友人芥川の追憶 恒藤 恭
[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』(「芥川龍之介追悼号」:芥川龍之介自死(昭和二年七月二十四日)直近の翌々月号)初出。
芥川龍之介の畏友恒藤恭(つねとう きょう 明治二一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年:旧姓井川。婿養子により大正五(一九一六)年十一月に改姓)は島根県松江生まれ。法哲学者で法学博士。大阪市立大学学長及び名誉教授(昭和二一(一九四六)年)。戦前に於ける日本の代表的法哲学者として知られ、京都帝国大学法学部教授時代、思想弾圧事件として著名な「瀧川事件」で抗議の辞任をした教官の一人であった。芥川龍之介より四歳年上であるが、中学卒業後、体調を崩し(本文に出るように内臓性疾患)、三年間の療養生活を経て、恢復の後、文学を志して上京、『都新聞社』文芸部所属の記者見習をしながら、第一高等学校入学試験に合格、第一部乙類(英文科)に入学した。この時、芥川龍之介と同級となり、終生の親友となった。大正二(一九一三)年、一高第一部乙類を首席で卒業後、京都帝国大学法科大学政治学科に入学した(文科から法科への進路変更については別な文章で、芥川との交流によって自身の能力の限界を知ったからである、と述べている)。京都帝大進学後も龍之介との文通(新全集で現存三十八通に及ぶ)による交流が続き、芥川の勧めを受けて第三次『新思潮』第一巻第五号(大正三(一九一四)年六月一日発行)にジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の「海への騎者」(Riders to the Sea 一九〇四年作)を翻訳寄稿したりしている。また、芥川龍之介は大正四(一九一五)年八月三日から二十二日迄、彼の薦めで彼の実家のある松江に来遊している。これは芥川龍之介の人生の最初の大きな痛手となった吉田弥生への失恋の傷手を癒してやることが井川の目的であった。その際、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより、自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に、芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載(追記:二〇一八年一月二十一日にブログ・カテゴリ「芥川龍之介」にて二十六回分割で電子化注を終えた)、その中に「日記より」という見出しを附した芥川龍之介名義の文章が三つ、分けられて掲載された。後にこれらを抜き出して合わせ、「松江印象記」として、昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で公開されている(従って現在の「松江印象記」という題で知られるそれは芥川龍之介自身による命名では、実は、ない)。これは私が昔、既に『芥川龍之介「松江印象記」初出形』として電子化しているので参照されたい。
底本は筑摩書房類聚版「芥川龍之介全集 別巻」に所収するものを用いたが、それが歴史的仮名遣を使用している点、拗音・促音表記が一部を除いて殆んどない点、本初出が昭和二(一九二七)年である点から考えて、私の何時もの電子化ポリシーの通り、漢字を正字化することが、原初出により近いものとなると判断し、漢字を槪ね、正字化して示した。なお、不審箇所は、先年二〇一七年七月に岩波文庫から刊行されたばかりの石割透編「芥川追想」に載る同作(新字新仮名)と校合にした。踊り字「〱」は正字化した。ルビは附された箇所が少なく、正しく歴史的仮名遣になっているので、総てそのまま採用した。
一部、表記やその他についてストイックに各段落末に注を附した。但し、「十四」は印象的なシークエンスであるから、私の下種な注を附したいかなり激しい欲求を抑え、何も附さなかった。最後の「十五」冒頭に惹かれているのは、恒藤の述べるように、芥川龍之介の事実上の最後の遺筆となった「西方の人」(正編)の「35 復活」の最終段落である(リンク先は私の「西方の人」正續完全版)。
因みに、この「芥川追想」の末尾には恒藤恭の擱筆クレジットと思しい『(昭和二年八月七日)』という丸括弧記載がある(太字は私の処理)。これは実に、芥川龍之介の自死から僅か十四日後に書き上げられたことが判るのである。
なお、恒藤恭は一九六七年十一月二日に逝去されているので、昨日の午前零時を以って彼の著作はパブリック・ドメインとなっている。
また、本文「一」に現われる、恒藤が面会の最後となった鵠沼の芥川を訪ねたのは、恒藤が海外遊学から帰った(大正一五(一九二六)年九月二十六日横浜着)『二、三日の後』とあるから(恒藤恭「舊友芥川龍之介」(昭和二四(一九四九)年朝日新聞社刊。本篇も収録されている)、九月二十八か二十九日頃と推定される(最新年譜でも確定していない)。【2018年1月2日 藪野直史】現在、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」に於いて、底本として「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」(昭和二四(一九四九)年朝日新聞社刊)原本画像を視認して電子化している(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。敗戦から四年後の出版であるため、表記にちょっと難があるが、本篇も含む。現在はそちらが一応、私の決定版となるが、以上の恒藤恭の単行本は、戦後の刊行であるあるため、正字と新字とが混淆していて、ちょっと残念なため、このページは推定復元版として残す。【2023年1月1日 藪野直史】
友人芥川の追憶
一
數へて見ると、芥川との交はりは十八年の過去からつゞいた。芥川は三十六歳で亡くなつたのだから、私達の交はりは丁度芥川の一生の後半にわたつて居た譯である。
この永い年月のあひだ、彼は
この間に、高等學校時代の彼、大學時代の彼、機關學校の先生をして居た頃の彼、專ら文筆に依つて衣食するやうになつた彼、と云つたやうに――彼の生活の境涯の變つて行くのを、近くから又遠くから私は眺めた。そして終りに彼の遺骸の
お互ひに死といふものについて話したことは時折りあつた。お互ひに健康については絕えずいたはり合つた。
何時のことであつたか、田端の家で、私の用ひてゐた
鵠沼の驛に向ふ車の上で、ふと、此れきりでもう會へないのぢやないかしらと云ふやうな豫感があたまの中に閃いた。瞬間ひじやうにさびしい氣がした。が私は直きに、そんなことはないと理性によつて打ち消した。けれどもやつぱり其豫感が事實となつてしまつた。ほんたうに殘念である。
二
謂はゆる江戶つ子の出不精で、大學卒業のころ以前には芥川はめつたに東京を離れなかつた。東京を離れてもあまり遠方へ出かけたことは無かつた。それを初めて遠方へ引張り出したのは私だつた。そして私の勸めに應じて印象記を「於陽新報」といふ地方の新聞に載せたのが――後になつて知つた事であるけれど――彼が作品を公けにした最初であつた。
同じ筆法で、私は芥川を今は西洋にまで引張つて行かうと思つて努力した。西洋へ行きたい希望は彼自身一高時代から懷抱してゐたので、大分乘り氣になつて私の勸めに耳を傾けて吳れた。だが、支那へ行つて健康を害した以前の經驗は、彼の洋行に對する家庭の人々の憂惧の念を大ならしめた。それは全く無理のない事でもあつた。同行が出來ぬのは遺憾だが、後からやつて來たまへと言ひ殘して、私は日本を去つた。巴里から
それは二つの點において甚だ遺憾である。一つには、和漢の文學において甚だ造詣の深かつた芥川は、西洋の文學についても恐る可き讀書力を發揮してゐた。また、すぐれたる彼の藝術的感覺は、東洋の繪畫彫刻に對しても、西洋のそれに對しても、撥剌たる鑑賞能力となつて働いた。歐羅巴における見聞は、彼の創作的精神の上に深大なる影響を及ぼしたであらうと想像される。二つには――此方が主として遺憾なのであるが――あの頃に彼が西洋へ行つたとしたら、恐らく彼の氣持は一轉したであらう、内的生活にも展開を來したであらうと考へられる。そして、多分あんなに早く死にはしなかつたであらうと思ふ。
そんなやうな假定的想像が當つてゐようが居まいが、彼に歐羅巴の土を一度踏ませてやりたかつた。たとへば、システィナ禮拜堂のミケランジェロの天井畫及壁畫の複製を見てあんなにも昂奪した彼が、原物を見たらどんなに歡喜したであらうか。あるひはルーヴル畫廊のレムブラント筆「基督復活して弟子に現るゝ圖」に面して、如何ばかり彼はわが意を得たり! とうなづいたであらうか。[やぶちゃん注:「システィナ」の「ィ」、「ミケランジェロ」の「ェ」はママ。]
しづかなイタリアの僧院、堂内のくらがりに瞑目のをんなの影うかぶフランスの加特力敎寺院などにも、彼はたましひと感覺との安らかな休息を見出したであらうものをと思ふ。[やぶちゃん注:ルビ「カトリック」は他に徴して「ッ」とした。]
どうせ、今となつては、たゞ愚癡を言ふだけのことに過ぎぬとは知れてゐるけれど、しかし全く殘念である。[やぶちゃん注:「愚癡」の「癡」は底本の用字で、私の正字変更ではない。]
三
私にとつてだけ興味のある事柄を書くことを
右にあげた第一の時期、すなはち高等學校時代における芥川及び彼との交はりについて、心にうかぶまゝにそこばくの追憶を書きしるしたいと思ふ。それ以來大分年月が經過したので、おぼえの惡い私の記憶には、多くの事柄が逸してしまつたし、その頃の日記の類なども破棄したやうに思ふ。そして丹念に思ひ出のいとぐちをほどいて行く時間の餘裕もあたへられてゐないので、私の記述は甚だ不充分なものとなるであらう。
芥川は會話においても「僕」といふ一人稱の代名詞を用ひてゐた。文章においてもさうであつたと思ふ。彼と私との間においても、會話にも音信にも彼は「僕」といふ代名詞を用ひた。私もやはりさうであつた。但、芥川が家庭の幼時から家庭では「私」といふ代名詞を用ひてゐた。かつて芥川が私の鄕里の家に來て泊つてゐたとき、『なるほど、君はうちでは「私」といふ語をつかつてるね。やさしい語だね』と妙に感心して云つたことがあつた。
私にとつては「僕」といふ語は社交用、特に對友人用の代名詞であつた。をかしな事には、自分自身の家庭をつくつてからは、妻に向つても「僕」といふ代名詞を用ひるのであつた。しかも文章において自己を表はす爲には私は「私」といふ語を用ひ來つてゐる。芥川と私とは、複數の一人稱としては「僕たち」といふ代名詞を用ひてゐた。そこで、私が文章の上に芥川と私とを一人稱の複數において表はす場合には、一つのディレンマに會する。しかし私は以下において「私たち」といふ代名詞を用ひることにしたい。――言語の感覺の極めて鋭敏であつた芥川の事について追想するとき、つい斯やうな餘計な事柄も書き添へたい氣持になるのである。[やぶちゃん注:「ディレンマ」の「ィ」はママ。]
去る七月二十七日、芥川の遺骸が谷中の齋場から日暮里の火葬場に運ばれ、燒竃の中に移され、一同の燒香が了つたのち、ふと見ると、鐵扉のかたへにかけてある札の上の文字が「芥川龍之助」となつてゐた。その刹那に、若しも芥川がそれを見たら、『しやうが無いな』と苦笑するだらうと思つた。すると世話役の谷口氏が『どなたか硯をもつて來て下さい、佛が氣にしますから字を改めます』といふやうなことを言つた。「芥川龍之介」と改めて書かれた。何だか私も安心したやうな氣がした。生前、芥川は「龍之助」と書かれたり、印刷されたりして居るのを見ると、參つたやうな、腹立たしいやうな、淺ましいやうな感じをもつたものだつた。それは、彼が「龍之介」といふ自分の名を甚だ愛し且つそれについて一種の誇りをもつて居たからでもあつた。第三者の眼から見ても、「龍之介」は「龍之助」よりもよほど感じがいゝし、さうエステチッシュでもある、しかし我の强い彼は特別强くこの點を意識してゐたに違ひない。それは子供らしい誇りであつた。しかしそんな所にわが芥川の愛すべき性格のあらはれがあつた。彼の作品を愛讀してゐるとか、彼を敬慕してゐるとか云つたやうな事を書いて寄こす人が、
四
芥川も私も一年のうちの季節の移りかはりを强く意識し、それからの影響を氣分の上にかなり深く受けるたちであつた。けれども、其點について共通な所もあれば、さうでない所もあつた。たとへば、秋は私たち二人の心を同じ仕方で促へた。ところが、夏については、芥川は梅雨の候を愛すること深く、濕潤の空氣にひたつて
IN HIS ELEMENT に在るかの如く思はれたが、私はそれに先立つ新綠の季節を好もしとした。彼は盛夏のころの强烈な日光に對し一種の本能的な
小供の頃から中學時代までを通じて私たちの生活環境を形づくつたところの家庭や、社會的周圍や、鄕土やは、かなり趣を異にするものであつた。たゞ一つの例をあげると、芥川から二三度聞かせられた話にこんなのがある――『四つか五つの時だつた。母に連れられて歌舞伎へ行つたんだ。その時、團十郞が勸進帳をやつたんださうだが、團十郞があの大きい隈を剝いて花道から出て來たとき、僕が「うまいつ」と叫んださうだ。見物がみな息をこらしてゐる時なんだらう。母はどうしようと當惑したんださうだ。今でもよく其事を云つて母がわらふよ。』團十郞の噂をしか聞いたことのない私は、この話など、何だかひどくまばゆいやうな氣もちで聽いたものであつた。[やぶちゃん注:芥川龍之介の「文學好きの家庭から」(大正七(一九一八)年一月発行の『文章倶樂部』に「自傳の第一頁(どんな家庭から文士が生まれたか)」の大見出しで表記の題で掲載されたもの。リンク先は私の電子化注)に、『芝居や小說は随分小さい時から見ました。先の團十郞、菊五郞、秀調なぞも覺えてゐます。私が始めて芝居を見たのは、團十郞が齋藤内藏之助をやつた時ださうですが、これはよく覺えてゐません。何でもこの時は内藏之助が馬を曳いて花道へかゝると、棧敷の後で母におぶさつてゐた私が、嬉しがつて、大きな聲で「ああうまえん」と云つたさうです。二つか三つ位の時でせう』とある。]
それで、高等學校で二人がお互ひを深く知りはじめたとき、二人はずゐ分と内容の違つた世界を所有しつゝ接觸して行つたのであつた。やがて、共通の世界が二人の間に生まれた。それは次第に廣くも深くもなつて行つたが、その以前から各自の所有してゐた世界の特性は、この新しく二人の間に展開し始めた世界の内容に對して影響を及ぼすことを止めなかつた。勿論依然として東京に住むことをつゞけた彼と、新たに東京に住む境遇にたつた私とでは、右の關係において著しく事情を異にするものがあつた。とは云へ、一高における生活、とりわけ二年生である間彼の送つた寄宿寮の生活は、芥川にとつて全く新しい經驗であつた。一高及びその寄宿寮の生活は私にとつても亦新しい經驗であつた。斯うした種々の事情の錯綜のうちに、私たちの共通の世界はつくられた。
私は一年生の時から寮にはひつてゐたが、芥川は二年生になつて初めて寮にはひつた。私たちはたしか北寮三番の室に起臥した。初め寮の生活は彼にとつて隨分無氣味な、そして親しみにくいものであつたに相違ない。次第に彼は其れに馴れては行つたものの、六分どころしか其れに應化しなかつた。私も寮の生活には十分應化せずして終つた方だが、それでも芥川に比べればさうした生活に適應する能力をより多くもつてゐた。例へば、彼は初めは中々寮で入浴することを肯んじなかつた。やつと入浴するやうになつても、稀れにしか入浴しなかつた。しかし忘れて手拭をもたずに風呂にはひつたやうな逸話をのこした。錢湯にもあまり行つたことはないと云つてゐた。寮の食事は風呂のやうに忌避するわけにはゆかぬので每日
五
當時、芥川の意識の中に二個の東京が存在してゐた。鄕土としての東京と、一高の所在地としての東京とがそれである。芥川にとつて、向が陵は鄕土としての東京の範圍外に在つた。土曜日の午後、新宿の家に向つて寮を去り行く彼の樣子は、さながら東京に遊學せる地方の靑年が鄕里をさして歸省の途に就く姿に似たものがあつた。だから、薄暮、寮の窓に灯がつきそめ、白い霧が草地に這ふのをながめながら、私が多少のノスタルジアにかゝると芥川も
尤も、眞實のところは、私たちのノスタルジアの對象は、超現實的な或る世界であつたかも知れない。さう云ふ意味においては、白晝、校庭の樹木のかげなどで、私たちは屢々私たちのノスタルジアについて語り合つた。
そんなとき、校庭の木立のもとの空間は、芥川の鄕土としての東京の一部分でもなければ、第一高等學校の構内の一部分でもなく、私たちだけの領する第三の世界に屬するのであつた。
後年、私たちは田端の家の二階の書齋において時に斯る第三の世界を復活せしめたことがあつた。
六
かの鄕愁に似て、しかも本質を異にするものに、私たちのエキゾチシズムがあつた。
玆にも、たゞ二つの例をあげると、工科大學の古城のやうな煉瓦造りの前の細かな石砂利を蹈んで、ディッキンソンの銅像の下にいたり、滑かに光る花崗石の臺石の上に踞(こしか)けつつ、沈丁花のほのかな
だが、夏休みの近づく頃の或る夕がた、同じ銅像の下で、來らむとする夏のことを話し合つたとき、彼の語つたことを忘れ得ない。
『君、どこかへ行く?』と私はたづねた。
『東北の方へ旅行して見たいと思ふけれど、夏は暑くてね。僕は暑さには辟易する。それに少しでも
『なぜ?』と重ねて問ふと、『なぜつて、僕は少しでも父や母と一緖に居たいんだ。父や母も
後年、彼の作品の中に、芥川はいともうつくしく廣大なる彼自身のエキゾチシズムの世界をつくり上げた。私はそれを嘆賞する。
おなじやうに、芥川がその創作力によつて展開を企てたものに、妖怪の世界がある。妖怪に關する古今東西の文獻を夙くからあさつた彼は、屢々私に彼の薀蓄の一端をもらした。諸國の河童の話などは每々きかされたでしかし私は妖怪にはあまり趣味をもたなかつた。私の趣味は神話的存在者の彼方に及ばなかつた。[やぶちゃん注:「夙く」「はやく」。]
私たちの讀み、そしてそれについて語り合つた文學的作品などのことは、煩しいから記述しない。
七
東京について私が芥川を通じて知り得た事柄は少くない。但、古今の東京について知る事極めて豐富なる彼が、江戶趣味を私に向つて鼓吹するやうなことを努めて避けてゐたやうに思はれるのは、かへりみてまことに心床しい。
その點において、彼は
彼はむしろ當時流行してゐた淺薄な江戶趣味をあざ笑つてゐた。ゐなか者の私をゐなか者視するやうなこともかつてなかつた。但、ある日、大川端まで散步したとき、或る川べりで、『あのあたりが「こまがた」だらう』とゆびさしたら、『君「こまがた」ぢやない。「こまかた」といふんだよ』と敎へられた。そばでをんなの人が聞いてゐた。その時は、自分の地方人たることを切實に意識した。でも、ある日、古本屋から、寺澤靜軒著「江戶繁昌記」を買つて來てよんでゐたところ、芥川がまだそれを讀んでゐまいと知つて、いさゝか得意になつたやうなこともあつた。[やぶちゃん注:『寺澤靜軒著「江戶繁昌記」』江戸末期の漢学者で儒者であった寺門静軒(てらかどせいけん 寛政八(一七九六)年~慶応四(一八六八)年)の著わした江戸地誌。正編五冊・後編三冊で天保二(一八三一)年刊。爛熟期の江戸市中の繁盛の光景を「相撲」・「吉原」・「両国花火」など数十項に分けて、俗体の漢文で記述したもので、幕末期に流行した繁昌記ものの濫觴。今でこそ風俗史料として貴重であるが、天保十二年、内容の政道への風刺から「天保の改革」忌諱に触れ、風俗壊乱の指弾を受けて発禁となった。その結果、武家奉公御構(おかまい)(勤仕禁止)となって、以後、諸国を流浪した。]
私たちは好んで上野の不忍の池のほとりを散步した。蓮は彼のこのむ植物の一つであつた。私もまた幼時から蓮がすきであつた。しかし敗荷のおもむきを解することにおいて、彼は私よりはるかに先んじてゐた。
時に郊外に足をのばしたこともあつた。野外で辨當をたべるやうなことは嫌ひな彼であつたけれど、くぬぎ林のかげなどで一緖に握飯の包をひらいたことも無いわけではなかつた。むさし野の林をわたるしぐれの音は、彼のこゝろから愛した所であつた。
一般的には、彼は自然の美の觀照において極めてするどい感覺をもつてゐたけれど、自然に對する彼の態度は、觀照者のたゞずむ界線の此方に執念深く留まつてゐた。それを蹈みこえて、謂はば自然のふところに抱かれることを少年の頃からねがうてゐた私にとつては、さうした彼の性向は、意地惡くも、はがゆくも感じられた。
かうした方角には、私たちに共通でないところの離ればなれの世界がひろがつてゐた。
八
一緖に芝居を見に行つたこともあつた。幕合には大分議論をした。繪の展覽會にも折々一緖に行つた。上野の音樂學校の土曜演奏會にもかなり缺かさずに出かけた。音樂の鑑賞力においては、彼は大して私を凌駕してゐなかつた。
彼のすきな、一高の寮歌が二つ三つあつた。彼はよく昂然としてそれを歌つた。
こゝろもち猫背の氣味に、そしていさゝかへんな兩手の振り方をして步む癖はあつたけれど、兵式體操は私なんかより餘程うまかつた。それに、大して聲はおほきくないけれど、小隊長になつたりなんかすると、敵愾心のこもつたやうな雄壯な聲を吐き出して、例の昂然たる態度で號令をかけた。
軍國主義はきらひだけれど、軍事趣味は解する所があつたらしい。後年彼の職を奉じた海軍機關學校と彼との配合は、出たらめのやうで、必ずしも出たらめではない。軍艦の中の生活のことなどを書いた彼の作品には、幾分軍事趣味が慘み出てゐるやうに思ふ。ことに軍人の生活ではなく、軍艦それ自身を描寫した文句などには、軍艦それ自身が生きてゐると同時に、軍艦といふ存在物に對する一種の愛着心の如きものが漂つてゐる――甲蟲などをみて私たちの意識する愛着心のやうなものが。
尤も、すべて勝負事はきらひであつた。『圍碁の趣味がわからなくては、漢詩、ことに五言絕句の味はひはわからないだらう』といふやうなことを私がいふと、『なあに、眞の藝術家は勝負事はきらひなんだよ』と、幾人もその實例をあげて、彼の主張の證明を試みた。何遍もその主張は聞かされた。だが、賭け事のあそびには興味をもち得たやうである。
勝負事のきらひだつた彼の心理を解剖してみると、負かすこともあまり愉快ではないし、負けることは尙更愉快ではないといふ心持が、すぐ顏をのぞけるからであつたらう。
九
彼は數學はすきだつたし、數學的能力ももつてゐたらしい。
高等學校時代から彼は長い路筋をたどつて議論をすゝめることは嫌ひであつた。
感じや氣分の上では、矛盾が大きらひであつたが、論理の上の矛盾は之を犯して平氣であつた。
抽象的な槪念で言ひあらはすと、芥川は理智の人でなく、叡智の人であつた。
十
彼は精神的に著しく早熟だつた。
後年彼の諸々の作品に盛られた内容の根抵を成す人生觀的思想は、高等學校時代の後半期及び大學時代の初期にすでに確立されてゐたことを想ふ。
その後に成長し、圓熟して行つたものは、大體から見て、彼の表現の力なり手腕なりではあるまいか。
唯――これは單に作品を通じてのみ判斷するのであるが――死を距ることあまり遠からぬ時期から、彼の人生觀の一面としての宗敎的思想を深く掘り下げたやうに思ふ。もとより、以前からさうであつた如く、彼の藝術觀によつてぴたりと裏打された宗敎的思想ではあつたけれど。[やぶちゃん注:「距る」「へだてる」と訓じているものと思われる。]
十一
私は中學校の四五年生の頃から胃腸を害し、卒業後三四年間、無爲にくらしてゐたことがあつた。一度は將に死にさうであつた。
幸ひにして健康を囘復した。爾來、私は健康を維持することにはかなり努力した。この點について、芥川は著しく私の影響をうけた。尤も、私は常に熱心に芥川におなじやうな努力をすゝめた。これは彼にとつて少からず迷惑であつたに相違ない。しかし私の苦言の合理性は彼も十分みとめてゐた。そして相當私の言を用ひて、彼の日常の生活に採用してくれた。高等學校時代の後半から卒業ごろにかけて、彼の健康狀態はかなり良好であつた。私の執拗な干渉がその事に對して多少寄與する所があつたと信じても、據り所のない推斷とは云へぬであらう。
後年、創作に專心するに至つて、芥川は身體の虐待を次第に甚しくした。その頃には、相會する機會はすくなかつたけれど、相見る每に、私は苦言をあたへた。何とか彼とか彼は辨解をしたが、反抗はしなかつた。
身體の力の旺盛なために、肉體と精神との釣り合のとれてゐない人が澤山あるが、彼の場合には、精神の力が旺盛に過ぎて、肉休と精神との釣り合が危げに保たれてゐた。高等學校時代において既にその兆があらはれてゐた。後年、この現象は顯著となり、芥川は常にどれだけそれを氣にかけ、それに惱んだか知れない。
彼の精神のはたらくところ、凡そ愚鈍と名狀す可きものの現はれを見出し難かつた。彼の肉體は彼の精神を荷ふにふさはしき品位にみちてゐたが、彼の精神のはたらきを支へるに足る力にあまりに缺けてゐたとも考へられるであらう。
だが、彼みづから動物的なる力と呼んだ所のものの中に、彼のすぐれたる聰明の支配を拒むものがあつた。これらの二者の葛藤に乘じて、彼の精神の一隅に巢くふ或る病的なるものが勢ひを逞しくしたやうに感じられる。但、これは後年に至つての出來事である。
十二
はじめに、高等學校時代の芥川についての追憶を書きたいと記したが、その範圍を逸することをゆるされたい。[やぶちゃん注:以下に続く短章風の行空けはママ。]
芥川はモラリストを憎みつゝも、彼自身あまりにモラリストであり過ぎた。
彼はメフィストフェレスを愛しつゝも、あまりに烈しいメフィストフェレスをばにくんだ。[やぶちゃん注:「メフィストフェレス」「ィ」「ェ」はママ。]
藝術の道に精進せむとする彼の氣魄は、りんりんと鳴りを立てるかの如く思はれた。
彼のあゆんで行く方向に、或る處では、人生の道と藝術の道と相合し、或る處では、二つの道が離ればなれに見える。
彼の場合に、彼は躊躇なく藝術の道をえらぶが如くして、必ずしもさうでない。
彼は孤獨を愛しながら、孤獨に堪へることが出來なかつた。(都會人であり過ぎたせゐかも知れない)
彼はかなり多量のセンチメンタリズムをもつてゐた。自分でもはつきりそれを意識してゐた。そして其れを露はにすることを怕れた。
それは精錬を經たセンチメンタリズムであつた。このセンチメンタリズムの湧き出る泉源は、一塊の岩石をへだてて、彼の固有する詩的精神の泉源と相對した。
詩は彼の孤獨のくるしみを和げた。しかしながら、何人か詩に永住することが
彼が天使を呼べば、天使は嬉々として來つて彼の手を取らむとするであらう。だが、彼はひらりと身をかはすであらう。
彼が惡魔を呼べば、惡魔は欣々として來つて彼の手を取らむとするであらう。しかし、彼はひらりと身をかはすであらう。
さりながら、つひに彼は氣根
芥川のこゝろに宿る惡魔は、良心の瞳を片時も放さず
芥川において生活と藝術とは、ひじやうに高い程度に合致してゐた。但、その意味は、彼の殘した藝術と彼の生きた生活とが寸分の隙なく合はさつて居るといふのではない。彼の生きた生活が彼の殘した藝術よりも一層藝術的であつたといふにある。
芥川の思想のあるものに、その作品を通じて接するとき、私は往々にして不滿を感じた。しかし、同一の思想を芥川自身が口づから語るとき、私は何らの不滿を感じなかつた。恐らく、芥川の精神から離れて客觀化されたが故に、その思想に對して不滿を感じたのかも知れない。但、往々にして彼の弄することを好んだ江戶つ子的詭辨にまどはされたわけでは斷じてない。
全體として見れば、芥川は强靭な意力をもつてゐた。けれども、その意力のはたらく方向に
彼の精神のはたらきの鋭さは、多くの場合に、彼のうちに潛む處女のごとくやさしい心づかひと、はげしい情熱とを、他人の眼から全然隱し去つた。
いつ見ても彼の眼は澄み切つてゐた、が、彼の感情は常にあたゝかく搖いでゐた。
彼の表現があまりに隙の無いやうにと工夫を凝らされてゐる爲に、彼の作品がつめたい感じを惹き起すことがある。日常の行動には澤山の隙があつた。かれはそれを意としなかつた。だから彼から直接につめたい感じを受けたことはない。
屢々彼はさかんに人を罵倒した.
彼は時には(子供らしく)虛勢を張つた。
しかし
自然にむかつて彼は甚しく謙虛であつた。が、心の底に三分の敵意を藏して自然に對することが稀れでなかつた。
彼は妖怪を愛した。しかし妖怪の存在を信じては居なかつた。
彼のミラクルをよろこぶ心は、彼の峻嚴なるリアリズムといたましく矛盾した。
彼は若い女のゐる前で昂奮した。しかし男のゐる前でも昂奮した。たゞ親しい友人の前でのみ平靜であつた。
誰だつてさうなんだらう。
たゞ彼の聽明さに比べて少し不釣合だと思はれただけだ。
彼にも初戀があつた。その委曲は記すまい。そのとき彼は一生懸命であつた。
十三
爭鬪があればこそ、勝利はあり得る。爭鬪を經ない勝利は無い。これは自明の理である。善と惡とは永久に爭鬪の運命を負はされてゐる。惡の征服において善が成り立ち、善に對する反抗において惡が成り立つ。
惡がなければ善もない。これが此世の掟である。惡の征服の後に來る平和はうつくしい。けれども現實の世界は、爭鬪なくして平和に至る途を保證せぬ。
この爭鬪は最も多樣な形態において行はれる。が、芥川はこの爭鬪をいとはしとした。だから、彼の眼には、善も亦暗い陰影を帶びて映り過ぎた。『しかも惡も、惡との爭鬪も、共に人生の必要に屬する。しからば、すでに惡との爭鬪を善と名づけるとき、何故に惡その者をも善とよびえないか。否、一方において惡を惡とよぶ者が、何故に善をも惡とよばないか。』彼は斯る論理に飽くまでも執着した。どこ迄も、何處までも、それにこだはつた。
善惡の相關的制約性は美醜の相關的制約性とその論理的構造を一にする。たゞ美醜の差別は官能を通じて我等の意識にあたへられるのを特色とする。芥川の如く鋭敏なる美的感覺をもつ人にとつて、美醜の鑑別はあまりにも明確なりと思惟されたであらう。
その思想的生涯を一貫して彼の抱いたところの「道德に對する懷疑心」は、彼の感情と感覺とにかたく根ざすものであつた。しかも道德的本能は彼において人一倍力强かつた。
この矛盾は、後半生を通じて、彼をいら立たせた。
十四
この稿を書き始めたとき書かうとも思はなかつた事を、勢ひに任せて書いた。あまり長くなつたから大抵にして稿を了したいと思ふ。
大正二年に私たちは一高を卒業した。六月の試驗のすんだあと、芥川、藤岡、長崎、私と四人の同級の者が、赤城、榛名の山々へ旅した。
私たちは先づ赤城山を目ざした。
足尾鐵道の一小驛
大黑檜と地藏が嶽との間の外輪山の凹みにたどりついたときは、もう日暮れに近かつた。黃ばなの梅鉢草やゆきわり草の花のうへに坐して暫く憩うた。うしろを振り向くと、今まで登つて來た方角の上州の平野の眺めが遠かな思ひをさそひ、ゆくての谷を見おろすと、みどりの牧場に數知れぬ牛や馬があそんで居た。牧場の盡きるところには湖の水が白く光つてゐた。草鞋の足かろく四人は夕餉のけむりの一すぢ立つ方へと降つて行つた。
枝振りのやさしい山梨の木が一杯に梢を張り、純白な花をこぼれるやうに咲かしてゐた。
あるいて行くうちにも、『ほんたうに佳いだらう。うつくしいだらう。だから僕は赤城が一等好きだつて云ふんだ。ねえ、何處よりもいゝだらう』と、芥川は大へん得意だつた。ウイリアム・ブレークの版畫などをみせて吳れたときのやうに得意だつた。前の年の春休みのころ、まだ湖畔は雪にうもれて居る折りに彼は來たことがあるのだつた。
大沼の岸に近い宿に泊つた。あくる朝、四時まへに目をさまし、三人を起して登山の途に就いた。私たちは大黑檜の峯にかゝつた。
林をはなれて草山の背にたどりつくと、風はさかさまに下から吹き上げ、見る見る雲霧が谷間をとざし、林を包み、ゆくての山をかくしてしまつた。
櫻草や蟲取すみれや、そのほか數々のうつくしい花になぐさめられつゝ雲の中を登りにのぼつて、絕嶺についた。眺望はなかつた。
寒いので、ながく留まることも出來ず、山の花をつみつみ下山した。宿の若者の剪つて吳れた白樺の杖をつきながら四人は湖水の岸づたひにあゆんで前橋に向つた。七里のみちを前橋に降り、電車で伊香保の温泉に行つて泊つた。あくる日は榛名の山にのぼつた。そのまた翌る日は二組にわかれ、芥川と藤岡とは歸京し、私は長崎と妙義山から輕井澤の方へまはつた。
それから三四年後のこと、赤城の頂の山霧の中に
十五
『我は唯茫々とした人生の中に佇んでゐる。我々に平和を與へるものは眠りの外にある訣はない。あらゆる自然主義者は外科醫のやうに殘酷にこの事實を解剖してゐる。しかし
「改造」所載、「西方の人」の第三十五、「復活」の末尾に、芥川はこんな文句を書いてゐる。
今や彼は、その文句の中にしるされた眞理を目のあたり見て居るであらう乎。
書いてこゝに到つて、私は淚の落ちるのを止めえない。
(昭和二年八月七日)