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鬼火へ


奇異の神罰 南方熊楠 附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:明治451912)年7月「此花」凋落号所収(「凋落号」たあ洒落た名前よ)。底本は1991年河出書房新社刊中沢新一編《南方熊楠コレクション》第三巻「浄のセクソロジー」所収のものを用いた(底本の親本は平凡社版「南方熊楠全集」第二巻457460頁とある)。但し、鍵括弧で段落が始まる冒頭は一字下げを行なった。少々ルビがうるさいが「弊悪婦(あばずれめ)」や「弊物(ろくでなし)」といつもの明白な南方節と思われるものが炸裂しているので、底本のルビを全て用いた。なお、本作は極めて性的な内容を論じている。自己責任でお読み戴きたい。末尾にオリジナルな注を附したが、本文の4倍以上になった。]

 

奇異の神罰

 

『猥褻風俗史』十二張裏に、宝永七年板『御入部伽羅女(ごにゅうぶきゃらおんな)』等を引き、伊勢詣りの男女途中で交接して離れざるものを見世物にしたる由見ゆ。樽屋お仙(『好色五人女』巻二)、お半長右衛門(『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』)など、書に便りて淫奔せし例少なからねば、自然かかる見世物も信受(まにうけ)られしなり。

 伊勢道中に限らず、諸所の聖地に今もまま実際かかることあるは、四年前七月二十日の『大阪毎日』紙上、三面先生の「別府繁盛記」に、温泉の由来を説明する「坊さんなお続けて言う。不思議なことには、中で不浄なことがあると、きっと湯が冷え切りますじゃ。愚僧の時代にも三度ほどありました。十年ばかり前になりますがの、男女の不埒者がありましてな、合うたところが離れません。その時も湯がことごとく冷え切りまして、三日三夜(みよさ)大祈禱を行ないましたじゃ。このごろは滅多にありません。何(なん)し信仰が強いよって、そんな馬鹿者は、十年に一人ともまあ出ませんわい」云々。紀州田辺に藤原抜高(のぬけたか)と綽名立ちし人ありし。三十年ほど前、近町の寡婦と高野の女人堂で淫行して離れえず。僧の加持を頼みわずかに脱して還れるを、当時流行唄で持て囃され、今も記臆する人多し、『続群書類従』所収『八幡愚童訓』巻下に、御許山(おもとやま)の舎利会(しゃりえ)に、一僧、女房を賺(すか)して人なき谷底にて犯しけるほどに、二人抱き合うて離れず、命失せにけり、と載す。文の前後を推すに、鎌倉時代のことのごとし。

 外国の例は、元の周達観の『真臘(今のカンボジア)風土記』に異事と題して、「東門の裏に、蛮人のその妹を淫する者あり、皮肉たがいに粘(つ)いて開かず、三日を歴て、食らわずしてともに死す。余の郷の人薛氏は、番におること三十五年なり。かれの謂うに、ふたたびこのことを見たり、と。けだしそれ聖仏の霊をもって、故にかくのごときなり」。一八七七年ロンドン板、ゴルトチッヘルの『ヘブリウ鬼神誌』一八二頁に、回教徒が巡礼するカバ廟で語らいした罰に化石した男女のことを記せる。また『嬉遊笑覧』所引、明の祝允明(しゅくいんめい)の『語怪』に、兗州(えんしゅう)人家の贅婿(いりむこ)その妻の妹と通じ、事露われしが、抗弁して岱山頂に上り、二人果たして私あらば神課を受けんと祝し、山腹の薄闇き所でたちまち行淫して久しく還らず、人々尋ね見出だせしに、二根粘着(ひっつ)き解けずして死しおったり、とあり。唐の段成式の『酉陽雑姐』続集六に、「長安静城寺の金剛は旧(ふる)く霊(くしび)あり。大宝の初め、附馬の独孤明の宅、寺と相近し。独孤に婢あり、懐春と名づく。稚歯(としわか)くして俊俏(みめよ)し。常に西隣りの一士人と悦(たのし)む。よって宵に寺門にて期(あ)う。巨蛇あってこれを束(つか)ね、ともに卒す」。実は例の離れずに死におったるを、蛇に束ね殺されしと偽言せしならん。

 東晋の代に天竺三蔵覚賢(ブダバートラ)が訳せる『観仏三昧海経』巻七にいわく、波羅奈(はらな)国の婬女、名は妙意、世尊この女を化度せんとて三童子を化成す。年みな十五、面貌端正、一切の人に勝れり。この女これを見て大いに歓喜し、語るらく、「丈夫(おのこ)よ、われ今この舎(いえ)は、功徳天のごとく富力自在にして、衆宝もて荘厳(かざり)をなす。われ今身とおよび奴婢をもって、丈夫に奉(ささ)げ上(たてまつ)り、灑掃(さいそう)に備うべし。もしよく顧(かえり)みて納(い)れ、わが願うところに随えば、一切を供給し、愛惜するところなし」とて招き入れ、「すでに付(したが)い近づきおわる。一日一夜、心疲れ厭(う)まず。二日に至りし時、愛の心ようやく息む。三日に至りし時、白(まう)していわく、丈夫、起きて飲食すべし、と。化人すなわち起き、纏綿としてやめず。女、厭悔を生じ、白(もう)していわく、丈夫は異人なれば乃(すなわ)ち爾(しか)り、と。化人告げていわく、わが先世の法は、およそ女子と通ずるに、十二日を経てしかるのちに休息す、と。女は、この語(ことば)を聞き、人の食らいて噎(おくび)して、すでに吐くを得ず、また咽(の)むを得ざるがごとし。身体の苦痛なること、杵にて擣(つ)かるるがごとし。四日に至りし時は、車にて轢(ひ)かるるがごとし。五日に至りし時は、鉄の丸(たま)の体に入れるがごとし。六日に至りし時は、支節ことごとく痛み、箭(や)の心(むね)に入れるがごとし」。婬女大いに懲り果て、われ今より一生色を貪らじ。むしろ虎狼と一穴に同処するも、色を貪ってこの苦を受けじと念う。「化人また嗔(いか)るらく、咄(とつ)、弊悪婦(あばずれめ)、汝はわが事業を廃せり。われ今汝と共に合体して一処なれば、早く死するにしくはなし。父母宗親、もし来たって覓(もと)むれば、われは何処(いずこ)にみずから蔵(かく)れん。われはむしろ経(くび)れて死(し)せん。恥を受くるに堪えず、と。女いわく、弊物(ろくでなし)、われは爾(なんじ)に用なし、死を欲するも随意なり、と。この時、化人、刀をって頸を刺す。血流るること滂陀(ぼうだ)として女身を塗汚(けが)し、萎沱(くずお)れて地にあり。女は勝(た)うるあたわざるも、また免(のが)るるを得ず。死して二日を経、青き淤(うみ)臭熏(にお)う。三日にして膖張(ぼうちょう)し、四日にして爛潰す。五日に至りし時、皮肉しだいに爛(ただ)れ、六日にして肉落ち、七日にしてただ臭骨あるのみ、膠(にかわ)のごとく漆(うるし)のごとく女身に粘著す。一切の大小便利および諸悪虫、迸(ほとば)しりし血ともろもろの膿(うみ)、女身に塗(へば)り漫(つ)く。女、きわめて悪厭するも離るるを得ず。誓願を発すらく、もし諸天神、および仙人・浄飯王子、能くわが苦しみを免れしめば、われこの舎の一切の珍宝を持って、もって用いて給施(ほどこ)さん、と」。かく念ずるところへ、仏、阿難を伴い来たる。女これを見て、男の屍を離さんとするに離れず、白氈もて覆うに臭きゆえ覆いえず。大いに慚愧して救いを乞いければ、仏の神力で臭屍消え果せ、婬女仏に帰依し、すなわち道を得たり、と。これあまりに大層な話なれど、宗教心厚かりしインド人中には、二根離れざるを愧(は)じて死し、熱地のことゆえ、たちまち屍が腐り出だせし例もありしによって、作り出だしたる訓戒なるべし。

 本朝の仏書には、弘仁中僧景戎の著『日本霊異記』巻下に、宝亀二年夏六月、河内の人丹治比(たじひの)経師(きょうじ)、他人のために野中堂にて法華経を写す際、雨を避けて女衆狭き堂内に込み合いしに、「経師、婬心熾(さか)んに発(おこ)り、嬢(おんな)の背に踞(うずくま)り、裳を挙げて婚(くがな)う。※1(まら)の※2(しなたりくぼ)に入るまにまに、手を携えてともに死す。ただ女の口より漚(あわ)を嚙み出だして死せり」[やぶちゃん字注:「※1」=「門」+(門の中に)「牛」。「※2」=「門」+(門の中に)「也」。]。また巻中に、聖武帝の時、紀伊の人上田三郎、妻が寺に詣りしを憤り、往って導師を汝わが妻を婚せりと罵り、妻を喚んで家に帰り、「すなわちその妻を犯す。卒爾(にわか)に※1(まら)に蟻著いて嚙み、痛みて死す」と出でたり。また『常陸風土記』香島郡の那賀寒田郎子(なかさむたのいらつこ)、海上安是嬢子(うみかみあぜのいらつめ)と相愛し、嬥歌(かがい)で出会い、松下に蔭れ、「手を携え、膝を※3(つら)ね、懐(おも)いを陳(の)べ、憤(いきどお)りを吐く。すでに故(ふる)き恋の積もれる疹(やまい)を釈(と)き、また新しき歓びのしきりなる咲(えま)いを起こす。(中略)にわかにして、鶏鳴き狗吠えて、天(そら)暁(あ)け日明らかとなる。ここに僮子(うない)等(たち)、なすところを知らず、ついに人の見んことを愧じ、化して松の樹となる。郎子(いらつこ)を奈美松(なみまつ)と謂い、嬢子(いらつめ)を古津松(こつまつ)と称(い)う。古えより名を着けて、今に至るも改めず」。これも露わに言いたらねど、交会のまま脱するをえず、人の見るを羞じて二松相連なれるものと化したり、と謂うにあらざるか。相生の松、連理の松など、諸所に間(ま)まあり。したがって紀海音作『今宮心中丸腰連理松』という戯曲(じょうるり)などあり。和歌浦近く鶴亀松とて、二本の松の根連なれるありしが、先年倒れ失せたり。

 宋の康王、韓朋を殺し、その美妻を奪いしに、妻自殺し、二人の墓より樹生じ、枝体相交わりしを王伐らんとせしに、鴛鴦(おしどり)に化し飛び去れりという。『長恨歌』に、地にあっては連理の枝とならんと、明皇(めいこう)が貴妃と契りしも、詰まるところは双身離れざるを望みたるなり。支那には男色の連理樹さえあり。董斯張の『広博物志』巻二〇にいわく、「呉の潘章は、少(わか)くして美なる容儀あり。時の人競いてこれを慕う。楚国の王仲先、その美名を聞き、故(とく)に来たり求めて友となる。よって同(とも)に学ばんことを願い、一見して相愛し、情夫婦のごとく、同衾共枕す。交好やむことなく、のちともに死す。しかして家人これを哀れみ、よって羅浮山に合葬す。塚の上にたちまち一樹を生じ、柯条(かじょう)枝葉、相抱かざるなし。時の人これを異とし、号(なづ)けて共枕樹となす」と。『日本紀』にも、神功皇后、紀伊に到りたまいし時、両男子相愛し、死して一穴に葬られしことあり。ただし、樹を生ぜしことなし。

 神仏の罰によって両根相離れざる諸話、全くよりどころなきにあらず、本人すでにみずからその非行を知るが故に、恐怖大慚して、陰膣痙攣(ヴァギニスムス)を起こし、双体たちまち解くるを得ざるなり。(予が知れる一医師、先年東京にありし日、華族の娘、書生と密会して、この症頓発し離れあたわざるところへ招かれ、灌腸してこれを解(とか)し、翌日五十円を餽(おく)られし由聞けり。)場合により、ことさらに不可解覓(もと)め楽しむ人もあるは、万暦中の輯纂に係ると覚しき、『増補万宝全書』巻六〇、春閨要妙の中、相思鎖方(そうしさのほう)、金鎖玉連環方(ぎょくれんかんのほう)等の奇法を載せたるにて明らかなり。

 

■「奇異の神罰」やぶちゃん注

・『猥褻風俗志』:宮武外骨著。明治441919)年雅俗文庫刊。宮武外骨(慶応(1867)年~昭和301955)年)は反権力に徹したジャーナリスト・風俗研究家。

・『御入部伽羅女』:浮世草子。湯漬翫水作。宝永7(1710)年刊。

・便りて:普通に「便(たよ)りて」と読み、~に依る、~を用いて、の意。

・三面先生:記者のペンネームであろう。

・三夜(みよさ):「よさ」は「夜去る」(古語で夜が来るの意)の名詞化した「夜去り」の語尾が脱落したものである。懐かしい響きである。私が青春時代を過ごした富山では「よさり」=「夜」という語が今も生きているのである。

・高野の女人堂:高野山は明治51872)年に女人禁制が解かれるまで、女性は入山出来なかった。高野山への参道は「高野七口」と呼ばれ、以前はそれぞれの入口に女性のための籠り堂として女人堂が建てられていた。女性信者はこの女人堂を巡りつつ、八葉蓮華の峰々を辿って御廟を遥拝した。この巡礼道を「女人道」と呼ぶ。

・『八幡愚童訓』「はちまんぐどうくん」又は「はちまんぐどうきん」と読む。鎌倉時代中期~後期の成立とされる縁起。作者不詳。「愚童訓」とは八幡神の神徳を「童子や無知蒙昧の徒にも分かるように読み説いたもの」という意味で、三韓征伐から文永・弘安の役までの歴史的事実を素材としつつ、八幡神の霊験を説いている。石清水八幡宮社僧の作と推定されている。「八幡大菩薩愚童訓」「八幡愚童記」とも言う。

・御許山:宇佐神宮(大分県宇佐市大字南宇佐)の背後にある山。宇佐神宮の神比売大神(ひめのかみ)が降臨した山として崇拝され、現在もその頂上は神域として立入禁止となっている霊山である。

・舎利会:寺に於いて仏の遺骨を供養する法事のこと。舎利講会・舎利講とも言う。

・賺して:だましていざない、の意。

・『真臘風土記』:「しんろうふどき」と読む。元の周達観撰になる見聞録。周達観は成宗元貞元年(1295)年7月から翌年6月にかけて、元朝の真臘(現カンボジア)への使節団に随行して約一年滞在したが、その間に見聞きした現地の風俗や異聞を記録したもの。実際の執筆は1300年頃と考えられるが、アンコール時代の見聞録は他に例がなく、極めて重要な風俗資料とされる。

・薛氏:姓名。「薛」は「せつ」と読む。

・番:「蕃」の通用字であろう。「南蛮」と同義で、南方の異民族の地を指している。

・ゴルトチッヘルの『ヘブリウ鬼神誌』:作者・著者共に私には未詳。ただ、これは南方の「十二支考」の一つ「田原藤太竜宮入りの譚」の「竜の起原と発達」の条に現れる「一八七六年版ゴルトチッヘルの『希伯拉鬼神誌《デル・ミスト・バイ・デン・ヘブレアーン》』に……」と、出版年に一年の齟齬はあるが、同じ書物かと思われる。「希伯拉」が「ヘブリウ」で、ヘブライである。本書及び著者について、識者の御教授を乞う。

・カバ廟:Ka’baKa’abaとも)カーバは、イスラム教の最高の聖地メッカのマスジド・ハラームの中心部にある建造物のこと。最高の聖地の最高の聖殿で、カーバ神殿とも呼称される。本来はアラビア語で「立方体」を意味する。宮殿の形状が立方体に近いことから名づけられた。

・祝允明:(14601526)明代中期の文人・書家。著名な書に「楷書出師表巻」がある。「語怪」という彼の書については不詳であるが、2008年汲古書院刊の松村昴「明清詩文論考」という本の目次に「第三部:祝允明論 祝允明の思想と文学/祝允明と李白・杜甫/祝子、怪を語る」というクレジットがあるのを見かけたので、そのような志怪書をもものしているのであろう。

・兗州:狭義には現在の山東省西南部にある済寧市の県級市である兗州市周辺を指すが、兗州の名は古代中国の天下九州の一である兗州に由来するので、もっと広域をイメージすべきかも知れない。

・岱山:泰山のこと。山東省泰安市にある霊山。標高1,545m。封禅の儀が行われる霊山として知られ、道教の聖地五岳(東岳泰山・南岳衡山・中岳嵩山・西岳華山・北岳恒山)の筆頭。

・『酉陽雑姐』続集六に、「長安静城寺の金剛は……:この話は同書続集巻六(平凡社1981年刊の東洋文庫今村与志雄訳注「酉陽雑姐」第3巻26頁通し番号1056)の「宜陽坊静城寺(じょうじょうじ)」(通し番号1054)条に現れる(以下は当該訳書を参照・引用した)。既に1054の項で、門の東の内側には、夜叉や鬼神の画が描かれ、特に「鬼の頭上にとぐろをまいている蛇は汗烟(かんえん)でおそろしい」とあり、東の廊の庭にある樹木や岩石も険阻にして奇怪であると記す(「汗烟」という語は見かけないが、冷汗が出てそれが煙のように立ち上るほど、慄とするということか)。1056には「三門外の絵画も、やはり皇甫軫の筆蹟である。金剛(こんごう)は、かねてから霊験があった。/天宝〔七四二―七五五年〕のはじめ、附馬(ふば)の独孤明の邸宅は、寺と近かった。独孤には、懐春という名の女奴隷がいた。うら若く、きりょうがよかった。あるとき、西隣にすむ一士人が好きになって、そこで、夕方寺の門であいびきを約束した。ところが大きな蛇が、まきついてしめ、二人とも死んでしまった。」とある。独孤明は玄宗の皇女信成公主が嫁いだ実在の人物である。皇甫軫(こうほしん)なる画家については未詳。

・『観仏三昧海経』:「かんぶつざんまいかいきょう」と読む。十巻からなる仏典。東晋のインド僧仏駄跋陀羅(ぶっだばだら)訳。十二品に分けて、仏を観想する際の方法とその功徳について詳述する。仏駄跋陀羅(359年~429年)は漢訳略称を覚賢・仏賢・覚見とも言い、北インド出身であったが当時の東晋に渡り、仏典の漢訳に携わった訳経僧であった。「大般涅槃経」「華厳経」「摩訶僧祇律」等禅関連の経典漢訳で知られる。南方の引用するエピソードについては森雅秀「『観仏三昧海経』「観馬王蔵品」における性と死」(PDFファイル)に詳しい。一読をお薦めする。

・波羅奈国:梵語Vrasの漢訳。ガンジス川中流の聖都バラナシを中心とした古代インドの王国名。その郊外に釈迦に纏わる鹿野苑(ろくやおん)がある。古くからの王国であったが、釈迦の時代にはコーサラ国と併合されている。

・灑掃:「洒掃」とも。「洒」や「灑」はどちらも水を注ぎかけるの意で、水をかけ、塵を払って清掃すること。

・噎(おくび)して:むせぶ。食物が喉につかえる、の意。

・色を貪ってこの苦を受けじ:ここは二度と再び色欲を発して再びこの交接することの苦しみを受けることは断じて拒絶しよう、の意。

・宗親:広義には同姓の人々を指し、同じ先祖から別れた同姓の親族・血族を言うが。特に近親者を言うと考えてよい。

・刀をって:底本ママ。「刀をもって」の脱字か「刀折って」の誤字か。前者と方が通りがよい。

・死して二日を経、青き淤臭熏う……:以下は、私には九相図的描写・説法として受け止められる点で極めて興味深い。

・浄飯王子:釈迦のこと。浄飯王は梵語のSuddhodhan(スッドーダナ)の漢訳で、迦毘羅衛城(かびらえじょう)の王で、彼の皇太子が釈迦である。一説には釈迦の父浄飯王の弟の息子が釈迦の弟子となった阿難であるとも言われる。

・白氈:「はくせん」と読む。白い毛氈のこと。毛氈は獣の毛に湿気や熱・圧力を加えて、繊維を密着させ、織物のようにしたものをいう。

・弘仁:「こうにん」。西暦810年~823年。皇位は嵯峨及び淳和天皇。日本史のトピックとしては弘仁元(810)年の薬子の変が知られる。

・景戒:「きょうかい」又は「けいかい」と読む。生没年不詳。奈良期の薬師寺の僧。延暦14795)年に伝灯住位を受けているが、専ら本邦初の仏教説話集「日本国現報善悪霊異記」の著者として知られる。この略称「日本霊異記」(にほんりょういき)は延暦6(787)年頃に初稿を書き上げた後、増補改訂しながら、弘仁13822)年に完成させたものと推定されている。

・『日本霊異記』巻下に、宝亀二年夏六月……:「日本国現報善悪霊異記」下巻第十八に現れる話。以下に昭和321957)年角川書店刊の板橋倫行校註版から全文を引用し、私の注を附す(それを以て本文の一部の注に代える)。

 

法花經を寫し奉る經師(きやうじ)、邪婬をなし、現に惡死の報を得る縁第十八

丹治比(たじひ)の經師は、河内の國丹治比(たじひ)の郡の人なり。姓は丹治比なるが故に、もちて字(あざな)とす。その郡の部内に一つの道場あり。號けて野中(のなか)の堂と曰ふ。願を發す人ありて、寶龜二年辛亥(かのとゐ)の夏六月もちて、その經師をその堂に請(う)け、法花經を寫し奉らしむ。女衆參(ま)ゐり集(つど)ひて、淨水をもちて經の御墨(みすみ)に加ふ。時に未申(ひつじさる)の間に、段雲(たなぐも)り雨降る。雨を避けて堂に入るに、堂の裏(うら)狹少(せま)きが故に、經師と女衆と同じ處に居り。ここに經師、婬(みだりがは)しき心熾(さかり)に發(おこ)り、孃(をみな)の背(せなか)に踞(うづくま)り、裳を擧げて婚(くがな)ふ。※1(まら)の※2(しなたりくぼ)に入るるまにまに、手を携へて倶に死ぬ。ただ女の口より漚(あわ)を嚙み出して死にき。あきらかに知る、護法(ごほふ)の形罰なることを。愛欲の火、身心を燋(や)くといへども、婬しきの心に由りて、穢(きたな)き行(わざ)を爲さざれ。愚人の貪(ふけ)る所は、蛾の火に投(い)るが如し。所以(このゆゑ)に律(りち)に云はく。「弱脊(じやくはい)みづから面門に婬(いん)す」といへり。また涅槃經に云はく「五欲の法を知らば、歡樂有ること無し。しばらくも停ることを得じ。犬の枯れたる骨を齧(かぶ)るに、飽厭(あ)く期(とき)無きが如し」といふは、それこれを謂ふなり。

 

○やぶちゃん注

●丹治比:現在の大阪府松原市の柴籬神社を中心とした一帯を指すか。

●経師:写経を生業とする職人。

●號けて:「號(なづ)けて」と読む。

●野中堂:底本脚注に『南河内郡埴生村野々上に舊伽藍趾がある。』と記す。

●※1(まら):陰茎。「閉」の俗字。

●※2(しなたりくぼ):会陰。「開」の俗字。

●護法:護法童子。仏法を守護するために働く童子姿の鬼神。護法天童とも。

●律:仏法に於いて僧侶の守るべき規則。

●「弱脊みづから面門に婬す」:「面門」は口のことで、「若さ故に背の柔らかな若者は、情欲にとらわれれば、自分の口でもってさえ自慰行為をする」という謂いである。

●五欲:色・声・香・味・触の五境への執着から生ずる五種の情欲。

●法:dharma ダルマの漢訳語。三宝(仏教における3つの宝物。仏・法・僧(僧伽))の一。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらが信仰の中に於いて働く様態を意味する。仏教教義の法則のこと。

●齧(かぶ)る:喰らいしゃぶる。

 

・巻中に、聖武帝の時、紀伊の人上田三郎……:「日本国現報善悪霊異記」中巻第十一に現れる話。以下に昭和321957)年角川書店刊の板橋倫行校註版から全文を引用し、私の注を附す(それを以て本文の一部の注に代える)。原文の割注は【 】で示した。

 

僧を罵ると邪婬とにより惡病を得て死ぬる縁第十一

聖武天皇の御世、紀伊の國伊刀(いと)の郡桑原の狹屋(さや)寺の尼等願を發(おこ)して、かの寺に法事を修す。奈良の右京の藥師寺の僧題惠禪師(だいゑぜんじ)【字を依網の禪師と曰ふ。俗姓依網(よさみ)の連(むらじ)の故に以て字とす。】を請(う)け、十一面觀音の悔過(けくわ)を仕(つか)へ奉(つかまつ)る。時に彼の里に一の凶人あり。姓は文(ふみ)の忌寸(いみき)なり。【字を上田三郎と云ふ。】天骨(ひととなり)邪見にして、三寶を信(う)けず。凶人の妻は、上毛野(かみつけ)の公(きみ)大椅(おほはし)が女(むすめ)なり。一日一夜に八齋戒(はちさいかい)を受け、參(ま)ゐりて悔過(けくわ)を行ひて、衆の中に居り。夫、外より家に歸りて見るに妻無し。家人に問ふに、答へて曰はく「參ゐりて悔過を行ふ」といふ。聞きて瞋怒(いか)り、即ち往きて妻を喚(よ)ぶ。導師見て義を宣べて教化す。信受(う)けずして曰はく「無用(いたづら)の語(こと)をたり。汝、吾が妻に婚(くなが)はば、頭(かしら)罰(う)ち破らるべし。斯下(しげ)の法師」といふ。惡口多言(あくくたごん)、具に述ぶること得ず。妻を喚びて家に歸り、すなはち其の妻を犯す。卒爾(にはか)に※1(まら)に蟻著きて嚼(か)み、痛み死にき。刑を加へずといへども、惡心を發(おこ)し、濫(みだりがは)しく罵(の)りて恥づかしめ、邪婬を恐れざるが故に、現報を得たり。口に百舌を生(しやう)じ、萬言白(まを)すといへども、ゆめ僧を誹ること莫かれ。たちまちに災を蒙(かがふ)らむが故なり。

 

○やぶちゃん注

●邪婬:〔題名中〕妻が八斎戒を修している最中に強引に交合をしたことを、かく言っている。

●紀伊の國伊刀の郡桑原:底本脚注に『和歌山県伊都郡』とし、「桑原」は『所在不明。きの川の右岸の笠田村・大谷村のあたりだろうといふ。』とある。新日本古典文学大系38「日本霊異記」の出雲路修氏による頭注では、同郡『かつらぎ町佐野(さや)に所在。佐野廃寺跡がその地とされる。』とする。

●題惠禪師:未詳。

●悔過:懺悔。

●凶人:性質が粗暴で凶悪な人。

●三寶を信けず:「三寶」は仏教における3つの宝物。仏・法・僧(僧伽)を言うが、ここでは成句として、仏道への信仰心を全く持たないことを言う。

●上毛野の公大椅:不詳。「上毛野」は現在の群馬県。「公」は国守。

●八齋戒:八戒斎(はっかいさい)。八つの戒と一つの斎で、在家信者が一日一夜の期限を切って、出家と同様に心身を慎しむことを言う。不殺生戒・不偸盗戒・不婬戒・不妄語戒・不飲酒戒(ふおんじゅかい)・不香油塗身戒(ふこうゆずしんかい:身体に贅沢な香油を塗ったり化粧をしたりすることの禁止。)・不歌舞観聴戒(ふかぶかんちょうかい:歌舞音曲、その行為及び鑑賞の禁止。)・不高広大床戒(ふこうこうだいしょうかい:高く広い豪華な寝台の使用禁止。)が八戒、それに斎(とき:食事。)に関わる不非時食戒(ふひじじきかい:昼以後の飲食(おんじき)禁止。)を加えたもの。

●無用の語:馬鹿げたこと。題恵禅師が妻の無実を証明し、文忌寸の非道を諭した言葉に対しての傲岸不遜な罵詈雑言である。

●斯下の法師:クソ坊主が! の謂い。

●蟻:新日本古典文学大系38「日本霊異記」の出雲路修氏による頭注に、十一面観音を記念する際の尊称として『聖者の意の「阿利耶」「阿利也」が冠せられた語形が用いられる。アリヤ、と唱えたので蟻が救いに現れた、という説話か。』とある。魔羅から蟻、目から鱗である。

●萬言白すといへども:どれほどべらべらと言いたい放題のことを言って他人を罵る場合でも、の意。

 

・『常陸風土記』香島郡の……:以下に1937年岩波書店刊の武田祐吉篇「風土記」から該当箇所を引用し、私の注を附した(注では日本古典文学大系2秋本吉郎校注「風土記」(1598)の頭注に多くを依らせて頂いた)。底本の割注は【 】で示した。

 

南に童子女(をとめ)の松原あり。古(いにしへ)、年少(わか)き童子ありき。【俗にかみのをとこ、かみのをとめといふ。】那賀(なか)の寒田(さむだ)の郎子(をとこ)と稱(い)ひ、女を海上(うなかみ)の安是(あぜ)の孃子(をとめ)と號(なづ)く。並に形容(かたち)端正(きよら)にして、郷里(さと)に光(て)り華(にほ)けり。名聲(な)を相聞きて、同(とも)に望念(おもひ)を存(おこ)し、自づから愛(め)づる心熾(さかり)き。月を經日を累ねて、嬥歌(かがい)の會(ゑ)に、【俗にうたがきといひ、又かがひといふ。】邂逅(わくらば)に相遇へり。時に、郎子(をとこ)歌ひて曰ひけらく、

  いやぜるの 阿是(あぜ)の小松(こまつ)に

  木綿(ゆふ)垂(し)でて 吾(わ)を振(ふ)り見(み)ゆも

  安是小島(あぜこじま)はも

孃子(をとめ)報(こた)へ曰ひけらく、

  潮(うしほ)には 立(た)たむといへど

  汝夫(なせ)の子が

  八十島(やそしま)隱(かく)り 吾(わ)を見(み)さば 著(し)りし

すなはち、相語(かた)らまく欲(ほ)りして、人の知らむことを恐り、遊(あそび)の場(には)より避けて、松の下に蔭(かく)り、手攜へ膝を促(ちかづ)け、懷(おもひ)を陳(つら)ね、憤(いきどほり)を吐く。既に故(ふる)き戀の積れる疹(やまひ)を釋き、還(また)新しき歡びの頻なる咲(ゑみ)を起こす。時に、玉のごとき露杪(こぬれ)に候(うかが)ひ、金風(あきかぜ)の節(とき)なり。皎々(けうけう)たる桂月の照らす處、西の洲に唳(な)ける鶴(たづ)あり。颯々たる松風(まつかぜ)の吟(うた)ふ處、東の路に度(わた)る雁あり。山は寂寞かにして巖の泉舊(ふ)り、夜は蕭條として烟れる霜新なり。近き山にはおのづから黄葉(もみじば)の林に散る色を覽(み)、遙けき海には唯(ただ)蒼波の磧(いそ)に激(たぎ)つ聲を聽く。玆に玆の宵(ゆふべ)あり。樂しみこれより樂しきはなし。偏(ひと)へに語らひの甘味に耽り、夜の闌(た)けなむとすることを忘る。俄にして鷄鳴き狗吠え、天曉(あ)け日明かなり。爰に童子(わらは)等(ら)、爲(せ)むすべを知らに、遂に人に見らゆることを愧(は)ぢて、松の樹と化成(な)れり。郎子(をとこ)を奈美松(なみまつ)と謂ひ、孃子(をんな)を古津松(こつまつ)といふ。古(いにしへ)より名を著けて、今に至るまで改めず。

 

○やぶちゃん注

●童子女の松原:「童子女」は「うなゐ」とも読む。岩波版日本古典文学大系2秋本吉郎校注「風土記」の頭注にここを同定して茨城県波崎町波崎の手子崎神社の『北方の旧若松村の海辺か。』とする。

●童子:複数を示しているので、髫(うないがみ)をしている男女。髫(うないがみ)とは七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らした髪型。また、女児の髪を襟首の辺りで切り下げた髪型をも言う。この場合は、祝との関連から前者。

●かみのをとこ、かみのをとめ:神男・神女であるから、彼らが下級神官であったことが分かる。また、この時代、神官は年齢に関わらず垂髪(うない髪)でなくてはならなかった。

●那賀の寒田:秋本吉郎氏頭注によれば、神栖村。現在の茨城県の最東南端にある神栖市内。

●海上の安是:秋本吉郎氏頭注によれば、利根川河口付近の地名とする。

●嬥歌(かがい):古代の習俗である「歌垣」(うたがき)のこと。男女が山野海浜に集まって歌舞飲食等をしつつ、豊作祈願やその成就を祝った。多くは春と秋に行われたが、その場は相互の意思疎通による自由な性交渉も許されるハレの場でもあって、古代における求婚形式としては極普通のものでもあった。

●邂逅:偶然出逢って。

●いやぜるの……:「いやぜる」は秋本吉郎氏頭注によれば、地名の安是の冠称とする。意義は不詳。「小島」は可憐な少女を言うのであろう。オリジナルに自在に通釈する。

手折った安是の小松の枝に

羽衣のごと木綿懸け 垂らして舞うは乙女子よ

その天つ女の羽衣は ああ、吾の方へと振ると見ゆ

安是は可愛いや 小さき島――

●潮には……:オリジナルに自在に通釈する。

潮(うしお)寄せくる浜の辺に 人知られずにあらばよし

ああ、そう思うたに 少年の眼(まなこ)確かに

真砂なす 島の中にぞ隠れおる 我をつらまえ 走るは走る――

●攜へ:「攜(たづさ)へ」。

●釋き:「釋(と)き」。

●杪(こぬれ):=梢。

●玆に玆の:「玆(ここ)に玆(こ)の」で、強調形。

●奈美松:秋本吉郎氏頭注によれば、『見るなの松。禁忌の樹で見触れることを避ける名か。』とする。

●古津松:秋本吉郎氏頭注によれば、前注と同様に『屑松。同じく禁忌の樹で利用しない故の卑称か。コツは木屑の意。』とある。

 

私はこの恋愛譚、何か哀しく美しいものに見える。これを、このような話の傍証にした南方が珍しく憎くなったことを告白しておく。

 

・紀海音:(きのかいおん 寛文3(1663)年~寛保2(1742)年)江戸時代中期の大阪の浄瑠璃作家・狂歌師・俳諧師。

・『今宮心中丸腰連理松』:浄瑠璃外題。正徳二(1712)年豊竹座初演。

・和歌浦:和歌山県北部の和歌山市南西部にある海岸。古来から景勝の地として知られ、「万葉集」にも詠まれた歌枕である。和歌浦の松と言うと「布引の松」の方が有名(豊臣秀吉が「打ち出て玉津島よりながむればみどり立そふ布引の松」と詠んだ巨大松。但し、こちらも現存しない)。

・宋の康王、韓朋を殺し……:晉の干宝「捜神記」巻十一に現れる話。但し、南方は「憑」を「朋」と誤っている。以下に中文繁体字版ウィキソースの「搜神記」卷十一から該当話をコピー・ペーストし、無謀にも私の書き下し文と現代語訳を試みてみた(現代語訳には昭和391964)年平凡社刊の竹田晃氏の訳を一部参考にしたが、比較して戴ければ分かるが、あくまで訳に困った部分だけの披見に抑さえてある。また、私のは一部に自由な憶測を交えた自在勝手訳でもある)。

 

宋康王舍人韓憑娶妻何氏,美,康王奪之。憑怨,王囚之,論為城旦。妻密遺憑書,繆其辭曰:「其雨淫淫,河大水深,日出當心。」既而王得其書,以示左右,左右莫解其意。臣蘇賀對曰:「其雨淫淫,言愁且思也。河大水深,不得往來也。日出當心,心有死志也。」俄而憑乃自殺。其妻乃陰腐其衣,王與之登台,妻遂自投台,左右攬之,衣不中手而死。遺書于帶曰:「王利其生,妾利其死,願以屍骨賜憑合葬。」王怒,弗聽,使里人埋之,冢相望也。王曰:「爾夫婦相愛不已,若能使冢合,則吾弗阻也。」宿昔之間,便有大梓木,生於二冢之端,旬日而大盈抱,屈體相就,根交於下,枝錯于上。又有鴛鴦,雌雄各一,恆棲樹上,晨夕不去,交頸悲鳴,音聲感人。宋人哀之,遂號其木曰「相思樹。」「相思」之名,起於此也。南人謂:此禽即韓憑夫婦之精魂。今睢陽有韓憑城,其歌謠至今猶存。

 

●やぶちゃんの書き下し文

 宋康王の舍人、韓憑(かんぴやう)、妻として何氏を娶る。美なれば、康王之を奪ふ。憑怨めば、王之を囚へ,論じて城旦と為す。妻、密かに書を憑に遺(おく)るに、繆(びう)して其の辭に曰く、「其れ雨淫淫、河大きにして水深し、日出でて心に當つ。」と。既に王其の書を得、以て左右に示すに、左右其の意を解く莫し。臣蘇賀對へて曰く、「其の雨淫淫とは、愁へ且つ思ふの言ひなり。河大きにして水深しとは、往來するを得ざるをいふなり。日出でて心に當つとは、心、死の志し有るをいふなり。」と。俄にして憑乃ち自殺す。其の妻乃ち陰(ひそか)に其の衣を腐らす。王、之と台に登るに、妻遂に自ら台より投(なげう)つ。左右之を攬(とら)へんとするも、衣手に中(あた)らずして死す。帶に遺書ありて曰く、「王、其の生を利するも、妾、其の死を利せんとす。願はくは屍骨を以て憑と合葬せんことを賜はらんことを。」と。王怒りて、聽かず、里人をして之を埋めしむるに、冢(つか)、相望ましむ。王曰く、「爾ら夫婦、相愛已まざるに、若し能く冢をして合はしめば、則ち吾阻まざるなり。」と。宿昔の間、便ち大きなる梓(あづさ)の木有りて、二つの冢の端に生ず。旬日にして大きなること、抱ふるに盈(み)ち、體を屈して相就き、根、下に交はり、枝、上に錯す。又鴛鴦有り。雌雄各々一、恆に樹上に棲み、晨夕去らず、頸を交して悲鳴し、音聲(おんじやう)人をして感ぜしむ。宋人之を哀れみ、遂に其の木を號して曰く、「相思樹」と。「相思」の名、此に起くるなり。南人謂ふに、此の禽(とり)、即ち韓憑夫婦の精魂なりと。今、睢陽(すいやう)韓憑城有り、其の歌謠今に至るまで猶の存す。

 

●やぶちゃんの現代語訳

 宋の康王の侍従であった韓憑(かんぴょう)は、妻として何氏を迎えた。ところが彼女がたいそう美しかったため、康王は理不尽にも彼女を韓憑から奪いとってしまった。憑は深く康王を怨んで、それを聞き知った王は、突然、彼を無実の罪で捕縛するや、即座に城壁修理の人夫とするという判決を下してしまった。

 妻は王や取り巻きの目を盗んで夫の憑に密かに手紙を送ったが、その際、人が読んでもまるで意味の判らないような表現を用い、

「其れ雨淫淫、河大きにして水深し、日出でて心に當つ。」

(雨はしとしと降りしきり、河は大きに水深し、日は指し出でて心射る。)

と。

 ところが、そのうちこのことが露見してしまった。王はその手紙を押収したところが、近習の者にその文面を示してみても、誰一人、その意を解せずにいる――。最後にしばらく眺めていた家臣の蘇賀が答えて次のように言った。

「『其れ雨淫淫』とは、私は愁えつつ、確かにあなたのことだけを思っているという意味で御座います。また、『河大きにして水深し』とは、あなたのもとに行きたいのに王や監視の眼が厳しく、その間を非情にも隔てているという意味で御座います。そして、最後の『日出でて心に當つ』とは、共に死ぬ誓いを心にしかと持っているという意味で御座います。」

と。

 間もなく憑は失意のうちに自害した。それを知った妻は秘かに自身の着衣にさまざまな処理を施して急激に腐らせるようにした。そうしたある日、王が彼女とともに高楼の物見台に登った時、彼女はみずからざっと台上より身を投げたのであった。近習の者達が慌ててこれをとらえようとしたが、腐った衣故に手は空しく虚空を摑むばかりであった。彼女の帶には遺書が挟まれていて、

「王さま、私のからだは生きている間は、あなたさまのお役にたちました。ですから、私は、死んだ後の私のからだぐらい、私のために役立てとう存じます。願はくは、私の骸(むくろ)を夫憑とともに合葬して下されんことを。」

と。しかし、凶悪な王はかえって怒りを募らせ、遺言を聞き入れることなく、村人に命じて埋葬させるに、その塚を、わざと韓憑の塚から離して、意地悪く向かい合わせにさせたのであった。そうしておいて、王は、

「お前ら夫婦は、互いにふか~く、ふかく愛し合っておるようじゃな、どうじゃ、もしその離れた二つの土饅頭を一つに合わすことが出来たならば、儂はもう、お前らを邪魔立てせんぞ。」

と如何にも憎々しげな言葉を吐いたのであった――。

 ところが、一夜にして、双方の塚の端からするすると大振りの梓(あづさ)の木が生えて来た。そうして十日も経つと、人がやっと一抱え出来るか出来ないかという太さにまで成長した。更に不思議なことに、互いに幹を曲げては近づき合い、地上を見れば地下でみるみる根が絡み合ってゆくのが、土の蠢くさまでくっきりと目に見え、頭上では枝がざわざわと互いに交錯するその音が、はっきりと耳に聞こえるのであった。そしてまた、雌雄一つがいの鴛鴦(おしどり)が常にその連理の樹上に塒(ねぐら)を作り、朝から晩までその連理の枝の上にとまっては、互いの首を絡め絡めして悲しげに鳴くのであった――その哀切の声に心うたれぬ者は、一人としてなかったのであった――。

 宋の人はこれを哀れみ、遂にその木を名づけて、「相思樹」と呼んだそうである。

 即ち、麗しくも深い男女の恋を名指す「相思」という言葉は、ここに始まったのである。南方の人の物語るところによれば、この鴛鴦という鳥は韓憑夫婦の魂なのだそうである。今も睢陽(すいよう)には失意の中で人夫韓憑が築いたという堅牢な韓憑城があり、その二人の悲恋を歌った民謡も、また、今に至るまで、なお伝えられている――。

 

「繆して」は、偽って、という意味で、そこから、象徴的な意味を込めて夫にしか分からない偽書めいた文章にして、という風にとった。「睢陽」は宋の国都で、現在の河南省商丘県商丘の古称である。――さて、この恋愛譚も、如何にも哀しく切ないじゃないか! 南方先生! ちょいと度が過ぎやしませんか、ってえんだ!

 

・董斯張の『広博物志』:董斯張は明代の文人。「広博物志」は彼の撰した博物書。五十巻。

・呉の潘章は……:この話は元代の「誠斎雑記」に既に所収するらしい(ネット上の情報で未確認)。中文のブログを渉猟して、やっと繁体字の該当する内容と思われる記述を発見した。以下にコピー・ペーストしたものを掲げる(出所は不明であるが、恐らく南方の引用するものと同一である)。

 

潘章少有美容儀,時人競慕之。楚國王仲先聞其名,來求其友,因願同學。一見相愛,情若夫婦,便同衾枕,交好無已。後同死而家人哀之,因合葬于羅浮山。塚上忽生一樹,柯條枝葉,無不相抱。時人異之,號為共枕樹。

 

ちなみに羅浮山は、香港の北方、広州市の東・東莞市の北東にある現在の恵州市博羅にある山。道教十大名山の一つとして名高い。

 

・『日本紀』にも、神功皇后、紀伊に到りたまいし時……:「日本紀」は「日本書紀」のこと。この話は巻第九の鹿坂(かごさか)王・忍熊(おしくま)王の内乱のエピソードに現れる。神功皇后が反乱を起こした忍熊王を攻めるために小竹(しの:旧那賀郡志野村とも御坊市とも言われる)に入った神功皇后摂政元(201)年二月の条である。以下、JTEXT版朝日新聞社本から原文をコピー・ペーストし、無謀にも私の書き下し文と現代語訳を試みてみた(不表示字「櫬」は岩波版日本古典文学大系5坂本他校注「日本書紀 上」(1967)で補填し、書き下し文の不明な漢字の読みも一部参考にした)。

 

適是時也。昼暗如夜。已経多日。時人曰。常夜行之也。皇后問紀直祖豊耳曰。是怪何由矣。時有一老父曰。伝聞。如是怪謂阿豆那比之罪也。問。何謂也。対曰。二社祝者、共合葬歟。因以令推問。巷里、有一人曰。小竹祝与天野祝、共為善友。小竹祝逢病而死之。天野祝血泣曰。吾也生為交友。何死之無同穴乎。則伏屍側而自死。仍合葬焉。蓋是之乎。乃開墓視之実也。故更改棺櫬。各異処以埋之。則日暉炳。日夜有別。

 

●やぶちゃんの書き下し文

 是の時に適(あた)りて、晝の暗きこと夜の如くして、已に多くの日を經ぬ。時の人の曰く、「常夜(とこやみ)行く。」といふなり。皇后、紀直(きのあたひ)の祖(おや)豐耳(とよみみ)に問ひて曰く、「是の怪(しるまし)は何の由(ゆゑ)ぞ。」と問ひたまふ。時に一老父有りて曰(まう)さく、「傳(つて)に聞く、是の如き怪をば、阿豆那比(あづなひ)の罪と謂ふ。」と。「何の謂ひや。」と。對へて曰さく、「二の社の祝をば、共に合せ葬むるか。」と。因りて以て推し問はしむ。巷里にて、一人有りて曰さく、「小竹の祝者(はふり)と天野の祝と、共に善(うるは)しき友たりき。小竹の祝、病に逢ひて之に死す。天野の祝、血泣(いさ)ちて曰はく、『吾や、生きて交(うるはしき)友たり。何ぞ死して穴を同じくすること無けんや。』と。則ち屍の側(ほとり)に伏して自ら死す。仍りて合せ葬ふ。蓋し是か。」と。乃ち墓を開き之を視れば実(まこと)なり。故(かれ)、更に棺櫬(ひつぎ)を改め、各々異處に之を埋む。則ち日の暉(ひかり)炳(て)りて、日と夜と別(わきだめ)有り。

 

●やぶちゃんの現代語訳

 ちょうどこの時(神功皇后が小竹に行宮を置いたその日)、一転俄かに掻き曇って昼なのに真っ暗になって夜のようであった。そんな日が何日も続いた。当時の人は、

「年中、夜みたようで、すっかりお先真っ暗じゃ。」

と言い合ったそうだ。

 皇后は紀直(きのあたい)の祖先であった豊耳(とよみみ)に、

「この怪異は一体、何が原因なのか。」

と尋ねた。するとそこに居た一人の老人が答えて、

「伝え聞いておりますことには……かほどに怪しい異変は、謂うところの『阿豆那比(あずない)の罪』なるものの所為(せい)で御座いましょう。」

と申し上げた。皇后が問う。

「それはどのような罪じゃ?」。

老人が答える。

「……よくは存じませぬのじゃが、二つのお社に属する祝(ほうり:下級神官)を、一緒に合葬致いた咎(とが)を言うかと……」

としどろもどろに答えた。

 そこで人々に問い質し詳しく調べさせてみると、巷間の一村人が、

「かつて小竹(しの)のお社の祝(ほうり)と天野(あまの)のお社の祝とは、非常に仲がよく、共に無二の友と誓い合う間柄で御座いました。ところが小竹の祝がふとした病いにあって亡くなってしまったので御座います。天野の祝は血の涙を流して号泣しつつ、『私は彼と一緒に生きてきたのだ! どうして同じ穴で死ねないなどということがあろうか!』と叫ぶやいなや、屍の傍らに添い伏してあっという間に自害してしまったので御座います。そこで哀れに思うた村人どもは、彼ら二人をともに葬ったので御座いますが……もしや、これが災いとなっているのでは御座いませんでしょうか?」

と告白した。

 そこで、皇后がその墓を掘らせて中を見たところが、まさに老人の言う通りであった。そこで、新たに柩(ひつぎ)を用意し、それぞれ別の地にこれを埋葬し直した。すると、すぐに雲が晴れて陽の光が輝き出し、漸く昼と夜との区別が出来るようになったのであった。

 

・陰膣痙攣(ヴァギニスムス):現在の医学用語では腟痙(英vaginism、独vaginismus)が正しい。以下、信頼できる学術的な記載として万有製薬株式会社の提供する「メルクマニュアル 第17版」「女性の性機能不全」より「腟けいれん」部分をコピー・ペーストしたものを掲げる(引用部著作権Copyright 2000 BANYU PHARMACEUTICAL CO., LTD. All Rights Reserved.)。

 

《引用開始》

腟けいれん

腟の下部の筋肉の条件反射的な不随意性収縮(けいれん)で,挿入を阻みたいという女性の無意識的欲求が原因である。

 腟けいれんの痛みは挿入を阻むため,しばしば未完の結婚をもたらす。腟けいれんのある女性の一部は,クリトリスによるオルガスムを楽しんでいる。

病因

 腟けいれんは,しばしば性交疼痛症を原因とする後天的な反応で,性交を試みると痛みを引き起こす。性交疼痛の原因が取り除かれた後であっても,痛みの記憶が腟けいれんを永続させうる。その他の原因としては,妊娠への恐れ,男性に支配されることへの恐れ,自制を失うことへの恐れ,または性交時に傷つけられることへの恐れ(性交は必ず暴力的だという誤解)がある。女性がこのような恐れを抱いている場合,腟けいれんは通常原発性(生涯続く)である。

診断と治療

 患者の回避反応は,しばしば診察者が近づいた時に観察される。骨盤の診察時に不随意的腟けいれんが観察されれば,診断は確実である。病歴と身体診察により,身体的または心理的原因が確定できる。最もおだやかな骨盤診察によってさえ引き起こされるけいれんを除くために,局所または全身麻酔が必要な場合がある。

 有痛性の身体疾患は治療されるべきである(前述「性交疼痛症」参照[やぶちゃん注:「女性の性機能不全」。])。腟けいれんが持続する場合には,段階的拡張などの,腟の筋肉けいれんを軽減する技法が有効である。切石位をとらせた患者に,十分に潤滑油を塗った段階的なサイズのゴムまたはプラスチックの拡張器を,最も細いものから始めて腟の中へ差し込み,そのままの位置に10分間置いておく。代わりにヤングの直腸拡張器が用いられることがあるが,理由はそれが比較的短く,不快感がより少ないからである。患者自身に拡張器を腟内に入れさせることが望ましい。拡張器を中に入れている時にケーゲル練習法を行うことは,患者が自身の腟筋肉のコントロールを発達させるのに役立つ。患者は腟周囲の筋肉をできるだけ長時間収縮させてから腟筋肉を緩めるが,この際同時に,緩めた時の感覚に注意を払う。患者に大腿の内側に片手を置かせてから,それらの筋肉を収縮させ,緩めるよう要求することが役に立つが,これは患者が一般的に,大腿,そしてこの処置の間は腟周囲の筋肉を,両方ともリラックスさせているからである。段階的拡張は,自宅で行ったり,または医師の監督のもとに1週間に3回行われるべきである。患者は1日に2回,自分の指で似たような処置を行うべきである。

 患者が,より大きい拡張器の挿入に不快感なく耐えられるようになったら,性交が試みられる。この処置には教育的カウンセリングが必要である。段階的拡張を始める前の性科学的診察は,しばしば有用である;患者のパートナーを同席させ,手鏡を使って患者に自分の身体を診察させながら,医師は諸器官の構造を同定する。このような処置は,しばしばパートナー双方の不安を軽減し,性的事柄についてのコミュニケーションを促す。

《引用終了》

 

以上の記載からも想像出来る通り、南方が頻繁に起こり得るように叙述している、性行為結合のままで離脱不能になるケースは、皆無でないものの、極めて稀であることは、ネット上に散見される信頼できる(と判断される)真摯な記事からも、また、実際にそのような事態を私自身、実際に見たことも聞いたこともなく(勿論、経験もない)、これが所謂、都市伝説(アーバン・レジェンド)の性格を持って、市井に流布されていることは明白なことと思われる。なお、万が一、私がそのような事態を経験した場合は、必ずや隠すことなくここで実例として掲げることをお約束する。

・『増補万宝全書』:明代の張溥撰になる医学書。未見につき、「春閨要妙」の内容(題名からはハウ・トゥ・セックス風の指南書と思しい)は未詳。

・相思鎖方:異常な持続性を示す房中秘法と思われるが、現代の中文サイト「健康排行榜」に「相思鎖」として以下の処方が示されている(コピー・ペースト)。

《引用開始》

相思鎖藥方: 辰砂三錢,肉蓯蓉酒浸培幹三錢,麝香五分,地龍七條瓦上烤幹。 制法、用法: 碾為細末,用龜血調為丸,如綠豆大,房事前取一丸置龜頭馬口内。 功用: 使陰莖粗長,脹滿陰戸。

《引用終了》

・金鎖玉連環方:「四目屋漢方覚え書き」「金鎖玉連環」として以下の処方が示されている(コピー・ペーストしたが、二箇所の「?」部分は、中文漢方サイトを渉猟し、それぞれ「匀」及び「蓯」であることを認めたため、補填した)。なお、「四目薬」というのは、同サイトで『四目屋媚薬は恋慕の情(性欲)を催す薬ですが、男性性器を大きくする薬、女性性器を小さくする薬、も媚薬と呼んでいます。性交部のきつさで性感が高まると信じられるからです。私達江戸庶民はこれら全てを四目薬と呼んでいます。』と説明されている。

《引用開始》

◇金鎖玉連環〔四目薬〕

制法・用法:碾為細末、加入膽汁、攪、線紮於通風処四十九天陰乾

      毎用一分、津調塗於玉茎上

功用   :行事交鎖不脱

   雄狗膽…………………1個

   肉蓯蓉…………………3錢(酒浸、瓦上焙乾)

   川椒……………………5分

   紫稍花…………………1銭

   硫黄……………………5分

   韭子……………………10

《引用終了》

■「奇異の神罰」やぶちゃん注終了