HP鬼火へ

雨月物語 青頭巾  授業ノート

copyright 2005 Yabtyan(授業用原文は勉誠出版大学古典叢書『新註 雨月物語 上田秋成』を使用している。なお分析部分には、筑摩書房刊「雨月物語」高田衛・稲田篤信訳注等を参考にしている)

雨月物語 頭巾 原文(やぶちゃん版)へ

雨月物語 青頭巾 やぶちゃん訳へ

第一段[快庵禅師/ある年の初秋〜下野富田にて]

・総角:本来は「あげまき」と読み、古代の少年の髪の結い方で、頭髪を左右に分けて頭上に巻きあげ、角状に両輪をつくったもの。また、この髪を結った十七、八歳の少年。

・教外=教外別伝(禅宗は特に宗派として拠るところの経典を持たず、以心伝心を旨とする)

・あきらむ(マ下二):(物事の本質を)明らかに究める。禅宗の本義を会得する。

・雲水=「行雲流水」

・しむ(助動詞・尊敬)

・下野/富田(とみだ):今の栃木県栃木市外の南西にある。

・賑ははしげなり:裕福そうな感じがする。

・展転(こいまろぶ/あて字):@めぐること。ころがること。Aねがえりすること。
  *輾転反側:思いなやんで、幾度もねがえりして眠られないこと。

★ここでは視点が脅える荘主に映像的な鮮やかさで転換している点に注意したい。

・巾(きん):かぶりもの。頭巾。→伏線(題名に注意)

・破(や)る(ラ下二)

・穿(き)る:腕を通して着る。「穿」は本来「貫き通す。うがつ。」の意味。「穿孔」

・裏(つつ)む:「裏」の「物の内側、心の中」という意味から。「脳裏・内裏」

・檀越=檀那:(梵語)布施を行う人。施主。

・備ふ:ここでは、「警戒する」「用心する」。

・遍参の僧:諸国行脚をして回る僧。

・ばかり(副助詞):だけ。

・待(まち)しに(接続助詞・逆接):ここで(取り次いでくれる人を)待っていたのに。

・おもひ‐き‐や(連用形+過去の助動詞+反語の係助詞)
 @思ったろうか、決して思わない。古今和歌集雑「〜雪踏みわけて君を見むとは」
 A(「…と」を受けて)そう思ったところ(実は…)。意外にも。
 ここはA。
 :思いもよらなかったのう! これほど怪しまれるとは!

★二重の倒置構文で禅師の驚きをリアルに表現。

・べし(可能)

・を(接続助詞・逆接):〜のに。

・なあやしみ給ひそ:どうか怪しまないで頂きたい。

・渠=彼

・愚なる眼:見当違い。

・まい(本来は「ゐ」)らせ(サ下二・連用・謙譲/荘主→禅師)

・供養す:修行者に食物を与える。施し物をする。ここでは「一夜の宿を御用立てする」

・贖ふ=あがふ=つぐなふ
 @労や功にむくいるために財宝を差し出す。
 A刑罰や苦役をのがれるために、布・金銭を差し出す。

・礼〔い(本来は「ゐ」)や〕まふ=ゐやむ:敬う。礼を言う。ここでは「礼儀を正して」

★高僧伝の導入スタイルをとりつつ、その快庵禅師が「山の鬼」に間違えられるという卓抜な導入部を味わう。

 

 

 

第二段[主人の語る怪異/その日の夕刻]

・下等=賤等

・来たり〜中古以降、詠嘆的表現として連体終止法を取ることが多く、単に終止形と同等にも用いられた。

・およづれごと:人をまどわす作りごと。人を迷わすうわさ。

・ながら(接続助詞・逆接)

・蘭若=阿蘭若(梵語):森林。寂静処。修行に適した場所。転じて、寺または僧庵を言う。

・阿闍梨:(アザリとも。梵語 軌範師・教授・正行と訳す)→千日回峰
 @師範たるべき高徳の僧の称。
 A密教で、修行が一定の階梯に達し、伝法灌頂により秘法を伝授された僧。
 B日本で、天台・真言の僧位。

・何某殿:さる名のある方の。

・聞こえ:評判。

・詣(まうで)給ふ(本来は「ひ」)て

・詣づ〜この場合は(荘主→荘主の家の仏)に対する敬意。:おいで下さって。

・いともうらなく仕へしが
  *うらなし(心無し):@隔てがない。A思慮がない。あさはかだ。
 :少しもわけへだてなくお付き合いをさせていただきましたが。

・ける〜連体中止法・詠嘆

・年来の(仏事や修行といった)事ども

・見え給ふ:お見受け致しました。

・さるに(接続詞・逆接)

・茲(これ/ここ)

・かりそめ:一時的な様。ちょっとした。

・(禅師は心を)痛みかなしませ給ふて

・おもだ(面立)たしきを
*おもだたし:名誉だ。晴れがましい。
 :れっきとした名医を。

・璧:白玉・翡翠の類。*完璧:(きずのない玉の意)完全無欠。*双璧

・さそ(誘)ふ:連れて行く。

・臉(=顔)に臉をもたせ

・もたす:もたせ掛ける。寄せかける。

・戯る:ふざける。遊び興ずる。ここは「愛撫する」が適切。

・吝む=惜しむ *吝嗇 *〜に吝かではない:…する努力を惜しまない。快く…する。

・(新しい)墓をあばきて腥(なまぐさい)々しき屍を喫(食う/食べる/飲み込む)

「実に鬼といふものは昔物がたりには聞きもしつれど」〜既習の「源氏物語 夕顔」の引用であることに気づかせる。

・いかが(副詞・反語)→ん(=「む」助動詞・推量・連体)

・征(あて字)=制止:止める。

・かぎりて:区切りとして。

 

★典拠としたと思われる類話「宇治拾遺物語」等の大江定基の説話では、死んだ愛妾の口を吸って、そのおぞましい腐臭に発心して出家、道心堅固な僧となるのに対して、この阿闍梨は腐臭にめげるどころか「肉を吸ひ、骨を嘗めて、はた喫ひつくしぬ」と徹底している。

 

*参考「宇治拾遺物語」三川の入道(にうだう)遁世の事[巻第四・七]

参川入道、いまだ俗にて有ける折、もとの妻をば去りつゝ、わかくかたちよき女に思つきて、それを妻にて、三川へ率てくだりける程に、その女、久しくわづらひて、よかりけるかたちもおとろへて、うせにけるを、かなしさのあまりに、とかくもせで、よるもひるも、かたらひふして、口を吸ひたりけるに、あさましき香の、口より出きたりけるにぞ、うとむ心いできて、なくなく葬りてける。

それより、世うき物にこそありけれと、思ひなりけるに、三河の國に風祭といふことをしけるに、いけにへといふことに、猪を生けながらおろしけるをみて、此國退きなんと思ふ心つきてけり。雉子を生ながらとらへて、人のいできたりけるを、「いざ、この雉子、生けながらつくりて食はん。いますこし、あぢはひやよきとこゝろみん」といひければ、いかでか心にいらんと思たる朗等の、物もおぼえぬが、「いみじく侍なん。いかでか、あぢはひまさらぬやうはあらん」など、はやしいひける。すこしものの心しりたるものは、あさましきことをもいふなど思ける。かくて前にて、生けながら毛をむしらせければ、しばしは、ふたふたとするを、おさへて、たゞむしりにむしりければ、鳥の、目より血の涙をたれて、目をしばたゝきて、これかれに見あはせけるをみて、え堪へずして、立て退くものもありけり。「これがかく鳴く事」と、興じわらひて、いとゞなさけなげにむしるものもあり。むしりはてて、おろさせければ、刀にしたがひて、血のつぶつぶといできけるを、のごひのごひおろしければ、あさましく堪へがたげなる声をいだして、死はてければ、おろしはてて、「いりやきなどして心みよ」とて、人々心みさせければ、「ことの外に侍りけり。死したるおろして、いりやきしたるには、これはまさりたり」などいひけるを、つくづくと見聞きて、涙をながして、声をたててをめきけるに、「うましき」といひけるものども、したくたがひにけり。さて、やがてその日國府をいでて、京にのぼりて法師になりにける。道心のおこりければ、よく心をかためんとて、かゝる希有の事をしてみける也。

乞食といふ事しけるに、ある家に、食物えもいはずして、庭にたゝみをしきて、物を食はせければ、このたゝみにゐて食はんとしける程に、簾を巻上たりける内に、よき装束きたる女のゐたるを見ければ、我さりにしふるき妻なりけり。「あのかたゐ、かくてあらんを見んとおもひしぞ」といひて、見あはせたりけるを、はづかしとも、苦しとも思ひたるけしきもなくて、「あな貴と」といひて、物よくうち食ひて、かへりにけり。有がたき心なりかし。道心をかたくおこしてければ、さる事にあひたるも、くるしとも思はざりけるなり。

 

★本話は死体変相(腐敗から白骨化まで〜九相図)が発心の契機であるが、阿闍梨の愛欲は死体変相さえ突き抜けている点を再確認させる。

★「九相詩絵巻」の紹介と解説。

★カニバリズムの解説。

カニバリズム Canibalism

人間が人間の肉を食べ、血をのんだり骨を食べる行為。この言葉はスペイン語のカニバル canibal に由来し、もとはカリブ海地域の住民の一部をさす言葉だったが、彼らが食人をおこなうといわれた(但し誤伝)ため、その民族名が「食人」を意味するようになった。

○食人対象を基準とする分類


@族内食人(自己の集団の成員だけを食べること

A
族外食人(自己の集団外の者だけを食べること)

○行為の動機を基準とする分類

@食通的食人(人肉を味のよさのために食べるケース)〜本文次段麻叔謀のケース及び「鉄耕録」・チカチーロ・「羊たちの沈黙」等を説明。

A儀礼的ないし呪術的食人(死者の霊力や性格などを吸収したり、愛情表現から死者と同一化したり、邪悪な霊の骸への進入を許さないために、死んだ近親や敵などを食べるケース)

B生き残るための食人(食料不足などの危機的状況のもとで,通常は禁じられている人肉を食べること)

食人の理由としてタンパク質を補給するための慣習だったと主張する研究者もいる。食人の動機と目的は文化によってさまざまで、死者、とくに勇敢な敵の死体を食べて、その死者のもっていた力をえようとするもの、敵に対する復讐のためにおこなうもの、また、死体を食べてしまえば敵の霊魂を完全に破壊し、災いの原因を絶つことができると信じるものなどがあった。それらはおもに敵対者を食べる族外食人であるが、近親者や身内を食べる族内食人の例もある。この場合、遺骨の一部を粉にして食物にまぜて食べ、死者との一体感をもちつづけようとした。さらに、食人が宗教儀礼の一部になっていることもあり、インド中部のビンデルウル族は、病人と老人を食べることは女神カーリーをよろこばすと考えていた。メキシコのアステカでは、神にささげるために毎年千人をこす人身供犠がおこなわれていた。儀式のあと、神官と住民たちは、犠牲者を神のもとへおくるためと信じて、その肉を食べた。飢餓による食人は欧米でもみられる。一九七二年には、アンデス山中に墜落した飛行機に搭乗していたウルグアイのサッカーチームの十六人が、仲間の死者の肉を食べて七十日を生きぬいた(アンデスの聖餐事件)。日本でも天明の飢饉(一七八一〜八九)の際、人肉を食べたという記録が残る。〔以上、平凡社「世界大百科事典」等より引用整理〕

★大岡昇平「野火」、武田泰淳「ひかりごけ」、バリー・コリンズ「審判」等の人肉食を扱った小説・戯曲を紹介。

★日本人留学生によるパリ恋人殺人及び食人事件・裁判等の経緯を解説。

★食人習慣による伝染病クールー(関連してクロイツフェルト・ヤコブ病、狂牛病、プリオンも)、かつてのニューギニアでの民俗学的食人習慣から、親族の死に関わる断指習慣等の解説。

 

 

 

第三段[快庵禅師の推理]

・故の形をあらはして:生前の姿を現わして。

・「其愛欲邪念の業障に攬れて」(変化の原因)

・蠎(みづち)=蛇(をろち)=うわばみ=大蛇
 「故の形をあらはして恚を報ひ」〜「雨月物語 巻之三 吉備津の釜」
 「蠎となりて祟りをなす」〜「雨月物語 巻之四 蛇性の淫」(牡丹灯籠原話)

・いも(係助詞・強意)寝られぬ

・い(寝):寝ること。睡眠。:ちっとも寝ることできない。

・ねふり(寝風):寝ている様子。寝ているかどうか。

・たよりにつけて:またあるついで・機会があって。

・あ(ン)なれ〜撥音便無表記

・浅まし:嘆かわしい。

・夷心にて(せしものにて)

★江戸期の女性差別の確認(さらに上田秋成自身の生活史の中のトラウマによる女性嫌悪症も言及)。

・行徳:修行と人徳。

・かしこし:すぐれている。

・ましかば(反実仮想

・あはれ(感動詞):さぞかしまあ。

・べし(当然)

・一たび愛欲の迷路に入て:いったん情欲に心がくらんで、自分を失ってしまうと、

・熾(さかん) *熾烈:(「熾」は火勢が強い意) 勢いがさかんではげしいさま。

・無明の業火の熾なるより鬼と化したるも:信仰の妨げとなる救いようのない愛欲の邪念に苦しめられ、その欲望の火がますますさかんに燃えさかって、ついに鬼になってしまったのも。

★ひとへに直くたくましき性のなす所なるぞかし:それもただただ一途に思い込んで、どこまでも貫き通そうとする(阿闍梨の)性質がそうさせたのであるぞ。

仏魔一如

★快庵禅師はこの性格自体の善悪を断じていない点に着目。

★この「直き」は、秋成が接触した国学者賀茂真淵によって称揚された、古代的(万葉的)な雄々しさである。当時の、新しい人間のプラスの価値観として認められたものを、秋成はマイナスの鬼業(愛人の人肉食)の中から発見している点、特異である。逆ベクトルによる救済の可能性の示唆。

・貝鐘も聞こえず〜ほら貝と釣鐘は寺院にあって時刻を告げるものである。阿闍梨はこのような次第であるから、鳴らす者もないのである。

・廿日あまりの月〜これは二十一、二日頃の月を指す(二十三日頃は二十三夜月と言う)。月の出は夜九時半〜十一時半前後、やや膨らんだ下弦の月である。ここは二十二日と推定できる(第四段の「宵闇」から)

・に(接続助詞・順接の確定/原因理由)

・せ給へ(最高敬語/荘主→禅師)

 

 

 

第四段[山の廃寺/その翌日の夕刻]

・山院:山の上の寺院。

・申:時刻なら午後四〜六時、方位なら西南西。方位と取って、西と訳す。

・痩槁(やせがれ)たる→枯槁「形容、枯槁」(漁父辞)

・野ら:荒れ果てた野原。

・斎:(食すべき時の意) 仏家で、午前中にとる食事。午後は食しないと戒律で定めている。が、実際には食う。だからそれを「非時」と言う。

・べき(可能)

・はかりごと:ここでは「用意」。

・山霊:本来は、山の神、精霊を表わす漢語。神聖な感じのする山の姿。

・はるけし:(時空間の遠い隔たり)遠すぎる。

・強てゆけと(言ふ)にもあらず

・宵闇〜二十三夜月で、まだ月はでていない。月の出は十時半〜十二時半前後。

・点(あぐ):火をともす。

・ま(目)

・わく(分く)

★谷川の音のみの暗黒の凄絶な夜の美事なホラー描写を味わう。

 

 

 

第五段[真夜中の怪異]

・あらたまる:変わる。〜月光に照らされはっきりとした情景の変化を示す。

・影=月光

・玲瓏:うるわしく照りかがやくさま。

・いたらぬ隈もなし:あたりを隅々まで照らし出した。

・子ひとつ〜「ひとつ」は、一刻をさらに四分したもの。勉誠出版版「雨月物語」頭注は、一般的な午後十一〜午前一時区分ではなく、午前零時〜二時区分を取っているので、午前零時〜零時半ということになる(恐らく化け物という異類の出現の時刻としての境界時間として、午前零時を特に考慮した解釈であろう)。一般的な区分なら、十一時〜十一時半となる。

・たづぬ(ナ下二):人の所在などを捜し求める。

・ここもとにこそありつれ(、おらず)〜「こそ……(已然形)、〜」の逆接用法の省略形:ここらあたりに確かにいたはずなのだが(、おらぬ)!

[翌朝]

・ごとくに(助動詞・比況・連用)=「ごとくにあり」〜形容動詞型に変化した助動詞「ごとし」の特殊形。

・つぐ(継ぐ):(ため息を)続ける。長いため息をつく。

・しめ給へ(最高敬語/快庵禅師→阿闍梨)

・ねふる=眠(ねぶ)る

・鬼畜:餓鬼と畜生。阿闍梨自身を言う。

・くらき眼:地獄(前の餓鬼と畜生で三悪道を成す)に落ちた者の暗く濁った目。

・活仏の来迎:生き仏様が私の前に姿を現わして下さったこと。

・べから(可能)

・理:当たり前。

・あな(感動詞)

・たふと(形容詞/語幹の用法・詠嘆)

★月の「影」と共に阿闍梨はモンスター化している(「月の病」、バンパイア、“lunatic”の語源等について解説する)。従って、逆に朝日は阿闍梨を人間化させるのである。ここで見逃してはならないことは、阿闍梨が自らを鬼畜と称していることで、これこそが作者が称揚する「直くたくましき性」のプラスの側面の表現、「直くたくましき性」による自己断罪の意識を持っているが故に救われるという作者の思想の表われである点である。

 

 

 

第六段[快庵禅師の公案]

・忽(たちまち)

・あさましとも哀しとも(言ひがたき)→要因(あくいん)

・要因=悪因:悪い因縁。

・捨つるに忍びず〜目的語は、前文からは「里人を(またはこの異常な事態を)」と読めるが、後文によって「汝(阿闍梨)を」も同時に、との意味を含むと解すべき。

・教化:衆生を仏道へと教え導くこと。

・しめ(使役・未然)

・と(格助詞)なる(動詞・ラ四・連体)を(接続助詞・逆接):と(いう思いに)達し(て、こうしてやってき)たのだが、

・頓(とみ):にわかなこと。急なこと。*頓死

・べき(可能)

・来る(カ四)

・簀子:縁側。

・かづか(自動詞・カ四・未然)しめ(助動詞・使役・連用)
  *かづく(他動詞・カ下二):頭や肩にかぶせる、かけさせる。

★「汝こゝを去らずして徐に此句の意(=真意)をもとむべし(命令)」

〜禅の公案(禅宗で、参禅者に出す課題)の提示

・本来の仏心:(おまえが)生まれながらに備えていた仏の真実の教え。

・会ふ(終止)なる(助動詞・推定・連体)は(終助詞・詠嘆)


●教化の階梯の検証

★教化の第一段階
→第五段〜  「野僧が肉に腹をみたしめ給へ」
  快庵禅師の捨て身の慈悲の提示→快庵の高徳に素直に(「直くたくましき性」で)屈服した阿闍梨

★教化の第二段階本段(1)〜「我をしへを聞くや否や」
  阿闍梨の回心の意志の確認

★教化の第三段階→本段(2)〜「本来の仏心」に至るための公案の提示

 

 

 

第七段[快庵禅師の富田再訪/一年後冬〜十月初旬]

・奥:奥州

・さるから(接続詞):そうであるから。

・侍らじ:文法的には誤りである。「など」は副詞で反語の意味なので、本来、文末は「(侍ら)む」とすべきところ。

・菩提をとふらふ(弔ふ)=冥福(人の死後の幸福)を祈るために仏事を修すること。追善。

・誰も:私ども(村人)も誰もが皆で。

・回向:仏事を営んで死者の成仏を祈ること。

・隋縁したてまつら(補助動詞・謙譲・荘主→禅師)む:御一緒にお弔いを致します。

・他(かれ)=彼=僧(阿闍梨)

・遷化:(優れた僧がこの世の教化を終えて他国土<現世とは違う時空間>の教化に移るという意から)高僧の死去をいう。

・べし(適当)

・いづれ(副詞):どちらにせよ。どのみち。どうせ。

・見(未然)ず(連用)ば(係助詞/接続助詞という誤解から濁音化したもの)あら(未然)じ(助動詞・・打消意志):見届けないわけにはいかない。

・いかさまにも(副詞/形容動詞・連用+係助詞):(確かな推量)いかにも。(主人が言った通り)なるほど。

・たる(断定・連体)〜連体中止法による詠嘆

・道ぞ(終助詞・指定)

・思はれ(自発)ず

★「露は〜中に」
 「源氏物語」の「蓬生」を典拠 とする。「雨月物語」には古典的世界の復興憧憬の側面があることを、その引用、使用文法・語句から喚起する。

・三つの径:どの家にも必ずある道(門へ行く道・井戸へ行く道・厠へ行く道)。ここでは、「寺内の小道」でよい。

・わから(ラ下二・未然/意味は現代語に等しい)ざる:見分けがつかない。

・頽る:くずおれる。腐って倒れる。

・ほとり:あたり。

・葎:雑草。

・むすぼふる=むすぼほる=むすぶ:絡み付く。

・おしなむ=おしなぶ:押し靡かす。押し伏せる。:(薄が)一面になびきたおれている中に。

・物とも聞こえぬやうに:何を言っているのか聞き取れないが。

・まれまれ:時たま。ぽつりぽつりと。

・拿(とる):つかまえる。 拿捕

・現にも(実にも)(副詞):なるほど。まったく。まことに。

・念:執念。

・あるにこそ(あらむ)

 

 

 

エピローグ[快庵禅師の事蹟]

・初祖の肉いまだ乾かず:達磨大師が未だに生きておられるようだ。

・もよほし(催す):執り行う。挙行する。

・推したふとむ(貴む):強くあがめ重んじる。ことさらに敬って大切にする。「推し」は接頭語で強調。

★第三段「いにしへある僧」の鬼となった女が畑に生き埋めにされて殺される話と対照的な食人鬼となった男が成仏する結末、これが予定されたストーリー運びである点に注意する。

(女→鬼人の性改まらずに生き埋め)←→(男→直くたくましき性により救済)

★「女の性の慳(かだま)しきには、さる浅ましき鬼にも化するなり」等、当時の仏教思想にある変生男子、及び上田秋成の女性差別観が底流にある点を解説。

★阿闍梨の姿〜影か人か〜公案を口ずさむ声と禅師の一喝〜刹那の悟達(救済)のダイナミズムを味わう

★前半の旅僧(ワキ)の登場、荘主による阿闍梨が食人鬼となるに至った漸層的開示(前シテ相当)から、後半の食人鬼の登場(後シテ)、阿闍梨への教化の果てに崩れ去る影、という作品構成が、美事な複式夢幻能の構造を持っていることを明らかにする。

★隠れた主題という解釈

鬼道に堕ちた阿闍梨  〜真言密教(平安旧仏教)の無力化
   ↑
   ↓

それを済度する快庵禅師〜禅宗(鎌倉新仏教)の霊験力の勝利

 

★しかし、果たして、阿闍梨は本当に救われたと言えるのであろうか?

★同原話ルーツの、小泉八雲の“Jikininki”を英語原文で読み、更に平井呈一氏の名訳(著作権存続中につき私の訳を提示する)を味わう。

小泉八雲 “JIKININKI” 原文 及び やぶちゃんによる原注の訳及びそれへの補注

食人鬼 小泉八雲 やぶちゃん訳

★続いて、八雲が参考にしたと思われる原典を読み、それらのエンディングの微妙な違いを分析、考察する。

『通俗 彿教百科全書』中巻(やぶちゃん注:底本は講談社学術文庫「怪談・奇談」平川祐弘編所収のものを用いたが、読みやすさを配慮し、句読点を施した。読みはうるさいので一部を排除した。)

 又、禅僧の夢窓国師、美濃の国にて山中を通りたまふに、日くれになりけるところ、人里もちかきにハなく、只(ただ)はなれ家の草庵あるゆゑ、立よりて見たまへば、老僧一人住(すみ)けるさまなり。一夜の宿を乞(こひ)たまへども、人はとめがたしとて宿をかさず。是非なく山を下て人里にて宿をかりたまふに、家内には眷属あつまりて、愁歎(しうたん)して居(ゐ)けるさまなり。そのよしをたづね[やぶちゃん注:原文の(ママ)注記つき「ねづ」を改めた]たまふに、其家(や)の主人死去せしをみなあつまりてなげきけるのよしをこたへけるが、日暮(くれ)ければ、其死人をそのまゝ家に置(おき)て、死骸の前には供物(くもつ)灯明(とうみやう)などをそなへならべて、家内眷属は一人(いちにん)ものこらず外(ほか)へ出ゆきけり。禅師は不審ながら其家(いへ)の一間の内に座禅して居(ゐ)らるゝに、夜更てひそかに一人来(きたり)し物ありて、死人(しにん)をいだきをこして、猫の鼠を食(くふ[やぶちゃん注:原文のルビ「くう」を改めた])がごとくにもありたるならん、尻も頭(かしら)も手も足もみな食(く)ひつくして、腹をふくらし、そなへものも、みなくらひしまひて、あとかたなくして去(さり)にけり。夜(よ)のあけぬれば、妻子眷属みな家に帰(かへり)けるゆゑ、禅師ハ不審におもひて子細を問(とは)るゝに、その眷属のいふに、「此所(このところ)のならひにて人死すれば、男女老少(なんによらうせう)にかぎらず、野辺へも送らず、家の内にをきて、妻子眷属ハみな外(ほか)の里にゆきて一夜泊て帰ることなり。しからざれば、家にたゝり、身にたゝる事あり。一夜のうちに、その死骸も供物(そなへもの)もあとかたなくなりてあれば、何となりたるやら、しるものなし。昨夜は、御僧(おんそう)泊りてありしゆゑ、いかなる事にあひたまは[やぶちゃん注:原文の(ママ)注記つき「たまわ」を改めた]ざらんやと、覚束(おぼつか)なくおもひしに、無事にて夜(よ)をあかしたまへば、死骸は何となりたるや御(ご)らんはなかりしにや」とたづぬるに、禅師はありのまゝに見たるとをりを語たまへば、「さてこそ/\むかしより人のいふにたがはぬ事よ」とみないひける。それより夢窓禅師は、昨日庵室のありし山にのぼりて、庵主の老僧にあひたまへバ、老僧のいふにハ、「さて/\はづかしや/\」と、はじ入たる躰(てい)なれば、禅師たづねて、「何たる事のはづかしきぞ」といへるに、老僧曰、「あさましき事なれども、昨夜貴僧の見たまひし死人を食(くひ)たるハ、我なり。貴僧をたのみて懺悔いたさん。此あたり十里ばかりの山中にハ、僧たるものハ愚老一人(いちにん)なるゆゑに、死人あれば引導してくれといひけるを、承知してその業(わざ)渡世となりて、衣食に富てくらせしが、一期(いちご)の命(いのち)終りたれば、餓鬼道に生じて食人鬼(しよくにんき)となりて、このあたりの人の死けるをまちて、死人(しにん)を食(くふ)事(こと)見たまひたるがごとし。とむらひてたすけたまへ」といふうちに、老僧も失(うせ)て庵室(あんしつ)もなく、草村(くさむら)の中に、その老僧の塚(つか)と見えて、五輪の石のあるのみなりしとぞ。これもいろ/\のはなしのうちなり。


★禅の考案の特異な存在、救われるということの意味、ホラーの表現力のポイントは何か……等々、この作品の提示する裾野は思いの外、広い。