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Свидание
 Иван Сергеевич Тургенев

あひゞき

   ――イワン・ツルゲーネフ原作 二葉亭四迷譯

 

[やぶちゃん注:これは

Иван Сергеевич ТургеневIvan Sergeyevich Turgenev

Записки охотника”(Zapiski okhotnika

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(18181883)の「猟人日記」(1847~1851に雑誌『同時代人』に発表後、一篇を加えて二十二篇が1852年に刊行されたが、後の70年代に更に三篇が追加され、1880年に決定版として全二十五篇となった)の中の

Свидание”(Svidanie

の全訳である(1850年『同時代人』初出)。底本は岩波書店1955年刊の二葉亭四迷譯「あひゞき・片戀・奇遇」(岩波文庫)を用いた。標題ページ右下に『明治二十一年、七・八月 「國民之友」第三卷、廿五・七號所載』という1888年の初出表記がある。冒頭の二葉亭による序は底本ではややポイント落ちである。序の「德富先生」とは、民友社を結成し平民主義を標榜した雑誌『国民之友』の主宰であった徳富蘇峰を指す。濁音の踊り字「/\」は正字に直した。ポイント落ち二行の文中の二葉亭の自身の割注は【 】内表記とし、同様のポイント落ち二行の文中のツルゲーネフの挿入句風に書かれているもの(これも実際には二葉亭の補足である)は( )表記とした。本文中、私自身が音読を迷うものがあり、そこには私の解釈で正仮名遣で〔 〕内に読みを附した。幾つかの語釈を附したが、これは私の電子テクストの同原作の中山省三郎訳「あひびき」との比較読解をすれば十分認識出来る部分が多いと判断し、簡潔なものに留めた。【2008年7月31日】
本作の改稿版であるあひゞき~明治二十九(1896)年十月春陽堂刊「片戀」所収改稿版~も公開した。是非、まさに二葉亭血の小便の訳業を比較してお読み頂きたい。【2008年11月7日】石橋思案・蒲原有明・田山花袋・石橋忍月・吉江孤雁・小栗風葉他による『二葉亭四迷訳「あひゞき」「めぐりあひ」(奇遇)「片戀」の反響(全八篇)』も是非お読みあれ。【2008年11月8日】

 

あひゞき(ツルゲーネフ)   二葉亭四迷譯

 

   このあひゞきは先年佛蘭西で死去した、露國では有名な小説家、
  ツルゲーネフといふ人の端物の作です。今度德富先生の御依賴で
  譯してみました。私の譯文は我ながら不思議とソノ何んだが、こ
  れでも原文は極めて面白いです。

 

 秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座してゐたことがあツた。今朝から小雨が降りそゝぎ、その晴れ間にはおり/\生ま煖かな日かげも射して、まことに氣まぐれな空ら合ひ。あわ/\しい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思ふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から澄みて怜悧(さか)し氣に見える人の眼の如くに朗かに晴れた蒼空(あをぞら)がのぞかれた。[やぶちゃん注:「おり/\」「あわ/\」は共にママ。]自分は座して、四顧して、そして耳を傾けてゐた。木の葉が頭上(づじやう)で幽かに戰いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。それは春先する、面白さうな、笑ふやうなさゞめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し聲でもなく、また末の秋のおど/\した、うそさぶさうなお饒舌(しやべ)りでもなかツたが、ただ漸く聞取れるか聞取れぬ程のしめやかな私語の聲で有つた。そよ吹く風は忍ぶやうに木末を傳ツた。照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のようすが間斷なく移り變ツた。或はそこに在りとある物總て一時に微笑したやうに、隈なくあかみわたツて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思ひがけずも白絹めく、やさしい光澤(つや)を帶び、地上に散り布いた、細かな、落ち葉は俄かに日に映じてまばゆきまでに金色(こんじき)を放ち、頭(かしら)をかきむしツたやうな「パアポロトニク」【蕨の類ゐ】のみごとな莖、加之(しか)も熟(つ)えすぎた葡萄めく色を帶びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。

 或はまた四邊(あたり)一面(めん)俄かに薄暗くなりだして、瞬く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ツた儘でまだ日の眼に逢はぬ雪のやうに、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し氣に、私語するやうにパラ/\と降ツて通ツた。樺の木の葉は著しく光澤(つや)は褪めてゐてもさすがに尚ほ青かツた、が只そちこちに立つ稚木〔わかぎ〕のみは總て赤くも黄ろくも色づいて、をり/\日の光りが今ま雨に濡れた計りの細枝の繁味を漏れて滑りながらに脱(ぬ)けてくるのをあびては、キラ/\ときらめいてゐた。鳥は一ト聲も音を聞かせず、皆何處にか隱れて竊〔ひそ〕まりかへツてゐたが、只折節に人をさみした白頭翁(しゞうがら)の聲のみが、故鈴(ふるすゞ)でも鳴らす如くに、響きわたツた。この樺の林へ來(く)るまへに、自分は獵犬を曳いて、さる高く茂ツた白楊(はこやなぎ)の林を過ぎたが、この樹は――白楊は――全體虫がすかぬ。幹といへば、蒼味がゝツた連翹色で、葉といへば、鼠みとも附かず緑りとも附かず、下手な鉄物細工〔かなものざいく〕[やぶちやん字注:「鉄」はママ。]を見るやうで、而(しか)も長(たけ)一杯に頸を引き伸して、大團扇のやうに空中に立ちはだかツて――どうも虫が好かぬ。長たらしい莖へ無器用にヒツつけたやうな薄きたない圓葉をうるさく振り立てゝ――どうも虫が好かぬ。この樹の見て快よい時と云つては、只背びくな灌木の中央に一段高く聳えて、入り日をまともに受け、根本より木末に至るまでむらなく樺色に染まり乍ら、風に戰いでゐる夏の夕暮か、――さなくば空名殘りなく晴れ渡ツて風のすさまじく吹く日、あをそらを影にして立ちながら、ザワ/\ざわつき、風に吹きなやまされる木の葉の今にも梢をもぎ離れて遠く吹き飛ばされさうに見える時かで。兎に角自分は此樹を好まぬので、ソコデその白楊の林には憩はず、わざ/\この樺の林にまで辿りついて、地上わづか離れて下枝の生えた、雨凌ぎになりさうな木立を見たてゝ、さてその下に栖を構へ、四邊の風景を跳めながら、唯遊獵者のみが覺えの有るといふ、例の穩かな、罪のない夢を結んだ。

 何ン時ばかり眠ツてゐたか、ハツキリしないが、兎に角暫らくして眼を覺まして見ると、林の中は日の光りが到らぬ隈もなく、うれしさうに騷ぐ木の葉を漏れて、はなやかに晴れた蒼空(あをぞら)がまるで火花でも散らしたやうに、鮮かに見渡された。雲は狂ひ廻はる風に吹き拂はれて形を潛め、空には纖雲(ちりくも)一ツだも留めず、大氣中に含まれた一種淸涼の氣は人の氣を爽かにして、穩かな晴夜の來る前觸れをするかと思はれた。自分は將に起ち上りてまたさらに運だめし(但し銃獵の事で)をしやうとして、フト端然と坐してゐる人の姿を認めた。眸子〔ひとみ〕を定めて能く見れば、それは農夫の娘らしい少女であツた。廿歩ばかりあなたに、物思はし氣に頭を垂れ、力なさゝうに兩の手を膝に落して、端然と坐してゐた。旁々の手を見れば、半はむき出しで、その上に載せた草花の束ねが呼吸をするたびに縞のペチコートの上をしずかにころがツてゐた。淸らかな白の表衣〔うはぎ〕をしとやかに着なして、咽喉元(のどもと)と手頸のあたりでボタンをかけ、大粒な黄ろい飾り玉を二列に分ツて襟から胸へ垂らしてゐた。この少女なか/\の美人で、象牙をも欺むく色白の額際で巾の狹い緋の抹額〔もかう〕を締めてゐたが、その下から美しい鶉色で、加之も白く光る濃い頭髮を叮嚀に梳(とか)したのがこぼれ出て、二ツの半圓を描いて、左右に別れてゐた。顏の他の部分は日に燒けてはゐたが、薄皮だけに却て見所が有つた。眼ざしは分らなかツた、――始終下目のみ使つてゐたからで、シカシその代り秀でた細眉と長い睫毛とは明かに見られた。睫毛はうるんでゐて、旁々の頰にもまた蒼さめた唇へかけて、涙の傳つた痕が夕日にはえて、アリ/\と見えた。總じて首つきが愛らしく、鼻がすこし大く圓すぎたが、それすら左のみ眼障りにはならなかツた程で。取分け自分の氣に入ツたはその面ざし、まことに柔和でしとやかで、取繕ろツた氣色は微塵もなく、さも憂はしさうで、そしてまた愛度〔あど〕けなく途方に暮れた趣も有ツた。たれをか待合はせてゐるのと見えて、何か幽かに物音がしたかと思ふと、少女はあわてゝ頭(かしら)を擡げて、振り反つて見て、その大方の涼しい眼、牝鹿のものゝやうにをど/\したのをば、薄暗い木蔭でひからせた。クワツと見ひらゐた眼を物音のした方へ向けて、シケジケ視詰めたまゝ、暫らく聞きすましていたが[やぶちやん注:「いた」はママ。以下この段落内は同じ。]、軈〔やが〕て溜息を吐(つ)いて、靜に此方(こなた)を振り向いて、前よりは一際(きは)低く屈みながら、また徐ろに花を擇(え)り分け初めた。擦りあかめたまぶちに、嚴しく拘攣する唇、またしても濃い睫毛の下よりこぼれ出る涙の雫は流れよどみて日にきらめいた。かうして暫く時刻を移していたが、その間少女は、かわいさうに、みじろぎをもせず、唯折々手で涙を拭ひ乍ら、聞き澄ましてのみいた、只管聞きすましてのみいた……フとまたガサ/\と物音がした、――少女はブル/\と震えた。物音は罷まぬのみか、次第に高まツて、近づいて、遂に思ひ切ツた濶歩の音になると――少女は起き直ツた。何となく心おくれのした氣色。ヒタと視詰めた眼ざしにをど/\したところも有ツた、心の焦られて堪へかねた氣味も見えた。しげみを漏れて男の姿がチラリ。少女はそなたを注視して、俄にハツと顏を赧らめて、我も仕合とおもひ顏にニツコリ笑ツて、起ち上らうとして、フトまた萎〔しを〕れて、蒼ざめて、どきまぎして、――先の男が傍に來て立ち留つてから、漸くおづ/\頭を擡げて、念ずるやうに其の顏を視詰めた。

 自分は尚ほ物蔭に潛みながら、怪しと思ふ心にほだされて、その男の顏をツクヅク眺めたが、あからさまにいへば、余り氣には入らなかつた。

 是れはどう見ても弱冠の素封家の、あまやかされすぎた、給事らしい男で有つた。衣服を見れば故〔ことさ〕らに風流をめかしてゐるうちにも、また何處となく仕度氣ないのを飾る氣味も有ツて、主人の着故〔きふ〕るしめく、茶の短い外套をはをり、はしばしを連翹色に染めた、薔薇色の頸卷をまいて、金モールの抹額をつけた黑帽を眉深にかぶツてゐた。白襯衣〔シヤツ〕の角のない襟は用捨もなく押し付けるやうに耳朶を撑〔ささ〕へて、また兩頰を擦り、糊で固めた腕飾りは全く手頸をかくして、赤い先の曲ツた指、Turquoise【寶石の一種】製の Myosotis【草の名】を飾りに付けた金銀の指環を幾個ともなくはめてゐた指にまで至ツた。世には一種の面貌がある、自分の觀察した所では、常に男子の氣にもとる代り、不幸にも女子の氣に適ふ面貌があるが、此男のかほつきは全くその一ツで、桃色で、淸らかで、そして極めて傲慢さうで。己(おの)があらけない貌だちに故意(わざ)と人を輕ろしめ世に倦みはてた色を裝はふとして居たものと見えて、絶えず只さへ少ひさな、薄白く、鼠ばみた眼を細めたり、眉をしわめたり、口角を引き下げたり、しいて欠伸をしたり、さも氣のなさゝうな、やりばなしな風を裝ふて、或は勇ましく捲き上ツたもみあげを撫でゝ見たり、または厚い上唇の上の黄ばみた髭を引張てみたりして――ヤどうも見て居られぬ程に樣子を賣る男で有ツた。待合せてゐた例の少女の姿を見た時から、モウ樣子を賣り出して、ノソリ/\と大股にあるいて傍へ寄りて、立ち止ツて、肩をゆすツて、兩手を外套のかくしへ押し入れて、氣の無さゝうな眼を走らしてヂロリと少女の顏を見流して、そして下に居た。

 「待ツたか?」ト初めて口をきいた、尚ほ何處をか眺めた儘で、欠伸をしながら、足を搖かしなから「ウー?」

 少女は急に返答をしえなかツた。

 「どんなに待ツたでせう」ト遂にかすかにいツた。

 「フム」ト云ツて、先の男は帽子を脱した。さも勿體らしく殆ど眉際(まゆぎは)よりはへだした濃い縮れ髮を撫でゝ、鷹揚に四邊(あたり)を四顧して、さてまたソツと帽子をかぶツて、大切な頭をかくして仕舞つた。「あぶなく忘れる所よ。それに此の雨だもの!」トまた欠伸。「用は多し、さう/\は仕切れるもんぢやない、その癖動〔やや〕ともすれば小言だ。トキニ出立は明日(あした)になツた……」

 「あした!」ト少女はビツクリして男の顏を視詰た。

 「あした……オイ/\賴むぜ」ト男は忌々しさうに口早に言ツた。少女のブル/\と震へて差うつむゐたのを見て。「賴むぜ「アクーリナ」泣かれちやアあやまる。おれはそれが大嫌ひだ」。ト低い鼻に皺を寄せて、「泣くならおれはすぐ歸らう……何だ馬鹿氣た――泣く!」「アラ泣はしませんよ」、トあわてゝ「アクーリナ」は云ツた、せぐり來る涙を漸くの事で呑みこみながら。暫らくして、「それぢや明日(あした)お立ちなさるの。いつまた逢はれるだらうネー」

 「逢はれるよ、心配せんでも。左やう、來年――でなければさらいねんだ。旦那は彼得堡〔ペテルブルグ〕で役にでも就きたいやうすだ」、トすこし鼻聲で氣のなさゝうに言ツて「ガ事に寄ると外國へ徃くかもしれん」。

 「若しさうでもなツたらモウわたしの事なんざア忘れておしまいなさるだらうネー」ト云ツたが、如何にも心細さうで有ツた。

 「何故? 大丈夫! 忘れはしない、ガ「アクーリナ」ちツと是れからは氣を附けるがいいぜ、わるあがきもいゝ加減にして、をやぢの云ふこともちツとは聽くがいゝ。おれは大丈夫だ、忘れる氣遣ひはない、――それはなア……イ」、ト平氣で伸をしながら、また欠伸をした。

 「ほんとに、「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」、忘れちやァいやですよ」。ト少女は祈るが如くに云ツた、「こんなにお前さんの事を思ふのも、慾德づくぢやないから……おとつさんのいふこと聽けとおいひなさるけれど……わたしにはそんな事ァできないヮ……」

 「何故(なぜ)?」ト仰ふ向けざまにねころぶ拍子に、兩手を頭に敷きながら、宛〔あたか〕も胸から押し出したやうな聲で尋ねた。

 「なぜといツてお前さん――アノ始末だものヲ……」

 少女は口をつぐんだ。「ヴヰクトル」は袂時計の鎖をいらひだした。

 「オイ、「アクーリナ」、おまへだツて馬鹿ぢやあるまい」トまた話し出した、「そんなくだらん事をいふのは置いて貰はふぜ。おれはお前の爲を思ツていふのだ、わかツたか? 勿論お前は馬鹿ぢやない、やツぱりお袋の性(しやう)を受けてると見えて、それこそ徹頭徹尾いまのソノ農婦といふでもないが、シカシ兎も角も教育はないの――そんなら人のいふことならハイと云ツて聞てるがいゝぢやないか?」

 「だツてこわいやうだもの」。

 「ツ、こわい。何もこわいことはちツともないぢやないか? 何だそれは」、と「アクーリナ」の傍へすりよツて「花か?」

 「花ですよ」ト言つたが、如何にも哀れさうで有ツた。「この淸涼茶は今あたしが摘んできたの」トすこし氣の乘ツたやうす「これを牛の子にたべさせると藥になるツて。ホラ Bur-marigole ――そばツかすの藥。チョイと御覧なさいよ、うつくしいぢや有りませんか、あたし産れてからまだこんなうつくしい花ァ見たことないのよ。ホラ myosotis、ホラ菫……ア、これはネ、お前さんにあげやうと思ツて摘んで來たのですよ」ト云ひながら、黄ろな野艸の花の下にあツた、青々とした Blue-bottle の、細い草で束ねたのを取りだして「入りませんか?」

 「ヴヰクトル」はしぶ/\手を出して、花束を取ツて、氣のなさゝうに匂ひを嗅いで、そして勿體を付けて物思はしさうに空を視あげながら、その花束を指頭でまわしはじめた。「アクーリナ」は「ヴヰクトル」の顏をジツと視詰めた……その愁然として[やぶちゃん注:「愁然とした」の誤りであろう。]眼つきのうちになさけを含め、やさしい誠心(まごゝろ)を込め、吾佛とあふぎ敬ふ氣ざしを現はしてゐた。男の氣をかねてゐれば、敢て泣顏は見せなかつたが、その代り名殘り惜しさうに只管その顏をのみ眺めてゐた。それに「ヴヰクトル」といへば史丹〔スルタン〕の如くに臥そべツて、グツと大負けに負けて、人柄を崩して、いやながら暫く「アクーリナ」の本尊になつて、その禮拜祈念を受けつかはしてをつた。その顏を、あから顏を見れば、故らに作ツた偃蹇恣睢〔えんけんしき〕、無頓着な色を帶びてゐたうちにも、何處ともなく得々としたところが見透かされて、憎かつた。そして顧みて「アクーリナ」を視れば、魂が止め度なく身をうかれ出て、男の方へのみ引かされて、甘へきつているやうで――アヽよかツた![やぶちゃん注:「いる」はママ。] 暫くして「ヴヰクトル」は、……「ヴヰクトル」は花束を艸の上に取り落して仕舞ひ、青銅の框〔わく〕を嵌めた眼鏡を外套の隱袋〔かくし〕から取りだして、眼へ宛がはふとしてみた、がいくら眉を皺〔しか〕め、頰を捻ぢ上げ、鼻まで仰ふ向かせて眼鏡を支えやうとしてみても、――どうしても外れて手の中へのみ落ちた。[やぶちゃん注:「支え」はママ。]

 「なにそれは?」と「アクーリナ」がケゲンな顏をして尋ねた。

 「眼鏡」と「ヴヰクトル」は傲然として答へた。

 「それをかけるとどうかなるの?」

 「よく見えるのよ」。

 「チョイと拜見な」。

 「ヴヰクトル」は顏をしかめたが、それでも眼鏡は渡した。

 「こわしちやいけんぜ」[やぶちゃん注:「こわしちや」はママ]。

 「大丈夫ですよ」トこわごわ眼鏡を眼のそばへ持つてきて「ヲヤ何にも見えないよ」ト愛度氣けなくいツた[やぶちゃん注:「こわごわ」はママ。]。

 「そ、そんな……眼を細くしなくツちやいかない、眼を」トさながら不機嫌な教師のやうな聲で叱ツた。「アクーリナ」は眼鏡を宛てがツてゐた方の眼を細めた。「チヨツ、まぬけめ、そツちの眼じやない、こツちの眼だ」トまた大聲で叱ツて、仕替える間もあらせず、「アクーリナ」の持ツてゐた眼鏡をひツたくツてしまツた。

 「アクーリナ」は顏を赤くして、氣まりわるさうに笑ツて、餘所をむいて、

 「どうでも私たちの持つもんぢやないと見える」。

 「知れた事サ」。

 かわいさうに、「アクーリナ」は太い溜息をして默してしまツた。[やぶちゃん注:「かわいさうに」はママ。]

 「アヽ、「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」、どうかして、一所に居られるやうには成らないもんかネー」トだしぬけに云ツた。

 「ヴヰクトル」は衣服の裾で眼鏡を拭ひ、再び隱袋に納めて、

 「それやア當座四五日はちツとは淋しからうサ」ト寛大の處置を以て、手づから「アクーリナ」の肩を輕く叩いた。「アクーリナ」はその手をソツト肩から外して、おず/\接吻した。「ちツとは淋しからうサ」トまた繰返して云ツて、得々と微笑して、「だが已を得ざる次第ぢやないか? マア積ツてもみるがいゝ、旦那もさうだが、おれにしてもこんなケチな所にやゐられない、蓋しモウぢきに冬だが、田舍の冬といふやつは忍ぶ可らずだ、それから思ふと彼得堡、たいしたもんだ! うそとおもふなら徃ツてみるがいゝ、お前たちが夢に見た事もない結構なものばかりだ。かう立派な建家〔たてもの〕、町、カイ社、文明開化――それや不思議なものよ!……」(「アクーリナ」は小兒の如くに、口をあいて、一心になツて聞き惚れてゐた。)

 「ト噺をして聞かしても」ト「ヴヰクトル」は寢返りを打ツて、「無駄か。お前にや空々寂々だ」。

 「なぜへ、「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」、わかりますワ、よく解りますワ」。[やぶちゃん注:「なぜへ」はママ。]

 「ホ、それはおえらいな!」

 「アクーリナ」は萎れた。

 「なぜこの此頃わさう邪慳だらう?」[やぶちゃん注:「此頃わ」はママ。次の台詞も同じ。]ト頭をうなだれたまゝで云ツた。

 「ナニ此頃わ邪慳だと……?」ト何となく不平さうで「此頃! フヽム此頃!……」

 兩人とも暫時無言。

 「ドレ歸らうか」ト「ヴヰクトル」は臂を杖に起ちあがらうとした。

 「アラモウちツとお出でなさいよ」ト「アクーリナ」は祈るやうに云ツた。

 「なぜ?……暇乞ひならモウ是れで濟んでゐるぢやないか?」

 「モウちツとおいでなさひよ」。

 「ヴヰクトル」はふたたび横になツて、口笛を吹きだした。「アクーリナ」はその顏をジツと視詰めた、次第々々に胸が波だツて來た樣子で、唇も拘攣しだせば、今まで青ざめてゐた頰もまたほの赤くなりだした……

 「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」トにじみ聲で「お前さんも……あんまり……あんまりだ」。

 「何が?」ト眉を皺めて、すこし起きあがツて、キツと「アクーリナ」の方を向いた。

 「あんまりだワ、「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」、今別れたらまたいつ逢はれるか知れないれないのだから、なんとか一ト言ぐらゐ云ツたツてよさゝうなものだ、何とか一ト言ぐらゐ……」

 「どういへばいゝといふんだ?」

 「どういへばいゝか知らないけれど……そんな事たア百も承知してゐるくせに……モウ今が別れだといふのに一ト言も……あんまりだからいゝ!」

 「可笑しな事をいふやつだな! どういへばいゝといふんだ?」

 「何とか一ト言くらゐ……」

 「エーくどい!」ト忌々しさうに云ツて、「ヴヰクトル」は起ちあがツた。

 「アラかに……かにしてちょうだいよ」ト「アクーリナ」は早や口に言ツた、辛うじて涙を呑み込みながら。

 「腹も立たないが、お前のわからずやにも困る……どうすればいゝといふんだ? もと/\女房にされないのは得心づくぢやないか? 得心づくぢやないか? そんなら何が不足だ? 何が不足だよ?」トさながら返答を催促するやうに、グツと「アクーリナ」の顏を覗きこんで、そして指の股をひろげて手をさしだした。

 「何も不足……不足はないけれど」ト吃りながら、「アクーリナ」もまた震へる手先をさしだして、「たゞ何とか一ト言……」

 涙をはら/\と流した。

 「チヨツ極(きま)りを始めた」、ト「ヴヰクトル」は平氣で云ツた、後(うしろ)から眉間へ帽子を滑らしながら。

 「何も不足はないけれど」ト「アクーリナ」は兩手を顏へ宛てゝ、啜り上げて泣きながら、再び言葉を續いだ、「今でさへ家にゐるのがつらくツて/\ならないのだから、是れから先はどうなる事かと思ふと心細くツて/\なりやアしない……吃度無理矢理にお嫁にやられて……苦勞するに違ひないから……」

 「ならべろ/\、たんと並べろ」ト「ヴヰクトル」は足を踏み替え乍ら、口の裏で云ツた。[やぶちゃん注:「替え乍ら」はママ。]

 「だからたツた一ト言、一ト言何とか……「アクーリナ」おれも……お、お、おれも……」

 不意に込み上げてくる涙に、胸がつかえて、云ひきれない[やぶちゃん注:「つかえて」はママ。]――「アクーリナ」は草の上へうつぶしに倒れて苦しさうに泣きだした……總身をブル/\震はして頂門で高波を打たせた……こらへに堪へた溜め涙の關が一時に切れたので。「ヴヰクトル」は泣くずをれた「アクーリナ」の背なかを眺めて、暫く眺めて、フト首をすくめて、身を轉じて、そして大股にゆう/\と立ち去ツた。[やぶちゃん注:「ゆう/\」はママ。]

 暫くたツた……「アクーリナ」は漸く涙をとゞめて、頭を擡げて、跳り上ツて、四邊(あたり)を視まはして、手を拍た、跡を追ツて駈けださうとしたが、足が利(き)かない――バツタリ膝をつひた[やぶちゃん注:「つひた」はママ。]……モウ見るに見かねた、自分は木蔭を躍り出て、かけよらうとすると、「アクーリナ」はフト振りかへツて自分の姿を見るや否や、忽ち忍び音にアツと叫びながら、ムツクと跳ね起きて、木の間へ駈け入ツた、かと思ふとモウ姿は見えなくなつた。草花のみは取り殘されて、歴亂として四邊に充ちた。

 自分はたちどまつた、花束を拾い上げた、そして林を去ツてのらへ出た。日は青々とした空に低く漂ツて、射す影も蒼さめて冷かになり、照るとはなくて只ジミな水色のぼかしを見るやうに四方に充ちわたツた。日沒にはまだ半時間も有らうに、モウゆうやけがほの赤く天末を染めだした。黄ろくからびた刈科(かりかぶ)をわたツて烈しく吹きつける野分に催されて、そりかへツた細かな落ち葉があはたゞしく起き上り、林に沿ふた徃來を横ぎつて、自分の側を駈け通ツた、のらに向いて壁のやうにたつ林の一面は總てざわ/\ざわつき、細末の玉の屑を散らしたやうに、煌きはしないが、ちらついてゐた、また枯れ草、莠〔はぐさ〕、藁の嫌いなくそこら一面にからみついた蜘蛛の巣は風に吹き靡かされて波たツてゐた。

 自分はたちどまつた……心細くなツてきた、眼に遮る物象はサツパリとはしてゐれど、おもしろ氣もおかし氣もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近になツた冬のすさまじさが見透かされるやうに思はれて。小心な鵶〔からす〕が重さうに羽ばたきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首を囘らして、横目で自分をにらめて、急に飛び上ツて、聲をちぎるやうに啼きわたりながら、林の向ふへかくれてしまツた。鳩が幾羽ともなく群をなして勢込んで穀倉の方から飛んで來たが、フト柱を建てたやうに舞い昇ツて、さてパツと一齊に野面に散ツた――ア、秋だ! 誰だか禿山の向ふを通るとみえて、から車の音が虚空に響きわたツた……

 自分は歸宅した、が可哀さうと思ツた「アクーリナ」の姿は久しく眼前にちらついて、忘れかねた。持歸ツた花の束ねは、からびたまゝで、尚ほいまだに祕藏して有る………………

 

 

■やぶちゃん注

・人をさみした白頭翁(しゞうがら):「さみす」は、古語サ変動詞で「侮る・軽んじる」の意。

Turquoise:トルコ石。ターコイズ。

Myosotis:シソ目ムラサキ科ワスレナグサ属Myosotisのワスレナグサの総称。アクリーナが摘んだ花にも現われ、本作にあっては極めて皮肉な伏線である。

・淸涼茶:不明であるが、これが1952年新潮社刊の米川正夫訳の「鋸草」と同じ種だとすれば、キク亜綱キク目キク科ノコギリソウ属のノコギリソウ(アキレア)Achillea sibirica又はセイヨウノコギリソウAchillea millefoliumを指し、当該種はヤロウ Yarrowというハーブティーとして利用されるとのことである。これを含め、アクリーナの持つ花の同定については中山訳テクストの最後の私の注を参照されたい。

Bur-marigoleBur-marigoldのことか。キク目キク科センダングサ属コセンダングサ Bidens pilosaの仲間で、多様な亜種がある。他の訳者(中山・米川・佐々木彰)が揃って訳すところの「狼把草(たうこぎ)」タウコギBidens tripartitaもセンダングサ属である。

・偃蹇恣睢〔えんけんしき〕:青年ヴィクトルの悪辣な性情を示すこの語は、本来、第一義的には「偃蹇」「恣睢」共に、エゴイストの謂いであるが、「恣睢」の別義を合わせて、そうした高慢で勝手気儘な上に、人を軽蔑する様子を言うのであろう。

myosotis:前出。本文は、正しくは大文字で“Myosotis”とすべき。

Blue-bottle:キク亜綱キク目キク科ヤグルマギク属Centaurea cyanusの英名。ロマン主義の象徴的存在のノヴァーリスの「青い花」はヤグルマギクであるとも言われ、その花言葉は、「繊細・幸福・優雅」である。

・莠〔はぐさ〕:エノコログサ等を始めとする雑草を漠然と指す。