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尾形亀之助拾遺 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:ここには既に私が公開した「尾形亀之助拾遺詩集」及び「作品集」(推定復元版)俳句に含まれない作品群を一括して纏めた(短歌・書簡等は除く)。底本は思潮社1999年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」を用いた(殆んど底本の「評論」パートの部分と一致する。底本は秋元潔氏の労作であるが、その分類には私は多少の疑義を持っている。例えばここに示された「牛乳屋の煙突と風呂屋の煙突」や掉尾の「カルルス煎餅」を『評論』と見做すことを肯じ得ないことは恐らく大方の読者に御賛同頂けるものと思う)。傍点「ヽ」は下線に代え、踊り字「/\」の濁点は正字に直した。初出の年号には底本にはない西暦を附し、一部に私の注を附した。編者による「ママ」表記(ほとんどない。表記が極めてぶれることの多い亀之助の性癖上、編者秋元潔氏は極力少なくしている)は省略し、私が必要と考えたものは、原則、私の注に入れた(但し、例えば頻繁に現われる、本来は「さう」の「そう」等は、その一篇の中で統一して用いている場合等は、違和感がなく、注もうるさくなるだけなので省略したものもある)。注でしばしば引用している秋元潔氏の「評伝 尾形亀之助」は1979年冬樹社刊、正津勉氏の「小説尾形亀之助――窮死詩人伝」は2007年河出書房新社刊である。【2009年9月2日】]

 

尾形亀之助拾遺

 

    其の夜の印象

 

「部屋を出て路に出た。雪が未だ降つてゐる。一時過ぎた頃だ。

寒いほら穴のような路をつれの男と歩く。

外燈の上にもポストの上にも雪がたまつてゐる穴の中を歩く熊のように。

二人の人間は化けもののようだつた。

演劇、展覧会、音楽会、詩、歌、小説、感想、同人、金、人、表紙、画などと部屋の中で話されたことが外へ出ると頭に浮んで来ない、寒いばかりだ。ほら穴のような路のごとく遠くの方に未来があるような気がする。

『玄土』――こゝで自分は育つか。『玄土』――それも育つか。

それから三年半ほど過ぎた、その間に色々なことが起つたがそんなことはかゝない方がよいと自分は思つてゐる。」

(玄土第三巻第六号 大正111922)年6月発行)

 

[やぶちゃん注:『玄土』(くろつち)は仙台芸術倶楽部の同人誌に参加する。この雑誌は、大正9(1920)年8月に歌人にして相対性理論の紹介者である物理学者石原純や原阿佐緒が中心となって創刊された総合文芸雑誌である。ここで尾形亀之助が意味深長に語る「色々なこと」の大きな一つは、まさにこの石原純と原阿佐緒の道ならぬ恋であった。そうして後の亀之助の詩空間を髣髴とさせる石原の時空間理論と、ファム・ファータルたる原阿佐緒の魅力……その辺りは、私のブログ記事「尾形亀之助 相対性理論 特撮」等も参照されたい。]

 

 

 

    洋画展覧会の記

 

 展覧会をやることゝ大きい画をかくことゝで五月の末に妻と一緒に仙台の家にかへりました。

 五月末に開催する筈であつたのが六月の始めに延びて更に六月二十四、五日(土曜、日曜日)にやることになりました、会場になる図書館のうちあはせやびら書きで六月も半ば過ぎになつてしまつて、東京からの目録が着いたのは十九日頃でしたので。二十四日から始めるのにまに合ふように目録を印刷して下れる所がなかつたので心配しましたが、それもうまく問にあつて、三百部又三百部又三百部又五百部とどんどん印刷して千四百部を二十三日の夜までに出来上りました。始め三百部を印刷することがおそろしいように思はれてもう少し少なくと思ひましたが鈴木信治君三浦一篤君二高の鈴木重夫君と仙台の同人方々の働きでどんどんと千四百部まですり上げたことを私はたまらなくうれしく思ひました、同時に緊張して働らいて下すつた方々に心からの感謝をいたしました。

 よい天気であればよい と皆んながそればかり心配してゐました。二十一日と二十二日が梅雨であると思へないほどすみとほつた晴天でしたが二十三日は午前からすつかり曇つてしまひました。十時頃下田君から電話があつて我孫子君と一緒に来仙したことを知りました。すぐ私の家に来ていたゞきました、昼から下田君と我孫子君はがくぶちの都合などで友人のところへゆく。

 二十三日の午後五時頃から会場の準備をするために図書館に集まりました。三浦君は物産陳列所からバックにする海老茶色の布を露西亜のラシヤ売りのようなかつこうをして借りて来て下れました、バックをはりつけて画をかけないうちに暗くなり始めました、すぐ暗くなつてしまつた、ろうそくをつけて十時すぎにやつと画をかけ終りました。星が出て夜の空は晴れてゐました、私の家に引き上げて明日の準備を終つたのは夜の一時過ぎました。

 

 二十四日は晴れました、会場にゆく途中警察によつて下見をして下れるようにたのみました、それから直ぐ玄土洋画展覧会と書いた立てかんばんを図書館の門の前に立てゝ会場のそうじをしてゐる頃から一二人と人が入り初めました。

 待つてゐた秋山君が鈴木年君の版画をもつて来て下れました。遊佐君は新夫人同伴で来場、会場が立派に出来上つて私達は事務室に受付におちつきました、家からもつて来て下れたにぎりめしを食ふ頃はよほど安心してゐました、深見君は試験中渡辺君は病気でゐなすつたが気にかゝるからと云つて来て下ださいました。

 六時頃閉場して労れてひきあげました。

 

 二日目は風が吹いて曇天でした、朝、香月君と磯村君から電話が来ました、直ぐ会場の図書館に来てもらうことにして私も出かけました(七時半頃)路に迷つたとかでそれからしばらくして両君に会場で逢ふ。

 午前中から会場はにぎ合いました、香月君と磯村君は松島見物に出かけました。

 午後六時頃の閉会まで二日間で千三百余杖の会員券を売り出して八百人ほどの入場者がありました、私達は感謝と喜びと安心と労れとで引き上げました、私の父は慰労の会を開いて下れましたので七時から会食してよせがきをしました、香月、磯村君は九時に汽車で上京暗くなる頃から雨がほつほつ降り出しました。

 

 二十六日は午前中会場のあとしまつをして私の家に集りをひらきました、久世君は福島からわざわざ来て下れました、ゆつくりした気特になつて休みました、其の夜十時の急行で秋山、下田、我孫子の三君帰京して仙台は又淋しくなりました。

 

 宮城図書館の人々、絵を見に来て下すつた人々バツクの布を貸して下れた物産陳列所、朝日新聞の菅野秀雄氏、東華新聞の小野平八郎氏、下田君の友人青山健治氏柏靖氏、目録を印刷して下れた弘文社の人々、この外の多くの親切に働いて下すつた方々に厚くお礼をいたします。

(二十七日夜記す)

(玄土第三巻第八号 大正111922)年8月発行)

 

[やぶちゃん注:三段落目冒頭「よい天気であればよい」の直後の空欄はママ。末尾の「(二十七日夜記す)」は底本ではポイント落ちで、最終行行末にインデント。前年大正101921)年10月の第二回未来派美術協会展に「朝の色惑」「競馬」20号二点を出品した亀之助は、この年1月、正式な未来派美術協会会員となって、十月の第三回未来派美術協会展(三科インデペンデント)開催へ向けて準備運営に当たる一方、自身の所属する仙台の文芸グループ『玄土』で、玄土洋画展覧会を開催した(宮城県立図書館にて6月24日・25日)。以上はその展覧会と、父十代之助が展覧会関係者を招いた慰労会の様子を伝えている(但し、亀之助がこの展覧会に出品した作品も点数も現在不明である。当初は40号の「自画像」を出品予定であったが会期までに描き得なかった)。この、絵画の世界に自律的な生を見出した亀之助の、小学生の修学旅行の作文のような文章を読むと、私は何だか微笑ましくなると同時に、この後、真っ正直な亀之助が前衛美術運動の中でいいように使い捨てにされてゆく哀感をも何処かに予兆させているかのように感じられて複雑な気持ちなる。そして、この準備のための帰郷中に、最初の決定的な妻タケとの不和が生じており(後日、家出のように旅に出ている。次の「旅をしたあと」を参照)、共時的に『玄土』への詩の投稿が増えるのである。]

 

 

 

    旅をしたあと

 

おれは旅に出て幾回となくホームシツクにおそはれた

帰つたところで面白くない思ひをするばかりなのにひしひしとねばり強く俺の心をついた

家までに二晩もかゝるところに来て居ておれのその気もちには間に合はないたまらないもどかしさを感じた

実際何の得るところもなくすつかり予想をうらぎられて帰つて来た

旅に出なかつたのと何のかはりもなくおれは自分の部屋に腰をかけてゐるのだ

暑い夕陽のさし込むところに額いつぱい汗をかいてカアテンも引かずにゐるのだ

いつものように妻をしかりつけて最もいやな思ひをして一人ぼつちでわいわいでたらめになきさはぐ蝉にあきあきしてゐる

外も部屋も部鼻のものも自分も全く平凡にすつかり透きとほつて一つものになつてしまつてゐるのだ

 

妻がひつそりとかげの部屋にひつこんでゐてやはり同じようにいやな思ひをしてねばねばしたあぶら汗を流してゐるかと思ふともうやりきれないほどいやだ

そしておれは動けなくなり口もきけなくなつてゐる

蝉が自由におれの顔にたかつてなめてゐる

うるさい蝉だ

正面からよく見ると馬の顔のようなかつこうをしてゐる

羽のあるのをよいことにしてうまく飛び廻つてゐる

だが

おれの顔をなめてゐることを思ふと何処かになつかしみもある

上京したくなつた

(一九二二、八、一二)

(玄土第三巻第九号 大正111922)年9月発行)

 

[やぶちゃん注:秋元潔氏は「評伝 尾形亀之助」の中で、この詩の一部を引用し、亀之助が、この年の春には「若いふたりもの」「春のある日」「死」で見せた愛妻ぶり(「尾形亀之助拾遺詩集」参照)と打って変わって『気むづかしいさうに妻のことを書いている』と記し、同時期に『玄土』に妻タケがたった一度だけ投稿した詩を掲げている。一方的な亀之助サイドからばかりでは、不公平である。大鹿長子(再婚後のタケの本名)女史の著作権は消滅していないと思われるが、対等な視点から捉えるために、その詩を引用する。

 

    曇朝   尾形長子

 寢まきのまま

 窓に腰を掛けて

 ぼんやり

 眼をあいてゐた

 

 その時

 私のくちびるに

 何かつめたいものが

 觸れた

 

 いつの間にか

 むしり取つた

 朝顏が

 ふるへてゐる

 

 私は

 目茶苦茶に

 もみつぶして

 ほうり出した

 

ちなみにこの急激な亀之助のタケに対する変節について、秋元氏は、以下のように述べておられる。この時期、生まれて始めて自立的な自由な未来派の画家としての活動を始めた亀之助であったが、彼の美術界への導師であった未来派の画家木下秀一郎氏は妻タケの叔父であり、亀之助が寄ったところの未来派美術協会会長となった高山開治郎は、亀之助の祖父安平の甥で、兜町で株や商品相場の仲買いをやっていた極めて生臭い人物であった。『姪の連れ合いだから引き立てててやろうという木下氏の態度、亀之助を利用して尾形家から金を引き出そうとする高山開治郎――駆け引き好きな、この二人の身内の人物は、亀之助の心のわだかまりとな』り、『亀之助のプライドにさわったろう。その吐け口が妻タケへの八つ当たりである。』として、先のタケの詩を引用後、『亀之助は人一倍、優越欲求や認知欲求が強かったのに、幼児期から少年期にかけてそれは一度も満たされなかった。ようやく、絵を描きはじめたとき、それは妻のお蔭であり、木下氏の引き立てによるという、劣等感からくる』悪感情のはけ口が妻へと向かい、その行き違いの中で、相互不信を引き起こす何か決定的な出来事が生じ、ひいてはそれが6年後の離婚という破局へと繋がっていると推論されている。秋元氏当該書の「第4章 結婚、美術活動」は裏面史も含めた大正期前衛美術史の美事な一幅となっているのであるが、そこで当時の美術運動の政治的駆け引きの中で、尾形亀之助は自分がいいように使われたことに気づき、それが絵筆を折る原因となったとする分析に、以前から亀之助の美術からの離反に甚だ不審を抱いていた私は、目から鱗の感であった。一読をお薦めする。末尾の「(一九二二、八、一二)」は底本ではポイント落ちで、最終行行末にインデント。]

 

 

 

    詩集「兵隊」のラッパ

 

 私には大鹿君の「兵隊」を批評することはとうてい出来まい。私に言はせると、大鹿君の詩は私が批評しやうとして使ふ言葉よりもはつきりしてゐるし、うがつてゐる。銃口につまつたラムネ玉はころがして遊ぶより他に私には出来ない。銃身の西洋錐のやうにねぢれた光にそうて、魂を吸ひ込まれてしまふばかりである。

 

 しかし、「しかし」と云つては大げさ過ぎて、何か一言これから批評めいたことを言ひ出すやうではあるが、そんなことではなく、「批評が出来なければしなければいゝではないか ――誰も君にたのんでは居ないよ」と、言はれたくないのだ。私には友情がある。この意味で大方の読者並びに大鹿君にも許してもらはなければならない。

 大鹿君はおそろしい眼と耳と触角のやうな不思議な鼻をもつてゐる。そして、水晶のやうな脳をもつてゐるに違ひない。「兵隊」「漁師」「猟師」「潜水夫」「線路工夫」「公園」……そこには、にじみ出てゐる親しみがあり、唇を青くするやうな苦しみがある。そして又、何んといふ淋みしさだらう。泣かされるやうなところがあるではないか。この彼の熱情を私は拒めない。

 

  爽やかな秋の空気を圧縮した空気銃で

  私は雀のやうな木葉を打落した。

(空気銃)  

 私は大鹿君をたゞもううらやましいと言はふ。彼は銃口から青空をのぞいてラムネ玉を見つけてゐる。目の前で馬の尻が笑つてゐると言つてゐるではないか。

 「兵隊」編の1の第一番に

 

  兄弟! 何を考へてゐるんだ。

 

と、書き出してゐる。

 「兵隊」123は実によく分けてある。こんなによく分けるには何年かゝつても出来ないでしまふ。私はこゝにその全部を書き写そう。

 

  兄弟! 背囊のやうに草の中へ転がらう。

 

  からだの垂味で草汁が背中へ浸み移つてきても

  草から砲丸のやうな頭をもたげるのは嫌だ。

  兄弟! お互が傍の呼吸と体臭を忘れてゐよう

  空が余り青いから顔の色も染つただらう。

  頭脳の中の(故郷)へ土の冷えが浸みこんでくる……。

 

  はつと持上げた首がポプラの影を草に見る

  其処に草を喰ふ馬の首はなかつた。もつとも今日は安息日

  俺は彼の馬へ愛着を発見した。

  俺に生れたこの悲しい習性に呪あれ!

  銃銃銃……靴靴靴……みんな呪はれてあれ!

 

  兄弟! お前のよく寝てゐる頰をなぐらしてくれないか!

 

 「漁師」私は又すくなくともその一編を書き写さなければならない。だが、紙面をそう取ることは許されないことであるし、それではあまりくどすぎることになるだらう。

 この漁師は女のことばかりを妙に思ひこんでゐた。魚はあまり取らないやうであつた。

 「嬶は今頃海へ潜つてゐるだらう。二本の足が油雲へ突きさゝり……青い水の中を尻が空を向いて落ちてゆく……」そして舟に乗つてからも、そして「指の股の鱗は煙草入の中へしまつて置かう」と「夜明けだ! 夜明けだ! 夜明けだ!」と三つかさねて、黒いインキの水の中へ漬けて置いた錨と心を引上げた。「兵隊の会」のときの都こしまきの貴族といふのを思ひ出して、「漁師」をこんな風に書いてしまつたけれども、得難い名編であることは言ふまでもないのである。

 「猟師」123。1も2もそうではあるが、3まで読んでいつて、私はしーん……としてしまつた。このま暗になれ! と言へば、黒薔薇の花束が何処からともなく集つてきて、この頁を埋づめてしまふやうな変事が起るであらう。

 大鹿君はこゝにも女精を巧みに使つてゐる。白犬!

 私は何度も読み返した。私は大鹿君の詩集を初めて読んだ次の日自分の詩集の返本を一行李縁側へ運んで虫乾した。よく晴れた秋空であつた。黄色い表紙の色を縁側から座敷まではみ出させて、ひととほり列べ終へてから座蒲団を枕にして、私は又「兵隊」のところから読んでゐた。私は十年前の昔、啄木歌集に赤線を引いたことを思ひ出す。

 

 私は赤いアンダーラインを引きすぎてはならない。思つてゐることがみな文学になるだけに充分注意しなければならない。が、「潜水夫」には水のやうなところがあり「線路工夫」には砂利のくづれるやうなところがある。この二編に比べれば比べるほど前者は海の詩となり、後者は陸の詩となつてしまふ。

 私は先に「漁師」と「猟師」を読み、こゝに「潜水夫」と「線路工夫」を読んだ。そして次は「公園」になつてゐるが、その間にはさんで「飛行師」といふ一編があつたとすれは、やはり私をうならせたことだらうと思ふ。私は前の節までを前夜書きつけて、この節から次の日の昼から書き初めてゐる。昨夜のところを未だ読みかへしてみないが、今日は何んといふ書きにくさだらう。私は「公園」に入る前に「準水夫」と「線路工夫」に、彼のために歓声をあげやう。

 

       「公園」編……「浴場」

 

  銅の湯槽が私のものになつた。

  タイルの白い床にざあざあと溢れる湯が

  ガラスのせゝらぎを作つて朝を流す。

 

  女の児がゴム人形になつて坐り

  桶に被せたタオルを風船玉の頰が吹いてゐる。

 

  トンボの眼玉のやうな石鹸玉がもり上り

  天井の色硝子を映して女の児の瞳へ近づく。

  幼い頃は自分の夢を作るのが上手だな!

 

  からだ中を真白な石鹸にしたので

  私も南洋土人になつた。

 

  皮膚には生毛の感情が甘へてゐる

  ぷすぷす不平を云つて消えるものがある。

 

  感触を失つた思ひは洗ひ流して了はふ

     (中略)

  私は小鼠のやうな自分の……を見る。

 

 まことによい巫山戯方ではないか。珍らしい健康さではないか。浴場を平らにして、陽に透して見るやうである。これは大鹿君のあの鼻のするしわざなのであらう。もし、そんなことではないといふやうなことだつたら、私は黙つて大鹿君の鼻をぬすみ見るばかりである。

 「穴」のパイプを私は非常に好んだ。

 「時計」「紅茶」「唾」「帰路」「雨」「旅」「軽い熱病」「げんごろう」「WC」。……

 

      「空気銃」編……「日曜日」

 

  投上げたゴム鞠は瓦の階段をころがり

  息もつかず飛下りてくる雀……

  少年の両手は日曜日を摑へた。

 

 この他、「夏」「森の中」などの好編がある。

 「焚火」編「焚火」「鞦韆」「杉林」「夕暮」など十数編が又私を喜ばした。

 

      「夕霧」

 

  緋の空に火竜(ドラゴン)の息は衰へる。

 

  岩々の城壁に夕霧が懸つてゆく……。

  遠か奈落の浪打際で

  柩の蓋の響が轟々と鳴る。

       (一行略)

  星はこの夜の黒檀の柩に、一つ一つ釘を打つ。

 

 又夜が来て、今夜は雨が降つてゐる。私は昼から二枚と少ししか書けなかつた。一つには私はかつてこの種のものを一度も書いたことがなかつたからだらう。だが、初めから終りまでたゞほめて書いてゐるのに云々……と思ふ人があるならば、それは間違つてゐる。よいものをよいと言ふのに私は何の不思議もないと思つてゐる。私には、今まで私がこの種のものにぜんぜん手を触れないで来てゐるその為の臆病さの真面目がある。幸にして、私は大鹿君の詩集に初めての筆をおろしてゐる。こゝに書いてきた中にいやらしい言葉を一つも使はずにすんでゐるのである。拙なさは自分ながらも恥じ白らけて、筆をとめやうとさへする。しかし私はこゝでもラッパを吹こう。

 筆をとつて第三日目である。私はだいぶ疲れてしまつた。「拾遺」の「隅田川」と「島の画家」に就いては、機会を待つことにしよう。「隅田川」は私のやりかけてゐることに似かよつてゐるため、「島の画家」は私が過去一年間小説に手をつけてきてゐるために、又異つた興味から書くことが出来る大鹿君の輝やかしい将来を祝し、よい詩人を持つわれわれの喜悦を述べた。この二編は次へ割愛する。

(一九二六、一〇、六)

(詩神第二巻第十二号 大正151926)年12月発行)

 

[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。これは文芸社大正151926)年8月刊の、友人大鹿卓の詩集『兵隊』の評である。詩の題や引用を示す( )書きの詩の題は、底本ではポイント落ちである。大鹿卓(明治311898)年~昭和341959)年)は、金子光晴の弟で、草野心平の紹介で亀之助と出逢った。亀之助が信頼していた友人の一人で、後の全詩人聯合結成にも尽力したが、その後、亀之助の妻シゲが尾形に愛想をつかし、彼の元へと走ることとなる、尾形亀之助にとってエポック・メーキングな詩人でもある。私は大鹿卓の詩をこれ以外に読んだことがないが、残念ながらここに示された大鹿氏の詩には亀之助のように打たれるものが全くない。「油雲」は雨雲、盛んに沸き起こってくる雲、若しくは春の雲の謂いであるが、前者であろう。「女精」の語は不明。「自分の詩集の返本」は前年11月に出版した第一詩集『色ガラスの街』を指す。限定500部であった。「この二編は次へ割愛する」とあるが、その二編を語った評論は底本の尾形亀之助全集にはない。恐らく書かれていないと思われる。そうして、次に全集に載る雑誌『詩神』への寄稿は、昭和4(1029)年1月までなく、それは「跡」である。『妻と別れた経験は生れて初めてゞあつた。』と思わず記した、そうして『書くことを書いてしまつたような気がする、読みかへしてみたが、これが私の書かうとしたことなのかどうかわからなくなつた。――読みかへしたのがわるい。書くことを書いてしまつたやうな気がしたゞけでいい。』という痛みの中で終わる述懐の「跡」である。そこでは、最早、現実の舞台上の重要な登場人物であるはずの大鹿は、最早、登場しない。]

 

 

 

    飲酒

 

私は酔つぱらつてどぶへ墜ちて頭をひどく打つた。肘や足をすりむいて着物は肩のへんから泥だらけになつた。曇つてはゐたが三日月の出てゐる夜だつた。

こんな態を飲酒家の中に馬鹿げたことだと思ふ人は一人もゐまいと思ふ。この仲間には自慢にさへなるかも知れない。

(〈亜〉26号 大正151926)年12月発行)

 

[やぶちゃん注:二連ともに冒頭一字空けはない。]

 

 

 

    牛乳屋の煙突と風呂屋の煙突

 

牛乳屋の煙突はあかさびてゐる 風呂屋の煙突は塗りたてのやうに黒い

 

雪どけのする明るい朝だ

 

    ×

 

牛乳屋にすばらしい浴槽があるやうな気がする

 

    ×      ×      ×

 

 年の暮から正月にかけての景色が私にはまぶしい。殊に雪どけのする日はあはれな感情に心を洗はれる。

 私が十八から十九に移る少年期の終る頃の出来事「ラブ」が、今にさうしたものを思はせるガラスのやうな季節である。

 私はクリスマスの夜、女のま白な体を見せられた。

 雪がよく降つた年であつた。私が東京から郷里に帰つた年の冬であつたらうと思ふ。私はそのときに、三週間の「ラブ」にとり残されてぼんやりしてしまつた。

 正月が過ぎると女は片々の手袋を忘れて行つたままそのままになつてしまつたのです。

(〈亜〉27号 昭和21927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:『私が十八から十九に移る少年期の終る頃の出来事「ラブ」』の年齢は数え年であるから、1718歳の経験と考えられる。亀之助の学歴は幾分変わっている。喘息のために11歳の時に仙台から鎌倉へ転地療養させられ、宮城県立師範学校付属小学校尋常科五年から、明治451912)年4月に鎌倉尋常小学校(現在の市立御成小学校)尋常科五年に転入、五年生を再履修している。その後、逗子開成中学校入学(大正3(1914)年)するが、二年後の大正5(1916)年4月には明治学院中学校に転入、東京千駄ヶ谷の明治学院自習寮に転居している。ところが、翌大正6(1917)年5月には五年半ぶりに仙台の実家に戻り、私立東北学院普通部に転入、ここでまた中学三年生を再履修している。17歳は丁度、この時で、文中で「クリスマスの夜」がわざわざ示されるのも、この東北学院の前身が仙台神学校であったことと無縁ではあるまい。正津勉「小説尾形亀之助」でも、この頃尾形亀之助の文学への覚醒が生じたとし、同時に『いつとはなく彼も紅燈の巷を徘徊しはじめる。カフェー遊びをしたり仙台では有名な常磐丁遊廓に出入りしたり、そしてそのいつか童貞喪失にいたるのである。』として本詩を引用している。亀之助の記憶に誤りがなければ――人はこの時の記憶をそうそう錯誤するものではない――それは大正6(1917)年1225日のことである。序に言っておくと亀之助の誕生日は1212日、彼の「私が十八から十九に移る」という謂いが疎かなものでないことが知れるではないか。]

 

 

 

    西暦一九二七年

 

 自分は一生懸命に仕事をしたいと思ふのは毎年のことだ。もし、いたづらに月が過ぎ年が経つものとすれば生れて来て、泣いても追ひつかない。

 昨年は今年の前の年といふ以外に何のこともない。こんなことではしかたがないとつくづく思ふ。しかし私に何が出来るものかと不遠慮に言つて下さるな。それは私自身で心配するので沢山だと思ふ。むしろおだててもらひたい。少し位わるくともよい意味であれば大変いいと言つてもらひたい。悲観してしまふと中々心をもち直すに骨が折れる。僻みなどは持ちたくない。又、「かつてに何んとでも言へ。俺の仕事がお前にわかつてたまるものか」とは私にはそうは思へない。

 親切に見てゐてもらひたい。数十年後こつこつと詩を書いてゐる自分の姿を考へると、私は暗然とするものがある。又、ここで一箇年のケリがついて私はペン先をとりかへるのだ。私にばかりではない皆んなにも今年がよい年であつて欲しい。

(〈亜〉27号 昭和21927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注::「私にばかりではない皆んなにも今年がよい年であつて欲しい」と最後に亀之助が言う時、しかし、彼は、「私」が破滅へと順調な落下をし、時は悪い時代へと向かい、人々にとって「悪い年」になることを予感していたのではなかったか――しかしこの昭和2(1927)年、日本は金融恐慌に揺れ、第一次山東出兵で高らかな軍靴の音が響き始めていた。私的にも、自身の主宰した雑誌『月曜』の廃刊・吉行あぐり他への恋慕から生じた家庭不和、それに起因する抑鬱気分が、年末には一気に躁状態での無謀な「全詩人聨合」立ち上げとなる。正津氏も「小説尾形亀之助」の中で述べるように、この夏の「ぼんやりとした不安」を理由に自殺した芥川龍之介の報知は、少なからずこの詩の尾形亀之助の思いに通底し、亀之助をして激しく揺さぶったであろうことは想像に難くない。]

 

 

 

    「検温器と花」私評

 

 私は北川君のこの詩集を気ままに批評をしたい。それに私としても、しなければならない立ち場にゐるやうな気がするのです。私はうまい、うがつた批評とは離れて、むしろうまいうがつた批評にその不足な部分を反省してもらはふとするのです。(又は、私のこれをうまいうがつた批評の一つに数へてもらつてもいゝのです)

 この詩集「検温器と花」を大変いゝ又は大変わるいと言ふべきではないと私は思ふ。なぜならば、この詩集は批評されるために出版されたものではなかりさうに私には考へられるからです。初めからこんな自分かつてのことを言つて、この幾分かを諒としてもらつて「批評したつていゝではないか」といふ仲間にも時々少しばかり入るのです。そして、作品一つゞつに私は自分の態度を自分の許すだけ変へてみたいのです。

 批評家はこの種の詩集が十も廿も出版されるのを待つてから……といふ気がするだらう。そして、批評家はこんな意味で手かげんしなければならない不幸を感ずるであらうと思ふ。

 短詩型の作品が大変多くなつて来ても、私はこれを流行などと言はない方がいゝと思つてゐる。私は流行でもなんでもないと思つてゐるのです。時代的欲求として流行性をもつてゐるとしても、てんでにすましてゐればいいのではないかしら。

 

 この間私は、尾の太いパラソルをそれに実に似やはしくない女がもつてゐるのを見て苦笑したのです。これはあきらかに流行が彼女を恥かしめてゐるのです。私は、ハイカラなパラソルを短詩型に彼女を詩人に例へたくはありません。

「表現の単化的欲求として必然的に詩型を短化する」時代的な傾向はあるとしても、多少でも「対象を消化して、次第にその主宰する独自の世界へつれてゆく」べきものであれば、長くなつても短かくなつても恨みはないわけと思つてゐるのです。

 私は、おしやべりさへしなければ詩はさう長くなるものではないと考へることが出来ます。そしてどんなすはらしい形容語でも、詩そのものが受けつけない場合が多いといふやうな考へ方、或るひはその何んとかゞ詩を大変短かくしてしまふだらうと思ふのです。こんなのが「表現の単化的欲求としてかなり自然に詩型が短化された」ことになるのでせう。完全に詩が、必然的に短化されたときもほとんどこれに同じだと云つてもよいと思ふのです。必然といふやうな意気はあつてもそれが特別にどうなるものとも考へられない。勿論このことは色々議論になる問題であらうし、自分としてももう少しはつきりした言葉を使ふことが出来るが、こゝではそれを必要としない。友人が遊びに来て「検温器と花」を見て「こんな立派な装幀の詩集を出すのは横暴だ。短詩型の殿堂を建てようとする努力はわかるが今はそんな時でない」と言つたのです。私はこの言葉を北川君の耳に入れて置いてもよいと思ふのです。又、後記にも色々非難の声を聞くけれども、私はことさらにいやみに解釈しなくもよいのではないかと思ひます。

 ×

「昼の月」で北川君は巧みに昼の月を書いてゐる。この種の作品は読んだ後で見なければなるまいと思ふ。この見るといふことは、終始批評的な眼で読まないことです。

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「秋は豊かなる哉」赤や青や黄の横木細工で門や家をつくつたときの感じを受けた。よい文章であつた。少年と老婆のあやしげなしなが表面に浮び出すぎてゐて、それを見ないふりをするのにすくなからず骨が折れた。私は一つの型として読んだのですから、作者の「秋は豊かなる哉」として十分感銘出来なかつたやうな気がします。

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「豚」もしも、これは何が書かれてあるかと聞かれたとき「これは北川君の詩だ」と言はふ。これが一番間違ひない。をかしいやうですが、この場合当然なことゝして私は更に恥ぢません。実にうらやましい文章でした。

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「なめらかな球の変色」いゝ主題だ。詩の方はたゞ眼を通すやうにして読みました。こんな見方も作者に失礼だといふことにならなけれはよいと思ふのです。

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「椿」

女子八百米リレー。彼女は第三コーナーでほつくり倒れた。

 

 落花。

 

 或る場合一つの詩の中に読者にも相談するやうな意をふくんでゐることも面白いと思ひます。私は「椿」をそれにあてはめることが出来る。つまらない詩ではあるが、結局いゝ詩であることを拒むことは出来ないと思ふのです。

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「体温表」かうした温みは好きです。簡単に或ひは複雑な意味で作意をどうかう言ふことはいけないと思ふ。作者に対しての礼として好きなら好き嫌ひなら嫌ひ、わからなければわからないと言ふべきだと思ひます。私はこのやうな温みはめつたに見ることが出来ないと思つてゐます。(このやうな詩はある人々にはかなり危険な型であることは云ふまでもないでせう)

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「落日」落日のもの足りないやうな静寂。ちよつとの間すべての喧騒は消えてしまつてゐる。先の「体温表」のどこかに華かさがあり、これには部屋のすみのやうなうす暗い不安がある。夕暮の川である。好きな詩でした。

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「平原」三篇の中で最初のが凡ての点すなほであるのが好きでした。このすなほといふ言葉もぶつ議をかもす性質をもつてゐるでせうけれども、出来るだけ了解し易い詩を好んでゐる私の願ひなのです。

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「花の中の花」「爛れた月」兎に角、批評の言葉を入れるすきがないのです。その意味で面白みのすくない詩でせう。きまりすぎてゐるといふことも出来ると思ひます。然し、私達はこのやうな「面白くない詩」に注意しなければならぬと思ひます。「花の中の花」――港。彼は船のデッキにゐる。彼の女はそれを見送くる。船が動き出す。遠く離れてゆく。ああ――離別。(こんな面白味のないことを北川君は巧みに詩にしてゐる)

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「春」は二篇ともごくせばめられた春、例へば作者が冬以来胸に何ごとかを蔵して来ての春であらうと思ふ。それだけ強くはあるが何か表現の不足も感ぜられる。作者がこれがいゝんだと言へばそれまでのことで、私がよけいなことを言つたことになるのです。

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「桜」は好きでした。

「赤いレンガ窓」も好きでした。

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「楽園」(2)は好きでなく「楽園」(3)が好きでした。が、さう思つた後に私は前者と後者に大変な異ひを知つた。それは後者には匂ひがあるが前者にはそれがない。前者から匂ひをかげばこの作品に対する観照をあやまるものではあるまいか。

 ×

「爪」はしつかりしてゐる。そして「青ざめたWC」は清いし、美しい。「検温器」全般にわたつてもさうであるが、殊にこの二つの詩のやうな作品から深みや暗示を受けようとすることはやめたいと思ふ。読む態度からさうしたものを取り去りたいものと思ふのです。

(1)と(2)と(3)の一部とでこんなに長くなりました。あと(4)と(5)が残つてゐます。私は平面を愛してゐる。そして立体といふことをあまり考へてゐないのです。「深刻な立体」の反対の意味で「薄い立体」といふ言葉があれは私はそれを愛してゐるのです。

 後、「秋」「海」「煤けた街」「楽器」(4)の二つ目の「朝」「女と雲」「ラッシュ・アワア」「硝子の破片」「庭」「呆けた港」の好篇を読むことが出来ました。

  書き終つてぼんやりしました。「検温器と花」は色々問題にされる詩集

 と思ひますが、問題として、取扱はれないでそのまゝにして置かれるので

 はないかと思はれます。私もその方がほんたうだとも思ひます。気ままに

 書いたのでしたが書きにくかつたやうな気がします。読者の寛大な処置を

 願ひます。

(太平洋詩人 第二巻第一号 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:「検温器と花」は、大正151926)年ミスマル社刊の北川冬彦の第二詩集。北川の詩人としての評価を高めた詩集である。]

 

 

 

    詩集「半分開いた窓」私評

 

 この詩集の表紙の装幀が素敵によかつた。渡辺君はこの詩集を小野君からキタナラシクつくつて呉れとたのまれたと私に話して聞かした。そして、出来上りがキクナ過ぎたと小野君が言つた……と。

 私は小野君の心持がわかるような気がする。私はこんなに紙のわるい詩集はめつたにないと思ふ。私は小野君に君の詩集は素敵です。――と言ひたい。詩集出版の際に、その装幀をどうしようかと思案しない詩人はゐないだらうと思ふ。立派に気のきいたものをと望むであらう。しかし、立派すぎることはちよつとをかしいし、気のきいたといふことは詩集の装幀にはあまりうれしくない。だが、著者が詩集を出版する際に立派でなく、気がきかないやうにとは中々さう思へないことにきまつてゐる。

 きのきいた装幀は、けつきよくアクのぬけきらぬことを思はせるだらう。あまり綺麗すぎ立派すぎるのは、詩を飾り菓子のやうなものにしてしまふきらひがある。私は、詩集の装幀はどつちかと言ふと間のぬけたものをうれしく思ふ。(そして又、特別の場合以外は著者自身で装幀する方がよいと思ふ)――こんな意味ばかりではないが、詩集「半分開いた窓」の表紙装幀は私は非常に好ましく思つた。くどくどと言ふやうではあるが、私は詩集の装幀は著者が胸にかゝげてゐる花であると言つてもいゝと思つてゐる。世の全部の詩人にくれぐれも装幀に注意していたゞきたいと思ふ。私にもどうすれば装幀に失敗しないのかははつきりわかつてゐるのではない。いたづらに失敗した装幀を見ては痛歎する阿呆であるが、私は如何にも苦心したらしい……如何にもこちて印刷したものと思はせる多くの表紙にくらべて、この詩集の表紙は紙の裏からしみ出してゐるやうに少しの無理もひそんでゐないことを実にすばらしいと思ふ。小野君がキタナラシクと言つてたのんだことに、私はこの意をはつきり知ることが出来る。私はこの詩集を読む前に小野君は実によいものを持つてゐる詩人であると言ふことが出来る。この詩集は経費を多くかけてゐない。と思ふ前に諸君は以上私の述べたことを知らなければなるまい。すくなくもそれだけの観察をしなけれはなるまいと思ふ。

 

 私は先に大鹿君の「兵隊」と北川君の「検温器と花」の愚評をして恥かしい思ひをした。私は又ここで小野君の「半分開いた窓」で恥かしい思ひをするのか。

 批評といふことを、ほんたうに知つてゐない私には当然の結果であらう。そして、だいそれたそんなまねの出来るだけの自分ではないこともよく知つてゐる。けれども、喜びを述べ私だけの意見を述べ、又、かうした機会を得て注意深く著書を読むこともよいことであらう。

 諸君よ。どうも私はくどく言ふくせがある。くどく言はないと不安心でたまらない。幸に私のあはれなくせを許して、私の言はふ言はふとして言ひあらはし得ない中から、私の言はふとするものをつかみ取つてもらひたい。

 『小野君は小学校の五年生で、成績はよい方でずつと優等をもらつてゐる。昨日綴方の時間に詩を書いて一緒に列らんでゐる私に見せたので、私はそれを大に批評した』……と、こんなやうな邪気の無い態度で批評することを、小野君あなたは喜こんで呉れるか。何ごとかを言はふとする素人の批評を――。

    ×

   『この秋』

 女の悲鳴がする

 枯蘆の中から

 

 ――さうかしら

 静かだ

    ×

 小野君はこんな詩を書いてゐる。だが、この一篇で小野君の詩を代表してゐると言へない。唯、このやうな心境をもつてゐる詩人といふことを知ることが出来る。

    ×

   『盗む』

 街道沿の畑の中で

 葉鶏頭を盗もうと思つた

 葉鶏頭はたやすくへし折られた

 ばきりとまことに気持のいゝ音とともに

 ――そしてしづかな貞淑な秋の陽がみちてゐた

 盗人奴! とどなるものがない

 ぼくはむしろその声が聞きたかつたのだ

 もしもそのとき誰かが呼んでくれたら

 ぼくはどんなに滑稽に愉快に

 頭に葉鶏頭をふりかざして

 晩秋の一条街道をかけ出すことが出来ただらう

 しかしあまりにたやすく平凡に暢気に

 当然すぎる位ゐつまらなく盗んだ葉鶏頭を

 ぼくはいま無雑作に

 この橋の上からなげすてるだらう

    ×

 「街道沿の畑の中で葉鶏頭を盗もうと思つた」詩である。実際は、葉鶏頭を折り取つたのか取らなかつたのかを知らうとするとひどい目に逢ふことでせう。

 「半分開いた窓」を通読して小野君は詩が下手だと思つた。うまいといふ感じは受けなかつた。

 (私は詩が上手なのを別に尊ぶことではないと思つてゐるが、詩は洗練されていゝものだと思つてゐる)しかし、いゝ詩を見つけることはたやすく出来た。私はみんないゝ詩だと思つた。詩そのものがいゝのであつた。たゞ感じたもの見えたものをそのまゝ詩に書き入れてゐるために、小野君のそのときの錯綜した色々の空想や幻想をそのまゝ読者に強ひるので、かなり無理なことになつて自然その間の説明の不足などのために、或部分を駄足と思はせる結果となるのであらふと思ふ。(小野君はわざとさうしてゐるのであらう。面白いことと思ひますが、このまゝではいけないと思ひます)こんなことで、詩の多くはわざはひされてゐるやうであつた。

 私は短い詩にいゝ詩がうまく作られてゐるのを読むことが出来た。又、詩の多くは奇妙なユーモアをもつてゐた。私を好きがらせた。詩の一部分だけをどうかう言ふのはわるいことだが「十一月」「急止」「白昼」……等の終りの数行がその奇妙なユーモアで終つてゐる。活動写真の場面で、歩いてゐる人や自動車が急にそのまゝ静止した恰好になつたときの面白味、不思議味、不安定でゐて安定なといふやうなことに興味をもつてゐる――或ひはそこをねらつてゐるところが、「街道」 にも「無蓋貨車」にも「風船と機関車」にも「中空断層」にも「十一月」「急止」「白昼」……にもある。そしてこれ等の諸篇はたいてい同じやうな型で書かれてゐる。困難とする所以であらうと思ふ。

 私は言葉の節約といふことをずゐ分以前から考へてゐる。節約といふ言葉にうまくあてはまらない点もあるが、今の短詩型の詩の中には詩をあやまるものもある。自分は残念なことだと思つてゐる。これとは関係がないが、十二月の太平洋詩人の三瀬雄二郎氏の「詩月評」に小野君のところに節約といふ言葉を見つけた。私は小野君の詩に三瀬雄二郎氏と同じやうな考へを持つことが出来るが、小野君の詩の多くが説明の不足からさうした感じを読者に思はせるのであるとすれば、そのむだと見なされる箇所は作者にとつて大切なものであらう。小野君に一考を煩はすべきである。私は詩を丁寧に書くやうにと小野君にたのみたい。

 「野の楽隊」「或る恐怖」「産」は好きであつたが、三瀬雄二郎氏はこゝでも言葉の節約を望むであらう。私もさうだ。

    ×

   『野鴨』

 僕はあの蘆間から

 水上の野鴨を覗ふ眼が好きだ

 きやつの眼が大好きだ

 片方の眼をほとんどとぢて

 右の腕をウンとつゝぱつて

 引金にからみついた白い指をかすかにふるはして

 それから蘆の葉にそつと触れる

 斜につき出した細い銃身

 あいつの黒い眼も好きだ

 

 僕はあの赤い野鴨も好きだ

 やつの眼ときてはすてきだもの

 そして僕は空の眼が好きだ

 あの冷たい凝視が

 野鴨を悲しむのか

 僕は僕の眼を憎む

 この涙ぐんだ僕の眼だけを憎む

 覗ふ眼 銃口の眼 鴨の眼 空の眼

 静かに集ひ

 鴨を打つ

    ×

 カンガールは極めて迅く走つた●然しながら私は尚一層迅く走つた●カンガールは肥つてゐた●私は彼を喰べた●カンガルーカンガルー……といふ土人の歌を小野君は知つてゐる。そして、この歌が大好だと書いてある。読者はどんなふしなのか聞きたいと思ひませんか。

 「3」の無題が、面白かつた。「爆破作業」に不思議な力を感じて陶酔した。「断崖」も好であつた。「夕暮」も好であつた。「食欲の日」も「快晴」も好であつた。

 私は詩に好き嫌ひが多い。それはわるいことだと思つてゐるが直せないものだ。私以外の人はこの詩集から私よりも沢山のよい詩を見出すであらうと思ふ。

 「巨人と死神」其他七篇――私はこのやうな詩篇を読むと非常に疲れる。一つにはもつと散文化して書いてある方が読みやすいのかも知れない。

  *備考……表紙装帳を大変ながながとほめたのはけなすかはりにほめ

   たのではありません。この次に野村君の「三角形の太陽」を日本英

   傑伝抄を中心にして何か書いてみたいと思つてゐますが、私のを読

   んでも面白くないと思つたら注意して下さればたゞちにやめます。

(太平洋詩人第二巻第二号 昭和2(1927)年2月発行)

 

[やぶちゃん注:これは小野十三郎(おのとうざぶろう 明治361903)年~平成8(1996)年)の第一詩集『半分開いた窓』(大正151926)年ミスマル社刊)の評である。『大鹿君の「兵隊」と北川君の「検温器と花」の愚評』の前者は『詩集「兵隊」のラッパ』(大正151926)年12月発行の「詩神」に掲載)を指し、後者は『「検温器と花」私評』(昭和2(1927)1月発行の「太平洋詩人」に掲載)を指す(どちらも前掲)。「駄足」はママ。最後の「*備考」は底本では全文がポイント落ち。『野村君の「三角形の太陽」』は構成派詩人を自称した野村芳哉がミスマル社から大正15・昭和元(1926)年に出版した詩集。「日本英傑伝抄」は同詩集中の詩篇名かと思われる。]

 

 

 

    私と詩

 

 私の詩は短い。しかし短いのが自慢なのではない。自分としてはもう少し長い詩が書きたい。そして、もう少し私は詩の中に余裕をもちたい。「笑ひ」といふやうなものをゆつくり詩に書いてみたい。私の今の詩は詩集として一つに纒めて読んでもらうのが一番よいのだが、さう思ふやうに詩集は出せない。

 私は又、思想にも詩作にも未だ固つたものを持つてゐない。このことはどんな風に今の私を言ひ著せばいゝのか私にはわからない。「私のやうな詩はどうかしら」と識者に見てもらつてゐる――と言つてよいと思ふ。唯、私はよい詩を作るやうになりたい。ぼんやりでいゝから一つの心境をつかみたい。(暗がりを手さぐりで歩いてゐることを思ふとさみしい)

 

 私は詩作の生活に入つて七年になる。その六年間余の間には絵を描いてゐた頃もあつたが、詩は十編と発表してはゐないと思ふ。その間の作品の半分を大正十四年暮れに「色ガラスの街」に綴つた。半分は捨てゝしまつた。

 そして去年の五月頃から、詩の数から言へば秋になつてから今年の一月までに八十余編の詩作をして六十編余の詩を発表した。識者はこの私の詩を見てゐて呉れるものと自分は思つてゐる。だが、私はこれらの評言を待つてゐるよりも、もつとよい詩を書かなければならないと思つてゐる。一生懸命になつてゐなければ、ますます淋しくなるばかりだ。

 

    ×

 

 「色ガラスの街」以後の詩を集めて、この五月頃に「電燈装飾」といふ詩集にして出版したいと思つてゐたが、去年の暮れに男の子が生れたので、この希望は中止しなければならなくなつた。機会を得て、この冬か来春に私のこの希望をとげたいと思つてゐる。

(〈亜〉28号 昭和2(1927)年3月発行)

 

[やぶちゃん注:「詩集として一つに纒めて読んでもらう」はママ。「その間の作品の半分を大正十四年暮れに「色ガラスの街」に綴つた。半分は捨てゝしまつた。」とあるが、「色ガラスの街」は大正14192511月1日発行で、この時期までの思潮社版全集の拾遺されている公開した詩は18篇、しかもその内には「色ガラスの街」の異稿である「無題」(「小石川の風景詩」異稿)・「昼」(「昼」異稿)・「さびしい路」(「白い路」異稿)・「颶風邪の日」(「五月」異稿)が含まれているので、差し引き14篇しか残存しない。逆にそれ以降から本篇のクレジット昭和2(1927)年3月迄の中期の拾遺詩を数えると、実に44篇も存在する(私の「尾形亀之助拾遺詩集」を参照されたい)。この前期拾遺詩の少なさは通常の詩人はもとより、寡作の尾形亀之助にしても異様と言わざるを得ない。「色ガラスの街」は序詩二篇を含め98篇、まさにその倍の凡そ200篇の詩があったのを、尾形自身が100篇近く、惜しげもなく捨て去っていたわけである。「この五月頃に「電燈装飾」といふ詩集にして出版したいと思つてゐた」とあり、別に昭和4(1929)年1月発行の詩誌『詩神』に掲載された「跡」の中でも『五月頃には間違ひなく出せる筈であつた詩集も机の中にそのままになつてしまつた』とあるのであるが、『この』昭和2(1927)年(と判断する)4月以降には吉行あぐりに対する一歩的な恋慕及び失恋、妻との不和、芥川龍之介の自死、映画への耽溺から映画雑誌の発行を企図し頓挫とそれどころではなく、翌昭和3(1928)年には一月の全詩人聯合結成、3月の妻タケとの別居と5月の協議離婚成立(3月15日には共産党大検挙があった)、12月には17歳の吉本優との同棲開始と落ち着く暇なく、『電燈装飾』なる第二詩集は、昭和4(1929)年5月20日の如何にもものさびた『雨になる朝』となって出版される。しかし、昭和4(1929)年6月発行の『詩と詩論』に所収する「さびしい人生興奮」では冒頭『詩集「雨になる朝」は去年の今頃出版する筈であつたのが一年ほど遅れた。これらの作品は一昨年のもので』とあり、この波乱万丈の一年にそのすべての詩が書かれていた、いや、先の「跡」の記載を信じるならば、その5月にはほぼ決定稿が完成していたというのも驚天動地と言わずばなるまい。ちなみに、この「電燈装飾」なる詩集名はむしろ、第三詩集の『障子のある家』にインスパイアされている感じがする。「去年の暮れに男の子が生れた」は大正151926)年1222日の長男猟の誕生を言う(この三日後25日に昭和に改元)。]

 

 

 

    現詩壇に対する感想要望

 

 一流大家でさへ詩では食つて行けないといふ事が事実であれば困つたことだと思ひます。詩作してゐることが不安だといふことが私達をどこまで危くするのか。女子供のためにばかり詩が存在するものだとすれば、私たちには何が与へられてゐるのか。

 夢に詩壇の滅亡を見る。やがて詩人は亡び詩壇は仏壇となるのではあるまいかと、真面目にこんな事を言ふのさへ恥づかしい次第である。

 私達は何物に力を借りなければならないのだらう。私は、編輯者及び出版者に一先づこの罪を嫁する。

 

    ×

 

 春日うらゝか。私は亡びゆく詩壇を前にして、てん/\と涙をこぼした。そして啞になつてしまつた。

(文藝第五巻第四号 昭和2(1927)年4月発行)

 

 

 

    漫筆御免

 

 食べること飲むことが何よりも楽しみだ。此頃私は安心してさう思つてゐる。そして、私は日一日の経過にあまり不足を感じなくなつた。私の頭が麩のやうにふやけてしまつた。食物の夢を見るやうになつてからは、女や花の夢をちつとも見ないやうになつてしまつた。

 このやうな傾向はあまりよいことではなからう。自分でも気がついてゐるけれども、これには止むを得ない事情がある。世の中があまり結構な世の中でないためにこんなことになつてしまつたのだ。私はさう信じてゐる。詩といふものがどれほどに価値のあるものかを疑はずには居れないこの頃ではないか。詩に疑ひをもちながら詩作することや批評したりするのは愚かしいことではなからうか。詩といふものは作るだけのものお互いに批評するだけのものであるなら――唯それだけのものであるのなら、あまりにつまらな過ぎるのではあるまいか。お互に詩作はやめよう。誰がこんなことにしてしまつたのだ。と、言ひたくなるのは無理か。「詩には立派な生命がある。だが、君達の作品はなつてゐないではないか」と言はれながら、私達の詩作は一生無駄働きといふことになるのか。

 だが、不幸なことに私達は詩を信じないわけにはいかない。私は詩を捨てて鍬や犂を握ることは、悲しむべきことと思はずには居れない。――こんなことで私の頭は近頃麩のやうにふやけてゐる。

 それにしても、詩では食つてゆけないといふことは不思議でないのだらうか。どうしたわけで詩では食つてゆけないのだらう。詩や小説は米ではない。呉服屋や金物屋は米屋ではない。どうして彼等だけが食つてゆけて、詩人ばかりが金にならないのだらう。

 私はくそ真面目になつて。このやうな問題に触れてかれこれ言ふのをちよつと恥もする。又、あまり好きではない。又、私がこんなことを書いても誰が読むのだらう。頭がわるいのは頭が麩になつてゐるからだ。

 

    ×

 

 頭がわるい………で思ひ出すことがある。

 今詩壇は実に喧噪をきわめてゐる。小学校の昼休みである。ぼんやり立つてゐて突きあたられるのがある。出会がしらにぶつつかるのがある。じやんけんしてゐるのがある。さうかと思ふと妙に意地わるがゐたり、おとなしいのがゐたり、男の子が女の子を泣かしてゐたり。ナワトビやマリツキをしていたり――しかし、小学校の昼休みは五十分だ。やがて彼等のしんとした教室から本を読む声がもれて来るのだ。おくゆかしいと言はふか、うらやましいと言はふか――。それにひきかへて、詩壇の喧騒は何時になつたら鐘が鳴ることかわからない。私は知つてゐる。ちつとも無理だとは思つてゐない。しかし結構なこととも言へない。

 で、私は次のやうなことを案出した。それは、神経衰弱の者とはなるべく議論をさけることである。二人共に神経衰弱であるなら尚のことである。議論に負けさうになつたときも、この方法を用ひてもらいたい。「どうも変んだ変んだと思つたら、君は神経衰弱だ。だからもう議論はやめる」と言へばいいのだから用方は簡単である。

 この神経衰弱の者とはなるべく議論をさけることという案出は、決して論客にあてつけてゐるのではない。議論に負けさうになつて「君は神経衰弱だから……」もあまり人を食つた話だ。だから「神経衰弱の者とはなるべく議論をさけること」といふ考案は戯談である。

 戯談のついでになつてしかられては損だが――。

 大きく出るわけでもあるまいが、日本で詩を作つてゐたつてつまらない。と思つてゐる人はゐないだらうか。実際興味のない昨今、さうした考へをもつてゐる人もゐないこともなからうと思ふ。こんなことは私はよいことだらうと思ふ。それともたはけたことだらうか。誰かがそんなことを口に出したとしたら笑はれることだらうと思ふ。人にもよることだが、笑はなくともよいことだ。桜の国の詩人だ。さうひけめがあらう筈もないと思ふ。当然のこととして多くの詩人が彼地に於て奮闘すべきではなからうか。

 

 季節はまさに春である。実にうらやましいことだ。

 何んとかしなけれは詩は余技になつてしまふのだ。この余技といふ言葉をどんな意味に解して呉れてもいい。それでいいことにさへ思つて呉れなければそれで充分だ。勉強さへしてゐればその中によいことがある――と安心してはゐられないのだから困る。佐藤春夫氏は「お前の詩は余技だ」と言はれて「或ひはしからん」と答へてゐる。うらやましいことである。煙草をのむかはりに詩を作るといふやうなことが横行するやうになつたら私達はどうすればいいのだらう。路を歩いてゐる人達が皆、赤や青やの綺麗な小型の手帳をポケツトにしのばせてゐて

 今 私とすれちがつた美しい人よ

 あなたは薔薇のやうだ

 私はあなたを恋する 薔薇の花よ

といふやうなものを手帳に書きつけてこつちを向いてにやりとされたらどうする。

 私は眼先が暗くなるやうな気がしてならない。頭の髪ばかりがぼうぼうとよくのびることだ。この頭に生えてくる黒いものに、私達はリボンをかけやう。笑つてはいけない。

(詩壇消息第一巻第四号 昭和21927)年4月発行)

 

 

 

    コーリン・ムアーと黒子(ほくろ)

 

 「コーリン・ムアーとほくろ」と言ふと、コーリン・ムアーの何処に黒子があるのだらうといふことになります。勿論入れぼくろではないのです。黒いといふよりは褐色にちかい色をした直径一分――厚みが半分のすてきに可愛いゝ奴なのです。しかし考へやうによつては、憎いほど幸福さうな奴です。何故と言つて、その黒子はコーリン・ムアーと一緒に生れて一緒に暮してゐるのだし、例へ彼女が死んだとしても彼女から離れないのだし綺麗な一つの墓になつてしまふのにきまつてゐるのです。こんなことを考へると、私は当然黒子がうらやましいし憎い奴だと思はずにはゐれなくなる。

 ――と、私はその黒子がコーリン・ムアーの何処についてゐるかを読者に知らさなければならないが、私は最後にそれを言ひたいと思つてゐる。今ここで言つてしまつては何んだつまらないと思はれさうな気がするしそんなことで読むのをやめてしまふ人があつたりしては、私がかねがね研究してやつとまとめたこの話が結局何にもならないことになつてしまふだらう。さうなつては、コーリン・ムア一にも大変すまないし私もみじめなものになつてしまはなければならない。だが、私はこんな心配をしながらも早く読者に黒子のありかを知らせたくつてしようがない。

 そして、又困ることにはいざ黒子のありかを読者に知らせることになると、黒子のある場所が場所だけに私はそんなことを読者に知らしてもいゝのだらうか――と、ちよつとはコーリン・ムアーの身にもなつて考へなければならない。つまらないことを言つてしまつて、コーリン・ムア一にいやな顔をされては悲観してしまふ。

 注意深くコーリン・ムアーの顔を見れば、何処に黒子があるのかわかるのだけれども、顔に黒子があるのではないのだから顔のどこを探してもないのにきまつてゐる。何処にあるか顔を見ればわかる……のです。あゝ、妙なところにあるので私は少し言ひにくい。

 オ…へ…ソ……ノ…ミ…ギ…ウ…ヘ……にあるのです。と、私がこんなことを言つて誰かほんとにする人があるだらうか。――私は誰もほん気にする人がゐない方がいゝと思ふ。こんなつまらないことを言つて、もしコーリン・ムアーに「あなたはひどい人だ」と言はれるやうなことがあつても、「でたらめだと思つてゐるから、誰れもほんとにしてはゐません」といくらか彼女の心を慰めることが出来るし、コーリン・ムアーの好きな人達に叱られても誰れもほんとうにさへしてゐなければ「あれはうそだ」と言つても誰れにも迷惑をかけずにすむから!

 例へコーリン・ムアーのお臍のところに黒子があるといふ……私の話がうそであつても、私達のコーリン・ムアーとして何のさしつかえもないし又彼女がスクリンの中で踊りを踊つたりするのに是非なくては困るといふわけでもない。

 兎に角、うそならうそでいゝといふことにして話をつゞけても(もう――こゝまで話して来てゐればうそかうそでないかといふことは重大なことではなくなつてゐる)私はこの話をつづけるのにちつとも困らないしむしろ気楽にこの後をつゞけてゆけるだらうと思ふのです。勿論私はコーリン・ムアーの悪口を言ふつもりでこんなことを読者に言ひふらさうとするのではない。私にしてはすばらしい愛嬌ものとして「黒子」といふことになつたのです。黒子――黒子……しかし、どうしたわけで私はこんなことに興味をもつてしまつたのだらう。お臍のところに黒子があるといふやうなコーリン・ムアーの顔を見てゐるとそんな気がするといふやうなことを――。確かにあるのを見たわけでもないのに。こんなことを話してしまつて、もしわるかつたら私は困つたことを言つてしまつたものだ。

 「コーリン・ムアーと黒子」実に妙なことが私の頭の中に入つてしまつた。何か悲しくつてコーリン・ムアーがめそく泣いてゐるやうな場面でも、彼女が地に墜ちてべそをかいてほえ出るときも、今では私は黒子のことが何よりも先に頭に浮かんできてしまふ。

 私はコーリン・ムアーが黒子を彼女の頰に植ゑかへてゐる夢を見て声を出してしまつたことがある。――彼女がお臍のとこから取つた黒子を頰に植ゑやうとしてゐるのを見てゐると、いつの間にか黒子が一匹のちひさい鼠になつてゐるのであつた。おゝどんなに私とコーリン・ムアーが逃げて、あのスクリンに出て来る並木の路を馳せたことか! そして、眼がさめるとき誰かの笑ふ声を聞いた。私は、コーリン・ムアーの笑ひ声のやうな気がした。が、そんなことまで言つては読者に笑はれさうな気がする。

 私はこんなことも考へた。

 コーリン・ムアーのあの黒子の価がいくらぐらゐするだらうか――と。なか/\売るやうなことはあるまいが――私が毎月いくらかづゝ貯金したつてお話にはならないけれども、もし売るといふやうな事を耳にしたら私も小さい財布を握つて堂々と買手の一人にならなけれはならないと思つてゐる。

 そして、もしも私のものになつたら…………どうだらう。

 私はパイプの飾りにしようと思ふ。だが、煙草の煙で色の変るやうなことはあるまいが私は今年になつてから三つもパイプを落したりなくしたりしてゐる。パイプに飾つて一緒に落したりなくなしたりしてしまつては、私は一生そのことを悔なければならない。指輪ではどうだらう。それも危険でないわけではない。石がとれて、気がついたときは輪だけになつてゐたといふ話を私は幾度も聞いてゐる。

 私は三面鏡を買つてその黒子を三つにふやしてみたりして遊びたいが、うつかりして盗まれてしまつてはそれこそ大変だ。だから、私は黒子をそつと何処かの地べたに深く埋づめてかくさう。――黒子を埋づめた次の日に黒子の木が生えるといふやうなことは、あまり私の思ひつきが妙だらうか。そして、銀色の花が咲いて黒子の実がいつぱいになつたといふやうなことは――。

 しかし、私はそれで終ひになるのではない。私は黒子の実の未だ青いうちから数をしらべて、盗まれるやうなことのないやうに番小屋を建てたり、番人には用心のために短銃位は持たせやう。そして、黒く熟すまでにはどんな病気によくきくかといふことやフランスやアメリカの美容院と取引をする準備をしなければならない。

 お臍のところに黒子を入れるといふ流行が何時頃東京に入つて来るかわからないけれども、その頃は私の黒子の木も「黒子園」といふやうな立派なものになつて、温室の中にも幾本か植ゑて季節以外には不足のしないやうになつてゐるだらう。型や大きさなども十分皆さんの満足するやうになつてゐるだらう。

 そして――ニセモノ続出。「コーリン・ムアーと黒子」の商標に御注意あれ。

 ――といふ広告を雑誌や新聞に見かけることになるでせう。

(若草第三巻第四号 昭和21927)年4月発行)

 

 

 

    A Corner Shop

 

 庭の松の木にからんだ芋の葉が黄色になつた。庭と書斎と私とでは侘しくなつてくる。昼からの長時間の読書が、遠く路を歩いて居つたやうに日暮がくる。

 秋深くなつて、私は電燈をつけたままでなければ眠れない晩が多くなつた。毎夜のやうに私は書斎を飾る美しい電燈を見る。そして、私の泣いた記覚を呼んでくる。新らしく私を泣かせるものはなにもなく、私はこの日を経た記覚に親しんでゐる。

   ×

 私はこの頃はがきの後などに秋淋しといふやうなことを書く。「秋淋し」とゴム印を作つて、書くかはりに押すやうにしたらと友人が言つたとき一緒になつて笑つた。が、そんなことをすれば一層秋淋しがはつきりしてくるにちがひない。

 

[やぶちゃん注:本篇は底本では、「A Corner Shop」という題の元、イントロダクションのように在り、以下の「或る恋愛」以下、「書きかけの書きにくい手紙」までの10篇の構成で、以上の10篇の小題は底本ではポイント落ちになっている。「記覚」はママ。]

 

    或る恋愛

 

 彼は、彼の恋愛事件の世評を犬に例へてゐるとも解釈することの出来る「犬を逐ふ」といふ小説を書いた。それを読んで私は不愉快な気持になつた。美しいものを何も持つてゐない人のやうな気持さへした。

 其後、私は彼女が二度目の家出をしたといふ新聞記事に接した。そして、私は彼が老禄してゐるのではないかといふ疑問をもつやうになつた。

 

    詩集・たんぽぽ

 

 坂本遼君の第一詩集・たんぽぽ・・を批評するのは、私のやうにわがままなことを言ふ者にもかなり困難なことだ。坂本君の詩には特種の言葉が使用されてゐて、非常によい効果を得てゐる。効果を得てゐるといふことから、その特種(特種といつても、それは坂本君の居る地方の言葉である)の言葉を使つてゐるのを、正しいことではないと言つてゐる人があることを聞いた。しかし、それは日本語で書いた詩を西洋人が正しくないと(何故か)言ふことに似たことだと私は思ふ。

 又、この詩集を見て、詩集の中に進境がしめされてないと言ふ人もあるが、一つの詩集の中で読者に進境をしめさなければならない必要はない。又、坂本君の詩に今進境がないとしても、それは何時まで待つてゐてもいいことである。兎に角、詩集・たんぽぽは私の持つてゐる詩集の最もよい詩集の一つである。

 坂本君の詩はかなりに小説的なものであると言ふことが出来る。しかしそれは一つの詩が小説のやうに仕組まれてゐるといふのではない。が、たんぼぽを通読して一つの小説であつたやうな感じを受けた。で、詩の一つ一つがそれの一部分であるやうであるとも言へ得る。 ・定価一円・兵庫県加東上東条村横谷・著者宛

 

[やぶちゃん注:文中の中黒点「・」や空欄等はすべてママ。末尾の「言へ得る」もママ。「坂本遼」は兵庫県生まれの詩人。『銅鑼』同人。「たんぽぽ」は同氏の昭和2(1927)年刊の詩集で、兵庫の方言を用いた農民詩として高く評価されている。第二次世界大戦後は竹中郁らと関西を中心に児童自由詩運動を推進、詩集と同年の出版に小説集『百姓の話』もある。]

 

   詩人と小説との妙な関係に就て

 

 詩人であるからといつて、小説を書かなければならないわけはない。しかし、書いてわるいわけはない。百人の詩人の中に、現在小説を書いてゐる人、書かうと思つてゐる人、書きたいと思つて書けない人が百人ほどあるとしたら、小説の神様は詩の神様を憐れに思ふだらうと思ふ。それにしても、小説の神様に仕へるにはよい小説を書かなければならないことだけは忘れてはならないし、小説が書けないからといつて詩人でないやうな気持にならないやうにしなけれはなるまい。以上、詩人と小説との妙な関係に就いて――

 

    装幀

 

 大谷忠一郎君の詩集・北方の曲・・の装幀を涙香時代の探偵小説のそれのやうだと、著者に詩集をもらつたお礼と一緒にはがきに書きこんで出したのが、その出版記念会のときに話題になつたことを角田君から聞かされた。私はそんなことを言ふことを遠慮しなければならないものだと思つた。

 そして、装幀で中にある詩がどうなるといふことはあるまいけれども、他から何んと言はれても、著者はこれが好きなのだからしかたがないではないかと―心から言へ得る装幀をして欲しいと思つた。

 

[やぶちゃん注:文中の中黒点「・」はすべてママ。「しかたがないではないかと―」のダッシュ一字分及び末尾の「言へ得る」もママ。「大谷忠一郎」(明治351902)年~昭和381963)年)は福島県出身の詩人。萩原朔太郎門下。]

 

    註

 

 A Corner Shopをここでは「角店」と思はないで欲しい。(と、和訳しないで欲しいといふのではないのです)角にある一軒の店――といふやうなものに思つてもらひたい。

 

[やぶちゃん注:この「註」とは本篇全体の表題「A Corner Shop」に対する註である。]

 

    ABC-5

 

 子供が、1234のABCCを間違つて、時々節をつけてABC5を言つてゐる。妻に聞いてみたが、家では誰れも「ABC」も「123」も教ひないといふことであつた。妻は二十五、私は二十八、ABC5は五つ。この本が出来上る頃私達は今の家のすぐ近所へ引越すことになつてゐる。

    ×

 毎日のやうに曇天がつゞく。今度越して行く家は今建てかけてゐる。明日は横浜に観艦式がある。

 どれだけ体によいものなのか、毎朝卵を一つ食べてゐる。卵は殻をわらずに食べたい。

(以上、A CORNER SHOP第二輯 昭和21927)年121日発行)

 

    不思議な喫煙者

 

 煙草をもつてゐる手つきや、煙草から煙りの出てゐるのを見てゐて、自分の子供のくせにませた恰好をして煙草をのんでゐると思つてしまつた。夜遅く床の上に足をなげ出してゐて、体ばかりが大人で、かくれて煙草をのんでゐた頃の顔が首についてゐるやうな気がしてしまつた。

 煙草を手にもつてゐる間は、幾度やり直してもその不思議が消えなかつた。

 

[やぶちゃん注:「自分の子供のくせに」の「自分の」の「の」は主格の助詞であろう。]

 

    美少女

 

 昨夜、突然私は飛行機に乗つてゐて、Yといふ美少女と接吻をした。SKがそれを見てゐた。SKは男で私の友達だ。Yといふ美少女は「また皆んなが何んとか云ふわ」といふと、はたして飛行機を降りてからSKが接吻したと云ひふらすのであつた。私は彼等を避けて高い塀をのり越ゑやうとするところで次の場面へ変つてしまつた。……(夢)。

私の夢に現れてくる主要な人物は何時も女の人だ。お宮のやうなところに、饅頭が沢山列らべてあるのを取つて食ふやうな夢もあるが、歯が痛かつたり楽しくないことを思ひ出したりして、つまらなくなつてゐる昼よりも、夢の方に重きを置いてしまひたいと私はつくづく思ふことがある。

この頃は森で啼く蝉も一匹か二匹しかゐなくなつた。そして、昼からこはろぎが啼いてゐる。雨ばかり降つてゐる。子供がカマキリをつかんで来たので、私は子供が泣いてもむりに捨てさせた。カマキリの腹には針金虫がゐるのだし、カマキリの交尾の話はどうにも気味がわるい。妻は「おとなしく遊んでゐるのを泣かさなくともいいのに」といふ顔をした。

 

[やぶちゃん注:形式段落2段落目と3段落目は表記通り、一字下げがない。文中、カマキリの腹腔内にハリガネムシが有意に寄生しているというのは極めて正しい生物学的見地である。]

 

    眼鏡をかけてゐる人―例へば福富菁児君―

 

 青ガラスがぎらりとしたときの感じがある。勿論何時でもさうであるといふのでほない。この人の一つの特長としてである。断るまでもないかも知れないが、これは福富君の場合である。

だが、私はここから「眼鏡をかけてゐる人」といふ題と(たとへば――)といふことを取り去つて、この一文の題を「福富菁児君」とすることは出来ない。さうするのにはこの一文を書き直さなければならない。それなのに、書き直すにも書き直すすべがない。

 

[やぶちゃん注:形式段落2段落目は表記通り、一字下げがない。「福富菁児」(ふくとみせいじ)は大杉栄らとも関係があったアバンギャルド詩人。]

 

    書きかけの書きにくい手紙

 

 腹をかかへて、涙まで流して笑つたのだけれども、ただもう可笑しくつてたまらなかつたといふだけのことであつて、悪意があつたといふのではない。しかし、それをそんな風に笑はずにすませることが、出来なかつたかといふと、そんな風に笑はなくもよかつたと思ふ。笑つたのがわるいといふことなら、無理に笑はないことも出来たらうと云ふ他はない。だが、ぜんぜん笑ひ顔一つせずに君のそのくせの話をしてゐるのを君が見てゐたなら、その話が実に不愛想に語られたのを見たらう、さうでもしなければあの時は………

(以上、A CORNER SHOP第一輯 昭和21927)年111日発行)

 

[やぶちゃん注:底本で、本篇が何故、「第一輯」と「第二輯」で逆転配置されているのかは不明。]

 

 

 

    人生興奮(その一)

 

映画フアンほど憐れな存在はない。とつくづく憐れを感じた男が、映画フアンにはなるなといふやうな意味で、次のやうな遺言をして死んでいつた。(一九二七年の秋に)

 

 (例へば、――)「最後の人」を見せて呉れたエミール・ヤニングスが「ヴァリエテ」を見せて呉れた。「最後の人」を見せられたわが軍(私達などといふよりはもつとはつきりした私の複数)は「ヴァリエテ」を見せられた。そしてその次に「肉体の道」といふのを見せられてしまつた。次に「タルチユフ」といふのが、巨人篇として網をはつてゐる。

 「肉体の道」がつまらなかつたと言つた場合に、映画嫌ひはだから映画なんてつまらないものだ見るのが馬鹿だと言つた。フアンは黙つてしまつた。しかし、そう一言に言ふのは乱棒すぎると思つて、ひそかに、「肉体の道」を次のやうに私評をした。

 「ヴァリエテ」で、子供をあやしてゐるヤニングスや、ヤニソグスに追ひすがるプツテイに喜ばされた自分は、「肉体の道」の前半ヤニングスのオーガスト・シリングの家庭生活に当然期待した。いや、自分の誤りは一個の俳優演技がだんだん上手になるものと思ひ込んでゐる習慣だ。これがフアンの一目わるい心がけである。で、自分は幾度目かの反期待の憂目に会つた。

 「肉体の道」の筋は、失敗した映画となる型にあてはまつてゐる。ヤニングスもそれで失敗してゐるのであつた。すくなくともと期待した前半はつまらないものであつたが、これは私の期待するのがわるかつたとして後半彼が汽車の中で会つた蠱惑されてゆく有様は「肉体の道」六巻として、二時間足らずに彼が家出して十年もの生活を取り入れてゐるのだから、相当いそがなければならないものかも知れないが、いやみが過ぎてゐた。髯をそつて、ずいぶん若くなつたところはよいとして、彼の酒場での場面は醜態である。あの場面は、彼が酒を飲んで泥酔しなければならないシナリオがわるい。(どうせ原作通りではないのだから)自分は、彼が酒場で茫然としてゐる間に、うまく彼女に商券を取らせる方が面白くはあるまいかと思ふ。その方が見る方もゆつくりと見ることが出来るし、我慢すればヤニングスにもその位のことは出来さうに思ふ。又、ヤニングス得意の場面である筈の(わが軍はあまりすかないが)次の朝の彼は、或一部の人達を喜ばせたであつたらうか。斃された彼が、夜になつて線路へ運ばれるのは彼が意識をなくしてゐるのだからしかたがないが、朝からその夜までの妙な時間のあきに、蠱惑の女に何か面白いことをさせてもよいと思ふ人はなからうか。

 線路のカクトウ。浮浪。ヴアヨリニストの息子。自動車。クリスマス。等々々々。この監督はヴイクター・フリーミソグである。

 尚、一躍ヤニングスの相手役に選ばれたといふフイリス・フエバーは、何んのことはない何処にでもゐさうな踊子のやうなものに過ぎなかつた。が、筋としても、それでオーガスト・シリングを迷はすに十分であらうが、彼女に必要であつた「悪」が、少しも発揮されてゐなかつた。又、次の朝彼女が新らしい着物を着て出るのは意味のあることではあるが、仲間の者に買つて来たとさかんに見せびらかすのは無趣味であらう。

 自分は、主役といふ役のあることをわるいことだと思ふやうになつてゐる。なぜならば、最も長時間スクリンに現れるのが主役のしなけれはならない事の一つである、といふのはよい条件ではない。で、最も見事な端役(?)をやるのを例のスターといふことにして、今の主役といふやうなものはやがてなくなるべきものだと思ふ。そして、特種な場合と新しいスターの紹介といふ意味でのみ今の主役といふやうなものが存在すべきであらう。

 アメリカの手に入つて育つたものは、必ずすたりが来る。映画もその一つである。その意味で映画は未だおちつくところにおちついてはゐない。根底が更にない。

 

    ×

 

 レイモンド・グリフィス。

 自分はこの人のはつきりした評判をあまり聞かない。例によつて例の如く珍事百出の――と言つたやうなことであるから、世間のうけがどうなのかよく知らない。自分も残念ながら幾つもこの人のものを見てゐない。この人はチヤプリンとロイドの間にゐて真面目に仕事をしてゐる。その人のものはチヤプリンのやうに深刻(?)ではないし、ロイドほどに軽薄(?) ではない。自分は最近この人の「結婚勘定書」といふのを見て感心した。シナリオも珍らしいほどよいものであつた。

 アメリカの俳優で、所謂アメリカ式のシナリオを立派にやつてのける人としてすつかり感心してしまつた。監督は誰れであつたか忘れてしまつたが、珍らしくよい喜劇であつた。前にロイドのやつたやうに、高い建物に登つたりするのは見てゐて変なものであつたが、それもロイドよりは上手であつた。

 

    ×

 

 「カルメン」(ラケル・メレエ)はよい映画であつた。自分は近来まれのものと思つた。

たゞ、カルメンが仲間の女工と喧嘩をして、煙草専売局から獄へ送られて行く途中の道の移動撮影はなんといふ名称なのか、わが軍は眼をまはしてしまつた。見てゐて苦痛を感じた。こんざつを表す方法であるのなら他に方法もあらうに、二度目にはあの場面がうらめしかつた。終りを、ホセがカルメンを殺して切つてしまつたのはよい。又、ドン・ホセがカルメンを逐つて闘牛所へ行く前に、ホセを訪ねて来て、カルメンが市場で闘牛士と云々と話して青くなつた俳優がよかつた。又、あの聯隊長といふ役はあのやうに妙にニヤケてゐなければならないものかと気をもんだ。

 

    ×

 

 アメリカの女優はこの頃一層美しくなつた。「チヤング」の反対をいつて、美しいものをあんな風にやつてみてもよいではないか。

 

    ×

 

 ものすごく悲観させられたのは「本塁打王」でベーブ・ルーズと共演してゐるアンナー・キユー・ニルスンである。一般映画として取扱ふべきではないかも知れないが、ベーブと共演してゐるニルスンの光栄をわが軍はあまり感じない。「本塁打王」のニルスンの演技は、ベーブの鼠を追ふ態に似せてわざとあゝしたのであらうが、それにしてもわるふざけとしかうけとれない。フアンはあんなものを見ることを希望してはゐなかつた。ふざけ女優である。

 

    ×

 

 何時の頃からか、わが軍は映画を見た帰りに酒を飲むくせがついてゐる。何時も新宿駅の二階に寄つて、二時間ほど其処で過すことにしてゐる。そして、大低は酔つて家へ帰ることになつてゐる。飯時以外の時間はひつそりしてゐて、たまたま月の昇るのを見ることもある。美しいイルミネーシヨンが見える。

 わが軍は映画を見た後の自分をあまり好いてゐない。こんなことを言ふと変ではあるが、たしかに好いてはゐない。もう少しかつてなことを言ふと、自分の他にもう一人の連れのやうなものがゐるやうな気が何時もする。――で、洒を飲んでゐる間にその連れのやうなものが先にプラットホームに出て待つてゐたり、先に家へ帰つてしまつたりするので、自分はそこでやつと一人になれる。

 この気持は、階段にいつぱいつまつて帰りを急いでゐる人々に自分がまじつてゐるときや、どやどや館から出たりするときの気持に似てゐる。だから、帰りに酒を飲む金のないときは、わが軍は侘しくなつてゐる。

(映画往来第四巻第三十七号 昭和31928)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:冒頭の『(一九二七年の秋に』のクレジットを持つエピグラフは、底本では全体が二字下げのポイントおちである。私は残念ながら尾形亀之助がここで挙げている無声映画の一本も見ていない。せいぜいドイツ映画「嘆きの天使」(1930)で妖艶なディートリッヒに縋る悲しくも哀れな主人公を演じたエミール・ヤニングスと、見ているアメリカ映画「西部戦線異状なし」(1930)に出たはずのレイモンド・グリフィスの名を知る程度である。私は映画館で(ここが肝心である)見ていない映画を云々することが大嫌いである。従って、注をする権利を全く持たない。底本では秋元氏がマニアックな作品及び俳優についての編注を施されている。是非、「尾形亀之助全集」をお読みあれ。――私は見たことのない尾形の映画評より何より、この最後の映画館を出た後の亀之助の心持ちが、何とひどく分かることか――]

 

 

 

    人生興奮(その二)

 

 彼の話。

 彼は私のやうな男である。よく同時に同じことを言ひ出したりして、気味のわるい思ひをするので、私は彼と毎週同じ映画を見てゐることを彼にかくしてゐる。例へば、彼が私に「ブラツド・シツプ」を見たかを聞くやうな場合に、私はきまつて未だ見ないと言ふことにしてゐる。なぜなら、二人共必ず毎週見に行くので時には実につまらない映画を見てしまふ。そんなときに、彼から「××××」見たかと言はれて見たと答へれば、如何につまらない映画を彼が見に行つたかを私が知つてゐることになつて、彼に気の毒な思ひをさせなければならない。又、私が見たと言つてしまへば、彼はにやつと笑つただけで何も話さないにきまつてゐる。彼は又、こんな迷信をもつてゐる。彼の経験によれば、人を誘つて見に行くときまつて映画がわるいのださうである。そして誘つた人に気の毒な思ひをするだけで頭がいつぱいになつてしまふのだと彼が言つてゐる。で、私は一度も彼と一緒に行つたことがない。彼がどんな顔をしてラブシーンなどを見てゐるか知らない。彼の話は「赤ちやん母さん」から始まる。

    ×

 先に「人罠」を見、その次に見た赤ちやん母さん――で、私はクララ・ボーが好きになつてしまつた。彼女の演技が、と、いふ意味ではなく恋心に似た気持になつてしまつた。アメリカはあまり好きではないが、クララ・ボーは好きだ。若し彼女がアメリカ風であるのなら、他の人達から受ける嫌味はほんとのアメリカ風ではないのだ、と思つた。

 彼女が毒を飲んで(「赤ちやん母さん」で)死ぬといふやうな筋でなく、テツトといふ良人に簡単に別れて、そして彼女も楽しく彼等も泣き笑ひをしてゐるやうに楽しく、そしてENDになる方が向きであつたらう。私はクララ・ボーのために、「赤ちやん母さん」の筋を自分の好き通りに直しながら、何時ものやうにS駅の上で酒を飲んで、その晩は郊外の家へ帰る電車をなくしてしまつた。

 クララ・ボーはただのハネツカヘリではない。ただのと言つては可笑しい。ハネツカヘリならハネツカヘリでいいが、コーリン・ムアーの演技よりもしつかりしてゐる。より性格的である。彼女の芸風がほんとの意味のモダンである。このモダンは、アメリカ以外の国ではあり得ない。そして、そのアメリカでも今のところクララ・ボー一人である。私は、レイモンド・グリヒスとクララ・ボー共演の映画を見たい。二人でふざけるだけふざけて、息のはづんでゐるやうな映画が見たい。

 ムサシノ館の喫煙室にクララ・ボー(素顔?)のポスターがある。あのポスターを見て、スクリンの彼女を見ると、如何に苦心してゐるかがわかる。

 (このポスターに誰かがチヨコレートで髭を描いてしまつた。)

    ×

 女知事閣下――アデール・フエンウエー夫人――ポーリン・フレデリツク。もと私はポーリン・フレデリックが好きであつた。女知事閣下位ひのことは一二年前の日本の人にも出来さうだ。ポーリン・フレデリツクの映画は当分見まい。

     ×

 「除夜の悲劇」先づ難のない映画、と言ふべきか、又はよい映画だと言ふべきか。たつた三人での芝居であり、三人の中のオイゲン・クレツパー一人の芝居であつた。あの酒場以外に、上流社交界の除夜の有様が不用であつたと同じやうに母一人での演技が不用であらう。要はその間眠つて(?)ゐたので幸ひにも私の悪口を逃れてゐる。

 そして、字幕のかはりに波がよい効果を出してゐた。波のうねりがよかつた。やはり字幕がはりであらう「街」の有様は波ほどの効果がなかつた。それはその夜の上流社交界の態を入れたことが、「街」の気分をこわしてゐたかも知れない。

 エミール・ヤニングスを大変わるくいふやうではあるが、エミール・ヤニソグスはオイゲン・クレツパーの比ではない。退屈もさせず、ぶちこはしもしなかつた酒場の人達のまねは日本では出来まい。くどいやうではあるが、母の役の女優がいいために、あんなことをさせなけれはならないのなら、臨時雇の婆さんを使つてほしい。妻の役のエデイツト・ボスカのことを何も書かなかつたが、書き忘れをしたのではない。

      ×

 「電話姫

 主役といふものの使ひ方がよかつた。筋はつまらないものであつた。マツヂ・ベラミーの演技はくせがなくつてよかつたが、トム・ブレークのローレンス・グレーがじやまであつた。ジム・ブレークに息子がなくとも立派に筋が立つだらうと思つた。ラブシーンのない映画になりさうな映画であつた。

 主役の使ひ方が「人生興奮(一)」のそれに大変近い。で、この映画に深く興味をもつた。

      ×

 「マンダレーへの道

 ロン・チアニー。この人の演るものは何時も、ストーリーがわるいやうな気がする。この人一人だけの芸風は他にないものがあるのに、不思議によい映画をもつてゐない。

 ロイズ・モーラン。子役がそのまま大人になつたのを、年頃の娘として使つてゐる。この女優にはまだ(?)十五六の娘のいい役がある筈だ。それに、ここでは親の悪の対象としてせと人形のやうな娘になつてゐた。

 オーエン・ムーア。酔つばらひの名人の一人である。が、真面目になつたりするとあまりよくない。

 上山草人。この人に、この人の好きなシナリオですきなやうにやらしたい。如何に奇妙な支那人のまねが出来るかといふだけではつまらない。ロン・チアニーの相手役には不向きである。ロン・チアニー式のものすごいものにではなく、もつとぼんやりしたものに彼の悪役をひそめたものの中に草人を見たい。同時にもつと気を大きくもつてもらつて、あまり芸が細くなつてもらひたくない。髭もいいし、手の使ひ方なども面白い。

 日本にも彼位ひの演技をする人が一人や二人はゐると思ふ。

      ×

 ひとりごと。(其の一)

館の中の飲物がうまくなさすぎる。

 館の外で十せんのものは十五せんにしてものどが渇いてもがまんしてゐなくともいいやうにならないものかしら。チヨコレート(?)なども、クララ・ボー愛用のものといつた調子でやることは出来ないことであるだらうか。な――。

 がまんが出来なくなるとチユーインガムを嚙むことにしてゐるけれど、あれを何時までも嚙んでゐると胃が変になつてくるし、人前であの桃色の紙をむくのが如何にも恥かしい。暗いところで、人知れずそつと紙をむいて口に入れる苦心に同情してはしい。もうけやうとばかりしてゐるやうに見える売店のおばさんは何時まで存在してゐるのだらう。なんとか沢山の賛成者を得て、是非彼等の頑強な根を掘りおこしたい。

 ひとりごと。(其二)

 プログラムの内容のわりに入場料が少し高いやうな気がする。勿論これは特等の料金である。つまらなくなつて半分見て出るやうな場合は殊にその感が深い。

    ×

 ガウチヨウ

 この映画は、気がつかなかつたけれども米国聖書会社(?)の宣伝映画なのかも知れない。ダグラスは次にダビデになつてゴリアテをまかす映画を作るかも知れない。日曜学校推称、聖書オトギバナシである。

 ガウチヨウでダグラスは遺憾なく煙草ののみぷりを私達に見せて下れた。殊に獄屋の敷石の下から煙草をくはいて出て来るところなどは如何に彼が大胆であるかを示してゐる。

    ×

 拳闘屋キートン

 こんなことを言ふのはあまり真面目過ぎてゐるかも知れないが、今のところ彼の映画に何も言ひたくないと言ひたい。

    ×

 注意。(其一)

 この頃市場につまらない映画が大変多い。で、十人或ひは二十人づつ組んでその中の一人だけが探険的に映画を見に行つて、その報告を聞いてからよかつたら残りの人達が見にゆくやうにしてはどうだらうか。さうすれば悪宣伝にかからずにすむのだし、これを大勢のフアンで実行すれば青くなる人がゐるのだから今までのうらみを晴らすには最も面白い方法である。券売場の前などにて随時に組をつくつて実行するのも面白い。

 注意。(其二)

 真面目な映画フアンが集まつて、映画フアンとしてだけの(内容が)雑誌を出したいと思ふ。(東京府下世田ケ谷山崎一四一四私宛)にお手紙がいただきたい。色々ご相談したい。

    ×

 クララ・ボーとそのブロマイド。

 凡そ彼女ほど顔が変る女はちよつとない。で、私の持つてゐる密蔵の三枚のブロマイドは、皆何処かに(?)彼女らしいところを匂はせてゐるだけで別人のやうに写つてゐる。―― 大体曖昧な言ひまはしになつてしまつたが、私は彼女のブロマイドに一枚もよいのがないので悲観してゐる。

 ブロマイド屋さん。もつと注意して下さい。

      ×

 悲恋の楽聖

 悲恋の楽聖。――とはずいぶん思ひ切つた題である。が、The Music Master を「その Master Master」と私訳するとは何んとも言へない味がある。よい映画であつたと記覚してゐる。

 アレツク・ピー・フランシスがよかつた。ロイズ・モーランも少しよかつた。ただ、下宿屋にラツパを吹く若い男がゐて下宿屋の娘に恋をするのはよいが、あまりタチマハリが大袈裟であつた。つまるところは、若者のかついでゐたラツパが大きすぎたのである。

    ×

 べテイ・プロンスン。

 ちよつと可愛いゝなと思ふけれども、映画女優としての質がまるでない。彼女をピーターパン以後ひきつづいて映画の女優にしてしまつたのは誰れだ。不愉快な世相の一つである。

    ×

 

 私はあまり感心しなかつた。目茶苦茶なテンポが気に入らなかつた。もつともの静かなものでありたかつた。同時にもつとオトギバナシ的でありたかつた。又どうしても鯨といふ題が付いてゐるのか、わからなかつた。船がひつくりかへるまでが見てゐて頭が痛くなるほど長かつた。男達ばかりが漫画的で女はさうではなつた。題材が可笑しがらせるものではないだけにむづかしいものである。私は「カリブの鶴」のよかつたことを思ひ出す。かうしたものはすべての点に技巧が誠に大切である。

(映画往来第四巻第三十八号昭和3(1928)年2月発行)

 

[やぶちゃん注:『ひとりごと。(其の一)』」の次の行『館の中の飲物がうまくなさすぎる。』は表記通り、一字下げとなっていない。さて、「人生興奮(一)」に引き続き、やはり私は彼がここで挙げている無声映画の一本だに見ていない。俳優もクララ・ボーはさすがに知らないでかではあるものの、後は二大怪優たるロン・チャイニーと、上山草人(「七人の侍」の盲目の琵琶法師――あれが彼の最後の演技である)しかピンと来ない。再三言うようだが、私は映画館で(ここが肝心)見ていない映画を云々することが大嫌い、従って、やはりここでも注はせず、底本の秋元氏のマニアックな作品及び俳優についての編注を是非お読みあれ。――私は見たことのない尾形の俳優談義より何より、今度はこの冒頭の「彼の話」に昔の自分を思い出して激しく共感、そうして今はなき武蔵野館の臭いを思い出すのだ――]

 

 

 

    部屋の中

 

 雨が降つてゐる。雞が啼いてゐる。

 

    ×

 

 何時の間にか雨が止んでゐる。私は机の前に座つてゐる。朝、床の中で新聞を読んだ他何もしてゐない。氷のやうなものが食べたい。

 

    ×

 

 淋みしい「人生興奮」。

 

 ながいことかゝつて火鉢に炭をついでゐた。

 僕は何か喜びにあひたい。このまゝ日が暮れてしまつては、口ひとつきくことが出来ない。

 

    ×

 

 僕はいつものやうに寝床に入つてゐる。そして、電燈を消さうか消すまいかと思案してゐる。もう床へ入つてから二時間はたつてゐる。

 

    ×

 

 月のない夜は暗い。窓に何処かの門燈がうすく映つてゐる。

 ま夜中よ

 このま暗な部屋に眼をさましてゐて

 蒲団の中で動かしてゐる足が私の何なのかがわからない。

 

    ×

 

 この頃僕は日記をつける気にはなれない。たのまれて書いてゐるのだ。僕はこの頃きせるで煙草をのんでゐる。時々詩を書いてゐる。

「この頃我が胸に燃え上つたものはみな、すべて再び我が胸の深みに沈んで行け……」といふツルゲエネフの「ファウスト」の終りにある言葉を思ひ出してゐる。

(一九二八年一月×日)

(現代文芸第五巻第二号 昭和3(1928)年3月発行)

 

 

 

    早春雑記

 

 毎日のやうに隣りの鶏が庭へ入つて来る。

 鶏が書斎の前をいそいで通るので、いかにも跣足で歩いてゐるやうな恰好をする。羽や鳥冠が立派で、その上雄鶏などはすましてゐるやうな様子をしてゐるので可笑しい。

 彼等の中に一匹奇妙な鳴声をする雌がゐる。

 

 四五日前から地つづきに家主が家を建てゝゐる。今日は午後から曇つて、夕暮から雨になつた。

 

    ×

 

 又春が来る。なげつぱなしにして置いた季節が何処からか又帰つて来た。去年の春にまつはる不幸な感情を忘れたふりをして一年過ぎた。

 私はその人の写真をもつてゐない。見てゐる空いつぱいに広がる感情をどう縮めることも出来ない。

 

 細い月が出てゐる。一日西風が吹いて夜になつた。

 夢のやうな夕暮であつた。

 私はあなたに手紙を書かうとは思はない。はつきりした感情であなたを考へたくはない。

 私はただ夕暮を見てゐただけでいゝ。

 

 何時まで私はこんなことを考へてゐるのか。

 泣くと、ほんとうに涙が出る。今年はあと幾ケ月あるかといふやうなことをきいても誰もとり合つては呉れまい。

 

    ×

 

一、主人を除く家人は、午後十時、事の如何を問はず休息のこと。

一、主人の権威を以つても、休息中の家人を起すことを禁ず。

一、但し、地球の軸をまはす時はこの限りにあらず。

一、主人は、家人に対し、言語行動を丁重にすべきこと。

一、妹を尊敬すべきこと。

一、酒を節して、庭に樹木を植えること。

一、来客を選びて酒食を共にすること。

一、最も大切なるは女房を「おかみさん」と呼び、愛することを怠らざること。

 

 以上八ヶ条を主人心得として普九さんから頂戴した。

 

 昨夜、妻が私の欲しがつてゐた色々の家具を買つて来た夢をみた。部屋に飾つてみるとみなところどころ毀れてゐた、妻は「途中の運搬がわるかつたからで、買つたときは毀れてゐなかつた」と言つてゐるところであつた。

 

 私は、あてのない散歩はどうしても出来ないし、出来るだけ外出しまいと思つてゐるので、不機嫌な顔をして家にばかりゐる。

 庭には、隅に一本細い桐があるだけである。

 

    ×

 

 私の詩のあるものはこの頃一層短篇的なものになつた。さうした傾向は内容や形態から考へれば、事実詩から離れかけてゐることになるかも知れないが、それは言葉の上でのことで、私の持つてゐる詩から離れてゆかうとしてゐるのではない。

「短篇」と言つても、所謂短篇なるものの総称ではなくそれにふくまれるものの一つであつて、当然生れ出て来なければならないものである。

 わづかばかりの頁のところでこんなことを書くつもりではなかつたが、このことをながながと書いても興がない。又、私の短篇と自称する作品を詩であるとしか考へられない人達には、私の短篇が詩にふくまれるものであつて、その仕事が十分にしつくされてゐるのではないしその作品には何の変りもないのだからそれでよいことにしやう。たゞ私が詩よりも短篇の方が格が上だと思つてゐるのではないことや、夢を見てゐるのではないことだけは断つておきたい。

 

    ×

 

 又、雨が降つてゐる。昨日から私は部屋に白い蓮の掛図をかけてゐる。夜になつて雨が強くなつた。蓮の胡紛が昼月のやうに浮いてゐる。

 

 とよがまがつてゐるので、又壁に雨がしみてきた。雨の中に電車の走つてゐる音が時をりする。

 寝床に入つても雨の音が聞えるだらうと思ふと、なんだか床に入りたくない。

(一九二八・三―)

(全詩人聯合創刊号 昭和3(1928)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:ここで尾形亀之助は詩と短篇(小説)の区別をしているように思われるが、その区別をしたがっているのは実は他者であって、彼の意識の中での『私の持つてゐる詩』は識別的世界ではなく、彼が「短篇」と呼んでいるものは、その『詩』『にふくまれるものの一つであつて、』その『詩』からのみ『当然生れ出て来なければならないもの』だと言っている点に留意すべきであろう。「去年の春にまつはる不幸な感情を忘れたふりをして一年過ぎた」とあるのは、この前年の昭和2(1927)年4月の吉行あぐりに対する一歩的な恋慕と失恋から信州諏訪に傷心旅行したこと等を指すものと思われる。「尾形亀之助拾遺詩集」の内の昭和3(1928)年1月発表の「恋愛後記」及び「春は窓いつぱい」等を参照されたい。「普九」は「全詩人聯合」のメンバーの中に見出せる詩人、宮坂普九のことと思われる。ちなみに彼は作家今東光の従兄弟である。「昨夜、妻が私の欲しがつてゐた色々の家具を買つて来た夢をみた」とあるが、尾形は同年3月には妻タケと別居をしている。本篇が書かれた頃には恐らく最早一緒に住んでいなかったと考えた方がこの夢の意味は深くなる気がする。「何の変りもないのだからそれでよいことにしやう。」の「しやう」はママ。「とよ」は「樋」(とい)の音が変化したもの。]

 

 

 

    跡

 

 過ぎてしまつたことは、あきらめなければならないやうな心残りがあるとしてもどうにもしかたがないのだからしまつがいゝ。又、ざまあみろとばかりに、地の中へ込んでしまつたやうな「去年」に舌を出すのも一興であるかも知れない。私は今郷里へ帰つて火燵に入つてゐる。下半身は温いが背なかゞ寒い。

 過ぎてしまつたその年がよい年であつたにしてもわるい年であつたにしても、私は自分の生活に進歩などといふものがあるとは思つてゐないのだから「去年」をどうかう言ふつもりは更にない。たよりないことだが「今年こそ……」などと力むほど腹に力がない。自分がこの一ケ年(勿論それ以前から)暮して来たにはちがひないが、何もかもはつきりとしてゐない。大概のことは忘れてしまつてゐるが、忘れそびれてゐることがらもある。で、その二、三を書きつけて序に忘れてしまはふ。さうすればもう「去年」を誰へ呉れてもいゝ。

 全く、生きてゐることがなかなかめんどうなのはわかりきつてゐるが、それかと言つて何時まで生てゐるものか自分のことながら不明だ。

 

 

  「全詩人聯合はその後どうなつたか」

 

 私は全詩人聯合の第一号発刊の直後から事務をとらなかつたばかりでなく、その後の状態にも通じてゐないわけがあるのだけれどもくはしく述べることが出来ない。丁度その時事情があつて私は妻と別れたのだ、私は家をたゝむ前に単身家から逃げ出してゐた。突然に起つたことなので、他の世話人へ事務を引きついだこと以外に何もしなくつてもいゝと思つたのだ。

 そして、妻とのことの一切の結末をつけて上京したのが七月の初めであつたが、しばらくは出歩く気もちにはなれなかつた。詩集などをもらつてもお礼さへしなかつたこともあると思ふ。私の手もとへとどかなかつた郵便物もあつたらう。

 かんべんしてもらひたい。

 

    ×

 

 妻と別れたことに就ては私はその間の事情を見てゐた二三人の人以外には語らなかつたが、私はそれ以後数人の友人から悔みを言はれた。勿論、別れるやうになつた事情を私よりも先に知つてゐた人達があつたのだし、近所の店屋などまでに感づかれてゐたやうな不しまつだつたのだから、何処からもれたものだらう。が、あまり広告してもらひたくない。でなければ、私は諸君があてられるやうな美人を意地にも妻にしてみせることになるかも知れない。――が、久しぶりで一人者になつたのだし、運でもよくなければ、さうやすやすとかうした味は試されないのだ。

 

    ×

 

 この一ケ年私は二三篇の詩作しかしなかつた。五月頃には間違ひなく出せる筈であつた詩集も机の中にそのままになつてしまつた。太子堂から山崎の家へ引越したのが一昨年の十二月で、山崎の家をたゝんだのが去年の四月の初めであつた。それからちよつとばかり旅館にゐたり郷里へ帰つたり田舎の温泉にゐたりして、五つになる娘と二人で上京したのが先に述べたやうに七月の初めで、一ヶ月ほど友人の家にゐて駒沢の今の家を見つけたのであつた。

 去年の夏は雨ばかり降つてゐたが子供は汗をさかんにかいた。私は冬服しかなかつた。子供の家庭教師をたのんだが、その三十九になる婦人は一ヶ月でことはつた。給料も高かつたし子供のことは何も知つてゐない人だつた。それに不幸であつたためか何んとなく不愉快な感じがしてならなかつた。顔も普通の人とはちがつてゐるやうな気さへするのだつた。その後に老婆が来たが、一切魚類も牛や雞の肉類も食べない人であつた。みそ汁が辛かつた。飯の度に憂鬱になつてしまつたので半月で帰つてもらつた。

 私は台所と洗濯と掃除と子供のことなどで一日中ひまのない男のママさんになつた。七間もある家に子供と二人でゐるので近所を不思議がらせた。子供を幼稚園にやつてみたが送り向ひが出来ないのでやめてしまつた。

 そんなことをして十月になつた。高橋新吉詩集の会のあつた晩、その頃上京してゐた母を送つて郷里へ帰つた。そしてすぐ上京するつもりであつたのが、子供が赤痢になつたので十一月過ぎても上京せずにゐる。もうこゝは寒い。親父に新調してもらつた外套の出来上るのを待つてゐる。子供もやつともとの体になつた。

 

    ×

 

 妻と別れた経験は生れて初めてゞあつた。

 噂やなにかでは私を酒のみといふものにしてゐるけれども一人飲むやうなことはほとんどない。だから一人でゐるときは半月も、時には半年も酒を飲まずにゐることがある。今度も、そんなことなどで私は酒をのむ折が一層なかつた。やけ酒を飲んでゐるやうに見かけられるのも気がひけるし、子供を直接めんどうみてゐる間は十分つゝしまなければならないと思つたわけだつた。が、私は近頃になつて考へ直した。子供を動物園などにつれて行きたいと思ひながら、ソーダを飲みに入つたカフエなどで酒の相手をさせるやうなことがあるやうになつた。子供も女給さんと遊ぶのを面白がつて、為替が来ると一緒になつてうれしがつた。だが、カフエへ出かけるのも月初めと月末の二三日であとは金がなかつた。女児の小便を不便だとつくづく思つた。チリ紙のなくなるやうなこともあつた。

 子供のことを考へると眼のさきが暗くなる。顔を見てゐると可愛い。泣くこともある。こんなことを書いてゐると、母親がゐなくなつて一ケ月ばかりは毎晩のやうに泣かれて、自分が女親になりたいと一心に念じたことを思ひ出す。子供のことを考へ出すと、十年も二十年も後のことを想像しなければならないからやめる。

 

    ×

 

 兎に角私は今元気でもなければへこたれてゐるのでもない。つまり私は何んでもなくつてゐる。寝て待つてゐるが果報はなかなか来ない。

 書くことを書いてしまつたような気がする、読みかへしてみたが、これが私の書かうとしたことなのかどうかわからなくなつた。――読みかへしたのがわるい。書くことを書いてしまつたやうな気がしたゞけでいい。

(詩神第五巻第一号 昭和4(1929)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:「地の中へ込んでしまつた」は「込(はひりこ)んでしまつた」と読ませるか。「忘れてしまはふ」「一ヶ月でことはつた」「送り向ひが」はママ。「全詩人聯合」はアカデミックな詩人協会に対抗して昭和3(1928)年1月に世田谷山崎の尾形亀之助宅を事務局として結成された詩人団体。会員には伊藤信吉・岡本潤・木山捷平・竹中郁・菊田一夫・草野l心平・サトウハチロー・三好十郎・萩原恭次郎・吉田一穂・小野十三郎等、錚々たる面々であったが「私は全詩人聯合の第一号発刊の直後から事務をとらなかつた」と言う通り、同年4月の『全詩人聯合』創刊直後の5月、タケとの離婚直後に転居してしまい、そのまま頓挫、雲散霧消してしまう。「別れるやうになつた事情」は、「小説 尾形亀之助」に詳しいが、妻シゲが、生活破綻者であった尾形に愛想をつかし、尾形が信頼していた友人で全詩人聯合結成にも尽力した詩人大鹿卓(金子光晴の弟)に靡いた結果の協議離婚の顛末を言うのであろう。なお、前掲の評論『詩集「兵隊」のラッパ』注を参照されたい。]

 

 

 

    詩集「第百階級」に依る草野心平君其他

 

 草野はきつと詩を書くことが下手なのだらう。だが草野はそんなことに一向無関心であつていゝ立場をもつてゐる。全くのところ草野は所謂詩人でなくともいゝ筈だ。また、例へ詩が下手であつても草野の現在のそれらの作品は十分以上にわれわれの仲間に通用してゐる。また思想的変進は当然のことであつて、順調以外の何物でもないのだから、特に賞讃する必要はない。

 

    ×

 

 草野が高橋新吉と話をしてゐても草野は高橋新吉ではない。又、高橋新吉が尾形亀之助の場合であつても、彼はやはり尾形亀之助ではなくて草野心平だ。だが、草野の靴下の中の足がよごれてゐるとしても風呂に入れば綺麗になることに就ては、彼は高橋新吉と同じであり尾形亀之助とも何の異りもない。

 草野の笑ひ顔は何とも言へないほどいい。

 

    ×

 

 草野は玄関に腰かけて靴をぬぐ。混沌君の梨畑の梨の枝を杖(ステツキ)にして来るときもある。困つたことだが、草野が痔がわるいのが如何にも彼らしくつて好ましい気がする。

 

    ×

 

 草野心平は一人しかゐない。自分が一人しかゐないことを彼はあきらめてゐる。

 このことは草野ばかりではない。自分が二人も一二人もゐるやうな気がしたら、諸君は十分注意しなければいけない。各自の作品に就ても同じことだ。自分の作品に似た作品があつたら、自分がそのまねをしてゐるのかその作品が自分をまねてゐるのかを考察しなければならない。

 

    ×

 

 草野はよく唄を唄ふ。が、それをやめれば、彼はもつと沢山の詩を書く。

 或る日、草野は自動車に少しばかり足をひかれた。又或る日、彼は何かの儀式のとき親父にむりにフロックコートを着せられた。

 草野ほど帽子を変へる人を私は知らない。

 

    ×

 

 詩集の中で、あまりりきんだ詩はその他の詩に劣る。

 

    ×

 

 「蛙冬眠」に現れてゐるやうに、彼は詩を文字や字句の型からのものであるとはたしかに思つてはゐない。だが、「蛙冬眠」は黒丸でいゝにはいゝが、草野はもつとよい詩を書かなけれはいけないではないか。苦心した作品が、必ずよいわけではないが、あれだけで手をひいてしまつたことは断じていけない。

 

    ×

 

 草野の詩は私の詩ではない。たゞ、それがわかるに過ぎない。それは決して彼と私との場合ばかりではない。

 又、草野は沢山の「詩」を書いてゐる。が、それらの「詩」はみな一つ一つ異つてゐる。で、草野自身の詩ですら「詩」がみな異つている。詩人が似かよつたやうな詩を書くときは、それらの詩人は少しも貴重でない。或る場合は彼等を詩人でないとさへ言つていゝと思ふ。

 

    ×

 

 時に、草野の顔を蛙の顔に似てゐるとか、手が蛙の手にそつくりだとか、又は足がさうだとか言ふ人がある。が、断じてそんなことはない。

 草野は自身の顔や手や足が蛙に似てゐるからといふわけで「蛙」の詩を書き出したのではない。

 以下のことは、草野自身詩集の終りに書いてゐるから、わざわざ書くのだ。が草野は蛙を愛してなどはゐない。若し愛してゐるといふ言葉を使用したければ、蛙を食ふ蛇と同じほどしか愛してはゐない。間違つてはいけない。蛇は宇宙大のニヒルと言つたところで、彼には一向さしつかへがないのだ。

 

    ×

 

 「逆歯」などといふ言葉は、形容にすぎないと思つて、読み返してみる必要もある。

 

    ×

 

 この詩集に就て一口に音楽的効果云々などと言つてはいけない。音楽そのものの中にも詩はある。詩を表現する場合に、如何なる形式をとらうと、それは誰れでもの勝手だ。「我」といふのを「われ」と書かうと、どつちでもいゝやうにいゝ筈だ。

 

    ×

 

   秋の夜の会話

 

  さむいね

  ああ さむいね

  虫がないてるね

  ああ 虫がないてるね

  もうすぐ土の中だね

  土の中はいやだね

  痩せたね

  君もずいぶん痩せたね

  どこがこんなに切ないんだらうね

  腹だらうかね

  腹とつたら死ぬだらうね

  死にたくはないね

  さむいね

  ああ 虫がないてるね

 

    ×

 

 「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」の終りの二行ばかりはあんまり意味がなさ過ぎる。みんな生理的なお話ぢやないか――と言つてゐる辺がこの詩の佳境であらう。

 「えぼ」もいゝ。たゞ、無意味な批評をすれば、土の中から出て来たばかりにしては元気がありすぎる。

 

    ×

 

 「殺虐の恐怖のない平凡なひと時の千組の中の一組」で――

 

  そうか?

  おれもそだ

  だまつてると

  どてつ腹むしりたくなる

  このお天気はどうだい!

  お天気はお天気にして出掛(んぐ)べや

  あいらもうれしいんでやけに鳴いてるな

  んぐべ

  あんぐベ

  どつたどつた音たててんぐベ

 

 ――と話しあつてゐる二匹の蛙のうちの一匹がこの時笑ひ出したので――

 

  バカ! なに笑つてるだ

 

と一匹に言はれた。するとさうどなられた蛙は――

 

  ゲツヘ おまへも笑つてるくせに

 

と言つてゐる。

 読者よ、蛙の顔を思ひ出して呉れ。この二匹の蛙は笑ふのに声を出してゐない。話しあつてゐる二人の人間が笑ふのはいたつて珍らしくない。例へ、作者がこれを書きかけてゐてんぐべがお可笑しくなつてなに笑つるだ、といふことになつたとしても、それはどうでもいゝ。これはこれでいゝ。私はこの詩をこの詩集の中で一番よい詩だと言つてもいゝ。

 

    ×

 

 「俺も眠らう」の一部にもあてはまることに就て前述した。これもこれでいゝ。だが、これに何かの背景があれば尚もいゝ筈だ。あまり上手な引例ではないが、たんぼの泥を一握り庭へ持つて来て置いても、庭がその為に幾分かたんぼらしくなつたとは言へない。だからだ。

 

    ×

 

 「嵐と蟇」はこの詩集の中で特によい詩ではない。生意気に聞えなけれは、この詩に就てはもつと勉強(?)してもらひたいと言ひたい。

 

    ×

 

 「子供に追ひかけられる蛙」はたゞ子供に追ひかけられる蛙 とだけでいゝ。かうした点で私の言ふことが幾分正しいとすれば、草野はその幾分についてもう少し注意しなければならないのだ。

 

    ×

 

 草野の詩を読んでゐて笑はされてしまふことがある。笑はされてしまつては批評は出来ない。

 「鰻と蛙」も私には笑はされるのゝ一つだ。が、笑はされずに読める時だつてある。この詩も実にいゝ。

 

    ×

 

 「いいのか」は好ましくない。

 「号外」はこの詩集の中でのつまらないありふれた詩だ。旧い言葉で感じが出てゐないの感があるではないか。

 「青大将に突撃する頭の中の喚声」。れは試みとしてのみよいと言ふことが出来る。だが試みてよくなかつたと言はなければなるまい。

 

    ×

 

 「だから石をなげれるのだ

 だから石をうけれるのだ」

 顕微鏡的一点を微笑するのだ――は、蛙があまり人間に対して皮肉すぎる。

 「行進曲」はこの詩から詩を書いて欲しいと思つた。で、幾度も読みかへしてみた。これはこれでいゝのだとは思へる。

 

    ×

 

 「第八月満月の夜の満潮時の歓喜の歌」に十四人以上人ぶつが同時に唱ふべき詩――と註がしてある。

 珍らしい詩を彼は持つてゐる。

 「蛇祭り行進」は「……歓喜の歌」によく似てゐる。よいともわるいとも、其他のことも書かぬでもよからう。

 

    ×

 

 「月の出と蛙」――はいゝ。

 「生殖」もいゝ。いゝと言つても、わるくないだけのことだ。

「古池や蛙とびこむ水の音」は最後の一行がわるい。この一行を加へなければならないことは、作者が――無限大虚無の中心の一点である――と言葉が好きであるからであらう。

 

    ×

 

 「吉原の火事映る田や鳴く蛙」には感興をひかれない。

 「●」はよく草野自身を出してゐる。

 

  すかんぽをくつてゐると

  蛙がわらつた

  おれがだまつてゐるので

  ひつくりかへつて

  白い腹をみせた

 

    ×

 

 「佝僂と蛙と風景」には一言あつていゝと思ふ。だが、この詩はいゝ詩だと言つて終つてもよいのかも知れない。言ふことは何によらずかなりめんどうなことだ。

 草野は次第にかうした詩型に入つてゆくのだらう。私はそれをさうでないよりいゝと思つてゐる。細々した注文ではあるが、終りまで面白く読ませてゐるが、終りになつてくどくなつてゐる。

 

    ×

 

 「水素のやうな話」もいゝ。

 「ギケロ」もいゝ。が「ギケロ」の方が少しくどい。どつちにも難はない。

 

    ×

 

 「亡霊」と「電柱の中で死んだ蛙」は同じ位に好きだ。この二つの詩は、詩集の中でない時の方がよりよく生命をもつ。

 

    ×

 

 「ぴりぴの告白」

 ぴりぴはであらう。が、この詩の場合びりぴが蛙であることが似やはしくない。似やはしくないやうな気がする。この詩に「亡霊」といふやうな種類の題が欲しい。

 

    ×

 

 「Spring Snata 第一印象」も略さう。

 「Spring Snata 第一印象」を略したのだから「蛙と蛇と男」も略さう。たゞ、形容句を列べてそこに詩をもりあげることは、かなり困難な仕事であるが、草野は前者に於てよく成功してゐる。

 

    ×

 

 「ゲル」はつまらない。

 「病気」はいゝ。

 「中性」もいゝ。

 「五木足の蛙」もいゝ。

 

    ×

 

 「ぐりまの死」このひからびた甘さがいゝではないか。

 

  ぐりまは子供に釣られてたたきつけられて死んだ

  取りのこされたるりだは

  菫の花をとつて

  ぐりまの口にさした

 

  半日もそばにゐたので苦しくなつて水に這入つた

  顔を泥にうずめてゐると

  くわんらくの声々が腹にしびれる

  泪が噴水のやうに喉にこたへる

 

  萱をくわえたまんま菫もぐりまも

  カンカン夏の陽にひからびていつた

 

    ×

 

 書き疲れた。

 「散歩」「●」は略さう。

 「一匹を慕ふ二匹の会話」を読んでゐるとお可笑しくなる。つまらないと言へばつまらなく、いゝと言へばいゝのは草野の責任だ。

 

    蛙になる

 

  なまぬるい水も気持がいいし

  どろどろの青藻もまずくはない

  顔もすべつこくなつてきたし

  こりこりいふ唄声が腋の下を汗ばませる

  水の底で眼をあけると

  ぶくぶくよりあつてゐるのもあるし

  浮きあがつて四つ脚をぶらりとのばした

  どこもかも大ぴらなまつ白い腹もある

 

  電気飴のやうな陽の光りが入つてくる

  黒い影のあるいてゐるのは

  鳶でもとんでゐるのらしい

 

    ×

 「晴天」もいゝ詩だ。最後の一節は不用だ。それが草野のもつてゐる欠点にならないやうに希望する。

 

    ×

 

 草野は詩集の後記に次のやうなことを書いてゐる。

 この批評だけをしか見ない人のために引例する――

 

    ×

[やぶちゃん注:以下、「 云々――。(略す)」の二字下げを除き、総てが一字下げで記されているが、ブラウザの関係上、総てを左揃えで統一した。以下、『第百階級』原典では各章の間は「×」ではなく、十六字下げの「◎」である。『第百階級』の掉尾の部分を「ゲリゲ」の遺言以外をすべて漏れなく引用している。但し、一部に誤表記がある。]

 

銀座街道に売物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中学小学の修身教科書の全部を消滅させる大学的徳性は笑はれる。

蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉体的力量の比較に立脚して魂のあ然は果してどつちにあるか。

 

    ×

 

蛾を食ふ蛙はそのことにのみよつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪まだ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕はその故にのみかえるを憎む。

 

    ×

 

殺りやく者「万物の霊長」は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととしそしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃えよ。高らかにうたへ。

 

    ×

 

人情的なあらゆるものをべつ視する宇宙大無口。

 

    ×

 

かえるの性慾は相手の腹に穴をあける

かえるの意地つ張りは石を笑ふ

 

かえるの夢は厖大無辺

眼玉は忍従と意志の縮図だ

 

    ×

 

そしてゲリゲといふかえるは蛇に食はれて死んで行くとき、人間の言葉にほん訳したら恐らく次のやうな言葉を仲間に送つた。

 云々――。(略す)

 

    ×

 

そしてにんげん諸君 蛙とにんげんとマンモス 蛙とにんげんの声がマンモスの声より小さいだらうといつて 蛙のコーラスがにんげんのそれよりけちくさくしみつたれだと言ひ得るとでも言ふのか。

 

    ×

 

ばくは蛙なんぞ愛してゐない!

(詩と詩論第三冊 昭和4(1929)年3月発行)

 

[やぶちゃん注:これは盟友草野心平(明治361903)年~昭和631988)年)が昭和3(1928)年11月に銅鑼社より刊行された草野にとっては活版印刷によるものとしては処女詩集となった『第百階級』の詩評を中心とした草野心平論。表題だけが示される草野の詩が当然の如く多出し、その詩を読んで初めて意味の分かる部分もあるが、草野の詩は著作権保護がなされているため、引用は原典との差異を示すものだけに控えた。

・「混沌君」は、同郷の農民詩人であった三野混沌(明治271894)年~昭和451970)年)のこと。本名、吉野義也。福島県石城郡平窪村曲田生(草野も現・いわき市出身)。山村暮鳥・草野心平らとの交友があった。

・『「逆歯」などといふ言葉』は、『第百階級』中の「逆歯(ギヤクシ)に死ぬる同胞一匹」の題名に用いられた単語である。逆歯とは九鈎刀(きゅうこうとう)という刀の一種。通常の刀の背の部分が、氷を挽く鋸のように九つに抉られて小さな逆の刃を成しているものを言う。

・「殺虐の恐怖のない平凡なひと時の千組の中の一組」の引用はほぼ正しいが、最終行を何故か外している。原典を引くと(引用はほるぷ社昭和581983)年復刻になる『第百階級』を用いた。以下同じ)、

 

   殺虐の恐怖のない平凡な

   ひと時の千組の中の一組

 

  そうか?

  おれもそだ

  だまつてると

  どてつ腹むしりたくなる

  このお天氣はどうだい!

  お天氣はお天氣にして出掛(んく)べや

  あいらもうれしいんでやけに鳴いてるな

  んぐべ

  あ んぐベ

  どつたどつた音たててんぐベ

  バカ!なに笑つてるだ

  ゲツヘ おまへも笑つてるくせに

  んぐべツ!

 

である。但し、この原典の「お天気はお天気にして出掛(んく)べや」の「んく」のルビは濁点の脱落の可能性もある。

・「たゞ子供に追ひかけられる蛙 とだけでいゝ」の一字空欄はママ。

・『「だから石をなげれるのだ/だから石をうけれるのだ」』の表記は段落冒頭であるから仕方がないのであるが、ややおかしい。これは詩の二行に渡る題で、原典では、

  だから石をなげれるのだ

  だから石をうけれるのだ

と並列されている。

・「十四人以上人ぶつ」の「ぶつ」はママ。

・「この一行を加へなければならないことは、作者が――無限大虚無の中心の一点である――と言葉が好きであるからであらう」の部分、「と言葉が」の「と」の脇に底本ではママ表記がある。「といふ言葉が好きであるからであらう」となるべき部分。

・『「●」』は以下の詩の題。直径1㎝3㎜の巨大な黒丸である。

・『「佝僂と蛙と風景」』の「佝僂」は本文中でもルビがないが、恐らく「くる」ではなく「せむし」と読ませているものと推定する。

・「ぐりまの死」の引用は杜撰である。正しくは以下の通り。

 

   ぐりまの死

 

  ぐりまは子供に釣られて叩きつけられて死んだ

  取りのこされたるりだは

  菫の花をとつて

  ぐりまの口にさした

 

  半日もそばにゐたので苦しくなつて水に這入つた

 

  顔を泥にうづめてゐると

  くわんらくの聲々が腹にしびれる

  泪が噴上のやうに喉にこたへる

 

  菫をくはへたまんま

  菫もぐりまも

  カンカン夏の陽にひからびていつた

 

草野は「噴上」を「ふきあげ」と読ませるつもりか。

 

   蛙になる

 

  なまぬるい水も氣持がいいし

  どろどろの青藻もまずくはない

  顔もすべつこくなつてきたし

  こりこりいふ唄聲が腋の下を汗ばませる

 

  水の底で眼をあけると

  ぶくぶくよりあつてゐるのもあるし

  浮きあがつて四つ脚をぶらりとのばした

  どこもかも大ぴらなまつ白い腹もある

 

  電気飴のやうな陽の光りが入つてくる

  黒い影のあるいてゐるのは

  鳶でもとんでゐるのらしい

 

原典では「腋の下」は「液の下」とあるが、誤植と判断して直した。「電気飴」とは綿菓子のこと。

・『「散歩」「●」は略さう』この「●」という題の詩は、先に掲げた同名の「●」という詩とは別物である。

・「銀座街道に売物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中学小学の修身教科書の全部を消滅させる大学的徳性は笑はれる。

蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉体的力量の比較に立脚して魂のあ然は果してどつちにあるか。」は正しくは以下の通り。「街頭」を「街道」と誤って引用している。

 

銀座街頭に賣物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中學小學の修身教科書の全部を消滅させる大學的德性は笑はれる。

蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉體的力量の比較に立脚して魂のあ然は果してどつちにあるか。

 

・「蛾を食ふ蛙はそのことにのみよつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪まだ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕はその故にのみかえるを憎む。」は正しくは以下の通り。「にのみよつて」は通常通り「のみによつて」である。また、「食はれる。」の後に一字空けが見られる。

 

蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。 人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪まだ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕はその故にのみかえるを憎む。

 

・『殺りやく者「万物の霊長」は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととしそしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃えよ。高らかにうたへ。』は正しくは以下の通り。「万物の霊長」は二十鍵括弧。「殺りやく者」は原典でもママ。

 

殺りやく者『萬物の靈長』は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととしそしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃えよ。高らかにうたへ。

 

・「人情的なあらゆるものをべつ視する宇宙大無口。」引用に異同なし。「べつ視」は原典でもママ。

 

・「かえるの性慾は相手の腹に穴をあける/かえるの意地つ張りは石を笑ふ//かえるの夢は厖大無辺/眼玉は忍従と意志の縮図だ」は正しくは以下の通り。「慾」は通常の「欲」で、全体は二連ではなく、一連である。

 

かえるの性欲は相手の腹に穴をあける

かえるの意地つ張りは石を笑ふ

かえるの夢は厖大無邊

眼玉は忍從と意志の縮圖だ

 

・「そしてゲリゲといふかえるは蛇に食はれて死んで行くとき、人間の言葉にほん訳したら恐らく次のやうな言葉を仲間に送つた。/云々――。(略す)」最初の一文は引用に異同なし。「ほん訳」は原典でも「ほん譯」でママ。なお、「云々――。(略す)」は尾形亀之助の略表記で、ここには最初の一文より全体一字下げでその「ゲリゲ」の「です・ます」体の遺書が記されている。著作権を考慮して記すと、『お友達や仲間の諸君』に始まり、彼が殺されることを悲しんで逃げるように声をかけてくれたその人々に感謝の意を表し、彼を『殺す』のは蛇でも何でもなく、彼自身の意地であると表明し、自分の死は悲しくないとする。そうして本当に『悲しいことはなぜ殺しあひがあるかということ』であるが、しかし「それも仕方がないでせう」と諦観する。彼ら蛙も色々なものを食べる、『自然の暴威』は当然の摂理である。いや、だからこそ本当に悲しいことは『なぜおんなじ兄弟たちなかまたちが殺しあふの』かという大いなる疑問だという。『人間も人間同士で殺しあふ』――『ぼくたちは幸福で』ある。それは何故と言うに『誰彼の差別なく助け合ひ歌ひあ』うからである。これこそ至福である。僕は死んでゆく。『悲しくはありません、さようなら、萬歳して下さ』い。と終わる内容である。

 

・「そしてにんげん諸君 蛙とにんげんとマンモス 蛙とにんげんの声がマンモスの声より小さいだらうといつて 蛙のコーラスがにんげんのそれよりけちくさくしみつたれだと言ひ得るとでも言ふのか。」引用に異同なし(「声」は勿論、「聲」)。

 

・「ぼくは蛙なんぞ愛してゐない!」引用に異同なし。]

 

 

 

    詩集「血の花が開くとき」

 

 私は「血の花が開くとき」を一回通読しましたがその人の詩の境地はそうたやすく第三者に解るものではないのです。しかし幸ひに私はこの詩集から私が曾て見た詩のうちで最もすぐれた詩にふくまるる詩篇を幾つか読むことが出来たことをうれしく思ひます。同時に私は今迄大江君の作品を多く読む機会がなかつたせいもありますが、大江君がさうした詩の作者であることを初めて知つたやうなわけです。

 「涙汲む少女と林檎」この詩は大江君の詩境の面白さ(或はよさ)をしめしてゐると同時にはつきりしてゐない半面を十分に示してゐると思ひます。即ち前半(二頁)の不明瞭さと後半(三頁)の明瞭さ面白さであります。

 「いのちを与へてゐる少女」第二行の言葉の音楽を聴かして云々がよい言ひあらはしでないと思ひます。紙人形の頰へ桜の花弁をべつたり貼つたその感じを生かして欲しいと思ひます「センダガヤの少女」私の好みで申しますとこのやうな詩は好きです。そして同じ好みから、ここの第四行のときほぐらしてときほぐらして――とダブつてゐる調子はここではない方がよいと思ひます。

 「病んでゐた少女」解しやうによつてはこの病んでゐた少女のゐたといふその状態の意味がなんなのかがわからない。勿論この詩の第一行の一部分なのでせう。美しい青年云々といふインネンをつけてゐるので大変ロマンチツクになつてゐますが、このやうな詩はもつと技巧的でないと推奨しにくいのです。ただ別な意味で大江君がこのやうな感じをもつてゐることが友人たちをうれしがらせることと思ひます。

 「おかみさんの髪」風の簪がいい。貌の赭くなるのもいいが油をつけなくても太陽で光る ――と理窟ぽくならないことを欲します。

 自分がつての事を言つてしまふと、第一節の第三行がいらないし、第二節は第一行だけにしてあとは捨てたいと思ひます。

 「おかみさんと赤ん坊」は最後の一行が駄足。この一行の為にの詩がになつてゐると思ひます。

 「逃走者の宿」は何となく半ばな感じを受けます。題そのものも変つてゐて奇妙です。

 「光風夢」はよい。この感情がうれしい。

 「樹の下で休む貌」面白い感じ方の詩です。ただもつと平易に行の配置を直して欲しい。

 「五月と乞食」しつかりした筆致を示してゐます。小供の落した林檎を乞食が手ぎはよくつかまいたので差し出たのにはキヨウタンします。最初の二行は不用。又、父さんがハハハと笑ふところもいらないと思ひます。

 「モヒ中毒患者」もつとゆつくりした方法で、もつと技巧的でないと変なことになると思ひます。

 「父親」でのローゴクのやうなカナ文字や「兵隊」のポリスは、やはり漢字の方がいいと思ひます。

 「精神病者」「病人同志」好ましい作品です。最後の一行はもつとはつきりしてゐる必要があると思ひます。

 「孤独な看護婦」「月経」は共に静かなよい詩です。詩といふより散文に近いやうに思はれます。

 「影」得難いよい詩です。好きです。「悲劇」「無題」共に好きです。「不愉快な画」面白い詩です。

 「悪い夢」の篇の多くは何となく格言に似てゐる感じを受けました。詩としては面白味が十分に感じられませんでした。

 しかし、此の種に摂する世の多くの詩篇にくらべればすぐれてゐるばかりでなく大江君の進んでゐる路が他の人々と少々異つてゐることを示してゐるものと思ひます。

 「血の花」では「本能のある母」がすてきにいいと思ひました。其他の詩篇は悪い夢の篇のものと同じやうな感じを受けました。

 「雪」の篇は凡作。

 「春」の篇で「朝の太陽」が大変いいと思ひました。

 「不遠慮な春」も相当な作品でありますが、「朝の太陽」にくらべれは劣ります。

 「季節の花」もいいと思ひます。

 「漁夫の子」「農夫の子」もちょっと心を曳かれますが、感心する程でもないと思ひます。

 細かく批評すれは未だ色々と注文する部分があります。全部を通じて大江君は不明な言葉を使ひ過ぎてゐる所があると思ひます。行の切りや配置にもつと注意する必要があると思ひます。

 「センダガヤの少女」「孤独な看護婦」「月経」「無題」「季節の花」もよい詩篇でした。

 「おかみさんの髪」「おかみさんと赤ん坊」「樹の下に休む貌」「五月と乞食」には多分の注文がありますが、すぐれた詩であると思ひます。

(詩神第五巻第五号 昭和4(1929)年5月発行)

 

[やぶちゃん注:大江満雄(明治391906)年~平成3(1991)年)の処女詩集『血の花が開くとき』(昭和3(1928)年誠志堂書店刊)の詩評。大江満雄は生田春月の『詩と人生』に拠り、プロレタリア詩運動にも参加。戦後はキリスト教徒としてハンセン病患者・元患者の詩雑誌『いのちの芽』の編集に心血を注いだ。「手ぎはよくつかまいた」はママ。]

 

 

 

    さびしい人生興奮

 

 詩集「雨になる朝」は去年の今頃出版する筈であつたのが一年ほど遅れた。これらの作品は一昨年のもので、去年は妙に困つたことばかりのあつた年で、詩は一つか二つしか書きつけなかつた。そして、今年は頭が重い。

 

    ×

 

 私はこの詩集をいそいで読んでほしくないと思つてゐる。本箱のすみへでもほうり込んで置いて、思ひ出したら見るといふことにしてもらひたい。

 

    ×

 

 親父の手前、少しは売りたい。

 自分としては、九月に出版する短篇集のために読んでおいて欲しいと思ふ。

 

    ×

 

 私は三十になつたし、子供は六つになつた。そして、子供には母親がなく、私は今年愛人を得た。私はかうしたことが何を意味するのかはつきりわからない。きつとこんなことはどうでもいゝことなのだらう。子供に母親があつて、私には妻がないといふやうなことだつてあり得ることなのだらう。だが、子供がうつかり歌ひ出して「恋しや古里なつかし父は」のところで突然歌をやめるのは、どうにもたまらない。

 

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 この詩集の作品は、家の中で一番よい部屋を書斎にして書かれたものである。そして、子供の笑ひ声や泣声をうるさいとどなつたりしたのだつた。三年前の生活を思ひ出すことはかなり恥ずかしい。そして、自分の作品がそれほどのかちがあるかどうかを考へることはかなりさびしい。

 

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「軍艦茉莉」安西冬衛はすばらしい詩集を出した。去年の暮は、草野心平が「第百階級」を出した。

 どうすればよい詩が書けるか。といふことの方が、詩型のことや形式のことなどよりもはるかに詩作者にとつて大切ではなからうか。

 今朝も鶯が庭へ来てゐた。桐の葉がのびた。ノミが子供をせめ初めた。

(詩と詩論第四冊 昭和4(1929)年6月発行)

 

[やぶちゃん注:「恥ずかしい」「せめ初めた」はママ。「私は今年愛人を得た」は前年の十二月から同棲を始めた十七歳の詩人芳本優を指す。]

 

 

 

   傷ましき月評

 

 私は「詩」を詩と言ひ得ない場合が多い。殊に言葉に言ひ表はす多くの場合は「詩といふもの」と言はなければ十分に言ひ表はせない。言葉を換へて言ふと、いはゆる「詩」とは私にとつて「詩といふもの」なのである。詩がわれわれの知るところの「詩型」によつて発達はしたが、そこから生れたものではないといふことを考へてゐるためであつて、三間も五間も離れて見て活字が判明しなくともその組が「詩型」であることだけで、それを詩であると言はなけれはならないのを遺憾に思ふからである。

 「手をたゝくと音がする」それを詩だと思ふ野口氏は、それを詩であると思つたのだらう。それはそれで、全ての人々がさう思はなければならないのではないのだから、自分はさうしたことに抗議しやうとはちつとも思はない。手をたゝくと音がするのを詩だと言つた野口氏よりももつと変つたことを詩だと思つてゐる人があるかも知れない。又、手をたゝくと音がする云云と言つた野口氏は「詩とは何んであるか」と質問する人の鼻の先でポンと手をたゝいてこれが詩だと言つたとすれば、なるほどその時はそれでよいのではないかとも思へるではないか。それをふんがいする方がまけかも知れないではないか。なんだ馬鹿々々しいと笑ふべきであると思ふ。

 次に、百田氏の「詩を散文に書け」は氏がさうした傾向の作品を発表してゐるから、百田氏はこのことを言つてゐるのだといふことがわかる。それだけでいゝのであるしそれだけのことでしかないのではなからうか。「詩を散文に書け」は散文に詩を入れろである。又、詩を散文で書けとも解せる。私にはそのどちらでもいゝのだが、「詩を散文では書けない」ことになる人もあらう。そんなことも私にはどうでもいゝことだ。私は詩型で詩はかけないから書かない。

 もう一言かさねると、散文にも詩があり得る。小説、戯曲、音楽、建築にも詩はあり得る。そして、いはゆる詩型によつて書かれたものにも詩はあり得る。又、月にも花にも詩があり得る。だから散文にも詩がないこともあり、小説、戯曲、音楽、建築に詩がないこともあつた。そして、詩型によつて書かれたものにも同様である。だが、不幸なことにわれわれは「詩型」によつて書かれてゐるが故にそれを詩と言はなけれはならないことになつてゐる。もつと不幸なことには詩とはいはゆる詩型のことになつてしまつてゐる。

 

    ×

 

 〔詩神――六月号〕

 (詩形に依る感想)南江二郎

 これらの感想がなぜ詩形に依つたものか。幸ひに、詩でなくともかうした型があるといふ意味であるのなら、この感想がたとへつまらないものであつたとしても私のために喜びに耐へない。

 (野中の欅)岡本潤

 彼は野中の欅と話をしてゐる。彼は詩作的の技巧を必要としない。だから、もつとさうであることをよしとする。

 (マルクスと人糞)田中清一

 私は彼の詩を批評する用意をもたない。だが今月のはいくぶんさうでもなささうに感じた。マルクスを人糞の偉大なる料理人であらう――と言つて間違ひでなければ、この詩は間違ひではないだらう。

 (心臓と肛門)こゝの神とは誰のことであるか。

 (春)自殺は雑草のごとく繁茂する。桃の花は生殖に多忙である。脳髄は高気圧に狂奔する。――何んのことだかわからない。だが、もつと親切に見る人は見てもいゝだらう。

 (思考)彼等(?)

 (地上楽園)地上楽園(?)

 (Theatre Merveilleux)富士原清一

 わからないと言へばそれですむ。何故わからないかといふと、わかるところにわからないところがまじつてゐるからである。何処がわかつて何処がわからないかといふと例へば――更にこの劇場の観客を驚かせたのはこのとき突然に猛獣使ひが見えなくなつたことでありました だがこんなことで驚いたといふのは観客が彼等の無智を暴露した以外の何物でもありませんでした 無論 左様 最初から縞の着物を着て絹帽子を被つてゐた天使が縞の着物を着こんだ猛獣使ひに化けこんでゐたといふありふれた簡単な天使の筋書に過ぎませんよ 天使が鮮明な縞の燕尾服をひろげてこの劇場から飛び去るのを鼻眼鏡をかけた腹の太つた劇場の主人私が見逃しこはありますまいからねえ――は、わかる。だが、勿論これは一節にすぎないが、これはたゞの話に過ぎない。――果して劇場の屋根に天使の絹帽子が伏せてありました。さうして天使の絹帽子の下に天使の液体がありました。勿論天使の小便に違ひありませんでした 謙譲な天使 これは謙譲な天使の感動と天使の謙譲な礼儀を現はしてゐるものでありました――と、つゞいてゐるが、何んのことだらうと思ふ。そして、このわからなさが前の部分を詩化してゐるのではなからうかと想像するのである。

 (村の祭)木内打魚

 何んとなく困つた。彼はこの他(田園所感)(田家朝)を書いてゐる。むりに批評することをさけて、宮中御歌初めの御進詠を思はせる(田家朝)を引用する。

  桔桿(はねつるべ)がぎいぎい

  静かな朝に

 動いてゐるよ!

 民のかまどの炊烟も

 樹間がくれに見へてるよ!

 あゝ静かな朝だ!

 みはたす限り春の野に

 それらしい光が動くよ

 おゝそれには梅の一枝だ!

 桔桿がぎいぎい

 又静かな野に動いてる!

 (さみしい情感)大谷忠一郎

 多少月並ではあるが、よい感情をもつてゐる。がわるいことに種類の異つた言葉がまじつてゐる。むだもあり細かすぎるくどくもある。

 (大風)の方がいゝかも知れないが。が、どちらも同じ作者である。

 (群衆を見た)高橋辰二

 彼はかつて「水葬」といふ新鮮な詩集を出してゐる。よい詩であるが、(踊り)の最後の光を見たりと同様に、これの最後の節群衆を見たは突然すぎる。

 (百姓は貧乏してゐる)はいゝ。ここの同志よ! はちつとも突然ではない。

 (自覚)伊藤花子

 はつきりして、くどくならないのをよしとする。

 (霜夜)杉山市五郎

 オミツ卜する。(竹林)は大袈裟すぎてあまり変。(●)オミツトする。彼は詩とは何んであるかをもう一度考へてみた方がいゝやうだ。こんな詩を三頁ものせてゐるのはどうしたことか。

 (椿)井上誠

 椿の(二)がいゝ。が、すばらしくではない。だが、作者が男なのか女なのか。

 (花をもてる少女)村野四郎

 わるくはない詩篇である。だがなんと形容の多いことだ。そして、たえず湧きこぼれる……などの類は古い。

 (実体を失つた人)(私と私)折戸彫夫

 面白くないこともない。かなりしつかりしてゐないこともない。だが、明日もこれだけではなるまい。どつちかといふと、この種のこのていどのものは、バタをつけたパンを左手に右手に鉛筆をもつて書いてゐる遊び位のつもりでゐて欲しいものだ。

 (言葉は神なりき)大沢重夫

 やゝ月並の感がある。それだけで他に感じるものがないことを残念に思ふ。

 (聖者燃ゆ)前にやゝ同じ。

 (明日を生むもの)大埜勇次

 よい。兎に角よい。たしかでもある。だが何んとなく月並の感じがするのは何故か。

 (悪魔の歌)前と同じく、これも十分にたしかさをもつてゐる。そして、大変きちようめんであることは(明日を生むもの)と同じである。はつきりした批評は私には出来ない。あゝ額は裂け――といつた調子でなく、もつと静かなのでかうした詩もみたいと思ふ。

 

        ×

 

 締切りが過ぎてゐるのに雑誌が出てゐない。不親切な批評ではあるが、こんなのも時にはいゝ筈であらう。又、私はこれを執筆するに不真面目ではなかつた。詩神六月号の詩評は私にはこれだけのことしか出来なかつた。

(詩神第五巻第七号 昭和4(1929)年7月発行)

 

[やぶちゃん注:「詩神」第五巻第六号を見るに若くはなしと思われるが、私には現在その余裕がない。文学史的に著名な詩人以外は、名前も知らない人物が多い。従ってネット検索に頼らざるを得ず、不確かな注記記載が多いのはお許し頂きたい。合わせて識者の御教授を乞うものである。

・「野口氏」姓だけで詩誌『詩神』の読者が認識出来、『詩神』に寄稿していた詩人、『「手をたゝくと音がする」それを詩だ』という禅味に富む詩論を鮮やかにポンと示せる当時の詩人は、野口米次郎か。尾形亀之助は後掲の「机」(これによって野口米次郎が『詩神』に寄稿していたことが知れる)で『西行や芭蕉やミルトンやブラウニングやに跌坐(あぐら)のかきやうを教へたい』と詩で公言し、『二三行でいゝものを十六行も書いて、その中で言訳けをしたり自分にはそれが出来ることを広告したりしてゐる』『変なところが典型的な老東洋人』として54歳の先輩詩人ヨネ・ノグチをこけおろしているが、『「手をたゝくと音がする」それを詩だ』という人物は正しく『西行や芭蕉やミルトンやブラウニングやに跌坐のかきやうを教へたい』『変なところが典型的な老東洋人』と揶揄するに相応しい人物のように私には感じられるが、如何? 野口米次郎(明治8(1875)年~昭和221947)年)。明治261893)年18歳で渡米、エドガー・アラン・ポーに傾倒する。明治291896)年処女詩集“Seen and Unseen”を刊行、明治371904)年に帰国し、明治391906)年より慶応大学英文学教授。帰国後は日本の伝統芸術に心酔した。

・「百田氏」詩人・児童文学者であった百田宗治(ももたそうじ、明治261893)年~昭和301955)年)であろうか。

・「南江二郎」(なんえじろう ?~昭和571982)年)同姓同名名義で人形劇や仮面についての著作を多数見出せるが、生年は未詳。大日本図書の「日本児童文学大事典」に「南江治郎」なる人物が明治351902)年~昭和571982)年の生没年で詩人・人形劇研究家として掲載されているが、同一人物と考えてよいか。

・「岡本潤」(明治341901)年~昭和531978)年)はアナーキズム(後にコミュニズムに転向)詩人・脚本家。本名岡本保太郎。

・「田中清一」(明治331900)年~昭和501975)年)詩人。後に田中喜四郎と改名。本篇初出誌である詩誌『詩神』の出資者である(『詩神』の編集は福田正夫、実務は草野心平や尾形亀之助も馴染みであるし詩誌『銅鑼』の同人だった神谷暢が担当した)。

・「(Theatre Merveilleux)富士原清一」“Merveilleux”はフランス語で「不思議なこと」「驚異」「超自然現象」の意。富士原清一(明治411908)~昭和191944)年)は日本シュールレアリスムの先駆的詩人。上田敏雄・北園克衛らと雑誌『薔薇・魔術・学説』の創刊(昭和2(1927)年)及び編集に加わり、翌昭和3(1928)年には自らが発行人であった『馥郁タル火夫ヨ』と『薔薇・魔術・学説』が統合される形で成った超現実主義雑誌『衣裳の太陽』(全6冊)を発行したが、招集され南方にて戦死した。

・「木内打魚」詩人・翻訳家。生没年未詳。ネット検索ではミルトン「失楽園」・ワーズワース・ブラウニング等の訳者として名が見える。

・「大谷忠一郎」(明治351902)年~昭和381963)年)詩人。本名大谷忠吉。尾形亀之助も寄稿している昭和2(1927)年9月に発行された東北地方を代表する詩誌『北方詩人』の創刊者の一人で萩原朔太郎門下。

・「高橋辰二」(明治371904)年~昭和421967)年)『文芸戦線』を代表するプロレタリア詩人の一人。昭和71932)年8月の労農文学同盟の分裂後のプロレタリア作家クラブの名簿にその名を見出せる。

・『「水葬」』は昭和2(1927)年に横浜で出版されている。

・「伊藤花子」未詳。同姓同名者はいるが、確認出来ない。

・「杉山市五郎」詩人。生没年未詳。詩集『芋畑の詩』(昭和4(1928)年銅鑼社刊)や『飛魚の子』昭和9(1934)年とびうを社刊)等。

・「井上誠」詩人。生没年未詳。詩集『季節の風』(昭和2(1927)年詩洋社刊)。昭和441969)年に自治日報社から詩人井上誠なる人物がコーヒーの文化史「珈琲物語」という本を出しているが、同一人物か。

・「村野四郎」明治341901)年~昭和501975)年)第2詩集『体操詩集』(昭和141939)年アオイ書房刊)で文学史的にも著名な詩人。

・「折戸彫夫」(明治361903)年~平成2(1990)年)は詩人。詩集『虚無と白鳥 POESIE 1926-1928』(昭3(1928)年ウルトラ編輯所刊)等。

・「大沢重夫」詩人。生没年未詳。詩集に『太陽を慕ひ大地を恋ふる者の歌』(大正151926)年刊)等。

・「大埜勇次」詩人。生没年未詳。『詩神』昭和2年1月号に載った萩原朔太郎の「大埜勇次君に」という一文がある。これは朔太郎の詩論に対する大埜勇次の疑問と抗議に対する簡単な答えで、『「詩神」十二月の質問はすべてもつともです。』とし、自分の論の説明不足を認め、近日出版予定の「自由詩の原理」(後の「詩の原理」のことであろう)で『自由詩の徹底的なる問題を證明します。』『ゼヒこの書物をよんでほしいです。』と、結んでいる。少なくともその詩論にあっては朔太郎をしても看過し得ぬ詩眼の持ち主であったように窺われる。詩誌『日本詩人』でも大正121923)年頃から活躍している。]

 

 

    机

     ――詩神七月号月評

 

 机とは何であるか。「机」とは、時に古道具屋を呼んで売るものである。又、ちがつた意味で物の読み書きに丁度よい高さなのでもある。又、幾つの頃であつたか、机に腰をかけて灸といふことになつたこともあつた。「机」とは通例四本の足があり、その前には坐るべき座蒲団があつたりするのである。机の上にインク瓶と吸取紙があることもある。机の前には壁などがある。そして、机の下には足があり蚊がゐることもある。机はたいてい頭より大きい。

 机の前に坐つてゐるのに南瓜を煮る匂ひがしてくる。もう夕暮なのである。

 

    ×

 

 〔熊〕福田正夫

 彼は熊――僕は本能の熊として言つてゐるが、これは熊などといふすばらしい動物ではなく、例へば狸といふやうな動物の名を熊の字と入れ換へた方がいゝのではなからうか。穴の底からとび出したら……僕はまつ黒になつてるかも知れないが――といふことに、狸の毛色ではぐあひがわるいのであるのだらうか。又、何んと言ひやうもないけだるさを表すためなのか言葉があいまいである。全篇を通じて大したおちどはないのであるが、わざわざ書いて人々に読ませるまでにもないことがらであらう。

 〔底無沼〕同人

 これはかなりによい詩篇である。かうは書けぬものである。よけいなこと(にもなること)を言ふことは常にさしひかへなければならぬのであるが、こゝに私はさかしくも私評を試みる。

 何故、第一節の秋の下に!をつけたのだらう。同じやうに花の下の! 私は、底無沼のほとりが明るくなるさうだ――といふやうなやはらかさがこの詩の全部であつて欲しいと思ふ。私にはこの詩篇の第二節はいらない。そして、第三節の終り花だけがそつとはゝえむだらうよも不用。こゝの節の!も好ましくないくせである。第四節はいたづらに説明すぎる説明でしかない。

 〔電車賃〕三石勝五郎

 この詩篇をいゝものとも、又つまらぬものとも言ふことが出来る。そして、この詩篇をいゝと言ふ場合は、筆者はこの作をよく見知つてゐる場合でなければならない。

 この詩篇に(電車賃)といふ題がついてゐるところから判断すれば、ぐう然こんなよささうなものを書いたものとみなすべきであらう。勿論筆者はこの作者に何の恩も恨みもない。わざわざわるく言つてゐるのではない。

 〔支那水仙〕坂本哲郎

 この詩篇は先づこれだけのものと言つて置くがよささうである。よくもわるくもないからである。よくもわるくもない詩篇を諸君は何んと言つてゐるのだらう。意味は、あつてもなくてもに――似てゐるのである。細評をする必要はないのである。

 〔獄外撒水〕松元実

 テーマそのものがすでに言ひふるされたものである。言ひふるされたゞけで古いとかわるいとかは言はぬ。私は、この作品及びこの種の作品にあまり抒情的でないことを希望する。

 〔風待雲の下で〕竹内隆二

 よい詩篇であるとされるべきであらう。三十数行ものものであるから、その一行右に就て言ふことは略す、詩篇中、幾度もくりかへされてゐることがらをもう少し作者自身で改良すべきことを希望し期待する。

 〔歴史章〕千田光

 コノ作品ノ近クニ欠字ガ一字アル。

 石の上の真青な花や、花から■形するものの中にある厭ふべき色素の骸骨や、緑青を噴いた骸骨を私は大変珍らしく思つた。そして、こちらを向いた美しい首には、拭ふべからざる創痕がある――のところでなるほどなと思つた。つくりものの歴史なのであらう。

 〔DOCUMENTS D’OISEAU〕滝口修造

 この作者のものはよいとされてゐる故、私は先づ敬意を表する。そして辞書がないのでDOCUMENTS D’OISEAU――が何のことなのかわからない。ことをわびる。そして、月評子としてもう少し誰れにでもわかるやうに書いて欲しいことを希望するのである。誰れにもでもわかる必要はないのではあるが、又、私にだけわかつたとしても困らないのであるが、そして実に沢山の出来事(言葉)に驚くばかりであるが、私はこの形体を或る道程としてのみ肯定する。そしてこの努力に驚きと謝意を表するのである。唯、月評子としてかうした仕事は二三人の人達で十分であること、そして、そこに動きのない場合は言を待つまでもない。

 〔夜の沐浴〕目次緋紗子

 女性の作品として、又彼女のこの頃の妙に手紙のはしり書のやうな詩篇にくらぶれば中々に手のこんだ作品として別に難はない。しかし、この作者にこんな作品を見せてもらつたところで今更しかたのないことである。つまらなすぎることなのである。

 〔再び 韃靼海峡と妹〕安西冬衛

 私はこの作者を信じてゐる。そしてこれも亦よい作品なのである。

 私は彼をまねた作品をしばしば見うける。が、それはやめてもらはねばならない。そんなことはむだでもあるし、彼以外にめつたに出来ないことは彼以外にはめつたに出来ない。彼の作品のわかる人はあまりないかも知れない。わかればまねも出来ないのである。私は彼の作品を若い人々へよりも、若くない人々の熟読重読を希望する。

 〔夜の哀歌〕村田春海

 この詩篇は、この美文的であることがわざわひしてゐる。そんなにもわるい作品ではない。

 〔豆腐と貞操〕田中清一

 彼「大根を如何に磨くとも石には変らない!」

 私「大根を如何に磨くとも石には変らない」

 ―――――――――――――――

 彼女は貞操を彼女の生命より愛してゐた。

 貞操とは米飯と漬物である。

――この第二行が三つにも四つにも異つた意味に解しやく出来る。又、生命を愛するといふやうな作者の批判は私にははつきりしないばかりではなく、少しばかりあまい。

 豆腐を別な言葉で言つては詩ではなくなるのではやはり豆腐よりしかたがない。月評子は豆腐に就てたいした智識をもつてゐない。「糞」といふものをあまり特種なものに思ひすぎてゐる。

 第六節は第一節に同じ――。

 第七節は、わざわざこんなことを言ふまでもない。つまり作者は正直すぎる。

 第八節は第七節に同じ――。つまり、わざわざこんなことを言ふまでもない。つまり作者は正直すぎる。

 第九節。彼とは?――。

 〔新婚旅行〕同人

 この詩篇はよい。つまりわるくはない。

 たゞ、美しい雌の美しいは不用。もう一つ、巨大なる蜻蛉の巨大なるは不用。そして(新婚旅行)といふ題がよい題ではない。つまりこの詩篇の第一節第二節は不用なのである。私はこの詩篇を見て、作者が最近よいものを学んだことを知るのである。

 〔強盗と優生学〕同人

 〔生物学〕同人

 共にこの作者のもつわるさであると思ふ。このわるさは罪がないといふ種類のものなのである。たいていのことはたいていの人が知つてゐる――ことに気がつかなければならないのである。

 〔跌坐〕野口米次郎

 西行や芭蕉やミルトンやブラウニングやに跌坐(あぐら)のかきやうを教へたい(教へるかも知れない――と言つてゐるがさうではあるまい)といふのである。二三行でいゝものを十六行も書いて、その中で言訳けをしたり自分にはそれが出来ることを広告したりしてゐる。その変なところが典型的な老東洋人で、これと全く同じ典型さを私の祖父ももつてゐる。

 

    ×

 

 七月は暑い。ダアリヤは赤い。草野心平に子供が生れた。草野へ子供をむすびつけて考へることに私はなれてゐない。彼は子供を愛するであらう。銀座から買つて来た鈴虫が三日目にゐなくなつてしまつた。空のかごを縁側につるしてゐる。

(詩神第五巻第八号 昭和4(1929)年8月発行)

 

[やぶちゃん注:「詩神」第五巻第七号を見るに若くはなしと思われるが、私には現在その余裕がない。文学史的に著名な詩人以外は、名前も知らない人物が多い。従ってネット検索に頼らざるを得ず、不確かな注記記載が多いのはお許し頂きたい。合わせて識者の御教授を乞うものである。

・「福田正夫」(明治261893)年3~昭和271952)年)詩人・作詞家。民衆派詩人として知られる。

・「同じやうに花の下の! 」ここのみエクスクラメンション・マークの後に一字空けがある。

・「三石勝五郎」(明治211888)年~昭和511976)年)詩人・新聞記者。詩集に『散華楽』(大正121923)年新潮社刊)、『火山灰』(大正131924)年新潮社刊)等。

・「ぐう然」はママ。

・「坂本哲郎」詩人。生没年未詳。詩集に『壊滅の歌』(大正111922)年亞細亞公論社刊)等。

・「松元実」(明治36年(1903)年~昭和141939)年)詩人・プロレタリア作家。昭和9(1934)年に「平林彪吾」(ひらばやししょうご)というペン・ネームに改名。小説に「鶏飼ひのコムミュニスト」「砂山」等。病没。

・「竹内隆二」(?~昭和571982)年)詩人。大正121937)年10月発行の詩誌『青騎士』(第26号)に春山行夫・尾崎喜八・山中散生らと並んで名が見える。

・「千田光」(明治411908)年~昭和101935)年)夭折14篇の詩・短文が残るのみ。この「歴史章」は正しくは「歴史(章)」で、アフガン・フリーク氏のブログ「フリークフリーク!日記(古本や!)」の「千田光の花」から1971年1月号「現代詩手帖」(フリーク氏の手で現代仮名遣いに改められている)に所載されたものを以下にコピー・ペーストして引用する。

 

  歴史(章)

 

 石の上の真青な花。花から滅形するものの中に、厭うべき色素の骸骨がある。緑青を噴いた骸骨がある。花に禁じ得ぬ火山灰。

 それは荘厳な動機によって出発する首である。美しい首には、無論、血液の真珠がある。

 こっちを向いた美しい首は、払うべからざる創痕がある。

 そこには幾多の屍がある。白い曠しさ(ママ)が、巌丈な四壁を建てている。惰力を失って、傷?に堕ちた天象。音響の花。

S47月<詩神>第5巻第7号)

 

因みに『傷?』は当該ブログの表記のママである。

・「■形する」底本ではこの「■」は完全な黒塗りつぶしではなく、右上から左下への斜線が細かに引かれた「□」である。前掲の「歴史(章)」の原型によって尾形が指摘している『コノ作品ノ近クニ欠字ガ一字アル』としているのが、やはり直後の『花から■形する』の「■」であり、これは「滅」がその欠字であると理解してよい。尾形はその欠字がこの『つくりものの』詩に皮肉に相応しいと思っており、『コノ作品ノ近クニ欠字ガ一字アル』は尾形風のこの詩への揶揄としてのレスポンスに見える。「曠しさ」は(あらあらしさ)と読むのか、(むなしさ)と読んでいるのか、アフガン・フリーク氏のブログの引用の「傷?」も「?」が如何にもいぶかしいのであるが、尾形亀之助風に言うなら、「なるほどな、読めず分からずでよいのだなと思つた。つくりものの歴史なのであらうから、といふことであらう」――。

・「〔DOCUMENTS D’OISEAU〕滝口修造」“DOCUMENTS D’OISEAU”は杓子定規に訳すならば「鳥の文書(複数形)」であるが謂いは「鳥について」であろう。後年の詩集では本詩の掉尾にある詩句そのままに「鳥たちの記録」という副題を持つ。全体が3段落からなる散文詩で、冒頭『鯉の星座に入った天子は梅の蕊の鏡を覗いて初めて私を知った。 私の頭髪に麦の花を飾って走って行った。 心臓の美しい魚が春になると天使の衣裳を盗むのである。 この実験は蕾がこぼれんばかりの私の指先で行われる。』で始まり、掉尾『ミューズは唯今化粧中であると、鳥たちの記録を見給え。』で締め括られるオートマチスムを意識した詩である(引用は1980年思潮社刊「現代詩読本――15 瀧口修造」の代表詩90選所収のものを用いた)。瀧口修造(明治361903)年~昭和541979)年)はシュールレアリスムの詩人・美術家。フランス語を解せない尾形が、かなりはっきりとしたコンプレクスを示しつつ、正面から瀧口に嚙み付くのをやや躊躇した感じで評しているのが極めて興味深い。私のHPトップに偶然、私が勝手に「扉に羽音」と題した瀧口修造の絵がある。ご覧あれ。

・「目次緋紗子」詩人。生没年未詳。「めじひさこ」と読む。詩集に『風貌』(昭和3(1928)年素人社書屋刊)。

・「安西冬衛」(明治311898)年~昭和401965)年)詩人。本名安西勝。大正131924)年大連で北川冬彦らと詩誌『亜』を創刊、昭和3(1928)年の詩誌『詩と詩論』創刊に加わり、本篇に先立つ昭和4(1929)年4月に東京厚生閣から詩集『軍艦茉莉』を刊行している。その「春」という短詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」は著名で「再び 韃靼海峡と妹」とはそれを受けたもの。ネット上の引用によれば、その一節には「妹の狭い胸に水銀が昂つてゐた。」という詩句がある。

・「村田春海」(むらたはるみ 明治361903)年~昭和121937)年)詩人・ロシア文学者。プーシキンを研究する傍ら、旺盛に詩作もした。昭和4(1929)年マルクス書房から刊行した本邦初訳ゴーリキーの『母』は、文学シーンに大きな影響力を持った。

・「田中清一」(明治331900)年~昭和501975)年)詩人。後に田中喜四郎と改名。本篇初出誌である詩誌『詩神』の出資者である(『詩神』の編集は福田正夫、実務は草野心平や尾形亀之助も馴染みであるし詩誌『銅鑼』の同人だった神谷暢が担当した)。

・「解しやく」はママ。

・「野口米次郎」(明治8(1875)年~昭和221947)年)。明治261893)年18歳で渡米、エドガー・アラン・ポーに傾倒する。明治291896)年処女詩集“Seen and Unseen”を刊行、明治371904)年に帰国し、明治391906)年より慶応大学英文学教授。帰国後は日本の伝統芸術に心酔した。]

 

 

 

    詩集「鶴」を評す(主としてその読者のために)

 

 「鶴」は鶴であらう。だが、この「鶴」は××将軍××戦争ガイセンの帰途朝鮮よりもち来りて奉納せしもので、よく田舎の神社の裏庭などにゐる種の鶴の感じがするのである。

 福士さんはこれの序に、室生君のこの頃の詩は深さを加へて行つてゐると言つてゐられるが、それは当然さうあるべきことであつて、如何に深さを加へたかゞ問題である。又老成といふことは読んで字の如くである。してらざるもあるのであるが、して老成することはごくありふれたことでしかない。すくなくも珍らしいことでも難有いことでもない。詩集「鶴」に就て、詩壇はこれをよい詩集であると批判した。この批判はこの詩集に就て詩壇が全く無批判であることより数倍よいことであつた。しかし、何故よいのであるかを知らうとは気付かなかつたのだと私は思つてゐる。

 私は詩集「鶴」が何故わるいかを、諸君がこの詩集をよいと言つたのと同じ意味で述べなければならない。

 しぶ味のある着物を着たゝめに、その人がしぶ味のある人間になるのであつたら、その人は人といふより着物に近いものなのであるだらう。この著者がステツキをついてゐる場合は、そのステツキが彼にはよすぎるためにステツキと一緒に歩いてゐる感じがするのである。そして、この著者は頰の辺にその緊張を表すのであるが、それが見た眼には如何にも焦燥そのもののやうにうけとれる。どうすれば偉くなれるか――といふ焦燥、遅れまいとする焦燥なのであらう。この人が映画の時評などをするのは、その焦燥であるところの認識不足からくるのである。又、この人の焦燥はこの人をして袴にチヨコレート色の靴(黒でないところがハイカラの意)網の靴下といふ姿で街を歩かせることになるのである。

 老成などといふことは第二に、この人はもつと勉強しなければいけない。前述の映画時評のことに就ても、多少好きであるのかも知れないが、たいしてわかつてはゐない。書けば金になるから、書いてあるから読む人がある――から書くといふだけのことであらう。(文章以前といふ詩の前半に彼の言つてゐるが如くに――多少はあたつてもゐるのである――)

 そして又七十歳八十歳の老人には映画時評が出来ない――つまりは映画時評をやることがしい仕事で、それをやる人も当然新しいといふことになるからであらう。

 又、例へば、彼が自ら作つた庭をこはしたからといつて、その作ることもこはすことも更に価値のあることがらではなく、そのまゝを写生したところがよい作品にはなるまい。子供がツミ木をかさねてくづすのと同じでしかない。彼がもしそれだけですら自身のすることに価値を感じてポウツとするのだつたら、たしかにしよつてゐることになるであらう。

 彼は今他の人々へ教へる(文語るべき)何ものをも持つてはゐない。彼は現在の状態では当然職を失くした失業者でなけれはならない。(表面に立つて仕事などをせずに居食をすべきである。)もし彼が、自身よりもなほわるい人達だつて立派にやつてゐる――といふやうなことを思ふのであつたら、もはやわれわれの路を歩いてゐる人ではない。

 

  ×   ×

 

 我は張り詰めたる氷を愛す。

 斯る切なき思ひを愛す。

 我はその虹のごとく輝けるを見たり。

 斯る花にあらざる花を愛す。

 我は氷の奥にあるものに同感す、

 その剣のごときものの中にある熱情を感ず。

 我はつねに狭小なる人生に住めり、

 その人生の荒涼の中に呻吟せり、

 さればこそ張り詰めたる氷を愛す、

 斯る切なき思ひを愛す。

 

「切なき思ひぞ知る」――この作品は少しばかりの嘘と彼の言葉とで出来あがつてゐる。そのほかにふくまれてゐるのはこれで詩になると思つた彼の経験とでも言ふべきものである。

「老乙女」――思ひあがつたことである。詩を抛つなどといふことや、我がために最後の詩を与へよなどといふことは思ひあがつたことである。彼自身無言のうちにかう思つたのならば幾分同情せぬでもないが、これをそのまゝに一個の新詩篇として見せられるのであつてはかなはぬ。彼にかうした生活があるのならあるやうに他の作品の中に現るべきであるであらう。

「何者ぞ」「埃の中」――共に力のない詩篇である。共に半ばな表現である。「何者ぞ」には足がなく「埃の中」は胴だけしかない。

 

 我は彼女を、蹴飛ばせり。

 曾て彼女の前にうづくまりし我は

 眉を上げて彼女を蹴飛ばせり、

 彼女は蹴飛ばされながら微笑ひ

 追ひ詰められ

 山の上のごときものの上に坐せり、

 彼女はなは自らを護りて坐して笑へり、

 我はなほ彼女を蹴飛ばさんため、

 その山に攀ぢ登らんとす、

 我は足を上げて遂に山を蹴飛ばせり。

 

「彼女」言つてゐることが誠に古い。そしてかうした詩篇には昔ながらに耳くそほどの内容もないのである。かうしたものを「詩」と思ひ込んでゐた人々のゐた時代が昔にあつた。

「文章以前」――文章以前とは如何なる意味であるのか。この詩篇も少しばかりの嘘をもとでににして書いてゐる。前半に就てはこの一文の書き出しに利用した。後半も亦前半に同じいのである。会話として訪ねて行つた人にでも話せばよいのであつて、詩とするまでもないのである。

「彼と我」――これもつまらない。その者は長き髪を垂れ……暗夜とともに没し行けりなどとこけおどかしをしてゐる。こんなことはまねぬがよい。このことばかりではなく、まねることは青年をそのまゝ無能の老年にしてしまふことでゝもある。自分がある以上は自分のものがあるのである。

「星の断章」――夢にでもみたことなのであらうか。それとも星の断章とはかういふのなのだらうか。室生犀星といふサインがあれば如何なる作品でも救はれるであらうか――。

「情熱の射殺」――何んと形容の多いことであらう。そればかりではない。こゝを出発点として詩が書かれるべきなのである。

 

 

 

 己は思ふ

 冬の山々から走つて出る寒い流れが、

 海を指して休む間もなく

 我々の住む人家の岸べを洗つて過ぎるのを思ふ。

 人家の岸べに沿うて瓦やブリキや紙屑が絶えず流れてゆく。

 

 海はかれらを遙か遠くに搬ぶであらう、

 波は知らぬ異境に瓦やブリキを打ちあげて行くだらう、

 そこにも人は住んで岸べにむらがり、

 瓦やブリキを拾ひ上げ打眺めるであらう。

 我々の現世と生活は解かれ記されるであらう。

 その波はまた我々の人家に捲き返し煙れる波を上げ

 遙かに戻り来るものの新鮮さで

 我々を呼びさますであらう。

 我々は答へるであらう。

 そして彼等の言葉であるところのものを、

 朝日の耀く岸辺に佇み読むだらう。

 

「人家の岸辺」――どうも何のことなのだかまるでわからない。下手な童話を読まされてゐるやうなものである。

「垣なき道」――無難ではあるが、うはずつてゐるつまりおちつきがないのである。著者は佳作とでも思つてゐるのであらう。

「友情的なる」――友情的に見てクセのない作品である。何者かに、――この何者かにを作者はわかるだけわかつてゐない。便所に於けるダツプンの如くこゝに書かれてあるに過ぎない。

「我は」――つまらない。大勢のなかには感心する者もあらう。後その人々とこの作者は仲よく同人雑誌でもやるのであらうか。

「断層」大げさな材料である。言ひ表しが誇張されてゐるのは旧式な詩作術のしからしめるためなのであらう。

「彼女」――これとほとんど同じもので、同じやうなものを二十歳を越したばかりの少年が、三四年ほど以前に書いてゐたのを覚えてゐる、そのやうな意味でゝも、読むに堪えないやうな同人雑誌であると思つても、勉強になるのだからがまんをして読んでみるがよいのだ。言はぬことではない――。

「巨鱗」――巨麟とは何を言はふとしてゐるのか、老幹・城・鉄・大木・群・掻・厳・逆立などの字があるがいつかうに「巨」を感じないのである。これは作者が下手でも絵がかけるのだつたら間違つても詩にしてはならないところであつた。

 

 愛すること少なかりし老も老いたり

 老いてなほ愛さんとするものも空しくなりぬ、

 我の汝らに問わんことは汝らの知れるところ、

 我の再び思ひ惑へるところのものも

 汝らの曾ての愛情の中に漂へり、

 我の為すべきことは何か、

 我の愛さんとするものは何ものか、

 我は老いたる汝を突き墜してその記録を滅せんとす、

 愛すること少なかりしものの道を展かんとす。

 

「斯く汝等に語る」――よい詩篇である。立派でもある。もし集中一筋の佳作をも見出し得なかつたら、筆者は自らの頭脳をあやしまなければならなかつたであらう。これで筆者も安心したといふものである。前記十六篇、そしてこの一篇とは、多すぎるは駄作である。本篇終りの一行は駄足なり。

「真実なる思想」――これはいかん。型ばかりで何も言はなかつたからいかんといふのではない。これがどういふわけで詩であるのかを先づ考へてもらひたい。詩作のときに、のぼせたり必要以上に冷静であつたり自身の言葉を神(?)の如く思つたりしてはこまる。

 

詩よ亡ぶるなかれ、

詩よ生涯の中に漂へ、

我が囈言も亡びることなかれ、

我が英気よ運命を折檻せよ、

行き難きを行け、

詩よ滅ぶるなかれ、

我が死にし後も詩よ生きてあれ。

汝の行ふべきものを行へ。

 

「行ふべきもの」――これもいけない。詩聖といふやうなものになつてはいけない。このやうなものはがまんをして書かない方がいい。白い髯があごに生えて来たらそるがよい。

「己の中に見ゆ」――百パアセント人生詩篇とでも言ふべきか誠に古めかしい詩篇である。そしてよいところがちつともないのである。

「十人の母親」――佳篇と言つてしまはふや。こんなものを読まされては可哀いさうに筆者はあきてしまつたのだ。

「メイ・マツカアボーイ」――わるい映画ではない。唯、本篇の題が必らずしもメイ・マツカアポーイでなくとも通用する。コーリンムアーでも又はクララ・ボーでもよいのである。松竹辺のでこでこスターを本篇をもつて飾りたい炭屋の小僧もあるであらう。

「凍えた頭」――これはこれだけの詩篇、よしあしはない。つまり第三者にとつてあつてもなくてもよいのである。唯、その頭があまりよくないといふことだけはわかるのです。

 

  ×

 

 以上で「文章以前」を終る。この篇は集中最も新しい作品であると著者が言つてゐる。私はこれで筆を置く。詩集の約五分の一である。この他「大山脈の下」「朝日をよめる歌」「雲と雲との間」「鶴」「――」「――」――などの九篇二百頁の大さつである。

 

 

 (附記)

 春山行夫は『「鶴」を評す』の一文を「詩と詩論」は若い人のためになるための雑誌であるから掲載出来ないと言つてよこした。私はそれに感心出来ないと返事を書いた。「詩と詩論」及び春山行夫君の仕事に就て私は私自身の批判をもつてゐる。ニツケのピースでもなめるやうに、小々滑稽なことではあるが、彼に対する侮辱でない意味で私は彼の顔の前で舌を出してもいゝのである。

 

  ×

 

 又、大変間のぬけた話であるが、私が「氾濫」の仲間の一人になることをあまり恰好でないといふやぅな意味のことを言つた友人がゐる。それが誰であったのか思ひ出せないのだが困つたことを言ふものだと私は思ふ。「氾濫」だからといつて何も一つ川の水だといふのではなからうに。そして佐藤のやう肥つたのや藤井といふ大きいのや赤松といふ瘠たのや福富など眼鏡をかけたのや神戸といふ色の白いのや鳥山だとかその他誰が同人なのか知らないのだがまだその他の色々なのがてんでに鼻唄を唄ふのだ。その中にまじつて私がやつぱり鼻唄かなんかやつてゐたところで何んでもないではないか。どうせあまり悧口でないのがそろつてゐる国なのだ。勿論、時折休刊したところで、真面目になつてそれに反対するとか、ふんがいするとかといふ人物もまあない筈だ。私が真面目になつて何か例へば自由詩の講座をやり出したところが同人の誰もが何んとも言はないのだからうれしい(何がうれしいのか少し変)のだし、規約があつたとしてもこの人達には役に立たないといふことも少しは面白いではないか。さよなら。

(氾濫再刊号 昭和4(1929)年10月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は室生犀星(明治221889)年~昭和371962)年)が昭和3(1928)年に素人社書屋から刊行した詩集『鶴』の詩評である。著作権は存続しているが、本詩集は国文学研究資料館の「近代書誌データベース」の詩集『鶴』の画像(高知市民図書館近森文庫蔵)でその全ページを閲覧出来る(以下の引用はそれを元にした)。本篇は底本とした1999年の増補改訂版「尾形亀之助全集」の増補された補遺に掲載されている。底本では引用詩部分はポイント落ちとなっている。

・「××将軍××戦争ガイセンよりもち来りて奉納せしもので、よく田舎の神社の裏庭などにゐる種の鶴の感じがする」は、「乃木将軍日露戦争凱旋」か。検閲によるものか、或いは筆者又は出版社による自主的伏字かは不明。後半部はまず、装丁者恩地孝四郎描く表紙及び背表紙にかかった如何にも図案化された化鳥(私にはそう見える)みたような鶴を指していよう。更には詩集題名となっている「鶴」の詩の持っている雰囲気――昔からよく出会う夢の中の自分を教えるような位置にいる婦人、梅の香と老木故の嗜好、それが自分の田舎女の母映像と重なるエスキース風の詩の雰囲気を揶揄しているものとも思われる。

・「福士さん」福士幸次郎(明治221889)~昭和211946)年)詩人。佐藤紅緑(こうろく)門下。大正3(1914)年に口語自由詩の処女詩集『太陽の子』を自費出版。文芸の地方主義・方言詩を提唱した。

・「室生君のこの頃の詩は深さを加へて行つてゐると言つてゐられるが、それは当然さうあるべきことであつて、如何に深さを加へたかゞ問題である。又老成といふことは読んで字の如くである。老して成らざるもあるのであるが、老して老成することはごくありふれたことでしかない。すくなくも珍らしいことでも難有いことでもない。」『鶴』の序文冒頭で福士幸次郎は『室生君のこの頃の詩は深さを加へて行つてゐる』と記し、以下、『けはしい』程、『人間世界の暗さに』貫入している、『あるものは險惡』、『あるものは森巖』、ともかくも『そのどれにせよ一流の行き方をしてゐる。』と結んでいるのを、皮肉に受けている。尾形の叙述はあたかも「老成」という語を福士が序文で用いているような錯覚を思わせる、不用意な書き方である。

 

・「文章以前といふ詩の前半に彼の言つてゐるが如くに」詩「文章以前」は二連からなる。

 

その第一連原典は以下の通り。

自分は行き詰つてゐるやうだが、

何時の間にか茫々たる何處かの道に出てゐる。

自分はもう書けないかと惑ひながら

やはり何物かを書いてゐる。

自分は書くごとに何かを發見けて行く

文章なぞ自分には既う要らないことに氣がつく。

 

「発見」には傍点があり、その傍点は「○」である。「發見けて」は「みつけて」、「既う」は「もう」と読む。

 

・「例へば、彼が自ら作つた庭をこはしたからといつて、……」これは恐らく室生がこの詩集の巻頭口絵に自分の家の庭の写真を掲載し、それに『過去の庭園』というタイトルを附していることを揶揄したものである。

・『「切なき思ひぞ知る」』尾形は全詩を引用している。文字に誤りはないが、6行目の末は句点ではなく読点である。

 × その剣のごときものの中にある熱情を感ず。

 ○ その剣のごときものの中にある熱情を感ず、

逆に9行目の末は読点ではなく句点である(「剣」は原典では「劍」)。

 × さればこそ張り詰めたる氷を愛す、

 ○ さればこそ張り詰めたる氷を愛す。

苟しくもこれほど完膚無き迄の酷評をするならば、引用はせめて正しくすべきである。それが読解した上での正しき反論の在り方である、と私は思う。その点で尾形亀之助は正しく低劣な礼儀知らずである、と私は思う。

 

・『「老乙女」』は「をいたるをとめ」と読む。その冒頭で犀星は『我は詩を抛たんとす。』と叫び、枯れ老いた森羅万象に接しながら詩想が湧き上がらないことを焦燥、その最後を

 

我の唯切に念ふは

我がために最後の詩を與へよ

滅びゆく美を與へよ

いま一度我を呼ぶものに會はしめよ、

寒流を泳がむことを辭せず、

いま一度會はしめよ

老いたる乙女のごとき詩よ立ち還れ。

 

という詩句で閉じたもの。「老乙女」は老いたる(枯渇した)ミューズの謂い。

 

・『「彼女」』全詩誤りなく引用している。この彼女もミューズ。

・「後半も亦前半に同じいのである。会話として訪ねて行つた人にでも話せばよいのであつて、詩とするまでもないのである。」全二連の「文章以前」第二連は、先に掲げた第一連のスランプの詩人が冬の道端で、鋭い枝が塀の上に突き出てゐるのを見つけて、

 

自分に要るのは此の鋭い枝だけだ、

枝と自分との對陣してゐる時が消えてしまへば、

もう自分の文章も詩も滅びた後だ。

 

と結んでいる。

 

・「その者は長き髪を垂れ……暗夜とともに没し行けり」は、間に「……」を挟むために誤解されるが、原詩では分離した詩句ではなく、冒頭の4行を示せば、

 

我は何者かと我が有てるものを交換せり。

その者は長き髮を垂れ

暗夜とともに没し行けり。

常に星のごとく明滅す。

 

と、おどおおどろしい何者かと『死のごとく苦しきものを交換』したと終わる。この詩、尾形ならずとも、なんじゃ、こりゃ? と言いたくなる代物である。

 

・「人家の岸辺」全詩が引用されている。

2行目の末尾には読点はない。

 × 冬の山々から走つて出る寒い流れが、

 ○ 冬の山々から走つて出る寒い流れが

第二連の3行目も末尾に読点はない。

 × そこにも人は住んで岸べにむらがり、

 ○ そこにも人は住んで岸べにむらがり

第二連6行目の「煙」は字が違う。

 × その波はまた我々の人家に捲き返し煙れる波を上げ

 ○ その波はまた我々の人家に捲き返し烟れる波を上げ

 

・『「彼女」』たった4行の詩である。彼女は『ヤサシキ』建築を持ってい、この世の終末にあっても『そのヤサシサは亡びず』、『彼女は菫のごとく匂へり、』と終る(読点はママ)。

・『「斯く汝等に語る」』1行目の末尾の読点が脱落している。

 × 愛すること少なかりし老も老いたり

 ○ 愛すること少なかりし老も老いたり、

3行目の「問わん」「問ねん」(たづねん)の衍字。

 × 我の汝らに問わんことは汝らの知れるところ、

 ○ 我の汝らに問ねんことは汝らの知れるところ、

終わりから2行目の「て」は衍字。

 × 我は老いたる汝を突き墜してその記録を滅せんとす、

 ○ 我は老いたる汝を突き墜しその記録を滅せんとす、

因みに前掲の「近代書誌デーベース」の詩集『鶴』のコンテンツのリンクには不具合がある。該当詩は43コマ目で表示される。更に蛇足するならば、私はこの詩を佳篇とは思わない。

・『「メイ・マツカアボーイ」』はアメリカの女優の名前(映画の題名ではない)。May NcAvoy18991984)。原詩から見て、ここで室生が詠っているのは彼女が出演した1925年公開のオスカー・ワイルド原作エルンスト・ルビッチ監督作品“Lady windermere's Fan”(ウインダミア夫人の扇)と思われる。本映画は“Comedy of Manners”(風俗喜劇)の傑作とされる作品である。

・『以上で「文章以前」を終る。この篇は集中最も新しい作品であると著者が言つてゐる』『鶴』自序に『卷頭の詩から頁を追うて製作の順位を示した。即ち卷頭の諸作品が最も新し』い、とある。

・「春山行夫」(明治351902)年~平成6(1994)年)詩人・評論家。本名市橋渉(わたる)。モダニズムからダダ・未来派・シュールレアリスム・フォルマリスムといったあらゆる近代詩の思潮を走り抜けた。『青騎士』『詩と詩論』(昭和31928)年創刊)『セルパン』などの著名な詩誌の創刊・編集でも活躍した。

・『「氾濫」』は岡山出身の僧職の詩人赤松月船(生田長江門下)が主宰した同人詩誌『朝』が改題した『氾濫』を指す。木山捷平・サトーハチロー・草野心平らもこの同人であった。

・「佐藤のやう肥つたのや」はママ。「佐藤のやう〔に〕肥つたのや」の脱字であろう。「佐藤」はサトウハチローか。

・「藤井」詩人藤井清士(生没年未詳)か。恐らく翻訳家でもある。

・「福富」詩人福富菁児(生没年未詳)か。大杉栄らとも関係があったアバンギャルド詩人である。

・「神戸」詩人神戸雄一(明治351902)年~昭和291954)年)であろう。偶然であるが、彼には晩年死を予感して詠んだ「鶴」という絶唱がある。

・「鳥山」不詳。『氾濫』についての識者の御教授を乞う。

・「ふんがい」はママ。]

 

 

 

    童心とはひどい

 

 どうにもこの一文を草さなければならないといふのではない。ほうつて置いてもいゝのではあるが、又こんなことをすることは現代に於ては少々親切すぎるといふ旧式なことでもあるのだらうが、私の注意に何んと彼が答へるか通りがかりの諸君は一瞥をなさるがよい。

 詩神十月号に北川冬彦君は拙著詩集「雨になる朝」の批評をしてゐるのであるが、困つたことには彼は私のそれらの作品を或程度否定しなければならない立場にゐるのだ。そして、その否定の方法として彼は私のものを「童心」であるから旧いといふのである。かつては村山君や神原泰君と一緒に「マヴオ」などの仕事をしたところ私は当然北川君などと肩を列らべるほど元気(?) のある新しい(?)仕事をしてゐなければならないのにといふ(或ひはもつと(?)新らしい芸術(?)でなければならぬといふ)意味を述べて、私にもつと元気を出せと彼も亦なかなか親切なのである。

 思ふに、現在では、「童心」とは田舎の小学校の先生が童謡などのセイ作の折りに「苦心」するそれを指して言ふべきであるのかも知れない。が、全く、如何なる場合に於てももはや現在のわれわれの間には「童心」といふ言葉がはめた意味では存在しないことは、北川君の「童心」をもつ詩人は旧いと言つてゐることに同じなのであるが、彼の言ふところの 「童心」が詩集「雨になる朝」のどこに発見し得るといふのであらう。私は自分の芸術を新らしいと思つたことは一度もないのであるから、旧いと言はれることに何の反感ももたない。が、それが「童心」の故であるとあつてはいささか反駁をなさゞるを得ない。も一度その「雨になる朝」を読み直してもらひたい。私は、北川君には詩がわからないのだといふやうなあくたれをきゝたくない。「童心」といふものを嫌ふ意味に於ては私も北川君にまけないのであるから、間違つても「童心」などと言つてもらひたくないものだ。「童心」とは一茶良寛さんの頃のものであつて、すくなくとも暮鳥さん以後に於ては「童心」の芸術などあつてはならぬのだ。

 この一文が「詩と詩論」に言及することはうるさいのがいやだからいやなのであるが、その頃流行といふことにはならなかつたが(それだけよかつたのであるが)六七年以前に、私は今年の二科会などの超現実主義的と言はれる作品よりもつとさうである仕事をしてきてゐるのだし、「詩」作にも現在の「詩と詩論」の同人諸君の作品のそれに同じいものをもして来てゐる。つまり私はそれらのことをすでに経験して来てゐる。こんなことをわざわざ言ふことはテレ臭いことであるが、私が彼等より新らしいと言ふ意味にではなく、私がもう種痘をしてゐるといふ意味でのみ述べてゐる次第である。たゞ断つて置くが、その頃でさへ楽器と言つてピアノの形などを、ねぎぼう主といつて白い少女といふ活字を列らべる、又は粟が「ぶた」に似ているといふやうないたづらに似たことは発表することを何んとなく恥じたものであつた。

 又、北川君は私が足り過ぎる生活にわざわひされてゐると言つてゐる。おそらく物質のことを指すのであるのだらう。が、もう少し頭を働かして欲しい。もつとたしかめてから言つて欲しい。「詩と詩論」の運動が現在のやうな影響を他にあたへてゐることは、かつて短詩型の運動が何時もともなつてゐた「困つたこと」と同じことであることを残念に思つてゐる。そして「詩と詩論」が何時までたつても翻訳的でしかないことを私は残念に思つてゐる。そして、この一文が私の愚かさや学問のないことをさらけだしたことにとゞまるといふことになる方がよいのであつて、更にお互(?)がこれにわをかけた愚かさをばくろするが如き論争になることを私はさけたいのだ。(私はそれを北川君よりも春山君へより多くを希望する。)

(詩神第五巻第十一号 昭和4(1929)年11月発行)

 

[やぶちゃん注:彼の剥き出しの神経に触れた、その焦燥(いらだち)がよく現れた文章である。故に特にその瑣末な歴史的仮名遣の誤りや平仮名表記を指摘しない。本作は尾形亀之助がこの年の5月に刊行した第二詩集『雨になる朝』に対する北川冬彦の評に対する反駁文である(尤も正面切って辛辣であったから北川が選ばれたに過ぎず、恐らくはその他の多くの人々の不評も神経症的に反映されたものである)。それは同じ発表誌に並んでしまった以下のような評であった(引用は秋元潔「評伝尾形亀之助」より孫引き)。

詩集『雨になる朝』にあらはれた尾形龜之助氏は、季節の移り變りや、日ざしの濃淡や、 庭や垣の気配、雨だの、煙草だの、すべて靜かな、細かい生活環境の日常に、魅力を感じてゐる。(中略)しかも、それを樂しんでゐる。『童心』を以て眺めてゐる」「尾形亀之助氏が『雨になる朝』の境地に住むのは、あまりに生活に餘裕がありすぎたからである。生活の餘裕が尾形龜之助氏を、かうも退嬰的な境地へ引き籠らせてゐるのである。もしも尾形龜之助氏が、生活と闘はなけれはならなかつたとしたら、彼はどうなつてゐたらうか。吃度、このやうな境地にはゐないに違ひない」(北川冬彦「雑感一束」:『詩と詩論』昭和4(1929)年12月発行)

 「詩集『雨になる朝』にあらはれた尾形龜之助の『童心』は純粋である。それは、まさに北原白秋のそれ以上のものである。(中略)詩術に於ても」(北川冬彦「詩集『雨になる朝』について」:『詩神』第五巻第十一号 昭和4(1929)年11月発行)

先に掲げた「さびしい人生興奮」の中で、尾形は本詩集「雨になる朝」について、

 私はこの詩集をいそいで読んでほしくないと思つてゐる。本箱のすみへでもほうり込んで置いて、思ひ出したら見るといふことにしてもらひたい。

と言っている。尾形がこの時期の政治的季節に突入した愚劣な詩壇の趨勢から、自身が指弾されるであろうことを体感はしていたようだ。しかし、まさか自身が芸術家・詩人として終始『戦友』であったはずの北川や草野(秋元氏の同書から引用すると、草野心平は同じ『詩神』第五巻第十一号「尾形亀之助」で、次のように言っている。「尾形は『色ガラスの街』から尾形なりの墜落をしてきた。尾形なりの眼をひらいた。……(略)……これからが彼の正面切つての戰ひである。彼は『色ガラスの街』が暗示するように、日本の非現實的詩人の超弩級であつた。それに後髮をひかれない彼であらうか。吾々はその彼を正しく視そして肯定しそして侮蔑する」)が、見当違いな物謂いをしかけてくるとは思っていなかったのであろう(ということ自体が彼のお目出度い人の良さでもあった。しかし、北川の悪意に満ちた物謂い、草野のその「後髮」や「侮蔑」という狡猾な表現には、正直、私は吐き気を催す。彼等は戦中とは違った意味で『バスに乗り遅れまい』としたのではなかったか)。いや、尾形がここで如何にも苛立ちながら、舌足らずに述べている「翻訳的」という語は、実は詩や詩論が常に政治的・社会的・道徳的に自動翻訳されてしまう、現代へと通底する問題を提起しているように私には思えてならないのである。]

 

 

    宮崎孝政論

 

 おゝ宮崎孝政論……どんな結末になることであらう。俺達(勿論その中に宮崎もゐるのだ)の中では、新らしい下駄と新らしい帽子と新らしい着物を同時に体につけるといふことは何年にもないことなのであるから、今この一文を書くに際してあわてゝ宮崎に他行の着物を着てもらつたところが何時もの彼と少しも変りがないのである。それなのに、あらたまつて彼を論じなければならぬといふので「やあ――」といふことなどになつて、私と彼がどこかその辺のカフエへ入つてしまつて十二時が一時近くならなければ出て来ないやうなことであつては困るのだとは、まあそれもしかたのないことゝして、せめて彼と相談でもしながらこの一文を書きたいのであるがそれも出来ぬことであるとは、なんと思ひもかけぬ不しあわせなことであらう。

 だが、如何に私のものする宮崎孝政論であつてみても論とかいふからにはすくなくともかなりに正確でなければならぬのであらう。そこで私は積極的に彼を云々して間違ひだらけの批評をするよりは、宮崎からちよつとも離れずに筆を運んでゆくたしかな方法をとるのである。即ち私は直接に彼の芸術を云々すること少くして規定の枚数を越してしまへばよいわけなのである。かりにも一個の人間を論じて、その作品を上手だとか下手だとか言ふことは全くコケ者の弁舌であつて、おそらくはその筆者がなんと言つてよいのかわからなくなつてからの批判でしかないのであらう。又、第三者の眼になれぬことであるからといつて、宮崎孝政のすることが宮崎孝政らしくないといふことは一つとしてあり得ないのである。

 詩人としての彼は勿論他の誰にでもあるやうにいくつかの短所をもつてゐるのであらう。だが、それらの短所はひとつとして彼自身には欠点とはならぬのである。この不思議は彼の強力な自信がなすのであるが、このことなどがいつも私をうれしがらせるのである。そんなわけで、彼は沢山のよいところをもつてゐるのであるが、彼の作品が時には人間の息をしてゐるといふことも立派にその一つなのであるが、彼のその一つ一つを列きよして困難な言葉で私が無理に諸君に説明しなければならないわけのないことは当然なことであらう。それこそ彼自身によつて心ゆくまで彼の手でなされるべきであるだらう。彼は詩人としては既に定評があり、最近は「鯉」といふ第二詩集を出版したのだ。私が彼に就て論ずるべき何ものをも残さずに、彼はその全部を彼自身でなしてゐるのである。

 

 又、彼のことを鋼だとか岩のやうだとか松の木の株だとか古武士の面影だとか魚類であれば大きいさざえだとかそれから獣類ならなんだとか言ふのである。が、宮崎孝政とは、宮益坂の上の松友館の二階の部屋に一人で炬燵に入つてゐたり、肉鍋屋でやさしい顔をしてゐたり、橙一郎と肩を列らべて歩いてみたり、勿論その他何か胸にこたへて眼をむいてゐたり、久しぶりで詩を一つものしたときの、何か腹をたててゐるときの、郷里からの便りを読んでゐるときの――、鉱物でも魚類でも面影でもない、何に例へることも出来得ない宮崎孝政その人でなけれはならないのである。

 彼は他の人々の作品に就てはほとんどそのよしあしをロにしないが、それは彼の用心深さを示すのである。彼は又、彼の作品に対しての他の人々の評言にはその人のいゝやうに言はして置けばよいと言ふ一つのきまりを用意してゐるのである。それは言ふといふ――他に言ふことであつて、彼自身のそれに対しての耳はその言ふこととは相違のある何か(これは彼の大切な秘密)なのである、この彼の大切な秘密とはなんであるか。秘密とは「心」のことであり、彼の強力な自信と関係のあることであらう。だが、その心は彼の胸の中にあつてこそ相当の値があるのであつて、こゝに鈍刀をふりかざして諸君の眼前に彼の胸を切り開いたところで、諸君は何ものをも眼にみることは出来ぬであらう。諸君のために色をつけ、言葉を飾つて心を語ることは、青色の色紙を諸君に示して「この紙は青を塗る前は白かつたのだ」といふやうなことにしかならぬのである。勿論賢明なる諸君であるからには、白以外のあらゆる色を諸君に示して「こゝにない色が即ち白である」といふ方法もあるのであるがそれが玉手箱の如きものであるからには蓋をあけて諸君を白髪の爺としてしまつてはならぬのだ。又、「宮崎孝政の玉手箱」こんな言葉も誤り伝へられあまつさへはやり出したりなどしてはならぬのだ。

(詩神第五巻第十一号 昭和41929)年11月発行)

 

[やぶちゃん注:宮崎孝政(明治331900)年~昭和521977)年)は教員をしながら詩作、大正101921)年に『現代詩歌』誌上で詩壇デビュー。盟友であった詩人杉江重英(明治301897)年~昭和311956)年)らが創刊した詩誌『森林』同人となる。大正151926)年には教職を辞して上京、本篇所載の『詩神』に拠る。同年9月に処女詩集『風』(森林社)より刊行、昭和3(1928)年には、実は『詩神』の編集に辣腕を揮っており、ここで尾形も述べている通り、早くもこの昭和4(1929)年9月には第二詩集『鯉』(鯉発行所)を刊行していた。そうした身内の雰囲気がこの狙ったように一見冗漫な詩人論には漂っている。戦後は昭和281953)年に発表した作品を最後に筆を折った。

・「列きよ」はママ。

・「松友館」未詳。『詩神』の編集室が渋谷宮益坂のこのビルにあったか。私には大学時代に通った友のバイトする珈琲店のあった懐かしい場所だ。

・「橙一郎」月原橙一郎(明治351902)年~?)は詩人。本名、原嘉章。詩集『冬扇』(昭和3(1928)年大地舎刊)等。]

 

 

 

    彼、彼と私と其の他の人

 

 私は世事にうとい(けんそんでなくもある)。又、「自分のこれからに就いても何もわかつてはゐないのだから、自分以外の人事にはなほのことわからない」といふことでもある。雨が降つてゐれは雨が降つてゐると思ひ、暗くなつてしまへば夜になつたのだと思ふ、他はこんなに暗いのに電燈が遅いとか、路が悪いだらうとかその位のことしか私は考へてはゐない。それにこの頃は寝床なども敷いたまゝ勿論部屋の掃除もしないし、めつたなことに顔も洗はない。(そんなことが自分が今何を書いていゝのかわからないのとどうなのかわからないのだが)鉛筆ならナメて考へこむところなのだと思つたり、煙草の火の消えてゐるのに気づいたり、雨(丁度降つてゐる)が……と思つてみたり、――。三十日までにといふのを忘れてゐてその後二度も注意されて、又それを忘れてゐたのをもう一度注意をされて今度こそはと思つてペンを握つたまでは兎に角まがりなりにもはつきりしてゐるのだが、だが何を書……といふことになると、又、煙草の火の消えてゐるのに気づいたり雨がと思つたりをくりかへさなければならない。

 私は「詩神十一月号の宮崎孝政論を諸君が如何に解したか」といふことを主にしてこの一文を書くことにきめた。そして、こゝから稿を新らしく起さなけれはならないのだが、つゞけて書かうといふ気になつた。つゞけてと言つても、前の方には何も書けてはゐないのであるけれども、何か大いに書きまくつたことにしてこれからを書き加へるのだ。――宮崎孝政は私と同年の生れである。彼も私も三十なのだ。だから、彼が私よりフケて見えるとしても、それは年よりも私が若く見えるのかよりも彼がフケて見えるのか、年よりも私がフケて見えるにもかゝはらず彼が私よりフケて見えるのかどうなのか、又彼が年よりも若く見えるのに私が彼よりももつと若く見えるのか、それはそれとして彼ばかりがよい詩人で私はいつかうさうでないといふこともないのだ。何故ならば、この一文は彼と私の比較のためのものではないのだし、わざわざ彼をよい詩人だといふことを諸君に知らせるためのものでもないからであるからである。

 彼宮崎孝政は、詩集「鯉」の著者宮崎孝政でもあり「鯉」といふ詩集の著者宮崎孝政でもあるし宮崎孝政といふ詩集「鯉」の著者なのでもあるのでもあらう。これからの「宮崎孝政」はそれだけの動かない宮崎孝政でしかない。私達がもし彼の友人であるならば、私達はもはや(或はいつまでもいつまでも)詩集「鯉」の著者としての「宮崎孝政」を主にして宮崎孝政を批判してはならない。又、宮崎孝政自身は、馬鹿ばかりが大勢ゐる誠にセマイ現詩壇からはみ出すやうな仕事をしなけれはならないのであります。

(感想集「詩集鯉とその著者について」 昭和4(1929)年12月発行)

 

[やぶちゃん注:これは昭和4(1929)年9月に発行された宮崎義政の第二詩集『鯉』の刊行記念文集である。前篇に現れた原嘉章(月原橙一郎の本名)の編集で茨花社から発行されている。執筆者は岡本潤・高村光太郎・百田宗治・杉江重英・白鳥省吾・小野十三郎・佐藤惣之助・萩原恭次郎ら錚々たる面々である。「けんそん」「セマイ」はママ。前篇に輪を懸けた確信犯的冗漫叙述である。]

 

 

 

    一九二九年に発表せる私の詩に就いて

 

 実にくだらぬものばかりです。有難いことにはその数が誠に少なかつた。

 老年に近づけば近づくだけづつわるくなるばかりだ。

(詩神第五巻第十二号 昭和4(1929)年12月発行)

 

 

 

    身辺雑記

 

 九月、十月、それから十一月とはなつた。隣家の門にからんだ蔦が這つて来て庭の一間ほどの竹垣で海老茶に枯れてゐる。雨が降る度に天井と畳と障子がぬれる。引越すつもりであつたが、そのうちには引越すことになつてしまつた。何のことはないのである。

 

    ×

 

 こゝに一つの変な文章がある。或る描写論なのである。私はその一部を書き写して「左の一文を解釈せよ」といふやうなことで薄謝を呈することにして何処かの雑誌に掲載するつもりであつた。が、金がなくなつたので中止することになつた。審査は春山行夫君にたのむつもりであつた。で、薄謝を呈することが出来得なくなつたが、せつかく思ひついたことがらであるから、その変な文章の初め二三行を書き写す。興ある読者はひまをつぶされるがよい。

 「描写は決定することに成功してそこにそれが結合されるに到つたまで描写することがあるやうにせんがため描写を研究しながら、そして描写のなかにある。研究等描写は建築であるところのものである魅惑によるに到るまで栽培の場合に於て一個として描写された。そしてかく描写の研究はのみならずまた完成されずしかも描写として理解されてゐる。それを全体何もないやうに…………………」

 

    ×

 

 「氾濫の再刊の言葉」はすこぶるふるつてゐる。私は「氾濫」の同人の一人であるために、そのふるつてゐるすこぶるさに頭をかゝへてしまつた。

 四五日前、月船君が訪れて来たのでそのハンバク文を書くと言つたら「困るよー」といふことであつた。「氾濫」は再刊する最初のモノがなくなつてゐるのだから私はどうでもいゝとは思つてゐたが、私の「鶴」を評する一文を「何故月船君が同誌に掲載させたのだらう」と室生犀星が思つたらうといふ月船君の話に、私は何のことだ機会があつたら同人をやめることだと思つた。

 こんなことを書いたのは月船君へのあてつけではない。すみ心地のわるい詩壇であるといふことである。

 

    ×

 

 私の詩集「色ガラスの街」が五十部ほど残つてゐる。売つてしまひたい。今度引越のときは焼き捨てゝしまふつもり。贈呈してまで読んでもらうつもりは更にないからである。次に今年の五月に出した「雨になる朝」は七百部も刷つたのでまだ沢山残つてゐることだらうと思ふ。これも売りつくしたいものだと思つてゐる。「色ガラスの街」は五百部刷つて三百五十部ほど売つたのであつた。

 秋も末。金が欲しいと思つてゐることなのである。

 

    ×

 

 この一年僅七篇の詩作しかなかつた。そんなわけでもあるまいが、詩壇的な交際は一切さけたいと思ふやうになつた。

 

(一九二九、一一、九)

(南方詩人 昭和5(1930)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:「贈呈してまで読んでもらう」の「もらう」はママ。「氾濫」及び「月船」は岡山出身の僧職の詩人赤松月船(生田長江門下)、彼が主宰した同人詩誌『朝』が改題した『氾濫』を指す。木山捷平・サトーハチロー・草野心平らもこの同人であった。]

 

 

 

    <「現代詩人全集」に入れる人にして吾々の詩壇にまで生きのびると思ふ人は誰々か>

 

 ごぶさたしてゐます。現代詩人全集に誰と誰が書いてゐるのかを知つてゐませんので、われわれの詩壇(?)にまで生きのびるのかわかりませんです。たいへんうかつでゐてすみません。

(<詩文学>昭和5(1930)年2月発行)

 

[やぶちゃん注:この『詩文学』なる雑誌の書誌がよく分からないので如何とも言い難いのであるが、この頃に刊行途中であった『現代詩人全集』というのは新潮社のものを指すか。「うかつ」はママ。]

 

 

 

    大至急左の詩集の批評をせよとの「悲しきパン」「叛く」「雲に鳥」「蒼馬を見たり」「真冬」「全日本詩集」の指定を快諾、更に加へてかなしくも人生を語る

 

 先づ私が非常に愉快になつてしまつたといふことを述べなければならない。勿論いゝきげん(酒ではない)なのでもある。「悲しきパン」は野長瀬正夫、「叛く」竹内てるよ、「雲に鳥」は佐藤清、「蒼馬を見たり」林芙美子、「真冬」は渋谷栄一。「全日本詩集」は詩壇百四十数家よりなるものである。私はこれらを十枚で書かなければならないのであるが、私は更に加へてかなしき人生などを語つて御高評に給するのである。つとめて悪評などせぬことはすでに読者知るところであるし、愉快でもなければ私はこんなことはなかなかしないことだらう。愉快で書くといふ為めのオチド其の他もし無礼などのあつた場合はよろしく許されよ。「悲しきパン」野長瀬正夫とは丁度昨夜の烈風々景の会でテーブルの差し向ひであつた。昨夜は、宮崎、橙一郎、「真冬」の栄一の諸君にも逢つた。春月さんもゐた。まだ大勢ゐたがさう急には思ひ出せぬ。そして電車がなくなつてから帰宅、玄関にこの一文を依頼するといふ手紙が落ちてゐたといふ次第である。開封してこれは大変だと思つたのであつたが、瞬間に前述の「愉快」がこみあげてきたのである。つまらぬことを書いてゐて紙数をなくすなどといふ心配は不用。十枚四千字はまだまだ残り少くない。渋谷にしても野長瀬にしても、今日私が彼等の著書を批評しやうなどとは思つてはゐないのだ。おかしいことだ。

 「悲しきパン」はプロレタリヤ抒情詩集とある。表紙には二階の窓から手を出した人間がはみ出し、大都会の背景に煙突が立ち、煙突の上に太陽が光つてゐる赤い木版がある。とびらには「此の詩集をやさしき友等への感謝と私信に代へて 正夫」とある。いくら抒情詩集であるといつても、このやさしきの文字はやたらにはあるまい。先づ諸君はこの著書のとびらに十分の注意をしなければならぬ。岡本の跋詩は相変らずうれしいものである。この集の中に批評といふことを私に考へさせない、そのまゝを好いてゐる詩篇を三四もつてゐる。それがどれとどれであるかをこの著者に知らせることは好ましいことではない。それは野長瀬正夫自身が尾形といふ野郎の好いてゐるのはこれだなと(こんなものなのか――といふ意味をもふくんでゐれば尚のことよいことなのだ)いふひとつの間違ひのない見通をつけることが必要であるからである。勿論このことは彼の全ての友人不友人にもあてはめてもらひたい。いらざることゝして、詩境もかなりよく技巧もそれに相当であることを附け加へて置かう。唯言ひたい放題のことを書けばよい――ときに、如何なる表現が一番それによいかといふことをもつと考へて欲しい。たやすく書ける詩であつてもそのためにたやすくなく書いて欲しいのだ。昨夜私は君にパンに対するセンチメンタルはいけないなどと言つたことを思ひ出した。馬を少しやすめてやるために犬を馬ほどの大きさにしてそのかはりにしたいと思つてゐたことを、夢に見たなどといふ間のぬけた話は何んとなく恥かしがつてしないでしまつたことも思ひ出した。

 「叛く」この詩集はその一つ一つを批評すべきではない。彼女が死にかけてゐるために「竹内てるよを死なせない為の会」のあることは有名である。私は此頃人間のその一人一人が無意識のうちに生まれてゐた事実に対しては、自殺的に(それもなし得るだけ少しでも早く)死ななけれはならないのだといふことを信じてゐるその為に、「誰々を死なせぬための会」の趣意には多くの相異をもつてゐる。事、人情に関することがらであるから私のかうした言葉は同時に多くの非難を受けることであらう。が、死にかけてゐるといふことも、私のかうしたものも共に人間のもつかなしみであるのだらう。生きなけれはならないと自らを思ふにはあまりに時間やそれによつて生ずる人間の多すぎることである。又、各自思ふやうにはならぬことに何かそのことにうらみのやうなもの執念のやうなもの、もつと異つたものでは大将になりたいとか大臣になりたいとかいふものは人間の何なのであらう。こんなことは詩集「叛く」の批評にはならぬが、この著者にも聞いて欲しいと思ふ。自分の為に「死なせない為の会」などのあることをあじけないことに思つてもらひたいと思ふのである。

 かうした一文を書きすゝむ間々には、私はいくつかの矛盾を生ずることであらう。しかし、それは生ずるまゝに私はこれを書き終るつもりであるし、自分に多くの矛盾のあることは私には隠すまでもないことである。短時間に於てさへ隠しきれぬ矛盾、つまり矛盾とは「滑稽」といふことであるのではないか。

 「雲に鳥」の著者は「詩は韻文で書く」と言ふ。このことに就て、誰がそれはいけないことだと言ふのだらう。断るまでもなく「どうぞ」と誰れもが言ふであらう。韻文で書かれたもの以外に「詩」といふものがないならば、かうしたことを言ふ人もないであらうことはこれ又ここに云々するまでもない。著者にかく言はしめたことに就ては、著者のために私は現在の世相の誠に遺憾であるの意を述べなけれはならぬ次第である。――こゝで気づいたことであるが、杉江重英君が本誌十二月号に書いてゐる「一九二九年度詩壇覚書」といふ一文の中にあげてゐる十一冊の詩集の中に、今私が編輯子の指定に依つて書くべき六つの詩集の四つまでもふくまれてゐることである。が、杉江君がそこで「雲に鳥」に就て言つてゐることにはよらずに、巻頭の(囚人の体操)をごく簡単に批評しやう。

 第一節の日が射すことのない中庭だといふ二度のくりかへしはまづい。又、ポツンポツンと夕方囚人が体操するをはさんでゐるのもよくない。これは最後の一つで十分であらうと思はれる。著者がここでつかまいてゐるものはかなりよいものには思はれるが、詩作になれてゐないまづさは、この著者には致命的なものの如くに思はれる。杉江君がこの著者の独得な表現手法と言つてゐることは私の言ふそのまづさではなからうか。

 「蒼馬を見たり」は、私はこの本を持つてゐない。それは私にとつてもこの著者にとつても残念でもなんでもない。それに丁度いゝことには春月さんの「彼女の見た蒼馬」の中の詩の引例を拝見して参考とすることが出来る。

 先づ第一にそのまゝに彼女はますます彼女らしくなつたことである。彼女のためには表現が簡ケツになつたこともよいと言はなければならない。彼女に幾年目かでこの間出つくはしたら、日本髪がボツブになり足袋が靴下になつてゐたのだつた。これもわるいことでは勿論ない。春月さんは大変ほめちぎつて居られる。が、男どもに負けてゐないといふことだけでも、十分に一人の女詩人として存在してゐて欲しく私も思はせられてゐる。いづれコク評をしてみたい一人として後に預る。

 次は「真冬」である。彼には昨夜新宿駅の上の食堂で金三円をキフさせた。で「真冬」であるが、これも亦一篇一篇をひき出しての批評は私には出来かねる。これを出発とする著者は、私のためにもこの一本で屑カゴへ捨てゝ呉れるであらう。私は彼の出発に際して一二希望をする。それはこの「真冬」にふくまれてゐる詩篇のみならず、彼の詩篇に概して詩作される場合の材料が消化されずに残つてゐることである。どんな意味にとつてもらつてもよいのであるが、何かを言はふとして言ひ得ずにくどくどすることである。もう一つは、詩作をしてゐる際、自分の書かうとしてゐることを大したことの如くに思ふのではなからうかと読者に感じさせることである。「ぬかるみ」などを読んでみてもわかるではなからうか。

 「全日本詩集」の批評とはどうすればよいのか。困らせられることである。本を開いて、よくこれだけ集めたものだと思つたが、考へてみるまでもなく、ふくまれてゐる百幾十人といふ詩人はお菓子ではないから、この詩集出版に際して作られたものではないのであつた。目次は(ABC順)に「安」が一人「赤」が一人「会」が一人「江」が一人「福」が四人「藤」が一人「深」が一人「古」が一人「後」が一人「萩」が二人「春」が一人「堀」が一人「平」が二人「広」が一人「浜」が一人「石」が一人「生」が二人「井」が一人「今」が一人で……百四十六人。ひたすら編者の労に謝します。なるつたけ執筆者には一部を頒つやうにたのみます。

 ★以上。私は九枚で書きました。六冊の詩集を一日で批評するのは始めてでした。

  又、見出五十幾字といふこともやはり始めてのことです。兎に角愉快でした。

(詩神第六巻第二号 昭和5(1930)年2月発行)

 

[やぶちゃん注:昭和4(1929)年12月刊の東亜学芸協会編「全日本詩集」という詩集のアンソロジーの書評。

・『「悲しきパン」』詩人で児童文学作家の野長瀬正夫(明治391906)年~昭和591984)年)の第二詩集(昭和4(1929)年民謡月刊社刊)。尾形の記載する通り、プロレタリヤ抒情詩集のタイトルを持つ。

・『「叛く」』詩人・小説家の竹内てるよ(明治371904)年~平成132001)年)の処女詩集(銅鑼社ガリ版印刷百部限定)。近年、20029月のスイス・バーゼルで行われた国際児童図書評議会(IBBY) 創立50周年記念大会に於いて現天皇の妃美智子様が、そのスピーチの中に竹内てるよの詩「頰」を引用したことで脚光を浴びた。

・『「雲に鳥」』詩人にして英文学者の佐藤清(明治18(1885)年~昭和35(1960)年)の詩集(昭和4(1929)年自家版)。

・『「蒼馬を見たり」』作家林芙美子(明治361903)年~昭和261951)年)の詩集(昭和5(1930)年南宋書院刊)。

・『「真冬」』渋谷栄一(明治341901)年~昭和181943)年)は

『青騎士』『詩神』や農民文芸会機関誌『農民』等を舞台に精力的に作品を発表した詩人。『真冬』は昭和4(1929)年の自家版詩集。

・「すでに読者知るところ」は「すでに読者〔の〕知るところ」の脱字か。

・「オチド」はママ。

・「烈風々景の会」これは詩人大島庸夫(おおしまつねお 明治351902)年~昭和281953)年)が同年に発行した詩集『烈風風景』の出版記念会ではなかろうか。

・「橙一郎」月原橙一郎(明治351902)年~?)は詩人。本名、原嘉章。詩集『冬扇』(昭和3(1928)年大地舎刊)等。

・「春月さん」詩人生田春月(明治251892)年~昭和51930)年)。本名、清平。1930519日瀬戸内海播磨灘にて投身自殺した。私のブログを参照。

・「岡本の跋詩」恐らくは詩人岡本潤の跋。

・「不友人」はママ。

・『「竹内てるよを死なせない為の会」』竹内てるよは大正131924)年5月に20歳で父親の借金の相手と結婚、24歳で腰椎カリエスに罹患し離婚、病床で詩作を始めた。昭和3(1928)年に『詩神』に作品を発表、『銅鑼』同人ともなった。同年、『詩神』と『銅鑼』で関わった詩人神谷暢と共同生活を始めるが、てるよは寝たきりのままであった。翌昭和4(1929)年、草野心平らが「竹内てるよを死なせぬ会」を発足して、5月に彼女の処女詩集『叛く』が草野心平の銅鑼社からガリ版で刊行されることとなった(以上は個人サイト「[アナキズムAnarchism「竹内てるよ」の頁の記載を参照した。

・『彼女が死にかけてゐるために「竹内てるよを死なせない為の会」のあることは有名である。私は此頃人間のその一人一人が無意識のうちに生まれてゐた事実に対しては、自殺的に(それもなし得るだけ少しでも早く)死ななけれはならないのだといふことを信じてゐるその為に、「誰々を死なせぬための会」の趣意には多くの相異をもつてゐる。事、人情に関することがらであるから私のかうした言葉は同時に多くの非難を受けることであらう。が、死にかけてゐるといふことも、私のかうしたものも共に人間のもつかなしみであるのだらう。生きなけれはならないと自らを思ふにはあまりに時間やそれによつて生ずる人間の多すぎることである。又、各自思ふやうにはならぬことに何かそのことにうらみのやうなもの執念のやうなもの、もつと異つたものでは大将になりたいとか大臣になりたいとかいふものは人間の何なのであらう。こんなことは詩集「叛く」の批評にはならぬが、この著者にも聞いて欲しいと思ふ。自分の為に「死なせない為の会」などのあることをあじけないことに思つてもらひたいと思ふのである。/かうした一文を書きすゝむ間々には、私はいくつかの矛盾を生ずることであらう。しかし、それは生ずるまゝに私はこれを書き終るつもりであるし、自分に多くの矛盾のあることは私には隠すまでもないことである短時間に於てさへ隠しきれぬ矛盾、つまり矛盾とは「滑稽」といふことであるのではないか。』(右下線部はやぶちゃん)詩評の中に埋もれて、今まで余り顧みられることのなかったであろう、この部分――特に私が下線を引いた部分――ここに現れた尾形亀之助の覚悟は、後にやってくる彼自身の奇体な死を考える時、非常に重い意味を持ってくると言ってよい。新しい尾形亀之助論の地平を開くには、このやや曖昧な部分を含む素敵に慄っとする彼の言葉の核心を、鮮やかに抉り出す必要があるように私は思われるのである。

・「杉江重英」(すぎえしげふさ 明治311897)~昭和321956)年)は詩人。宮崎孝政らと詩誌『森林』を創刊。詩集に『夢の中の町』(大正151926)森林社刊)・『骨』(昭和5(1930)年天平書院刊)等。

・「つかまいて」「簡ケツ」はママ。

・「ボツブ」“bob”はボブ。女性の髪形の一つで、襟首から下に達しない長さで切り揃えたもの。

・「目次は(ABC順)に……」妙な書き方である。気がつくのは「尾」がないことである。

・「★以上。……」底本ではポイント落ち、全体が一字半下げ。]

 

 

 

    馬鹿でない方の北川冬彦は「読め」

 

 結局、くだらん男とくだらん男との言争ひでしかない。俺にしても君にしても、現在是非世の中にゐてもらはなければならない有用の人間ではない。多少は有用であるとしてもかけがひはいくらでもあるのだ。俺は、詩集「雨になる朝」が童心などと呼ばれるべきものでないと自分で言へば事足りてゐる。現在「詩」と称されてゐるもの(勿論「雨になる朝」もふくまれてゐる)などには論争の類をするまでの興奮も興味ももつてはゐない。このことに就てはこの後の俺の仕事に色々な意味と形で表れるだらう。以上。

 次に「酔漢の愚痴」とはこんなもんだを聞かしてやる。――君が「新散文詩」などとこの頃言つてゐるやうだが、君がそれらの仕事の何をしたか。他の人々の仕事をヌスミ見ての 「知らぬ人にそのままをなるほどと思はせる」例のづるさはないか。「困つたこと云云」 は、勿論俺自身が困るの意味なのだ。君は俺の「童心とはひどい」を呂律の廻らぬ云云と言つてゐるが、「困つたことには彼は私のそれらの作品を或程度否定しなけれはならない立場にゐるのだ」とは、俺の作品をけなすことによつて君自身を他の人々に偉く思はせなければならない――といふ意味なのだ。詩、はつきりさうと言はぬまでのことであつたのだ。又、君の言ふ、暮鳥のものを君が童心と思つてゐるのだからしかたがないとは何のことかわからぬ。君がさう思つてゐないとも思つてゐられては困るとも俺は言つてはゐない。殊に俺に何か言ふならもつと用心することだ。その方が君の得ばかりではない。もーつ注意するが、あまり自分を偉く思ひこんでしまはぬ方がいゝ。君が左傾しやうがしまいが、さうしたことを一つの見えなどにしては今どき甚だ滑稽なことでもある。俺がたまたま酒を飲むといふので「酔漢」などの文字を使つてゐるのだらうが、俺が酒飲みであれば尚のことこんな文字を使ふには用心をしなければならぬのだ。又酒を飲まぬことを自慢にするものもそれが君であつてはどうかと思ふ。さういつまでも俺を相手にしてゐる余裕を持ち合してゐる僕ぢやない。――の余裕とはおそらく時間のことではなく、も一つの方のことなのだらうが、それこそまどはしい文章だ。「詩と詩論」に及んだことが、君がこの頃せつかく「俺は超現実主義ではない俺は左傾といふことをするのだ」――と言つてゐるそれの邪魔をしてわるかつたわけだ。兎に角君は君の望んでゐるだけ早く偉くなることだ。君は偉いといふことをつまらぬことだなどと思ふやうになつてはいけない。北川よ、反省などをしてはいけない。それこそ出世のさまたげだ。

(詩神第六巻第二号 昭和5(1930)年2月発行)

 

[やぶちゃん注:「童心とはひどい」に続く、第二詩集『雨になる朝』に対する北川冬彦の評に対する反駁文である。北川の批評については、そちらの私の注を参照されたい。こちらではもっと明白にその『政治的季節』が見て取れる。「俺は超現実主義ではない俺は左傾といふことをするのだ」とは何と哀しい台詞であろう。少なくとも私にとっては救いようのない台詞である。若い読者のために、一点だけ歴史的仮名遣の誤りを指摘しておく。冒頭の段落中に現れる「かけがひ」は「掛け甲斐・懸け甲斐」(期待できるだけの値うち)であり、意味が通らない(「掛買」でも不通である)。「かけがへ」=「掛替え」(用意のために備えておく同種のもの)である(恐らく動詞「掛け替ふ」からの誤用か誤植であろう)。現代仮名遣でも「かけがい」と「かけがえ」とを誤るととんでもないことになるので敢えて言っておく。私は、二十代の初め、女生徒の年賀状の返事にうっかり「残る三ヶ月、懸け甲斐のない高校時代を有意義に!」と書いて、学校で、「先生らしい素敵な皮肉ですね!」と言われて冷や汗を笑って誤魔化したのを思い出したのである。]

 

 

 

    詩集 軍艦茉莉

 

 詩集の批評をするといふことは多くの場合誠に野暮なことだ。又、――面白いことには、その著作物の所謂価値といふものが全くそれらの批評の外にあることが多いのだから、時には腹の立つこともあるし、お可笑しくなることもあるし、なんでもないこともあるし、あきれてしまふこともあるし、なるほどと思ふこともあるし、読まされただけ損であつたといふこともあることになる。勿論かうしたことは、その筆者の無力と否とに重大な関係があるのだが、この場合に際して、私が無力であるなどと最初から自ら言ふべきではない。だが、ごたぶんにもれずこの一文はその出来のよしあしにかかはらず、殊更に野暮であることは私がそれと知り安西自身も亦さう思ふことであらう。時に漫評ともならう。

 詩集軍艦茉莉には北川が序を書いている。北川の詩集戦争の中には沢山のあの有名なグロツスの絵の焼き直しの如きものを散見するが、安西の作品の短いもの(詩集の中にはあまりない)にはパールクレーの絵に似たものが相当あつたやうに記覚する。私の作品を童心云々と罵つた北川への返礼と解されるもよしなきことではあるが、前者は全く下手なものまねに終つてゐるが後者はそれが一個の詩境として立派によい作品をわれわれに見せてゐる。又、最近は幾分その影をうすくしたが、ここ二三年安西のものにまねた詩がずゐぶん沢山あつた。が、それらの多くは初心者であつたことは注意すべき一つの現象ではあつた。安西は、それらの人々に依つて発行される雑誌へまで望まれるままに稿を寄せて、よく忍んで見事にぬけきつた。彼のものはわからないといふのであまり人々の注意を引かなかつたが、最近に到つて「安西」と言へば「よい詩」を書く人といふことになつてしまつてゐることは慶賀すべきことであるばかりでなく、かく一般にまで詩といふものの一歩の進みをもたらせた人として敬意を表すべきである。即ち未来派の初期の作品そのままの張り紙細工の如きシネ・ポエムなどといふものと、彼の作品を同一視してはならぬ所似である。

 又、「ランプを持つた彼の写真」の如き、十四五年以前の流行であつた「古風」を遠慮なく詩集に張りつけてゐるところに彼の一面がある。彼の新しさは、ノート・ブツクの新しい頁といふ感じのものではなく、彼の作品は書きふるしたノート・ブツクの余白に何か書きこんでゐるといふ感じのものであつて、ペン先を新しいのと取かへて旧いのを灰皿へでも捨てたときに、安西自身にのみわかる新しさがあるだけであるから決してそれは一般的ではない。即ち、一般が彼を新進詩人などと称ぶべきではない。人そのものは間違ひもなく新しい人ではあるが、ペン先は新しいが紙が古い。この点彼と私は少し似てゐるらしい。安西と私は年に四五度の音信をする。時に彼は私を「蔵六」君などと称ぶ。

 

 私は残念なことに軍艦茉莉を細評するだけの頁をもたない。困つたことだと思つてゐると、今朝、はからずも新聞広告の中から「△病新薬」といふ一文を見つけ出した。それをそのままに一部を転載して僅かにその字句を置きかへて読んでもらへば、詩集軍艦茉莉を推奨する名文となつてしまふので、敢て拙文を草せぬことにした。

     ※

    詩 集           軍 艦 茉 莉     ヲガタカメノスケ

「国際的××として果然問題となれる××××」専売特許・××博士推奨(××のところは右のルビの如く調子を合せて読んでいただく)

 最近長足の進歩を遂げた世界の×学界に万丈の気を吐いてゐるわが日本の新興×学は、今度更に驚異すべき××を完成して国内は勿論のこと欧米先進国をも瞠目せしめた。云云。――今や国をあげての大センセイシヨンを捲起さんとしてゐる××は直ちに日本政府の専売特許となり斯界に発表された。云云。××者は勿論、大家博士も驚嘆の声を放たざるはない。云云。敢て一九三〇年の貴重なる収穫として云云々々。

 ――現在世間に発×されてゐる××は千にも近い数であるさうであるが、大別すると和×と洋×の二種であつて、和×は殆んど問題にはならぬが、洋×のなかでは所謂××××が大多数でイロイロと自画自讃の限りを尽してゐるが、原料は問屋で調べるとすぐ分るが、どれもこれも皆似たり寄つたりで達ふのは名前だけである。

 ――云云。云云驚嘆せざるはなく、殊にその先人未踏の境地として今や全く国際的大センセイシヨンを捲起しつつあるのである。かく云へば誇大な宣伝に慣れたる読者は云云々々。云云々々。××××は完成後直ちに日本政府の専売特許を下附せられ、斯界の大家博士によつて云云々々。別頃の如き記載の推奨云云、単に名前だけを並べた推奨とか創×とはその根本に於て相違するのであるから、云云々々、御注意あれ。諸君!

     ※

 以上。で、これ以上にすばらしい推奨の文はないといふことにする。とまれ本集の評は甚だ困難なことである。色々と品を換へ言葉をかへてまするところよろしく御高覧の程を――。(ここで楽隊)

    1

 「軍艦茉莉」これが巻頭にあるのは、安西がこれを大変よい出来であると思つたからではあるまい。(私は艦長で大尉であつた)は、あそこに船が錨を入れてゐるといふやうな遠見の眼の中の風景から辣し去つて、それを読者の後頭部へもつて来てゐる上手な手法。見張の犬や妹やノルマンデイ産の機関長はこの集の中にいくつも出てくる彼の「話」である。第四節はスクリンの暗転。安西はここでペンを置いていそいで小便へ立つたやうな気がする。

 「閹人猧氏」A「ここで私の読めない字が四つある」B「だが、どうしてそれで君はこれを悪いと言へるんだ」

 「暮春の書」「私」が肋家を訪ねると犬と山羊が悦んで巫山戯(いちび)つて庭の辛夷を傷めるので「そんなに巫山戯るなら私はもう来ないから、どんなに先生がこの辛夷を……」と訓へるあたり。窘められてグウとも言はない哀しげな犬と山羊を見て「分つたらもういいから」と彼等を追ひやるあたりは安西のもち味と言へやう。そして、先生のお嬢さんが出て来て小さな会話になつて、朝刊は先生の四月二十九日の消息云云と、安西は読者を彼の例の応接室へとみちびくのだ。

 「庭」(桜の実)これは安西のもつ古めかしさ俳句の字句がそのままに列らんで固まつてゐる。次の「記念品」にくらべて、私は「記念品」の方を好く。

 「戦後」の「侵略」も「役」も、読んでみて面白いとは思わない。例へば「役」であるが、たいへんあつけないといふので、これを暗示として何かがかくされてあるのだらうと思ふことは断然いけない。又、本を読む間ちよつと顔を上げたら窓の外を牛馬が通つてゐたといふのではないことは勿論だ。「困つた詩だ」と思へばよからう。足らなくはあるが間違つてはゐない。

 「春」二篇は共に好ましい。

 「日食」は何んと面白さうではないか。

 「掩護陣地」(旧式)これは旧式活動写真旅順港総攻といふところ。スクリンいつぱいの煙、気がついてみると明るくなつてゐる白いスクリン。

 「物」の「卵に毛あり。鶏は三足」は詩を書くにはあまり物を知り過ぎてゐるの感じ。「輪廻」亦同じ。

    2

 「徳一家のlesson」辞書を引つばりながらの批評は恥かしい。で、ここには私の読めない横文字が沢山とある。それが自由に読めたら、「祖母に魚を喫べさせて中(あた)らなかつたら一家が啖ふといふやうな、チエーホフ風の衛生は、もうどこへいつた?」などと、何んだかやたらに面白さうではないか。

 「あの道」のメリーゴーラウンドは明治三十×年から毎日「マワツテタ」のが、最近すりへつて壊れてしまつた。米国へ修繕をたのんでももう直らないのだ、と安西から手紙。

 「海」ここまで来ると、安西ただ一人。もうまねるわけにはいかぬ。私は、この詩篇が最もよく表現された場合の彼の作品として、双手をあげて推奨をおしまぬ。かうは書けるものではない。

 「曇日と停車場」は前の「海」とくらべていくぶんの見劣りがする。少々安西が自身に甘いところを見せて呉れてゐます。

 「理髪師」ここにも彼の一つのテクニツクとも見られる新しさと古めかしさがある。だが、それはしかたのない事実だ。だから、私は彼のよく使用するテクニツクと言ひ直すのだ。白の上の白を書き物にするだけ私達は見てはゐないのだ。

 「Call」これなどはずゐぶんいいと私は思ふ。話しかけられて、うまく聞えないふりをしおほせた男。クソ奴!

 「春」安西のポケットの「煙草の屑」でございます。

 「自由亭」北川が本集の序で、安西がうつかり「思想」を嚥下した時手古摺つて彼が磨滅して、そしてその輝かしさが「稚拙感」となつて発する。と、言つてゐるが、私はさうは解さない。安西は思想と生活を離して考へられない男なのだ。学校の帽子の徽章のやうなものでしかないやうな流行思想をいやがつて帽子につけないのだ。そうしたうつりかはりのある時間的存在を、彼はむしろ古めいた俳境に似たものに彼自身をゆだねてゐるのだ。

 (……鴨を注文して――現れる間、私はここの娘が明治二十何年かに、もう洋装をしてゐた噂をする。娘はもう故人になつてゐる。「つまりスウラ風の瘤の出たお臀、アレなんだ」)コレなんだ。

 「普蘭店といふ駅で」等々は秋風のやうなもの。「室」「徳と法」は全く夕飯にはだいぶ間があるが、しかもご馳走といつては今日はこれといつて何もないのだが、飯の中の砂粒を夕飯に安西が嚙むのを知らずにゐるなんて――。と、いふところ。

    3

 「肋子」は安西の「馬鹿話(ワイダン)」。「うそ」と題して、ハガキは裸のやうな気がして、恥かしくてどうにも出せないといふ。――などとある。なんと――カナハナイ。

 「肋大佐の朱色な晩餐会」これはどうでもいい。

 「黄河の仕事」これはなかなかの大作。その中にふくむシヤレLolo族は巴里警視総監より優美である。とある。又、黄河は地球を削つてゐる。Catalyserを与へよミシシツピーと河底を共産させるために。とある。

 「養狐会社の書記」二年ほど前であれば、尚のこと好いてゐたであらう。空気が透いて隣家の座敷の中が見えるのがどうも不思議でたまらないとばかりに。

 「向日葵はもう黒い弾薬」秋をこんな風に語るところが安西。それにしても上手過ぎる。「散骨」亦前と同じ。読んでゐると、何んだか安西が死にかけてゐるのではないかといふ気さへする。

 「百年」亦同じい。象牙の紙ナイフで、トウストに牛酪を塗る――これは哂ふべき現象だ。――と彼は言ふ。そして、その口の下から、月の央になつて僅か自分の読んだのは、モウパツサンの「水の上」に過ぎぬと言つてゐる。そして、文明批評といふことになり、(降りるといふ代りに、私は堕ちると言ふ。これは不吉な言葉ではない)とことはつたりして、スローガンといふ言葉は移民の見せ金に似てゐる。と、言ひ、猫の横顔は蛤のやうだ。と言ひ、もう百年すると日本にもオペラが生誕するのださうだがその時は私は羊歯の葉になる時に。と、――。

 「途上」亦前の前のに同じ。どれもこれも同じいものに見えて来た。安西はペンの腹を外に向けて字を書くらしい。

 「犬」桃の熟するやうに、熟しかけてゐる生活の一部分であらうか。生活といふものが、何時になつてもここにあつて、かうした状態の時にのみ「生活」と称ばれるものなのだといふ私の考へ方は凡そ東洋的ではあるらしい。「マルヌの記念日」に於ても、同じことこの状態はここでは少しゴミ臭い程度に美しくかかれてはゐるのだが、はたして資本主義的世相の末期のみにある状態と限られてゐるのだらうか。云云。

 「門」さうだ。門といふものがあつた。お嬢さんと尨尤が戯れてゐる辞書の中の凸版。

    4

 「バグダット駐在将校苦大佐の脳」「韃靼国郵政事情」「徳一家の財産」「馬」「肋子」は見られる人の御意のままに――。で、次が「民国十五年の園遊会」全文を引用して支那音楽花火など色とりどりとなるべきであるが、少々調子に乗り過ぎて体をゆすつてゐるから――。

  「櫛比する街景と文明」

 魁(まつさき)に文明を将来した写真館が風景の中で古ぼけてゐる。

 (この飴色の街に、もう「市区改正」が到来してゐる)

 ――どうも。安西といふ男はすくなくも十四五年前に死んでしまつてゐるやうな気がする。ここには人一人鳥一匹もゐない。それなのに街の一部が「市区改正」のために取りはらはれたりしてゐるのだ。文明の描写が騒音にばかりあるのではないといふよいお手本。

 「陸橋風景」「夜行列車」「門」は共に同じやうなもの。「陸橋風景」は安西がちよつとよそ見をしたの形。

 「河口」私はこれを或る雑誌で発見した。そして、安西といふ男はすごい奴だといよいよ感心した。集中或ひは第一のものであらう。この強い信念は他に見ることは出来ぬ。

 「雪毬花」は「河口」にくらべていくぶんらくな作品。残りの十二篇のうち私は「晩春」を拾ふ。

    5

 「易牙」「長髪賊」共にわるからう筈はない。

 「菊」ここに到つて、私は前の「河口」と同じ平面にある異つた位置に出逢つた。「菊」は「河口」よりも散文に近い。これら(5)に編まれてゐるものを私は「短編」と言ふてゐる。「菊」の如きものを書き得るのは安西の外誰もゐない――と、私は又感心してしまつた。くそみそにほめ上げてまだ足らぬのである。

 「地球儀」は「菊」と列らぶ。次に、私はメリイ・ゴオ・ラウンドをメリゴランドだとばかり思つてゐたといふ書き出してゐる「遊戯」という好篇がある。

 私は(5)に入つてますます批評めいたことを言へなくなつた。最後の智をしぼつて、「菊」は甲の上、「地球儀」は甲、「遊戯」は甲ノ下、「易牙」と「長髪賊」は乙――と、やれば「文明」にはもうやらうにも点がないといふしまつ。それなのに「文明」の次の頁には「松の花」といふのがある。

 「鵜」――いつの間にか私はふたところ蚊にやられてゐた。なんだかしやくにさわつて来た。「鵜」は又、ひどく感心させるのだ。「菊」が甲ノ上なら「鵜」も甲ノ上だ。二つならべてさへ困難なところへ、あとからあとから感心させられるのでは、蚊に喰はれたふたところが同じ自分の体の上なのをどつちがどつちよりもカユいといふサクゴよりももつと愚なことにちがひない。

 後にまだ五篇もすばらしいのが残つてゐる。「冬」も「物集茉莉」もかつてすでに感心させられたものだ。安西万歳。万歳安西。自らを苦笑する他はない。即ち擱筆す。

(詩神第六巻第八号 昭和5(1930)年8月発行)

 

[やぶちゃん注:安西冬衛(明治311898)年~昭和401965)年 本名勝(まさる))の昭和4(1929)年4月に出た代表的詩集『軍艦茉莉』(厚生閣刊)の詩評。私は親しく『軍艦茉莉』を読んだことがないので、幾つかの尾形の評に現れる標題さえ読めぬものがあるが、それらすべてに注するとなると『軍艦茉莉』の注へと逸脱してゆくので、最小限に止めた。幾分、不親切な注になっている点はお許し頂きたい。

・「北川」北川冬彦(明治331900)年~平成21990)年 本名田畔忠彦)。ここにも記される彼との確執は前掲の「童心とはひどい」や『馬鹿でない方の北川冬彦は「読め」』を参照。

・「グロツス」George Grosz(ジョージ・グロッス 18931959) ドイツの画家。ワイマール体制下の資本家・軍人を痛烈に批判した風刺画で著名。1933年以降、アメリカに移住した。

・「パールクレー」Paul Klee(パウル・クレー 18791940)スイス出身の画家。

・「未来派の初期の作品そのままの張り紙細工の如きシネ・ポエム」これは暗に北川冬彦への批判を含んでいる。「尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注の「標――(躓く石でもあれば、俺はそこでころびたい)――」で『「戦争」とかいふ映画的な奇蹟』の部分の注を参照されたい。

・『「蔵六」君』四肢と頭と尾の六つを甲羅の内部に隠すところから、「藏六」は亀の異称。

・『「国際的××……』これはたかがお遊び、であるが、されどお遊びである。オートマチスムや寓喩としての面白さ以外に、この仕儀全体が痛烈な官憲の検閲による伏字のパロディになっていることを意識せずにはいられないからである。

・『「軍艦茉莉」』「ウラ・アオゾラブンコ」にある。そのままコピー・ペーストして掲げる(但し、コピー時に読み込まれるピリオド様の記号は排除し、丸括弧は全角に変換した。なお、後の注は私のオリジナルである)。

 

  軍艦茉莉

 

   一

 

「茉莉」と読まれた軍艦が、北支那の月の出の碇泊場に今夜も錨を投(い)れてゐる。岩塩のやうにひつそりと白く。

 

私は艦長で大尉だつた。娉娉(すらり)とした白皙な麒麟のやうな姿態は、われ乍ら麗はしく婦人のやうに思はれた。 私は艦長公室のモロッコ革のディワ゛ンに、夜となく昼となくうつうつと阿片に憑かれてただ崩れてゐた。さういふ私の裾には一匹の雪白なコリー種の犬が、私を見張りして駐つてゐた。 私はいつからかもう起居(たちゐ)の自由をさへ喪つてゐた。私は監禁されてゐた。

 

   二

 

月の出がかすかに、私に妹のことを憶はせた。 私はたつたひとりの妹が、其後どうなつてゐるかといふことをうすうす知つてゐた。 妹はノルマンディ産れの質のよくないこの艦の機関長に夙うから犯されてゐた。 しかしそれをどうすることも今の私には出来なかつた。 それに「茉莉」も今では夜陰から夜陰の港へと錨地を変へてゆく、極悪な黄色賊艦隊の麾下の一隻になつてゐる――悲しいことに、 私は又いつか眠りともつかない眠りに、他愛もなくおちてゐた。

 

   三

 

夜半、私はいやな滑車の音を耳にして醒めた。 ああ又誰かが酷らしく、今夜も水に葬られる――私は陰気な水面に下りて行く残忍な木函を幻覚した。一瞬、私は屍体となつて横はる妹を、刃よりもはつきりと象(み)た。私は遽に起とうとした。けれど私の裾には私を張番するコリー種の雪白な犬が、釦のやうに冷酷に私をディワ゛ンに留めてゐる――『(ああ)!』私はどうすることも出来ない身体を、空しく悶えさせ乍ら、そして次第にそれから昏倒していつた。

 

   四

 

月はずるずる巴旦杏のやうに堕ちた。夜陰がきた。 そして「茉莉」が又錨地を変へるときがきた。「茉莉」は疫病のやうな夜色に、その艦首角(ラム)を廻しはじめた――

 

●やぶちゃん語注:

○「ディワ゛ン」フランス語“divan”で、背もたれのないクッション付長椅子のこと。

○「黄色賊艦隊」東洋人を成員とする海賊船団。

○「巴旦杏」は本来、中国語ではバラ目バラ科サクラ属ヘントウPrunus dulcis、アーモンドのことを言う。しかし、実は中国から所謂スモモが入って来てから(奈良時代と推測される)、本邦では「李」以外に、「牡丹杏」(ぼたんきょう)、「巴旦杏」(はたんきょう)という字が当てられてきた。従って、ここで安西はバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicinaの意でこれを用いているとも考えられる。いや、恐らく当時の読者の殆んどは安西の意図とは無関係にスモモの意味でとっていると私は思う。

○「艦首角(ラム)」“ram”。一般には衝角と言う。軍艦の艦首に付けてある構造物で、突き出た槌状のものを指す語(角度ではない)。相手艦に衝突させて沈没させるための武器である。

 

・「閹人猧氏」詩の内容ではなく語注として附す。「閹人」は「あんじん」と読み、宦官のこと。「猧」は音は「ワ」「カ」で、ここでは人の姓に見えるが、有り得ない姓である。「猧」は矮小なる犬の謂いで、狆(チン)のことである(宦官の後宮での渾名としてあったとしても不思議ではないが)。因みに「狆」は和製漢字で中国にはないが、ペットとしてのチンの流行で現代中文でも「日本狆」と書く。

・「巫山戯(いちび)る」関西方言にあってかなり悪い意味で、調子に乗る・出しゃばる・図に乗る・付け上がる等の意。安西は奈良県出身。

・『「春」』内一篇は最も人工に膾炙したあれである。

 

  春

 

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

 

・「スウラ風の瘤の出たお臀」フランス新印象派の点描画家Georges Seurat(ジョルジュ・スーラ18591891)の極めて著名な作品“Un dimanche après-midi sur l'île de la Grande Jatte”「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(188486)の右手端で紳士と並んで黒い日傘をさして女性の臀部のコルセットの張り出しを言っている。

・「馬鹿話(ワイダン)」の(ワイダン)」は「馬鹿話」に均等割り付けされたルビ。

・「Lolo族」アルファベットでこう綴る民族で大陸に居住する民族はイ族である。以下、ウィキの「イ族」から解説部分全文を引用する(改行部は「/」とした)。『イ族(イぞく、彝族, 拼音: Yízú )は中国の少数民族の一つ。2000年の第5次全国人口普査統計では人口は7,762,286人で、中国政府が公認する56の民族の中で8番目に多い。/名称/彼ら自身は「ノス」と呼ぶ。もとは「夷族」と表記されたが、清朝時代に、自ら漢民族の王朝ではない満州人がこの呼称を嫌い、同じ音に「彝」の字をあてた。彝は雅字。「ロロ族」という呼称もあり、かつては自称であったが現在は蔑称。「ロロ」とは、イ族自身が先祖崇拝のために持つ小さな竹編み。当て字の「玀猓」は、多分に蔑視的な要素を含んでいる。/歴史/イ族は中国西部の古羌の子孫である。古羌は、チベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれる。イ族は南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。/精霊信仰を行い、Bimawという司祭が先導する。道教や仏教の影響も多く受けている。/雲南北西部に住むイ族の多くは複雑な奴隷制度をもっており、人は黒イ(貴族)と白イ(平民)に分けられていた。白イと他民族は奴隷として扱われたが、高位の奴隷は自分の土地を耕すことを許され、自分の奴隷を所有し、時には自由を買い取ることもあった。/使用言語/シナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派ロロ・ビルマ語支に属する彝語を使用。ビルマ語と緊密な関係をもつ。6種類の方言がある。/彝文字(ロロ文字)と呼ばれる表音文字を持つ。』果たして安西の意図したLolo族がこのロロ族であるかどうかはこの際問題としない。私はこのロロ族に魅せられたのである。この彝文字(ロロ文字)なるものも何と魅力的なことか!

・「Catalyser」はフランス語の化学用語で、「触媒する」「触媒作用を及ぼす」の意の動詞。

・「二年ほど前であれば、尚のこと好いてゐたであらう」安西の原詩を確認出来ないので見当違いかも知れないが、三年前(昭和2(1927)年1月)の尾形亀之助には狐が青年士官になったり紳士になったり女に化けたりする動物園の狐の物語「青狐の夢」がある。「尾形亀之助作品集『短編集』(未公刊作品集推定復元版 全22篇)附やぶちゃん注」を参照されたい。

・「月の央」安西の原詩を確認出来ないので意味不明。ある月の中旬の謂いか。識者の御教授を乞う。

・『モウパツサンの「水の上」』フランスの詩人にして作家Henri René Albert Guy de Maupassantアンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(18501893)の著名な短編集“La maison Tellier”(1881)年「テリエ館」の中の一篇“Sur l'eau”(1881)「水の上」のこと。モーパッサンの狂気とそれ故の才能が十全に生かされた霧深い川のボート上の幻想と恐怖の物語である。

・「尨尤」安西の原詩を確認出来ないが、これは「尨犬」の誤植ではなかろうか。

・「文明の描写が騒音にばかりあるのではない」これは所謂、ダダイズムや未来派、プロレタリア詩の実験的作品群への揶揄。私は一番に大正141925)年に刊行された萩原恭次郎の『死刑宣告』を想起した。

・『「河口」』これだけ尾形が褒め上げる以上、読むに若くはない。「ウラ・アオゾラブンコ」に幸いある。そのままコピー・ペーストして掲げる。因みに「歪(いびつ)な」「蹂躪(じゅうりん)」「汪洋(おうよう:水量が豊かで、水面が遠く遙かに広がっているさま。)」「慰(なぐさみ)」「纔(わずか)に」である。――確かに、私もこの詩は気に入った。

 

  河口

 

歪な太陽が屋根屋根の向ふへ又堕ちた。

乾いた屋根裏の床の上に、マニラ・ロープに縛られて、少女が監禁されてゐた。夜毎に支那人が来て、土足乍らに少女を犯していつた。さういふ蹂躪の下で彼女は、汪洋とした河を屋根屋根の向ふに想像して、黒い慰の中に、纔にかぼそい胸を堪へてゐた――

 

河は実際、さういふ屋根屋根の向ふを汪洋と流れてゐた。

 

・「雪毬花」バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリSpiraea cantoniensisのこと。雪毬花は一般には日本の北国での表記。

・「しやく」はママ。

・「サクゴ」はママ。

・『「物集茉莉」』読みは「ぶっしゅううまり」でよいのであろうか。「もづくしまり」では気が抜ける。詩集『軍艦茉莉』の最後に掲載されている散文詩である。コナン・ドイルの研究家のひろ坊氏のブログ『安西冬衛とドイル。「物集茉莉」より』に冒頭が引用されているので、孫引きさせて頂く(但しひろ坊氏によって省略されている)。

 

  物集茉莉

   第一章

最初、その少女に遭ふたのは、旅順行貨物列車の最後部の便乗室だつた。秋雨のぐしょぐしょ車床をよごす日で、私はさういふ日に私の有つてゐる事務所に通ふことに、ひどく小説めいた気持がした。(略)尤もこれは必ずしも、私の架空癖からばかりではなかつた。といふのは当時実際自分は「Conan Doyle を持てる茉莉」といふ伝奇的な作品を結構してゐた、その央だつたからである。

すると列車が夏家河子といふ駅に着いた時、突然濡れたレーン・コートを羽織つた黒いリボンの少女が車室に入つてきた。そして私の前にゆつくり座席した。手に副読本(サイドリーダー)らしい、褪紅色の薄い洋書を持つてゐる。彼女はそれを膝に裏返した。私は危なく『あツ』と声を発てようとした。何故なら、さういふ彼女は、不思議にも私作中に出てくる茉莉といふ少女だったからである。咄嗟に私はその洋書を調(たしか)めて、確かにその表紙に

  The Adventures of a Scandal in Bohemia

と刷られてゐなければならない筈の事実をはつきりとつきとめて、この運命的な邂逅に、邃い面を合わせたい衝動を感じた。しかし遽に、それをどうすることも出来なかつた。(以下略)]

 

 

 

    机の前の裸は語る

 

 私はこの九月末か十月初め頃までの間に、かびのついたするめのやうな昨年と今年との作品十数篇からなる表題未定の一本を四五十部印刷して、これを最後の集として年来親しくしてもらつた友人へ贈呈する。大正十三年に「色ガラスの街」――昭和四年に「雨になる朝」――そして、この表題未定の一本を最後とすることには何の意味もない。もうこれでたくさんだといふことゝ、自分の将来にもさうしたことをする義務もなければ何もないといふことをはつきり考へたにすぎない。

 

    ×

 

 本を読むといふことは、勉強だとか趣味だとかいふすべてをふくんで、料理されたものを食ふといふことよりもはるかに馬鹿げてゐる。――といふことに私は少しばかり気がついた。

 例をあげれば、五十銭出して本を買ふといふことは、多くの場合銭を出したばかりでなく、その上その内容を読まされるといふことになる。だが、かうした取引の九分九厘――大部分の読者にはその全部の場合発行者又はその筆者の方から銭を出して、さあこれを上げるから読んで呉れとなるべきではなからうか。それなのに、うかつにも銭を出したり読まされたりしてゐることは全く馬鹿げてゐる。それよりも五十銭で何か食ふ方が利口だ――と。殊に「勉強」のためとあつてはなほのことさうした場合が多さうではないか、と。

 又、本そのものの内容に至つては、それを読んでゐる間の煙草代コーヒー代は勿論一日又は二日の生活費を出してまだ足らぬといふしろものの如何に多きや云云――といふ次第ではないでせうか。こんなこと言つてわるいんですけれども――。

 

    ×

 

 贈呈されたもののお礼、季節の見舞ひのお礼はいつも筆ぶしよう。例へば月末に金を取りにくるから新聞を取るのをやめやうと思つてゐるといふやうなわけ、米屋酒屋へも亦同じ。おゆるし下さい。

 

(一九三〇、八月十日)

(詩神第六巻十号 昭和5(1930)年10月発行)

 

[やぶちゃん注:「新聞を取るのをやめやう」「筆ぶしよう」はママ。「表題未定の一本」は第三詩集『障子のある家』のこと。昭和五(1930)年9月5日発行・私家版・限定70部・非売。これから詩集の題名は発行の一箇月前でも決まっていなかったことが分かる。]

 

 

 

    石川善助に

 

    一、洗ひはげた紺がすり

 洗ひはげた紺がすりのすそは、何か彼が「さうでござりすとも」などと言ひながら歩いてゐて、ふと二三軒先の煙草屋へかけこむときは勿論いそがしく彼のすねにひらひらする。酒などを飲んでゐて、一升近くにもなつて、彼が大きく唇をなめ初めてゐても、誰か第三者が来席すれば、彼はときには三尺も後へ退つて、いそがしくきちようめんな妙な手つきで襟をただし、横坐りの膝の辺りをなでるやうにしてすその乱れを直して、片手はそのまま膝の上に止り、も一つは後頭部から首の辺へ行つて、ちよつと見ないふりをするやうな遠慮で障子の外を見てゐたりしてゐる。

    一、小春日

 だいぶよごれの目立つのを火のしでもかけたやうにたゝんだ跡をはつきりさせて、あたらしい足袋などをはいて、それになんとなくはな緒のゆるんだ足駄をはいて傘を持つた彼は、私ともう一人とで街を歩いてゐる。小春日といつた感じの日和の午後なのだが、それは朝から晴れてゐるのであつた。

   一、いましめ

 詩に対する彼の愛着はひどくガンコであつた。ときにはそのために馬鹿げた駄作(失敗)をして平気でしてゐる。魚をとつてゐるのにいたつてとれない。空に群れる渡り鳥を見あげて、それを投網で取つたらなんぼかいゝんだらう――といふ意味の詩の類のものなどを私はさう思つてゐる。殊にこの種のものは、自然でちよつとの無理もあつてはならない。彼ばかりではなく、ときとしての反都会人としての感情での作品は常によくない。

   一、にぎやかし

 何の会であつたか、例によつてといふので、彼はゑびコとかんじかコの踊りをやつた。私はいやな感じがしたので、帰途彼に「今度からあんな風に踊を所望されたら会費を返してもらふんだね」と言つたら、彼は「はあ――」と言つたきりで黙つてしまつた。彼が席をひきたてるとか座をにぎやはすとかをするときのその半分、遠慮なく言へば七分まで彼のすることがいやみとなるか例の例によつての類になつてしまつてゐた。つまり彼はあまりさうしたことをした回数が多過ぎたのだと思ふ。なぜか――となると、彼が何か言ひ残したことを言はふとして、そこらに来てゐるやうな気がして、背筋がさむくいくぶん泣きたいやうな気持になつてくる。彼がなぜあんな風に酒に親しんだか。

   一、化けもの

 よい人であつた、おしい人をなくした、親切な人であつた、すぐれた詩人であつた、と言ふ。私も同感してゐる。だが、凡そ意味ないことだ。私達は彼の死によつて彼そのものをなくしてしまつてゐるのだ。何時の間にか地上に生れ出て、私達の眼の前で死んで行つた彼とはいつたいなんだらう。まさしく化けものであると思ふほかない。

(鴉射亭随筆 昭和81933)年7月発行)

 

[やぶちゃん注:「大きく唇をなめ初めて」「馬鹿げた駄作(失敗)をして平気でしてゐる」「ときとしての反都会人としての感情での作品」「座をにぎやはす」「言ひ残したことを言はふとして」はママ。石川善助は尾形亀之助の一つ歳下の同郷の詩友。仙台市生。足が不自由であったが、漁船員・雑誌記者等、職業を点々とした後、昭和3(1928)年に上京、草野心平に出会い、その頃心平がやっていた屋台の焼鳥屋の手伝い等をしつつ、『日本詩人』『詩神』などに詩を発表していたが、昭和7(1932)年6月の深夜、乱酔して大森八幡坂近くの線路沿い側溝に落下、死去した。享年33歳であった。死後、詩集『亜寒帯』が出版されている。本篇末の底本表記にある「鴉射亭随筆」は石川善助の追悼文集。鴉射亭は石川の号。遺稿及び「友人感想」として宮澤賢治・尾形亀之助ら知人の追悼文を掲載する。尾形亀之助の拾遺詩には「辻は天狗となり 善助は堀へ墜ちて死んだ 私は汽車に乗つて郷里の家へ帰つてゐる」(私のブログ掲載分)がある。尾形亀之助の追悼文は悲憤慷慨や慟哭悲泣と無縁である。しかし私はまさにそこに、無声(サイレント)の痛みの真心が聞こえる気がするのである。]

 

 

 

    秋日私記

 

 去年の五月に子供が生れ、この七月に又子供が生れた。つくづく考へてみるにこの二つの人間がやがては乞食と称ばれることになるかそれとも大臣大将となるのであるかどうかはわからぬが、兎に角にこの人達がもとになつて再び幾人かの人間を世の中へつくり出すのだと思ふと俺は面白いことをしたものだと感心し幾人でも生んでみる気にもなる。

 俺は自分一人でさへ食つてはゆけぬといふ心配をせぬのだ。食ふことの心配とは自分が子供などを養育してゐるとか女房に着物を買つてやるとか月給が昇つたとかといふときのいひわけに過ぎぬのだ。そして、口ぐせにパンがどうのこうのと、子供にきれいな着物を着せたいなどといふやうな常識をもち、先月十円の貯金が今月は八円しか出来ぬといふことから来月は魚屋一円青物屋から一円と買物を減らして埋め合せをつけやうといふ数理を真理の如くに信じてゐるのである。どうすれば一枚の煎餅が二枚の煎餅になるか、鶏卵はそのまゝ食つてしまはずに雛にかへし鶏にそだてゝ卵を生まして食ふといふ方法はどんなことなのであるか、俺には食ふことの心配をするから食つてゆけるといふ理屈が皆目たゝぬ。だが、そんなことはどうでもいゝのだ。俺は今日朝も昼も飯を食ひたゞの空気を吸つてゐたのだ。明日一日飯が食へなくともそれは今の自分には何の関係もないのだから、どうして食へたかと食つてしまつた飯を考へる必要はないのだ。まこと今日あつての明日のあることは、昨日飯を食つたからといつて今の空腹のたしになつてはくれぬのである。しかも困つたことに自分に体がつきまとつてゐることは、自分と自分の体を二つの異つたものに取扱ふにはこの二つのものはあまりに混沌としてゐるのである。他人は俺が何かものを言へば俺の体が言つてゐるのだと思ひ、顔に生やしている髯を見ては俺に生えてゐるのだと思つたりしてゐるのだ。

 きうりをならべて一時間近くもおとなしく遊んでゐる子供のそばに寝ころんでゐると、雨の降る空へ大きく花火があがつた。子供はたれてゐた顔を上げて俺を見たので、俺は首をふつてうなづいて答へた。子供は何か言ふのだ。「うゝゝゝ、うゝゝゝ」と窓の外を指して俺をまねて首をうなづかせ、両手をあげて俺にだかれてしまつた。俺は子供を膝にのせて、二発三発とつゞいてうちあがる花火を聞いてゐると如何にも親子らしい情景になるのであつた。ふと、「親父は俺に何も残して呉れなかつた。親父からもらつたものは俺のもつてゐるセンチメンタルだけだが、それもだんだん崩壊してしまった」と語つた男を思ひ出した。そして、ぶ然として子供をだいてゐて俺はおならをした。昼にごばうを食つたこともわびしいことではあるが、もしふところから今しがたまであがつてゐたやうな花火を取り出し、だいてゐる子供に窓からでも空へ打ちあげて見せれたならどんなにか屈託のない気持になれるだらうと思つた。この雨は誰が降らしてゐるのか、屁をかゞされてうすぎたなくなつてしまつた憐れな子供をだきつゞけてゐるのがいやになつた。俺は荒々しく立ちあがりそれでも気の毒な子供のためにはかけ声をかけて二階の段々を降りた。

(詩人時代第三巻第十二号 昭和81933)年12月発行)

 

[やぶちゃん注:「去年の五月に子供が生れ、この七月に又子供が生れた」前者は昭和7(1932)年4月30日生まれの次男茜彦(あかひこ)、後者は昭和81933)年8月20日生まれの次男黄(こう)を指す。どちらも言い方が不正確であるが、再三、詩の中で尾形がぼやくように、彼にとって誕生日という時間の区切りが如何にも厭な、無意味なものであったということが如実に分かる。]

 

 

 

    明滅

 

 

その一

 

――私はもう三つばかり先の駅で降りるのでなんとなくそは/\した気持になつて窓の外の景色へ眼をやつたり、棚から帽子を取つてかぶつたりしてゐました。そのうちに、私は自分が今降りるつもりになつてゐるSといふ駅から乗つたのだといふ風に思はれてくるのでしたが、しかしそれもなんだか変だしひよつとするといつの間にか駅に汽車が着いて、顔見知りの駅長さんや赤帽に挨拶をしたりなんかしながらうつかり乗り越してしまつてゐるやうな妙な不安な気持になつて、色々考へて見たあげくは、乗つたときとは反対に汽車が動いてゐるとしか思へないので、後向きに汽車が走つてゐるとすれば機関車は後ろから押してゐる筈なので、それを見やうと窓から首を出しても反対側へカーヴでもしてゐるのか、うねつた蛇の腹の一部分のやうな客車が前後に三つばかり見えるばかりで機関車までの見通しがつかず、人に聞くにも時によると月に三四回往復する場所なのでそれも気がひけてゐると、私の前に座つてゐた男が「Sへ行くのならまだ/\ですよ」と、私がポケットから出したり入れたりしている切符を見て言ふので、私が

 「MSなんです」と言ふと

 「あゝそれならとつくに過ぎましたよ」

 「――」私が黙りこんでどうしたものかと思案にくれてゐると

 「お急ぎなのですか――」と言ふ。どうしたかげんか、私はその男に話しかけられるとおちついてしまつて

 「いや、ちつとも急いでなんかゐないのです。Sで降りても降りなくてもどうでもいゝのです――」

と言ふのであつた。

 「それじや、お退屈でせう」「えゝ」

 「ぢゃ、どうです、学校の生徒の算術の試験の答案なのですが、半分見てすけて呉れませんか、出来てゐるのには○間違つてゐるのには△をつけて下さい」――と、私は四五十枚の答案を渡され、赤鉛筆まで握らされてとうわくしてゐると、その男は手をのばして渡されたまゝに私の膝にのつてゐる答案をめくつて、

 「一年生のでやさしいんです。たゞ字が曲つたり太くなつたりして1だか7だか判断のつかないのがたくさんありますが、答さへ出来てゐれはいゝんですから○をつけて下さい。何――生徒は○でも△でも大きい方がいゝと思つてゐるんですよ。私も○と△とでどつちがいゝのか教へてゐないんです――」とその男のどこに愛嫡があるのか、ひき入れられるやうに、ひろげられた答案を見ると

 4+7=11 3+9=21 9-4=5

 といふやうなのが十ほど列らんでゐるのだつた。私は言はれるまゝに、渡された半分ほどに○と△をつけて、ふとその男を見ると、その男は私が顔をあげるのを待つてでもゐたやうに

 「出来ましたか」と言ひながら、切符をあひるのやうな形に切りぬいたのを私に渡して

 「僕はあひるを百羽ばかり育ててゐるんです。僕の帰るのを待ちかねて、門を入る足音を聞くと大変な囁き声をあげてかけ集るんですよ。そしてとりかこまれて僕は歩けなくなつてしまふのです―」[やぶちゃん注:「―」は表記の通り、一字分である。]

 「――」見ると、その切符は私の切符なのです。念のためにあつちこちポケットをしらべてもないのです。私が変な顔をしたので、その男は

 「あ、切符ですか。あひるのことを考へてゐたら、うつかり切りぬいてしまつたのです。こちらのを使つて下さい」

 とその男が私に呉れた切符は、彼がノートを切つて作つたもので、たんねんに切符に似せて発行日や行先を書きこんで番号なども123ときちやうめんに入れてあるのだつたが、作者であるところの彼の名なのか端のところへK・MIYAZAWAとサインがしてあり、余白を埋めて花をくはへて飛んでゐる鳥や、影絵の馬の首、顔のある星、長靴、旗などが細々と向かれてゐるのであつた。私がなんとも返事に窮してゐると、その男はそれとさとつてか

 「その切符でいゝのですよ。この汽車は僕の汽車なのです。ほんとうにしないのならちょつと止めてみませう――」

 と窓から半身乗り出して両手を交叉させて二三度ふつて

「どうです――」と言ふと、如何にも汽車は速力がゆるんで、どしんとブレイキがかゝつて止まつてしまつた。そして

 「今度は車掌を呼びませう」と言ふ。車掌が来ると、その男は私が乗り越してゐることを話して、駅の呼び名はもつと大きな声でするやうになどと注意をして

 「逆行!」と重々しく命令すると、車掌は敬礼をして走つて車室を出て行き、間もなく汽車はもと来た方へ動き出して、一だんと速力が加はると、その男は

 「これで僕失礼します。車掌によくたのんでありますから眠つてゐても大丈夫です」と言ふので他の乗客はどうするのかとあたりを見ると、だいぶこんでゐると思つたのに他に誰もゐないのです。あわてゝその男を追つて車室を出ると、客車の連結はそこで切れてゐるのにその男は何処へ消えたのか居なかつたのです――おかしいなと思ふと、私の眼の前に走つてゐる汽車の最後部を映写してゐるスクリンがあつて、其処にさつきのその男が帽子を片手に立つてゐるのです。

 「さよなら――」

 

[やぶちゃん注:底本編注によれば、底本が底本とした「宮沢賢治追悼」(編集発行人草野心平)では、この間に一ページ分、宮澤賢治作「牧歌」の楽譜が収められている、とある。]

 

    その二

 

 スクリンに映つた列車の最後部からくり出すやうにレールが走り出る。トーキーではないのか、帽子をふつてゐるがその男は声を出さない。「さよなら――」との感じは見てゐる俺の胸の中であつた。そしてスクリンの中で列車は少しづゝずれるやうに俺との間かくが出来、だん/\に遠ざかつて行つて、その男はしぼられたレンズの列車の中にとけて消えてしまつた。――伴奏だけが残つた。

   (牧歌)

 種山ヶ原の雲の中で刈つた草は

 どごさが置いだが忘れだ 雨ふる

 種山ヶ原のせ高の芒あざみ

 刈つてで置ぎわすれで、雨ふる雨ふる

 種山ヶ原の霧の中で刈つた草さ

 萱草も入つたが 忘れだ 雨ふる

 種山ヶ原の置ぎわすれの草のたばは

 どごがの長根でぬれでる ぬれでる

 

 

   ×

 

 心平は口笛でそれに合せたが、俺は口笛が吹けないので黙つて歩いた。一本づつビールを下げて、ラッパ飲みをすると口のまはりがぬれるのでその度に服の袖でぬぐつた。街角へ来て立ちどまると、酔つてゐる体がよたくした。心平は「汽車はこゝを曲つて行つたんだ、どれちよつと電柱にきいてみる――はゝあ、さうか、うん、こゝを五分半ばかり前にゼン速力で通つた。帽子をふつて、さうか、ふん、いや有難ふ、さよなら――こつちだ、こつちだ」と歩き出す。そして、ときどき大声に「おーい、宮沢ア」と呼ぶのだ。どこへ来てゐるのか、街燈のまばらな暗い晩だ。心平は呼んでも返事がないので馳け出さうとする。俺はあわてゝ「待て、待て」と待たして、帽子をふつて汽車に乗つて通つた男の有無を聞くためにいきなり八百屋や煙草屋へ飛び込んで、ぱつと明るい店先で酔つてるんだと気がついて、八百屋ではりんご煙草屋では煙草を買つて、心平には「通つたことは通つたんださうだ。が、ずいぶん前なので馳けてもおつつかないんだ」と、うで組になつて歩き出す。一分もたゝないで心平は又「おーい」と大声をはりあげて、今度はうで組のまま走り出す。「よつしよ、よつしよ」向ふに明るい街角が見えると、心平はあれが汽車だ。あれに乗つてゐるのだといふ。ひと憩して、ラッパ飲みをして、ビール瓶を一二三で石垣にたゝきつけて万才をしろと残つてゐるビールを俺の口へつぎこんで背中の方までぬらし、両手をあげて踊つて、汽車が止つてゐるから今のうちに追ひつくんだと、立小便などをするひまがないとせがむ。明るい街角へ出て、心平は「こんなプラットホームはない――汽車もゐないし宮沢もゐない――」と泣いてしまふ。俺は困つてしまつたが大丈夫だからとだまして、おでん屋のやうなところを探して入ると、心平は熱心におでんを食ひビールを飲みポスターの美人に見とれたりしてゐる。どうしても今晩宮沢と会ふのだと言ふのに、自分も何時のまにかその気になつて夕方から一緒に歩きつゞけてゐたのだ。俺はつくづくと赤毛の交つた心平の髯についたビールのあはやおでんをつゝいてゐる手先や、ほこりにまみれたずぼんや靴を見てさめかけた酔ひになぶられ、外へ出れば又汽車を追ひかけるのだらうが、心平一人を馳けさせてしまつては、朝までにはこの間のやうに眼鏡も上着もずぼんも何処へ失くしたかなくしてしまふだらう。どんなことから宮沢が汽車になど乗つて帽子をふつて行つてしまつたことになつたのだつたかと、そんなことを考へてゐると、心平はコップを握つたまゝ机にもたれて眠つてしまつてゐる。疲れてゐるのだ。俺はほつとした。そして俺の囲りにビールの空瓶がやたらに列らんだ。

(宮沢賢治追悼 昭和91934)年1月 次郎社発行)

 

[やぶちゃん注:宮澤賢治は昭和8(1933)年9月21日に逝去、本作の初出は同年1027日付『岩手日報』である。初出の原稿が存在し、形式(「その一」「その二」の区別がない)や一部表現に異同があるが(底本編註に掲載されている)、特に初出を提示しなければならない程の大きな異同とは認められないし、私自身、この「宮沢賢治追悼」版の方を尾形亀之助の決定稿として推したい。なお、これと前のブログの「宮沢賢治第六十回誕生祝賀会(第二夜)」は底本の思潮社版全集では「評論」の部に所収されているのであるが、追悼文であっても、これもかれも私は明白にして哀しく美しい「詩」であると思う。部立への神経症的なこだわりなんかではない。こうなっていることが、尾形亀之助の詩集の中にこれらの作が所載される可能性が有意に減衰することを惜しむのである。宮澤賢治の「オツペルと象」「ざしき童子のはなし」「寓話(猫の事務所)」という極めてよく知られる三作が、尾形亀之助が編集人として創刊した月間文芸誌『月曜』が初出であることは余り知られていることとは思われない。亀之助が賢治の才能を早くから見抜いていたことはいわずもがな、亀之助と賢治の資質の違いもいわずもがな、である。これと前のブログの「宮沢賢治第六十回誕生祝賀会(第二夜)」に、彼我の懸隔を云々するのはアカデミズムの連中に任せておけばよい。差し当たり、私にはまるで興味がない(亀之助自身にも賢治自身にもなおのことそれは興味がないことであると断言できる)。――何より私は作家の追悼でこれほど素晴らしい「詩」を読んだのは、読んでいて落涙したのは、萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」に次いで、未だ生涯二度目である。これぞ誠の追悼文である。私には――とめどない涙に、へんに歪みながら、見えるのだ、……スクリーンの上を遠ざかってゆく「帽子を片手に立つてゐる」「その男」が……]

 

 

 

    體のこと

 

 かつけといふ病は足が重く膝をたゝいても、ぴんぴんと跳ねず裸足で土を踏むのが大変よいなどといふのであるが、自身がかつけでなければ全くかつけなどといふことはつまらぬことである。私はさうであつた。ところが、私はこの半月ばかり前からそのかつけになつたのではないかと思ひ出した。病状の仔細は薬の効能書にあるものと一致するのである。

 ぢが悪く、おまけに貧血をして顔は白つぽく、立てばめまひがし、五十日ばかりは酒を断つた。面白くもない夏がすぎて、栗の出盛る頃はぢがひどく難渋してゐた。十年ばかりはこんなことはなかつたと便所でいくどか呟いたことであつた。そんなことで、長時間屈んでゐなければならなかつたのが、かつけになつた原因であるとしか私には他に心あたりが何もない。

(歴程2号 昭和111936)年3月発行)

 

 

 

   宮沢賢治第六十回誕生祝賀会(第二夜)

 

 当夜は友人ばかりの集まりだつた。今になつて考へれば、宮沢だけが年相応に白髪はえた見るからに六十くらいの年配なのに、われわれは現在のままの姿であつたのを、宮沢さへ六十ならそれでいいという風に思ひ込んでゐたものか誰も不思議がらずにゐるのでした。

 中央テーブルの大きな盛花を前に宮沢夫妻の席があつて、宮沢は自分の席を空けて夫人の方の席に就き、その左右の列前の列とそれぞれ人達が席についてゐたが、私達の仲間はその三分の一ばかりで、あとは×大学名誉教授として学位を二つ持つてゐる彼の地位としてはその道の大家権威の顔も揃つて、友人ばかりといつても真面目な私などには肩ぐるしい感じさへするのであつた。が、幸ひそれらの権威どもは唯の影坊子のやうにいたつてかすかな物音だけしかさせず、しかもそのかすかな物音もしばらく消えてしまつてサイレント映画のやうなものを私は感じてゐました。

 すると、突然拍手がおこつて人々がざわめくと、すつくり宮沢が立ち上がりました。

 「昨夜にひきつづき祝賀を受け、今夜は妻までもご招待にあづかり――」と、言ひかけたとき、私ははつとしました。宮沢は宮沢賢治といふ名札の席を空けて宮沢夫人と書かれた名札の席から立つてゐるのだつた。

 何時の間に宴がはてたのか、私は一人歩音のしない路を歩いてゐた。私は肩をこずかれたやうな気がしてふりむくと、草野が青い顔をして立つてゐる。

 「奥さんのことか」といふと

 「うん――」と言ふ。

 「君の趣向じあなかつたのか」といふと、頭をふつて

 「間違ひにきまつてゐるさ――」と私の先になつて歩いて行くのだつた。私が、

 「しかし――」と、言ひかけると、草野はあわててそれをさへぎつた。私が、こうして二人で歩いてゐればその辺から宮沢夫人がひよつこり出て来て挨拶されるんじやあないかと、言はうとしたのだが、とつさに草野がそれと知つてのことだと私もわかつたのだ。草野は

 「何、おれはここからこつちへ行くんだ、君はそつちへ行くんだろ、宮沢夫人が出て来つこないよ――」と曲つて行つてしまつた。そして、デヤボロといふ歌のふしで草野が歌つて行くのが聞えた。

 「手の中の一本のすみれは賢治じあないよ

  タンポポは黄色い花だ

  電柱棒、でくの棒、足は歩くよ

  宮沢さんの奥さんは何処にゐるのか、雲の中か――は、は、はは、はのはあ――

  ゐないよ、見えないよ、見えないからゐないよ、馬鹿野郎、何処かの馬鹿野郎――」

 

 次の日、眼が覚めて頭が痛かつた。やつと眠つたのが三時過ぎだ。女房が何処かへ行つてしまつたので、私も子供達も万年床だ。疾く帰れ。

(歴程6号 昭和141939)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:「デヤボロ」はディアボロ“diabolo ”で、ジャグリングの一種である遊戯道具デヤボロを用いた大道芸の際に好んで用いられた曲か歌を指すか? ディアボロとは明治40年代初期(1900年後期)に日本に紹介された遊戯で、円錐を頂点で組み合わせたピンを二本の棒を紐で繋いだものに引っ掛けてヨーヨーのように激しく回転させ、空中にはねあげては、それをまた受け止める遊戯。所謂、中国雑技団でよく見かける中国ゴマによるコマ回しである。この最終段に現れる亀之助の「妻」とは、昭和3(1928)年5月の最初の妻タケとの離婚後、同年12月から同棲を始めた芳本優(17歳。亀之助は当時28歳)。次男茜彦(あかひこ)・三男黄(こう)・次女湲(けい)・四男乗(じょう)と子宝に恵まれたものの、昭和131938)年11月以降、家庭不和となり、優は度々家出を繰り返した。これはその最初の家出の際のもの。]

 

 

 

    カルルス煎餅

 

 「交友」といふもの、私にはあると言へばあるないと言へばない。めつたなことに人を訪ねても行かない。たまに、酒なんかの勢ひで夜遅くなんかに出むくこともあるが、そんな折りはたいていは留守なのだし、たまたま留守でなかつたとしても半年か一年時には三年四年ぶりで一寸話して帰つたところが、それが交友と一般に目されるべきものかどうかはつきりしない。訪ねて来る友人があれば夜中であらうとうれしくなつてしまふのだが、それも、その人が訪ねて呉れゝばのこと。

 こゝに一筋、二十数年以前の小さな「話」を記する。現在私は私の彼女と一緒にぼんやり暮してゐる。彼女は私を「お坊ちやん」と称ぶ。そこで私は「お嬢ちやんーはあい」と答へることになつてゐる。それらに因むわけでもあるのです。

 

 何のわけもなく、たゞ女の子がそこにゐたので喧嘩になつたのです。最初男の子が一人でゐるところへ女の子が出て来て、女の子が来て間もなくもう一人のその男の子が通りかゝつて、男同志がお互に気まりのわるい妙な顔をしたのと、不意に男の子が出て来たので女の子がすねたやうにほんのちよつと後向になつたことの他は何の原因もないのです。

 通りすがりに、何時も一緒に遊んでゐる気安さで相手の肩をたゝかうとしたのが、手もとがくるつて頭にあたつたのです。たゝかれた方も、肩だつたなら「やあ」とその返事をしたのでせうが、女の子の見てゐる前で頭を調子よくぽかりとやられたのですから黙つてはゐられなかつたのです。どつちも八つになつたばかり、女の子は五つか六つなのです。とつさに、うつかりなぐつてしまつた方が逃げ足になつたのですけれども、ひきかへして相手の竹の棒に肘をつつぱつて向つたのです。女の子はたゞ立つてゐたのです。

 棒を持つた方は相手の正面からでなく後ろか横の方から殴りかゝらうとするので、肘をつき出した方ではそれにしたがつて少しづつ向をかへて廻らなければなりませんでした。棒は相手の肩をかすめて二三度ふり降されましたが棒が五尺近くもあつたし少々太くもあつたのでわきの下にたぐりこんでふりまはしてゐるのですから、さう思ふやうにはならないのです。肘を顔の前につつぱつた方はかなりけはしい眼つきをして、その棒で殴るんなら殴つてみろといふいくぶんすてばちな意気ごみでだんだん棒の手もとへ肘と肩で押しこんで来るのです。そこで、さう押されてみると何んだか棒なんかを持つてゐるためにうつかり相手をそれで殴れば相手がひどくむ気になつてしまひさうなので棒の方は押されて後へ退るのです。

 どつちも一言も口をきかずに固くなつてゐるのですが、時折り二人共何か悪口を言つて馳け出しさうなそぶりになるのでした。だから手の方は留守になつて眼と眼の喧嘩といふわけです。でも、棒の方はゆるんだわきの方を時々しめたり、肘の方はその度に肩を張つたりはしてゐるのです。この際、捨てぜりふに何か変なことを言はれるのが三人が三人共、致命的なことになつてゐるのでした。肘をはつた方を中心にして、棒の方は棒の長さだけの大きさに七八度もぐるぐる廻つてゐました。場所は女の子の家のちよつとくぼんだ裏門のところで、前がすぐ長い土堤になつてゐて大きな河が流れてゐるのです。そこはすぐ警察の裏のとこにもなつてゐて留置所があつたりしたのでふだんは近よらないところでした。女の子は最近新らしく来た署長さんの娘さんなのです。と、そのうちに、とうとう肘の方が小石を拾はふとしたとき前こゞみになつた頭を棒の重さで一つぽこんとやられました。

 それで、早く逃げ出してしまへばよいものを、相手が泣くかどうかをみやうとしたのか、それとも殴つたために動けなくなつてしまつたのかじっとそのまゝ立つてゐたので、相手は拾つた石を棒の方の膝の辺にけんとうをつけて四尺ばかりの距離から投げつけたのです。石を投げた方も、石を投げたときの手を肩に背つたまゝの恰好で棒立ちになつてゐるのです。そして、ひどく間の抜けた様子をしてゐたわけなのです。ふとみると、女の子は裏門から中へ入つてゐなくなつてゐました。棒の方が棒をそのまゝ小わきにはさんで唾の出ない唾をすると、相手もいそいで唾の出ない唇だけの唾をつゞけて三度ばかりしました。

 一人が頭をさすつて、一人が土のついた着物の膝を俺はこんなにひどくやられたのだといふやうにたゝいてゐると、そこへ女の子は自分に二枚あとは一枚づつの割合でカルルス煎餅を持つて来たのです。まるくつて、どこもかけ損じてゐないカルルス煎餅には、中にまるく唐草の模様とその困りに「英語」が浮んで出てゐました。裏のその河は夏になると出水して、その裏門のところまで水が来るのでした。そして人参のやうな柳の根などが出水のあとの河原や橋の杭にひつかゝつて残るのです。一人が、この辺まで水が来るんだと言つて地べたに線を引いたのですが、女の子がそれをほんとうにしないので、二人は一緒になつて黙つて聞いてゐる女の子の前で互に合槌をうちながら、嘘でないといふことを言ふために一生懸命になつてしまつてゐるのでした。

(詩神第六巻第九号 昭和5(1930)年9月発行)

 

[やぶちゃん注:尾形亀之助30歳。私はこの二人の男の子と一人の女の子の話が、無性に好きでたまらない。私は読んでいるうちに男の子になる。勿論、なぐられた方の――]

 

尾形亀之助拾遺 附やぶちゃん注 完