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北條九代記 序 藪野直史冒頭注 を読む


鎌倉 北條九代記 卷第一 附やぶちゃん注

[藪野直史注:二〇一三年三月三十一日野人化一周年を記念して公開。]

      ○本朝將帥の元始
それ、武將元帥のはじめを按ずるに、人王の第一代神武天皇東征の時、道巨命みちおみのみことを以て軍帥とし給ふ。是、物部氏の始祖なり。崇神天皇十年に四道の將軍に命じて四方の國を治めしむ。將軍の號、是より起れり。第十二代景行天皇四十年に、皇子日本武尊わうじやまとたけるのみことを以て大將軍とし、武日武彦たけひたけひこの二人のみことを左右の副將として東夷を征伐し給ふ。神宮皇后、三韓をうつて、鎭守將を遣して、其後を治めらる。鎭守府のは是より起れり。日本國中に、殊更、東夷、叛き易く、帝都を襲ひ奉るを以て、東征の將軍を置きて、國司の外に鎭守府を任じ、邊要へんえうかためとせらる。聖武天皇の御宇に始れり。藩鎭才幹のたくましく、智謀武勇ぶようを兼ねざるときんば、この仁にあたるべからず。文屋綿丸ふんやのわたまるより征夷將軍の號あり。坂上田村丸は征東夷將軍と稱す。参議藤原忠文ただぶんを征東大將軍に任ぜらる。その後久しく中絶せしに、木曾〔の〕義仲、都に上り、兵權を執るの日、征東將軍に任じ給ふ。其後、右大將賴朝を征東六將軍に任ぜられしより連綿として相續し、その子賴家は少將にして是を兼ねたり。舍弟實朝は兵衞〔の〕佐の時より右大臣に至るまで、是を兼ね給へり。徃昔そのかみは國司職五ヶ年にして改補かいふせられ、武將勳功大なれども、數ヶ國を管領くわんりやうする事なし。然るを後白河法皇、叡慮短くおはしまして、平氏相國淸盛に高位を授け、一類に給はる分國三十七ヶ國、日本の半分に越えたり。是より武威さかりになり、主上上皇近臣の御惱おんなやみと成りにけり。是にも御後悔の叡慮なく、賴朝を六十餘州の惣追捕使そうついふしせられ、暫は公家武家牛角ごかくなりけるを、王法次第に衰微になり、武家、日を追て昌榮しやうえいせり。京都には兩六波羅に奉行を置き、築紫には探題をすゑ、諸國には守護を定め、荘園に地頭を置きて、公家の政務を用ひず。賴朝の權威、雲にかけり、賴家實朝に至り、わづかに父子三代四十二年を持ちて、天下のへい自然として北條時政の手にしよくせり。承久の末に攝家の御息を鎌倉に申下し、征夷將軍に仰ぎ奉る。是も只二代にして跡絶えたり。又親王家を申下し、將軍と崇め奉りしも、四代にして終り給ふ。そのあひだ、北條遠江守時政より相摸守入道高時に至る天下國家の執權たる事、前後九代をたもちたり。武將三代、攝家二代、親王四代、是も亦、九代なり。

[やぶちゃん注:「是物部氏の始祖なり」とあるが、道臣命は大伴氏の祖神であるから、「大伴氏の始祖なり」の誤りである。
「邊要」京を離れた辺地の要所。
「聖武天皇の御宇に始れり」現在の知見では、大野東人おおののあずまびと (?~天平一四(七四二)年)が聖武天皇により天平元(七二九)年、陸奥鎮守将軍に任じられたのを濫觴とするとされている。
「文屋綿丸」文室綿麻呂ふんやのわたまろ(天平神護元(七六五)年~弘仁一四(八二三)年)。弘仁二(八一一)年に「征夷将軍」に任ぜられている。
「坂上田村丸」文室綿麻呂の前任者であった東夷征討の責任者坂上田村麻呂は延暦一五(七九六)年鎮守将軍に任命され、翌延暦一六(七九七)年に征夷大将軍に昇格している。また、同類の称を遡るならば、和銅二(七〇九)年に「鎮東将軍」に任ぜられた巨勢麻呂こせのまろがいる。
「参議藤原忠文」(貞観一五(八七三)年~天暦元(九四七)年)の「征東大将軍」叙任は天慶三(九四〇)年で平将門追討を目的としたもの。当時六十八歳であったが、実際には忠文の関東下着前に、将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれていた(ウィキの「藤原忠文」に拠る)。
「木曾義仲都に上り、兵權を執るの日征東將軍に任じ給ふ」寿永二(一一八三)年八月十六日に「旭の将軍」(征夷大将軍に準ずる特別職として後白河法皇が与えたもの)の号を受けたことを指す。彼は翌寿永三年一月十五日には、正式な征東大将軍の宣下を受けている。
「牛角」互角。
「承久の末に攝家の御息を鎌倉に申下し、征夷將軍に仰ぎ奉る」建保七(一二一九)年一月二十七日に実朝が暗殺され、建保七年は四月十二日に改元されて承久元年となる。将軍の後継者として五摂家の一つである九条家の九条道家三男(源賴朝同母妹坊門姫曾孫)三寅みとらが満一歳で鎌倉に迎え入れられたのは七月十九日であった。但し、その後の承久の乱をはさんで、六年後の嘉禄元(一二二五)年、元服し頼経と名乗り、翌嘉禄二(一二二六)年、将軍宣下により第四代将軍となっている。以上の史実を考えれば、「承久の末」は誤りで、直下の「攝家の御息を鎌倉に申下し」に応ずるならば、「承久の始め」とすべきところである。]



      ○右大將賴朝創業
爰に右大將源朝臣賴朝は淸和天皇十代の後胤左馬頭義朝の三男なり。後白河院の御宇、保元三年二月に生年十二歳にして皇后宮權少進ごんのせうしんせられ、右近少監うこんのしやうげん上西門院藏人になされ、二條院平治元年十二月十四日右兵衞佐に任ぜられ、源家貴顯の時至りける所に、同じき十二月二十七日父左馬頭義朝は右衞門督藤原〔の〕信賴に賴まれ、謀叛にくみして、淸盛の爲に没落して、東國に赴き、長田莊司をさだのしやうじに討たれ給ひぬ。賴朝は十四歳にして、彌平兵衞宗淸に生捕いけどられ、殺さるべきに定りしを、池禪尼いけのぜんににたすけられ、伊豆國蛭が小嶋に流され、伊藤入道祐親が館におはします。祐親、是を殺しまゐらせんと計りければ、伊藤を忍出しのびいでて、北條時政を賴みて入り給ふ。時政、即ち我が娘政子を合せて婿とす。かくて二十餘年の星霜を送迎おくりむかへて、賴朝既に三十四歳に成り給ふ。治承四年四月に高倉宮の令旨を給はる所に、その事露顯して、源三位げんさんみ賴政入道父子一族共に宇治の平等院にして、平家の爲に討たれ、高倉〔の〕宮は光明山の鳥居の前にして流矢にあたつて、御命を落し給ふ。平家、大に憤り、今度令旨をうけし諸國の源氏等悉く追討すべき由聞えければ、賴朝、仰けるは、「平家の討手をうけて防がんとせば、今の世にたれか味方に參る者あらん。いたづらに手をつかねて死を待つより外の事有べからず。さへぎつて平氏追討のはかりごとをめぐらし、運命を天道に任すべし」とて、北條時政と密談し、藤九郎盛長を使とし、累代源氏の御家人をぞ招かれける。土肥どひ、岡崎、佐々木、工藤、宇佐美、加藤のともがらめしに應じて參向さんかうす。八月十七日の夜、八牧やまきの判官散位さんい兼隆をうつて、それより北條を出て、相州土肥郷どひのがうに赴き、其勢三百餘騎にて石橋山に陣取り給ふ。大庭三郎景親、俣野五郎景久、梶原平三景時、曾我太郎助信、以下三千餘騎にて襲掛おそひかゝる。賴朝の軍、敗績はいせきして、佐奈田さなだの與一、武藤三郎討死す。賴朝は椙山すぎやまに登り、伏木ふしきの中に隱れ給ふを、梶原平三、是を知ながら助け奉る。いくさ散じて、北條時政、土肥實平、近藤、岡崎尋ね逢ひ奉り、土肥の眞名鶴まなづるが崎より舟に乘り、賴朝、既に安房國に渡り給へば、三浦介義澄以下迎へ奉り、小山、豐嶋、下河邊しもかうべの輩、御味方に参りぬ。甲斐の源氏武田太郎信義、一條次郎忠賴、起立おこりたちて、旗をあげたり。千葉介常胤は三百餘騎にて賴朝の御陣に参向まゐりむかふ。賴朝、今は漸く軍兵ぐんぴやうを儲け給ふ。其勢都合六百餘騎、いづれも一騎當千の勇士として二心なき忠節の人々なれば、たのもしくぞ思ひ給ひけれ。

[やぶちゃん注:「高倉宮」。以仁王のこと。三条高倉に邸宅があったことから、こう別称された。
「敗績」は、大敗して今までの功績を失うこと。
「伏木の中に隱れ給ふ」底本の頭書きには『虛説といふ』とあり、現在知られる一般的な話柄では、現在の湯河原町山中にある洞窟「しとどのいわや」とする。
「豐嶋」底本では「てしま」とルビするが、採らない。
「たのもしくぞ思ひ給ひけれ」はママ。]



      ○鎌倉草創 付 來歷
上總權介廣常は當國の軍勢二萬餘騎を引率して、隅田川の邊に參向す。賴朝のおほせに、「廣常が遲參の條、心得難し。後陣にありて、御下知を守るべし」となり。この大軍にて、馳參はせまゐらば、さだめて喜び給ふべきかと思ひし所に、かへつて遲參を咎めらるる事、大量の英機あり。いかさま天下を治むべき人なりと恐入おそれいつてぞ感じける。千葉介、いくさ評定の中にして、賴朝へ申入られけるは、「今此御陣所はさせる要害の地にあらず、讐敵不慮に襲ひ來らば、防難ふせぎがたかるべし、相摸國鎌倉こそ曩祖なうその勝跡とて地形ちぎやう堅固なり、陸の手賦てくばり、海の通路、四方の國郡こくぐん便宜びんぎあり。軍兵を集むるに分内ぶんない廣く、兵糧の運漕、心のまゝに候。そもそも此所を鎌倉と名付くる事は、昔、大職冠鎌足公は常陸國に誕生し、都に上りて、宮中に仕奉つかうまつり、次第昇進して、家門榮え、天智天皇八年に藤原のしやうを賜り、入鹿の逆臣げきしんうつて、天下を靜め、内大臣に補任ふにんせられ、威勢、四海に耀き、聲德せいとく、八荒にみちち給ふ。其宿願のよろこびとして、常州鹿嶋に詣で給ふ歸洛のついで、相州由井の郷に宿し、その夜、夢のつげよつて、まもりの鎌を大倉の松岡にうづみ給ふ。是に依て鎌倉とは名付け候なり。鎌足公の玄孫染屋げんそんそめやの太郎時忠と云ふ者、忠孝武勇ぶようほまれあり。文武天皇の御宇より聖武皇帝の御世に至るまで、鎌倉に居住して東八ヶ國の追捕使つゐふしたり。後に平貞盛が孫上野介平直方なほかた任に應じて下り住みける所に、伊豫守賴義相摸守になりて下向の時、貞方がむすめめあはせて賴義を婿とす。八幡太郎義家、その腹に誕生し給ひ、成人して陸奧守に任じ、征夷將軍にせられ御下向ありける所に、直方、即ち鎌倉を義家に讓り奉りしより以來、源家累代の領知として、御家人は多く東國に充満みちみちたり。然れば佳運かうん天下あめがしたに開き、先祖を雲の上にあらはさんには、誠にめでた勝境しようきやうにて候」とぞ申されける。賴朝、大に甘心かんしんし給ひ、總州鷺沼の陣旅ぢんりよはらつて軍兵三萬餘騎をそつして、隅田川を渡りて、武藏國に入り給へば、畠山、葛西、足立の人々馳付はせつきたり。相摸國に著き給ふ前陣は、畠山次郎重忠、後陣は千葉介常胤なり。軍兵、追々くはゝりて、幾十萬とも知難しりがたし、まづ鎌倉の民屋みんをくを點じて、御座として入れ奉る。その外のともがらは谷にふさがり、山に滿みちて、思ひ思ひに陣を取る。治承三年十月六日、鎌倉山に花開けて瞻々にぎにぎしくぞなりにける。同十一日、賴朝の御臺政子を大庭おほばの平太景義、迎へ奉りて、鎌倉に入れ給ふ。めでたかりける事どもなり。

[やぶちゃん注:「大量の英機」才気煥発でその度量が計り知れない大きなものであること。
「大職冠鎌足公は常陸國に誕生し」一般に藤原鎌足の出生地は「藤氏家伝」によって大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)とされ、藤原姓もその出生地の地名から取られたものとされるが、「大鏡」では常陸国鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)とする説もある。
「八荒」国の八方の果て。全世界。
「總州鷺沼」現在の千葉県習志野市津田沼の一部。
「治承三年十月六日」は「治承四年」の誤りである。]



      ○鶴ヶ岡八幡宮修造遷宮
大庭平太景義に仰せて、鎌倉小林郷こばやしのがうの北の山を點じて、宮所を造營し、鶴ヶ岡の八幡宮を落慶す。賴朝この間、精進潔齋し給ふ。然るに、この宮所の事、本所ほんじよあらためて新地にうつし奉らんは神慮如何いかゞはからひ難し、只、神鑒しんかんに任せらるべしとて、賴朝みづから御寶前に於いて御鬮みくじを取り給ひければ、小林の郷に遷り給ふべき由、三度まで同じ御鬮の出たりける故に、「さては神慮も納受あり、あやぶみ奉るべからず」とて、未だ華構のかざりには及ばすといへども、茅茨ぼうじいとなみかたのごとくに修造せらる。抑、この八幡宮と申すは、いにしへ、後冷泉院の御宇、伊豫守源朝臣賴義、ちよくを承りて、安部貞任あべのさだたふ征伐の爲、東國に下向ありし時、懇祈こんきの旨有て、康平六年秋八月、ひそかに石淸水の八幡を勸請し、宮所みやどころを鎌倉の由井郷ゆゐのがうに建てられたり。其後、永保元年二月に賴義の長男陸奥守源朝臣義家、修理を加へ、崇祀あがめたてまつり給ひけり。今又、是を小林の郷に遷し奉らる。本の宮居をば下の若宮と號し、今の鶴ヶ岡をば上の若宮と申し奉る。往初そのかみ、平家、世を取て年久しく、幣帛へいはくさゝぐる人もおのづから稀なりければ、宮居、いつしか神閑かみさびて、漸く荒に就き侍りしに、賴朝、鎌倉に入り給ひてより、修造遷宮の事を營み、即ち走湯山そうたうざん住侶專光坊良暹ぢゆうりよせんくわうばうのりやうせん當宮たうぐうの別當職にぞせられける。御燈のひかりは神威をあらはし、宮前きうぜんの花は神德を表す。讀經の聲はみぎりに響き、振鈴しんれいの音は雲に通ひ、蘋蘩蘊藻ひんぱんうんさうそなへ鼓笛名香こてきめいかうかをり、玉の殿宇みあやいさぎよく、あけ瑞籬みづがき充滿みちみちたり。賴朝、かうべかたぶけて、禮奠信仰れんてんしんかう、丹誠をこらし給へば、その外のともがら、高きもいやしきも、參詣禮拜せずと云ふ者なし。神慮、さだめ納受新なうじゆあらたに、源家擁護のまなじりは、遠く平氏の凶惡を退治し、国衙垂跡こくがすゐしやくめぐみは、近く軍士の勝利を施與せよし給ふものなりと、有難かりける神德なり。

[やぶちゃん注:標題「鶴ヶ岡八幡宮」の「ヶ」には、底本では明らかな濁点が附されている。以降にも散見するが、以後本注は略す。
「蘋蘩蘊藻」「蘋蘩」は浮草と白蓬しろよもぎ、「蘊藻」(「おんそう」とも読む)は群がる藻の意であるが、ここでは数多の神饌の穢れのない食菜類を指している。
殿宇みあや」読み不審。「みあらか」の誤りか。「御殿」と書いて「みあらか」と読み、宮殿・殿舎を意味し、これも「御在所みありか」の転訛である。
「神慮定て納受新に」神もまた、この新しい神宮寺の建立をお納めになったのを契機となさって、の意。
「国衙垂跡の惠」「国衙」は極めて広義の、日本各地の国庁によって支配された正当な国土の謂い、「垂跡」はその日本に神が衆生済度のために仮の神や人の姿となって現われて統率し、それら全国を正しく安定させる恩恵の謂い。
「施與」恵みを与えること。]



      ○鎌倉新造の御館
同年十二月、鶴ヶ岡の東の方、大倉の郷に新御館しんみたちを建てらる。大庭景義、同じく奉行を承る。奇麗大廈きれいたいかかまへ合期がふごの沙汰致し難ければ、まづ暫く知家事ちけじ兼通が山内のいへうつし立てたり。往初そのかみ、正曆年中にこの宅を造りし時、安倍晴明鎭宅ちんたくの符をおしけるを以て、遂に囘祿の災なしとかや。同月十一日、土木の功を遂げしかば、賴朝、即ち渡御し給ふ。前陣は和田小太郎義盛、後陣は畠山次郎重忠なり。かくて寢殿に入り給へば、御供の諸將十八けんの侍所に二行に對座し、義盛、中央にこうず。およそ出仕の侍三百十一人、御家人皆、思ひ思ひに家造いへづくりし、たちを構へ、命を守り、忠をはげます、有道順理のまつりごとに、四方悉くその風になつきて、をして鎌倉殿と稱し奉る。その所は本より遠境邊鄙ゑんきやうへんぴの事なれば、海郎野人かいらうやじんの外には住人すむひと少かりしに、今この時にあたつて、大名小名多少の人集り、或は市を立て、或はたなを飾り、家居、更に軒をきしり、賣買諸職の輩、町を立て、小路こうぢを通して、山谷村里、夫々それぞれを授け、絶えたるを繼ぎ、すたれるを興し、鎌倉の荒蕪を刈拂かりはらつて天下草業さうげふを立て給ふ。武威の輝く事、そもそも賴朝は源家中興の英雄たり。

[やぶちゃん注:「合期」間に合うこと。
「知家事」政所の職掌の一つで、案主あんじゅとともに事務を分掌した。
「知家事兼通」「吾妻鏡」治承四年十月九日の条に基づくが、そこでは「兼道」とある。この人物、不詳であるが、個人のHP「北道倶楽部」の「奈良平安期の鎌倉 頼朝の父義朝の頃」のページの「知家事(兼道)が山内の宅」に鋭い考証が載せられてある。そこでは「知家事兼」道の邸の解体された木材が、大倉まで、どのルートで運ばれたかの考証までなさっておられ、極めて興味深い。
「正曆年中」西暦九九〇年から九九五年。
「同月十一日土木の功を遂げしかば、賴朝即ち渡御し給ふ」治承四(一一八〇)年十二月十二日に移徙わたましの儀が行われている(ここはその条に基づいて書かれている)。「吾妻鏡」には前日の竣工記事はないが、自然ではある。
「十八間」約三二・七メートル。
「大名」鎌倉時代のそれは、多くの名田みょうでん(荘園や国衙領こくがりょうの構成単位を成した田地。開墾・購入・押領などによって取得した田地に取得者の名を冠して呼んだ。)を所有した大名主だいみょうしゅで、家の子・郎等を従えた有力な武士。
「小名」大名主に比して、有意に規模の小さい名田しか領していない武士。]



      ○平氏東國討手没落
大相國淸盛入道、大に驚き、嫡孫小松少將維盛を大將軍とし、薩摩守忠度を副將とし、上總守忠淸、齋藤別當實盛を侍大將として、三萬餘騎、賴朝追討のため、駿河國富士川の西の岸に下著げちやくす。賴朝大軍を率して、黄瀨河に出向いでむかはる。甲信兩國の源氏、北條時政に從つて、二萬餘騎にて推來おしきたる。平氏は富士沼の水鳥の騷ぐ羽音はおとに驚き、一戦にも及ばす、逃落ちて、都に歸る。九郎義經、奥州より上りて、賴朝に對面す。大庭景親、降人がうにんに成て出でたり。石橋山のえきあたつて、強敵の張本なれば、かうべねられけり。佐竹さたけの太郎義政、味方に屬す。その弟秀義は金砂かなさの城に楯籠たてこもる。叔父佐竹藏人、返忠かへりちうして城を落す。今度、寄手の中に熊谷、平山が勲功を第一に賞せらる。志多しだの三郎先生せんじやう義廣、十郎藏人行家等、国府こふに参向す。賴朝は鎌倉に歸りて、和田小太郎義盛を侍所の別當にぞせられける。

[やぶちゃん注:標題「平氏」は「へいじ」、「討手」は「うつて」と振る。後半部は常陸国金砂城(現在の常陸太田市上宮河内町の西方にある金砂山の山城)に於ける頼朝軍と常陸佐竹氏との戦いである「金砂城の戦い」を語る。まず、現在の知見をウィキの「金砂城の戦い」で見る(ここでは「きんさじょう」と音読みしている。アラビア数字は漢数字に代えた)。『治承四年(一一八〇年)十月、富士川の戦いに勝利した源頼朝は敗走する平家を追撃すべしと命じるが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らが、まず佐竹氏を討つべきと主張した。その意見を取り入れた頼朝は平家追撃を諦め佐竹討伐に向かうことにする』。『十月二十七日、頼朝は軍勢を引き連れ佐竹氏のいる常陸に向かって出発する。この日は頼朝の衰日(陰陽道で行動に支障があるとされる日)にあたり、周囲は出発に反対したが、頼朝は「二十七日こそ以仁王の令旨が到着した吉日である」として反対を押し切って出陣した。十一月四日、頼朝は常陸国府に入る。そこで軍議が開かれた』。『まず、佐竹一族の一人佐竹義政が、縁者である上総広常に矢立橋に誘い出された所を誅殺された。この動きを見て動揺した佐竹氏の中には頼朝方に寝返ったり逃亡する者も出てきた。五日、金砂城に立て籠もった佐竹秀義らに対して総攻撃が仕掛けられ、熊谷直実、平山季重が真っ先に城を登った。佐竹氏当主隆義は在京中で不在であったものの、金砂城が断崖に位置する難攻不落の城郭であり、佐竹氏の守りは強固であると見た頼朝は、広常の献策により、金砂城には入城していなかった秀義の叔父佐竹義季を味方につくよう勧誘する。義季は頼朝軍に加わって金砂城を攻撃した。城のつくりに詳しい義季の案内で金砂城は攻め落とされた』。『その後、城を守っていた秀義は奥州(または常陸奥郡)の花園城へと逃亡した』。『佐竹義李は御家人に列せられ、佐竹秀義の所領が頼朝の家人たちに与えられた。新たな占領地を得たことによる御家人たちへの恩賞、地理的には現に鬼怒川水系と香取海を支配して更に北の奥州藤原氏と提携の可能性があり、関東に残る平氏方最大勢力であった佐竹氏を屈服させた事は、関東を基盤とした頼朝政権確立の上で重要な位置を占める戦いであった』。『しかし、頼朝は関東の諸豪族に対しては一旦帰服を促す使者を派遣した上で対応を決定しているのに対して、佐竹氏に対してはそうした動きが確認できないことから、この戦いは相馬御厨や香取海沿岸の帰属問題で佐竹義宗(隆義の弟)や片岡常春と対立関係にあった上総広常・千葉常胤などの房総平氏および同一族と婚姻関係にある三浦義澄が房総地域から佐竹氏勢力を排除するために頼朝に攻撃を要求したとする学説もある』。また、延慶本「平家物語」『によると治承五年の春に佐竹隆義が頼朝と戦った記載があったり』、「玉葉」の翌治承五(一一八一)年四月二十一日条に『浮説ながら佐竹氏が常陸国で頼朝と敵対したとの記載がある。また佐竹氏の存在が奥州藤原氏と共に頼朝の上洛拒否の理由とされた。以上のようなことから、この金砂城の戦いのみで佐竹氏を屈服させたわけではなく、治承・寿永の乱の後期まで佐竹氏は常陸国において頼朝に対して敵対的な行動を取り続けたとみる学説もある』とある。
「佐竹太郎義政味方に屬す」以上のウィキの記載との齟齬でお分かりのように、この部分、筆者は「吾妻鏡」を誤読(若しくは省略した結果、誤記載となってしまった)しているように思われる。佐竹義政は和議に応じたものの、その場で謀殺されている。先のウィキが基づいたところの「吾妻鏡」の当該箇所、治承四(一一八〇)年十一月四日から六日の条を実際に読もう。
   *
〇原文
四日壬子。武衞着常陸國府給。佐竹者。權威及境外。郎從滿國中。然者。莫楚忽之儀。熟有計策。可被加誅罰之由。常胤。廣常。義澄。實平已下宿老之類。凝群議。先爲度彼輩之存案。以緣者。遣上總權介廣常。被案内之處。太郎義政者。申即可參之由。冠者秀義者。其從兵軼於義政。亦父四郎隆義在平家方。旁有思慮。無左右稱不可參上。引込于當國金砂城。然而義政者。依廣常誘引。參于大矢橋邊之間。武衞退件家人等於外。招其主一人於橋中央。令廣常誅之。太速也。從軍或傾首歸伏。或戰足逃走。其後爲攻撃秀義。被遣軍兵。所謂下河邊庄司行平。同四郎政義。土肥次郎實平。和田太郎義盛。土屋三郎宗遠。佐々木太郎定綱。同三郎盛綱。熊谷次郎直實。平山武者所季重以下輩也。相率數千強兵競至。佐竹冠者於金砂。築城壁。固要害。兼以備防戰之儀。敢不搖心。動干戈。發矢石。彼城郭者。構高山頂也。御方軍兵者。進於麓溪谷。故兩方在所。已如天地。然間。自城飛來矢石。多以中御方壯士。自御方所射之矢者。太難覃于山岳之上。又嚴石塞路。人馬共失行歩。因玆。軍士徒費心府。迷兵法。雖然。不能退去。憖以挾箭相窺之間。日既入西。月又出東云々。
五日癸丑。寅尅。實平宗遠等進使者於武衞。申云。佐竹所搆之塞。非人力之可敗。其内所籠之兵者。又莫不以一當千。能可被廻賢慮者。依之及被召老軍等之意見。廣常申云。秀義叔父有佐竹藏人。藏人者。智謀勝人。欲心越世也。可被行賞之旨有恩約者。定加秀義滅亡之計歟者。依令許容其儀給。則被遣廣常於侍中之許。侍中喜廣常之來臨。倒衣相逢之。廣常云。近日東國之親疎。莫不奉歸往于武衞。而秀義主獨爲仇敵。太無所據事也。雖骨肉。客何令與彼不義哉。早參武衞。討取秀義可令領掌件遺跡者。侍中忽和順。本自爲案内者之間。相具廣常。廻金砂城之後。作時聲。其音殆響城郭。是所不圖也。仍秀義及郎從等忘防禦之術。周章横行。廣常彌得力攻戰之間。逃亡云々。秀義暗跡云々。
六日甲寅。丑尅。廣常入秀義逃亡之跡。燒拂城壁。其後分遣軍兵等於方々道路。搜求秀義主之處。入深山。赴奥州花園城之由。風聞云々。
〇やぶちゃんの書き下し文(日ごとに注を附した)
四日壬子。武衞、常陸國府に着き給ふ。佐竹は權威を境外に及び、郎從は國中に滿つ。然れば、楚忽の儀莫く、熟々つらつら計策有りて誅罰を加へらるべきの由、常胤・廣常・義澄・實平已下の宿老之の類、群議を凝らす。先づ彼の輩の存案をはからんが爲に、緣者たる上總權介廣常を以て遣はして案内せらるるの處、太郎義政は即ち參ずべしの由を申す。冠者秀義は、其の從兵義政にぐ。亦、父四郎隆義は平家方に在り。旁々かたがた思慮有て、左右無く參上すべからずと稱して、當國金砂城かなさじやうに引き込もる。しかれども、義政は廣常の誘引に依りて大矢橋邊に參ずるの間、武衞、件の家人等を外に退かせて、其のぬし一人を橋の中央に招き、廣常をして之を誅せしむ。はなはだ速やかなり。從軍、或ひは首を傾けて歸伏し、或ひは足ををののかして逃走す。其の後、秀義を攻撃せんが爲に軍兵を遣はさる。所謂、下河邊庄司行平・同四郎政義・土肥次郎實平・和田太郎義盛・土屋三郎宗遠・佐々木太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷次郎直實・平山武者所季重むしやどころすゑしげ以下の輩なり。數千の強兵を相ひ率ゐて競ひ至る。佐竹冠者は金砂に於て城壁を築き、要害を固め、兼て以て防戰の儀に備へ、敢へて心を揺がさず、干戈を動かし、矢石をはなつ。彼の城郭は高山の頂きに構ふるなり。御方みかたの軍兵は、麓の溪谷に進む。故に兩方の在所、已に天地のごとし。然る間、城より飛び來る矢石、多く以て御方の壮士にあたる。御方より射る所の矢は、太だ山岳の上におよび難し。又、嚴石、路を塞ぎ、人馬共に行歩ぎやうぶを失ふ。ここに因りて、軍士、徒らに心府を費し、兵法に迷ふ。然りと雖も、退去すること能はず、なまじひに以てを挾みて相ひ窺ふの間、日、既に西に入り、月、又、東に出づと云々。
[やぶちゃん各注:・「軼ぐ」過ぎるの意味で、秀義の郎等は義政のそれよりも遙かに武運に優れている、の謂い。
・「旁々」これは副詞で、いずれにしても、どのみちの謂い。]
五日癸丑。寅の尅、實平・宗遠等、使者を武衞にしんじて申して云はく、佐竹の構へる所のとりでは、人力の敗るべきに非ず、其の内に籠る所の兵は、又、一を以て千に當らずといふこと莫し。能く賢慮を𢌞めぐらさるべしてへれば、之に依りて老軍等の意見を召さるるに及ぶ。廣常、申して云はく、秀義の叔父に佐竹藏人有り。藏人は、智謀、人に勝れ、浴心、世に越ゆるなり。賞を行はるべきの旨、恩約有らば、定めし、秀義、滅亡の計を加へんかてへれば、依りて其の儀を許容せしめ給ふ。則ち、廣常を侍中が許に遣はさる。侍中、廣常の來臨を喜び、衣をさかしまにして之に相ひ逢ふ。廣常云はく、近日東國の親疎、武衞に歸往し奉らつらずといふこと莫し。而るに秀義ぬし、獨り仇敵を爲すは太だ據所よんどころ無き事なり。骨肉と雖も、客、何ぞ彼の不義にくみせしめんや。早く武衞に參じ、秀義を討ち取りて、くだんの遺跡を領掌りやうじやうせしむべしてへれば、侍中、忽ちに和順す。本より案内の者たるの間、廣常を相ひ具して金砂城のしりへに廻り、時の聲を作る。其のこゑほとほと城郭に響く。是れ、圖らざる所なり。仍りて秀義及び郎從等、防禦の術を忘れて周章横行しうしやうわうかうす。廣常、彌々いよいよ力を得て攻め戰ふの間、逃亡すと云々。秀義、跡をくらますと云々。
[やぶちゃん各注:・「佐竹藏人」佐竹義季(生没年未詳)。頼朝の挙兵には加わらなかったために頼朝軍の追討を受けたが、ここに見るように上総介広常の懐柔策に乗って頼朝軍に内通、甥佐竹秀義を亡ぼした。その功によって後に幕府御家人となったが、頼朝に、この時の親族の裏切りを疎まれ、文治三(一一八七)年三月二十一日に駿河へ蟄居させられている。
・「侍中」秀義。
・「衣を倒にして」慌てるさまを言うが、歓迎するの意にも用いる。ここは後者。]
六日甲寅。丑の尅、廣常、秀義逃亡の跡に入りて城壁を燒き拂ふ。其の後、軍兵等を方々の道路に分ち遣はして、秀義ぬしを搜し求めるの處、深山に入りて奥州花園城に赴くの由、風聞すと云々。
[やぶちゃん各注:・「花園城」現在の茨城県北茨城市華川町花園にあった山城。]
   *
国府こふ」「こくふ」の略。]



      ○瀧口三郎經俊斬罪を宥めらる

山内瀧口やまのうちたきぐちの三郎經俊は源家譜代の被官として、代々相州に居住しける所に、經俊、如何いかゞ思ひけん、平氏に心寄せ、大庭おほばの三郎影親にくみして、兵衞佐賴朝を石橋山に攻め追ひ奉る。然るに源家の運命、さかりに開け、東國には平氏の輩、足を留むべきやうも無ければ、大庭影親、長尾兄弟を初として、石橋山合戰の餘黨悉降人ことごとくがうにんに成て出けるを、とがの輕重に從ひて或は殺し、或は許さる。瀧口經俊も身の置所おきどころの無きまゝにおのが不忠不義を抱きながら、恥を捨てて降人にぞ出でたりける。賴朝、即ち山内のしやう召放めしはなち、その身は土肥實平に預置かる。この間生捕あひだいけどり降人多き中にいたつ重科ぢうくわの輩は殺し給ふといへども、それわづかに十が一にして、なだめらるゝは少なからず。されども瀧口が事は重々不義の罪科人ざいくわにんなりとて殺さるべきにぞきはまりける。經俊が老母は賴朝の御爲には乳母めのとなり。我子のきらるべき由を聞て、泣々なくなく鎌倉に参りて申入れけるやう、「祖父資通入道は八幡殿に仕へて、禪室ぜんしつ御傅めのとなりき。其より以來このかた、代々忠勤を源家に盡し奉りし事、誰か是にたくらふべき。父俊通は平治の軍に六條河原にかばねをさらし、隨分のはたらきを以て御恩を報じまゐらせたり。其子として三郎經俊、既に大庭影親にくみせし事、そのとが餘ありといへども、これ只一旦平家の後聞を憚る所にて候。およそ軍旅を石橋山に張出はりいだし候ともがら多く候へども、皆、恩免を蒙り、科を宥め給ふ所、君の御めぐみ深く渡らせ給ふ故なり。然らば經俊もいかで昔の勳功に御ゆるされかうぶらざらん」と泣口説なきくどきて申しければ、賴朝、何とも仰せられず、土肥どひの次郎を召して、預置所あづけおくところよろひをまゐらすべきの由、仰せらる。實平、持參してひつの蓋を開きて取出す。山内の尼が前に置かせて宣ふやう、「これは石橋合戰の日、三郎經俊が射ける矢、既にこの鎧の袖に立ちたり。その矢の口卷くつまきの上に瀧口三郎藤原經俊とうるしにて書付けたり。文字のきはより箆を切て、鎧の袖にたちながら、今まで置かるゝ所なり」とて見せ給ふに、老尼はかさねて子細を申すに及ばすして、泣く泣く御前を立ちにけり。誠にその罪狀遁るゝ所なしといへども、かつうは先祖の勳勞を感じ、且は老母の悲歎にいうじて、死刑をなだめ給ひし事、「仁慈、たぐひなき良將かな」と諸人、賴しくぞ思ひ奉りける。

[やぶちゃん注:標題「宥めらる」は「なだめらる」と訓ずる。
「山内瀧口三郎經俊」山内首藤経俊やまうちすどうつねとし(保延三(一一三七)年~嘉禄元(一二二五)年)。藤原秀郷の流れをくむ刑部丞俊通の子。母は源頼朝の乳母である山内尼で相模国鎌倉郡山内荘を領した。以下、ウィキの「山内首藤経俊」よりほぼ全文を引用させて頂く(アラビア数字を漢数字に代え。記号の一部を省略変更した)。『平治の乱では病のため参陣せず、源氏方で戦った父・俊通と兄・俊綱の戦死により家督を継ぐ。治承四年(一一八〇年)八月の源頼朝の対平家挙兵に際し、頼朝から乳母兄弟にあたる経俊にも加勢を呼びかける使者として安達盛長が派遣されたが、経俊は要請に応じず暴言を吐いたという(「吾妻鏡」七月一〇日条)。なお三井寺にいた経俊の兄弟である刑部房俊秀は、頼朝挙兵に先立って以仁王の挙兵に加わり、南都に落ち延びる道中で討ち死にしている(「平家物語」)』(この「暴言」については『「富士と背を比べたり、鼠が猫を狩る様な」として、平家と頼朝(勢力)の大小を嘲ったとされる』という脚注がある)。『経俊は平氏方の大庭景親の軍に属して石橋山の戦いで頼朝に矢を放っている。景親降伏後の十月二十三日に頼朝軍に捕らえられて山内荘を没収され、土肥実平に身柄を預けられた。十一月二十六日、経俊は斬罪に処せられる事が内々に決められたが、母の山内尼が頼朝の元を訪れ、涙ながらに父祖である山内資通入道が源義家に仕え、源為義の乳母父であった事など源氏への奉公を訴えて経俊の助命を求めた。頼朝は尼に対し、経俊が自分に放った矢の刺さった、当時自身が着用していた鎧の袖を見せると、尼はそれを見て顔色を変えてさすがにその場は引き下がった。結局、経俊は赦されて頼朝に臣従する』。『その後、元暦元年(一一八四年)五月の志田義広、七月の平家残党の反乱の追討に出陣。この年に伊勢国の守護となっている。また大内惟義の後を受けて伊賀国の守護も兼ねており、特に戦功もない経俊にこのような重任が課されたのは、ひとえに頼朝の乳母子であるためと思われる。翌文治元年(一一八五年)四月に頼朝の怒りを買った無断任官者二十四名の内の一人になり、頼朝から「官職を望んでも役に立たない者である。無益な事だ」と罵倒されている。ここまで失態を重ねた上に、頼朝からの人物評価は低いが、それでも乳母兄弟である経俊の地位は保全された。その後、源義経の家臣・伊勢義盛と交戦して破る。奥州合戦、頼朝の上洛にも供奉』。『頼朝死後の梶原景時弾劾に参画。元久元年(一二〇四年)に伊勢国・伊賀国などで起こった三日平氏の乱で経俊は平氏残党の反乱鎮圧に失敗した事により、伊勢・伊賀の守護職を解任され、両国の守護職は経俊が逃亡した後に乱を鎮圧した平賀朝雅に移された。その後、朝雅は失脚し、経俊の子の六郎通基に殺害された。その後、職の回復を願ったが許されなかった(「吾妻鏡」同年九月二十日条)』。『「吾妻鏡」では建保四年(一二一六年)七月二十九日に源実朝に供奉して相模川に赴いた記録が最後である』とある。
・「禪室の御傅めのとなりき」「禪室」は義家のことか。「傅」は貴人の子を守り育てる役目の男。守役。
・「たくらふ」「たくらぶ」「た較ぶ」で、比べるの意、「た」は強意の接頭語。
・「矢の口巻」鏃を指し込んだ(矢柄)の先を糸や籐で巻き締めた部分。矢の本体と鏃の接合部。
・「かつうは」「つは」の音転。
・「優じて」「優す(優ず)」はさ行変格活用の動詞で、厚くもてなす、優遇する、褒めるの謂いがある。ここは老乳母の、子息処罰への悲嘆を目の当たりにして、特別に厚遇し、特に経俊の死罪を減じて大目に見たことを指している。]



      ○木曾義仲上洛 付 平家都落
東國には兵衞佐賴朝の武威、日をおつて盛なり。北國には木曾冠者源義仲、旗を擧げ、西海南海にも軍起り、築紫には緒方おがたの惟義、四國には河野通淸かうのみちきよ、源氏に屬す。平家、いよいよ驚きて、軍勢を東北國に遣すといへども、運のかたぶくせなれば、至る所、利なくして引返すより外の事なし。去ぬる治承四年六月に淸盛のはからひとして、都を攝州福原にうつさる。翌年十二月、又、舊都平安城に遷返うつしかへす。治承五年閏二月四日、大相國淸盛入道靜海じやうかい、西八條の亭に薨じ給ふ。春秋六十四歳なり。子息宗盛卿その跡を繼ぎて、平氏一門の棟梁たり。七月十四日改元ありて、養和と號す。同二年三月、賴朝と義仲と不和に及ぶ。木曾殿、その嫡子淸水冠者しみづのかんじや義高を人質に遣して和睦す。賴朝、是を鎌倉に連れて歸り、かしづきて婿とせらる。同四月、平家の維盛、通盛を兩大將として、十萬餘騎、北國に發向はつかうす。越中國礪竝山となみやま以下所々の軍に木曾義仲に打負うちまけて、都に引返す。俣野五郎景久、齋藤別當實盛等、皆、討死せり。同七月、木曾義仲、北國より攻上せめのぼりければ、平氏、大に恐惑おそれまどひ、宗盛等の一門、主上を守護して、西海に赴く。然れば淸盛公の舎弟池大納言賴盛は、その母池尼、賴朝を助けられし恩に依つて、鎌倉より内通ありて京都に留り給ふ。平氏の一門は福原にもたまらず、筑紫つくしに向ひ、太宰府に至る。豐後の緒方三郎惟義に襲はれ、九國を離れて、四國に赴く。阿波民部重能しげよし、是を迎へて、讃岐國屋嶋に内裏を造り、此所に暫く止まりて南海、山陽道を打靡うちなびけり。

[やぶちゃん注:「西海南海」「西海」は九州、「南海」は四国及び紀伊半島を指す。
「緒方惟義」(生没年不詳)。惟栄・惟能とも書く。豊後大野郡の郡領大神おおが氏の子孫で同郡緒方荘の荘司。平氏による大宰府掌握後には平重盛と主従関係を結んでいたが、頼朝挙兵後、付近の臼杵氏・長野氏らと平氏に反旗を翻して豊後国目代を追放、以後は中北九州における反平氏勢力の中核となった。寿永二(一一八三)年、豊後国守藤原頼輔から平氏追討の院宣と国宣を受けて平氏を大宰府から追放したが、宇佐宮焼打事件で遠流された(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
「河野通淸」?~養和元(一一八一)年)伊予国風早郡河野郷(現在の愛媛県北条市)を本領とし、伊予権介に任じて河野介と称した。頼朝をはじめとする反平家勢力が各地で蜂起した際、伊予国内で競合関係にあった高市たけち氏が平家と結んでいたことから、通清も同治承四(一一八〇)年の冬に挙兵、国中を管領して正税官物を抑留した。しかし、翌養和元年には平家方の備中国の住人沼賀入道西寂に攻められて討死した(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。
「治承四年六月に淸盛の計として、都を攝州福原に遷さる」治承四(一一八〇)年六月二日に京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれて、ここに正式に行宮が置かれ、清盛は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画していた(和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域。以上はウィキの「福原京」に拠る。次の注も同じ)。
「翌年十二月又舊都平安城に遷返す」「翌年」「十二月」はそれぞれ「同年」「十一月」の誤り。遷都から凡そ六ヶ月後の治承四(一一八〇)年十一月二十三日に京都へ還幸した。これは源氏の挙兵に対応するため、清盛が決断したとされる。
「同二年三月賴朝と義仲と不和に及ぶ」「同二年」では「養和二年」となるので誤り。寿永二(一一八三)年が正しい。この「不和」とは、寿永二(一一八三)年二月、頼朝と敵対し敗れた源為義三男志田義広及び、頼朝から追い払われた源為義十男源行家ら叔父が義仲を頼って身を寄せ、この二人を庇護したことで頼朝と義仲の関係が悪化したことに起因する。別説として「平家物語」「源平盛衰記」では甲斐武田氏第五代当主武田信光が娘を義仲嫡男義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したともある。義高は同三月中に鎌倉に入っている模様である(ウィキの「源義仲」に拠る)。
「かしづきて婿とせらる」「かしづきて」の「傅く」という動詞は①「大切に守る」・「大事に育てる」。②「世話を焼く」・「後見する」の謂いで、意味から高校生がしばしば間違えるが、謙譲の敬語では、ない。ここは②、「婿」は頼朝長女大姫の婿である。
「同四月平家の維盛、通盛を兩大將として、十萬餘騎北國に發向す」も前の誤りを構造上受けてしまうので、「同年」は寿永二(一一八三)年の誤りであると注しておく。「四月」十七日のことであった。
「越中國礪竝山」越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現在の富山県小矢部市及び石川県河北郡津幡町)で五月十一日に行われた倶利伽羅峠の戦い。
「俣野五郎景久」(?~寿永二(一一八三)年)相模国大庭御厨俣野郷の住人。身長六尺(約一八二センチメートル)を超える強力で相撲の名手とされる。治承四(一一八〇)年の石橋山の戦で平家方の兄大庭景親に従い、富士山北麓で甲斐源氏に敗戦、京都へ逃れた。その後、平維盛に従って六月一日、倶利伽羅合戦敗走後の加賀国篠原(現在の石川県加賀市旧篠原村地区)での篠原の戦いで敗れ、自害した。
「齋藤別當實盛」(天永二(一一一一)年~寿永二(一一八三)年)は越前国の出身、武蔵国幡羅郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれた。彼は義仲の父源義賢よしかたが義朝長男鎌倉悪源太義平に大蔵合戦で討たれた際、幼い義賢次男であった駒王丸(後の義仲)を無事に木曾へ逃がした。保元・平治の乱においては上洛し、かつての主の敵ながら義朝に忠実な部将として仕え、義朝滅亡後は関東に帰還、平氏に仕えていた。義仲は恩人である実盛を生け捕りにして殺害しないように部下に伝えていたが、『味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた』。『この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評し』(以上はウィキの「斎藤実盛」より引用した)、また、義仲を愛し、従ってその愛惜を共有していた松尾芭蕉が「奥の細道」の途次、実盛のかぶとを蔵する多太ただ神社(現在の石川県小松市在)を訪れて実盛を偲び、
   むざんやな甲の下のきりぎりす
の名吟を残しているのは周知の通りである。
「阿波民部重能」田口成良たぐちのしげよし(生没年不詳)のこと。阿波国・讃岐国に勢力を張った四国の最大勢力で、早い時期から平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚かった。承安三(一一七三)年の清盛による大輪田泊の築港では奉行を務め、日宋貿易の業務を担当したと見られている。鹿ケ谷の陰謀では首謀者の一人であった西光の四男広長が阿波国阿波郡柿原(現在の徳島県阿波市吉野町)にあり、清盛の命により成良が柿原に襲撃して広長を討ち取っている。治承・寿永の乱が起こると軍兵を率いて上洛、平重衡の南都焼討で先陣を務め、美濃源氏の挙兵では美濃国へ出陣するも蹴散らされて被害を蒙っている。寿永二(一一八三)年七月の平氏の都落ちの後は四国に戻って讃岐国を制圧、屋島での内裏造営を行って四国の武士たちを取りまとめた。一ノ谷合戦・屋島の戦いでも田口一族は平氏方として戦ったが、屋島の戦いの前後に源義経率いる源氏方に伯父の田口良連、弟の桜庭良遠が捕縛襲撃され、志度合戦では嫡子の田内教能が義経に投降したとされる。「平家物語」によれば、嫡子教能が投降した事を知った成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、三百艘の軍船を率いて源氏方に寝返った事により、平氏の敗北を決定づけたともされる。但し、「吾妻鏡」には平氏方捕虜として成良の名が見えており、真相ははっきりしない。延慶本「平家物語」によれば、成良は主人を裏切った不忠の者として斬罪が決められるや、怒って数々の暴言を吐き、御家人達の不興を買ったために籠に入れられて火あぶりの刑にされたともある(以上はウィキの「田口成良」に拠る)。
「打靡けり」制圧した、の意。都落ち以降の平家をひたすら西海への遁走と滅びへの勾配としか捉えない「平家物語」を主軸とした文学的仏教的読みが多いが、私はそうは思っていない。例えば上横手雅敬氏の「源平の盛衰」(講談社文庫一九九七年刊)によれば、清盛を中心とした平家には、『畿内における軍事政権の樹立が困難であるならば、太宰府を中心とする九州ないしは内海の地域的軍事政権の樹立が構想されていたと考えてよ』く、『其の後の政治的推移によって実現はしなかったものの、のちに都落ちした平氏が最初に根拠地としたのは太宰府だった。そして地域的軍事政権とは、思い切った表現をするんならば、太宰府幕府(ないしは太宰府国家)のことなのである』と述べられ、治承三(一一七三)年の鹿ヶ谷の謀議を契機とする『クーデターによって成立した平家政権は、同四年の富士川での敗戦を契機として、養和元年以来、相次いで斬新な政策を打ち出し、武家政権への脱皮をとげつつあった。ただ、それらの政策が実を結ぶには、時すでにおそく、事態の転回は、より急速であった』と、目から鱗の歴史学上の解説されておられるが、まさにここでの「北条九代記」の筆者の書き振りと、そうした真相とが軌を一にしているように思われて私には甚だ興味深いのである。]

      〇賴朝腰越に出づる 付 榎嶋辨才天
同四月五日、賴朝、逍遙の御爲に腰越こしごえの濱に出で給ふ。北條、畠山、土肥、結城以下の御供なり。是より榎嶋えのしまに赴き給ふ。高雄の文覺上人、此所に辨才天を勧請して賴朝の武運を祈られける。始て供養の法を行はるゝ故に依つて、今日鳥居を立てられけり。是、ひそかには奥州の鎭守府ちんじゆふの將軍藤原秀衡を調伏の爲なり。抑、辨才天と申すは龍宮城の主として、三世諸佛轉法輪てんぽふりん利生化導けだうの辨才なり。教法げうぽふ、既に閻浮提えんぶだいに滅盡の時、この大辨才、龍宮にをさまるといへり。又その跡を尋ぬれば、四王天三十二將の随一として魔軍を退け、佛法を守護し、修學信仰しゆがくしんかうの輩には大福德を與へ給ふ。所持の寶珠はうじゆはこの故なり。又この嶋の有樣、くがる事、數町にして、舟を渡して、至る所に數十の小屋ありて、漁人すなどりすみかとす。嶋の西南にいはやあり。海水、浪をあげて是を浸し、潮汐、たたへ漣漪れんきたる事、池の如し。窟の内は石壁數丈なり。入る事數歩にして仰瞻あふぎみれば、只、岌々きふきふとして高く見ゆ。嶋神の小祠こやしろあり。鳩、常に栖とす。道暗くして進難すゝみがたし。松明たいまつともして、深く入るに、水、うるほひてあたゝかなり。昔、えんの行者、伊豆の大嶋に流されし時、この窟に出入し給ふ。是より一町計にして其より末は行盡ゆきつくし難く、誠に龍神の行き通ふ所、殆類ほとんどたぐひなき淸境せいきやうなり。當來の出世にあたつて、三説法の辨才は、この嶋より現るべし。大辨才天の神力じんりきは人の信ずるにしたがつて、福智威勢、今世後生、総て二世の悉地しつぢを得る自在慈悲の妙用、誰人か信ぜざらん。賴朝は金洗坂かねあらひざかの邊にして牛追物うしおふものを御覽じて、それより御館みたちに歸り給ふ。

[やぶちゃん注:「榎嶋」江の島。
「辨才天」弁才天は仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名。以下、ウィキの「弁財天」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更、注記記号を省略した)。『経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い』。『本来、仏教の尊格であるが、日本では神道の神とも見なされ「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と同一視されることがある』。『また、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である、市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることも多く、古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い』。『「サラスヴァティー」の漢訳は「辯才天」であるが、既述の理由により日本ではのちに「辨財天」とも書かれるようになった。「辯」と「辨」とは音は同じであるが、異なる意味を持つ漢字であり、「辯才(言語・才能)」「辨財(財産をおさめる)」を「辯財」「辨才」で代用することはできない。戦後、当用漢字の制定により「辯」と「辨」は共に「弁」に統合されたので、現在は「弁才天」または「弁財天」と書くのが一般的である』。『原語の「サラスヴァティー」は聖なる河の名を表すサンスクリット語である。元来、古代インドの河神であるが、河の流れる音や河畔の祭祀での賛歌から、言葉を司る女神ヴァーチェと同一視され、音楽神、福徳神、学芸神、戦勝神など幅広い性格をもつに至った。像容は八臂像と二臂像の二つに大別される。八臂像は「金光明最勝王経」「大弁才天女品(ほん)」の所説によるもので、八本の手には、弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・投げ縄)を持つと説かれる。その全てが武器に類するものである。同経典では弁才・知恵の神としての性格が多く説かれているが、その像容は戦神としての姿が強調されている』。『一方、二臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え、「大日経」では、妙音天、美音天と呼ばれる。元のサラスヴァティーにより近い姿である。ただし、胎蔵曼荼羅中に見える二臂像は、後世日本で広く信仰された天女形ではなく、菩薩形の像である』。『日本での弁才天信仰は既に奈良時代に始まっており、東大寺法華堂(三月堂)安置の八臂の立像(塑像)は、破損甚大ながら、日本最古の尊像として貴重である。その後、平安時代には弁才天の作例はほとんど知られず、鎌倉時代の作例もごく少数である』。『京都市・白雲神社の弁才天像(二臂の坐像)は、胎蔵曼荼羅に見えるのと同じく菩薩形で、琵琶を演奏する形の珍しい像である。この像は琵琶の名手として知られた太政大臣・藤原師長が信仰していた像と言われ、様式的にも鎌倉時代初期のもので、日本における二臂弁才天の最古例と見なされている。同時代の作例としては他に大阪府・高貴寺像(二臂坐像)や、文永三年(一二六六年)の銘がある鎌倉市・鶴岡八幡宮像(二臂坐像)が知られる。近世以降の作例は、八臂の坐像、二臂の琵琶弾奏像共に多く見られる』。以下、「習合」について。『中世以降、弁才天は宇賀神(出自不明の蛇神、日本の神とも外来の神とも)と習合して、頭上に翁面蛇体の宇賀神像をいただく姿の、宇賀弁才天(宇賀神将・宇賀神王とも呼ばれる)が広く信仰されるようになる。弁才天の化身は蛇や龍とされるが、その所説はインド・中国の経典には見られず、それが説かれているのは、日本で撰述された宇賀弁才天の偽経においてである』。『宇賀弁才天は八臂像の作例が多く、その持物は「金光明経」の八臂弁才天が全て武器であるのに対し、新たに「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなっている』。『弁才天には「十五童子」が眷属として従うが、これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれ、平安風童子の角髪(みずら)に結った姿をとる。十六童子とされる場合もある』。以下、近世の信仰についてが記されているが、江島神社が記載に現われ、また、本書を書き読んだ人々の意識の中の弁天信仰を考える上では必要であるので、やはり引用しておきたい。『近世になると「七福神」の一員としても信仰されるようになる。中世において、大黒天・毘沙門天・弁才天の三尊が合一した三面大黒天の像を祀った記録があり、大黒・恵比寿の並祀と共に、七福神の基になったと見られて』おり、『また、元来インドの河神であることから、日本でも、水辺、島、池、泉など水に深い関係のある場所に祀られることが多く、弁天島や弁天池と名付けられた場所が数多くある。そのため弁才天は、日本土着の水神や、記紀神話の代表的な海上神である市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、神社の祭神として祀られることが多くなった』。『「日本三大弁才天」と称される、竹生島・宝厳寺、宮島・大願寺、天川村・天河大弁財天社は、いずれも海や湖や川などの水に関係している(いずれの社寺を三大弁才天と見なすかについては異説があり、その他には、江ノ島・江島神社などがある)』。『弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となった。元々弁才天を祭神としていたが現在は市杵嶋姫命として祀る神社としては、奈良県の天河大弁財天社などがある。神奈川県の江島神社は主祭神を宗像三女神に改め、弁才天は摂社で祀られる』。『弁才天は財宝神としての性格を持つようになると、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることが多くなった。鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社はその典型的な例で、同神社境内奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰が』生じ、『近世以降の弁才天信仰は、仏教、神道、民間信仰が混交して、複雑な様相を示している』とある。ここで「北條九代記」の作者は、弁才天の持ち物のうち、「寶珠」に着目して語っており、これは以上の記載から、中世以降の八臂の宇賀弁才天像をイメージしており、現世利益の福財信仰としての視点が強く働いている(読者も同様であることを確信犯として)ことが看取出来る。

「同四月五日」文脈からは「同」は前段冒頭の治承五(一一八一)年となり、誤り。これは養和二(一一八二)年(五月二十七日に寿永に改元)の出来事である(従って前段の後半からは遡った内容となる)。この冒頭部分と末尾は「吾妻鏡」の四月五日の条に基づく。以下に示す。
〇原文
五日乙巳。武衞令出腰越邊江嶋給。足利冠者。北條殿。新田冠者。畠山次郎。下河邊庄司。同四郎。結城七郎。上総權介。足立右馬允。土肥次郎。宇佐美平次。佐々木太郎。同三郎。和田小太郎。三浦十郎。佐野太郎等候御共。是高雄文學上人。爲祈武衞御願。奉勸請大辨才天於此嶋。始行供養法之間。故以令監臨給。密議。此事爲調伏鎭守府將軍藤原秀衡也云々。今日即被立鳥居。其後令還給。於金洗澤邊。有牛追物。下河邊庄司。和田小太郎。小山田三郎。愛甲三郎等。依有箭員。各賜色皮紺絹等。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日乙巳。武衞、腰越邊江嶋に出でしめ給ふ。足利冠者・北條殿・新田冠者・畠山次郎・下河邊庄司・同四郎・結城七郎・上総權介・足立右馬允・土肥次郎・宇佐美平次・佐々木太郎・同三郎・和田小太郎・三浦十郎・佐野太郎等、御共に候ず。是れ、高雄の文學もんがく上人、武衞の御願を祈らんが爲、大辨才天を此の嶋に勸請し奉り、供養の法を始め行ふの間、故に以て監臨せしめ給ふ。密議なり。此の事、鎭守府將軍藤原秀衡を調伏をせんが爲なりと云々。今日、即ち鳥居を立てられ、其の後、還らしめ給ふ。金洗澤邊に於いて牛追物有り。下河邊庄司・和田小太郎・小山田三郎、愛甲三郎等、箭員やかず有るに依りて、各々色皮いろがは紺絹こんきぬ等を賜る。
・最初の「御共」の内の名が挙がる十六名の人物を順に以下に正字で示しておく。
足利義兼・北條時政・新田義重・畠山重忠・下河邊行平・下河邊政義・結城朝光・上総廣常・足立遠元・土肥實平・宇佐美實政・佐々木定綱・佐々木盛綱・和田義盛・三浦義連・佐野基綱
・「文學上人」頼朝に決起を促した文覺は、こうも書く。
・「金洗澤」七里ヶ浜の行合川の西。「新編鎌倉志卷之六」には『此所ろにて昔し金を掘りたる故に名く』とする。「金」とあるが、恐らくは稲村ヶ崎から七里ヶ浜一帯で採取される砂鉄の精錬を行った場所と考えられる。本「北條九代記」の「金洗坂」は「澤」の誤りである。
・「牛追物」鎌倉期に流行した騎射による弓術の一つ。馬上から柵内に放した小牛を追いながら、蟇目・神頭じんどう(鏑に良く似た鈍体であるが、鏑と異なり中空ではなく、鏑よりも小さい紡錘形又は円錐形の先端を持つ、射当てる対象を傷を付けない矢のこと。材質も一様ではなく、古くは乾燥させた海藻の根などが使われたというから、時代的にも場所的にも、ここではこの矢が如何にもふさわしい)などの矢で射る武芸。
・牛追物の名の挙がる四名の射手を順に以下に正字で示す。
下河邊行平・和田義盛・小山田重成・愛甲三郎季隆
・「箭員有るに依りて」牛に的中した矢数が多かったので。
・「色皮・紺絹」色染めをした皮革や藍染めの絹。

「三世諸仏」過去・現在・未来の三世に亙って存在する一切の仏。
「転法輪」仏の教法を説くこと。真の仏法が誤った考えや煩悩を悉く破砕することを、転輪聖王てんりんじょうおう(古代インドの理想の王を指す概念語)が輪宝りんぽう(剣を輪の円周上から八方に向けて出した古代インドの武具)によって敵を降伏させたことに譬えて言う。
「利生」「利益りやく衆生」の意。仏・菩薩が衆生に利益を与えること。また、その利益。
「化導」衆生を教化きょうげして善に導くこと。
「教法既に閻浮提に滅盡の時この大辨才龍宮にをさまるといへり」の「閻浮提」は仏教でいう人間が住むところの全世界のことであるから、これは末法思想に基づく謂いと考えられ、真の仏法の教え「教」は存在しても、「行」と「信」が行われなくなった末法にあっては、この弁財天は龍宮に隠れてしまうと言われている、の謂いであろう。仏法が尽き滅びる訳ではない。
「四王天三十二將」仏の守護神である四王天(持国天・増長天・広目天・多聞天)配下の護法善神である天部の弁才天・大黒天・吉祥天・韋駄天・摩利支天・歓喜天・金剛力士・鬼子母神・十二神将・十二天(帝釈天・火天・焔魔天・羅刹天・水天・風天・毘沙門天・伊舎那いざな天・梵天・地天・日天・月天がってん・八部衆(天衆・龍衆・夜叉衆・乾闥婆けんだつば衆・阿修羅衆・迦楼羅かるら衆・緊那羅きんなが衆・摩睺羅伽まこらが衆)・二十八部衆(密迹みっしゃく金剛力士・那羅延ならえん堅固王・東方天・毘楼勒叉びるろくしゃ天・毘楼博叉びるばくしゃ天・毘沙門天・梵天・帝釈天・婆迦羅ひばから王・五部浄居ごぶじょうご天・沙羯羅しゃがら王・阿修羅王乾闥婆王・迦楼羅王・緊那羅きんなら王・摩侯羅まごら王・金大こんだい王・満仙王・金毘羅王・満善車王・金色孔雀こんじきくじゃく王・大弁功徳天・神母じんも天・散脂さんし大将・難陀なんだ龍王・摩醯首羅まけいしゅら王・婆藪ばす仙人・摩和羅女まわらにょ)などを指す。これらには重複する神名が含まれており、三十二の名数は調べては見たがよく分からない。弁財天から十二天までならば丁度、三十二にはなる。
・「る」本来なら「へだつ」と訓ずるところだが、「去る」当て読みしている。
・「數町」一町は約一〇九メートル。現在の地図で計測すると国道一三四号線の江ノ島入口から江ノ島大橋を渡り切ったところで凡そ六三五メートルあるが、当時の陸側の南端はもう少し内陸にあったと考えられるから、七〇〇メートル前後で、「數町」(数百メートル)という表現は妥当と言える。
「漣漪」さざ波が立つさま。
「數丈」一丈は約三メートル。いろいろ調べたが、現在の資料には御岩屋の内部の高さを記したものがない。私のブログ「鎌倉江の島名所カード 江ノ島・御岩屋」に掲載した写真から推測すると、開口部でも六メートル近くあり、海食洞の内部の手前はもっと抉れているから海面からは一〇前後はあろうか。当時とはかなり内部の様子が違うとは思うが、暗闇でもあるから「數丈」にはやや誇張が感じられはするが、不自然とは言い難い。なお、この写真は第一岩屋と思われる。因みに本記載とは余り比較にならないが、整備された現在の奥行きは第一岩屋が一五二メートル、第二岩屋が一一二メートルある。更に付け加えておくと、大正一二(一九二二)年九月一日の関東大震災で江の島付近は六〇センチメートルから一メートルほど隆起している。
「岌々」高いさま、また、危ういさまをも言う。
「役行者伊豆の大嶋に流されし時」飛鳥から奈良初期の修験道の開祖役小角えんのおづぬ(舒明天皇六(六三四)年?~大宝元(七〇一)年?)の伝承には『ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみにな』ったが、『役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われ』ている(引用はウィキの「役小角」に拠る)。
「當來の出世に方て、三會説法の辨才はこの嶋より現るべし」の「當來の出世」とは、現在、兜率天で修行をしている弥勒菩薩が、釋迦入滅後の五十六億七千万年後の未来に如来となって姿を現すことを指す。「三會説法」はその弥勒菩薩が人間界に下った後、龍華樹りゅうげじゅ(高さ広さがそれぞれ四〇里あって、枝は竜が百宝の花を吐くかのようであるとされる想像上の木)の下で悟りを開き、衆生のために三度にわたって説くとされる説法の会座えざ。龍華三会とも言う。「辨才」とは先の弁財天の説明に現われたところの説法の「辯才」(言語・才能)を具現化したものが弁財天であるという謂いであろう。即ちここは、「末法の末の未来に降臨する弥勒菩薩の出現に合わせて行われるところの、一切の衆生を済度するための龍華三会で、その言説や才を発揮して中心的役割を果たすところの、弁財天は、ここ江の島から出現するであろう、というのである。この後の叙述から見ても筆者は強い弁財天信仰を持っていたと断言出来る。
「二世」「今世」と「後生」、現世と来世。
「悉地」梵語“Siddhi”の音写。成就の意。真言の秘法を修めて成就したところの悟りを言う。]


      〇勝長壽院造立
木曾冠者義仲、京都に入て、平家追落の賞として、左馬頭にせられ、押して征東大將軍となり、惡行、すこぶる平家に越えたり。賴朝、是を聞きて舍弟かばの冠者範賴、九郎義經に六萬餘騎をさし添へて上洛せしむ。義仲、打負うちまけて、都を落ち、江州勢多の邊にて郎等皆、討たれ、粟津原あはづのはらにして流矢にあたりて死す。年三十一歳なり。範賴、義經二手に成て、一の谷に向ひ、義經、搦手からめてよりうしろの山を𢌞り、鴨越ひよどりごへより攻入せめいつて火を放つに、平家敗軍し、通盛、忠度、敦盛討死す。三位中將重衡は生捕られ、先帝、建禮門院、淸盛の後室二位の禪尼は宗盛、知盛、教盛、教經等に伴ひ、讃岐國屋嶋に赴きたまふ。義經、四國を平げて、長門國に赴く。阿波あはの民部重能、降参す。平家敗軍して、舟に取乘とりのり、赤間が關檀の浦にして戰ひ破れ、二位の禪尼は寶劍を腰に差し、先帝を抱き奉りて、海底に沈み、知盛、教盛、教經等、皆ことごとく身を沈め、宗盛、淸宗、建禮門院は生捕られ、平家、此所こゝに滅亡す。時に元曆二年三月二十四日なり。九郎義經、生捕を連れて、鎌倉に下る。建禮門院は都に捨てられ、大原の芹生せりふに引籠りて尼になり、阿波内侍と共に行ひ給ふ。義經は自立じりふの心ありとて、腰越より追返おひかへされ、宗盛父子を江州の篠原にて是を斬り、我が身は西海に赴かんとせしかども、風波荒くして、叶はず。奥州に下りて、衣川の城に居住す。秀衡、死して後に文治五年閏四月、賴朝の仰によりて、泰衡が爲に自害せらる。生年三十一歳、その郎從十餘人、皆、此所に討死す。去年壽永二年の冬、後白河法皇より故主馬頭義朝竝に鎌田兵衞政淸が首級を東の獄門より尋ね出して鎌倉に下させ給ふ。賴朝、大に喜び給ひて、自ら鎌倉の勝地を求め、十一月に鶴ヶ岡の東にあたつて、勝長壽院を建立し、佛工定朝ぢやうてうに仰せて、丈六金色の彌陀の形像ぎやうざうを作らしめ、大伽藍の造營落慶供養あり。義朝、政淸が首級を葬り、佛事作善さぜん、殊更に精誠を盡し給ひけり。

[やぶちゃん注:「芹生」は現代音「せりょう」と読み、現在の京都市左京区大原の西方、大原川(高野川)の西岸にある草生の南の古名。
「十一月に鶴ヶ岡の東に方て、勝長壽院を建立し」前の部分に「去年壽永二」(一一八三)年とあるのを受け、ここはその翌年、改元して元暦元(一一八四)年の「十一月」である。但し、「十一月」二十六日に行われたのは土地に縄張りをして基礎造りを始める地曳始の儀(地鎮祭)で、その後、文治元(一一八五)年二月十九日に事始め(本格起工)が行われ(ここで「吾妻鏡」は本建物を『南御堂』と呼称している)、同四月十一日が立柱(起工式)が行われ、五ヶ月後の九月三日に義朝と鎌田正清の首級が、ここ『南御堂の地に』埋葬されたとある。成朝作の阿彌陀本尊が安置されたのは同十月二十一日で、この頃は堂と門が立っていたに過ぎなかったと考えられている。
「定朝」成朝せいちょうの誤り。定朝は平安後期の仏師で、成朝はその流れを汲む。
「丈六」これは仏像用語で、これで一丈六尺の意。釈迦の身長が一丈六尺(約四・八五メートル)であったとされるのに因む。座像の場合は半分の八尺に作るが、それも丈六と言う。]



      ○淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎
木曾〔の〕義仲の嫡子淸水〔の〕冠者義高は人質として賴朝に渡されしを、婿にしてかしづかる。然るに義仲、朝敵の名に懸り、江州にてうたれ給ふ。其子なれば、婿ながらも心操計難こゝろばせはかりがたし、誅せらるべきなりと、内々眤近ぢつきんの輩におほせ含めらる。女房等、聞窺きゝうかがひて、姫君の御方へつげ知せたり。淸水冠者、そのあかつき、女房の姿に出立ち、姫君の御方の女房達に打圍まれてしのび出で給ふ。海野うんのゝ小太郎幸氏ゆきうぢは淸水と同年にて、晝夜御前をたち去らず、已に相替りて張臺ちやうだいに入りつつ、宿直とのゐの下に臥して髻許もとどりばかりを枕に出し、引被ひきかづきて、日たくるまで起上らず。既に又起出つゝ、淸水殿の常の御座に立入りて、日比の有樣に替る事なく、只ひとり雙六すごろくを打つ。是は日比、淸水殿のなぐさみとして、朝暮にもてあそばれしかば、幸氏、必ずその合手にまゐりたる所なり。殿中の男女はこの事、夢にも知らざりしを、晩景に及びて、かくと知りければ、賴朝、大に怒り給ひ、幸氏を召戒めしいましめ、ほりの藤次親家以下の軍兵を方々の道路に差遣し、討留うちとゞむべき由、おほせ付けらる。親家、人數を分ちて、追手を掛けし所に、郎従藤内光澄みつずみ、武藏國入間河原いるまかはらにして追付き、あへなくも淸水冠者を討取り、首級をあげてぞ歸りける。この事、隱密おんみつし給へども、姫君、既に漏聞もれきかしめ給ひ、愁歎の色深く、たましひを消すばかりにて、漿水しやうすゐをだに聞入ききいれ給はず。賴朝も御臺もことわりふくして、御哀傷、甚し。殿中、打潜うちひそみて、物の音もさだかにせず。姫君は貞節の心ざし、金石きんせきよりも堅くして、一生つひに二度ふたたび人にし給はず、有難き心操こころばせなり。御母御臺、深く憤り給ひ、たとおほせの事なりとも、何ぞ、内々姫君の御方へ申さしめず、楚忽そこつに淸水殿を討ち奉り、姫君、是故これゆゑ御病重く、日を追ひて、憔悴し給ふ。この男の不覺なりとて、堀親家が郎從藤内光澄を引出し、首を斬りてぞ棄てられける。

[やぶちゃん注:過去、「新編鎌倉志巻之三」の「常楽寺 木曽塚」や「鎌倉攬勝考卷之五」の「常楽寺」で語ってきたように、これは鎌倉初期の出来事の中でも、私にとって最も忘れ難い、元暦元(一一八五)年四月の大姫(当時満六歳)と清水冠者義高(同じく十一歳)の悲恋のシークエンスである。以下に「吾妻鏡」の当該関連部分(四月二十一日・二十六日・六月二十七日)を示す。

〇原文(元暦元(一一八五)年四月小)
廿一日己丑。自去夜。殿中聊物忩。是志水冠者雖爲武衞御聟。亡父已蒙 勅勘。被戮之間。爲其子其意趣尤依難度。可被誅之由内々思食立。被仰含此趣於昵近壯士等。女房等伺聞此事。密々告申姫公御方。仍志水冠者廻計略。今曉遁去給。此間。假女房之姿。姫君御方女房圍之出墎内畢。隱置馬於他所令乘之。爲不令人聞。以綿裹蹄云々。而海野小太郎幸氏者。與志水同年也。日夜在座右。片時無立去。仍今相替之。入彼帳臺。臥宿衣之下。出髻。日闌之後。出于志水之常居所。不改日來形勢。獨打雙六。志水好雙六之勝負。朝暮翫之。幸氏必爲其合手。然間。至于殿中男女。只成于今令坐給思之處。及晩縡露顯。武衞太忿怒給。則被召禁幸氏。又分遣堀藤次親家已下軍兵於方々道路。被仰可討止之由云々。姫公周章令銷魂給。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿一日己丑。去ぬる夜より殿中聊か物忩ぶつそう。是れ、志水冠者、武衞の御聟たりと雖も、亡父已に 勅勘を蒙り、りくせらるるの間、其の子として其の意趣尤もはかり難きに依りて、誅せらるべきの由、内々思しし立ち、此の趣きを眤近ぢつきんの壮士等に仰せ含めらる。女房等、此の事を伺ひ聞きて、密々に姫公ひめぎみの御方に告げ申す。仍りて志水冠者計略を廻らし、今曉遁れ去り給ふ。此の間、女房の姿を假り、姫君の御方の女房、之を圍みて、墎内かくないを出で畢んぬ。馬を他所に隱し置き之に乘らしむ。人をして聞かしめざらんが爲に、綿を以て蹄をつつむむと云々。
而うして海野小太郎幸氏は志水と同年なり。日夜座右に在りて片時も立ち去ること無し。仍りて今、之れに相ひ替りて、彼の帳臺に入り、宿衣の下に臥して、髻を出だす。日くるの後、志水の常の居所に出でて、日來ひごろの形勢を改めず、 獨り雙六すごろくを打つ。志水、雙六の勝負を好み、朝暮に之をもてあそぶ。幸氏、必ず其の合手たり。然る間、殿中の男女に至るまで、只今に坐せしめ給ふ思ひを成すの處、晩に及びてこと露顯す。武衞、はなはだ忿怒し給ひ、則ち、幸氏を召しいましめらる。又、堀藤次親家已下の軍兵を方々の道路に分ち遣はし、討ちとどむべきの由を仰せらるると云々。
姫公、周章し、魂をさしめ給ふ。
[やぶちゃん補注:「墎内」は「廓内」と同義で、御所内のこと。]
   *
〇原文(元暦元(一一八五)年四月小)
廿六日甲午。堀藤次親家郎從藤内光澄皈參。於入間河原。誅志水冠者之由申之。此事雖爲密議。姫公已令漏聞之給。愁歎之餘令斷漿水給。可謂理運。御臺所又依察彼御心中。御哀傷殊太。然間殿中男女多以含歎色云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿六日甲午。堀藤次親家が郎從の藤内光澄、皈參へんさんす。入間河原いるまがはらに於いて、志水冠者を誅するの由、之を申す。此の事密たりと雖も、姫公、已に之を漏れ聞かしめ給ひ、愁歎の餘りに漿水しやうすいを斷たしめ給ふ。理運と謂ひつべし。御臺所、又、彼の御心中を察するに依りて、哀傷、殊に太だし。然る間、殿中の男女、多く以て歎色を含むと云々。
[やぶちゃん補注:「皈參」は「返參」で帰参と同義。「入間河原に於いて」入間川八丁の渡し付近。現在の狭山市入間川三丁目には、後に政子が建てたとされる義高を祀る清水八幡宮が残る(「狭山市」公式HPの「清水八幡宮」)。]
   *
[やぶちゃん補注:この間、五月一日の条に甲斐・信濃にあった清水冠者義高の残党征伐進発の下命の記事、同二日の条には『依志水冠者誅戮事。諸國御家人馳參。凡成群云々』とある。]
   *
〇原文(元暦元(一一八五)年六月小)
廿七日甲申。堀藤次親家郎從被梟首。是依御臺所御憤也。去四月之比。爲御使討志水冠者之故也。其事已後。姫公御哀傷之餘。已沈病床給。追日憔悴。諸人莫不驚騷。依志水誅戮事。有此御病。偏起於彼男之不儀。縱雖奉仰。内々不啓子細於姫公御方哉之由。御臺所強憤申給之間。武衞不能遁逃。還以被處斬罪云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日甲申。堀藤次親家が郎從、梟首けうしゆせらる。是れ、御臺所の御憤りに依てなり。去ぬる四月の比、御使として志水冠者を討つの故也なり。其の事已後、姫公、御哀傷の餘り、已に病床に沈み給ひ、日を追ひて憔悴す。諸人驚き騷がざる莫し。志水誅戮の事に依りて、此の御病ひ有り。偏へに彼の男の不儀より起る。たとひ仰せをうけたまはると雖も、内々に子細を姫公の御方にまうさざるやの由、御臺所、強ちに憤り申し給ふの間、武衞遁逃する能はず、還つて以て斬罪に處せらると云々。
[やぶちゃん補注:「内々に子細を姫公の御方に啓さざるや」は頭に「何故」などが省略されていよう。逆に破格が政子の憤激を伝える。]

「朝敵の名に懸り」この「懸り」は、私には仕組まれた謀事はかりごとに陥る、はまるの意で採りたい。
眤近ぢつきん」底本ルビは「ぢつちん」であるが、誤植と判断した。
「海野小太郎幸氏」海野幸氏うんのゆきうじ(承安二(一一七二)年~?)。別名、小太郎。没年は不詳であるが、彼が頼朝から第四代将軍頼経まで仕えた御家人であることは確かである。弓の名手として当時の天下八名手の一人とされ、また武田信光・小笠原長清・望月重隆と並ぶ「弓馬四天王」の一人に数えられた。参照したウィキの「海野幸氏」によれば、『木曾義仲に父や兄らと共に参陣』、寿永二(一一八三)年に『義仲が源頼朝との和睦の印として、嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、同族の望月重隆らと共に随行』そのまま鎌倉に留まった。ところが元暦元(一一八四)年に『木曾義仲が滅亡、その過程で義仲に従っていた父と兄・幸広も戦死を遂げ』た。幸氏は『義高が死罪が免れないと察し』、鎌倉を脱出させるに際して『同年であり、終始側近として仕えていた』彼が『身代わりとなって義高を逃が』した。『結局、義高は討手に捕えられて殺されてしまったが、幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた』という変則的な登用である。
「宿直」宿直衣とのいぎぬ宿直装束とのいそうぞくのこと。宿直とのいの際に着用する直衣のうし
「日闌る」日がすっかり昇る。
あへなくも」あっけなくも。また、「死ぬ」「死別する」の忌み言葉である「あへなくす」の意も効かしていよう。
「漿水」濃漿こんずとも。流動食の重湯おもゆのこと。
「理に伏して」大姫がかくなるも、仕方なく、もっともなること、と思い。
「楚忽」粗忽。]



      ○義經の妾白拍子靜
北條四郎時政上洛して、平氏の一類所々にかくれゐたるを搜出さがしいだし、或は生捕いけどり、或は押寄せて、討取りければ、平氏の餘黨は一夜の宿をも假す人なく、影を隱すべきすみかもなし。小松三位維盛の子息六代は遍照寺へんぜうじの奧にして尋ね出しけるを、高雄の文覺上人、使僧を關東に下してまうし預り、出家せしめ給ひぬ。伊豫守義經のおもひものしづか女といふ白拍子は、義經歿落して、吉野山に捨てられしを、吉野の執行しゆぎやう、是を藏王堂の邊にして捕へたり。都にのぼせて北條におくり渡す。關東に下すべき由、おほせに依て鎌倉につかはす。その母磯禪師いそのぜんじも伴うて下りしに、筑後〔の〕權〔の〕守俊兼、民部丞盛時を以て、義經の事を尋ねとはるゝに、靜が申す所、分明ならず。「伊豫守殿は何がしとかや、名も忘れて候、吉野山の僧坊に立入り給へば、大衆起りて討奉らんと計ると聞きて、山臥やまぶしの姿に成て、大峯に入る由にて、靜をば、一の鳥居のあたりに棄てて、山深く入り給ふ。女は峯に入る事、結界の故に泣々京都の方へ向ふ所に、雜色ざつしきの男、衣裳財寶を取てにげ失せしかば、道に迷うて捕へられ候。是より外には義經の御行方は知らず」と申す。まづ鎌倉に留めて、安達〔の〕新三郎に預けらる。賴朝卿御臺所、鶴ヶ岡にまゐらせらる。御臺の仰に、「かの靜と云ふ白拍子は今樣の上手にて舞の曲は世にならびなしと聞く。このついでに𢌞廊に召出し、舞を見ばや」とありければ、御使を立てらるゝに、別緒べつしようれへに沈みて、病に罹り候由を申す。かさねて使を遣し、ひとへに大菩薩の奉幣ほうべいに擬せられし由、返すがへす召されしかば、力及ばず、しぶりながら、鶴ヶ岡にまゐりて、𢌞廊に舞臺を構へ、工藤左衞門尉祐經はつづみを打ち、畠山次郎重忠は銅拍子びやうしを仕る。白雪はくせつの袖を𢌞めぐらし、黄竹くわうちくの歌をぐ。靜が歌舞の有樣、たぐひなくぞおぼされける。
  吉野山みねの白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ戀しき
  しつやしづしづの苧環をだまき繰返し昔を今になすよしもがな
その聲の美しさ、空に滿ち、雲に通ひ、梁塵、宛然さながら飛ぶかとぞ上下の感興を催しける。賴朝、仰せける樣は、「八幡宮の御寶前にてその藝を施すには、關東の萬歳をこそ祝ふべきに、憚る所なく、義經を慕ふて離別の曲を歌ふ事の奇怪さよ」と有ければ、御臺政子、申させ給ふは、「君、既に流人とし、伊豆におはします時、我に契の淺からざりしを、時宜じぎおそれありとて、北條殿、ひそかひき込められしに、暗き夜の雨にしよくをもとらず、ひとり涙にかき曇り、又石橋のたゝかひに御行方ゆくへを聞かまほしく、よるとなく晝となくたましひを消し、胸を冷し候ひける。今の靜が心の内、誠に往初そのかみに較べて、さこそと思ひ候ぞや。内に動く物思の、外にあらはす風情となる、いとどあはれに覺えたり」とのたまふに、賴朝、いきどほり解け給ふ。卯花重うのはながさね御衣ぎよいを脱ぎて、みすより押出させ給へば、靜は是を賜り。打被うちかづきてぞ入りにける。工藤祐經、梶原景茂かげもち、千葉〔の〕常秀、八田朝重やたのともしげとう判官代邦通、靜が旅宿に行向ひ、酒宴を催して遊びけり。笑語せうご、興に入り、郢曲えいきよく、妙を盡し、靜が母磯禪師も藝を施し、慰めければ、皆、數盃すはいを傾けたり。梶原三郎景茂、ゑひくわして、しどけなく靜に向ひて艶言をつうぜしかば、靜、大に怒りて、涙を流して申しける樣、「伊豫守殿は鎌倉殿の御連枝ごれんし、我は、かのおもひものなり。御家人の身として普通の女性によしやうたはむるゝ如くに存ずる。義經、牢寵らうろうし給はずは、和殿達わどのたちまみゆる事は有るまじ。況や、艶語えんぎよを通ぜられんや。これつけても、あないたはしの伊豫守殿や」とて引被ひきかづふしければ、景茂は面目めんぼくなく、人々皆、興を消して歸られたり。文治二年閏七月二十九日、靜、即ち、男子なんし産生さんしやうす。是、伊豫守殿の御子なり。女子ならば母に給はるべし。男子たる上は將來、其心根こころねはかり難しとて、安達〔の〕新三郎に仰せて、由比浦ゆひのうらに棄てしむ。新三郎、行向ふに、靜、更に之を出ざす。衣にまとひ、抱き臥して、叫喚さけびよばふ、時移りければ、安達もあはれを催しながら、磯禪師をせめしかば、力及ばず、赤子を渡す。御臺政子、あはれがり給ひて、申しなだめらるれども、叶はずして刺殺さしころしてうづまれ、八月十五日、靜はいとま給はりて都に上る。樣々の重寶ちようはう共、御臺、姫君の御方より給はりけり。

[やぶちゃん注:「北條四郎時政上洛」は文治元(一一八五)年十一月二十五日。同日、行家・義経の追補の宣旨が下された。以下に見るように、これは静捕縛の十二日後で、「吾妻鏡」では、その間に、
十八日の条に前日に捕縛された静の供述(後注参照)に基づき、更なる(これより前から捜索は行われていた)吉野の僧徒による義経の山狩りの記事が載り、静については、『靜者。執行頗令憐愍相勞之後。稱可進鎌倉之由云々。』(靜は、執行しぎやう頗る憐愍れんびんせしめ、相ひ勞はるの後、鎌倉へ進ずべしの由を稱すと云々。:静御前の儀は、金峰山寺寺務職が頗る気の毒に思い、労わって休ませた後、取り敢えず、鎌倉へ護送致すに若くはなし、という意見を京へ伝えた、とのこと。)とある。
同二十日の条には、義経・行家が京都を出立して、先の六日に大物の浜から船に乗り込んで出帆せんとした際、暴風に遭って難破したという噂の立っているところに、帰京した八島時清によって、二人は現在も死んでいない、という情報が齎されたとある。同条は続けて、義経とともに九州へ落ちようとしていた平時実(義経に接近した平時忠の子で、父時忠同様、流罪の判決を受けながらも執行が猶予されて未だ京都にいた)の捕縛記事が載る(なお、この時実は文治二(一一八六)年一月に上総国に配流されるが、文治五(一一八九)年には赦免されて帰京し、建暦元(一二一一)年には従三位に叙されている)。
二十二日には、
〇原文
辛丑。豫州凌吉野山深雪。潜向多武峰。是爲祈請大織冠御影云々。到着之所者。南院内藤室。其坊主号十字坊之惡僧也。賞翫豫州云々。
〇やぶちゃんの書き出し文
廿二日辛丑。豫州吉野山の深雪を凌ぎ、ひそか多武峰たふのみねへ向ふ。是れ、大織冠の御影みえいに祈請せんが爲なりと云々。
到着の所は、南院の内、藤室ふぢむろ、其の坊主は十字坊と号するの惡僧なり。豫州を賞翫すと云々。
ともある(「多武峰」は現在の奈良県桜井市南部にある山及びその一帯の地域名。「大織冠」は藤原鎌足で、伝承によれば多武峰には、鎌足長男の僧定恵が父の墓をここに遷したとされている。「藤室」南院藤室という多武峰に林立していた寺の一つらしい。現在の多武峰観光ホテル付近にあったという。「惡僧」は豪勇の僧兵の意。)。
「遍照寺」右京区嵯峨広沢西裏町にある真言宗の寺院。通称、広沢不動尊。
「高雄の文覺上人」この「平家物語」の「六代斬られ」で知られる六代(彼は平清盛の祖父正盛から数えて直系六代目に当たる)平高清捕縛と、文覚による助命嘆願(六代は彼の弟子であった)は「吾妻鏡」の同年十二月一七日の条に、その頼朝による許諾(文覚へ御預け)は同十二月二十四日の条に載る。六代はこの後、文治五(一一八九)年)に剃髪して妙覚と号し、建久五(一一九四)年五月に鎌倉に下向、大江広元を通じて頼朝に異心無く出家した旨を伝え、同六月十五日には頼朝に謁見、「吾妻鏡」の記載からは、その後に関東の一寺の別当職に任ぜられたものかとも思われる。その後も僧として諸国行脚したが、頼朝の死の直後、庇護者であった文覚が三左衞門事件で土御門通親襲撃計画の謀略に連座して隠岐に配流されると、六代も文覚坊の宿所であった京の二条猪熊猪熊にて捕縛され、鎌倉へ護送の上、逗子の田越川畔にて処刑された。享年二十七歳であった。
「伊豫守義經の妾靜女といふ白拍子は義經歿落して、吉野山に捨てられしを、吉野の執行是を藏王堂の邊にして捕へたり」静捕縛の記事は文治元年十一月十七日の記事の現われる。以下に示す(以下、「吾妻鏡」の補注は「・」で示した)。
●主題 アリア 静の捕縛と最初の供述
〇原文
十七日丙申。豫州籠大和國吉野山之由。風聞之間。執行相催惡僧等。日來雖索山林。無其實之處。今夜亥剋。豫州妾靜自當山藤尾坂降到于藏王堂。其躰尤奇恠。衆徒等見咎之。相具向執行坊。具問子細。靜云。吾是九郎大夫判官〔今伊與守〕妾也。自大物濱豫州來此山。五ケ日逗留之處。衆徒蜂起之由依風聞。伊與守者假山臥之姿逐電訖。于時與數多金銀類於我。付雜色男等欲送京。而彼男共取財寳。弃置于深峯雪中之間。如此迷來云々。
〇やぶちゃんの書き下し文(「伊與」を「伊豫」に変えた)
十七日丙申。豫州、大和國吉野山に籠るの由、風聞の間、執行しぎやう、惡僧等を相ひ催して、日來ひごろ山林をもとむと雖も、其の實無きの處、今夜亥の剋、豫州がせふしづか、當山藤尾坂ふじをさかよりくだ藏王堂ざわうだうに到る。其のてい尤も奇恠きかいなり。衆徒等、之れを見咎め、相ひ具し、執行坊に向ひ、具さに子細を問ふ。靜、云はく、「吾は是れ、九郎大夫判官〔今の伊豫守〕が妾也。大物だいもつの濱より豫州、此の山に來たり、五ケ日逗留の處、衆徒蜂起の由、風聞するに依りて、伊豫守は山臥やまぶしの姿を假り、逐電しをはんぬ。時に數多あまたの金銀の類ひを我に與へ、雜色男ざふしきをのこ等を付けて京へ送らんと欲す。而るに彼の男共財寳を取り、深き峯の雪中にて置くの間、此くの如く迷ひ來たる。」と云々。
以下、「吾妻鏡」注。
・「執行」「しゆぎやう(しゅぎょう)」とも読み、寺社で諸務を行う僧の統括責任者。
・「藤尾坂」吉野山中千本にある。
・「藏王堂」中千本にある金峯山寺きんぷせんじ本堂のこと。
・「執行坊」先に執行しぎょうの執務室。現在は蔵王堂の下に在る。
・「大物の濱」現在の兵庫県尼崎市の海浜部の旧地名。古くは猪名いな川の河口港として栄え、義経が平家追討のために船出した地として有名。現在は内陸化してしまった。

「白拍子」平安末から鎌倉にかけて流行した白拍子という歌舞を演じた主に女性(子供)の芸人。今様や朗詠などを歌いつつ、水干・立烏帽子に佩刀という男装にて舞ったことから男舞とも言われた。ウィキの「白拍子」によれば、『古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという』。『このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった』とある。
「都に上せて北條に送渡す」吉野の執行が静を京の北条時政の元へ護送したのは、捕縛から十九日後の十二月八日であったが、その直後に時政によって尋問が行われ、一週間後の十五日に鎌倉にその内容が伝えられた。
●第一変奏 静の北条時政による尋問とその供述
〇原文
十五日甲子。北條殿飛脚自京都參着。被注申洛中子細。謀反人家屋等先點定之。同意惡事之輩。當時露顯分。不逐電之樣廻計略。此上又申師中納言殿畢。次豫州妾出來。相尋之處。豫州出都赴西海之曉。被相伴至大物濱。而船漂倒之間。不遂渡海。伴類皆分散。其夜者宿天王寺。豫州自此逐電。于時約曰。今一兩日於當所可相待。可遣迎者也。但過約日者速可行避云々。相待之處。送馬之間乘之。雖不知何所。經路次。有三ケ日。到吉野山。逗留彼山五ケ日。遂別離。其後更不知行方。吾凌深山雪。希有而著藏王堂之時。執行所虜置也者。申狀如此。何樣可計沙汰乎云々。
若公御平愈云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十五日甲子。北條殿が飛脚、京都より參着す。洛中の子細を注し申さる。謀反人が家屋等、先ず之を點定てんじやうす。惡事に同意の輩、當時露顯の分、逐電せざる樣、計略を廻らし、此の上、又、師中納言殿へ申し畢んぬ。次に豫州が妾、出來す。相尋ぬるの處、
「豫州都を出で西海へ赴くの曉、相ひ伴はれて大物の濱へ至る。而るに船、漂倒へうたうするの間、渡海を遂げず、伴類、皆、分散す。其の夜は天王寺へ宿す。豫州、此れより逐電す。時に約して曰く、『今一兩日、當所に於いて相ひ待つべし。迎への者を遣はすべきなり。但し、約日を過ぎば、速やかに行きるべし。』と云々。相ひ待つの處、馬を送るの間、之に乘り、何所いづくとも知らずと雖も、路次ろしを經ること、三ケ日有りて、吉野山へ到る。彼の山に逗留すること五ケ日にして、遂に別離す。其の後、更に行方を知らず。吾、深山の雪を凌ぎ、希有にして藏王堂に著くの時、執行しぎやうとらへ置く所となり。」 てへれば、申す狀、此くのごとし、何樣いかやうに計ひ沙汰すべきかと云々。
若公、御平愈と云々。
・「點定」土地・家屋・農作物を没収又は差し押さえすること。
・「師中納言」公卿吉田経房(永治二(一一四二)年~正治二(一二〇〇)年)。藤原光房の子。彼は頼朝に高く評価されて初代関東申次(新設の朝廷職で鎌倉幕府方の六波羅探題とともに朝廷・院と幕府の間の連絡・意見調整を行った)の濫觴となったと考えられている。ただ、平氏政権下に於いて極めて順調に出世し乍ら、何故、彼がここに至って同じく順調に新幕派の地位就けたのかは、よく分かっていない。参考にしたウィキの「吉田経房」によれば、経房はその兄と二代に渡って『伊豆守であり、伊豆国の在庁官人であった頼朝の義父・北条時政と交流があったという説がある。また経房と頼朝の関係を見ると、二人ともかつては上西門院の側近で面識があったと考えられ』、その辺に真相がありそうではある。
・「若公」源頼家。十一日に急病を発していた。

「關東に下すべき由仰に依て鎌倉に遣す」前の時政の伝令を受けて、翌文治二(一一八六)年一月廿九日の条に、
●第二変奏 頼朝による静の鎌倉護送指令
〇原文
廿九日戊申。豫州在所于今不聞。而猶有可被推問事。可進靜女之由。被仰北條殿云々。又此事尤可有沙汰由。付經房卿令申給云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿九日戊申。豫州が在所今に聞かず。而うして猶ほ推問せらるべき事有り、靜女をまゐすらべきの由、北條殿に仰せらると云々。
又、此の事尤も沙汰有るべき由、經房卿に付して申さしめ給ふと云々。
とある。最後の部分は、後白河法皇に対する義経探索の徹底要請の謂いである。因みに、実は例の頼朝の後白河法皇に対する、かの有名な驚天動地の評言『仍日本第一大天狗者。更非他者歟。』(仍つて日本第一の大天狗は、更に他者に非ざるか。)は、正に静捕縛の文治元年十一月十七日の前条同月十七日の条の最後に現われている。
以上を受けて時政は、
●第三変奏 時政の静鎌倉護送了解
〇原文
十三日辛酉。當番雜色自京都著。進北條殿状等。靜女相催可送進。(以下略)
〇やぶちゃん書き下し
十三日辛酉。當番の雜色、京都より參着し、北條殿の状等を進ず。靜女を相ひ催し送り進ずべし。
と送っている。この次項の二月十八日には『豫州隱住多武峯事風聞。依之彼師壇鞍馬東光坊阿闍梨。南都周防得業等。有同意之疑。可被召下之云々。』(豫州多武峯に隱れ住む事風聞す。之に依りて彼の師壇鞍馬の東光坊阿闍梨、南都の周防得業すはうとくげふ等、同意の疑ひ有り、之を召下さるべしと云々。)と義経の動向がパラレルに語られ、臨場感を高めている(「東光坊」は鞍馬寺の塔頭で義経の牛若丸時代の学問所と伝えられている。「得業」は名前ではなく仏門で定められた課程を修了した者のこと)。

「その母磯禪師」磯禅師(生没年不詳)は白拍子の租ともされる人物。静御前の母で礒野禅尼とも。以下、ウィキの「磯禅師」によれば、『出身地は大和国磯野(現在の奈良県大和高田市礒野)とも讃岐国小磯(現在の香川県東かがわ市小磯)ともいわれる。自身も白拍子であり、『貴嶺問答』によると京の貴族の屋敷に白拍子の派遣などを行っていた』。鳥羽天皇の御世、藤原信西がすぐれた曲を選んで、磯禅師に白い水干に鞘巻をさし、烏帽子の男装で舞わせたのが白拍子の始まりと「徒然草」にあり、静御前に白拍子を伝えたとする。但し、「徒然草」は磯禅師や静御前が生きた時代から一五〇年も後に書かれたものであるからその信憑性はないに等しい、とある。『奈良県大和高田市礒野は礒野禅尼の里といわれ』、本文に示された総てが終わった後、『静はここに身を寄せたとも伝えられる』とある。
「その母磯禪師も伴うて下りしに……」静磯禅師の鎌倉下向は、先の時政の手紙参着から三十一日後の文治二(一一八六)年三月一日であった。この日は奇しくも諸国惣追捕使・地頭職が補せられた、幕府の地固めのエポック・メーキングな日でもある(以下の前略部分がそれ)。
●第四変奏 静及び母磯禅師鎌倉参着
〇原文
一日己夘。(前略)
今日。豫州妾靜依召自京都參着于鎌倉。北條殿所被送進也。母礒禪師伴之。則爲主計允〔行政〕沙汰。點安逹新三郎宅招入之云々。
〇やぶちゃん書き下し文
今日、豫州が妾靜、召に依りて京都より鎌倉に參着す。北條殿送り進ぜらるる所なり。母の礒禪師、之を伴ふ。則ち主計允かぞへのじようが沙汰として、安逹新三郎がいへを點じて、之を招き入るると云々。
・「主計允」二階堂行政(生没年不詳)。代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。当時は藤原姓であったが、後に鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂と称した。
・「沙汰」は主担当。
・「安逹新三郎」安達清経(生没年未詳)。安達景盛の子、安達盛長の孫に当たる。当時は雑色の頭領であったが、義経と不和になった頼朝の命によって、以前から京都で義経の監視及び報告の任務を任ぜられた人物でもある。
・「點じて」は、指定して、の意。

「筑後途權守俊兼」藤原俊兼(生没年未詳)。頼朝の右筆。
「民部丞盛時」平盛時(生没年不詳)。同じく頼朝の右筆。彼らは一応、政所上級官僚として庶務に当たったようであるが、実際には頼朝の個人的秘書としての性格が強い。
「義經の事を尋ねとはるゝに、靜が申す所分明ならず……」以下は、同年三月六日の条に基づくが、読んでお分かりの通り、先の京での陳述と大きく異なる点が着目される。静は義経を庇うために、証言をぬらりくらりと二転三転させては、「記憶に御座いません」と、何処かで聴いたような攪乱を謀ろうとしており、ここに静のひたむきな愛だけでなく、彼女の聡明さをも読み取るべきである。
●第五変奏 幕府による静への尋問とその供述
〇原文
六日甲申。召靜女。以俊兼盛時等。被尋問豫州事。先日逗留吉野山之由申之。太以不被信用者。靜申云。非山中。當山僧坊也。而依聞大衆蜂起事。自其所以山臥之姿。稱可入大峯之由入山。件坊主僧送之。我又慕而至一鳥居邊之處。女人不入峯之由。彼僧相叱之間。赴京方之時。在共雜色等取財寳。逐電之後。迷行于藏王堂云々。重被尋坊主僧名。申忘却之由。凡於京都申旨。與今口狀頗依違。任法可召問之旨。被仰出云々。又或入大峯云々。或來多武峯後。逐電之由風聞。彼是間定有虛事歟云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
六日甲申。靜女を召し、俊兼、盛時等を以つて、豫州の事を尋ね問はる。「先日、吉野山に逗留の由、之を申す。太だ以て信用ぜられず。」てへれば、靜、申して云はく、「山中に非ず、當山の僧坊なり。而るに大衆蜂起の事を聞くに依りて、其の所より山臥の姿を以つて、大峯に入るべきの由を稱して入山す。件の坊主の僧、之を送る。我、又、慕ひて一の鳥居の邊に至るの處、女人は入峯にふぶせざるの由、彼の僧、相ひ叱するの間、京の方へ赴くの時、共に在る雜色等、財寳を取りて逐電するの後、藏王堂に迷ひ行く。」と云々。重ねて坊主の僧の名を尋ねらるに、忘却の由を申す。凡そ京都に於て申す旨と今の口狀、頗る依違いゐす。法に任せて召し問ふべきの旨。仰せ出ださると云々。
又、或ひは大峯に入ると云々。或ひは多武峯に來たりて後、逐電の由、風聞す。彼れ是れの間、定めて虛事有るかと云々。
「依違」曖昧な態度をとること。
この記載の後、「吾妻鏡」では同三月二十二日の条に、
●第六変奏 静懐妊の明示
〇原文
廿二日庚子。靜女事。雖被尋問子細。不知豫州在所之由申切畢。當時所懷妊彼子息也。産生之後可被返遣由。有沙汰云々。
〇やぶちゃんの書きし出し文
廿二日庚子。靜女の事、子細を尋ね問はると雖も、豫州の在所を知らざる由、申し切り畢んぬ。當時、彼の子息を懷妊する所なり。産生さんしやうの後、返し遣はさるべきの由、沙汰有りと云々。

『賴朝卿御臺所鶴ヶ岡にまゐらせらる。御臺の仰に、「かの靜と云ふ白拍子は今樣の上手にて舞の曲は世に雙なしと聞く。……』以下は、同年四月八日の条に基づく。
●第七変奏 鶴岡八幡宮寺上宮廻廊に於ける静の舞の一件
〇原文
八日乙夘。二品幷御臺所御參鶴岳宮。以次被召出靜女於廻廊。是依可令施舞曲也。此事去比被仰之處。申病痾之由不參。於身不屑者者。雖不能左右。爲豫州妾。忽出揚焉砌之條。頗耻辱之由。日來内々雖澁申之。彼既天下名仁也。適參向。歸洛在近。不見其藝者無念由。御臺所頻以令勸申給之間被召之。偏可備 大菩薩冥感之旨。被仰云々。近日只有別緒之愁。更無舞曲之業由。臨座猶固辞。然而貴命及再三之間。憖廻白雪之袖。發黄竹之歌。左衞門尉祐經鼓。是生數代勇士之家。雖繼楯戟之塵。歷一﨟上日之職。自携歌吹曲之故也。從此役歟。畠山二郎重忠爲銅拍子。靜先吟出歌云。よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこひしき。次歌別物曲之後。又吟和歌云。しつやしつしつのをたまきくり返し昔を今になすよしもかな。誠是社壇之壯觀。梁塵殆可動。上下皆催興感。二品仰云。於八幡宮寳前。施藝之時。尤可祝關東万歳之處。不憚所聞食。募反逆義經。歌別曲歌。奇恠云々。御臺所被報申云。君爲流人坐豆州給之比。於吾雖有芳契。北條殿怖時宜。潛被引籠之。而猶和順君。迷暗夜。凌深雨。到君之所。亦出石橋戰塲給之時。獨殘留伊豆山。不知君存亡。日夜消魂。論其愁者。如今靜之心。忘豫州多年之好。不戀慕者。非貞女之姿。寄形外之風情。謝動中之露膽。尤可謂幽玄。抂可賞翫給云々。于時休御憤云々。小時押出〔卯花重。〕於簾外。被纏頭之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
八日乙卯。二品にほん幷びに御臺所、鶴岡宮に御參。ついでを以つて靜女を廻廊に召し出さる。是れ、舞曲を施さしむべきに依りてなり。此の事、去ぬる比、仰せらるる處、病痾びやうあの由を申し參らず。身の不屑ふせうに於いては、左右さうに能はずと雖も、豫州の妾として忽ちに掲焉けちえんの砌りに出ずるの条、頗る耻辱の由、日來内々に之を澁り申すと雖も、彼は既に天下の名仁めいじんなり。適々たまたま參向して、歸洛近きに在りて其の藝を見ざるは無念の由、御臺所、頻りに以つて勸め申さしめ給ふの間、之を召さる。偏へに大菩薩の冥感みやうかんに備ふべきの旨、仰せらると云々。
近日、只だ別緒べつしようれひ有り。更に舞曲のなりはひ無きの由、座に臨みて猶ほ固辭す。然れども貴命再三に及ぶの間、なまじひに白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を發す。左衞門尉祐經、つづみうつ。是れ、數代勇士の家に生れ、楯戟じゆんげきの塵を繼ぐと雖も、一﨟上日いちらふじやうじつの職をて、みづか歌吹かすいの曲に携はるの故に、此の役に從ふか。畠山二郎重忠、銅拍子びやうしを爲す。靜、先づ歌を吟じ出だして云はく、
  吉野山峯の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ戀しき
次に別物わかれものの曲を歌ふの後、又、和歌を吟じて云はく、
  しづやしづしづの苧環をだまきくりかへし昔を今になすよしもがな
誠に是れ、社壇の壯觀、梁塵も殆々ほとほと動きつべし。上下皆興感を催す。二品、仰せて云はく、「八幡宮寳前に於いて藝を施すの時、尤も關東の萬歳を祝ふべきの處、聞こしす所を憚らず、反逆の義經を慕ひ、別れの曲を歌ふは奇恠きかいなり。」と云々。
御臺所、こたへ申されて云はく、「君、流人として豆州におはし給ふのころ、吾に於いては芳契有りと雖も、北條殿、時宜を怖れて、潛かに之を引き籠めらる。而れども猶ほ君に和順して、暗夜に迷ひ、深雨を凌ぎ、君が所に到る。亦、石橋の戰場に出で給ふの時、獨り伊豆山に殘り留まりて、君の存亡を知らず、日夜、魂を消す。其の愁ひを論ずれば、今の靜が心のごとし。豫州多年のよしみを忘れ、戀ひ慕はずんば、貞女の姿に非ず。外にあらはるるの風情に寄せ、中に動くの露膽ろたんを謝す。尤も幽玄と謂ひつべし、げて賞翫し給ふべし。」と云々。
時に御憤りむと云々。
小時しばらくあつて御衣おんぞ卯花重うのはながさね。〕を簾外に押し出だし、之を纒頭てんとうせらると云々。
・「二品」官位の二位の異称、吾妻鏡では右大将家とともに頼朝のことを指す。頼朝は文治五(一一八九)年一月五日に四十三歳で正二位に昇叙している。
・「身の不屑に於いては、左右に能はず」「不屑」は不肖で不幸の意、自身が囚われの身となっていることを言う。「左右に能はず」捕縛者である頼朝の命に服さないということなど出来ようはずもないところであるが、の意。
・「豫州の妾として忽ちに掲焉の砌りに出ずるの条」「掲焉」は「けつえん」とも読み、目立つさま、著しいさま。『義経のたかが愛人として、あからさまに会衆の面前に晒され出でるということは』の意。
・「偏へに大菩薩の冥感に備ふべきの旨」頼朝(若しくは政子)が、『これはもう屹度、神仏ながらも八幡台菩薩さえそなたの妙技に感じ給うに違いない』と静を引きだすためにヨイショしているのである。いや、懼れ多い神仏の名を出して、最早、彼女に拒絶出来ないようにする目的もあろう。巫女の系譜を引く白拍子ならばこそ、また猶更に出坐の拒否は出来なくなったとも言えようか。
・「近日、只だ別緒の愁ひ有り。更に舞曲の業無き」「別緒」は情緒・感情の意で、悲嘆限りなき感懐にうちひしがれて、の意。懐妊の悦びも束の間、咎人となった義経、その別離を言う。「更に舞曲の業無き」とは、『それ故に、とても生業なりわいの舞いや歌なんどはとてものことに、つこうまつること、これ出来申さず』と言うのである。
・「憖ひに」自分の意志に反して無理に行うことを言う。
・「黄竹の歌」は呉歌西曲ごかせいきょく(六朝時代に長江流域で流行した歌謡で、「楽府詩集」の清商曲辞に属するものが大多数で,五言四句を基本形式とし、主題は殆んどが恋歌)の一種と思われる。
・「左衞門尉祐經」工藤祐経(?~建久四(一一九三)年)。頼朝の寵臣。曽我兄弟に父河津祐泰の仇として討たれる彼である。
・「一﨟」六位蔵人の首席。極﨟ごくろう。工藤は当初、平重盛に仕えて宮中での実務も豊富な上(頼朝の寵愛はそこにもあった)、歌舞音曲にも通じて「工藤一臈」とも呼ばれた。特に鼓は彼の得意中の得意であった。
・「上日」「じょうにち」とも読み、本来は古代の官人が宮中へ出勤した日、また、その日に出勤することを指した。ここではかつて朝廷へ蔵人として勤務していたことを指している。
・「銅拍子」禅宗で法会に用いる銅製のシンバル。
・「吉野山峯の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ戀しき」は、「古今和歌集」の第三二七番歌壬生忠岑の、
 み吉野の山の白雪踏み分けて入りしにし人のおとづれもせぬ
の本歌取りで、消息文さえ寄越さぬ遁世者を雪山に消えた義経に代えている。
・「別物の曲」別離を主題とした今様の舞。
・「しづやしづしづの苧環かへし昔を今になすよしもがな」「伊勢物語」第三十二段の、
 いにしへのしづのをだまきくりかへしむかしを今になすよしもがな
の本歌取りである。「しづ」は「倭文」という字を宛てる日本古来の織物の糸で、梶や麻などのよこいとを青や赤などに染めたものを用いたこれで織ることで、乱れ模様を織り出した。「苧環をだまき」は、その「倭文しづ」を織るための績麻うみを(紡いだ麻糸。細く裂いて糸としてった麻糸。「うみそ」とも言う)を内側を空洞にして丸く巻いた巻子へそのこと(現在の毛糸の巻いたものをイメージしてよい)。ここでは「しづ」という名をその色鮮やかな色の「倭文しづ」に掛け、更には彼女の白拍子、「おもひもの」としての愛人身分の「しづ」をも響かせている。
「梁塵宛然さながら飛ぶかとぞ」「梁塵を動かす」か歌声の優れている譬え。昔、魯の虞公という声のよい人が歌を歌うと、はりの上の塵までもうきうきとして動いたという「劉向りゅうきょう別録」に載る故事に基づく。
「和順」(人を信じ)心穏やかに従うこと。
・「外に形はるるの風情に寄せ、中に動くの露膽を謝す」政子は『――見せて呉れた舞と、その立ち姿の――外へと十二分に放たれた、その美しき風情――これ、謂いようもない上に――その心の内に動いた――その静の素直にして一途な思いにも――わたくしは「ありがとう」と言うてやりとう存じます』と述べているのである。この政子の台詞は殊の外――恐らくはこの静の舞と歌声と響き合うほどに――至高の誠意と美しさで輝いている。……私は政子が大好きである。……
・「幽玄」奥深く計り知れぬほどに美しいこと。
・「卯の花重」重ねの色目で、夏の初めの装束。かなり後になるが、永正三(一五〇六)年に書かれた「女官飾鈔」には小袿が葡萄〔表・蘇芳/裏・はなだ〕表着が紅〔表・紅/裏・紅〕とある。
・「纒頭」祝儀として貰った衣服を頭に纏ったところから、歌舞・演芸などをなした者に褒美として衣服・金銭などを与えること、また、そのものを言う。

「奉幣」神に幣帛へいはく(榊の枝に掛けて、神前にささげる麻やこうぞで織った布。のちには絹や紙も用いた)を捧げ祀ること。
「白雪」白雪曲。春秋戦国時代に遡る琴の名曲。
「工藤祐經、梶原景茂、千葉常秀、八田朝重、藤判官代邦通等靜が旅宿に行向ひ、酒宴を催して遊びけり。……」このシーンは鶴岡の舞の一件から凡そ一月後の「吾妻鏡」文治五年五月十四日の条に基づく。
●第八変奏 静、梶原景孳茂の酔狂を咎む
〇原文
十四日辛夘。左衞尉祐經。梶原三郎景茂。千葉平次常秀。八田太郎朝重。藤判官代邦通等。面々相具下若等。向靜旅宿。玩酒催宴。郢曲盡妙。靜母磯禪師又施藝云々。景茂傾數盃。聊一醉。此間通艶言於靜。靜頗落涙云。豫州者鎌倉殿御連枝。吾者彼妾也。爲御家人身。爭存普通男女哉。豫州不牢籠者。對面于和主。猶不可有事也。况於今儀哉云々。(後略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十四日辛夘。左衞門尉祐經、梶原三郎景茂、千葉平次常秀、八田太郎朝重、藤判官代邦通等、面々に下若かじやく等を相ひ具し、靜が旅宿に向ふ。酒をもてあそび宴を催す。郢曲えいきよく妙を盡す。靜の母磯禪師、又、藝を施すと云々。
景茂、數盃を傾け、聊か一醉す。此の間、艶言を靜に通ず。靜、頗る落涙して云はく、「豫州は鎌倉殿が御連枝、吾は彼の妾なり。御家人の身として、いかでか普通の男女と存ぜんや。豫州、牢籠せずんば、和主わぬし對面たいめすること、猶ほ有るべからざるなり。况や今の儀に於いてをや。」と云々。
「梶原三郎景茂」(仁安二(一一六七)年~正治二(一二〇〇)年)は梶原景時三男。源平合戦及び後の奥州合戦でも戦功を挙げて建久元(一一九〇)年には左兵衞尉に任ぜられたが、正治元(一一九九)年の御家人六十六名による梶原景時糾弾の連判状によって父とともに鎌倉を追われ、後、父に従って京へと登る途中、駿河国にて在地武士団の襲撃を受けて討死にした。参考にしたウィキの「梶原景茂」によれば、彼の『子孫は、子の景永が陸奥国の早馬神社に下向し(既に景時の兄景實が開いていた)、室町時代には近畿、さらに阿波国、讃岐国へと広がり、一部は尾張国に住み、織田信長の家臣となった』とある。
「千葉平次常秀」(生没年不詳)千葉常胤の孫。上総千葉氏の祖。源平合戦及び後の奥州合戦でも祖父常胤とともに戦って戦功を挙げ、建久元(一一九〇)年の頼朝上洛に従った際、祖父に譲られて左兵衞尉に任ぜられている。
「八田太郎知重」(長寛二(一一六四)年~安貞二(一二二八)年)頼朝古参の重臣八田知家嫡男であるが、承久の乱以後の行跡は不明。
「大和判官代藤原邦道」「吾妻鏡」には多数登場するが詳細不詳。
・「郢曲」は平安から鎌倉にかけての日本の宮廷音楽の内で「歌いもの」に属するものの総称。語源は春秋戦国時代の楚の首都郢で歌唱されたという卑俗な歌謡に由来する。参照したウィキの「郢曲」によれば、『平安時代初期には朗詠、催馬楽、神楽歌、風俗歌など宮廷歌謡の総称であったが、平安時代中期には今様(今様歌)を含むようになり、平安末期からは神歌(かみうた)、足柄、片下(かたおろし)、古柳(こやなぎ)、沙羅林(さらのはやし)などの雑芸をも包含し、歌謡一般を指す広い意味のことばとなった』とし、『鎌倉時代に、前代の今様を受けて鎌倉を中心とする東国の武士たちに愛唱されたのが、早歌と呼ばれる長編歌謡で』、これは「源氏物語」「和漢朗詠集」といった本邦の文芸作品や仏典・漢籍を出典とする七五調を基本とする歌謡で、本話柄よりも遙かにあとではあるが、永仁四(一二九六)以年前成立の歌謡集「宴曲集」は歌謡作者明空の編纂による。現在の研究でも早歌は「郢曲」の範疇に含めることがあり、あるいは、公家の郢曲にかわる「武家の郢曲」ともいうべき性格を有する歌謡であったとも考えられている。『その詞章には、武家ならでは思考法や美意識の反映がみられ、後代の曲舞や能楽の成り立ちにも多大な影響をあたえることとなったといわれている』とあって、このシークエンスを想像する際、非常に参考になる。
・「御連枝」貴人の兄弟姉妹。
・「今の儀」景茂が静を口説いたことを指す。
この記載以降の「吾妻鏡」の静―義経関連記事を順に見ると、
同五月二十七日の条には、夜、静が、南御堂に参籠していた大姫の仰せによって参上、芸を奉って禄を受けている。同月十七日に『常に御邪氣の御氣色あ』ってそれを退治するため十四日間の参籠に入っていた。この日は、やや早いのだが、その参籠最後の夜であったと記す。……当時、大姫は数え九歳……義高との悲恋に重いPTSDとなった彼女は、傷心の静と、そこで、何を思い、どのような言葉を交わしたのであろうか?……想像してみたくなるシークエンスではないか。……
同六月七日の条には、義経、伊勢神宮に参詣、その後に大和に姿を現したなどの風聞が書かれ、
同六月十三日の条には、義経の母(常盤御前)・妹の捕縛と鎌倉への護送伺の記事が載る。「玉葉」によれば、この時、常盤は義経が岩倉にいると証言したため捜索が行われたが、すでに逃げた後であったとし、この二人も鎌倉へ送られた形跡はなく、釈放されたものとみられ、これが常盤に関する記録の最後となる(ウィキの「常盤御前」に拠る)。
同六月二十二日の条に、義経、仁和寺・石倉いわくら・比叡山に潜むとの風聞、
それから一月半ほどが経った同閏七月十日の条には、義経を手引きしたとす小舎人童こどねりわらわ五郎丸なる者が捕えられ、尋問の結果、先の六月二十日まで比叡山に隠れていたことが判明、その白状の中で、比叡山僧兵俊章・承意・仲教といった者が義経の味方をしていることが明らかとなった。そこでその事実を天台座主であった全玄及び副官たる慈円に伝達、後白河法皇にも同じ報告を奏聞した旨の記載があり、またこの日、「義経」という名は摂関家兼実の子息三位中将良経と同じ名(音)である故、憚って「義行よしゆき」と呼び名を改める由記載がある。咎人は名前さえ勝手に変えさせられたのであった。
同二十六日の条には、先の五郎丸の白状に基づいて、義経に味方する叡山の僧を差し出すよう、座主全玄に連絡したところ、彼らは既に逃亡したとの答えであったが、にも拘わらず、未だ十一日の段階では延暦寺に潜んで居るかのような噂が絶えず、その旨、後白河法皇へ奏聞、それを受けて十六日に公卿の僉議せんぎがあり、比叡山の全域とその末寺及び荘園の全てに触れを出された。すると、逃亡した僧の共犯者として三人の僧が差し出されので、一時、叡山への軍兵派遣が検討されたが、下手をすれば、それは『法滅の因』ともなるとのことで、取り敢えず沙汰やみとなったとある。なかなかに緊迫のレベルが高いことが分かるが、最後に十七日附で近江・北陸に義経逮捕の院宣が下された旨、文書が引用明示されて、この条は終わっている。

「文治二年閏七月二十九日靜即ち男子を産生す。……」以下に「吾妻鏡」を示す。
●第九変奏 静、男子を出産し、殺害さる
〇原文
閏七月小廿九日庚戌。靜産生男子。是豫州息男也。依被待件期。于今所被抑留歸洛也。而其父奉背關東。企謀逆逐電。其子若爲女子者。早可給母。於爲男子者。今雖在襁褓内。爭不怖畏將來哉。未熟時斷命條可宜之由治定。仍今日仰安逹新三郎。令弃由比浦。先之。新三郎御使欲請取彼赤子。靜敢不出之。纏衣抱臥。叫喚及數剋之間。安逹頻譴責。礒禪師殊恐申。押取赤子與御使。此事。御臺所御愁歎。雖被宥申之不叶云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿九日庚戌。靜、男子を産生さんしやうす。是れ、豫州の息男なり。件のを待たるるに依りて、今に歸洛を抑へ留めらるる所なり。而るに、其の父、關東を背き奉り、謀逆を企て、逐電す。其の子、若し女子たらば、早く母に給はるべし。男子たるにおいては、今、襁褓きやうほうの内に在りと雖も、いかでか將來を怖畏ふいせざらんや。未熟の時に命を斷つの條、宜しかるべきの由、治定ぢぢやうす。仍りて今日安逹新三郎に仰せて、由比浦にてしむ。之より先、新三郎御使、彼の赤子を請け取らんと欲す。靜、敢へて之を出ださず。衣に纏ひて抱き臥し、叫喚數剋すうこくに及ぶの間、安逹、頻りに譴責けんせきす。礒禪師、殊に恐れ申し、赤子を押し取り、御使おんしあたふ。此の事、御臺所、御愁歎、之をなだめ申さると雖も叶ずと云々。
・「礒禪師、殊に恐れ申し」は御使清経の権幕へではなく、間接的な頼朝への畏怖表現である。
「八月十五日靜は暇給はりて都に上る。樣々の重寶共御臺、姫君の御方より給はりけり」これは文治二(一一八六)年「九月」十五日の誤り。
●終曲 アリア 静と磯禅師の帰洛
〇原文
十六日己未。靜母子給暇歸洛。御臺所幷姫君依憐愍御。多賜重寳。是爲被尋問豫州在所。被召下畢。而別離以後事者。不知之由申之。則雖可被返遣。産生之程所逗留也。
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日己未。靜母子、暇を給はりて歸洛す。御臺所幷びに姫君、憐愍れんみんたまふに依りて、多く重寳を賜はる。是れ、豫州の在所を尋ね問はれんが爲に召し下され畢んぬ。而るに別離以後の事は、知らざるの由、之を申す。則ち、返し遣はさるべしと雖も、産生の程、逗留する所なり。
ここに最後に大姫が登場していることを見逃してはならない。大姫は確かに静の一片の氷心――確かな女の真心――を……つらまえていたのである。……静は――去ってゆく――]



      〇西行法師談話
八月十五日、賴朝卿、鶴ヶ岡に參詣し給ふ。御下向の道に於て一人の老僧鳥居のほとりに徘徊す。梶原景季を以て名字を問はしめ給ふに、「佐藤兵衞憲淸のりきよ法師なり。今は西行と名付なづくる者なり」と答へたり。賴朝、大に喜びたまひ、奉幣ほうべいの後、心靜に對面を遂げらるべしとて、西行、殿中に招請し、還御の後、御芳談に及ぶ。其間に歌道竝に弓馬の事に就て尋ね仰せらるゝに、西行上人申されけるは、「在俗の往初そのかみ、なまじひに家風を傳ふといへども、保延三年八月遁世の時、藤原秀郷朝臣より以來九代嫡家相承ちやくけさうじよう兵法ひやうはふの書は、悉く燒失す、思へば是、罪業ざいごふたねなるを以て、その事、今は露計つゆばかりも心の底に残し候らはず、皆忘て候。詠歌は是、花月に對して心を感ぜしめ候折節は、僅に文字の數を連ぬる計にて、更に奥旨あうしを知るりたる事もなければ、又、報じ申すべくも候らはず。されども恩問おんもん等閑なほざりならねば、弓馬の事、粗々あらあら申さん」とて、終夜語明よもすがらかたりあかして退出しけり。頻りに留め給へども、今はとてかゝはらず。賴朝、白銀しろがねにて作りし猫を送られしに、西行上人、賜りて、門外に遊び居たる子兒せうにに與へて過ぎ行けり。是は俊乘坊重源上人にやくをうけ、東大寺勸進の爲、奥州秀衡は一族なれば、陸奥に赴くたよりに鶴ヶ岡に順禮すと聞えたり。

[やぶちゃん注:「同年」文治二(一一八六)年。以上は「吾妻鏡」に拠る。八月十五・十六日両日の条を以下に示す。
〇原文
十五日己丑。二品御參詣鶴岡宮。而老僧一人徘徊鳥居邊。恠之。以景季令問名字給之處。佐藤兵衞尉憲淸法師也。今号西行云々。仍奉幣以後。心靜遂謁見。可談和歌事之由被仰遣。西行令申承之由。廻宮寺奉法施。二品爲召彼人。早速還御。則招引營中。及御芳談。此間。就哥道幷弓馬事。條々有被尋仰事。西行申云。弓馬事者。在俗之當初。憖雖傳家風。保延三年八月遁世之時。秀郷朝臣以來九代嫡家相承兵法燒失。依爲罪業因。其事曾以不殘留心底。皆忘却了。詠哥者。對花月動感之折節。僅作卅一字許也。全不知奥旨。然者。是彼無所欲報申云々。然而恩問不等閑之間。於弓馬事者。具以申之。即令俊兼記置其詞給。縡被專終夜云々。

十六日庚寅。午剋。西行上人退出。頻雖抑留。敢不拘之。二品以銀作猫。被宛贈物。上人乍拝領之。於門外與放遊嬰兒云々。是請重源上人約諾。東大寺料爲勸進沙金。赴奥州。以此便路。巡礼鶴岡云々。陸奥守秀衡入道者。上人一族也。

〇やぶちゃん書き下し文
十五日己丑。二品、鶴岡宮に御参詣。而して老僧一人、鳥居邊に徘徊す。之をあやしみ、景季を以て名字を問はしめ給ふの處、佐藤兵衞尉憲淸法師なり。今は西行と號すと云々。
仍て奉幣ほうへい以後、心靜かに謁見を遂げ、和歌の事を談ずるべきの由、仰せ遣はさる。西行、承るの由を申さしめ、宮寺を廻り、法施はふせ奉る。二品、彼の人を召さんが爲に、早速、還御す。則ち營中に招引し、御芳談に及ぶ。此の間、歌道幷びに弓馬の事に就き、條々尋ね仰せらるる事有り。西行、申して云はく、「弓馬の事は、在俗の當初そのかみなまじひに家風を傳ふと雖も、保延三年八月遁世の時、秀郷朝臣以來九代嫡家相承の兵法を焼失す。罪業の因たるに依りて、其の事、かつて以て心底に殘し留めず、皆、忘却し了んぬ。詠歌は、花月に對し、動感の折節、僅かに卅一字みそひともじを作る許りなり。全く奥旨を知らず。然れば、是れ彼れ、報じ申さんと欲する所無し。」と云々。
然れども、恩問、等閑なほざりならざるの間、弓馬の事に於いては、具さに以て之を申す。
即ち、俊兼をして其の詞を記し置かしめ給ふ。こと終夜を専らにせらると云々。

十六日庚寅。午剋、西行上人退出す。頻りに抑へ留むと雖も、敢て之に拘はらず。二品、銀作しろかねつくりの猫を以て贈物に宛てらる。上人、之を拝領し乍ら、門外に於て放遊の嬰兒に與ふと云々。
是れ、重源ちやうげん上人の約諾やくだくを請け、東大寺料に沙金しやきんを勸進のせんが爲に、奥州へ赴く。此の便路を以て、鶴岡へ巡礼すと云々。
陸奥守秀衡入道は、上人の一族なり。
西行(元永元(一一一八)年~文治六(一一九〇)年)は当時、満六十八歳、頼朝三十九歳であった。「宮寺を廻り、法施奉る」は西行の行動。
・「保延三年八月遁世の時」西暦一一三七年。このクレジットで鳥羽院の北面武士としての記録が残り、現在の知見では、西行の出家は保延六(一一四〇)年十月十五日のこととする。
・「秀郷」弓の名手として知られた将門討伐の猛将鎮守府将軍藤原秀郷。西行、俗名佐藤義清は藤原秀郷の流れを汲む佐藤氏の嫡子として生まれ、秀郷から数えて九世の孫に当たる。
・「憖ひに」ここでは、(祖秀郷の弓術の直伝を)中途半端に、の謙遜。
・「恩問」他者の訪問や書状を敬いって感謝の意をこめていう語。誠意を込めた(頼朝公の)お訊ね。
・「俊乘坊重源上人」(ちょうげん 保安二(一一二一)年~建永元(一二〇六)年)。紀季重の子。長承二(一一三三)年、真言宗の醍醐寺で出家、南宋を三度訪れたともされる(彼自身の虚説とも)。後に法然に学び、四国・熊野など各地で修行をして勧進念仏を広め、勧進聖の祖となった。東大寺大勧進職として治承四(一一八〇)年十二月の平家攻略により焼失した東大寺の再建復興を果たした。
「是は俊乘坊重源上人に約をうけ、東大寺勸進の爲奥州秀衡は一族なれば、陸奥に赴くたよりに鶴ヶ岡に順禮すと聞えたり」という附言は意味深長である。まず、前日の冒頭で「老僧一人、鳥居邊に徘徊す」とあるが、これは明らかな意識的な行動に見えてくるということだ。「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条では、西行はこの日が放生会であることを知っており、実は彼の頼朝謁見は計画的な行動であったのであり、『頼朝との面会の意図は、東大寺勧進物の安全な輸送を取り付けるためだと思われる』と注されておられる(因みにここで梶原景季を不審僧の確認に遣わしたことについても彼の父『梶原平三景時共々徳大寺の被官をやっていた。西行も同じなので、知り合いらしい』とある)。穿って考えるならば、義経を庇護している疑いが濃厚な秀衡の、義経隠匿の状況や秀衡自身及びその周辺事情の探索を頼朝が暗に西行に依頼したという可能性もないとは言えまい。]



      ○伊豫守義經自殺
伊豫守義經、備前守行家は賴朝卿に背き奉りて自立じりふの志あるを以て、その行方を尋搜たづねさぐり討取るべきの由、仰せ觸れらる。是に依て、諸方に忍び給へども、足を留むる所なし。行家は和泉國小木郷おぎのがうの民家に入て、二階の上にかくれゐたるを、常陸房昌明ひたちぼうしやうめい、聞付けて討取りぬ。義經の家人堀彌太郎景光は糟屋藤太に京都にして生捕いけどられ、佐藤忠信は中御門東洞院にして誅せらる。其外一族餘黨悉く伏誅ふくちうす。義經は妻子を相倶し、山臥の姿に成りて、伊勢美濃を經て、奥州に下られしを、秀衡、かしづき奉り、衣川のたちにいれまゐらせ、しばらく安堵のおもひのべられしに、文治三年十月二十九日、秀衡、逝去せられたり。日比、重病に罹りしかば、子息泰衡以下を召して遺言しけるは、「伊豫守殿を大將軍とし國務を勤め侍らば、陸奥出羽の兩國、永代をたもつべし」となり。然るを賴朝卿、宣旨を以つて、「義經を討ちて奉るべし」と使節、度々に及びしかば、泰衡、たちまちに心を變じ、家人郎從數百騎を遣し、衣川の館を攻ければ、郎從共は戦うて討死し、義經、叶はずして、妻子を殺して自害せらる。年三三歳なり。新田冠者高平たかひらを使として、義經の首級を鎌倉にぞ送りける。泰衡が弟泉三郎忠衡は義經に同意したりとて、人数を遣して攻討せめうちけり。

[やぶちゃん注:「和泉国近木郷」「近木」は「こぎ」と読む。近木荘こぎのしょう。現在の大阪府の南西端の旧日根郡内にあった荘園。頼朝叔父行家は、この神前清実かむさききよざねの屋敷に潜伏していたがは元暦二(一一八四)年五月、地元民の密告によって露顕、北条時定の手兵によって捕らえられて斬首された。
「常陸房昌明」(生没年未詳)は「しょうみょう」とも読む。当初は延暦寺の僧であったが武芸に優れ、平家滅亡後は北条時政に従い、京都警備に当たった。ここにある源行家追討、奥州藤原攻め、承久の乱で活躍、法橋ほっきょうを称し、承久三(一二二一)但馬守護に任ぜられた。常陸房は通称。
「堀彌太郎景光」(?~文治二(一一八六)年)出自不明。「平治物語」では『金商人』とあることから、金売り吉次の後身とも伝えられる。当初、義経都落ちに同行したが、後に別れて京都潜伏中に文治二(一一八六)年九月二十日に捕縛され、義経が南都興福寺の聖弘得業に匿われている(前出)こと、義経の使者として後白河法皇の近臣藤原範季と連絡をちっていたを白状している。その後に斬首されたとも言われるが定かではない。
「糟屋藤太」糟屋有季(?~建仁三(一二〇三)年)。相模国大住郡糟屋荘(現在の伊勢原市一帯)荘司糟屋盛久の子。妻は比企能員の娘。石橋山の戦いでは大庭景親に従っていたが、その後、頼朝に臣従したと見られ、寿永二(一一八三)年には源義経率いる源義仲討伐軍に属して、宇治川の戦いに加わっている。文治二(一一八六)年、失脚して都落ちした義経探索のため、比企朝宗の手勢に属して上洛、義経の郎党佐藤忠信・堀景光を捕縛した。奥州合戦に従軍、頼朝死後の正治二(一二〇〇)年に起った梶原景時の変では景時討伐軍に属して賞を受けている。建仁三(一二〇三)年九月二日に比企能員の変が勃発、能員の娘婿であった有季は比企一族とともに北条義時軍と戦って討死にした。参照したウィキの「糟屋有季」によれば、この時、『有季が頼家の子一幡を逃がすべく小御所に立て籠もり、敵方に命を惜しまれて逃げるように呼びかけれられたが答えず、最後まで奮戦して討ち死にした様子が』「愚管抄」に記されている、とある。
「佐藤忠信」(応保元(一一六一)年?~文治二(一一八六)年)は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治(藤原忠継とも)を父とする。以下、ウィキの「佐藤忠信」によれば、治承四(一一八〇)年、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により兄継信と共に義経に随行、義経の郎党として平家追討軍に加わった(兄継信は屋島の戦いで討死)。元暦二(一一八五)年の壇ノ浦の戦いの後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、この忠信も共に兵衞尉に任官しており、頼朝から「秀衡の郎党が衞府に任ぜられるなど過去に例が無い。身の程を知ったらよかろう。その気になっているのは猫(狢・狸とも)にも落ちる。」と罵られたとする。文治元(一一八五)年十月十七日、『義経と頼朝が対立し、京都の義経の屋敷に頼朝からの刺客である土佐坊昌俊が差し向けられ、義経は屋敷に残った僅かな郎党の中で忠信を伴い、自ら門を飛び出して来て応戦している』。同年十一月三日、『都を落ちる義経に同行するが、九州へ向かう船が難破し一行は離散。忠信は宇治の辺りで義経と別れ、都に潜伏』、文治二(一一八六)年九月二十二日、『人妻であるかつての恋人に手紙を送った事から、その夫によって鎌倉から派遣されていた御家人の糟屋有季に居所を密告され、潜伏していた中御門東洞院を襲撃される。精兵であった忠信は奮戦するも、多勢に無勢で郎党』二人と共に自害して果てた。室町初期に書かれた「義経記」では『忠信は、義経の囮となって吉野から一人都に戻って奮戦し、壮絶な自害をする主要人物の一人となって』おり、この名場面から、後の浄瑠璃や歌舞伎の演目として名高い「義経千本桜」の「狐忠信」こと「源九郎狐」が誕生した。継信・忠信兄弟の妻たちは、息子二人を失い、『嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めんとそれぞれの夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せたという逸話があり、婦女子教育の教材として昭和初期までの国定教科書に掲載された』とある。
かしづき」本字を「かしづく」と読む例、不詳。識者の御教授を乞う。
「義經叶はずして、妻子を殺して自害せらる。年三三歳なり」現在の知見では義経の生年は平治元(一一五九)年で高館たかだちでの自害は文治五(一一八九)年閏四月三十日とされるから、享年三十一歳である。
「新田冠者高平を使として、義經の首級を鎌倉にぞ送りける」「新田冠者高平」は藤原泰衡の家臣。「吾妻鏡」の文治五(一一八九)六月十三日の条を見ておこう。
〇原文
十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高平持參豫州首於腰越浦。言上事由。仍爲加實撿。遣和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各著甲直垂。相具甲冑郎從二十騎。件首納黑漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糇。今高平者。令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十三日辛丑。泰衡が使者新田の冠者高平、豫州の首を腰越の浦に持參し、事の由を言上す。仍りて實撿じつけんを加へんが爲、和田太郎義盛、梶原平三景時等を彼の所へ遣はす。各々、甲直垂よろひひたたれを著し、甲冑の郎從二十騎を相ひ具す。件の首は黑漆こくしつひつれ、美酒に浸し、高平が僕從二人が之を荷擔かたんす。昔、蘇公は、自ら其のかてになふ。今、高平は、人をしての首をになはしむ。る者、皆雙、涙を拭ひ、兩衫りやうさんうるほすと云々。
・「蘇公」「蘇」は夏・殷の頃、現在の河南省済源県の西南にあった(春秋時代にてきに滅ぼされた)国の名であるが、「自ら其の糇を擔ふ」(「糇」は「糧」に同じ)の出典は不明。識者の御教授を乞うものである。
「忠衡」藤原忠衡(仁安二(一一六七)年~文治五(一一八九)年)。藤原秀衡三男、藤原泰衡の異母弟。通称の泉三郎・泉冠者とは、秀衡の館であった柳之御所にほど近い泉屋の東を住まいとしていたことに基づく。忠衡は父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張するが、意見が対立した兄の泰衡によって誅殺された。「吾妻鏡」の文治五年六月二十六日の条には、『廿六日甲寅。奥州有兵革。泰衡誅弟泉三郎忠衡。〔年廿三。〕是同意與州之間。依有宣下旨也云々。』(廿六日甲寅。奥州に兵革ひやうがく有り。泰衡、弟の泉三郎忠衡〔年廿三〕を誅す。是れ、與州に同意するの間、宣下の旨有るに依りてなりと云々。) とあり、そこには「兵革有り」とあることから、忠衡の誅殺には軍事的衝突が伴ったと見られている(以上はウィキの「藤原忠衡」を参考にした)。
「人数を遣して攻討けり」の主語は兄藤原泰衡である。]



      ○賴朝卿奥入 付 泰衡滅亡
[やぶちゃん注:本条はやや長いので、シークエンスごとに私の標題を附けた上で、数パートに分けて注を入れた。従って実際には文章は総て連続している。]
賴朝、仰せけるは、「義經を討てまゐらせしは忠に似たりといへども、兩度の宣旨、賴期が度度どどの使を用ひず、仰せを背きて筵引に及ぶ事、其とがのがれ難し」いきどほり深く思ひて、 京都に奏聞そうもんして宣旨を給はり、人數をぞ催されける。文治五年七月八日、千葉介に仰せて、新造の御旗を奉らせらる。去んぬる治承四年、千葉介、軍勢をそつして、賴朝の御陣にはせまゐりしより、諸國、皆、隨付したがひつきたる、その例に依るべしとなり。往初そのかみ、入道前將軍賴義、勅を蒙りて、安陪貞任あべのさだたふ鳥海宗任とりのうみむねたふを退治の時の御旗の如く、一丈二尺二はばなり。白絲を以て伊勢大神宮、八幡大菩薩と云ふ文字を上に竝べてぬはせられ、下には山鳩二羽、差向ひて縫付けたる。今度、奥州追伐つゐばつの御旗なれば、その佳例かれいをぞ移されたる。同じき十九日、賴朝卿、奥州追伐の首途かどいでし給ふ。千葉介常胤、八田やた右衞門尉知家は東海道の大將として、常陸、下総兩國の勢を率して宇太うた行方なめかたを經て、岩崎より隅田川のみなとにて渡逢わたりあふ。北陸道は上野國高山、小林、大胡おほご左貫さぬきの軍勢を催し、越後國より出羽國に押懸おしかゝり、念種關ねじゆがせきにして寄合よせあふべしと定らる。賴朝卿は大手に向ひ、中路なかみちより攻下せめくだり給ふ。先陣は畠山次郎重忠なり。和田義盛、梶原景時は軍奉行いくさぶぎやうを承る。既に陸奥國伊達郡阿津樫山だてのこほりあつかしやまに著き給ふ。

[やぶちゃん注:〈頼朝奥州追伐進発〉湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は「吾妻鏡」よりも浅井了意作「将軍記」に類似する、とある(「将軍記」なる作品は私は未見)。
「奥入」は「おくいり」と読む。
「京都に奏聞して宣旨を給はり、人數をぞ催されける」泰衡が討ち取った義経の首の到着は同月十三日であるから、わずか十日余りで泰衡の追討を決している。これはどうも最初からそういう計画であったことがしっかり臭ってくる速さである。なお、ここでは恰も迅速に宣旨が出たように読めてしまうが、実際には朝廷側が難色を示した。以下、「吾妻鏡」でその経緯を順に見よう。まず、最初は文治五(一一八九)年六月二十四日の条から。

〇原文
廿四日壬子。奥州泰衡。日來隱容與州科。已軼反逆也。仍爲征之。可令發向給之間。御旗一流可調進之由。被仰常胤。絹者朝政依召献之云々。及晩。右武衞消息到來。奥州追討事。御沙汰之趣。内々被申之。其趣。連々被經沙汰。此事。關東鬱陶雖難默止。義顯已被誅訖。今年造太神宮棟。大佛寺造營。彼是計會。追討之儀。可有猶豫者。其旨已欲被献殿下御教書云々。又御厩司事。就被免仰。申領状訖云々。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
廿四日壬子。奥州の泰衡、日來、與州を隱容するのとが、已に反逆にぐるなり。仍て之を征せんが爲に、發向せしめ給ふべきの間、御旗一流、調進すべきの由、常胤に仰せらる。絹は、朝政、召しに依りて之を献ずと云々。
晩に及びて、右武衞うぶゑいが消息到來す。奥州追討の事、御沙汰の趣、内々に之を申さる。其の趣、連々沙汰を經らる。此の事、關東の鬱陶うつたう、黙止し難しと雖も、義顯よしあき已に誅され訖んぬ。今年は造太神宮の上棟、大佛寺の造營、彼れ是れ、計會けいくわいす。追討の儀、猶ほ豫有るべしてへれば、其の旨、已に殿下、御教書を献ぜられんと欲すと云々。(以下略)
・「調進」新調すること。
・「朝政」頼朝直参の家臣小山朝政おやまともまさ(保元三(一一五八)年?~嘉禎四(一二三八)年)。奥州合戦でも活躍した。小山朝光の兄。
・「右武衞」右兵衞の唐名で、ここでは右兵衞督であった親幕派の公卿一条能保のこと。
・「連々沙汰を經らる」何度も審議をなさった。
・「關東の鬱陶、黙止し難しと雖も」幕府の苛立ち、これは、朝廷としても看過することも出来難きことではあるけれども。
・「義顯」幕府の謀叛人義経の二度目の強制改名の名。当初は「義經の妾白拍子靜」の注で示したように親幕派(但し先の一条能保とは不仲)の関白藤原兼実の息子の「良経」と同訓であるのを憚って「義行」と改めた。ところが、その後、義経の逃亡が長引き、隠れ住む先も定かならざる事態の中で、これは「義行」(よく行く)という呼称が悪いとして「義顕」(よく顕われる)に改名をしていた。
・「造太神宮の上棟」伊勢神宮の式年遷宮のこと。
・「大佛寺」東大寺大仏殿。
・「殿下」藤原兼実。

同年六月二十五日の条。
〇原文
廿五日癸丑。奥州事。猶可被下追討 宣旨之由。重被申京都云々。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
廿五日癸丑。奥州の事、猶ほ追討の宣旨を下さるべきの由、重ねて京都へ申さると云々。

同年六月二十六日の条。
〇原文
廿六日甲寅。奥州有兵革。泰衡誅弟泉三郎忠衡。〔年廿三。〕是同意与州之間。依有宣下旨也云々。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
廿六日甲寅。奥州に兵革ひやうがく有り。泰衡、弟の泉三郎忠衡〔年廿三。〕を誅す。是れ、與州に同意の間、宣下の旨、有るに依りてなりと云々。
既出であるが出す。それでも奥州進発に変化がないのが不審な向きもあるかもしれないが、実は、この事実をこの時点では頼朝はこの事実を知らないのである。現在の「吾妻鏡」の記事はアップ・トゥ・デイトに書かれたものではなく、ずっと後年になって諸資料を基にして編集執筆されたものなのである。

同年六月二十七日の条。
〇原文
廿七日乙夘。此間奥州征伐沙汰之外無他事。此事。依被申宣旨。被催軍士等。群集鎌之輩。已及一千人也。爲義盛。景時奉行。日來注交名。前圖書允爲執筆。今日覽之。而武藏下野兩國者。爲御下向巡路之間。彼住人等者。各致用意。可參會于御進發前途之由。所被觸仰也。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
廿七日乙夘。此の間、奥州征伐の沙汰の外他事無し。此の事、宣旨を申さるるに依りて、軍士等を催さる。鎌倉へ群集ぐんじゆするの輩、已に一千人に及ぶなり。義盛、景時を奉行として、日來、交名けうみやうを注す。前圖書允さきのずしよのじよう執筆たり。今日、之を覽る。而るに武藏・下野兩國は、御下向の巡路たるの間、彼の住人等は、各々用意を致し、御進發の前途に參會すべきの由、觸れ仰せらるる所なり。
・「軍士等を催さる」諸兵徴集のお触れをお出しになられた。
・「日來、交名を注す」日単位で到着した武士より順に名前を届け出させる。
・「前圖書允執筆たり」「前図書允」は不詳「執筆」は書記係。

同年六月二十八日の条。
〇原文
廿八日丙辰。鶴岡放生會。來月朔日可被遂行之旨。有其沙汰。是於式月者。定可有御坐奥州之上。爲泰衡征伐御祈禱。及此儀云々。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
廿八日丙辰。鶴岡の放生會、來月朔日に遂行せらるべきの旨、其の沙汰有り。是れ、式月に於いては、定めし奥州に御坐有るべきの上、泰衡征伐の御祈禱と爲し、此の儀に及ぶと云々。
鶴岡八幡宮寺の放生会は通常は八月十五日に行われた(実際に当日は頼朝は奥州征伐に出陣中で、鶴岡八幡宮では当八月十五日、式日であるので再度、放生会が行われている)。

同年六月二十九日の条。
〇原文
廿九日丁巳。日來御禮敬愛染王像。被送于武藏慈光山。以之爲本尊。可抽奥州征伐御祈禱之由。被仰含別當嚴耀幷衆徒等。當寺者。本自所有御歸依也。去治承三年三月二日。自伊豆國。遣御使盛長。令鑄洪鐘給。則被刻御署名於件鐘面云々。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
廿九日丁巳。日來、御禮敬らいきやうの愛染王像、武藏慈光山に送られ、之を以て本尊と爲し、奥州征伐の御祈禱をぬきんずべきの由、別當嚴耀幷びに衆徒等に仰せ含めらる。當寺は、本より御歸依有る所なり。去ぬる治承三年三月二日、伊豆國より、御使の盛長を遣はし、洪鐘を鑄しめ給ひ、則ち御署名を件の鐘面に刻まると云々。
・「愛染王像」愛染明王像。通常は一面六臂の忿怒相で、頭部には如何なる苦難にも挫折しない強さを象徴する獅子の冠を頂き、叡知を収めた宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座る。弓箭を持っていて身体は真紅、後背に日輪を背負って表現されることが多い。また、天に向かって弓を引いたり、騎馬であったりと、武士にも好まれた。
・「慈光山」埼玉県比企郡都幾川ときがわ西平にしたいらにある天台宗都幾山慈光寺。
・「治承三年」西暦一一七九年。

同年六月三十日の条。
〇原文
卅日戊午。大庭平太景能者。爲武家古老。兵法存故實之間。故以被召出之。被仰合奥州征伐事。曰。此事窺天聽之處。于今無勅許。憖召聚御家人。爲之如何。可計申者。景能不及思案。申云。軍中聞將軍之令。不聞天子之詔云々。已被經奉聞之上者。強不可令待其左右給。隨而泰衡者。受繼累代御家人遺跡者也。雖不被下綸旨。加治罸給。有何事哉。就中。群參軍士費數日之條。還而人之煩也。早可令發向給者。申狀頗有御感。剩賜御厩御馬。〔置鞍。〕小山七郎朝光引立庭上。景能在緣。朝光取差繩端。投景能前。景能乍居請取之。令取郎從。二品入御之後。景能招朝光。賀云。吾老耄之上。保元合戰之時。被疵之後。不行歩進退。今雖拜領御馬。難下庭上之處。被投繩。思其芳志。直千金云々。二品又感朝光所爲給云々。
〇やぶちゃんの書き下し出し文
卅日戊午。大庭平太景能は武家の古老たり。兵法の故實を存ずるの間、ことさらに以て之を召し出だされ、奥州征伐の事を仰せ合せられて曰はく、
「此の事、天聽を窺ふの處、今に勅許無し。なまじひに御家人を召し聚む、之を如何と爲す。計り申すべし。」
てへれば、景能、思案に及ばず、申して云はく、
「軍中、將軍の令を聞き、天子のみことのりを聞かず。」と云々。
「已に奏聞を經らるるの上は、強ちに其の左右さうを待たしめ給ふべからず。隨つて、泰衡は累代御家人の遺跡を受け繼ぐ者なり。綸旨りんしを下されずと雖も治罸ぢばつを加へ給はんは何事か有らんや。就中なかなんづく、群參の軍士數日を費すの條、還つて人の煩ひなり。早く發向せしめ給ふべし。」
てへれば、申し狀、頗る御感あり。あまつさ御厩みうまやの御馬〔鞍を置く。〕を賜はる。小山おやま七郎朝光ともみつ、庭上に引き立つ。景能は緣に在り。朝光、差繩の端を取り、景能の前に投げる。景能、居乍ら、之を請け取り、郎從に取らしむ。二品入御の後、景能、朝光を招き賀して云はく、
「吾れ老耄らうもうの上、保元合戰の時、疵を被るの後、行歩進退せず。今、御馬を拜領すと雖も、庭上に下り難きの處、繩を投げらる。其の芳志を思ふに値千金。」
と云々。
二品、又、朝光が所爲に感じ給ふと云々。
・「大庭平太景能」大庭景義(大治三(一一二八)年)?~承元四(一二一〇)年)。既出で、知られた武将であるが、ここでは主役級であるので解説しておく。景能とも表記。鎌倉権五郎景政の曾孫とされる。以下、ウィキの「大庭景義」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『若くして源義朝に忠誠を誓う。保元元年(一一五六年)の保元の乱においては義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の景親に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した』。『治承四年(一一八〇年)に源頼朝が挙兵すると、弟の景親と袂を分かち頼朝の麾下に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという』(景親は梟首)。『その後も草創期の鎌倉幕府において、長老格として重きをなした。藤原泰衡を征伐する際、頼朝は後白河法皇の院宣を得られず苦慮していた。しかし景義が、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張。その意見が採用された』。『後に景義は出家している。嫡男の大庭景兼が跡を継いだ』が、出家の理由については「吾妻鏡」などに僅かに記述があるのみで、『今日でも謎が多いが、それによれば建久四年(一一九三年)の八月、大庭景義は同じ相模の有力武士の岡崎義実とともに、老齢を理由に出家したことになっている。しかしわずか二年後に景義は「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ、愁鬱のまま三年を過ごして参りました」と書面を奉じ、許されたとある』ことから、『この時期に景義らが何らかの事件により失脚した可能性が高いと想定される』とある。
・「なまじひに」無理矢理に。
・「軍中、將軍の令を聞き、天子の詔を聞かず。」「十八史略」に載る以下の故事に基づく(原文及び書き下し文・語注の一部は個人ブログ「寡黙堂ひとりごと」の「十八史略 覇上・棘門の軍は児戯のみ」を参考にさせて頂いたが、書き下し文の一部に手を加えてある)。
〇原文
六年、匈奴寇上郡雲中。詔將軍周亞夫屯細柳、劉禮次覇上、徐厲次棘門、以備胡。上自勞軍、至覇上及棘門軍、直馳入。大將以下騎送迎。已而之細柳。不得入。先驅曰、天子且至軍門。都尉曰、軍中聞將軍令、不聞天子詔。上乃使使持節、詔將軍亞夫。乃傳言開門。門士請車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。上乃按轡、徐行至營、成禮去。羣臣皆驚。上曰、嗟乎、此眞將軍矣。向者覇上棘門軍兒戲耳。
〇書き下し文
六年、匈奴、上郡・雲中にあだす。みことのりして将軍周亜夫は細柳にとんし、劉禮りゅうれい覇上はじょうに次し、徐厲じょれい棘門きょくもんに次し、以ってに備へしむ。しやう自ら軍を労し、覇上及び棘門の軍に至り、直ちに馳せ入る。大將以下、騎して送迎す。已にして細柳にく。入るを得ず。先驅曰はく、
「天子、且に軍門に至らんとす。」
と。都尉曰はく、
「軍中には將軍の令を聞きて、天子の詔を聞かず。」
と。上、乃ち使ひをして節を持し、將軍亜夫に詔せしむ。乃ち言を伝へて門を開かしむ。門士、車騎に請ふて曰はく、
「將軍約す、軍中は驅馳くちするを得ず。」
と。上、乃ちを按じ、徐行して營に至り、禮を成して去る。群臣、皆、驚く。上、曰く、
「嗟乎、此れ、真の将軍なり。向者さきの覇上・棘門の軍は児戯のみ。」
と。
・「上郡」は陜西省の地名。
・「雲中」は山西省の地名。
・「周亞夫」(?~前一四三年)は周勃の子で、兄の周勝之が人を殺して領国を召し上げられたため、その後を継いで条侯(絳侯)となった。
・「細柳・覇上・棘門」陜西省の地名。長安の近郊。
・「屯・次」何れも留まって守備すること。
・「轡を按じ」くつわを引いて馬を抑えること。
・「治罸」治罰。取り締まり、罰すること。景能は泰衡は家来筋に当たるのであるから、綸旨なしに私罰しても構わない、と言うのである。
・「就中、群參の軍士數日を費すの條、還つて人の煩ひなり」中でも特に、群参しておる兵士らが無為に日を費やすというのは、却って戦意ががれ、殿の支障ともなりまする。

「文治五年七月八日千葉介に仰せて、新造の御旗を奉らせらる」「吾妻鏡」を引く。
〇原文
八日丙寅。千葉介常胤献新調御旗。其長任入道將軍家〔賴義。〕御旗寸法。一丈二尺二幅也。又有白糸縫物。上云。伊勢大神宮八幡大菩薩云々。下縫鳩二羽。〔相對云々。〕是爲奥州追討也。治承四年。常胤相率軍勢。參向之後。諸國奉歸往。依其佳例。今度御旗事。別以被仰之。絹者小山兵衞尉朝政進之。先祖將軍輙亡朝敵之故也。此御旗。以三浦介義澄爲御使。被遣鶴岡別當坊。於宮寺。七ケ日可令加持之由被仰云々。又下河邊庄司行平。依仰調獻御甲。今日自持參之。開櫃盖置御前。相副紺地錦御甲直垂上下。御覽之處。冑後付笠標。仰曰。此簡付袖爲尋常儀歟。如何者。行平申云。是曩祖秀郷朝臣佳例也。其上。兵本意者先登也。進先登之時。敵者以名謁知其仁。吾衆自後見此簡。可必知某先登之由者也。但可令付袖給否。可在御意。調進如此物之時。用家樣者故實也云々。于時蒙御感。
〇やぶちゃんの書き下し文
八日丙寅。千葉介常胤、新調の御旗を献ず。其のたけ、入道將軍家〔頼義〕の御旗の寸法に任せて、一丈二尺二幅なり。又、白糸の縫物有り。上に云はく、伊勢大神宮・八幡大菩薩と云々。
下に鳩二羽〔相ひ對すと云々。〕を縫ふ。是れ、奥州追討の爲なり。治承四年、常胤、軍勢を相ひ率いて參向の後、諸國歸往し奉る。其の佳例に依りて、今度の御旗の事、別して以て之を仰せらる。絹は小山兵衞尉朝政、之を進ず。先祖の將軍、たやすく朝敵を亡すの故なり。此の御旗は、三浦介義澄を以て御使と爲し、鶴岡別當坊に遣はされ、宮寺に於て七箇日加持せしむべきの由、仰せらると云々。
又、下河邊庄司行平、仰せに依りて御よろひを調へまつる。今日、自ら之を持參し、ひつふたを開き、御前に置く。紺地錦の御甲直垂上下を相ひふ。御覽ずるの處、かぶとの後に笠標かさじるしを付く。仰せて曰はく、
「此のふだ、袖に付くるを尋常の儀と爲すか。如何に。」
てへれば、行平、申して云はく、
「是れ、曩祖なうそ秀郷朝臣の佳例なり。其の上、兵の本意は先登せんとうなり。先登に進むの時、敵は名謁なのりを以て其の仁を知る。吾が衆は後より此の簡を見て、必ずなにがし先登の由を知るべき者なり。但し、袖に付へしめ給ふべきや否やは御意に在るべし。此の如きの物を調進の時は、家のためしを用ゐるは故實なり。」
と云々。
時に御感を蒙る。
・「一丈二尺」約三・六メートル。
・「先祖の將軍」平将門を滅ぼした藤原秀郷。小山朝政は秀郷の直系子孫とされる。
・「下河邊庄司行平」彼も藤原秀郷流小山氏庶流の下河辺氏の直系。

「鳥海宗任」安倍貞任の弟安陪宗任。鳥海の柵の主であったことから鳥海三郎とも呼ばれた。
「同じき十九日賴朝卿奥州追伐の首途し給ふ。」この間、七月十二日に追討の宣旨受取の飛脚が発せられるが、「吾妻鏡」十六日の条には、
〇原文
七月小十六日甲戌。右武衞〔能保〕使者後藤兵衞尉基淸。幷先日自是上洛飛脚等參著。基淸申云。泰衡追討 宣旨事。攝政公卿已下。被經度々沙汰訖。而義顯出來。此上猶及追討儀者。可爲天下大事。今年許可有猶豫歟之由。去七日被下 宣旨也。早可達子細之由。帥中納言相觸之。可爲何樣哉云々。令聞此事給。殊有御鬱憤。軍士多以豫參之間。已有若干費。何期後年哉。於今者。必定可令發向給之由。被仰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日甲戌。右武衞〔能保。〕が使者の後藤兵衞尉基淸、幷びに先日是より上洛する飛脚等參著す。基淸、申して云はく、
「泰衡追討の宣旨の事、攝政公卿已下、度々沙汰を經られ訖んぬ。而るに義顯よしあき出で來る。此の上、猶ほ追討の儀に及ぶは、天下の大事とたるべし。今年許りは猶豫いうよ有るべきかの由、去る七日、宣旨を下さるなり。早く子細を達すべしの由、帥中納言、之を相ひ觸る。何樣いかやうたるべきや。」
と云々。
此の事を聞かしめ給ひ、殊に御鬱憤有り。
「軍士多く以て豫參の間、已に若干そくばくの費へ有り。何ぞ後年を期せんや。今に於いては、必定發向せしめ給ふべし。」の由、仰せらると云々。
「後藤兵衞尉基淸」後藤基清(?~承久三(一二二一)年)実父は佐藤仲清(佐藤義清(西行)の兄弟)。後に後藤実基の養子となった。源頼朝に仕え、元暦三(一一八五)年の屋島の戦いに参加したが、後に娘が一条能保の妻となった関係上、在京御家人として一条能保の家士となっていた。この後、正治元(一一九九)年に源通親への襲撃を企てた三左衞門事件で讃岐国守護を解任され、それ以後は後鳥羽上皇との関係を深め、西面武士・検非違使となり、承久の乱では後鳥羽上皇方について敗北、幕府方についた子の基綱に処刑された(以上はウィキの「後藤基清」に拠る)。
・「帥中納言」公卿吉田経房(永治二(一一四二)年~正治二(一二〇〇)年)。元暦元(一一八四)年前後に頼朝によって実質的な初代関東申次役に任ぜられたと考えられている。
・「若干」沢山。
以下、十七日に奥州追討軍の部署定めが行われている。筆者はこれも本文執筆の参考にしているので引いておく。
〇原文
十七日乙亥。可有御下向于奥州事。終日被經沙汰。此間。可被相分三手者。所謂東海道大將軍。千葉介常胤。八田右衞門尉知家。各相具一族等幷常陸。下総國兩國勇士等。經宇大行方。廻岩城岩崎。渡遇隈河湊。可參會也。北陸道大將軍。比企藤四郎能員。宇佐美平次實政等者。經下道相催上野國高山。小林。大胡。佐貫等住人。自越後國。出出羽國念種關。可遂合戰。二品者大手自中路。可有御下向。先陣可爲畠山次郎重忠之由。召仰之。次合戰謀。有其譽之輩。無勢之間。定難彰勳功歟。然者可被付勢之由被定。仍武藏。上野兩國内黨者等者。從于加藤次景廉。葛西三郎淸重等。可遂合戰之由。以義盛。景時等被仰含。次御留守事。所仰大夫屬入道也。隼人佑。藤判官代。佐々木次郎。大庭平太。義勝房已下輩可候云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十七日乙亥。奥州于御下向有るべき事、終日沙汰を經らる。此の間、
「三手に相ひ分けらるべし。」
てへり。所謂、東海道の大將軍は千葉介常胤、八田右衞門尉知家、各々一族等幷びに常陸・下総國の兩國の勇士等を相ひ具し、宇太うだ行方なめかたを經て、岩城いはき・岩崎を廻り、遇隈河あぶくまがはみなとを渡り、參會すべきなり。北陸道の大將軍は比企藤四郎能員・宇佐美平次實政等は、下道を、上野國高山・小林・大胡おほご左貫さぬき等の住人を相ひ催し、越後國より出羽國念種關ねんじゆがせきへ出でて、合戰を遂ぐべし。二品は大手、中路より御下向有るべし。先陣は畠山次郎重忠たるべきの由、之を召し仰す。次に合戰のはかりは、「其の譽有るの輩は、無勢の間、定めて勳功をあらはし難からんか、然らば、勢を付けらるべし。」の由、定めらる。仍りて武藏・上野兩國内の黨の者等は、加藤次景廉・葛西三郎淸重等に從ひて合戰を遂ぐべきの由、義盛・景時等を以て仰せ含めらある。次で御留守の事は、大夫屬入道に仰す所なり。隼人すけ・藤判官代・佐々木次郎・大庭平太・義勝房已下の輩は候ふべしと云々。
・「東海道の大將軍は千葉介常胤、八田右衞門尉知家、各々一族等幷びに常陸・下総國の兩國の勇士等を相ひ具し」この「東海道」は海岸通りを指し、現在の常磐線のルートを言う語。常陸は八田が守護、下総は千葉が守護であった。
・「宇太」現在の福島県浜通り北端の旧宇多郡。現在の相馬市。
・「行方」現在の茨城県南東部の行方市及び潮来市一帯。
・「岩城」現在の福島県いわき市。
・「岩崎」現在の福島県小名浜市岩出岩崎。小名浜港から北方約五キロメートルの内陸。
・「遇隅河の湊」現在の宮城県亘理わたり町高須賀地区。阿武隈川の河口で港として栄えた。
・「宇佐美平次實政」(?~文治六(一一九〇)年)現在の静岡県の伊豆田方郡大見荘の住人。頼朝挙兵以来の直参。奥州藤原氏の藤原泰衡の郎党であった大河兼任の乱で戦死。
・「下道を經」とあるが以下で高山を初めとして現在の群馬県内を通っていることから、これは現在の「上の道」と呼称されるルートと思われる。
・「上野國高山」現在の群馬県藤岡市高山。
・「小林」現在の群馬県藤岡市小林。高山の約五キロメートル東北。
・「大胡」現在の群馬県前橋市大胡町。前橋の約一〇キロメートル東方。
・「左貫」現在の群馬県館林市明和町の旧地名。
・「出羽國念種關」現在の山形県鶴岡市鼠ヶ関。鶴岡市南西部に位置し、新潟県との県境に面している。ウィキの「鼠ヶ関」によれば、『名の通り古代より関所が置かれていた。古くは、蝦夷進出の拠点となり、磐舟柵と出羽柵の中間にあるとされた、都岐沙羅柵が鼠ヶ関周辺にあったのではないかと推定されているが、史跡が発見されていないため、史実として確定していない。白河関・勿来関とともに奥羽三関と呼ばれ、東北地方への玄関になっていた。当時の文書には根津とする表記もある』。昭和四三(一九六八)年、『発掘調査が行われて存在が確認され、鶴岡市指定史跡「古代鼠ヶ関址」となった』とある。
・「合戰の謀」戦闘時の企略。
・「其の譽有るの輩は、無勢の間、定めて勳功をあらはし難からんか。然らば、勢を付けらるべし。」我こそは勇士の誉れと心得、血気をはやる連中の中には、附き従う家来がおらぬばかりに勲功を立て難いと考える者もあろう。そこで一つ、そうした者どもには補充の軍勢を附すことと致す。
・「加藤次景廉」(仁安元(一一六六)年?~承久三(一二二一)年)は直参、頼朝挙兵の際、平氏の目代山木兼隆の首を討ち取っている。
・「葛西兵衞尉淸重」(応保元(一一六一)年?~暦仁元(一二三八)年?)。頼朝に従って歴戦、頼朝の寵臣で幕府初期の重臣の一人。初代奥州総奉行葛西氏の初代当主。
・「大夫屬入道」初代問注所執事三善康信(保延六(一一四〇)年~承久三(一二二一)年)。入道後は善信を名乗った。
・「隼人佑」三善康清(生没年未詳)。康信の弟。実務官僚。以仁王挙兵の際に兄康信の意を受けて伊豆へ下り、頼朝に挙兵の旨を伝えた人物である。
・「藤判官代」藤原邦道。京から下洛していた文官。
・「佐々木次郎」佐々木経高(?~承久三年(一二二一)年)は頼朝に挙兵時から仕えた直参。幕府では三箇国の守護を兼ねたが、承久の乱で官軍に属して敗北、自害した。
・「大庭平太」大庭景能。
・「義勝房」成尋じょうじん(生没年未詳)。武蔵七党の一つである横山党の出。石橋山の戦いで頼朝に従い、御家人となった。幕府南門の建立、僧でもあったことから後白河法皇一周忌千僧供養などの奉行を勤めている。俗姓は小野。
以下、進発当日文治五(一一八九)年七月十九日の条の冒頭を示す。
〇原文
十九日丁丑。巳尅。二品爲征伐奥州泰衡發向給。此刻。景時申云。城四郎長茂者。無雙勇士也。雖囚人。此時被召具。有何事哉云々。尤可然之由被仰。仍相觸其趣於長茂。長茂成喜悦。候御共。但爲囚人差旗之條。有其恐。可給御旗之由申之。而依仰用私旗訖。于時長茂談傍輩云。見此旗。逃亡郎從等可來從云々。御進發儀。先陣畠山次郎重忠也。(以下、略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十九日丁丑。巳の尅、二品奥州の泰衡を征伐せんが爲に、發向し給ふ。此の刻、景時、申して云はく。「城四郎長茂は、無雙の勇士なり。囚人と雖も、此の時、召し具せられんこと、何事か有らんや。」と云々。
尤も然るべしの由、仰せらる。仍りて、其の趣、長茂に相ひ觸る。長茂、喜悦を成して、御共に候ず。「但し、囚人として旗を差すの條、其の恐れ有り。御旗を給はるべし。」の由、之を申す。而るに仰せに依りて私の旗を用ゐ訖んぬ。時に長茂、傍輩に談じて云はく、「此の旗を見て、逃亡の郎從等來り從うべし。」と云々。御進發の儀、先陣は畠山次郎重忠なり。(以下、略)
・「城四郎長茂」城長茂じょうながもち(仁平二(一一五二)年~建仁元(一二〇一)年)は。越後平氏の一族で城資国の子。以下、ウィキの「城長茂」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『治承五年(一一八一年)二月、平氏政権より信濃国で挙兵した源義仲追討の命を受けていた兄の城資永が急死したため、急遽助職が家督を継ぐ。同年六月、兄に変わって信濃に出兵した。資永は平家より絶大な期待を寄せられていたが、助職は短慮の欠点があり、軍略の才に乏しく、一万の大軍を率いていながら三〇〇〇ほどの義仲軍の前に大敗した(横田河原の戦い)。その直後、助職は奥州会津へ入るが、そこでも奥州藤原氏の攻撃を受けて会津をも追われ、越後の一角に住する小勢力へと転落を余儀なくされる』(「玉葉」寿永元年七月一日の条による)。『同年八月十五日、平宗盛による源義仲への牽制として越後守に任じられる。都の貴族である九条兼実や吉田経房は、地方豪族である長茂の国司任官・藤原秀衡の陸奥守任官を「天下の恥」「人以て嗟歎す」と非難している。この頃、諱を助職から長茂と改めた』。『しかし越後守となるも長茂は国衙を握る事は出来なかった。寿永二年(一一八三年)七月の平家都落ちと同時に越後守も罷免された』。『その後の経歴はほとんどわかっていないが、元暦二年(一一八五年)に平氏が滅亡して源頼朝が覇権を握ると、長茂は囚人として扱われ、梶原景時に身柄を預けられる。文治五年(一一八九年)の奥州合戦では、景時の仲介により従軍することを許され、武功を挙げる事によって御家人に列せられた』。『頼朝の死後、梶原景時の変で庇護者であった景時が滅ぼされると、一年後に長茂は軍勢を率いて上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げる。正治三年(一二〇一年)、軍を率いて景時糾弾の首謀者の一人であった小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃した上で、後鳥羽上皇に対して幕府討伐の宣旨を下すように要求したが、宣旨は得られなかった。そして小山朝政ら幕府軍の追討を受け、最期は大和吉野にて討たれた(建仁の乱)』。身の丈七尺(約二メートル十二センチ)『の大男であったという』とある。ここで彼は「私自身の旗を見てきっと散り散りになった家来どもが帰参して従うであろう。」と述べている通り、「吾妻鏡」同月二十八日の条には、城の領地の近くであった新渡戸しんわたど駅(不詳。栃木県塩谷郡高根沢町寺渡戸とも宇都宮市上小池町とも言われる)に着いた頼朝が軍勢の総数を調べるため、御家人らに命じて、それぞれが現在、連れている手勢総てを書き出させたところ、城長茂の家来は驚くべきことに二百人以上にもなっていた、とある。

「陸奥國伊達郡阿津樫山に著き給ふ」頼朝は七月二十九日に白河の関を越え、翌八月七日に現在の福島県伊達郡国見町厚樫山近くの国見宿へ到着している(「吾妻鏡」の当該条は次のパートの注で示す)。]

泰衡この由聞きて、阿津樫山に城郭を構へ、國見宿の中間に逢隅川あふくまがはながれ堰入せきいれつ。泰衡が異母の兄西木戸にしきどの太郎國衡を大將とし、金剛別當秀綱以下二萬餘騎にて堅めたり。刈田郡かりたのこほりは城郭高く築きて、そこ深く構へ、名取、廣瀨の兩河にしがらみき、大綱を流し、泰衡は國分原鞭楯こくぶがはらむちたてに陣取り、 栗原一野邊くりはらいちのべの城には若九郎太夫餘平六を大將として一萬餘騎にて堅めたり。田河太郎行文おきぶん、秋田三郎致文むねぶんには出羽國をぞ防がせける。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅰ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月七日の条。
〇原文
七日甲午。二品着御于陸奥國伊逹郡阿津賀志山邊國見驛。而及半更雷鳴。御旅館有霹靂。上下成恐怖之思云々。泰衡日來聞二品發向給事。於阿津賀志山。築城壁固要害。國見宿與彼山之中間。俄搆口五丈堀。堰入逢隈河流柵。以異母兄西木戸太郎國衡爲大將軍。差副金剛別當秀綱。其子下須房太郎秀方已下二万騎軍兵。凡山内三十里之間。健士充滿。加之於苅田郡。又搆城郭。名取廣瀬兩河引大繩柵。泰衡者陣于國分原。鞭楯。亦栗原。三迫。黑岩口。一野邊。以若九郎大夫。余平六已下郎從爲大將軍。差置數千勇士。又遣田河太郎行文。秋田三郎致文。警固出羽國云々。入夜。明曉可攻撃泰衡先陣之由。二品内々被仰合于老軍等。仍重忠召所相具之疋夫八十人。以用意鋤鍬。令運土石。塞件堀。敢不可有人馬之煩。思慮已通神歟。小山七郎朝光退御寢所邊。〔依爲近習祗候。〕相具兄朝政之郎從等。到于阿津賀志山。依懸意於先登也。
〇やぶちゃんの書き下し文
七日甲午。二品、陸奥國伊逹郡阿津賀志だてのこほりあつかしの山の邊、國見驛に着御す。而るに半更に及びて雷鳴し、御旅館に霹靂有り。上下恐怖の思ひを成すと云々。
泰衡、日來、二品發向し給ふ事を聞き、阿津賀志山に於いて、城壁を築き、要害を固む。國見宿と彼の山の中間に、俄かにくち五丈の堀を搆へ、逢隈河の流れを堰き入れてさくとす。異母兄の西木戸太郎國衡を以つて大將軍と爲し、金剛別當秀綱、其の子、下須房太郎秀方已下、二万騎の軍兵を差し副ふ。凡そ山内三十里の間、健士、充滿す。之に加へ苅田郡かつたのこほりに於いて、又、城郭を搆へ、名取・廣瀨の兩河に大繩を引きて柵とす。泰衡は、國分原鞭楯むちたてに陣す。亦、栗原・三迫さんのはざま・黑岩口・一野邊に、若九郎大夫、余平六已下の郎從を以て大將軍と爲し、數千の勇士を差し置く。又、田河太郎行文ゆきぶん・秋田三郎致文むねぶんを遣はし、出羽國を警固すと云々。
夜に入りて、明曉、泰衡の先陣を攻撃すべきの由、二品、内々老軍等に仰せ合はせらる。仍りて重忠が相ひ具す所の疋夫ひつぷ八十人を召し、用意の鋤鍬すきくはを以つて、土石を運ばしめ、件の堀を塞ぐ。敢て人馬の煩ひ有るべからず。思慮、已に神に通ずるか。小山七郎朝光、御寢所邊を退き〔近習たるに依りて祗候しこうす。〕、兄朝政の郎從等を相ひ具し、阿津賀志山に到る。意、先登に懸るに依りてなり。
・「阿津賀志の山」現在の厚樫山あつかしやま。福島県国見町にある標高二八九・四メートル。福島県と宮城県の県境近くに位置する。この時の遺跡である二重堀(阿津賀志山防塁)が山中から山麓にかけて現存する(次注参照)。
・「口五丈の堀」幅約十五メ-トルの堀。阿武隈川までこの幅で深さ約三メ-トルの堀を、実に総延長三・二キロメートルに及ぶもの(しかも二重ふたえ掘り)であった(以上のデータは有限会社ABCいわきの運営になる「福島情報館」の「福島阿津賀志山防塁(下二重堀地区)」に基づく)。
・「山内三十里」これは六町を一里とする坂東道単位。「坂東道」とは坂東路、田舎道を意味する語で、通常の一里とは異なる特殊な路程単位である。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかった。従ってここは約十九キロメートル四方の謂いとなるが、厚樫山自体が低山であり、山域は大きく見積もっても数キロ四方で、これはいっかな坂東路でも如何にもな誇張表現ではある。
・「刈田郡」宮城県南部西端に位置する。現在含まれる蔵王町ざおうまち七ヶ宿町しちかしゅくまちの他、現在の白石市も含む旧地名。奥州藤原氏一族と称した白石氏(刈田氏)の本拠地であった。
・「名取川」宮城県仙台市及び名取市を流れ、歌枕として知られる。
・「広瀬川」宮城県仙台市を流れる。仙台市のシンボルとして親しまれ、さとう宗幸の「青葉城恋唄」で全国的に知名度が高いが、先の名取川の支流である。
・「國分原鞭楯」現在の仙台市榴岡つつじがおかとも同市青葉区国分町とも言われるが、確かな同定地や遺構は発見されていない。
・「栗原」現在の宮城県北西部に位置する栗原市築館つきだて
・「三迫」現在の栗原市金成かんなり小迫おばさまの地名が残る。また、同市には北上川水系迫川はさまがわの支流で三迫川さんはさまがわが流れる。
・「黒岩口」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注には現在の『栗原市栗駒か宮城県白石市鷹巣黒岩下』とある。
・「一野邊」同じく「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注は現在の『宮城県白石市越河市野か』とする。
・「田河太郎行文」(?~文治五(一一八九)年)。田川行文たがわゆきぶみとも。出羽国田川郡(現在の鶴岡市田川)を本拠地として田川郡郡司を自称した豪族。奥州藤原氏郎党。
・「秋田三郎致文」(?~文治五(一一八九)年)。「むねぶみ」「ただぶみ」とも読む。出羽国秋田郡(現在の秋田市)を本拠地とした奥州藤原氏郎党。
・「小山七郎朝光」「小山」は「おやま」と読む。結城朝光(仁安三(一一六八)年~建長六(一二五四)年)。結城家始祖。ウィキの「結城朝光」によれば、寿永二(一一八三)年二月二十三日、『鎌倉への侵攻を図った志田義広と足利忠綱の連合軍を、八田知家と父の政光、兄の朝政、宗政ら共に野木宮合戦で破り、この論功行賞により結城郡』(現在の茨城県結城市)『の地頭職に任命される。義広との戦いに先んじて、頼朝が鶴岡八幡宮で戦勝を祈願すると、朝光は義広が敗北するという「神託」を告げ、頼朝から称賛された』。その後も元暦元(一一八四)年の木曾義仲追討の源範頼・義経軍に参加、宇治川・壇ノ浦の参戦した。鎌倉に帰還後の同年五月には『戦勝報告のため東下した義経を酒匂宿に訪ね、頼朝の使者として「鎌倉入り不可」の口上を伝え』る役を務めている。次の場面に現われるように、奥州合戦ではこの『阿津賀志山の戦いで、敵将・金剛別当を討ち取るなど活躍。その功により奥州白河三郡を与えられ』た。翌建久元(一一九〇)年に奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定にも参加、以後、『梶原景時と並ぶ頼朝の側近と目されるようになった』。『頼朝が東大寺再建の供養に参列した際、衆徒の間で乱闘が起こったが、この時、朝光は見事な調停を行い、衆徒達から「容貌美好、口弁分明」と称賛された』という。頼朝没後の正治元(一一九九)年十月の「梶原景時讒訴事件」では三浦義村ら有力御家人六十六名を結集して「景時糾弾訴状」を連名で作成、二代将軍源頼家に提出、梶原景時失脚とその敗死に大きな役割を果たしている。その後も評定衆の一員となるなど、幕政に重きを成した。『若き日から念仏に傾倒していた朝光は、法然、次いで時領常陸国下妻に滞在していた親鸞に深く帰依し、その晩年は念願の出家を果たし、結城上野入道日阿と号し、結城称名寺を建立。信仰に生きる日々を送』った、とある。]

賴朝卿の先陣、矢合して攻掛る。小山朝光ともみつ、加藤次景廉等かげかどら、命を顧みず戰ひければ、金剛別當、攻破られ、大將國衡以下、城を出でて引退く。泰衡が郎從佐藤信夫莊司しのぶのしやうじは繼信、忠信が父なり。叔父河邊かうべ太郎高經、伊加良目いがらめ七郎高重等を相倶して石那坂いしなざかの上に陣を張り、逢隈河あふくまがはを掛入れて、ほりを深くし、しがらみを引き、石弓をはつて待掛たり。常陸入道念西が子息常陸冠者爲宗、同次郎爲重、同三郎資綱、同四郎爲家、その郎從等とひそかくひぜの中より澤原さらの邊に進出すゝみいでて、鬨の聲を揚げたりければ、佐藤荘司等、前後の寄手を防がんと命を棄てて防ぎ戰ふに、爲重、資綱、爲家はきずを蒙る。すでに危く見えし所に、冠者爲宗、勇捍ようかんを勵し、右に𢌞り、左にはせて打て𢌞るに、莊司以下宗徒むねとの兵十八人が首を取る。殘る軍兵四方に散りて敗北す。阿津樫山の上、きやうをかに首をけて逃るをおひて進み行く。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅱ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月八日の条。
八日乙未。金剛別當季綱率數千騎。陣于阿津賀志山前。夘剋。二品先試遣畠山次郎重忠。小山七郎朝光。加藤次景廉。工藤小次郎行光。同三郎祐光等。始箭合。秀綱等雖相防之。大軍襲重。攻責之間。及巳剋。賊徒退散。秀綱馳歸于大木戸。告合戰敗北之由於大將軍國衡。仍弥廻計畧云々。又泰衡郎從信夫佐藤庄司。〔又號湯庄司。是繼信忠信等父也。〕相具叔父河邊太郎高經。伊賀良目七郎高重等。陣于石那坂之上。堀湟懸入逢隈河水於其中。引柵。張石弓。相待討手。爰常陸入道念西子息常陸冠者爲宗。同次郎爲重。同三郎資綱。同四郎爲家等潛相具甲冑於秣之中。進出于伊逹郡澤原邊。先登發矢石。佐藤庄司等爭死挑戰。爲重資綱爲家等被疵。然而爲宗殊忘命。攻戰之間。庄司已下宗者十八人之首。爲宗兄弟獲之。梟于阿津賀志山上經岡也云々。〕今日早旦。於鎌倉。專光房任二品之芳契。攀登御亭之後山。始梵宇營作。先白地立假柱四本。授觀音堂之號。是自御進發日。可爲廿日之由。雖蒙御旨。依夢想告如此云々。而時尅自相當于阿津賀志山箭合。可謂奇特云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
八日乙未。金剛別當季綱、數千騎を率いて、阿津賀志山の前に陣す。の剋、二品先づ試みに畠山次郎重忠・小山七郎朝光・加藤次景廉・工藤小次郎行光・同三郎祐光等を遣はし、箭合やあはせを始む。秀綱等、之を相ひ防ぐと雖も、大軍襲ひ重なり、攻めに責むるの間、巳の剋に及び、賊徒、退散す。秀綱、大木戸に馳せ歸り、合戰敗北の由、大將軍國衡に告ぐ。仍りて弥々計畧を廻らすと云々。
又、泰衡が郎從の信夫しのぶ佐藤庄司〔又は湯庄司と號す。是は繼信・忠信等の父なり。〕叔父河邊太郎高經・伊賀良目いがらめ七郎高重等を相ひ具し、石那坂いしなざかの上に陣す。ほりを堀り、逢隈河あぶくまがはの水を其の中に懸け入れ、しがらみを引き、石弓を張り、討手を相ひ待つ。爰に常陸入道念西は子息、常陸冠者爲宗・同次郎爲重・同三郎資綱・同四郎爲家等潛かに甲冑を秣の中に相ひ具して、伊逹郡澤原さははら邊に進み出で、先登して矢石をはなつ。佐藤庄司等、死を爭ひて挑み戰ふ。爲重・資綱・爲家等。疵を被る。然れども、爲宗は殊に命を忘れ、攻め戰ふの間、庄司已下、むねとの者十八人の首、 爲宗兄弟、之れをりて、阿津賀志山上のきやうケ岡にけうするなりと云々。
今日早旦。鎌倉に於いて、專光房、二品の芳契に任せて、御亭の後山へぢ登り、梵宇の營作を始む。先づ白地あからあまに假柱四本を立て、觀音堂の號を授く。是れ、御進發の日より、廿日たるべきの由、御旨を蒙ると雖も、夢想の告に依りて此くの如しと云々。
而るに時尅、自づから阿津賀志山の箭合せに相ひ當る。奇特と謂ひつべしと云々。
・「金剛別當秀季綱」金剛秀綱(生没年未詳)。後文では一貫して「秀綱」と記されるから、単なる誤字と思われる。羽後国由利郡新城(現在の秋田県秋田市新城)を所領する奥州藤原氏の郎党。
・「夘の剋」は卯刻で、午前六時頃。
・「巳の剋」午前十時頃。
・「佐藤庄司」佐藤正治もとはる(永久元(一一一三)年?~文治五(一一八九)年?)信夫庄(現在の福島県福島市飯坂町)に勢力を張り、大鳥城(現在の舘の山公園)に居城した陸奥の豪族。湯庄司(現在の飯坂温泉に由来)と号した。妻は藤原秀衡の娘であったともいわれる。この後、捕縛されたものの、赦免されて本領を安堵されたとも伝えられる。名は基治とする記載もある。
・「伊賀良目七郎高重」伊賀良目高重(?~文治五(一一八九)年)。福島県信夫郡にあった五十辺いがらべ村周辺(現在の福島市中央東地区の一部)を領していた豪族。藤原秀衡・泰衡父子に仕えた。伊賀良目氏は岩谷観音の祭祀者として知られる。
・「石那坂」現在、福島市平石の東北本線上り線の石名坂トンネル付近に石那坂古戦場の碑が建てられているが、同定は定かではない。
・「常陸入道念西」「ねんさい」と読む。幕府御家人。通説では伊達氏初代当主伊達朝宗(大治四(一一二九)年~正治元(一一九九)年)に比定されている。諸説はウィキの「常陸入道念西」及び「伊達朝宗」に詳しい。念西は常陸国伊佐郡を本拠地としていた関東武士で、本戦功によって、この伊達郡に移り、伊達氏を名乗るようになったともされる。
・「伊逹郡澤原」福島県伊達郡の中の旧地域名らしい。「北條九代記」の「澤原さら」はルビの脱字か。
・「むねと」主だった人々。
・「經ケ岡」本地名は現在も厚樫山東麓に残っており、中通り北部の阿武隈川北岸の宮城県境・厚樫山東麓に比定されている(「角川日本地名大辞典」に拠る)。]

泰衡が郎従ばんの藤八は六ぐん第一の大力、武勇の名、隱れなし。狩野かのゝ五郎を討取りていきほひ八方に耀く所を、工藤小次郎行光、馳竝はせならべて、むずと組み、しばらく爭ひけるが、藤八、遂に下になり、行光、之が首を取る。城中の兵、折來るを木戸口に追込み、靜々しづしづと引取りしは大剛勇力だいがうゆうりきの名士なりと皆、感じてぞ稱美しける。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅲ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月九日の条。
〇原文
九日丙申。入夜。明旦越阿津賀志山。可遂合戰之由被定之。爰三浦平六義村。葛西三郎淸重。工藤小次郎行光。同三郎祐光。狩野五郎親光。藤澤次郎淸近。河村千鶴丸。〔年十三才。〕以上七騎。潛馳過畠山次郎之陣。越此山。欲進前登。是天曙之後。與大軍同時難凌嶮岨之故也。于時重忠郎從成淸伺得此事。諫主人云。今度合戰奉先陣。拔群眉目也。而見傍輩所爭。難温座歟。早可塞彼前途。不然者。訴申事由。停止濫吹。可被越此山云々。重忠云。其事不可然。縱以他人之力雖退敵。已奉先陣之上者。重忠之不向以前合戰者。皆可爲重忠一身之勳功。且欲進先登之輩事。妨申之條。非武略本意。且獨似願抽賞。只作惘然。神妙之儀也云々。七騎終夜越峯嶺。遂馳著木戸口。各名謁之處。泰衡郎從〔下部〕伴藤八已下強兵攻戰。此間。工藤小次郎行光先登。狩野工藤五郎損命。伴藤八者。六郡第一強力者也。行光相戰。兩人並轡取合。暫雖爭死生。遂爲行光被誅。行光取彼頸付鳥付。差木戸登之處。勇士二騎離馬取合。行光見之。廻轡問其名字。藤澤次郎淸近欲取敵之由稱之。仍落合。相共誅滅件敵之。兩人安駕。休息之間。淸近感行光合力之餘。以彼息男可爲聟之由。成楚忽契約云々。次淸重幷千鶴丸等。撃獲數輩敵。亦親能猶子左近將監能直者。當時爲殊近仕。常候御座右。而親能兼日招宮六兼仗國平。談云。今度能直赴戰塲之初也。汝加扶持。可令戰者。仍國平固守其約。去夜。潜推參二品御寢所邊。喚出能直。〔上臥也。〕相具之。越阿津賀志山。攻戰之間。討取佐藤三秀員父子〔國衡近親郎等。〕畢。此宮六者。長井齊藤別當實盛(埼玉県妻沼町)外甥也。實盛屬平家。滅亡之後。爲囚人。始被召預于上總權介廣常。廣常誅戮之後。又被預親能。而依有勇敢之譽。親能申子細。令付能直云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
九日丙申。夜に入り、明旦、阿津賀志山を越え、合戰を遂ぐべきの由、之れを定めらる。爰に三浦平六義村・葛西三郎淸重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・狩野五郎親光・藤澤次郎淸近・河村千鶴丸せんつるまる〔年十三才。〕の以上七騎、潛かに畠山次郎の陣を馳せ過ぎ、此の山を越えて前登に進まんと欲す。是れ、天くるの後、大軍と同時に嶮岨けんそを凌ぎ難きの故也。時に重忠が郎從の成淸なりきよ、此の事を伺ひ得て、主人に諫めて云はく、
「今度の合戰に先陣を奉ること、拔群の眉目なり。而るに傍輩の爭ふ所を見て、温座し難からんか。早く彼の前途を塞ぐべし。然らずんば、事の由を訴へ申し、濫吹らんすい停止ちやうじし、此の山を越へらるべし。」
と云々。
重忠云はく、
「其の事、然るべからず。縱ひ他人の力を以つて敵を退くと雖も、已に先陣を奉るの上は、重忠が向はざる以前の合戰は、皆、重忠一身の勳功たるべし。且は、先登に進まんと欲するの輩の事、妨げ申すの條、武略の本意に非ず。且は、獨り抽賞ちうしやうを願ふに似たり。只だ惘然ばうぜんすこと、神妙の儀なり。」
と云々。
七騎は終夜峯嶺を越え、遂に木戸口に馳せ著く。各々名謁なのるの處、泰衡が郎從〔下部。〕伴藤八とものとうはち已下の強兵、攻め戰ふ。此の間、工藤小次郎行光、先登す。狩野工藤五郎は命をおとす。伴藤八は、六郡第一の強力の者なり。行光相ひ戰ひ、兩人、くつわを並べ取り合ふ。暫く死生を爭ふと雖も、遂に行光のために誅せらる。行光、の頸を取りて鳥付とつつけに付け、木戸を差して登るの處、勇士二騎、馬を離れて取り合ふ。行光、之を見て、轡を廻らし、其の名字を問ふ。藤澤次郎淸近、敵を取らんと欲するの由、之を稱す。仍つて落ち合ひ、相ひ共に件の敵を誅滅し、く。兩人、駕を安んじ、休息の間、淸近、行光の合力かふりよくを感ずるの餘り、の息男を以つて聟と爲すべきの由、楚忽そこつの契約を成すと云々。
次で淸重幷びに千鶴丸等、數輩の敵を撃ちたり。
亦、親能は猶子いうし左近將監能直者、當時、殊なる近仕として、常に御座右に候ず。而るに親能、兼日、宮六兼仗きゆうろくけんぢやう國平を招き、談じて云はく、
「今度、能直は戰塲に赴くの初めなり。汝、扶持を加へ、戰はしむべし。」
てへり。仍つて國平、固く其の約を守り、去ぬる夜、潛かに二品の御寢所邊へ推參し、能直〔上臥うへぶしなり。〕を喚び出し、之を相ひ具して、阿津賀志山を越え、攻め戰ふの間、佐藤三さとうざ秀員父子〔國衡が近親の郎等。〕を討ち取り畢んぬ。此宮六は、長井齊藤別當實盛が外甥がいせいなり。實盛、平家に屬し、滅亡の後、囚人とる。始め、上總權介廣常に召し預けられ、廣常誅戮の後、又、親能に預けらる。而るに勇敢の譽れ有るに依つて、親能、子細を申して能直に付けしむと云々。
以降、武将を一々注しているとなかなか進まないので、私が気になる人物やシークエンスでの主要人物のみをチョイスするのをお許し戴きたい。
・「工藤小次郎行光」(生没年未詳)は工藤景光の子で、頼朝の強兵に呼応して父とともに甲斐で挙兵、後、頼朝に仕えた。この阿津賀志山木戸口攻めの功により、陸奥岩井郡を与えられている。
・「藤澤次郎淸近」藤沢淸親と同一人物であろう。木曽義仲の嫡男義重(義高)が頼朝の人質にされた際に一緒に鎌倉へ下った家臣の一人であったが、義高誅殺後は幕府御家人となった。後に弓の名手として坂額御前はんがくごぜんを射たことでも知られる。因みに坂額御前(生没年未詳)は越後国の有力豪族城氏の一族の女武将。「北條九代記」でも、この後の「卷第三」の冒頭の建仁の乱でのエピソードにも登場するが、父は城資国、兄弟に資永・長茂らがいる。坂額の兄長茂の幕府打倒計画に呼応した建仁元(一二〇一)年の建仁の乱で、坂額の甥城資盛(資永の子)の越後国での挙兵に随う。その弓は百発百中であったと伝えられる)(坂額は両足を射られて捕虜となり、同時に反乱軍は制圧された。以下、参照したウィキの「坂額御前」によれば、『彼女は鎌倉に送られ、将軍頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾され』、『義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において死去したと伝えられている』『同時代に書かれた『吾妻鏡』では「可醜陵園妾(彼女と比べれば)陵園の美女ですら醜くなってしまう)」「件女面貌雖宜」、すなわち美人の範疇に入ると表現されている』とある。
・「河村千鶴丸」後の河村秀淸(治承元・安元三(一一七七)年~?)。相模出身、通称四郎。承久の乱では北条泰時に従って京の宇治橋で戦っている。
・「成淸」榛澤成淸はんざわなりきよ(?~元久二(一二〇五)年)武蔵榛沢郷(現在の埼玉県深谷市及び大里郡寄居町)の住人。
・「伴藤八」秀衡の代からのトップ・クラスの家臣の一人。
・「鳥付」馬の鞍の後輪しづわに附けた紐。尻懸しりがいを結ぶための輪状になったもので前輪の同様の装置を総称してしおでとも呼ぶ。
・「彼の息男を以つて聟と爲すべきの由、楚忽の契約を成す」とは藤澤淸近は工藤行光が手助けしてくれたことに感謝する余り、その休息の間に、その場で、行光の息子を自分の娘の婿とすることを即行、約束してしまった。
・「淸重幷びに千鶴丸等、數輩の敵を撃ち獲たり」葛西淸重は、この奥州藤原氏滅亡後の九月に頼朝による論功行賞で勲功抜群として胆沢郡・磐井郡・牡鹿郡など数ヶ所に所領を賜った上、初代奥州総奉行に任じられている。当時、彼は満二十八歳であった。その彼と同等に「幷」べて河村千鶴丸が挙がっていることは注目に値しよう。満十二歳の少年千鶴丸が勲功第一の淸重と同等の首級を挙げたということである。
・「親能」中原親能(康治二(一一四三)年~承元二(一二〇九)年)。文官の御家人。公家方とのパイプ役として働き、文治二(一一八六)年に京都守護に任じられている。後、建久二(一一九一)年に政所公事奉行に任ぜられ、後の十三人の合議制の一人ともなった。
・「左近將監能直」大友能直(承安二(一一七二)年~貞応二(一二二三)年)は相模国愛甲郡古庄郷司近藤(古庄)能成の子として生まれ、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗ったが、能成が早世したため、母の姉婿中原親能の養子となり、中原能直とも名乗った。文治四(一一八八)年に十七歳で元服、この年の十月十四日に源頼朝の内々の推挙によって左近将監に任じられる。当時は病いのために相模の大友郷にあって、十二月十七日になって初めて大倉御所に出仕、頼朝の御前に召されて任官の礼を述べているが、この阿津賀志山の戦いはそれからたかだか八月後のことに過ぎない。「吾妻鏡」では能直を、頼朝の『無双の寵仁』(並ぶ者のないお気に入り)と記している。その後も頼朝の近習を務め、建久四(一一九三)年の曾我兄弟仇討ち事件では曾我時致の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとした所を、能直が押し止めて身辺を守っている。建久七(一一九六)年一月には豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行となり、現地へ下向、承元元(一二〇七)年頃には筑後国守護に任ぜられているが、任地への在国は一時的なものであったと考えられ(九州には守護代を配していたと見られる)、京と鎌倉を頻繁に往来している(以上はウィキの「大友能直」に拠る)。
・「宮六傔仗國平」宮道国平みやじのくにひら(生没年不詳)。幕府御家人。斎藤実盛の外甥。ウィキの「宮道国平」から引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『宮道氏は、物部氏庶流とも日本武尊末裔とも伝えられる氏族であるが、国平の系譜関係は不明である。一方で斎藤実盛の弟・実員の子とする系図があることから、本姓藤原氏の斎藤氏の一族とする見解もある』。当初は『実盛に付き従い治承・寿永の乱で平家方であったが、平家滅亡の後、囚人として上総広常に、一一八三年(寿永二年)に広常が謀殺された後は中原親能に預けられた。その後勇敢さを見込まれ、親能の養子大友能直付きとなった。一一八九年(文智五年)の奥州合戦に従軍し戦功により奥州に所領を与えられ、一一九〇年(文治六年)の大河兼任の乱に際しても出陣している。『吾妻鏡』では、一一九一年(建久二年)に奥州より牛を献上したとの記事を最後に登場しなくなる』。『一方、実盛死後に武蔵国幡羅郡長井庄(現埼玉県熊谷市)を継ぎ、実盛創建に係る聖天山歓喜院(埼玉県熊谷市)に十一面観音と御正躰錫杖頭を寄進したことが同院の縁起に見える。また、八幡神社(秋田県大仙市)には中原親能と連名の棟札が現存していることから、奥州だけでなく出羽国山本郡にも所領をもっていた可能性が高い』とある。この「宮六傔仗」という呼称は不詳。「傔仗」は本来、律令制で辺境の官人に与えられた護衞武官を指し、姓氏の一つにはなった。識者の御教授を乞う。
・「上臥」本来は宮廷用語で、宮中や院中などで宿直とのいすることをいう。
・「佐藤三秀員」「」は三郎の略。]

寄手の大軍、木戸口に詰寄せ、畠山、小山兄弟、三浦の人々、猛威を振うて攻戰せめたたかふ。其聲山に響き谷に渡り、夥しとも云ふ計なし。されども城中の兵、要害に向ひて強く防げば、寄手、あぐみてぞ思ひける。此所に小山七郎朝光ともみつ、宇都宮左衞門尉朝經ともつね、郎従きの権〔の〕守、波賀はがの二郎大友以下の七人、安藤次あんどうじを案内者としてひそか伊達郡だてのこほり藤田の宿より會津の方に向ひて、土湯嵩つちゆのだけ鳥取越とつとりごえを、大木戸のうへ、敵城てきじやううしろの山に登りて、時の聲を作りければ、「すはや搦手からめてより破るゝぞ」とて、城中、周章慌忙あはてふためきて我も我もと落ちて行く。朝霧のまぎれに、秋の山影、灰暗ほのぐらく、岩路がんろ、露にうるほひて、なめらかなる苔の上に衝伏つきふせ、切倒きりたふし、親討たれ、子討たるれども、落留おちとゞまる者、更に無し。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅳ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の頭の部分を示す(後は以下の回で示す)。
〇原文
十日丁酉。夘剋。二品已越阿津賀志山給。大軍攻近于木戸口。建戈傳箭。然而國衡輙難敗傾。重忠。朝政。朝光。義盛。行平。成廣。義澄。義連。景廉。淸重等。振武威弃身命。其鬪戰之聲。響山谷。動郷村。爰去夜小山七郎朝光。幷宇都宮左衞門尉朝綱郎從。紀權守。波賀次郎大夫已下七人。以安藤次爲山案内者。面々負甲疋馬。密々出御旅館。自伊逹郡藤田宿。向會津之方。越于土湯之嵩。鳥取越等。攀登于大木戸上。國衡後陣之山。發時聲飛箭。此間。城中大騷動。稱搦手襲來由。國平已下邊將。無益于搆塞。失力于廻謀。忽以逃亡。于時雖天曙。被霧隔。秋山影暗。朝路跡滑。不分兩方之間。國衡郎從等。漏網之魚類多之。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁酉。夘剋。二品已に阿津賀志山を越え給ふ。大軍、木戸口に攻め近づき、ほこを建て、を傳ふ。然れども、 國衡、たやす敗傾はいけいし難し。
重忠・朝政・朝光・義盛・行平・成廣・義澄・義連・景廉・淸重等、武威を振ひて身命しんみやうつ。其の鬪戰の聲、山谷に響き、郷村を動かす。爰に去ぬる夜、小山七郎朝光、幷びに宇都宮左衞門尉朝綱が郎從、紀權守・波賀次郎大夫已下七人、安藤次あんどうじを以つて山の案内者とし、面々によろひを疋馬に負はせ、密々に御旅舘を出でて、伊逹郡藤田宿より、會津の方へ向ひ、土湯つちゆだけ鳥取越ととりごえ等を越え、大木戸の上、國衡が後陣の山に攀じ登り、時の聲をはなち、を飛ばす。此の間、城中、大いに騷動す。搦手も襲ひ來るの由を稱す。國平已下の邊將、搆塞こうさいに益無く、はかりごとを廻らすに力を失ひ、忽ち以つて逃亡す。時に天くると雖も、霧に隔てられ、秋山、影暗く、朝路、あと滑らかにして、兩方を分かたざるの間、國衡が郎從等、網を漏るるの魚の類ひ、之れ、多し。
・「伊達郡藤田宿」現在の福島県伊達郡国見町。
・「土湯の嵩」saitohpb氏のブログ「つれづれなるままに」の「石那坂の戦い(4)」の『「土湯嵩」について』に、『阿津賀志山の山陰は湯ノ倉大森山なり。(信達二郡村誌付録)とあり、当時小坂、鳥取辺の山に、地元の人が「土湯嶽」と呼び慣らしていた山があったことが伺える。(宮城県側に下れば小原温泉がある。)室町幕府が羽州探題をおいてからは「羽州街道」とされた道がある。難所であるその山を越え、東に鳥取越~山崎峠~石母田峠と五〇〇メートル級の山峰が阿津賀志山の北を巻いて大木戸に至る。(「安藤次は、自ら朝光らの武将を誘い、この作戦の郷導となる」二郡村誌付録)「吾妻鏡」八月十日の条記述には何の疑問もない』とある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更させて頂いた)。
・「鳥取越」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注には、現在の『国見町小坂峠へ上ると鳥取股根ケ窪に地名が残るし、阿津賀志山の裏へ出られそうである』と記しておられる。因みに、阿津賀志山から遙か四十キロメートル南西方の福島県福島市の「土湯」温泉町には「鳥取越」の地名があるが、ここではない。なお、底本頭注に『下に越えを補ひて解すべし』とある。
・「搆塞」要塞。
・「時に天曙くると雖も、霧に隔てられ、秋山、影暗く、朝路、跡滑らかにして、兩方を分けざるの間、國衡が郎從等、網を漏るるの魚の類ひ、之れ、多し」ここは映像が鮮やかに浮かんでくる名調子の場面。「兩方を分かたざる」とは敵味方が不分明であることをいう。
・「大木戸」現在の福島県伊達郡国見町に残る阿津賀志山二重ふたえ防塁遺跡の北側の阿津賀志山山麓に、国見町大木戸地区の名があるが、ここか。個人のHP「おじいちゃんのひまつぶし」の「福島の遺跡・史跡 阿津賀志山防塁」に所載する地図を参照されたい。リンク先では防塁の写真も見ることが出来る。

以下、「北條九代記」本文に対する注。
「宇都宮左衞門尉朝經ともつね」とあるが、「吾妻鏡」でお分かりの通り、「朝綱」の誤り。小山(結城)朝光とは親族である。
波賀はがの二郎大友」とあるが、やはり「吾妻鏡」でお分かりの通り、「大友」は「大夫」の誤り。]

その中に金剛別當が子息下須房かすばう太郎秀方ひでかた、生年十三歳になりけるが、聞ゆる大力の兵にて、只一人、蹈止ふみとどまり、押掛おしかゝる寄手に馳合はせあうて、當るをさいはひにきりければ、我はかぶとの眞額まつかうをのんどまで打割り、或は鎧をかけて胴切にし、膝を薙伏なぎふせせ、首を打ち落す。孟賁まうほんが勢を以て趙雲てううんがたんを張る。寄手大勢なりといへども、秀方一人に切立てられ、辟易して見えし所に、小山行光が郎等藤五郎行長、進寄すゝみよりて、むずと組み、その容顔ようがんの美麗にして幼稚なるを見て、強力がうりきの年にも似ざるを感じながら、やゝ久しく組合くみあうて、遂に是を討取りたり。金剛別當秀綱は目の前に子を討たせて、なじかは生きてかひあらん、と獅子奮迅のいかりをなし、敵を撰ばず切て𢌞る。既に氣疲きつかれ、力たわみて、小山七郎朝光に組まれて、遂に首をぞかかれける。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き(後は以下の回で示す)。
〇原文
十日丁酉。(前略)
其中金剛別當子息下須房太郎秀方。〔年十三。〕殘留防戰。駕黑駮馬。敵向髦陣。其氣色掲焉也。工藤小次郎行光欲馳並之剋。行光郎從藤五男。相隔而取合于秀方。此間見顏色。幼稚者也。雖問姓名。敢不發詞。然而一人留之條。稱有子細。誅之畢。強力之甚不似若少。相爭之處。對揚良久云々。(後略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁酉。(前略)
その中に金剛甥當が子息下須房かすばう太郎秀方ひでかた、生年十三歳になりけるが、聞ゆる大力の兵にて、只一人、蹈止ふみとどまり、押掛おしかゝる寄手に馳合はせあうて、當るをさいはひきりければ、我はかぶと眞額まつかうのんどまで打割り、或は鎧をかけて胴切にし、膝を薙伏なぎふせせ、首を打ち落す。孟賁まうほんが勢を以て趙雲てううんたんを張る。寄手大勢なりといへども、秀方一人に切立てられ、辟易して見えし所に、小山行光が郎等藤五郎行長、進寄すゝみよりて、むずと組み、その容顔ようがんの美麗にして幼稚なるを見て、強力がうりきの年にも似ざるを感じながら、やゝ久しく組合くみあうて、遂に是を討取りたり。金剛別當秀綱は目の前に子を討たせて、なじかは生きてかひあらん、と獅子奮迅のいかりをなし、敵を撰ばず切て𢌞る。既に氣疲きつかれ、力たわみて、小山七郎朝光に組まれて、遂に首をぞかかれける。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き(後は以下の回で示す)。
〇原文
十日丁酉。(前略)
其中金剛別當子息下須房太郎秀方。〔年十三。〕殘留防戰。駕黑駮馬。敵向髦陣。其氣色掲焉也。工藤小次郎行光欲馳並之剋。行光郎從藤五男。相隔而取合于秀方。此間見顏色。幼稚者也。雖問姓名。敢不發詞。然而一人留之條。稱有子細。誅之畢。強力之甚不似若少。相爭之處。對揚良久云々。(後略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁酉。(前略)
其の中に金剛別當が子息下須房太郎秀方〔年十三。〕殘り留まりて防戰す。黑駮くろぶちの馬に駕し、敵にたてがみを向けて陣す。其の氣色、掲焉けちえんなり。工藤小次郎行光、馳せ並ばんと欲するのきざみ、行光が郎從藤五男、相ひ隔たりて秀方に取り合ふ。此のあひだ、顏色を見れば、幼稚の者なり。姓名を問ふと雖も、敢へて詞を發せず。然れども、一人留まるの條、子細有りと稱して之を誅し畢んぬ。強力の甚しきこと若少に似ず、相ひ爭の處、對揚することやや久しと云々。(後略)
・「下須房太郎秀方」諸資料の読みでは「かすぼう」とも「かすほ」ともともある。「かすふさ」でもよさそうである。――puer eternus――プエル・エテルヌス――私としてはこれ、独立して示してやりたかったのである。
・「其の氣色、掲焉なり」「掲焉」は既出。その気迫たるや、一目瞭然である、の意。
・「藤五男」ある資料の読みでは「とうごおとこ」とあるが、私は「とうごだん」と読みたい。
・「子細有り」相応の覚悟を持った名将の子息ならん、と。
・「對揚すること」対等に組み戦うこと。]

國衡は城を出でて、出羽の道より大關山を越える所に、和田小太郎義盛、大高宮おほだかみやの邊にして追詰めければ、國衡深田に馬を入れて、打てどもあがらず、終に首をぞ取られける。金十郎、勾當こうたう八、赤田次郎が籠りし根無藤ねなしふぢの城も落ちて、郎等、或は討死し、勾當八、赤田以下三十餘人は生捕いえどらる。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅵ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き、残り総てを示しておく。
〇原文
十日丁酉。(前略)
又小山七郎朝光討金剛別當。其後退散武兵等。馳向于泰衡陣。阿津賀志山陣大敗之由告之。泰衡周章失度。逃亡赴奥方。國衡亦逐電。二品令追其後給。扈從軍士之中。和田小太郎義盛馳拔于先陣。及昏黑。到于芝田郡大高宮邊。西木戸太郎國衡者。經出羽道。欲越大關山。而今馳過彼宮前路右手田畔。義盛追懸之。稱可返合之由。國衡令名謁。廻駕之間。互相逢于弓手。國衡挾十四束箭。義盛飛十三束箭。其矢。國衡未引弓箭。射融國衡之甲射向袖。中膊之間。國衡者痛疵開退。義盛者又依射殊大將軍。廻思慮搆二箭相開。于時重忠率大軍馳來。隔于義盛國衡之中。重忠門客大串次郎相逢國衡。々々所駕之馬者。奥州第一駿馬。〔九寸。〕號高楯黑也。大肥満國衡駕之。毎日必三ケ度。雖馳登平泉高山。不降汗之馬也。而國衡怖義盛之二箭。驚重忠之大軍。閣道路。打入深田之間。雖加數度鞭。馬敢不能上陸。大串等彌得理。梟首太速也。亦泰衡郎從等。以金十郎。匂當八。赤田次郎。爲大將軍。根無藤邊搆城郭之間。三澤安藤四郎。飯富源太已下猶追奔攻戰。凶徒更無雌伏之氣。彌結烏合之群。於根無藤與四方坂之中間。兩方進退及七ケ度。然金十郎討亡之後皆敗績。匂當八。赤田次郎已下。生虜卅人也。此所合戰無爲者。偏在三澤安藤四郎兵略者也。今日於鎌倉。御臺所以御所中女房數輩。有鶴岡百度詣。是奥州追討御祈精也云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁酉。(前略)
又、小山七郎朝光、金剛別當を討つ。其の後退散の武兵等、泰衡の陣に馳せ向ひ、阿津賀志山の陣大敗の由、之を告ぐ。泰衡、周章し度を失ひて逃亡し、奥の方へ赴く。國衡も亦、逐電す。二品、其の後を追はしめ給ふ。扈從の軍士の中、和田小太郎義盛、先陣に馳せ拔け、昏黑こんこくに及びて、芝田郡大高宮邊に到る。西木戸太郎國衡は、出羽道を經て、大關山を越えんと欲す。而して今、彼の宮の前路の右手の田のあぜを馳せ過ぐ。義盛、之を追ひ懸け、返し合はすべしの由を稱す。國衡、名謁なのらしめ、駕を廻らすの間、互ひに弓手ゆんでに相ひ逢ひ、國衡、十四束のを挾み、義盛、十三束の箭を飛ばす。其の矢、國衡、未だ弓箭きゆうせんを引かざるに、國衡のよろひ射向いむけの袖を射融いとほして、かひなあたるの間、國衡は疵を痛みて開き退く。義盛は又、殊なる大將軍を射るに依つて、思慮を廻らし、二の箭を搆へて相ひ開く。時に重忠、大軍を率して馳せ來たり、義盛・國衡の中を隔つ。重忠が門客、大串次郎、國衡に相ひ逢ふ。國衡、駕する所の馬は、奥州第一の駿馬〔九寸くき。〕高楯黑たかだてぐろと號すなり。大肥満の國衡、之に駕し、毎日必ず三ケ度、平泉の高山へ馳せ登ると雖も、汗をくださざるの馬なり。而るに國衡、義盛の二の箭を怖れ、重忠の大軍に驚き、道路をさしおきて、深田に打ち入るの間、數度、鞭を加ふと雖も、馬、敢へてくがあがる能はず。大串等、彌々理を得、梟首す。太だ速かなり。亦、泰衡が郎從等の金十郎・匂當こうたう八・赤田次郎を以つて、大將軍と爲し、根無藤ねなしふぢ邊に城郭を搆へるの間、三澤安藤四郎・飯富源太已下、猶ほ追ひ奔り攻め戰ふ。凶徒、更に雌伏の氣無し。彌々烏合うがふの群を結び、根無藤と四方坂の中間に於いて、兩方の進退、七ケ度に及ぶ。然るに、金十郎、討ち亡ぼさるるの後は、皆、敗績す。匂當八・赤田次郎已下、生け虜らるもの卅人なり。此の所の合戰、無爲ぶゐなるは、偏へに三澤安藤四郎の兵略に在る者なり。
今日鎌倉に於いて、御臺所、御所中の女房數輩を以つて、鶴岡へ百度詣で有り。是れ、奥州追討の御祈精なりと云々。

・「昏黑」日没。日が暮れて暗くなることをいう。
・「芝田郡大高宮」現在の宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬字台部にある大高山神社付近。個人のHP「畑の中の地元学」の「藤原国衡終焉の地はブルーベリー農園?」に当該地の紹介がある。
・「大關山」「角川日本地名大辞典」は笹谷峠とする。「奥の細道」に出る有耶無耶関跡があることで知られる難所。宮城県と山形県とを結ぶ最古の峠で、標高は九〇六メートル。
・「射向の袖」鎧の左側の袖。
・「開き退く」戦陣では「退く」は忌み言葉であることから退却することを「開く」と言った。その影響が叙述に出たものであろう。
・「義盛は又、殊なる大將軍を射るに依つて、思慮を廻らし、二の箭を搆へて相ひ開く」これは、大将軍を討ち取るということになるため、義盛も――止めの二の矢をわざと難度の高い遠矢で射ることを選択し(恐らくは戦後の論功行賞で、より殊勲なる戦功に相当すると考えたからであろう)――矢を構えたままやや後退したため、両者退く格好となり、その間に有意な間隙が生じてしまったのである。
・「大串次郎」大串重親(生没年未詳)。武蔵国出身。『宇治川の戦いにおいて、川を渉る際に馬を流され、徒歩で渡河し、同じく馬を流されて徒歩で渡っていた畠山重忠にしがみついた。怪力で知られる重忠は重親を掴んで向こう岸まで投げ飛ばした。岸まで投げ飛ばされた重親は、大勢の敵を前にして、我こそが徒立ちの先陣(騎乗での先陣は佐々木高綱)であると大声で宣言し、敵味方から笑いが起こったという』(高校の古文ではかつて教科書に必ず載っていた名(迷)場面である)。『源平盛衰記によれば重忠が追討された二俣川の戦いにも参戦していた。このとき重親は安達景盛などと共に重忠と対峙したが、弓を収めて引き返した。北条時政の讒訴によって追討されることとなった重忠への同情からの行動だといわれる』(以上はウィキの「大串重親」より引用した)。
・「九寸くき」「」は馬の丈(背の部分までの高さ)を測るのに用いた語。長さは「すん」に同じ。標準となる四尺(約一二〇センチメートル)を略し、四尺一寸を「ひとき」、四尺二寸を「ふたき」、三尺九寸を「返りひとき」などと称した。これは四尺九寸、実に一五〇センチメートル弱となり、この高楯黑という名の馬(いい名だ)、当時の馬としては巨漢である。
・「道路をさしおきて」目的語が道路であるから、この「さしおく」の「おく」は、隔てるの意で、道を踏み違えたことを指す。以下の泥田にはまり込んで、首を掻かれる國衡のシーンは、無論、「平家物語」の義仲最期を意識している。
・「根無藤」現在の宮城県刈田郡蔵王町円田字根無藤。ネット上を見ると、この地名の由来には、前九年の役で劣勢となった安倍一族が陣を引き払う際、大将安倍貞任が公孫樹の根元に藤で出来た鞭を挿して去ったが、その藤が芽を出し、公孫樹に絡みつく大木となったという説と、いや、刺したのは勝利者となった源頼義だとする説などがあるようである。
・「四方坂」四方峠。現在の宮城県刈田郡蔵王町平沢及び柴田郡村田町足立にある。標高三四八メートル。
・「三沢安藤四郎」不詳。陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した安倍貞任の子孫を自称した安東氏(津軽安藤氏とも呼称)の関係者とも言われる。]

出羽國も破られて、田川、秋田、討たれたり。大將泰衡は玉造郡に赴き、平泉のたちに歸りしかども、宗徒むねとの郎等悉く討ほされて叶ふべくもあらざりければ、火を掛け、一片の烟と燒上やきあげ、跡をくらまして逃亡す。哀なるかな、平泉の館は淸衡より以來このかた、三代の舊跡としてかつらの柱・からもゝうつばり麗水りすゐこがねり、昆山こんざんの玉をちりばめ、作磨つくりみがきし館舍なるに、姑蘇城こそじやう一片の煙に和し、咸陽宮かんやうきう三月の火に化しける運命の程こそ悲しけれ。賴朝、諸方に軍兵を遣して尋搜たづねさがさるる所に、泰衡、一旦の命を助からんとて夷嶋えぞがしまに赴き、厨河くりやあがはの邊に忍行しのびゆきけるを、譜代の郎等河田次郎、忽に舊好きうこうの恩を忘れ、泰衡をうつて、首を賴朝に奉り、降人に出たり。主君を殺す八虐人をみせしめの爲にとて、河田が首をね、出羽、奥州を治めて、鎌倉に歸陣あり。

[やぶちゃん注:〈泰衡斬られ〉
冒頭は「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十三日の条に基づく。
〇原文
十三日庚子。比企藤四郎。宇佐美平次等。打入出羽國。泰衡郎從田河太郎行文。秋田三郎致文等梟首云々。今日。二品令休息于多賀國府給。
〇やぶちゃんの書き下し文
十三日庚子。比企藤四郎・宇佐美平次等、出羽國へ打ち入る。泰衡が郎從の田河太郎行文、秋田三郎致文等を梟首すと云々。
今日。二品、多賀國府に休息せしめ給ふ。
からもゝ」バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ Prunus armeniaca
「麗水の金を鏤り、昆山の玉をちりばめ」宋代の僧文瑩の「湘山野録」にある「崑山出玉」及び「麗水生金」に基づく故事成句を下敷きとする。「崑山」は中国西方の伝説上の霊山で西王母の居所で美玉の産地と言われた崑崙山、「麗水」は湖北省にある川名前で砂金を産することで知られたが、これは「崑山、玉を出だし、麗水、金を生ず」で、優れた家系や立派な親からは立派な人物や子が生まれることの譬えであり、ここは失われた藤原三代の栄枯盛衰の懐旧の情を詠んでいるのである。
「姑蘇城一片の煙に和し、咸陽宮三月の火に化しける」「姑蘇城」呉王夫差の居城。越王勾践による復讐戦で焼け落ちた。「咸陽宮」戦国時代に秦の孝公が咸陽に建てた壮大な宮殿。後に始皇帝が宮廷として荘厳美麗なる要塞であったが、項羽によって焼き払われた。その火は三ヶ月に渡って燃え続けたと伝えられる。
「泰衡一旦の命を助からんとて夷嶋に赴き……降人に出たり。」ここは、「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年九月三日の条に基づく。
〇原文
三日庚申。泰衡被圍數千軍兵。爲遁一旦命害。隱如鼠。退似鶃。差夷狄嶋。赴糠部郡。此間。相恃數代郎從河田次郎。到于肥内郡贄柵之處。河田忽變年來之舊好。令郎從等相圍泰衡梟首。爲献此頚於二品。揚鞭參向云々。
 陸奥押領使藤原朝臣泰衡。〔年卅五〕
 鎭守府將軍兼陸奥守秀衡次男。母前民部小輔藤原基成女
 文治三年十月。繼於父遺跡爲出羽陸奥押領使管領六郡
〇やぶちゃんの書き下し文
三日庚申。泰衡、數千の軍兵に圍まれ、一旦の命害みやうがいのがれんが爲、隱るること鼠のごとく、退くこと、げきに似たり。夷狄えぞが嶋を差して糠部郡ぬかのぶのこほりへ赴く。此の間、數代すだいの郎從河田次郎を相ひたのみ。肥内郡贄柵ひないのこほりにへのさくに到るの處、河田、忽ち年來の舊好を變じ、郎從等をして泰衡を相ひ圍ましめ、梟首せしむ。此の頸を二品に献ぜんが爲、鞭を揚げ參向すと云々。
 陸奥押領使藤原朝臣泰衡〔年卅五。〕。
 鎭守府將軍兼陸奥守秀衡が次男、母は前民部小輔藤原基成が女。
 文治三年十月、父の遺跡を繼ぎ、出羽・陸奥の押領使として六郡を管領す。
・「鶃」国史大系版では(へん)と(つくり)が左右逆転しているが、これが本字。水鳥の一種とする。「博物志」には『雌雄相視則孕』(雌雄、相ひ視れば即ち孕む)などとあるから想像上の妖鳥かとも思われるが、この字には単に、鳥の子・幼鳥の意味があるから、ここはそれであろう。
・「糠部郡」かつて陸奥国にあった旧糠部郡ぬかのぶぐん。現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていた広大な地域を指す。
・「肥内郡贄柵」現在の大館市比内町に比定されている。

「主君を殺す八虐人をみせしめの爲にとて、河田が首を刎ね」ここは、「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年九月六日の条に基づく。
〇原文
六日癸亥。河田次郎持主人泰衡之頸。參陣岡。令景時奉之。以義盛。重忠。被加實檢上。召囚人赤田次郎。被見之處。泰衡頸之條。申無異儀之由。仍被預此頸於義盛。亦以景時。被仰含河田云。汝之所爲。一旦雖似有功。獲泰衡之條。自元在掌中之上者。非可假他武略。而忘譜第恩。梟主人首。科已招八虐之間。依難抽賞。爲令懲後輩。所賜身暇也者。則預朝光。被行斬罪云々。其後。被懸泰衡首。康平五年九月。入道將軍家賴義獲貞任頸之時。爲横山野大夫經兼之奉。以門客貞兼。請取件首。令郎從惟仲懸之。〔以長八寸鐵釘。打付之云々。〕追件例。仰經兼曾孫小權守時廣。時廣以子息時兼。自景時手。令請取泰衡之首。召出郎從惟仲後胤七太廣綱令懸之。〔釘同彼時例云々。〕
〇やぶちゃんの書き下し文
六日癸亥。河田次郎、主人泰衡の頸を持ち、陣岡じんがおかに參じ、景時をして之を奉らしむ。義盛、重忠を以て、實檢を加へ被るの上、囚人赤田次郎を召し、見らるるの處、泰衡が頸の條、異儀無きの由を申す。仍つて此の頸を義盛に預け被る。亦、景時を以つて、河田に仰せ含められて云はく、「汝が所爲しよゐ、一旦功有るに似たりと雖も、泰衡をるの條、元より掌中に在るの上は、他の武略をるべきに非ず。而るに譜第の恩を忘れ、主人の首をけうす、とが、已に八虐を招くの間、抽賞ちうしやうし難きに依つて、後の輩を懲らしめんが爲に、身のいとまを賜る所なり。」てへれば、則ち朝光に預け、斬罪に行はると云々。
其の後、泰衡が首を懸けらる。康平五年九月、入道將軍家賴義、貞任の頸をるの時、横山野大夫經兼がうけたまはりとして、門客貞兼を以つて、件の首を請け取り、郎從惟仲、之を懸けしむ。〔長八寸の鐵釘を以つて、之を打ち付くと云々。〕件の例を追ひて、經兼が曾孫小權守時廣に仰す。時廣が子息時兼を以つて、景時が手より、泰衡の首を請け取らしめ、郎從惟仲が後胤、七太廣綱を召し出して、之を懸けしむ。〔釘、彼の時の例に同じと云々。〕
・「八寸」約二十四センチメートル強。

「鎌倉に歸陣あり」頼朝の鎌倉帰着は「吾妻鏡」によれば文治五(一一八九)年九月二十八日である。但し、次の「無量光院の僧詠歌」には帰鎌以前の奥州での検分の内容が混入している。]



    ○無量光院の僧詠歌
 其比、平泉の無量光院むりやうくわうゐんの住持の僧助公じよこう法師は學智行德の道人なり。多年、泰衞と師檀したんちぎり淺からざりしに、おもひの外なる兵亂起りて、國家、悉く滅亡す。泰衡のたち大厦高堂たいかうだう、灰燼となり、數町すちやうの郭地、寂寞として飄々たる秋の風はひびきを失ひ、蕭々たる夜の雨は音絶えて、心細き事、限なし。今夜は名におふ九月十三夜、この人、世にあらましかば、傾く月にあこがれて折から興を催し給ひて、人々集り、吟哦ぎんがあそびもありなん。移變うつりかはる世の中とて、只、我ひとりのみながむる事よ、とそゞろに涙の浮びければ、一首の歌を吟詠す。是を聞きける人、鎌倉殿に言上して、助公法師はいきどほりを含み、逆意ぎやくいを企つる由風聞しければ、即ちからめ取りて、梶原景時に子細を推問せらる。助公申されけるは、「そもそも無量光院と申すは鎭守府將軍藤原秀衡の建立として、宇治の平等院の地境ちけいうつし、丈六の彌陀を安置して本尊とす。堂内四壁の扉には觀經くわんぎやう説相せつさう圖畫づぐわし、三重の寶塔甍はうたふいらか既に雲に輝き、院内の莊嚴しやうごんは、光り、又、空に映ず。しかのみならず、出羽陸奥みちのく兩國の中に一萬餘の村里あり。淸衡、武貞、基衡に至る代々、伽藍を建立し、秀衡、父のゆづりけ、佛餉ぶつしやう燈油の寄附を致し、九十九年以來このかた、堂舍の建立、數を知らず。西は白川の關を境ひ、東は外濱そとのはまに至る。中央に衣の關を構へて、左は高山に隣り、右は長途をる、南北の嶺連り亙つて、産業は海陸を兼ねたり。三十餘里の行程ぎやうてい竝木なみきの櫻、春毎に雪か花かとあやしまる。駒形山の峯よりもふもとに流るゝ北上川、衣川に續きて、宦照が小松だて成通なりみち琵琶柵びはのしがらみ、皆、翠岩すゐがんの間にあり。衣川の舊き跡は、秋草むなしとざす事、數十町、いしずゑ殘りて苔し、城郭の名のみ聞えて、狐兎ことすみかとなり果てたり。是等の事を思續おもひつゞくるに、誰かあはれを知ざらざらん。折しも長月の十三夜、今年は例に替りて獨りながむる月影のふけ行くまゝに曇りがちなるを見て、
  昔にもあらでぞ夜はのうれはしく月さへいとど曇りがちなる
  浮雲を吹き拂ふ空の秋風を我がものにして月ぞ見まほし
折節、懷舊の催す所を聞きてさかしら致す者ありて、當時を恨み憤ると風聞仕る事は、前世のむくいと存ずるなり。如何にも計ひ給ふべし。とがなき身には力及ばず」とぞ申されける。景時、涙を流し、歌のさまをはうびして、賴朝卿にかくと申せば、誠にあはれ思召おぼしめして、「このうへ還住げんぢうせられよ、相違の事あるべからず」とてしやうを加へてぞ歸されける。

[やぶちゃん注:初代藤原清衡は中尊寺、二代藤原基衡は毛越寺を造営したが、三代藤原秀衡が建立したのが無量光院。無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し、「吾妻鏡」には無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁であった「平泉館」があったと記載されている。無量光院は宇治の平等院を模して造られ、新御堂にいみどうと号した(新御堂とは毛越寺の新院の意)。現代の発掘調査の結果、四囲は東西約二四〇メートル・南北約二七〇メートル・面積約六・五ヘクタールと推定され、平等院(現在の境内は約二ヘクタール)よりも遙かに規模が大きかったと推定されている。参照したウィキの「無量光院跡」によれば、『本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で、地形や建物の配置も平等院を模したとされるが、中堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なる。本堂の規模は鳳凰堂とほぼ一致だが、翼廊の長さは一間分長い。建物は全体に東向きに作られ、敷地の西には金鶏山が位置していた。配置は庭園から見ると夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように設計されており、浄土思想を体現していた』。本文の無量光院の由来は「吾妻鏡」の九月十七日及び二十三日の条を、また、衣川周辺の様子については同九月二十七日の条を引いている。
「助公」この人物に纏わるエピソードは、頼朝帰鎌後、当年も押し迫った「吾妻鏡」文治五 (一一八九) 年十二月二十八日の条(これが当年の最終記載である)に現われる。即ち、これは事実に即して鎌倉での出来事として終始描かれているのだが(だから前話の最後でも頼朝の帰鎌を語っている)、読む者は無量光院の描出から自然に尋問の場へと移って、恰も裁きが無量光院で行われているような錯覚を与えて素晴らしい、と私は感じている。
〇原文
廿八日癸丑。平泉内無量光院供僧一人。〔号助公。〕爲囚人參著。是慕泰衡之跡。欲奉反關東之由。依有風聞。所被召禁也。今日。以景時被推問子細之處。件僧謝申云。師資相承之間。淸衡已下四代。皈依續佛法惠命也。爰去九月三日。泰衡蒙誅戮之後。同十三日夜。天陰。名月不明之間。
 昔にも非成夜の志るしにハ今夜の月も曇ぬる哉
如此詠畢。此事更非奉蔑如當時儀。只折節懐舊之所催也。無異心云々。景時頗褒美之。則達此由二品。還有御感。厚免其身。剩被加賞云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日癸丑。平泉内、無量光院の供僧一人、〔助公と号す。〕囚人と爲りて參著す。是れ、泰衡の跡を慕い、關東をそむき奉らんと欲するの由、風聞有るに依りて、召しいましめらる所なり。今日、景時を以つて子細を推問せらるるの處、件の僧、謝し、申して云はく、「師資相承ししさうじやうの間、淸衡已下四代の皈依きえ、佛法の惠命ゑみやうぐなり。爰に去ぬる九月三日、泰衡誅戮ちうりくを蒙るの後、同十三日の夜、天、くもり、名月、明らかならざるの間、
 昔にも非らずなる夜のしるしには今夜こよひの月も曇りぬるかな
此の如く詠じ畢んぬ。此の事、更に當時の儀を蔑如べつじよし奉るに非ず、 只だ折節 、懐舊の催す所なり。異心無しと云々。
景時、頗る之を褒美す。則ち、此の由を二品に達す。還へりて御感有りて、其の身を厚免せられ、剩さへ賞を加へらると云々。
・「師資相承」訓読すると「師資、相ひく」で、師の教えや技芸を受け継いでいくこと、また、師から弟子へ学問や技芸などを引き継いでいくことをいう。「師資」は師匠・先生または師匠と弟子の意とも。
・「昔にも非らずなる夜のしるしには今夜の月も曇りぬるかな」初句が硬い。曇るのは勿論、涙のせいでもある。歌意は、
――昔日の栄華は最早、すっかり失われてしまった今日の、この夜……そのしるしに……今夜の月も……曇って見えぬことよ……

「佛餉」仏に供える米飯。仏飯ぶっぱん
「外濱」外が浜は青森県津軽半島東部の陸奥湾沿岸を指す古来の地名。青森市油川から外ヶ浜町三厩までを指す。古くは更に広い範囲を指して西は津軽半島の日本海沿岸を含むとする説や東は下北半島の尻屋崎までとする説がある。地名の由来は、それまで続いていた陸地が尽きる場所、国土の終端を意味する言葉である「率土浜そっとのひん」と考えられている(ウィキの「外が浜」に拠る)。
「右は長途を經る、南北の嶺連り亙つて」連続した文。奥羽山脈全体を指している。右手は――その里程極めて遠く遙かなる――南北の峰々連なり亙って、の意。
「宦照が小松楯」底本は「官照」。京都梅村弥右衛門板行で訂した。これは前九年の役で養父良照や父頼時・兄貞任らに従って活躍、その後出家して宦照と名乗った、兄宗任らとともに大宰府に配流されている安倍家任(あべの いえとう 康平五(一〇六二)年?)所縁の松か? 識者の御教授を乞うものである。「小松楯」とは、そこにすっくと佇立している様を言うか。
「成通が琵琶柵」藤原成通なりみち(承徳元(一〇九七)年~応保二(一一六二)年)は平安後期の公卿。権大納言藤原宗通四男。蹴鞠や今様の達人として知られ、特に前者においては後世まで「蹴聖」と呼ばれて、長く蹴鞠の手本とされた。笛の名手でもあったから、その芸達者な彼の肥えた耳をさえ欹てさせるような妙なる琵琶の(藤原三代の栄華の幻聴か)といった謂いか? 増淵氏は、ここを『駒形山かの峯からふもとに流れ下っている北上川は、衣川に合流して、宦照の小松の目をひく緑も、また侍従大納言成通なりみち(蹴鞠・今様の名人)の耳を傾けさせる琵琶の音色も、皆この青々とした岩間からうかがえるような気がします』と私と同じような印象で訳しておられるが、しかし、私自身も気持ちが悪いのだが、どうもこれ、並列のバランスが悪い気がする。識者の御教授を乞うものである。
「昔にもあらでぞ夜はの憂しく月さへいとど曇りがちなる」前掲通り、「吾妻鏡」とは、かなり異なる。連体中止法が利いて、作者の感涙がはっきりと伝わる。俄然、こちらの方がうまい、と、私は思うのである。通釈しておく。
――昔日の面影も、最早、すっかり失われてしまった今日の、この夜……今、たった一人、憂いに沈んでいる……だから……月さえも、ますます曇りがちに……なる……
「浮雲を吹き拂ふ空の秋風を我がものにして月ぞ見まほし」前掲通り、「吾妻鏡」には不載。出所不明。識者の御教授を乞う。「浮雲」は「憂き」を掛けるが、二句目の音律が今一つである(と私は思う)。通釈しておく。
――漂う雲よ……遮る雲よ! お前は何と情けのないことか!……秋風よ! お前を、我がものにしてでも……私は……月を見たい……

さても、他にも注すべきところはあろうが、私はこの寂寥の風雅を、これ以上、私の下らぬ注で穢したくないと思う。……]



      ○賴朝上洛 竝 官加階 付 惣追捕使を申賜る
建久元年十一月七日、賴朝卿、上洛し給ふ。池大納言賴盛卿の六波羅の舊跡を點じて入り給ふ。次の日、院參あり。網代あじろの車、大八えふもんすゑられたるに召され、夜に及びて退出あり。次の日、禁中に參内し給ふ。除目ぢもく行はれて、賴朝卿、參議中納言を經ずして、たゞちに權大納言に任ぜらる。同二十四日、右大將に任じ給ふ。御直衣始なほしはじめあり。藤の丸うす色竪文の織物差貫おりものさしぬき野劍のだちたいし、しやくを持ち、梹榔毛びりやうげの車に召され、前駈ぜんく六人、随兵ずゐひやう八人にて院參し給ふ。美美敷びびしくぞ見えにける。ついで兩職を辞退して、十二月二十九日、鎌倉に歸り給ふ。翌年正月十五日、政所の吉書始きつしよはじめを行はる。前因幡守平朝臣廣元を政所別當にせられ、中宮屬ちうぐうのさくわん三善康信、問注所の執事となる。和田左衞門少尉平朝臣義盛を侍所の別當とし、梶原景時を所司とし給ふ。去ぬる文治二年三月に平家追討の賞として後白河院より征東大將軍の宣をかうぶり、正二位に轉ぜらる。廣元、申しけるやう、「世、既に澆薄げうはくにして、人また梟惡けうあくなり。天下反逆の輩、更に以てたつべからず。東國は御住居なれば、静謐すべしといへども、南方、西、北國に於てはさだめ奸濫かんらんくはだてを起さん歟、是を靜められん爲に、毎度軍勢を催して發向せしめ給はば、民のわづらひ、國のつひえいくばく、そのかぎり候まじ。只、この次に六十餘州の惣追捕使そうついふしを申し賜り、國衙荘園こくがしやうゑんに守護、地頭を居ゑられば、如何なる事にもそのおそれあるべからず」と申しければ、賴朝卿、甘心かんしんし給ひ、「誠に本末相應の忠言なり」とて、即ち奏聞を經て、諸國の守護地頭權門勢家けんもんせいけ莊工しやうくを論ぜす、段別五桝だべつしやう兵糧米ひやうらうまい宛課あておはすべきの由申さるゝに、院は何の御遠慮にも及ばず、次の日、勅許あり。賴朝、是より諸國に守護を置きて国司の威を抑へ、莊園に地頭を居ゑて、本所ほんしよの掟を用ひず。王道は日を追て衰敗し、武威は月に隨ひて昌榮しやうえいす。天下、その命を守り、国家、このけんに服す。

[やぶちゃん注:本話の内、
①頼朝が上洛して権大納言(建久元(一一九〇)年十一月九日拝命)並びに右大将(同十一月二十四日拝命)に任ぜらるるも、両職を辞退して(同十二月三日)、下向(十二月十四日京都進発、同二十九日の午後八時頃、鎌倉現着)
の部分は、
「吾妻鏡」巻十の建久元年十一月七日・九日・二十四日・十二月二日・二十九日の条
に拠り、
②政所・問注所・侍所及び所司任命
の部分は
「吾妻鏡」巻十一の建久二(一一九一)年一月十五日の条
に拠る。次いで、後半部の、
③征夷大将軍・正二位拝命(建久三(一一九二)年七月十二日)
は、
「吾妻鏡」巻十二の建久三年七月二十日の条
に拠る(タイム・ラグは飛脚によるため)。続く部分は実は時計が巻き戻されており、
④大江広元の提言によって(文治元(一一八五)年十一月十二日)、諸国に守護・地頭を置く
という部分は六~七年遡った、
「吾妻鏡」巻五の文治元(一一八五)年十一月十二日・二十八日・二十九日及び文治二年三月一日の条
に基づくものである。
 なお、ここに「六十餘州の惣追捕使」とあるが、この文治元年十一月の通称文治勅許の際、地頭職を義経追捕を直接目的として全国的に設置する権限を朝廷に求めて承認されてはいるが、一応、頼朝が守護任命権を持った「諸國惣追補使」となったことは「吾妻鏡」巻六の文治二年三月一日に示される。筆者は文治二年三月一日を以って「諸國惣追補使」になったと当然思っていよう。しかし、ことはそう単純ではない。実は、これが、
正式な「諸國惣追補使」として公的に「確認される」のは
実はもっとあと、正にここで時計が本話の頭に戻って、頼朝の凱旋上洛から権大納言・右大将叙任及びあっという間の辞任という場面の中で行われたのであり、まさに正しくは
頼朝が名実ともに諸国追補使となったのは建久元(一一九〇)年
であると考えられているのである。
 そうして私は、上横手雅敬うわよこてまさたか氏が「源平の盛衰」(講談社学術文庫一九九七年刊)などで主張なさっているところの、
頼朝の諸国追補使公認の建久元(一一九〇)年を鎌倉幕府の成立とする
という考え方を全面的に支持するのである。即ち、本話こそが
〈鎌倉幕府成立〉
と標題すべきシークエンスであると私は考えるのである。

「池大納言賴盛卿」平頼盛(長承二(一一三三)年~文治二(一一八六)年)。頼朝の助命を願い出た池禅尼の子で清盛の異母弟。平家滅亡後も頼朝から厚遇された。没年でお分かりの通り、ここは旧故頼盛邸を宿所としたのである。
「院參」勿論、後白河院の元へである。
「直衣始」現代音では「のうしはじめ」と読む。関白・大臣などが勅許を受けて初めて直衣を着用する儀式。「ちょくいはじめ」とも読む。
「竪文」「かたもん」と読み、綾の織物の文様のよこいとを浮かさずに固く織ったもの。緯にたていとをからめて織ったもので「浮文うきもん」の対語である。
野劍のだち」自衞用の短刀。刺刀さすが
梹榔毛びりやうげ」「檳榔毛の車」と同じで「びらうげのくるま(びろうげのくるま)」とも読む。牛車の一種で、白く晒した檳榔びんろう(単子葉植物ヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu)の葉を細かく裂き、車の屋形を覆ったものを言う。
「美美敷」形容詞「びびし」で、①立派だ。美事だ。②美しい。華やかだ。ここは総ての謂いでとってよかろう。
「吉書始」吉書とは年始や改元、政務の新規開始などの際に吉日を選んで総覧に供される、それ専用に書き記された儀礼的文書のことで、吉書始は吉書奏きっしょのそうとも呼ばれる吉書を総覧する儀式を指す。
中宮屬ちうぐうのさくわん中宮職ちゅうぐうしき(本来は律令制において中務省に属して后妃に関わる事務などを扱う役所のこと)の主典さかんたすける官の意の「佐官」の字音の当字。律令制で四等官しとうかんの最下位。記録・文書を起草、公文の読み役を務めたりした)。
「所司」「しよし(しょし)」と読み、侍所の次官の職名。
「文治二年三月に平家追討の賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙り、正二位に轉ぜらる」は、元暦二(一一八五)年三月の誤り(文治への改元は同年八月十四日)。ここは更に③のパートであるから、厳密には、
『右大將家、建久三年七月十二日、元暦二年三月に平家追討、その賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙り、正二位に轉ぜらる』
という風になっていないと、本当はおかしい。
「廣元申しけるやう……」以下、「吾妻鏡」の文治元(一一八五)年十一月十二日の条の後半を示す。前半は源義経の都落ちと逃亡、関係諸人の処分などが記され、このゆゆしき一件を受けての広元の主張となる。
〇原文
十二日辛夘。(前略)凡今度次第。爲關東重事之間。沙汰之篇。始終之趣。太思食煩之處。因幡前司廣元申云。世已澆季。梟惡者尤得秋也。天下有反逆輩之條更不可斷絶。而於東海道之内者。依爲御居所雖令靜謐。奸濫定起於他方歟。爲相鎭之。毎度被發遣東士者。人々煩也。國費也。以此次。諸國交御沙汰。毎國衙庄園。被補守護地頭者。強不可有所怖。早可令申請給云々。二品殊甘心。以此儀治定。本末相應。忠言之所令然也。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日辛夘。(前略)凡そ今度の次第、關東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、はなはだ思しし煩ふの處、因幡前司廣元申して云はく、「世、已に澆季げうきにして、梟惡の者尤もときを得るなり。天下の反逆の輩有るの條、更に斷絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所たるに依りて靜謐せしむと雖も、奸濫かんらん定めて他方に起らんか。之を相ひ鎭めんが爲に、毎度、東士を發遣せらるるは、人々の煩ひなり。國のついえなり。此のついでを以つて、諸國に御沙汰を交へ、國衙庄園毎に守護地頭を補せられば、強ちに怖れる所有るべからず。早く申し請けせしめ給ふべし。」と云々。
二品、殊に甘心し、此の儀を以つて治定ぢぢやうす。本末の相應、忠言の然らしむる所なり。
・「澆季」「澆」は軽薄、「季」は末の意で、道徳が衰えた乱れた世。世の終わり。末世。世も末。「北條九代記」の「澆薄」も同じく、道徳が衰えて人情の極めて薄くなっていることを言う語である。
・「梟惡」性質が非常に悪く、人の道に背いていること。
・「御居所たるに依りて」二品頼朝様のお膝元なれば、の意。
・「毎度東士を發遣せらるるは」毎回毎回、いちいち関東の兵卒を派遣なさっておっては、の意。
・「御沙汰を交へ」命令系統をしっかりと組織した上で上意下達させて。
・「國衙庄園毎に守護地頭を補せられば」は、つい最近まで無批判に、国衙に守護を、荘園に地頭を置くという風に解釈されてきたのだが、近年の研究では守護と地頭ではなく、国衙や荘園を守護するための地頭が正しい解釈として支持されているようである。諸国に設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めるのは(しかも頼朝政権当時は全国的なものではなく、東日本に偏ったもので、畿内以西では朝廷や寺社勢力が依然、有意な力を持っていた)、正に私が支持する鎌倉幕府成立の建久元(一一九〇)年前後とされているのである。

莊工しやうく」荘園。
段別だべつ」段別・反別で普通は「たんべつ」と読む。田を一反単位に分けることであるが、通常はそれに課税することを意味する。一反は九九一・七四平方メートで約一〇アール、約三〇〇坪強。
五桝しやう」五升。約七・五キログラム。
「申さるゝに、院は何の御遠慮にも及ばず、次の日勅許あり」ここには勿論、省略があって、以上を受けて、同月(文治元(一一八五)年十一月)二十八日に北條時政から後白河院への以上の要請が吉田経房を通して上奏され、それが即決で「次の日」二十九日に勅許されたことを指している。両日の「吾妻鏡」を部分的に引いておく。
〇原文
廿八日丁未。補任諸國平均守護地頭。不論權門勢家庄公。可宛課兵粮米〔段別五升。〕之由。今夜。北條殿謁申藤中納言經房卿云々。
廿九日戊申。北條殿所被申之諸國守護地頭兵粮米事。早任申請可有御沙汰之由。被仰下之間。師中納言被傳 勅於北條殿云々。(後略)
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日丙午。諸國平均に守護地頭を補任し、權門勢家庄公を論ぜず、兵粮米〔段別五升。〕を宛て課すべきの由、今夜、北條殿、藤經房卿中納言に謁し申すと云々。
廿九日戊申。北條殿申さるる所の諸國の守護地頭・兵粮米の事、早く申し請くるに任せて御沙汰有るべきの由、仰せ下さるの間、師中納言、 勅を北條殿に傳へらると云々。(後略)]



      ○富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討
[やぶちゃん注:本話は二部に分けて注する。従って本来は本文は続くものであることを注意されたい。]
同四年五月十六日、右大將賴朝卿、富士野藍澤ふじのあゐざは夏狩なつかりを見給ふ。五けんの假屋に賴朝、若君、旅館として、御家人同じく軒を連ねて假屋かりやを作る。若君、初て鹿を射さしめ候ふ。愛甲あいかうの三郎季隆は物逢ものあひの故實を存ずる上、折節近く、御眼路がんろこうず。若君の放ち給ふ所の矢、あやまたず鹿にあたつぶくらをせめて立ちたり。究竟くつきやう矢壺やつぼなれば、一矢にてとゞまる。賴朝、感悦かんえつ淺からず、山神に祭り、梶原平次景高を鎌倉につかはして、御臺所政子の御方へ申さしめらる。御臺、更に御感なし。「武將の嫡子として、野山の鹿鳥を射取りたるは珍しからず。楚忽そこつ早使はやづかひこそ氣疎きうとけれ」と宣ふに、景高、おもなくて歸りまゐりぬ。二十七日の未明びめいより勢子せこを催し狩り給ふに、おのおの手を盡して藝をあらはす。一日狩暮かりくらして、明日は卷狩まきがりあるべしと定めらる。

[やぶちゃん注:〈富士の巻狩り〉
本話全体は富士の牧狩りと、そこで起こった有名な曾我の仇討ちの一件を記したもので、「吾妻鏡」からは、前半部に巻十三の建久四(一一九三)年五月十五日・十六日・二十二日・二十七日の条が、後半の仇討ちのシーンは、同五月二十八日・二十九日及び六月七日の条が参照されている。本話はこの前後に分けて注することとする。
・「富士野藍澤」現在の御殿場市新橋鮎沢あゆざわ
「五間」約九メートル。
「若君」頼家。当時、満十二歳。
「愛甲三郎季隆」愛甲季隆(あいこう/あいきょうすえたか ?~建保元(一二一三)年)は相模国愛甲郡愛甲荘(現在の神奈川県厚木市愛甲)の武将。弓射に優れ、将軍随兵や正月の御的始の射手を務めており、元久二(一二〇五)年に起った畠山重忠の乱の二俣川の戦いでは、武勇の誉れ高かった重忠に矢を的中させて首級を取り、幕府軍大将北条義時に献上している。建保元(一二一三)年の和田合戦で義盛方に与して敗北、兄義久ら一族と共に討ち死にした(以上はウィキの「愛甲季隆」に拠る)。
「物逢」射芸用語で、射手が的に向かった際の作法のこと
「御眼路に候ず」頼家公の間近にお控えし、その微妙な物逢いについて助言申し上げた、という意であろう。
「羽ぶくら」底本頭注には『羽ぶくらの所まで』とある。「羽ぶくら」とは矢羽のこと。矢の後尾に附いた羽根。羽房はぶさとも言う。
「せめて立ちたり」矢が鹿の体の矢羽の根元まで喰い込んだことを言う。
「究竟の矢壺」射どころとして一撃必死の最も的確な部位。
「梶原平次景高」(永万元(一一六五)年~正治二(一二〇〇)年)梶原景時次男。長男景季の実弟。一ノ谷の戦いの緒戦であった生田の森の戦いでは父の制止をきかずに平家の陣に先駆けして奮戦した名将。駿河狐崎きつねがさきでの在地御家人と戦いにより、一族とともに討死した。
「御臺更に御感なし」多くの方はここに不審を抱かれるであろう(「氣疎けれ」とは、疎ましく不快だ、といった謂いである)。しかし、これは「吾妻鏡」を仔細に読んでゆくとよく分かるのである。以下で検証してみよう。まず、この前日建久四 (一一九三)年五月十五日の記事から。
〇原文
十五日庚辰。藍澤御狩。事終入御富士野御旅舘。當南面立五間假屋。御家人同連詹。狩野介者參會路次。北條殿者豫被參候其所。令献駄餉給。今日者依爲齋日無御狩。終日御酒宴也。手越黄瀨河已下近邊遊女令群參。列候御前。而召里見冠者義成。向後可爲遊君別當。只今即彼等群集。頗物忩也。相率于傍。撰置藝能者。可随召之由被仰付云々。其後遊女事等至訴論等。義成一向執申之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十五日庚辰。藍澤の御狩、事終りて、富士野の御旅舘に入御す。南面に當りて五間の假屋を立つ。御家人同じくのきを連らぬ。狩野介は路次に參會す。北條殿は、あらかじめ其の所へ參候せられ、駄餉だしやうを献ぜしめ給ふ。今日は、齋日さいにちたるに依つて、御狩無く、終日御酒宴なり。手越てごし黄瀨河きせがは已下、近邊の遊女群參せしめ、御前に列候す。而かうして里見冠者義成を召し、「向後は遊君の別當たるべし。只今、即ち彼等群集す。頗る物忩ぶつそうなり。かたはらに相ひ率して、藝能者を撰び置き、召に随ふべし。」との由、仰せ付らると云々。
其の後、遊女の事等、訴論そろん等に至るまで、義成、一向に之を執り申すと云々。
・「狩野介宗茂」(生没年未詳)後半で曾我兄弟に討たれる工藤祐経の叔父工藤茂光(?~治承四(一一八〇)年)の子。
・「駄餉」簡易の弁当。
・「齋日」六斎日ろくさいにち。仏教の殺生戒に基づく斎日の一つ。月の内で八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日がそれに当たる。ここは十四日であった。
・「手越」現在の静岡市駿河区手越。次の「黄瀨河」とともに東海道の宿場町として栄えた。
・「黄瀨河」現在の沼津市大岡木瀬川。
・「里見冠者義成」(保元二(一一五七)年~文暦二(一二三四)年)は新田義重の長男里見義俊(里見氏の祖)の子で頼朝の寵臣であった。それにしても遊女担当別当職として遊女関連訴訟まで総てを任されるというのは――何ともはや。漁色家であった頼朝の羽目の外し具合がよく分かる場面である。そうして、これが、間違いなく政子にバレていたのである(因みにこれは政子の憶測ではなく、彼女に繋がる密告ルートが頼朝の身辺に必ずや存在したものと私は見ている)。これが続く政子不機嫌の元凶と考えて、これ、間違いない。
 以下、翌日の条の冒頭。
〇原文
十六日辛巳。富士野御狩之間。將軍家督若君始令射鹿給。愛甲三郎季隆本自存物達故實之上。折節候近々。殊勝追合之間。忽有此飲羽云々。尤可及優賞之由。將軍家以大友左近將監能直。内々被感仰季隆云々。此後被止今日御狩訖。屬晩。於其所被祭山神矢口等。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日辛巳。富士野の御狩の間、將軍家督の若君、始めて鹿を射しめ給ふ。愛甲三郎季隆、本より物逢ひの故實を存ずるの上、折節近々に候じ、殊勝に追い合はすの間、忽ち此の飲羽いんう有りと云々。
尤も優賞に及ぶべしの由、將軍家、大友左近將監能直を以て、内々に季隆に感じ仰せらると云々。
此の後、今日の御狩を止められ訖んぬ。晩に屬して、其の所に於いて山の神・矢口やぐち等を祭らる。江間殿、餠を献ぜしめ給ふ。(以下略)
・「飲羽」本文の「羽ぶくらをせめて立ちたり」に同じ。
・「矢口」狩り場の口開けに初めて矢を射たり射た後に行った神事や儀式を言う。
 その翌日の条。
〇原文
廿二日丁亥。若公令獲鹿給事。將軍家自愛餘。被差進梶原平二左衞門尉景高於鎌倉。令賀申御臺所御方給。景高馳參。以女房申入之處。敢不及御感。御使還失面目。爲武將之嫡嗣。獲原野之鹿鳥。強不足爲希有。楚忽專使。頗有其煩歟者。景高歸參富士野。今日申此趣云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿二日丁亥。若公、鹿を獲らしめ給ふ事、將軍家、自愛の餘り、梶原平二左衞門尉景高を鎌倉へ差し進ぜられ、御臺所の御方に賀し申さしめ給ふ。景高、馳せ參じ、女房を以つて申し入るの處、敢へて御感に及ばず、御使、還つて面目を失ふ。
「武將の嫡嗣ちやくしとして、原野の鹿鳥を獲るは、強ちに希有と爲るに足らず。楚忽そこつの專使、頗る其の煩ひ有るか。」
てへれば、景高、富士野へ歸參、今日、此の趣を申すと云々。

「二十七日の未明より勢子を催し狩り給ふに、各手を盡して藝を顯す。一日狩暮して、明日は卷狩あるべしと定めらる」ある面で、政子の一喝がポジティヴな前半が、この日から実は「吾妻鏡」の叙述では急速に不吉に暗転し、奈落への陰風が吹きすさんでゆくのである。それを見よう。
〇原文
廿七日壬辰。未明催立勢子等。終日有御狩。射手等面々顯藝。莫不風毛雨血。爰無雙大鹿一頭走來于御駕前。工藤庄司景光〔著作與美水干。駕鹿毛馬。〕兼有御馬左方。此鹿者景光分也。可射取之由申請之。被仰可然之旨。本自究竸射手也。人皆扣駕見之。景光聊相開而通懸于弓手。發射一矢不令中。鹿拔于一段許之前。景光押懸打鞭。二三矢又以同前。鹿入本山畢。景光弃弓安駕云。景光十一歳以來。以狩獵爲業。而已七旬餘。莫未獲弓手物。而今心神惘然太迷惑。是則爲山神駕之條無疑歟。運命縮畢。後日諸人可思合云々。各又成奇異思之處。晩鐘之程。景光發病云々。仰云。此事尤恠異也。止狩可有還御歟云々。宿老等申不可然之由。仍自明日七ケ日可有卷狩云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日壬辰。未明、勢子等を催し立て、終日御狩有り。射手等、面々に藝を顯はす。風毛雨血ならずといふこと莫し。爰に無雙の大鹿一頭、御駕の前に走り來たる。工藤庄司景光〔作與美さゆみの水干を、鹿毛馬に駕す。〕、兼ねて御馬の左方に有り。
「此の鹿は景光が分なり。射取るべし。」
の由、之を申し請くるに、
「然るべし。」
の旨を仰せらる。本より究竸の射手なり。人皆、駕をひかへて之を見る。景光、聊か相ひ開きて、弓手ゆんでに通し懸け、一の矢を發ち射るに中らしめず。鹿、一段許りの前に拔きんづ。景光、押し懸けて鞭を打つ。二三の矢、又、以つて前に同じ。鹿は本の山に入り畢んぬ。景光、弓をて、駕を安んじて云はく、
「景光、十一歳より以來このかた、狩獵を以つてわざと爲す。而して已に七旬餘、未だ弓手に物をずといふこと莫し。而るに今、心神惘然ばうぜんとして太だ迷ひに惑ふ。是れ、則ち山神の駕たる條、疑ひ無からんか。運命、しじまり畢んぬ。後日、諸人思ひ合はすべし。」
と云々。
各々又、奇異の思ひを成すの處、晩鐘の程、景光發病すと云々。
仰せて云はく、
「此の事、尤も恠異なり。狩りを止め、還御有るべきか。」
と云々。
宿老等、然るべからざるの由を申す。仍つて明日より七ケ日、卷狩有るべしと云々。
・「勢子」底本に『鳥獸を狩出す列卒』と頭注する。
・「作與美」「貲布・細布」とも書き、音変化して「さいみ」とも読む。織り目の粗い麻布。夏衣や蚊帳などに用いた。
・「惘然」「呆然」に同じい。気が抜けてぼんやりしている状態を言う。
・「宿老等然るべからずの由を申す」ここは非常に気になるところである。景光の言う通り、山の神の載った鹿を射てしまったのだったとするなら、これはヤマトタケルの故事と同じで、とんでもない凶事である。従って頼朝の命に従うなら、即日、鎌倉へ帰ることになったはずである。それは至当である。しかし、だとすると木曾兄弟の仇討ちは未遂に終わった可能性が強烈に高まる。この牧狩り続行を進言した宿老は(誰だかは不明)、実は木曾の仇討ちを知っていた木曾兄弟所縁のシンパサイザーであったのではないかという疑いを私は払拭出来ないのである。]

その夜の子剋計ねのこくばかりに、伊東次郎祐親法師が孫曾我十郎祐成、同五郎時致ときむね忍入しのびいりて、工藤左衞門尉祐經を討ちたり。備前國吉備津宮の王藤内わうとうないは平家の家人瀨尾せのをの太郎兼保にくみして、囚人めしうどとなり、祐經に屬して、本領を許し給はり歸國すべきを、今夜、名殘の盃酒はいしゆを勸め、同じ所に臥して討たれたり。祐成兄弟の敵を討ちたる由、宿直とのゐの輩、聞付きゝつけて走り出でつゝ、疵を蒙る者多し。十郎祐成は仁田につたの四郎忠常にうたれ、五郎時数は御前を指して亂入みだれいりしを、小舍人こどねり五郎丸、搦取からめとりたり。御前に引出し、ぢきに子細を聞かしめ給ふ。この兄弟は伊東祐親が嫡子、河津かはづの三郎祐泰が子なり。去ぬる安元二年十月に伊豆國奧の狩場に祐經に射られて死す。この時、祐成五歳、時致三歳なり。親の敵なれば宿意を遂げんと晝夜に狙ひしが、祐成二十三歳、時致二十はたちに成て、今夜、本望を遂げはべり。祖父おほぢ伊藤祐親、御勘當ごかんだうを蒙り、父祐泰も相果てたり。その孫なれば召出めしいださるる事もなく、このうらみを報ぜんため、御前を指して亂入せし、と申す。賴朝、助けたく思召おぼしめしけれども、祐經が嫡子犬坊丸いぬぼうまるが申すによつて五郎は斬られにけり。六月七日、賴朝卿、鎌倉に歸り給ふ。

[やぶちゃん注:〈曾我兄弟の仇討ち〉
建久四 (一一九三) 年五月二十八日の記事から見よう。
〇原文
廿八日癸巳。小雨降。日中以後霽。子剋。故伊藤次郎祐親法師孫子。曾我十郎祐成。同五郎時致。致推參于富士野神野御旅舘。殺戮工藤左衞門尉祐經。又有備後國住人吉備津宮王藤内者。依與于平家家人瀨尾太郎兼保。爲囚人被召置之處。属祐經謝申無誤之由之間。去廿日返給本領歸國。而猶爲報祐經之志。自途中更還來。勸盃酒於祐經。合宿談話之處。同被誅也。爰祐經。王藤内等所令交會之遊女。手越少將。黄瀨川之龜鶴等叫喚。此上。祐成兄弟討父敵之由發高聲。依之諸人騷動。雖不知子細。宿侍之輩者皆悉走出。雷雨撃鼓。暗夜失燈殆迷東西之間。爲祐成等多以被疵。所謂平子野平右馬允。愛甲三郎。吉香小次郎。加藤太。海野小太郎。岡邊彌三郎。原三郎。堀藤太。臼杵八郎。被殺戮宇田五郎已下也。十郎祐成者。合新田四郎忠常被討畢。五郎者。差御前奔參。將軍取御劔。欲令向之給。而左近將監能直奉抑留之。此間小舎人童五郎丸搦得曾我五郎。仍被召預大見小平次。其後靜謐。義盛。景時承仰。見知祐經死骸云々。
 左衞門尉藤原朝臣祐經
  工藤瀧口祐繼男
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日癸巳。小雨降る。日中以後、る。子の剋、故伊藤次郎祐親法師が孫子まご、曾我十郎祐成、同五郎時致ときむね、富士野の神野かみのの御旅舘に推參致し、工藤左衞門尉祐經を殺戮す。又、備後國住人吉備津宮の王藤内わうとうないといふ者有り、平家の家人瀨尾太郎兼保にくみするに依つて、囚人として召し置かるるの處、祐經に属し、誤り無きの由を謝し申すの間、去ぬる廿日、本領を返給され歸國す。而るに猶ほ、祐經の志に報ぜんが爲、途中より更に還り來たり、盃酒を祐經に勸め、合宿談話するの處、同じく誅せらるるなり。爰に祐經、王藤内等、交會せしむる所の遊女、手越てごし少將・黄瀨川の龜鶴等、叫喚す。此の上、祐成兄弟、父のかたきを討つの由、高聲を發す。之に依つて諸人、騷動す。子細を知らずと雖も、宿侍しゆくじの輩は皆、悉く走り出づ。雷雨、つづみを撃ち、暗夜に燈を失ひて、殆んど東西に迷ふの間、祐成等が爲に多く以て疵を被る。所謂、平子野平たいらこのへい右馬允・愛甲三郎・吉香きつかは小次郎・加藤太・海野小太郎・岡邊彌三郎・原三郎・堀藤太・臼杵うすき八郎、殺戮せらるるは宇田五郎已下なり。十郎祐成は、新田四郎忠常に合い討たれ畢んぬ。五郎は、御前を差して奔參す。將軍、御劔を取り、之に向はしめ給はむと欲す。而るに左近將監能直、之を抑へ留め奉る。此の間に小舎人童こどねりわらは五郎丸、曾我五郎を搦め得たり。仍つて大見小平次に召し預けらる。其の後、靜謐せいひつす。義盛・景時、仰せを承りて、祐經の死骸を見知けんちすと云々。
 左衞門尉藤原朝臣祐經
  工藤瀧口祐繼が男
・「富士野の神野」現在の静岡県富士宮市狩宿。富士山西北西一〇キロメートルに位置する。この富士の巻狩りの際、頼朝が馬から降りた所として「狩宿の下馬桜」と呼ばれる国特別天然記念物の桜の銘木が残る。
・「平子野平右馬允」平子有長たいらこありなが。以下、人名は「曾我物語」その他をも参考にしたものもあり史実上、確定されたものではないが、試みに示しておく。「吉香小次郎」吉川友兼。「加藤太」加藤光員。「海野小太郎」海野幸氏。「岡邊弥三郎」岡辺忠光か。「原三郎」原清益。「堀藤太」木曾義高探索を命じられた既出の堀親家の兄かと思われる。「臼杵八郎」臼杵惟信。「宇田五郎」宇田信重。「左近將監能直」大友能直。

翌建久四 (一一九三) 年五月二十九日の条。
〇原文
廿九日甲午。辰剋。被召出曾我五郎於御前庭上。將軍家出御。揚幕二ケ間。可然人々十餘輩候其砌。所謂一方。北條殿。伊豆守。上総介。江間殿。豊後前司。里見冠者。三浦介。畠山二郎。佐原十郎左衞門尉。伊澤五郎。小笠原二郎。一方。小山左衞門尉。下河邊庄司。稻毛三郎。長沼五郎。榛谷四郎。千葉太郎。宇都宮弥三郎等也。結城七郎。大友左近將監。在御前左右。和田左衞門尉。梶原平三。狩野介。新開荒次郎等。候于兩座中央矣。此外御家人等群參不可勝計。爰以狩野新開等。被召尋夜討宿意。五郎忿怒云。祖父祐親法師被誅之後。子孫沈淪之間。雖不被聽昵近。申最後所存之條。必以汝等不可傳者。尤直欲言上。早可退云々。將軍家依有所思食。條々直聞食之。五郎申云。討祐經事。爲雪父尸骸之恥。遂露身鬱憤之志畢。自祐成九歳。時致七歳之年以降。頻插會稽之存念。片時無忘。而遂果之。次參御前之條者。又祐經匪爲御寵物。祖父入道蒙御氣色畢。云彼云此。非無其恨之間。遂拜謁。爲自殺也者。聞者莫不鳴舌。次新田四郎持參祐成頭。被見弟之處。敢無疑胎之由申之。五郎爲殊勇士之間。可被宥歟之旨。内々雖有御猶豫。祐經息童〔字犬房丸。〕依泣愁申。被亘五郎。〔年廿。〕以號鎭西中太之男。則令梟首云々。此兄弟者。河津三郎祐泰〔祐親法師嫡子。〕男也。祐泰去安元二年十月之比。於伊豆奥狩塲。不圖中矢墜命。是祐經所爲也。于時祐成五歳。時致三歳也。成人之後。祐經所爲之由聞之。遂宿意。凡此間毎狩倉。相交于御供之輩。伺祐經之隙。如影之随形云々。又被召出手越少將等。被尋問其夜子細。祐成兄弟之所爲也。所見聞悉申之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿九日甲午。辰剋。曾我五郎を御前の庭上に召し出ださる。將軍家出御、幕二ケけんを揚げられ、然るべき人々十餘輩、其の砌りに候ず。所謂一方は、北條殿・伊豆守・上総介・江間殿・豊後前司・里見冠者・三浦介・畠山二郎・佐原十郎左衞門尉・伊澤五郎・小笠原二郎。一方は、小山左衞門尉・下河邊庄司・稻毛三郎・長沼五郎・榛谷はんがや四郎・千葉太郎・宇都宮弥三郎等なり。結城七郎・大友左近將監、御前の左右に在り。和田左衞門尉・梶原平三・狩野介かのうのすけ・新開荒次郎等、兩座の中央に候ず。此の外の御家人等の群參げて計ふべからず。爰に狩野・新開等を以て、夜討の宿意を召し尋ねらる。五郎、忿怒して云はく、
「祖父の祐親法師誅せらるるの後、子孫沈淪ちんりんするの間、昵近ぢつきんゆるされずと雖も、最後の所存を申すの條、必ず汝等を以つて傳ふべからずてへれば、尤もぢきに言上せんと欲す。早く退くべし。」
と云々。
將軍家、思しす所有るに依りて、條々、ぢきに之を聞こしす。五郎申して云はく、
「祐經を討つ事、父の尸骸のはぢすすがんが爲、遂に身の鬱憤の志をあらはし畢んぬ。祐成九歳・時致七歳の年より以降このかた、頻りに會稽くわいけいの存念をさしはさみ、片時へんしも忘るること無し。而うして遂に之を果す。次に御前に參るの條は、又、祐經、御寵物ごちようもつたるのみにあらず、祖父入道、御氣色を蒙り畢んぬ。かれと云ひ、これと云ひ、其の恨み無きに非ざるの間、拜謁を遂げて、自殺せんが爲なり。」
てへれば、聞く者、舌を鳴らさざるは莫し。次に新田四郎、祐成がかふべを持參し、弟に見せらるるの處、敢へて疑胎ぎたい無きの由、之を申す。五郎、殊なる勇士たるの間、なだめらるべきかの旨、内々に御猶豫ごゆうよ有ると雖も、祐經が息童〔字は犬房丸。〕泣いて愁へ申すに依りて、五郎〔年廿。〕をわたさる。鎮西中太と號するの男を以つて、則ち梟首せしむと云々。
此の兄弟は、河津三郎祐泰 〔祐親法師が嫡子。〕が男なり。祐泰、去ぬる安元二年十月の比、伊豆奥の狩塲に於いて、圖らざるに矢にあたり命をおとす。是れ、祐經が所爲なり。時に祐成五歳・時致三歳なり。成人の後、祐經が所爲の由、之を聞き、宿意を遂げんとす。凡そ此の間、狩倉毎に、御供の輩に相ひ交り、祐經の隙を伺ひ、影の形に随うごとくと云々。
又、手越少將等を召し出だされ、其の夜の子細を尋ね問はる。祐成兄弟の所爲なりと、見聞した所、悉く之を申すと云々。
・「北條殿」北条時政。以下、人名を列挙する。「伊豆守」山名義範。「上総介」足利義兼。「江間殿」北条義時。「豊後前司」毛呂季光。「里見冠者」里見義成。「三浦介」三浦義澄。「畠山二郎」畠山重忠。「佐原十郎左衞門尉」佐原義連。「伊澤五郎」井沢信光。「小笠原二郎」小笠原長清。「小山左衞門尉」小山朝政。「下河邊庄司」下川邊行平。「稻毛三郎」稻毛重成。「長沼五郎」長沼宗政。「榛谷四郎」榛谷重朝。「千葉太郎」千葉成胤。「宇都宮弥三郎」宇都宮頼綱。「結城七郎」結城朝光。「大友左近將監」大友能直。「和田左衞門尉」和田義盛。「梶原平三」梶原景時。「狩野介」狩野宗茂かのうむねしげ。「新開荒次郎」新開実重。
・「舌を鳴らさざるは莫し」とは、この場合は賛美のポーズである。
・「疑胎無し」間違いない。
・「犬房丸」工藤(後に伊藤姓を名乗る)祐時(文治元(一一八五)年~建長四年(一二五二)年)の幼名。

最後に。本注のために、「吾妻鏡」のこの前後を読んでいると、曾我兄弟に討ち取られた、この工藤祐経について、この直前の記載に如何にもな不吉な予兆が現れているのが分かる。例えば、同建久四 (一一九三) 年の一月五日の条では、
〇原文
五日癸酉。工藤左衞門尉祐經家。恠鳥飛入。不知其號。形如雉雄云々。卜筮之處。愼不輕。仍廻祈請云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日癸酉。工藤左衞門尉祐經が家に、恠鳥けてう飛び入る。其のを知らず。形、雉の雄のごとしと云々。
卜筮の處、愼み輕からず。仍りて祈請を廻らすと云々。
とあって、新年早々、忌まわしくも奇怪なる鳥が彼の屋敷に飛び入ってしまい、占ったところが重い凶兆と出、祈請が行われているのだ。また、死の前月四月十九日には、
〇原文
十九日乙夘。午剋。工藤左衞門尉祐經宅燒亡。不及他所。是去比新造移徙以後經三十八ケ日也云々。主者將軍家爲御供。下向下野國云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十九日乙夘。午の剋。工藤左衞門尉祐經宅燒亡す。他所に及ばず。是れ、去ぬる比、新造の移徙わたまし以後三十八ケ日を經るなりと云々。
ぬしは將軍家御供として、下野國へ下向すと云々。
と、新築したばかりの彼の屋敷が焼亡しているのである。如何にも如何にも不吉ではないか。こういう事実、私には何とも言えず、面白いのである。]



      ○範賴勘氣を蒙る 付 家人當麻太郎
參河守範賴は賴朝卿の御舍弟として蒲御曹司かばのおんざうしと申しけるが、平家追討の時は大手の大將として、武威を輝かし給ひしに、源氏一統の世となり、四海靜謐に歸せしかば、狡兎盡かうとつきて、良犬煮られ、横流わいりゆう乾きて、防堤壞ぼうていこぼたるゝとかや、賴朝卿の御氣色、何時しか疎く見ゆるに付きて、荊棘の蒼蠅さうやう、營々として左右の遮り、範賴、叛逆企ほんぎやくくはだてある由さかしら申す者あり。賴朝卿、大に怒り給ひ、「其義に於ては人數を遣し、打ちほすべし」とありければ、範賴、大に驚き給ひて、一の起請文を書いて因幡前司いなばのぜんじ廣元に付きて、進覽せしめらるる所に、賴朝卿、更に御許容ごきよようなし。殊に咎め仰せられけるは、「源範賴と書きけるは、當家一族の義を存するか。頗る過分なり。是、まづ起請のしつなり」とて、範賴の使者大夫さくわん重能を御前に召出し、此旨を仰含おほせふくめらる。重能、ちんじて申しけるは、「三河守殿は故左馬頭殿の賢息なり。御舍弟の義を存ぜらるゝ條、勿論の事にて候。去ぬる元暦元年の秋、平家討伐の御使として上洛せらるゝの時には、舍弟範賴を西海追討使に遣すの由、御書に乘せて奏聞の間、其趣を官符に載らるゝ所なり。全く自由の義にて候はず」と申しければ、賴朝、かさねおほせの旨もなし。重能歸りて、範賴に語る。「さだめて是は讒人ざんにんの所爲なるべし。口惜き事かな」と齒を切齒くひしばりて憤り給ふ。この折節、範賴の家人當麻たいまの太郎と云ふ者、殿中の御寢所の下に忍び入て息を潜めて臥居ふしゐたり。夜ふけて賴朝卿、御寢所に入り給ひて人氣ひとげある事を知り給ひ、ひそか近習きんじうの侍結城七郎朝光、宇佐美三郎祐茂すけもち、梶原源太景季を召して搜させらるゝに、當麻太郎を捕へたり。搦取からめとりて推問せられしに、當麻申けるは、「三河守殿、御不審を蒙り、起請文を遣されし所に、重ておほせの旨なくして、是非に迷ひ候。されば内證御気色ないしようごきしよくの事を承り、安否を思ひ定むべきの由、愁歎せられ候。若自然もししぜんついでを以てこの事を仰出さるゝやと、その形勢ありさまを伺ひまゐらせん爲に、參向さんかう仕たるばかりにて全く陰謀のくはだてにはあらず候」とぞ申しける。使をもつて三河守殿に尋ね仰せらるゝに、「すこしも存知仕らず」と有しかば、當麻が陣謝その故あるに似たれども、所行既に常篇じやうへんこえたり。日比の疑愈うたがひいよいよ符合す。の當麻太郎は三河守殊に祕藏の勇士にて、弓劒きうけんの藝、その名を得たる者なり。心中かたがた御不審あり、寛宥くわんいうの汰沙に及ばず。同意結構の黨類たうるゐあるべしとて、數箇すか糺問きうもんありといへども、當麻、更に一ごんの義なし。範賴は伊豆國に於て狩野介宗茂かののすけむねもち宇佐美うさみの三郎祐茂すけもちに預けられ、ひとへに流人の如くなり。當麻は薩摩國に流遣ながしつかはすべきに定められしを、姫君の御不例ごふれいよつ赦放ゆるしはなたれけるとかや。

[やぶちゃん注:前半、「吾妻鏡」巻十三の建久四年(一一九三)年八月二日の条に、頼朝がいちゃもんをつける起請文が載る(範頼の起請文は原文では全体が一字下げ)。
〇原文
二日丙申。參河守範賴書起請文。被献將軍。是企叛逆之由。依聞食及。御尋之故也。其狀云。
 敬立申
   起請文事
右。爲御代官。度々向戰塲畢。平朝敵盡愚忠以降全無貳。雖爲御子孫將來。又以可存貞節者也。且又無御疑叶御意之條。具見先々嚴札。秘而蓄箱底。而今更不誤而預此御疑。不便次第也。所詮云當時云後代。不可挿不忠。早以此趣。可誡置子孫者也。萬之一〔仁毛〕令違犯此文者。
 上梵天帝釋。下界伊勢。春日。賀茂。別氏神正八幡大菩薩等之神罰〔於〕。可蒙源範賴身也。仍謹愼以起請文如件。
   建久四年八月 日                     參河守源範賴
此狀。付因幡守廣元。進覽之處。殊被咎仰曰。載源字。若存一族之儀歟。頗過分也。是先起請失也。可召仰使者云々。廣元召參州使大夫属重能。仰含此旨。重能陳云。參州者。故左馬頭殿賢息也。被存御舍弟之儀之條勿論也。隨而去元暦元年秋之比。爲平氏征伐御使被上洛之時。以舎弟範賴遣西海追討使之由。載御文。御奏聞之間。所被載其趣於官苻也。全非自由之儀云々。其後無被仰出旨。重能退下。告事由於參州。參州周章云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
二日丙申。參河守範賴起請文を書き、將軍に献ぜらる。是れ、叛逆を企てるの由、聞こしし及ぶに依りて、御尋ねの故なり。其の狀に云はく。
 敬み立申す
  起請文の事
右、御代官として、度々戰塲へ向ひ畢んぬ。朝敵を平らげ、愚忠を盡してより以降このかた、全くふたごころ無し。御子孫の將來たりと雖も、又、以て貞節を存ずべき者なり。且つは又、御疑ひ無く御意に叶ふの條、具さに先々の嚴札に見えたり。秘して箱底に蓄ふ。而るに今更、誤たずして、此の御疑ひに預かる。不便なる次第なり。所詮、當時と云ひ後代と云ひ、不忠をさしはさむべからず。早々に此の趣を以つて、子孫にいましめ置くべき者なり。萬が一〔にも〕此の文を違犯せしめば、上は梵天帝釋、下界は伊勢・春日・賀茂、別して氏神正八幡大菩薩等の神罰〔を〕源範賴の身に蒙るべきなり。
仍つて謹愼して起請文を以て件のごとし。
  建久四年八月 日                     參河守源範賴
此の狀、因幡守廣元に付し、進覽の處、殊に咎め仰せられて曰はく、「源の字を載するは、若し一族の儀を存ずるか。頗る過分なり。是れ、先づ起請の失なり。使者に召し仰すべし。」と云々。
廣元、參州の使、大夫さくわん重能を召し、此の旨を仰せ含めらる。重能、ちんじて云はく、「參州は、故左馬頭殿が賢息なり。御舎弟の儀を存ぜらるるの條、勿論なり。隨つて、去ぬる元暦元年秋の比、平氏征伐の御使として上洛せらるるの時、舍弟範賴を以て西海追討使に遣はすの由、御文に載せて御奏聞の間、其の趣きを官苻に載せらるる所なり。全き自由の儀に非ず。」と云々。
其の後、仰せ出ださるる旨、無し。重能、退下し、事の由を參州に告ぐ。參州、周章すと云々。
・「先々の嚴札に見えたり」「嚴札」は、厳かな手紙、大事な一筆の意で、相手の書状を尊敬して言う語。(そうした私の思いや仕儀が御意に叶っているとの頼朝様御自身の御判断は)前々に頂戴した書状に、はっきりと表れておりまする、という意味である。

「この折節範賴の家人當麻太郎と云ふ者殿中の御寢所の下に忍び入て……」「吾妻鏡」巻十三の建久四年八月十日の条を見る。
〇原文
十日甲辰。寅剋。鎌倉中騒動。壯士等着甲冑馳參幕府。然而無程令靜謐畢。是參州家人當麻太郎臥御寢所之下。將軍未令寢給。知食其氣。潛召結城七郎朝光。宇佐美三郎祐茂。梶原源太左衞門尉景季等。尋出當麻。依被召禁也。曙後被推問之處。申云。參州被進起請文之後。一切無重仰旨。迷是非畢。存知内々御氣色。可思定安否之由。頻依被愁歎。若以自然之次。被仰出此事否。爲伺形勢所參候也。全非陰謀之企云々。則被尋仰參州。被申不覺悟之由。當麻陳謝雖盡詞。所行企絶常篇之間。苻合日來御疑胎。其上當麻者。參州殊被相憑之勇士。弓劔武藝已得其名之者也。心中旁有不審之由。被經沙汰。無寛宥之儀。剩有同意結搆之類否。雖及數ケ糺問。當麻屈氣。更不發一言云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日甲辰。寅の剋。鎌倉中、騒動す。壯士等甲冑を着け、幕府へ馳せ參ず。然しれども、程無く靜謐せしめ畢んぬ。是れ、參州が家人當麻太郎、御寢所の下に臥す。將軍、未だ寢ねしめ給はず、其の氣を知ろしし、潛かに結城七郎朝光・宇佐美三郎祐茂、・梶原源太左衞門尉景季等を召す。當麻を尋ね出し、召しいましめらるに依りてまなり。くる後、推問せらるの處、申して云はく、「參州、起請文を進めらるの後、一切重ねて仰せの旨無く、是非を迷ひ畢んぬ。内々に御氣色を存知し、安否を思い定むべきの由、頻りに愁歎せらるるに依りて、若し自然の次でを以て、此の事を仰せ出ださるるや否や、形勢を伺はんが爲、參候する所なり。全く陰謀の企てに非ずと云々。
則ち、參州に尋ね仰せらるるに、覺悟せざるの由を申さる。
當麻が陳謝、詞を盡すと雖も、所行の企て常篇じやうへんに絶えたるの間、日來ひごろ御疑胎ごぎたい苻合ふがふす。其の上、當麻は、參州、殊に相ひたのまるるの勇士、弓劔の武藝、已に其の名を得るの者なり。心中旁々かたがた不審有るの由、沙汰を經られ、寛宥くわんいうの儀、無し。
剩へ同意結搆の類、有るや否や、數ケの糺問きうもんに及ぶと雖も、當麻、氣を屈して、更に一言も發せずと云々。
・「當麻太郎」魅力的な人物であるが、不詳である。管見した限りでは、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に、『當麻太郎は、静岡県浜松市の蒲神明宮の隣に当麻町があったらしい。蒲神明宮は、熱田神宮の末社であり、熱田の宮司が頼朝の祖父に当たる藤原季範で、蒲神明宮の宮司に季成がおり(季の文字は通字か?)、その子が当麻五郎貞稔。その妻が源參河守範頼の乳母夫だと系図算用にあるので、当麻太郎の父らしい』という記載が唯一の詳細である。
・「常篇に絶えたる」尋常でない。

「範賴は伊豆國に於て狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂に預けられ……」「吾妻鏡」巻十三の建久四年八月十七日の条に拠る。
〇原文
十七日辛亥。參河守範賴朝臣被下向伊豆國。狩野介宗茂。宇佐美三郎祐茂等所預守護也。歸參不可有其期。偏如配流。當麻太郎被遣薩摩國。忽可被誅之處。折節依姫君御不例。被緩其刑云々。是陰謀之搆達上聞畢。雖被進起請文。當麻所行依難被宥之。及此儀云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十七日辛亥。參河守範賴朝臣、伊豆國へ下向せらる。狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂等、預り守護する所なり。歸參其の有るべからず。偏へに配流のごとし。當麻太郎は薩摩國へ遣はさる。忽ち誅せらるべきの處、折節、姫君の御不例に依りて、其の刑を緩めらると云々。
是、陰謀の搆へ、上聞に達し畢んぬ。起請文を進めらると雖も、當麻が所行、之をなだめられ難きに依りて、此の儀に及ぶと云々。
・「範賴朝臣、伊豆國へ下向せらる」「吾妻鏡」ではその後の範頼について記されないが、「保暦間記」などによれば、誅殺されたとする。但し、参照したウィキの「源範頼」によれば、『範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる』。また、『このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある』と記す。
・「姫君の御不例」「姫君」は大姫(当時、満十五歳)。この「吾妻鏡」の五日前の十二日の条に「姫君有御不例之氣」(姫君、御不例の氣の有り)とある。……それにしても、寝所に忍び入った当麻太郎の処置は、主君範頼の処罰に比して余りにも寛大な印象を受ける。私は頼朝が、この当麻の忠勤の心根に、どこか感心したのではなかろうかと読みたくなるのである。]



      ○南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛
同六年二月四日、右大將賴朝卿、若君賴家、御臺政子上洛して六波羅の亭に入り給ふ。三月十日東大寺大佛殿供養結緣の爲に南都に下向あり。東南院に著御ちやくぎよある。夜半に及びて主上後鳥羽院南都に行幸ましましけり。賴朝卿の御布施物おふせもつとして馬十疋、八木はちぼく一萬石、黄金千兩、絹千疋を施入せにふし給ふ。和田義盛、梶原景時、是を奉行す。その行粧かうさう誠に美々敷びびしくぞ見えたる。先陣は畠山重忠、後陣は和田義盛なり。賴朝卿父子は網代あじろの車に召され、御臺所は八葉の車に出衣いだしぎぬあり。隨兵前後に警固して雲霞の如し。大名、小名列をなし、狩裝束、水干、布衣ほいの輩、兼てより定められたる所なり。面々召倶めしぐしたる家子郎從、更にその數を知らず。同十二日寅の一てんに、和田、梶原、數萬騎をそつして、東大寺の四面を警固す。日出でて、右大將家參堂あり、堂前のひさしに著座し給ふ。見聞けんもんの衆徒等門内に群りて込人こみいりけるを警固の随兵、是を咎むるに用ひず。梶原景時、是を鎭めんとして、無禮の口論に及び、既に狼藉蜂起の色、あらはる。結城七郎朝光、おほせに依て、衆徒の前に馳向ひ、ひざまづきて右大將家の使者と稱す。衆徒その禮を感じて、しばらくは靜り聞きけるに、朝光、即ち、嚴旨げんしを傳ふ、「それ當寺は是、平相國の爲に囘祿くわいろくし、空しくいしずゑのみを殘す。衆徒、もつとも悲歎すべき事歟。源氏たまたま大檀那となり、造營の初より供養の今に至るまで施功せこうはげまし、合力を致す。あまつさへ魔障を拂ひ、佛事をとげんがため、關東數百里の行程を凌ぎ、東大伽藍摩がらんま結緣けちえんに詣で給ふ。衆徒、何ぞ歓喜せざらんや。無慚の武士ものゝふ、猶其結緣を思うて供養の値遇ちぐを喜ぶ。有智うちの僧侶、いかで違亂いらんを好みて、我が寺の再興を妨げんや。狼藉の造意ざうい頗る當らず。この旨、承り存ずべきもの歟」と申したりければ、衆徒、理に服し、忽に先非をはぢて、おのおの後悔に及び、數千一同にしづまりて、「使者の勇義美好ゆうぎびかうの容貌、辯口利才べんこうりさいの勝れたる、武畧ぶりやくの達するのみにあらず、既に靈揚の軏格きかくその禮節を存ずる人なり」とぞ感じける。其後に臨みて行幸あり。執柄しつぺい以下の卿相雲客けいしやううんかく花を飾り、あたりはらつて供奉し給ふ。未尅ひつじのこくの供養の儀あり。導師は興福寺の別當僧正覺憲かくえん呪願師じゆぐわんしは當寺の別當權僧正勝賢しようけんなり。仁和寺の法親王以下諸寺の碩學龍象衆會せきがくりうざうしゆゑの僧衆一千口に餘れり。誠にこれ朝家、武門の大えい見佛聞法けんぶつもんはふの繁昌なり。昔聖武天皇當寺建立の叡願によつて、左大臣橘諸兄公たちばなのもろえこうの勅使として、大神宮に祈誓し給ひ、天平勝寳元年に金銅十六丈の廬遮那佛るしやなぶつの大佛を奉り、佛殿その功を成就して、十二月七日に供養を遂げ給ひけり。主上孝謙天皇、上皇聖武皇帝、行幸ぎやうかうまします。供養の導師は南天竺の婆羅門僧正、呪願は行基僧正なり。かゝる大造の靈場を、安德天皇治承四年十二月二十八日、平相國の惡行に依て、重衡卿、南都に向ひ、堂舍に火をかけて佛像を燒滅やきほろぼす。爰に後白河法皇、深く歎かせ給ひて、俊乘坊上人重ぢようげんに勅して、高卑かうひの知識をいざなひ、成風じやうふうげふを勤めしめ、大宋國の佛師陳和卿ちんくわけいに仰せて、大佛の御首みぐし鎔範ようはんし、法皇御みづか開眼かいげんし給ふ。重源上人、既に先規せんきの例に依て、大神宮にけいして造寺の祈念を致す所に、風宮かぜのみやの社より二顆にくわ寶珠ほうじゆを賜る。今に當寺の重寶として寶藏に納めらる。周防國の杣木そまきを取て、大厦たいかの功をとげられ、今日、事故なく、供養を遂げ給ひけり。後白河法皇は此大佛殿の事を本願上人に勅し給ひける所に、去ぬる建久三年三月に崩御あり。寶算ほうさん六十七歳なり。此君の御在位はわづかに三年にして、二條、六條、高倉、安德、後鳥羽五代の天子、朝政てうせいを院中にして沙汰し給ふ事四十餘年なり。そのあひだ保元のみだれより信賴、淸盛、義仲に惱され給ひ、賴朝の軍功によつて暫く安穩なりけれども、朝政は武家にうつされ、王道の衰敗する事は此院より始れり。今、是、大佛成就せしに先立さきだちて崩じ給ふは、御本意を遂げざる誠にのこり多かるべし。同六月三日、若君一萬殿十四歳、網代の車に召されて參内あり。同二十五日に賴朝父子、御臺共に關東に下向し給ふ。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十五の建久六(一一九五)年二月十四日・三月四日・九日・十一日・十二日及び六月三日・六月二十五日に拠る。なお、本文では何故か大姫の随行の事実を外して描いている。実際にはこの時、頼朝は大姫を後鳥羽天皇の妃とするべく、朝廷内での幕府抵抗勢力であった土御門通親や丹後局と親しく接し(逆に彼らの政敵で新幕派の九条兼実とは意識的に疎遠に振る舞った。これは彼の娘が既に天皇の中宮になっていたことや、頼朝にとっては朝廷交渉に於ける兼実の利用価値が殆んど失われていたからでもある)盛んな入内工作を行っている。ここを省略したのは大姫ファンの私としては、とても惜しい気がしている。
「八木」米の異称。「米」の字を「八」「木」と分解した謂い。
「布衣」本来は狩衣のことであったが、平安中期以降、五位以上が絹の紋織物の狩衣を、六位以下が無文のそれを用いる制法が生まれ、後者を前者の狩衣と区別するために布衣と称するようになり、ひいてはそれが六位以下の身分を示す語としても用いられた。なお、江戸時代の文献では「布衣を許す」という語をしばしば見かけるが、この鎌倉幕府においては、将軍出行の際には随行の大名が布衣を着用、警衞の武士は直垂ひたたれであったのが、その後に両者の格が逆転し、江戸幕府では正装として将軍以下諸大名の四位以上が直垂、狩衣を従四位以下の諸太夫、布衣を無位無官で御目見以上、という区分が引かれたことによる(以上は主に小学館「日本大百科全書」を参照した)。
「同十二日寅の一點に……」「吾妻鏡」の同条を見よう(随兵一覧は省略した)。
〇原文
十二日丁酉。朝雨霽。午以後雨頻降。又地震。今日東大寺供養也。雨師風伯之降臨。天衆地類之影向。其瑞揚焉。寅一點。和田左衞門尉義盛。梶原平三景時。催具數万騎壯士。警固寺四面近郭。日出以後。將軍家御參堂。御乘車也。小山五郎宗政持御劍。佐々木中務丞經高著御甲。愛甲三郎季隆懸御調度。隆保。賴房等朝臣扈從連軒。伊賀守仲教。藏人大夫賴兼。宮内大輔重賴。相摸守惟義。上総介義兼。伊豆守義範。豊後守季光等供奉。於隨兵者數萬騎雖有之。皆兼令警固辻々幷寺内門外等。其中海野小太郎幸氏。藤澤二郎淸親以下。撰殊射手。令座惣門左右脇云々。至御共隨兵者。只廿八騎。相分候于前後陣。但義盛。景時等者。依爲侍所司。令下知警固事之後。自路次更騎馬。各爲最前最末之隨兵云々。
 先陣隨兵
  和田左衞門尉義盛(以下、略)
令着座堂前庇給之後。見聞衆徒等群入門内之刻。對警固隨兵。有數々事。景時爲鎭之行向。聊現無禮。衆徒甚相叱之。互發狼藉之詞。彌爲蜂起之基也。于時將軍家召朝光。朝光起座。參進御前之時者。懸手於大床端。乍立奉可相鎭之將命。向衆徒之時者。跪其前敬屈。稱前右大將家使者。衆徒感其禮。先自止嗷々之儀。朝光傳嚴旨云。當寺爲平相國回祿。空殘礎石。悉爲灰燼。衆徒尤可悲歎事歟。源氏適爲大檀越。自造營之始。至供養之今。勵微功成合力。剩斷魔障爲遂佛事。凌數百里行程。詣大伽藍緣邊。衆徒豈不喜歡哉。無慙武士猶思結緣。嘉洪基之一遇。有智僧侶何好違亂妨吾寺之再興哉。造意頗不當也。可承存歟者。衆徒忽耻先非。各及後悔。數千許輩一同靜謐。就中使者勇士。容貌美好。口弁分明。匪啻達軍陣之武略。已得存靈塲之禮節。何家誰人哉之由。同音感之。爲後欲聞姓名。可名謁之旨。頻盡詞。朝光不稱小山。號結城七郎訖。歸參云々。次行幸。執柄以下卿相雲客多以供奉。未剋。有供養之儀。導師興福寺別當僧正覺憲。咒願師當寺別當權僧正勝賢。凡仁和寺法親王以下。諸寺龍象衆會及一千口云々。誠是朝家武門之大營。見佛聞法之繁昌也。當伽藍者。 安德天皇御宇治承四年庚子十二月廿八日。依平相國禪門惡行。佛像化灰。堂舎殘燼畢。爰法皇勅重源上人曰。訪本願往躅。唱高卑知識。課梓匠而令勤成風業。代檀主而可終不日功之由者。上人奉命旨。去壽永二年己夘四月十九日。令大宋國陳和卿始奉鑄本佛御頭。至同五月廿五日。首尾卅餘日。冶鑄十四度。鎔範功成訖。文治元年乙夘八月廿八日。太上法皇手自御開眼。于時法皇攣登數重足代。瞻仰十六丈形像給。供奉卿相以下。目眩足振而皆留半階云々。供養唱導當寺別當法務僧正定遍。咒願師興福寺別當權僧正信圓。講師同寺權別當大僧都覺憲。惣所※衲衣一千口也(「※」=「口」+「屈」)。其後上人尋往昔之例。詣太神宮。致造寺祈念之處。依風社神睠。親得二顆寳珠。爲當寺重寳。在勅封藏。同二年丙午四月十日。始入周防國。抽採料材。致柱礎搆。企土木功。載柱一本之車。駕牛百二十頭令牽由之也。建久元年庚戌七月廿七日。大佛殿母屋柱二本始立之。同十月十九日上棟。有御幸云々。謂草創濫觴者。 聖武天皇御宇天平十四年壬午十一月三日。依當寺建立之 叡願。爲大廈經營之祈請。始發遣 勅使於太神宮。左大臣諸兄公是也。同十七年乙酉八月廿三日。先搆敷地壇。同築佛後山。同十九年丁亥九月廿九日。奉鑄大佛。孝謙天皇御宇天平勝寳元年己丑十月廿四日終其功。〔三ケ年之間八ケ度奉鑄之。〕同十二月七日丁亥。被遂供養。 天皇幷太上皇〔聖武。〕幸寺院。導師南天竺波羅門僧正。咒願師行基大僧正。天平勝寳四年壬辰三月十四日。始奉泥金於大佛。〔金。天平廿年始自奥州所獻也。是爲吾朝砂金之始云々。〕
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日丁酉。朝、雨霽る。うま以後、雨頻りに降る。又、地震。今日、東大寺供養なり。雨師風伯うしふうはくの降臨、天衆地類の影向やうがう、其の瑞揚焉ずいけちえん。寅の一點、和田左衞門尉義盛、梶原平三景時、數萬騎の壯士を催し具し、寺の四面の近郭を警固す。日の出以後、將軍家御參堂、御乘車なり。小山五郎宗政、御劍を持ち、佐々木中務丞なかつかさのじよう經高、御甲を著け、愛甲三郎季隆、御調度を懸く。隆保・賴房等の朝臣、扈從こしよう軒を連ぬ。伊賀守仲教、藏人大夫賴兼、宮内大輔重賴、相摸守惟義、上総介義兼、伊豆守義範、豊後守季光等、供奉す。隨兵に於いては、數萬騎、之れ有りと雖も、皆、兼て辻々幷びに寺内門外等を警固せしむ。其の中、海野小太郎幸氏、藤澤二郎淸親以下の殊なる射手を撰び、惣門の左右の脇に座せしむと云々。
御共の隨兵に至りては、只だ廿八騎、相ひ分れ前後の陣に候ず。但し、義盛・景時等は、侍の所司たるに依りて、警固の事を下知せしむの後、路次より更に騎馬す。各々最前最末の隨兵たりと云々。
 先陣の隨兵
  和田左衞門尉義盛(以下、略)
  梶原平三景時
堂前の庇に着座せしめ給ふの後、見聞の衆徒等、門内に群れ入るるのとき、警固の隨兵に對し、數々の事有り。景時之を鎭めんが爲に行き向ひて、聊か無禮を現はす。衆徒、甚だ之を相ひしつす。互ひに狼藉のことばを發し、彌々蜂起のもとゐたるなり。時に將軍家、朝光を召す。朝光、座を起ち、御前に參進するの時は、手を大床おほゆかの端に懸け、立ち乍ら、相ひ鎭むべきの將命を奉る。衆徒に向ふの時は、其の前にひざまづききて敬屈きやうくつし、
「前右大將家の使者。」
と稱す。衆徒其の禮に感じ、先づおのづから嗷々がうがうの儀を止む。朝光、嚴旨を傳へて云はく、
「當寺は平相國の爲に回祿くわいろくし、空しく礎石を殘し、悉く灰燼と爲る。衆徒、尤も悲歎すべき事か。源氏、適々大檀越たまたまだいだんをつと爲り、造營の始めより、供養の今に至るまで、微功を勵まし合力かふりよくを成す。剩へ魔障を斷ち佛事を遂げん爲、數百里の行程を凌ぎ、大伽藍の緣邊に詣づ。衆徒、豈に喜歡きくわんせざらや。無慙の武士、猶ほ結緣けちえんを思ひ、洪基こうきの一遇をよみす。有智うちの僧侶、何ぞ違亂を好み、吾が寺の再興を妨げんや。造意、頗る不當なり。承り存ずべきか。」
てへれば、衆徒、忽ち先非を耻ぢ、各々後悔に及び、數千ばかりの輩、一同に靜謐せいひつす。就中なかんづく使者の勇士、容貌の美好、口弁の分明、ただに軍陣の武略に達するにあらず、已に靈塲の禮節を存じ得たり。
何家なにけ誰人たれひとぞや。」
の由、同音に之を感ず。後の爲に姓名を聞かんと欲して、
名謁ななのるるべし。」
の旨、頻りに詞を盡す。朝光、小山と稱せず、結城七郎と號し訖りて、歸參すと云々。
次に行幸。執柄以下の卿相雲客多く以て供奉す。未の剋、供養の儀有り。導師は興福寺別當僧正覺憲、咒願師しゆぐわんしは當寺別當權僧正勝賢。凡そ仁和寺法親王以下、諸寺の龍象衆、會せて一千口に及ぶと云々。
誠に是れ、朝家武門の大營、見佛聞法の繁昌なり。當伽藍は、安德天皇の御宇、治承四年庚子十二月廿八日、平相國禪門の惡行に依りて、佛像、灰と化し、堂舎、もえくひを殘し畢んぬ。爰に法皇、重源ちようげん上人に勅して曰はく、「本願の往躅わうちよくとぶらひ、高卑の知識をいざなひ、梓匠ししやうおほせて成風せいふうげふを勤めしめ、檀主に代りて、不日の功を終うべし。」の由てへれば、上人、命旨を奉り、去ぬる壽永二年己夘四月十九日、大宋國陳和卿ちんわけいをして、始めて本佛の御頭みぐしを鑄奉らしむ。同五月廿五日に至るまで、首尾卅餘日、冶鑄やちう十四度、鎔範ようはんの功を成し訖んぬ。文治元年乙夘八月廿八日、太上法皇手づから御開眼、時に法皇、數重の足代あししろを攣ぢ登り、十六丈の形像を瞻仰せんぎやうし給ふ。供奉の卿相以下、目くらめき、足振ひて、皆、半階に留まると云々。
供養の唱導は當寺別當法務僧正定遍、咒願師は興福寺別當權僧正信圓、講師は同寺權別當大僧都覺憲。惣じて※する所の衲衣なふえ一千口なり(「※」=「口」+「屈」)。其の後、上人、往昔わうじやくの例を尋ね、太神宮に詣で、造寺の祈念を致すの處、風社かぜのやしろ神睠しんけんに依りて、まのあたり二顆くわの寳珠を得て、當寺の重寳と爲し、勅封藏に在り。同じく二年丙午四月十日、始めて周防國に入り、料材をき採り、柱礎の搆へを致し、土木の功を企つ。柱一本を載するの車、牛百二十頭に駕して之を牽かしむるの由なり。建久元年庚戌七月廿七日、大佛殿母屋もやの柱二本、始めて之を立つ。同じき十月十九日、上棟す。御幸有りと云々。
草創の濫觴を謂はば、 聖武天皇の御宇、天平十四年壬午十一月三日、當寺建立の叡願に依りて、大廈經營の祈請の爲に、始めて勅使を太神宮へ發遣す。左大臣諸兄もろえ公是なり。同じく十七年乙酉八月廿三日、 先ず敷地に壇を搆へ、同じく佛の後山を築き、同じく十九年丁亥九月廿九日、大佛を奉る。孝謙天皇の御宇、天平勝寳元年己丑十月廿四日其の功を終ふ。〔三ケ年の間、八ケ度、之を鑄奉る。〕同じく十二月七日丁亥、供養を遂げらる。天皇幷びに太上皇〔聖武。〕寺院に幸したまふ。導師は、南天竺なんてんぢくの波羅門僧正、咒願師は行基大僧正、天平勝寳四年壬辰三月十四日、始めて金を大佛にでいし奉る。〔金は、天平廿年、始めて奥州より獻ずる所なり。是れ、吾が朝の砂金の始めと爲すと云々。〕
・「揚焉」明白なこと。
・「寅の一點」午前三時。「一點」とは漏刻(水時計)で一時いっとき(二時間)を四等分した、その最初の時刻。
・「義盛・景時等は、侍の所司たる」「所司」は、この場合は官庁を代表する役人長官と次官を合わせて言っている。和田義盛は侍所別当、梶原景時は侍所所司である。
・「洪基の一遇を嘉す」「洪基」は大事業の基礎。「嘉す」「みす」とも書き、「よみ」は形容詞「よし」の語幹+接尾語「み」(状態がともに存する意)よしとして褒め称えるの意であるから、本東大寺大仏及び大仏殿再建という一大事業の礎の一端を担わせて戴いたことを言祝ぐ、の意。
・「朝光、小山と稱せず、結城七郎と號し」小山朝政は寿永二(一一八三)年の志田義広との野木宮のぎみや合戦で勲功を立て、義広滅亡後に下総の結城(現在の茨城県結城市)を初めて拝領して後、結城氏の祖となった(「吾妻鏡」正治元(一一九九)年十月二十七日の条の朝光自身の発言に拠る)。当時の武士が、自身が始祖となる結城氏の表明をする武士朝光の面目の瞬間が、実に凛々しく描かれている私の好きなシーンである。
・「未の剋」午後二時頃。警固の武士たちの継続勤務時間は既に十一時間に及んでいる。
・「執柄」藤原兼実。
・「咒願師」法会の際に、呪願文(じゅがんもん/しゅがんもん:施主の願意を述べて祈誓する文章)を読み上げる僧。
・「仁和寺法親王」後白河法皇次男守覚。
・「龍象」僧の敬称。
・「往躅」昔の人の踏んだ跡。先人の歩いた道。
・「梓匠」「梓」は梓人で建具師、「匠」は匠人で大工の意。
・「成風の業」仕事に励んで竣工をやり遂げる任務。「運斤成風」。「きんめぐらし、風を成す」と訓読する。「運」は斧を振るう、「斤」は手斧、「成風」は風を起こすの意で、手斧を風を起こすほどに勢いよく振りまわすの義から、非常に巧みで優れた技術又はそれを持った職人をいう故事成句。「荘子」雑篇の徐無鬼第二十四に基づく。
・「壽永二年己夘」「己」は誤り。寿永二(一一八三)年の干支は癸卯みずのとう
・「陳和卿ちんわけい」本文では「ちんくわけい(ちんかけい)」とであるが、「和」は呉音が「ワ」、漢音が「カ(クヮ)」であるから問題ない。
・「鎔範」銅を溶かして(「冶鑄」)それを鋳型に流し込むこと。
・「文治元年乙夘」「夘」は誤り。文治元(一一八五)年は乙巳きのとみ
・「太上法皇手づから御開眼……」これは後白河法皇自らが足場(大仏殿建設のための仮小屋の足場)を攀じ登って十六丈(四八・五メートル弱であるが、これは直立した場合の仏身の背丈を云うので、半分)尊顔の眼に正倉院にあった天平時代の開眼に用いた墨を以って開眼するという、驚天動地のパフォーマンスである。横手川雅敬氏の「源平の盛衰」(講談社文庫一九九七年刊)によれば、これは宣伝効果をも狙った重源の懇望によると伝えられるそうだが、それを嬉々として受け入れて、攀じ登ってゆく――これ、大天狗後白河ならでは、という感じではないか。但し、横手川氏によれば、『鍍金ときんされたのは顔面だけで、仏身はまだ』、無論、『大仏殿も造られていなかった。しかし源平内乱が終わったいまは、乱世なるがゆえに供養を急ぎ、太平の回復を広く天下に告げなければならな』いという切実な使命感を、後白河も頼朝も、それぞれの政治的安定の企略の中で、同時に持っていたのだということを我々はこの演出から再認識する必要があろう。
・「※」(「※」=「口」+「屈」)は本来は「憂える」の意であるが、これは「衲衣一千口」が僧侶千人の謂いであるから、畏敬して侍する僧といった謂いであろう。
・「太神宮」伊勢神宮。
・「風社の神睠」「風社」は伊勢神宮外宮の風宮。本宮の西南の位置、伊勢神宮公式HPの「風宮」によれば、『多賀宮へ上る石階のすぐ左脇に、土宮とはちょうど反対側、つまり東側のところに風宮が御鎮座』し、祭神は級長津彦命しなつひこのみこと級長戸辺命しなとべのみことの二柱で、元来は風社と称していた。但し、「止由気宮儀式帳」及び「延喜神名式」何れにもその社名はみえず、長徳三(九九七)年の「長徳検録」の中に「風社在高宮道棒本」と初見、多賀宮へと続く参道沿いの杉の木の本に坐した小さな社であったと考えられている、とある。それが、内宮域内の風日祈宮と同様、弘安四(一二八一)年の元冦に際し、蒙古軍を全滅に至らしめた神威の発顕によって正応六(一二九三)年、一躍別宮に加列されるに至った。これは「増鏡」に詳しく記されており、元末社格であったものが、弘安四(一二八一)年の元寇の時に神風を起こして日本を守ったとして、別宮に昇格したと記されてある。後のことながらも、幕府の国家レベルの守護神となったものがここに出るというのも因縁(というより「吾妻鏡」の作為というべきか)を感じる。「神睠」不詳。「睠」は顧みるの意で、全知の神の力といった意味か。なお、増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記」(教育社一九七九年刊)には、『僧尼は宇治橋以内に入ることを禁ぜられていたのでここで皇大神宮を遙拝した』とある。皇大神宮とは伊勢神宮の内宮のことである。ウィキの「皇大神宮」によれば、これは古くからの仕来りであって、『明治時代までは、僧侶の姿で正宮に接近することは許されず、川の向こうに設けられた僧尼拝所から拝むこととされ、西行も僧尼拝所で神宮を拝み、感動の涙を流したという』とある。これは知らなかった。
・「同じく二年丙午四月十日、始めて周防國に入り、料材を抽き採り、柱礎の搆へを致し、土木の功を企つ。……」実に入れ物である大仏殿の方は竣工までに実に十二年を要した。因みに重源(保安二(一一二一)年~建永元年六(一二〇六)年)が大仏勧進職の命を受けたのは実に数え六十一歳の時で、この大仏殿落慶法会の際は既に七十五歳、建仁三(一二〇三)年に行われた総供養の時は実に八十三歳であった。そこで行われた大勧進の行脚の肉体的パワーや集金能力、更に巨大仏像仏殿の土木建築技術のために彼が発案した画期的な多数の新技法の発案能力から考えると、彼の八面六臂の活躍は超人的と言わざるを得ない。但し、この周防からの用材切り出しには多くの困難があった。横手川雅敬氏の「源平の盛衰」によれば、『重源は法体ほったいの国司として大工たちをともない現地におもむいた。しかし、国内の荘園から人夫を徴収するには抵抗があり、地頭たちは重源にさからって』、逆に『材木採取のための食糧をうばいとり、人夫も供出しなかった』のである。それを援助したのが、他ならぬ本落慶法要の事実上のゲストたる頼朝であった。『彼は源平合戦の最中でさえ、米一万石、砂金一千両、上絹じょうけん一千びきを送り、重源への協力を約束』、『地頭たちにも横暴をやめて重源を助けよと命じ』ている。以下、ここでの重源の才気煥発さをも見ておきたい。丁度、当時の『食糧難のおりから、柱に用いる用材を一本見つけたら米一石を与えるという懸賞つきで人夫をはげまし』て大仏殿に必要な巨木探索を奨励させ、また巨木なればこそ『柱一本山出しするのにも、ふつうなら二、三千人の人夫が必要だったが、重源はろくろ(滑車)を使用して、六、七十人で出すことに成功し』ているのである。仏俗何でも来い! の、まさにスーパー・ハイブリッドお爺ちゃんなのであった。
・「天平十四年」西暦七四二年。
・「左大臣諸兄」橘諸兄。
・「天平勝宝元年」西暦七四九年。

「天平勝寳元年に金銅十六丈の廬遮那佛の大佛を鑄奉り、佛殿その功を成就して、十二月七日に供養を遂げ給ひけり」とあるが、これでは天平勝宝元年のことのように読めてしまうが、これは天平勝宝四(七五二)年の誤りである。また、「十二月七日」とするが、「吾妻鏡」では上記の通り、「三月十四日」、しかもこれも誤りで、大仏開眼供養会は四月九日に行われている。この「吾妻鏡」の誤りは恐らく、「大仏殿碑文」にある、鍍金が開眼会の直前の天平勝宝四年三月十四日に開始されたことに基づく誤解と思われる。因みにこの年には閏三月があったものの、開眼会まではたった二ヶ月しかなく、実はこの時も開眼会の時点では鍍金は未完成であったと推定されている(後半部はウィキの「東大寺盧舎那仏像」を参考にした)。

「後白河法皇は此大佛殿の事を本願上人に勅し給ひける所に、去ぬる建久三年三月に崩御あり。寶算六十七歳なり」「吾妻鏡」の建久三(一一九二)年三月十六日の条を見ておく。
〇原文
月小十六日戊子。未剋。京都飛脚參着。去十三日寅剋。 太上法皇於六條殿崩御。御不豫大腹水云々。召大原本成房上人。爲御善知識。高聲御念佛七十反。御手結印契。臨終正念。乍居如睡。遷化云々。計寳算六十七。已過半百。謂御治世四十年。殆超上古。白河法皇之外。如此君不御坐〔矣〕。幕下御悲歎之至。丹府碎肝瞻。是則忝合體之儀。依被重君臣之礼也云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日戊子。未の剋。京都の飛脚、參着す。去ぬる十三日の寅の剋、 太上法皇六條殿に於て崩御す。御不豫ごふよは大腹水と云々。
大原の本成房上人を召され、御善知識として、高聲かうしやうの御念佛七十ぺん、御手に印契いんげいを結び、臨終正念居乍ら睡る如く、遷化すと云々。
寳算をかぞふるに六十七、已に半百を過ぐ。御治世を謂へば四十年、殆んど上古にゆ。白河法皇の外、此くのごとき君、御坐おはしまさず。幕下御悲歎の至り、丹府肝瞻をくだく。是れ、則ち合體の儀をかたじけなうし、君臣の禮を重んぜらるるに依りてなりと云々。
・「御不豫」天子・貴人の病気。御不例。後白河法皇の直接の死因は飲水病(糖尿病)と思われるが、ここで腹水の症状が語られるのは何らかの重篤な合併症(肝硬変や腎臓病)が疑われる。

「同二十五日に賴朝父子、御臺共に關東に下向し給ふ」帰鎌は翌月承久六(一一九五)年七月八日。]



      ○右大將賴朝卿薨去
同年七月に稻毛いなげの三郎重成が妻、武藏國にして日比、心地惱みしを、様々醫療するに、そのしるしなく遂に卒去せしかば、重成、別離の悲みに堪かね、忽に出家す。この女房は北絛遠江守時政の娘にて、賴朝卿の御臺政子の妹なり。同九年十二月、稲毛重成亡妻の追福の爲、相摸川の橋供養を營む。右大將賴朝卿、結緣けちえんの爲に行向ひ、御歸おんかへりの道にして八的原やまとはらに掛りて、義經、行家が怨靈を見給ふ。稻村崎いなむらがさきにして安德天皇の御靈ごりやう現形げぎやうし給ふ。是を見奉りて忽に身心昏倒し、馬上より落ち給ふ。供奉の人々、助起たすけおこし參らせ、御館みたちに入り給ひ、逡に御病おんやまひに罹り、樣々の御祈禱、醫療手段てだてつくすといへども、更に寸効すんかうなし。年既にくれて、新玉あらたまの春を迎へ、正治元年正月十一日、征夷大將軍正二位さきの大納言右大將源賴朝卿、病惱びやうなうよつて出家し、同じき十三日、逐に逝去し給ふ。歳五十三。治承四年より今年まで世を治ること、二十年なり。一旦無常の嵐にさそはれ、有待うたいの命を盡し給ふ。内外うちとなげき言ふばかりなし。御臺所平政子、この悲みに堪難たへがたく、髪をおろして尼になり御菩提ごぼだいとぶらひ奉り給ふ。哀なりける事共なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」は欠損し、諸説入り乱れる頼朝の死のパートであるが、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、本話は、
①稲毛重成が妻の死により出家する。
「吾妻鏡」巻十五の建久六(一一九五)年七月四日の条
②頼朝がこの重成亡妻鎮魂の橋供養の帰途、義経・行家・安徳帝の怨霊を見て卒倒して落馬、逝去に至る。
「日本王代一覧」巻五
「保暦間記」巻一の建久九(一一九八)年十二月の条その他
「吾妻鏡」巻二十の建暦二(一二一二)年二月二十八日の条
「将軍記」巻一の建久九年十二月の条
を元にしており、
怨霊が現れ、頼朝が身心昏倒した話は「吾妻鏡」「将軍記」にはなく、「保暦間記」に拠る。また死去については、「日本王代一覧」に拠る。
とされている(鍵括弧を変更した)。「日本王代一覧」は慶安五(一六五二)年に成立した、若狭国小浜藩主酒井忠勝の求めにより林羅山の息子林鵞峯によって編集された歴史書。神武天皇から正親町天皇(在位一五五七年~一五八六年)までを記す(ウィキの「日本王代一覧」に拠る)。「保暦間記」は南北朝時代に成立した歴史書。鎌倉時代後半から南北朝時代前期を研究する上での基本史料で、成立は一四世紀半ばで延文元(一三五六)年以前。作者は不明であるが、南北朝時代の足利方の武士と推定されている(ウィキの「保暦間記」に拠る)。
 頼朝の死因についてはウィキの「源頼朝」に、『各史料では、相模川橋供養の帰路に病を患った事までは一致しているが、その原因は定まっていない。吾妻鏡は「落馬」、猪隈関白記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記している。これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能である。死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えているため、疑問視する説は存在しない』として、落馬説・尿崩症説・糖尿病説・溺死説・亡霊説・暗殺説・誤認殺傷説の七説を挙げて解説しているが、その内、現実的な可能性が高いと認められる幾つかを見たい(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。まず人口に膾炙する「落馬説」については、
『建久九年(一一九八年)重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りの道中に落馬したということが吾妻鏡に記された死因であり、最も良く知られた説である。その死因が吾妻鏡に登場するのは、頼朝の死から十三年も後の事であり、死去した当時の吾妻鏡には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったともいうが、吾妻鏡には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではない。なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なる。落馬は結果であるなら脳卒中など脳血管障害が事故の前に起きており、落馬自体が原因なら頭部外傷性の脳内出血を引き起こしたと考えられる。落馬から死去まで十七日ある事から、脳卒中後の誤嚥性・沈下性肺炎の可能性がある』。
とする。次にこれに関連した、「尿崩症説」では、
『落馬で脳の中枢神経を損傷し、抗利尿ホルモンの分泌に異常を来たして尿崩症を起こしたという説。この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取する(=「飲水の病」)ようになり、血中のナトリウム濃度が低下するため、適切な治療法がない十二世紀では死に至る可能性が高い』。
とあり、これは落馬の事実があったとすれば、かなり説得力があるようにも思われる(但し、余程、運の悪い落馬の仕方、武士として不名誉なそれでもあったことになるが)。次に「亡霊説」に、
『意識障害があったと捉えることもできる』。
とあって、これも落馬による頭部打撲との関連を認めることが出来る、若しくは、脳卒中など脳血管障害の発作が、周囲の者から見ると、本文にあるような連中の霊の出現を見たかのような印象を受けた(当日の光学的な自然現象とシンクロして)、としてもおかしくはない。
『愛人の所に夜這いに行く途中、不審者と間違われ斬り殺されたとする』「誤認殺傷説」は、頼朝が女装して女のもとに忍んで行こうとしたのを、警固の安達盛長によって誤って斬られたという説である。これは一見、頼朝が手に負えない女好きであった事実と照らし合わせると、情けなくも不本意にして、事実なら隠蔽必須な如何にもゴシップ好きが飛びつきそうな説であるが、その如何にもな狂言染みた「真相はこれだ!」的筋立て(実際に真山青果の戯曲「頼朝の死」(初演は「傀儡船くぐつぶね」)などはそれ。但し、そこでは誤殺者は畠山重保になっている)で、当時六十四になっていた頼朝流人時代からの直参が「警固―誤認―殺傷完遂」というのは、これ、残念ながら如何にも無理がある。
「同年七月に稻毛三郎重成が妻、武藏國にして日比心地惱みしを、様々醫療するにその效なく遂に卒去せしかば、重成別離の悲みに堪かね忽に出家す」重成妻の逝去と重成出家は建久六(一一九五)年七月四日。
「稻毛三郎重成」(?~元久二(一二〇五)年)は桓武平氏の流れを汲む秩父氏一族。武蔵国稲毛荘を領した。多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を安堵され、枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。治承四(一一八〇)年八月の頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年十月、隅田川の長井の渡しに於いて、従兄弟であった畠山重忠らとともに頼朝に帰伏して御家人となって政子の妹を妻に迎え、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘(武蔵国橘樹郡たちばなのこおり)を安堵されて枡形山に枡形城(現在の生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。この後、元久二(一二〇五)年六月二二日の畠山重忠の乱によって重忠が滅ぼされると、その原因は重成の謀略によるもので、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したとされ、翌二三日には殺害されている(ウィキの「稻毛重成」に拠る)。
「八的原」ウィキの、神奈川県藤沢市南部の荒野を指す古地名で、鎌倉時代からの歌枕として知られ、幕末には歌舞伎の科白にも出てくることから知られるようになったという「砥上ヶ原」の記載に(アラビア数字を漢数字に代えた)、『砥上ヶ原の範囲については諸説がある。相模国高座郡南部の「湘南砂丘地帯」と呼ばれる海岸平野を指し、東境は鎌倉郡との郡境をなしていた境川(往古は固瀬川、現在も下流部を片瀬川と呼ぶ)であることは共通する。西境については、相模川までとするものと引地川までとする二説が代表的である。前者は連歌師、谷宗牧が一五四四年(天文一三年)著した『東国紀行』に「相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上が原とぞ」とあるのが根拠とされる。一方、後者は引地川以西の原を指す古地名に八松ヶ原やつまつがはらあるいは八的ヶ原があり、しばしば砥上ヶ原と八松ヶ原が併記されていることによる。後者の説を採るならば、砥上ヶ原の範囲は往古の鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼地区の範囲とほぼ一致する』とあるから、現在の辻堂辺りを比定出来る。]