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屍愛について   南方熊楠
[やぶちゃん注:それぞれの末尾にある通り、本文が大正十四(1925)年六月、【追記】が同年十二月、の雑誌『変態心理』に所載、【追補】が大正十五(1926)年十月になされている。全体は大正十五(1926)年十一月岡書院刊の『続南方随筆』に載る。底本は1984年刊の「南方熊楠選集 第四巻 続南方随筆ほか」を用いた。本文では( )注記内の文字がポイント落ちになっているが、そのままとした。冒頭や最後に現われる「雨月物語」巻之五の話は私の電子テクスト「雨月物語 青頭巾」を、また文中の大江定基の逸話は、同じく私の「青頭巾」の「オリジナル授業ノート」(=講義)に引用してある「宇治拾遺物語」三川の入道遁世の事[巻第四・七]を参照されたい。なお、本文の一部に注を附した。【2022年9月5日追記】ブログにて本篇の「續南方隨筆」底本の正規表現版「屍愛に就いて」オリジナル詳注附を公開した。]

 

屍愛について

 

 大正十四年二月の『変態性慾』九〇頁に、「江戸時代の文献に見えたる屍愛と殺人淫楽」の一篇がある。屍愛の例としてただ一つ『雨月物語』にある、一僧が美童を寵愛のあまり、その死屍に戯れ、ついにはその肉を食い尽した話を挙げてある。これは同性間の屍愛であるだけ事すこぶる異常をきわめておるが、異性間の屍愛を一例も挙げられなんだは残り多い。ただし、異性間の屍愛も江戸時代の文献にないではない。

 例せば宝永四年板『千尋日本織(ちひろやまとおり)』二の四に、「下総の本庄という所は、隠逸の人、道心、比丘尼なんどの余多住む処なり。六時不断の鉦の音いと殊勝に聞こゆる中にも勤め怠らず、朝に鉢を開き夕に戸ざすより行きかう人もなく出つることもまれなる道心あり。賤しからぬ生れつきながら、鼻落ちて念仏の声のそれと知らるるおかしさなりし。ある時、そのほとりに隠れまします智識の許に参りて懺悔しけるに、われ俗にて侯う時は小身の武家に勤め侍りし。主人の娘優れて美わしく、十五歳のころより痛(いた)わること侍りて縁にも付かず、両親いと惜しみ深くもてなしたまう。われ勤めといいながら、少し所縁なる者なれば内外許され行き通うに、かの娘いつとなくわれらに心をよせ、理み火の下に焦がるるなど、ほこりかに聞かせ、文を袂に投げ入れなんどせしかど、当時主人と仰ぐ上、人目のほど恐ろしく、よそごとに打ち粉らかし過ごしぬ。とかく月日重なり病気重く、薬の業(わざ)も叶わず、祈る験(しるし)もなくて、惜しきは十七の秋の霜と消えぬ。たらちねの歎き申すに言葉も続かず、恋い慕うよそ人はともに死なんとのみ歎きあえり。ようやく人々を勇め、野辺の送りも明日と定まり、今宵ばかりの名残だに物言いかわすことなく、誰彼と集いしもみな泣き入りて夜も更けぬ。されば、わが思いの切なるもこれまでぞと、なおも死人の一間に入りて明くるを待ちて守りいたりしが、さすがこの世の別れ、またあるまじき面影のせめて変われるを見て思い切らばやと、薄衣を引きのけて伺うに、顔貌(かたち)世に美わしく生まるる時に変わらず。所々の温まりいまだありていよいよ思いを増(つの)りて、この時わりなき一念起こり、空しき人に肌をふれて世にもまれなる契りをぞ結びし。われながら浅ましく恥かしきありさまなり。明くれば野辺に送り、秋夕妙月と聞きて驚くなき名のみ残り、人々の歎きもわれ一人の心に忘れもやらず、ふらりふらりと病み出せしが、死人の肌をさわり息冷の気を受けけるゆえにや、総身崩れ鼻落ちて、見苦しくなりゆきぬ、云々」。かく懺悔した上、その娘の幽霊毎夜来ると告げたので、上人機智を還らし、これを退散、杜絶せしめた次第を載せておる。

 予の現住紀州田辺町のある人に聞いたは、黴毒はもと屍犯より起こった、屍は冷え切った物ゆえ黴毒をひえと呼ぶ、と。シャレだろうと思いおったが、本文を見れば宝永のころすでにそんな説が行なわれたのだ。明治十八年ごろ、小石川の墓地で屍と会えば黴毒が癒ると信じ、掘り出すところを寺僧に捉えられた者があったのも、病毒を本へ還納するという本意に出たものか。

『元亨釈書』一六に、釈寂昭、俗名大江定基、官に仕えて参州の刺史に至り、たまたま配を失う。愛の厚きをもって喪を綬(ゆる)うす。よって九相を観て深く厭離を生じ出家した、と述ぶ。九相は人死んで九たび変形するので、『仏教大辞彙』巻一の八四四―五日に図を示し、詳説してある。愛の厚きをもって喪を綬うすとは屍愛だ。『宇治拾遺』四には、「その女久しく煩いてよかりける形も衰えて失(う)せにけるを、悲しさのあまりにとかくもせで、夜も畳も語らい臥して口を吸いたりけるに、浅ましき香の口より出で来たりけるにぞ、疎(うと)む心出で来て泣く泣く葬りてける」と載っている。これに似たインドの例は、明治四十五年七月に『此花』凋落号五一頁に出た予の「奇異の神罰」に引いておいた通り、『観仏三昧海経』七にある。妙意という婬女を化度せんとて、世尊が美童を化成し、婬女これと歓会すると十二日立たねば離れぬから、婬女も飽き果てて死んでしまえという。そこで美童自殺してその屍が七たび変化するも一向離れず。婬女慚愧して救いを乞い、仏の神力で助かったそうだ。これと反対に『仏説如来不思議秘密大乗経』二には、菩薩が美女と現じて男子の思いを晴らせやり、さてたちまち瘠せ死に、根門敗壊、臭穢不浄なるを見て男子逃げ去る時、その死女の身から自然に声を出し、法要を説いてかの男子を発心せしむ、とあり。この方が定基出家の話に一層起源をなしたらしい。『源平盛衰記』や『遊女五十人一首』には、定基の愛した女を赤坂の遊君力寿とし、『三河雀』七には、ある僧、参州本根の原で力寿の霊に逢うた時、かの女は「命終近づきし時に、君(定基)名残を惜しみつつ、目をすい口をすいて舌を吸い出だしたまう。この愛念に輪廻してついに惑いの種となり、かかる苦しみ見たまえとて、さも美しき丹花の唇より一丈あまりの紅の舌をフッと吹き出だし、噫(ああ)悲しやと倒れ」、ついに消え失せたので、その僧文殊山舌根寺という寺を立て弔うた、と記している。

 また『源氏物語』に、光源氏みずから藤壷を烝(じょう)[やぶちゃん注:身分の高い女に私通すること。]した覚えあれば、夕霧がその真似をして紫の上を烝せんと用心して、紫の上に近づかしめず。しかるに、秋風暴(あら)く吹く混雑のおり夕霧初めて紫の上を見て、親とも覚えず、終夜その面影を念じて眠らず。のち紫の上死するに及び、野分のおり見初めた面影忘れられず、屍骸でも今一度見んと几帳(きちょう)の帷子を引き揚げて見ると、燈のいとあかきに御色はいと白く光るように臥して、とかく打ち粉らすことありし生前の粧いよりも、何心なく打ち伏したまえる死姿の方が一層よかった、とある。これも屍愛が外に発露せなんだもので、ややローマ帝ネロが生母アグリッピナの屍の美をほめたと似ておる。また明治八年ごろ、どこかの男がかねて恋しておった女が死んだので、せめてその屍に逢わんと掘り出すと蘇生したので、女の両親許して婚姻せしめた例があった。

 支那で著しい例は、『淵鑑類函』三一四に、范曄の『後漢書』に、「赤眉は諸陵を発掘し、宝貨を取り、呂后を汚辱(おじょく)す。およそ玉匣(ぎょっこう)のある者は、みな生けるがごとし。故に赤眉は多く淫穢を行なう」。呂后は夫高祖の在世すでに色衰えて寵を戚夫人に奪われ、七十一歳で崩じたと言えば、赤眉の賊も大分物好きだ。また『列異伝』を引いて、漢の桓帝の馮夫人、歿後七十余年に賊ありてその冢(つか)を発(あば)くと、「顔色は故(もと)のごとし。ただし、少しく冷えたり。共にこれに姦通し、闘争して相殺すに至る」。のち竇氏誅せられて、竇太后の代りに馮夫人を桓帝に配せんとした時、陳公達という者、馮夫人は先帝の寵姫だったが、屍骸が公園の便所のごとく多人に汚された上は、天子に配食すべからずと抗議したので、おじゃんとなり、依然竇太后を据えおいた、とある。降って清の蒲留仙の『聊斎志異』一四に、二八の処女商三宮が、犬坂毛野同様に、宴席果てたあとで父の仇を討つ話あり。この女姣童(こうどう)の装いして、仇の枕席に侍し、これを殺し白分も縊死する。仇の僕ども駆けつけてその屍を験するに、女と知れたので二僕留まってこれを守るに、その貌玉のごとく肢体温軟、二人謀って辱を加えんとして、まず近づいた一人卒死したので、一同大いに驚き神のごとく敬った、とある。

 仏典には『四分律蔵』一に、「もし死屍の半ば壊れたるに不浄を行ないて入るれば、すなわち偸蘭遮(とうらんじゃ)なり。もし多分に壊れ、また一切壊れたるも、偸蘭遮なり。もし骨肉にて不浄を行なえば、偸蘭遮なり」、巻五五に、「その時、比丘は塚(はか)のあいだにあって行くに、遥かに、死せる女人の、身になお衣服の荘厳なるを見る。すなわちい婬を行ない、おわって疑う。仏いわく、汝は波逸提(はいつだい)なり、と」。『十誦律』一に、難提比丘、林下に正坐するを魔神がこれを破戒せしめんとて美女と化け、前に立った。比丘これを見て禅定退失し、「女身を摩(ま)せんと欲するに、女人すなわち却(しりぞ)き、漸々として遠く去る。すなわち起(た)って随いて逐(お)い、女身を捉(とら)えんと欲す。時に、かの林中に一の死馬あり。女、馬の所に到れば、すなわち身を隠して現われず。この比丘、婬欲の身を焼くゆえに、すなわち死馬と婬を行なう。すでに婬を行ないておわれば、欲熱少しく止む」とある。また妙光女の死体を五百群賊が汚して五百金銭を置き去った珍譚は、大正五年一月の『太陽』に出した「田原藤太竜宮入りの譚」に詳述しておいた。『水鏡』に、恵美押勝敗軍して、その女が五百兵士に犯された、とあり。生きておってそんな多勢の相手はなるまいから、たぶん妙光女の話の模造か、さもなくば五首兵士の多分は屍愛者だったと見るの外はない。

 西洋にはイタリアの古い小説、シンチオの『エカトンミチ』やバンデロの『ノヴェレ』等に散見したと覚えるが、委細は忘失した。一八八□[やぶちゃん注:一字欠字。]年パリ板、ボールの『色痴篇』に、臨終を勤めに行った僧がその尸を汚した等数例を拳ぐ。プラントームの『艶婦伝』一には、ダルマチアの士人が姦夫を殺し、その屍と姦婦を同衾せしめ、屍臭に害されて数日中に姦婦は死んだ、とある。ヘロドトスの『史書』に、エジプトの豪族の妻女や美女や名女は、死後ただちにミイラ師に委ねず、三、四日して初めて渡す。かつて新死の女屍をミイラ師が汚したこと、その同輩よりばれてからこんなになったと述べ、またギリシアのコリンチアの王ペリアンドロスが、尋ぬべき件があって亡妻メリッサの霊を招かしむると、霊現じてその使いに向かい、われ死んだ時、わが衣を焼かずそのままわが屍体にきせて埋めた。故に衣がわれに添わず(これは支那人同様、神霊に寄る物は焼いてのち初めて達すると古ギリシアで信ぜられたから)、裸でふるえおる次第で、何にも答ええぬ。ただし、われ真にメリッサの霊たる証拠として、王は冷たい竈(かまど)に王のパンを入れたと語れ、と言って消え去った。これは王一旦の怒りに妻を打ち殺してのち、これに不浄を行なうた。王のほか誰も知らないのに、それを使いが還って告げたから、王も仰天して確かに妻の霊が現われたと信じたのである、と記している。陰相を竃、陽相をパンまたは悴(せがれ)と見立つるは欧人の習いで、プラントームの『艶婦伝』七に、老女の情事衰えぬ例を挙げて、「火焼きの名人より、古い竈は新しい竈より焚きやすく、一度焚けばよく熱を保ち、よいパンがやける、と聞いた」と言った。十六世紀に高名だったジォヴァニ・デラ・カサの『竈の賦』には、陰相を大釜、後庭を小釜と言った。日本で、むかしは陰相を、今は後庭をお釜とよぶによく似ておる。

 ついでにいう、『会津風土記』に、城長茂の妻、名は竈御前とある。『本朝俚諺』(正徳四年)を『嬉遊笑覧』に引いて、本国の俗、妻を呼んで釜というはよりどころあり。『酉陽雑俎』に、賈客が家に帰る道中で臼の中で炊ぐと夢み、卜者王生に問うと、帰っても妻を見じ、臼中に炊ぐは釜がないのだ、と答えた。客帰れば妻すでに死んでおった、とある。『俚諺』より六年前(宝永五年)に出た『美景蒔絵松』は、伊勢古市の艶女(アンニャ)のことを書いた物で、その凡例に艶女をもりする中居女、見通りは下女ながら襷掛けず手拭さげず、木綿の不断着に絹布の二つ割り、廓にての遣手に似て遣手にあらねば、客と艶女の中に立って諸事世話をなす女、歴々方の前をも憚からぬゆえ、釜と名づけたるとみえたり、とあって、巻一に、「アンニャの廊下のしじら島か、あれは中居女のよしという釜、釜ながら大体ではござんせぬ、両町の内で指折りになる四天王の一人」とある。これによれば、もと茶席で釜を重んじたゆえ、主婦また世話役の女を釜と呼んだのだ。ただし、慶長十八年ごろの『寒川入道筆記』に、主人が六尺に風呂をたけと命ずるに、たかれぬという。何故と問うと、「それに、かみ様の御座あるほどに分かり申すまい。なぜに、若しからず申せ、とせつかれたれば、さらば申そう、釜がわれ申した。それがかみ様に構うか、なかなか構い申する。なぜに、たつに五、六寸ほどわれ申した、と言った」。それより六十年前に八十九で死んだ山崎宗鑑の付句に、「臍のあたりをつきほぜりけり」、「生柴を小釜の下に折りくべて」ともあれば、陰相を釜ということば天文ごろすでにあったのだ。

 誰も知る通り、西暦十一―十二世紀のあいだ、敏弁無比の名をほしいままにしたアベラールは、二十二も年下な才色兼備のエロイサを名歌と美声で白分にべたぼれさせ、孕ませてのち拐去(かどわか)した仕返しにエロイサの叔父に宮せられ、せっかくの令誉を大いに堕としたが、二人の情愛は死に迨(およ)んで止まず(男六十三で死んだ時、女が四十一歳、これも六十三で一一六三年死んだ)。エロイサ尼の臨終の言により、二十二年前に死んだアベラールと同葬せんとその墓を開くと、屍たちまち両臂を拡げてエロイサを抱きしめ、全き愛は死もこれを消すあたわざるを示した。借老はできなんだが、確かに永々同穴を楽しんだものだ。穴(あな)賢しと今に至って讃称さる(一八一一年トロア板、ムーショー『恋話名彙』一巻、その条。ジスレリ『文海奇観』二板、一巻二一一頁以下。一八九一年板、エルドマン『哲学史』英訳、一巻一六一章)。屍が屍を抱いたのもまた別格の屍愛だ。

 予は東洋にこんな例があるか知らぬが、『十六国春秋』に、後燕の昭文帝、符后を愛することが非常で、后が夏凍魚膾を思い冬生地黄[やぶちゃん注:「生地黄(せいじおう)」は一般にアカヤジオウの根茎を干した漢方薬を指すが、夏に咲くジオウの花を指すか。]を欲した時、みな有司に下して、必ず見出だして献れ、ないでは済まさず死刑に処す、と命じた。后崩ずるに及び、帝気絶し久しうして蘇えり、百官を宮内に召して哭せしめ、涙出た者を忠孝とて涙出ぬ者に罪を加えたので、一同口に辛い物を含んで涙を催した。帝はまた白分の兄の美妻に逼って后に殉死せしめ、廻り数里なる陵を営ましめ、それが成ったら后に随ってこの陵に入るべし、と言った。かかる虐政に堪えず、臣下らは謀反して帝を殺した。『元経薜氏伝』七には、この時帝の屍を符后の墓に会葬し、国人これを笑うたとあるが、これほど后に惚(ほ)け込んだ帝なれば、死した後も地下に両手を拡げて歓迎し、長夜の会を貪っただろう。また本元の支那の書に見えぬが、俗伝が渡日したものか、『今昔物語』一〇の一入に、霍光その妻の屍を柏木の殿に葬り、朝暮食物を供え礼して返る。一日晩方に例のごとく食物を備うると、その妻もとの姿を現じ光を捕えて懐抱せんとす。光恐れ逃る、その腰を妻の手で打たれ、家に還って腰痛んで死んだ、と出ている。これは妻の幽霊に強いて据膳をすすめられたのだ。屍が起きて来たとも見えるから、記しておく。

 この篇の初めに言った同性間の屍変にやや似た例は西洋にもあって、ソーシーの『懺悔篇』七章に、仏皇アンリー三世は嬖童(へいどう)[やぶちゃん注:身分の賤しい寵童。]の屍に脆き、その両山のあいだに著口した、と載す。この皇は小姓を愛すること度に過ぎ、小姓ども閉口して神使の声色を使い、皇に外色を厳戒したという。

 ボールの『色痴篇』に吸血鬼(ヴァンピール)を屍愛と同事異名としてあるが、吸血鬼は仏経に見えた起屍鬼の類で、死人の霊が悪性の者になったり、他の悪鬼が死屍に付いたりして、その死屍が夜間起きて出歩いて人を害するので、さらに屍愛に関係せぬ(委細は、コラン・ド・プランシー『妖怪辞彙』、『大英百科全書』一一板、二七巻、トマス・ライト『中世英国論集』第九論、アッポット『マセドニア俚俗』二一六頁已下、ガーネット『土耳其(トルコ)女とその俗伝』巻一の一三六―四一頁、等で見るがよい)。

 これに反し、諸国に墓所や死人置場に近く宿って死人の霊と通じた多くの譚があるが、そのうちにほ多少屍愛の事実に基づいたのもあろう。『捜神記』一に、附馬(ふば)なる語の源を説いて、辛道度なる者、遊学して雍州(ようしゅう)城西五里の地に至り、一つの屋敷に就(つ)いて食を乞うと、下女が引き入れて主人の女に目見えしめ、食事を振舞われた。それがすむと、女いわく、われは秦王の娘で、曹国へ行ったが夫なしに死して二十三年、この宅に独居するのが淋しい、君と夫婦になろうと逼って、三度振舞ったのち、生きた人と死んだわれと三晩以上宿れば禍いありとて、紀念に金椀一を与え、下女をして送り出させた。数歩行かぬうち顧みれば家はなくて荊[やぶちゃん注:「荊」の(くさかんむり)は(へん)の上のみ。]棘茂った一つの塚のみあり。怪しんで懐中を調べると、只今貰うた椀はある。それから秦国に至り、市に出してその椀を売る折りも折り、王妃、車に乗って来たり合わせ、椀を見て由来を問う。道度が仔細を語るを聞き、妃大いに悲しみかつ疑い、人を遣わしてかの塚を発き枢を開かしむると、王女の屍とともに葬った物がみなあったが、金椀のみはなかった。衣を解いてその体をみるに、情交の跡が確かだった。王妃始めて道度の言を信じ、死んで二十三年にもなるに生きた人と交わったわが娘は大聖だ、この男はわが真の婿だとあって、彼を駙馬都尉に任じ、それに相応の金帛車馬を賜い、本国へ還らしめた。以来、女婿のことを附馬と言うのだ、と。

『法苑珠林』九二に、晋の時、武都の太守李仲文、在郡中に十八歳の娘を死なせ、仮(かり)に葬った。その後、仲文官職をやめ、張世之がこれに代わった。その子、字は子長、年二十で厩にとまっておって、五、六夕、同じ夢を見た。十七、八の女の顔色常ならざるが現われて、われは前の太守李仲文の娘で早く死んだが、汝と相愛し楽しむべく参った、という。それから一日たちまち白昼にことの外よい匂いの衣服を着て現われ、ついに夫妻となったが、寝た時衣が汗に沾(ぬ)れて体が全く処女のごとし。そののち、仲文は婢をして娘の墓へ詣らせる途次、その婢が世之方に立ち寄り、仲文の娘の履(くつ)片足、子長の牀下にあるを見つけて、この人はわが主人の娘の墓を掘ったと呼ばわり、持ち帰って主人に示すと、仲文驚いて世之を詰(なじ)り、世之はその子に問うて始終を聞き知った。そこで、李張ともに怪しみ棺を発して見ると、娘の体に肉生じ顔姿は元のごとく、右脚に履をはき左脚に履なし。そののち娘全く死し肉が落ちてしまったから、泣いて別れたという。「衣みな汗あり、処女のごとし」とは破素されたさい汗が衣に通るというので、『源氏物語』に、源氏が紫の上に新枕の条に、「思いの外に心うくこそおわしけれな、人もいかに怪しと思うらんとて、御衾をひきやりたまえば、汗に押し浸して額髪もいたう沾れたまえり」。『難波江』に、『狭衣』や『とりかへばや物語』を引いて、女の世馴れてあるとなきとは、初めて逢える男の心に知られる由を説きあるも、こんなことからであろう。

『珠林』同巻にまた言う。唐の王志、益州県令に任じ、期満ちて帰郷の途中、綿州でその娘未婚で死んだから、棺をその地の寺に停め、そこに累月留まった。その先よりこの寺に留まっておった学生の房内へ、この死んだ娘が盛装して来たり恋慕の情を明かしたので、相知って月を経た(ここに知るというは交わるの義で、英語に同じ)。のち女が銅鏡一つ、巾櫛各一を学生に与え、辞別した。家来どもが出発に臨み、件(くだん)の物件紛失に驚き寺中を捜し学生の房中で見出だしたから、盗人と見て縛っておいた。学生は事実を説き、まだ衣服二枚も紀念品として貰うたと言ったので、棺を開き見れば衣服が二枚ない。女の身をみれば人に幸された徴あり。よって解放してどこの人かと聞くに、もと岐州生れで、父が南の方へ任官して往くのに随うたが、両親とも死んだによって諸州を廻り学問し、ほどなく岐州へ還るつもりであると言う。王志もまた岐州へ還るものであるから、さては同郷の人だとて衣馬を給し著飾らせ、つれ帰って娘の夫とし、甚く(いた)憐愛した、とある。これは殯礼(ひんれい)のため棺を寺内に置いたと知って、その学生がひそかにその棺を開き毎夜屍愛をほしいままにしたので、これに似た例がボールの『色痴篇』に出ている。屍に付いた物を盗んで、その女の霊に逢い、または相愛した証拠とし、女の親を騙った話は『続沙石集』五下、『本朝虞初新誌』巻上等に見えている。                     (大正十四年六月『変態心理』一五巻六号)

【追記】

 左の経文の方が寂昭の話によく似ておる。

 趙宋の西天三蔵伝梵大師法護等が訳した『仏説如来不思議秘密大乗経』巻の二にいわく、もしあるいは男人染心を貪る者ありて、殊妙端厳の色相に愛着せば、菩薩すなわちその前において、ために端厳女人の相を現じ、かの弟子染愛の心に随いて、ことごとくその意のごとくす。時にかの女人染着をもってのゆえに、形容枯悴しすなわち命終に趣き、根門敗壊、臭穢不浄なり。時に、かの男子無智をもってのゆえに厭悪して去る。すなわちその人死滅の身、自然声を出だし、ために法要を説き、かの男子をして心に開悟を生じ、阿耨多羅三藐(あのくたらさんみゃく)三菩提に退転せざらしむ、と。

                         (大正十四年十二月『変態心理』一六巻六号)

【追補】

 大江匡房の『続本朝往生伝』に、寂昭、妻の屍を早く葬らず、九相を観て道心を起したことを記した前に、「沙門の賢救、因幡(いなば)の国に住し、徳行は境内に被(こうむ)り、威は刺史よりも重し。密室の間を造って、人して見せしめず。独りみずからここに入り、観念坐禅す。ある人言う、むかし愛するところの小童、早く天年を夭(よう)す。早くに瘞埋(うず)めずして没後の相を見、不浄観を起こす。この観成熟して、証入すること日に深し。凝(こ)って一分の無明(むみょう)をも断ちしか。臨終には正念し、端座念仏して遷化す」と記しおる。前年、中学教科書に編入されて問題を惹起した上田秋成の『雨月物語』五なる、下野のある阿闍梨のが童子の屍を愛するあまり、これを啖(くら)い尽した譚は、この賢救法師のことより案出したものか。(大正十五年十月五日夜十時記)