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土岐仲男詩集「人」 附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:私の父のたっての願いで、酒詰仲男遺稿として一周忌記念として七百部限定で出版され、酒詰静枝未亡人から父に謹呈された「土岐仲男詩集 人」の全テクスト化を行った。父には著作権に抵触することを何度も述べたが、鼻でせせら笑って大丈夫の一言、是非に及ばずである。父と酒詰仲男先生の関係については、私のHPトップの「父のアトリエ」にある『落葉籠――昭和二十二(一九四七)年群馬県多野郡神流川流域縄文遺跡調査行ドキュメント――日本考古学の「種蒔く人」酒詰仲男先生の思い出に 藪野豊昭』(ワード・データ)を是非、参照されたい。父の話で印象的なのは、日本で初めて縄文時代の犬の埋葬墓を発見、狩猟用に縄文人が犬を飼育し、それを丁重に埋葬した事実を発表されたこと、戦争中、左翼思想を疑われ、特別高等警察から尋問を受け、先生の毅然とした態度が気に入らなかったからであろうか、殴られて歯が折れたというエピソードである。
 ただ、同詩集の「序」の最後で、若き日に藤村や晩翠の詩を愛好した元同志社大学総長住谷悦治氏は、酒詰先生が密かに詩を創作していたことを知って正直、驚き、その「無題」とか「S――」といった詩を読んで、『ひとり涙しました。あなたとひそかに相通う心の時代があったのですね。この詩集はきっと多くの親しい人びとが胸に抱いて大切にするに違いありません。いつまでも、いつまでも。』と記されている。ネット検索で「土岐仲男」で検索をかけても、五件しかヒットせず、その内、意味あるページは四件、内一件は上記の父のファイルである。限定版詩集さえ、市場に出回っていない。土岐仲男の詩はもっと多くの人に読まれるべきである。何より、まさにこの詩集の巻頭詩「花月風流(ふりゅう)の道(序にかえて)」が、如何にもこういう私を励ましてくれる。結果、私自身、そうした確信犯でもって自律的にテクスト化に入ることとした。但し、著作権侵害を酒詰先生のみに留めるために、住谷悦治氏の「序」と堀田由之助氏の「あとがき」及び要樹平氏の秀抜な装丁画などは一切省略した。以下の目次はページを省略、一部に私の注を附した。冒頭に私のオリジナルな年譜を附した。【二〇一一年九月十一日】]

土岐仲男(酒詰仲男)略年譜

土岐仲男(明治三十五(一九〇二)年~昭和四十(一九六五)年)
本名 酒詰仲男 東京生(ペン・ネームは氏が小さな頃育てられた母方の実家の姓に基づく)
日本考古学協会員・日本人類学会評議員・文化史学会理事・日本博物館協会評議員・日本貝類学会評議員・奈良県橿原考古学研究所所員・大阪府文化財専門委員・京都外国語大学講師・詩誌「世界詩人」極東詩委員(一九二五年八月刊行の創刊号による)。研究会詩『貝塚』発行人。著作「貝塚の話」「日本縄文石器時代食料総説」「日本貝塚地名表」「貝塚に学ぶ」(共著)「考古学辞典」(共著)論集「酒詰仲男集」等。

明治三十五(一九〇二)年五月二十九日
東京雑司ヶ谷生。
昭和 二(一九二七)年
同志社大学文学部英文科卒。卒業論文はJ.M.シング「海に騎り行く者たち」。東京開成中学校英語教諭となる。
昭和 九(一九三四)年
大山史前学研究所研究員。大山史前学研究所は陸軍少佐で文学博士であった大山かしわが渋谷の自邸内に置いた、私設の考古学研究施設。遺跡調査研究・雑誌刊行・出土品展示を目的とし、考古学関連蔵書一万冊を公開するなど、戦後日本考古学の基礎となった機関である。
昭和十四(一九三九)年
東京帝国大学理学部人類学教室嘱託。
昭和二十二(一九四七)年
東京帝国大学理学部助手。
昭和二十八(一九五五)年
同志社大学文学部専任講師。
昭和二十九(一九五六)年
同志社大学文学部教授(以降、逝去まで現職)。
昭和三十五(一九六〇)年
論文「日本縄文石器時代食料総説」(画期的な手書きの労作である「日本貝塚地名表」附す)により文学博士。
昭和三十九(一九六四)年十一月
同志社大学北ボルネオ学術調査隊隊長に就任(調査は翌年七月に行われた)。
昭和四十(一九六五)年五月三十一日
ボルネオ学術調査のための準備研究を行っていた京都市紫野大徳寺高桐院の書斎にて喘息性心臓麻痺のために逝去。六十三歳。



   詩集 人 土岐仲男

  
目次

  花月風流ふりゅうの道(序にかえて)
  みどりの祭典
  老子
  雑草あらくさ
  平常着
  蓮の華
  秋草
  岩
  スキャンベンジャーズの群
  達磨
  無題
  銚子屏風ヶ浦
  ゾウ(象)
  S――
  慧可断臂
  伝説
  無花果いちじくのジャム
  天理教
  ×
  君ほほえまば
  「寺」
  ホトトギス
  孤影
  五条坂
  キリスト

   序  文   住谷 悦治
   あとがき   堀田由之助
   装  画   要  樹平



   
序に代えて
花月風流ふりゅうの道


キリストは大工の子で
ヒューマニティーで人類を救った
釈迦は王子であり
王にもなり
哲学することで人類に教えた
ところで花月風流の道に従えば
人はキリストにも釈迦にもなり
花と月とを友にして
道楽三昧に耽けることができる
花月風流の道は庶民のものだ
だがそれが庶民の間に絶えてから
既に久しい
真実のうた
いつの世にもあると言うわけのものではない
真実のうたを作る人も
いつの世にもいると言うわけのものでもない
私の詩がそれだとも
私こそが真実の詩人だとも言わない
それは歴史が裁いて呉れるだろう
私は
私の生命のが消えるまで
鉛筆をなめては
襲い来る激情の浪を
紙面にぶっつけるだけで
それでよいのだ

[やぶちゃん注:「風流」は古くは「ふりゅう」と読んでいた。「花月風流」の「花月」自体、風流な対象としての花と月以外に、「風流な遊び」という意を持つから、「花月風流」で「風流」ととってよい。]



みどりの祭典

ワッショイ ワッショイ
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
みどりだ みどりだ
左も右も 上も下も
ワッショイ ワッショイ
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
昔のみどり 今のみどり
去年のみどり 今年のみどり
ワッショイ
大きなみどり こまかいみどり
つらなるみどり
ぶらさがるみどり
ワッショイ
ひれふすみどり ひろがるみどり
明るいみどり 暗いみどり
みどり みどり みどり
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
動くみどり 佇むみどり
のびるみどり ちじむみどり
高い高いみどり
高くて 暗くて こまかいみどり
低くて 明るく 大きいみどり
ワッショイ ワッショイ
こぼれるみどり ただようみどり
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
笑うみどり 怒るみどり
酔っぱらうみどり
吸われるみどり
みどりの本尊
みどりの脇立
ワッショイ ワッショイ
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
みどりをあげろ みどりをおろせ
みどりをまわせ みどりをゆすれ
みどりをおがめ みどりになあれ
ワッショイ ワッショイ
ワッサイ ワッサイ ワッサイ
そこのけ そこのけ
みどりのお通り
ワッショイ ワッショイ
ワッサイ ワッサイ ワッサイ


[やぶちゃん注:「脇立」は「わきだて」と読み、兜の立物(たてもの:威風を与える飾り。)の一つで、兜の鉢の左右に立てて装飾とするものを言うのだが、ここは前行の「本尊」に対するものと考え、本尊の左右に控える脇侍仏のことを指している。]



老子

老子はそこにいた
老子はそこにない
青い煙が漂い
その中から金鉱が燦と輝く
カラカラと大笑して
老子は出て来た
そこには人類の玩具
スプートニックが飛んでいた
「今いるのはどこだと思う」
老子は私に問うた
「わかりません」
と私は素直に答えた
「木星の上さ」
老子は答えた
続いて劇しい目まいがして
やっと私は立直った
「今いるのはどこだと思う」
老子は私に問うた
「わかりません」
と私は素直に答えた
「N宇宙のN星の上だよ」
老子は答えた
「生命について述べて下さい」
私は耐まり兼ねて訊ねた
「私はお前の中に生きている」
老子は即座に答えた
そこで老子である私は叫んだ
「絶対に住み
 絶対を着
 絶対を食う時に
 虚無――
 なくてある世界
 人類はそこに行き着くのだ」

[やぶちゃん注:スプートニク一号は一九五七年十月四日に打ち上げられ、以降、人類初の人工衛星計画として動植物の生存帰還を果たしたスプートニク五号(一九六〇年八月十九日発射、翌日軟着陸回収)まで続いた。Спутник( Sputnik ・スプートニク)というロシア語の原義は「旅の道連れ・付随するもの」の謂いである。]



雑草あらくさ

今年の春も
また雑草を引いている
去年も抜き
一昨年おととしも抜き
抜き抜きて絶えざるもの
なんじ雑草よ!
雑草は強きかな
雑草は逞しきかな
雑草は数多く
雑草は偉くなく
然し抜いても刈っても
雑草はまた出て来る
土の精を吸いとって
それはすくすくと成長する
いそがずに確実に無遠慮に
雑草は生き生きて絶えない
雑草と戦うことは
所詮人類の宿命なのだ
遠古以来
人類は雑草と戦い続けて来た
人類が雑草をやっつけ
雑草が人類をやっつけ
そこには永遠の死闘があった

雑草と戦う人だけが
雑草の強さを知っている
刈りとって火に投げ込む雑草が
声高く哄笑するその声を聞け

雑草には知恵もなく
雑草には思想もなく
雑草には意地もなく
雑草には名誉もなく
滅び滅びては又生きて来る

雑草は悪魔である
雑草は神である
ああそれは厳粛なる存続
雑草よ!



平常着

平常着はいいなあ
誰にも見せるものではない
それだのに美しく
それだのにしっくりと身体に合っていて
いつも真心をこめて
この私を守ってくれる
朝から晩まで
遠慮なく忘れることができて
私がお前を裏切っても
お前は決して私を欺かない
どんな姿勢をしても
どんな汚ない仕事をしても
お前はじっと私についている

平常着はいいなあ



蓮の華

蓮の華は咲いている
一つ一つ花弁はくねり
一つ一つの色の濃淡
どこかに蔭をつくり
どこかで光をはじく
一ひらではなく
二ひらではなく
まこと万朶のはなびらが
立つもあり
坐するもあり
跳るもなりわだかまるもあり
おのがじし思い思いに
左し右しおどけつつ考えつつ
しかも相集って何かを抱く
汚れた水の上
澄んだ水の上
流れ流れる水の上
何か尊いものが真中にあって
また尊いものが普ねく亘っていて
それが美しい香と棚引き
何の微粒子かわからぬものもあって
それでいて全部が整然と乱れ
開き揃っていると言えば揃い
たしかに咲いている
昨日までは無かった事
明日はまた内であろう事
それ故に愉しく
それ故に悲しく
それ故に憂いなく
しかも億万劫の生命を伝え
億万劫の悩みと解決を伝え
今の刹那は
それを確かに明らかに咲いている事
力一杯に咲いている事
その華は私であり
私は又その華でもある
その華は私の恋人のヨニーであり
その華は又赤ん坊の乳房である
釈迦自らが見
釈迦自らが成就した華
その華を私も見る
釈迦の華は釈迦の華であり
私の華は私の華である
宇宙全体が一華であり
事々無碍がそこにある
誰もその華を見ようとは言わない
その華は誰にも見えないところの咲いている
然しその華は誰にも見えている
眼を閉じても
眼を開いても
華は無く
華は有り
華は
華は
釈迦の愛した蓮華である


[やぶちゃん注:「ヨニー」は梵語の<yoni>で、女陰または子宮、女性生殖器。一般には外生殖器を指すことがことが多い。ヨニ。男根を意味する対語は<linga>リンガ。
「事々無碍」は「じじむげ」と読む。「事事無碍法界」のこと。「華厳経」に基づく華厳思想では四法界(事法界・理法界・理事無碍法界・事事無碍法界)という考え方がある。「法界」とは、我々の感知可能な現実と、その裏面にある実相を含めた世界全体を言う。無常の現象としての現実世界を「事」の世界として捉えて「事法界」、その「事法界」を働かせている原理の世界が「理法界」、その「事」と「理」が妨げ(「碍」)が全くなく、複雑に絡み合って渾然一体となり、共鳴し合っている状態が「理事無碍法界」、そこから「理」を取っ払って「事」だけとなっても、「理事無碍」と変ることなく渾然一体共鳴共振状態にある完全調和した世界を「事事無碍法界」と言う。
ここで仲男の言う「蓮華の華」は、また「古事記」や「日本書紀」に載せる、「ときじくの花」(垂仁天皇が常世国に使者を遣わして持ち帰らせた不老不死の霊薬「非時香菓ときじくのかぐのこのみ」「非時香木実」(時じくの香の木の実)」であり、芥川龍之介の「スマトラの勿忘草」でもあったに違いない。]



秋草


むさし野の空晴れて
つゆけき草の色どり
憇うこころのやすらかさ
みにくきものよ
わずらいよ
かさなり充ちるはとまれ
心のすみに咲き匂う
ここむさし野の秋草に
祈れ
平和のひとときの
いとささやけき一ふしの
しき生命いのち表徴シンボル

ああ麗わしき表徴は
ささやかなれど
滅びざり
人の心の野の果てに
咲き乱れつつしのびかに
まことにしあるものとして
心と共に生きて行く


むさし野の空晴れて
咲き出し花に憇うとき
心ゆたかに盈ちあふれ
幸福ほのかにあたたまる!

[やぶちゃん注:「ささやけき」は文法の誤りではない。これは「細やけし」ク活用連体形で、小さい、細かい、小さく纏まっている、こじんまりとしているの意。「しのびかに」も「しのび」(忍び)という目立たないようにすること、人目を避けてひそやかにすることという意の名詞に、状態を表す体言を形作る接尾語「か」が附き、それが形容動詞ナリ活用化、その連用形である。「まことにし」の「にし」は格助詞「に」に強意の副助詞「し」が附いた強調体で、既に「万葉集」にも用例が多く見られる。私はこの詩が特に好きだ。それはこの詩の私の心の映像に、私の大好きな国木田独歩の「武蔵野」を、そしてやっぱり大好きな手塚治虫の「鉄腕アトム」の「赤いネコの巻」を、そして私の拙い小説「こゝろ佚文」を見るからである。]





            ――石女夜生子――


岩に何回頭をぶつけるのだ
十回か
百回か
百万回か
その度毎に皮膚が破れて
血糊が霧と飛ぶ
眼球がとび出して潰れ
鼻がひしゃげ
舌もなくなる
それでもなお止めてはいけないのだ
まだまだ岩に頭をぶっける
遂に頭が岩になり
岩が頭になる
その時人は岩であり
岩は人である
人が岩に入いり
岩が人に入いる
世界が岩になり
宇宙が人となる
岩は軽く飛行し
人がその中にいる
天使が来てそのものを護り
天使がそのもののために楽を奏でる
いつかそれは釈迦と合体し
時間と空間をすりぬけて
絶対の虚空に定着する

[やぶちゃん注:題の添書の「石女夜生子」は、「正法眼蔵」「山水経」巻頭に現れる。以下に「松門寺の坐禪會」の「正法眼藏」を元に画像埋込漢字部分を代えたものを引用する。読みは適宜、私が歴史的仮名遣で補った(読みついては個人ブログ「翻訳家のノート」の「第二十九山水経ノート(1)」を参考にさせて頂いた)。

而今しきんの山水は、古佛の道現成だうげんじやうなり。ともに法位に住して、究盡くじんの功德を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計かつけなり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱とうとつなり。山の諸功德高廣なるをもて、乘雲の道德かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透するなり。

大陽山楷和尚示衆云(大陽山楷和尚、示衆じしゆに云く)、
「靑山常運歩、石女夜生兒。」(靑山 常に運歩し、石女 夜 兒を生む。)
山はそなはるべき功德の虧闕きけつすることなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり。さの運歩の功德、まさに審細に參學すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人間の行歩ぎやうふにおなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。
いま佛祖の道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。常運歩の示衆を究辨きうはんすべし。運歩のゆゑに常なり。靑山の運歩は其疾如風ごしつによふうよりもすみやかなれども、山中人さんちうにんは不覺不知なり、山中とは世界裏の花開けかいなり。山外人さんげにんは不覺不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覺不知、不見不聞、這箇道理なり。もし靑山の運歩を疑著ぎぢやするは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに靑山の運歩をもしるべきなり。
青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま山の運歩を疑著せんことうべからず。いく法界を量局として靑山を照鑑すべしとしらず。靑山の運歩、および自己の運歩、あきらかに撿點すべきなり。退歩歩退、ともに撿點あるべし。
未朕兆の正當時、および空王那畔より、進歩退歩に、運歩しばらくもやまざること、撿點すべし。運歩もし休することあらば、佛祖不出現なり。運歩もし窮極きゆうごくあらば、佛法不到今日ならん。進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向けかうせず、退歩のとき進歩を乖向せず。この功德を山流さんるとし、流山とす。
靑山も運歩を參究し、東山も水上行を參學するがゆゑに、この參學は山の參學なり。山の身心をあらためず、山の面目ながら廻途ういと參學しきたれり。
靑山は運歩不得ふてなり、東山水上行不得なると、山を誹謗することなかれ。低下ていげの見處のいやしきゆゑに、靑山運歩の句をあやしむなり。小聞のつたなきによりて、流山の語をおどろくなり。いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺ちんじやくせるのみなり。
しかあれば、所積しよしやくの功を擧せるを形名ぎやうみやうとし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。山の山兒を生ずる時節あり、山の佛祖となる道理によりて、佛祖かくのごとく出現せるなり。
たとひ草木土石どしやく牆壁の見成する眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。たとひ七寶莊嚴なりと見取せらるる時節現成すとも、實歸にあらず。たとひ諸佛行道の境界と見現成あるも、あながちの愛處にあらず。たとひ諸佛不思議の功と見現成の頂※ちんにんをうとも、如實これのみにあらず。各各の見成は各各の依正なり、これらを佛祖の道業とするにあらず、一隅の管見なり。[やぶちゃん字注:「※」=「寧」+「頁」。]
轉境轉心は大聖の所呵なり、説心説性は佛の所不肯しよふけんなり。見心見性は外道の活計なり、滯言滯句は解脱の道著にあらず。かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる靑山常運歩なり、東山水上行なり。審細に參究すべし。
石女夜生兒は石女の生兒するときを夜といふ。おほよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天をし、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。生兒の道理しるべし。生兒のときは親子並化するか。兒の親となるを生兒現成と參學するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證なりと參學すべし、究徹すべし。

「山水経」とは山水の景色が教える仏性の謂いである。私は「正法眼蔵」は「隨聞記」の方を少しかじったのみで、太刀打ち出来ないので、Toshi氏のブログ「Be quiet」の「正法眼蔵・心訳ノート 山水経」(1~4とあり、リンク先は1)から氏の現代語訳部分を引用させて頂く(但し、段落は原文に一致させてある)。但し、この方の訳は上記引用部の最後の三段落が未訳であるので、高杉光一氏の「正法眼蔵 山水経」の現代語訳を参考にさせて頂きながら(特に「石女、夜、兒を生む」以下の難解な段落では高木氏の訳が大いに役立った)、Toshi氏の訳に繋がるような訳を行った。両者の方に感謝する。
   《引用開始》
 今、ここにある山水は、仏の教えを現成したものである。いずれもそのものになり切っており、窮め尽くされた功徳をたたえている。それらは、分節未然の途方もない過去からの(時を超えた)存在であるがゆえに、今ここに、いのちあるものとして存在しているのである。分節未然の途方もない過去からの(時を超えた)自己であるがゆえに、今ここでの透脱(解脱)を果たしている。山の諸々の功徳は高く広いために、雲に乗り世にはたらく道は、必ず山から発せられるのである。風に乗って世にはたらく妙なる功徳は、確かに山によって解脱しているのである。

 大陽山の道楷和尚が、僧達に示して言った。
「青山は常に歩を進めており、石女は夜に子を産む」
と。
 山は備わるべき功徳が欠けているということがない。このために、常に山は山になりきっており、常に歩を進めている(功徳を生じている)。その(山の)功徳の働きを、子細に学び究めるべきである。山の(功徳の)働きは、人間の(功徳の)働きと同じなのであって、人間が歩を進める姿と同じに見えないからと言って、山の(功徳の)働きを疑ってはならない。
 ここで道楷和尚の説いていることは、すでに功徳の働きを示しており、これは仏の教えの根本である。「常運歩」の示しているところを、学び究めなさい。(山の)功徳の働きによって、安住している。青山の(功徳の)働きは、疾風よりも速いが、山の(功徳の)中に居る人は、そのことに気づかない。山中には、世界の全体が現成している。山の外にいる人は、そのことに無頓着である。山(の働き)を見ることのできない人は、こうした道理を知ることもなく、見ることも、聞くこともない。もし山の(功徳の)働きを疑うというならば、自らの(功徳)の働きをも知らないのである。自己の(功徳の)働きがないのではなく、まだ知らないのである。明らかにできていないのである。自己の(功徳の)働きを知るように、青山の(功徳の)働きをも知らなければならない。
 青山はもはや生物でも無生物でもない。自己もまた生物でも無生物でもない。いま、青山の(功徳の)働きを疑うことはできないのである。幾星霜を尽くして、青山の働きを明らかに究めるべきであることを人は知らない。青山および自己の(功徳の)働きを、明らかに調べなければならない。前に進むだけでなく、後ろに歩む働きについても、調べなければならない。
 分別未然のまさにその時より、進歩退歩ともに、(功徳の)働きがひとときも病むことがないのを、よく調べなければならない。(功徳の)働きがもし止むことがあったならば、仏祖は現れなかったであろう。(功徳の)働きに極まりがあるのであれば、仏の教えは今日まで伝わらなかったであろう。進歩はいまだ止むことがなく、退歩もいまだ止むことがない。進歩のときは退歩に背くことなく、退歩のときは進歩に背くことはない。この功徳を「山が流れる」と言い、「流れるが山」と言うのである。
 青山も(功徳の)働きを学び究めており、その他のあらゆる方面の山々も水上を行く働きを学び究めているがゆえに、我々が学ぼうとしていることは、これら山々が学び究めようとするのと同じである。
 山がその姿のままさまざまに仏の道を学び究めてきたのである。「青山は歩むことなどできない、その他のあらゆる方面の山々も水上を行くことなどできない」と山を誹謗してはならない。自らの視点が低くいやしいために、青山運歩の句を疑ってかかるのである。見聞が狭くつたないために、流山の語を受け入れがたいのである。いま、流水の語は広く理解されているとは言えず、理解の低い者どものあいだに捨て置かれている。
 そのために山の(功徳の)働きが、目に見える事実としても、真理としても顕れているのである。山は歩みを進め、山は流れゆく。山が山を生むときがある。山が真理を究め尽くして仏祖となるがゆえに、仏祖はこの世に出現したのである。
   《引用終了・以下は私こと淵藪野狐禪師訳》
 たとえ、「山は草木・土石・土塀によって山として構成され成立している」という認識があっても、それは取り立てて疑ったり迷ったりすべきことではなく、また、それによって山のすべてが現成する――分かる訳ではない。たとえ、「山は宝玉輝く荘厳なる聖地である」と見える時があっても、それだけが総ての現成――真理な訳ではない。また、「山は諸仏が修行する結界である」という見解があっても、そうした考え方に執着してはならない。また、「山は諸仏の摩訶不可思議なる働きを現わしている」という、どう見ても最も適切なる現成たる捉え方が認知出来たとしても、実はそれでも、真理はそればかりではない。それぞれの捉え方は、それぞれの立場に基づくものに過ぎず、いずれもが諸仏祖が悟達した世界とは異なる狭い捉え方でしかない。
 こうした物心を分離して捉えようとすることは、釈尊が何よりも戒められ、心と本質を分けて説くことは、諸仏祖もまた求めなかったことである。ましてや、ただ心や本質を上辺だけで捉えて済ませようとするのは、禍々しい異教徒の仕儀に他ならないのであり、一言一句に拘わって滞留してしまうのは、悟達の道では、ない。このような状況世界を一瞬のうちに超えることが、ある。それが今ここに述べた、「青山は常に歩を進めている」であり、「東山が水上を行く」ということなのである。これを子細に学ばねばならない。
 「石女、夜、兒を生む」――石女うまずめ、夜、子を生む――というのは、子を孕まぬはずの女が子を生む時、それを「夜」と言うのである。即ち、そこでは女も子もすべてが区別を超越して「夜」がその総てを一体とし、総ての対立から完全に自由であるということなのである。石女などと取り立てて言っているが、この世には他にも男石・女石・非男女石があり、彼らは天地の欠けたところを補っている。いや、また、天石・地石がある。これらのことは実は、俗世間の者がしばしば口にすることなのであるが、その真実を知る者は実は、稀である。われわれはこの「生児」(児として生まれる)という言葉の真意を知らねばならないのだ。「生児」――生まれた児の時は、親と子は当たり前に一緒に在る――いや、それだけが「生児」か?! 「生児」――児を生んで親となる時も、これ「生児」の現成である、とばかり分かっただけで参学し得たと思うか?!――いや、「その親がその子となる」時にこそ「生児」の真実の認識がそこに現成するのだということをこそ学べ! 極め尽くせ!

「楷和尚」芙蓉道楷(一〇四三年~一一一八年)。宋の禅僧。曹洞宗。本邦の曹洞宗では中国第十八祖に数える。
――酒詰先生、偉そうですが、キリスト教も包含してしまう超宗派的神話世界を持ち込もうとされたのでしょうが、私としては最後の「天使」は「飛天」としたい気がします。そうです、あの薬師寺東塔水煙に居る、楽を奏でる飛天です。――]



スキャンベンジャーズの群

死臭に集まる敵影に
爛々たる警戒のひとみを凝らしつつ
腕の利鎌とがま
腐肉に打ち込み
打ち込み
腐肉の美味に身を打ち慄わせ
歯をならす
汝スキャンベンジャーズの群よ
昼は太陽をおそれて
木の根の黴に身をひそめ
宵闇と共に
欣嬉雀躍して這い出ずるもの
地軸の朽ちるその日にも
ああ汝等は
汝等は
銀色のほの暗い月光の下で
あらゆる獣類の腐肉に埋もれて
濁った血液の乾杯を挙げ
神々の恩寵をことほぐであろう

[やぶちゃん注:「スキャンベンジャーズ」は<Scavengers>で、表記は「スカベンジャーズ」が正しい(本来は英語教師だった酒詰先生に言うのもなんなんですが)。<Scavenger>は可算名詞で、「腐肉食動物」の意。一般には腐肉を食う動物であるハゲタカやジャッカルなどを指すことが多いが、ここで酒詰先生が想定しているのは、「腕」に「利鎌」を持ち、「歯をならす」動物で、「昼は太陽をおそれ」、「宵闇と共に」「欣嬉雀躍して」出て来る夜行性で、その体軀は「木の根の黴に身をひそめ」ることが出来るほど小さい、その動きは「這い出ずる」と表現するような「生物」である。これは最早、昆虫しかいない。そしてこれら総ての条件と完全に一致する現生種は、ただ一つ、鞘翅(甲虫)目カブトムシ(多食)亜目 ハネカクシ上科シデムシ科 Silphidae のズバリ、シデムシ(死出虫)類である。英名も<Carrion beetle>(腐肉を食らう甲虫)。以下、ウィキの「シデムシ」より引用する。『シデムシは、動物の死体に集まり、それを餌とすることで有名な甲虫である。名前の由来は、死体があると出てくるため、「死出虫」と名づけられたことによる。また、死体を土に埋め込む習性をもつものもあるため、漢字では「埋葬虫」と表記することもある』。体長は三ミリメートルから三センチ内外。『頭部には大顎がよく発達する。触角は先端がふくらんでいる。体は平たく、黒っぽいものが多い』。『体型は、モンシデムシ類は前胸は丸っこく、同体はほぼ後ろがやや幅広い台形、羽根の後端から腹部末端が覗く。多くはつやがあり、黒っぽい羽根に黄色の斑紋をもつものもある。ヒラタシデムシ類は全体が小判型で、黒い艶消しの体をしており、やはり羽根の後ろから腹部末端が覗く』。習性は『そのほとんどがその名の通り死肉食、あるいは死体で繁殖するハエの幼虫を捕食するなど動物の死体に依存した生活を送る。中には動物の糞で繁殖するハエの幼虫をもっぱら捕食しているものもある。また、死体だけではなく、腐敗したキノコやその他の腐敗物に集まっているのも見ることがある』。『幼虫も同様のものを食物とする。ヒラタシデムシ類のように幼虫も単独自由生活で餌をあさるものもあるが、成虫が幼虫を保護する習性が発達しているものもある』。特にモンシデムシ属
Nicrophorus の『シデムシは、家族での生活、すなわち亜社会性の昆虫である。雌雄のつがいで小鳥やネズミなどの小型の脊椎動物の死体を地中に埋めて肉団子に加工し、これを餌に幼虫を保育する。親が子に口移しで餌を与える行動も知られており、ここまで幼虫の世話をする例は、甲虫では他に見られないものである』。『なお、この死体を土の中に埋め込む行動については昆虫学者ファーブルの興味を引き、昆虫記の中で様々な実験を行なってその習性を検討している』。因みに、たまたま調べたウィキの「腐肉食」には、「古人類は屍肉食いであったか」という項目の下、米国ユタ大学の研究者が二〇〇四年に『初期人類は、動物遺体から屍肉を集め、石を使って骨を割り、栄養価の高い骨髄を得ることを生息手段とする、一種の腐肉食動物であったとの仮説を提唱した』。『人類は競合者に先駆けて動物遺体を手に入れるため、発汗による高い体温調整能力を始めとし、弾性のあるアキレス腱や頑丈な脚関節といった「速いピッチでの長距離移動の能力」を進化させ、広い地域を精力的に探し回る者として特化したとするものである。 このような適応の傾向と栄養価の高い食物が大きな脳の発達を可能にしたのではないかと説い』ているという記載があった。――酒詰先生、先生は予言されていたのですね、人類もスカベンジャーだったと。――]



達磨

大人だいじんは頭のいい人ですね
十年面壁して悟を啓いたのですってね
私は十年の十倍かかっても
とても大人だいじんすそにも触れそうにありません
ただ私にはまだ手もある脚もありまする
もう暫く陋巷にあぐらをかいてみましょう
悟が先か死が先に来るか
とにかく私は私のいまの悟を
その時まで大切に抱き
大切に育てて行きましょうぞ
大人だけが体得たいとくして
われわれがまだ知らない世界が
そこにあると聞くだけで
われわれには生きて行く希望が生まれ
そして生きて行く勇気が湧いて来まする
衣食住からはみ出した
摩訶不可思議の世界を
われわれ人類にお与え下さった
達磨よ!
私は大人だいじんの履物に額をすり寄せて
恭しくいやし拝しまつる



無題

また逢う日まで
さちあれと
いのりしこころもことなり
あきの没り日の
おののきて
せすじをとおる一すじ
かの秋風のつめたさよ
光陰はそ矢と流れ過ぎ
の煩いにうみつかれ
また会うつてもおりもなく
老いにけらしな今日ははも
時には痛むこの胸を
君に伝えんすべもなや
心の底に一すじの
潔きと鳴る
よき君よ
その一すじの楽の
生きぬく今のこのわれを
実なきものと言うなかれ――

[やぶちゃん注:「没り日」は「いりひ」と読む。「光陰はそ」の「そ」は代名詞。それは。「けらしな」は過去の助動詞「けり」の未然形+推量の助動詞「らし」の、「けるらし」の約されたものに、詠嘆の間投助詞「な」が附いたもの。「けらし」は古くからあったが近世以降に「らし」の推量の意味が失われ、過去(詠嘆)の婉曲的用法として用いられるようになった。「今日ははも」の「はも」は取り立ての係助詞「は」に、終助詞「は」+終助詞「も」の連語が附いたもので、強い詠嘆を示す上代語である。]



銚子屏風ヶ浦

作為者は天地の焰
観客は太陽一人
日本の陸島の東極
太平洋に直面するところ
千仭の崖屏風の如く
立ち亘るその曲輪まがわいく粁
顧れば犬吠のはなより
海霧に見えつかくれつ
銀色に細く
渚の曲線立てり
風は無きがごとくにして
砂つぶて草に音して流れ
波は動かざるごとくにして
時に岩にあたれば
雪白の飛沫
しばらく中空に漂漾する
この時足下に
白き海鳥の猫声湧き起こる
崖端に沿い
地隙を飛び越え
砂上のわが黒影を踏む時
見出でたり一塊の土器片に混じて
イヌの枯骨白き歯を揃えて笑うを
赤禿遺跡とは
そも誰が名付けし
日本の太古
このイヌを牽き連れ
この丘を彷徨いし人や誰
海坂うなさか高く垂雲に接し
この時
太平洋は
一点の帆影を点ずるなし

[やぶちゃん注:この詩は全体に漢詩を意識したようなところがあり、多くの漢語が音読みされる。従って「誰」も「たれ」と清音で読みたい。私はこの詩も大好きだ。ここには酒詰先生が明らかにした縄文人の飼育していた父の『落葉籠』(HPトップにあるPDFファイル)にも登場する縄文犬を連れた、砂丘を行く縄文時の映像が素晴らしい。ところが「赤禿遺跡」という遺跡は千葉県銚子市内には現在、見当たらない。しかし、この銚子市屏風ヶ浦周辺には複数の貝塚遺跡があり、銚子ロータリー・クラブの会誌『とっぱずれ』第一八六一号(ネット上にてPDFファイルで閲覧可能)の銚子市郷土史談会会長大木衛氏の「銚子は古代より生活の適地=市内の遺跡から古代人の生活=」によれば、この一帯は旧石器時代から『近くに湧水地もあり、生活に適した地とされる。この時代は、人々は生活し易い温暖で食料としての木の実やヤマイモやユリなどの球根が食料とされ、若葉や水を求めてくる小動物を捕らえての、自然をうまく利用しての生活とされて』おり、『銚子の屏風ヶ浦に面した地は、海からの魚や磯の貝などが豊かで、年間を通して温暖な地として数年の定着した地とされる。下総地方は旧石器時代の遺跡が少ない地として、古代人の自然物を食料とし、漂泊した時代であるが、生活条件の良い地としてこの地方で唯一の地とされる』とある。その中でも私には、現在の銚子市粟島町・南小川町・西小川町に跨る大きな粟島台遺跡がこの詩の舞台ではないかと感じさせる(現地に行った訳ではないから、とんでもない勘違いかもしれないが)。何故なら、現代の地図では、この遺跡から西南西へ二キロ弱の地点に銚子の「屏風ヶ浦」があり(「浦」であるからこれは実は遺跡の南五百メートル、見下ろす形の入り江を指すと考えてよい)、更に東南東二キロ弱の位置に犬吠埼があるが、そこから南を海岸線に沿って回り込んでこの粟島台遺跡を西側の根とする岬全体を犬吠埼と呼称するのである。そして、決定打は、ここに確かな先生の足跡を確認したからである。以下、銚子ポータルサイト「すきっちょ くるっちょ」の「とっておき、銚子散歩」の「粟島台遺跡」(二〇〇八年一月)より引用する(アラビア数字を漢数字に変換した)。
   《引用開始》
粟島台遺跡は、舌状の台地とそれを取り巻く低湿地によって構成されています。台地上には縄文時代前期の住居跡があり、低湿地には主として縄文時代前期から後期初頭にわたる遺物が層をなして包含されています。特にこの包含層は土器・石器はもとより、動植物などの有機質の遺物が、質・量ともに豊富に出土したことで知られています。
 この遺跡については、一九三三年(昭和八)頃に、吉田文俊という考古学愛好者が、石器や土器を多数発見したのが始まりとされています。その後、一九四〇年(昭和十五)三月に、東京大学人類学教室から酒詰仲男・和島誠一の両考古学者が遺跡を訪れ、初めて学術調査が行われ、後に『下総国小川町貝塚発掘略報』を発表しました。
   《引用終了》
詩の中には波の花に類似した現象を記しているが、波の花は通常、冬場に発生するから、この記載の三月というのは決して不自然ではない。また親潮と黒潮がぶつかり合う犬吠埼ならば、この現象が起きてもおかしくない。それにしてもあの酒詰先生が遺跡名を誤記するとは思えない。「赤禿」という遺跡名、若しくは他に相応しい比定地があれば、是非、御教授を乞うものである。
【以下、二〇一二年二月二十六日追記】遂に赤禿遺跡を「東京大学総合研究博物館 標本資料報告 第77号 酒詰仲男 調査・記録 第2集」の昭和十五(一九四〇)年二月二十三日の千葉県小川町淡島台遺跡調査記録の文中に父が発見した。
『屏風ヶ浦
 それは名洗に出て、其処から三崎へ抜ける事を決意したのだ。地圖には道は無い。然し大体草原だ。道のないところは大へんなものだ。僕は幾度今迄に後悔したか知れない。今日も自分を待ってゐるものはやっばりあの後悔かも知れない。然し三度も外川へ出るのもいやだし春日町へ抜けるのも気がきかない話。それで断然このコースを択んだ。名洗の海岸に立って、自分は既にこのコースをとったのが誤りでないのを知った。何と云ふ偉観!屏風ケ浦が全部見わたせる。そして自分のゐるところも既にその絶壁の一部だ。果して径は怪しくなった。然しかまわず進む。行けるところまで行けだ。ところが何處迄行っても枯れ草の原! 恰度風かげになってゐて冬の日が燦々と輝やく。そうだ之が逆に南風だったらどんなものだ。恐らく目もあいてゐられないだろう。草がつきて眞赤な砂の海。丁度活動で見るあの砂漠だ。然も行く事数町にして土師の破片数個をひろふ。土師の遺蹟が壊滅したのだろうと思って、それをひろって先へ進む。進むと又土師と祝部の破片。実に應接にいとまなしだ。砂漠の面積は次第にひろがり澤の様なところへ出た。二つ位谷をわたって、砂漠が最もひろくなったところで晝食をする事とする。頭の上で飛行機が盛んに戦闘の演習をやってゐる。砂漠の中に唯一人ゐる人間の姿は飛行機の上からも見えてゐる筈だ。そのうちに砂の間の石の散布を見ると莫迦に荒い缺き方をしたのが目に入った。其処で旧石器!と云ふ考えが頭を走った。然り!此処で崩壊しつゝあるのは成田層だ。それが悉く流れて一箇所へ集まって来る。其処には土師、祝部、縄文、それに旧石器らしい小さい石片も交ってゐるのだ。今日の採集が失敗したとしても、此処は何と有望なところだ。僕は近々此処を徹底的に再調して見よう。晝食後一時間程附近を綿密に採集して見た。怪しい石が出るのは一箇所丈、他には見られない事を知った。すべて収容して次の谷へ赴く。赤禿と云ふところだ。其処はハイキングコースであるらしく、彌生式がある。崖のはしにおちかけてゐる破片まで拾ふ。あとで下におりて見たら「崖に近よらないで下さい!」銚子警察署とある。全く危険なのかも知れない。』
父の地図上の推定では、赤禿遺跡は現在の名洗町と高神西町の町境附近の海岸寄りの高台と思われる。詩の背景が酒詰先生の散文によって裏打ちされる貴重な発見となった。
「漂漾」は「ひょうよう」と読み、漂うこと。
「白き海鳥の猫声」言わずもがなであるが、チドリ目カモメ科カモメ属ウミネコ
Larus crassirostris である。]



ゾウ(象)

やさしい眼をした
どこまでも続く肉の塊
鼻もゾウで
耳もゾウで
しっぽもゾウだ
ゾウでないゾウだけが
いと静かに宇宙に漂う
どれがゾウで
どれがゾウでないのか
全きゾウ
一部のゾウ
ふくれるゾウ
しぼむゾウ
硬いゾウ
やわらかいゾウ
ゾウでないものがなければ
ゾウであるものがない
ゾウは鼻を振って
尻尾を振って
木の幹の如き
四つ脚をふんまえて
歩いて行く
歩いて行く
ゾウでないゾウと
永遠の虚無へ――

[やぶちゃん注:この詩が村上昭夫の「動物詩集」に紛れ込んでたら、誰もが村上昭夫の詩だと思うのではあるまいか? 村上昭夫の「象」をここに掲げておく。

    象

 象が落日のようにたおれたという
 その便りをくれた人もいなくなった
 落日とありふれた陽が沈むことの
 天と地ほどのへだたりのような
 深い思いをのこして

 それから私は何処でもひとり
 ひとりのうすれ日の森林をのぼり
 ひとりのひもじい荒野をさまよい
 ひとりの夕闇の砂浜を歩き
 ひとりの血の汗の夜をねむり
 ひとりで恐ろしい死の世界へ入ってゆくよりほかはない

 前足から永遠に向うようにたおれたという
 巨大な落日の象をもとめて

酒詰先生は恐らくカルマを象徴する普賢菩薩の乗る象から、禪のくうのシンボルとして象を形象として選んだように私には思われるが、村上氏の「前足から永遠に向うようにたおれたという/巨大な落日の象をもとめて」という最終行は、先生の「ゾウでないゾウと/永遠の虚無へ――」と恐ろしいまでに響き合っている。では――酒詰先生が村上昭夫の「動物哀歌」を読んでいた可能性は?――これは、あり得ないのだ。「動物哀歌」の出版は先生の死から二年後の昭和四十二(一九六七)年だからである。――でも、もし酒詰先生が「動物哀歌」を読んだら、きっと誰よりも感動されたに違いない。――いや、村上昭夫が先生のこの死を読んでいたら(それもあり得ない)、きっと彼の「象」も少し変わっていたかも知れないな……]



S――

またあるときはさみどりの
賀茂の山べの草を藉き
君と語らうたのしさよ
燃ゆる思はうたとなり
いく山脉やまなみを打ち越えて
はるばる空へながるれば
わがこえいつかそを追いて
ふるえももつつまろぶなる
この日この君いと若く
この日この時われ若く
過ぎし月日は夢と消え
君人妻のきづななく
われに衣食の憂なし
血しほのたぎる胸二つ
つらぬく情念おもひ一つなり
君かろやかに脚を投げ
風に吹かるるおくれげを
われかきあげてしのびかに
くちずけすればあかあかと
夕空遠くカラス飛ぶ
球打ちいそぐゴルファーの
色とりどりのセーターも
浮世の夢の影と消え
楽しき園の絵の如し
ああかかる日のかかる時
夜のとばりのはや落ちて
われらの彫像つつめかし――

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「S」とは先生の奥様である静枝さんである。本詩は珍しく一部に歴史的仮名遣が用いられている。表立っては技巧を感じさせないが、その定型がお洒落に成功しており、その歌垣としての詩想も透明で美しい。なお底本では目次が「S――」、本文が「S―」であるが、目次の標題を採用した。]



慧可断臂

達磨は天竺から渡って来て
中国の嵩山で面壁の坐禅をはじめた
坐禅は何年も何年も続いた
中国人は最初この乞食坊主を相手にしなかったが
やがて彼の名は漸く人びとの尊敬を集めるようになった

丁度その頃のことである

  慧可はだまって面壁する達磨の背後に立った
  達磨は依然として坐禅を続けた
  達磨は慧可に気がついているのであろうか
  雪がひひとして降りはじめた
  慧可の足は冷えて来た
  達磨は依然として坐禅を続けていた
  雪は脛まで積もった
  やがて雪は膝を越した
  達磨は坐禅を続け慧可は立ちつくした
  雪は腰を埋め腹を埋めはじめた その時
  「お前はそこで何をしているのだ」
  はじめて達磨が慧可に声をかけた
  「あなたは何を考えていらっしゃるのですか」
  慧可は突差に叫んだ
  達磨は何も答えずにふり向いて又座禅を続けた
  雪はなお降り続いて慧可の首にまで達した
  やがて雪は溶けはじめたが
  慧可の身体は瘦せ細って腐って行った
  然し達磨は坐禅を続け慧可は立ちつくした
  そして又幾月かが過ぎた
  「お前はそこで何をしているのだ」
  達磨は振り向いて再び問うた
  慧可は答える前に劔を抜いて左腕を切り落とし
  それを達磨に献じて叫んだ
  「どうすれば悟れるのですか」
  達磨は答えた
  「悟ればよいのだ」
  達磨ははじめてしみじみと慧可を見た
  「どうやらお前は俺の弟子になれそうだ」

   慧可ははじめてこうして達磨の弟子になった
   達磨の面する岩に清水が迸走り
   新芽をつけた小枝には色鳥が飛び交わしていた
   見上げる空には断雲がころび
   達磨と慧可の胸の間にはじめて同じ温かい血が流れた

   中国禅の初祖達磨と
   中国禅の二祖慧可は
   こうして師弟の交を結んだ

[やぶちゃん注:「嵩山」は「すうざん」と読む。現在の河南省鄭州市登封にある。この山群の少室山北麓に嵩山少林寺があり、ここがインドから中国に渡来した達磨による禅の発祥の地とされ、中国禅の名刹として知られる。私は雪舟の有名な絵で知られる「慧可断臂」の逸話が事の外、大好きなのだが、それを語る話柄の中でも、酒詰先生のこの詩は、他の追従を許さない、非常に優れたものである。三段階のパートの字下げはママである。]



伝説

私の息子よ
このことだけはよく覚えていておくれ
お前のお祖父じいさんは
物好きな人で
オーロラと言うボロ船を買って
家を何軒か売ってそれを艤装し直して
夫婦者の船員を幾組か乗せて
あれは千九百十年代のことだった
その何月の何日だったか
今の束京港当時の芝浦岩壁から
南方へ向って旅立たせたのだ
その船はある鉱物を探しに行った
いいかい
神戸港か横浜港に
オーロラと言う名の不思議な船が入港したと
新聞に出たら
それはお前か
お前の子供達
あるいは孫達のものなのだ
それは素晴しい鉱物を積んで戻って来る
忽ちお前は世界有数の富豪の一人になるのだ
オーロラと言う船だよ
その名をよく覚えて置けよ
祖父じいさんの代には遂に戻って来なかった
私の代にも未だ戻って来そうにない
然しお前の代には
いやお前の子の代には
孫の代かな
オーロラは必ず戻って来る
オーロラと言う名を忘れるんではないよ!

[やぶちゃん注:「艤装」は「ぎそう」と読み、一般には船舶に限らず、自動車や鉄道等の製造過程に於いて、原動機や車室内外の各種装備品等を本体に取り付ける工程を言う。――この詩は、先生――遙かな未来の徐福伝説――永遠の未来のニライカナイ信仰――永劫のカーゴ・カルトを夢見た詩ですね――]



無花果のジャム

銀の鋏で切って
佐渡の竹で作った笊に入れて
その笊のまま賀茂川の水で洗って
比叡山から出た太陽に干して
それをしばらく大徳寺の坊さんにあずけて
阿蘇山で焼いた炭で煮て
ハト時計が十二時を指したら止めて
その煮上がった鍋をイヌの鼻先を通して
そうして出来上がった無花果のジャムです
どうぞお客様!
パンにたっぷりつけてお召し上がり下さい

[やぶちゃん注:先生! このファンタジックな詩、とっても好きです!]



天理教

六百畳にも余る大広間
そこに学会人が集まって
六人づつすき焼鍋を囲んで
酒をのみ交わすその瞬間
何かを期待して
一座は急にシーンとしずまった
原始林のようなしずけさ
そうだ!
丁度原子爆弾がおちて
宇宙全体が音になりながら
ひとにはそれが聞こえない瞬間
そうした沈黙が一座を支配した
沈黙は容易にやぶれそうになかった
その瞬間
鉢巻をしてよい痴れた真柱が
盃と徳利とをもって
「ワッハッハッハッ」と
大声で笑いながら立ち上がった
「ようきぐらし!
 ようきぐらし!」
真柱は頭をたたいて一廻転した
一座はまたもとのざわめきに返った
何だ?
何でもないんだ
何でもないんだ
「ワッハッハッハッ」
どこかで小さくまた笑うものもあった

[やぶちゃん注:「真柱」は「しんばしら」と読み、天理教及び教会本部を統括する役職。真柱は「教祖の血統者の系譜に基づき、本部員会議において推戴する」とされ、現在まで教祖中山みきの子孫が世襲している。「ようきぐらし」とは、天理教のHPの「教え」の「陽気ぐらし」には以下のように記されている(段落を排除させて頂いた)。『私たちのからだはどうなっているのか、科学の発達が、次々に細部まで明らかにしてくれました。とりわけ、遺伝子に関する研究が長足の進歩を遂げ、驚かされるばかりです。考古学は考古学で、人類の歴史をどんどんさかのぼり、一枚また一枚とベールをはがしていきます。どこまでもミクロの世界へ、どこまでも太古の世界へ。探求心旺盛な人間のことですから、人類は「いつ」「どのようにして」つくられたのか、その情報はもっともっと私たちの手元へ届けられることでしょう。しかし、どうしても分からないことがあります。それは、人間は「誰が」「なんのために」つくったのか、ということです。それは、人間を創造した「元の親」に尋ねる以外に術はないのでしょうか。教祖が自ら筆を執られた書き物に、「月日(神)には人間創めかけたのは、陽気遊山が見たいゆえから」とあります。人間が陽気ぐらしするのを見て、神も共に楽しみたい、というわけです。各自勝手の陽気ではなく、ほかの人々を勇ませてこそ真の陽気とうたわれます。それは、互いに立て合いたすけ合うこと。人間はそれぞれ異なります。そのそれぞれの個性を持った人間が、互いに良いところを伸ばし合い、足りないところは補い合って、たすけたりたすけられたりしながら、共に生きることをいいます。陽気ぐらしこそが、私たち人間の生きる目的なのです』。ここで考古学が特に挙げられているのが面白い。]



×

けたたましく警笛を鳴らしながら
意識の中心を車が走る
多くの概念が
慌てて道をよける

何だ
赤いさるこを着た
サルめが運転するコウノトリだ

[やぶちゃん注:「さるこ」は文字通り「猿子」で、江戸時代、綿の入った袖無しの羽織のことを言った。主に子供用であるが、女性の胴着にも用いた。猿回しの猿が着るものに似ていることに由来する呼称である。この詩、尾形亀之助詩集に潜ませたら面白い。]



君ほほえまば

君ほほえまば
よろず花
恥じらうごとしと
りし
かの虞美人のほほえみも
かくはありしか
たまゆらの
かの君えみしほほえみは
瞼閉づれば
眼の底に
眸あぐれば大空に
桜色せる頰もみな
濡れしが如き唇も
象牙の如き白き歯も
焼くるがごとく鮮かに
触るるがごとく迫りつつ
うららひろごるかなしさよ
ああたまゆらの
かの君の
かくもかなしきほほえみを
胸ぬち深くひたかくし
野辺にい向い
ただ一人
すべなく口笛ふえを吹けるかな



「寺」

私はその名を知らない
岩山に抉ぐられた一画の土地
高く聳える樹々にかこまれ
その「寺」はある
まつります御仏は
観音か 菩薩か
信仰の衰亡も今は問うまい
ただ日本の「土地」のその一隅に
何世紀かの風雪に耐えて
厳かに存続するこの「寺」を見る
はかなき現し身の魂が指向する
「寺」と言う存在
限りなく浮き迷う
わが魂の港
民族の祈りの礎
仏をもてあそぶ僧等の恣意は
僧等の野望は
幾度かの治乱興亡を過ぎて
その庭苔に吸収され
ただこの御仏みほとけと「寺」と
樹々と 碧空とが
人類の苦悩と御仏の慈悲を直結して
この上もなく健かに
この上もなく穏かに
この上もなく厳かに
この上もなく大きく
天地と共にしずもり返っている
ああ幾世紀かの
灼日と荒雪に耐え
耐え耐えて滅びざる民族の「寺」よ
大乗 小乗の教はとまれ
天地のかびにもひとしき
人間われは
今恭しくこの「寺」の姿に合掌する



ホトトギス

人は会い訣かれるものと知りながら
このひとときのいとなみに
まことの生命いのちかけつくし
互に攻むる身のもだえ
互にみつむる涅槃境
またくちを吸い身を進め
ひとしほ強くかき抱く
長き捷毛の細き眸に
はやそのときをしるすとき
ゆめかうつつか何もなく
ただ白がねの高なりが
怒濤の如くわき返し
華火のごとく散り消ゆる
今はしづかに瞼閉じ
大きくもらす肩の吐息いき
互に充ちて二つ身に
ゆれもどりたるたまゆらに
ふと聞く雲間のホトトギス

[やぶちゃん注:……先生、これは……もう、脱帽です!……]



孤影
      
――陸奥尻尾岬に寄せて――
何と言うことだ
風と海と
岩にへばりつくいくばくかの草と
カモメが飛び
カラスがおりている
心の果てにひろがる
荒蓼たる一つの地域
「神」もなく「仏」もない
ただ砂原のおき伏し
ああ何のために私は
こんな地の果てに彷徨うて来たのだ
こんなくが果にも
遠古の人がいたと言うので
それを調べるためにやって来たのだ
この荒蕪の地に住み
獣類をおさえ魚類をすなど
日々のたつきを立てていた者は誰
莫々としてつかみようもない
この忘却の霧につつまれて
一人立つ岬の高さ
天地の太初以来
繰り返し打つ大洋の浪が
今日もまた同じように打っている
この地の果てを駈けめぐり
虚ろなる心かき立て
風の響きに首すくめつつ
草に憩うこのひととき
遥かなる天心の太陽
遠い水面に微塵と砕け
蝦夷えぞケ島が雲間に隠見する
祈りも信仰も役に立たぬ
夏にして冬景色を備えた
ここ岬の一隅に心冷えて
厳かに身ぶるいつつ
孤影をまもる

[やぶちゃん注:「尻尾岬」は下北半島北東端に突き出た岬で、津軽海峡と太平洋を分けるような位置にある。本州の最北端である下北半島北西端の大間岬に対し、この尻尾岬は地元で「本州最果て地」と呼ばれている。但し、ネット検索では尻尾岬の貝塚や縄文遺跡についての記載は見出せなかった。識者の御教授を乞うものである。]



五条坂

街吹く白い秋風が
わたしとあなたを吹き通り
愛宕の蒼ずむ頃だった
痩せイヌが来て追いこして
あとは静かな街だった
たかなる胸の鼓動まで
きこえるほどの静けさよ
何を考え何を言い
どうしてそこまで来たのやら
前もうしろもぼけている
ただ青春の一ト時に
いつか歩いた五条坂

今日も秋澄む高空に
いつかの雲が流れてる
三十年の年月が
わたしとあなたを押しへだて
悔恨に似てほのぼのと
うずく心をかきいだき
ひとりさまよう五条坂
千里を走るトラックが
ならす警笛恐ろしや
思わず深き夢やぶれ
慌てる古都のエトランゼ
シャッポをぬいで手を振って
ぐるっとまわってサヨウナラ!

[やぶちゃん注:二行目「愛宕の蒼ずむ頃だった」は底本では「愛宕の蒼すむ頃だった」であるが、私の判断で濁音化した。この詩も、私は一読、胸がキュンとなる。]



キリスト

キリストはある朝便所の中で考えた
自分は朝めしも食わねばならぬ
それに女の膚に触れても見度い
いや それは迷夢だ
おれの糞は人のとは違った匂がする
弟子どもがみなそう言う
その方が真実だ
おれの頭は狂ったのかな
そんなことはない
ただ異常に
神が
在天の大神が
このおれを目にかけて下さるのだ
まてよ
しかしあの時
おれは無我夢中で祈ったが
魚はもと通りただの一匹だった!
それだのに
ああ奇蹟が現われた
魚が十匹にふえた
魚が千匹にふえた
弟子どもが叫びおった!
そんなことを言っているうちに
誰かが皆に魚をくばった
「奇蹟の魚だ」
「奇蹟の魚だ」
人びとは口々に叫び
争うてこのおれを礼拝した
おれは詐欺師ではないか
おれはペテン師ではないか
いや!
弟子共には一匹の魚が百匹に見えた
千匹に見えた
何故だろう!
あいつらは迷っているからだ
このおれだけがあいつらよりすこし強い
このおれが迷いだしたら
人類の破滅
世界の破滅だ!
人類の善意が破滅する
人類の道徳が破滅する
そして
世界はなくなる!
その直前に
このわしと言う細い綱によって
皆が
人類全体が
神の国にぶら下がろうとする
このおれが切れたら
世界はつぶれるのだ
人類はつぶれるのだ
おれは糞なんかしていられない
いや
またどこかで野糞でもひればよいのだ
おれは出発しよう

[やぶちゃん注:――酒詰先生、先生は芥川龍之介と同じように、キリストにジャーナリストを見たのではありませんか?――いえ、そして先生もキリストとなられたのですね――ジャーナリスト・キリストとして現世に復活された、のですね――]


土岐仲男詩集「人」 
附やぶちゃん注 完