やぶちゃんの電子テクスト 心朽窩 新館へ
やぶちゃんの電子テクスト 小説・随筆篇へ
鬼火へ
二葉亭四迷「あひゞき」「めぐりあひ」(奇遇)「片戀」の反響(全八篇)
[やぶちゃん注:本アンソロジーは岩波書店1955年刊の二葉亭四迷譯「あひゞき・片戀・奇遇」(岩波文庫)の巻末に、『「あひゞき」「めぐりあひ」(奇遇)「片戀」の反響』の標題で掲載されている。恐らく岩波書店編集部による企画と思われる(本書では非常に優れた解説を神西清氏が担当しておられるが、その叙述からは少なくとも神西氏の指示によるもののようには思われない)。文中の難読と思われるものについては正仮名遣で〔 〕内に読みを附した。各文章末に私の注を付した。今回、私のHPでの
あひゞき~明治二十一(1888)年七月・八月『國民之友』所収第一稿版~
あひゞき~明治二十九(1896)年十月春陽堂刊「片戀」所収改稿版~
の公開に伴い、貴重で纏まった同時代批評資料として、企画編集をされた岩波書店編集部に敬意を表しつつ、ここにテクスト化する。傍点「ヽ」は下線に。傍点「○」は斜体に代えた。当初、冒頭の忌まわしい石橋思案の『イヤラシイ』『駄評』は、『全體虫が好かぬどうも虫が好かぬ』ので、ブログ掲載で差別化して、岩波書店編集部の「編集権」を誤魔化すことも考えたのであるが、それも石橋にも岩波にも、如何にも大人気ないことと反省致し、「あひゞき」以外の評も乗るが、そのまますべて該当本文群全部をテクスト化することとした。それぞれの間に「***」を入れた。【2008年11月8日】]
***
「あひびき」を讀んで 思案外史
我國で言文一致の小説宗を開山せられた春迺屋祖師の御弟子の中で日の出の譽れ高き二葉亭四迷先生がお譯しになツた「あひゞき」と申す小説を國民の友で拝讀しましたが中々面白くツて……面白くツて……あんまり面白いので浮かされたせいかとう/\次の樣ナ駄評と云ふ雜魚(ざこ)がフラフラと心の湖に湧き出ました。
申すも甚だお恥かしい次第ですが私は露國の小説は譯本でもまだ讀んだ事がありません況して原本は……二葉亭先生の「あひゞき」が臍(ほぞ)の緒切ツて始めてでナ、流石は二葉亭先生がお選びになツた程あツて脚色と云ひ文章と云ひ申分はありません……脚色の事を兎や角譯者に申すのはチトお門(かど)違ひですが「あひゞき」の脚色は私見た樣ナ俗物が讀んだ處では燒麩の水煮の樣に無味でソシテ洗ひたての浴衣同樣さつぱりして居ます、私は先生がこの無味淡泊な小説をお選びになツたのを非常に嬉しくも、有がたくも思ツて居るのです時節柄油ツこい物や不潔な物は惡疫にでも……ですから私は此の無味淡泊な(勿論私に限ツてさう思ふのでせうが)「あひゞき」を盛暑の節に讀んだから非常に賞翫しました、先生も此「あひゞき」の原文が綴る、甚だ、餘程淡泊なのをご承知と見えて勗〔つと〕めて形容澤山で持切ツて原文の面白くない事も面白い樣に、可笑しくない事も可笑しい樣に健筆を揮はれたお骨折は慥に見受けました、充分承知致しました……が……あんまり衣を掛け過ぎて肝腎の種の味を損ねはしませんか、形容が却ツて毒になツて紙上に無理と云ふ腫物が吹き出はしませんか、脚色が非常にアツサリな代りに形容が非常にコツテリして居ます、まだコツテリの時代はよございますがコツテリが進化してヒツコイと化成したのは如何にも殘念です、ヒッコイ物は何んでもいやらしう御坐います、私は先生の「あひゞき」ばかりをさう云ふのではありませんが一躰に言文一致の文章はやゝともすると形容がヒッコイ樣です所謂嵯峨のやおむろ先生の「チヨツ氣障ツポイ」形容が澤山な樣です、白粉(おつくり)も化粧には最要の物ですが五分も一寸も白壁の樣にコテ/\塗られては興が覺めまナ、愛想が盡きます、春迺屋の祖師が諧謔の御講義の樣に人に面白と思はせるのは其文章を人が讀んで獨りでにクス/\笑ふ樣でなくツてはホントウのおもしろいのでは無い、無理にこそゴツて笑はせる樣ではホントウのおもしろ可笑しい諧謔の神髓ではないと云はれた事があつた、形容詞を使ふのも夫れと同じく人が夫れを讀んで、ハヽア成程甘い形容の方法と云ふ者はこんな物かアヽ甘い形容だと自然獨りでに感ズヒてこそ形容の極意でがな御坐ろう、夫れを無理ナ形容詞ヤ氣障なおつくりをして人にどうだ此形容の甘サ加減を見ろどうだおつくりが乙だろうと云はない許りの書き振りは私はホントウの甘い形容ではなからう乙なおつくりでは無からうと信じます、こう申すとなんだか「あひゞき」が無理な形容詞や氣障な文句で埋まツてる樣に聞こえますが決してさう云ふ譯ではありませんが「あひゞき」にもチト無理と思はれる形容詞ヤヒツコイ文句が曉天の星同樣キラキラ見えるのは如何にも殘念で堪りません私は序ながら世の言文一致躰で小説をお書きになるお方にこゝの處をよく御注岩意あらん事を偏に願ひ上げます國民の友廿五號附録十五頁の上段に小雨が忍びヤかに怪し氣に私語する樣に降ツて通ツたト書いてあります成程意味を強める爲めかは知りませんが小雨の降り樣にはチト大業ではありませんか、同頁の下段に全體虫が好かぬどうも虫が好かぬも一ツオマケニどうも虫が好かぬ杯と幾つも重ねて白揚のイヤラシイ事が書いてありますが成程原文の通りかも知れませんが夫れ程何にも白揚を要るくいやがるにも及びますまい私はか樣な文章の方が餘程虫が好かぬ!‥…‥
同十八頁下段の「鼻に皺を寄せて」や同十九頁上段の「平氣で伸びをしながらまた欠伸をした」杯は一寸讀んだ處でも隨分妙に考へられました先生もどう云ふ譯か言文一致躰の新機軸には似合はしからぬ馬琴風に七六(むづ)かしい(易しくつても間に合ふのに)學力を現はす文句をチヨコ/\用ひられたのは私が大の不服です「偃蹇恣睢〔えんけんしき〕」や二十七號十一頁の下段の歴亂として杯は振假名が無くツてはサツパリ私に讀めません(アヽ我ながら學力のない男デス)
二十七號二十九頁の下段に二箇處迄ある此頃わのわハはの間違ひだろうと思ひます此れハ全く秀英舍の活版小僧が不注意からです此不手際でハ若し漢字にルビーでも附けたら假名遣ひはどんなでせう思ひ遣られ候加樣に愚にも附かぬ事まで業々しく記〔か〕き立てるのも全く古渡(こわた)りの八分珠(だま)にチヨツとの瑕〔きず〕でもあツてはいけないと心配の餘りなり。コンナに惡るいと思つた處を數へ立つるのも外がミンナいゝからの事です、只私が幾重にも先生に願ふ處はどうか餘り形容に凝らない樣に……北海道名産の干鮑(あはび)見掛けは至ツて惡るくツても嚙みしめると得も云はれぬ味が出る樣御得意の健筆を揮はれん事とモチツト身のある小説をお選びになる事の外はありませんツ
□やぶちゃん注
・出典の初出は底本注記によれば、明治21(1888)年9月21日民友社刊の『國民之友』第三十号である。
・石橋外史:石橋思案(慶応3(1867)年~昭和2(1927)年)。小説家。本名、石橋助三郎。尾崎紅葉・山田美妙らと共に硯友社を組織、日本最初の文芸雑誌「我楽多文庫」を創刊した。「乙女心」「わが恋」「京鹿子」等。本叙述でも明らかなように、小説でも戯作趣味から抜け切ることが出来ず、小説家としてよりも博文館や読売新聞等の名編集者として名を残している。なお、底本ではこの下にポイント落ちで(石橋思案)とあるが、これは編集者によるものと考え、排除した。
・春迺屋祖師:坪内逍遙(安政6(1859)~昭和10(1935)年)のペンネーム。春の屋主人、春の屋おぼろ、柿叟等と号した。本名、坪内雄蔵。二葉亭は明治19(1886)年に逍遙の門を叩き、翌、明治20年に処女作「新編浮雲」第一篇を坪内雄蔵名義で刊行している(営業上の理由とされるが逍遙は同作品の印税の半分を報酬として受け取っている)。
・嵯峨のやおむろ:嵯峨の屋お室(文久3(1863)年~昭和22(1947)年)。本名、矢崎鎮四郎(しんしろう)。詩人・小説家。二葉亭四迷と交友し、同じく逍遙に師事した。「ひとよぎり」「初恋」「流転」等。一時は尾崎紅葉と並び称されたが、晩年は文壇からも遠ざかり、忘れ去られた。ロシア文学の翻訳・紹介にも努めた。
・五分も一寸も:「一寸の虫にも五分の魂」の逆で過剰な意味を引っ掛けたのと、度量衡としても過剰な「五分」や「一寸」を暗示させている、如何にも戯作風のいやらしい物言いである。
・形容の極意でがな御坐ろう:「がな」は近世語の副助詞で、例を挙げて仄めかして言う語。「~でも」。
・七六(むづ)かしい:接頭語の「ひち」に「七」を当て、それを受けて続く「難しい」の「む」に「六」を当てたもの。戯作風の書き方である。接頭語「ひち」(「しち」とも)は「甚だしい」「ひどい」の意を表す。「ひち面倒臭い」等と今でも用いる。
・偃蹇恣睢〔えんけんしき〕:青年ヴィクトルの悪辣な性情を示すこの語は、本来、第一義的には「偃蹇」「恣睢」共に、エゴイストの謂いであるが、「恣睢」の別義を合わせて、そうした高慢で勝手気儘な上に、人を軽蔑する様子を言うのであろう。
・歴亂:ものが乱れていることの形容。これは石橋の言掛かりとしか思えない。読みは簡単で思案先生が思案するまでも、況やルビまで必要などとはいっかな思われず、実際にこの熟語の意味を知らなくとも、あのシーンから容易に類推出来るという外ありませんツ。
・秀英舍:印刷会社。現在の大日本印刷。
・事の外はありませんツ:文末の句読点なしは、ママ。
***
『あひびき』に就て 蒲原有明
私が長谷川二葉亭氏の名を知りはじめたのは『國民之友』に出た『あひびき』からであつた。そのころは未だ中學に入りたてで、文學に對する鑑賞力も頗る幼稚で『佳人の奇遇』などを高誦して居た時代だから、露西亞の小説家ツルゲーネフの飜譯といふさへ不思議で、何がなしに讀で見ると、巧に俗語を便つた言文一致體――その珍らしい文體が耳の端で親しく、絶間なくささやいで居るやうな感じがされて、一種名状し難い快感と、そして何處か心の底にそれを反撥しやうとする念が萌して來る。餘りに親しく話されるのが譯もなく厭であつたのだ。
さて讀み了(おは)つて見ると、抑も何を書いてあつたのたか、昔時のウブな少年の頭には人生の機敏が唯漠然と映るのみで、作物の目的や趣旨に就ては一向に要領を得ない。だが、それにも拘らず、外景を描いたあたりはイリユウジオンが如何にも明瞭に浮ぶ。秋の末の氣紛れな空合や、林を透(すか)す日光や、折々降りかゝる時雨や、それがすべて昨日歩いて來た郊外の景色のやうに思はれる。その中で男の倣慢な無情な荒々しい聲と、女の甘へるやうな賴りない聲が聞える。謎だ、謎を聞いて解き難いのに却て一層の興味が加つて來るのか、兎に角私が覺えた此一篇の刺戟は全身的で、音樂的で、また當時にあつては無類(ユニク)のものであつた。それで幾度も繰返して讀んだ。二葉亭氏の著作の中で此一篇位耽讀したものは外にない。當時の少年の柔かい筋肉に、感覺に染み込んだ最初のインプレツシオンは到底忘れることは出來ない、また詐(いつは)ることも出來ない。それでゐて私はこのインプレツシオンを内心氣味わるく思つて居た。初戀の情緒と恐怖だ。ずツと後になつてからは自己を欺いて二葉亭氏の文章を嫌ひだと口外するやうになつた。第二第三の戀が出來て居たからだ。
□やぶちゃん注
・出典(初出かどうかは不明)は底本注記によれば、明治42(1909)年8月1日発行の坪内逍遙・内田魯庵編輯になる「二葉亭四迷」である。また本文末尾には、底本ではポイント落ちで『(後略)』の編者注記と思われるものが入る。
・蒲原有明:詩人(明治8(1875)年~昭和27(1952)年)。この前年、明治41(1908)年に刊行した詩集「有明集」象徴主義詩人としてデビュー、薄田泣菫と並び称された。
・抑も:「抑(そもそ)も」又は「抑(そ)も」。
***
二葉亭四迷君 田山花袋
『あひびき』の飜譯は二十一年の『國民の友』に二號にわたつて出た。あの細かい天然の描寫、私等は解らずなりにもかうした新しい文章があるかと思うて胸を躍らした。『あゝ秋だ! 誰だか向うを通ると見えて、空車(からぐるま)の音が虚空にひゞき渡つた……』その一節が、故郷の田舍の楢林の多い野に、或は東京近郊の榛の木の並んだ丘の上に、幾度思ひ出されたことか知れなかつた。明治文壇に於ける天然の新しい見方は、實にこの『あひびき』の飜譯に負ふところが多いと思ふ。
□やぶちゃん注
・出典(初出かどうかは不明)は底本注記によれば、前の蒲原有明の文章と同じく明治42(1909)年8月1日発行の坪内逍遙・内田魯庵編輯になる「二葉亭四迷」である。
・本文冒頭及び末尾に底本ではポイント落ちで『(前略)』及び『(後略)』の編者注記と思われるものが入る。
・田山花袋・小説家(明治4(1872)年~昭和5(1930)年)。本名、田山録弥(ろくや)。栃木県邑楽郡館林町(現在は群馬県館林市)生まれ。尾崎紅葉に師事するが、日露戦争従軍体験等を経て、明治40(1907)年「蒲団」によって日本の自然主義文学の代表作家となった。自然描写にも優れ、「日本一周」「山水小話」等の紀行文もものしている。
・『あゝ秋だ! 誰だか向うを通ると見えて、空車(からぐるま)の音が虚空にひゞき渡つた……』:引用は不正確。『ア、秋だ! 誰だか禿山の向ふを通るとみえて、から車の音が虚空に響きわたツた……』が正しい。
***
(新刊書作一日評) 「めぐりあひ」厭(いと)ふ人には厭(いと)はせて置くがいゝ飜譯、譯者の苦心を考へぬ人は共に語るに足りません。譯者は二葉亭四迷氏
□やぶちゃん注
・出典の初出は、底本注記によれば、明治22(1889)年1月15日の『いらつめ』第三十号である。『以良郎女(いらつめ)』は二葉亭言文一致の作品を書いていた山田美妙が編集兼発行人であった婦人雑誌で、その新刊書評欄からの引用と思われる。
・譯者は二葉亭四迷氏:文末の句読点なしは、ママ。
***
二葉亭氏の「めぐりあひ」 栴檀生
一讀未だ其味を知らず再讀猶ほ模糊として得る所なし三讀稍々其何たるを覺へ四讀初めて其趣向の精巧なるを發見し五讀するに及んで字々皆金玉紙上花あり光あるを悟り愛賞賛嘆其美其妙忘れんと欲して忘るゝ能はぎるものハ近頃都の花第一號より六號に連載せし二葉亭氏譯の「めぐりあひ」なるかな「めぐりあひ」ハ眞に俗間の群小説に超然たるものなり人若し豫〔よ〕に近來大出來の小説ハ何なりやと問はゞ豫ハ斷然猶豫〔いうよ〕なく此の、「めぐりあひ」なりと答へんと欲す「めぐりあひ」を精細に熟讀する時ハ實に言ふ可からざるの味あり其趣向ハ実に無類の筆法なり實に不可思議の寫し方なり夫れ然り其筆法其寫し方無類なり不可議なるが故に彼の冷淡なる讀者ハ其眞味を甞〔な〕むる能はず或人ハ曰く「めぐりあひ」ハ漠然として雲を攫むが如しと或人ハ曰く「めぐりあひ」ハ面白くなくつまらぬ小論なりと又甚しきに至てハ都の花を愛讀する其人にして只「めぐりあひ」のみにハ一讀の勞をも與へざるあり嗚呼「めぐりあひ」果して讀者の腦裡に入るに足らざる乎將〔は〕た讀者の腦裡「めぐりあひ」を容るゝ能ハざる乎濃眼の士ハ必ず之を知らん。本編は表面より見る時ハ只著者が(原著者ツルゲノーフを指す以下之に倣ふ)名も知らず素性も知れぬ一佳人を屢々瞥見せし有樣を寫せしに過ぎず然れども之を裏面より檢査する時ハ一佳人人目を忍びて或る艷郎とあひゞきするの状及び佳人終に艷郎の爲めに捨てらるゝの状躍然紙上に溢れて無限の味あり而して其最も價値あるの點は本篇の主となるべき佳人客となり却ツて客となるべき著者主となるに在り之を別言すれハ形となるべきもの影となり影却つて形なるに在り本籍を讀む者請ふ其形を見ずして其影を見よ其外を見ずして其内を見よ本篇ハ是れ容貌愚なるが如き君子なり内に深く藏する所あり殊に本篇の主人公(即ち佳人と艷郎を觀察する著者)の心既に佳人に傾き佳人を慕ふに至つてハ絶妙中の最絶妙予ハ其筆法の靈活なるに驚服せずんばあらず一佳人に心ある人と心無き人とをして一同に其の佳人の擧動を觀察せしめハ孰か精孰か粗なるや其の精ハ有心に在て粗ハ無心に在る事を知らば亦た本籍の用意尋常ならざるを伺ふ可し。
本篇中に埋沒したる金玉の文字ハ擧て數ふ可からずと雖も今其二三を摘記せんに都の花第一號十九頁より廿三頁迄に寫したる月夜の景色の一段は伊國の風物と露國の風物と自ら區別ありて宛然現場に在るが如し「林檎の木の前にハその薄ひ影が白むだ草の上をまだらに這ツてゐた」云々「鶯ハとくに鳴き罷んでしまツた……さればと云ツて飛びすがる虻のふと唸る聲養魚桶の中で小ひさな魚の跳ねる音驚き覺めた鳥の睡むさうな啼き聲……」云々及び「その重さうな實が(蜜柑の)黄金の玉めいて或ハ入り雜つた木の葉の間に隠れて僅かにほの見え」云々の如きハ月夜の景幽靜の状眞に迫り妙に入るに非ずや是こそハ一句千金と謂ふも決して過賞に非るなり第三號十四十五頁旅宿主人の口氣ハ其半睡半醒の状描得て遺憾なし次に十六十七頁夢の場ハ篇中第一等の傑作婦人日に鎔〔とけ〕るが如き巖石の朝日を探すが如き老僕忽ち武者となるが如き讀み去りて卷を放つに忍びず何等の妙想ぞ何等の靈筆ぞ予生來和洋の稗史〔はいし〕に就て數多の夢の場を讀みたれども未だ曾ツて此の如き奇巧の寫方に接せざる也其他第四號林中騎行の婦人の形容及び驅出したる男女を目送する處第五號老僕縊死の話第六號假面舞踏會に於て例の婦人が著者の手を取つて彼の艷郎と暗に相逢ふ所の如きハ一讀ハ一讀より其妙味を感じ都の花の衆小説爲に色なきを覺ふ之を要するに本篇ハ徹頭徹尾秀逸の文字を以て滿され推敲を重ね鍛錬を積みたる最良の反譯なり二葉亭氏の功勞謝せずして可ならんや
□やぶちゃん注
・出典初出は底本注記によれば、明治22(1889)年2月12日の『國民之友』第四十一号である。
・栴檀生:底本によれば石橋忍月(慶応元(1865)年~大正15(1926)年)のペンネーム。文芸評論家・弁護士。萩の門、気取半之丞、福洲学人等の号を用いた。本名、石橋友吉。明治23(1890)年の森鷗外との「舞姫」・「うたかたの記」等を巡る論争で文芸評論の地位を確立した。文芸評論家の山本健吉は彼の三男である。なお、底本ではこの下にポイント落ちで(石橋忍月)とあるが、これは編集者によるものと考え、排除した。
・濃眼:見慣れない熟語であるが、深い鑑識眼・洞察力の意であろう。
・ツルゲノーフ:ママ。
・予ハ其筆法の靈活なるに:「予」はママ。
・稗史:本来は、中国で下役人の稗官という者が巷間の出来事や噂を史書風に記録して天子に奏上した、その文書を言う。そこから民間史若しくは世俗史資料を言うが、更に転じて現在の小説の意となった。ここでは、それ。
・目送する:「目送(めおくり)する」若しくは音読みして「目送(もくそう)」か。
・二葉亭氏の功勞謝せずして可ならんや:文末の句読点なしは、ママ。
***
(片戀) 片戀は「ツルゲーネフ」作「アーシヤ」の譯、これに「奇遇」「あひゞき」といふ同じく「ツルゲーネフ」の譯短篇を附録としてある。二十九年に出版されて今回再版となつたのである。この種の書の再版となつたのを見れば輓近〔ばんきん〕我學界に露西亞文學に對する趣味の漸く増加しつゝあることもわかる。またこの片戀を復讀してみると二葉亭氏の譯筆がその彼我幾段の進境を爲したかもわかる。再版を機として本書の一讀を江湖に勸めたいと思ふ。(春陽堂發行、實價六拾錢)
□やぶちゃん注
・出典初出は底本注記によれば、明治41(1889)年3月の『帝國文學』である。新刊書評欄からの引用と思われる。ちなみにこの雑誌に、この26年後の大正4(1915)年、芥川龍之介が「羅生門」を発表することになるのである。
・輓近:近頃・現代。
***
二葉亭氏と獨歩氏 吉江孤雁
其性行上思考上に於て多少廣いとか深いとかいふ相異はあつたらうけれども、近時青年の上に深い感化を及ぼして行つた點に於て此二氏位相似てゐる人はないと思ふ。
佐伯(さいき)の山中で明媚な自然の懷につゝまれて、ウォーヅウォースを心頭して居られた國木田氏が、後に友人今井氏の獨逸譯より傳へたツルゲーネフと、自身英譯のものに耽讀したのと、二葉亭氏の譯文によつて得たものとより受けた感化は如何程深かゝつたらうか。二葉亭氏の譯文が若い者の心をつくり、明治文學の根抵をつくる固い要素となつた事は改めて言ふまでもないことだが、其勢力感化が國木田氏の作品の中までも潜(し)み入つて居たと思ふと如何にも其力の強いのを感ぜずには居られない。
「あひゞき」「片戀」などは幾度び國木田氏によつて讀まれた事か知れないやうだ。こと「あひゞき」は國木田氏が常時編輯して居られた國民之友の誌上へ載せられたので、此名譯が出來て日本の文壇へ紹介せられる時、第一に其光に接した人は國木田氏であつたのだ。で、國木田氏には其印象が最も鮮かであつたやうに思はれる。
「あゝ秋だ!」といふやうな語(ことば)、其周圍を描き出して來ての其感じ、從來の日本文學には嘗て見られない語だ。「誰だか禿山の向ふを通ると見えて、から車の音がコト/\聞こえて來る……。」こんなフレッシな、秋の夕方の野の姿を、短い中にすくひ取つて來たやうな句、初めて此樣(こん)な清新な胸にしみ入るやうな文に接した人で其力を感じないものがあらうか。
露西亞の野の味ひを移して武藏野の中から汲み取る事が出來たのだ。「午後林を訪ふ。林の奥に坐して四顧し、傾聽し、睇視し、默想す」といはれた國木田氏と、「自分は坐して、四顧して、そして耳を傾けてゐた。木の葉が頭上で幽かに戰いだ……」といつた「あひゞき」の作者とは二葉亭氏の名譯によつて互に胸と胸と通ふやうになつたのだ。
□やぶちゃん注
・出典初出は底本注記によれば、明治42(1890)年6月の『文章世界』である。
・本文末尾に底本ではポイント落ちで『(後略)』の編者注記と思われるものが入る。
・吉江孤雁:詩人・歌人・仏文学者(明治32(1880)年~昭和15(1940)年)。本名喬松(たかまつ)。
・「誰だか禿山の向ふを通ると見えて、から車の音がコト/\聞こえて來る……。」:引用は不正確。『ア、秋だ! 誰だか禿山の向ふを通るとみえて、から車の音が虚空に響きわたツた……』が正しい。
***
露國に赴かれたる長谷川二葉亭氏 小栗風葉
先づ先生と僕との關係を申しませう。
古いことから云へば、例の先生のお書きになつた『浮雲』。あれは其の當時非常に崇拜したもので、繰返し繰返し幾度となく讀んだので、以前『新著月刊』に『十六七』と云ふ作を書いた、其の動機は全く、此の『浮雲』にあつたのです。それから『片戀』。此の作の影響を豪つた事は實に非常で、最近の『戀ざめ』の如きもいくらか、『片戀』の調子で往かうと思つて書いたものです。
□やぶちゃん注
・出典初出は底本注記によれば、明治41(1889)年7月の『趣味』である。
・標題の「露國に赴かれたる」の部分は底本では二行割注風であるが(初出の表記がそうななであろう)、同ポイントで表示した。
・露國に赴かれたる長谷川二葉亭氏:二葉亭のロシア行についてはウィキペディアの「二葉亭四迷」の記載が詳しい。該当部を引用する。『明治41年(1908年)、朝日新聞特派員としてロシア赴任、ペテルブルグへ向かった。一方、森鴎外の『舞姫』、国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』の露訳も行ったが、白夜のために不眠症に悩まされ、また翌年、ウラジーミル大公の葬儀のために雪の中でずっと立っていたことが災いし発熱。肺炎、肺結核におかされ、死を予感し妻や祖母宛に遺言状を書いた後(この遺言は交友のあった坪内逍遥宛に託されたという)、友人の説得で帰国することになる。ロンドンを経て日本への帰国途中に、5月10日ベンガル湾上で死去。5月13日夜にシンガポールで火葬がなされ、30日に遺骨が新橋に到着した。』
・小栗風葉:小説家(明治8(1875)~昭和元(1926)年)。本名、加藤磯夫(但し元は小栗姓)。尾崎紅葉に師事、同門の先輩泉鏡花と並んで牛門(ぎゅうもん:紅葉宅は牛込北町にあった)の二秀才と称せられた。「亀甲鶴」「恋慕ながし」、ツルゲーネフの「ルージン」に想を得た「青春」等。『戀ざめ』(明治40(1907)年翌年にかけて『日本新聞』に掲載)は親友田山花袋の「蒲団」と同じく中年男の恋を描いた、作風を自然主義に転じた頃のもの。