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Свидание
   Иван Сергеевич Тургенев

あひびき

   ――イワン・ツルゲーネフ原作 中山省三郎譯

 

[やぶちゃん注:これは

Иван Сергеевич Тургенев(Ivan Sergeyevich Turgenev)
“Записки охотника”(Zapiski okhotnika)

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(18181883)の「猟人日記」18471851に雑誌『同時代人』に発表後、一篇を加えて二十二篇が1852年に刊行されたが、後の70年代に更に三篇が追加され、1880年に決定版として全二十五篇となった)の中の

“Свидание”(Svidanie)

の全訳である(1850年『同時代人』初出)。底本は昭和311956)年角川書店刊の角川文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」の下巻の、平成2(1991)年再版本を用いた。なお、一部判読疑問の部分は、同テクストを用いたと思われる昭和141939)年岩波書店刊の岩波文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」を参照した(こちらにのみあるルビは、私の判断でこちらを採用した)。本文中、私自身が音読を迷うものがあり、そこには私の解釈で正仮名遣で〔 〕内に読みを附した。また、末尾に私自身が読解に迷う箇所にオリジナルな注解を附した。周知の通り、本作は二葉亭四迷の本邦初訳によって知られる。今回、この公開に合わせて、二葉亭の訳を正字正仮名で公開したので、比較してお読みになられることをお勧めする。最後に訳者である故中山省三郎先生への私のオードは、「生神樣」の冒頭注を参照されたい。【2008年7月31日】
上記二葉亭の訳の改稿版であるあひゞき~明治二十九(1896)年十月春陽堂刊「片戀」所収改稿版~も公開した。是非、合わせてお読み頂きたい。【2008年11月7日】石橋思案・蒲原有明・田山花袋・石橋忍月・吉江孤雁・小栗風葉他による『二葉亭四迷訳「あひゞき」「めぐりあひ」(奇遇)「片戀」の反響(全八篇)』も是非お読みあれ。【2008年11月8日】

 

あひびき

 

 秋は九月の半ばごろ、私は白樺の林に坐つてゐた。朝早くから小雨(こさめ)が降つて、その合間合間には時をり暖かな日かげも射してゐる。まことに、はつきりしない空合ひであつた。賴りない白雲が空察を一面に蔽ふかと思へば、また忽ちに、ところどころ、ちよつと、雲ぎれがして、押し分けられた雲の間から、澄み切つた、なつかしい蒼空が美はしい眸のやうに現はれる。私は坐つて、あたりを見廻し、耳を澄ましてゐた。つい頭のうへで樹の葉が微かにそよいでゐたが、それを聞いたばかりでも季節は知られた。このそよぎは面白さうに笑ひさざめく春の慄へごゑでもなければ、夏の物やはらかな囁き、長々しい話しごゑでもなく、秋も更けた頃のおどおどした薄寒さうな呟きでもなく、やうやく聞きとれるか聞きとれないほどの睡さうなそぞろ言(ごと)の聲であつた。そよ風がそこはかとなく梢を吹いて通る。雨に濡れた林の中の樣子は、照ると曇るとで間斷なく襲つてゐた。ある時は、そこにある程の物が急に微笑んだかと思はれる程すつかり照り映えて、疎らに立つてゐる白樺の細い幹が、俄かに白絹のやうな、優しい反射をうけ、そこらに散らばつた樹の葉が、急に班らに金色に光る。高く鬱葱と繁つた蕨の美しい莖は、熟れ過ぎた葡萄のやうな秋の色に早くも染められて、はてしもなく縺れたり絡んだりして眼の前に透いて見える。かと思ふと、またあたり一面が薄青くなつて來る。耀かしい色は、瞬くうちに消え失せて、白樺は光澤(つや)もなく、ただ白々と、まるでまだ冬の陽のちらちらと冷たい光りを受けぬ降りたての雪のやうに白々と立つてゐる。やがて糠雨(めかあめ)がこつそりと、音のせぬやうに落ちて來て森に囁く。白樺の葉は著しく色は褪せてゐても、まだ殆んど青々しかつたが、ただそこいらに、若い葉のすつかり赤いのや金色のが見うけられて、明かるい雨に洗はれたばかりの細枝(ほそえ)のこまかな網なちらちらと、ぬめるやうに洩れて來る時、日射に眩ゆいほど光り出すのは見ものであつた。一羽の鳥の聲も聞えぬ。みなどこかに隠れて靜まり返つてゐる。ただ折々、人を嘲るやうな四十雀の聲のみが鋼鐵の鈴のやうに響きわたる。私はこの白樺の林に來る前に、高い白楊(はこやなぎ)の林を犬をつれて通つた。私は、正直にいふと、あの白楊といふ白茶けた薄紫の幹に灰色がかつた緑色の、金屬性のやうな葉をできるだけ高くあげて、扇をふるはせるやうに、空にひらひらさせてゐる樹を餘り好かない。長い葉柄(ぢく)に不器用に吊りさげたやうな圓い小ぎたない葉を絶えず振つてゐるのなども好きではない。觀ていいのは、低い叢の中に高く聳えて、赤らむ落日の光りを浴び、根もとから梢まで同じ黄色がかつた韓紅(からくれなゐ)に染まりながら、輝やき慄へるといつたやうな夏の夕べか、さもなくば風のある澄み渡つた日に、ざわざわと風になびき、風に語り、一つ一つの葉が揉まれ揉まれて、ちぎれて遠くの方へ驀地(まつしぐら)に飛んで行きたいとでもいつたやうに見える時である。けれども大體が好きではない。だからこそ、白楊の林には足を止めず、白樺の林に辿りついて、地上僅かに離れた處に下枝(しづえ)が生え、從つて雨凌ぎにもならうといふ一(ひと)もとの樹蔭に好い場所をとつて、あたりの景色に見とれながら、獵をする人にだけ味のわかる、例の穩やかな、靜かな眠りに落ちたのである。

 どのくらゐ眠つたか一寸判らないが、眼をあけて見ると、林の中には一杯に陽があたつてゐて、どちらを向いても、嬉しさうに戰ぐ樹の葉を透して、華やかな蒼空が覗かれ、まるで花火でも散らしたやうだ。雲は遊びほけてゐた風に吹き拂はれて、隠れてしまひ、空はからりと奉れて霽れて來た。空氣の中に人の心を何となく引締め、殆んどいつものやうに雨あがりの靜かな澄みわたつた夜の前ぶれをするやうな、一種特別なぱさぱさした涼氣が感じられた。私は起き上つて、もう一度、運を試さうとしてゐた。すると不意にじつと坐つてゐる人影が目に入つた。よく見ると、若い百姓の娘であつた。二十歩程の處に、物思はしげに頸を垂れ、兩手を膝の上におとして坐つてゐる。半ば露はな片方の手には、しつかり結はへた野の花の小さな束をのせてゐたが、花束は呼吸(いき)するたびに、だんだん滑つて碁盤縞のスカートの上に落ちかかる。綺麗な白い襯衣〔シヤツ〕を、咽喉と手頸のところに釦をかけ、短かい、柔らかな褶〔ひだ〕をとつて、胴體(からだ)にまとはせ、襟元から胸にかけては大粒な黄色い飾珠(ビーズ)を二重に垂らしてゐる。娘はなかなかの器量よしであつた。濃くて光澤(つや)のある綺麗な灰色の髮を、丁寧に櫛をあてて、象牙のやうに白い額のあたりまでも下がつてゐる眞赤な幅の狹い※1(きれ)の下から、半圓を描かせて、左右に分けてゐる[やぶちゃん字注:※1=糸+帶。]。顏のよその部分は金色に焦(や)けてゐるが、こんな日焦け工合は皮膚の薄いものにでなけれは見られないものであつた。伏目になつてゐたの で眼は見られなかつたが、細く秀でた眉毛ははつきり見えた。睫毛は潤んでゐて、片方の頰には幾らか蒼ざめた唇のわきへかけて、日に光つて涙の跡が見える。小さな頭(つむり)はどこをとつて見ても愛らしかつた。少し大きく圓すぎる鼻までが眼ざはりにはならなかつた。何といつでも、私の氣に入つたのは顏の表情であつた。まことに氣取つたところもなく、柔和で、さも悲しさうで、悲しいことに出遭つて、子供のやうに途方にくれたやうな樣子が一杯に見える。誰かを待ち合はせてゐるに相違ない。林の中で何かが、かさこそと音を立てる。すると娘はぢきに、頭をあげて、あたりを見廻した。眼の前の透きとほる樹蔭に大きく、明かるい、牝鹿のやうにおどおどとした眼が、さつと輝く。暫くは微かな物音のした方へ、大きく見開いた眼をじつと据ゑて、聞き耳を立ててゐたが、やがて溜息をして、そつと頭をさげ、前よりは一そう低く俯向いて、ゆつくりと、花を選り分けにかかつた。瞼は赤らみ、唇は苦しさうに慄へて、濃い睫毛の下から又しても涙が流れて、頰に落ちては、きらきらと輝いた。かうして、かなり長い時がたつたが、可哀さうに娘は身じろぎさへもしなかつた、ただ時をり愁はしげに手を動かし、耳を傾けてゐた、絶えず耳を傾けてゐた……。また何かが林の中でざわついた。娘は身ぶるひした。ざわめきはやまずに、だんだんはつきりして來て、近づいて、遂には、しつかりした急ぎ足の音となる。娘は起き直つて、怖ぢ氣づいたかのやうに見える。わき目もふらずに見つめてはゐたが、おどおどとして、その眼はさも待ち遠しさうに輝いてゐる。繁みを透いて、忽ちに男の姿がちらついて來た。それを見ると忽ち顏を赧らめて、うれしさうに、さも仕合はせらしく、につこりして起ち上がらうとしたが、直きにまた萎れ返つて、色を失ひ、どぎまぎして、――男がぢき傍へ來て立ちどまつたときに、やうやくおどおどと、殆んど拜むやうな眼でやつて來た男の顏を見上げた。

 私は好奇心に驅られて物かげから男を覗いた。正直にいふと、この男を見て、私は好い氣持はしなかつた。あらゆる樣子から推して、これは若い、金持の且那に使はれてゐる小生意氣な侍僕らしかつた。着物はいやに風流ぶつて、乙にだらしないところを見せてゐた。まづ青銅色の短かい外套な上まで釦をかけて着てゐたが、これは恐らく主人のおさがりであらう。端の方を薄紫に染めた薔薇色のネクタイをして、金筋の入つた黑天鵞絨〔くろビロード〕の縁なし帽子を目深にかぶつてゐる。白い襯衣の角の圓い襟は容赦もなく耳を押しつけて、頰にめりこみ、糊で固めたカフスは手首を赤い曲つた指の先までかくしてゐるが、指には忘れな草を象どつた土耳古玉〔トルコだま〕入りの金や銀の指環をいくつも穿めてゐる。桃色の、活々とした、人を人とも思はぬ顏は、氣をつけて私が今まで見た範圍では、大ていの男にはあきたらなく思はれる代りに、女どもには殘念なことながら、あまりにも屢々、好かれるといつた類ひの顏であつた。幾分お粗末な御面相へ持つて來て、彼はわざと蔑むやうな、退屈さうな表情を浮かべようとしてゐるらしく、しよつ中、乳灰色の、それでなくてさへも小さい眼を細くしたり、顏に皺を寄せたり、唇の端を引き下げたり、出もしない欠伸を無理にしたり、さもわざとらしげに、少しも、こせつかないやうな風をして、すさまじく撚れあがつてゐる赤ちやけた揉み上げを直して見たり、厚い上唇のうへの黄いろい髭を引つ張つて見たり、――要するに、その氣取り工合といつたら見られたざまではない。待ち合はせてゐたあどけない百姓娘を見るとから、彼は氣取り出したのであつた。ゆつたりと、大股に女のところへ寄つて來て、立ちどまると、肩を一寸ゆすぶつて、兩手を外套の隠しに突つ込み、さつと氣のなささうな一瞥をくれて、そこへどつかと腰を下ろした。

 「どうだい」と彼はやはりどこか傍の方を見まもりながら、足をふり、欠伸をしながら口を切つた、「大分待つたかえ?」

 娘は直ぐには返事が出來なかつた。

 「ええ、大分、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」やうやく聞きとれるくらゐの聲で娘はいふ。

 「ふむ!(彼は帽子をとつて、殆んど肩のわきから生えてゐる濃い、ぎつしり縮らした髮を嚴めしさうに撫でて、仰々しくあたりを見まはし、やがまた氣をつて、大切な頭に帽子をかぶせた)僕はすつかり忘れかけてゐた。おまけに、それ、この雨だもの!(彼はまた欠伸をした)用は多いし、さうさう何から何まで眼をつけるわけにや行かないよ。それでもまだぐづぐづ言はれる。時に、僕たちは明日(あした)立つんだぜ……」

 「明日(あした)?」と娘はいつて、驚きの眼を男に向ける。

 「明日さ……さあ、さあ、さ、たのむぜ」と娘が身ぶるひして、そつとうつ向いたのを見て、早口に、いらいらしながら後を引きとつた、「たのむから、アクリーナ、泣かないで。僕は泣かれるのには參るよ。(と圓い鼻に皺をよせて)泣くなら直ぐに歸るよ、……何て馬鹿だらう、泣きじやくるなんて!」

 「そんなら、もう、泣きません」とアクリーナは涙を無理に呑みながら、あわてていふ、「ぢや、明日お立ちになるのね?」と暫く默つてゐた後で附け加へた、「いつまたお會ひできるのかしら、ヴィクトル・アレクサンドルィチ?」

 「會へるさ、會へるとも。來年でなけりや、そのあとでも。旦那樣はペテルブルグでお役人になりたい樣子だ」彼はあつさりと、少し鼻にかかる聲で言葉を繼いだ、「ひよつとすると、外國へでも行くかも知れん」

 「ヴィクトル・アレクサンドルィチ、あなた、私のことなんか忘れておしまひになるでせう」悲しさうにアクリーナがいふ。

 「なあに、そんなことがどうして? 忘れやしないよ。けどおまへも利口になつて、つまらんことなんか止しなよ、親父のいふことを聽いて……僕はけつして忘れやしないよ、けつして」(彼は平然と背伸びをして、また欠伸をした)

 「忘れないで頂戴な、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」と拜むやちな聲で彼女は一つづける、「もう、あたし、ほかに賴る人はないと思ふの、みんな、あなたが居れはこそだと思ふの、……あなたはお父つあんのいふことを聽けつて仰つしやるのね、ヴィクトル・アレクサンドルィチ、……とても、あたし、そんなことできないわ……」

 「どうして?」(と彼は仰向けに寢ころんで、頭の下に兩手をあてながら、まるで吐き出すやうな聲でいふ)

 「だつて、聽けるもんですか、ね、ヴィクトル・アレクサンドルィチ、あんな風で……」娘は口を噤んでしまつた。ヴィクトルは時計の鋼鐵の鎖を弄んでゐた。

 「おい、アクリーナ、おまへは馬鹿ぢやないんだから」と遂にいひ出した、「つまんないことは言ふもんぢやないよ。僕はおまへのためを思つて言つてるんだ、いいかえ、わかつたかえ? むろん、おまへだつて馬鹿ぢやないし、いはば、まるきりの百姓ぢやないんだ。おまへのお母親(ふくろ)だつてやつぱりもとから百姓だつた譯でもないんだし。さうかといつて兎にも角にもおまへは教育がないんだから――だから他人が物をいつたら、はいはいと言つて聽くもんだよ」

 「だつて怖いんですもの、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」

 「ふむ、つまんないことを、まあ、何が怖いことがあるもんか! そりや何だえ?」と娘の傍へ歩み寄つて附け加へる、「花?」

 「ええ」とアクリーナは氣が拔けたやうに答へる、「これは私が摘んで來た野原の地花菜(きんれいくわ)なの」といくらか元氣づいて續ける、「これを仔牛に食べさせると藥になるの。ほら、これは狼把草(たうこぎ)、瘰癧の藥。はら、御覧なさい、何てきれいな花でせう、こんなきれいな花、あたし、生まれて初めて見たわ。これは忘れな草で、こちらは香菫(にほひすみれ)……。それから、これは貴方にあげようと思つて摘んで來ましたの」と、黄いろい地花菜(きんれいくわ)の下から細い草で括つた矢車菊の小束を取り出して、附け加へる、「いかが?」

 ヴィクトルは物臭さうに手を出して、花を受け取り、うはの空で香ひを嗅いで、思ひに沈んだやうに物々しい顏をして空を見あげながら、指先で花束を廻しはじめた。アクリーナはじつと彼を眺めてゐた……。その悲しさうな眸には優しく身をも心をも男に任せて、恭しく跪かうといふ氣持や愛情が溢れてゐた。娘は男をおそれてゐたので、泣くのもこらへて、別れを告げたが、最後の時まで男に見とれてゐた。王樣(サルタン)のやうに伸び伸びと寢そべつて、特別の思召によつて我慢をし、許して遣はすといふやうな顏附で、崇められるがままになつてゐた。私は正直にいふと、あの平氣な風を装つて、心の中で蔑んゐる傍から、得々と己惚れてゐるところがありありと見える男の赤ら顏を見ると腹が立つた。アクリーナこの時も美しかつた。すつかり信じ切つて、ひたすらに、魂といふ魂を男の前にさらけ出し、ほれぼれと心を寄せて甘えてもゐたのに、男はといへば……男は草の上に矢車菊を落としてしてしまつて、外套の横の隠しから青銅の縁の丸い片眼鏡をとり出して、眼にあてがひかかつた。ところが眉をしかめ、頰から、おまけに鼻までも持ち上げて、いくら支へようと骨っを折つて見ても、眼鏡は相變らず外れて、掌に落ちてしまった。

 「それ、なあに?」と、しまひには呆れてアクア-ナが訊ねる。

 「眼鏡(ロールネツト)さ」と容體〔もつたい〕ぶつて答へる。

「かけるとどうなの?」

「かけると一そうよく見えるんだ」

「見せて頂戴な」

ヴィクトルはちよつと澁い顏をしたが、それでも眼鏡を渡した。

 「こはすなよ、氣をつけて」

 「大丈夫よ、こはしやしないわ。(娘は、怖る怖る眼鏡を眼のところへ持つて行つた)あら、なんにも見えないわ」とあどけなくいふ。

 「そら、眼を細くするんだ」と機嫌のわるい先生といふ口調で叱りつけた、「そつちの眼ぢやない、そつちぢやない、馬鹿な! こつちのだ!」とヴィクトルは叫んで、間違ひを改めさせもしないで、眼鏡を取り上げた。

 アクリーナは顏を赧くして、そつと微笑みかけたが、わきを向いてしまつた。

 「きつと、私たちが使ふもんぢやないんでせう」

 「あたりまへよ!」

 可哀さうに娘は口を噤んで、深い溜息をついた。

 「あゝ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ、あなたがいらつしやらなかつたら、あたし、どうなるでせうね!」と娘はだしぬけにいふ。

 ヴィクトルは服の裾で眼鏡を拭いて、再びポケットへ藏ひこんだ。

 「さう、さう」と暫くしてから言ひ出した、「そりや、初めのうちは辛いだらうよ、きつと。(と、お情けに娘の肩を叩いた。すると、娘はそつと自分の肩にかけた男の手をとつて、おづおづと接吻した)うむ、さう、さう、おまへは氣立がいい」と得意さうに微笑みながら言葉をつづける、「けど、どうしやうもないぢやないか! 自分でもよく考へて見な! 僕も旦那も、ここにいつまで居られるもんぢやなし、もうぢき冬が來るけど、田舍の冬と來たら、――お前も知つてる筈だけれど――全く厭らしいつたらありやしない。それから思ふと、.ペテルブルグは違つたもんだ! あつちへ行けや、全く、とてもお前なんかは、夢にだつて見たこともないやうな素敵なものがうんとある。家だつて立派だし、通りもさうだし、附合ふ連中も、開(ひら)け方も……それこそ、大したもんだ!……(アクリーナは、子供のやうに口な少しあけて、一心になつて聽いてゐた)尤も」と彼は地べた寢がへりをうつて附け加へる、「こんなことをいくら言つて見たところで、お前には何の足しになるもんか! どうせ分かりつこはないんだから」

 「どうして又、ヴィクトル・アレクサンドルィチ? わたし分かつたわ、すつかり分かつたわ」

 「ほほう、こりやえらい!」

 アクリーナはうつ向いた。

 「前にはそんな話しぶりはして下さらなかつたわ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」と眼を上げずに娘はいふ。

 「前に? ……前にだつて!……とんでもない……、前になんて! ……」と怒つてでもゐるかのやうに男が言ふ。

 二人ともしばらく默つてゐた。

 「それはさうと、もう行かなくちやならん」とヴィクトルはいつて、肱をついて起き上がらうとした。

 「もう少し待つて頂戴」とアクリーナは哀願するやうな聲でいふ。

 「待つて、どうする?……もう暇乞ひはしたぢやないか」

 「ちよつと待つて頂戴な」

 ヴィクトルは再び横になつて、口笛な吹き出した。アクリーナは矢張りじつと見つめてゐた。娘がだんだん興奮して行くのが、こちらにゐても認められる。唇は引きつり、蒼ざ是めた頰は微かに紅らんで來た……。

 「ヴィクトル・アレクサンドルィチ」と娘はつひに、おろおろ聲で言ひ出した、「あんたはあんまりだわ……、あんまりだわ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ、ほんとに!」

 「何があんまりだ?」男は眉を顰めて訊ね、少し首をもたげて、女の方を振り向いた。

 「あんまりだわ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ。お別れだといふのに、何とか一言(ひとこと)くらゐ優しい言葉をかけてくれたつていいぢやないの。何とか一言(ひとこと)くらゐ、これから賴にする人もないのに……」

 「だつて、どぅ言へばいいんだ?」

 「どう言へばつて、そんなこと知らないわ、そんなこと百も承知のくせに、ヴィクトル・アレクサンドルィチ。もう遠くへいらつしやるつていふのに、たった一言(ひとこと)くらゐ……、あたし何だつて、こんな目に遭ふのか知ら?」

 「をかしな奴だなあ! どうすりやいいんだ?」

「何とか一言(ひとこと)くらゐ……」

「えい、同じことばかり言つてる」男は忌々しさうに言つて、起き上つた。

「怒りらないで頂戴よ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」と涙をやつと抑へながら狼狽(うろたへ)ていふ。

「怒りやしないよ、ただ、おまへが分からずやなだけさ。……一體、どうしてくれつて言ふんだ? お前と僕は連れ添へないんぢやないか? さうぢやないかえ? さあ、それではどうしてくれろつていふんだ? え?」彼は返事を待ちうけてゐるかのやうに顏を突き出して、掌を擴げた。

 「あたし、何も……何も不足はないけど」娘は口ごもつて、ふるへる手な怖る怖る男の方にさし伸べながら答へる、「でも、たつた一言(ひとこと)でも、お別れに……」

 涙が止めどなく流れる。

 「さあ、手はつけられん、泣き出しちやつた」ヴィクトルは、帽子を目深に押し下げて、冷然といふ。

 「あたし、何も不足はないけど」娘は兩手に顏を埋めて、啜り泣きしながら、なほも續ける、「これから先は家にゐてどんな目に逢ふんでせう、どんな目に逢ふんでせう? そして、どうなるんでせう、どうなるんでせう、あたし? 情ない人んとこへ無理にお嫁にやられるんだわ……、あたし、悲しい!」

 「ほざくがいいいと、何とでもほざくがいい」とヴィクトルはもぢもぢしながら、聲低く口ごもる。

 「でも、たつた一言、一言くらゐは……『アクリーナよ』と、『自分は』と」

 不意にむせかへつて泣き出したので、言葉がとぎれる。娘は草のうへにうつぶして、はげしく、はげしく泣き出した……。身體がぶるぶる慄へて、頭の後ろの方が、ひどく波をうつ。……こらへにこらへてゐた悲しみが遂に瀧なす涙となって迸つたのだ。ヴィクトルは、じつとその樣子を見おろしながら、一寸の間佇〔た〕つてゐたが、やがて肩を竦めると、くるりと後ろを向いて大股に立ち去つてしまつた。

 しばらく經つた。……娘はやうやく落ち着いて、顏をあげたが、急に跳び起きて、あたりを見まはし、手を拍つて驚いた。後を迫つて駈け出さうとしたが、足はすくんで――娘はばつたり膝をついた……。もう私は見るに見かねて、まつしぐらに娘の方へ走り出した。が、娘は私の姿を見るや否や、どこをどうしてさういふ元氣が出たものか、微かに『あつ』といふなり起ちあがつて、樹かげにかくれてしまつた。あとには草花が地面に投げ散らされてゐた。

  私は暫く佇つてゐたが、やがて矢車菊の花束を拾ひ上げて、林の中から野原に出た。陽は淡く澄んだ空低くかかつて、陽ざしも何だか淡く冷え冷えとして來た。かがやいでゐるのではなく、おしなべて、殆んど水のやうな光りにあふれてゐた。もう日が暮れるまでには半時(はんとき)しかないが、夕燒の色は仄かに、仄かに見えるだけであつた。烈しい風が、黄いろく乾枯らびた刈株の上を渡つて、まともに、すさまじく吹きつけて來る。小さな反りかへつた葉は風にあたふたと舞ひあがり、道に沿ひ、道を横切り、林のへりについて趨〔はし〕つてゆく。壁のやうに野に向いた林の片側は一樣にふるへて、眩しくはないが、はつきりと、わづかな光りにちらちらする。紅らみがかつた草にも、道芝の上にも、ちひさな藁にも、到るところに無數の秋の蜘蛛の糸が光つて、波をうつてゐる。私は立ちどまつた……。私は物悲しくなつて來た。寂れはてて行く自然の、冷たいけれども樂しさうな微笑みのかげから、間近い冬の物すごい恐怖が忍び込んで來たかのやうに思はれた。重々しく風を切つて翼をうちながら、小心な大鴉は私の頭の上を高く飛んで行つて、頭を振り向け、私を横目で見ると、急に一そう高く飛びあがつたが、やがて切れ切れに啼きながら、森のむかふへかくれてしまつた。幾羽とも知れぬ鳩の群れが、麥打場から勢ひよく飛んで來て、いきなり圓柱(まるばしら)のやうに圓を描いて舞ひあがり、そそくさと野面に散らばつた、――いかにも秋らしい! 誰かが草も木もない丘のむかふを通ると見えて、空馬車の音が高く聞こえる。

 私は家に歸つた。けれど、あの可哀さうなアクリーナの俤は、長いあひだ念頭を去らなかつた。矢車菊は疾うの昔に凋れたが、今もなほ私の手許に藏〔しま〕つてある……。

 

■やぶちゃん注

・私は起き上つて、もう一度、運を試さうとしてゐた。:少し分かりにくいが、彼は猟の途中で午睡したのであるから、余り午前中の収穫は芳しくなかったのであろう、そこで目覚めて、よし、「もう一度」という気持ちである。二葉亭も分かりにくいと思ったのであろう、挿入句で「(但し銃獵の事で)」と入れ込んでいる。1952年新潮社刊の米川訳では簡明に「獵運をためして見ようと思つた。」と訳している。

・※1(きれ):本字は「廣漢和辭典」にも所収していない。米川訳は「布」、1958年岩波書店刊の佐々木訳も「布(きれ)」と訳す。ロシア語原文を見ると“повязки”とあり、これは、腕章や目隠し等に用いる布切れ、又は包帯を言う。スカーフではなく、頭を巻く長い布切れ、鉢巻のもっと太いヘッドバンド風のものを言うのであろう。

・忘れな草:シソ目ムラサキ科ワスレナグサ属Myosotisのワスレナグサの総称。アクリーナが摘んだ花にも現われ、本作にあっては極めて皮肉な伏線である。

・土耳古玉:トルコ石turquoise。ターコイズ。

・地花菜(きんれいくわ):この名はマツムシソウ目オミナエシ科オミナエシ属のハクサンオミナエシPatrinia friloba又はキンレイカ(金鈴花 Patrinia trilobaを指す。漢方では全草を乾燥させて煎じたものを「敗醤」と言い、解熱・解毒の用い、花枝のみを集めたものは黄屈花(おうくつか)と言って、生理不順に効果があるとする。但し、米川訳では「鋸草」とし、これだと、キク亜綱キク目キク科ノコギリソウ属のノコギリソウ(アキレア)Achillea sibirica又はセイヨウノコギリソウAchillea millefoliumを指す。ノコギリソウの花には健胃・強壮効果があるが、ロシア語原文を見ると“рябинки”とあり、これは佐々木訳にあるバラ目バラ科ナナカマドSorbus commixta又はセイヨウナナカマド Sorbus aucuparia等の仲間を言う語である。実には滋養強壮・疲労回復・利尿作用が、樹皮には皮膚疾患への薬効がある。但し、薬効が花でないのが気になるし、ナナカマドは一般に白かクリーム色であるのに、すぐ後で黄色い花と描写されるのも同定を躊躇させる。

・狼把草(たうこぎ):キク科センダングサ属のタウコギBidens tripartita。健胃・鎮咳効果があるとされ、嘗ては特に結核への有効性が信じられた。近年、本種の持つポリアセチレン配糖体はアトピー性皮膚炎・接触性皮膚炎への効果が期待されている。

・瘰癧:頸部リンパ節の結核症。

・香菫(にほひすみれ):列記とした正式和名で、スミレ目スミレ科スミレ属のニオイスミレViola odorataを指す。ただ私はロシア語が分からないが、どうもロシア語原文にある“маткина-душка”という名自体は麗しい香の名前ではないようだ。匂いが強いせいであろうか。

・矢車菊:キク亜綱キク目キク科ヤグルマギク属Centaurea cyanus。ロマン主義の象徴的存在のノヴァーリスの「青い花」はヤグルマギクであるとも言われ、その花言葉は、「繊細・幸福・優雅」である。