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Свидание Иван Сергеевич Тургенев
あひゞき~明治二十九(1896)年十月春陽堂刊「片戀」所収改稿版~
――イワン・ツルゲーネフ原作 二葉亭四迷譯
[やぶちゃん注:これは
Иван Сергеевич Тургенев(Ivan Sergeyevich Turgenev)
“Записки охотника”(Zapiski okhotnika)
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(1818~1883)の「猟人日記」(1847~1851に雑誌『同時代人』に発表後、一篇を加えて二十二篇が1852年に刊行されたが、後の70年代に更に三篇が追加され、1880年に決定版として全二十五篇となった)の中の
“Свидание”(Svidanie)
の全訳である(1850年『同時代人』初出)。底本は岩波書店1955年刊の二葉亭四迷譯「あひゞき・片戀・奇遇」(岩波文庫)に「附録」として所収するものを用いた。二葉亭は一度、明治二十一(1888)年の七~八月に雑誌『國民之友』に本原作の最初の翻訳を連載した。そのテクストは既に私のHPで「あひゞき――イワン・ツルゲーネフ原作 二葉亭四迷譯」として公開している。実際にはこの初稿の方が人口に膾炙しているのであるが、実際にはこれは石橋思案に代表されるような心ない旧守派の反言文一致批判に晒される。二葉亭はそうした批判をも受けて、単行本化に際し、大幅な改稿を試みている。今回のテクストはそれを電子化した。濁点の「/\」は正字に直し、ポイント落ち二行の文中の二葉亭の自身の割注は【 】内表記した。幾つかの難解な語が現われるが、これは既に上記の第一稿に私が付けた注や、私の電子テクストの同原作の中山省三郎訳「あひびき」を読んでみれば十分に読解し得るものばかりであるので、今回はオリジナルの注は附していない。いや、何よりもこの三つの訳文は、それを読み比べる時、口語翻訳という絶壁に独り挑んだ二葉亭四迷という文学者の孤高の登攀の覚悟を実感させてくれる。それを私たちは心して味読せねばならぬ。なお、言文一致体への試みでもあり、「爽(さわやか)」「忘れつこはねへ」「擡(もちや)げたりして」等の歴史的仮名遣の表記の誤り等も一切注していない。【2008年11月7日】石橋思案・蒲原有明・田山花袋・石橋忍月・吉江孤雁・小栗風葉他による『二葉亭四迷訳「あひゞき」「めぐりあひ」(奇遇)「片戀」の反響(全八篇)』も是非お読みあれ。【2008年11月8日】]
あひゞき 二葉亭四迷
~明治二十九(1896)年十月春陽堂刊「片戀」所收改稿版~
秋は九月中旬(なかば)の事で、一日(あるひ)自分がさる樺林の中(うち)に坐つてゐたことが有つた。朝から小雨が降つて、その霽間(はれま)にはをり/\生暖な日景(ひかげ)も射すといふ氣紛れな空合(そらあひ)である。耐力(たわい)の無い白雲が一面に空を蔽ふかとすれば、ふとまた彼處此處(あちこち)一寸(ちよいと)雲切がして、その間から朗(ほがらか)に晴れた蒼空が美しい利口さうな眼のヤうに見える。自分は坐つて、醗ポを際喘して、耳を傾けてゐると、つい頭の上で木の葉が微(かすか)に戰(そよ)いでゐたが、それを聞いたばかりでも時節は知れた。春のは面白さうに笑ひさゞめくやうで、夏のは柔しくそよ/\として、生温(なまぬる)い話聲のやうで、秋の末となると、おど/\した薄寒(うそさむ)さうな音であるが、今はそれとは違つて、漸く聞取れるか聞取れぬ程の、睡(ね)むさうな、私語(さゝや)ぐやうな音である。力の無い風がそよ/\とが木末(こずゑ)を吹いて通る。雨に濡れた林の中の光景(やうす)が照ると曇るとで間斷なく變つてゐたが、或時は其處に在るほどの物が一時に微笑でもしたやうに燦爛(きら/\)となると、むら/\と立(たつ)た樺の細い幹がふと白絹のやうな柔(やさ)しい光澤(つや)を帶びて、其處らに落散つた葉が急に斑(まだら)に金色(きんいろ)に光る、そこで頭の茸々(もじや/\)したパアポロトク【蕨の類】の美しい長い莖(ぢく)までが最(も)う秋だけに熟え過ぎた葡萄のやうに色づいて、際限(はてし)もなく縺(もつ)れつ絡(から)みつして目前に透(す)いて見える、かと思ふとまた四邊(あたり)一面に急に薄青くなつて、瞬(またゝ)く間に煌々(きら/\)した所が滅(な)くなつて了へば、樺の木立も光澤(つや)が失せて、宛然(まるで)まだ冬の冷たい閃(ちら)つく日光(ひかげ)を受けぬ降りたての雪か何ぞのやうに白々となると――小雨が音のせぬやうに、忍んで、ぱら/\と降出す。樺の葉は著しく色は褪(あ)せてゐても、流石(さすが)に尚ほ青かつたが、唯其處らに疎(まばら)に見える稚木(わかぎ)のみは總(すべ)て赤くも黄ろくも色づいて、ふと日光(ひかげ)が雨に濡れたばかりの細枝(こえだ)の繁みをちら/\と漏れて來る時には、俄に目(ま)ばゆい程に光り出す。鳥は一羽も啼かず、皆何處にか障れて靜まり返つてゐたが、唯をり/\人を弄(なぶ)るやうな四十雀(しゞふから)の聲のみが銅錢の鈴でも鳴らす如(や)うに聞える。此樺の林へ來る前に、高い白揚(はこやなぎ)の林を犬を伴(つ)れて通つて來たが、自分は一躰此白揚(はこやなぎ)といふ樹は、餘り好かぬ。幹と云へば薄い連翹色(れんげういろ)でと云へば鼠がゝつた緑色の、鐵物(かなもの)細工を見るやうなので、頭を一杯に延(のば)して、空中で擴げて、團扇(うちは)のやうな格好をして震へてゐるので、自分は好かぬが、長い莖に無器用に附着けたやうな固い小汚ない葉をうるさく振立てる所も好かぬ。此樹の觀(み)て心地(こゝろもち)の好(よ)い時と云つては、低い灌木の中に一本高く聳えて、あか/\とした入日の光(かげ)を眞面(まとも)に受けて、根方(ねがた)から木末(こずゑ)まで同じ樺色に染りながら、燦然(きら/\)として風に騷ぐ夏の夕暮か――さもなくば、風の吹く晴れた日に、蒼空(あをぞら)を影にして立ちながら、ざわ/\と風に揉立(もみた)てられる其(その)勢(いきほひ)に葉が捥(もが)れて、颯(さつ)と吹飛(ふきとば)されさうな時かである。兎に角此樹は好(す)かぬので、其林(そこ)には休まず、この樺の林まで來て、地上をわづか離れて下枝(したえ)の生(は)えた雨凌(あましの)ぎになりさうな木を見立てゝ、其下に巣を作つて、四方の景色を眺めながら、遊獵者でなければ其味を知らぬといふ、例の穏かな靜かな夢を結んだ。
何(どの)位(くらゐ)眠(ねむ)つてゐたか判然(はんぜん)しないが、兎に角久(しば)らくして眼を覺して見ると、林の中には一杯日が照(あた)つてゐて、何方(どちら)を向いても、嬉しさうに騷ぐ木の葉を透して蒼空が華やかに火花でも散らしたやうになつて見える、雲は狂ひ廻る風に吹拂はれて隠れて了ひ、空はからりと晴れて、空氣は爽然(さば/\)とした一種の涼味を含んで人の精神(こころ)を爽(さわやか)にする、尤も雨が霽(あが)つて靜かな夜になる時分には、大概いつも此樣(こん)な前觸があるもので。そこで自分も獲(と)れるか獲れぬか最(も)う一度運を試(た)めさうと思つて、起上(たちあが)らうとして、只(と)見(み)ると、彼方(むかふ)に惜然(しよんぼり)と坐つてゐる者がある。熟(よ)く視れば、それは百姓の娘(こ)らしい少女(むすめ)で。二十歩ばかり彼方(むかふ)に、物思はし氣に首を垂れて、兩手を膝に落して、片々の手を半分啓(ひろ)げて大きな草花の束を輕(そつ)と持つてゐたが、花束は呼吸(いき)をする毎(たび)に段々滑つて縞の袴(ペチーコート)の上へ落ちかゝつてゐる。柔軟(しんなり)した清潔(きれい)な短い白槻衣(しろしやつ)を着て、喉元と手首の所で釦を掛けて、大粒な黄ろい飾玉を二條(ふたすぢ)にして領(えり)から胸へ垂(た)らしてゐたが、なか/\の器量好(きりやうよし)で、象牙のやうな色白の額際(ひたへぎは)で幅の狹い緋の片巾(きれ)を卷いて、その下から美しい灰色の白つぽい濃い髮の毛の叮嚀に梳(とか)したのを少し見せて、二ツの半圓を描かせて、左右に分けてゐる、顏の他(た)の部分は日を受けて黄ろい點(しみ)をほんのりと見せてゐたが、こんな色は薄皮の者でなければ見られぬもので。伏目になつて居たから、眼は見えなかつたが、その代り秀でた細い眉と長い睫毛(まつげ)は判然(はつきり)見えた、まつげは濡(うる)んでゐて、片々の頰にも蒼ざめた唇へ掛けて涙の傳つた痕が夕日を受けてきら/\と見える。總じて首付(くびつき)が可愛らしい、鼻が少し大きく圓すぎたが、それすら左(さ)ほど眼障(めざはり)にもならぬ。面色(おもざし)が殊に氣に入つたが、洵(まこと)に柔和(にうわ)で微塵(みじん)も厭味氣(け)がなく、さも物憂さうで、何か悲しい事に出合つて邪氣(あどけ)なく途方(とはう)に暮れた氣味が溢れるばかりである。誰かを待合せてゐるものと見えて、何か微(かすか)な物音がすると、急に面を擧げて、四方(あたり)を顧視(みまは)して、大き涼しい牝鹿のやうな眼を薄暗い木影で光らした。で、大きくした眼を物音のした方へ向けたまゝで、暫らく聞澄してゐたが、軈(やが)て溜息をして、靜に此方(こちら)へ向き直つて、前よりは一層低く屈(こゞ)むで、徐々(そろ/\)花を擇(よ)り出した。眶(まぶち)が赤らむで、唇はさも苦しさうに痙攣(ひきつ)つて、濃い睫毛(まつげ)の下から、またしても涙が淀み/\流れ出て日光に煌(きら)めく。かうして久(しば)らく時を移してゐたが、少女(むすめ)はをり/\手で面(かほ)を撫廻すばかりで、身動をもせずに聞耳を立てゝゐる、唯聞耳ばかり立てゝゐる……と、ふと又がさ/\と音がする――少女(むすめ)は慄然(ぶる/\)とした。物音は罷(や)まぬのみか、次第に高くなつて、近づいて、遂に息切つた急足(いそぎあし)の音となる。少女は起直(おきなほ)つて、何となく氣怯(きおくれ)がした樣子で、傍眼(わきめ)も觸らなかつたが、眼差(めざし)はきよと/\して、早く逢ひたいで炎えるやうになる。繁みを漏れて男の姿が隠現(ちら/\)するのを視て、はツと顏を赧らめて、さも/\嬉しさうに嫣然(につこり)して起上(たちあが)らうとしたが、ふと復(ま)た萎(しを)れて、蒼ざめて、狼狽(どぎまぎ)して――男が傍へ來て立止つてから、漸く悸々(おど/\)した拜むやうな眼付で面(かほ)を視上げた。
自分は尚ほ物蔭に潛むでゐながら、如何(どん)な奴かと思つて、其男を視ると、何だか厭な心地(こゝろもち)がした。是は何でも年のゆかぬ素封家(ものもち)に使はれてゐる生意氣な室僕(ヘやをとこ)か何かで。衣服(きもの)もおつう氣取つて、酒落(しやら)くさい止度氣(しどけ)ない風をしてゐる、先づ外套は短い、青銅のやうな色の、主人の着故(きふる)しらしい奴で、端々(はしばし)を連翹色(れんげういろ)に染めた薔薇色の頸卷(くびまき)を咽喉一杯に卷いて、金モールの抹額(はちまき)を付けた黑天鵞絨(くろびろうど)の帽子を目深(まぶか)に戴(かぶ)ツてゐる。白い槻衣(しやつ)の角の圓い襟で用捨もなく耳を押付けて、頰を擦つて、糊で固めたカフで手首を赤い曲つた指まで隠してゐたが、指にはネザブツトカ【草の名】の形をしたピリューザ【寶石の名】入の指輪を幾個(いくつ)か穿(は)めてゐる。氣を注(つ)けて觀(み)ると、人の面相(かほだち)には男には大概氣に喰はぬ代り、忌々(いま/\)しい事だが、女には動(やゝ)もすると氣に入るのが有るが、此男のもその類(たぐひ)で、桃色で、爽然(さつぱり)した、人を人臭いと思はぬやうな面相(かほだち)である。粗末を面の癖に、故(わざ)と何事も鼻で待遇(あしら)つてゐるやうな、さも詰らないと云ひさうな面色(かほつき)を爲(し)やうとしてゐる樣子で、妄(みだり)に薄鼠色の只さへ小さな眼をいとゞ細くしたり、眉を細めたり、口の端(はた)を引下(ひきさ)げたり、無理に欠(あく)びをしたり、さも故(わざ)とらしい氣の無さゝうな放恣(やりぱなし)の風をして、或は勇ましく捲上つた赤ちやけた揉上(もみあげ)を撫でゝ見たり、又は厚い上唇(うはくちびる)の黄ばむだ髭を引張つて見たりして――いや、どうも見て居られぬ程に氣取る。待合(まちあは)せてゐた少女(むすめ)を見るから、最(も)う氣取り出して、のそり/\大股(おほまた)に歩いて傍へ來て、立止ると、一寸(ちよいと)肩を搖(ゆす)つて、兩手を外套の隠袋(かくし)へ入れたが、氣の無さゝうにジロリと少女の面を視て、其處へ坐つた。
「待つたか」と矢張何處か他處(よそ)を眺めながら、足を搖(うご)かして欠(あく)び雜(まぢり)に云ふ。
少女は急に返答を爲得(しえ)なかつた。
「どんなに待つたでせう」、と漸(やうや)う聞えるか聞えぬ程の小聲で云ふ。
「ふむ!」と、男は帽子を脱(と)つて、殆ど眉間(みけん)から生えだした濃い髮の毛の思切つて渦(うづ)を卷かした奴を勿體らしく撫でゝ、大樣に四方(あたり)を顧眄(みまは)して、さて又密(そつ)と帽子を冠(かぶ)つて、大切な頭を蔽(かく)して了つた、「危なく忘れる所よ。それにこの雨だもの!」と復(ま)た欠(あく)び、「用は多し、さうくは仕盡(しき)れるもんぢやねえ。その癖動(やゝ)ともすれば小言(こゞと)だ。時にお立(たち)は明日(あした)だよ……」
「明日(あした)?」と吃驚(びつくり)して男の顏を視(み)る。
「明日だ……おい/\賴むぜ」、と少女(むすめ)の慄然(ぶる/\)として、密(そつ)と俯向(うつむ)いたのを見て、忌々(いま/\)しさうに、早口に云ふ、「賴むぜ、アクリーナ、泣かれちヤ可厭(あやまる)。おれはそいつが甚(きつ)い嫌(きらひ)だ」、と低い鼻に皺を寄せて、「泣くなら直ぐ歸(け)へらう……何だべらぼうな――泣く!」
「あら、泣きやしませんよ」、と周章(あはて)て云つて無理に涙を飮込む。暫らくして、「それぢや明日(あした)お立(たち)なさるの? いつ復(ま)た會はれるだらうねえ?」
「逢はれるよ、心配せんでも。さうよ、來年でなけりや――さ來年か何時か。」少し鼻聲で、氣の無さゝうに、「且(だん)つく彼得堡(ペテルブルグ)で役にでも就きたい樣子だ。ひよつとかすると、外國へ往(ゆ)くかも知れん。」
「別れたら私(あたし)の事なんざ忘れてお了ひなさるだらうねえ」、と悲しさうに云ふ。
「何故(なぜ)? 大丈夫、忘れつこはねえ、だがお前も是からは些(ちつ)と氣を注(つ)けるが好(い)いぜ、惡踠(わるあが)きも好加減(いゝかげん)にして、些たあ親父(おやぢ)の云ふ事も聽きねえ。おれは大丈夫だ、忘れつこはねへ――そりや……」と平氣で伸(のび)をしながら、復(ま)た欠(あくび)をして、「ねえ。」
「ほんとに、ヴィクトル、アレクサソドルイチ、忘れちや厭よ」、と拝むやうに云つて、「こんなにお前さんの事を思ふのも、慾德づくぢヤないんだから……親父(おやぢ)さんの言ふ事を聽けつてお言ひなさるけれど、私(あたし)にやそんな事あ出來ないわ……」
「何故?」と仰向けに臥倒(ねころ)ぶ拍子に、兩手を頭に敷(か)つて、胸から押出したやうな調子で云ふ。
「何故つて、お前さん、――あの始末だもの……」
と口を噤(つぐ)むで了ふ。男は時計の鋼製の鎖(くさり)を弄(いぢ)りだしたが、久(しば)らくしてから、
「おい、アクリーナ、お前だつて馬鹿ぢやあるめえ、なあ、そんな詰らん言(こと)をいふもんぢヤねえ。おれはお前の爲めを思つて言ふのだ、可(い)いか、解つたか? そりやお前は馬鹿ぢやねえ、お前の母親(おつかあ)も然(さ)うだが、お前も全然(まるつきり)百姓ぢやねえ。だが然(さ)うは云つても教育はねえの――そんなら人の言ふ事なら、唯(はい)といつて聽くもんだ。」
「だつて怖(こは)いやうだもの。」
「ヘン、馬鹿を言つてらあ、何が怖い事があるもんか! 何んだそりや」、と少女(むすめ)の傍(そば)へ摺寄(すりよ)つて、「花か?」
「花ですよ」、と心細さうに云つたが、「このポレワーヤ、リャビンカ【草の名】は今私(あたし)が摘んで來たの」、と少し乘地(のりぢ)になる、「これを牛の仔に喰べさせると藥になるつて。ほら、チェレダー【草の名】――飼面(そばかす)の藥。一寸(ちよつと)御覧なさい、綺麗ぢや有りませんか、私(あたし)やこんな綺麗な花あ始(はじめ)て見てよ。ほら、ネザブツトカ【草の名】、ほら菫(すみれ)……あ、これはね、お前さんに呈(あ)げやうと思つて摘んで來たの」、と云ひながら、黄ろいリヤビンカの下に青々としたワシリヨーク【草花の名】を細い草で結(ゆは)へた大き花束のあつたのを取出して、「入(い)りませんか?」
男はしぶ/\手を出して、花束を取つて、氣の無さゝうに香(にほひ)を嗅(か)いで、それを指頭(ゆびさき)で回轉(まは)しながら、空を視上(みあ)げて、物思はし氣(げ)な勿體ぶつた面(かほ)をしてゐる。少女(むすめ)は凝(じつ)と其面(かほ)を視てゐたが、その眼付きを視れば、愁(うれひ)を持つてゐながら、惚々(ほれぼれ)して、身をも心をも打任(うちまか)せて、男を吾(わが)佛(ほとけ)と崇めて、言ふなりに爲(な)つてゐる趣(おもむき)が溢れるばかりである。男に氣を兼ねてゐるから、泣きたいのを耐(こら)へて、名殘惜しさうに面(かほ)ばかり見てゐる,それに男は大王(スルタン)か何ぞのやうに偃臥(ねそべつ)て、格別の慈悲を以て、厭な所を我慢して、本尊となつて拜まれてゐる。その赤ら面(がほ)を視てゐると、故(わざ)と平氣な風をして鼻で遇(あし)らつてゐる傍(そば)から、得々(とく/\)と己惚(うぬぼ)れてゐる所もちよい/\見えて、誠に面(つら)が憎かつた。少女(むすめ)は此時さも男が可愛(かわゆ)くて/\、胸の締(しまり)も何も亡(なく)して了つて、魂が自然(おのづ)とあこがれ出て、男の膝に纏(まつ)はるといひさうな風で、何んとも言へず美しかつたのに、男は、何をするかと思へば、ワシリヨークを草の上へ落して了つて、外套の腰の隠袋(かくし)から青銅(からがね)の縁を附けた圓い眼鏡を取出して、片々の眼窩(め)へ嵌めに懸つた、けれども幾ら眉を皺めたり、頰を擡(もちや)げたりして、鼻まで手傳に出して支(さゝ)ヘやうとしても、どうも外(はづ)れて掌(てのひら)へ落(おち)る。
「なにそれは?」と少女(むすめ)が遂に不思議さうに聞(き)くと、
「眼鏡」、と傲然として答へた。
「それを掛けると如何(どう)かなるの?」
「よく見えるのよ。」
「一寸(ちよつと)見せて頂戴な。」
男は面(かほ)を皺(しか)めたが、それでも眼鏡を渡して、
「破(こは)しちや不可(いけねえ)ぜ。」
「大丈夫ですよ」、と恐る/\眼鏡を眼に宛(あて)がつて、「おや、何も見えなくつてよ」、と邪氣(あどけ)なく云ふ。
「そ、そんな……眼を細くしろい、眼を」、と不機嫌な先生いふ聲で叱ると、少女(むすめ)は眼鏡を宛(あて)がつてゐた方の眼を細くした。「ちよツ、間拔けめ、そつちの眼ぢやねい、こつちのだい」、とまた大聲に叱つて、仕改(しか)へる間(ま)もあらせず、眼鏡を引奪(ひつたく)つて了つた。
少女(むすめ)は顏を赧(あか)らめて、忍び音(ね)に笑つたが、他所(よそ)を顧(む)いて、
「どうでも私達(あたしたち)の持つもんぢヤないと見(め)える。」
「知れた事よ。」
可愛(かあい)さうに少女(むすめ)は吻(ほつ)と溜息をして、口を噤(つぐ)むで了つた。久(しば)らくすると、突如(だしぬけ)に、
「あゝ厭だ! お前さんに別れちや一日(いちんち)だつて辛抱が出來ない。」
男は衣服(きもの)の裾で眼鏡を拭いて、再び隠袋(かくし)へ納(い)れて、
「そりや當座は些(ちつ)たあ辛からうさ。」
とお慈悲に肩を叩いてヤると、少女(むすめ)は密(そつ)と其手を外して、怖々(おづ/\)接吻する。
「お前はなか/\しほらしい所があるからなあ」、と得意になつて微笑して、「だが仕方がねえぢやねえか? まア積つても見ろ、吾徒(こちとら)にや此樣(こん)な鄙(けち)な所にやゐられねえぢやねえか、最(も)う直(じき)に冬がお出でなさるが、田舍の冬と來た日にや怖毛(おぞけ)を振つ了ふからな。それから思ふと彼得堡(ペテルブルグ)は違つたもんだ! そこいらが結構だらけだ、到底(とて)もお前なんぞは夢にだつて見た事のない物(もん)ばかしだ。家だつて建前(たてまへ)が違はあ、それから立派な町もありや、會社も有る、何(なに)しても文明開化といふものだ――大したもんよ!……」
少女(むすめ)は子供のやうに少し口を開(あ)いて、一心になつて聽いてゐる。
「と話して聞(きか)しても」と寢返りを打つて、「無駄か。お前にや空々寂々(くう/\じやく/\)だ。」
「何故(なぜ)え? 解りますわ、よく解りますわ。」
「ほ、ほう、えらいな!」
少女は萎(しほ)れた。
「何故此頃は然(さ)う邪慳(じやけん)だらう?」
と伏目になつて云ふ。
「なんだと、此頃は?……ふゝむ、此頃か! 此頃が好(い)い!」
と何となく不足らしい。二人とも默つて了つた。
「どれ、歸(けへ)らうか。」
と男が肱(ひぢ)を杖いて起直(おきなほ)りさうにすると……
「あら、最う些(ちつ)とか出でなさいよ。」
と少女(むすめ)は拜むやうに云ふ。
「何故?……暇乞なら最う濟んだぢやねえか?」
「最(も)う些(ちつ)とお出でなさいよ。」
男は再び横になつて、口笛を吹出したが、少女(むすめ)は其面(かほ)を凝然(じつ)と視た儘で傍眼(わきめ)も觸らぬ。見れば、段々胸が悸々(わく/\)し出した樣子で、唇も痙攣(ひきつ)れば、今まで蒼ざめてゐた頰も紅らむで來る……軈(やが)て臆ておろ/\聲で、
「ヴィクトル、アレクサンドルイチ、お前さんは……あんまり……あんまりだ。」
「何が?」
と眉を皺めて、少し首を擡(もちや)げて、女の方へ捩向(ねぢむ)ける。
「だつて無情(あんまり)だわ。今が別れだといふのに、何とも言はないで。何とか一言(しとこと)位育つて呉れたつて可(よ)さゝうなものだ、一言(しとこと)位……」
「如何(どう)言へば可(い)いといふんだ?」
「如何冨へば可いか、知らないけれど……そんな事あ百も承知してる癖に……最(も)う今が別れだといふのに一言(しとこと)も……あんまりだから可い!」
「可異(をかし)な事をいふ奴だな! 如何言へば可いんだといふに?」
「何とか一言(しとこと)……」
「えい、しちツくどい!」と忌々しさうに云つて、起上(たちあが)る。
「あら、堪忍(かに)……かにして頂戴よ」、と狼狽(うろたへ)て云ふ、涙を飮込みながら。
「腹も立たねえが、お前の沒曉(わからず)やにも困るぢやねえか。如何すれば可(い)いといふんだ? もと/\女房にされねえな得心づくぢやねえか? え、得心づくぢやねえか? そんなら何が不足だ? 何が不足だよ?」
と返答を催促するやうに、ぐつと少女(むすめ)の面を覗込むで、手を啓(ひろ)げて出すと、
「何も不足……不足は無いけれど」、と吃りながら、恐々(おそる/\)震へる手を出して、「たゞ何とか一言(しとこと)……」
涙がはら/\と漏(こぼ)れる。
「へん、とう/\お株を始めた」、と平氣なもので、帽子を目深(まぶか)にする。
「何も不足は無いけれど」、と兩手を面(かほ)に加(あ)てゝ、欷歔(すゝりあげ)て泣きながら、「是から先は家に居るのが如何(どんな)に辛(つら)いか知れやしない。私(あたし)の身は如何なる事だと思ふと……吃度(きつと)無理やりにお嫁に遣られて苦勞するに違ひないんだから、それを思ふと、私や……悲しくつて……悲しくつて……」
「並べろ/\、たんと並べろ。」
と鵬恥地鞴(ぢたゝら)を踏みながら、口の中で言つてゐる。
「だから僅(たつ)た一言(しとこと)、何とか一言……アクリーナ、おれも……お、お、おれも……」
ふいに嗚咽(むせ)かへつて泣出したので言葉が斷絶(とぎれ)る――草の上へ打伏(うつぶし)に倒れて、さも苦しさうに泣いてゐる。體はぶる/\震へて、頸窩(ぼんのくぼ)をで高浪(たかなみ)を打つ……堪(こら)へに堪へた溜涙(ためなみだ)の關が一時に切れたので。それを男は久(しば)らく起(た)つて視てゐたが、軈(やが)て首を竦(すく)めて、ぐるりと背(うしろ)を向けて、大股に去(い)つて了つた。
久(しば)らく經つた。少女(むすめ)は漸く落着いて、面を擧げたが、ふと跳起(はねお)きて、四方(あたり)を顧眄(みまは)して、手を拍(う)つて驚いた、跡を追つて駈出さうとしたが、足が利かない――ぱつたり膝を着く……自分は最う見に見かねた。矢庭(やには)に木蔭を躍出ると、少女(むすめ)は自分の姿を見るや否や、急に力附いて、忍音(しのびね)に阿(あつ)と云つて起上(たちあが)つて、木の間へ隠れて了つた。草花ばかり取殘されて、四邊(そこら)に散亂してゐる。
自分は茫然として立つてゐたが、軈(やが)てワシリヨークの花束を拾上げて、林を野へ出た。日は晴々とした蒼空(あをぞら)に低く漂(たゞよ)つて、薄く弱い景(かげ)が耀(かゞや)きはせずに朦朧(ぼんやり)と射(さ)してゐる。日沒には最う半時(はんとき)しか有るまい、天末(てんまつ)には微に夕燒が見える。風が黄ろく乾(から)びた刈株(かりかぶ)を渡つて烈しく吹付けるので、反(そり)かへつた細かい落葉が周章(あはて)て起上(たちあが)つて、林に沿(つ)いた、往來を横ぎつて、自分の側を駈通る、壁のやうに野に向いた林の一面がざわ/\として、光るのではないが、ちら/\する、枯草や野草や藁には蜘蛛の巣が一面に絡着(からみつ)いて、風に煽られて浪を打つ。自分は心細くなつて停歩(たちどま)つた……眼中の風物(ふうぶつ)は流石(さすが)に爽然(さつぱり)とはしてゐるが、味氣(あぢき)なく寂(さび)れ果てゝ、何處かに間近くなつた冬の凄(すさ)まじい俤が見えるやうである。小心(せうしん)な烏が重さうに羽敲(はゞたき)をして、烈しく風を截(き)つて、頭の上を高く飛んで行きながら、首を捩向(ねぢむ)けて、自分の姿を視ると其儘、急に飛上(とびあが)つてちぎつたやうな聲で啼き/\、林の向(むかふ)へ隠れて了ふと、鳩が幾羽ともなく群を成して、勢込むで穀倉(こくゞら)の方から飛んで來て、ふと棒の捩(よぢ)れたやうに舞昇(まひあが)つて、倉皇(そゝくさ)と野面(のづら)に降りた――秋に違ひない! 誰やら禿山の向(むかふ)を通ると見えて、空車(からぐるま)の音が高く響渡る……
自分は其の儘歸宅(かへつ)て了つたが、可哀さうと思つたアクリーナの俤はなか/\忘れかねた、ワシリヨークの花束も乾(から)びた儘で、尚ほ今だに藏(とつ)てある……