も亦、逐電す。二品、其の後を追はしめ給ふ。扈從の軍士の中、和田小太郎義盛、先陣に馳せ拔け、
今日鎌倉に於いて、御臺所、御所中の女房數輩を以つて、鶴岡へ百度詣で有り。是れ、奥州追討の御祈精なりと云々。
・「昏黑」日没。日が暮れて暗くなることをいう。
・「芝田郡大高宮」現在の宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬字台部にある大高山神社付近。個人のHP「畑の中の地元学」の「藤原国衡終焉の地はブルーベリー農園?」に当該地の紹介がある。
・「大關山」「角川日本地名大辞典」は笹谷峠とする。「奥の細道」に出る有耶無耶関跡があることで知られる難所。宮城県と山形県とを結ぶ最古の峠で、標高は九〇六メートル。
・「射向の袖」鎧の左側の袖。
・「開き退く」戦陣では「退く」は忌み言葉であることから退却することを「開く」と言った。その影響が叙述に出たものであろう。
・「義盛は又、殊なる大將軍を射るに依つて、思慮を廻らし、二の箭を搆へて相ひ開く」これは、大将軍を討ち取るということになるため、義盛も――止めの二の矢をわざと難度の高い遠矢で射ることを選択し(恐らくは戦後の論功行賞で、より殊勲なる戦功に相当すると考えたからであろう)――矢を構えたままやや後退したため、両者退く格好となり、その間に有意な間隙が生じてしまったのである。
・「大串次郎」大串重親(生没年未詳)。武蔵国出身。『宇治川の戦いにおいて、川を渉る際に馬を流され、徒歩で渡河し、同じく馬を流されて徒歩で渡っていた畠山重忠にしがみついた。怪力で知られる重忠は重親を掴んで向こう岸まで投げ飛ばした。岸まで投げ飛ばされた重親は、大勢の敵を前にして、我こそが徒立ちの先陣(騎乗での先陣は佐々木高綱)であると大声で宣言し、敵味方から笑いが起こったという』(高校の古文ではかつて教科書に必ず載っていた名(迷)場面である)。『源平盛衰記によれば重忠が追討された二俣川の戦いにも参戦していた。このとき重親は安達景盛などと共に重忠と対峙したが、弓を収めて引き返した。北条時政の讒訴によって追討されることとなった重忠への同情からの行動だといわれる』(以上はウィキの「大串重親」より引用した)。
・「
・「道路を
・「根無藤」現在の宮城県刈田郡蔵王町円田字根無藤。ネット上を見ると、この地名の由来には、前九年の役で劣勢となった安倍一族が陣を引き払う際、大将安倍貞任が公孫樹の根元に藤で出来た鞭を挿して去ったが、その藤が芽を出し、公孫樹に絡みつく大木となったという説と、いや、刺したのは勝利者となった源頼義だとする説などがあるようである。
・「四方坂」四方峠。現在の宮城県刈田郡蔵王町平沢及び柴田郡村田町足立にある。標高三四八メートル。
・「三沢安藤四郎」不詳。陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した安倍貞任の子孫を自称した安東氏(津軽安藤氏とも呼称)の関係者とも言われる。]
出羽國も破られて、田川、秋田、討たれたり。大將泰衡は玉造郡に赴き、平泉の
[やぶちゃん注:〈泰衡斬られ〉
冒頭は「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十三日の条に基づく。
〇原文
十三日庚子。比企藤四郎。宇佐美平次等。打入出羽國。泰衡郎從田河太郎行文。秋田三郎致文等梟首云々。今日。二品令休息于多賀國府給。
〇やぶちゃんの書き下し文
十三日庚子。比企藤四郎・宇佐美平次等、出羽國へ打ち入る。泰衡が郎從の田河太郎行文、秋田三郎致文等を梟首すと云々。
今日。二品、多賀國府に休息せしめ給ふ。
「
「麗水の金を鏤り、昆山の玉をちりばめ」宋代の僧文瑩の「湘山野録」にある「崑山出玉」及び「麗水生金」に基づく故事成句を下敷きとする。「崑山」は中国西方の伝説上の霊山で西王母の居所で美玉の産地と言われた崑崙山、「麗水」は湖北省にある川名前で砂金を産することで知られたが、これは「崑山、玉を出だし、麗水、金を生ず」で、優れた家系や立派な親からは立派な人物や子が生まれることの譬えであり、ここは失われた藤原三代の栄枯盛衰の懐旧の情を詠んでいるのである。
「姑蘇城一片の煙に和し、咸陽宮三月の火に化しける」「姑蘇城」呉王夫差の居城。越王勾践による復讐戦で焼け落ちた。「咸陽宮」戦国時代に秦の孝公が咸陽に建てた壮大な宮殿。後に始皇帝が宮廷として荘厳美麗なる要塞であったが、項羽によって焼き払われた。その火は三ヶ月に渡って燃え続けたと伝えられる。
「泰衡一旦の命を助からんとて夷嶋に赴き……降人に出たり。」ここは、「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年九月三日の条に基づく。
〇原文
三日庚申。泰衡被圍數千軍兵。爲遁一旦命害。隱如鼠。退似鶃。差夷狄嶋。赴糠部郡。此間。相恃數代郎從河田次郎。到于肥内郡贄柵之處。河田忽變年來之舊好。令郎從等相圍泰衡梟首。爲献此頚於二品。揚鞭參向云々。
陸奥押領使藤原朝臣泰衡。〔年卅五〕
鎭守府將軍兼陸奥守秀衡次男。母前民部小輔藤原基成女
文治三年十月。繼於父遺跡爲出羽陸奥押領使管領六郡
〇やぶちゃんの書き下し文
三日庚申。泰衡、數千の軍兵に圍まれ、一旦の
陸奥押領使藤原朝臣泰衡〔年卅五。〕。
鎭守府將軍兼陸奥守秀衡が次男、母は前民部小輔藤原基成が女。
文治三年十月、父の遺跡を繼ぎ、出羽・陸奥の押領使として六郡を管領す。
・「鶃」国史大系版では(へん)と(つくり)が左右逆転しているが、これが本字。水鳥の一種とする。「博物志」には『雌雄相視則孕』(雌雄、相ひ視れば即ち孕む)などとあるから想像上の妖鳥かとも思われるが、この字には単に、鳥の子・幼鳥の意味があるから、ここはそれであろう。
・「糠部郡」かつて陸奥国にあった旧
・「肥内郡贄柵」現在の大館市比内町に比定されている。
「主君を殺す八虐人をみせしめの爲にとて、河田が首を刎ね」ここは、「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年九月六日の条に基づく。
〇原文
六日癸亥。河田次郎持主人泰衡之頸。參陣岡。令景時奉之。以義盛。重忠。被加實檢上。召囚人赤田次郎。被見之處。泰衡頸之條。申無異儀之由。仍被預此頸於義盛。亦以景時。被仰含河田云。汝之所爲。一旦雖似有功。獲泰衡之條。自元在掌中之上者。非可假他武略。而忘譜第恩。梟主人首。科已招八虐之間。依難抽賞。爲令懲後輩。所賜身暇也者。則預朝光。被行斬罪云々。其後。被懸泰衡首。康平五年九月。入道將軍家賴義獲貞任頸之時。爲横山野大夫經兼之奉。以門客貞兼。請取件首。令郎從惟仲懸之。〔以長八寸鐵釘。打付之云々。〕追件例。仰經兼曾孫小權守時廣。時廣以子息時兼。自景時手。令請取泰衡之首。召出郎從惟仲後胤七太廣綱令懸之。〔釘同彼時例云々。〕
〇やぶちゃんの書き下し文
六日癸亥。河田次郎、主人泰衡の頸を持ち、
其の後、泰衡が首を懸けらる。康平五年九月、入道將軍家賴義、貞任の頸を
・「八寸」約二十四センチメートル強。
「鎌倉に歸陣あり」頼朝の鎌倉帰着は「吾妻鏡」によれば文治五(一一八九)年九月二十八日である。但し、次の「無量光院の僧詠歌」には帰鎌以前の奥州での検分の内容が混入している。]
○無量光院の僧詠歌
其比、平泉の
昔にもあらでぞ夜はの
浮雲を吹き拂ふ空の秋風を我がものにして月ぞ見まほし
折節、懷舊の催す所を聞きて
[やぶちゃん注:初代藤原清衡は中尊寺、二代藤原基衡は毛越寺を造営したが、三代藤原秀衡が建立したのが無量光院。無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し、「吾妻鏡」には無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁であった「平泉館」があったと記載されている。無量光院は宇治の平等院を模して造られ、
「助公」この人物に纏わるエピソードは、頼朝帰鎌後、当年も押し迫った「吾妻鏡」文治五 (一一八九) 年十二月二十八日の条(これが当年の最終記載である)に現われる。即ち、これは事実に即して鎌倉での出来事として終始描かれているのだが(だから前話の最後でも頼朝の帰鎌を語っている)、読む者は無量光院の描出から自然に尋問の場へと移って、恰も裁きが無量光院で行われているような錯覚を与えて素晴らしい、と私は感じている。
〇原文
廿八日癸丑。平泉内無量光院供僧一人。〔号助公。〕爲囚人參著。是慕泰衡之跡。欲奉反關東之由。依有風聞。所被召禁也。今日。以景時被推問子細之處。件僧謝申云。師資相承之間。淸衡已下四代。皈依續佛法惠命也。爰去九月三日。泰衡蒙誅戮之後。同十三日夜。天陰。名月不明之間。
昔にも非成夜の志るしにハ今夜の月も曇ぬる哉
如此詠畢。此事更非奉蔑如當時儀。只折節懐舊之所催也。無異心云々。景時頗褒美之。則達此由二品。還有御感。厚免其身。剩被加賞云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日癸丑。平泉内、無量光院の供僧一人、〔助公と号す。〕囚人と爲りて參著す。是れ、泰衡の跡を慕い、關東を
昔にも非らずなる夜のしるしには
此の如く詠じ畢んぬ。此の事、更に當時の儀を
景時、頗る之を褒美す。則ち、此の由を二品に達す。還へりて御感有りて、其の身を厚免せられ、剩さへ賞を加へらると云々。
・「師資相承」訓読すると「師資、相ひ
・「昔にも非らずなる夜のしるしには今夜の月も曇りぬるかな」初句が硬い。曇るのは勿論、涙のせいでもある。歌意は、
――昔日の栄華は最早、すっかり失われてしまった今日の、この夜……そのしるしに……今夜の月も……曇って見えぬことよ……
「佛餉」仏に供える米飯。
「外濱」外が浜は青森県津軽半島東部の陸奥湾沿岸を指す古来の地名。青森市油川から外ヶ浜町三厩までを指す。古くは更に広い範囲を指して西は津軽半島の日本海沿岸を含むとする説や東は下北半島の尻屋崎までとする説がある。地名の由来は、それまで続いていた陸地が尽きる場所、国土の終端を意味する言葉である「
「右は長途を經る、南北の嶺連り亙つて」連続した文。奥羽山脈全体を指している。右手は――その里程極めて遠く遙かなる――南北の峰々連なり亙って、の意。
「宦照が小松楯」底本は「官照」。京都梅村弥右衛門板行で訂した。これは前九年の役で養父良照や父頼時・兄貞任らに従って活躍、その後出家して宦照と名乗った、兄宗任らとともに大宰府に配流されている安倍家任(あべの いえとう 康平五(一〇六二)年?)所縁の松か? 識者の御教授を乞うものである。「小松楯」とは、そこにすっくと佇立している様を言うか。
「成通が琵琶柵」藤原
「昔にもあらでぞ夜はの憂しく月さへいとど曇りがちなる」前掲通り、「吾妻鏡」とは、かなり異なる。連体中止法が利いて、作者の感涙がはっきりと伝わる。俄然、こちらの方がうまい、と、私は思うのである。通釈しておく。
――昔日の面影も、最早、すっかり失われてしまった今日の、この夜……今、たった一人、憂いに沈んでいる……だから……月さえも、ますます曇りがちに……なる……
「浮雲を吹き拂ふ空の秋風を我がものにして月ぞ見まほし」前掲通り、「吾妻鏡」には不載。出所不明。識者の御教授を乞う。「浮雲」は「憂き」を掛けるが、二句目の音律が今一つである(と私は思う)。通釈しておく。
――漂う雲よ……遮る雲よ! お前は何と情けのないことか!……秋風よ! お前を、我がものにしてでも……私は……月を見たい……
さても、他にも注すべきところはあろうが、私はこの寂寥の風雅を、これ以上、私の下らぬ注で穢したくないと思う。……]
○賴朝上洛 竝 官加階 付 惣追捕使を申賜る
建久元年十一月七日、賴朝卿、上洛し給ふ。池大納言賴盛卿の六波羅の舊跡を點じて入り給ふ。次の日、院參あり。
[やぶちゃん注:本話の内、
①頼朝が上洛して権大納言(建久元(一一九〇)年十一月九日拝命)並びに右大将(同十一月二十四日拝命)に任ぜらるるも、両職を辞退して(同十二月三日)、下向(十二月十四日京都進発、同二十九日の午後八時頃、鎌倉現着)
の部分は、
「吾妻鏡」巻十の建久元年十一月七日・九日・二十四日・十二月二日・二十九日の条
に拠り、
②政所・問注所・侍所及び所司任命
の部分は
「吾妻鏡」巻十一の建久二(一一九一)年一月十五日の条
に拠る。次いで、後半部の、
③征夷大将軍・正二位拝命(建久三(一一九二)年七月十二日)
は、
「吾妻鏡」巻十二の建久三年七月二十日の条
に拠る(タイム・ラグは飛脚によるため)。続く部分は実は時計が巻き戻されており、
④大江広元の提言によって(文治元(一一八五)年十一月十二日)、諸国に守護・地頭を置く
という部分は六~七年遡った、
「吾妻鏡」巻五の文治元(一一八五)年十一月十二日・二十八日・二十九日及び文治二年三月一日の条
に基づくものである。
なお、ここに「六十餘州の惣追捕使」とあるが、この文治元年十一月の通称文治勅許の際、地頭職を義経追捕を直接目的として全国的に設置する権限を朝廷に求めて承認されてはいるが、一応、頼朝が守護任命権を持った「諸國惣追補使」となったことは「吾妻鏡」巻六の文治二年三月一日に示される。筆者は文治二年三月一日を以って「諸國惣追補使」になったと当然思っていよう。しかし、ことはそう単純ではない。実は、これが、
正式な「諸國惣追補使」として公的に「確認される」のは
実はもっとあと、正にここで時計が本話の頭に戻って、頼朝の凱旋上洛から権大納言・右大将叙任及びあっという間の辞任という場面の中で行われたのであり、まさに正しくは
頼朝が名実ともに諸国追補使となったのは建久元(一一九〇)年
であると考えられているのである。
そうして私は、
頼朝の諸国追補使公認の建久元(一一九〇)年を鎌倉幕府の成立とする
という考え方を全面的に支持するのである。即ち、本話こそが
〈鎌倉幕府成立〉
と標題すべきシークエンスであると私は考えるのである。
「池大納言賴盛卿」平頼盛(長承二(一一三三)年~文治二(一一八六)年)。頼朝の助命を願い出た池禅尼の子で清盛の異母弟。平家滅亡後も頼朝から厚遇された。没年でお分かりの通り、ここは旧故頼盛邸を宿所としたのである。
「院參」勿論、後白河院の元へである。
「直衣始」現代音では「のうしはじめ」と読む。関白・大臣などが勅許を受けて初めて直衣を着用する儀式。「ちょくいはじめ」とも読む。
「竪文」「かたもん」と読み、綾の織物の文様の
「
「
「美美敷」形容詞「びびし」で、①立派だ。美事だ。②美しい。華やかだ。ここは総ての謂いでとってよかろう。
「吉書始」吉書とは年始や改元、政務の新規開始などの際に吉日を選んで総覧に供される、それ専用に書き記された儀礼的文書のことで、吉書始は
「
「所司」「しよし(しょし)」と読み、侍所の次官の職名。
「文治二年三月に平家追討の賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙り、正二位に轉ぜらる」は、元暦二(一一八五)年三月の誤り(文治への改元は同年八月十四日)。ここは更に③のパートであるから、厳密には、
『右大將家、建久三年七月十二日、元暦二年三月に平家追討、その賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙り、正二位に轉ぜらる』
という風になっていないと、本当はおかしい。
「廣元申しけるやう……」以下、「吾妻鏡」の文治元(一一八五)年十一月十二日の条の後半を示す。前半は源義経の都落ちと逃亡、関係諸人の処分などが記され、このゆゆしき一件を受けての広元の主張となる。
〇原文
十二日辛夘。(前略)凡今度次第。爲關東重事之間。沙汰之篇。始終之趣。太思食煩之處。因幡前司廣元申云。世已澆季。梟惡者尤得秋也。天下有反逆輩之條更不可斷絶。而於東海道之内者。依爲御居所雖令靜謐。奸濫定起於他方歟。爲相鎭之。毎度被發遣東士者。人々煩也。國費也。以此次。諸國交御沙汰。毎國衙庄園。被補守護地頭者。強不可有所怖。早可令申請給云々。二品殊甘心。以此儀治定。本末相應。忠言之所令然也。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日辛夘。(前略)凡そ今度の次第、關東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、
二品、殊に甘心し、此の儀を以つて
・「澆季」「澆」は軽薄、「季」は末の意で、道徳が衰えた乱れた世。世の終わり。末世。世も末。「北條九代記」の「澆薄」も同じく、道徳が衰えて人情の極めて薄くなっていることを言う語である。
・「梟惡」性質が非常に悪く、人の道に背いていること。
・「御居所たるに依りて」二品頼朝様のお膝元なれば、の意。
・「毎度東士を發遣せらるるは」毎回毎回、いちいち関東の兵卒を派遣なさっておっては、の意。
・「御沙汰を交へ」命令系統をしっかりと組織した上で上意下達させて。
・「國衙庄園毎に守護地頭を補せられば」は、つい最近まで無批判に、国衙に守護を、荘園に地頭を置くという風に解釈されてきたのだが、近年の研究では守護と地頭ではなく、国衙や荘園を守護するための地頭が正しい解釈として支持されているようである。諸国に設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めるのは(しかも頼朝政権当時は全国的なものではなく、東日本に偏ったもので、畿内以西では朝廷や寺社勢力が依然、有意な力を持っていた)、正に私が支持する鎌倉幕府成立の建久元(一一九〇)年前後とされているのである。
「
「
「
「申さるゝに、院は何の御遠慮にも及ばず、次の日勅許あり」ここには勿論、省略があって、以上を受けて、同月(文治元(一一八五)年十一月)二十八日に北條時政から後白河院への以上の要請が吉田経房を通して上奏され、それが即決で「次の日」二十九日に勅許されたことを指している。両日の「吾妻鏡」を部分的に引いておく。
〇原文
廿八日丁未。補任諸國平均守護地頭。不論權門勢家庄公。可宛課兵粮米〔段別五升。〕之由。今夜。北條殿謁申藤中納言經房卿云々。
廿九日戊申。北條殿所被申之諸國守護地頭兵粮米事。早任申請可有御沙汰之由。被仰下之間。師中納言被傳 勅於北條殿云々。(後略)
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日丙午。諸國平均に守護地頭を補任し、權門勢家庄公を論ぜず、兵粮米〔段別五升。〕を宛て課すべきの由、今夜、北條殿、藤經房卿中納言に謁し申すと云々。
廿九日戊申。北條殿申さるる所の諸國の守護地頭・兵粮米の事、早く申し請くるに任せて御沙汰有るべきの由、仰せ下さるの間、師中納言、 勅を北條殿に傳へらると云々。(後略)]
○富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討
[やぶちゃん注:本話は二部に分けて注する。従って本来は本文は続くものであることを注意されたい。]
同四年五月十六日、右大將賴朝卿、
[やぶちゃん注:〈富士の巻狩り〉
本話全体は富士の牧狩りと、そこで起こった有名な曾我の仇討ちの一件を記したもので、「吾妻鏡」からは、前半部に巻十三の建久四(一一九三)年五月十五日・十六日・二十二日・二十七日の条が、後半の仇討ちのシーンは、同五月二十八日・二十九日及び六月七日の条が参照されている。本話はこの前後に分けて注することとする。
・「富士野藍澤」現在の御殿場市新橋
「五間」約九メートル。
「若君」頼家。当時、満十二歳。
「愛甲三郎季隆」愛甲季隆(あいこう/あいきょうすえたか ?~建保元(一二一三)年)は相模国愛甲郡愛甲荘(現在の神奈川県厚木市愛甲)の武将。弓射に優れ、将軍随兵や正月の御的始の射手を務めており、元久二(一二〇五)年に起った畠山重忠の乱の二俣川の戦いでは、武勇の誉れ高かった重忠に矢を的中させて首級を取り、幕府軍大将北条義時に献上している。建保元(一二一三)年の和田合戦で義盛方に与して敗北、兄義久ら一族と共に討ち死にした(以上はウィキの「愛甲季隆」に拠る)。
「物逢」射芸用語で、射手が的に向かった際の作法のこと
「御眼路に候ず」頼家公の間近にお控えし、その微妙な物逢いについて助言申し上げた、という意であろう。
「羽ぶくら」底本頭注には『羽ぶくらの所まで』とある。「羽ぶくら」とは矢羽のこと。矢の後尾に附いた羽根。
「せめて立ちたり」矢が鹿の体の矢羽の根元まで喰い込んだことを言う。
「究竟の矢壺」射どころとして一撃必死の最も的確な部位。
「梶原平次景高」(永万元(一一六五)年~正治二(一二〇〇)年)梶原景時次男。長男景季の実弟。一ノ谷の戦いの緒戦であった生田の森の戦いでは父の制止をきかずに平家の陣に先駆けして奮戦した名将。駿河
「御臺更に御感なし」多くの方はここに不審を抱かれるであろう(「氣疎けれ」とは、疎ましく不快だ、といった謂いである)。しかし、これは「吾妻鏡」を仔細に読んでゆくとよく分かるのである。以下で検証してみよう。まず、この前日建久四 (一一九三)年五月十五日の記事から。
〇原文
十五日庚辰。藍澤御狩。事終入御富士野御旅舘。當南面立五間假屋。御家人同連詹。狩野介者參會路次。北條殿者豫被參候其所。令献駄餉給。今日者依爲齋日無御狩。終日御酒宴也。手越黄瀨河已下近邊遊女令群參。列候御前。而召里見冠者義成。向後可爲遊君別當。只今即彼等群集。頗物忩也。相率于傍。撰置藝能者。可随召之由被仰付云々。其後遊女事等至訴論等。義成一向執申之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十五日庚辰。藍澤の御狩、事終りて、富士野の御旅舘に入御す。南面に當りて五間の假屋を立つ。御家人同じく
其の後、遊女の事等、
・「狩野介宗茂」(生没年未詳)後半で曾我兄弟に討たれる工藤祐経の叔父工藤茂光(?~治承四(一一八〇)年)の子。
・「駄餉」簡易の弁当。
・「齋日」
・「手越」現在の静岡市駿河区手越。次の「黄瀨河」とともに東海道の宿場町として栄えた。
・「黄瀨河」現在の沼津市大岡木瀬川。
・「里見冠者義成」(保元二(一一五七)年~文暦二(一二三四)年)は新田義重の長男里見義俊(里見氏の祖)の子で頼朝の寵臣であった。それにしても遊女担当別当職として遊女関連訴訟まで総てを任されるというのは――何ともはや。漁色家であった頼朝の羽目の外し具合がよく分かる場面である。そうして、これが、間違いなく政子にバレていたのである(因みにこれは政子の憶測ではなく、彼女に繋がる密告ルートが頼朝の身辺に必ずや存在したものと私は見ている)。これが続く政子不機嫌の元凶と考えて、これ、間違いない。
以下、翌日の条の冒頭。
〇原文
十六日辛巳。富士野御狩之間。將軍家督若君始令射鹿給。愛甲三郎季隆本自存物達故實之上。折節候近々。殊勝追合之間。忽有此飲羽云々。尤可及優賞之由。將軍家以大友左近將監能直。内々被感仰季隆云々。此後被止今日御狩訖。屬晩。於其所被祭山神矢口等。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日辛巳。富士野の御狩の間、將軍家督の若君、始めて鹿を射しめ給ふ。愛甲三郎季隆、本より物逢ひの故實を存ずるの上、折節近々に候じ、殊勝に追い合はすの間、忽ち此の
尤も優賞に及ぶべしの由、將軍家、大友左近將監能直を以て、内々に季隆に感じ仰せらると云々。
此の後、今日の御狩を止められ訖んぬ。晩に屬して、其の所に於いて山の神・
・「飲羽」本文の「羽ぶくらをせめて立ちたり」に同じ。
・「矢口」狩り場の口開けに初めて矢を射たり射た後に行った神事や儀式を言う。
その翌日の条。
〇原文
廿二日丁亥。若公令獲鹿給事。將軍家自愛餘。被差進梶原平二左衞門尉景高於鎌倉。令賀申御臺所御方給。景高馳參。以女房申入之處。敢不及御感。御使還失面目。爲武將之嫡嗣。獲原野之鹿鳥。強不足爲希有。楚忽專使。頗有其煩歟者。景高歸參富士野。今日申此趣云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿二日丁亥。若公、鹿を獲らしめ給ふ事、將軍家、自愛の餘り、梶原平二左衞門尉景高を鎌倉へ差し進ぜられ、御臺所の御方に賀し申さしめ給ふ。景高、馳せ參じ、女房を以つて申し入るの處、敢へて御感に及ばず、御使、還つて面目を失ふ。
「武將の
てへれば、景高、富士野へ歸參、今日、此の趣を申すと云々。
「二十七日の未明より勢子を催し狩り給ふに、各手を盡して藝を顯す。一日狩暮して、明日は卷狩あるべしと定めらる」ある面で、政子の一喝がポジティヴな前半が、この日から実は「吾妻鏡」の叙述では急速に不吉に暗転し、奈落への陰風が吹きすさんでゆくのである。それを見よう。
〇原文
廿七日壬辰。未明催立勢子等。終日有御狩。射手等面々顯藝。莫不風毛雨血。爰無雙大鹿一頭走來于御駕前。工藤庄司景光〔著作與美水干。駕鹿毛馬。〕兼有御馬左方。此鹿者景光分也。可射取之由申請之。被仰可然之旨。本自究竸射手也。人皆扣駕見之。景光聊相開而通懸于弓手。發射一矢不令中。鹿拔于一段許之前。景光押懸打鞭。二三矢又以同前。鹿入本山畢。景光弃弓安駕云。景光十一歳以來。以狩獵爲業。而已七旬餘。莫未獲弓手物。而今心神惘然太迷惑。是則爲山神駕之條無疑歟。運命縮畢。後日諸人可思合云々。各又成奇異思之處。晩鐘之程。景光發病云々。仰云。此事尤恠異也。止狩可有還御歟云々。宿老等申不可然之由。仍自明日七ケ日可有卷狩云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日壬辰。未明、勢子等を催し立て、終日御狩有り。射手等、面々に藝を顯はす。風毛雨血ならずといふこと莫し。爰に無雙の大鹿一頭、御駕の前に走り來たる。工藤庄司景光〔
「此の鹿は景光が分なり。射取るべし。」
の由、之を申し請くるに、
「然るべし。」
の旨を仰せらる。本より究竸の射手なり。人皆、駕を
「景光、十一歳より
と云々。
各々又、奇異の思ひを成すの處、晩鐘の程、景光發病すと云々。
仰せて云はく、
「此の事、尤も恠異なり。狩りを止め、還御有るべきか。」
と云々。
宿老等、然るべからざるの由を申す。仍つて明日より七ケ日、卷狩有るべしと云々。
・「勢子」底本に『鳥獸を狩出す列卒』と頭注する。
・「作與美」「貲布・細布」とも書き、音変化して「さいみ」とも読む。織り目の粗い麻布。夏衣や蚊帳などに用いた。
・「惘然」「呆然」に同じい。気が抜けてぼんやりしている状態を言う。
・「宿老等然るべからずの由を申す」ここは非常に気になるところである。景光の言う通り、山の神の載った鹿を射てしまったのだったとするなら、これはヤマトタケルの故事と同じで、とんでもない凶事である。従って頼朝の命に従うなら、即日、鎌倉へ帰ることになったはずである。それは至当である。しかし、だとすると木曾兄弟の仇討ちは未遂に終わった可能性が強烈に高まる。この牧狩り続行を進言した宿老は(誰だかは不明)、実は木曾の仇討ちを知っていた木曾兄弟所縁のシンパサイザーであったのではないかという疑いを私は払拭出来ないのである。]
その夜の
[やぶちゃん注:〈曾我兄弟の仇討ち〉
建久四 (一一九三) 年五月二十八日の記事から見よう。
〇原文
廿八日癸巳。小雨降。日中以後霽。子剋。故伊藤次郎祐親法師孫子。曾我十郎祐成。同五郎時致。致推參于富士野神野御旅舘。殺戮工藤左衞門尉祐經。又有備後國住人吉備津宮王藤内者。依與于平家家人瀨尾太郎兼保。爲囚人被召置之處。属祐經謝申無誤之由之間。去廿日返給本領歸國。而猶爲報祐經之志。自途中更還來。勸盃酒於祐經。合宿談話之處。同被誅也。爰祐經。王藤内等所令交會之遊女。手越少將。黄瀨川之龜鶴等叫喚。此上。祐成兄弟討父敵之由發高聲。依之諸人騷動。雖不知子細。宿侍之輩者皆悉走出。雷雨撃鼓。暗夜失燈殆迷東西之間。爲祐成等多以被疵。所謂平子野平右馬允。愛甲三郎。吉香小次郎。加藤太。海野小太郎。岡邊彌三郎。原三郎。堀藤太。臼杵八郎。被殺戮宇田五郎已下也。十郎祐成者。合新田四郎忠常被討畢。五郎者。差御前奔參。將軍取御劔。欲令向之給。而左近將監能直奉抑留之。此間小舎人童五郎丸搦得曾我五郎。仍被召預大見小平次。其後靜謐。義盛。景時承仰。見知祐經死骸云々。
左衞門尉藤原朝臣祐經
工藤瀧口祐繼男
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日癸巳。小雨降る。日中以後、
左衞門尉藤原朝臣祐經
工藤瀧口祐繼が男
・「富士野の神野」現在の静岡県富士宮市狩宿。富士山西北西一〇キロメートルに位置する。この富士の巻狩りの際、頼朝が馬から降りた所として「狩宿の下馬桜」と呼ばれる国特別天然記念物の桜の銘木が残る。
・「平子野平右馬允」
翌建久四 (一一九三) 年五月二十九日の条。
〇原文
廿九日甲午。辰剋。被召出曾我五郎於御前庭上。將軍家出御。揚幕二ケ間。可然人々十餘輩候其砌。所謂一方。北條殿。伊豆守。上総介。江間殿。豊後前司。里見冠者。三浦介。畠山二郎。佐原十郎左衞門尉。伊澤五郎。小笠原二郎。一方。小山左衞門尉。下河邊庄司。稻毛三郎。長沼五郎。榛谷四郎。千葉太郎。宇都宮弥三郎等也。結城七郎。大友左近將監。在御前左右。和田左衞門尉。梶原平三。狩野介。新開荒次郎等。候于兩座中央矣。此外御家人等群參不可勝計。爰以狩野新開等。被召尋夜討宿意。五郎忿怒云。祖父祐親法師被誅之後。子孫沈淪之間。雖不被聽昵近。申最後所存之條。必以汝等不可傳者。尤直欲言上。早可退云々。將軍家依有所思食。條々直聞食之。五郎申云。討祐經事。爲雪父尸骸之恥。遂露身鬱憤之志畢。自祐成九歳。時致七歳之年以降。頻插會稽之存念。片時無忘。而遂果之。次參御前之條者。又祐經匪爲御寵物。祖父入道蒙御氣色畢。云彼云此。非無其恨之間。遂拜謁。爲自殺也者。聞者莫不鳴舌。次新田四郎持參祐成頭。被見弟之處。敢無疑胎之由申之。五郎爲殊勇士之間。可被宥歟之旨。内々雖有御猶豫。祐經息童〔字犬房丸。〕依泣愁申。被亘五郎。〔年廿。〕以號鎭西中太之男。則令梟首云々。此兄弟者。河津三郎祐泰〔祐親法師嫡子。〕男也。祐泰去安元二年十月之比。於伊豆奥狩塲。不圖中矢墜命。是祐經所爲也。于時祐成五歳。時致三歳也。成人之後。祐經所爲之由聞之。遂宿意。凡此間毎狩倉。相交于御供之輩。伺祐經之隙。如影之随形云々。又被召出手越少將等。被尋問其夜子細。祐成兄弟之所爲也。所見聞悉申之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿九日甲午。辰剋。曾我五郎を御前の庭上に召し出ださる。將軍家出御、幕二ケ
「祖父の祐親法師誅せらるるの後、子孫
と云々。
將軍家、思し
「祐經を討つ事、父の尸骸の
てへれば、聞く者、舌を鳴らさざるは莫し。次に新田四郎、祐成が
此の兄弟は、河津三郎祐泰 〔祐親法師が嫡子。〕が男なり。祐泰、去ぬる安元二年十月の比、伊豆奥の狩塲に於いて、圖らざるに矢に
又、手越少將等を召し出だされ、其の夜の子細を尋ね問はる。祐成兄弟の所爲なりと、見聞した所、悉く之を申すと云々。
・「北條殿」北条時政。以下、人名を列挙する。「伊豆守」山名義範。「上総介」足利義兼。「江間殿」北条義時。「豊後前司」毛呂季光。「里見冠者」里見義成。「三浦介」三浦義澄。「畠山二郎」畠山重忠。「佐原十郎左衞門尉」佐原義連。「伊澤五郎」井沢信光。「小笠原二郎」小笠原長清。「小山左衞門尉」小山朝政。「下河邊庄司」下川邊行平。「稻毛三郎」稻毛重成。「長沼五郎」長沼宗政。「榛谷四郎」榛谷重朝。「千葉太郎」千葉成胤。「宇都宮弥三郎」宇都宮頼綱。「結城七郎」結城朝光。「大友左近將監」大友能直。「和田左衞門尉」和田義盛。「梶原平三」梶原景時。「狩野介」
・「舌を鳴らさざるは莫し」とは、この場合は賛美のポーズである。
・「疑胎無し」間違いない。
・「犬房丸」工藤(後に伊藤姓を名乗る)祐時(文治元(一一八五)年~建長四年(一二五二)年)の幼名。
最後に。本注のために、「吾妻鏡」のこの前後を読んでいると、曾我兄弟に討ち取られた、この工藤祐経について、この直前の記載に如何にもな不吉な予兆が現れているのが分かる。例えば、同建久四 (一一九三) 年の一月五日の条では、
〇原文
五日癸酉。工藤左衞門尉祐經家。恠鳥飛入。不知其號。形如雉雄云々。卜筮之處。愼不輕。仍廻祈請云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日癸酉。工藤左衞門尉祐經が家に、
卜筮の處、愼み輕からず。仍りて祈請を廻らすと云々。
とあって、新年早々、忌まわしくも奇怪なる鳥が彼の屋敷に飛び入ってしまい、占ったところが重い凶兆と出、祈請が行われているのだ。また、死の前月四月十九日には、
〇原文
十九日乙夘。午剋。工藤左衞門尉祐經宅燒亡。不及他所。是去比新造移徙以後經三十八ケ日也云々。主者將軍家爲御供。下向下野國云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十九日乙夘。午の剋。工藤左衞門尉祐經宅燒亡す。他所に及ばず。是れ、去ぬる比、新造の
と、新築したばかりの彼の屋敷が焼亡しているのである。如何にも如何にも不吉ではないか。こういう事実、私には何とも言えず、面白いのである。]
○範賴勘氣を蒙る 付 家人當麻太郎
參河守範賴は賴朝卿の御舍弟として
[やぶちゃん注:前半、「吾妻鏡」巻十三の建久四年(一一九三)年八月二日の条に、頼朝がいちゃもんをつける起請文が載る(範頼の起請文は原文では全体が一字下げ)。
〇原文
二日丙申。參河守範賴書起請文。被献將軍。是企叛逆之由。依聞食及。御尋之故也。其狀云。
敬立申
起請文事
右。爲御代官。度々向戰塲畢。平朝敵盡愚忠以降全無貳。雖爲御子孫將來。又以可存貞節者也。且又無御疑叶御意之條。具見先々嚴札。秘而蓄箱底。而今更不誤而預此御疑。不便次第也。所詮云當時云後代。不可挿不忠。早以此趣。可誡置子孫者也。萬之一〔仁毛〕令違犯此文者。
上梵天帝釋。下界伊勢。春日。賀茂。別氏神正八幡大菩薩等之神罰〔於〕。可蒙源範賴身也。仍謹愼以起請文如件。
建久四年八月 日 參河守源範賴
此狀。付因幡守廣元。進覽之處。殊被咎仰曰。載源字。若存一族之儀歟。頗過分也。是先起請失也。可召仰使者云々。廣元召參州使大夫属重能。仰含此旨。重能陳云。參州者。故左馬頭殿賢息也。被存御舍弟之儀之條勿論也。隨而去元暦元年秋之比。爲平氏征伐御使被上洛之時。以舎弟範賴遣西海追討使之由。載御文。御奏聞之間。所被載其趣於官苻也。全非自由之儀云々。其後無被仰出旨。重能退下。告事由於參州。參州周章云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
二日丙申。參河守範賴起請文を書き、將軍に献ぜらる。是れ、叛逆を企てるの由、聞こし
敬み立申す
起請文の事
右、御代官として、度々戰塲へ向ひ畢んぬ。朝敵を平らげ、愚忠を盡してより
仍つて謹愼して起請文を以て件のごとし。
建久四年八月 日 參河守源範賴
此の狀、因幡守廣元に付し、進覽の處、殊に咎め仰せられて曰はく、「源の字を載するは、若し一族の儀を存ずるか。頗る過分なり。是れ、先づ起請の失なり。使者に召し仰すべし。」と云々。
廣元、參州の使、大夫
其の後、仰せ出ださるる旨、無し。重能、退下し、事の由を參州に告ぐ。參州、周章すと云々。
・「先々の嚴札に見えたり」「嚴札」は、厳かな手紙、大事な一筆の意で、相手の書状を尊敬して言う語。(そうした私の思いや仕儀が御意に叶っているとの頼朝様御自身の御判断は)前々に頂戴した書状に、はっきりと表れておりまする、という意味である。
「この折節範賴の家人當麻太郎と云ふ者殿中の御寢所の下に忍び入て……」「吾妻鏡」巻十三の建久四年八月十日の条を見る。
〇原文
十日甲辰。寅剋。鎌倉中騒動。壯士等着甲冑馳參幕府。然而無程令靜謐畢。是參州家人當麻太郎臥御寢所之下。將軍未令寢給。知食其氣。潛召結城七郎朝光。宇佐美三郎祐茂。梶原源太左衞門尉景季等。尋出當麻。依被召禁也。曙後被推問之處。申云。參州被進起請文之後。一切無重仰旨。迷是非畢。存知内々御氣色。可思定安否之由。頻依被愁歎。若以自然之次。被仰出此事否。爲伺形勢所參候也。全非陰謀之企云々。則被尋仰參州。被申不覺悟之由。當麻陳謝雖盡詞。所行企絶常篇之間。苻合日來御疑胎。其上當麻者。參州殊被相憑之勇士。弓劔武藝已得其名之者也。心中旁有不審之由。被經沙汰。無寛宥之儀。剩有同意結搆之類否。雖及數ケ糺問。當麻屈氣。更不發一言云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日甲辰。寅の剋。鎌倉中、騒動す。壯士等甲冑を着け、幕府へ馳せ參ず。然しれども、程無く靜謐せしめ畢んぬ。是れ、參州が家人當麻太郎、御寢所の下に臥す。將軍、未だ寢ねしめ給はず、其の氣を知ろし
則ち、參州に尋ね仰せらるるに、覺悟せざるの由を申さる。
當麻が陳謝、詞を盡すと雖も、所行の企て
剩へ同意結搆の類、有るや否や、數ケの
・「當麻太郎」魅力的な人物であるが、不詳である。管見した限りでは、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に、『當麻太郎は、静岡県浜松市の蒲神明宮の隣に当麻町があったらしい。蒲神明宮は、熱田神宮の末社であり、熱田の宮司が頼朝の祖父に当たる藤原季範で、蒲神明宮の宮司に季成がおり(季の文字は通字か?)、その子が当麻五郎貞稔。その妻が源參河守範頼の乳母夫だと系図算用にあるので、当麻太郎の父らしい』という記載が唯一の詳細である。
・「常篇に絶えたる」尋常でない。
「範賴は伊豆國に於て狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂に預けられ……」「吾妻鏡」巻十三の建久四年八月十七日の条に拠る。
〇原文
十七日辛亥。參河守範賴朝臣被下向伊豆國。狩野介宗茂。宇佐美三郎祐茂等所預守護也。歸參不可有其期。偏如配流。當麻太郎被遣薩摩國。忽可被誅之處。折節依姫君御不例。被緩其刑云々。是陰謀之搆達上聞畢。雖被進起請文。當麻所行依難被宥之。及此儀云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十七日辛亥。參河守範賴朝臣、伊豆國へ下向せらる。狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂等、預り守護する所なり。歸參其の
是、陰謀の搆へ、上聞に達し畢んぬ。起請文を進めらると雖も、當麻が所行、之を
・「範賴朝臣、伊豆國へ下向せらる」「吾妻鏡」ではその後の範頼について記されないが、「保暦間記」などによれば、誅殺されたとする。但し、参照したウィキの「源範頼」によれば、『範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる』。また、『このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある』と記す。
・「姫君の御不例」「姫君」は大姫(当時、満十五歳)。この「吾妻鏡」の五日前の十二日の条に「姫君有御不例之氣」(姫君、御不例の氣の有り)とある。……それにしても、寝所に忍び入った当麻太郎の処置は、主君範頼の処罰に比して余りにも寛大な印象を受ける。私は頼朝が、この当麻の忠勤の心根に、どこか感心したのではなかろうかと読みたくなるのである。]
○南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛
同六年二月四日、右大將賴朝卿、若君賴家、御臺政子上洛して六波羅の亭に入り給ふ。三月十日東大寺大佛殿供養結緣の爲に南都に下向あり。東南院に
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十五の建久六(一一九五)年二月十四日・三月四日・九日・十一日・十二日及び六月三日・六月二十五日に拠る。なお、本文では何故か大姫の随行の事実を外して描いている。実際にはこの時、頼朝は大姫を後鳥羽天皇の妃とするべく、朝廷内での幕府抵抗勢力であった土御門通親や丹後局と親しく接し(逆に彼らの政敵で新幕派の九条兼実とは意識的に疎遠に振る舞った。これは彼の娘が既に天皇の中宮になっていたことや、頼朝にとっては朝廷交渉に於ける兼実の利用価値が殆んど失われていたからでもある)盛んな入内工作を行っている。ここを省略したのは大姫ファンの私としては、とても惜しい気がしている。
「八木」米の異称。「米」の字を「八」「木」と分解した謂い。
「布衣」本来は狩衣のことであったが、平安中期以降、五位以上が絹の紋織物の狩衣を、六位以下が無文のそれを用いる制法が生まれ、後者を前者の狩衣と区別するために布衣と称するようになり、ひいてはそれが六位以下の身分を示す語としても用いられた。なお、江戸時代の文献では「布衣を許す」という語をしばしば見かけるが、この鎌倉幕府においては、将軍出行の際には随行の大名が布衣を着用、警衞の武士は
「同十二日寅の一點に……」「吾妻鏡」の同条を見よう(随兵一覧は省略した)。
〇原文
十二日丁酉。朝雨霽。午以後雨頻降。又地震。今日東大寺供養也。雨師風伯之降臨。天衆地類之影向。其瑞揚焉。寅一點。和田左衞門尉義盛。梶原平三景時。催具數万騎壯士。警固寺四面近郭。日出以後。將軍家御參堂。御乘車也。小山五郎宗政持御劍。佐々木中務丞經高著御甲。愛甲三郎季隆懸御調度。隆保。賴房等朝臣扈從連軒。伊賀守仲教。藏人大夫賴兼。宮内大輔重賴。相摸守惟義。上総介義兼。伊豆守義範。豊後守季光等供奉。於隨兵者數萬騎雖有之。皆兼令警固辻々幷寺内門外等。其中海野小太郎幸氏。藤澤二郎淸親以下。撰殊射手。令座惣門左右脇云々。至御共隨兵者。只廿八騎。相分候于前後陣。但義盛。景時等者。依爲侍所司。令下知警固事之後。自路次更騎馬。各爲最前最末之隨兵云々。
先陣隨兵
和田左衞門尉義盛(以下、略)
令着座堂前庇給之後。見聞衆徒等群入門内之刻。對警固隨兵。有數々事。景時爲鎭之行向。聊現無禮。衆徒甚相叱之。互發狼藉之詞。彌爲蜂起之基也。于時將軍家召朝光。朝光起座。參進御前之時者。懸手於大床端。乍立奉可相鎭之將命。向衆徒之時者。跪其前敬屈。稱前右大將家使者。衆徒感其禮。先自止嗷々之儀。朝光傳嚴旨云。當寺爲平相國回祿。空殘礎石。悉爲灰燼。衆徒尤可悲歎事歟。源氏適爲大檀越。自造營之始。至供養之今。勵微功成合力。剩斷魔障爲遂佛事。凌數百里行程。詣大伽藍緣邊。衆徒豈不喜歡哉。無慙武士猶思結緣。嘉洪基之一遇。有智僧侶何好違亂妨吾寺之再興哉。造意頗不當也。可承存歟者。衆徒忽耻先非。各及後悔。數千許輩一同靜謐。就中使者勇士。容貌美好。口弁分明。匪啻達軍陣之武略。已得存靈塲之禮節。何家誰人哉之由。同音感之。爲後欲聞姓名。可名謁之旨。頻盡詞。朝光不稱小山。號結城七郎訖。歸參云々。次行幸。執柄以下卿相雲客多以供奉。未剋。有供養之儀。導師興福寺別當僧正覺憲。咒願師當寺別當權僧正勝賢。凡仁和寺法親王以下。諸寺龍象衆會及一千口云々。誠是朝家武門之大營。見佛聞法之繁昌也。當伽藍者。 安德天皇御宇治承四年庚子十二月廿八日。依平相國禪門惡行。佛像化灰。堂舎殘燼畢。爰法皇勅重源上人曰。訪本願往躅。唱高卑知識。課梓匠而令勤成風業。代檀主而可終不日功之由者。上人奉命旨。去壽永二年己夘四月十九日。令大宋國陳和卿始奉鑄本佛御頭。至同五月廿五日。首尾卅餘日。冶鑄十四度。鎔範功成訖。文治元年乙夘八月廿八日。太上法皇手自御開眼。于時法皇攣登數重足代。瞻仰十六丈形像給。供奉卿相以下。目眩足振而皆留半階云々。供養唱導當寺別當法務僧正定遍。咒願師興福寺別當權僧正信圓。講師同寺權別當大僧都覺憲。惣所※衲衣一千口也(「※」=「口」+「屈」)。其後上人尋往昔之例。詣太神宮。致造寺祈念之處。依風社神睠。親得二顆寳珠。爲當寺重寳。在勅封藏。同二年丙午四月十日。始入周防國。抽採料材。致柱礎搆。企土木功。載柱一本之車。駕牛百二十頭令牽由之也。建久元年庚戌七月廿七日。大佛殿母屋柱二本始立之。同十月十九日上棟。有御幸云々。謂草創濫觴者。 聖武天皇御宇天平十四年壬午十一月三日。依當寺建立之 叡願。爲大廈經營之祈請。始發遣 勅使於太神宮。左大臣諸兄公是也。同十七年乙酉八月廿三日。先搆敷地壇。同築佛後山。同十九年丁亥九月廿九日。奉鑄大佛。孝謙天皇御宇天平勝寳元年己丑十月廿四日終其功。〔三ケ年之間八ケ度奉鑄之。〕同十二月七日丁亥。被遂供養。 天皇幷太上皇〔聖武。〕幸寺院。導師南天竺波羅門僧正。咒願師行基大僧正。天平勝寳四年壬辰三月十四日。始奉泥金於大佛。〔金。天平廿年始自奥州所獻也。是爲吾朝砂金之始云々。〕
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日丁酉。朝、雨霽る。
御共の隨兵に至りては、只だ廿八騎、相ひ分れ前後の陣に候ず。但し、義盛・景時等は、侍の所司たるに依りて、警固の事を下知せしむの後、路次より更に騎馬す。各々最前最末の隨兵たりと云々。
先陣の隨兵
和田左衞門尉義盛(以下、略)
梶原平三景時
堂前の庇に着座せしめ給ふの後、見聞の衆徒等、門内に群れ入るるの
「前右大將家の使者。」
と稱す。衆徒其の禮に感じ、先づ
「當寺は平相國の爲に
てへれば、衆徒、忽ち先非を耻ぢ、各々後悔に及び、數千
「
の由、同音に之を感ず。後の爲に姓名を聞かんと欲して、
「
の旨、頻りに詞を盡す。朝光、小山と稱せず、結城七郎と號し訖りて、歸參すと云々。
次に行幸。執柄以下の卿相雲客多く以て供奉す。未の剋、供養の儀有り。導師は興福寺別當僧正覺憲、
誠に是れ、朝家武門の大營、見佛聞法の繁昌なり。當伽藍は、安德天皇の御宇、治承四年庚子十二月廿八日、平相國禪門の惡行に依りて、佛像、灰と化し、堂舎、
供養の唱導は當寺別當法務僧正定遍、咒願師は興福寺別當權僧正信圓、講師は同寺權別當大僧都覺憲。惣じて※する所の
草創の濫觴を謂はば、 聖武天皇の御宇、天平十四年壬午十一月三日、當寺建立の叡願に依りて、大廈經營の祈請の爲に、始めて勅使を太神宮へ發遣す。左大臣
・「揚焉」明白なこと。
・「寅の一點」午前三時。「一點」とは漏刻(水時計)で
・「義盛・景時等は、侍の所司たる」「所司」は、この場合は官庁を代表する役人長官と次官を合わせて言っている。和田義盛は侍所別当、梶原景時は侍所所司である。
・「洪基の一遇を嘉す」「洪基」は大事業の基礎。「嘉す」「
・「朝光、小山と稱せず、結城七郎と號し」小山朝政は寿永二(一一八三)年の志田義広との
・「未の剋」午後二時頃。警固の武士たちの継続勤務時間は既に十一時間に及んでいる。
・「執柄」藤原兼実。
・「咒願師」法会の際に、呪願文(じゅがんもん/しゅがんもん:施主の願意を述べて祈誓する文章)を読み上げる僧。
・「仁和寺法親王」後白河法皇次男守覚。
・「龍象」僧の敬称。
・「往躅」昔の人の踏んだ跡。先人の歩いた道。
・「梓匠」「梓」は梓人で建具師、「匠」は匠人で大工の意。
・「成風の業」仕事に励んで竣工をやり遂げる任務。「運斤成風」。「
・「壽永二年己夘」「己」は誤り。寿永二(一一八三)年の干支は
・「
・「鎔範」銅を溶かして(「冶鑄」)それを鋳型に流し込むこと。
・「文治元年乙夘」「夘」は誤り。文治元(一一八五)年は
・「太上法皇手づから御開眼……」これは後白河法皇自らが足場(大仏殿建設のための仮小屋の足場)を攀じ登って十六丈(四八・五メートル弱であるが、これは直立した場合の仏身の背丈を云うので、半分)尊顔の眼に正倉院にあった天平時代の開眼に用いた墨を以って開眼するという、驚天動地のパフォーマンスである。横手川雅敬氏の「源平の盛衰」(講談社文庫一九九七年刊)によれば、これは宣伝効果をも狙った重源の懇望によると伝えられるそうだが、それを嬉々として受け入れて、攀じ登ってゆく――これ、大天狗後白河ならでは、という感じではないか。但し、横手川氏によれば、『
・「※」(「※」=「口」+「屈」)は本来は「憂える」の意であるが、これは「衲衣一千口」が僧侶千人の謂いであるから、畏敬して侍する僧といった謂いであろう。
・「太神宮」伊勢神宮。
・「風社の神睠」「風社」は伊勢神宮外宮の風宮。本宮の西南の位置、伊勢神宮公式HPの「風宮」によれば、『多賀宮へ上る石階のすぐ左脇に、土宮とはちょうど反対側、つまり東側のところに風宮が御鎮座』し、祭神は
・「同じく二年丙午四月十日、始めて周防國に入り、料材を抽き採り、柱礎の搆へを致し、土木の功を企つ。……」実に入れ物である大仏殿の方は竣工までに実に十二年を要した。因みに重源(保安二(一一二一)年~建永元年六(一二〇六)年)が大仏勧進職の命を受けたのは実に数え六十一歳の時で、この大仏殿落慶法会の際は既に七十五歳、建仁三(一二〇三)年に行われた総供養の時は実に八十三歳であった。そこで行われた大勧進の行脚の肉体的パワーや集金能力、更に巨大仏像仏殿の土木建築技術のために彼が発案した画期的な多数の新技法の発案能力から考えると、彼の八面六臂の活躍は超人的と言わざるを得ない。但し、この周防からの用材切り出しには多くの困難があった。横手川雅敬氏の「源平の盛衰」によれば、『重源は
・「天平十四年」西暦七四二年。
・「左大臣諸兄」橘諸兄。
・「天平勝宝元年」西暦七四九年。
「天平勝寳元年に金銅十六丈の廬遮那佛の大佛を鑄奉り、佛殿その功を成就して、十二月七日に供養を遂げ給ひけり」とあるが、これでは天平勝宝元年のことのように読めてしまうが、これは天平勝宝四(七五二)年の誤りである。また、「十二月七日」とするが、「吾妻鏡」では上記の通り、「三月十四日」、しかもこれも誤りで、大仏開眼供養会は四月九日に行われている。この「吾妻鏡」の誤りは恐らく、「大仏殿碑文」にある、鍍金が開眼会の直前の天平勝宝四年三月十四日に開始されたことに基づく誤解と思われる。因みにこの年には閏三月があったものの、開眼会まではたった二ヶ月しかなく、実はこの時も開眼会の時点では鍍金は未完成であったと推定されている(後半部はウィキの「東大寺盧舎那仏像」を参考にした)。
「後白河法皇は此大佛殿の事を本願上人に勅し給ひける所に、去ぬる建久三年三月に崩御あり。寶算六十七歳なり」「吾妻鏡」の建久三(一一九二)年三月十六日の条を見ておく。
〇原文
月小十六日戊子。未剋。京都飛脚參着。去十三日寅剋。 太上法皇於六條殿崩御。御不豫大腹水云々。召大原本成房上人。爲御善知識。高聲御念佛七十反。御手結印契。臨終正念。乍居如睡。遷化云々。計寳算六十七。已過半百。謂御治世四十年。殆超上古。白河法皇之外。如此君不御坐〔矣〕。幕下御悲歎之至。丹府碎肝瞻。是則忝合體之儀。依被重君臣之礼也云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日戊子。未の剋。京都の飛脚、參着す。去ぬる十三日の寅の剋、 太上法皇六條殿に於て崩御す。
大原の本成房上人を召され、御善知識として、
寳算を
・「御不豫」天子・貴人の病気。御不例。後白河法皇の直接の死因は飲水病(糖尿病)と思われるが、ここで腹水の症状が語られるのは何らかの重篤な合併症(肝硬変や腎臓病)が疑われる。
「同二十五日に賴朝父子、御臺共に關東に下向し給ふ」帰鎌は翌月承久六(一一九五)年七月八日。]
○右大將賴朝卿薨去
同年七月に
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」は欠損し、諸説入り乱れる頼朝の死のパートであるが、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、本話は、
①稲毛重成が妻の死により出家する。
「吾妻鏡」巻十五の建久六(一一九五)年七月四日の条
②頼朝がこの重成亡妻鎮魂の橋供養の帰途、義経・行家・安徳帝の怨霊を見て卒倒して落馬、逝去に至る。
「日本王代一覧」巻五
「保暦間記」巻一の建久九(一一九八)年十二月の条その他
「吾妻鏡」巻二十の建暦二(一二一二)年二月二十八日の条
「将軍記」巻一の建久九年十二月の条
を元にしており、
怨霊が現れ、頼朝が身心昏倒した話は「吾妻鏡」「将軍記」にはなく、「保暦間記」に拠る。また死去については、「日本王代一覧」に拠る。
とされている(鍵括弧を変更した)。「日本王代一覧」は慶安五(一六五二)年に成立した、若狭国小浜藩主酒井忠勝の求めにより林羅山の息子林鵞峯によって編集された歴史書。神武天皇から正親町天皇(在位一五五七年~一五八六年)までを記す(ウィキの「日本王代一覧」に拠る)。「保暦間記」は南北朝時代に成立した歴史書。鎌倉時代後半から南北朝時代前期を研究する上での基本史料で、成立は一四世紀半ばで延文元(一三五六)年以前。作者は不明であるが、南北朝時代の足利方の武士と推定されている(ウィキの「保暦間記」に拠る)。
頼朝の死因についてはウィキの「源頼朝」に、『各史料では、相模川橋供養の帰路に病を患った事までは一致しているが、その原因は定まっていない。吾妻鏡は「落馬」、猪隈関白記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記している。これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能である。死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えているため、疑問視する説は存在しない』として、落馬説・尿崩症説・糖尿病説・溺死説・亡霊説・暗殺説・誤認殺傷説の七説を挙げて解説しているが、その内、現実的な可能性が高いと認められる幾つかを見たい(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。まず人口に膾炙する「落馬説」については、
『建久九年(一一九八年)重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りの道中に落馬したということが吾妻鏡に記された死因であり、最も良く知られた説である。その死因が吾妻鏡に登場するのは、頼朝の死から十三年も後の事であり、死去した当時の吾妻鏡には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったともいうが、吾妻鏡には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではない。なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なる。落馬は結果であるなら脳卒中など脳血管障害が事故の前に起きており、落馬自体が原因なら頭部外傷性の脳内出血を引き起こしたと考えられる。落馬から死去まで十七日ある事から、脳卒中後の誤嚥性・沈下性肺炎の可能性がある』。
とする。次にこれに関連した、「尿崩症説」では、
『落馬で脳の中枢神経を損傷し、抗利尿ホルモンの分泌に異常を来たして尿崩症を起こしたという説。この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取する(=「飲水の病」)ようになり、血中のナトリウム濃度が低下するため、適切な治療法がない十二世紀では死に至る可能性が高い』。
とあり、これは落馬の事実があったとすれば、かなり説得力があるようにも思われる(但し、余程、運の悪い落馬の仕方、武士として不名誉なそれでもあったことになるが)。次に「亡霊説」に、
『意識障害があったと捉えることもできる』。
とあって、これも落馬による頭部打撲との関連を認めることが出来る、若しくは、脳卒中など脳血管障害の発作が、周囲の者から見ると、本文にあるような連中の霊の出現を見たかのような印象を受けた(当日の光学的な自然現象とシンクロして)、としてもおかしくはない。
『愛人の所に夜這いに行く途中、不審者と間違われ斬り殺されたとする』「誤認殺傷説」は、頼朝が女装して女のもとに忍んで行こうとしたのを、警固の安達盛長によって誤って斬られたという説である。これは一見、頼朝が手に負えない女好きであった事実と照らし合わせると、情けなくも不本意にして、事実なら隠蔽必須な如何にもゴシップ好きが飛びつきそうな説であるが、その如何にもな狂言染みた「真相はこれだ!」的筋立て(実際に真山青果の戯曲「頼朝の死」(初演は「
「同年七月に稻毛三郎重成が妻、武藏國にして日比心地惱みしを、様々醫療するにその效なく遂に卒去せしかば、重成別離の悲みに堪かね忽に出家す」重成妻の逝去と重成出家は建久六(一一九五)年七月四日。
「稻毛三郎重成」(?~元久二(一二〇五)年)は桓武平氏の流れを汲む秩父氏一族。武蔵国稲毛荘を領した。多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を安堵され、枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。治承四(一一八〇)年八月の頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年十月、隅田川の長井の渡しに於いて、従兄弟であった畠山重忠らとともに頼朝に帰伏して御家人となって政子の妹を妻に迎え、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘(武蔵国
「八的原」ウィキの、神奈川県藤沢市南部の荒野を指す古地名で、鎌倉時代からの歌枕として知られ、幕末には歌舞伎の科白にも出てくることから知られるようになったという「砥上ヶ原」の記載に(アラビア数字を漢数字に代えた)、『砥上ヶ原の範囲については諸説がある。相模国高座郡南部の「湘南砂丘地帯」と呼ばれる海岸平野を指し、東境は鎌倉郡との郡境をなしていた境川(往古は固瀬川、現在も下流部を片瀬川と呼ぶ)であることは共通する。西境については、相模川までとするものと引地川までとする二説が代表的である。前者は連歌師、谷宗牧が一五四四年(天文一三年)著した『東国紀行』に「相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上が原とぞ」とあるのが根拠とされる。一方、後者は引地川以西の原を指す古地名に