やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ

鬼火へ

文化十二年乙亥 冬十月 豊前國小倉中津口村と荻﨑村の際小流に生ぜる奇蟲「豐年蟲」

 栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻六より)

[やぶちゃん注:私は既に「栗氏千蟲譜」の海産動物のパートを原文・訓読・原画画像・オリジナル注附で、自己サイト「鬼火」「心朽窩旧館」の「栗本丹洲」に於いて、

巻七及び巻八より――蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ ホタルムシ 丸薬ムシ 水蚤

巻八より――海鼠 附録 雨虎(海鹿)

巻九 全

巻十 全

を公開している。私は以上で「千蟲譜」に載る海産動物は総てを電子化注したと思っていた。ところが、たまたま所持する丹洲の「栗氏千蟲譜」(国立国会図書館蔵の曲直瀬愛旧蔵写本「栗氏千蟲譜」を底本とした、昭和五七(一九八二)年恒和出版刊『江戸科学古典叢書』第四十一巻)を久し振りに眺めていたところ、奇妙なものを見つけた。

それは、第六巻で、図版はクモ類から始まり、かなりの量のクモの図が終わると、ゲジゲジ一図とムカデの三図が続いた、次の頁であった。

ムカデに似た生物(にその時は見えた)二頁に亙って全部で五個体描かれていた。

しかし、その図を見るに脚の描き方が明らかにムカデではないことに気づいた。初めは、脚の体幹部からの出方(でかた)が複数本のように見えたことから、

「ヤスデかな?」

と思ったが、どうも、これまた、全体のフォルムがヤスデらしからぬのだ

次の瞬間、私の冥い脳内に、白熱電球が

「パッ!」

と灯った!

急いでキャプションを読む。

案の上、小川の中で見つかった奇虫とあるじゃあないか!

場所も書いてあるので、確認する(後で翻刻し、注で示す)。

「うん! 海に近いぞッツ!!」

と思わず、膝を叩いたんだ!

次いで、急いで、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。同国立国会図書館は五種の「千蟲譜」写本を蔵するが(「千蟲譜」の丹洲の自筆本は残念ながら存在しない)、その内の三種を見た。これとこれ(こちらはコマが分かれ、ここと、ここになる)とこれ(所持する恒和出版本はこれ)である(後でそれぞれの書誌は示し、また画像も改めて掲げる)。これら(所持する先の本は高い本だったが、全ページ、モノクローム画像)は孰れもカラー画像なのが嬉しい!

そうして――そうして――いやはや、赤、黒、黄色、緑に白、五色(ごしき)だぞッツ!

そうして――そうして――その鮮やかな色彩を見て、私の思いは確信犯となったのである!

「これはバチだ! イトメだよ!」

と、独り、暗い書斎で叫んだ!

これは、図の流れのムカデ(節足動物門 Arthropoda 多足亜門 Myriapoda ムカデ上綱 Opisthogoneata 唇脚(ムカデ)綱 Chilopoda なんぞとは全く無縁な、河川の河口附近や、その近くの汽水域及びそこに繋がっている淡水域(河川下流域)や田圃等にまで広く分布し、大潮の夜になると、生殖体勢体に変形して淡水域に遡上し、そこで生殖群泳を展開する、かの、

環形動物門 Annelida毛綱 Polychaetaサシバゴカイ目 Phyllodocidaゴカイ科 Nereididae Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus

に間違いないのであった!

知らない? 釣りをする方ならよく知っていよう。餌にする、あれ、である。

釣もしない、元国語教師のお前が、そんなもんに詳しいのか? ってテカ?

おう! 豈にはからんや、詳しいんだよな、これがさ!

何ってたって、以前には、新田清三郎先生の『「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――(全十回。リンク先は第一回。最終回はこちら)を電子化注したり、同じ生殖群泳で知られ、食用にする(というか、イトメも食べられるよ! 生ガキっぽくて結構、美味い! ウィキの「イトメ」にも、『中国語の標準名は「疣吻沙蚕」』『というが、中国広東省の順徳料理や広州料理では「禾虫」(広東語 ウォーチョン)の名で、生殖体を陳皮風味の卵蒸し』『や炒め物などの料理にして食用にする。シャリシャリした食感があり、タンパク質と脂肪が多く、アミノ酸バランスもよい』『とされる。珠江デルタにある水田には多く生息しており』五月から六月と、八月から九月の彼らの『繁殖期に水田に水を入れると』、『流れに乗って集める事ができるため、採り集めて出荷する』とあるからね。お前はどこで食ったかって? 釣りの餌だよ、あれを生食してみたんだっつーの!)、多毛綱イソメ目 Eunicida イソメ科 Eunicidae Palola属タイヘイヨウ(太平洋)パロロ Palola siciliensis(英名:Pacific palolo)について書かれた『博物学古記録翻刻訳注 ■10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載』なんてものも手掛けてる、謂わば俺は〈イトメ・フリーク〉なのさ。

 閑話休題。

 そこで以上の「千蟲譜」のそのパートだけを電子化注することとした。

 図は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で三種(同図書館は他に「千蟲譜」二種を蔵する)を掲げ(書誌はそれぞれの画像で述べる。画像は非常に大きいが、細部を観察して頂くため、このサイズとした)、キャプションはほぼ同文であるが、読み易い曲直瀬愛(まなせめぐむ 嘉永四(一八五一)年~?:詳しくは「栗本丹洲自筆「翻車考」藪野直史電子化注 始動」の私の注を参照)旧蔵本のそれを底本とし、適宜、他の二種と校合した。【二〇一八年四月二十七日 藪野直史】]

 

 

[やぶちゃん注:以上の二枚は国立国会図書館デジタルコレクションの『千蟲譜 3. [2]とするものから、トリミングした(裏の透けが激しいが、原本の雰囲気を保持するため補正は加えなかった。以下の二枚も同じである)。この資料は同デジタルコレクションでは改ページとなっているために二枚となる(二枚目は上部が空白なので下部の図のみをトリミングしてある)。本資料は伊藤圭介旧蔵品で、服部雪斎が明治五(一八七二)年に写したもの(昭和五七(一九八二)年恒和出版刊『江戸科学古典叢書』第四十一巻「千蟲譜」の小西正泰氏の解説に拠る)。磯野直秀先生が解題で国立国会図書館所蔵の「千蟲譜」五種の内でも、『他館資料を含めて最良の転写本と思われる』とされるので、特に最初に掲げた。磯野先生は続けて、『これは、幕医久志本左京(号、緑漪軒[りょくいけん])の依頼で博物画の名手服部雪斎が写したもので、底本はおそらく丹洲の原本』である、とされるものである。

 「久志本左京」は久志本左京亮常勝であろう。幕医として五代将軍綱吉の病いを治したことで知られる。

 「服部雪斎」(文化四(一八〇七)年~?(明治中期。推定は後述))は幕末から明治中期にかけて活躍した稀有の達筆の博物画家であるウィキの「服部雪斎」によれば、『生い立ちはよく分かっていないが、谷文晁門下で田安家の家臣遠坂文雍』(とおさかぶんよう 天明三(一七八三)年~嘉永五(一八五二)年:南画家)『の弟子であることから、雪斎も田安家と関係の深い武家出身である可能性が高い。没年は不明であるが、作品に記された年代から』明治二〇(一八八七)年までは存命していたことが『確認されている』。彼の代表作は武蔵石壽編の「目八譜」(私は(遅々として進まぬが)カテゴリで電子化中)であるが、他に森(枳園)立之編の「華鳥譜」(私は最近、何点かをカテゴリ「博物学」で電子化している)「半魚譜」や、この栗本丹州編「千蟲譜」の模写、及び、維新後の田中芳男・小野職愨編「有用植物圖説」等がある。なお、後の翻刻上、これを【Ⅰ】とする。]

 

 

[やぶちゃん注:以上の一枚は国立国会図書館デジタルコレクションの『千虫譜 5. [2]とするものから、トリミングした。本資料は植物学者伊藤篤太郎(とくたろう 慶応元(一八六六)年~昭和一六(一九四一)年)については私の『栗本丹洲自筆「翻車考」藪野直史電子化注 始動』の私の注を参照されたい)旧蔵品の『千蟲譜』(五冊)である(同じく恒和出版版の小西氏の解説に拠る)。なお、後の翻刻上、これを【Ⅱ】とする。]

 

 

[やぶちゃん注:以上の一枚は国立国会図書館デジタルコレクションの『栗氏千虫譜. 第6冊』とするものから、トリミングした。本資料は曲直瀬愛(冒頭注とそのリンク先を参照)旧蔵品の『栗氏千蟲譜』(十冊)である(同じく恒和出版版の小西氏の解説に拠る)。所持する恒和出版版はこれを底本としたもので、キャプションも読み易いことから、以下の翻刻ではこれを底本とし、上の二種の本文と適宜、校合した。なお、後の翻刻上、これを【Ⅲ】とする。]

 

□翻刻1(【Ⅲ】の原典のママ。一部は補正した)

文化十二年乙亥冬十月豊前國小倉

中津口村與荻﨑村際有小流生奇蟲數

[やぶちゃん注:実は【Ⅲ】では「中津口村」は「中津村」である。【Ⅰ】と【Ⅱ】では「中津村」が『中津口村』となっており、地名調べたところ、「中津口」が正しいことが判ったので、口を挿入した。

千其色五彩長二四寸許如下図自昏至

[やぶちゃん注:実は【Ⅲ】では「其」は「甚」と思われる字になっている。しかし、意味が採れないので、【Ⅰ】【Ⅱ】によって「其」とした。

晨浮游水上日出乃不知所之土人呼為

豊年蟲自五日至十日而不見今玆米

價殊賤是其徴乎因姑圖其形以記

其實事云

       西田直養誌

 

右ノ蟲図幷説ヲ借覧スルマヽニ寫之此

圖モ寫真ニ非ス何ト名謂スルヿヲ不知姑

クコヽニ帖乄他日博洽君子ノ高評ヲ俟ノミ

 

   小笠原氏本年家臣騷擾ノヿアリ

[やぶちゃん注:【Ⅰ】【Ⅱ】には「氏」がなく、「騷擾」は【Ⅰ】が『騷動』、【Ⅱ】が『驕動』となっている。]

   亦其徴ナル乎ト云人アリキ

 

 

□翻刻2(原文には訓点等は一切ないので、推定で訓読し、一部に送り仮名や読みも推定で歴史的仮名遣で添え、諸記号を附して整序した。「〔かといふ〕」「〔なり〕」は読み易さを考えて挿入した)

文化十二年乙亥(きのとゐ)、冬十月、豊前國小倉中津口村と荻﨑村の際(きは)に、小流(こながれ)有り、奇蟲、數千、生(しやう)ず。其の色、五彩。長さ、二、四寸許(ばか)り。下図のごとし。昏(ひぐれ)より晨(あさ)に至り、水上に浮游し、日、出づれば、乃(すなは)ち、知れず。所の土人、呼びて「豊年蟲(ほうねんむし)」と為(な)す。五日より十日に至りて見えず。今、玆(これ)、米價(べいか)、殊に賤(やす)し。是れ、其の徴(きざし)なるか。因りて、姑(しばら)く、其の形を圖し、以つて記す。其れ、實事(じつじ)〔なり〕と云ふ。

       西田直養(にしだなほかひ)、誌(する)す。

 

右の蟲の図、幷びに、説を借覧するまゝに之れを寫せり。此の圖も寫真(しやしん)に非ず。何と謂ひ名する〔かといふ〕ことを知らず。姑(しばら)くこゝに帖(てふ)して、他日、博洽(はくがふ)の君子の高評を俟(ま)つのみ。

 

小笠原氏、本年、家臣に騷擾(さうぜう)のことあり。亦、「其の徴(きざし)なるか」と云ふ人、ありき。

 

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通り、河川の河口附近や、その近くの汽水域及びそこに繋がっている淡水域(河川下流域)や田圃等にまで広く分布し、大潮の夜になると、生殖体勢体に変形して淡水域に遡上し、そこで生殖群泳を展開する、

環形動物門 Annelida毛綱 Polychaetaサシバゴカイ目 Phyllodocidaゴカイ科 Nereididae Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus

である。本種について、保育社昭和五一(一九七六)年刊の内海富士夫「原色日本海岸動物図鑑」(改訂三版)の記載に基づいたものを掲げておきたい。

環節数は三百に近く、前方は青褐色で、後方に進むにつれて紅色を増す。未成熟個体は多く「イトメ」と呼ばれ、本邦各地の海辺・河口・汽水湖の泥中に棲息している(広域に見ると、本州北部から中国や東南アジアまで広く分布する)。成熟期に達すると、水面に出て群泳する。この時期のものは各地で「バチ」と呼ばれ。♂は淡い紅色を、♀は淡い黄色を呈するが、日光に当たると緑色に変わる。これによって、本図の五彩色が偽りでないことを御理解頂けるものと思う(水中の青褐色や緑色は暗い所では黒ずんで見える)。東京附近では、バチの群泳は十月から十一月の間の四回の大潮の時(厳密にはその三、四日後であることが多い)に起こる。群泳の際は全長の約三分の二が失われ、バチが泳ぎ出た後の泥を掘ってみると、前方の節を失った虫体、通称、「ホリバチ」が得られる(言わずもがなであるが、これは本種が♂♀の群泳による有性生殖をすると同時に、各個体が分裂による生殖も一緒に行っていることを意味する)。

「文化十二年乙亥(きのとゐ)、冬十月」一八一五年。この年の旧暦「十月」は大の月で、グレゴリ暦では旧暦十月一日が十一月一日、晦日の旧暦十月三十日が十一月三十日であるから、判りがよい。即ち、旧暦十月一日が新月で四日までが大潮、旧暦十月十六日に大潮が始まり、満月は十月十七日で十九日までが大潮となる。この場合、後で「五日より十日」と出るから、旧暦十月三日、四日(孰れもグレゴリオ暦の十一月の同日)の出来事であったと考えられる

「豊前國小倉中津口村と荻﨑村の際」現在の福岡県北九州市小倉北区中津口(なかつぐち:ここ(グーグル・マップ・データ))と同北区萩崎町(はぎざきまち:ここ(グーグル・マップ・データ))であるから、そのそれぞれの頂点が交差する「足立中学校前」信号のところを流れる 神嶽川(かんたけがわ)であることが判る。この川は北西に流れてすぐに紫川の河口近くでそれに合流しているから、イトメの遡上範囲としては、何ら、問題がないことが地図からも確認出来る。試みに、この地点から現在の紫川河口(古地図で確認したが、紫川大橋付近がやはり明治時代に河口であった)までを計測してみても、二キロメートル弱しかない

「二、四寸」六・一~十二・一二センチメートル。イトメは成体自体が概ね、十センチメートル内である。生殖群泳の際には、既に述べた通り、自切分裂を起すので、どれもやや小さくなるが、泳ぐために本来よりも長くなって見えもするであろうから、大きさも問題ない。

「昏(ひぐれ)より晨(あさ)に至り、水上に浮游し、日、出づれば、乃(すなは)ち、知れず」日の出とともに群泳が終わって、姿を一匹も見なくなったというのである。試みに、この文化十年十月三日(一八一五年十一月三日)の福岡の日没は十七時二十六分、翌四日の日の出は六時三十九分である

「豊年蟲(ほうねんむし)」これは例えば、鱗翅目セセリチョウ上科セセリチョウ科イチモンジセセリ属イチモンジセセリ Parnara guttata(盛夏が高温で晴れが多い年(稲の発育が良い条件)に多発することに由来するが、本種の幼虫は逆にイネの害虫である)や、カゲロウと呼称する種群(真正のカゲロウである有翅亜綱旧翅下綱蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera のカゲロウ類と、カゲロウ目とは縁遠い有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae のクサカゲロウや脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae のウスバカゲロウも含まれる)の大発生、また、時に田圃に大発生する節足動物門甲殻亜門鰓脚綱サルソストラカ亜綱無甲(ホウネンエビ)目ホウネンエビ科ホウネンエビ属ホウネンエビ Branchinella kugenumaensis が古くから豊年を予兆する虫として、かく呼ばれた。古人はこうした大発生の多くを、体で、生殖行動としてある意味では一部で正しく認識していたのではないかと私は思う。フレーザーの言う類感呪術である。

「今、玆(これ)、米價(べいか)、殊に賤(やす)し」その異変の起きた直後のこれを記している今現在、米の値段が非常に安くなっている。

「其の徴(きざし)」もう時期が遅いが、結果して豊作であったことの予兆であることを指している。

「西田直養」(なおかい 寛政五(一七九三)年~慶応元(一八六五)年)は江戸後期の国学者で憂国の人物である。豊前小倉藩藩士高橋元義の四男であったが、文化五(一八〇八)年、同藩士西田直享(「なおたか」か?)の養子となる。十五、六歳の頃より儒学を石川彦岳に学び、二十一歳で君側勤仕(くんそくきんし:藩主の近習)となり、江戸出府の際、大田錦城に入門、また、和歌を秋山光彪に学んだ。三十歳頃より本格的に国学を学んだとされるが、漢学の素養もあって、特に「論語」を愛読した。国学者との交遊は極めて広く、平田篤胤・屋代弘賢・塙保己一・伴信友といった錚々たる連中と交わり、また、歌でも高い評価を得ていた。書画・雅楽・酒茶など、多芸多趣味で、奇談新話を好んだという。藩士としては三十六歳の時に勘定奉行となり、元締役・町奉行・寺社奉行取計・近習番頭を歴任、支藩小倉新田藩篠崎侯の傅(ふ:教育係)となり、京都大坂の留守居役を勤めた。藩の佐幕体制を嘆き、元治元(一八六四)年に長州藩が英・米・仏・蘭の連合艦隊によって下関を攻撃された際には、自藩が傍観していたことに憤激、絶食を以って死に至った。維新後、東紫神社に祭られた。著作に「金石年表」「神璽考」「筱舎漫筆」などがある。半端ない偉人である(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「説」キャプションのここまでの西田直養の記文を指す。

「此の圖も寫真(しやしん)に非ず」当然のことながら、写した図の写しであるからして、その奇虫の実体を見て直接に写した図ではない、の意。

「何と謂ひ名する〔かといふ〕ことを知らず」この奇虫の名を何と言うかということも知らない。但し、西田は、土地の者が「豊年虫」と呼んでいることは記している。私の標題ではそれを加えた。

「帖(てふ)して」書き記しておいて。

「佗日」「佗」は「他」の異体字。

「博洽(はくがふ)」「洽」(現代的仮名遣の音は「ゴウ」)は「遍(あまね)く・広く行き渡っている」の意であるから、該博(がいはく:学問・知識が広く、何にでも通じていること)に同じい。

「小笠原氏」豊前小倉藩藩主小笠原家。時制から、第六代藩主小笠原忠固(ただかた 明和七(一七七〇)年~天保一四(一八四三)年)である。

「本年、家臣に騷擾のことあり」彼の治世の小倉藩では、かなり知られた家老や家臣が対立したとんでもないお家騒動である「白黒騒動」があるが(詳しくはウィキの「小笠原忠固を参照されたいが、江戸家老は罷免・失脚、騒動に関わった一派は処刑され、藩主忠固自身も百日の禁固刑を受けている)、この記事の文化一二(一八一五)年はそれよりずっと後のことなので、それではなく、同ウィキにある、後の文政年間(一八一八年から一八三一年)に起こった村方(むらかた)騒動(農民が村役人層の非違・不正を暴いてそれを領主に訴える事件)に関わる藩上層部の事件でも指しているものか(村方騒動で「家臣に騷擾のことあり」というのは不審ではある)。なお、丹洲の博物画を描いたクレジットには「文政」とするものが多い。]